世相 ――翠ぬ宝71

藤井貞和

フージー・ジョーワ

そこからは楠の船の領域、はいってはならん
竹の葉が二枚、乗ってはならん
田んぼのましたに国がある、聞こえる
うたっていた泥の海の唄
貝が敷きつめられている、その貝は
二人の餓死を追いつめるであろう 母は
見捨てる、この逮捕劇は忘れられまた
あたらしい母が二人の子を殺める

(1歳と2歳。二人の子をとじこめて、腐らせてしまった若い母の逮捕。『古事記』によるとジンム天皇は137歳、スジン天皇は168歳。現代にも100歳を越えるお年寄りがぞくぞくと〈ミイラになって〉発見されるという世相。ま、いいか。)

旧盆のあと

仲宗根浩

旧盆が終わり、翌日に帰る姪っ子たちを空港まで送る。送った帰り、姪っ子の親たちが首里にある金城の石畳を見たことがない、というので連れていく。こっちも来たのは二十何年ぶり。石畳を上ると途中、樹齢三百年のアカギと御嶽があったので寄る。木々のなか陽の光は遮られている。知らぬ間に手は蚊にいっぱいさされたあと。

その翌日は急に奥さんの実家に行くことになった。次の日の飛行機のチケットを手配しようとするが、どこも満席。仕方なく大阪伊丹の便を予約し、新大阪から新幹線で向かうことにする。こういうことはいつも突然やってくる。出発の当日、午前中には車で空港へ。八月になり何回高速を使っただろう。無料化試験中のため高速の利用者が増えている。ETC以外の入り口が混むことが多いがスムーズに行く。伊丹に着くと気温三十六度、新大阪からこだま乗り換えで名古屋に下りると夕方近かったが気温三十四度。沖縄より暑い。着いた先は浜松。来たのは四年ぶりくらいか。日も暮れかかっているがここも十分に暑い。数日の滞在、バタバタと用事を済ませこっちは先に沖縄に戻るため静岡空港へ向かう。浜松駅から新幹線で次の駅の掛川まで時間で十分ちょっと、窓の外の景色を見ると上の子供が生まれた頃の数ヶ月は毎週この景色を見ていたことを思い出した。田んぼ、お茶畑の緑色。掛川からバスに乗り東名高速に入る。牧之原を降りるまでの東名から見える景色も覚えがあるものだった。昔、何度も通った。

沖縄に着く。空港を出て駐車場までの連絡通路を渡るとき、向こうよりはいくらか涼しく感じる。車に乗り空港を出てしばらくすると高速に入る。相変わらず高速は車が多い。イチャンダ(ただ、もしくは無料)となるとだれもが使いだす。前の車はウィンカーを点けっぱなしのまま走っている。追い抜くと運転していたのはおじいだった。八月は何回イチャンダ高速を使っただろうか。

何年前からかこっちは学校が二学期制となり九月一日より前に中学校は始まっている。子供をたたき起こし、朝ごはんを作り学校へと送りだす。その後、ゴミだし、洗濯を済ませる。テレビで台風が近づいていることを知る。まだ実家にいる奥さんに連絡すると飛行機のチケットは予約したとのこと。戻る日を一日のばすように言う。台風上陸前の朝、学校は休校とテレビでテロップが流れる。午後以降の上陸だから、決定が早すぎやしないかい。お昼過ぎるとこっちは休みだというのに職場から呼び出し。台風に備えての養生のため職場へ行き、残りの作業、戸締りを済ませ、実家へ行く。少し背の高い植木類はほとんど前もって倒してあるが、さらに強くなった風のため倒れそうな植木を倒しておく。夕食を済ませる頃には台風の中心は名護を通り過ぎる。実家から自宅にもどる途中、アスファルトの道路の上を細かいしぶきが舞いながら走る。足元の風がひさしぶりによく見えた。

