『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    墨テキ(「テキ」は羽の下に隹、第3水準9-0-32)にこたえて


過去の細部にわけいって分析し、おもしろいエピソードから意味をひきだすあそびは、そろそろ切りあげよう。階級闘争をわすれてはならない。ひとつの目標がどんな探求もつなぎとめているように気をくばり、そのためには書斎のなかの孤独な思想が行動をみちびくのではなく、たたかいの場でかわされる身ぶりやことばが、ひとりきりで考える時でも、思想の糸のほぐれてゆくのを見まもっていることをわすれないようにしよう。

芸術家の生活としごとはひとつでなければならない。たしかに、現在の芸術家はしごと場に出勤し、カネのために作品をつくり、家にかえっては、作品のつくりだす幻想とは無縁の、小市民的現実のなかにうずもれて生きる。この分裂は不幸だ。作品が幻覚にすぎない以上に、日常生活の安定も幻想にすぎないことを、意識のいちばんふかいところでは知っているからだ。芸術活動を生活の幻想をやぶるテコとし、生活を芸術の幻想をやぶるテコとする以外に、魂をむしばむこの分裂をくいとめることはできないだろう。この破壊作業は、私的な場所ではできない。私的活動の自立も幻想にすぎないからだ。

生活も芸術家の思想表現であるとしても、私的な細部を問題にする側の関心は、私的活動を自立したものとしてあつかう危険をおかし、事実を絶対化して、批判的にうけつぐべきものの比重を見あやまるだろう。ひとりの人間の小さなエピソードからも意味をひきだすことはできるが、そのことによってエピソードは私的な性格をうしなう。主体的行動は客観的条件との相互関係のなかで、たえず変化する。ひとりの人間がもえつきた時、のこるものはわずかだし、のこすべきものはさらにすくない。他人の作品は書きかえることができるが、個人の生活史はそういうわけにはいかない。過去が未来をきめるのではない。反対に、未来は過去を変えるものだ。


紀元前五世紀の哲学者墨テキは言った。「人民が楽器をつかうことになれば、悪いことが三つおこる。飢えたものはみたされず、こごえたものは着られず、つかれたものはやすらがない」。墨子は音楽に反対した。かれは戦争をやめさせるために、王たちを説いてあるき、かれの家のエントツにはススがたまるひまもなかった。

一九三五年、ドイツの作曲家ハンス・アイスラーは言った。「飢えたものはわれわれの歌ではやしなえない。こごえたものをあたためる石炭、宿なしに家をあたえられないが、われわれの音楽は希望のないものをふるい立たせ、知らないものには、だれがパン、石炭、宿をうばったかをつげ、歌は、つかれたものを戦士に変える」。当時、アイスラーはナチス・ドイツに抵抗し、ヨーロッパとアメリカを流れあるく亡命生活のなかで、作曲と演奏活動をつづけた。

一九三〇年代のヨーロッパで、音楽の政治化には二つの路線があった。一つは一九二〇年代ソヴィエト芸術のさまざまな実験を精算したスターリン的社会主義レアリズムで、ジダーノフによってまとめられた音楽路線は、現在までそのままうけつがれてきた。「内容は社会主義的、形式は民族的」として分離し、十九世紀ロシア民族主義音楽を無批判に全人民音楽のモデルとし、ブルジョワ人間主義をとりいれて自然主義的心理描写をおこなうことを典型の創造とし、カンタータとシンフォニー中心の「純」音楽と「赤い流行歌」にすぎない大衆歌曲のジャンルの対立を維持し、音楽活動に対する党官僚の指導体制を確立した。芸術史は十九世紀ヨーロッパで発展の頂点に達し、その形態をそのままうけついで、社会主義的「内容」をもりこんで「転倒」させればよいというかんがえ方だ。

ハンス・アイスラーはシェーンベルクに作曲をまなんだ。かれは一九二〇年代にベルリンで労働者音楽運動にかかわり、ブレヒトを共産主義にみちびき、ブレヒトと俳優エルンスト・ブッシュといっしょに闘争歌をつくり、「赤いキャバレー」で歌ってまわった。労働者合唱団や労働者オーケストラを指導し、マルクス主義労働者学校でおしえた。この時期の頂点をなすのが、ブレヒトの教育劇『処置』の音楽といえるだろう。この体験から、アイスラーは闘争音楽(Kampfmusik)の理論をかんがえていた。それはブレヒトの叙事演劇理論の形成と平行した作業で、モスクワのルカーチ=ジダーノフ路線と対立するものだった。

ブルジョワ音楽の社会的機能を、きき手の魂をまひさせ、あるいは無目的に刺戟する文化のむだづかい、現実にひろがる不幸への挑発ととらえ、社会的機能を変化させて、労働者階級の意識を光にみちびく音楽をもとめるこの思想は、いままでの音楽のあり方をひとつひとつ批判しながら、あたらしい機能をたたかいとろうとする。アイスラーは一九三六年の「音楽の社会的機能転換」という論文で、対照表をつくっている。

 いままでの目的には器楽が優先する。

 小音楽形式(一個以上の楽器のため)
スケッチ、性格的小冊、子供用音楽。作曲家の私的気分の反映。形式革新をともなうことあり。
技術の熟練をそだて、しめすための練習曲。

