メキシコ便り(20)豚インフルエンザ

金野広美

今、豚インフルエンザのニュースが世界中を飛び交っています。私は一番死者の多く出ているメキシコ・シティーの中心部セントロに住んでいます。今では朝起きたらネットでニュースをチェックすることから1日が始まります。どんどん深刻さを増すニュースを見たあと町に出ると、そのあまりの乖離にとまどってしまいます。町はいつもと変わらず、たくさんの露天が出て大音量の音楽が流れています。マスクをかけている人も2割くらいであごの下にかけている人も多いです。メキシコは日中は30度を越すことも多いのでずっと口をふさいでいるのはちょっとつらいものがあります。それにしてもこのマスク、青色の紙でできていてとてもちゃっちいのです。こんなもので予防効果があるのかなと疑いたくなるような代物です。地下鉄の駅で配布しているというので行ってみましたが、誰もいません。仕方なく薬屋を3軒をまわりましたが、すべて売り切れでした。でも私のアパートの門番さんがどこからか、たくさんもらってきてくれてやっとゲットできました。

豚インフルエンザがはじめてメキシコで公表されたのは4月23日の夜11時、テレビを通じて緊急発表され、68人の死者、1004人の感染の疑いのある人がいるということでした。しかし、この死者の数字もいまでは豚インフルエンザだと確認されたものではなく、疑わしい人も混ざった数字で、いまでは本当は20人だった、いや、7人だったなど情報は二転三転しています。

緊急発表の次の日の24日から学校や大学が休校になり映画館も閉館、コンサート、集会などもすべて中止となりました。サッカーの試合も観客を入れずに行われました。私の通う大学も、今は一応5月の6日まで休みということですが、一方では無期限だという報道もあり、どっちなのかはよくわかりません。そして今では少しずつ死者や感染者の数も増え続け、世界に感染が広がっています。メキシコ政府は薬も十分あるし、パニックに陥らないようにとよびかけ、感染予防を勧めています。うがい、手洗い、マスク着用、そしてキスをしないこと、とあります。これはいかにもメキシコでしょう。

しかし、町をみている限りにおいては感染予防は徹底されているとはいいがたい状態です。マスクをしている人の割合の低さをみても危機感があまり感じられません。メキシコ人の持つ楽天性なのかもしれませんがノーテンキなひとが多いという気がします。
テレビもやっと世界保健機関の警戒レベルがフェーズ4にひきあげられたころから特別番組を放送するようになりました。しかし、そんなに長い時間ではありません。日本では連日すべてのワイドショーが豚インフルエンザの話題を取り上げ、マスクのつけ方まで伝授していると聞き、「それはあまりにやりすぎでしょう」とちょっとあきれてしまいましたが、逆にメキシコはあまりに情報提供が遅すぎますし、情報が各省庁で違っていたりと、全面的に信用できるものではないのが困ったところで、国民は「政府は何か隠しているのではないか」という疑いを持っています。

フェーズ4になった段階で私の友人で、公費で留学している人たち、特に官公庁から派遣されてきた人たちはすぐに帰国しなければならなくなり、別れの挨拶もそこそこに飛行機に乗りました。また、こちらの日本企業に勤めている人たちの家族も飛行機の便が取れしだい、次々帰国しました。私の友人も子供をつれて帰りましたが、彼女が「このまま帰ってもバイキン扱いだからね」とさびしそうに言った言葉が忘れられません。そういえばメキシコからの初めての帰国便のアエロメヒコが成田に着いたときも、ものものしい警戒態勢だったそうですね。

私の家族や友人もまるでメキシコはバイキンだらけになっていると思っているかのように心配して、何度も何度も連絡をしてきます。それはやはり日本の報道があまりに大げさすぎて、メキシコの現実とはかけ離れているからでしょう。家族を安心させるためにメキシコの現状や日本大使館の対応などを説明しながら不安感を払拭するのに苦心惨憺です。これから事態はどのようになっていくかはまったくわかりませんが、家からでられない日が相当続くことでしょうから、静かに勉強することにしました。そして学校が始まるときには辞書なしで新聞が読めるようになっていれればいいなー、なんて思っている私です。

しもた屋之噺(89)

杉山洋一

先週まで半袖のポロシャツ一枚で出歩いていたと思いきや、ここ数日、鬱々とした雨が降り続き、ずいぶん冷え込んでいます。

いつのことだったか、熱海の岸壁に腰掛けている、半纏を着た30過ぎの少し憂い帯びたうつくしい女性の、とても古い白黒写真を見ました。足元には、確か3歳くらいの男の子と女の子2人が立っていました。彼女は戦前、茅ヶ崎の米問屋にうまれ、同じ街の若い宮大工と結婚して女の子を授かり、無事に産声を聞いたのもつかのま、ほんの10日ほどで、身体の弱かった宮大工はこの世を去ってしまいます。生まれたばかりの乳飲み子を抱え、どれだけ途方にくれたことか想像に難くありません。宮大工の家は、この子を育てるため、死んだ夫の実弟との再婚をすすめましたが、彼女は頑なに拒みました。しかし、結局どうしようもなかったのか、生まれたばかりの女の子を、松田の名士にあずけます。

それから暫く女性の消息は途絶え、次にわかっているのは、満州にわたり再婚し、そこでやはり女の子を授かったこと。そしてその夫とも死別したこと。やがて本土にもどり、満州でうまれた女の子を連れて、横須賀の自転車屋と再婚したこと。夫にも連れ子がいたけれど、結局この夫との間にも子供がうまれ、最後までみんな仲良く暮らしたこと。最後はリューマチで寝たきりだったこと。

