オトメ ンと指を差されて(29)

大久保ゆう

常日頃唱えている「カントリーマアムは和菓子である」説に賛同してくれる人はいません。みんなあれを洋菓子だと言ってはばからないのです。しかしながらわたしはここでふたつの疑問を提示したいと思います。

一、古き良き時代のアメリカの手作りクッキーという定義がよくわからないこと。
二、このもっさりとした触感とほのかなあんこの後味はどう考えても和菓子のそれだということ。

ソフトクッキーにしてももっと何かこう違うものですよね。作ったり食べたりしたことがある人はわかると思いますが。やっぱりカントリーマアムは「カントリーマアム」という食べ物であって他の何ものでもなく、そうするとこれは日本で作られた和菓子だと考えていいのではないかと。

最近はきなこ味とか宇治金時味とかみそ味とかもはや和風であることを隠しもしておらず、そういった事情からも不二家が作っているから洋菓子なのですという思考停止に陥った派閥に易々と与することはできません。

そもそもショートケーキやミルキーだって和菓子ですよ! どう考えても!(Japanese Strawberry Shortcake and Japanese Hard Milk Candy!)

そんなわけでお手伝いのため今でも顔を出しているボランティアサークルでは、カントリーマアムが消費されるお菓子の第一位をぶっちぎりで占めており、新味が出ると誰ということもなくサークルに常備されているお菓子BOXに供給され、みんなして和やかに食しております。略して和食。

個包装に入れたまま電子レンジにかけてどろどろにしてしまったという猛者もいますが、ジャパニーズソフトクッキーを温めてもいいのなら、おまんじゅうだって同じことをしてもいいわけで、特に黒砂糖系のおまんじゅう(あるいは温泉まんじゅう)をちょっと温めても美味しいですよね。わたしはあれをそんなノリだと思っています。

何が言いたいかというとわたしは不二家を偉大なる洋風和菓子屋だと思っています。あと店舗販売の手作りお菓子と袋売りのお手軽なお菓子のどちらも作ってるというのはとってもえらい。どっちも好きなので。

男なのにこんなにお菓子スイーツと口走るのは、おそらく実家が日々お菓子の流通する文化にあったからで、近所の洋菓子屋さんからたびたび新商品のお裾分けなんかいただいたり、家族が何の前触れもなく普通の日に手作りのお菓子を作り出したり、どこからともなくおみやげが頻繁に届いて家族に配給されたり、なぜか季節の果物が食べきれないくらいに常備されていたり、お買い物についていったときには遊び場っぽいとこでなくお菓子屋に放置される子どもたちだったりと、そんな家庭にいたからだと思わないでもありません。とにかくスイーツと本だけは制限しない家庭でした。

スイーツ好きがこじれて、できればtwitterのタイムラインとかもお菓子や果物のアイコンの人だけで埋めてみたいのですが、そんなアイコンをどうやって探していけばいいのか、あるいはそんなリストがすでに存在しているとしてどうやって見つければいいのか、というところでもやもやしています。

放っておいたらプリンとかケーキとかチョコレートがわらわらと流れてくるようにしたいのに。そうなればわたしもたぶんtwitterが気持ちよくなると思うんです。

だってほら、twitterって基本それぞれがそれぞれのエゴむき出しで、そこかしこにどや顔で名言っぽいこととか偏ったこととか変態的なこととかつまらないジョークとかを脊髄反射みたいに言い切って悦に入ってる人なんかがいて、それがリツイートされて勝手に流れ込んでくるような気持ち悪いところじゃないですか(「(キリッ、だっておwwバンバン」を自動的につけてくれないかな)。インターネットが人間の自我を拡張してさらけ出して垂れ流させるなんていうことは、昔から割と言われていることではありますが、これは極まった、と思ったりするのです。(一応褒めてるつもりで、否定しているわけではありません。)

まあでもわたしはそんなツイートの内容とかはどうでもいいので、お菓子ばっかり流れてくればいいな、スイーツが語るのならたぶん割と何でもいいと思うので、そんな感じにタイムラインを染めたいのです。

お菓子が政治の話をしたりエロい話をしたり鬱々とした話をしたりしてもいいんじゃないかな。twitterの本懐であるところの世間話だけを繰り広げる、ゆるゆるふわふわとしたスイーツだけの世界。

ああ、みんなお菓子になればいいのに。わたしはなりませんけど。

撒水象 ――翠ぬ宝73

藤井貞和

フジー・ゴーサラ(藤井貞和訳)

タカハシ・カズーミ「西暦紀元前六百年頃、耆那(ジナ)大雄と八年間の
苦業をともにした、後世、邪命(じゃみょう)派の始祖と名づけられる、
その人に八終局という思想があります」(『ジャシューモン』三)。
ゴーサラ「最後の飲酒、最後の歌唱、最後の舞踏、最後の誘惑、最後の
旋風と、そこまではわかるんです。 最後の石弾戦もわかります。
最後の撒水象って、何だろうな。 象が鼻で水を撒いたのかもしれません」。
カズーミ「最後の愛による最後の石弾戦は、石が華に変わるとき、
散り敷く華よ、きみに命じるだろう。 ――地底の神が33人を見捨てなかったように、
地上をも見捨てないならば、ちいさなちいさな愛の一つを見捨てずには、
そのちいさなちいさな命を二つ、三つと、餓死から救わないならば、
それが報道されずには、知らされぬままに終わるならば、ここから消されるならば、
天上は最後の撒水で世界を大きな水槽にし終えることだろう、と知れ」。 

