翠ぬ宝85――水の泡祭文

藤井貞和

仏桑華(ぶっそうげ)咲く天のうてなから飛び降ります白い衣裳は能の舞台か
ら借ります八万四千字が祈る曼荼   羅の南麓で世界から真言を集める花
かごの徒歩の列が続いていま  す疲労  が怨嗟に変わり怨嗟が疲労に代
わり果て眼下にもう終わっ  た都市を見て  いると不意に涙が湧いてくる一
人の聖人です神通力  はもうありません苦行は  ヒマラヤ山脈に捨ててき
ました静かな心臓  の音が水流を   転読し清冽  な空気にふれると思い
出すことと言っ  たら修行の日  の奥の  院の失敗  や浅瀬での禊ぎの
手抜きです  洗うのですか  なだらいに手  をひらひら  泳がせて快楽
は無限の  向こうから  望遠鏡でこちらへ呼  び込むのです  明けない地
壇の  暗部が未明という  よりほの明るく  て朱塗りの地底がそ  っと覗く
基部の  火山の砂があえか  な肌の羽  に匂いを立てました  そこからは
冷気です南  無かんなづきをゆ  るや  かに竹取が元年  の半分で待った
街の幻影は旧い  古代から新しい   面へすこし動く計  画の高地の互いの
海峡の嵐山が大悲  を乗せる奪うかたちの芸能者に  もだえは破線の系図の
嫌疑を打つ桟橋崩壊賛  歌は比叡をいくつか下  り業務はひたすら恐竜のの
ど元で探すこと朽ち果てた  天使の骨草の  深い大文字の高度を斜面で受け
止める経文は華厳も法相もお  しなべて  包む三千の眼の祈りです災いを許
しません認めませんないのですない  災いが降り注ぐ読経に影がありませんま
れびとのあとから南無阿弥陀仏

(迷路を出られない自分を図示します。9月25日に『東歌篇――異なる声』〈反抗社出版、カマル社発売〉を出しました。5〜7月の期間、ずっと調べていたので、書いたのは8月の短い時でしたが、記録そして記憶としては正確さを押さえたと思っています。思いだけ大きくて、ちいさな「明日の神話」です。和合亮一のツイッターを、私は出来ませんが、紙媒体でも追いかけられるという感じはのこせたでしょう〈今回は宣伝です〉。「水の泡」かも。)

オトメンと指を差されて(41)

大久保ゆう

なんといっても心の鼻血なのです。どばどば。

こればかりはいかんともしがたいと言いますか、やむをえず生まれてしまうものでして、わたくしの日頃の言動を気にしていると、しばしば口にしたり筆にしたりしている事象なのですが、そういえば先日ふとこのことを誰にも説明していなかったのではないかと思い至り、今回の文章に及ぶわけでございます。

語釈致しますと〈心のなかで鼻血を出す〉ということでございますが、ここで申し開き・弁解・言い訳差し上げますと、これはあくまで世を欺く・しのぶためのものでありまして、ゆえあって表に出せないものであるから心のなかで出すのであります。

何というか、わたくしはもう大人になり30歳にも近づこうかと男性であるのですが(ときどきまだ20代半ばくらいには見られることもありますが)、そうするとなかなか子どものようにはしゃいだり感情を素直に表に出したりすることははばかれることもございまして、またそれが対象によっては年齢や性別の壁などがあって余計にそのまま出してしまってはただの怪しい人になりかねないということがあるのです。

しかしどんな立場にあろうと素晴らしいものに出会ってしまったら興奮してしまうというのが人というもの。そこで表だっては反応できないといいましょうか、人様から見えるところではぐっとこらえて、あくまでも平然と、(とりわけわたくしの普段の服装身だしなみにそぐうよう)お澄まし顔をしつつ、自分のうちに秘めたる興奮としてあえて心のなかだけで、ひっそりどばどばと鼻血を流すのであります。

たとえばわたくしが街を歩いていて、通りがかりに見かけたスイーツショップなり雑貨店なりのショーウィンドーに足を止めて、ながめているとしましょう。その様子は、知らない人から見ればなにやら真面目そうな男性が真面目そうにもしかして誰かにプレゼントするために考えているのかなといった風に見えるでしょうが、その実、おのれの欲望と興奮のために心のなかでは鼻血がどばどばと流れっぱなしでそれどころが心のよだれまでこぼれているという有様なのです。

あるいは、会話のなかでわたくしが冷静に何かモノをほめたとしましょう。小物や絵本のデザインや中身などをいたく評価して、説得的な言葉で話している相手にほしいと言わしめんばかりの口振りであるけれども、表面的には実に落ち着いていると。けれどもこれもまた、なかをのぞいてしまえば、好きなことをしゃべるとき特有のかなり高いテンションになっており常時鼻血が垂れているばかりかそもそも他人に話しているというよりそれをしゃべる自分にうっとりしているどうしようもない人であったりするのです。

ましてや絵本作家の展覧会などに行って、わたくしが掲げられた原画をすっくと直立していかめしく見ているとき、それは端から見るだけでは何か真剣なお勉強か研究のために来ている人に見えなくても、本当はただシンプルに〈かっこいいもの〉を見たくて内心どきどきそわそわしっぱなしの、鼻血をためらうことなく直下にこぼしっぱなしのアレなんでございますよ。

ですから何てことのない次の文章も。

「秋って言えば確かに読書の秋なんですが、読書は普段からするものですし、秋になったから旬の本が増えるというわけでもないんですよね。でもそれに引き替え食欲の秋は、その時期にだけ美味しさが倍増するもの、そのときにしか食べられないもの、があるわけじゃないですか。そうするとどうしても、秋はこちらに集中してしまうわけなんです。」

鼻血を出している箇所に括弧書きで擬音を入れてみるとこうなるわけです。

「秋って言えば確かに読書の秋なんですが、読書は普段からするものですし、秋になったから旬の本が増えるというわけでもないんですよね。でも(どばっ)それに引き替え食欲の秋(どばばばどばっ)は、その時期(どばーっどばーっ)にだけ美味しさが倍増するもの(どどどどどどどっ)、そのときにしか食べられないもの(ばばばばっばーっばばばーっ)、があるわけじゃないですか(どば)。そうするとどうしても(どっどっどっ)、秋はこちらに集中してしまうわけ(ばーばばばばばっばーっばーっ)なんです。」

まあこの連載では鼻血出しっぱなしなわけですけどね(どばばばー)。

何にせよ、ここでまともな話もしておくと、ただ表に出さないというか、我慢するというだけでは、人間おのれを保のも難しいということでして、〈鼻血を出している自分〉というイメージがひとつあるだけで、感情なりなんなりの行き場ができるというか、そういうのはとても大事なことですよね。また内心の自由を満喫するという意味でも。

というわけで、わたくしの周りは日々血の海だらけなのです。しかも秋ですからね。気分はもう紅葉。

製本かい摘みましては(74)