松田の名士にあずけられた最初の女の子は、成人し、結婚するときになって初めて、自分の戸籍が名士の家にないことを知ります。それまで、名士の家ではこの子を自らの娘として育て、学校などすべて、本人にわからぬよう取り計らっていたからです。そして、宮大工の家に何度も出向いては、こんなにしっかり可愛がっている、どうかうちの子にさせてほしいと頼み込みましたが、女の子に特別の愛着をもっていた、宮大工の母は、頑として首を縦にふりませんでした。

結婚にあたり、一体自分が何者か、結婚しても恥じない家柄の出かと不安になったこの女性は、母の実妹を探し出します。そこで、自分の母親は米問屋でしっかりした家の出身だったと知りますが、今彼女は再婚して幸せに暮らしているから、これ以上詮索しないでくれ、とあしらわれます。

それから暫くして、リューマチで寝たきりだった写真の女性は、最初の娘が私に会いにきた、会いに来た、とうわ言を繰返しつつ、息を引き取りました。妹から連絡を受けていたのかも知れないし、虫の知らせだったのかもしれません。あずけた子供を返してほしくて、何度も松田に足を運んでいたのも、ずっと後になってわかりました。宮大工だった亡父の実弟を訪ねると、籍をどうしても外さないと最後までがんばっていた亡父の母がつい先日亡くなったばかりで、お前を気にかけて止まない日はなかった、一目でも見られたらどんなにか喜んだだろうに、と号泣しました。

それから何十年も経ち、ひょんなことから、どういうわけか母方の先祖が広島に持っていた土地が国に売却され、突然、配当金の通知が届きます。そこにあった家族構成のリストから、自分に腹違いの兄弟がいることがわかり、満州で生まれた腹違いの妹を横須賀に訪ねます。育てられないからと、首尾よく松田の名士に自分をあずけ、さっさと再婚してそれぞれ子供をつくり、なんと自分本位で奔放な母だったのか。彼女はずっとそう思いながら暮らしていました。

ところが、実際に妹に会って話を聴くと、母親は、およそ奔放という言葉からかけ離れた物静かな女性で、死ぬまで最初にあずけた娘を抱くことを思い続け、自分の冒した過ちを苛みつつ、生きるために再婚し、家庭を築かずには生き抜けなかった時代の、か弱く、不運な女性の姿が浮かび上がり衝撃を受けます。強か、というには余りに辛い運命の糸が、最後にぷつりと音をたてて切れました。

一ヶ月にわたりミラノを訪れていた母と息子と連立って、マッジョーレ湖に浮かぶ、真珠のようなボッロメーオの島々を訪れたとき。まだ朝のすみ通るような瑞々しい光のなかで、まるで猫のような啼き声とともに羽をひろげる、数えきれない孔雀のうつくしさ。黄金色に輝くオウム。咲き乱れる大きな木蓮の花と、美しく刈り込まれた庭園の凛とした佇まい。ウナギの寝床どころか、ドジョウの寝床よろしい、か細くへろへろの小道と、そこに寝そべってこちらを胡散臭そうに眺める猫たち。

(4月30日ミラノにて)

赤いさいふ

くぼたのぞみ

赤いさいふがみつからない
はなさんがくれた
赤い革の
ちいさながまぐち
はじめて持ったさいふというもの
がみつからない
急斜面にはりついた
文殊の家で
裏山にのぼれば
線路のむこうにぼた山が迫り
みずは
滑車にむすんだ桶でくみあげ
ゆかしたに
猫の親子がすむ家で

とめごろうじいちゃんが
みつけてきた
どこにあった?
どこでみつけた?

大さわぎして
笑っておしまい
武人たるもの
と正座したじいちゃんの
膝のうえで
はんべそかいて
笑っておしまい

いまでもふいに夢にみるのは
みつからない
あしたのあたしと
はなさんの
とき

製本、かい摘みましては(50)

四釜裕子

「本をめぐるアート」を収集している「うらわ美術館」の収蔵作品の中で最も小さいのは、天地40mm×左右61mm、厚さ4mmの塩見充枝子「顔のための消える音楽」(2002)だそうである。作りは、口もとだけの写真41枚をホッチキス留めしたパラパラ漫画のようなもの。元々は、塩見充枝子の「顔のための消える音楽 微笑む→微笑を消す」というスコアをもとにオノ・ヨーコを撮影したジョージ・マチューナスのアイデアで、印刷までされていたものを2002年に”本”のかたちにしたらしい。

40mm×61mm×4mmといえば名刺よりも、さっき指に貼ったカットバンより小さい。豆本の大きさの定義についてくわしくは知らないが、コレクターだった市島春城(1860-1944)によると縦2寸(約60mm)以下を豆本とし、自らの収集は縦3寸5分(約106mm)×幅2寸5分(76mm)、およそ葉書の半分A7版(100mm×70mm)を基準としたらしいから、時代が時代なら「顔のための消える音楽」も対象にはなったはずだがどうだろう。

ミニチュア・ブックの歴史をまとめた『Miniature Books ―― 4,000 years of tiny treasures』(Anne C. Bromer/Julian I.Edison 2007 Abram)には日本の豆本についてもちょっとだけ触れてある。稀覯本を扱う書店経営者と豆本コレクターの共著で、215ページ全4色、彩飾写本、工芸的な本、宗教、暦、子どもの本、極小本、プロパガンダや趣味の本、オブジェやアート作品としての本など広範囲にわたり、260点以上の写真が美しく、添えられた指がなければミニチュアとしての大きさを感じさせない。

