2013年5月号 目次
四月になれば貯えは
四月、税金をはじめいろいろな請求が届く。毎年のことながら貯えていたものどんどんなくなり、また最初から貯え始める年度初め。
こちらはノーネクタイが十一月いっぱいまで続くが、今年は最低気温十二、三度という沖縄真冬の冷え込みの日があったりとへんな天気が続く。一瞬、雨が続いて蒸し暑くなったとおもったら涼しい日が続き、うれしい、とおもったらいきなり最高気温28度。一日は沢井先生の命日。亡くなってからその翌月には沖縄へと引っ越した。あれから十六年、あの時一歳の赤ん坊が高校三年生になった。確実に歳を重ね来月で五十だ。
去年の十二月のある日、ついついドアをノックするので出てしまった。総務省統計局にお願いされ、電卓と計量器が配布され家計調査の協力。始まったのは一月。購入したもののレシートはすべて保管、預貯金、月々支払っている保険、ほか諸々の収入、支出をすべて記録し家計簿つけなくてはいけなくなった。生鮮食品を購入した場合は計量して何グラムとか、記録しなくてはいけない。その記録を月二回、担当の人が回収にくる。大変なのはうちの奥さんで、今月そのお礼でお米券を結構な枚数いただく。が、手間を考えたらこれでも足りないだろう、と家の中でごねる。
今月、前半はしもた屋の杉山さんとたいへん楽しいメールのやりとりをやっているときに中井猛先生の訃報が入った。何かの講習会だったか忘れたが、雅楽の「越天楽」の旋律に色々な歌詞を付けるのが流行った時期がありそのときにできた曲のひとつが「黒田節」だ、ということをいつもの大阪弁での話を聞き、沢井先生の「黒田節による幻想曲」という曲の解説には新日本音楽の華やいだ雰囲気が念頭にあったとような記述があり、それで宮城道雄の「越天楽変奏曲」からのつながりというか流れがわかったような気がした。一度何名かで先生のお宅へ伺ったことがあり、豆腐好きの先生自ら料理をし、豆腐尽くしのご馳走をいただいた。その時にそろそろおいとまする時間になり、帰ろうとするといっしょにお邪魔したひとりが、「みんないっぺんにいなくなると、先生が寂しがるから」と言われ、わたしともうひとりがそのまま取り残され、先生のお宅で一晩お世話になることになった。みんなが帰ったあとも先生は色々な話をしてくれ、地唄の手ほどきの曲の楽譜をいただいた。知らせを受け仕事から戻った夜に酒を呑みながら、久しぶりにその楽譜を引っ張り出した。解説を読むとちょっとしゃれがきいた先生の文章だったので湿っぽくならず呑むことができた。
もの書き(5)
荘司和子 訳
彼はふ〜とため息をついたが、顔色も変わっていないし、生真面目という風でもなければ茶化している風でもなかった。
「きみらの書いたものはのんべんだらりで冗長。雰囲気だけじゃ読んだ気がしないよ。あれもこれも説明が多すぎる。社長は気に入らなかった。社長が言うには、きみらはこういうものは書かない方がいい、短編か小説かなんか書いて売った方が役に立つ。白表紙本なんてぇのはその筋の連中でなきゃあだめだ。きみらのやることじゃない、ということだ」
と言うと、彼はグラスを持ち上げてごくりと飲んだ。そして押し黙ってしまったぼくたちのその場の空気をなごめようとするかのように、また口を開いた。
「さあ、飲めよ。酒だ、これはつまみ。あまり考え込むな」
ぼくたちにとっては悪い知らせだった。がっかりはするし、すっかり場がしらけてしまった。とはいえぼくたちの人生全体から見ればいい知らせだったのかもしれない。これが人生の重要な転換点になったともいえるのだから。その日は飲んでも味気なかったのだが、気持ちよく酔うことにした。酒を飲んで酔うことについては決めていることがあった。お酒があまりない日はしっかり酔うことにしていて、お酒がたくさんある日にはあまり酔わないようにする、というものだった。
気晴らし本というか白表紙本というかその手の本については、わたしはそれ以上考えることをやめた。自分が得意とする方面の仕事をするほうがいい。とはいえ、プラスートの部屋にはこの手の本が3、4冊ころがっていて、こっそり読まずにはいられないのだった。ドンジュアンとかチャーンデーンとかいうペンネームのどれも、プラスートの書いたものではないかと疑っているのだが。
ただし、俺は書いてない、俺は書いたこともない、と強い口調で彼は主張するのだ。信じられますかね。この野郎めが! (完)
空に浮かぶ小石
空に浮かぶ白い小石
獣の目玉のように輝いて
静かに夜をのぼる
曇りの日に吹く風に混ざる言葉は
悲しい冬を温めた
土は燈色に
葉は深緑に笑う
時は歩く、鮮やかに
犬オトメンと指を差されて(58)
ドビュッシーの『子どもの領分』という組曲のなかに、「ゴリウォーグのケークウォーク」という小品があります。わたくしが幼い頃から聞いていて、曲と題名が頭のなかでこれだと一致する数少ないもののひとつなのですが、正直幼児のわたくしには〈ゴリウォーグ〉が何で〈ケークウォーク〉がどういうことなのかさっぱりわからず、当時はただ語呂がいいとだけ思い、少し成長してからは前者が何やら昔流行したキャラクタらしいという漠とした情報が手に入るだけでした。
ところが時は流れ、わたくしが文芸のデジタルアーカイヴで泳ぎながら、海外の絵本を気ままに楽しんでいるとき、偶然出くわしたのがアプトン親娘の『オランダ人形2体とゴリウォーグの冒険』というコミカルな絵本。そこで初めて、ゴリウォーグの何たるかを知ったのです。
やさしくにっこりちかづいて
こわがらないでというそいつ
「あなた、どなた?」と
きくセーラ・ジェーンに
「ゴリウォーグでございます」
描かれていたのは、もじゃもじゃ髪に黒い肌、分厚い唇の、いわゆる黒人を戯画化した、どこか愛らしい絵。どうしても〈ちびくろさんぼ〉や〈ダッコちゃん〉といった(どちらも私の幼少時にはまだあった)キャラクタを思い出しますが、同じく人種差別的批判から今や姿を消しつつあるものでもあるようで。
では〈ケークウォーク〉とは何ぞや、という話にもなりますが、このジャポニズムも垣間見える1895年の本には、それらしいシーンも描かれてあります。
とまらずそのままこおりへと
きづけばすてきなよこすべり
ペッグはもうへっちゃら
だけどメグとウェッグは
つるつるしながらおおさわぎ
妙な歩き方・進み方を競ってやる遊びのことらしいのですが、この詩行につけられた絵はなにやら愉快そうなポーズも添えられて、氷や雪の上で遊んでいる様子。ただこれを〈嗤う〉ととると、差別ということにもなり、絵本としてわたくし幼少の当時に出会えなかったのも、わからないでもありません。今ではウィキペディアを調べればすぐに情報は現れますが、子どもの頃はただただ気になっていたことでもありまして。現在となっては、歴史の彼方に消えゆくキャラクタと、ドビュッシーが娘にプレゼントしたその軽快なテーマソングに思いを馳せるのみです。
名前だけは聞いたことあるけど実物がお目にかかれなかった絵本というと、ピーター・ニューエルのものもそういったもののひとつでした。日本だとアリスの挿絵でその絵を見たことある人がいるでしょうが、ゴリウォーグ登場と同時代に人気作家であったとされる彼の絵本は、〈さかさ絵〉の作者として触れられる以外、さほど紹介もされなかったようです。
たとえ子ども心に「この人の絵もっと見たい」と思ったところで詮無い話ではあるのですが(とはいえすでに幼児というより少年だったかも)、これも後年デジタルアーカイヴで『うちあげの本』『ななめった本』という2作品を無事見るに至ります。
前者はあるアパートの地下から始まり、少年のあげた打ち上げロケットが一階ずつ上階へ突き抜けていき、そこに住む人たちのコミカルな反応が描かれるという、趣深いものなのですが、幼い頃に出会いたかったとじゅうぶん思えるもので、何やらむなしく悲しい気分になったりもします。
そして後者の『ななめった本』も捨てがたく、平行四辺形の本のなかで、ベビーシッターの手を放れた、赤ちゃんの乗った乳母車が坂をごろごろと落ちていき、街に大騒動を巻き起こしていきます。風刺画的な側面も、それから当時の風俗文物を伝えるところもあるのですが、100年前にしてすでに形と絵と発想で楽しませる実験が行われていたことからして、やっぱりみんなすごいなあ、と月並みな感想を抱いてしまいます。
しゅっとひとふりマッチをすって
それからかたいどまにひざついて
ロケットにひをつける――うわっ!
