製本かい摘みましては(152)

四釜裕子

月に一度、原稿を受け取りながら会っていたひとに30代の終わりに失明していた方がいる。本でも雑誌でも映画でも耳で読んで観ていて、その量たるや、すごかった。人工透析のあいだは、お気に入りのアナウンサーが朗読するものをおもに聞いていたようだ。ほとんどは一度しか聞かないというのに、読んだものについていつもおもしろくこまごまと的確に話してくれた。「目で読むほうが、そりゃあ速いですよ」と言うのだけれど、スピードというのはこの場合もつくづくどうでもいいことだと思った。映画『シン・ゴジラ』を観た直後に会ったときには、往年のゴジラマニアとはいえストーリーのみならずビジュアルにいたるまで、こちらがまったく気づかなかったことまで教えてもらった。確かゴジラ好きのひとによる音声ガイドを聞きながら都内のユニバーサルシアターで観たと言っていた。あのひとの記憶力と読解力はやっぱりイジョウだったかもしれない。音声ガイドのひともかなりイジョウな能力の持ち主と思う。イジョウの2乗は最強。

そのひとが急逝してまもなく1年になる。透析のあいだ好んで聞いていたという朗読をネットで探すうちに、Audibleのサイトに行き着いた。オーディオブック系のサイトをのぞくのは久しぶり。ずいぶんいろいろなジャンルが出ている。落語もある。ニュースやヨガ、ラジオの番組もある。そうか、みんな「オーディオブック」でもあるわけか。「NHKラジオ深夜便」のコンテンツもある。花山勝友さん、鎌田實さん、安保徹さんなど、1時間弱の人気のインタビューだ。Audibleの「ヒストリー」を見ると、セントラルパークをカセットテーププレーヤー片手に長年ジョギングしていたドナルド・カッツさんが、ネット上でのデジタルファイル変換にたどりついて1995年にAudibleを設立。1997年に世界初のポータブルデジタルオーディオプレーヤーを発売して(スミソニアン博物館に保存)、2008年にアマゾン組となる。2015年に世界で6番目の国として日本でもサービス開始、2018年からダウンロード形式になったようだ。日本ではほかのオーディオブックもだいたい同じころに始まったのだったか。

サンプルもたくさん用意してある。聞いてみた。『人生がときめく片づけの魔法』はささやきボイス。『留学しないで英語の頭をつくる方法』は人工音声みたいな肉声。『ハリー・ポッターと賢者の石』は演劇調。『理由』は「……であった(ha~)」みたいに語尾が無声で伸びるタイプ。『コンビニ人間』がいい。朗読は大久保佳代子さん。聞きながら最寄りのコンビニが頭に浮かぶ。バイトはほとんどアジア系の留学生でみんな優秀。先月レジでわたしの前にいた観光客が無茶なお願いをしていたので「大丈夫だった?」と声をかけたら、笑顔で「シカタナイデスネ」。うれしくなった。都心でよく行くコンビニはむかしの女教師みたいな店長の声かけ指導が徹底していて、バイトの留学生が「いらさいませ」「ありがとざいます」となってしまうのに心をいためているのだけれど、ここはそういうことがないのもいい。

『コンビニ人間』の朗読はサンプルなので5分だけ、主人公が子どものころに、死んだ青い鳥を食べようと言ったあたりまでだった。ナレーターのコメント欄にあった「8回くらいクスッとくる」には遭遇しなかった。詩もある。雰囲気たっぷりだったり音楽をつけたりして過剰なものが多い。『Becoming』は、著者のMichelle Obamaさんが読んでいる。とにかく読み手がいろいろだ。

作家と作品と朗読者による舞台、そこに聞き手として加わるのは楽しい。ところがその舞台があまりにも完璧で、作品と声がもはや分かちがたくなることもある。わたしにとってそれはたとえば、石澤典夫さんの声と夏目漱石「夢十夜」(なかで特に〈日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。ーー赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、ーーあなた、待っていられますか〉)と、高橋悠治さんの声と北園克衛「熱いモノクル」(なかで特に〈まづいピアノを弾く〉)。分かちがたいというよりは、乗っ取られたという感じすらする。作家1、作品1、朗読者1という舞台を聞き手は頭でいつでも勝手に独占する。

あのひとの頭のなかは、本も雑誌も映画もなにもかもがこんな舞台でいっぱいだったのかと改めて思った。体の端々まできゅんきゅんに詰まっていたのだろうと思った。

墓日和

璃葉

墓参りをしよう、という思いつきは突然にやってくる。もちろんお盆やお彼岸、誰かの命日があって墓に参る日というものはあるけれど、どれにも当てはまらないときがある。そしてそのタイミングはあまりにもあっさり、すっきり決まる。−なんか、墓参りしたいね−という軽い流れで。

澄んだ青空を目の前にして、おんぼろの軽自動車で急斜面をのぼり、高台にある寺の敷地に入る。ぐねぐねと曲がる細い道を通り抜け、なだらかな坂を下ると、見晴らしのよい風景が現れた。街と街の間を流れる大きな川、山の連なりが見えて気分がいい。

敷地の丘には数えきれないほどの墓石が所狭しとならんでいて、私の先祖たちの墓もそのなかにある。きっちりと場所を覚えているわけでもないのだが、行けばわかるものだ。確かここの階段をだいぶのぼったあのへん、というようなおぼろげな感覚で探し当てる。

墓の花立や水鉢には雨水がたまっていた。前回来たのはいつだったか。だいぶ前だということを、墓石の汚れが物語っている。使い古したスポンジで磨くが、黒ずみは擦っても落とせない。今回は諦めることにして、袋から数珠や蝋燭立て、線香などを取り出し、花を生ける。強風が吹いてきて、蝋燭になかなか火をともせない。髪の毛があっちに行ったりこっちに行ったり。いつもこうだよね、と姉とぼやきつつ、マッチを数本無駄にしたところ、ライターでなんとか点火。数珠を持ち、しばし手を合わせる。目を瞑れば頭の中は言葉もなく、静かだ。まぶたの奥に黄色やピンク色がぽこぽこと浮かんでは、消えていく。ほんの数秒の祈り。

片付けをして長い石段を下ると、古びたベンチに野良猫が2、3匹、あるいは4匹、日向ぼっこをしていた。静かで広く、木々もたくさんあるこの土地は考えてみれば、猫たちにとっては絶好の住処だ。尾張の血生臭い歴史が染み込んだ文化財が今や猫天国となっているのは微笑ましい。皆毛並みがよく、日の当たる暖かい石畳に寝転がって幸せそうな表情をしている。水を飲むためのボウルまで置いてあるのだから、寺の人たちがちゃんと見守っているのだろう。

