2007年4月号 目次
私たちはどこへ行くのか(2)――増え続ける私的で合理的な殺人 | 石田秀実 |
しもた屋之噺(64) | 杉山洋一 |
かぞえはじめた(翠の虱30) | 藤井貞和 |
11月のスリンピ公演~公演の周辺 | 冨岡三智 |
製本、かい摘まみましては(27) | 四釜裕子 |
クウェートのインド人 | さとうまき |
炎(4) | スラチャイ・ジャンティマトン |
アジアのごはん(17)タイの市場猫 | 森下ヒバリ |
きりきり(桜の)舞 | 三橋圭介 |
記憶違い | 高橋悠治 |
私たちはどこへ行くのか(2)――増え続ける私的で合理的な殺人
合理的殺人という言葉で想起されるのは、通常は国家権力の暴力だ。死刑や優生学的断種、あるいは20世紀を特徴づけ、この21世紀をも印し付けようとしている戦争という合理化された殺人行為や、さまざまな国家権力による大量虐殺について想い起こしてみよう。誰もが知っているように、そのような合理化された殺人は、21世紀に向かって、減少するどころか増え続けている。
ここで合理的と言う言葉で指し示されている事柄は、「善き行為」とはとりあえず無縁である。たとえばそれが数学であれば、合理的であることは間違いなく「善き行為」であったかもしれない。だが、21世紀の国家にあって、合理的であることは、たいていの場合、「非人間的だが、合理的な行為」であるような事柄を指し示す言葉である。
なにもことさらに、20世紀のナチスや21世紀の米国のみを想起する必要はない。民主的を標榜するあらゆる近代国民国家(帝国やブルジョワ民主主義を標榜する国から、人民民主を名乗る国まで)にあって、合理的という言葉で指し示されるのは、経済的合理性からさまざまな生業の合理化、国家権力による合理的殺人まで、一人ひとりの人間の生や、人と人のつながりを破壊する行為である。
もともとあった共同体を壊してばらばらの個に作りあげ、その上でまたそれを国民=国家と言う擬似共同体に纏め上げたのが近代国民国家であることを思い返そう。そこでは生まれたことに伴ってもともとあったはずの、人と人のつながりを破壊することと、一人ひとりの人間のかけがえのない生を破壊して国家と言う擬似共同体に奉仕させることとは、ひとつの出来事であった。合理的に行為することは、人を孤立させた上で、ありもしない幻想の中に纏め上げることと結びついている。
翻って、では私たちの側は、こうした国家権力による合理的殺人のような行為と、いつも無縁なのだろうか。残念ながら、少し胸に手を置いて考えれば、そんなことはない、と誰もが思わざるを得ないだろう。たとえば私たちは、中絶や間引きという合理的殺人を、はるか昔から行ってきた。殺されていく子を神に祭り上げたり、あるいは逆に人間ですらないとみなしたり、その合理化の方法は様々でも、それが合理的殺人であるという事実は変わりようがない。合理化の方法の基底に、擬似的共同体から排除される他者の異類化という、国家権力が行う大量虐殺や被実験動物化でもおなじみの心的機制が用いられ続けたのも、よく知られた事実である。
近年では、出生前診断による選択的中絶や、パーソン論を援用した絶対的中絶や嬰児殺しを容認する形で、合理的殺人は、疑似科学的に語られるようになってきた。普通私たちの生は、この世に生まれでて、今ここに在ることそのことがそのまま善である。だが、障害者や遺伝的劣性とみなされる生は、在ることそのものを嘉されるどころか、生まれる前に科学的とされるやり方で選別され、消されてしまう。
生死のあらゆる事柄を、あらかじめコントロールできると思い込んでしまった私たちの欲望は、すでに生きて在る私たちの側の都合で行う生の選択=差別を、当然の権利と考えるようになったのだ。考えた末のやむにやまれぬ選択ではなく、あくまでも疑似科学的で合理的な選択として。これから生まれ出でる者たちに先立って、今既に在るというだけで、私たちはいつから、そんな権力を持っていると思い込でしまえるようになったのだろう。胎児法のような形で、それを合法化する国も増えてきた。
そこでは今生きている障害者は、表立っては尊重され、福祉の対象になっていても、実は新しい優生学の監視網から、たまたま漏れて生まれてしまった異類に過ぎない。障害者達は、あくまで合理的排除の失敗例として、いわば誤ってそこに在る。
ヒューマニストを気取って、やはり合理的だった古い優生学を断罪することが上手な私たちは、一方でそれよりはるかに残酷な新しい優生学を実行することは、もっと上手にする。国家権力が強制する断種や虐殺ではなく、選好を行うわれわれ個人の自由だからというのがその理由だ。
個人の自由で合理的に行うのなら、虐殺も断種も、突然残酷ではなくなる。自由で功利的な選好を主張してアフガニスタンやイラクに侵攻し、虐殺を行うアメリカの論理は、残念なことに現代の私たちの日常行為を支えている論理とぴったり重なっている。それが「ほかならぬ相手のためになる」という押し付けがましい態度も、両者そっくりだ。
そうした私たちの側で行われる合理的殺人の中で、このところ勢いを増しているのは、尊厳死と言う日本独特の言葉を用いた合理的殺人容認の主張である。尊厳死:Death of Dignityと言う言葉で意味されるのは、本来なら「尊厳有る死」という「死に逝く者側」のある精神的態度を指している。傍目にはどんなみじめな死に方であっても、それを「尊厳有る死」と思える人にとっては、それは尊厳死である。
だが、優生論者であった大田典礼を理事長として設立された日本尊厳死協会なる団体が主導して日本で通用しているそれは、そうしたもともとの尊厳死概念とは似ても似つかないものだ。他者によって積極的に殺されない消極的安楽死だけを、尊厳死と呼んで法的に認めさせようとするのである。それは他者が殺すのでもないし、機械を用いて「無理に生きさせているのでもない」ゆえに「自然」な死であり、その「自然さ」ゆえにそれは「尊厳を保った」死なのであると彼らは言う。しかもそうした尊厳死は、個人がその自己決定権を用いて自由に選択した、つまりは選好的なものだから、民主的で問題がないのだと。確かにこうした死ならば、私たちも受け入れやすいかもしれない。
だが、「自然」と言う便利な言葉を用いた、一見もっともらしいこの主張の裏で、何が画策されているかを考えてみよう。尊厳死と言う言葉で呼ばれている消極的安楽死は、今までにもかなり行われてきた。だからことさらにこの死を「法制化」しようとする運動の要点は、その「法制化」にある。法がその死を公認するようになれば、消極的安楽死=尊厳死の形をとった合理的な殺人が、法的な制度として、合法化され、自由に行うことが可能になるというわけだ。