小さい本は眺めるほどに美しいしかわいらしいと思うのだが、私自身は作る気になれない。細かい作業が苦手だからというのが第一。だから製本のワークショップで「豆本を作ってみたい」と言われるとちょっと困る。そんなときに資料として出すために手元に置いてあるのが『Miniature Books』で、やおら開いて驚嘆を聞いたのち、「本の作りは小さくても大きくても同じだから、まずは文庫本くらいの大きさで作って構造を把握しましょう」などしたり顔で言うのだ。でも、ほんとなんですよ。

初めて”豆本の世界”をのぞき見たのは青山の「リリパット」だったろうか。”製本”の延長ではなくて、本のかたちをした小さくてかわいらしいものを愛でるという感じだったと思う。とにかく小さいから、材料も手間もさほどかけなくても試してみたいことはなんでもかんでもできそうな、根拠はないが無限に広がる夢や予感で胸がときめきまくったものだ。思いつく材料を買い集めて作り始めたが、ページが開くしくみなど考えもつかないからホッチキスで留めたりボンドで貼ったり。結果、装飾だけ異様に凝ったただの”塊”ができてがっかりしたが、同じような経験をお持ちのかたは結構いるんじゃないだろうか。

まんぼうだって、空を飛ぶ

更紗

私の前世は「マンボウ」だということにしています。占い師に言われたわけでも、前世の記憶があるわけでもないけど。思い込みと願望で、そう言って回っているわけです。

はじめて生きているマンボウを見たのは、まだ新しくなる前の江ノ島水族館。大きな水槽の内側にビニールが貼ってあり、その中を2匹のマンボウが漂っていました。とても「泳ぐ」とは表現できない、その動き。一応、自分の目指す方向は決められるようですが、急な方向転換は出来ません。そこで、ガラスに激突して怪我をすることがないよう、ビニールで緩衝帯を作ってあるのです。エプソン・アクア・ミュージアムで出会ったマンボウは、江ノ島のマンボウよりも泳ぎが下手に見えました。真横になって漂ったり、上を向いたり。

なんで海の中にいるのに、そんな泳ぎにくい体に進化しちゃったかなぁ? 最初は、そんな不器用さに共感を覚えました。進みだしたら急には曲がれない頑固さも、共通点かもしれない。それなのに、海の中を楽しんでいそうな、気持ち良さそうな漂いっぷり。時には、海面に横になって浮いて、ひなたぼっこ(?)をしたりするらしい。進化を重ねて行きついたのがあの姿かたちと泳ぎ方なのだから、防御とか攻撃とかを超越している。よく言えば、悠然とわが道行く平和主義。

ちなみに、マンボウを前世だと決めるずーっと前に思い入れしていたのは、カメ。周りの女の子たちが、クマちゃんやウサちゃんのぬいぐるみを抱いていた頃、私はカメのぬいぐるみを抱え、カメのぬいぐるみにまたがっていたのです。

唯一、海鮮系でなかったのは、「みきわん」という子犬。これ、実在の子犬ではなく、私が心の中に飼っていた子犬なのです。みきわんはかなりリアルに存在していました。アガサ・クリスティが心の中に作っていた「学校」みたいな感じ。自分がみきわんを演じることもあれば、私がみきわんと遊ぶこともありました。みきわんはちゃんと躾されていたけれど、子犬らしく我儘も言いました。

大人になってから考えると、このみきわんやカメへの思い入れは、なかなかに便利なものだったなぁと思うのです。例えば、自分の欲望が叶えられない時、それをみきわんのものとして「みきわん、今はダメなんだよ」と納得させる側にまわることが出来る(まぁ、子供のころは、それがみきわんの欲望であると信じて疑わなかったわけですが。だってみきわんは居たから)。小学校入学当初は運動能力も低かったので、それはなんとなく、カメに慰められていました。

同じように、大人になってからビビッときた「マンボウ前世説」も、適度に諦めたり力を抜いたり、集団の中で自分らしく在ることに役だっているなぁと思うわけです。「まぁ、前世はマンボウだし。」と、こう思えば、気づかなかった壁にぶつかっても、なんとなく漂っていける。

この感じは、先月紹介した俳人・坪内稔典さんの河馬の句に通じるところがあるかもしれません。稔典さんは、河馬は世界を見る「仕掛け」のひとつであると、著書の中で述べています。世界と自分の間に、ちょっとワンクッション。世界を面白く見る仕掛け。私は、自分をちょっと楽にするもの、という感覚もあるのではないかと、思っているのですがね。自分を許す、というか。

稔典さんは他に、柿や犀にも、思い入れしているようです。マンボウはないのかな? と思ったら、ありました。

 マンボウの浮く沖見えて母死んだ

世界と自分の間に置く生き物の条件としては、以下4点が挙げられると思う。
・ カンペキではなくて
・ かっこよくなくて
・ ちょっとヌケている雰囲気を漂わせていて
・ でも、がっしりしている感じ

と、こんな調子でマンボウマンボウと言っていると、マンボウ情報が色々集まってくる。先日、母から教えてもらったナショナルジオグラフィックのサイトに載っていた「マンボウのプロフィール」を見て、私はびっくりした。なんと、マンボウ、飛ぶんだそうです。海面から3メートルも。マンボウだって、飛ぶときゃ飛ぶんだぜ! と、背中を押された気持ちがして、ますますマンボウが好きになった新緑の季節。マンボウに、5月病の心配はなさそうです。