(理科部の電導についての発表で、おおぜいを前に、電極を大きな水槽にいれて、電圧をあげてもランプが点かないことを示すと、「水は電気を通さない」と結論づけました。銅線は電気を通す。硝子は電気を通さない。では水は電気を通すか。最初の子どもが器用にやって見せて、「はい、銅線は電気を通します」。つぎの子が、「硝子は電気を通しません」。ゴーサラの番が来て、不器用に何度もやってみせたあと、「このように水は電気を通しません」と結論づけたから、おおぜいがざわつきました。顧問の先生があとから、「その結論でよい」と支持してくれた。しょっちゅう、感電していた昭和20年代で、ぬれた手で電気をさわるなと言われていた時代に、ちょっとした勇気の要る研究発表でした。「撒水象」から思い出した。でもどうつながるのか、よく分からない。粘菌〈?〉の生殖について1ヶ月調べて発表したこともあります。)

鹿児島

仲宗根浩

十月のはじめに鹿児島に行った。コンサートを見るために。
空港から鹿児島中央駅まで直通バスで四十分。むかしの西鹿児島駅は再開発されビルの上に観覧車が乗っかっている。三十年前、熊本駅から急行で四時間かけて西鹿児島駅に着き、駅から出ると確か花時計があったような記憶がある。港からクィーン・コーラルという船に乗り沖縄まで行った。午後六時出港の船は翌朝六時に奄美の名瀬港に着き、一度起こされる。途中の離島に寄港し那覇港に着いた。途中、鮮明に覚えているの与論島の港だった。甲板から見る海は底が見え、魚が泳いでいるのも見える。与論の港はいまもあのままの透明な海だろうか。

そのときは通り過ぎるだけの鹿児島市内だったけど今度は二泊三日。ついてすぐ、空港からバスで鹿児島中央駅前に着き、ホテルにチェックイン。コンサート会場までのバス乗り場を確認後、時間になるとバスでコンサート会場まで移動しライヴを楽しみホテルに戻る。出発する数日前から家族の冷たい視線を振りほどき鹿児島まで来た貧乏旅行。二日目、コンサート以外興味なく、どうせならずっとホテルの一室で朝から二日目の開場時間までうだうだと過ごしたいのだが、お部屋の清掃というものがあるためその間は部屋を出るしかない。近くのコンビニで朝食を仕入れ、川沿いの公園で食べる。大久保利通の像がでかく立っている。別の場所には幕末の薩英戦争を説明するパネルや島津斉彬のパネルやら。それを見ていたら立川談志師匠の江戸っ子の定義、維新のときに佐幕か勤皇のどちらにつくか、というのを思い出した。パネルに書かれているのは勝者の歴史だけ。

去年、沖縄の新聞では薩摩の侵攻から四百年、明治の琉球処分から百三十年、という記事がいくつか出ていた。特別に被害者、敗者のことを声高に言うほうじゃないけれどパネルを見ていると変な感じがした。勝ったものは勝ったもので、負けたものは負けたものでそれぞれ歴史を観光の道具にする。

それでも芋焼酎はしっかり飲み、今は黒を売りにしていることがわかる。

ある秋の日に ―― K・S へ

くぼたのぞみ

一日のいちばん澄んだ時間に
きみの詩を読む
いまにも泣き出しそうな
曇天の朝がいい
きみの詩にはいつも
全方位から風が吹いて
びゅうびゅう寒いこと寒いこと
だから
きみの詩集をひもとく窓辺は
無風の朝がいい

熱帯雨林や
砂漠が登場しても
期待される暑熱はない
なぜだろう
トロピカルという語が
極地を思わせる白さだ
風は
断片となったモノの内部から
烈しく吹きさらし
星の鱗まで剝がしていく

あらかじめ熱を奪われ
炎のように荒れる
見えない海を見つめるきみは
(そしてわたしは)
やがて なにものかの欠片となって
眼球の表から彷徨い出し
幻視する 
あたうるかぎり
分け
分けられた
粒子 原子 壊れた単位の 
それを
この世のしずく 
しぶき あわ 飛沫 うたかた
などと
口中でころがしてみても
どれもこれも嘘くさく

宙吊りの曇天の下
行と行のすきまに
スタンザとスタンザのあいまに
時空の具体を超え
消音の響きを想起させる
きみの強靭な意思と髑髏のような姿が
それでも
脱ぎ捨てられない懐かしさに
生きることの空へむかって
慟哭の赤い尾を引く

犬狼詩集

管啓次郎

  17

教室でふたこぶらくだが眠っている
泉を欠き空調機がうなる人工の空間で
トィックトィックと足音を立てながら
アスファルトの回廊を歩いてゆく夢を見ている
かれらのキャラバンサライはいくつかの
地平線を後退したところにある
それからかれらは夢の砂漠で
道案内のいない隊列を進めてゆくだろう
交易圏が拡大し
固有の信仰が意味をなさなくなり
共同体がその基盤を失い
デフレーションが貨幣経済を動揺させても
若いふたこぶらくだの群れは日々の進行を自明のものとして
肉体にも精神にも負荷を与えることなく
どこまでもつづく隊列の夢を見ているだけ
月を読まず、星を知らず、言葉もなく

  18

この教室が森になればいい
あまりに濃密な葉叢が昼を暗くし
気温を低くし脳と筋肉を発熱させる
獣や虫たちの生気に空気がビリビリと震える
この教室は沙漠になるべきだ
遠い視界が紫の山々をゆらし
サボテンのおばけ群衆が国境にむかって歩く
雨雲はかれらにとってくろぐろとした希望
この教室には渓谷であってほしい
河川の水量の変化にしたがって
流れの経路は歴史的に変化し
植生は差異の河原で栄枯盛衰をくりかえす
この教室は海岸に変わってくれ
打ち寄せる波にヒトは反復の意味を学ぶ
水平線を見ながら航海術の必要を自覚する明日
船出の背後にあるのはこのterra firmaへの絶望

