『ロベルト・シューマン』 高橋悠治

目次    


一歩後退二歩前進


シューマン論の計画

現状分析の意味

見とり図

転倒の方法 その一

芸術運動と機関誌 一八三〇年

芸術運動 一九七七年

雑誌メディアの批判

転倒の方法 その二

批評についてのおしえ
(ダビデ同盟偽書)


批評家の誕生

老キャプテン

訳者の注

知的貴族主義

クラインのつぼ

フロレスタンとクレールヒェン

墨テキにこたえて

むすび

    むすび


一九七七年十一月十三日

二個月以上の空白のあとで、シューマンの問題にもどり、これまでに書いたことを読みかえす。ここで総括したり、結論をひきだすことはできない。そのためには経験が欠けている。シューマンのさまざまな側面をめぐって、現在と対比させながら書きつづけることもできるだろう。ノートは厚くなるが、全体はかえって見えなくなる。ある芸術家の全体像に到達するために、こんなことをはじめたのではなかったはずだ。シューマンは、ここではたとえにすぎない。バラバラなノートをとじあわせる糸は、過去の再発見ではなく、現在の解放ではなかったか? たとえをすてる時がきた。


シューマンは、かれ以後シェーンベルクにいたる百年間のドイツの音楽家のためにモデルとなった。ベートーヴェンを正しくうけつぎ、音楽家の市民権を主張したが、ベートーヴェンのように市民社会を肯定することは、もうできなかった。それはブルジョワ階級が権力をにぎるとともに反動化し、人民を裏切りはじめた時代だ。ドイツは十七世紀以来分裂したままで、封建勢力を保存してきた。全ヨーロッパ政治力学上では、フランスでの市民的自由はドイツの反動化からそのエネルギーをくみとっていた。自由をブルジョワ的限界にとどめるためには、ドイツでの抑圧がバランス上必要だった。ドイツの革命家はフランスに亡命し、フランス政府は、ドイツからの圧力を利用して、「自由」の枠をしめあげた。

ドイツ国内では、ブルジョワ階級は、労働者と農民を煽動して、上からの改革をかちとり、自分たちの利益をひきだすと妥協して、抑圧者の側にまわった。知識人左派は革命運動の前線におきざりにされ、市民としての自立のために、市民社会を否定する結果になった。十九世紀ドイツ文化の質の高さは、矛盾のするどさを原動力としている。

一八三〇年の革命以後フランスに脱出した知識人は、自分が見すててきた市民社会にかわる同盟者を見つけることができた。一八四八年の革命以後は、パリの亡命者社会の希望はおしつぶされる。ドイツにのこったものには、孤独と内面化しかなかった。シューマンも例外ではない。

芸術家は市民社会の昼のなかでは、自覚した市民として孤立する。市民社会はかれにとっては俗物の集団にしか見えない。現実は夜であり、闇に目をこらせば、幻想の仮面舞踏会がはてしなくつづく。芸術は夜の力で昼を打ちくだき、非日常の高みから日常に死刑宣告をする。芸術家は少数派にとどまり、芸術は反社会的暴力となる。ブルジョワ知識人左翼の行動原理は批判ということにつきる。シューマンが批評家であったことは、作曲家として出発するための不可欠の条件だった。

市民という身分を否定することなしに、内部からの声をきくことのできる孤独だがえらばれた人間の立場から市民社会を批判するドイツの芸術家のスタイルは、ここで確立される。同盟者は数人の芸術家仲間であり、青年時代にいっしょに反体制芸術運動をはじめる。個の共同防衛にすぎない青年の運動は、ひとりひとりの成熟につれて解体し、芸術家は地位が確立するとともに、仲間からはなれてゆく。それは社会が芸術家を、時間をかけてひとりずつ買いしめる過程だ。孤独、狂気、どんな代償をはらっても、芸術家は個をまもりぬく。かれが社会にむけるするどい批判も、決してうたがうことのない自意識によりかかっている。

このようなものでない、あたらしい芸術家の型をつくるこころみは、共産主義運動の成長とともにはじまった。それは無数の失敗や犠牲をこえて、現在なおつづけられている。

その原理は批判ではなく、抵抗だ。批判がついに自我のかたい核をつきやぶり、批判と自己批判の統一は、何ものにもさまたげられない相互の交通形態となり、視界にあらわれた無数の無名の同盟者のつながりは、労働者階級意識の形成へむかう。それは市民社会から上昇する芸術家の単独飛行ではなく、市民社会の地下にひろがりからみあう竹の根だ。

抵抗の芸術家は、批判の芸術家とはちがう生き方をするだろう。かれのしごとは、搾取される階級、抑圧される民族の自己解放の運動のなかで評価される。芸術家の全体像がそれ自体として問題にされることはないだろう。かれのしごとは、自己解放へと歴史的必然性をもってすすむ集団の運動のなかで、あるいは突出し、あるいは立ちおくれる。水の運動があつまって川をつくると同時に、この川が水をつきうごかしている。しごとが運動をつくり、運動がしごとを意味あるものにする。