墓参りついでに本堂にも寄り、鐘をつき、一仕事終えたような晴々とした気持ちで車にもどる。そして駐車スペースにも、やはり猫。

平日の昼間だからか人も少なく、のんびりとした時間が流れていた。なぜ今日、墓参りをしたのかはわからないまま。見えないものに助けを求めたいのかもしれない。墓をきれいに整えたい気持ちも。もしくは、憩いに集う猫たちに会うために。

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ボロブドゥール(晩年通信 その7)

室謙二

 インドネシアのジャバ島に、仏教ピラミッドがあると知ったのは、いつのことだったか?還暦のときに、洞窟に描かれた壁画を見に中国の敦煌まで行った。七十歳のときは、ボロブドゥールに行こうということになった。
 Nancyがオーストラリアで仕事がある。私は東京で人に会わないといけない。ずいぶん長い間いっしょに旅行していないね。どこかで休暇をすごそう。
 太平洋を中心とした世界地図をひろげて、カリフォルニアとオーストラリアと東京の三角形を見ていると、ジャワ島があった。ジャワ島の東の端にはバリ島もある。妻はジャワ島には興味を示さなかったが、「バリ島」と聞くと急に元気になった。だけどジャワ島のボロブドゥールもいいなあ。と言ったら、それはなに?
 もっとも私だって、ボロブドゥールのことなんかよく知らない。でも分かったふうなことを言う。仏教ピラミッドなんだよ。ジャワ島はもともとインドのヒンドゥー文化でしょ、そこに西からイスラム教がやってきて、いまでは人びとはモスレムになっている。だけどジャワ島の東の端のバリには、インド文化がのこった。インド仏教とヒンドゥー教にイスラム教が重なって、もとからある土着の信仰もあるし、多層文化らしいよ。
 ボロブドゥールは、仏教の時代が作ったピラミッド遺跡なんだ。仏教と聞いて、彼女はいよいよ興味を持った。十年前に敦煌に行ったでしょ。あれは仏教の影響の西北のはじで、バリ島は仏教文化の南東のはじだね。と地図を見せた。
 私たちはカリフォルニアからインドネシアまで飛んで、ジャワ島とバリ島で休暇をすごす。それから私は北に東京に飛ぶ。Nancyは南にオーストラリアに行く。とすぐに決まった。

  ピラミッドのストゥーパ

 ボロブドゥールは一片が一一五メールの四角の基盤の上に、九層の石階段ピラミッドがのっている。世界最大級の仏塔(ストゥーパ)である。エジプトの大ピラミッドの基盤の一片は二三〇メールだそうだから、ピラミッドとしては大きくない。高さは三十メールと以上あり、もともとは四十メール以上あったらしい。石の積み重ねの回廊を上がったり降りたりするのは、そうとうに怖い。石の一段一段は普通の階段よりずっと大きい。うっかりすると、落ちて頭を打って死ぬかもしれないぞ。
 回廊には天人やら鳥や獣、植物文様が描かれている。九世紀には完成したらしいが、その後、大乗仏教の後退とともに森林の中に埋もれてしまった。発見されて発掘が始まったのは一九世紀であった。インドネシアはいまはイスラム文化圏で、仏教徒はほとんどいない。だからボロブドゥールは、インドネシアにとっては現在の宗教寺院ではなくて、過去の遺産、観光地である。 
 それをわざわざカリフォルニアから見に来たのは、世界唯一の特別なものだと思ったからだった。仏教ピラミッドである。ピラミッドが仏塔になっている。
 ピラミッドは有名な北アフリカのものだけでなく、メキシコから中南米にある。メキシコのは一九七〇年代に見に行った。インドにも南ヨーロッパにも、北アメリカにもある。世界各地にある。ピラミッドの形は、どこかにオリジナルがありそれが世界に広がったのではなくて、どうやら人間の持つ、天に向かう空間認識の基礎的な形らしい。北アフリカのピラミッド、メキシコのピラミッド、それにジャワ島のピラミッドは、なんの関係もない。それぞれが独立して作られた。
 そしてこのピラミッドには、仏教がやってきた西の世界、またインドを通り過ぎた西、ギリシャにいたるまでのモノとか人が刻まれている。敦煌の壁画には天使が描かれていて、これはギリシャの影響だろうが、ボロブドゥールでさがしたら、やっぱり翼をもつ天使がいました。これもギリシャの影響だろう。それにアジア人ではない、長い髭をはやした背の高いヨーロッパ人がいる。
 人びとはこの仏塔で、どのような宗教的な儀式をして、どのような宗教的な感情を持ったのだろうか。インドからここまでやってきた仏教は、いま東南アジアにある上座部仏教ではなくて大乗仏教であった。観光客の私たちは、日が昇るときと日が落ちるときの両方を、ボロブドールの頂上から見ていた。そして他の白人観光客とちがって、私はポケットに入れていた般若心経と観世音菩薩普門品をとりだし、唱えたのである。
 ピラミッドに刻まれている人とかイメージを見ると、これは多層的な多様的な仏教であったことが分かる。西はヨーロッパからインドから東南アジアの、さまざまな要素が結びついている。日本のいまの葬式仏教からは遠く離れている。この多様性・多層性はバリ島に行っても同じである。

 バリ島で料理をする

 私はバリ島で観光客だったので、それらしいことを探して、ホテルでバリ料理のクラスがあることを見つけた。バリ料理といっても特別なものではない。中国料理、インド料理も少し、東南アジア料理がまざっている。蒸したもち米、野菜炒めに焼きそば、赤い唐辛子、豆腐の厚揚げ、それにサティ。ピーナッツ・ソースを付けて串揚げ。バナナの皮で包んで料理する鶏肉。エビも焼き魚もあり。それらをセンセイに教わりつつ作ってから、Nancyと私とセンセイで食べた。おいしい。それに暑い田んぼを歩いていたら、ヤシの実がころがっている。それを見ていたら少年がやってきて、ヤシの実の汁をのみたいか?
 飲みたいと言ったら、するするとヤシの木に登って、実を落としてくれた。ナイフで一部を削って、中にストリーを入れて汁を飲みます。あとで汗が、ヤシ臭くなる。それは知っている。
 
