ミドゥリ(芽)咲く――翠ぬ宝70

藤井貞和

フージー・サド

    平和について考えました

  書こうとして、なぜ消える、
  わたしの詩、昭和33年の初夏。
  思い出そうとして、消える、
  あなたの声――今日もあしたも。
  詩集から、文字が消える、
  とりのかげのように。
  鉱物採集は失敗したみたい、
  それでも帰って来ました、はやぶさ。
  マングローブの林で、
  こんやだけ咲く、サガリバナ。
  古語で「かなしい」と口ずさむと、
  悲しくなります、中学生。

(教育実習の先生〈男性〉が、聞き取れない発音で口ごもりながら、熱心に組み立てていた授業を、中学生の私は、何度も何度もぶちこわした。二週間がたって、実習期間のさいごの日、先生はみなに別れのあいさつをして、広島での被爆が、片頬から半面にかけて大きなケロイドをのこしていること、そのために発音がうまくできなかったことを詫び、それから私のほうをむいて、「フジイくん、好きだよ」と、一言。なぜその先生は実習のはじまる最初に体験を言わなかったのだろう。実習期間のさなかに、どうして言ってくれなかったのか。)

オトメンと指を差されて(26)

大久保ゆう

撮影一日目。晴れのち曇り時々雨。集合場所はときめき坂のてっぺん、時間になってもモデルとカメラマンはやってこない。いつものことなのであわてずコンビニで涼む。30分ほどして揃う。モデルの方はコーディネイトに手間取り、カメラマンの方はさっき連絡取れたばっかりだったので、どちらもやむをえない。

まずは近くの大型書店へ行って、本を物色。あれやこれやと表紙を見ながら一談義。お目当ての本はなかった。児童書コーナーでは休日のため読み聞かせが行われていて、我々のような動機不純の者が近づけない仕様になっていた。また、樹皮ハンドブックが高い評価を得る。ここで一冊購入されたが、結局撮影では使われなかった。

相当な時間を書店で費やしてのち、ようやく岸辺へ。散歩や読書をしている人がそれなりにいる。夏の日照時間が長いとはいえ、ぐずぐずしているとすぐ夕方になりかねない。身につけるアクセサリと手に持つ本を決め、早速岩場での撮影に。ちなみに通り過ぎる人は案外誰も気にしていない。

ところが予定していた写真を撮りきらぬうちに雨降り。通り雨だとは思うものの一時待避。せっかくなのでそのあいだに対策を練り、建物を使う方向にシフトする。ここでカメラマンが趣味の写真を撮り始め、本がフレームアウトしてしまう。いい出来なのが結構あるのだが、企画から逸れるので涙をのんで不採用。

雨が終わり薄く雲が残るなか、空の下での活動再開。ここで何を思ったかモデルに変なポーズや構図に挑戦させ始める。「本を読んでいる最中に何だか気になって眼鏡を拭く」というシチュエーションは我ながら訳がわからない。むろんのこと周囲の同意も得られなかった。夕方が来る前に無事必要な絵を作り終える。

そのあと書店へ寄ったときに気になっていたデパートのカピバラさん展へと全員で出向く。癒される。あるいは非実用的なグッズを買え買えと押し付け合う。そして地元商店街に出ていた夜店でビールを飲み軽い打ち上げ。うちの街にゴスロリ浴衣を着て歩いている人がいるなんて信じられない、ちょっと友だちになりませんか。

撮影二日目。晴れ時々曇り。遠い場所での夏祭り。当該祭の経験者がモデル一名だったため、そもそもの祭難易度の高さに戸惑う。ちなみに祭難易度というのは、歩きやすさ・食べやすさ・買いやすさ・見やすさといった指標からなる値であり、低い方が快適である。最近私が作った。大型の祭りはたいてい高めだが、今回は予想以上。

あまりの難しさにとりあえず祭りが盛り上がっているあいだに撮影を行うのは困難だと判断し、各自楽しむことに。モデルははしゃぎ、カメラマンはお気に入りの絵を探し、私は午前中に別件の用事があって疲れ果てていたためしゃがみ込んでうとうと。申し訳ないが頃合いのよいときに起こしてくれ。

メインの催し物が終わり、人出が少なくなり始めたあたりから撮影を開始。あまり時間もなく、それぞれイメージが沸かず勝手もわからなかったので、その場での試行錯誤を繰り返す。モデルへの無茶振りを我々は反省するべきかもしれない。よく耐えてくれました、心より感謝申し上げます。ごめんなさい。

警察の人に軽く何をしているのかと聞かれる。細かい説明をし始めるとキリがないので、美大生風な雰囲気を醸しだし、「作品を作っているんですよ」などと答える。いずれにしてもみなさん警備の方でいっぱいいっぱいなので、むしろ終始和やかな感じで会話が終わる。

そのあと駅前へ移動し、完全に勢いで金魚釣りを行う。その日使用した本の表紙が金魚だったからで、撮影中ことあるごとに「金魚があれば金魚があれば」とつぶやいていたからなのだが、祭りが終わっても屋台がまだあり、偶然その行為が可能な状態に行き当たったのである。しかし後日聞くところによると、すくい上げた金魚たちはその翌日急逝されたらしい。衷心よりお悔やみ申し上げる。

今度こそ打ち上げ。またもビールを頂く。前回同じ場所・同じ面子で飲み会を開いた折りには、その店の揃えるスイーツ×酒のコラボした飲料に挑戦し打ち倒されていったものだが、二の轍は踏まない。スイーツカクテルの恐ろしさを我々は身をもってすでに知っている。甘いものは甘いものだけで食べようよ、という結論。

というわけで、そんなこんなの成果はhttp://www.alz.jp/hon-girls.htmlまで。3ヶ月引っ張り続けた「本ガール」の始まりです。どうぞよろしくお願い致します。