ばしゅっとてんじょうつきぬけた
しっかりちゃんと突き抜けたものは、ぼんやりとしたイメージでも、何かしら心に残ってしまうのでしょうか。良かれ悪しかれ、中途半端に突き抜ける、なんてことだけはしたくないものです。
アジアのごはん(53)豆乳生活
わたしは長らく、豆乳はアレルギーで飲めないと思い込んでいたが、どうもそうではない、というのが判明した。わたしの大豆アレルギーは、大豆の皮の部分に集中するらしく、質の良い豆乳をOリングテストしてみると、身体によい反応が出た。え、豆乳は飲んでよかったんだ。
さらに、牛乳もヨーグルトなら大丈夫だったりして? とテストしてみたが、どんなに質が良い製品でも、牛乳、ヨーグルト、チーズすべてNG。いや、分かってたんですけどね。わたしは乳製品アレルギーです。でも、たまにチーズをちょこっと食べたり、ケーキを一切れ食べたりしても、まあ死ぬほどの症状は出ない。一定量を超えると気分が悪くなってくるけど‥。
たしかに、豆腐や揚げは毎日のように食べてきた。豆腐はだいたい4分の1丁ぐらいなら食べられる。それ以上は、身体が拒む。口に入らないのであって、乳製品の時のように気分が悪くなるわけではない。しかし、煮豆やおからは、ある一定以上食べると口が拒む前に気分が悪くなる。一定といっても、割と少量だ。以前うっかり黒豆コーヒー(皮を焙煎したものか?)を飲んで、ふらふらになって寝込んだこともあった。枝豆も、中の豆についている薄皮をいちいちはがして食べている。黒豆の枝豆などは、それをしないとやはり倒れそうになる。
豆乳はどうかというと、飲むとお腹が張る。それが気持ち悪くてしんどい。そのままごくごく飲んでもあまりおいしいとは思えないし。なので、たまに豆乳を試してはやめる、のくりかえし。これは、アレルギー反応ではなく、消化力が弱いせいだったのか。
大豆製品が、牧畜民族以外のアジア人のほとんどにとって何千年にもわたって健康を支えてきたすばらしい食品だということは、疑いようがない。まずは良質な植物性タンパク質をたくさん含む。そして、大豆に含まれる成分はコレステロール値を下げ、血糖値を安定させ、動脈の状態を改善し、腸の状態を整え、結石まで溶かす作用があるという。
しかも、大豆のイソフラボンは女の強い味方である。更年期にさしかかり女性ホルモンが減っても、イソフラボンが人間の女性ホルモンのエストロゲンと同じ働きをしてバランスを整えてくれる。それだけでなく、乳がん細胞のエサとなるエストロゲンのかわりにレセプターにひっついて、がん細胞を餓死させてしまう、ということまでやってくれるのだ。すばらしきかな、大豆。
どうも最近、まわりに乳がんの知人友人がちらほらと増えてきた。更年期障害も改善されるし、乳がん予防にもなるし、ここはもっと大豆製品の摂取量をふやしたいところである。放射性物質はどうやっても体に入っているだろうし、中国からの汚染物質満載のpm2.5に黄砂も飛んでくる。ドクダシも大切だが、腸の機能を高め、身体の免疫機能を高めることも重要だろう。
しかし、豆腐や揚げはもうこれ以上食べられません。そこで、ふと小耳にはさんだのが豆乳ヨーグルトである。なるほど、乳酸発酵していれば、消化もスムーズ。豆乳はアレルギー源ではないと分かったし、これは試してみなくっちゃ。
調べてみると、豆乳を発酵させるのにいわゆるブルガリア菌や市販の牛乳ヨーグルトを種にして豆乳で培養するタイプと、米についている乳酸菌を利用して種を作り豆乳で培養するタイプがあることが分かった。米の乳酸菌を利用するものは、いろいろな作り方があり、米のとぎ汁から乳酸菌を培養する「米乳酸菌液」を作ってから、それを種として豆乳で作るもの、玄米や白米を直接豆乳に投入して作るもの、米粉や玄米粉を豆乳に混ぜるものなどがあった。
もともと米には、複数の乳酸菌や酵母がたくさん住みついていて、精白してもある程度残っている。その米つき乳酸菌たちが人間の腸には大変いいらしい。最近は米乳酸菌を使ったサプリメントも出ているほどだ。この乳酸菌は免疫細胞を活性化させる作用があるのが注目されている。考えてみれば、長年米を食べてきた人々にとっては、なじみのよい乳酸菌であるわけだ。さらに、それをなじみのよい豆乳で発酵させればさらに素晴らしい‥はず。
さっそく豆乳ヨーグルトを作ってみた。
まずは、米乳酸菌液をつくる。お米3合を精白して(8〜9分搗きが望ましい。白米そのままでも可)、500mlぐらいの水で研ぐ。すると、濃いとぎ汁ができるので、それをペットボトルに取り置く。お米はそのまま研いで、ふつうに炊いてごはんとしていただく。とぎ汁は、なるべく空気に触れないように口の根元ぐらいまで入れる。そこに塩小さじ1、白砂糖大匙1を入れ、ふたを閉めてよくふって混ぜる。口をゆるめて、あたたかそうな場所に置いておく。一日一回ふって混ぜる。7日から10日でほのかに酸っぱくなったら出来上がり。
え、一週間も待つのか〜。早く食べてみたいぞ。それまで待つ間に、簡単な作り方という玄米直接投入方法をやってみることにした。豆乳500mlに、さっとすすいだ玄米大匙5杯を入れ(茶葉入れの袋などに入れると後がラク)、軽くふたをしてそのまま放置する。
いちおう発泡スチロールの箱に湯たんぽと入れて、きちんと保温してみた。数時間後、ふたをパコンと開けてみると、まったく固まっていない。やっぱりダメなのかな、と思いつつもそのままふたをして寝た。翌朝‥ふたを開けてみると、つるりと固まっているではないか。しかもかき混ぜると、もろもろと炭酸発酵までしている。少し冷やして食べてみると、あっさりした味。なんとなくヨーグルトっぽい。器の底には、玄米がそのままヨーグルトにまみれて沈殿している。
それにしても、ただ玄米を入れただけでヨーグルトができるとは。う〜ん、ミラクル! めちゃくちゃ簡単! るんるんと半分取り分けて、残りをうつわに入れ替えて、乳がんになった近所の友だちの所に持って行く。「ほら〜、免疫機能が高まるらしいよ。乳がん予防に豆乳ヨーグルト!」それを受け取って、さっそく一口食べた彼女は顔をしかめて「ぬか臭〜い!」さらに「何でも食べるわたしが初めて残した」などとすばらしいお言葉をくださった。すっかりテンションが下がってとぼとぼ家に帰り、試しに残りを口に入れると、やはりぬか臭かった‥。はじめに味見した上の方はそうでもなかったが、下の玄米に近い方はちょっと食べられない味。しかも、玄米をそのまま入れたので、固い玄米が時々まじって口に入るのも気分がよくない。う〜む大失敗。
なんとかぬか臭くならずにつくれないものか。残りのヨーグルトを種に使って培養すると、ぬか臭さが薄まるかもしれない。で、作ってみるとかなり薄まった、ような気もするがやはりかなりぬか臭い。次は、玄米粉を直接豆乳に混ぜる、という方法で培養してみた。これは、いまひとつの風味なうえに、ザリザリと粉が舌に残る。
米乳酸菌液はまだできていないので、次は市販の牛乳ヨーグルトを買ってきて、混ぜて作ってみた。LG21というヨーグルトを大匙1杯、少し温めた豆乳を250ml入れて混ぜ、そのまま食卓に置いておくと、4時間ぐらいで固まった。早いなあ。で、食べてみるといわゆる普通のヨーグルトのさわやかなお味。友だちの所に持って行くと「おいしい〜!」とパクパク食べ始めた。ふ〜む。おいしいし、豆乳を消化しやすくして食べるという目的には合っているけどね。なにか、味がくどいような気がする。もちろん、牛乳のヨーグルトよりは、さっぱりしているのだが。
そうこうするうちに、米のとぎ汁発酵液もほんわか酸っぱくなってきた。米乳酸菌液30mlにちょっと温めた豆乳(ぬるめ)250mlを加え、混ぜてラップでふたをして、保温にティーコゼーをかぶせてみる。もう気温も上がってきたので、室温でだいじょうぶ。