 観光客なので、バリ島の踊りも見て、ガムラン音楽も聞きに行きます。独特の音階だね。床においた大きな鐘を叩いてメロディーが作られ、太鼓が低い音程でリズムをきざむ。ヨーロッパ音階をもとにした音楽とは、まったく違う。
 女の人はお尻を突き出した独特な格好で踊る。最後に恐ろしげな男、神の一人なのだろう、がでてきて踊りまくって、焚き火の上に立って裸足の足で、火を踏み潰して消してしまった。驚いた。この男は、すでにこの世からあの世に行ってしまっているので、ヤケドもしないし痛くもない。のだろうか?
 バリ島には仏教の寺がたくさんある。その一つの門を入ったら、老人が出てきて、ここは私の家です。とカトコトの英語でいった。スミマセン、お寺だと思ったので、と言ったら、私の家のお寺です。個人の敷地の中に小さな寺がある。それでその老人といっしょに寺をお参りした。ブッダとヒンドゥーの神々が祀ってあった。
 ここは、モーターサイクルの世界でもある。二人乗りはもちろん、三人乗り、こどもを二人載せた夫婦の四人乗りもあり、通りをぶんぶん走っている。市場は楽しい。果物を買って食べる。カリフォルニアへのお土産は、バティーク(紅型)だな。バティークを作っているところまで出かけて買いました。
 二十代後半からはじめて七十歳まで、世界各地のいろんなこところ旅行したが、もう一度行きたいとしたらどこか?
 バリ島です。

訃報続き

冨岡三智

ここのところ、お世話になった方々が連続して亡くなった。追悼の意を込めて少し思い出について書いてみる。

昨年末の12月29日にはスプラプト・スルヨダルモ氏(74歳)が亡くなった。在野で国内外の舞踊家に大きな影響を与えた舞踊家で、私も尊敬する舞踊家の口からプラプト氏のことについて聞く機会が何度もあり、氏の影響力をつくづく感じたものだ。氏は聖なる場や自然と一体化し、内的なものから生まれる動きに従って踊る人だった。実はサルドノ・クスモ氏と同年(1945年)、同地域(スラカルタ市クムラヤン地域、宮廷芸術家が多く住んだ地域)の生まれである。この2人がジャワの現代舞踊の2大潮流をつくり出したと言って良い。氏は海外で指導することも多く、1986年にスラカルタに開いたスタジオ「ルマ・プティ」では国内外から学びに来る舞踊家を受け入れ、舞踊イベントなども開いていた。私も何度かそこでのイベントに参加したこともある。それ以外に、毎年大晦日から新年にかけてはヒンズー教のスクー遺跡でスラウン・スニ・チャンディ」(遺跡での芸術の集い、の意)というイベントを開催されていた。私も2011年大晦日に声をかけていただき出演したが、観光文化省の信仰局長やスラカルタ王家のムルティア王女を来賓に迎えるほどの規模の大きなイベントだった。

今年に入り、1月18日には留学していたインドネシア国立芸術大学スラカルタ校教員のサルユニ・パドミニンセ女史(61歳)が亡くなった。私が芸大に留学した時に1年生の基礎の授業を受け持っていたのがサルユニ女史だった。私にとっては芸大授業で初めて習った女性の先生である。2度目に留学した2000年、ちょうど芸大に開設された大学院に入学したサルユニ女史は、私がジョコ・スハルジョ女史から受けていた宮廷舞踊のレッスンに、もう1人の教員と一緒に参加してくれた。そして2000~2003年の3年間はずっと一緒にジョコ女史の元で宮廷舞踊を練習し、2002年にはジョコ女史も入れて4人で芸大大学院の催しで『スリンピ・ラグドゥンプル」完全版を踊った。その翌年にはジョコ女史の息子が振り付けた公演でも一緒に踊り、2006年と2007年に私がスリンピとブドヨのプロジェクトをして3公演を制作した時にもすべて出演してもらった。芸大の授業では先生は見本を見せてくれるとは言え、最初から最後までついて踊ることはしない。しかし、長い宮廷舞踊をずっと一緒に踊る時間を共にできたことは、今から思えば非常に贅沢な時間で、言葉にならない影響をいろいろ受けたように思う。

1月22日にはバンバン・スルヨノ氏(芸名:バンバン・ブスール氏、60歳)が、翌1月23日には岩見神楽岡崎社中の元代表の三賀森康男氏が亡くなった。2人は、私は友人たちが2008年に企画したジャワ舞踊と岩見神楽の共同制作に参加して島根で『オロチ・ナーガ』を一緒に作り上げてくださった方々である。バンバン氏はマンクヌガラン王家の舞踊家として活躍するだけでなく、2000年に大学院が開設されて以降はサルドノ氏の助手として指導にあたり、呼吸や声についての独自のメソッドを持っていた。島根で公演した時には舞踊のワークショップもしてもらったのだが、バンバン氏の呼吸法や声にものすごく私の身体が感化されて、あくびが止まらなかったことを覚えている。三賀森氏は社中の中で最も年長ながら、最も柔軟な姿勢で受け入れてくれた。伝統を極めた人はこんなにも自在なのだと感じた。お互いに長い歴史を持つ岩見神楽とジャワ舞踊の間をつなぐすという経験をして、私は、遠く離れた場所でそれぞれ井戸を深く深く掘り下げていけば、いつかは同じ地下水脈に行き当たるのだな…と感じたことだった。

2019年活動

笠井瑞丈

2019年の活動

1月 『花粉革命』ニューヨーク公演(笠井叡振付)
1月 『高岡親王航海記』 京都l公演(笠井叡振付)
1月 『高岡親王航海記』  東京公演(笠井叡振付)
3月 『あなたがいない世界』M-laboratory (三浦宏之振付)
4月 『世界は一つの肺に包まれている』ダンス専科 (笠井瑞丈振付)
5月 『神々の残照』(笠井叡振付)
6月 『701125』笠井瑞丈ソロ公演
7月 『三道農楽カラク』を踊る(笠井瑞丈 上村なおか振付) 
10月 『道成寺』(花柳佐栄秀振付}
10月 『かませ犬』(近藤良平振付)
10月 道頓堀劇場 ストリップショー特別出演
12月 『四人の僧侶』『七つの大罪』(笠井瑞丈振付)

朝が来れば夜が来る
また
朝が来て夜が来て
また
朝が来る

一月も終わります
二月の始まりです

一年というのは本当にあっという間に過ぎていきます

去年の活動をまとめました

色々なことを
やったような
やってないような

去年は新年明け
1月1日にニューヨ-クに飛んで始まった
今年も色々なことに挑戦できたらと思う
一つ一つ大切に作品作りダンスを踊っていきたいと思います

どうぞよろしくお願いします

いざ、東京2020へ、日本晴れ!