アルビル・ピースマラソンと臓器移植

さとうまき

僕が、アルビルにいるときに、「ピースマラソンなる行事があるので、走りませんか」とのお誘いを部下からいただいた。大概のお誘いには好奇心から応じるようにしているが、マラソンは考える余地もなく、「いやー。そもそも、走っているだけで、苦しい思いをしてて、全然ピースな思いもしないだろう」

先日も、イラクのドクターたちとサッカーをして、しんどかったが、チームの一員として協力できた充実感は、とてもピースな気分になれた。が、どう考えても、マラソンは、拷問のようで、ピースなイメージはない。

結局、日本代表としてうちの事務所からは、ケイコとタケノリが走ることになった。応援に行くと、300人くらい集まっている。外国人は20ドル登録料を払うのだが、収益がクルドのNGOへ寄付されるという仕組み。クルド人のNGO職員がイタリアでチャリティマラソンに感化されやってみようということらしい。

日本人が参加するのが珍しいのか、イラクやアラブ諸国のTVがたくさん取材に来て、タケノリに取材が集中。まるでスター選手のような扱い。

みんなおそろいのTシャツを着て走る。よく見ると、「臓器移植のために走ろう」と書いてあり、肝臓をキャラクターにした漫画も描かれている。このマラソン、臓器移植のための資金集めらしい。臓器移植は、貧しい子どもが臓器を売ったり、特にイラクでは、アメリカ兵が、イラク人を拷問死させ、新鮮な臓器を取り出し、移植用に売買していたとの噂があったりと、賛否がわかれる。
タケノリに聞くと
「え!そんな話、聞いていませんよ?」
「Tシャツに書いてあるよ」
「わあ、本当だ。知らなかった」

マラソンの順位で臓器の健康度が測られ値段がつけられる? その場で倒れ、死んじゃったら、臓器がとられる? なんとも恐ろしいマラソン!

企画したのは、イタリア人。ニコラスさんによると、
「私たちのゴールは、世界の人たちが、特に若い人たちがスポーツをとおして、共感しともらえればいい。私は3回目のイラク訪問ですが、こういったイベントを通して、イラクが彼らのうちにある分裂を乗り越え、早く、政府を形成するよう願います」という。

クルド側の主催者は、非暴力協会。マラソンを通して、暴力を乗り越えようという趣旨らしく、臓器移植の話はよくわからない。

さて、実際のマラソンのほうは男子は10km、女子は5kmということで、ケイコは、16位。「イヤー死ぬかと思いました」と倒れこんだ。他にも倒れこんでいた人が数名いたが、死者は出ず、タケノリも、かなりおくれてのゴールで完走。
「何とか皆さんの期待にこたえられたのではないかと思います。〈僕の走りが〉平和につながることを期待します」という立派なコメント。

途中でリタイヤしかけた人も、車でゴール前まで運んでもらうなど、とても和やかでピースなマラソンだった。その後、臓器をとられたという話もきかない。どうもTシャツは別のイベントであまったものが寄付されたらしい。来年はバグダッドを目指そうともりあがっている。

アジアのごはん(36)肉骨茶をめぐる八角物語

森下ヒバリ

マレーシアのクアラルンプールに行ってきた。マレーシアはじつに十年ぶり。クアラルンプール在住十七年のヒロカワ氏が車で空港に迎えに来てくれる。「今回は、肉骨茶(バクテー)研修旅行だからね。肉骨茶の聖地とか、有名店とか、チャイナタウンの店とか色々案内するからね」と、車の中でヒロカワ氏。

ちょうど、共通の友人が日本とバンコクから遊びに来るのに合わせて、わたしと連れもタイからクアラルンプールにやって来たのだが、日本から来る友人ミントちゃんは、先日ヒロカワ氏が日本に一時帰国した際にお土産でもらった「肉骨茶の素」で作った肉骨茶がすっかり気に入り、仲間内で「肉骨茶同好会」なるものまで出来上がっているほどの入れ込みようである。もちろん、ヒロカワ氏自身が大の肉骨茶好きでその仕掛け人だ。「毎日、肉骨茶ぁ? 肉骨茶は好きじゃないから、不参加ね。一回ぐらいは食べてもいいけど〜」じつはヒバリもお土産で「肉骨茶の素」をたくさんもらったが、匂いをかいですぐに友人にあげてしまっていた。「え、ええ〜」

さて「肉骨茶」とはいったい何なのか? 肉骨茶は、バクテー(Bakkut teh)と読む。中国の華南地方、潮洲の言葉でバッが豚で、クが骨、テーは茶。(潮洲は福建省の広東寄りの地方である。マレーシアには中国からの移民、華人が多く、そのほとんどを華南の広東省と福建省の出身者、民族的には広東人、潮洲人、客家人、海南人などで占める)肉骨茶とは、つまり骨付き豚バラ肉(スペアリブ)のスパイス煮込みである。スパイスは八角、クローブ、シナモンなどいわゆる中華の五香粉の味をイメージしていただくといい。

スペアリブやホルモンをこのスパイスとニンニク、甘みのある中国醤油で柔らかくなるまで煮込み、湯葉、戻した干しシイタケ、白菜などを加える。出来上がりに、カリカリに揚げた湯葉や、緑のシャキシャキしたレタスを鍋の上にトッピングしたり、中華揚げパンの油条をちぎっていれたりしてもいい。中国茶を飲みながらごはんと食べる。

ルーツは潮洲料理だが、肉体労働者として連れてこられた中国人苦力の朝ごはんとしてマレーシアの中華社会で独自に発展・定着した。大鍋でぐつぐつ煮たものを小鍋に分けてもらい、米の飯にかけて掻き込むのが本来の食べ方である。いまや、屋台だけでなく専門のレストランまであり、朝だけでなく夕食にも鍋料理ふうにして食べるほど人気だ。