人工衛星が飛んでいる下でザ・フーの映画を見る

仲宗根浩

子供のころ、人工衛星タンメーとみんなから呼ばれていたタンメー(おじいさん)の家に父親に連れられて正月のお年賀やお盆に毎年行っていた。人工衛星タンメーは三線をよく弾き、自作の人工衛星の歌をよく歌っていたから人工衛星タンメーと呼ばれるようになった、と聞いた。その歌はどんな歌だったのか、時代から考えるとスプートニクから始まる開発競争の頃の歌だったのかはわからない。タンメー愛用の三線は父親が形見として貰い今は兄が持っている。人工衛星タンメーはうちのおじいさんのいとこになる。こちらでは親戚の範囲が広いので、戻って十二年になるがいまだにどのような関係か把握できていないところが多い。飛翔体騒ぎで人工衛星、人工衛星とテレビがうるさかったので、人工衛星タンメーのことを思いだした。そういえば今年最初に出た葬式が人工衛星タンメーの家に嫁いだおばさんの葬式だった。

去年公開されたザ・フーの映画「アメイジング・ジャーニー」のDVD、チャック・ベリーのチェス時代のコンプリート集の第二弾「You Never Can Tell 1960-1966」が届いた。フーのほうはデラックス・エディション!四枚組!映画本編より先に三十年もお蔵入りになっていた1977年のライヴ・アット・ギルバーンをまず見る。キース・ムーンのドラムはよたよただ。タムをまわしてもスティックはヘッドにヒットしていない。それでも叩き続ける。「ババ・オライリー」でシンセサイザーのシーケンス・フレーズが流れる。キース・ムーンのスティックはビートを確かめるようにタムタムの上をヘッドに触れることなく無音でまわり続ける。ここからグッときた。涙が出そうになった。このライヴの翌年キース・ムーンはあっけなく死んでしまう。ザ・フーを初めて見たのは中学生のとき。その頃夏休みや冬休みになると名画座ではビートルズの三本立てやウッド・ストック、バングラデッシュ・コンサートの二本立てとかをかけていた。レコードでしか聴いたことがない洋楽をスクリーンで実際に演奏をしている姿を見ることができるのはこういう映画かNHKで放送していたヤング・ミュージック・ショー、あとたまにあるフィルム・コンサートくらい。こっちが興味があるのはライヴ映像だからビートルズの映画は「レット・イット・ビー」の屋上ライヴ(この映像も近々完全な形で出るようなはなしもあるけど、このライヴをおもしろくしているのはビリー・プレストンの参加の賜物だろう)しかおもしろくない。パッケージ化され、時間もかっちりと決められアドリブ、アンコールさえ許されない契約にがんじがらめにされたビートルズの前期のライヴは全然おもしろくなかった。いつの間にかビートルズのレコード、CD類は一枚もなくなってしまった。で、四枚目は1969年のロンドン・コロシアムでのライヴ。「トミー」の全曲ライヴ映像。映像は粗い。でもかっこ良すぎ。数日経って映画本編を見たら、これがまた抑制のきいたいい内容だった。これでまた泣きそうになる。

チャック・ベリーの「You Never Can Tell 1960-1966」は相変わらず、HIP-O Select の丁寧な仕事。レコーディングの年月日、参加メンバーの詳細なクレジット。スタイルはより多様になり洗練されている。詩人としてのチャック・ベリー、表に出ない作曲者としてのジョニー・ジョンソンの関係を教えてくれたのがキース・リチャードが制作した映画「ヘイル・ヘイル・ロックンロール」だった。HIP -O Select からはジェイムス・ブラウンのシングル・コンプリート集も出ている。今、このレーベルのこの二人のコンプリート集でR&B、R&Rの基礎の基礎を勉強中。

メソポタミアの失われた鞄

さとうまき

飛行機にのると鞄が間違って他のところへ行くことはよくある。バスラからアルビルに向かう飛行機に積まれたイブラヒムの荷物が紛失してしまった。間違えて、シリアのダマスカスに行ってしまったという。ところが、その後、ダマスカスの飛行場で鞄が紛失してしまったというのだ。一体どうなっているのだ。

イラク人は、結構おしゃれで、イブラヒムは「毎日同じ服を着てなければならない」とぶつぶつ文句を言っている。ホテルのクリーニングを頼んでいた。スーツやズボンにしわがあると耐えられないようだ。しかし、朝になってもまだクリーニングができていない。朝から今日は会議なのに。

イブラヒムの代わりに鞄を取り返すために、ダマスカスへ向かうことにした。中には金目のものは入っていなかったが、イブラヒムが買った薬のリストと領収書が入っていたのだ。これは、イラクの小児がんの病院のために前払いで買った薬で、領収書を提出して、初めて基金からお金が戻ってくるので、私たちにとってはとても大切なのだ。「メソポタミアの鞄作戦」だ。

やはり、こういう国では、服装が大切だ。小汚い格好をしていると舐められてしまう。そこで、早速、僕たちはスーツを着てダマスカスに乗り込むことにしたのだが、若い加藤君は、ぼろぼろの服しか持っていない。唯一のスラックスはしわくちゃだ。ダマスカスに到着して、早速クリーニング屋を探した。無理をお願いして、2時間後に仕立ててくれることになった。

よく朝、早速、イラク航空の事務所に行き事の成り行きを聞いた。何でも、荷物を送り返そうとしたところ、シリアのセキュリティが、荷物を預かることになり、そしたらその後鞄をなくしたというのである。わたしたちは、ダマスカス国際空港セキュリティの責任者に話を聞くために飛行場まで駆けつけたが、散々待たされた挙句、偉い人にはあってもらえず。結局、イラク航空にその後の補償をお願いすることにした。こうもなめられたものかと腹立たしい。