オペラらしからぬオペラたちと地方のオケについて考えた

大野晋

金曜の夜、「影の反オペラ」に出かける。体調はすこぶる悪い。会場でダウンするのではないか? と心配だったがなんとか、最後までいることができた。前半は高橋さんのいつものパターン。ぼそぼそ、っと解説があって、ぽろぽろっとピアノが鳴る。今日は歌が付いているからいつもよりも華やかだ。

後半は一転して、アングラ劇団のオペラの雰囲気のする歌唱劇の様相。そもそも、あまりおどろおどろしいストーリーは得意ではなく、本も巻末を読んで安心してから本文を読み進める派の私にはとてもコワーいお話。まあ、初夏の一日には最適なんだろうけれど、やはり怖かった。

翌日はいろいろと用事を済ました後で、サントリーホールに。「売られた花嫁」のコンサート形式のオペラ鑑賞。こちらも純粋なオペラではないのだけれど、本場の歌手陣が歌い上げるさながら歌謡ショーの様相。これもまた、面白い。日本など、さほど、オペラを嗜もうという輩が多くないのだから、このような舞台装置をかけない形式のオペラ上演がむしろ合っているのかもしれないなどと思った。

さて、翌週は県立音楽堂で地元のオーケストラのコンサート。演奏はとてもよかったのだが、会場で行われていた署名活動(すぐに問題というよりも活動支援を減らさないでという事前活動)を見ながら、少し考えてしまう。

私の住んでいる横浜は少し変わっていて、とてもへそ曲がりのお国柄。東京と一緒にされるのを極度に嫌い、独自色をとても大事にする。そんな文化的な背景を考えると、オケの方にも問題は浮かんでくる。あなたたちの独自色ってなんですか? という問題。8つもオーケストラのある東京と同じプログラムで、似たようなレパートリーを披露していたらそれこそ、自分たちの居場所は確保できそうにない。これが、東京から離れた地域のオケなら、同じプログラムでも東京に出かけないで済むというメリットを感じてもらえるのだろうけれども、隣にいては有難味はまったくない。これって、自分たちで自らの首を絞めているパターンなのではないかいな? 署名活動の前に、自分探しの方が大切かも知れない。

大阪でのテアトル・ガラシ公演

冨岡三智

7月1日にインドネシアの劇団テアトル・ガラシが大阪で「南☆十字路」を公演した。私はその主催をしたので、少し前のことになるけれど、その顛末を記しておきたい。

「Je.ja.l.an/南☆十字路」公演
 日時:2010年7月1日(木)15:30/19:30開演
 会場:アトリエ・エスペース(大阪市)
 演出・振付:ユディ・アフマッド・タジュディン
 出演:テアトル・ガラシ
 主催:ジャワ舞踊の会、エイチエムピー・シアターカンパニー
 共催:アトリエ・エスペース
 協力:(NPO)大阪現代舞台芸術協会、
 助成:(財)大阪国際交流センター
 ※ むりやり堺筋線演劇祭参加

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テアトル・ガラシの来日の主目的は、静岡県舞台芸術センター(SPAC)が主催する「SHIZUOKA春の芸術祭2010」での公演である。けれど、関西でも公演したいということで、SPACの了承を得て、今年になってから友人を介して連絡をしてきた。この仲介してくれた友人というのが、この公演でもスタッフ出演していた横須賀さんである。以後、テアトル・ガラシ、SPAC、横須賀さんとの間で連絡をとりながら進めることになる。

テアトル・ガラシはジャワ島中部の古都、ジョグジャカルタに拠点を置いている。1993年に、ガジャ・マダ大学社会政治学部の学生が中心となって設立したが、今では様々なアーチストたちが関わっている。ダンス、武術などの伝統に学んだ身体表現、現代的でさまざまなイメージを喚起する舞台美術、日常生活の観察などを融合させる取り組みで設立以来注目されてきた。また、2001年にはNGO化し、若手演劇人に対するワークショップの開催や出版を通じて、インドネシア演劇界の芸術レベルの向上に積極的に取り組んんでいる。近年は国際的にも活動の場を広げていて、日本にも今回が4度目の来日となるのだが、関西公演は今回が初めてである。

私も留学中に2度ほど公演を見たことがあるが、伝統的な身体表現で育っていて存在感が確かだという以外にも、舞台道具が、たとえばブリキのバケツ一つとっても、絶妙の形と絶妙の配置でしっかり舞台に存在している劇団で、ずっと心に残っていた。

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公演内容は、インドネシアの大都市における生活を描いた、ダンスと演劇が融合したパフォーマンスである。近代的なものと伝統的なもの、コスモポリタンと田舎者、エリートと一般大衆、マジョリティとマイノリティの間で繰り広げられる、争いと駆け引きに満ちた生活や幾つもの物語を、ユーモアを交えながら描いた作品である。音響は録音を使用せず、すべて生演奏で、スタッフや音楽家も含めて計17名が来日+助っ人の横須賀さんである。「Je.ja.l.an」はインドネシアで2008年の初演以来計4回公演しており、今回の大阪で6回目の公演になる。

さてさて、今回の来日公演のタイトルは「Je.ja.l.an」。邦題は「南☆十字路」で、これはSPACの命名による。原題は、都市の裏通りというニュアンスを込めた造語だという。この邦題だと劇団四季のミュージカル「南十字星」と混同されて、第二次大戦中の話だと間違えられないだろうかと危惧したのだが、まあそういう心配はなかったようだ。
Je.ja.l.anというのは造語だと聞いていたのだが、jejalanという既存の語にピリオドを入れて造語っぽくしたらしい。演出のユディは、jejalanをジャワ語だと言っていたが、インドネシア語の辞書にもjejalの項目で出ていた(anは接尾語)。jejalというのは混雑したという意味で、jejalanで人だかりという意味になる、とある。ユディによるとjejalanにはインドネシア語のjalanの意味もあり(あまり使わない言い方らしいが)、混雑した通りというニュアンスを出したかったのだという。このことは、アフタートークが時間切れで終了した後に受けた個人的な質問の中で判明。このことを他の多くの人にも知ってもらいたかったなあと思ったので、ここに記しておく。