市民社会の枠のなかでの少数派芸術運動は、芸術市場の周辺に結集した予備軍にすぎない。市民社会のなかで発言権をもっている知識人が、沈黙させられている大衆の代弁者になり、大衆運動に市民権をあたえるために交渉するわけではない。かれらの表現は、大衆的力量の成長が眼にみえるところで散らした火花であり、指標となり合図となっても、運動自体を代行することはできない。運動は眼にみえないところでひろがる。

芸術作品は、個人の意識改革のためにつくられはしないだろう。それは大衆の要求と実践を集約し、大衆的運動の思想と感性を具体的な状況のなかに発見する。否定的形象、諷刺、幻想はその手段ではない。非日常の世界をつくり、現実を拒否するのは、少数派のゆめみる暴力の幻想だ。性と暴力は芸術産業の合言葉になった。帝国主義が拡張するところで、戦利品の分け前にあずかる中産階級は消費の奴隷となり、巨大な管理体制を前にして無気力に瞬間の快楽を追う。快楽は解放を幻想化している。

解放の自覚を日常闘争の持続にもちこむことが必要だ。大衆の革命的暴力は、永続的成長力が抑圧の枠をおしたおすように、抵抗できない圧倒的なものであっても、瞬間の力ではなく、最終的なものでもない。それは破壊をこえた建設する力だ。芸術作品がこの力とむすびつこうとするなら、それを暴力的表現で代行するわけにはいかなくなるだろう。運動が根をはるために芸術ができることは、肯定的形象による感染、積極的なモメントの評価、種子のように集約され、もちはこべる形態だ。

種子は、詩の一節、歌の一節、引用できることば、階級的身ぶり、象徴的な形でありうる。抵抗の芸術は、それらをモンタージュとして構成される。種子は作品からぬけでて池に落ち、そこに根づき、成長する。このような形態をつくる方法と同時に、それをバラまく方法が用意される。

この方法は、あたらしい技術の問題だ。巨大で複雑なものをつくる技術、専門化し、集中した制御にたより、部分的にとりだされたものは意味をなさない技術ではなく、核心をおさえ、単純化され、修正可能な技術、全体として統一されながら、各部分が生きた意味をもち、個々に制御され、すばやく実現できるような技術だ。

芸術家は二重の役割をになう。一つは表現者として、作品をつくることだ。作品は、市民社会の地上では圧縮され、封印された表現となり、大衆運動の地下では解放の無名性となってしみこむ。岩にはりついたウニのように、上から見ればトゲであり、下の岩盤にはやわらかい肉として密着している。第二には技術者として、かれはプロメテウスのように技術をぬすむ者だ。天の支配者の手に集中された火は、地上に落とされ、無数の火種となる。かれは仲介者の役割をはたす。プロメテウスの種族は火をもたらし、鉱石を精錬する。芸術の火にふれるものは、芸術的手段をうけつぎ、民間芸術の形象をきたえ、あたらしい意味をあたえる。そのことによって技術もあたらしくされる。


シューマンが身をもってつくりだしたような音楽家の生き方はすてられる。かれの場合、その姿勢に歴史的必然性をあたえていたのは、社会と芸術と個人の生活スタイルをつらぬく意志の統一だった。それは現在のブルジョワ芸術家にもとめられることではない。そこでは意識の分裂により、社会的無気力と反社会的芸術と順応主義的生活スタイルがあるだけだ。意志の統一は、抵抗芸術のための具体的戦術に生かされるだろう。

シューマンのつかった方法のなかで、基本的な音の身ぶりの変形とモンタージュの技術は見おとすことができない。音楽的形象を幾何学化し、引用と変形をゆるすかたちに要約する技術は、心理主義と純粋音楽世界の自律につながる機能和声とソナタ形式の、対比にもとづく構成法からひきはがされ、表現の種子をつくる作業につかわれる。


批判的表現を散乱させ、中性化し、無効にするマスメディアの役割については、何度も警告が発せられた。それらの警告もまた批判のかたちをとり、危機感そのものがうすめられるうちに、意識産業の集中化が進行する。それは帝国主義の中心部での技術集約に対応している。原子力発電所やコンピューターに見られるような巨大な技術集約は、それにともなう情報の集中管理構造を国家的規模で必要としている。そのような構造は、報道統制と批判の圧殺を必然的にひきおこすし、表現一般の抑圧もそれと不可分に進行する。そのきざしは西ドイツ帝国主義下の言論統制にすでに見ることができる。

いま必要なのは冬のおとずれをつげる歌ではない。冬にそなえて深く穴を掘り、武器をたくわえ、その時までに地下に姿を消すことだ。冬眠するためではない。根をはりめぐらして、やがて地表を突きやぶるために。



『ロベルト・シューマン』(青土社 1978年6月5日初版発行)より




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