2012年1月号 目次
犬狼詩集
47
おれの新年のトランプでは
ハートは緑色をしている
葉緑素の心がいつも
陽光を礼拝する
スペードはterra roxa(赤土)の色だ
大地という母体を耕して
さまざまな穀物や根菜を生じさせる
耕作の不思議
ダイアモンドは圧倒的な透明度で
そのかたちすらわからない
月光が降り注ぐ夜には
道を横切る黒猫の輪郭をもつ
そしてクラブはオレンジから黄色へのグラデーション
光がもつすべての希望を体現し
モンゴリアの夕陽のように赤く見えることもある
草原の自由な燃焼、草原に散らばる幸運
48
屈強な石工の体をもってかつて
出征した兵士だった父が死んだとき
その頑丈な大腿骨をもって
骨笛を作ることにした
法医学者の友人に頼んで
きれいに切断してもらった脚を
漆黒の闇にまぎれて砂浜に埋め
三年ほど待った
それから掘り出してみると驚いたことに
骨がマンモスの牙のように成長しているのだ
ぼくは骨を丁寧に洗い、中空構造をうまく利用して
巨大なディジェリドゥーを作った
それからずっと骨は鳴り続けている
循環する風が嵐のように叫んでいる
よろこびの音楽だ、快活な楽曲だ
生はいつも振動としてよみがえる
製本かい摘みましては(76)
手帳を新しくした。10月始まりの手帳にしているから10月中には買い換えているのだけれど、さあ来週には切り替えよう、切り替えよう切り替えようとしているうちに12月がやってくる。表紙の角はきりっとたって、ページが開くのを押さえるゴムバンドもぴんとしていて気持ちがいい。はさんだままの葉書や切り抜き、振り込み用紙にボールペン、いくつかのページを破いて、まずはそのまま移行する。切った爪や取り出した耳あかを放っておくとたちまち生気を失うのに似て、はさんであったものを抜かれた手帳はいっきに古びる。ついさっきまで書き込んでいた予定やメモさえ彼方に見える。
ペドロ・コスタの『溶岩の家 スクラップ・ブック』刊行の知らせの葉書もその中にあった。映画『溶岩の家』(1994)のために監督が作ったスクラップ・ブックをそっくり印刷して800部制作するというもので、2010年秋の予定が遅れてこちらも忘れていたのだが、つい先頃書店で見かけて買っていた。A5判本文142ページ、背幅は27mm、オールカラーで、美篶堂が「小口糊絵本製本」で仕上げている。スクラップ・ブックを見開きで撮影した画像を本文紙に片面印刷し、表を中にして二つ折りして小口側10mmほどを糊付けしてある。粘着性のあるボンドで背を固め、2mm厚のボール紙を芯にした表紙は背に接着せず空きを作り、したがって本文はよく開く。本文紙は厚手で2枚貼り合わせて1ページの勘定だから、全体に重く硬い。
実際のスクラップ・ブックは、写真で見ると背幅が10mmくらい、台紙となったノートは方眼地のごくふつうのものだ。監督自身そして映画に携わる多くのひとにどれだけめくられたのだろう、厚みは3倍くらいにふくれあがっている。「書かれたシナリオはすぐに捨ててしまった。すべてが変更され、放棄された以上、頼るものはこのノートだけだったのかもしれない」(本に添えられたリーフレット「記憶の交差する場」より)。このノートをシナリオ代わりに映画は完成し、監督の手元にノートが残った。
『溶岩の家 スクラップ・ブック』の紙面は実際のノートの画像の四方(天地小口)に5mmくらいのあきをもたせてある。ノートの角は折れたり破れたり。その傷みを好ましくながめながら、破れも折れもしなそうな、むしろ親指に突き刺さりそうな厚いページをめくる。
翠の校庭87 石棺
言葉を集めておこう、(続き)
「フクシマ法廷ですかね」
と若松さん、(一時帰宅の村田さんは、
いたたまれなくなって、
若松さんを訪ねたという。)
武藤さんは、五万人集会で、
「私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です」、
と。
(〈子供たちを見送った後の屋上に立つと、決壊した堤防から昇る朝日に照らされ、変わり果てた荒浜が見えた。「壊滅」とはこういうことなのだと知った〉と、多田さんの手記である。給食用の野菜を納めてくれた方、米作り、シジミ獲りを教えてくれた方、酷暑の日も、強風の日も、路上で子供たちの安全を見守ってくれた方。学校がお世話になった方々。『世界』別冊〈二〇一二・一〉より。「壊滅」という言葉を先生の手記から記憶しよう。念願の六年生の担任を「終え」て、離任式もなく荒浜小学校を去る多田先生の手記から、宗教人類学者の山形孝夫氏は「実存的で真摯」という、強い印象を受け取ったという。この「実存」そして「真摯」という語も拾っておこう。「二〇一一」年をもって、一度は怒り、やがて忘れ立ち去ろうとしている、被災地から遠いひとたちも、もうしばらく戻ってきて、「二〇一二」年を怒りの時にし続けるためには、どんな方途、どんな連帯が思い起こされるべきか。〈原発に「国策」という名の衣を着せ、めくるめくような利権に群がってきた者たち。人間を数と道具としかみない陰謀家たち。保身と野心にまみれ、良心の告発を解かっていながら抹殺してきた者たち。貧しさを逆手にとって、つつましく生きてきた田舎人を、カネという名の麻薬漬けにしてきた者たち。そして、この惨状に目を背け、石棺の中に封じ込めようとする者たち。これら、すべてを被告席に座らせなければならない〉と、村田弘さん。福島県内からの告発である。この告発はふしぎなことに、福島県内からいくつも拾えるのに、県外から聞こえないのである。語「田舎人」そして「石棺」をもここに拾い出しておく。「田舎人」という語も、「麻薬」という語も、たぶん『六ヶ所村の記録』下〈鎌田慧、岩波現代文庫、二〇一一・一一〉のどこかに出ている。)