一晩おいて、ティーコゼーを外してみると、おお固まってる! ちょっと冷やしてからいただくと、あっさりした中にもうまみが。身体にすっとなじむような味である。ジャムなどを入れてもおいしい。いいね、これ。いろいろ味見をさせられて「え、また食べるの‥」と不満げだった連れ合いも「これなら毎日食べてもいい」という。
というわけで、豆乳ヨーグルトは米乳酸菌液で作ることにして、日々すこやかに豆乳ヨーグルトの毎日である。米乳酸菌液を作るのが面倒ならば、市販の好きなヨーグルトを買ってきて混ぜれば簡単にできるので、ぜひ豆乳ヨーグルトをお試しあれ。
もちろん、菌のことなので、たまには失敗もあるだろうし、腐敗菌が繁殖してしまう場合もあるかもしれない。そういうのは、一口舐めれば苦いとか、吐き気を催すとか、異常が分かるので避ければいい。自家製漬物や麹、糠床つくりと同じようなものである。
余談だが、豆乳ヨーグルトで検索していると、米乳酸菌液や自家製ヨーグルトを不潔だとか攻撃するサイトやツイートがある。どうやら米乳酸菌液・豆乳ヨーグルトを勧める人たちには、自分で免疫機能を高めよう、放射能から身を守ろうという意識が強く、つまり反原発派が多い。これを攻撃する人たちは、科学的ではないとか、雑菌だらけで毒だとか、放射能対策にはならないとか、さらには放射能関連では御用学者のような発言が多く、どうみても原発推進派プラス権威主義。いやはや。
女の直観力が男たちをたすけている
4月に触れた2つの作品に、共通したある印象を抱いたので、書きとめておこうと思う。
ひとつめは、村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。36歳の主人公「つくる」は、心に封印してきた過去のできごとを乗り越えるために、当事者たちをめぐる"巡礼"に出る。5本指のように分かちがたく結ばれていた友人グループから、突然理由も告げられずに追放された「つくる」は、20年後に、そのできごとの意味を確かめるために友に再会していく。そこにどんな理由(秘密)があったのか、私も謎解きの興味を持って、どんどん読み進んだ。
物語のなかでいちばん印象に残ったのは、「つくる」の年上のガールフレンド「沙羅」の存在だ。「つくる」に"そのままにしておかないで、解決しなさい"とはっきり忠告する年上のガールフレンド。沙羅を失いたくないという気持ちが、初めて彼を行動へと後押しする。何かに捉われていて、自分にきちんと向き合っていない「つくる」の様子を見ぬく沙羅は"ただものではない"。世界を俯瞰していて、ちょっと神様みたいな位置に描かれている。「つくる」より、色々な力と明確な意志を持っているだろう沙羅が、なぜ「つくる」に魅かれるのか、どこに魅かれているのか、その理由はほとんど語られない。しかし、「つくる」は沙羅に愛されることになるのだろうと予感させて物語は終わる。「つくる」のなかにある佳きものを沙羅は直観で確信したのではないだろうか。直観がまずあり、理由はあとから来る、そんな気がしてならない。そして「つくる」をたすける人物として、そういう存在を、村上春樹は必要としたのではないかと思った。
もうひとつの作品は、園子温監督の『ヒミズ』(2012年)だ。不幸な生い立ちの中学生、主人公の「住田」を愛し、たすけようとする同級生の少女「茶沢」。「茶沢」もまた、クラスの外れ者である「住田」のなかにある佳きものを、直観的に確信している。その揺るぎなさが、その思いの強さが、主人公を取りまく世界の絶望感に、小さな希望をもたらしている。原作の漫画と変えてあるラストで、「住田」もまた、「茶沢」に励まされながら、絶望的な現実から抜け出すために走り出すのだ。
沙羅と茶沢に共通のものを感じたのは、こじつけではないと思いたい。理由ですべて説明できない、割り切れない現実に対して、にもかかわらず前へ進もうとするときに、理由なく自分をみつけてくれる存在、直観的に揺るぎない肯定をしてくれる存在が必要だ。女が、男がというのもどうかと思うが、物語のなかでは、理由など問わない女の直観の強さが、男を励ましている。
「サストロダルソノ家の人々 ジャワ人家族三代の物語」の世界(1)
ここでは、この小説の内容自体ではなく、その翻訳をめぐって気づいたことを書いておきたい。書評については、次のものが参考になるだろう。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2013/02/post_284.html
この小説は、オランダ植民地時代末期から日本占領期、独立戦争を経て1965年9月30日事件(スカルノ体制崩壊につながる共産党虐殺事件)に至るまでのインドネシアのジャワ社会において、プリヤイ階級に属するサストロダルソノ家三代の物語を、家族それぞれの視点からつづった物語である。初版は1992年刊行で、原題は『Para Priyai -sebuah novel(プリヤイたち、一つの小説)』。ガジャマダ大学文学部教授のウマル・カヤム(1932〜2002)が、ギアツなど欧米諸国のインドネシア研究者によって語り継がれてきたプリヤイ解釈に失望して執筆したという。プリヤイ階級というのは、植民地時代にオランダ式教育を受けてホワイトカラ―職(役人、教員、軍人階級など)に就いた社会階層のことで、庶民とは異なる独自のライフスタイル、立居振舞、宗教的スタンスなどを持っていた。ほぼ世襲だったが、中には稀に庶民からプリヤイの世界に這い上がることに成功した者もある。ここに描かれる一族の始祖サストロダルソノも、教育を受ける機会に恵まれて農民の子から小学校教員となり、プリヤイ階級の末端に連なった。つまり、この小説はプリヤイになり、プリヤイであろうとする家族の物語なのだ。
翻訳題については、私は大正解という気がする。プリヤイという語は研究者以外には知られていないから、原題で読者にアピールできるとは思えないし、言い替え可能な適当な用語もない。サストロダルソノという名前はこの人物が小学校教員になった時、つまり晴れてプリヤイに上昇した時に命名されたもので、サストロは文学とか書くとかいう意味(ただし本書には文学という意味は挙げられていない)。ジャワ人なら一発でこの人はプリヤイだと分かる名前だし、ジャワ人でなくても、この大層な名前を見れば、なんだか上流の人らしいことは分かる。また、三代と言う語も、徳川三代とか足利三代というフレーズに慣れ、歴史もの好きの日本人にはなじみやすい。
この小説の共訳者の1人や解説者は世界を代表するインドネシア研究者なので、小説の歴史背景と状況が分かりやすく解説されている。文の日本語も自然で、訳注がないのも読みやすい。しかし、文化的な事柄に関する翻訳箇所については、ぎごちなさがあったり、物足りなく感じられるところもある。たとえば、一家がよく飲むウェダンチャムゥ(p12など)はどんな材料の飲み物なのだろう? 訳注で少し説明をつけてくれたら、ジャワ人の暮らしがもう少し具体的に見えてくるのに...と思っていたら、p.274にもなって、本文中に「ウェダンチャムゥ(ココナッツ入りのしょうが黒砂糖の温かい飲み物)」という記述が出てきた。初出のところできちんと訳注をつけてくれていたら、もっと読みやすくなるのに。また、「お母さんの(死後)三日目の共食儀礼(ここにスラマタンとルビが振ってある)」と訳された部分(p45)は、共食儀礼ではなくて「法要」とか「供養」と訳すべきだ。スラマタンselamatanというのは、無事selamatであるように祈るための儀礼一般を指し、この文章では明らかに死後の法要のことを指している。スラマタンは研究書では共食儀礼と訳され、確かに社会機能的には間違いだとは言えないにしても、共に食べることが第一目的ではないから、文学作品の訳語としては適当でない。