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大阪公演の会場は、空でも8m×12.5mの元倉庫、アトリエ・エスペースに決まる。壁にはりつくように、両側にベンチ席を設け、その真中の空間で上演してもらうことに決定。この公演のもともとの演出では、敢えてこんな風に観客席を作らないようにしているのだが、会場が狭いだけにそれは無理と判断。本来の演出では、開場して観客が中に入ると、物売りに扮するスタッフから飲み物を手渡されたりして、適当に左右に振り分けられて座っていくうちに、鼓笛隊が入ってきて、いきなりそこに都市の裏通りが出現し、観客は道路の両脇にいる人間に仕立てられて、いつの間にか劇が始まる、という風になっている。

ちなみに静岡公演では、静岡芸術劇場内カフェ「シンデレラ」にて上演された。このカフェを使って公演するのは同劇場オープン以来初めてらしい。このカフェは劇場の2階にあってガラス張りで、ゆるやかにC型にカーブする細長い空間になっている。実は静岡公演も見に行ったのだが、天井が高いことや、入口の方から奥の方まですっと見通せるわけでないところが、路上空間の広がりを感じさせて良かったように思う。

大阪ではもっと箱庭のような空間だから、どうなるのだろうかと心配だったのだが、同時多発的にいろんな光景が繰り広げられ、それが全部目に入ってしまうせいか、意外に広く感じられた。それは、十坪の更地よりも、家具がつまった十坪の家の中のほうが広く感じるということと同じなのかもしれない。

今回の公演では、天井高も問題だった。90m×2mのトタンが劇中のいろんなシーンで使われるのだが、これを筒型にして頭にすっぽり被った男が歩いてくるという場面がある。通りという、我々の目線の高さで展開する舞台空間の中で、このシーンは縦への線が強調される。静岡公演では天井が高かったから、私には、通りを見降ろすようにそびえる高層ビルの存在―それはトタンを被る男のように顔がなくて、無機的な―が感じられた。アトリエ・エスペースの天井高は3mだから、2mのトタンを被って立って歩くことはできない。どうするのだろうかと思っていたら、お尻を床ににじりつけながら、バトミントンのラケットを両手に持ってはずみをつけながら、這い出て来るという演出になっていた。立って歩いている姿もシュールだと思ったが、このほうが恐い。トタンの先端は天井に届かんばかりだ。高層ビルの存在をはるか上空に感じることはできなかったが、むしろ地上に這いつくばるほどまでに押さえつけられたという圧迫感が伝わってくる。ユディにしてみれば苦し紛れの代替案だったのかもしれないが、この演出は成功だったように思う。

会場については、もう1つ書いておかねばならない。この公演では、音楽家が舞台袖にいて、舞台の進行を見ながらナマ演奏する。けれど今回はスペースが狭いので、2階にキーボードを並べ、モニターで1階の舞台の進行を見ながら演奏することになった。ちなみに、この音楽は伝統音楽ではなくて、普通のバンド音楽である。それで、鼓笛隊などの役で舞台に登場しなければいけないときは、下に降りていくのである。この2階は宿泊兼楽屋スペースになっていて、私たちも実はここに泊まり込んでいた。せっかく全編ナマ演奏なのに、演奏している姿が見えなくて可哀想だと、終りの挨拶で紹介したのだが、やっぱりナマだとは思われていなかったようで、え〜という驚きの声が上がっていた。日本では演劇をナマ演奏で上演するというのは想定外のことなのかもしれない。

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もっとも印象的だったのは、スラマットのシーンと、最後の方で女二人が戦うシーンだろう。

前者は、路上でテンペ揚げなどを売る貧しい青年スラマットが自殺するという詩が語られる中、スラマットに扮する役者が無言で演じるシーンである。このシーンだけ字幕が使われる。暗い舞台でスポットライトを浴びたスラマットは、その光に押しつぶされそうに抑制された動きをする。このシーンを見ると、私はジャワ舞踊を見ているような気になる。宮廷舞踊にも通じる静けさがあるのだ。そして、こんな雰囲気を醸し出すシーンは、演劇であれ、コンテンポラリ・ダンスであれ、ジャワでは稀なことではない。ともかく、その身体の動きと同じくらいの重みを持って、詩の言葉が語られる。テアトル・ガラシの公演は、演劇というよりダンスに近いと言えるのだが、それだけにこのシーンの言葉の重さが際立っている。

それから女二人が戦うシーン。ちょうど舞踊の戦いのシーンのように、様式的な動きで構成されている。この女二人のうちの一人は客演で、ワンギさんというインドラマユ(西ジャワ)出身の人である。実は、彼女はこの地域を代表する仮面舞踊の名手であり、父親は影絵のダラン(人形遣い)である。この戦いのシーンの前には歌うシーンもあるのだが、彼女の表現には鳥肌が立つような凄みがある。テアトル・ガラシのメンバーのそれぞれにも伝統的な身体表現が素養としてあることが感じられるのだが、彼女を見ていると、生まれてからずっと伝統の中で育ってきた人は違うということが嫌が上にも痛感されるのだ。彼女が歌う伝統詩はインドラマユのもので、言語も違うため、演出のユディ自身も意味は知らなかったらしい(笑)が、どうしても彼女の歌を入れたかったのだという。こういう伝統舞踊の人が、コンテンポラリ演劇(ジャワの伝統演劇とは全く異なる形式なのだから、コンテンポラリと言ってよいだろう)にも起用されるところに、インドネシアのパフォーミング・アーツ全体の力強さがあるのだと思う。