さとうまき

2020年は、大きな転機になりそうな年だ。なんといっても東京オリンピックと戦後75周年が同じ時期に重なる。アメリカの圧力で、8月になったらしいが、閉会式が8月9日というのも気になる。国連事務総長をはじめ各国の要人がこの時期に来日するから、日本が閉会式で、核兵器禁止条約に署名でもすればまさに日本でオリンピックをやった意味がある。

昨年、サッカーのオリンピック代表チームのユニフォームの発表があって、それがなんと迷彩色そのもので驚いた。「日本晴れ」をテーマに雲をちりばめたらしいのだが、どう見ても、海兵隊や海上自衛隊の軍服そのもので違和感を覚えた。

中東では、青の迷彩は、警察が着ることが多い。国際試合などで政治的に微妙な国同士が対決する場合は、青の迷彩を着たポリスがピッチの周りに配備され緊張感を醸し出す。しかし、日本人の多くは青の迷彩に戦争のイメージを感じてないようで気にならないようだが、もう少し気の利いたデザインはあったはず。一体だれがこういうのを考えるのだろう。

一方、日本サッカー協会は、昨年暮れに親善試合を広島、長崎で開催し、オリンピックイヤーに向けて、サッカー選手がヒバクシャの話を聞いたり、千羽鶴を慰霊碑に献上したりして盛り上げていた。森保監督は、長崎で育ち、広島でプレーした。2014年のインタビューでは、「ここでたくさんの人が亡くなられて、そういう方々の犠牲があって、今の我々の豊かな暮らしがある。幸せな暮らしがあるということ。そこは忘れちゃいけない。広島という都市で活動するものは、活動する意義を忘れちゃいけない」と広島ドームの前で涙ぐんでいた。いい監督だなあ。選手たちも、森保監督は謙虚な人で、意見を聞いてくれて素晴らしいという。

新年早々に、オリンピック出場権をかけたU23の選手権がタイで開かれた。日本は開催国なので、参加が決まっているが、残りの3か国をアジアで選出する大会だ。シリアと日本が同じ組だったので、僕は、シリアを応援していたが、なんと、日本は後半の残り数分のところで失点し負けてしまった。TVの解説は、シリアの選手が倒されていたがっていると、「わざとだ」というような下品な解説もあり嫌な感じだったが、
相馬選手は、インタビューで「やっぱり得点のあとにああやって泣いて地面にうずくまって喜ぶ選手がいたり、僕らも全力で戦うというのは話しましたけど、そこは本当に賭けているものが違うなというのは身に沁みました」と語り、対戦相手の五輪出場に対する気迫をひしひしと感じていたようで好感が持たれた。

結局日本は3試合やって一勝もできなかった。当然監督への批判が高まる。これ、今の日本社会だと思う。TVは今まで、森保監督は素晴らしい人格者みたいな持ち上げ方してきたのに180度変わって、「戦犯」扱いだ。

オリンピックに来るのは、韓国、サウジ、オーストラリアの3か国に決まった。個人的には、今も戦争で苦しんでいるシリアとかイラクに来てほしかったが、オリンピックを平和の祭典にするかどうかは、我々日本人にかかっており、世界から期待されていることを忘れてはいけないと思う。森保監督の平和主義者の部分はめげずに強く打ち出してほしいものだ。

しもた屋之噺(217)

杉山洋一

巷で「断捨離」という言葉をしばしば耳にするようになりました。特に物欲があるのでもなく、趣味らしい趣味もなく、不要物など捨てるよう常に心掛けていても、少しずつ家に物が増えてきました。ただ最近では、それは自分が音楽を生業にし、生きてゆく上で、過去から連綿と続いてきた時間の重さを、誰かがそれとなく教えてくれているようにも感じるようになってきました。

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1月某日 三軒茶屋自宅
元旦、珍しく家族揃って町田の実家で朝を迎えた。目が覚めると、子供の頃から使っていた黒漆の重箱と屠蘇器が食卓に用意されていて、息子がさも嫌そうに屠蘇を呷るのが愉快だ。そうして、揃って幼少から食べつけた大根のみの雑煮を食べる。
昔はこれに巾海苔をかけて食べたが、何時しか巾海苔も手に入り辛くなってしまった。この雑煮は元来網元だった湯河原の祖父の処で食べていた。

日は既に沈んでいたが、元旦の晩少し時間もあり、ちょうど湯河原を通りかかったので、思い切って家人と二人で祖父母の墓前に駆け付け、線香を焚き手を併せた。流石に店はどこも閉まっていて、仏花は買えなかった。
英潮院に届く吉浜の波音が心地よく、顔を上げれば満天の星が輝く。日暮れ後に墓参するものではないと言うが、何時でも出かけられるわけもなく、幼少から通い馴れた墓だからと許してもらう。尤も、家人が電灯を照らしていなければ、漆黒に月明りだけでは石階段の足元も覚束なかった。

1月某日 ミラノ自宅 
息子に付添ってノヴァラに出かけた際訪れた、分割主義(divisionismo)展覧会に強い衝撃を受けた。以前から興味があった社会派の画家モルベッリ(Angelo Morbelli 1853-1919)の、ミラノの回顧展に行きそびれたから足を運んだのが切っ掛けだったから、当初分割主義そのものには興味はなかったが、実際に眼前で彼らの作品を目にして、鳥肌が立つほど強く心を動かされた。

モルベッリの作品は、写真でしか見たことがなかったので、実物にこれだけ感動するとは想像していなかった。モルベッリだけではない。セガンティーニ (Giovanni Segantini 1858-1899)もロンゴ―ニ(Emilio Longoni 1859-1932)もフォルナ―ラ(Carlo Fornara1871-1968)も、写真からは到底想像できない筆致の瑞々しさと生命力に圧倒された。
ただ、写真と実物の印象がこれだけ乖離した体験は生まれて初めてで、すっかり当惑してしまった。実物を見て改めて写真で鑑賞しても、やはりさほどの感動は蘇らない。そこに興味を覚えて、数日後また息子を連立って展覧会へ赴くと、やはり実物に刻み込まれた筆致の一つ一つは、そのまま身体に響いてくるようである。

当世流行りの三次元絵画などより、手で書き込まれている分、妙に生々しい。以前から特に愛好していたボッチョーニ初期作が生まれる源を目の当たりにしているのだから、興奮せずにはいられない。
分割主義はスーラの点描画法に似て非なるもので、フランス新印象派の点描画と比較すると、そこには音楽、料理、言語、全てに共通する、近くて遠い伊仏文化の差異が明確に浮彫りになる。