ヒロカワ氏の案内で出かけた店は、肉骨茶専門店で、ガイドブックにも乗っている有名店であった。どうせならもっと通な店にしてほしいなあ、と思いながらも肉骨茶以外のメニューもたくさん注文する。

大きな土鍋で出てきた肉骨茶からは、かすかに漢方の香りが漂う。じつはわたしはこの漢方スパイスの八角が、ダメなのである。この店の味付けはあまり八角が多くなく、思わず口から吐き出す、という事態には至らなかったのは幸いであった。一緒に食べている人が吐いたりしたら、同席している人はさすがにいい気分はしないであろう。ヒバリはこの八角というスパイスをうっかり口に入れると、体が拒否反応を起して、げろりと口から出したり、激しく吐いたりしてしまう。匂いをかいだだけで、もぁ〜んと気分が悪くなる。これは、好き嫌いの問題ではなく、アレルギー反応なのである。

八角は、スターアニス、または大ウイキョウとも呼ばれる。モクレン科の樹木の果実を乾燥させたものである。東南アジア原産で、他の地域では育たない。中国では古から愛されたスパイスで、豚肉やカモ肉の煮込み、甘い料理、お茶やコーヒーに加えたりもする。星型の可愛らしい形で、甘い香りがある。

アロマテラピーの本を読んでいたら、スターアニスは、食欲増進、健胃、吐き気を抑える、利尿作用などの作用を持ち、消化器系によいスパイスではあるが、神経系を刺激しやすく、アレルギー体質の人の使用は避けるようにとの注釈がついていた。なるほど、八角自体がアレルギー源ではなく、神経系を刺激するという性質なのか。

アレルギー体質で、食物では大豆、乳製品、ある種の酵母、ナッツ、小麦胚芽などなどに拒否反応を起こし、花粉症、ぜんそくもある身としては、八角は避けるべきスパイスであるが、身体の方が先にちゃんと避けてしまう。乳製品などの食べ物のほうは、ある程度食べて気分が悪くなるとかの症状が出るまで、身体は拒否しないことのほうが多いので、やっかいである。

八角味が薄そうなので、どんな味かと肉片を一つ食べてみた。う〜む、ふつう。シイタケと白菜を食べてみた。う〜む、ふつう。まあ、ヒバリはこれから一生、肉骨茶を食べなくても生きていけます。甘めの味付けがあまり好みではないのかな。いや、むしろもっとすごくおいしい店に連れて行かれていたら、アレルギーに苦しみながらも肉骨茶のトリコになったりしても困るから、こういうふつうな味のレベルの店でよかったのかも。

後日、肉骨茶の発祥の地といわれるクランという場所で食べた肉骨茶をミントちゃんはほめていたので、美味しい肉骨茶はちゃんと存在する、らしい。

華人の多いタイにも、八角風味の煮込み料理がある。タイの中華社会は潮洲人が圧倒的に多い。肉骨茶とまったく同じものはタイ中華にはないが、同じような味の料理はある。カイパローという豚バラ肉とゆで卵と厚揚げのスパイス煮込みである。カイパローは中華の枠を超えて、タイ人にも愛される庶民料理だ。一皿料理にしてもいいが、ごはんの上にかけて食べてもいい。あとはアヒル肉の煮込み。その煮込みを乗せたごはん、カオ・ナー・ペット。どれも味つけはかなり八角風味の強い漢方スパイス・甘い中国醤油味だ。

肉骨茶研修ツアーには参加しなかったが、夜はみんなでごはんを食べた。ビールを飲んでまったりするには、お酒の飲める中華系のレストランや屋台がいい。
「ねえ、クアラルンプールの中華ってけっこうおいしいと思わへん?」同じくマレーシア十年ぶりの連れに聞く。「ほんまやね。タイの中華よりおいしいぐらいかも」クアラルンプールの屋台で食べる中華の麺や料理は、各地域の中華料理のルーツを保ちつつ、本土よりずっとおいしいのである。レストランにしても然り。

十年前まではビザの書き換えなどでよくタイからマレーシアに来てはいたが、マレーシアなのだからマレー料理を食べなくては、と思い込んでいたフシがある。だが、どうにもマレー料理になじめなかった。料理に興味の持てない国からは、自然と足が遠のく。

今回クアラルンプールに来て、料理を通してマレーシアの華人社会にやっと目が向いた。人口の25%を占める華人。その華人の出自には四種類ある。英国植民地時代にスズ鉱山や港湾労働者として連れてこられた、貧困層や農民出身の華人であるククット(苦力)系をルーツとする華人。彼らはほとんど奴隷のように扱われたという。中国籍を保ちつつ貿易や商売をした華僑の、子孫の華人。そして植民地時代に英国籍を持ち支配階層として君臨した富裕な貿易商の子孫であるプラナカン系華人。さらに植民地時代の後、共産党中国から逃げて移住してきた華人たち。

肉骨茶とは、ククット系華人の育てた汗の匂いのするソウルフードだったのである。植民地という時代を経てマレーシアの華人社会は独特の成り立ちがあった。チャイナタウンは同じような顔をしているが、潮洲人中心でタイとの同化も進んでいるタイの華人社会とは中身がまったく違っていたのだ。

ゲストハウスの華人の女主人は四十代で若々しく、9999ナンバー(ベンツと同じくらい高価)の白いベンツを乗り回し、ナイトクラブも経営する実業家であった。親の代からお金持ちだったのかと尋ねると「父親は金持ちだけど、十人も奥さんがいる男で、一銭もお金はくれなかった。すべて自分で築き上げたわ」と笑いとばした。クアラルンプールにはまだまだ華人パワー健在であります。