文体の統一をしたと解説にあるわりには発音の表記がばらばらで間違いもある。特に、影絵人形芝居ワヤンの登場人物の名前がひどい。ある者はジャワ語読みされ(スンボドゥロ、p130など)、ある者はインドネシア語読み(ユディスティラ、p126など)されているが、どちらかに統一した方が良い。ここはジャワ人家族の物語だからジャワ語読みするのが良いと思うが、インドネシアでは、ジャワ人読者以外は皆インドネシア語風に読むだろうから、この点は訳者にとって悩ましいと思うけれど。さらに、同一人物、一族を指しているのに、アルジュナサスラバフ(p68、インドネシア語読み)とアルジュノ・ソスロバウ(p277、ジャワ語読み)、プンドウォ(p126)とパンドウォ(p280)、クラワ(p126)とコーラウォ(p280)のように表記が全然違うのは非常に気になる。ついでに発音間違いも挙げておこう。「おばさんmbakyu」は「ンバキュ」(p.71)ではない。kは発音しないから、ンバッ・ユになる。ちなみにンバッ・ユはジャワ語で、普通はンバッ mbakになることが多い。天界のガムラン音楽の発音はロカナント(p318)ではなく、ロカナンタ(インドネシア語読み)あるいは、ロコノント(ジャワ語読み)となる。
重箱の隅をつついていると思われるかもしれないが、この小説ではプリヤイ階級、つまり上流階級に属する文化を持つジャワ人が描かれているので、訳出された語や発音に違和感があると、なんだか別の階級、別の民族(非ジャワ人)の話を読んでいる気になってしまう。
ところで、私は原作の小説をまだ持っていないが、インドネシア人のブログでこの本の感想やらあらすじを書いているものがいくつもあったので、読んでいて気づいたことがある。それはサストロダルソノ氏の呼び方で翻訳では先生となっている部分が、原文では「ドロ・グルNdoro Guru」であるらしいこと(全部の箇所ではないかもしれないが)。ドロはプリヤイを指す言葉でグルが先生と言う意味だが、ジャワでドロと言う言葉には独特の重みと格差意識が付随する。「あの方はドロだから...」と言うと、もう文句も言えないという感じだ。「ドロ・グル」は単に先生というより「先生さま」というぐらいの感じだ。ちなみに、インドネシアの人たちは先生を呼ぶのに、男性の先生には「バパッ・グル」、女性の先生には「イブ・グル」と言う。バパッは男性への尊称、イブは女性への尊称だ。おそらく明治頃の日本であれば、「先生」という呼称にはドロ・グルに匹敵するような特別意識があったのかもしれないが、現在の日本人が「先生」という訳にドロ・グルというニュアンスを感じ取るのは難しい。訳者も困っただろうなと思う。
それから、おじいさまという訳が原文では「イェヤン・カクンEyang Kakung」らしい。ジャワ語でイェヤンは祖父あるいは祖母を指し、カクンは男性を言うので、併せておじい様という意味になるが、確かにプリヤイ階級の人たちは祖父のことを「イェヤン・カクン」と言う。ジャワでは、そのことを当たり前のように耳にしていたのに、この小説を読んでいるときには思い出さなかった。訳文で爺さんとあるのは原文ではmbahのようで、ジャワ語。上でも書いたが、ンバ・ユもジャワ語。庶民の女性/おばさんはmbokのようで、これもジャワ語。こうしてみると、というか自分のジャワでの体験も思い起こせば言うまでもないことなのだが、他人に呼び掛けるときの語は、ジャワ人ならやっぱりジャワ語を使う。私はジャワではンバッと呼ばれるが、ジャカルタなどの非ジャワ人には当然そう呼ばれない。逆に、私はジャワでは他人に呼び掛けるときにはンバッとかマスmas(男性に対して)を使っていて、名前を知らなくても呼び掛けられるので便利だったのだが、ジャカルタではそういう言い方はしないから、名前を直接呼ぶとよいと言われて困ってしまったことがある(人の名前を覚えていなかったもので...)。ジャワ人はそれほど人を名前で呼ばないし、呼称で身分や年齢差、つまり自分との距離感を表現する。
と、ここまで書いて、この翻訳された小説に漠然と抱いていた違和感みたいなものが何か分かった気がする。その違和感とは、翻訳者がわりとリベラルに人間関係を眺めているところから生じる空気感なのだ。登場人物のセリフに関しては、庶民とプリヤイ、あるいは世代間の言葉遣いの差はうまく訳し出されていると思うし、呼称でも、「爺さん」の原語はmbahだろうと分かるものはあるけれど、「先生」が「ドロ・グル」で「おじいさま」は「イェヤン」だとは、訳文からは推測できなかった。(もっとも、原文でもこれらがどの程度の割合で使われているのか不明だが。)でも、こういう呼称が作り出す人間関係こそがジャワの階級社会を維持しているのだと、訳文にならなかった部分から感じとれる。もっとも、呼称を忠実に訳したら、こんどはそれが誰を指すのか、登場人物の相関関係が分かりづらくなってしまうだろう。
同様のことは名前の表記にも見られる。サストロダルソノの娘スミニの夫は、訳文ではほとんどハルジョノさんと呼ばれているが、いくつかのブログのあらすじではラデン・ハルジョノとされている。確かめてみたら、訳文で少なくとも1か所はそうなっていた。ラデンは貴族階級の生まれの人につけるから、彼の家はサストロダルソノ家より格上だろう。そして、スミニに結婚を申し込むときには、彼はラデン・ハルジョノ・チョクロクスモと名が加えたとあった。ジャワ人は大人になったり、結婚したり、地位が上がったりすると、その立場に応じた重さの名前へと改名することがよくある。そういうことも訳注で説明してくれたらよいのに...。それはともかくとしても、原文では、どの程度まで「ハルジョノさん」という気安い呼び方をされているのだろう。
私は、この本の最初につけられた「サストロダルソノ家の家系図」に、人物の本名ではなく、くだけた呼び名しか載っていないのが不満である。ラデン・ハルジョノもハルジョノとしか書かれていないし、ススとこの家系図に載っている人はスサンティが本当の名前だ。訳文中にスサンティと書いてある部分もあったが、全体をとしてこの人はススおばさんという風に呼ばれ続けている。けれど、インドネシア人ブロガーの書いたあらすじでは、彼女の名前はスサンティになっている。つまり、インドネシア人(とくにプリヤイ)は、普段はいくら名前を略して呼び合っていても(本名と全然違う呼び名もある)、「実は何某」という正体があることを意識している。だから、こういう相関図を書くときには正式名と呼び名と両方を書いた方が親切ではないだろうか。というのは、この相関図を見ても、人物の社会的地位などが名前から判断できないからなのだ。上で、私は「翻訳者がわりとリベラルに人間関係を眺めているところから生じる空気感」に違和感を感じると書いたが、その空気感がこの表に色濃く漂っている。この家系図からは、この小説がプリヤイの話だという事情がよく伝わってこない。
なんだか、翻訳に文句ばかり言っているような文になってしまったが、私自身はこの小説が好きで何度も読み直している。そして、周囲にプリヤイの多い環境で留学生活を送ってきて、上で私が書いたようなことを翻訳者に求めるのは非常に難しいだろうということも実感しつつ、あえて書いてみた。今回は翻訳の入口で立ち止まってしまって、小説の世界にまで入っていけなかったので、来月はこのプリヤイ一家の生活ぶりなど小説の内容について感想を書いてみたい。
北の国から