 大音楽形式
ソナタ、四重奏曲、オーケストラ組曲、シンフォニー。世界観や宗教的闘争の表現、また「純粋」形式の提示。音楽素材の自己発展(音楽するよころび)
場所――演奏会場
映画音楽――説明的、気分描写

 歌曲
演奏会場で専門家により、受身のききてに対して演奏される。主観的、感情的。


 バラード
感傷的、英雄的内容。主として英雄を歌う。

 合唱曲
個人的表現を機械的に集団に移す。たとえば百人が「こんなにかなしいのはどうしたことか。私にはわからない」と歌う。

 多声合唱曲
上とおなじ。


 オラトリオ
聖書や古典説話からの宗教的題材にもとづく大音楽形式。また時には、ただ叙情的小曲の集成。

 オペラ、オペレッタ
オラトリオとおなじ音楽形式の集成。舞台効果をねらい、必要に応じて中断。

 劇音楽
気分的で幻想をかき立てる。
非自立的。

 作曲家
個性
スタイル

 演奏家
純粋供給者の性格

 あたらしい目的には歌が優先する

 小音楽形式(一個以上の楽器のため)
音楽的・論理的思考力の素材と訓練のために、技術の熟練をそだて、しめす。


 大音楽形式
教育劇や映画音楽などでの典型の素材。また政治集会の実用音楽。さらに、ありきたりの音楽上演の破壊にむかう。場所――演奏会場
映画音楽線―音楽的注釈として。


 大衆歌、闘争歌
街路で、労働の場で、集会で、大衆自身によって歌われる。
ふるい立たせる作用。

 バラード
社会批判。ありふれた音楽の皮肉な引用も多い。

 合唱歌曲
労働者合唱団が大衆歌、闘争歌の大衆による学習を担当する。


 多声合唱団
理論的文章の学習と提起を可能にし、教育劇のモデルをつくる。

 教育劇
多声合唱曲、バラード、器楽間奏をならべる。自立した舞台上演も可能。

 オペラ、オペレッタ
社会批判、風俗描写とありきたりのオペラ効果の破壊。

 劇音楽
音楽的注釈。自立した要素として。


 作曲家
専門家
多様な書法をマスターしている。

 演奏歌
消費者の性格


闘争音楽は、二種類にわかれる。闘争歌はバラードのように、大衆自身がまなぶものと、教育劇や理論的内容をもつ合唱曲、合唱モンタージュのように大衆にきかせるもの。この分類は、いくらかあいまいなところがある。表のほとんどのカテゴリーは、いままでの形式自体の批判と社会批判をむすびつけている。音楽の社会的機能を変えないであたらしい形式をつくることは、古い機能を強化するだけにおわる。一九二〇年代ブルジョワ音楽の実験は、自己破壊にみちびくか、市場に吸収された。一九五〇年代にもおなじことがおこった。それに対して、古い形式に「社会主義的内容」をもりこもうとするこころみは、労働者階級の一部のブルジョワ化に役だっただけだった。

古い音楽形式の社会的機能転換による内部からの破壊を通じての音楽の革命路線は、少数派の実験にとどまった。アイスラーやブレヒトがナチスの権力奪取によって亡命をしいられ、労働者大衆から切りはなされてしまったことは、大きな外部的要因としてあげられるだろう。かれらのしごとの目標も手段も後退せざるをえなかった。教育劇のかわりに大規模な叙事演劇は伝統的劇場の枠にもどり、歌は演奏会場にもどった。労働者自身の芸術運動への合流のかわりに、反戦運動を主題とする芸術家の作品活動がおこなわれた。

これはしかたのなかったことかもしれない。歴史がちがうコースをたどった場合をかんがえるのは、たいして意味のあることではない。それより、現在ブレヒトやアイスラーのしごとをどのようにうけつぐかが問題にされる時、この路線のもつ内部矛盾をかんがえてみなければならない。

アイスラーは、シェーンベルクのように半独習者であり、よく半独習者にあるように、ひろい知識とあらゆる分野にわたる技術的熟練をもつ作曲家だった。大衆自身のまなぶ音楽と、大衆のきくための音楽とをわけるのは、かれ自身の、作曲家としての二重生活とも言える存在の反映でもある。かれはブレヒトのように、革命芸術の建設者であると同時に、技術的水準でしか判断することをしないブルジョワ文化領域でもよく知られた芸術家だった。この二重性を利用して、かれらは非米活動調査委員会をだますこともできた。『連帯歌』、『統一戦線の歌』、『コミンテルンの歌』のように一九三〇年代にひろく歌われた闘争歌をつくる一方で、アイスラーはシェーンベルクからまなんだ無調の対位法をつかった器楽曲や反戦カンタータを書いていた。そのなかには六曲のオーケストラ組曲のように、映画音楽の再モンタージュによるものもある。