ジャワの墓参り

冨岡三智

8月お盆の時期に日本にいると、どうしても思いは墓を巡る…というわけで、今月はお墓に因むことについて書いてみる。

ジャワでは土曜日には墓参りをしないものなのよと、私は亡き舞踊の師匠に教わっていた。実際、亡き師匠のだんな様の法事は全部土曜日以外に当たっていたので、ジャワではそういうもんなんだと思っていたのだが、師匠本人の法事で、土曜日だったにも関わらずお墓参りをしたことがあったので、「土曜日にはお墓参りしないものだと聞いているんですが…」と遺族に聞いてみたら、師匠の子供たちは誰も、そのことは知らなかった。古いことをよく知っているのね〜、誰に聞いたの?と聞かれて、いえ、当の師匠に聞いたんですが…と言うと、子供たちは皆(1950年代生まれ)は驚いていた。日本でも戦後になると古い世代の知恵は親から子へと伝えられなくなるけれど、ジャワでも一緒なのかなあと思う。

墓参りとは話が違うが、ジャワでは昔は、退院日は土曜日を避けたものらしい。土曜日に退院すると、また病院に戻ってくることになるのだそうだ。私の知り合いの人が当初土曜日に退院する予定だったのを、そのことを知って別の日に変えたら、看護婦さんから、そんな古いことをよく知っているわねと言われたらしい。

イスラムでは金曜が集団礼拝の日なのだが、土曜にも特別の意味があるのだろうか、と思っていたところ、アラビア語の「土曜日」は「ヤウム・アッ・サブト」といい、その「サブト」はヘブライ語の「シャバット」(安息日の意)が語源なのだそうだ。金曜の日没から土曜の日没が安息日なのだそうである。だとすれば、土曜日に墓参りや退院がだめというのは、どちらも同じ理由――世俗のことはしてはいけない日――に拠るのだ。

閑話休題。

ジャワではイスラム教徒が圧倒的多数なので、まず普通は、遺体は埋葬される。お葬式の通知は、なぜか「告別式×時〜」ではなくて「埋葬×時〜」という形でされる。普通は埋葬は1時からで、逆算して、告別式はだいたい10時過ぎから始まる。これ以外の時間帯にするのを見たことがない。告別式が終わり出棺を見送って帰る人も少なくないが、意外に多くの人、50〜60人くらいは墓まで行って埋葬に立ち会う。その後の法事の日程は、日本のそれとよく似ている。亡くなる1日前から数えるというのも同じで、初七日、四十九日ならぬ四十日、100ヶ日、1年、2年(日本では3回忌と数えるけど)、千日忌があり、千日忌で墓石を建てて一区切りとなる。お墓参りは初七日や四十日に当たる日の午前中にして、法事はその前夜にする。普通、墓参りは午前中にするもののようだ。

ジャワで墓参りに持っていくものは、お花、お線香、聖水、そして自分たちのおやつ。日本のようにお花を立てるのではなくて、花びらだけを撒く。ジャワでは花市場(パッサール・クンバン)というのがあって、そこに行って墓参りに行くといえば、それ用の花びらをかごに詰合せてくれる。紅白、ピンクのバラがメインで、クノンゴkenangaという花やジャスミンを加える。法事のときだけでなく、断食明けにも一族で墓参りするので、断食明けにはバラの値段がいつもの倍くらいに高騰する。聖水は、他の家でも用意するものかどうかよくわからない。私の師匠のお葬式に来た人(親族でない)が、聖水の瓶を見て、あれは何なの? と聞いたので、聖水というのは必須アイテムではないのかもしれない。私の師匠の家では、ガラスの大きな聖水用の瓶があって、バラやクノンゴを入れて聖水(たぶんこの家の裏の井戸から汲んだ水、きちんと井戸を祀っている)を満たしたものを法事のときに用意し、翌朝それを墓へ抱えていく。そして、お墓に花びらを撒き、聖水を振りかけてお祈りを済ませたら、そこで持ってきたおやつを皆で食べるのである。お墓で物を食べてはいけないと、小さい頃から教えられてきた私は、当初、この風習に仰天したが、お墓で飲み食いする風習は沖縄にもあるらしい。そうやって先祖の霊をなぐさめているのだろう。