ここで「自由に行う」と言っている言葉の主語は、あいにくなことに「死に逝く者」の側にあるのではないことに注意しよう。現代では「死に逝く者」は、かなりの確率で自己意識を失っている。自己意識を失っているということの本質は、本来ならば、植物状態がそうであるように、認識はしているのに、それを他者にうまく伝達できない、コミュニケーション障害の状態に陥っているということである。つまりは自分で何かを認識し、伝えたいと思ってはいるのだが、それを外に出して伝えることが難しい状態。
日本では(そして世界でも)、あらかじめ死の態度を、自己決定権を行使して決めている人はわずかである。コミュニケーション障害で在るとき、他者がそうした人の認識を理解する研究はまだ始まったばかりで、植物状態をコミュニケーション障害と認めることすら、ごく少数の専門家しかしていない。普通の医師は、意識喪失=認識能力喪失と決め付けられている。それゆえ死の態度を決めているほんの少しの人であっても、それを決めたときの考えを持続させているかどうかを、他者が理解することは、そもそもできないと思い込まれている。
だから尊厳死=消極的安楽死を選択するのは、かなりの確率で「死なせる側」、すなわち医師や周囲の家族である。安楽死公認国であるオランダの実情に照らす限り、「死に逝く者」の自己決定権は、実質的になくなる公算が大きい(詳しくはH・ヘイドン『操られる死-安楽死がもたらすもの』時事通信社 2000)。安楽死は「死者が行う」というより、「死者をそのようにさせる」ものである。
このごろ厚生労働省主導で行われている調査や研究でも、死に方を決定するのは、医師や家族であって、「死に逝く者」は疎外されている。尊厳死と称する安楽死法制化によって、可能になるのは、たぶん死者本人の自己決定による「自然な死」ではなく、死者を取り巻くものたちによる合理的殺人になるだろう。
「福祉とは金で買う商品だ」と、厚生労働大臣が平然と主張し始めた日本では、権利としての福祉は早晩形骸化するだろう。福祉を金で買えない人々は、自己責任で健康を保持し、自己決定して死んでいかねばならない。成人病は生活習慣病と言い換えられ、ナチスよろしく健康が義務となって、肥満も老化も不健康も失業も、自己の責任にされてしまった。自己決定と言う自由権は、自己責任と裏表の関係になっている。自己責任ならば、それを救済する責任は国家には無い。
医療・福祉費を減らして、自己責任ですべてをまかなわせる果てに予定されているのは、前にも記したバイオテクノロジーのための人体市場拡充である。すでに日本救急医学会は、末期がん、重症の大やけど、いわゆる脳死者、身寄りの無い認知症の老人、不法就労の外国人などを、救急の対象からはずす検討を始めた。尊厳死なる言葉で合理的に殺人された人体や、植物状態の人、さらには障害者までが、この列に加わる日は近いかもしれない。
しもた屋之噺(64)
2週間と少し過ごしたサンチャゴの街も、朝晩は随分涼しくなってきて、カーディガンを羽織ってちょうど良いくらいです。着いた当初、夜更けまでカフェのバルコニーで話しこむ姿が普通でしたが、秋らしくなった今はめっきり減りました。荷物を纏めてチェックアウトに降りる前に、マッケンナ坂の小さなホテルの一室で原稿を書き始めたところです。
毎日リハーサルやら本番やらに追われ、劇場とゆるい坂を下って50メートルあるかないかのこのホテルと、毎日、昼と夜通い詰めた、渋い顔をしつつ愛想のいい親父がいる階下の食堂しか知らないまま2週間以上暮らして、仕事が終わった昨日初めてアンデスの方へ少し昇った友人宅へ出かけて、サンチャゴの街の広さに驚いたくらいです。
食堂の親父は、浅黒い顔をした60手前のチリ人で、いつも眉間にしわを寄せ渋い顔をしているので、何と愛想のないウェイターかと思っていると、実際とても親切で明るく、皆から愛されていました。冗談を言うときも笑うときも渋柿のような顰め面をしているのですが、典型的チリ人のとんでもない早口で、当初は全く理解できませんでした。一言喋ったかと思うと、実はそこに全センテンスが入っているという感じ。チリ人が早口だと聞いていましたが、親父は特別でした。
或る日、本番に出かけようと衣装カバンをもって坂を上がっていると、お前もう発つのかとすごくびっくりして、これから本番だと答えると、ひどく安心した顔をしたのが印象的でした。そんな優しさからか、何も言う前から大体頼むものが分かっていて、ガス抜きの水を用意しながら、さり気なく勧めてくれるメニューがいつも美味しくて、通い詰めてしまったのです。食べきれないから減らしてくれと頼み込んでも、結局いつもとんでもない量の食事になるのですが、肉も魚もさっぱりしていて、附合せは決まって白米だったので、のんびり食べていれば食べ切れるのです。きれいに片付いた皿を片付けながら、してやったりという顰め面で、親父が笑いかけるのも愉快でした。
チリの人たちは、誰にもこんな独特の人懐こさと暖かさがありました。底抜けに陽気なラテンの印象は皆無に近くて、誰もが真面目で控えめで、人を立てる感じがします。彼らに比べれば、イタリア人のなんとあけっぴろげで楽天的なことか。オーケストラはもちろん、合唱や独唱のひとたち、裏方さんたちや街やホールで声を掛けてくれる観客のみなさんからホテルの従業員まで、誰にも共通する印象でした。
ところで、ヨーロッパで英語という共通語を暗黙に受容れて暮らしていて、それが英語ではなくスペイン語になる世界の存在を実際目の当たりにすると、ちょっとしたショックを受けます。この辺りで喩えるなら、訛ったフランス語などを人懐こそうに話すアフリカ系の人や、フレンドリーに英語を話すアメリカ人やイギリス人がいて、実直そうにドイツ語を話す人がいたり、北欧系のゆるやかなアクセントが心地良い品のいい金髪の人々がいて、そこにバランスよくスペイン語やフランス語、もちろんイタリア語などが混じり、東欧やスラブ系の顔つきの人々も静かに話しこんでいたりして、それが一つの空間のバランスを保っているのですが、分かりやすく言えば、彼らがそのまま揃ってスペイン語を話していると思えばいいわけです。
ああこの人は英語を話すひとだろう、この人はドイツ語を話すひとだろう、と無意識に頭が判断する回路が断たれ、全員そろってスペイン語を話すというのは、彼らが日本人として日本語で暮らしているのを見るくらいのショックでした。ニューヨークのように世界中の人が集まり、それぞれ訛った英語を話して暮らすコスモポリタンな雰囲気とも違って、何代も経たチリの移民文化は今やチリ文化そのものとなって、次元の違う世界に足を踏み入れたかのように、誰もが同じスペイン語を話しているのです。