季節も早いもので

大野晋

まず、最初に。都響の2011年楽季のスケジュールを見ていたら、定期公演の欄にしもた屋の杉山さんのお名前を見つけた。2012年1月の演奏会なので、鬼が笑うどころか、鬼が寝込むかもしれない話題なのだが、レギュラー演奏会である定期での指揮を楽しみにしたいと思う。曲目はブーレーズらしい。

さて、今年は夏の暑さが長引いたせいか、なかなか、秋になってからの季節の移り変わりが早いように感じている。それに輪をかけて忙しく、このごろは行方不明、消息不明状態になっていることも珍しくない。疲れ果てているか、眠っているか、咳き込んでいるかというのが最近の毎日のようにも感じるが、ゴールも見えて来たようで、来年の夏には家の建て替えが終わりそうだ。構想1年というか、交渉1年。いやはや、自分の思いを伝える仕事をして初めて知る、伝える苦労である。きちんとできあがればいいが、果たしてどうなるか? まだ、8か月も残っている。

そろそろ、日本も北海道辺りでは雪の便りも聞こえ出した。今年は遅くまで暖かく、寒暖の差が少なかったからと、紅葉の具合にはすでに諦め気味である。今年と言えば、サンマがなかなか南下せず、ホタテガイの養殖が不調なのだそうだ。ただし、こういう暑い年はぶどう酒用のブドウはなかなかに糖度が高い傾向があるので、来年早々から出回る国産のヌーボーの味は期待できそうな気がする。しかも、松茸は豊作なのだそうだ。(そうだ、食べに行こう)

うーん。あっという間に秋も後半戦だ。こういうときこそ、体調を崩さないようにお体に気を付けてくださいね。

ふんどし校長へのオマージュ

冨岡三智

川村たかし(故)著の児童文学『ふんどし校長』(1974年)をご存知だろうか。いまどき――と言っても1970年代のことだけれど――ふんどし姿でプールに現れる校長先生の話が、ひよわな男の子の視点を通して描かれる。確か、こんな話だった。実はストーリーについては全然覚えていなくて、ネットでこの本の書評を検索しているうちに、思い出してきた次第。しかし、私にとっては、この主人公の男の子の設定や物語の展開は実はどうでも良いことで、ふんどし校長の存在こそがなによりも重要だった。というのも、このふんどし校長のモデルは、実は私の大おじなのである。

その大おじが10月20日に亡くなった。享年94歳。長田(おさだ)先生といったその人は、若い時から校長という職業が本当に似つかわしい人だった。私が小学校に入学したときの校長がこの大おじで、大おじは、自分の住んでいる地域に久しぶりに転任してきたときに、親戚の子(私)がそこに入学したというので、ずいぶん可愛がってくれた。

ふんどし姿でプールに現れるというのは本当の話で、夏のプールの時間に、突然校長先生がその恰好で現れることがあった。ふんどしというものを生で見たことがない子供たちは、その姿を生で見ただけで大騒ぎする。そこに、校長先生がプールの中に入っていって仁王立ちとなり、子供たちにその股下を潜ってみろ!と挑発したりするものだから、子供たちは嬉々として挑戦する。そんな風に子供に体当たりして、子供の気持ちをぐっとつかむ先生で、”熱中先生〜校長編〜”を地で行くような人だった。

通夜と葬式の会場の一隅には、古い家族アルバムが展示されていたのだが、そこには学校での生活の写真が多く貼られている。児童が糠ぞうきんで一斉に廊下を拭いている様子、校庭で体操をしている様子、歴史の授業中の様子、児童が味噌玉を丸めている様子…。おそらく戦前か戦後間もなくのものだろう。構図がうまいから、写真家が撮影したように見えるのだが、あるいは、大おじの写真の腕前は玄人はだしだったのだろうか。風俗写真としても貴重なものに違いない。そこには、町中の知識人として尊敬されていた、古き良き時代の教師のまなざしが写し出されている。

母が小さい頃、この大おじは同じ地区に住んでいた他の先生たちと3人で、毎週土曜の夜に通称「クラブ」というのを開いて、勉強の場を設けていたらしい。子供たちは自主学習し、分からない点を先生たちがそれぞれ教えてくれるというシステムで、勉強の遅れがちな田舎の子供たちの学力を上げるために先生たちがボランティアで教えていたそうだ。それ以外にもキャンプなどの活動もあり、校長先生のボーイスカウト活動の人脈を生かして他地域の子供たちと交流をしていたらしい。そんな活動の一環だろうか、児童たちの演劇発表会の写真などもアルバムに収められている。

そういう先生としての写真以外に、ちょっと硬派だったらしい男子学生の面目躍如という写真もある。大おじは高校生の頃にカメラを入手したのか、その頃に級友を撮った、あるいは撮ってもらった写真が多い。級友(男ばっかり!)を10人以上も写していて、それぞれにあだ名が書き込んである。また「吾輩」というタイトルの下に、撮影者の級友の名前(全部違う)を記して、自分は何かになりきってポーズをつけた写真が並んでいる…。こんなナルシストの一面があったとは! それに、川で級友たちとふんどし姿で撮った写真が多い。ふんどし校長のルーツはここにあったのだ!引き締まった肉体で、やっぱり恰好良い。

この大おじの夫婦は、毎年写真館に行って家族写真を撮ることにしていた。アルバムには、良き父、良き母、良き二男一女の子供たちが、一張羅を着て、お澄ましした顔で並んでいる。遺影の写真も、そんな家族写真のうちの一つから撮られている。それは今から50年くらい前の写真なので、大おじはえらく若すぎる顔で笑っている。ふんどし校長の時代よりもっと前の写真だ。けれど、そんなに違和感がない。イメージの中の校長先生は、いつもこんな顔で笑っていた。それに、たぶん昔から老成した顔だったのだ。