四釜裕子

製本講座をするときには、紙や筆記具のみならず糸でもビーズでもシールでもレースでも手持ちのもので使えそうなものがあったらなんでも持ってきてと言う。最近目立つのはマスキングテープの多用。具体的にはカモ井加工紙の「mt」で、ほとんどのひとが持っている。数人集まれば「とりかえっこ」がはじまって、自分では選ばない色柄と組み合わせることで生まれる効果でもりあがる。

mtの魅力はなんといっても和紙の質感、そして、安定感のある色合いだろう。さらに柄が加わって、今やいったいどれだけ種類があるのか。10月31日から11月8日まで東京・渋谷で「mt博」が開かれるというので行ってみた。駐車場の車も含めて会場全体がカラフルに彩られ、1階にはもりもりとmtが並んでいるようだがあまりの混雑で踏み込めない。レジには箱買いした人が長蛇の列、限定品かなにかあったのか……。人ごみを背にしたら奥の部屋に断裁機が見え、職人さんがテープ幅に断裁している。粘るから刃物に水をかけながら切るのだそうだ。見た目でしくみがわかる年季の入った小型の機械だ。2階の和室部屋には同社の商品パッケージや広告があり、ごく簡単に社史を眺められる。

カモ井加工紙は1923(大正12)年に倉敷で創業したハイトリ紙のメーカーである。天井から吊るすリボン状の蠅取り紙は子どものころに見ていたが、それとmtがルーツをひとつにしているとは『粘着の技術 カモ井加工紙の87年』(吉備人出版 2010)を読むまで知らなかった。岡山の方言で蠅をハイと呼ぶことから「ハイトリ紙」と名付けたそうで、最初は平らな紙だったが1930(昭和5)年になって上からぶら下がるものにとまる習性のあるヒメイエバエ対策に「カモ井のリボンハイトリ紙」を売り出したそうである。蠅がついていなくても茶色のベトベトがなんとなくコワイというかキタナイように感じていたのは気のせいだった。実際はハトロン紙に松ヤニを塗っただけ、くるくるとテープを巻くのは手作業だったと本にある。

粘着技術を活かして和紙の工業用テープを発売したのが1962年。日本では車塗装の養生用に大正の初めころからあった和紙の絆創膏テープを最初は代用したそうで、同社が専用テープを開発するにあたっても和紙を基材としたようだ。海外のマスキングテープの基材はクレープ紙(しわ加工してある)で和紙より厚い。和紙のほうが手で簡単に切ることができるしコーナーでも曲線を作りやすいので、同社は和紙にこだわってきた。和紙テープの構造を見ると外側から剥離剤、背面処理剤、和紙基材、アンカー剤、粘着剤の5層。比べてクレープ紙は剥離剤、クレープ紙、粘着剤の3層である。和紙の強度だけが同社の強みではなさそうだ。

1969年に6色のカラー・テープを発売したこともあるが、現在のような雑貨としてのブームを生むきっかけとなったのは、2006年に東京・経堂のROBAROBA cafe店主いのまたせいこさん、コラージュ作家オギハラナミさん、グラフィックデザイナー堀内歩さんが自主制作した「Masking Tape Guide Book」と、3人の申し出による工場見学にある。2007年11月、mt全国発売。たった4年前のことなのか。手製本の表紙に飾りとして貼られたmtはこれから時間が経てばはがれることもあるだろうが、古本に残されたセロハンテープのように両端が反り返ったりべとべとしたりぱりぱりになったりすることはないだろう。mtはいかにも丈夫で柔軟で、しかも跡形もなくはがれてくれるもの。いや、「テープ」つながりでセロハンテープをここに持ち出すのは反則か。透明のテープは当時いかにも万能だったろうし、なによりも、飾るのではなく修理や保護のためのものだったのだから。

秋のあしあと

璃葉

もみじはいつの間にか緑から紅に、

黄色いイチョウは空を隠すように覆い茂る

風が枯葉を落とす音と共に、
秋はどこかへ飛んでゆき、冬を連れてくる

秋は早足だ

ふと気付くと、もういない

aki.jpg

写真を撮られる。

植松眞人

駅前のバス乗り場でバスを待っていた。

初めてつくった遠近両用眼鏡に慣れないのか、目が疲れて仕方がない。だから本も読まずに、ただぼんやりと誰もいないバス停で僕はバスを待っていた。

体力にも仕事への集中力にも自信はあるのだが、近くが見えないという症状には参った。人はこういう小さなところから老いていくのだろうか、などと考えていると、小さく何かが光った。または光のようなものを目の端に感じた。

少し離れた木陰に一眼レフを構えた女が見えた。三十代に入ったばかりだろうか。ジーンズに薄手のジャケットを羽織っている。プロのカメラマンには見えない。最近、観光地でもない場所で一眼レフのカメラで写真を撮る女が増えた。そんな一人だろうと思った。

そして、そんな女が私のほうにじっとレンズを向けている。さっき光って見えたのは、きっとこのレンズだ。女は何を撮ろうとしているのだろう。他に誰もいないのだから、私を撮ろうとしているのだろうということはわかる。しかし、私には趣味であっても、この女からレンズを向けられるような特別なものがあるとは思えないのだ。

もしも、女が私を撮るとすれば、都会の喧噪の中で疲れた表情でバスを待つ疲れた男、というイメージにあてはまったというところだろうか。しかし、私は充分に疲れた顔をしているはずだし、シャッターチャンスを待っていても、何かが変化するような状況ではない。なのに女はシャッターを切らない。

もう少し疲れた男を演じてみたほうが女の意図に沿うのか。それとも、逆にもう少し背筋を伸ばしてみた方がいいのか。私は少しだけ考えた。そして、女が待っているのは私がもう少し背を伸ばす瞬間だと思い至り、そうしてやることに決めた。と、その瞬間、シャッターが切られる音が微かに私の耳に届いた。まだ、なにも動いていないのに。女がこちらにレンズを向けていることに気付いた数分前から、何も体勢を変えていないのに。女はシャッターを切った。

ふいにシャッターが切られたことに私は困惑する。周囲に犬か猫でも入ってきて、いい構図が出来上がったのかと辺りを見渡すがそんな気配はない。女は何をきっかけにシャッターを切ったのだろう。私は女のいたほうに視線を戻したのだが、すでに女はこちらに背を向けて人混みに消えていくところだった。

メランコリア一匹

くぼたのぞみ

詩が好き
はメランコリアの大好物だ
歌が好き
もちょっと美味しいさかなになる
この胸の細胞壁にも
ぬくぬくと大きなやつが一匹、巣食っている
今日もつやつやと元気なこと

つきあいは 
ものごころついてからだから
ずいぶんになる
したたかな大喰らいで
くる日もくる日も
胸の内壁をちくちくと噛みちぎり 
腹くちくしては でっかいいびきをかく 
寝相もわるい

空が垂れ込める曇天の秋の日は
このメランコリア
小躍りしながら這い出してきて
のどを圧迫し 声帯をゆさぶり 
宿主が発しようとすることばを
さみだれ式のかすれた泣き声に変える
それは昨夜、老母からかかってきた
電話のせいではない

今朝はあめ 
心にしみる冷たい雨が
あばれるメランコリアの急所を突く
ささくれも撫でつけられ なだめられ 
ポルトガル語の歌なんか聴かせてやれば
しょんぼり身をまるくしてうとうとする