私の師匠の家の墓地はパク・ブウォノX世の王子の墓が中核にあり、それを囲むように関係者の墓がある。一族で墓参りをするときには、いつも前もって墓守に知らせておき、一向が到着したときには、もうお墓がきれいに清掃されている。その代わり、お墓を発つときには墓守の子供たちにお金をやる。今のレートだと子供1人に1000ルピアくらいやるのだが、お墓の入口の門には子供たちが20人くらいずらりと並んでいるから大変だ。これもイスラムの施しなのだが、こんな風習に慣れていない日本人には、こういうときに堂々ふるまうのが難しい。

一族の墓参りではなくて、著名な人のお墓参り――この場合は巡礼jialah(ジアラー)と言ったほうがよいかもしれない――に行くこともある。以前、ジャワに留学していたときに、大学の創立記念日のイベントとして、亡き元学長や芸大の発展に貢献した芸術家たちの墓参りというのがあって、参加したことがある。それは大学でも初めての試みだったらしく、教員や卒業生は多く集まったものの、現役生徒はなんと私1人だけだった。今どきの学生は、昔の偉い芸術家の墓参りなんて興味がないのかなあと思ったが、教員たちも軽くショックを受けていたようだ。それはともかく、この墓参りでは、行く先々の墓守りが芳名録を用意していた。後で、遺族にこんな人たちが来ていましたよと見せるのだろう。

そういえば、昨年、知り合いの研究者がスハルト大統領のお墓参りに行くと言うので、私もついて行った。スハルト夫人がマンクヌゴロ王家の親戚だというので、スハルトの墓もその近くにある。大統領の墓なのだが、夫人の両親の墓を中心に、夫人の兄弟姉妹一族の墓となっていて、これを見ると、スハルトは完全に入り婿だったんだと思う。私の師匠の一族のお墓のような、つつましげなお墓ではなくて、デカい大理石の墓石で、墓全体が巨大なプンドポの中にあり、床もきちんと貼られている。王宮のプンドポより大きい気がする。スハルトはまだ亡くなって千日経っていないので(今年の10月くらいに千日を迎えると思う)、墓石を建てる予定の場所の床が四角く切り取られ、土がまだ見えている。スハルトの墓参りをしたというと、何人かのジャワ人から、それは良いことをした、と褒められた。私たちが行ったときはガラ空きだったのだが、私の師匠の娘さんはスハルトの四十日だか百ヶ日だかの法事の日に合わせてお参りしたので、ものすごい長い行列で、中でお祈りする時間も制限されていたそうだ。最後は引きずり下ろされた大統領でも、巡礼するとご利益があるのだろうか。あるいは庶民にとっては、元大統領の墓参りというのも恰好の巡礼レクレーションなんだろうか。

新たな夜明け

さとうまき

8月末、アメリカ軍の戦闘部隊がイラクから撤退したという。2003年3月から7年5ヶ月にもわたり、米軍は戦闘行為を続けていたのだ。

ここに来てイラクの治安は、悪化している。アメリカは、それなりの成果を主張してイラクを去っていくつもりなのだろう。しかし、現実は、深刻だ。私の個人的な意見を言わせていただければ、この時期に、出て行くのはあまりにも無責任だ。

バスラでは、8月8日、爆弾テロがあり、43名が死亡したという。しかし、現地のイブラヒムは、150人は死んだといって、メールしてきた。数があまりにも報道とちがう。「本当か?」と問い合わせたら、「神に誓っていい。おそらくそれ以上だ」一度のテロで150人というのは、イラクの中でもそうはない。テロの起きたのは、クリニックなどが集まっている場所だ。「患者が、多く巻き込まれたんだ」イブラヒムが、がん病院で使う薬を調達に行く薬局も近くにある。

翌日、事故現場が封鎖され車が乗り入れられない。イブラヒムは手押し車に、薬を乗せて、テロ現場の横を通過する。25日には、北部モスルから南部バスラに至る13都市の警察施設などで、20発の爆弾が相次いで爆発した。武装勢力による計画的な連続テロだという。イラク政府に治安能力がないことをさらけ出させて一体次は、何を狙っているのだろうか?

