批評についてのおしえ(ダビデ同盟偽書)
批評をわすれてはいけない、とラロ先生は言った。改作できない作品はない。だがある場合に役だつ技術が、他の場合には致命的な的はずれにおわることもある。批評は規準にあてはまらない作品を非難するが、そこに何が表現されているか見ようとはしない。
正しい立場に立てば、芸術的表現は簡潔に、ひかえ目になる。自己否定をたえずおこない、何十回もまなびなおし、現実に近づくために実践の結果を誠実に評価する者は、個人のもつ知識はわずかであり、判断力をやしなうには長い時間かかることを知っている。だから、何かを語るときには、慎重でなければならない。
何かを知っているだけではたりない、オイゼビウスが言う。まなんだものを生活のなかでつかうことができなければならない。
そうだ、とフロレスタンが賛成した。生活と作品のめざすところはひとつだ。知っているものをすて、もっているものをあたえることによって、ゆたかになる。それが子供のもっている、おどろくべき深みだ。生活としごとの間でバランスのとれない芸術家は破滅する。
音楽は魂を自由にするが、そのよびかけには不確定なところがある。音楽は国境のないことばと言われるが、魂はそこでたやすくおちついてしまう。
よくひびくというだけの音楽もある。魂の状態をあらわして満足する音楽もある。魂をよびさまそうとする音楽もある。
自己を制限すれば、それ以後その枠からでないことを要求される、とオイゼビウスは言った。自分の個性を守ろうとするのは、それをうしなう一歩前だ。
あたらしい、大胆なメロディーを発明し、魂の深みにまで、光を投げかけよ。
ジャーナリズムは現在を反映するだけだ、とフロレスタンが言った。批評はすぎゆく現在にさからって、きたるべきものから現在をたたかいとる。
いままでに知られているのは、ドイツ、フランス、イタリーの音楽だった。アジアからアフリカにいたる諸民族の声が加わってきたらどうなるか? 音楽史は書きかえられなければならない。
音楽が高度に発展したなどとは、とんでもない、とフロレスタンは主張する。いまに芸術は諸民族の歌いつぐ、壮大なフーガになるだろう。偉大な思想は、似たようなことばや音になって、さまざまな心の間をめぐる。
人を知るには、その友を見よ。音楽は社会的集団のなかにあるのがふさわしい芸術だ。それは一瞬のうちに何千人の心をつかむ。生活の海から大衆をひきあげ、かれらに海のひろがりを見せると同時に、かれらの姿を波の上に写して見せる、とオイゼビウスは指摘した。
大衆は大衆をもとめる、とフロレスタンがしめくくった。
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