世界中に仲間がいるメランコリアは 
友人にはことかかない
だってほら
きみも一匹、飼っているだろ
こんな詩を読んでいるんだもの
さあ 仕事にもどろうか

子連れ狼 改め 子連れ犬

笹久保伸

子連れ狼に憧れている子連れ犬
ワンワン!(犬)
遠吠えは そう遠くまではとどかない
うおおおー(狼)

自分の好きな事で生きて行くのは本当に難しい
好きな事だけで生きて行く と言うやり方を選ぶと長生きはできない
あまり好きでもない事と
好きな事をバランスよく両立すると 少し長生きできる
しかし 長生きと言うのも しょせん「少し」長いだけだ
どうせ生きるなら そしてどうせ死ぬなら
好きな事をするべきなのか
わからない 
ワンワン!(犬) 
うおおおー(狼)

演奏家を志して 諦めていく同世代の仲間を見る歳に突入したらしい
ワンワン!(犬)
うおおおー(狼)

道が開かない
いや そもそも道はなかった

自分にとっての生きるための音楽は経済的な意味での「生きる」を指していないが 世間では生きるための音楽と言うと 
生きる=生活=金銭的な意味合いでの「生きる」
と結びつけるように考えるのが主流な考えらしい
であるならば 自分が生きるための行いは「死ぬための音楽」
という事か
まあ どちらでもいい  か

耳をすます

若松恵子

明日から11月だというのに、夜は暖かで吹く風もやわらかい。そんなことが何かうれしくなってしまうような帰り道。9月の「水牛のように」でも触れた『ろうそくの炎がささやく言葉』(管啓次郎・野崎歓 編/勁草書房)の朗読会に出かけたのだ。10月31日、西麻布にあるRainy Day Bookstore &Café にて。管啓次郎さん、小沼純一さん、谷川俊太郎さんの朗読と谷川賢作さん、金子飛鳥さんの音楽。ろうそくの灯りが揺らぐなかで、ひとつの声に60人近い参加者がみんなで耳をすます。

はからずも谷川氏によって朗読された「耳をすます」
「みみをすます ひゃくねんまえのひゃくしょうの しゃっくりに みみをすます
 みみをすます せんねんまえの いざりのいのりに みみをすます・・・・」

今はもう失くしてしまったものに耳をすます。
めぐりあえなかった時代の者たちに耳をすます。
耳をすますとは、見えないものを見ようとする意志。
目の前に在るものだけが”在る”わけではないと考えようとする意志のことだ。目に浮かぶ遠い時代の侍のおもかげ。目を開いたまま、あたまの中ではっきりと像を結ぶまでじっと思い浮かべる。

管氏が自作を朗読する。「川が川に戻る最初の日」。
砂漠に雨季が訪れ、川が戻ってくる日。砂地を走ってくる水。川の先頭。
会場は川の水で満たされ始める。はしゃぐ子どもたち。確かに聞えた水音。
立ち現われる風景。
朗読に続く音楽が、言葉と等価に風景を描いてゆく。

読んで聞かせてもらうというのは、大人には貴重な体験だ。実際に朗読を聞かせてもらうと、管氏がなぜ肉声にこだわったのかがわかる。視覚を空にして、目をつぶって見るためには本当に最適な方法だと思う。失ってしまったばかりだと思わずに、目をこらして見るために。

ジャカルタ市内からタマン・ミニ見学ツアー

冨岡三智

いまさら何をお上りさんみたいなことを…と言われるのを承知で、今回はジャカルタのタマン・ミニ・インドネシア・インダー(麗しのミニ・インドネシア公園という意味、1970年代初めにスハルト大統領夫人が建設した)にツアーで行ったときのことを書く。

といっても、普通のツアーではない。10月5〜6日にインドネシア観光文化省が主催する国際セミナーで発表したときのエクスカーション・ツアーなのである。このセミナーには海外からの発表者の他、インドネシア国内の他地域から来た聴講者(なぜかスラウェシ島の人が多かった)も参加した。

昼食後、モナス塔の近くのホテルから貸切バスで出発。タマン・ミニの年配男性職員がガイドを勤めてくれたのだが、ベテランで人を飽きさせない。英語も流暢なだけでなくて分かりやすい。きっと、しょっちゅう国賓を案内しているのだろう。道路は渋滞気味だったが、そのおかげで、説明を聞きながらゆっくり写真が撮れた。タマン・ミニへの道中はジャカルタの幹線道路を通るので、タクシーでいつも通り慣れている。けれど、観光バスだとそれらより視点が高いので、ビルが林立する都市の風景を見渡すには、観光バスというのは非常にいい。それに町がとてもきれいに見えて、感動的だ。(実際に歩くと、地面の汚さやら、でこぼこ加減やらに腹が立つ…)

ジャカルタ市内ではどういう所を紹介するのだろうと興味津々だったのだが、意外だったのが(考えてみれば当たり前かも)、各省庁や各国大使館の建物の紹介が多かったこと。こういう建物は、たぶん普通の観光ツアーでは紹介されないのではないだろうか。私がよく行く教育省の建物は、他の省庁の建物と比べても古くてみすぼらしい。逆に立派だったのが、税務署。建物が3つも前後に並んでいて、後ろに行くにつれ、新しく背が高くなっている。人口が増えるたびに建て増していったのではないかと思われる。建物によってはいつ頃建てられたのかという説明もあって、ジャカルタの都市の成長が理解できる。違う意味で意外だったのが、ムスティカ・ラトゥという民間の化粧品会社のビルも紹介されたこと。インドネシアを代表する美容企業という位置づけなのかも知れない。それでふと、東京に来た国賓はどんな所に案内されるのだろう、と思う。

タマン・ミニの近くまで来たとき、「えー、今から46年前の9月30日夜にここから約2kmの所で政変が起こり、先日の10月1日(ツアーは6日)にそのルバン・ブアヤ(ワニの穴の意味、ここで6将軍が殺害された)で追悼式典が行われました…。」という案内があって、ぎょっとする。スハルト(この政変に関して限りなく黒い)時代なら、そんな案内は絶対なかったはずだ。しかし、虐殺の地の目と鼻の先に、国の顔であるタマン・ミニを建設していたとは。そうと知ると、タマン・ミニが一種不気味な贖罪の施設のようにも見えてくる。ここに来るたびスハルトの胸は痛まなかったのだろうか…。

タマン・ミニに到着。最初にバリ風の割れ門のある建物に来る。我々が到着するとすぐにその建物の前でバリ舞踊が披露され、終わると踊り子たちと一緒に記念写真、その後、中の博物館を見学。これが国賓案内の定番らしい。ただ、上演される舞踊はその時々により変わるらしく、バリ舞踊だけとは限らないそうだ。博物館には各州の民族衣装に民族楽器、農耕や漁労の道具、伝統家屋や舟のミニチュア、伝統儀礼のジオラマなどが展示されている。この展示品、特に民族衣装がかなり古びて照明焼けしてしまっているのが気になる。マネキンの顔も時代遅れなら、髪もバサバサで、触ると崩れてしまいそうだ。民族衣装というのは、他の展示品に比べれば、大体の外国人には興味が持てるものだと思うので、国賓をいつも連れて来るのなら、せめてこの衣装フロアくらい刷新できないものか…と思う。逆に良かったのが、ワヤン(影絵)人形の展示。ワヤン・グドク、ワヤン・マディヨ、ワヤン・ワハユ…などの種類ごとに小さなスクリーンがあって、代表的な人形がそれぞれ何体かずつ展示されている。ワヤン好きな人には物足りないかもしれないが、スクリーンの後ろには光源があって、人形の色や形がきれいに見える。