女性の社会進出や識字率向上、貧富格差への社会批判など、分割主義の作家が好んだ主題もフランス印象派とは一線を画すが、何より印象派一般の風景が浮き上がるような効果と、分割主義者らの風景をカンバスに刻みこんでゆく効果は、ほんの少しゴッホを思い起こすところもあって、寧ろ反対の印象さえ受ける。今改めてイタリア印象派と呼ばれるマッキア派(macchiaioli)の作品を眺めれば、何か違った印象を持つかもしれない。

分割主義からは、イタリア統一運動に寄り添うヴェルディの触感はもちろん、蓬髪派(scapigliatura)に参加したクレモナ(Tranquillo Cremona 1837-1878)に端を発して、同じ蓬髪派だったボイトの世界観、ヴェリズモオペラの誕生に至るイタリア近代音楽史にまで思いを馳せることができる。
あれだけ丹念に一本ずつ書き連ねた光線に至っては、やはり写真では絡み取ることができないのだろう。

1月某日 ミラノ自宅
アルフォンソよりメッセージが届き、「天の火」のDVDが出来たと聞いて、少々愕いてしまった。
この曲はアルフォンソも親しかったフランコ・モンテヴェッキ(Franco Montevecchi1942-2014)が亡くなった折、彼と残された夫人のために書いたのだが、フランコは裕福な家庭の生まれで、音楽にも幼少から親しんでいた。彼の母親はピアニストだったから、家には旧いスタンウェイが残っていて、フランコ自身もピアノをよく弾いた。

そうして晩年までミラノとトリノの工科大の教壇に立ちバイオエンジニアリングを教えていたが、数年癌で闘病したのち亡くなったのは2014年だったから、もう五年が過ぎたことになる。彼とミーラ夫人は、工科大近くに大きな邸宅を構え、そこで演奏会も何度となく開いていたが、残されたミーラは自分には広すぎるからと、昨年暮れ近所の小さなアパートに引っ越した。

そうして以前の邸宅に残っていた家具の多くを、ちょうど昨日、ミーラや生徒に手伝ってもらい、拙宅に運びこんだところだった。だから、アルフォンソからの便りに吃驚したのだ。

どの家具も元来フランコの家から受継いだもので、ミーラとフランコに子供がいなかったので、拙宅へやってきた。
どれも1900年かそれ以前のものらしいが、詳細はわからない。ただ、現在の家具と違ってそれぞれ強く主張し、個性的な存在感を醸し出している。それらが置かれていた以前の家は、寧ろ実にモダンな造りで、地下室の天井も一面ガラス張りだったが、消防法に抵触するから、売却するため天井もすっかり造り替えられ、演奏会やレッスンに使った、光が差しこんでいた地下の広間は、夜のように真っ暗だった。

この家で、友人たちとアンサンブルを練習を始め、何度となく試演会を開き、友人を招いては少しずつ活動を広めていった。フランコは家人のピアノが好きで、何度も演奏会を開いてくれ、フランコは最後まで彼女のCDを喜んで聴いていた。
真っ暗の家を出る時、ミーラが「Ciao! Casa! サヨナラ!家さん!」と声を掛けていて、流石に胸に込み上げてくるものがあった。

この家具を受け入れる用意をするべく数日間家の整理をしていると、「坊ちゃんのご誕生おめでとう!!洋一くんが僕んちに来てたときのことを思うと、夢のようですね。お母さんになった方ともどもお大事にね。幸せを祈ります。僕は今夏ここで静養しています。軽井沢 三善晃GIAPPONE」という端書きが出てきた。懐かしく読み返していて、ふと気が付くと、その日がちょうど三善先生のお誕生日だった。

年始に荻窪のお宅に伺ったとき、由紀子さんが留学中に同宿していたルーマニア人に教わったというカリフラワー煮込みと、彼女のお父上のチェコ土産のシェリーグラスで、美味のシェリーを振舞って下さったのを思い出す。それどころか前回に等しく、先生が使い残した五線紙と、宗左近さんから贈られた古い蕎麦猪口二客迄いただき、甚だ恐縮する。

ほぼ酒もやらず骨董のコの字も分からない輩には、猫に何某、豚に何某だが、もう何年も肉も食べていないから、そこだけ先生に近づいたかもしれない。先生も滅多に肉は召し上がらなかったと、亡くなった後で由紀子さんが教えてくださった。頂いた端書きを、四客の猪口の下に飾る。

1月某日 ミラノ自宅
林原さんから借りたヘルゲルの「日本の弓術」は、実に含蓄に富む。日本文化をヨーロッパ人が理解するためには、かかる噛砕いた説明が必須であって、ならば逆もまた然りかもしれない。
ヘルゲルは我々と正反対の疑問に苦悩していて、合点がゆく部分もあり、不思議でもある。

自分と音の間に空間があって、そこに感情を込めると音は鳴らないし、輪郭も曖昧になる。クラシック音楽は、西欧の構造やその階層に則って構成されているためか、ほぼこの傾向にある。

我々日本人の特質として、一音入魂が生来備わっているのは、ヘルゲルから見ればどれほど羨ましかっただろう。無になること、無心になること、これは西洋的に考えれば、一音入魂してそこに同化している状態かもしれない。確かにその特質こそが邦楽の美学の礎となっている気もする。

そう考えれば、感情から発音された楽音では、全体を構造的に構築すべき西洋音楽には、表現手段として向かないのが理解できる。音一つ一つが意味を持ちすぎて、文章にならないともいえるし、一語一語が本来それぞれ繋がりたいと欲しても、完結した感情通し関連できないのかもしれない。

それとは別かもしれないが、日本人であろうとイタリア人であろうと、気持ちが先走って音がすくむとき、ちょっとした切っ掛けで視点が変わって、まるで頭にぽっかり第三の眼が開いたように耳が開くのは何故か。自分と音との間に感情の澱が淀んでいなければ、発音された空間の向こうで、気持ちは自然にすっと響きに入り込み、聴き手までそのまま飛んでゆく。

学生たちの耳の訓練も長く担当しているが、そこでは、音を耳で聴かずに、気楽に目で音を見るよう口を酸っぱくして教える。耳で聴いていると、集中するほどに、それは脳が自分に読み聞かせる音となり、現実と相容れなくなる。発音の前に気持ちで押し出すと、脳内の音に気持ちが籠るだけで、現実の音には反映されないのかも知れない。
余程馴れてない限り、楽譜に書かれていることを正しくやろうとすればするほど、音は表情を失ってゆく。正しい音楽など本来存在しない筈なのに、それを求めようとするからか。