チリにクラシック音楽がもたらされたのは、19世紀終りのこと。すぐ隣のブエノス・アイレスまでヨーロッパ文化はほぼリアルタイムで届いていたのが、ずっと立ちはだかるアンデスの山々に遮られて、国立オケが生まれたのも1930年代に入ってからのことだそうです。世界大戦前後多くの音楽家が戦火を逃れてアメリカに渡り、チリの音楽文化も急激に発展しましたが、チェリビダッケを初め、特にドイツ系のヨーロッパの音楽家や、バーンスタインやコープランドのような北米の音楽家がサンチャゴに招かれたのも、戦後すぐの頃だったといいます。
特に現代音楽の作曲家たちが話していたのは、自分たちはヨーロッパ移民の子で、ヨーロッパ文化のなかで生まれ育ってきた。ヨーロッパ人たちは揃って、なぜ南米の民族文化を使って作曲しないのかというけれど、それならウィーンの作曲家は今もワルツを書き続けていなければいけないはず。適当にそこらにある素材を安易に使いまわしたジナステラのようなずる賢い作曲家だけが海外で認められるのさ。もちろん、日本の立場とも違うだろう。昔から日本人が培ってきた日本文化というものがある。ここにはそんなものはないのだから。北部にはボリビアと同じインディオ文化があり、南部にはまた別の民族文化もあるけれど、それは別にチリ文化と一般化して呼ぶべきものでもない。
ピノチェの抑圧で発展しかかっていた音楽文化が大きく後退し、ずっと後になって、政権交代した時には、今や果てしない砂漠となった文化に改めて井戸を掘り、根気よく水をくみ上げては丹念に緑を取り戻し、道を作り家を建て、こうして自らの文化を自らの手で培おう償おうとする信念には、開拓者精神に通じる、極めて力強い真実が脈打っていて心を打たれました。長年仕事をしたバーゼルで出世街道を歩むより、故郷の南米で自分がしなければいけない仕事を選んだのさ。時にヨーロッパの豊かさが恨めしくなるが、後悔はしていない。フルートのグィエルモは、そう噛みしめるように話してくれました。
自分の生まれ育った地を離れ、見ず知らずの土地を必死に耕し、そこに自らの文化を営み、育んできた人々は、誰もがこんな途轍もない強さを秘めているのでしょう。この教訓こそ、自分にとって何より大きな収穫だったことは言うまでもありません。バーベキューの用意をしながら両手いっぱいの肉塊を手に、作曲のアレハンドロがグィエルモに話しかけました。あのクリスマスの夜のことを覚えているかい。夏の暑い盛りに皆で夕涼みに庭にでると、どこからともなく訥々とピアノが聴こえてきただろう。何かと思って耳を澄ませば、あの「不屈の民」だった。覚えているかい。
かぞえはじめた(翠の虱30)
わたしは天上の、菅(すげ)をかぞえはじめた、
かぞえることができるようになった。 ひともと菅、ふたもと、......
わたしのかぞえのゆびは根もとに分けいる。
なかに這いいる。 かずをいくつもかぞえられるはずなのに、
天上のゆうひが射して邪魔をする。 穂先をいじめる、
わたしのゆびが、ゆうひのように伸びる。
尽きることのない、銀山の傍らにわたしは住んでいた。 銀色の、
坑道に沿って、もっともっと小指は伸びることでしょう。
根もとと穂先とが、ゆうべの露で銀色だったこと。
穂先をいじめると、銀色がなまりのように染みだして、
あなたを煙の掘削法で黒ずみのなかに放置すること。
そうだな、耀(かがや)いたあとで光度をうしなう彗星が、
しっ尾を巻きつかせて、静かになること。 天文学者になろう。
何でもが起きる、そう思う。 かぞえないことによって、
どこまで近づけるかと問う。 哲学者はかぞえないし、
数学者はかぞえる。 天上の菅(すげ)は、銀山につづく、
菅原を出てどこへ行くのだろうか。 うごきの菅よ、
あなたは出られないね、天上から。
(奄美で島尾ミホさんに会って、帰ってきた。帰りしなに、敏雄を思い出しましたと言って、涙ぐまれた。それから2週間もせず、自宅で倒れているミホさんがしまおまほさんによって発見された。冥福を祈ります。うえに掲げる「かぞえはじめた」は、奄美から帰ってすぐに書いたので、ミホさんの逝去と無関係。)
11月のスリンピ公演~公演の周辺
昨年12月から怒涛のような日々が過ぎて、やっと11月末にジャワで行った公演を振り返る余裕が出てきた。と同時に、はや記憶は日々の間に間に埋没しかけていることに気づく。というわけで、思い出すままに記憶を書き残しておこう。
日時:2006年11月26日 20:00-
場所:芸術高校スラカルタ校(SMKI Surakarta, 現SMKN8) プンドポにて
催し:定期公演ヌムリクラン (Pentas Nemlikuran)
演目:1、スラカルタ様式スリンピ「ゴンドクスモ」 私のグループ 1時間
2、ジョグジャカルタ様式ブドヨ「ババル・ラヤル」芸術大学(ISI)ジョグジャカルタ校より(代表Prof.Dr.Hermien) 2時間
●ヌムリクランで上演すること
2003年3月以来、この芸術高校では創立記念日にちなんで毎月26日に伝統舞踊の上演を行っている。そのためヌムリクラン(ヌムリクル=26日、の催し)という名称で親しまれている。芸術高校と芸術大学の先生たちで実行委員会を作っていて、基本的には伝統舞踊のいろんな演目をカバーし、毎回5~6曲、生演奏で上演する。出演者や手伝いへの謝礼は出ないが、食事は提供され、衣装も実行委員会の方で借りてくれる。
今回のスリンピ公演は私のスリンピ掘り起こしプロジェクトの一環であった。芸大やその隣の文化センター(Taman Budaya)で上演すると限られた客層しか来ないので、このヌムリクランの枠で上演したいと思っていた。定期公演は3年あまり続いていて、伝統舞踊好きな人は必ず集まってくる。観客層は育っているし、1時間の宮廷舞踊を上演しても大丈夫なように思えた。スラカルタの舞踊家には「宮廷舞踊は長くて単調で退屈で眠くなる」という意識が根強くあって、1時間も宮廷舞踊のレパートリーを上演しようとは誰も考えない。だが舞踊の質が良くて、かつ見せ方に工夫さえすればきっと見てもらえる、という気持ちがあった。
しかし案の定、長いスリンピをやりたいと言ったら実行委員に渋い顔をされた。この定期公演では、舞踊劇でも最長25分のものしかやったことがないと言う。長いから二分の一の短縮版ではどうかとか、またスリンピと組み合わせる演目が問題だとか、いろいろ言われた。しかし絶対に短縮版では上演しないと言い続けていたら、なんとこれ以上ないというプログラムを実行委員は思いついてくれた。それが上の通り、ジャワ宮廷の一方の雄、ジョグジャカルタ宮廷の舞踊ブドヨとの組み合わせである。このブドヨも、あちらの芸大の古い演目の調査研究の成果だということだった。これには私も驚いてしまった。1時間でも長いと言っていたのに、2時間のブドヨを持ってくるなんて、実行委員の意識も一気に改革が進んだ模様だ。
●上演時間