イブラヒムは、電話口で、「みんな、とても怖がっている。バスラは60℃くらいに気温が上がって、電気も数時間しか来ない。それでも、もうそんなことには、みんな慣れっこになっていてどっちでもよく、一番怖いのはテロなんだ。だれも、外にはでたがらない」

今までの軍事作戦は、「イラクの自由」作戦。9月からは、「新たな夜明け」作戦が始まる。字面だけ見ていると、なんだか、とてもよさそうな響きがするのだが、イラク人にとって、新たな地獄が来ないよう祈るばかりだ。

犬狼詩集

管啓次郎

  13

雨の滴はそれぞれに空を引き連れて降りてくる
その落下は人間的にはずいぶん速く見えるが
じつはものすごくゆっくりなんだ
落下しながらも蒸発してゆく
落下しながらも物語を発している
滴とともに降りてくるのは空の内容で
そこには祖霊たちも二千年前の発話も
サヴォナローラの嘆きも含まれている
うまく踊ることのできないカチーナが
覚えようとしてたどる雲のステップも
未完のまま地上に届けられる
子供のころ、ぼくらは舌を突き出したまま
シャツを濡らしながらずっと明るい雨の滴を飲んでいた
それがぼくらの最初の学習で
歴史は初めそうやってぼくらに訪れた
雨の滴が最初の教科書だった

  14

断崖を愛する心には二つの方向があった
それを聳えるものと見るかそれとも奈落と見るか
いずれにせよそこは重力の劇場
透明な翅が悲哀としていくつも舞っている
断崖の上にひろがる砂地は風と芝の領域
断崖の下にあるのは絶望とはまなす
盲目の老王でなくてもそこでは必ず転ぶだろう
だが眠りと死の類似性を語ることで
自分が失ったものに囚われたくはない
生にむかって閉ざされた瞼と
死にむかって開かれた瞼の
花びらのような相似
燃える海風が吹きつける午後の
息を吸い込むこともできないこの断崖の途中で
私はずっとつぶやいている
Tenho medo… tenho medo…

気づいたらそこは池袋だった

大野晋

今年の夏はとにかく暑い! 朝までは赤坂のサントリーホールに出かけなければと思っていたのだが、ふと夕方会社から外に出た途端にぽっと消え去り、気が付けば池袋にいた。しかも、料理屋で注文をした後に気づき、場所の違いに愕然とする。とにもかくにも、急いで食事を終え、赤坂へとタクシーに飛び乗った。近い将来、こんな話は忘却のかなたに消え去るのかもしれないが、暑かった夏の一事件として記録しておきたいと思う。

プログラムはサントリーホールが企画した現代音楽もののコンサート。「しもた屋」の杉山さんが都響を指揮をする。実は私は現代音楽っぽい曲も嫌いではない。これは、絵画でも同じで、抽象画や抽象的な表現をした写真も結構楽しんでしまうのが常だ。この夜のプログラムも非常に楽しく、杉山さんのちょっと指揮台の上で足をクロス気味にお立ちになり、ダンスをするような足運びを面白く拝見させていただいた。

しかし、現代音楽となると聴衆が少ないのが難点で、この日も非常に観客席はストレスの少ない状況。要は、客と客との間隔が開いた空席の目立つ状況だった。まあ、このような感じになるのは、もちろん、指揮者のせいでも、演奏者のせいでも、作曲者のせいでもなく、聴衆がなかなか現代音楽になじまないせいなのだが、そろそろこのような形式の曲も半世紀以上経つのだから、慣れてもいいのではないか? と思うがなかなかにハードルは高いらしい。

実はこのような話は特定のコンサートだけの問題ではなく、普通のオーケストラの定期公演でも同じようなことが生じており、文化庁からの支援はこういった演奏機会の少ない現代曲を取り上げると受けられるが、逆にこういった作品を頻繁に取り上げると観客が入らずに入場料収入は減収になるといった具合で、ただでさえ厳しいオーケストラの台所を悩ませることになっているらしい。
 ところで、現代音楽になじむにはどうすればいいだろうか? ま。あまり難しいことを考えずに、じっくりと、何回も聴いて慣れることだろうと思っている。なので、コンサート機会が少ないということは、客の耳になじむ機会がないという二重苦を抱え込んでいることになる。ならば、耳になじむように無料や安価なコンサートで取り上げればいいのかもしれないけれど、そうすると某音楽著作権団体が演奏料をよこせと、演奏機会を増やすのと反対の圧力をかけるだろうから、この世界はやりにくい。でも、本当に耳になじむと、結構、楽しいのですよ。