荷物が間違って、他の場所に行ってしまうことはよくあるのだが、完全に出てこないというのも解せない。しかも、イブラヒムの鞄の中には金目のものなど一切入っていなかったのだ。いろいろ憶測してみる。まず、イブラヒムの鞄であるが、彼は、鍵をかけていなかった。飛行場の中で、闇の組織が暗躍しており、何か重要なものを、イブラヒムの鞄にそっと忍び込ませて、シリアまで運んだのではないか? それを、シリアのセキュリティが発見したのか? ちょうど、新聞には、アサド大統領が、アメリカ軍のイラクからの撤兵に関し、協力しても良いようなことをいったとか言うニュース。オバマ大統領の誕生で、シリアとアメリカとの関係が一気に改善するのだろうか? 一体誰が、何をイブラヒムの鞄にいれたのだ?

映画の世界では、無くなった荷物を見つけ出すのは、そんなに難しくは無い。そこで映画の主人公たちが、どのような行動をとるのか考えてみた。まず、実際にセキュリティで荷物をなくした人物をわたしたちは知っているとしたら、映画の主人公は、そういつが家をでたところを車に連れ込み、ちょっと脅すだろう。それで、ことの成り行きの7割はわかる。

もし、背後にアメリカも関係しているとしたら、CIAのコンピューターに忍び込んで、情報を盗み出す。考えてみると、僕らには、彼らを脅してはかせる腕力も無いし、CIAのコンピューターに忍び込むようなハッキングの能力も無い。現実は、映画のようには行かないなと納得した私は、ダマスカス博物館に行って、メソポタミアに関する展示を見入っていたのである。5000年も前の楔形文字を見ていると、なんとも悠久な気分になったのだ。

日本に帰国して、関係者に「実は、かくかくしかじかで、領収書は国際的な問題に鑑み紛失いたしたでそうろう」と伝えると、だれも相手にしてくれない。「ともかく、薬をちゃんと買ったことを証明しなさい!」といわれ、未だに宿題が終わらないのだ。

オトメンと指を差されて(11)

大久保ゆう

……天才と出会いたかったんですよね。

えっと、いきなり何の話かと思われるでしょうが、近ごろ友人たちが結婚したり結婚間近だったりして、その一方で私はそういったものとは縁遠いところにいるのですが、そんななかで自省しながらふと気づいたんです。いわゆる「白馬の王子さま」が云々というシンデレラコンプレックスではないのですが、天才との出会いを欲していた自分をあらためて自覚したというか、ずっと天才のパートナー(右腕?)になって、世界(もちろん観念的なものですが)と一緒に戦うことを夢想していたといいますか。

いえその、年上の天才は知ってるんです。幸いなことにそういう方々の近くにいられたおかげで今の自分があるわけで、感謝してもしきれないわけですが、ここで言いたいのはあくまでも同年代の天才で、そういった人と愛情もしくは友情関係を介してパートナーになりかたかった、ということです。振り返るにおそらく中学を卒業したあたりからそう思っていたのではないかと推測できます。

ただ天才に出会いたいといっても、そのパートナーとたりえるにはその資格が必要なわけで(と当時の私は考えていて)、天才に見合う能力やら実力やらを手に入れようとこの十数年努力してきたつもりです。むろん、出会えるための努力もしました。様々なところへ行きましたし、またその都度、個人としてやるべきことはやってきました。心がうちふるえ、感涙にむせび泣くような、そんな天才と出会えることを信じて。

でも出会えませんでした。天才なんてどこにもいなかったのです。

現在籍中の某旧帝大には、どこかしらにそういう人間がいるのだと思っていました。けれども蓋を開けてみれば、現実はそういう想定と真逆でした。自分の身を、自分の命を捧げ、一生お仕えできるようなカリスマは、どこにもいないのです。大学院になるとよりいっそう期待薄で。失望と幻滅、と言えるほど大したものでもありませんが、一抹の寂寥感みたいなものはあります。

そうそう、「副長コンプレックス」とでも名付ければいいでしょうか。

新撰組の副長であるところの土方歳三でもイメージしながら。実際、自分のかかわった物事でうまく行くのはだいたいそういう立場にあったときがほとんどですから、能力的特性としてはそっちの方にあるのだと思います。そもそも翻訳っていうのもそういう作業ですしね。いかに天才に寄り添えるか、その天才を引き立てられるかがひとつの課題なのですから。

紙の上で天才には出会えても、リアルな世界では天才に出会えない――いえ、そうやすやすと天才が転がっていてもおかしいのですが――それも違うな、おそらく、リアルな世界で天才に出会えないから、その欲求不満を翻訳にぶつけているのかもしれません。過去の天才は常に居場所を補足されているから、いつでも出会うことができるし、そのパートナーになることもできます。ただしその天才とともに生きることはできない、その点が大きな短所です。

これまで運悪く私のパートナーになってしまった人たちにとっては、そういう私のコンプレックスはずいぶん重荷であったのではないかと思います。非常に申し訳ないことをしてしまったな、と今となっては感じているのですが、取り返しのつかないことなのでしょうね。