この校長先生は、母親を早くに亡くし、父親も師範学校を出る頃に亡くし、さらに肋膜炎にもかかり、出征していた間に継母が新妻(先妻)を実家に返してしまい…と恵まれないことも多かったのだと母は言うが、そんなことはみじんも感じさせず、私の頭の中でも、このアルバムの中でも笑顔で写っている。同居していた娘も今年学校を定年退職し、孫娘ともども介護してくれたそうだ。そしてその子供、つまり校長先生のひ孫も今年高校1年になる。校長先生は満を持して逝ったのかもしれない。友達に恵まれ、児童に恵まれ、子孫に恵まれて、ふんどし校長の名前を残して…。

しもた屋之噺(107)

杉山洋一

不思議なものです。前にこのカヴァレリッツァ劇場でオペラをやってから、もう4年の月日が流れたとはにわかには信じられません。今は演出稽古と衣装、照明の確認のための通し稽古の間の2時間の休憩中。そろそろ日が暮れてくる目の前の赤壁の前をゆきかう家族連れや学生をながめながら、原稿を書いています。

今日は土曜日。唯一の休日だった昨日をミラノと家族で過ごし、朝一番の急行でレッジョ・エミリアに戻ってくると、遠足にでかけるらしい幼稚園児なのか、新小学生なのか、スモッグをきた子供たちが列を組んで観光バスに乗り込んで、沿道の通行人に笑顔で手を振っていました。
いつも思うのだけれど、この街は不思議な空気が流れています。大学生が溢れ、若者のエネルギーが見ているのだけれど、混沌としたところがなく、道路の枯葉もきれいに掃かれ、誰もがもくもくと自分に与えられた仕事をこなしているのです。
劇場で働く誰もが、ほとんど4年前と変わらず、ヴァッリ劇場の受付の色黒の明るい中年女性も、カヴァレリッツァ劇場の受付のひとたち、舞台の裏方まで、本当にまるで時間がもとに戻ったかのように、3年前のちょうど今頃、サー二のオペラをやったときのままです。ただ、練習しているオペラが違って、演出家が違い、歌手が違い、今回は劇場俳優も3人いて、休み時間には彼らが長い台詞をつぶやきながら、舞台を歩いて静かに稽古をしています。

チョムスキーの提唱する言語学の説明から経済学へと議題は発展し、ネオ・リベラリズム、グロバリゼーションのディベートにまでスタジオでのTVショー形式で発展し、最後は関係者全員が舞台に下りて、自分たちの自由を叫ぶのです。目に見えないマスメディアやコマーシャリズム、正義のための戦争によるわれわれの自由の破壊を超えて、最後は誰もが同じ平等な立場で、自由を叫ぶ。そういうプランを演出のフランチェスコ・ミケーリは情熱的に説明しました。

小さな細胞のようなフレーズを無限にフラクタルに拡大してゆくカザーレの音楽は、樹木をさかさまにしたようなチョムスキーの文章の分析作業をそのまま音に移し変えたようで面白く、売れっ子エンターテイナー,クリスティーナ・ザバッロー二の歌も、めまぐるしく変わる声色を自在に変えて、それは見事はものです。

毎日カザーレと昼食をともにしながら、本当にずいぶんたくさんの話をしました、そんな中で、ひょんなことから、彼と92年、シエナのキジアーナ夏期講習で一緒だったことを知りました。彼はその頃ちょうど作曲をやめていたころで、ペトラッキのコントラバスの講習を受けにシエナにきていたのです。
その少し前、彼はとあるシチリアの高名な作曲の教師のもとで作曲を学び始めたところでした。はじめ、レッスンに出かけると、その教師はまず彼の父親が職業を聞いたそうです。林業だというと、そりゃ駄目だな、と首を振ったということです。

初めに提示された10万リラのレッスン代は払えないというと、仕方がない半額の5万リラでいいと言われたそうですが、彼は同時に別の部屋で二人の生徒にレッスンをしていたそうです。こちらの生徒に課題を出して隣の部屋で同じことをいい、またこちらの部屋に戻ってきて5万リラ。その上、書いてよいものは制限された古典的なスタイルだけでした。
少しモダンな作風で書いてゆくと、こんなものは100年早いと怒鳴られるありさまで、ついに怒り心頭に達して、宿題の作曲に4小節ほど「死と乙女」の2楽章をそっくり引用してみたところ、案の定、なんだこれは、と怒鳴られて全て直されたことが切っ掛けで、作曲が馬鹿馬鹿しくなってやめてしまったというわけでした。

それから暫くして、先述のぺトラッキの夏期講習に参加し、ときどきドナトーニの作曲のクラスに遊びに来ていたのです。そのとき作品を見せたドナトーニが、エマヌエレの作曲の才能を見出して勇気付けたのが、彼の作曲家への道を開いたのです。
「悪い教師に習うくらいなら、独学のほうがよほど身になる。教わって作曲できなくなるよりは、教わらなくて作曲できるほうが余程ましじゃないか」。彼は繰り返して言いました。
「だから、パレルモの音楽院で作曲を教えるようになったとき、生徒が作曲できるようになる手助けをしたいと思ったのさ」。

ですから、話を聞く限り、彼の作曲の授業の様子はなかなか興味深いもので、まず手始めに、自分の弾ける楽器を持ち寄って、とにかく集団で即興演奏を繰り返します。
そうしながら、生徒はまずアフリカの民族音楽などを手本に、さまざまなリズムを勉強する。無限に変化し続けるリズム、フレーズで戻るリズム、2拍子系、3拍子系のポリリズムをかなり複雑なところまで学んで、リズムだけを作曲するのが1年目。つぎに、楽器や音色を電子音楽の基礎やスペクトルなどと共に学んで、1年目に作ったリズムに音高を当てはめてゆくのだそうです。同時にさまざまな作曲家のスタイルを分析しつ勉強していきます。