チャンディより謹賀新年
2011年大晦日から2012年元旦にかけて、中部ジャワのソロ市郊外にあるチャンディ(ヒンズー遺跡)・スクーで「スラウン・スニ・チャンディ」という催しがある。この遺跡はマヤのピラミッドみたいな形をしていることで有名で、旅行ガイドブックには必ず載っている。ラウ山というジャワの霊峰の麓にあり、近くにチャンディ・チェトなど他にもいくつかの遺跡がある。ソロを拠点に瞑想的なダンスで後身の舞踊家に大きな影響を与え、ヨーロッパにも弟子がたくさんいるというプラプト氏が毎年この寺院でやっている催しで、今年は例年より規模が大きいと、地元のタブロイド新聞には出ていた。私はこれに出演するため、30日からソロに来ている。
かねがねチャンディで踊りたいという希望があったので、出演依頼がきた時に9月に初演した自作の話をしたら、チャンディにふさわしい雰囲気だと向こうも乗り気になる。で、30日、ソロに着いて衣装を借りに行ったら、観光文化省(おっと、今は改称して観光・創造経済省)の人たちと鉢合わせ。芸術局長がこの催しに出席するとは聞いていたが、信仰局長も入れて6,7人くらいの大所帯で来て、しかも皆ちゃんとジャワの正装をするらしい。そんな大層なイベントだったのか...。
にしても、私が今回踊る曲は9月に信仰局長も見ていて、しかも、曲こそ違え、同じ衣装を着て私が5月にトゥガルで踊った時も、局長は見ているのだった。「また、この衣装か」と思われたらどうしよう。実は、私が出演した昨年5月、9月、そして今回の催しは、いずれもクジャウィン(ジャワ神秘主義)信仰の人達が主催するという共通点がある。だから、信仰局長といつも会ってしまうのだ。ジャワの芸術関係者ばかり見ている目にはクジャウィンは珍しくもないように思えるが、インドネシア全体では少数派で、多数派のイスラム教徒からは受け入れられにくい存在らしく、国の信仰局や芸術局としてクジャウィンの活動をバックアップしたいというところらしい。
というわけで、今年の正月はチャンディで迎えることになりそうです。本年もよろしくお願いいたします。
ケンタック(その1)
荘司和子訳
わたしには孤独癖がある。どのような状態、どのような状況にいるときでも、こころの奥深くに孤独がある。孤独がわたしの最終最良の友なのだ。初めであろうと終わりであろうと。たいていの場合わたしの孤独に寄り添ってその一部になっているのは夢想することだ。何の実在感もない、ただよっているような夢想である。身の毛のよだつような恐ろしい悪夢のようなものであることもしばしばだ。だからといってわたしがそれについて気にしたり、誰かに話したりしたことはない。ただこころの中にしまいこんでおくだけで、時の流れが記憶を消していく。ちょうど風や日の光が木の皮、枯葉を地上に落とすと、それが積み重なっていき最後には土になっていくように。
次から次へと旅をしていたことからか、わたしに浮かんでくるさまざまな夢想はとりとめもない画像だ。いろいろな人びとの名前、声、顔も混乱している。時には名前もよくわからない人たちがあっちにこっちに現れる。あるときは北部の国境にいるようだったり、どうかして南部のようだったり、西部だったり東部だったりで、さて、これは何なのだ、というような。
「ここは何というところなのかい?」わたしは隣にいる見ず知らずの男に訊いた。知りたかったというだけの理由で。たまたま茶色くなった歯をのぞかせてわずかに微笑んだように見えたからかもしれない。痩せているが日に焼けて頑丈そうな男で年齢不詳だった。
「ケンタック」
わたしの耳がおかしいのではない。その男はこのように発音したのだ。なんとなくケンタッキーという外国の地名に聞こえたような気もしたが、そうでもなかった。
「何だって?」
2度目の質問をしながらわたしは耳をそばだてた。
アジアのごはん(42)マカロニサラダと塩麹
塩麹というものが、万能調味料としてけっこうブームになっているらしい。たまたま入ったスーパーの棚に「みやここうじ」があるのを見つけて、バンコクの日本語フリーペーパーで塩麹が紹介されていたのを思い出した。そうだ、日本に帰ったら作ってみよう、と思っていたのだった。
しかし、麹を起こすには60℃の温度が必要で、料理用温度計が必要だろう、温度管理が面倒じゃないかと思い込んでいて、買ったはいいがしばらく放置していた。半生状態の「みやここうじ」は常温で長いこと置いておける。塩麹のレシピを別の本で見たら、塩麹を作るには水と塩を混ぜるだけでいいとあった。なんだ、きっちり60℃のお湯じゃなくてもいいのだな、と気を取り直してさっそく塩麹を仕込んでみた。