それこそ逆シンデレラコンプレックスとでも言いましょうか、私が天才不在に対する不満から(あるいは天才のパートナーになるための試練だと思い込んで)厄介事に首をつっこんで片をつけてしまったあと、なぜか白馬の王子さまと誤認識されたりすることもありましたが、まあそれはひどい王子さまだったでしょう。プリンセスに対して、その資格を持っていることを強く求めてしまうのですから。本人は出していないつもりなのでしょうが、天才に出会えない欲求不満から無意識に相手へそういう態度を取ってしまっていたのかもしれません。

そもそも、私は誰かを守るとか、あるいは誰かに支えられるとか、そういう柄じゃないのです。守ってほしいなんて言われたら足手まといだと感じてしまうでしょうし、たとえ自分が崩れそうでも自分の身体くらい自分で支えられます。だから自分の隣に誰かがいるとしたら、それは戦友以外にありえない、そうとすら思うくらいです。

そう考えてみると、そりゃ結婚できないわな、と我ながら爆笑してしまうのですが、芸術的な側面からすれば真剣な話にもなりうるわけで。ずっと上手な翻訳をし続けようと思ったら、この欲求不満は解消されないまま持ち越された方がいいのかもしれない、とか何とか。

そんでもって最終的に余生はどこぞの屋敷の執事になって天才を育てる、みたいな。……冗談ですよ、冗談!

新しいツーリズムについて

大野晋

今年も札幌に行ってきた。おもな目的はキタラでエリシュカを聴くこと。この分では毎年、札幌に来ることになるかも知れない。
少し早くついたので、すすきのから約十分の距離を路面電車に乗ってごとごとと行くことにした。ぐるっと市内の北東部をまわるコースを路面電車に乗って街を広く高い窓から眺めるとなかなかに興味深い。観光資源として、路面電車はもっと見直されるべきだと思う。できれば、もっと観光資源のあるところをまわってくれると定期観光バスよりも面白い存在になりそうだ。

キタラのコンサートは期待通りのでき。帰り道、地元のファンらしい人たちが「今日は良かったね」と言っていたのが少し引っかかったが、このレベルのコンサートを札幌でも聴けることがうらやましい。

翌日は野幌の森林公園に出かけたが、市内にこのような公園があることはうらやましい。ただし、公共交通手段がプアなのは何とかして欲しいが、まあ、その程度しか訪れる人がいないからこれだけの自然が守られるのかもしれないと思うと少し複雑な気分である。

さて、日を置いて、いま、信州に来ている。宿はいつもの定宿。ここは駐車場が無料で完備しているのがうれしい。高速道路の通行料が下がっても利用者自体は増えなかったそうな。まあ、燃料や宿泊料など、そのほかの費用もかかるから、通行料だけでは変わらないのだろうが、ふと、こんなことを考えた。

ツアーばかりの観光ではどこに行ったのかわからない。自分で動いて、自分で見つけて、自分で考えるから旅の魅力があるわけで、そういった意味で旅の魅力がここ数年失われてきてはいなかったか? 個人を受け入れる仕掛け、個人が旅をする仕掛け、旅の最中に発見を手助けする仕掛け、そんなものが抜けて、ツアーに依存したマスの施設ばかりが増えたような気がしてならない。その延長で、たとえば、以前は多かった松本市内を闊歩するニッカボッカの登山客が壊滅してしまっている現状を考えると、旅の余裕そのものが失われてしまっているような気がしてならない。

松本に来て、天候を見て、だめならその辺をハイキングして、また次回。私の若かった頃にはまだまだそういった余裕のある登山客が多かった。そういう意味で、見つける旅。考える旅をぜひ、ネオ・ツーリズムとして提案したい。時間をかける旅だからこそ、高速道路の通行料の値下げが効いてくるような気がするのだが。。。

アジアのごはん(29)ダージリン紅茶と甘いもの

森下ヒバリ

近頃、なんだか歯がしみる。
理由はわかっている。甘いもの好きの友人がふたり続けて家に遊びに来たからだ。わたしも甘いものは嫌いではないが、ふだんはあまり食べない。そして、甘すぎるものは苦手でもある。よろこぶと思って、始めに来た友人とおいしい草もち屋まで遠出をしてたくさん買い込んできた。いつもはもらっても食べずに横流しするおみやげのクッキーの缶を開けた。
「ダージリンで買ってきた紅茶、入れてあげるからね」本当は、ダージリン紅茶はお菓子などといっしょに食べずに、ストレートでしみじみ味わってほしいところだが、まあいっか。味はしっかりしているが、あんまり華やかな香りのないのにしとこう。
「う〜ん、このお茶おいしいですねえ! いや、この草もち、うまい〜」などと相好を崩されているのをみると、じぶんもついつい、ダージリン紅茶で草もちをぱくぱく。

友人たちが去り、残された甘いものや彼らが持参したおみやげの甘いものの山を前に、ちょっと気持ちが悪くなってきた。当分、甘いものは、もういい〜。ちなみにどちらの友人も中年男性である。(オトメンではありません)日本では少数派で、しかも何か世間的に肩身の狭い、男の甘党たちである。しかし、日本では少数派かもしれないが、一歩世界に出れば、甘党男は肩で風切って歩いているばかりか、甘党男の天下といってもいいぐらいだ。

インド・ダージリンの宿の近くにヒマラヤン・クリオスという名の骨董屋がある。店の主人はクィムおじさんといい、去年も今年もここであれこれ店をひっくり返しては買い物をしたので、すっかり仲良くなった。甘い煮出しミルクティーのチャイを出前してもらってご馳走になりながら、いろいろな話をしているうちに、一緒に昼ごはんを食べに行こうということになった。「何が好きかね? 肉、魚、野菜?」「何でも食べるけど、野菜が好きだよ。おじさんはベジタリアンですか?」「いや、肉も食べるけど、野菜が好きだよ」おじさんは、子どものころ親に連れられて、カシミールからダージリンにやって来た、カシ人である。カシはイスラムのはずだが、店にはあまりイスラム教の雰囲気は漂っていない。