久しぶりに北海道へ旅行した。春先の北海道はお世辞にも旅行に最適な季節とは言えない。それでも行くのは、札幌交響楽団のチケットをうっかり取ってしまったという事情による。チェコの'遅れてきた'巨匠リュドミル・エリシュカによるドヴォルザークツィクルスの今回は8番の演奏会。少し古いクラシックファンには「イギリス」という愛称で知られている。チェコのドヴォルザーク協会の会長でもあるエリシュカは1番から4番までは習作だと言っているらしいから、おそらく今回の演奏会でツィクルスも打ち止めになるはずだ。
そんな事情から、今回は無理してまだ寒い北海道にはせ参じた。相変わらず札幌のキタラはよいホールで、座席は広く実にゆったりとしている。演奏も実によく、それでも日本式に統制の取れたアンサンブルが繰り広げられた。マエストロもすでに82歳になり、舞台の入退場は非常に億劫そうだが、少し低い指揮台の上ではしゃきっとした身振る舞いで演奏を指揮している。
惜しむらくは、この素晴らしい機会の立ち会った観衆が少なかったことだろうか。2回公演の初日ということもあるかもしれないが、定員の半分程度しか入らなかった客席は実にもったいない感じがした。
満ち足りた時間をすごした次の日。早朝から動き始めて、JRに乗って余市まで足を伸ばした。小樽までは快速が走る快適な電車だが、小樽から余市までは単線(小樽までも単線か?)を1両編成のディーゼル列車が走っている。絵に描いたような北海道のローカル線で、ストーブがないのが不思議な感じがした。
余市に来た目的はニッカウヰスキーの余市蒸留所に行くこと。ニッカの創業者がどうしてこの地の果てに蒸留所を作ることになったのか、が少しでもわかればよいとも思っていた。
小樽から山の中を縫うように線路が続くと、やがて進行方向右手に海が見える。そして、市街地に入ってしばらく走るとそこが余市の駅だった。小樽から他の駅が無人駅なのに対して、有人の駅舎にみやげ物屋を併設している大きな駅である。事前に確かめておいたのと同じように、ニッカの蒸留所はその駅の真正面にあった。駅から出ようとすると空の様子がおかしくなり、やがて、大きな雹がぱらぱらと降り始めた。こりゃ大変と小走りに、商店の軒先にときどき入りながら数分小走りに進むと立派なレンガ建てのゲートがあった。ゲートにたどり着いて、見学の手続きを終えた頃には、にわか雹もあがり、うっすらと日差しがさし始めた。ふらふらと歩きたいと、ガイドツアーでなく個人見学を選んで歩き出す。ニッカといえば大企業の印象だが、ここは思いのほか、全ての建物がこじんまりとして背が低い。
まだ、山のように積まれた雪の後ろに隠れるように建っている建物の中には、ウイスキーを蒸留する蒸留器が備え付けられている。導かれるように、建物に入るとうっすらと甘い香りがした。すぐに、それが蒸留している原酒の匂いであることに気づく。カタンカタンと金属が軽く当たる音立てながら、いくつかあるうちの2基の蒸留器の足元にある炉の口からはちょろちょろと火が見え、その脇にあまり多くない量の石炭が積まれている。冬景色の中ならこれだけで何時間もいられるような気持ちのよい火を眺めながら、少しの間、時間が止まったような感覚を覚えた。余市は蒸留器も、貯蔵庫も全て古い時代のやり方のままになっていて、それが今も生きている。
日本に本物のウイスキー作りを伝えたいとサントリーとニッカの二大メーカーの立ち上げに関わったニッカ創業者の竹鶴政孝は、ウイスキーはアナログを大切にしなければならないと教えたそうだ。ウイスキーと竹鶴の妻の双方の故郷であるスコットランドの気候に近いと言われる余市という街だからこそ、都会では不可能な古が残れたような気もしなくはなかった。
さて、さんざん、昼間から有料・無料のウイスキーの試飲を楽しんでほろ酔い気分になった。
そして、余市という名のモルトは新樽のカスクのイメージなんだなとふと感じた。
踏んだり蹴ったりのイラク航空
なかなかバグダッドに入れない。
本当は、2月に行くはずだったが、4月20日に地方議会選挙があるので、治安の悪化が心配された。選挙当日は、厳重な警戒態勢が敷かれ平和裏に投票が行われたようだが、それでも10名ほどの死者が出ている。日本の選挙で10人も死んだらそれこそ大騒ぎだから、いかにこの国がめちゃくちゃかということ。
とりあえず、選挙が終わった翌日に、イラク航空のチケットがとれて、アルビルからバグダッドまで移動した。
この10年ですっかり様変わりしたアルビルとは異なり、バグダッドはひどい飛行場だ。ただ、デザイン的には昭和レトロ。飛行機についているツバメのロゴは、気に入っている。化石のような、80年代の昭和チックなスチュワーデスも味がある。しかし、いろいろ欠陥もある。まず、バグダッドに着くと、スーツケースのタイヤが一個折れてしまっている。よっぽど乱暴に扱ったのだろう。文句を言ったところで、「ならぬことは、ならぬものです」の一点張りだろうからさっさとあきらめた。夜も遅くなるといやなので。
数日後、今度は、バグダッドからバスラに飛んだ。選挙の影響か、宗派対立が激化してしまい、一週間で200人近くが殺されたという。バグダッドに飛火しないように、南のバスラにとりあえず避難することにした。そして今度は、バスラからアルビルに戻る飛行機の予約確認にいったら、大変なことになっている。
バグダッドで、行きと帰りのカーボンつづりのバウチャーを間違って切ってしまったらしい。帰りのバウチャーがないから、飛行機に乗れないというのだ。新しいチケットを買えと。
「なんでやねん。アンタらのミスなんだから、ちゃんと責任をとってください」とマネージャーのこれも化石のようなおばさんに食って掛かると「私の責任ではない! バグダッドの責任だ! わたしの責任だなってとんでもないわ!」といって逆切れされてしまった。
「あんたね、そりゃ、あなたの責任じゃないかもしれないが、私は、アンタらの責任だといっているのです。イラク航空の会社の責任でしょうが」
「イラク航空ったって、大きいのよ。バグダッドにもバスラにもドバイにもアルビルにも支店があって大きいのよ。だからバスラは関係ないわ!」
「何が大きいんだ! もっと大きなエミレーツだって、こんなミスがあったら、会社が責任もって対処するでしょう。だってあんたら損しないんだもの。自分がミスして、それで、俺が2倍の金額払わされてなんなんだこれは? 情けないと思わないのか!」
しかし、イラクでは常識は通じない。「ならぬものはならぬのです」の一点張りだ。
「警察に訴えるぞ!」と思わず言ってしまった。
すると、マネージャーは、バグダッドの支店に電話して、「日本人が、イラクの警察呼ぶって言っているわ。イラク警察よ!」と笑いながら話している。確かに、イラクの警察はあてにならないよなと僕も苦笑い。
結局、明日来いということになった。翌朝バグダッドのスタッフに、イラク航空のバグダッド支店に行ってもらった。「バグダッド支店は、それは飛行場にいてバウチャーを切った男の責任だから、飛行場に行って話をしてください。バグダッド事務所の責任ではありません」といわれたという。今のバグダッドは、テロの警戒もありそう簡単に飛行場には行けないのだ。こんな詐欺みたいなことやっていて恥ずかしくないのか?と思いながら、昨日の化石のようなマネージャーのところに行くと、すんなりと、明日の飛行機に乗れるように手配したという。実は、昨日、バスラのスタッフが手を回し、警察から化石のようなマネージャのところに電話を入れてもらったそうだ。
「あなたは、イラク警察があてにならないように言ってないですよね? 警察を笑いものにしてないですよね」
それはともかく、やがてエミレーツを追い越すような飛行機会社になってほしいものだ。
月を追いながら歩く(1)
邦子はカフェの小さなテーブルの上に古い写真を並べていた。カラーの写真が五枚、モノクロの写真が二枚あった。