人それぞれ話す言葉も使う語彙もイントネーションも違うが、最低限の文法規則は守って話しているのと同じで、音楽上の文法さえ間違えなければ、話す言葉はそれぞれ違ってよい筈だし、誰かの真似をしても、それは似非音楽に終わるだろう。我々素人が正しい日本語を話そうとすればするほど、自らの感情から乖離した、規則的な別の言語になってゆくはずだ。

西洋音楽上の文法とは、音楽を構成する各要素を、順番を間違えずに階層状に並べてゆくことではないか。一番下に構造があり、その上に和声があり、その上に旋律があり、フレーズがあり、強弱や音色などがその上にあるべく、バロック期から後期ロマン派まで、一貫してこのヒエラルキー構造を保持してきた。

例えば、構造上にそのまま強弱を載せれば、強弱に幅がなくなる。強いか弱いか、その程度の意味しか為さないので当然だろう。実際は構造と強弱の間には、さまざまな層が複雑に入り組んでいて、その上に強弱が載っているから、一つとして同じ弱音も強音もない。

一切の強弱の記号を排し、書かれた音を繰返し吟味した後で、その上に載せられた強弱と対峙すれば、より積極的に強弱記号と向き合うことができる。古典派のごく簡潔な指定にも、ウィーン後期ロマン派の一見不可思議な指定にも、同じ姿勢で向き合えるはずだ。第二次世界大戦とともに、かかるヒエラルキーは崩壊したとも言えるが、連綿と継承してきた音楽形態で演奏する上に於いて、本質的にあまり変わっていないようにも見える。

そのようにして楽譜を勉強した後、では自分がこの楽譜からどんな風景を、どんな色を、どんな匂いを感じ、表現したいと思うか。音符から頭が離れて、自分の世界を映し出した途端に、溢れるようにそれぞれの個の言葉を話し始める。それは本人にも他者から見ても不思議な光景で、何故かと問われても、何が起きているのか尋ねられてもよくわからないが、ともかく楽譜から音が解放される様は詳らかになる。

たとえば、先日もベートーヴェンの交響曲一番第一楽章の勉強を始めた二人の生徒に何を表現したいかと尋ねると、一人は自分が住んでいるヴェローナからミラノまで、18世紀風の汽車に乗りながら車窓に眺める風景(実際その時代未だ汽車は通っていなかったが)と言い、もう一人は、自分の住むノヴァラの市民を沢山載せた大きな現在の汽船が、河で火災を起こして人々が逃げ惑う姿だと言う。

因みにその彼曰く、二楽章は光景こそ浮かばないが、一面銀色か黄金色に耀いていると言うので、哀れなノヴァラ市民が昇天し後光が差す様なのか、と皆に大笑いされていた。ベートーヴェンの一番で、かような想像は普通は出来ないが、奇天烈であればあるほど、寧ろ強烈に身体に残像が残るのかもしれない。

国立音楽院で長くチェンバロを教えているルジェ―ロがレッスンに来たときは、モーツァルト「リンツ」第一楽章は、ミラノ南部の田舎をよく晴れた五月の週末に夫人と散歩する様で、第二楽章は夫人と夜半、静かに語らう様だと言ってから、これだけ持ち上げたのだから、夫人には大いに感謝してもらうと笑っていたが、その後で振った彼のモーツァルトは、音も深く、春の風景の光と匂いが漂ってくる実感を伴っていて、一同驚いたものだ。

実際内容はどうでもよいのだが、自分で何某具体的に想像し、口に出した後で演奏すると驚くほど音が変化する。別に自分が思い描いているものを他人に説明する必要もないし、常にそうすべきものとも思わないが、少なくとも楽譜の中に音楽はないと実感するのは無駄ではないだろう。指揮に関して、技術は本質的には意味がないのかもしれない。

(ミラノにて1月25日)

モロッコ

管啓次郎

いつ地中海をわたったのか気づかなかった
モロッコに着いてから海を見に行った
赤い空に緑の星が浮かんでいる
海を見ると別の海のことを思い出す
波が思考に通信を送りこんでくるのか
それでぼくらはカーボヴェルデの歌を聴きながら
ハワイ諸島の海辺のようすを語った
黄色い夕方が雨のように降って
灰色の海を記憶の狩り場にする
鷹匠を呼んできて小鳥たちに
この海は迂回してよと知らせなくてはならない
Aは力士のように大きなモロッコ男の外交官(詩人)
Zはリスボンで暮らすフランス語教師のブルガリア女(詩人)
出会って一時間にもならないのに
もうわれわれは詩をサッカー試合のように
熱烈に議論している
並んで磯に立ち、波を浴びそうになりながら
世界の背後にある詩を競馬のように予想している
言葉よりもイメージの破線を
直接波から借りられるなら
やがて三人で同時に呼びかけてみた
海よ、来い
波よ、来い
ここにはいない栄螺よ、のろのろとやって来い
ぼくらが声をそろえて「海!」というとき
その一語の背後に世界のさまざまな海がある
時空に隔てられた遠い海たちが
呼びかけられてたちまち集結する
緑色、ターコイズ、青色、群青色
それぞれの声がひらめや昆布や
プランクトンを率き連れてやってくる
水と水が記憶かお菓子のように
層をなして現われる
風の薔薇のように並んだ鰯をつまみながら
立ったままビールを飲んでいるのだ
いつでも駆け出せることを願いつつ
実際いつでも過去に戻ってゆけることを望んでいる
そんな心にとって過去と未来の区別はない
町(Rabat)に戻ると心が落ち着いた
ずんぐりした椰子の並木を歩いていると
ジャン・ジュネがずんぐりした坊主頭で
にっこり笑っている
「おれはその先のホテルに住んでいるんだよ
駅のそばの」
サインを下さいといいかかったが
死者にペンが持てるものだろうか
イメージでしかないのだ
肉体も存在もないし声もない
すぐ別れて看板を頼りに進んでゆく
アラビア語とフランス語ともうひとつ
知らない言葉の文字をときどき見かけている
意味も音もわからないのでそれは
ぼくには文字とはいえない
砂漠よりももっと遠い土地に住む
知らない民族の言葉らしかった
バス通りをわたると
旧市街地(Medina)に迷いこんだ
働いている遠い土地の民族の
背の高い女が頭よりもずっと高く手をあげて
その位置から見事にお茶を注いでくれた
サルト・アンヘルのような細い細い滝に
つかのまの虹が浮かぶ
野原のようにたくさんの葉が入っている
甘いミント茶を飲んで力をつけて歩いた
細い石畳の道がひんやりとつづき
あらゆる街路が二つに分岐してゆく
犬たちがいつのまにか集まってきて
何もいわずに後をついてくる
犬を集める檻をろばが牽いて行く
五百年前にもここを歩く他所者がいただろう
その誰かはあるいは中国語の
いずれかの方言を話したかもしれない
梵字が読めて
アラビア語のカリグラフィをよくしたかも
石造りの家はどこもしずかで
時間の水に沈んでいるみたいだ
五世紀前
「私」はまだいなかったが
「私」に連なる遺伝子はすでに誰かに乗っていた
何も覚えていないけれど
「私」の兆しはすでにあった
その先にある噴水の広場には
いまと変わらず立っていたことがあったかもしれない
私になる以前の私が曖昧な顔をして
そこは世界=歴史のメタフォリックな中心?
メタフォリックな中心に立つとき自分もまた
メタファーになる
何かを携えている
それを見ている自分はそこにいながら
遠心的に世界の縁をさまようことになる
ひとつの建物からウードの音が聞えてきたので
ついふらりと迷いこむ
すると意外にも友人たち(AとZ)が待っていて
ここで俳句を作れというのだ
反対する理由もない