塩麹の作り方はかんたんである。乾燥麹のみやここうじの場合、一袋200グラムをもみほぐし、60℃以下のお湯か水300〜400cc、塩60グラムをよく混ぜる。お風呂の熱いお湯で45℃ぐらいだから、と指を入れてもだいじょうぶな熱さのお湯でやってみた。深めのタッパーやガラス容器などに入れ、室温で熟成させる。溢れることがあるので、容器ぎりぎりまで入れずに、ふたもきっちり閉めないこと。2〜3時間保温するとベター。その後は常温で置いて一日一回かきまぜる。
毎日、かき混ぜるときに匂いをかぎ、少しだけなめてみる。三日目ぐらいから甘い香りがほんのり漂ってきた。よしよし、おいしく育つんだよ〜と可愛がりながら熟成を待つ。夏では一週間、冬では十日から二週間ぐらいでとろっとして甘い香りがして、麹の米粒の芯がなくなれば、出来上がり。冷蔵庫で保存。三か月〜半年は持つようだ。
見た目は甘酒の濃いようなもので、いかにもおいしそうである。しかし、塩がたくさん入っているので、なめると塩辛い。塩辛いだけでなく、ほのかな甘みとうまみがある。ふむふむ、これは使えそう。使い方は、うまみのある塩として使えばいいということなので、まずはきゅうりにまぶして食べてみた。む、おいしいぞ。これをまぶして一晩置けばもっとおいしいに違いない。キャベツ炒めに塩の代わりに仕上げに入れてみた。「あれ、このキャベツ炒め、チーズでも入っているの?」何も知らない同居人がふしぎそうな顔で尋ねた。おお、チーズを感じさせるコクが! かすかにだけどね。
いろいろ塩麹を料理に試してみているうちに、塩麹はタイの魚醤油であるナムプラーに性質がちょっと似ている、と思った。ナムプラーというのは、大豆の醤油とはうまみの量と質がずいぶんちがう。うまみ成分が多く、強い塩味だ。炒め物などの味付けのメインとして使うとたいへんおいしい。一方で、隠し味にちょっと使うと、素材の味を損なわずに、料理の味をぐっと持ち上げてくれるのだ。
この塩麹は完璧な植物性だから、うまみのある調味料としてベジタリアン料理に使えば、とても重宝するだろう。もちろん合成化学うまみ調味料のような害も、いやな味もありません。肉を減らしたい人にもいいね。
昼食にスパゲッティを作ろうとして、マカロニサラダが食べたくなり、ペンネがあったのでスパゲティといっしょに鍋に放り込み、茹でた。ペンネは切り口が斜めで表面にすじすじの付いているショートパスタだ。マカロニのつるっとした感触はないが、まあ似たようなもの。というか、筋がある分、味がからみやすい。スパゲティを食べてから夜のためにサラダを仕込む。
茹でたペンネにおいしいオリーブオイルをまぶして冷ましておく。にんじんはごく細い千切り、きゅうりは2ミリぐらいの輪切りにして、塩でさっともむ。たまねぎはごく薄くスライスして刻む。なくてもいいけど、ツナ缶が半分残っていたので混ぜる。冷蔵庫にあったひよこ豆と白福豆のピクルスを漬け汁もいっしょに大匙山盛り一杯。レモンを絞り、黒胡椒を少々、マスタードを小さじ一杯。マカロニサラダというと、やはりマヨネーズ味でしょ。ここで、マヨネーズを入れて和えるのだが、量は控えめにすること。すべての塩味をマヨネーズでつけてしまうと、素材の味が隠れて、マヨネーズ味しかしなくなってしまうのだ。マヨネーズは全体の塩分バランスの半分ぐらいに抑えておくといい。ちなみに愛用のマヨネーズは松田のマヨネーズです。いつもはここで、味を見て塩を加えるのだが、おお、そうだ塩麹があったじゃないか。ちょっとクリーミーな感じもいいね、入れてみよおっと。大匙一杯半投入して・・混ぜ合わせて冷蔵庫で冷やす。むむ、いつもに増して、マカロニサラダがおいしいい! 使えます、塩麹は。夕食でマカロニサラダを同居人と奪い合いながら、確信したのであります。これは隠し味として大成功。
塩麹はそのまま茹で野菜に和えたり、炒め物に入れたり、浅漬け風にきゅうりやピーマンにまぶして何日か置いたりするほか、味噌漬けや粕漬けみたいに魚や肉にまぶして何日か置いて焼いたり煮たりしてもいいようだ。さまざまな利用法やレシピがネット上に公表されているし、本も何冊か出ているので興味のある方はどうぞ探してみてください。
麹のうまみは、お米のでんぷんをコウジカビが発酵の力で糖やアミノ酸にかえたものだ。おいしくて栄養たっぷり、腸の調子もよくなるといいことづくめ。麹というものには、加工品として味噌、醤油、酒、みりん、酢と基本調味料を中心に常日頃たいへんお世話になっているわけだが、どうしていままでこういう調味料としてのダイレクトな使い方が広まってこなかったのだろう。まあ今の時代、醤油や酢はともかく、味噌だって手作りする人はあんまりいない。こうじを売っている店も少ないし。味噌はヒバリも一時作っていたこともあるのだが、最近は仕込んでいない。台所のテーブルの下半分が何年分かの梅干と果実酒のビンやカメで占領されている現状では、仕込んでも置き場所がない・・。あ〜、漬物小屋がほしい!