七枚全部が見えるように広げると、テーブルの上は写真でいっぱいになった。そこへ店の女の子が頼んでいた飲みものを運んできたので、邦子は慌てて写真をひとつにまとめようとする。しかし、写真はそれぞれにテーブルにぴたりと張り付いたり、隣の写真と妙な具合に重なり合ったりしていて、うまく手に取ることができない。そんな様子を見ていた女の子は空いていた隣のテーブルにトレイを置くと、邦子と一緒に写真を集め始めた。客とは言え、他人の写真を無言で手に取る姿に違和感を持ったのだが、自分も慌てていたせいか、邦子は「ありがとう」と声をかけた。
「素敵ですね」
女の子は遠慮することなく手にした写真をじっと見つめながら言う。
「素敵かなあ......」
邦子はテーブルの上に置かれたままになっている他の写真を見ながら、自分の素直な気持ちを口にした。
「素敵ですよ」
そう答える女の子の声はしっかりと力強く、それが意外で邦子は初めて、その顔をまじまじと見つめた。まだ十代に見える女の子は色白で短い髪が活発そうに見えた。この子に「素敵」だと言われたら、本当にこの写真が素敵なのかも知れない、と邦子は素直に思えた。
「でも、へんでしょ?」
「空と雲だけの写真って、なんだかすごくイメージがふくらんじゃって」
女の子はそういうと、別の一枚に手を伸ばした。
いまの十代の女の子にはこの雲ばかりが写っている写真が本当に素敵に見えているようだ。そう思い始めると、こんな写真を急に送ってきた母の行動になにか意味があるような気がしてくる。父が亡くなって三年。父が生前撮った写真はもっと他にもあるだろうに、よりによって空ばかり写っている写真をなぜ今頃送ってくるのか。邦子はぼんやりと写真に見入った。
「この白黒の写真は長野の空なんですね」
と女の子に言われて邦子は怪訝な顔をする。
「長野?」
「ええ、写真の裏側に『長野にて』って書いてあります」
邦子は女の子から写真を受け取ると、裏側に書いてある文字を確かめる。『長野にて』という文字はボールペンで書かれているのか、少しインクが滲んで、ぼんやりと太い文字になっていた。表には焼き付けられている日付は一九八〇年の八月だ。
和歌山に生まれ育ち、大阪に働きに出て母と出会いってから二人はずっと関西を出たことがないはずだ。ということはこの写真は旅行をしたときの写真だろうか。
邦子はそんなことを考えながら、長野の空らしき写真を見た。モノクロの写真なのに、撮影したとき空が真っ青だったことがわかる。そして、そこに真っ白な雲が入り込んでいる。夏の雲だ。真夏の長野の晴れ上がった空と真っ白な雲。それなのに、邦子はこれを撮影していた時の父が、とても悲しそうな顔をしていたように思えるのだった。
「どうかしましたか?」
「なんだか、とても晴れ渡った写真なのに、これを撮っていた父は寂しかったんだろうなって、そんな気がしたの」
邦子は自分でも意外なほど、思ったことをそのまま口にしていた。きっと、この女の子の真っ直ぐな瞳が私をためらわさないのかもしれない。邦子はそう思った。
「お父さんが撮った写真なんですか」
「そうなの。一九八〇年っていったら、私がちょうど生まれた年。その時、なぜ父が長野にいたのかは知らないけど」
邦子はそう言いながら、本当はなぜ父が長野にいたのか、知らないほうがいいんだろうな、という気がしていた。それなのに、きっと私はその理由を知ってしまうのだ、そう思うと、少し邦子は笑ってしまうのだった。
しもた屋之噺(136)
ここ暫くミラノずっと長雨が続いていて、早い梅雨に見舞われた感があります。さて、長らく無政府状態だったイタリアにも政府が戻りました。尤も、個人主義が徹底しているイタリアでは、対外的な信用不安を別とすれば、国家元首がいなくとも特に大きな変化は起きず、文句を言う相手もいないので各人粛々と仕事を継続することになります。つまり、全体としては無秩序に向うはずですが、拡大して個々を眺めると、存外に効率よく物事が進むことに国民性の違いを実感します。外の公園は塵芥にまみれながらも、自宅は隅々まで磨き上げなければ気がすまないイタリア人が大多数ですから。
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4月某日 09:01 ミラノのバス車内
思いがけず、水牛の仲宗根さんから、賢順について書かれた坪井三恵さんの文章が届いて、心を躍らせながらよむ。先に「六段」について書いたのがきっかけだった。大分でキリシタン音楽に影響された筑紫筝の創始者「賢順」が書いた「六段」は、キリスト教禁止とともに秘曲となり、伝授された玄恕をとおして、八橋検校に伝わった。彼が、秘曲を調子を変えてまで演奏させた動機とは、何だったのだろう。音階を歪め表面上の体裁を変えてなお残る、音で表現できる何か。
このように周りの人に懇切丁寧に教えて頂きながら、自分の興味が広がり、見えてきたものもあるし、気づくこともある。筑紫筝や琉球筝に興味を覚えるのは、思えば子供の頃「阿知女」の和琴や、管弦の楽筝の鄙びた音と和音が好きで、ピアノやヴァイオリンで真似して遊んでいたことと無関係ではあるまい。何十年もすっかり忘れていたけれど。
4月某日 08:00 自宅にて
セレーナより、カニーノ家直伝のナポリ料理を振舞うからと招かれたので、アルドと出掛けた。互いに同世代で、気を置かずに存分に話せるのはうれしい。彼らは同じヴァイオリンの生徒を違う場所で教えあっているので、互いに生徒に教える指使いや弓使いをカラカイ合う。料理はパスタと主菜、ケーキまでナポリ流が徹底されていて、しつこさもなく美味。
カニーノがナポリ出身なのは知っていたが、家事は一切出来ないと聞いていたので、何故君は料理がこんなに上手なのかと尋ねると、ミラノ出身の母親がナポリの姑から仕込まれたからだという。「さもなければ、結婚生活に破綻を来していたかもしれないわ」。
尤も、セレーナは料理が趣味なので、小料理屋を開きたいくらいだそうだ。15人や30人分の夕食会を3日かけて準備し、自宅で開くのが楽しみだというから、あながち冗談ではないのだろう。反面、掃除やアイロンかけは嫌いだと聞き、安堵する。
彼女は3匹の雌猫と古いミラノ風共同住宅の地階に住んでいて、窓に網を張られているのは、猫に逃げられないため。1匹は脚が一本なく、1匹は片目が潰れていて、唯一五体満足の猫は、彼女曰く「おつむが弱い」。「こんな猫たちだから、家を出たらすぐに野垂れ死んでしまいそうでしょう」、と心配そうにいう。実家ではずっと犬を飼っていたが、彼女の父は犬が怖いのだそうだ。それでも奥さんへの愛情から、10匹の犬と同居をしたこともある、と娘は誇らしげ。パリに3年住んだセレーナ曰く、「フランスの音楽家は誰もが中の上か上の下ばかりで詰まらなくなって、イタリアに戻ったのよ」と笑った。
4月某日 02:30 マチェラータのホテルにて
ドレスリハーサルと本番の合間に、マチェラータのラウロ・ロッシ劇場脇の美大のスペースで、スコダニッビオを偲ぶロドリーゴ・ガルシアのインスタレーションをみる。ロドリーゴはアルゼンチン出身の舞台演出家で、マドリッドに住む。
昨晩ホテルに程近い「井戸」亭で、「明日から『亀』と『サラダ』を使ったヴィデオのインスタレーションをするから」、と右手にワイン、左手で葉巻をいじりながら、スペイン語とイタリア語のチャンポンで話しているのを聞いたときは、全く内容を想像できなかった。10畳ほどの縦長のスペースに、スコダニッビオ自身が残した音響素材が流され、ロドリ-ゴのヴィデオが映写される。画面は色味が殆どなく、殆ど白黒に近い。スクリーンに大写しになったフン転がしのような虫を、執拗に追いかけるアングルが印象に残る。フン転がしは、仰向けに寝かされた上、ばたつく脚にマッチ棒を絡ませられてながら、何とかマッチ棒に掴まり起き上がろうともがき続ける様子を、長廻しでただ追う。