そのブドヨの一行はジョグジャカルタの芸大の人たちなので、知っている音楽家たちがやってきた。その内の1人と話をしていて、また後日別の人と話していて、どうやら、ジョグジャカルタでは1時間くらいの宮廷舞踊を上演するのは普通のことだということが分かってきた。そういえば、私自身もジョグジャカルタで何度かブドヨやスリンピを見たけれど、どれも1時間くらいの上演だったし、短縮して1時間半の公演というのもみたことがある。オリジナル上演には2、3時間かかるというのも珍しくないらしく、時代の変化に合わせて15分に短縮するなどということは、ジョグジャカルタでは考えられないようだ。
それとは対照的に、スラカルタの宮廷舞踊は短縮しなくても元々1時間くらいの長さで、短いもので40分くらいだ。(最も神聖な宮廷儀礼舞踊ブドヨ・クタワンは1時間半あまりかかるが、これは例外。これは現在でも宮廷専有で解禁されていない。)ジョグジャカルタの舞踊に比べて相対的に短いのに、それらをさらに短縮して30分や15分くらいで上演する。スラカルタでは「時代の変化に合わせて」舞踊を短縮、改良するのは当然といった意識が強いのに、ジョグジャカルタではスラカルタ以上に観客が成熟していて耐性があるのだろうか。この彼我の差は興味深い。
結局スリンピを1時間公演してみたが、私の周囲では、特に長くてつらかったという声は聞こえなかった。もちろんそういう人がいなかったとは言えないが、途中で帰る人が、少なくともスリンピ上演の時にはいなかった。しかし、さすがにブドヨの2時間は長かったと言う人は多かった。それはそうだろう、ただでさえ1時間の宮廷舞踊を見慣れていない人たちが、しかも1時間の宮廷舞踊を見た直後に続けて2時間見たのだから。
私がいつもお世話になっている鍼の先生も見に来てくれたのだが、この人は舞踊を見るような人ではないにも関わらず、「特に長いと感じなかったし、飽きなかった」と言ってくれた。それには、次に述べるように、椅子席にかしこまって座るのでなくて、床にリラックスして座ったことも良かったらしい。さらに、それに、踊り手の揺れるような動きを見ていると、なんだか自分も引き込まれて、だんだん瞑想的な気持ちになってきた。あれは踊り手自身にとっても瞑想的な気分になり、かつ健康にも良いと思うけれど、見ている方にとっても気持ち良くて健康に良い」とのことだった。これは私にとって一番嬉しいコメントだった。
●観客席
話はヌムリクランの準備に戻る。私は観客席の作り方にも注文をつけた。ヌムリクランではいつも、プンドポの三方にパイプ椅子を並べて観客席を作る。これが私にはいやだった。椅子は舞台ぎりぎりにまで接近し、しかも観客席に段差はないから、後ろの方からだと見にくい。しかしそれだけでなくて、先月号の能の公演の文でも書いたように、踊り手に憧れを抱いて見上げるような、そんな距離感がないのだ。だからプンドポの屋根の下、舞台の三方にカーペットを敷きつめてほしい、カーペットのレンタル代は出すからと、お願いした。そして一番後ろになら、偉いさん用、老人用として椅子席を一列作っても構わないと付け加えた。
その後実行委員からは、それならばプンドポの屋根の下には何もなくして、外に観客席を設けられたらもっといいね、という案も出た。確かにそうだ。そのほうが舞台との間に距離があってもっと良い。だが雨季に入っていることだし、全観客席を外に作るのはリスクが大きい。プンドポの外側に仮設で屋根をつけると良いのだが、それだと予算オーバーになる。結局当日は、プンドポの中はカーペット席のみで、プンドポの外側に椅子が並べられていた。
当日は幸い雨も降らず、この席の作り方は好評だった。観客に過度の緊張を要求せず、ボーッとリラックスして見てもらえた。ただでさえ、日本人のような緊張感を維持するのが苦手なジャワ人たちなのである。そして私が期待したように、「ジャワ舞踊の動きは、このようにある程度の距離をおいて見た方が美しく見えると思った」という感想があった。その中には、中年太りの踊り手たちも遠くから見た方がきれいに見える!という声も混じっていたが。(これを言ったのは踊り手の旦那さんである。)
●衣装
衣装はドドッ・アリッでしたい、というのが私の当初からの希望であった。ドドッ・アリッというのはバティック(ジャワ更紗)1枚を上半身に巻きつけていってビスチェのように着る着方。宮廷に仕える女性が着る着方である。スリンピでは本来、ビロード製の上着を着る。(下半身はどの格好であっても、バティックを裾を引きずるように着付ける。)
ドドッ・アリッにしたいというのは、宮廷で上演されているそのままを再現したいのではなくて、理念的な宮廷舞踊を再現したいと思ったからである。ちょうど仏が修行の段階を上がっていくと、きらびやかな衣装宝飾をまとった姿から簡素な布をまとっただけの姿になるように、宮廷舞踊というのも、通常は金糸の刺繍や豪奢なビロード、きらめく宝飾類をまとっているけれど、精神的にはドドッ・アリッのようなポロスな(飾り気のない)姿で表されるように思えるのだ。また宮廷では、ネックレスや腕輪、足輪は王族たちだけが身につけるもので、家臣はつけない。だからこの公演の時もアクセサリ類はつけなかった。さらに踊り手全員、地毛で結ってもらう。(ちなみに近頃では地毛で結える美容師はほとんどいない。)現在では伝統衣装で正装する場合は市販の髷をつけるのだが、地毛で結うと髷の大きさも小さく自然で、よりポロスに見える。
興味深かったのは、私たちとは対照的にジョグジャカルタの舞踊は本来のバリバリの衣装で上演したことだ。ただでさえジョグジャカルタ様式の宮廷舞踊はスラカルタ様式に比べて髪型や装飾品が派手なのに、私たちがまったくポロスな格好で上演したものだから、派手さはいっそう際立った。
私たちの衣装に関しては、せっかく宮廷舞踊を元の形で上演するのなら、衣装も本来のものを使うべきではないかという意見があった一方、このプンドポの格に相応しかったという声もあった。逆にジョグジャカルタの衣装については、スラカルタではめったにジョグジャカルタのブドヨを見る機会はないのだから、本来の衣装が見られてよかったという声がある一方で、衣装が立派過ぎてこの会場のプンドポにはつり合わない、ジョグジャカルタの王宮には似合うと思うけれど、という声もあった。
宮廷舞踊を上演するといっても、宮廷の外の人間が宮廷の外の場で上演するのだから、宮廷での上演とまったく同じものになるわけがない。その場合、宮廷舞踊の何を重視したいのかということは意識しておかないといけないだろう。本来の衣装を通して本来の宮廷舞踊の場を想像させたいのか、あるいは、宮廷舞踊が持つ精神性の度合いや空間との調和などを重視するのか。このような点が浮き彫りになったという点で、それぞれが単独公演する以上の魅力がこの組み合わせ公演にはあったように思う。
......ここまで書いて、はたと、公演の周辺のことばかり書いていて、肝心の舞踊については何にも書いていないことに気づく。というわけでそれはまた来月に。(続く)
製本、かい摘まみましては(27)