しかし、何度もタマン・ミニには来ているのに、私はこの建物に全然見覚えがない。ガイドの人は、普通の観光客は最初ここに来るはずだが、と言う。そこでハタと、ああ私は入場料を払ってここに来たことがなかったのだと気づく。このタマン・ミニには調査部門や伝統芸術イベントの企画部門などもあって、私はその事務所にしか来たことがなかったのだ。入口まで担当者に迎えに来てもらって事務所に直行していたので、こんな博物館があったとは知らなかったのである。

園内には各州の伝統家屋が再現されているのだが、全部を見て廻る余裕はないということで、スマトラ館だけに案内される。なぜスマトラかというと、ガイドの奥さんがスマトラ出身だから。道理で、この人は民族衣装コーナーでもスマトラ島各州の衣装の説明しかしてなかった…。普段はジャワ中心でしか物を見ていないけれど、こうやってスマトラだけに焦点を当ててインドネシアを見てみると、ジャワとは違う国を見ている気になる。実際、やっぱりスマトラはマレーシアに近いとつくづく思い、マレーシアに来たような気になった。インドネシアの人たちは、自分の出身地以外の所に行くと、やぱり違う国に来たような気になるのではなかろうか。日本と違って、地方ごとに言語も違うから、その違和感はなおさらだろう。そういうことが実感できただけでも、このツアーに参加して良かった。

ツアーを終えて、ガイドの人はタマン・ミニにそのまま残り、私たちはバスで一路ホテルへ。往復のバス移動も含めて3時間くらいの旅だが、意外に充実して楽しかった。たまにはお上りさんになってみるのもいいものだ。

さて、何から話を始めようか。

大野晋

先日、東京駅の駅前、昔、たしか国鉄の本社ビルが建っていたところの丸善で買い物をした帰り、食事をしにつばめグリルに立ち寄った。久しぶりにアイスバインとザワークラウスでビールを飲んだ。やはり、禁酒中のビールはあまり芳しくなく、ちびりちびりと舐めながら、柔らかな肉と酸っぱいキャベツをおいしく食べた。

なんで、こんなことを思い出したのかというと、後日、Amazonをいつものごとくごそごそ覗いていると、青池保子のZの新刊を見つけたからだ。Zというのは少女漫画誌にしては珍しい硬派なスパイミステリーで、もともとは1976年から連載の続いている「エロイカより愛をこめて」というコメディ漫画からのスピンアウトで、本筋もスピンアウトも少女マンガには見えないくらい武器がリアルに描かれている。もう32年も連載しており、今調べたところによると「ガラスの仮面」、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」とほぼ同期になる。ところで、この本編の方の主人公のひとりであるエーベルバッハ少佐の食事シーンで非常に気になった食べ物がザワークラウスとアイスバイン、そしてジャガイモのフライ(寄宿舎のシスターが作った?)なのだ。そんな感じで、食物つながりでなつかしの漫画にとんでしまい、Amazonをくりくりっとしていたら、最新刊のが出てきてしまった。これを久々に全刊読むべく、いつものように大人買いに走った。

ところで、36巻(連載中)もの大作を大人買いするとなかなか壮観な眺めになる。で、今のところ、そのコミックの山は置いといて、引越し荷物を解きながら、出てきた長編を番号順に並べながらついついそのまま読み進めてしまい、抜けた数冊がどこに消えたかをダンボールの島々を探し回る毎日である。

そういえば、手持ちのCDの方もとんでもないことになっていて、1500枚入ると豪語した棚を2本丸々いっぱいにした上で、500枚入るらしい棚も動員したが、まだ段ボール箱4箱が積みあがっている。しかも、困ったことにそれで終わりかと思ったら、つい、昨日、手を付けられていないひと箱を発見する始末。困ったことに、これらの何割かは封も切っていないので、いつ頃、全てを聴き終えるかは一向にわからないし、ましてやABC順に作曲者で並べようなどということなど夢のまた夢の状況。このような状況なのに、ぼやぼやしていると、二桁単位で新しいCDが増えていってしまう。結局のところ、荷物は散らばっているだけで、一向に底が見えない上に、新たに足しているという最悪の状態なのだなとこれを書きながらようやく理解した。

10月最後の土曜日は初台のオペラシティまで都響のコンサートを聴きに出かけた。(引越しの荷物も片付かないのに)そういえば、地下にあったパスタ屋が知らないうちに閉店していた。あそこのダブルハンバーグカレー?好きだったのに。話は戻して、本日の指揮者はロッセン・ゲルゴフという若手。若干、32歳。奥さん日本人。今年の場合には最後の奥さん日本人というのが効いていて、安心して来日する音楽家はなんらかの伝手か、情報か、または使命感を持っている。この人の場合には、予定されていた指揮者が放射能が怖いために出演をキャンセルしたことから急遽ブッキングされたもの。家族が日本にいるのでもってこいの若手だったのだろうが、事前に調べた情報では、日本のアマオケや地方のプロオケを指揮して回っているのだが、いまひとつ、プロオケを指揮した際の評判が芳しくない。

ということであまり期待しないでホールに入る。なにせ、会員券を無駄にしちゃいけない。ところが、演奏を始めて一変、ホールはフィラデルフィアサウンドに包まれた。都響にこの音を植え付けたのは前の音楽監督のジェイムズ・デプリースト。しかし、ここ数年、こうした音をきちんと出せる指揮者にはお目にかかれなかった。代打のゲルゴフ氏、うまいこと、壷にはまっている。しかも、協奏曲を含めて全ての曲を暗譜で指揮するなど、きちんと予行演習もできている様子で、少ない機会をきちんと生かせたのではないだろうか? ぜひとも、何かのポジションに付いてもらって、アウトリーチ活動などに帯同して、うまいオーケストラを演奏する機会をもっと持てば、おお化けする可能性があるように感じた。なにせ、奥さんが日本人で日本で活動をしている方ですので、そうした機会を日本で持つのも、また、音楽の国際化のために有効なのではなかろうか。

さてさて、ちなみに、丸善の上のつばめグリルでは芋だけは食べなかった。思い返すと芋も好物だけに少し残念。

アジアのごはん(42)さばの味噌煮

森下ヒバリ

二か月ほどのタイの旅から関西空港に戻り、乗り合いタクシーで京都まで戻ってきた。関西では、空港から京都や神戸などにある家の玄関先まで送ってくれる乗り合いのタクシーがある。電車より時間はかかるが、荷物の多い帰りは、身体が楽なので、毎回これにしている。乗り合いなので、いろいろな方面の客の自宅を回っていると、けっこう時間がかかる。そこで、最近は京都の南インターを降りたところで、もう一回客を振り分けるという細かいサービスになった。もちろん料金は同じで、荷物も全部乗務員が移してくれる。そこでミニバスから別のタクシーに乗り換えるため、外におりてちょっと待っていると、道路の向い側でひらひらとはためく幟が目に入った。