スクリーンの前に、蓋が開かれたコントラバスのハードケースが一つ置かれていて、中に土が詰まっている。仄暗く狭い部屋に鎮座するさまは、棺桶のよう。ケースの中の土には本物のサラダが10株ほど植え込んであり、瑞々しい葉をひろげる。コントラバスの巨大なケースの手前に、15センチほどの海亀が薄く水を張った透明な水槽に入れられていて、外に出ようと何度となく立ち上がる姿は、時には影絵のように画面の昆虫と同期し、亀の打つ軽い水音がスコダニッビオの音響の手前に浮き上がる。
昨晩は、「朝に大通りをサラダを目一杯抱えて歩く男を見かけたらオイラだぜ」と笑っていたロドリーゴに向かって、「君のインスタレーションには打ちのめされたよ」と言うと、「そうだろう」、と彼は口の端だけを少し動かして悪戯っぽく微笑んだ。ネルーダやマルケスのような、ラテン・アメリカの強烈な個性が羨ましいと言いかけ、我ながら余りに安っぽいと思わず口を噤んだ。
4月某日 13:59 オーズィモ ヌォーヴァ・フェニーチェ劇場にて
マレーサ・スコダニッビオの車で、レオパルディの故郷、レカナーティの丘を走る。彼女は昨年より元気そうで安心したが、気丈さが却って際立って、周りで見ていて少し辛い。だから、昨晩食堂で食後のデザートに齧り付いている様子に、一同少し胸を撫で下ろした。マチェラータのプディングは独特で、横にジャムが付いてくる。キャラメルをかけてとろとろになったプリンの上に、更にスグリのジャムなど付けて食す。「わたしも、ここに嫁いで初めてプリンにジャムをつけてくるのを見たわ」「でも、わたしデザートには目がないの」。
車中、先日、8歳の息子の小学校の担任二人との父兄面談に出掛けた話をする。
「お宅の息子さんはよく頑張っているんですが、日本語やら合唱やらピアノやら、ちょっと勉強し過ぎで一同心配しております」。
「すみません、親としては余り音楽などやらせたくないのですが」。
「最近など、わたしに向かって、バッハとモーツァルトとベートーヴェンのどれが一番偉いかなんて聞くんです。こちらも答えに窮する有様で」。
「そんなことを聞くんですか」。
「その上、先日は、ふうと大きなため息をつきましてね」
「先生、もう昨夜はピアノの練習のし過ぎで疲れてしまって、どうにも宿題ができませんでした。許してください、と言うんです」。
「すみません。言葉もありません」。実際のところ、ピアノはせいぜい10分しか弾いていないし、宿題を忘れたどさくさ紛れの言い訳なのだろう。彼の演技力の賜物だ。
「その上なんです? 今度は映画にまで興味の範疇を広げてしまったのですか」。
「は、なんのことです」。
「何ですって、今朝、彼ときたら、あたくしに『ソフィア・ローレン』をどう思うかと尋ねてきたのですよ」。
そこまで言うと、車内は爆笑に包まれた。
あの後帰宅してから真っ先に息子に口止めしたことは、息子が見たのは彼女が売春婦役で出演する「ボッカチオ70」の「くじ引き」であることと、それを見せたのは父親だということ。
8歳の息子がそれ程まで「くじ引き」を好きになるとは、誰が想像できるというのか。
4月某日 10:30 アドリア海沿いに走る列車内にて
つい先ほどまで、チヴィタ・ヌォーヴァで乗り合わせたサックスのジャンパオロと話し込んでいた。イタリア人が、これほど熱心に、ピエルネやフローラン・シュミットについて熱弁を振うのを、初めてみた。
イタリアの風景はどれもそれぞれ美しいけれど、低い丘が棚引くようにどこまでも連なるマルケの美しさは飛びぬけている。何重にも重なった丘のシルエットの彼方に、まだ雪を頂くアペニンの山々が聳えたつ。眼前一面に濃い新緑の絨毯が敷きつめられ、ところどころ、固まった黄や白の花が沸き立ちアクセントをつける。何の変哲もない牧歌的な春の風景で鳥肌が立ったのは初めてだ。
ホテル前の坂を降りたところの中庭にある「中庭屋」で、奨められるままにボンゴレのスパゲッティを頼むと、見たこともない旨い逸品が運ばれてきた。手で打ったばかりの太めのスパゲッティに、小さめのアサリが存分に放り込まれて、出汁も申し分ない。こんなとびきり美味いものを口食べながら、この端麗な風景の中で暮らしていたら、人生はずいぶん違ったものになるだろう。などと考えるのは、厭世観に包まれたレオパルディの理解には程遠い、自分がごく普通の小市民である証か。
4月某日 12:12 自宅にて
グリゼイの「時間の渦」を読む。どうも昔から自分は良いスペクトル音楽の理解者ではないと思いこんでいる節があり、理由を考える。そもそも和音で音楽を作ることに対して、無意識に薄い拒否反応を起こす自分に気がつくのは愉快な経験だ。何しろ、意識したわけでもなくともグリゼイと自分の作曲のプロセスの共通項はとても多いのだから。大体、演奏に際してはいつも和音を考え音を聴けよと生徒にがなり立てるくらいだから、和音で音楽を作ることに何ら矛盾はない筈だ。ただ、自分が作曲するとき、縦の響きは確かに横の響きの後に見えている。それどころか、敢えて明確な和音を避けようとする傾向も自覚している。今のところ、長三和音のように分りやすい和音でなければ、和音として聴こえない和音がいいらしい。和音をぼかすというと、既にスペクトル的発想だから、ぼかすのではなく、和音として一義的に存在しない縦の響きとでもいうべきもの。この楽譜を勉強した後は、決まって軽い眩暈に襲われるのは文字通り題名の通りで、感嘆せざるを得ない。
先日は野平さんの楽譜を読みながら、「時間の渦」の部屋の奥のドアを開くと、またその奥に広い別の部屋が広がって錯覚を覚えた。すべての調度品が丁寧に磨き上げられ、金縁ロココ調の少しくぐもった鏡が、覗き込んでいる自分の顔をうつしだしている。
4月某日 0:11 自宅にて
イタリアは解放記念日。近所の公園で、ニコライのお母さんフランチェスカと、子どもたちが遊ぶ間に少し話す。ニコライがもうすぐ中学進学なので進路について話していると、思いがけず拙宅の前のある「リナッシタ(再生)」中学が、元来筋金入りの共産党系中学校だったことを知る。家から近いし、他の中学が午後2時で帰宅させるのに比べて、「リナッシタ」は4時まで預かってくれるから、是非入れたい気持ちもあるが、左寄りの教育が心配なのだそうだ。彼女が中学生の頃は、「リナッシタ」は先進的実験校として教科書さえ使わない教育を施していたそうで、到底怖くて通えなかったという。彼女に言わせれば今通っている公立小学校でさえ、ブルーカラーの家庭が優先されていて、「わたしなんて母子家庭で彼らより生活が苦しいのに、インテリのスノッブだと決めつけられてしまって、クラス会費の徴収料だってブルーカラーの子どもより多いのよ」。
ニコライが先日小学校で受けた歴史の授業で、古代バビロニアで街を城壁が囲んでいたのはアリストクラシーの保身のためで、敵が攻め込んでくるとき、彼らは農民ら城壁の外の人間を見捨てたのだと教わったとと憤慨している。彼女曰く、それは間違いなのだそうで、城壁の外に住んでいた農民も、敵が襲ってきた場合、城壁のなかに逃げ込めるよう二重構造になっていて、そもそも古代バビロニアに、現在のような複雑なヒエラルキーはまだ成立していなかった、とまで言われても、無学の人間は何も分らないので、取り敢えず、と相槌を打ってみる。
彼女が大学で学んだ歴史の教授は共産党に属していて優秀な学者だったが、あるときテレビ・インタヴューで、場末のケバブよりもトラットリア(イタリア小料理屋)の料理が好き、と発言したところ、思想に問題ありとして左遷されたという。医者や貴族の子供の扱いは、公立学校に於いては現在でも不当、というのが彼女の持論だった。