ダージリンには、ネパールから移住してきたゴルカ、シェルパ、チベッタン、山岳先住民のレプチャ、ベンガル系のインド人、商売人のカシミール人が住み、通りにはインド各地からの観光客、外国人観光客が歩いている、なかなか国際的な町である。チベット仏教、イスラム、ヒンディー、キリスト教の人々がともに暮らしているわけだが、住み分けはあるものの、境界線はけっこうあいまいだ。

食のタブーが各宗教にはあるが、その垣根のないのがベジタリアン料理である。この町にはベジタリアンの食堂がとても多く、専門店でなくても必ずベジタリアンのメニューも置いてある。というか、豚肉や牛肉を食べられる店は、かなり少ない。ベジ・レストランでなくても、肉料理は菜食主義の人以外なら食べられるチキンか羊・ヤギしかないところが多い。手軽なベジ・チベッタン食堂ならどんな宗教の人でも入れる。

「ベジ・モモは好きかい?」クィムおじさんの言葉に、旅の友のワイさんが目を輝かした。ワイさんは無類のギョウザ好きなのである。町にたくさんあるチベッタン食堂には必ずチベット・ギョウザのモモがあり、モモ専門店もある。何軒も食べ歩いてはいるのだが、その数は多く、味の奥は深い。モモはチベッタンだけでなく、ネパール系民族のゴルカの料理でもあり、ゴルカ人のカレー食堂にモモがあることもある。クィムおじさんが連れて行ってくれたのは、市場の近くの坂道を少し横に入ったところにある小さなベジ・モモ専門店。ゴルカ系の店のようだ。狭い店内はぎゅうぎゅうである。ひっついて座っても15人が限度。すぐに人が席を立ち、待たずに座れた。

「うまい!このスープもおいしい〜」今まで食べたモモの中で一番ではないか。さすが、地元民はおいしい店をよく知っている。玉ねぎとキャベツとニンジンの詰まった野菜の蒸しギョウザが、なんでこんなにおいしいのかなあ。モモには野菜スープがついてくるが、ここのはビーツ入りで赤い。すぐさま、モモをおかわり。スープも注いでくれる。小さなステンレスの皿に8個のった蒸しベジ・モモのスープつきが10ルピー。赤いトウガラシのソースをつけて食べる。

店を出るときには外に何人も並んでいた。わたしたちが、おいしいおいしいとすごく喜んでいるので、クィムおじさんも嬉しそうだ。「じゃあ、お茶を飲みに行こう」と市場に歩いていく。市場の一角に、炒り豆屋とお菓子とチャイを飲ませる店が並んでいる短い通りがある。そのうちの一つに入る。店は大きくはないが、やはりここもかなり満員で、席を替わってもらってやっと3人で座った。入り口のショーケースにはとてつもなく甘そうなスウィーツが並んでいる。「ここのお菓子はおいしいからね、ごちそうするよ」さっきモモの店でもご馳走してくれたのだが、クィムおじさんはなかなか気前がいい。それともおじさんの店でのヒバリの買い物が気前よかったのか・・?

「あ〜、一番甘くないヤツを」「うん?」クィムおじさんは一瞬、困ったような顔になった。インドのお菓子は甘い。はっきりいってものすごく甘い。よく行くタイのお菓子も甘いものが多く、なかでもフォイトーンという錦糸玉子のようなお菓子がもっとも激甘である。しかしインドではフォイトーンの甘さはごくごくふつうクラスである。

少年がガラスのコップにやかんからチャイを注いでくれた。もちろん、すでに大量の砂糖入り。店によっては後から砂糖をコップに入れるところもあるので、そういう店では砂糖なしとか、少な目とか注文も出来るが、ここはすでに入っている。
「甘いなあ・・でもおいしい。コルカタよりチャイもうまいね」
「うん。これぐらいなら、だいじょうぶ」ワイさんは、お菓子は日常ほとんど食べないが、飲み物が甘いのはけっこう平気なようだ。コルカタで毎日飲んでいたチャイより紅茶の味がくっきりでうまい。甘さも、なんとか許容範囲だ。

市場の紅茶葉屋さんで見ていたら、一番売れているのは煮出しミルクティー用のCTC加工の安い茶葉だった。CTCとはCrush(砕く)Tear(切断)Curl(丸める)の略で、紅茶のエキスが浸出しやすいように葉っぱを砕いて、刻んで、小さく丸めたものである。ダージリンの住人の多くもこの煮出しミルクティーを飲んでいるのだ。

「ほら、おいしいよ〜」クィムおじさんが注文したスウィーツが、運ばれてきた。何じゃこりゃ。卵ほどの大きさの球状のそれは、表面がまっ黒で、シロップがかかって光っている。いや、今までシロップに浸されていたのが、まわりに垂れているだけか。しまった、ふたりでひとつにすればよかった。スプーンを入れると、じゅわっとシロップが溢れた。どうやら発酵させない牛乳のチーズ、パニールのお菓子らしい。表面はカラメルかな。ふと顔を上げると、店中の客が何気なくわたしを見ていた。こちらも何気に観察すると、やはりここのお菓子は人気らしく、たくさんの客が菓子の皿とチャイを前においている。