「本の国、本のかたち」と題された第4回・東京製本倶楽部展(3月6日~11日、目黒区美術館)は、和装本に焦点をあてて開催された。元宮内庁書陵部の櫛笥節男(くしげ・せつお)さんによる和装本についての講演や、粘葉装、綴葉装、折本、線装本の実演を楽しみにしていたが、実演開始時間に遅れて到着すると場内はすでにたいそうなひとだかり。かいま見ることのできた作業のひとつが、紙を寸法通りに切り揃える「化粧裁ち」で、普段は平らな床の上でやるのだろうか、当日はテーブルの上での作業となり、ご自分の足を重しとして紙の上にのせ、刃物を左右にひく姿が印象的だった。
家に戻り、上田徳三郎(口述)と武井武雄(図解)による『製本』(トランスアート)を開く。17ページ、「切り」の項目に、さっきみたあの姿を彷佛とさせる図がある。足で紙を上から押さえ、両手を刃物にかけて左右にひいて紙を切る。そばに、「親指の形に注意」の文字。足は正面にまっすぐに、対して親指はくの字に曲がっている。外反母趾か。ではなくて、等しく重みをかけるため、紙をまっすぐ切るために、体(足)は正面を向くのであるが、親指が断裁の邪魔にならぬようにせよ、というのである。職人の親指は鍛練されてきっとそんな形になってゆき、武井にはその「足つき」が、いかにも美しく映ったに違いない。
改めて、武井の絵に見入る。なにもかもを描くことなく、職人の身体の硬軟や息遣いまで感じさせて、やっぱり見事だ。同19ページにある角裂(角布)の貼り方においては、これまでに見たどんな写真付きの説明よりも、あるいは実際に習ったときよりも、指のあて方、力の入れ具合、なにもかもが一番よく伝わってくる。描くために、どんなにかその動きを何度も見たことだろう。銀行員は、印影を照合するのにさささっと紙をちらつかせて、やおらぴたりと確認する。武井もなにか、何度も何度も職人の動きを見るうちに、唯一の絵柄をぴたっと得ていたように思える。
展示のことをもう少し。実演コーナーの奥の壁面には和装本のつくりをあらわしたパネルがあり、その奥に、気谷誠さんの明治時代の和装本コレクション、手前には、柿原邦人さんの縮緬本コレクションが並んでいた。柿原さんの会社で「平成の縮緬本」として刊行した山村浩二さんの『縮緬絵本 頭山』もあった。伊予の奉書紙にインクジェットプリントし、7度の揉み加工をしたそうで、この作業を担った「経師・大入」のホームページに、その方法が写真付きで説明されている。小学生のころ通っていた習字教室で、書き損じた半紙を筆筒や筆に巻き、たてて上からぎゅっと押し、「チリメンシ」を作ったことを思い出す。あれはいったい、どういう遊びだったのだろう。
会員による作品のなかでは、中島郁子さんの二冊が心に残る。目録には「長谷川潔」と「デュブーシェ詩集」とある。前者は、黒色の革のシボの向きを生かしたモザイクで、長谷川が描いたアネモネやコクリコや野草を彷佛とさせる。後者は真白な革のモザイクだが、凹の部分が明るい水色で塗られている。プールに浮かぶ真っ白なタイル、あるいは真っ白のタイルでできたプールといった風情で、アドリアナ・ヴァレジョンのタイルシリーズを思い出させた。活版の圧好ましい『デュブーシェ詩集』を、久しぶりに棚から出す。真っ白なイメージがあったけれど、全体にけっこうなクリーム色だったんだな。めくると煙草の臭いがする。古本屋でいつか買ったものだった。あとがきに、訳者の吉田加南子さんが〈詩集を開く。すると開かれた頁があたかも世界に入れられた裂け目、傷でもあるかのように、もうひとつの世界を見せてくれる〉と記している。中島さんはこの詩集が、とても好きなんだなと思った。気持ちのいい装丁をする人だと、いつも思う。
クウェートのインド人
クウェートといえば、湾岸戦争で一躍有名になった国だが、それ以外ではあまり話題になることのない国。先日イラク人のドクターを1000人もクウェートに呼んで学会を行うというので見に行った。宣伝ではイラクの国旗とクウェートの国旗が仲良く並んでいたけれど、ふたを開けてみると、ほとんどのイラクのドクターにはビザが出ず、結局入国できたのはたったの10人ほど。閑散とした会場だった。なんとなくクウェートには裏切られたという感じ。イラク人とクウェート人には根深い対立が続くのだろうか?
せっかく来たのだからクウェートの町を覗いてみる。この町にはインド人が多い。実はクウェートには、クウェート人は37%しかいないという。あとは出稼ぎの、インド人、バングラディッシュ人、アラブ人など。ほとんどが単身赴任だから、男人口が多い。彼らの中には、親戚の中でローテーションを組んで半年ごとに出稼ぎに来ているものもいる。
ここの食事はインド料理が多い。ただ、アラブ人の出稼ぎもいるからインド+アラブのミックスされたテイスト、これがなかなかうまいのである。イラク人スタッフのイブラヒムとレストランに行く。中でもお勧めはブリアーニ。イラクのブリアーニとはちょっと違って、関西のうな重みたいにスパイスの効いたご飯の中に魚とかチキンが埋まっている。イブラヒムは辛いインド料理は苦手。「辛いのはダメだ」とボーイに注文をつける。「俺はおなかがすいているから20分で持ってきてくれ。20分だぞ。本当に。さあ、これから時間はかるからな」なんとなくインド人には、態度がでかい。
実は、日本人の友人がたまたま、インド人と一緒に暮らしているというので部屋を見せてもらった。ダウンタウンの商店街の裏のほうにインド人が住んでいるアパートがある。ベッド一個を借りて一部屋に4、5人で共同生活をしている。廊下はごみであふれ猫が住みついている。ベッドには虫がわいてかゆくてたまらないそうだ。
イブラヒムも一緒に連れていった。イブラヒムはバスラにすんでいて、自分のことをいつも「イブラヒム貧乏、貧乏」といって哀れみを乞うのだが、インド人の貧しさには降参したようで、あまりの部屋の汚さに「イブラヒム帰るね」といって先にホテルへ戻ってしまった。屋上にでると、クウェート・タワーが見える。屋上にも粗末な小屋があって、そこにはイランからの出稼ぎ労働者がいた。
クウェートのホテルは高いので有名。大体100ドルはする。僕たちが泊まっていたのは、二人で8000円くらいの、ホテルアパートだった。二人で泊まると結構安いなあと喜んでいたが、インド人ご用達の宿泊所は一ヶ月で8000円程度だという。ベッド一個を借りるという感じ。インド人は、タクシーのドライバーや、クウェート人の召使として働いているが、最近はイラク国内の米軍基地で働くのを希望する人も多いらしい。街中に求人の張り紙が張ってある。そちらのほうがいい金になる。イラクは内戦状態で危険なのに、インド人はイラクへ行くのだ。