蛇足だが、今回の公演ではPRで苦労した。それは日本ではジャンルの住み分けがうるさいからなのだ。演劇愛好者やインドネシア愛好者以外にも、コンテンポラリ・ダンス関係者には非常にためになる公演だと思ったのだが、日本のコンテンポラリ・ダンス情報を掲載する掲示板への書き込みは削除されてしまった。テアトル・ガラシはダンス・シアターと名乗ることも多いのだが、シアターとつくと駄目なようである。かつて、私はここの関係者に、伝統とかコンテンポラリとかのレッテルがはっきりしないのは駄目だと言われた経験がある。またインドネシア芸術の情報を掲載しているところからも、最初は伝統芸術ではないからという理由で掲載を断られた。伝統楽器を使用する現代ものであれば良いのだが…という返事だった。最終的には、ワンギさんのような伝統芸術家が出演しているということで掲載が認められたのだが。インドネシアの伝統芸術が好きな人には、こういう現代演劇の中にも潜む伝統芸術の根っこに気づいてもらいたいと思うのだが、それがなかなか難しい。インドネシアに留学した経験のある人には、インドネシアの伝統芸術も現代芸術も楽しめる人が多いのに、日本でインドネシアの伝統芸術に親しむ人はファナティックになってしまうのだろうか。

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最後に、大阪での皆の生活ぶりを紹介。6月27日(日)に静岡公演を終えた彼らは、翌28日(月)夕方に貸し切りバスで大阪入り。上で書いたように、私たちは節約のため劇場の宿泊施設に住み込み、夜は徒歩10分くらいの所にある銭湯に毎日通った。アトリエ・エスペースは京阪電車の線路沿いにあって、周囲は静かなアパートや住宅地である。けれど大手スーパーやホームセンターが表通りにはあり、またコンビニも徒歩圏内に数圏あって、意外にも、みな時間が空くと散歩に出てしまう。また、お湯につかる習慣のないジャワ人は銭湯に抵抗があるのではないかとも思ったが、それも杞憂で、私よりよっぽど長風呂をする。彼らは静岡ではSPAC内の出演者用宿泊施設に泊まっていて、写真を見せてもらうと、うらやましいくらい充実した施設なので、こんな所に泊まっていたら、大阪での生活はさぞつらい思いをするかもしれないと思ったが、全然環境が違ったせいか、かえってその違いを楽しめたみたいだ。でも、一番ポイントが高かったのは、アトリエ・エスペースでは喫煙し放題という点だったかも…。

犬狼詩集

管啓次郎

  11

目だけでは対応できない
どんなに微細な差異を見抜いても
インクのように漂う霧雨が生むこの不分明に
目はまどわされる
耳だけでは対応できない
海上をわたる小鳥の声を数キロ先から聴き取り
野火がはぜる音をよく感知する耳も
無音には沈黙にはどうにも応えようがない
手だけでは対応できない
牙に裂かれた肉の傷をみごとに縫合する夏の手も
歳月を閉ざす氷のむこうで乱舞する魚の
群れには触れることさえできない
声だけでは対応できない
軽はずみな心が子馬のように跳ね回るとき
歓声もかけ声も叫び声もなす術がない
私とはただ無において統合された目、耳、手、声

  12

満月の論理に一般と特定の区別はない
眺める人の心に浮かぶ月影の紋様
ネットワークは幾何学的に発生し
ときどき氷のように光が凝固する
たくさんの団子をすすきとともに供えてみた
ハクビシンの親子が物欲しげに見るのを
ウクライナ人の老女がけらけら笑いながら見ている
秋のこの時期こそ祭礼の夜
循環する時間が声のように聞こえてくる
楽しいね、楽しかったね、楽しいね
もう来ないね、また来るさ、また来るよ
荒城に登りて楼閣を燃やし
それを松明として以て絶対的な持続を照明するのみ
輝けよ縞の尾
きらめけよ妖しい鼻
満月の無垢が砕け散りたくさんの団子となる

油絵のマチエール

さとうまき

まだ、7月で、バレンタインデーには程遠いが、今年もそろそろチョコのデザインを作らなければいけない。毎年、苦労するところだ。わあ、この絵、面白いなあと思っても、描いた子どものこととか良くわからないと使えない。「描いた子どものことを教えてください」という問い合わせが殺到するからだ。去年のサブリーンの絵は素敵だった。しかし、サブリーンはもういない。「死んでしまいました」という話は、確かに涙を誘う。感動的である。でもイラクの癌と闘う子ども達にとっては、「自分も死んでしまうんだ」というネガティブなメッセージにしかならないのではないか。

絵を描いてくれた子ども達が死んでいくのは本当に辛いので、今回は、「絵を描いてくれた子ども達はみんな元気で頑張っています」というストーリーにしたい。

5月、イラクのアルビルに行ったときに、白血病患者の一人、6歳の女の子アーシアちゃんの家を訪問させてもらった。彼女はクルド人で、もともとキルクークという場所にすんでいた。ここは油田があるために、現在、クルド自治区にするのか、イラク中央政府の管轄にするのかもめている場所だ。サダム政権の時に、町の人口の大半をアラブ人にしようという理由で、クルド人が追い出された。お父さんの話によると、脅されたりしたわけではなく、きちんとお金をもらって立ち退いたという。クルド人にしては、珍しくサダム・フセインのことを悪く言わなかった。彼は魚屋をやっている。といっても貧しくて、店を持てるわけではなく、リヤカーに魚を並べて、路上で販売するのだ。最近は、三輪バイクを手に入れた。背の低い、この親父を僕はとても気に入っていて、「魚屋のおっさん」と呼んでいた。

アーシアちゃんがどれくらい絵を描けるのか楽しみで、僕は絵の具を買って持って行った。お兄さんのウサマ君と一緒に大喜びで絵を描きだしたが、筆を洗おうとしても、絵の具が固まってしまう。よく見ると僕が買ったのは、油絵の具だった。まさか、こんなところで油絵の具を売っているとは想像もしなかった。油絵の具がなかなか乾かず、風が吹いて、紙が飛ばされ、絵の具が絨毯につく。それを踏むアーシア。大変なことになってしまった。