そこに大書してある文字は「さば味噌煮定食」。あ、食べたい。ファミレスのような食堂の幟から目がはなせない。さば味噌煮定食、さばみそにていしょく。頭の中でこの言葉がぐるぐる。思わず、「もうタクシーはここでいいです」と店に駆け込みたい(どうすんだ、この荷物・・)のをぐっとこらえタクシーに乗り込む。もう夜遅いので、家に着いても近所で食事できるところもスーパーも閉まっているし、さば味噌煮を食べられるような店まで遠出する元気もない。ああ、さばの味噌煮でほかほかごはんを、たっ、食べたい。

まるで二か月間、日本食を口にしていないかのような、狂おしい気持ちである。もちろん、この間バンコクで何回か日本料理屋には行ったし、バンコク伊勢丹のスーパーでお持ち帰りの巻き寿司とかも買って食べたりしている。しかし、どうも今回の旅では、インフルエンザで寝込んだせいか、日本食を食べたい気持ちがかなり大きかった。

というわけで、さっそく自家製「さば味噌煮定食」。鍋に水、酒、醤油、みりんを適宜入れて煮立て、さばの切り身を入れる。水分は少なめ。ショウガの千切りをたっぷり。味噌を大匙一杯。あまり煮込まないでいい。煮汁だけ煮込んでどろりとさせる。圧力鍋でつくると身がふんわりと作れる。この場合、圧力時間は4分ぐらいでいい。圧力が下がったら味噌をもう少し加えて少し煮つめる。20分も圧力鍋で煮ると、骨まで食べられるようになるが、味がまるで缶詰みたいになってしまうので注意。

家ではもっぱら酢で〆た〆さばを愛食していて、味噌煮はあんまり自分で作ったことがなかった。一度目はなかなかおいしくできた。でも、味の染みこみがいまひとつ。作ってちょっと置いておいたほうがいいか。二度目に作ったとき、みりんを入れたつもりが、よく見るとわたしの手が握っていたのはお酢のビンでした。あ〜失敗、と思ったが、イワシの梅干煮とかもあるので、たぶん大丈夫だろう。みりんとメキシコみやげにもらった竜舌蘭のシロップを加えて調理続行。煮るとお酢の酸味はほとんどなくなり、むしろ味のキレがよくなった。酢は使えます。ほどよく甘辛いさばの味噌煮、炊き立てのご飯、きゅうりと大根のぬか漬け。わかめのみそ汁。いただきま〜す。ああ、この味、香り、歯ごたえ。身体も心もよろこぶ料理。

ここ数年、旅行中に日本食を食べる回数が増えてきている。はじめはなんだか自分が軟弱になったような気がしたものだが、いやいや、やっぱりわたしの食の基本は日本食で出来ているわけだから・・ってやはりトシのせいか。外国にいてもおいしいおそばが食べたい、うどんが食べたい、サンマと白飯が食べたい。大根の炊いたんが食べたいぞ。

タイ料理はおいしいし、屋台も食堂もたくさんあり、外食でも野菜がたっぷり食べられるし、恵まれてはいる。でも、やはり化学調味料の多さはしんどい。入れないでといっても、最初から入っているものはどうしようもない。しかもバンコクでは味のレベルが落ちて来ているのも感じる。かなり探さないと、満足できるレベルの屋台や店がないのだ。

時々でいいから自分で料理したい、味付けしたいという気持ちも強まってきた。外国の日本食レストランというのは、たいがい満足できたことがない。日本から食材を輸入しているような高級店なら別かもしれないが、現地の野菜、肉、魚、水を使うと味が違ってくる。調味料も、タイやマレーシア製の日本醤油だと、味がちがう。材料だけでなく、テクニックも厨房に乱入したくなるほどのレベルの店もある。

もう、こうなったら、タイでは台所つきのアパートを借りるか、炊事道具や食材を持ち歩くかしかないのかも。台所が始めから付いているのは高級コンドミニアムで、これは高すぎて無理。タイのアパートには、台所がついていないのがふつうなので(!)、じぶんで流しやガス台から鍋釜までそろえる必要がある。これを二か月位の短期滞在ではいちいちやってられないので、通年借りておくとなるとまた費用がかさむ。炊事道具を持ち歩く・・のは重いしかさばる。せいぜい、携帯用の電熱器に小さい鍋がセットされたものぐらいが現実的。これを入手するか。

今まで旅行の時には、太いコイルが一本ぐるぐる巻いている携帯電気湯沸しを持っていくだけだった。ステンレスのコップに水を入れて、コイルを入れてお湯を沸かすのだ。この電気湯沸しはたいへん有用で、電気が通じてさえいれば、どこでも熱いお茶やコーヒー、インスタントみそ汁などが飲める。外国で、その国の食事に飽きたり、疲れたときには、醤油味とかナムプラー味とか、みそ汁など馴染みの深い味のものを飲んだり食べたりすると、精神的なつらさがふわ〜っと和らぐ。旅先で病気のときにインスタントみそ汁や、どこでも入手しやすいショウガとはちみつで、生姜湯など作ったら感涙もののおいしさだ。この湯沸しで作ったみそ汁や生姜湯で、これまで何人の旅の同行者たちが「みそ汁がこんなにおいしいものだったなんて」「こういう味がほしかった」と涙したことか。

バンコクで高知在住の友達夫婦にばったり会った。大人になった息子二人との、しばらくぶりの家族四人旅行でインドに行ってきたと楽しそう。わたしたちのいるアパートメントホテルに引っ越してくるというので、待っていたら、すごい荷物を持ってやってきた。
「こ、これで、ダラムサラに行ったの・・?」「いや、前のホテルに荷物預けてきたから、もっと多かった」「ぼくたちインドでは自炊が基本だから、携帯コンロとか、米とか味噌とか乾麺とかも」「米まで持って歩いてんのお!」「じつはこっそりコンロの灯油も」おいおい、大丈夫か・・。

親二人は自炊しないと、すぐおなかを壊してしまうらしい。息子たちは、「おれたち毎日カレーでもぜんぜん平気だよ〜」と現地食を食べていたようだ。子どもが小さかったころ、現地食が食べられない子どものために自炊を始めたのが、いつのまにか自分たちのために自炊するようになっているのだった。

たしかに、インドのお米はヒバリも苦手である。カレー三昧の食生活も大変苦しい。しかし、わたしは重たい荷物が、もっと苦手なのだ。彼らみたいな完全な自炊でなくても、カレーの合間に市場でトマトやきゅうりを買って塩をつけて食べるとかすれば、あ、マヨネーズとかさばの水煮缶詰とかちょっと持っていってもいいかも・・。醤油も持っていけば、かなりしのげそうだ。火を使わない、もしくは湯沸しで出来るちょっとした自炊なら荷物もあまり増えない。