イラクのドクターが帰るというので、国境まで見送りに行くことにした。イブラヒムはもうしばらくクウェートでゆっくりしたいという。市内から国境までは車で一時間ぐらい。この街道がいわゆる「死のハイウェイ」だ。湾岸戦争では、敗走するイラク軍に向かってアメリカが容赦ない攻撃を加えたところ。対向車線には、任務を終えた米軍の戦車をつんだトレーラーが隊列を組んで走っている。途中の砂漠には湾岸戦争当時に破壊された家屋がいまだに残っている。
国境につくと、イラク国内に運ぶ物資を積んだトラックがたくさん停まっていた。いわゆるハンビーと呼ばれる軍用車もあったので、米軍関係の物資なのだろう。みんなで記念撮影をしていると、ちょうど、クウェート軍と米軍の合同パトロールがやってきた。ジープの中から米兵が
「ここは、軍事基地だ。写真を撮っちゃいけない」
そういって私の写した写真をチェックして、バックにハンビーが写っている写真を消すようにというので消去した。しかし、クウェートの軍人は私のパスポートを持っていってしまい、尋問するというのだ。結局私は、軍ではなくて、国境警察の取調べを受けることになった。しかし、ゲートのところで延々待たされることになった。見張りのクウェート兵の態度が悪い。ともかくえらそうだ。「一体いつまで待たされるのです」と聞くと「私は英語は、わからない」と英語で言うので、アラビア語で話しかけると、「俺は、アラビア語はわからない。俺はインド人だぜ」とわらっている。
正直、むかついた。私たちのドライバーは、インド人だったので、「じゃあ、話してみろ」というと「は、ははは、俺はインド人だ」と英語でドライバーをからかった。この国境は、米軍関係の取引をしているアメリカ人がたまに通過するが、兵隊は彼らには愛想よく振る舞い、クウェートから家具を積んだおんぼろトラックのアラブ人運転手には、さげすむようなまなざしを向ける。アラブ人の顔はこわばっていた。
そういえば、昔読んだ、パレスチナ人の作家、ガッサン・カナファーニの小説『太陽の男たち』を思い出した。これは1963年の作品で、バスラのパレスチナ難民3人がクウェートに密航するときの話。給水車のタンクに隠れて国境を越えようとするのだが、時間は7分。それ以上だと灼熱の太陽が男たちを蒸し焼きにしてしまう。クウェートの入国審査官が、ドライバーをさげすみからかっているうちに時間がかかってしまい、無事に国境を越えたものの、時は遅し。タンクの中のパレスチナ人は死んでしまっていた。
「なぜ、お前たちはタンクの壁をたたかなかったんだ!」というドライバーの叫びでこの物語は終わっている。内戦状態のイラクでパレスチナの難民は迫害され、最近ではバグダッドを追われてシリア国境へと雪崩出ているというから、その当時と状況は変わっていないとつくづく思うのだ。
結局、散々待たされた挙句、ようやくアラブ服を着た警官のところへ連れ出された。警官は丁寧な男だった。「いや、ただ、お決まりごとなので、質問をするだけです。時間はかかりません」といって、冷たい水やお茶やお菓子を振舞ってくれた。私たち、日本人の友人とインド人のタクシードライバー3人が尋問された。イラク人医師は、すでにバスラに到着していたし、イブラヒムはイラク人だったので、どこかに隠れているようだった。
そこでも時間がかかったのは、調書を3枚を手書きで作っていたからだ。クウェートなのに、コピー機がない。なんと手書きでコピーを作っていた。かわいそうなのは、インド人のドライバーで、どこに住んでいるのか、不法滞在でないか調べられた。彼の顔はこわばる一方である。
結局、無事に解放された。バス停まで戻るがイブラヒムがいない。この暑さで干からびてるのではないかと心配したが、ちゃっかりとクウェート人と友達になって、大きな車に乗せてもらっておしゃべりをしていた。
UNHCR(国連高等弁務官事務所)は、シリア、ヨルダンを中心にイラク難民が200万人になったと報告している。宗派対立が激化し、危険で住めなくなったイラクを後にする難民と、その裏側で、危険なイラクで商売をしようと試みる貧しい外国人労働者たち。世界はぐるぐると回っているのだ。
(ガッサン・カナファーニ 1936年生まれ。パレスチナの激動の歴史の中で果敢な自己形成をとげ、パレスチナの相次ぐ悲運を共にすることによって自己の帰属する民衆を描く。1972年7月8日の朝、自動車に仕掛けられたダイナマイトで暗殺される。享年36歳)
炎(4)
荘司和子訳
年老いた母の姿が浮かぶ。母には昔どおりの快活さをもっていてほしいと願う。子どもたちを叱り慣れた口調でどやしている母の声が聞きたい。かつての母のイメージは今現在のわたしにとって愛すべき姿だ。そして現時点でのピンパーのイメージはといえば考えても謎である。どうしてまたわたしたちはこんな風に出会うことになったのか。自分の恋人とこんなかたちで出会うことなんてあるだろうか。わたしの姉はこんなめに遭ったことはあるのだろうか。女性ならこんな経験をしたことのある人は多いだろう。。。そして男性には「獲得する」権利がある。
バスはスピードを上げて走り続けている。ピンパーは肘でわたしの脇をそっとつついて言った。
「なに考えているのよ」
「いや、なにも」
そしてわたしはまた黙りこくる。
「タバコ1本ちょーだい。ある?」
「あるよ」と言いながらわたしはタバコを1本抜き出してわたした。ピンパーはそれをくわえるとわたしの方に先端を向けたのでライターで火をつけてやった。彼女は煙を吸い込むと気持ちよさそうに鼻からそれを吐き出す。煙は強い風のせいでまたたくまに飛散していった。
彼女の身体がわたしの脇に柔らかく接触している。夜半の風がざわめいてわたしたちの身体に当たってくる。ひんやりとした冷気がこころの中まで浸透してくるようだ。それとは反対に熱い情欲がわきあがってくるのもどうしようもなかった。彼女はわたしが知っている商売女の香りとは違ういい香りをただよわせている。ピンパーを女性として眺めると同時に彼女の肉体への愛欲の感情が突如沸いてきた。こんなことはかつて考えて見たことがない。感情の一瞬の嵐のようだ。ピンパーは微笑んでいる。その瞳には激しく光る炎があった。彼女は小声で尋ねた。
「何も訊かないのね。あなたはどこへ行くつもり?」
「家に帰る。それで君は?」とわたし。
「わたしもどこへ行くのかわかってないのよ。。。」
ピンパーはつぶやくように言いながら風で乱れた美しい長い髪を手で梳いた。
「なんで家に帰って休まないのさ」わたしが訊く。
からかうようにわたしに身体をぴったり寄せてくるとピンパーは軽く笑いながら言った、
「ばかみたいなことは言わないものよ」
「ばかじゃないさ。ほんとうのところあそこに君を放っておけばよかったんだ。君もそのほうが望むところだったんじゃないか」
「冗談じゃない! 何言ってるんだかわかんない。あの狂犬たち、思い出しただけでも鳥肌が立つわ。いじめてなぶりものにするだけよ。人の言うことなんか聞きやしない。あなたが通りがかったなんてラッキーだったわ。そうじゃなかったら。。。」と言って力尽きたようにため息をついた。