二人が描いた絵は、ひまわりや、カタツムリ、そして僕がリクエストしたのが、魚の絵。それらが、油絵の具を使ったためにとっても力強いタッチになったのである。

7月、アルビルでバグダッドやバスラから癌を克服した子ども達を呼んで、泊り込みのワークショップを行った。今度は、油絵の具のかわりにアクリル絵の具を日本から買ってもって行った。どんなマチエールが出来るか楽しみである。一番参加して欲しかったのが、アーシアちゃんだった。しかし、前の日から鼻血が止まらなくなり、とても、絵の描ける状態じゃなくなった。そして、僕が帰国してまもなく、脳出血でなくなったと聞いた。

ワークショップに参加してくれた子ども達の絵を使ってチョコレートのパッケージのデザインをし終えたが、何か物足りないのだ。ワークショップはとてもよかった。でも集まった絵は、アーシアのような力図よい何かがたりない。昨年のサブリーンの絵にあるような、何かが抜けている。

「絵を描いた子ども達は、元気で頑張っています」というストーリーは崩れた。アーシアの絵しかない。アーシアは死んだけど、絵は生きている。そして、お兄さんのウサマの絵も使った。パソコンでデザインする。画用紙に乾く前についた汚れた油絵の具をパソコンで消していきながら、僕は改めて、命の重みを感じた。

来年のチョコもすごい。

鯛焼きがあれば良いのではなくて

若松恵子

片岡義男さんの2年ぶりの短編小説集が出版された。『階段を駆け上がる』。
七夕の日に手に入れて、仕事の行き帰りの電車の中で少しずつ、7つの物語を楽しんで読んだ。どの物語も素直なおもしろさで、久しぶりに届いた小説集が、変にひねった所のない、明るい魅力(陽が正面からあたっているような)に満ちている事をうれしく思った。

今回の短編集には7つの物語が編まれている。どの物語も登場人物は少ない。1組の男女の会話で話は進行するといってもいいくらいだ。複雑な人間模様や、奇異な事件があるわけでもない。しかし、どの物語も最初と最後では主人公たちがほんの少し変化している。そしてその変化が、これから何かが始まっていくような予感を連れてきて物語が閉じられる。何かが始まっていくような予感。読後に残る気持ち気持ちの良さは、ここから来ているのかもしれない。読む人の心のなかにも、これからへの予感がひろがっていく。

主人公の「変わらなさ」という魅力も、もう一方にある。最初の作品「階段を駆け上がった」の百合子さんは、10年にわたって魅力的な後ろ姿だ。最後の作品「割れて砕けて裂けて散る」のエリンはすさまじい雨嵐に叩かれてもへっちゃらに彼女自身だ。変わらなさというのは、今のあり方が正解のあり方だからなのか。

主人公たちは、どのようにも変わっていきそうな自由さと、こうでしかありえないという確信さの両方を持っていて魅力的だ。しかも主人公は若い。「夏の終わりとハイボール」の主人公は37歳ではあるけれど、これは若者の物語だと感じる。なぜだろうと思って読み返してみた。鍵は主人公たちの身体性にあるように思った。主人公たちの反応する身体がしなやかでみずみずしいのだ。社会のなかで、様々なことにしなやかなに身体ひとつで対処している主人公の自由さと揺るぎなさ。ここからかっこよさが生まれてきているように思う。

身につけているものや言葉使いが現在ただ今のものだから若者なのではなくて、身体の在り方が若い人なのだ。若者の風俗を描かなくても、若者を書き続けることができる、片岡さんの小説の魅力をこんなところにも私は感じる。そしてこれから何かが始まっていく、何物にも限定されていない若い人たちの物語は魅力的だ。

まちがってはいけない。鯛焼きがあれば良いのではなくて、鯛焼きひとつ胸にかばってへっちゃらで歩く伸びやかな身体が必要だ。

シュルレアリスムと即興音楽

笹久保伸

音楽における即興演奏の起源は古い
古いと言うか 人類最初の音楽は即興的に行われた と言われている

現在、世界各地の民族音楽では個々の音楽の中でその音楽観に基づいた即興が行われている しかしそれらはある種の「即興」であることには違いないが、その即興と言うのは各音楽の持つ特有なパターン(形、旋法、リズムなど)に支配ないし制御、コントロールされている それらは俗にイディオム(言語)と言われ、例えばジャズの即興をするならば、その共通言語を話せる必要がある、でなければ他者との会話は難しくなる

一方、フリーインプロヴィゼーション(決め事なしで演奏する即興)は文学的シュルレアリスムの観点から見ると「自動記述」と似ているのではないか (音楽の場合、記述は記録(録音)として)弾く内容をあらかじめ用意せずに、かなりのスピードでどんどん弾いていく それをずっと続けると一種の錯乱(トランス)状態までになる こうなるともはや自分が演奏しているのか 何者かに自分の身体で演奏させられているのかわからなくなる 巫女やシャーマニズムの世界でもそういうのは存在し 常に音ないし言葉を用いる

音楽の「作曲」と言う作業の中でシュルレアリスムを考えて、固定された作品を作るとすれば、せいぜいコラージュくらいしかできない
一方、自動記述的なやり方での自動演奏であればシュルレアリスム的と言える音楽にわりと近づいている(と言えるかもしれない)

しかし だからと言ってどうって事ではない シュルレアリスム文学の場合はブルトンやピカビア、ツァラ、他が行った試みないし活動が面白かったので後にそれらが伝説化された

即興は「即興行為」そのものに意味があると言うよりは「誰が即興をするか」によって意味が生まれるような気がする

ひと月の間があいて

仲宗根浩

一回お休みしてしまいました。ここ数日雨が降り、ちょっと暑さが和らぐので、クーラー稼動が少し減るかと思ったがそうはいかず、洗濯ものが乾かないので相変わらずクーラーはフル稼働。ご苦労さんです。設定温度はいつも三十度だけど、電気代怖い。

六月からは、テレビからぱったりとおきなわのことは消えてしまい、穏やかな日々。軍からは、夜十二時以降は基地内のおうちに戻りなさい、というお達しが出て、十一時半過ぎにゲート戻る若いやつら。理由は飲酒運転がらみの事故が多いからとか新聞に書いてあったが、今では原則十二時のあいまいさか、週末は十一時頃から繰り出す集団が見える。