漬物小屋はともかく、塩麹作りには手間も場所もいらないので、ぜひお試しあれ。塩麹をかき回していると、なんだかペットを育てているような気もしてくる。よしよし、とかあやしながら(一日一回ですが)かき回してあげてね。
音楽の必然性
年末も恒例の第九に止まらず、さまざまな実演に触れることができた。それぞれを論評することはここではしないが、非常に魅力的な演奏で感動した。一方、現在進行形で、年末の片付け(というか、私の場合には夏の引越しの後片付け)で、ステレオから流しているいろいろなジャンルの音楽にも、気分を引き立てる働きを感じている。
こうした音楽の働きについて、近年では研究が進んでおり、脳科学、認知心理学の分野から様々な解析が進んでいる。つい最近、書店で見つけた本もそういった知見に基づいた本で、非常に面白く読んでいる。
一冊はレヴィティンの「音楽好きな脳」で、もう一冊はフィリップ・ボールの「音楽の科学」。内容を見ていくと、西洋音楽の視点から論じている部分があって、日本音楽や琉球音楽の独特の音階を普段から耳にする我々には少し違和感のある部分があるが、なぜ、人が音楽を好むのか、なぜ、人はある音を聴くと不快感を覚えるのかが分かって来るのかもしれない。
さて、年末ぎりぎりで、2011年の懸案事項である引っ越し荷物の片付けが終わり、蔵書の全貌と蔵CDの全貌と、それを聴くための準備が終了した。
ほっとした新年です。明けましておめでとうございます。
目的なしの連想的歩行 (2)
わが家のねこ、ココ。おそらくおばあさん(測定不能)。昨年の夏、風邪で死にそうになっているのを見つけ、「家にくるかい?」ときいたら、ついてきたので家につれてきた。風邪が治っても、ココがねこらしいジャンプをするのを見たことがない。ゆっくりと歩いて寝床と「あそんで〜にゃー」をくりかえす日々。日光浴は暖かいから好き。缶詰はカニカマ缶が一番好き。お水はたくさん何度でも。そんな彼女の目が見えなくなったのは3日前。
「目隠して歩く。まっすぐにすら歩けない。五歩くらい歩いただけで、安全だと分かっていても不安になる。暗闇の世界が広がる。しかし知っている道も、知らない暗がりのなかに埋もれて、自分の居場所がなくなる。そしてほんの少しの音にも敏感になって、気配を探る。」
ココもおなじだろう。ねこが人間より優れているのは嗅覚。道は匂いが教えてくれる。トイレの砂にはたどりつけるけど、失敗もする(結構多い)。でもお水はどこか? ご飯はどこか? 匂いの測量は強度によって決まるのだろう。だから近い場所にそれぞれを配置してみる。なんとなく分かるようだが、なかなか難しい。先ほど、トイレを失敗しました。歩行を難しくしているのは、目を掻かないようにしているカラーのせいもある。いつもぶつかるし、ある角度では水も飲めない。ご飯も食べられない。だから飲みやすい、食べやすい角度が大切。でもときどきひっくり返す。「ああ、またですね」。
「視覚障害者の「歩くことに慣れ」とは、自分と物や人物などとの距離を測ることだろう。そこでは音の反響は重要な要素となる。おそらく、安全に自分の場所を得るために聴くべき大事な音がある。」
ココはあまり耳がよくない。年のせいかもしれない。しかし家という安全な場所にいるので、どこにいてもそんなに心配はない。どうやって快適に過ごすことができるか。慣れてくれることを祈りつつ1012年を迎えました。おめでとうございます、みなさま。
飲みながらに浮かぶこと
そう、昼酒、というか夕方から飲む酒。休みの日、時間は最近では4時頃から5時頃。そんな時は酔っぱらいながら夕ご飯の支度をしたり、そうでないときはぼ〜っとテレビを見ながらだらだらしている。食事はおかずを少しつまみながら飲んでいると、8時から9時頃睡魔に襲われ知らぬうちに眠り、深夜12時過ぎから1時頃目が覚め、いつの間にか眠っていたことをその時自覚する。そのあと深夜にも関わらずシャキーンとなり、本読んだりしながらまた飲み始める。こういう休みの日を過ごしていると一月の酒量はどれくらいになるか知りたくなった。まず五升、酒を買ってきてこれが一月もつか試してみた。するとあと一週間余りあるというのに無くなり、六升目に突入し、それでも足りず、三合瓶を二回買って一月分。六升六合一月に飲んだ。外飲みは最近面倒くさいのでしていない。純粋に家で飲んだ量。少し多いかと思い今月は六升を購入、これが一月もつか試している。でもお正月をまたぐと、実家から正月の余り酒を貰うから六升目が余れば良しとしよう。