「正直なはなしだけど、ピンパー」とわたしは真剣に彼女に話し始める。
「ぼくは金がなくて君をどこかへ連れて行っておごってやることもできない。そんなことできる状態じゃないのさ。女性をさそうんだったらお金があって楽しさや幸せを買ってあげられなくちゃね。でも今日のぼくにはタバコがあと何本か残っているだけなのさ。どうすればいいのさ。どうすることもできないよ」
わたしはタバコを抜き出して吸った。そして彼女にはなしてしまったことで気が楽になった気がした。
アジアのごはん(17)タイの市場猫
しばらくタイに行ってきた。帰国の日の朝、少し早起きして近所の市場に行く。タイカレーのペーストやトウガラシを荒くすり潰したナムプリックなどの生ものの調味料、生のトウガラシなどを買うためである。これらを買って帰らないと、次にタイに来るまでの日本での食生活が寂しくなるので、眠い目をこすりながら市場へ行く。早いと言ってもだいたい8時すぎまでに行けば、カレーペースト売りの店はまだ開いている。
バンコクの定宿はプラトゥーナムという地域にある。表通りの空気は大変悪い。プラトゥーナム市場は安い衣料品市場が有名だが、通りを挟んで衣料品市場の向かいに大きな生鮮市場が、昔はあった。今では借地期限が切れて、代わりに特色のない安直なショッピングプラザとコンドミニアムが建っている。
生鮮市場は規模を縮小して、元の市場の裏手の方に引越し、今に至っている。タイではごくふつうの、野菜や乾物、肉や魚、調味料などを売る市場だ。タイでは、いわゆる八百屋、肉屋、魚屋という独立した生鮮食品の専門店は町にはほとんどなく、そういう店は市場にまとまって入っている。生鮮食品を買うには、市場に行くことになる。
市場は朝市、一日中、夜市とあり、夜市は惣菜や、簡単な食事の店の市。一日中というのは、人がたくさん住んでいる地域に多く、需要にあわせて生鮮食品、惣菜、食事屋台が朝から晩まで開いている。朝市は生鮮市場だ。体育館の壁がなくて屋根だけのような建物の下に小さなブースがひしめき合っている。
プラトゥーナム市場は朝市であり、昼間に行くとガラーンとしている。もっとも朝の8時過ぎに行っても、店はまだかなり開いてはいるのだが、みんなすでに一仕事終えてフヌケのような状態である。深夜や早朝から店開きしているのだから仕方がないが、商品の後に座っているはずの売り子の姿がない、よく見ると横で寝ている。よくよく見ると、その横で猫も寝ている、といった状態である。
どういうわけか、この市場には猫がやたらと多い。朝でも通路を自由に歩いているし、昼間のガラーンとした市場ではたくさんの猫が昼寝している。猫たちのお気に入りスペースは、肉屋のブースだ。肉屋はブースを白いプラスチックの板や、タイルで貼っていてその上に直接、塊りの肉や豚の頭なんかを並べて売る。商売が終われば、そのブースを水で洗っておしまい。そしてきれいになった(でもすごく肉臭い)そのブースの上で、次は猫たちがごろごろと寝るのである。あんまりたくさん寝ているので、まるで生猫売り場だ。猫たちは実に実に幸せそうな顔をして寝ている。腹を出しているヤツまでいる。まさに至福。肉の匂いに包まれて。人間には生臭いとしか思えないけど。もちろん肉屋が飼っている猫わけではない。
マレーシアのペナンの裏通りでは、食堂の裏口から追い出され、包丁を投げつけられて飛ぶように逃げていく猫の姿があった。あの猫に比べてこのプラトゥーナム市場の猫たちのなんと幸せな姿。ちなみに、この猫たちはノラなのか飼い猫なのかというと、たしかに残り物のエサをもらっている気配もあるが、半ノラ、といったところか。市場猫、というのが一番あっているようである。ネズミ対策にいいのだろう。
とにかく、この昼間の、頭がぼうっとするような暑さのときに市場を通りかかると、肉屋ブースで猫が何匹も寝ているのが見えて、思わず頬がゆるんでしまう。脱力。
ちょうど去年の秋、タイから日本に戻った2日後にタイでクーデターが起きた。今回は4ヶ月たって1月末にまたタイに戻ってきたのだが、街の雰囲気はかなり変わっていた。クーデター前のタイは、タクシン首相(当時)支持派と反タクシン派とに国民が二つに分かれて対立していた状態であった。それをなんとか一つにしたのが「国王への愛」ということなのだが、暫定政府はおおむね国民の支持を受けてはいるものの、なかなか経済政策、南部テロ対策に有効な手が打てず、苦渋している。
さらに近年のタイの経済発展を演出したタクシン元首相の置き土産とも言うべき問題が次々に発生。新しく開港したスワナプーム空港では手抜き工事で誘導路が陥没、亀裂が入り、かなり危険な状態になって莫大な修理費はかかるわ、開港してみたらすぐに需要に追いつかなくなることが判明してあわてて閉鎖したドンムアン空港をまた開港せざるをえなくなった。数日前の報道では、空港の大手免税店キングパワーが不正に空港内の店の敷地を拡大し、その上法外に安く使用料金を契約していたことなどが判明し、空港公団から訴えられていた。
今回はじめてスワナプーム空港に着いたとき、規模は大きいのに、やたらと免税店スペースが大きく、イミグレーションや到着ロビーが狭くて、使いにくいったらない。一体どういう設計だと呆れたのだが、やっぱり・・。
さらに、タクシン元首相の系列会社が買収していたiTVというテレビ局がタクシン系列になって以来、国との放送権の契約料金がこれまた法外に安くされてきていたことが発覚し、現政府はその間の正規の料金を払うようiTVに求めたが、罰金を含めて200億バーツに上る額はとても払いきれるものではなく、あわや開局ならぬ解局に追い込まれた。テレビでは毎日iTVのアナウンサーやレポーターたちが泣きながら、iTVを助けて! とアピールをしていたが、そういう情緒的な問題じゃないんじゃないの、とやっぱり呆れた。
結局、iTVは解散にはならず、機材や組織にはお金がかかっているので、有効に使うことになり、政府管轄のニュース番組主体の局になって存続することになった。社員たちは泣いて喜んでいたが、もともとの、ムチャクチャなやり方をちゃんと反省したのかいな、と心配になった。
iTVは、じつは元々はアラブの報道局アルジャジーラに刺激されて出来た独立系の自由な立場のニュース報道局であった。ところが、タクシンが首相になると、さかんに不正や疑惑を報道したものだから、タクシンが怒って、あっさり買収してしまったのである。タクシン系列になると、一転してタクシン寄り報道姿勢になり、さらにタクシンに都合のよいように事実を歪曲した報道まで行い始めた。(たとえば反タクシン集会に集まった人の数を実際の10分の1ぐらいに報道したり、反タクシン派の人物を誹謗中傷したり、などなど)ニュースよりも娯楽番組中心の放送になったが、そうなると国との放送権契約が高くなるのだが、なぜか報道中心用の安い契約料のままに据え置かれていたというわけである。