 青い町 青インクで夜に 町を描け
 赤い村 赤土で顔を 鬼にせよ
 白い都市 暦の白に 迷いこめ
 黒い空 カラスの群れを 焚きつけろ

Aがにやりと笑う
それは俳句としてはどうかしら、とイッサがいう
「季語」はどこにある?
一茶ではないモロッコ人の彼の名は
アラビア語でイエス(キリスト)のことだが
俳句の知識はぼくよりもずっとたしかなのだ
ぼくは困って照れ笑いをするが
「照れ笑い」とは翻訳可能なのだろうかと
自信が持てない
俳句のためのイメージがなかなか訪れない
雨乞いでもしてみるか
音楽は進む
つい  “Não sou nada…” (私は何でもない)と苦し紛れにつぶやくと
Zがにっこり笑って “Fernando Pessoa” といった
それで救われた
“Nunca serei nada…” (私はけっして何にもならない)
もう夕方だ
記憶が間歇的になってくる時間だが
ペソアのこの言葉が甦ってきた

Não posso querer ser nada.  (私は何かになろうと欲することができない)
À parte isso, tenho em mim  (そのことを除けば、私のうちには)
Todos os sonhos do mundo.  (世界のすべての夢がある)

湖にみんなで行こうとハッサンがいう
ニッサンの車に乗ってしばらく走り
美しい夕方の光の中で
野鳥が集う湖畔を歩いた
そのときの充実はどこか田舎の
郵便局員以外には理解できないだろうな
空が赤く染まり緑の星が見えてくる
いつかはネクロポリス(死者の都)を訪れなくてはならないが
いまは歩きながら白夜の森を思い出している
まだしばらく歩行はつづく
自転車を押しながら歩いたあの道
湖での水切り遊び
凧揚げの思い出
夏の湖が夕方のように光っていた
魚が跳ねたと思ってふりむくと
亀が水面に落ちたらしかった
芭蕉の反復
別のかたちで
誰かがウードをつま弾き
それに答えるように琵琶の音もする
方丈に住んだ鴨長明が
出てきてくれたのだろうか
歌い交わすように
語り合うように
しばらくこの音色を響かせてくれ
この湖畔の光の中で

長い足と平べったい胸のこと(4)

植松眞人

 学校までの道は真っ直ぐで、右にも左にも曲がらずに続いている。二車線の車道があり、両脇に広めの舗道がある。銀杏の並木があって、今はまだ葉っぱが青い。わたしは青い銀杏の葉っぱが大好きで、時々立ち止まって見上げてしまうことがある。
 でもいまはセイシロウとアキちゃんへの苛立ちでガサガサとスニーカーの底を擦りながら歩いている。わたしはいつもスニーカーの底を擦って歩くクセがあり、そうならないように気をつけて歩いているのだが、いまはそんなことに頭がまわらず、学校に着くまでに穴が開いてしまうのではないかと思うほど、靴底を擦りながら歩いている。もしかしたら、右の足と左の足の長さが違うのかもしれない、とわたしが小さなころパパが言っているのを聞いたことがあるけれど、気をつけして立っている時にどちらかに傾いているという気持ちはしない。だからきっと、片側の靴底だけがどんどんすり減っていくのはわたしの歩く姿勢が悪いからだと思う。ずっと前にママが、世の中を斜めに見ているから、身体が斜めになって片方の靴底だけすり減ったりするんだと言っていたけれど、なんとなくそうかもしれない、と思ったりもする。
 だから、いつもは意識して、ほんの少しだけ身体を起こして歩くように気をつける。そうすると、靴底がアスファルトを擦る音が少しだけマシになるような気がする。そんなことを考えていると、ちょっと気持ちが落ち着いてきた。歩く速度を落として、身体を少し起こして、よし、今日これからのことに集中しようとした、その瞬間だった。後ろから、肩を掴まれた。驚いて振り返るとセイシロウだった。
 いつも学校で大人しくて、誰とも話さずぼんやりとして見えるセイシロウが、いまわたしの肩を意外に強い力で掴んでいる。そして、わたしはそのことにかなり驚いていて、さっきまでの腹立ちのようなものを急激に思い出している。セイシロウはそんなわたしをじっと見ている。
「なあ、なんで蹴るねん」
 セイシロウが口を開いた。
「腹が立ったからだよ」
 わたしが答えるとセイシロウは
「藤村はおれのことが好きやったのか」
 と驚き顔で言うのだった。
 わたしは、藤村のその言葉に驚いて声が出ず、ただ呆然としていたのだが、このままだとわたしが図星を指されて恥ずかしくて声も出ないということになってしまう、と焦って、もう一度、藤村の足を思いっきり蹴り上げた。
 藤村はわりと大きな声を出して、私の肩から手を離すと大げさなぐらいに身体をくねらせて倒れた。わたしは、倒れたセイシロウの脇に立って、「誰がお前のことが好きやねん。むしろキショイ。むしろ吐きそう」
 そう言うと、わたしが再び黙って歩き出し、学校へと向かった。すると、後ろでアキちゃんが呼ぶ声がした。
「よっちゃん、ちょっとこいつ締めなあかん」とドスのきいた声で言う。私が振り返ると、アキちゃんは倒れているセイシロウの上にまたがっているのだった。
 不思議なもので、誰かがとんでもないことをしていると、さっきまでの腹立ちが霧散してアキちゃんを止めなければという気持ちになり、わたしは二人のところへと引き返した。
アキちゃんの加勢に戻ってきたと思ったのか、セイシロウが「なんや!」と叫びながら身体を起こした。そのタイミングでアキちゃんがひっくり返った。ひっくり返ったアキちゃんの身体につまずき、わたしは二人の身体を覆うようにうつ伏せに倒れた。わたしたちは三人で片仮名の「キ」という字を書いているように銀杏並木の端っこでしばらく倒れたままになっていた。
 同級生たちはそんな私たちが見えないかのように、うまく避けながら学校へと歩いていった。(つづく)