ところで、現代音楽はとにかく新しい音楽のような印象があるかもしれないですが、古典派やロマン派とは違う音の動き方はどこか、チャント(グレゴリオ聖歌)に通じる部分や日本の雅楽などの伝統の民族音楽に通じるものがあると思っているので、それほど、難しいものでもないと思う。むしろ、津軽三味線や地方の太鼓の方がより現代音楽的なように思えてならない。

そういえば、先週末、参加した(というか、仕掛け人でもありましたが)セミナーで、講演者の方が視点の転換や問題の再認識にはどのようなトレーニングが必要なのか、といった話をしていましたが、音の循環や変奏などが複雑に入り組む音楽を聴いたり演奏したりすることはひとつのトレーニング手法だろうと思っている。こんなことを考えながら、今、危機を迎えているオーケストラ運営に、文化として、人間社会としての存在意義を見出したりもしている。

とかく、文字や知識、暗記といった左脳ばかりが取り上げられる現代社会だが、その実、芸術などの右脳の活用が大切だし、そのためには情操教育、音楽や絵画といった活動も不可欠なのだろう。それで思い出したが、優秀なプログラマや数学者にはなぜか、左利きが多く、珠算経験者も少なくない。右脳の発達が柔軟なモデリングを行うことにプラスに働いているのだと私は推察している。

もし、あなたやあなたの子供を優秀な設計者や計画者に育てたかったら、塾にばかり通わせずに、ピアノや珠算、習字などに通わせた方がいいだろう。しかもざまざまな音楽を聴かせ、絵画になじませることをお勧めしたい。少なくても音楽や絵画といった芸術は人生を豊かにすることだけは確かだ。

そういえば、芸術の秋が来る。

しもた屋之噺(105)

杉山洋一

今朝、時差ぼけで朝早く目が覚めたので、久しぶりにエスプレッソマシーンで淹れた濃いコーヒーと一緒にクッキーを齧りながら、コンピュータの前に坐りました。

一ヶ月ぶりにミラノへ戻ると、夕暮れはすっかり秋の気配に包まれており、拙宅の庭は無残に荒果てています。こう書くと、ペンペン草が生えているような、雰囲気がある朽ちるさまを思い描かれそうですが、実際のところは、自分より少し背が低いだけ、1メートル半はあろうかという、青青として立派な雑草に覆われた生命感溢れる茂みが広がっていて、畏れをなすというのか、手をこまねくばかりです。尤も、このさまを見る限り一月間、雨は充分に降っていたようですから、からからに乾いて辛い思いをさせたのではないと救われた心地もします。原稿を書き送ったら、まず隆々と繫茂する雑草を引き抜いてから、練習に出掛けなければならないでしょう。

今回三軒茶屋にいた時は、目の前の小学校の校庭で、今時分から朝のラジオ体操が始まります。夜になると夏祭りや盆踊り大会なども催されるので休み中でも賑々しく、近所から和やかに親子が集う様子からは、日本滞在中に聞いた幼児虐待、不明高齢者や孤独死など、地域のコミュニケーション不足による問題など嘘のようで、現在の日本社会の表と裏を垣間見る気がしました。

今回暫く息子を伊豆熱川の義父母に預けていて、暫く熱川の隣町の山の上にある保育園にも通い、皆と一緒に伊豆稲取のお祭りに参加してから東京に戻りました。毎日捕ってくるカブトムシやクワガタに餌をやり、海の上で打上げられる立派な花火大会を眺め、朝夕保育園への途すがら出会う野生の鹿や猿に驚いたりしながら、少しの間に逞しく頼もしくなったのには驚いたし、義父母や周りの人たちにすっかり頼ってしまいましたが、彼が夏休みらしい充実した時間を過ごせたのは、何より嬉しいことです。