インドでは大都市にしか日本食や洋食レストランはないし、中華料理屋も脂っこい料理が多い。あとはひたすらカレー味ばかりなので、だんだん食事が苦痛になってくる。その限界値が、ヒバリの場合、今のところ二週間。なので、インド滞在は二週間と決めている。

しかし、持って行くものをくふうすればもっと長くインドにいられるじゃないか。うんうん、もうトシだし、いいじゃないか日本食たくさん持って行っても。旅先ではその旅先の食べ物を食べる、というのは主義ではなく、食べてみたいという気持ちからしていることなのだから。さすがに生米や灯油までは持っていこうとは思わないけどね。

イブラヒムとししゃも

さとうまき

イブラヒムが、4年ぶりにやってきた。イラク人が日本に来ると大変なのが食べ物だ。イスラム教徒は、豚肉を食べてはダメだし、鳥や羊や牛でも、ハラールミートといわれるイスラム教にのっとった殺し方をした肉じゃないとだめなのだ。イブラヒムは、腹が減ると機嫌がわるくなり周りを困らせていた。

「大丈夫だ。魚と、野菜だけでなんとかなる。いざとなれば断食するさ」と今回は力強い。前回食わせたわかさぎのフライを結構気に行ったみたい。

いつものように、珍道中のツアーが始まった。確かに、今回のイブラヒムは、成長していた。南アフリカや、スリランカからもゲストが来て、石巻国際祭りに参加したが、「国境を越えて災害や貧困に取り組む人と人を結ぶ」という主旨も理解して、イブラヒムが一番、感動的なスピーチを各地で繰り広げてくれた。

石巻では、仮設住宅を訪問したが、そこでは、妻を津波で流されたショーゾーさんというじいさんと友達になったらしい。普段はふさぎこんで、昼間っから遺影を前にただ酒を飲むだけなのだが、イブラヒムと意気投合して、「明日がある」を歌ったという。

イブラヒムも、妻を白血病で亡くし、イラク戦争で仕事もなかったときは、ただ落ち込むだけだったのを思い出す。そんな時に、僕の友人が、イブラヒムに「明日がある」を教えていたのだ。イブラヒムはその歌を気に入って自分に言い聞かすように歌っていた。そして、今度は、イブラヒムが日本を元気にしようと頑張っている姿は泣けてくる。

イブラヒムを歓迎する宴が始まった。彼は、お酒も飲めないし、焼き鳥もダメなので、誰かが、ししゃもを買って来てくれたそうだ。しかし、イブラヒムに取材が入り、インタビューがなかなか終わらない。隣では、宴会が盛り上がり、いつのまにか、イブラヒムのししゃもは、誰かが酒のつまみに食ってしまったのだこれを見たイブラヒムは激怒し、通訳の加藤君にあたり散らしていたそうだ。イブラヒムの機嫌は、翌日になっても直らず、2日後東京に戻って、ハラールミートのチキンを食ってようやく、直った。

それは、ともかく、今回イブラヒムは、募金をイラクで集めて来てくれた。イブラヒムの子どもたちがおやつを買うお金をためて、募金してくれたり、再婚した妻は、結婚指輪を日本のために使って欲しいと寄付してくれたのだ。集まったお金は825ドル。郡山の幼稚園に寄付させていただいた。

ところで、イラク政府は、8億円ものお金を日本に寄付している。結構な金額だ。イラクだけではなく、他の国からも多くの寄付が集まっているという。しかし、残念なことに余り知られていない。頑張ろう日本とかよくいうが、日本だけで頑張っているのではなく、多くの国の人々に僕らが支えられているんだということにいい加減気がつくべきだろう。

イブラヒムの来日にあわせ、絵本「イブラヒムの物語」を作りなおしました。2000部刷りましたが、ほとんど売れていません。600円で売っていますので是非こちらにアクセスを
http://kuroyon.exblog.jp/16403807/

しもた屋之噺(118)

杉山洋一

毎年愉しみに待っている子供たちが可哀相だけれど、未曾有の経済不安で今年はクリスマスの演奏会どころではないかも知れない。夏にサンマリノのマルコが暗澹としたメールを送ってきたきりになっていて少し気になっていると、先日「屋根の上の牡牛」やら「キューバン序曲」やら「エル・サロン・メヒコ」で元気よくやろうと思う、資金もなんとか目処がつきそうだから宜しく頼む、と明るい調子で連絡があって溜飲をさげたところです。
ちょうど橋本くんのためのテューバ曲を書き終わり、小学校の宿題をする息子と一緒に食卓でオーケストラに送るブーレーズのビーティングリストを根気強く作っていたので、長く聴いていなかった「屋根の上…」を景気づけにかけてみました。目の前では、6歳の息子が神妙な顔でノートの升目にあわせ、イタリアらしいしっかりした筆記体で、アルファベットの練習をしています。階下では家人がスクリャービンの7番ソナタを練習に勤しんでいて、10年と離れず作曲された2作品の世界観の違いは感慨深いほどです。思えば机の上のブーレーズもミヨーと同じパリの音楽院で学び、「主のない槌」や「プリ・スロン・プリ」を書いたころ、ミヨーも存命していました。毎日同じようなものを食べ、同じ言葉を話し、同じ演奏会で会うことだってあったかも知れないと思うと、違う世界が一つの空間に同居していて不思議にも感じられます。

この所晩になると冷えこむようになって温かいスープに身体が喜ぶようになりました。昨日は晩御飯にラヴィオリのスープをすすりつつ、ふと思い出してルネ・クレールの「幕間」をサティの映画音楽つきで見てみると、チャップリンの短編無声映画など昔から好きだった息子は大はしゃぎです。この音楽の4手ピアノの編作もミヨーが手がけていますが、曲は「屋根の上…」から5年後1924年に作曲されたサティ最後の作品で、映画はピカビア脚本、弟子だったクレール監督が、サティやピカビア、デュシャンやマン・レイなど知合いを総動員して作った傑作で、ナンセンスなダダイズムの名作なのは、よく知られているところです。1924年と言えば、ブルトンがダダイズムを脱ぎ捨て「シュールレアリズム宣言」を書き、マリネッティは、ダダ的と共に歩んだ従来の未来派を捨て、ファシスト党に入党し「未来主義とファシズム」を出版しています。ヒットラーが「わが闘争」を書いたのも1924年でした。

色彩と軽さとそして香りをわきたたせながらダダ的な精神性、エッセンスを芸術的に追求していったフランスの一派と、当初の精神性を不器用に理論化を試みて肥大し、いつしか政治の泥濘に足を取られて埋没してゆくイタリア人たち。その姿にはいつの時代も近くて遠い存在だった二つの文化の違いが如実に感じられる気がしますし、1924年が正にそんな彼らの分岐点でした。「軽さをもって重きを断ち切れ」。1923年生まれのイタロ・カルヴィーノが自戒をこめて書いたのは、それから随分経った1985年のこと。