梅雨が明けたのは六月の十九日だった。日差しはシャツの織目、その隙間から肌に刺さる。当分この日差しとのつきあっていかないといけない。雲の入道感具合が増す。六月二十三日の慰霊の日、こどもは学校が休みのため、でかい運動公園公園まで車で行く。自転車で遊ばせる。遊具施設には、地元の子もアメリカンの子も普通に遊んでいる。曇が調度いい。

普通に休んだあと、普通に仕事をしていたある日、仕事場で、両手の中指と薬指、付け根と第二関節の間に丸い針突(ハジチ)を施したオバアを目撃。普通に見たのは二十年ぶりくらいだろうか。針突は昔、女性が指や手の甲に施した入墨でいろいろな文様がある。うちの祖母にも小さなものがあった。貧乏だったから小さなものしかできなかったのだろう。とするとあのオバアは明治のときにすでにある程度の年齢だったということになる。うちの母親に話したら大正生まれの人はしていない、と言っていた。針突のことを職場の昭和の終わりに生まれた女子に話すと「なんですか? それ、こわい」と言われた。もうとうの昔になくなった風習。言葉も絶滅危惧言語になっているので知らなくてもしょうがないか。こっちも、復帰前、小学校の頃は沖縄口(ウチナーグチ)を使わないようにしましょう、と学校で教育を受けた世代だ。

実家から、姉の旦那が釣上げた、シビマグロの半身をいただく。刺身でも食べられるというので、刺身用に中骨にそって半分に切り、皮を剥ぐ。切れない包丁、苦戦。残った中骨、皮には赤身がついている。これらをきれいに削ぎ取り、皮を細かく切り、削いだ赤身と皮をたたいてボールにいれ、冷蔵庫にあった青じそのぽん酢、わさび、料理酒を適当にいれて混ぜると奇跡的にいい味になった。酒のつまみ用に作ったが上のガキにほとんど食われる。残り半分の身は四等分に切って奥さんがソテーにした。翌日はマグロのあらをもらう。頭と中骨。頭は煮て、うちではだれも食べない目玉やその他おいしい部分をひとりで、頭の原形が無くなるまで食べつくす。身が少しついた中骨、尾ひれは鍋に放り込み、冷蔵庫にあった、スーパーの惣菜におまけについている醤油やたれ、しょうが、にんにくチップス、自分が飲んでいる酒を適当に入れ、煮る。沖縄そばのスープになるか、中華の生めんでマグロラーメンにするか思案。マグロの風味が強いので、一晩寝かせてネギ油を入れ結局マグロだしのラーメンとなった。食べる直前までわからないいい加減な料理。

六月末になりいきなり母親が初入院、七月一日に初手術。久々の病院への行き来。入院、手術のための署名、捺印の多いこと。手術は簡単に終わり、退院の日は母親の国民学校の同級生の葬式と知人の訃報。その日はアメリカの独立記念日。今年は嘉手納基地の開放はない。花火の音が聞こえる。基地内の独立記念日の花火なのか。数日経つと小さい頃からお世話になった方の訃報で、葬式、初七日。母親がまだ本調子ではないのでその分もこちらが代わりに行く。七月から八月のカレンダーは七日ごとの印が三つ入る。

その合い間、健康診断のため毎年恒例、胃カメラを口から入れられる。年々、喉への麻酔は楽になってるが、注射される安定剤か鎮静剤か何かは全然酒飲みには効かない。喉から食道、胃に何かが入っていくのがよくわかる。

この時期の夜、職場の外に出るとエイサーを練習する太鼓の音が遠くから聞こえてくる。猛暑はないが、最高気温は三十二度、最低気温二十七度か八度、という日がどれくらい続くのか。

製本かい摘みましては(62)

四釜裕子

ある図書館主催の製本講座の一つで、フランス装をやることになった。無地の紙を糸で綴じて、その判型の横二倍強の大きさの紙の四方を折って表紙として被せるが、基本は基本として、折形デザイン研究所の『折る、贈る』や立川直樹さんと森永博志さんの『続シャングリラの予言』、國峰照子さんの詩集『4×4=16 月の故買屋』などのように従来の折り方とは別の方法でデザインを楽しんだり、背を貼るか貼らないか、折り曲げた表紙に本文紙を差し込むか差し込まないか、それぞれやってもらおうという趣向だ。会の案内をするにあたって、困ったことがおきた。「フランス装」という言い方のことだ。どうも以前からこの「フランス」の使い方がしっくりこなくて、あまり口にしたくなかったのだ。

いわゆる「フランス装」の一番の特徴は表紙となる紙の折り方にある。説明すれば、大きめの紙の四つ角をまず斜めに折り、背に当たる部分に切れ込みを入れ、紙の四方を折り曲げて中身に被せる。和綴じの表紙がけにも同じ方法があるが、こちらは折り返しが10ミリ程度で短く、また中身と部分的に貼り合わせるので表に見えない。「フランス装」は一冊ずつ手作業で仕上げていたが、これを機械化したのが1998年にスタートした「新潮クレスト・ブックス」シリーズだ。同社はこの製本について「従来は手作業のため高コストだった仮フランス装の機械化を、独自に開発してもら」ったと説明している。折り曲げた表紙紙は全て接着してあり、中身とは背の部分のみ貼り合わせてある。クレスト・ブックスの装丁は私も好きで、カバーをはずして棚に入れてある。はずしたカバーは、逆向きに本文に被せてある。結構いるんじゃないか、こういうふうにしている人。

さて「フランス装」だ。この呼称を知ったときは、仕上げの断裁をせずに仮綴じしたままのフランスの本のほとんどがこのような表紙なのだと思った。だがまもなく、そういうものもあるがそうでないもののほうが多く、フランスに限ることでもないことがわかって、「フランスの本みたいな装丁」「フランスっぽい装丁」を日本でそう呼ぶようになったと思うようになった。それにしても、「フランス装」というと表紙の紙の折り方がキビシク限定されており、その一方で糊の入れ方だとか中身との合体の仕方だとかには無頓着であることもわかった。はたして正しい「フランス装」があるとは思えないが、クレスト・ブックスがわざわざ「仮」をつけて「仮フランス装」としたのは、折り返しを接着したあたりが「正フランス装」に反するとの見解だろうか。推測だけれど、納得はいく。