だらだらした午前にテレビのチャンネルをいじっていたら、NHK教育で坂本教授の「スコラ」という番組、「ロックへの道」というのを見た。ギター・リフの回で取り上げられたヤードバーズのThe Train Kept A Rollin'。オリジナルはジャンプ・ブルースのタイニー・ブラッド・ショウ、それをカヴァーしたジョニー・バーネット・トリオ、さらにヤードバーズ、とテロップでも紹介されていた。この流れを初めて知ったのは1999年に出版された「フォーキーブルースな夜」という鈴木カツさんの本だった。この本を読んだあとタイニー・ブラッド・ショウのオリジナル、ジョニー・バーネット・トリオのカヴァーの音源を入手して聴いた。ジョニー・バーネット・トリオのカヴァーにはヤードバーズの元となったリフを感じることは無かったがHoney Hushという曲を聴くとThe Train Kept A Rollin'のリフに近いというかそのまんまだった。当時のヤードバーズのギタリスト、ジェフ・ベックはジーン・ヴィンセントを中心としたロカビリーのカヴァー・アルバムも出しているので、ロカビリーに関しては、ジョニー・バーネット・トリオのことも知っていても不思議ではない。その上でジョニー・バーネット・トリオのHoney HushのリフとThe Train Kept A Rollin'にもってきたのではないか。それはその当時、関わった人に聞いてみないとわからない。でもジョニー・バーネット・トリオのギタリスト、ポール・バーリソンはヤードバーズのリフに大きな影響を与えたのは間違いないとおもう。「フォーキーブルースな夜」ではファズギターのパイオニアとして紹介されている。
そういえば、震災前、沖縄で騒がれていたのは駐沖縄総領事だったひとの「沖縄の人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ。」という発言だった。最近は酒の席での発言がもとで更迭官僚、辺野古の環境アセスメントの提出。こうなったらどんどんゆすってやればいい。
初めての年越し
初めて、新年を迎えるまで起きていたのは小学校一年生の時だった。その年の大晦日もいつもと同じように、母がいつも以上に殺気だっていて昼間から銭湯へ行ってこいと命じられた。いつもなら「早く帰っておいで」と送り出されるのだが、まだ大掃除もおせちの用意も出来ていなかったのだろう、「しばらく帰ってこんとき」と言われた。一つ違いの弟と僕は、お言葉に甘えて銭湯で泳いだり潜ったり、近所のおっさんに怒鳴られながらも遊び倒した。風呂から上がると真新しい下着に着替えて、コーヒー牛乳を飲むと表へ出た。散々温もった後なので、弟の身体からはほかほかと湯気が上がっている。その様子がとても気持ち良さそうでじっと見ていると、弟が「どうしたん?」と僕に聞く。
家に帰ると父は家の表で小さな鯛を焼いていた。いつの間に髪型が奈良の大仏のようなパーマ頭になっている母に、そのことを伝えると、
「お父ちゃんが大晦日に鯛を焼くのは趣味みたいなもんや」と笑いもせずに言う。父は父で、「この時期に店で売ってる鯛はかっこばっかり立派でしょうもない味や」と言いながら七輪の火加減に余念がない。
父の鯛が焼き上がり、母のおせち料理が出来上がった頃、すっかり大晦日の夜はふけて、僕たちは紅白歌合戦を見ながら年越し蕎麦を食べる。うちで作る年越し蕎麦は毎年茹で加減がおかしく、蕎麦のお粥のようにぐにゃぐにゃだった。そんな蕎麦を食べながら、父が「やっぱり、蕎麦よりうどんやなあ」というのが決めぜりふで、これに「そうやそうや」と相づちを打つのが母のお決まりだった。
蕎麦を食べ終わり、紅白歌合戦も終わる頃、弟は眠気に勝てずにこたつの一角で眠っている。母がそんな弟に毛布を掛けてやる。僕もそろそろ眠たくなってくる。そんな時だ。父が僕に「お前も小学生になったんやから、年が明けるまで起きとかんかい」と言ったのだ。寝ろと言われたことはあっても、起きておけと言われたことがなかったので、僕はおどおどしてしまう。そして、少し大人扱いされた気がして期待に応えて起きていなければと意気込んでしまう。
それからの一時間ほどが長かった。NHKの行く年来る年が始まると、お寺や神社ばかりが映り、僕の眠気は最高潮だった。鐘の音に合わせるかのように寝たり起きたりを繰り返していると、ふいに父と母が「新年、明けましておめでとうございます」と挨拶を交わした。その様子を見て、僕も慌てて正座すると「明けましておめでとうございます」と挨拶をする。母は「よう起きてたなあ」とほめてくれて、父は「さあ行くぞ」と立ち上がる。
どこに行くのか、と聞く間もなく父が玄関へと向かい、僕がその後を追い、母が「いってらっしゃい」と声をかける。
外に出ると、たくさんの人が行き来していて僕は驚く。中には知っている大人もいて「おめでとう」とか「えらいなあ、起きてたんか」とか声をかけてくれる。そんな声に応えながら父の後をついていくと、向こうに提灯の明かりが見えた。いつも遊んでいる近所の神社だった。みんながその神社に初詣に出かけていたのだった。「お詣りにいくの?」と聞くと、「お母ちゃんと弟の分もちゃんとお詣りするんやで」と父は笑う。
そう言いながら、父は煙草を取り出して火を付けるために立ち止まる。僕も父の足下で立ち止まる。振り返ると小さく家が見える。前を見ると遊び慣れた神社が見える。その合間に立って、僕は父を見上げてみる。すると、父の吸う煙草の火が赤く見え、煙が空へと広がっていく。その向こうをじっと見つめていると、無数の星が浮かび上がってきた。
『Get back SUB!』を鞄に入れてた12月
1970年から1973年の間に6冊を発行し、今も色あせない魅力を持つ"伝説"のリトル・マガジン『季刊 サブ(SUB)』。この雑誌の編集人である、小島素治という"ひとりぼっちのあいつ=Nowhere man"を追いかけた物語『Get back SUB!―あるリトル・マガジンの魂』(北沢夏音著/本の雑誌社)が10月に出版された。