最後の子音は発音せず綴りを変えても同じ発音になる仏語と、最初から最後まで綴り通り発音する伊語。ルイ・クープランの全音符とスラーのみによる自由な「プレリュード・ノン・ムジュレ」と、フレスコバルディのいかめしいトッカータ。ソースの妙のフランス料理と素材の味を際立てるイタリア料理。香水好きのフランス人と風呂好きのイタリア人。個性的で斬新なフランスのファッションと、ワイシャツどころか下着や靴下にまでアイロンをかけなければ気が済まない因襲的なほどのイタリアのセンス。ベリオはコスモポリタンだし、ブソッティは名前までフランス化するほどのフランス好き。現代作曲家で比較するなら、ブーレーズとドナトーニあたりになるのかしらん。芸術的で香りも高く、ただ殆ど読取りに苦労するブーレーズの自筆譜と、馬鹿ていねいに定規で書かれウィットも愛想もない、殺風景な鉄骨工場のようなドナトーニの自筆譜。

ぼんやりそんなことを思いながら外に目をやると、窓際に猫が一匹こちらを覗き込んでいて、目が合った途端ニャアと声をあげて悠然と去ってゆきました。寒くなって餌が足りないのか、この所顔を出すようになった白地に黒の大きな斑点が背中に落ちている人懐こい猫で、40年近く前、まだ幼稚園に通っているころ、野良猫を拾ってきた「紋次郎」という白黒の猫がいたと聞いたことを思い出しました。

薄らとした記憶しか残っていない紋ちゃんがいなくなると、当時はまだ猫が得意でなかった母のためヨークシャテリアの雄を飼い始め、お気に入りだった音楽辞典巻頭の作曲家の写真から、ダンディという名前をつけました。当時は家にあったヤマハのピアノの下が遊び場で、そこにオモチャを持ち込んだり本を読んだりしていて、ヴァンサン・ダンディの写真の記憶も、ピアノの組み木の匂いと色と無意識に繋がっています。胃炎を煩っていたダンディのため、暫くして雌のヨークシャテリアを飼い始めると胃炎はたちまち治りましたが、こちらには雌だからと安易にレディと名前をつけたのは、思えば少し不公平な気もします。

中学に入る頃、座間の米軍キャンプに勤めていた近所の友人宅に生まれた茶トラ猫を貰ってきて、その猫に迷わずダダと名前をつけたので、その頃には何らかの形でダダイズムに親しんでいたのでしょう。まだ目も開かない生後間もない幼猫が家にくると、子供を産んだことすらなかったレディから盛んに乳が出るようになりダダは犬の乳でぐんぐん育ち、ダダは奇天烈なダダ人生を地で生きた感があります。

同じころ当時は阿佐ヶ谷に住んでいらした作曲の三善先生のお宅に通うようになり、駅から先生宅への道すがら「ブックイン」に立ち寄って時間を過ごすの愉しみになりました。背の高い立派な街路樹並木が四季折々に見せるさまざまな表情が、ガラス張りの「ブックイン」の立ち読みしている本の向こう一面に広がっていて、いつもきちんと重ねてある水牛通信の小冊子を横目に、いつも「水牛通信」はどなたが届けられるのですか、と店員さんに尋ねた遠い記憶が甦ります。それから暫くして、住んでいた東林間駅前に開店したばかりの、絶版だった澁澤全集やらサド全集の黒いハードカヴァーばかり目立つ怪しげな古本屋で、ブルトンやアラゴンの本も随分買込みました。ダダより寧ろアルトーやロートレアモンあたりが、いつも枕元においてありましたが、何れにせよ、今やすっかり何も覚えていませんから、むつかしすぎて何も理解できなかったに違いありません。

高校・大学時代、「ぽるとぱろうる」や「カンカンポア」で文芸書やら画集やらを立ち読みしつつ、シュヴィッタースの講義を受けにカルチャーセンターに通いつつ、今よりずっとヨーロッパが遠かった当時、周りに想像上のフランスの空気の色を感じようとしました。それはピカビアの色使いを思わせる明るいパステル色で、単に明るい青春の色だったのかも知れないし、実は日本中がそんな「前夜」を思わせる空気に満たされていたのかも知れません。よく聴いていた悠治さんのサティやドビュッシーのレコードの周りに、作曲の勉強を始めて好きになったプーランクやオネゲルの音楽があり、ケージや武満徹やクセナキスの音楽が息づいていました。

元来オペラ好きでもなかった自分がイタリアに住むことになった明確な経緯が思い出せずに困るのですが、恐らく高校の頃カンカンポアでダニエル・ロンバルディが演奏する未来派のレコードを買ったことと、当時の強烈なルッソロやボッチョーニら未来派の絵画への興味が、後にイタリアの現代音楽を勉強しようと考える下地を作った気がします。イタリア的思考の底辺を、長い時間をかけて別の文化が培ってくれていて、それはピカビアの色彩が自分にとって憧れだったと無意識に自覚し、何かが崩落した瞬間だったのかも知れないし、1924年「前夜」にイタリア人が頬を強ばらせながら感じていたものに、少しだけ近かったかも知れません。

今朝、夜明け前の道を歩いていると、拙宅のある辺りから目の前の陸橋の向こうまで、珍しく街灯の灯火が揃って落ちていて、歩こうにも目を凝らさなければ足元が覚束ないほど暗闇に覆われていました。暫くして戻ってくると、辺り一面の闇のなか、陸橋の向こうのガラス張りのビルにだけ、見たこともないほど真紅に燃立つ朝日が激しく映りこんでいて、バス停で背中を丸めてバスを待つ人たちに雑じり、しばし時間を忘れて魅入ってしまったのです。

(10月29日ミラノにて)

犬狼詩集

管啓次郎

  43
猫の尾がゆれ疾風を起こせば小石が飛んでゆく
犬の耳が寝るとき暗い嵐の雲が湧く
気象よ、気象よ
ぼくらはこうして動物たちのふるまいに教えられるんだ
馬の吐息が荒くなると寒冷前線がやってくる
むくどりが死ぬほど騒いで満月を出迎える
ねずみの活動が活発化するのは氷河期への準備
海月の全面的な浮上は洪水の確実な予兆だ
そしてザリガニの捕食行動は千年紀の祝福
動物たちのanimaが事物のanimaと重なり
世界を機械状のanimationとして上映する
ぼくらは目を丸くしてその展開と図柄に見とれる
動物主義! かれらなくしてヒトは
何も知ることができない
「今日雹が降るよ」と先生に聞かされた小学生の妹は
一面の水田に豹が降るサバンナを想像していた

  44

シトロネルの強い香りがして
何かを思い出すことが強いられる
でもその何かを言い当てることができない
追憶という野原にむかう小径を知らない
Zoeという名のシェパードを飼っていた
どこに行くにもついてきた、ぼくを守るように
あひると野鴨が入り混じる
製糖工場の湖には人造の堤があって
一方は湖、一方は海と
水を分割している
ぼくとZoeはよくその堤にゆき
打ち寄せる波と静止した水面を同時に眺めたものだ
風はいつも強く光は大きな幅をもって変化し
空はいつも広く光はいつも生命を超えていた
寝そべる犬の腹に頭を載せて
ぼくは空を見上げ回想を拒絶した

だれ、どこ2

高橋悠治

●クセナキスつづき

落葉と梢からかいま見る空のかけら。西ベルリンの家から郵便局に向かう森の小徑を歩きながら、クセナキスが強調する。古代ギリシャ哲学史から自分の音楽にかかわることば、パルメニデスの「存在するもの(eonta)」ピュタゴラスの「数」プラトンの「多面体」エピクロスの「偶然」。