タクシン元首相は、在任中に新空港の滑走路の安全性の問題について何度も取りざたされたが、「一切問題なし」と問題を隠蔽したままだった。手抜き工事が行われた背景には当然、工事受注のために莫大な賄賂が贈られ、その分を工事費から差し引いて造った、ということが考えられる。そういえばまだあった。格安国内航空会社のエア・アジアもタクシン系列だったが、ここも空港使用料を法外に安くしてもらっていた。ふう。
タクシン・バブルがはじけて、その実態がつぎつぎに暴きだされて、タイにいる間、テレビや新聞を読むたびに、呆れる毎日だったのだが、当のタイ人たちはというと、(もちろん一部の人間は問題にしたり、まだタクシン支持の人もいるにはいるが)市場の肉屋で寝る猫のごとく、タクシンは追放されて問題は終わったし、いいんじゃないの? とのんびり過ごしているようである。クーデターをイベントのように楽しんでいた人も多かったようだし。いや、まあ、それがこの国の気質といってしまえばおしまいなのだが、そういうのもまあ、いいかなと思ってしまうほど、もうタイでは暑さが本格化してきた。真夏である。気温が38度や39度では、怒ろうと思っても、猫のようにどうでもよくなって、ふにゃふにゃとネムくなってしまうのである。
きりきり(桜の)舞
今年は暖冬。桜の開花は例年よりも早く、4月にはもう散ってしまうかもしれない、という報道がありました。ならばと計画はちゃくちゃくがやがやと進み、実行に移されたのです。正確には実行に移されたわけではありません。花を見ていませんから。花は咲いていませんでしたから。でも宴はがやがやともよおされました。
その日、Kさんの顔は空のようにどんより曇でした。桜が咲いていないことは誰の目にも明らかです。会って「桜が・・・」というと、「その話はしないで・・・」とうつむき加減。みんなKさんにその話は禁句でした(ぱっつんの鋭い視線だけは感じていたそうです)。でも最初に輪になって歌う「マルマルマル」のとき、自ら「生まれてはじめて花見を中心となってやったのに、桜が咲いていない~」とみんなうつむき加減につぶやきました。告白です。心の重荷を少しおろしたかったのでしょう。
しかしKさんはよくやりました。立派でした。彼女はこの日のために、懸命に働いたのです(自らいうところによると「がやがや」の台湾公演よりも力をそそいだそうです)。まず車初心者のKさんはだんなさんをまきぞいに、当日頼んでいる食べ物を取りにいく道順を自転車で何度も予習したそうです。桜が咲くか咲かないかについて、いかにKさんが気をもんだか、想像に難しくありません。
桜は咲かなかったけど、Kさんは見事にその使命を果たしました。車で食べ物を取りにいくとき、私も巧みなその運転を見たくて、「乗せてよ」といいましたが、「免許もってる?」ときかれ、「もってない」と答えると、「役に立たないからダメ!」といわれてしまいました(免許をもっている人に隣に乗ってもらいたかったのでしょう。ぱっつんがその重役を果たしました)。数十分後、「完璧だった」の一声と共に無事帰還しました。わたしたちは窓の外の裸んぼうの桜を横目に、Kさんの武勇伝と悲しみを酒の魚に焼き鳥やおせきはんをむしゃむしゃ楽しく食べました。
花見はできませんでしたが、わたしたちは確実に見たのです。きりきり桜の舞を。この経験はきっと来年の花見に生かされるでしょう。来年もよろしくお願いしますねっ、きりさん。
記憶違い
昔は人が死ぬと 友人たちが遺稿集をまとめたり 伝記を出版してくれることもあった それらを読んだことがあっても 記憶は現在にあわせて作り替えられる 最近母の家に保存してあった昔の本を借りて読んだ それまで祖父(父の父)は家出をして名をありふれた高橋に替えたと思っていたが そんな事実はどこにもなかった 伯父が多摩川の河川敷にホームレスのテント村を作ったと思っていたが それはちがう場所にあった 伯父が銀杏の木の下で朝鮮の少年と話している情景はソウルのことだと思っていたが 京都の同志社の庭だった
祖父 高橋鷹蔵は徳富蘆花の序文のある『御手のままに』という本を書いていた それによれば新潟の北にあった小出村の屋根葺き職人の子で おそらく1864年生れ 17歳で家出して米沢 福島 仙台 水沢と 丁稚奉公しながら放浪し そこでギリシャ正教の伝道師になるが 東京に出ると やがて新島襄の組合派に改宗し 1888年に京都の同志社でまなんでから 牧師として各地をまわることになる 1910年日韓併合のあと ピョンヤン(平壌)教会の牧師になった 眼鏡と長いヒゲで朝鮮服を着た写真が残っている 朝鮮語で『耶蘇伝』というパンフレットを書いた 1923年旅先の京都で急死したが それは1919年3月1日の反日運動で投獄された信徒救援のための旅と聞いたことがある
伯父 高橋元一郎は1895年高千穂生れ 父の布教先である山鹿 柳川 宇和島 丸亀 熊本 小樽を転々とし 同志社神学校を中退して 同志社図書館司書になり 軍事教練導入に反対して同志社を去った 岡山の美作に滞在中 同志社で同窓生だった山本宣治が無産党代議士となった直後に暗殺されたことを知り こうしてはいられないと 京都に戻り さらに特高刑事の尾行付きで東京に出て 1930年 賀川豊彦の助けを借りて深川の浜園町にルンペンプロレタリアート いま言うホームレスのテント村を作り 昼間はゴミ拾い 夜は見回りをつづけた 翌年東京市当局の解散命令を受け 全員の引取先を見つけて別れた 満州事変(1931年)に対して反戦平和運動をはじめるが まもなく喉頭結核で倒れ 1933年に死んだ 看護士が部屋をあけたすきに病室の白壁に毛筆で 昇天 高橋元一郎 と書き付け 人が来た時はもう死んでいた 38歳 後に親泊康永の編集で『一杯の水』という遺稿集が出た 親泊康永は沖縄人で『義人謝花昇伝』の著者 謝花がアナーキストの影響を受けたような記述がいまでは事実無根と批判されている その後本田清一『街頭の聖者 高橋元一郎』という評伝も出たが 両方に賀川豊彦が序を書いている
組合派(congregational)というのはピューリタンの一派で 会衆の直接民主主義によって各教会が独立している 自分にきびしく ひたむきな人間は 不幸の空気を漂わせ 周囲の人間を引き込む力があるようだ
伯父が療養していた家の吉岡憲(佑晴)は 元一郎にはげまされて画家になったが その後ハルビンで暮らしたり 日本軍属としてインドネシアに行き絵を教え 美術学校を建てたりした 戦後は独立美術展に出品し 『マルゴワ』『笛吹き』『母子像』などで評価された 絵を描く時は祈りを忘れなかったが 酒を飲むたびに自宅アトリエを破壊するほどあばれ 1955年に電車に飛び込み自殺した