以前片岡義男さんにインタビューした時、「そういえば、サブという雑誌があったな」という言葉に、有名なゲイ雑誌と勘違いした反応をしてしまい、会話はそれきりになってしまったことがあった。「サブ」は「サブカルチャー」の略で、浅井慎平氏が多くの写真を寄せていた雑誌であるという事を後から知り、先の会話をずっと後悔していたのだった。そんな事もあって、「サブ」とその編集人の小島素治氏について書かれた本が出版されたと聞き、早速手に入れたのだった。著者の北沢夏音氏は、私と同じ1962年生まれ。
「ものごころついたのが、カウンター・カルチュア華やかなりし昭和40年代と重なる所為か、その時代―世界的に"The Psychedelic Era"と呼ばれる1965年から69年、そして燃えさかった熱が静かに引いて行った72、73年まで―の混沌と、若さと、反逆精神に、ぼくは惹かれ続けてきた。単なる郷愁でも懐古趣味でもなく、どこか根元的な理由から、自分がどこで生まれ、どこから来たのかを知らなければ、どこへ行くのかもわからないはずだという直観にかられて、それこそものごころがついてからずっと、同時代の空気を呼吸するのと同じくらい<あたりまえのこと>として、時間線を繰り返し遡ってきた。」本の冒頭、北沢氏はこのように書く。この言葉に私も共感する。ものごころつく頃に垣間見た花開く世界、来るべきものの予感に満ちていた時代について、あれは何だったのだろうと確かめたい思いが私にもある。
ある日、古本屋の片隅で「季刊サブ 特集=ヒッピー・ラディカル・エレガンス<花と革命>1970創刊号」に出逢い、「ヒッピー」と「ラディカル」に「エラガンス」を続けたタイトルを見て、「天啓にうたれたような気持になった」北沢氏は、その小さな雑誌の編集人小島素治氏に興味を覚える。そして彼が生み出した、誰にも真似することができない雑誌『ぶっく・れびゅう』、『ドレッサージ』、『ギャロップ』の存在を知り、彼がどんな人だったのか、ゆかりの人を訪ねながら紡いでいったのが、この著作だ。530ページもあるこの大作を鞄に入れて持ち歩きながら、私も北沢氏と一緒に旅をしたような12月だった。
ゆかりの人々の想い出によって描かれる小島素治氏。彼の仕事とその意味とは何だったのか。小島氏が東京で居候していたお茶の水の喫茶店「トムの店」の常連だったという中野翠がこう語っていて興味深い。「そうね。そのサブとか、サブカルチャーっていう言葉に、私なんかは妄想を抱いていたというか、夢見ていたというか、あんまり言葉では説明できないけれども、何をかっこいいと思ったのかしらね...。私がサブカルチャーに惹かれた理由の一つは、私が<世間的なもの>が一貫してわからないせいかもしれない。やっぱり何でも大ヒットするものっていうのは、絶対どこか下世話なものだし、すごく世間的な価値基準みたいなものを前面にだしているのね。」
「ヒッピー」を「ラディカル」とも、ましてや「エレガント」などとは決して思わないのが世間というものだ。小島氏が『SUB』の紙面を使って世間に差し出したのは、世間にはまだ充分出回っていない、もうひとつの価値観であった。北沢氏はそれを、「時代の<最良の精神>」と呼んでいる。風のように吹いているもの。新しい時代の方から吹いていて、ある選ばれた人にしかキャッチすることができないもの...。
小島氏がつくった広告会社「スタディアム」の社員であった上野恵子氏はこう語る。「小島さんは、自分の好きなものについて、それを他人にわかるように語ることはあまりしなかったように思います。(略)曖昧な『好き』という感覚を自分のなかに漂わせている、それで心を満たしておく、そこが編集者の大事なところなのかな、と駆け出しの私は小島さんを観て感じていました。」と。小島氏が「つきつめなかった」事を「なまけものだった」と語る人も居る。確かに、「好き」という気持ちを、曖昧なまま、その気分そのままに提示したところが小島素治氏の魅力でもあり、弱さでもあったのかもしれない。
しかし、「好き」という気分が、言葉を超えて、ある確信を先にもたらすという事はあるように思う。
「警官に向かって、石ではなく花を投げるエレガンス。そんな闘い方が出来たこと、それこそが60年代の最も研ぎ澄まされたソフィスティケイションだったのだ。」と北沢氏は書く。私も、石よりも花を投げる方が洗練されていると思う。直観的に石ではなく花を手に取る人々の方が断然「好き」だ。小島氏を含め、そういう存在が社会に居場所を持てるようになった時代が、北沢氏も私も惹かれる70年代なのではないかと思った。
「時代の<最良の精神>が発するメッセージを受けとめ、それに対するパーソナルな感応を宝石のように蒐めて、魂の記念碑(ソウル・モニュメント)を作り上げ<雑誌>というタイムカプセルに刻印する。編集者、小島素治の本領(エレメント)は「捧げること(トリビュート)にあるのだ。」小島素治の仕事について、北沢氏はこう表現している。彼の今回の著作にそのまま当て嵌まる言葉だと思う。
しもた屋之噺(120)