ドナトーニやブーレーズ、ベリオ、シャリーノ、クセナキスのような世代から、フェデーレなど中堅の世代まで、できるだけ多くのエクリチュールに馴れて、自分で真似して書けるようになってから、自分の作品の作曲に入るのだそうです。
これは恐らくエマヌエレが実践したプロセスだったに違いありませんが、まずリズムから入るというのが面白く、実用的な気がします。
彼がロベルト・ファッビと一緒に書いたトーク・オペラ「チョムスキーとの会話」の台本は次のとおりです。 →  台本を読む

3人の俳優、1人の歌手、小オーケストラとヴィデオのための「チョムスキーとの会話」は、最後に10秒ほど実際のチョムスキーの近影がヴィデオで投影され途切れるところで幕となります。
ノーグローバルの激しいデモの印象くらいしかなかった自分には、考えさせられることの多い経験でした。何が正しいかという判断は自分には出来ないとしても、事実の片鱗程度は頭に留めておきたいとも思うのです。

(10月6日レッジョ・エミリアにて、29日ミラノにて)
追伸: カザーレと長年一緒に勉強しているロクルトの2作品が11月3日東京の入野賞30周年記念演奏会で演奏されます。ロクルトはこの機会に東京を訪れるのを愉しみにしています。
http://www.youtube.com/watch?v=8jD9emxncRo

ちんけな男

植松眞人

『ちんけ』という言葉がある。辞書を引くともともと賭博用語で「最低」とある。つまり、『ちんけな男』と言えば、最低な男という意味になる。それに語感からのイメージからなのか「小者」的な印象も与えられる言葉である。

とまあ、意味を調べれば調べるほど、『ちんけな男』という貶し言葉は、かなりの威力を秘めた言葉だということがわかる。どうしても馬の合わない男同士の喧嘩や、場合によってはヤクザ者同士の喧嘩にだって登場しそうなくらいに毒を含んだ言葉だということに異論はないでしょう。ありますか? きっとないはずです。あれば言ってください。

さて、ここにこの最大級とも言える貶し言葉を面と向かって吐かれた男がいます。はい、僕でございます。吐いた相手は嫁。高校三年生、十七歳から付き合い始めて今年で三十一年目。結婚してから二十一年目を迎えた同い年の嫁がつい先日の夜中に、酔っぱらって私に言った言葉が「ちんけな男!」という言葉である。

聞き間違いではない。酔っぱらい特有の語尾がわかりにくい言い方であったなら、「ちんけ」ではなくもう少しエロス方面の言葉を言ったのかもしれん、という疑いも頭をもたげるが、それはない。そう確信できるほどに、はっきりくっきりおっしゃったわけである。「ちんけな男!」と。

確かに、ここ数年。リーマンショック以降、嫁には苦労のかけ通し。不景気の大打撃を受けている広告制作の個人事務所の金銭的な苦労もすべて嫁に背負わせ、「作ることと金の計算を一緒に出来ると思っておるのか」などと立場も考えずに言ったこともある。

しかし、しかしである。これまでに「ちんけ」という単語が彼女の口から出るのを聞いたことがない。口癖のように言っているならともかく、聞いたことのない言葉が、パーティで酒を飲み、いつもは酒に強く酔っぱらったりしない嫁が、どうしたことが悪酔いしてしまい、夜遅くに帰ってきて吐いた言葉が「ちんけ」である。

さて、ここで僕は考えるのである。嫁はずっと「ちんけな男」という評価を僕に下していて、ついに酔った勢いで言ってしまったのだろうか。それとも、本当に心にもない言葉を酔った勢いで言ってしまったのだろうか。

数日後、何食わぬ顔で「酒に酔ったときの言葉が本音だというのは本当なんだろうかね」と話をふってみたのだが、「そうとも言い切れないんじゃないの」と明るい笑顔で答える嫁。これではらちが明かない、というので、さらに訊いてみた。「いやいや実は君は僕に向かって『ちんけな男』と言ったのだよ」と。すると答えは「あの日のパーティであった誰かのことだと思うよ」の一言で終了。

それからほぼ二週間経っているのだが、一日に二度は「ちんけ」という言葉が思い浮かんでくる。そして、だんだんとその言葉に飲まれそうな気がして、奮起しなければと思ったり。
さては、これが嫁の戦略だったのか、と思うと、恐ろしくて夜も眠れない。

掠れ書き (6)小倉朗のこと2

高橋悠治

小倉朗の初期「ピアノ・ソナチネ」は1937年で、フランスの同時代、新古典主義の音楽の感覚に近かった。瞬間の知覚が古典的な形式の枠のなかに入れられている。これが音楽の同時代様式だったのだろうか。新しい響きと古い枠組みは、シェーンベルクでもバルトークでも共存していた。モダニズムは、自発的な響きのあそびという散乱に耐えられず、統合された構造の家に収容された。

1940年代、戦時下での孤立と戦後数年の交通の回復のあいだは、排他的な民族主義に加担したくなければ、残されていたのは古典への逃避だった。小倉朗の場合、それはドイツ・オーストリア古典音楽の模写になる。粋な響きだけでなく、持続への意志をささえる論理をみつけようとする試みだったとも言える。反時代的な方向が、その時代をやりすごす道となった。

作曲の技術なしには音楽は作れないが、音楽を作らなければ、技術はまなべない。模写をくりかえして身につける技術は他人のもの、ちがう時代、ちがう文化のもので、それを身につけた後に捨てなければ、いま心のなかで響いている音楽をかたちにはできないだろう。