対照表にあらわれるのも、この二元性だ。歌(正確には声の音楽)を優先させるが、声をつかい、ことばとむすびつくという点で声の音楽をとらえ、実際には声のあるなしにかかわらず、批判的注釈を音楽の主要な機能とかんがえている。批判は社会、風俗にむけられるだけでなく、音楽の形式や上演形態自体にもむけられ、諷刺だけでなく、皮肉な態度でつらぬかれる。注釈は典型の創造によってなされるが、それはもともと器楽的なものであり、主として否定的にはたらく。

音楽の学習は重要視されている。教育劇は、それをきいたり見たりすることだけでなく、演じることも教育であるような、音楽的総合の基本形態とかんがえられる。しかし、それは専門的演者のためのもので、演じるものは消費者の性格をもつと規定される。音楽的思考を訓練するのは器楽小曲であり、歌うことによるのではなく、教育劇は、大衆歌の学習過程を担当する合唱歌曲ではなく、多声合唱曲にもとづいてつくられる。多声合唱曲は、理論的文章を提起するが、それは大衆の声ではなく、専門家の声でなされる。大衆はそれをきくことによって目ざめるはずなのだが、このやり方はスターリン的前衛党と大衆の関係をおもわせる。そこで合唱されるものは、教条でしかない。

この対照表のなかでは、大衆歌、闘争歌、それに合唱歌曲は孤立したカテゴリーということになる。それらはすべて大衆自身の音楽学習にかかわるカテゴリーだ。それらと直接むすびつかない批判的注釈は、個人的なものでなければ、党から発せられるものだ。党の方針が、大衆にむかって一方的に提起されるという状況は、一九三〇年代には世界革命の統一方針がコミンテルン・テーゼとしてだされていたことをおもいださせる。

もうひとつ、ここに欠けているものは、民族文化の問題だ。それは、ここからもとめられるはずはない。一九三〇年代に民族、郷土、血、共同体、運命などとさわぎ立てたのはナチスの方であり、それに対抗するのは、プロレタリア国際主義だった。音楽については、ヨーロッパ音楽は、かなりの部分までドイツ音楽だった。ヨーロッパ文化が普遍的価値をになうものとは言えないこと、ヨーロッパの発展は植民地の抑圧の進行と相互依存関係にあり、それがきずきあげた価値は相対的なものにすぎないことは、コミンテルンも予測できなかった中国革命のなりゆきと、その勝利によって証明されたが、ヨーロッパがそれを意識するのはやっと一九六〇年代のおわり、ヴェトナム革命のおかげだった。

ブレヒトやアイスラーは、ドイツ民謡にまなんだが、それは主として技術の問題だった。「民謡は複雑なことを単純に言うが、それをまねるものは、単純なことを単純に言うにすぎない」とブレヒトは言う。ギターを手に自作の詩を歌った若いブレヒトには、民謡やバラードのリズムはしたしいものだった。晩年の民謡風の詩でも、民族的なものは自然に身についた身ぶりであり、なつかしいリズムではあっても、探求の対象にはならない。

アイスラーがヨハネス・ベッヒャーの詩に作曲した『新民謡集』の場合は、民謡は「つかみやすく、苦労なくおぼえられる」節、「ペンキぬりではなく、白木のままの」ジャンルとされる。それは目的に応じて多様なスタイルをつかいこなす音楽的注釈者のとる、特別の色彩をもって、他のジャンルとまぜあわせてはならないスタイルの一種にすぎない。どのスタイルをとろうと、その純粋な状態を分離して、それをまもり、異質なものとの対立にもとづくモンタージュで、存在するものの批判と、すべてが変化のなかにあることをしめす、この鋼鉄のきびしさが、アイスラーと、かれと共同でしごとをしていた時期のブレヒトのスタイルを特徴づける。それは労働者階級の運動高揚期には論争を挑発し、退潮期には自分に課した論理の力で孤独のなかで生きのびる。党と党員の関係をあつかった教育劇『処置』は、その挑発力をおそれて、作者は再演を許可しなかった。対立項を提起し、観客にえらばせるのは、観客がすでに立場をきめているから可能だ。中間の立場に立つものをひきつけることはできないし、そのためにはこの論理はきびしすぎる。反対の立場からは、反対の結論をひきだすこともできる。『処置』が反共宣伝にも利用できるとしたら、そこで挑発に見えるものが、論理ではなく、信条告白によってささえられているからだ。コミンテルンから宣伝工作のために中国にやってきた活動家のうち、若い同志は、個人的正義感から苦力(クーリー)をたすけ、その結果工作隊全体を危険にさらした責任をとって、処刑されることに同意する。そこには失敗した戦術のするどい追求と分析はあっても、どのような展望もない。批判力は否定的にしかはたらかない。それは知識人としてとどまる知識人の個人的論理であり、個人的思考は、否定や抵抗には英雄的と言えるほどの論理的努力をはらうことができるが、目標にむかって一歩踏みだすことができるのは集団の思考力だ。一九三〇年代の党は、同伴者以上の役割を知識人にゆるさなかった。大衆からまなぶ道はふさがれていた。ドイツの革命作家たちが、労働者大衆との直接の接触からつくりあげた路線は、モスクワのルカーチ一派から非難され、後年モスクワに亡命したものたちは、スパイのうたがいで「処置」されることになった。



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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