「製本之輯」(『書窓第十一巻第二號』アオイ書房 1941 上田徳三郎・口述、武井武雄・図解)を復刻したHONCOレアブックス3『製本』の洋本の部には、〈近頃は、仮綴などと言って、厚手の紙一枚を背に貼りつけ、周囲を折り込んで表紙とした軽装本が多くなった。折り込みの一例を図に示したが、これは別にきまった様式があるわけではない〉として、いわゆる「フランス装」の表紙の紙の折り方が示されている。「軽装本」という響きがいい。そこでこのたびの製本講座のタイトルに、「軽装本」はどうでしょう、と言ってみた。「いやー、形状がまったく想像できません」たしかに。「一枚の大きな紙を折って表紙にするから『紙折り表紙本』とか『折り紙表紙本』ってのはどう?」「いやー、折り紙を表紙にする豆本みたい」なるほど。「フランス装という言葉はやっぱり入れたほうがいいんじゃないでしょうか」「じゃあ……『フランス装的な製本』とか『フランス装みたいな製本』?」「長過ぎますよ〜」

思えば、「和綴じ」というのも曖昧な表現だ。製本に特に興味がなかったら、和綴じと言えば四つ目綴じ、バリエーションとして麻の葉綴じや亀甲綴じが思いつくくらいだろう。「和綴じ」の一種である胡蝶綴じされた本などは、和紙を使った洋装本と思うのではないか。それに、「和綴じ」と言っても日本独自の綴じ方ではない。そりゃそうでしょう、と思うでしょうが、ひととおり「和綴じ」を体験した人に唐突に中国の古い本を差し出してみてください。「中国でも和綴じをしていたんだ!」という反応がきっとあるから。「和綴じ」も「フランス装」も、あるくくりをイメージしやすい言葉として口にされてきたのであって、学問的な定義づけを必要とする呼称ではないだろう。ならば言い訳みたいに「フランス装的な」なんて言うのは、かっこ悪いのでやめようと今は思っている。

上述の上田徳三郎さんは製本の職人さんだから、作る上でのお手軽指向による軽装本ことフランス装には言葉厳しい。『書窓』の編集人でもあった恩地孝四郎(1891-1955)は「書籍の風俗」に、そこのところを戒めつつ、その軽やかさに美を極めてみたいと書いた。もしかして、と思って青空文庫を探したら、あった。ごく一部を以下に引用する。全文は青空文庫で。〈この仮装略装本を非常に愛着して、この方式の上にいい本を作りたいといつも願っているが、前述のような事情で失望しがちである。だがこの形式は将来十分発展性のあるものと考える。愛書家も徒に華装ばかりを尊重したがらずに、こうした所に平明直截な美を打ち立てることに留意してほしい〉

しもた屋之噺(104)

杉山洋一

7月28日。ボローニャから送られてきた昨年の演奏会録音(http://www.magazzini-sonori.it/esplora/exitime/omaggio_franco_donatoni.aspx)に耳を傾けつつ、260年前の今日、65歳で亡くなったバッハを想います。未完の「フーガの技法」のオーケストラ編作を、やはり未完のまま残してドナトーニが斃れたのは2000年8月17日。この夏を彷彿とさせる炎暑がミラノを襲った10年前のことです。

最初は手をこまねくばかりだったドナトーニの奇妙な編作は、時を経て聴き返すと、思いがけない感銘を与えてくれました。ヴェネチアのガブリエリを想起させるうず高く積まれた金管の歪な集積、拍節感を砕く弦楽器のクラスターのくさび。丹念に紡ぎこまれた木管の綾に静かに沈むバッハの面影。ドナトーニが愛した楽器群、チェンバロにピアノ、ハープに鍵盤打楽器から浮上がるフーガは、青々と繁る木々の葉のまにまに、明るい木洩れ日が渉ってゆくようです。

ずっと書き続けていれば、頭で書いていたこともいつしか手癖となって、何も考えずに書けるようになると話していたから、何十年もバッハの対位法を教えていたドナトーニが、一つずつバッハのフーガをなぞるとき、そこには自動書記的に無数の音の揺らぎが生じたのかも知れないし、あるいは確信犯的なアプローチも存在したかもしれませんが、殆ど無感情、無条件に客体として音と向き合う強靭で透徹な感性は、ドナトーニの音楽そのものでした。

和声や対位法の課題を解くように無意識に音を並べながら、作曲家の身体は次第に降霊術師のように、刳りぬかれた樹木さながらの「もぬけの殻」となり、ついには透明に耀く刃金となって、目に見える何も信じぬ絶対的不信と、鳴らされた音のみを享受するロッシーニ的快楽観との矛盾が、せめぎ合いつつ音楽のバランスを器用に裡側から支えているのかもしれません。

彼のように、感情を込めずして感情を表出させることの難しさに何時も不甲斐ない心地に苛まれます。つい感情にほだされて表現が脆弱になり、結果的に表面的で無意味な刹那が剥き出しになります。それすら甘受し自らを虚へと駆り立ててゆく勇気があれば見えてくるものもあるのかもしれませんが、今は感情が感情に打ち消されてゆくのを恨めしく眺めるばかりです。

演奏に関わるようになって暫く経つと、「こうしたらどうなるか」未知数を掛けながら作曲する場合と、かかる疑問を呈さず直接定着してゆく場合と、作曲の傾向が大きく二つに分けられることに気が付きます。同じ作曲家で作品や時期によって傾向は変化するでしょうし、前衛的、保守的とも割り切れません。無論、作品の価値とは無関係だと思います。ドナトーニは、不確定性や否定的自動書記による作曲から所謂ドナトーニ語法へたどり着くまで、常に未知数を追いかけ作曲していた印象があります。ヨーロッパの前衛音楽やベリオへの憧憬の念もあったでしょうし、時代背景に強迫的に背中を押されていたのかもしれません。