お祭りのとき出かけた伊豆稲取漁港で、湯河原で網元をしていた祖父や、夏になるとバケツ一杯の磯蟹がとれた、その昔の船着場を思い出しました。眼前に茫々と広がる相模湾も、湯河原と稲取は多少離れていて表情も違うけれども、祖父が眠る湯河原の山の上から見える濃い蒼色で、同じ匂いがしました。

子守ついでに家人について静岡に出掛けた折には、畳張りの昔ながらの旅館に泊まり、小学校の遠足で訪れた東照宮のロープウェイに乗り、新設された猛獣館にシロクマを訪ねた日本平の動物園を日がな一日カキ氷片手にのんびり周ったのは、イタリアでは動物虐待問題で動物園が厳しく制限されているからでもあります。息子が三軒茶屋に戻ると、一時的に通う桜新町のインターの幼稚園との送迎を家人と分担しつつ、空いた時間は目の前の演奏会の譜読みで精一杯で、作曲まで手が回らないまま、果たしてミラノに戻ってきてしまい、今後どうやりくりすればよいのか途方に暮れています。

演奏会のリハーサルが始まった途端知った、古くからの友人の逮捕に、はからずも涙が溢れました。自分でもどうして泣くのか分からなかったし、知ったところで相手も当惑するだけに違いありませんが、リハーサルや演奏会の曲間、控室の灯りを暗くして一人考えていたのは、友人が今頃どうしているだろうかということでした。

演奏会の翌日、ミラノに戻る前日のこと、既に結婚して久しい家人と互いの家族が集まり、代々木八幡でささやかな結婚式を挙げてきました。無宗教なので当初挙式など考えたこともありませんでしたが、5年経ったら何かする約束は前からしてあったので良い機会はないかと考えていて、3歳の頃から通った篠崎先生の家の隣にある八幡さまを思い出したのです。境内のお寺には最初にヴァイオリンを習った篠崎先生のお母さまのお墓もあり、レッスンの前後境内で遊んだりさらったりした親しみのある場所という一方的な理由でしたが、イタリアで友人が近所の教会で挙げる式を思わせる素朴で温かいものになりました。

煩いほどの蝉しぐれのなか、杯を酌み交わしている間も近所の参拝客が目の前でかしわ手を打ってお参りしていたり、興味深そうに上がり込んで覗きこんでいたりと東京にいるのを忘れてしまう長閑さで、家人の艶やかな和服姿や息子の凛々しい羽織袴とも相まって、珍しく家族揃って落着いた時間が過ごせたのは貴重な機会だったと思います。

と、詰まらない雑感をつらつら書いているうち夜もすっかり明けてしまいました。目の前の酷い庭を片付けないことには練習にも出掛けられませんし、明るくなって気がつくと、暑気にやられたのか目の前に哀れな椋鳥が斃れていて、穴を掘って埋めてやろうと思います。もう一杯エスプレッソコーヒーを淹れたら、煩い蚊を覚悟して庭に下りることにいたします。

(8月29日ミラノにて)

オトメンと指を差されて(27)

大久保ゆう

オトメンと夏はきっと相性が悪いのです。そりゃあ個人的に苦手だというのもあるのかもしれませんが、それにしたってできることが少なすぎやしませんか。ねえ、ねえ、ねえ!

女の子なら浴衣だ水着だときゃっきゃできることはあるのでしょうが、正直のところ男の水着なんてどうしようもないものでしかないし(短パンかブリーフかサーフパンツ云々)、男+浴衣のイメージなんていまだに温泉から上がってきたばかりのおっさんから離れられず、じゃあ甚平を見てみるとオトメンというよりはどっちというとヤンキー方面へとデザインがシフトしていくという次第で。

夏にできること? 夏にできること? 夏にできることといったらいったいなんだー! サーフィンもキャンプもオトメンじゃないよなあ……凝った料理を作るにしても夏のキッチンは灼熱地獄、ファッションにしても服が重ねられたり組み合わせたりできるからこそ元々少ないというか乏しいというかそういう男物の側面を補えるというのに、薄着って遊ぶの難しいんだよお……

とまあ、夏のオトメンがいったい何たるものなのかいまだ見つけられずにいた私なのですが、先日(いやひょっとすると数年前から)、もしかすると盆踊ることなのかもしれないという訳のわからない糸口をとうとうつかむに至ったのです!