昨晩サンマリノで恒例のクリスマス・コンサートを終え、澄み渡った晴れた朝の風景のなかミラノに向けて列車が走っています。以下、ここ数日オーケストラとのリハーサル休憩中などに、テアトロ・ヌオーヴォ(新劇場)の控室でサンドウィッチを齧りながら書いた日記を転記してみます。
*
ミヨー「屋根の上の牛」のリハーサルを終えたところ。譜面を読むほどに厄介だと頭を抱えていたが、実際曲にするのが本当にむつかしい。2回リハーサルを終えて少しだけ光明が見えてきた。演奏次第で駄作にも傑作にもなるのはどれも同じだろうが、「屋根の上の牛」では特にそれを痛感する。勉強するほどに、3度で重ねられた多調が実に巧妙に、和声機能を崩さず作用させられていることに気づく。
西洋音楽史に於いて3度は、音楽史の足跡そのものだと思う。シューベルトや彼に端を発するマーラーやブルックナーはもちろん、違うアプローチだけれども、例えばプロコフィエフやミヨーにしても、3度調つまり平行調の無限の可能性を見出したとき、作曲家の興奮はいか程だったろう。3度や5度で重ねるずらす自動書記的作業は自分でも大学時代からずっと使っていて、ミヨーが調性を3つを美しく重ねるところなど共感をもって読んだ。
子供の頃レコードでミヨーが自演していた小交響曲やカンタータを繰返し聴いたが、「屋根の上の...」を勉強するために何十年かぶりに聴き返すと、実に美しい音の響きに驚く。他の演奏家が同じ曲を演奏しても、複調とか和音をぶつける印象が際立つところが、彼自身の演奏はまろやかで雑然とした印象はなく、豊潤な和音が自然に立ち昇る。結局自分自身で音がよく聴こえているからだろう。ミヨーが複調を使い始めたのはバッハに複調を見出したからだそうだが、楽譜を勉強してみると、どれだけしっかりした法則と基準をもって使われているかよく分る。特に複調から単一調性に戻る際に、特に彼の耳、勘の良さ、趣味の良さを思う。それに引き換え強弱はどの程度考えて附けたのだろうと最後まで疑問が残る。彼自身指揮をよくしていたから、音量に関しては他の作曲家よりずっと詳しかったはずで大雑把につけたか、当初もっと小規模の弦楽器群を想定していたのかもしれない。恣意的にはなりたくないが、書いてある通りの演奏が作曲者の意図と必ずしも一致しないのもよく知っている。演奏とは結局どこに落としどころを見出すか。
先日レッスンのあとで中華料理屋で餃子をつつきながら、「演奏していると、演奏家にせよ指揮者にせよ、自分の音が聴こえているかどうかが手に取るように分るね」とピアニストのマルコが興奮して話していたのを思い出す。彼曰く、ミケランジェリは自分の音を聞くことに集中し、解釈など捏ね繰りまわすことはなかった。音を研ぎ澄ます耳をもっていたから、音から音へと自然につなげることができた。だから特にミケランジェリのアプローチが好みであろうとなかろうと、聴き手を納得させる音楽の深みが生まれたに違いないという。ミヨーの自演を聴いたときにその言葉が頭に浮び、なるほどこうして自分で鳴らしている音がつながらないのは、自分の耳が足りないからに違いない。
ホテルのベッドでクープランの墓のフォルラーヌを読んでいて、同じように、増三和音、つまり長三和音の第5音上方変位の可能性を発見したとき、作曲家はどれだけ興奮したかと考えるうち眠り込む。上方変位に至るまで、古くは教会旋法の時代から導音やカデンツの感覚の発展とともに、何百年という気の遠くなる時間をかけて変化してきた。ラヴェルはどこにでも行ける増三和音を自在に操りつつ、カデンツになると導音を抜いて旋法化する。近代フランス音楽特有の温故知新。
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ガーシュウィンやらコープランドなどアメリカ音楽をやっていて、来年は1912年生まれのジョン・ケージ生誕100年だと思い出す。フランスには同年ジャン・フランセが生まれていて、少し不思議な気がするのは、今ではアメリカの現代音楽こそアカデミックで、フランスがどちらかと言えば先駆的な印象が強いせいかも知れない。コープランドは1900生まれでガーシュウィンは1898年生まれ。二人ともブルックリンでユダヤ系ロシア移民の家族のもとに生まれ、どちらも後にパリにでかけてナディア・ブーランジェに会っていたりと、時代や境遇に共通点はたくさんある。確かにカリフォルニア生まれのケージを一緒にしてはいけないかもしれない。
当時のアメリカには、ケージやガーシュウィンが師事したヘンリー・カウエルや、孤高のチャールズ・アイヴスという、伝統の保証のない強さを逆手にとった作曲家がいたけれども、パリではロシアからやってきたストラヴィンスキーが春の祭典などを初演してセンセーションを起こしたくらいで、印象派がそれまでの音楽に教会旋法やガムランなどをブランドして新しい分野を開拓したのは、ちょうど戦後ケージショックから、ブーレーズを初めとして、無数のヨーロッパの作曲家たちが、偶然性と伝統をブレンドしようとしたのに似ている。そういう意味で身体のなかに連綿と流れてきているDNAというものは、恐らくきっと存在している。