「甘いっ・・」こ、これが、一番甘くないヤツ? 一口目で頭の中が真っ白になった。にこにこしているおじさんの手前、もっと食べなくちゃ、と二口目。なにか、意識がぶわ〜とどこかに飛んで行きそうである。無理だ、今生で経験した中でもっとも甘いお菓子という名誉をこれに捧げるぞ・・などと煩悶しながらやっと三口目、四口目を呑み込み、これ以上は死ぬかもと、スプーンを置いた。はあはあ、と荒い息をしながら気を取り直してまわりを見ると、クィムおじさんもワイさんさえもぺろりと平らげているではないか。おじさんは、あれっと言う顔でお菓子が半分残った皿を見ているので、気をそらすために、あわててこのお菓子の名を尋ねる。ニーム、というのがこのクロ玉子スウィーツの名前であった。

ちなみに店のほかの客は、全員、男(中年)である。
ああ、書いてるだけで歯が痛くなってきた・・。甘党男よ、インドを目指せ!

恋――翠の石室55

藤井貞和

アオリスト2は、手紙にしよう、
ケ・ブランリーにて、
レヴィ=ストロース氏に出した手紙は、
僕が受けとったんです、
コンゴウインコありがと ったら

出したんです、二十一世紀から、
二十世紀への手紙。 未来のひとが、
肩を寄せると、現在の鳥の鳥肌が立つ、
なアんてね。 コンゴウインコは、
羽をむしられて、かわいそう ったら

僕が受けとったんです、
この恋は つばさをひろげると、
あなたを包む、ケ・ブランリー。
なアんても、さらに総毛立つのです、もう感激! ったら

(五十年まえの女の子が、子鳥を見てたんです、枝のうえに。子鳥ははなびらになりました、おっこちそうになって。でも、あなたが「助けて」と言ったら、はなびらは落ちなかったのです、ふたたび子鳥になって。──そういうことが起きるのは絵だからなんです。詩のなかで、そんな奇蹟は起きません。墜落して地上で眼が覚めると、きょうという日がはじまるだけなんです、つらい一日。)

別な世界はまだ可能か

高橋悠治

ディジタル化された論理 
            知らずに身についた電子的思考
非中枢メディア 電子ネットワークに
来たるべき社会の兆しが見えるのか

       あまりに楽観的な

  ハードウェアもソフトウェアも アリストテレス以来の二進法論理
すべての要素は列挙範囲のなか 定義済の操作でうごく
            論理がさき 運動があと
     そこから漏れたこと はずれた位置 定義されなかった作用が
                  あらわれたらどうなる

中心がなく すべての要素が平等に 構造を担えるはず
   それなのに
頻度の偏り 順位 中心と周辺 権力の集中は     なぜ

全要素間相互アクセスが可能なら
    無用な接触が多く 
       うごきをさまたげ エネルギーはうしなわれる
すべての要素が見透かされるパノプティコン
       外から監視されていても 内では自由選択のつもり
              閉じた部分で自由運動は加速する
            生産のための生産 消費から浪費へ
         必要なく拡大し 自己破産する
コンピュータの夢は      資本主義に囲い込まれた仮想空間の自由

部分運動は線的に発展し 時間は連続で
         現在の延長が未来になると思われる時期もある
   限界の向こう側にある      偶然 事件 カタストロフィー
ルクレティウスのクリナメンは 理由もなく
        アリストテレス的論理の外側から顕れる
     わずかな偏りが 平行に墜ちる粒子の雨をかき乱し
          衝突 反発 回避
    多様な現象がそこで生まれ
現象の相互作用から 別な世界が一瞬にして創られ
       可能性は 権力をやりすごす

  不規則に瞬く 流れ
    折り畳まれ また ひろがる雲の織地
希薄な羽 霧の次元

       ディジタルは粗い網
   なめらかなアナログに変換して 感じられるものとなる
           アナログもまだ粗い 振動する表面にすぎない
 
身体は それぞれに振動する感覚の集まる場
  意識よりさきに 運動があり
    運動が感覚を創りだす
   色 香 味 響 温度の交換
空間と時間が生まれては消える
 世界の顕われ
        徴

場は樹ではない
    枝を束ねる見えない根は どこにもない
  地下茎でもない
     中心がないように見える薮も
       竹の花が咲くとき 全体が枯れる
    ロジスティックも   カオスも
        複雑の単純なモデル

おりかさなり ずれる振動のなかに
   横断する共鳴が明滅する   稲妻に照らされた幻

一つのものが分かれて 複雑に発展するのではなく
   反対に 中心のない 原理もない
      多くの複雑なことがまず起こり 
     それぞれが息づき うごきまわれる隙間をもとめて
            たえずかたちを変えていく
  ひとつになることもなく
             離れることもなく
接触を避けながら接近している
    エピクロスの庭 ブッダのサンガ 鴨長明の方丈

      多様なうごきのなかから
    領域の調整のとりきめ
空間と時間の枠が見えてくる
   予期しないできごとがあれば 変更される仮の規則
 後から来る論理を定着させない
         抵抗のすくない方へ
      まがりくねった道を通ってすすむ
        曲線の跡        曲面の影

手と息でさぐる初期値は 繊細な響を立ち上げる
   喩えることばは 半ば閉じた隠れ里 半ば開く不思議の窓
      加速する文明の時間と 散逸する空間のかわりに
     速度を緩やかにむすぶ 空白の際

問いかけは ゆっくりと歩む
   こたえをあせることはない
  問うことが 生きること
      選ぶものはいない
          徴      は     空の彼方

(2007年11月30日執筆) SITE ZERO/ZEROSITE No.2 (2008)に掲載