何時間も同じ仕草でエンドレスに踊り続ける! そしてトランス状態つまりボンダンサーズ・ハイ、これこそオトm……ごめんなさいやっぱり無理でした。

昆虫採集・潮干狩り・花火大会、いろんなイベントを思い出して結びつけようとしてみるものの、どうもしっくりこなくて。どうやってもオトメンがメイン張るようなものでもありません。私自身もイベントやお出かけは嫌いでないのでよく参加するんですが、つながらないというのはいったいどういうことなのかと。そんなとき、ある人がこんなことを私に言いました。

「毎度、保護者お疲れ様」

――はっ! そうだったのか! オトメンは同年代や年下の人間と一緒にいると、なぜか母性を発揮してグループをゆるやかにまとめたり遠くから見守ったりしがち。だだをこねる友人たちをなだめたり迷わないよう引率したりそれだけで疲れてしまって自分の楽しむ余裕がなくなったり。

夏がバケーションの季節である以上、夏のオトメンが常に保護者であり続けるのは避けられないことだったのです!! やむなし! 夏休みなんて休みじゃなかったんだ! そうなんだ! わあい!

で、私はもうバテバテ。へろへろりん。秋が来るのはまだなのかな。まさしくオトメンの季節なのに。小さい秋はどこなのでしょうか。

小さな翼

若松恵子

ギターを鳴らし、唄うというスタイルのミュージシャンに心魅かれている。近くでコンサートがあれば聴きに行きたいと思うのは、三宅伸治、石田長生、そして仲井戸麗市。注意深く情報を追いかけていなければ見落としてしまうような宣伝力だけれど、3人ともとても勤勉に唄う仕事を続けている。ロックというイメージとはむしろ正反対のコツコツと、という仕事振りだ。

この夏に偶然、3人の演奏を聴く夜が続けてあった。「30歳以上は信じるな」なんていうことはもう言われない時代だけれど、そんな合言葉を知っている世代が、年を重ねてもなお子どもみたいにやわらかな心で唄っている。かつて、仲井戸麗市は「大人の意志で子どもを生きてる」と唄ったけれど、「大人になりたくない」と駄々をこねるのではなくて、大人として勤勉に暮らしながらもなお、「昔憎んだ30歳以上」になってしまわない姿には、年を重ねることも悪くないなと励まされる。

仲井戸麗市などは、還暦を迎える年齢だというのに、ますます初々しい。いつまでも、どうしても何かに慣れることができないという姿だ。どうしても慣れることができないものとの摩擦、どうしても手離したくないものへの思い、そこから彼の唄が生まれてきているようにも思う。年をとるたびに平気で慣れていってしまう、平気で手離していってしまうという事が、信用ならない大人(30歳以上)になるという事であるようだ。そういえば3人ともキャリアを重ねているというのに、まだステージに立つことに慣れていないような振る舞い方をする。そんなところも共通した魅力なのだけれど。

8月最後の日曜日、山中湖で行われた野外フェスで、仲井戸麗市は親友忌野清志郎にささげる演奏をした。本人はそんなコメントを一切しなかったけれど、熱心なファンにはみんな、その思いは伝わっていたのだった。

持ち時間の最後に演奏されたのは、ジミ・ヘンドリックスの「Little Wing」。ロックが好きな人には、曲名を言っただけであのサウンドがよみがえる名曲だ。どこまでもどこまでも伸びていくギターのメロディー。「空から降りてきて僕を救ってくれ」というマジカルな歌詞。心をどこか遠くまで連れて行ってくれる、あの曲自体に小さな翼がはえていたのだと今になって思う。仲井戸麗市が手離さないものは、「Little Wing」を聴いて共振する心なのかもしれない。この曲を「いいね」と言い合った親友への共感も含めて……。