作曲は分析でもなく、ことばによる解釈や批判ともちがう、音をうごかし、定着し、またうごかしていく作業で、その作用は外からは見えないが、そうだからと言って「達人の技」と神秘化するまでもない。一つの音に他の音が組み合わされ、一つの響きが別の響きに変化する、そういう流れが続いていくように心を配り、そのことに集中している時間が作曲と呼ばれるだけだ。音楽はただ時間のそって流れ去るのではない。流れのどこかに循環する回路がひらき、創るとは、すでに作られたものを作り直し、作り変える、つまりそれ自身のパロディーでもあるような関係の網がその内部にはりめぐらされたとき、音楽としての意味をもちはじめる。それらの関係が更新されている限り、音楽は停まらない。音楽はそれをその場で創りつづけている行為のあらわれである響きとなってきこえるが、行為の軌跡が作品として残されても、その分析から見える姿から、それを創った心のはたらきはこぼれ落ちていく。

小倉朗の世代の音楽家たちは、戦後ふたたびひらかれた世界のなかで、やっと同時代の音楽的課題にもどることができた。古典は記憶のなかの面影となり、はじめて現代史と対話する音楽が生まれるはずだった。加藤周一は「音楽の思想」(1972)のなかで、小倉朗の音楽を「形になった感情」と呼ぶ。戦時下の非合理な情念にさからって古典的な論理を構築した同世代の共感があったのだろう。だが、次の世代がすでに迫っていた。音楽をはじめたばかりで戦争によって中断された世代は、戦後出発した世代との感性の落差を埋めることができなかった。

加藤周一が「形になった感情」に対して「身体になった感情」と呼ぶのは武満の音楽だが、後から来た世代の音楽的感情は、これほど理解しがたいものだったのか。戦時下を耐えた古典的な論理は、もうその役割を終えて、共感をさまたげる壁となったのだろうか。

だが、戦後の解放された感覚にふさわしい音楽のかたち、断片をその散乱と逸脱のままつなぎとめる音楽的行為のネットワークは、まだ意識にはのぼって来なかった。前衛的な試みも、考えだされた規則に従って、切り離された構成要素を記号のように操作することに尽きる。音は音符であり、独立して空間のどこかに浮かんでいるオブジェのようにあつかわれていた。これはかたちを変えた古典主義ではないだろうか。「形になる」のでもなく「身体になる」のでもない、視線によって変貌するかたち、知的操作ではなく、身体的共鳴によって循環する変化を創る作曲の方法はすでにあるのだろうか。まだないとするなら、その徴を、書きとめた断片の集積のなかにさがしあてられるだろうか。未完成の建物、あるいは崩れかけている廃墟、進行中のノート、音の身振り、どこかに向けられるまなざし、一瞬の翳りが見え隠れする、隙間だらけの空間。

演奏によって死んだかたちをふたたび生かすのは、まだやさしい。再現や解釈ではなく、と言って、まったくの即興でもなく、反復でもなく、循環しながら即興的に変化し、伝承されたかたちを崩しながら、卵の殻からちがう運動を呼び覚ます、そんな演奏のありかたを思い描くことはできなくはない。響きが消えるまでの短い時間のなかに生きる音楽にとっては、演奏こそが本来のありかたで、作曲は補足的なもの、演奏への指示と結果の記録が、その分を越えて、それだけが創造であるようにふるまっているのだとも言える。

音楽の変化が現場からはじまるとすれば、それは歴史的身体の必要に応じて変化するだろうし、指示や記録方法の不適切は、後になって気づくこと、つまり作曲法の変化は、演奏の場の変化にいつも遅れて起こることになる。20世紀音楽史は、そうしてみれば転倒しているのではないか。それなら、そこに登場する作曲家や作品をエリート主義としてかたづけられるのか。ポップミュージックまで視野をひろげてみれば、実験とそのデザイン的な応用との相互作用は、コマーシャリズムや音楽ビジネスというだけではなく、表層文化の両輪が噛み合いながら回っていく。この音楽装置のなかで、相対的に自律できる場があるのか、そんな可能性は思い込みでしかないのか。

1950年代の小倉朗は、後になって「なぜモーツァルトを書かないか」(1984)のなかで「音の流れが進みながら、句読の和音(ドミナント)に向って盛り上がり切り立っていくその波頭や、砕けて散るしぶきの中に、あたかも夜光虫の光のように光を放つ感情」と要約されているような古典主義にたどりついた。それから日本語のリズムと抑揚に注目し、それも研究というよりは、じっさいにわずかな音をうごかしながらメロディーを作曲し、そのなかで発見していくプロセスだった。「日本の耳」(1977)は、その経験を書いている。

音楽的感情は、音楽の輪郭となるもの、それ(ら)は、分析の結果あらわれる構成要素や、計算された配列のように、分離され、定義され、操作されるというよりは、うごく音の全体として共有される。音楽が響くとき、さまざまな感じかたのちがいを包みこみながら、だれのものでもない空間がひらく。ちがうことを感じながら自由に歩き回れる場で、音そのもののあらわれから位相を移しながら、ちがいをそのままに人びとの心を通わせる通気口になる。それが音楽のもつ強さとしなやかさと言えないだろうか。

小倉朗が作曲から離れていこうとしていた頃に書いた「竹」(1977)という文章の一節、「だが、そうして竹の枝がほとんど露わになったある朝、竹全体が不思議なうす緑の光につつまれているのを見る」、竹の葉が枯れて飛び離れていった後に萌え出た若葉が逆光を浴びている瞬間、そこにそれぞれの意志と方向をもって飛び交う音を包む場の予感が感じられたのだろうか。