茹でじらす

北村周一

赤児なりし祖父を抱き上げくれしひと

 男次郎長歌詞に知るのみ

やさしかりし祖父の名を持つシラス舟

 熊吉丸は清水のみなと

海を背に網繕える祖父にして

 かえし来す笑み日焼けしてあり

日酒ちびりちびりとやるは老い人の

 特権にして漁師の午後は

茹で上がりし笊のしらすを簾のうえに

 開けてほころぶおみならの声

うで立てのしらすを口に撮みつまみ

 干しゆく甘きこの茹でじらす

一合の量り升からこぼれたがる

 茹でじらすそをお口へはこぶ

三保沖にシラスを掬いそを茹でて

 日々のくらしは海に賄う

漁終えてガラス徳利一合の

 酒をくきくきのみ干すこころ

羽衣の松はいつしか銭湯の

 極楽絵図となりて名を成す

カラフルな釣り具のわきに釣り師いて

 寡黙なり雨の江尻埠頭に

雨上がりみどり滴る山並みは

 かくも真近し港より見る

この町から抜け落ちてゆくさまざまの

 おもい閉ざしてシャッター開かず

はつなつの三保沖、江尻、生じらす

 月夜の晩に従姉をさそう

茹でじらす晩夏ほろ酔いゆうぐれは

 袖師、横砂、かぜふくままに

183 手紙二題

藤井貞和

若松英輔編『新編 志樹逸馬詩集』(亜紀書房)を、私も求めました。
立川へ出て、ジュンク堂(書店)で装丁に引かれて手にすると、新編志樹詩集でした。
木村哲也『来者の群像—大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち』では、(編集室水平線の、
ホームページによると)志樹さんが故人だったため、取材が叶わず、言及も、
わずかなものになったとのことです。 若松さんは解説で、

  神さまへ
  妻へ 友人へ 野の花へ
  空の雲へ
  庭の草木へ そよ風へ
  へやに留守をしている オモチャの子犬へ
  山へ 海へ
  医師や 看護婦さんへ
  名も知らぬ人へ
  小石へ     (「てがみ」より)

を引いて、明恵の手紙である「嶋殿へ」を思い合わせています。
嶋へ、そして嶋の大桜へ、明恵は呼びかけて手紙をしたためます。
込山志保子さん作成の年譜も、志樹を支える家族や仲間たちにふれて、
心を打つ労作でした。 古書ですが、
思想の科学研究会編『民衆の座』(河出新書、昭和30年)では、
志樹が「病人——西木延作の生活と思想——」という一文を寄せています。

(明恵の友達の義覚坊という人の詠歌は不思議なリズムで、「ウレシサノ アヲフチ(青淵)ニ シヅミヌル ウカブコトゾ カナシカル」という、およそ短歌のリズムから外れており、同道して上京することが、嬉しいのか、悲しいのか、青淵とは何だろう、岩波文庫『明恵上人集』の注には語調が整っていないが、欠脱によるものでなく、本来この形であったか、とある。不可解な「かりごろもこずゑも散らぬ山かげに ながめわぶる秋の夜の月」(これも破調)について、義覚坊じしんの解答に、「かりごろも」は雲のことで、月が着ているのだという。「こずゑ」は雲のね(峰あるいは根)で、雲の先に円座ばかりの雲があるのをいう。「山かげ」も曇れるを言うと。ようするにぜんぶ、雲という次第。一つ一ついわれがあるので、けっしていい加減に作る歌ではないという主張である。「嶋殿へ」のエピソードは『栂尾明恵上人伝記』上に見える。)

揺れる目盛り

高橋悠治

音階理論の前に音階がある 理論ができると 音階はこわばり 自由なうごきの足枷になる

音階理論の前に音程理論があった octachord の前に tetrachord や pentachord 8度周期の枠より もっとちいさい4度枠や5度枠からはじめれば メロディーの線ははるかに自由になる ミャンマーには trichord の枠もある それらの組み合わせだけでなく それらの転換 ベトナムの音楽学者 Tran Van Khe が metabole と名づけたはたらき この変形として 小泉文夫のテトラコルド理論 その洗練と一般化である柴田南雄の「骸骨図」 それとは別に クセナキスのアリストクセノスと中世ビザンティン音程理論や記譜法から抽象化した「篩の理論」など 領域と固定音と浮動音の区別による音楽分析理論があるが 近代啓蒙主義科学から すくなくとも18-20世紀の人間中心の論理ではない展望をひらけるのか 

デリダの本でタルムードの体裁をしたものがあった 何というタイトルだったか 中心にテクストがあり 注釈が四方から取り囲む タルムードでは 中心のテクスト自体も 口伝律法の注釈で その口伝は 神のことばを 人間が聴きとったとされる律法の注釈とすれば だれでもないものの ことばでないことばを 耳から口へ 口から手へと移し(/映し/写し)ているうちに浮かび上がる さわり かんじ タマネギの皮を剥いていくように はがしとり けずりとり ちいさく 閉じていく と そのなかに 最後に残るのも やはり皮にすぎなかった それはことばにさえならない ひびきのない 音でもなく 動きでもない ふるえ ゆらぎ のような かすかななにか

中心もなく 周囲もないことば 意味を別な意味で消し 色に別な色を溶かし込み 響きを別な響きの余韻でぼかす 線は曲がり くねり 反り 面から離れてとぎれても その先に着地する 目盛りの針は止まらない 付かず離れず 良い加減の 連綿

壁ではなく膜 張らず ゆるく 寛く 薄く 透けて通(透)す 染み染まり にじみ 漏れる 薄明かり おぼろげおぼろに 仄めきも仄かに 影は翳り ……