そうして無言で書き続けた末、長いトンネルを抜けたドナトーニに残ったものは耳や頭脳でもなく、チュシャ猫のような一本の鉛筆が握られた手癖に過ぎなかったのかも知れません。作曲中何を考えているのか尋ねると、「できるだけ間違えないよう音符を書くこと」と答えてくれたことが忘れられません。和声や対位法の課題と同じで、奇をてらうでもなく、自らを排して丁寧に音を並べてゆく。音は一切観念的な意味は持たないアルファベットで、そこでは恣意的な感情を消すほどに、却って明確になる輪郭があるのは、愛していた禅の思想にも通じるところがあります。

ドナトーニ/バッハ「フーガの技法」の前半をミラノで世界初演した折、傍らに居たルチアーナは「当時フランコは耳が遠くてよく聴こえないようだった」と話してくれましたが、ドナトーニ自身は亡くなる直前までバッハへの畏敬の言葉を度々口にしては、最後まで書き上げられなかったことを悔やんでいました。

ベネチア・ビエンナーレのドナトーニ追悼演奏会のため、ヴェニスとドナトーニに所縁の深い民謡「La Biondina in gondoleta」を使い作曲しながら、同じく新作を寄せるゴルリやマニャネンシ、アラッラのことを考えます。それぞれ違う場所で異なる人生を歩みながら、こうした機会に思い出したように再会する。遠心分離機にかけられたように散り散りになっても、絡め取られる同じ糸が身体からのっぺりした影法師のように伸びているのかも知れません。共有する原体験に端を発する感情を胸に、彼らの作品を演奏する歓びを嚙みしめつつ。

(7月28日三軒茶屋にて)

掠れ書き(3)

高橋悠治

ディドロは完成された絵画よりスケッチのなかに、反省に足を取られない、自由な思いと熱を感じた。スタイルや形式をととのえる以前に、うごきだす心と、そのうごきを拡大して外に投影する身体の尖端の軌跡。というよりは、ものに感じてうごく身体が、心というはたらきだとするならば、心は実体のないうごきの影にすぎない。身体のうごきは、心という記録印画紙上の霧箱写真から推定する放射曲線。その曲りは、三次元空間のなかである角度から見た方程式では解けない。ひとつの空間のなかでいくつかの線が交錯するというよりは、それぞれの空間、それぞれの場が自律してうごきながらも、決して交わることがない、これがコミュニケーションといわれるものだろう。すれちがうバスのなかで、知っている顔を一瞬見たように思う、それとおなじで、一瞬の理解の錯覚のなかで、つきあいの広場がある。それもまた、もっと大きな都市の一部にすぎないから、出会いは方向や展望をえらぶ自由のなかに浮かんでいる。

エピクロス派のクリナメン。ミシェル・ビュトールははじめてナイアガラの滝を見たとき、このことばは思い出したと言った。落ちてくる水が水にぶつかり、はじきはじかれ飛び散りながら、激しい音を立てる。落ちていく粒子がわずかに曲り、ぶつかりはじきあって飛び散り、さまざまなかたちをもった世界を創る。生きている世界には純粋なものはない。人間もひとりひとり不純な混ざり物の一時的で偶然の結びつきとして生きてうごいている。そこにはわかりにくさ、予測できない行動がついてまわる。古代ギリシャ人にとって、死とはこの偶然の結合体が解体して、個々の原子に還る場面だった。それで終わりではない。原子の運動は停まることなくつづいていく。

エピクロス派にとって世界は一つではない。原子の結びつきは同時にたくさんの宇宙(multiverse)を創る。普遍主義(universalism)の思い上がり、自然支配の欲望はここにはない。それは戦乱の時代だった。時代は変わっても、平和が来ることはないが、閉ざされた庭で世界をやり過ごすのとはちがう知恵もいくらかは生まれたようだ、希望の断片を痕跡のなかにみつけながら。

人間は風であり、影にすぎない(ソフォクレス 断片13)。 影は無にひとしく、風はさまようもの、だが影も風もとらえがたい。さまようもの、無にひとしいものだからこそ、自由なのかもしれない。世界は実験室。自由は、ためらわず行動に踏み出していく。未知の発見はまさに、知らないところから、判断の誤りから、失敗からひらかれる。

わからないというわかりかた。道得也未(道元)。転換(あるいはメタフォア)の可能性。知る限界を超えて彼方へ飛び翔るのではない。メタフォアはこちら側にひきおろす。歴史のよみなおし、喜劇としての、パロディーとしての、本歌取り、コラージュ、神秘や権威を批判する歩み。

すでに起こったことを状況や文脈から切り離して固定し、一般化し、抽象化し、一つの原理で閉じられた構成を作る。それは内部から外部に向う表現であり、experssの文字通り、外へ向って圧力を加え、意味を伝え、支配しようとする。これが制度のゲームだとすると、それを受け取る側にはimpressed内側へ押し込まれる理解と感動の美学しか残らない。それが音楽の権力。それと一体となった社会制度、本質論の哲学のなかで、音楽は非日常のもの、無用の用となって現状維持に奉仕する。

現状維持は押しつけられた眼に見える部分だけでなく、内面化されて作用している影の力でもある。全体を一度に変えようとする革命理論ではなく、疑いや細部の逸脱からはじまる複雑な身体ゲームが、偶発的に心理的な拘束を崩していく。それは圧力ではなく、力がぬけていくような不安定なプロセスとなってあらわれる。例外のない規則はない、というよりは、規則は例外を排除することでなりたつのだから、例外を作りながら、別な規則にすりかえるのではなく、境界のあいまいな領域のかさなりを、力のはたらかない空白を不均等に生み出す速度、ここで意識はまた飛白にもどってくる。