大事な友を失ってから2回目の夏。「Little Wing」に重ねて彼がつけた歌詞を聴いていると哀しみは決して消えることがないのだと感じる。いつまでたっても慣れることなんてできない哀しみがはっきりと見える。

忘れられた君

笹久保伸

忘れられた君の影は
忘れられた君の帽子の中にあった
忘れられた君の傘は
忘れられた君のズボンの中にあった
忘れられた君の夜明けは
忘れられた君の靴下の中にあった
忘れられた君の情熱は
忘れられた君のパンツの中にあった
忘れられた君の友人は
忘れられた君の響きの中にあった
忘れられた君の兄弟達は
忘れられた君の夕方の中にあった
忘れられた君の朝日は
忘れられた君の孤独の中にあった
忘れられた君の夜は
忘れられた君の骨の中にあった
忘れられた君の血は
忘れられた君の身体の中にあった

掠れ書き(4)

高橋悠治

7皮膚の内側と外側の関係。内側と外側を同時に感じながらうごいていく。入口と出口をもつ一本の管。外側と内側を結ぶ狭い空間。身体を裏返すと世界全体が皮膚の内側に包まれる。内側も外部のように感じ、自分の外側にいるかのように、背中から見る、あるいは上から見下ろしている感覚が、うごくひとの内と外のバランスのとりかたかもしれない。カフカのように世界の側に立つ、世阿弥の言う「離見の見」も、そのように醒めた感覚だろうか。

断食すると身体は敏感になる。だが、内部の貯えを使いながら生きるのには限界があり、一度は鋭くなった感覚は、やがて萎縮し衰弱する。洗練と退廃は紙一重。完全なシステムや方法があると思うのは錯覚で、それらはその時の障害をのりこえるための梯子や舟のように、使い終わったらそこに残して、先にすすむための手段。残すとしたら、隠されたシステムや秘法ではなく、だれの手にもなじむ程度にはみがかれている道具がいい。

高い音は早く消え、低い音はゆっくり消える。それは自然のように思えるが、ほんとうにそうだろうか。1960年に弾いたボ・ニルソンのピアノ曲「クヴァンティテーテン(量)」は、それをテンポに置き換えて、高い音ほど楽譜上の長さより短くするという、歪んだよみかたを演奏者に強いるものだった。シュトックハウゼンの「ツァイトマーセ(時間測定)」の方法を使ったもの。自然と思える感じを誇張すれば、安定感が強調される結果になる。

楽器の音に含まれる倍音をとりだして、もう一つの音として組み合わせれば、色彩的ではあるが、どこか平面化した音の空間になるような気がする。スクリャービンの神秘和音といわれる響き、ロスラヴェッツの合成和音といわれる響き。スペクトル樂派はどうだろう。伝統楽器の一音の多彩な音色(ねいろ)のかわりに、均等化された近代楽器の音を重ねて、音程関係の緊張度のちがいで多様性を創りだそうとする音楽は、和音の厚塗りで重くなる。音を重ねて複雑になればなるほど音楽は身動きできない狭い空間に入っていく。金魚鉢のなかの金魚のようにひらひらと浮き沈みはするけれど。

和声が複雑になり、転調が折り重なって、中心音が定まらない無調になり、そこにあらわれるすべての音を、バランスよく配分しようとする傾向は、12音や音列技法にたどりつく。配分の図式は安定指向と言えるだろう。和音が低音から組み上げられていく、その安定感が、めまぐるしく変わる表面の下で、見え隠れしながら、凧糸のように秩序に繋ぎ止めている。不協和音も対位法も、ドローンやビザンティンのイソクラティマ技法、カトリックのオルガヌムの昔から、神や王に奉仕する音楽のありかたそのままに、上に根をもつ逆さの樹の、地を掃く小枝となっている。

漂う水草や、呼吸根のからみあった複雑で隙間だらけの表面をつくるマングローブは、これとはちがって、中心をもたず、流れのままに散らばっていく。