今朝、どこからか大勢で「不屈の民」をスペイン語で合唱しているので不思議に思っていると、続いてスピーカーから大音量で「インターナショナル」が流れてきた。続いて「ベッラ・チャオ」という戦時中のパルチザンの歌をギター伴奏で合唱しているから、どこかで共産党の集会でもやっているのか、珍しいなと思って外を見ると、目の前の中学の校庭で楽しそうに学生と父兄がバーベキューパーティーを開いていた。それはそれで、どことなく時代錯誤的な懐かしい感じがしたのと、子どもたちが「不屈の民」をスペイン語で歌えることに妙に感心。
4月某日19:00 「ピカソ」喫茶にて
レッスンに来たパラグアイ人の生徒が、12月にアスンシオンで演奏会を開くというので、パラグアイのオーケストラのメンバーは親切かと尋ねると、パラグアイ人は普通だが、中にいるアルゼンチン人は意地悪だという。暗譜で振る指揮者を試そうとわざわざ違う音を弾く輩にしばしば出会うそうだから、気をつけなければと顔を顰めた。「それなら楽譜を見れば良い」、と茶々を入れそうになったが、彼は元来弱視だから、暗譜は必須なのだ。もちろん、こちらが内心アルゼンチンから、敢えて経済状態の悪いパラグアイに仕事に出掛ける音楽家に感心したとは言えない。
アルゼンチンの友達に愉快なパラグアイ人の生徒の話をしたところ、「あら、パラグアイ人はだめよ。アルゼンチンには沢山パラグアイ人移民がいるけれど、彼らの犯罪率がとても高くて、怠け者で、本当にどうしようもない人たちなんだから」と憤りを隠さない。やはりどちらもどちらという感じだ。因みに、このタガが緩んだ感じのとぼけたパラグアイ人は、実直で勤勉なメキシコ人生徒と仲良しで、彼から細々とした手続きのアドヴァイスを受けて何とかやりくりしているようだ。
同じ言葉を話す印象なのか、ラテン・アメリカの人々が一見どうも似通って見えてしまうけれども、実際は国ごとの国民性のヴァラエティに驚く。きっと理解すればアラビア語圏も似ているのかも知れないが、少なくともスペイン語は、元来侵略者によって強制された言葉だから、そこには何か違いが存在するかも知れない。尤も、スペイン語で塗りつぶされて、母国語の個性が国民性を保証していない印象は、ケチュアなど中南米の在来言語を全く解さないからかも知れないし、アフリカ諸国よりもずっとスペイン語一色に塗り固められているからかも知れない。
グロバリゼーションが進んで、世界全体が英語を主要言語として纏まってゆけば、100年200年後には、世界の国々が一見没個性のラテンアメリカのようになるのかもしれないが、案外その頃には互いに言葉など解さずに、直接理解するコミュニケーション手段が発明されているのかもしれない。
102 翆滅――風車、水車に捧ぐ
風車をたばんで祈ろう、あなたがいなくなっても、
風は消えない。 くうそくぜしき、声を届けます。
虹を吹き上げて、蟠龍のしっぽがあなたに絡まる。
だから「万有引力」と云うのです。 まんりきで、
あなたの睡りをこじおこすと、石棺よ、
水車の色が散る。 寐覚めの花びらが散る。
もう遅い、まにあわなかったよ。 滅ぶ地上を、
しきそくぜくう、しかと見て去る釈迦牟尼仏弟子。
(61年前の4月28日か、紅白のお菓子が子供たちの机のうえに配られました。7年間という、一国が占領下に置かれるという「体験」は「貴重」であったにしても、沖縄の人々にとっての「屈辱」の始まりであることを知るのは、無論、ずっとあとになって学習によってです。おとといは、琉球新報のサイトの動画による、宜野湾市公園での反対集会をずっと見続けました。東京での記念式典では、どんなに政治家たちが狂奔しても、それは勝手ですが、自然発生的に「天皇陛下万歳」の三唱が起きたそうで、笑えない。朝鮮戦争が続いていました。翌年になり、その休戦とともに「分断」が始まる。日米安保条約が、東アジアでの「分断」の永続化を見越して、サンフランシスコ講和条約発効の同日に締結されました。で、北朝鮮が60年間、戦争もせず、内戦も知らない国になってしまったということは、案外、気づかれません。日本国も、すれすれで68年間、やってませんが、同じように軍事力を有し、国粋主義者もおり、金日成以下の体制は戦前の日本天皇制のまねごとです。東アジアの双生児のような二国、いまに「平和と民主主義」を更新中の、日本と北朝鮮とで、不戦の最長不倒距離をぜひ競争してほしいと思います。中国はしょっちゅう戦争をやってるし、韓国もベトナム戦争で多くの兵士を死なせています。北朝鮮はアメリカとの糞詰まりの敵対関係を、日本に代わって押しつけられました。日本の植民地だったというような認識のない北朝鮮にとって、「内鮮一体」の延長上に(「内鮮一体」が終わる約一週間〜十日まえですから)、広島の、長崎の原爆は朝鮮半島のうえで炸裂した核爆発でもあります〈事実、マッカーサーは朝鮮戦争時、何度も原爆を使用しようとしました〉。アメリカを攻撃するために核弾頭を持とうとする北朝鮮の理屈を、安倍は見誤り、民主党政権も見誤りましたが、政治家たちの頭はちょうどその程度でよいのです。掲げた作品は以上と無関係。61年後の4月28日を私なりに記念、祈念。)
掠れ書き28
ある本で読んだはずだが、読み返しても見つからない。以前目にとまらなかった細部が拡大されて、記憶とはちがうバランスの本になっている感じがする。
水は降りていく。川の水は去り川は残ると考えるより、水が降りる道をさがし、 川がその道とすれば、曲がりつづけて形が定まらない、行先は見えないと言ってもいいだろうか。
練習は反復とは言えない。ちがうやりかたを試すプロセスではないだろうか。練習と実践は日本語では別なことばだが、練習は反復されるものという前提があり、実践は決められたことが前提になっているように見える。反復ではない練習と、何をするか決めていないで動き出す実践は、考えながら進むこと、問いかけながら、さがしながらすること、対象や領域によらない、行為とその主体との区別もない、プロセスとそのなりゆきを追っているだけのようだ。
反復かどうか立ち止まって判断しないでも、プロセスが進行するうちに、似たうごきが記憶の痕跡とかさなると思えるときがある。反復の回路に落ち込む前にそこを離れて、ちがう道に入っていくなら、記憶に間欠的に触れながら循環すると見えて去っていく、そのなりゆきは、無限に伸びる線ではなく、折りたたまれる襞となって、有限なのに内側で無限に変化するように感じられる。
二つの点を結ぶ有限な線分が無限個の点を通過するなら、無限個の点から無限個の点への移動が考えられる。限られた音やことばを使っているのに、別な音楽や詩がまた書かれるのは、そういうことかもしれない。書き尽くすということはないし、尽くすという考えそのものがどこかおかしい。
一人で考えるのではなく、対話のかたちで第二の声があるとすれば、それは注釈か批判か、いずれにしても、色ちがいの糸が織り交じって一つの織地になる。離れたところで対話を聞く第三の声があって、織地には加わらないでいられるとすれば、それは何を語っているのだろう。
引用されたことばについて第三者が注釈を書くのではなく、引用以外のことばの文脈を換えると、解釈史ではなく、連句が生まれると言えるだろうか。聖典もなく、権威もなく、位相を換えながら続く回廊ができる。職人や旅芸人の座は、城門や関所で区切られた表街道とはちがう、夜のトンネルのようだったと言いたくもなるが、いまはなくなってしまったのだろうか。
あいまいな感じをあたえるという言い方と、毛羽立つ表面を描くこと、綿菓子のような音を作ることには、どこか共通したものがあるだろうか。