ニューヨーク州バッファローの吹雪の道。クセナキスが小型車を運転してナイアガラの滝に向かう。袋小路に入ったら方向転換して通りすぎた道にもどりながら別な道をさがす。古代の記憶が想像力をひらく。ベルリンにいた頃、アリストクセノスの音程論からビザンティン聖歌の音程分割とモードの理論をエラトステネスの篩とガロア群の組み合わせで形式化した「篩の理論」を考え、『ノモス・アルファ』を作曲するプロセスとつきあって、おなじギリシャ語の本を読み、ビザンティン聖歌の記譜法を勉強したこともあった。

ナイアガラは凍っていた。飛び散る水のなかに小さな虹が見える。それがエピクロスのクリナメンのイメージだ、とミシェル・ビュトールが言っている。

イギリス軍の砲弾で顔を砕かれて病院に運ばれたとき、探しに来た女ともだちが手を見てだれだかわかったという話は聞いていた。アテネで会った、もしかしたらその人だったかもしれないと思ったひとの娘はイリーニ(平和)と名づけられ、クセナキスの娘はマヒ(戦い)と名づけられた。孫はユリス(オデュッセウス)だった。

60段の5線紙を製図ペンと定規で作り、ソロでもオーケストラでもそれに書く。

●スウェーデン

1965年の数ヶ月ストックホルムの郊外の海岸サルショバーデンで暮らした。小さな電車の終点はヨットの港、その松並木の蔭の坂を上り門から斜面の階段を上ってその上の家の二階。バルコニーは裏庭に面している。最高裁判事の家。白夜には2時間ほど薄暗くなり、キタキツネが庭を歩いている。それから太陽が裏山を回りこんで上ってくる。

西ベルリンを出たのは2月だった。東ベルリンからロストック、そこから船でマルメに行ったのだろうか。ストックホルム駅に着く。レオ・ニルソンが迎えに来ている。同年代の作曲家、いま調べてみると電子音楽のパイオニアということになっている。ベルリンの凍りついた雲の下より、雪の積もったストックホルムのほうがあたたかいような気がする。円錐の頭を切り落としたようなスピーカーをたくさんワゴンに積み込んで、Fylkingenの音響技術者といっしょに北に向かい、ラップランドからノルウェーに入り、オスロから夜中のフェリーでコペンハーゲン、対岸のマルメからストックホルム、そしてフェリーでヘルシンキ。プログラムはブーレーズの『ピアノ・ソナタ第2番』とスウェーデンの電子音楽。北の果ての町で刑事につきまとわれる。潜水艦基地を探りに来た中国のスパイだと思ったらしい。スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、それぞれのことばがお互いに通じ合っている。ヘルシンキでは雪解けで、バスの窓が泥塗りになっている。

ストックホルムのジャズ・スポットGyllene Cirkeln [Golden Circle]でスティーヴ・レイシーのソロ、モンクの曲を吹いている。ジョージ・ラッセルとミエコ・ヴィクストレーム(高島三枝子)もいたと思う。レイシーはグレイのスーツを着てソプラノサックスを持ち、象のように揺れている。その後ローマで練習を聞いた時は服装も音楽も激しく変わっていた。東京で小杉武久と3人で即興のレコードを出したこともある。その時はたくさんの曲を書き込んだノートを見せながら、作品のイメージを説明してくれた。最後に会ったのは深谷のスペース・フーで富樫雅彦と3人の即興だった。

スウェーデンの放送局のスタジオでケージの『プリペアド・ピアノのためのソナタとインタリュード』からの数曲を録音した。ジョージ・ラッセルのバンドもそこにいた。トランペットはドン・チェリーだった。チェリーはプリペアド・ピアノをおもしろがって、キーをリズミックに叩いてひとりで踊った。ラッセルはかなり後になって東京に来た。スウェーデンで会ったことは覚えていなかった。

ケージの曲はFylkingenで録音し、2枚組のLPになる。いまでもCDはあるらしい。録音に使ったのは可動式鋳鉄のフレームをもっためずらしいピアノだった。スウェーデンには四角い部屋の隅に置くための三角形のピアノもあるという話だった。フランスではすべてのキーに等距離でとどく半円形の鍵盤を発明した人に会ったことがある。

スウェーデンの現代音楽グループFylkingenの会長クヌート・ヴィッゲンはストックホルム放送局に世界最初のコンピュータによる電子音楽スタジオを建設中だった。作曲プログラムのテスト版をピアノで弾く。1分の曲だった。ヴィッゲンは音響オブジェを心理的に定義し操作しようとする。だんだん話が通じなくなり、そのうちグループからも遠くなる。

いま思い出しても、この変化がいつどのように起こったかわからない。Fylkingenグループに招かれて移住し、いくつかのしごとをしているうちに、それ以上いっしょにできることがなくなったばかりか、グループの目指している方向を理解しているようにも思えなくなった他所者がまだそこにいることも忘れられて、郊外に置き去りになっていることも、だれの記憶にも残らないらしい。自分たちのためのしごとの成果を残してどこかへ消えた人間のその後には関心もなかったのだろうか。それとも演奏はともかく、何を考えているのかよくわからないアジア人とは話もできないのだろうか。

おなじことは、こちらの関心の持ちかたにも言える。スウェーデンの当時の前衛、ピアノを電動ノコギリで挽き切り、自分の脚まで傷つけたことで有名になったカール・エリック・ヴェリンの話もナム・ジュン・パイクから聞いていたが会うこともなかった。ピアニストになったきっかけは、スウェーデンの作曲家、同年代のボー・ニルソンの曲『クヴァンティテーテン』だったが、どこか小さな町にいて会えなかった。注目されていたヤン・モルテンソンもウプサラにいて、会ったのは数十年後の東京だった。会いたいと言えばいいのか。そんなことも思いつかないほど、まだ時間があると思ったのか。

スウェーデンの当時の前衛はドイツ音楽、とくにシュトックハウゼンの影響がある。作曲した時20歳だったニルソンのピアノ曲にもその影があった。西ベルリンに3年もいたのに、ダルムシュタットに集まった前衛音楽の流れとはまったく接点がない。なぜ興味がもてないのか。おなじ活動の場にいても、見えているものはちがい、そのちがいをことばで表せるほどはっきりと気がついてはいないまま、外側の観察者にとどまっているのが、内側の人間にはなんとなく感じられるのだろう。

家の前の坂を海と反対の方向に上るとまばらな木のあいだに小さな池がある。鳥も鳴かず、静まり返っている。その風景はスウェーデンを離れてからも夢にくりかえし現れる。

西ベルリンから手紙が来た。後半年分の助成金が残っている。とりあえずストックホルムから出ることができるが、ベルリンにもどっても住むアパートはない。家族を日本に帰し、デ・コーヴァ夫人(田中路子)の家の地下室に居候する。隣の部屋にピアニスト荒憲一がいた。まだ知らなかったグレン・グールドのレコードを聞かせてくれる。(続く)