自分にはケージの存在は世代的に遠い気がしないが、生誕100年と言われると少し当惑する。恐らく今大学生くらいの人たちにとっては、身近に感じろと言うほうがむつかしいに違いない。時間が過ぎてゆくということは、今生きている現在が過去になり客体化され、「文化」とか「時代」とか呼ばれるようになること。自分も文化という無数の石でできたピラミッドの石の一つだという自覚は、イタリアに住み始めてから生まれた。それを息子に伝え、自分が見てきたことや今見せられるものを、できるだけ惜しまず、包み隠さず見せてやらなければいけないと思う。
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自分が子供だった頃より、現在は情報が与えられすぎているのかも知れない。子供のころもっと知りたいという欲求が常にわれわれを突き上げていて、それが動力源だった。そのエネルギーがいつでも調べられる、手に入れられる安堵感に取り替えられることは、どうなのだろう。尤もそれが時代というものなのだろう。自分も現在のテクノロジーに甘んじて生きていて、それなしでは生き長らえられない。今から100年後には、恐らくずっと沢山の情報を、もしかしたらもっと合理的に処理しているかもしれない。案外機械的に脳にインプットできるようになっているかもしれない。
父親が持っていた写植機など息子に説明してもわからないだろうし、写植屋という職業は若いひとたちすら知らないはずだ。この10年20年ほどで、世の中すべての流通体系は悉く変化して便利になったけれども、専門分野のレヴェルは上がってはいないし、後退したものさえたくさんある。ただ全てが簡便になった。こうしてコンピュータで文字を打つようになり、漢字が書けなくなるのと一緒だ。
100年後にはどうなっているのか。
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今でも毎回リハーサルの始まる前、どうして自分はこんなに向いていないことをしているのかと軽い鬱に襲われる。今誰かが廊下でさらっているミヨーのヴァイオリンが止んで、3管編成のオーケストラが調弦を始めたら、同じ気持ちになるに違いない。少なくとも高校くらいまでは対人恐怖症だったのが、良くここまでできるようになったと感心もするが、オーケストラからすれば対人恐怖症の指揮者は困るだろう。ただ指揮するなかで学んだことが沢山あって続けていられる気がする。学んだことは音楽の範疇には留まらない。人間の機敏や人と交わる基本を指揮のなかで学び、これからも学び続ける。
先日フィレンツェで極右の狂信者による無差別殺人で亡くなった2人のセネガル人を悼むデモ行進が、今日イタリア各地で行われた。朝ホテルのテレビをつけると、彼らが殺害されたダルマツィア広場の商工会議所の女性が強い調子でこう語った。
「フィレンツェは古くから外国人を受け入れ共存し、平和に暮らしてきた。外国人排斥するなんてもっての他だ。ダルマツィア広場にはたくさんの外国人の商人がいるけれど、皆とても良い人たちで問題など起こしたこともない。その証拠に、今回犯人が凶行に及んだ際セネガル人たちがまず助けを求めに走ったのは我々商工会議所の人間だ。心から哀悼の意を表し、誤ったナショナリズムの台頭と外国人排斥の気運に強い警鐘を鳴らす」。それを聞いて涙がこぼれる。
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昨夜演奏会が終わって控え室で着替えていると、廊下で声高に話しこむオーケストラの団員たちの楽しそうな談笑が耳に入って、この嬉しそうな声を聞きたくて指揮を引受けているのかとも思う。リミニに下りるタクシーを待ちながら、朝焼けで真っ赤に染まった冷気の中、早朝のミサに白い息をはきながら言葉すくなに教会に入っていく人たちを眺める。ふと甲高い音を立てて目の前の鐘楼の3個の鐘が鳴り出して、まあその通りなのだが、ちょうどグリゼイのような響きになった。
8時ちょうどに坂の下から上ってきたタクシーに乗るとラジオでジャヴァンの知らない曲がかかっていて、タイトルを聞こうと耳を澄ましているとそのまま曲名もいわずガル・コスタの「Festa do Interior」に変わってしまった。ミラノに戻ったら久しぶりにナナ・カイミの「Meu Silencio」でも聴こうと思っていると、
「実はわたしはこう見えても、ペーザロの国立音楽院で打楽器のディプロマをとったんです」。思いがけずそれまで黙っていた運転手がふと話し出した。
「バルトークの2台のピアノと打楽器とかオケスタとかね。オーケストラ実習なんかも本当に楽しかったなあ、10年ちゃんと通いました。あのころは素晴らしい教師ばかりで古きよき時代でした。打楽器や音楽が本当に好きでね。なにしろ父がドラマーでしたから、子供のころから家には音楽が溢れていたのです。ディプロマ課題のティンパニのオケスタ、あれはむつかしかったなあ。リズムがとても複雑で、なんだったかなあ」。
「サグラ(春の祭典)かな」と言葉を接ぐと、それは嬉しそうに「ああそうでした。あれは本当にむつかしかった。5年目の中間試験は兵士の物語でした」と応えてくれた。
「ティンパニは本当に面白い楽器でね。すごくむつかしいけれど。本当に音色がねえ」。彼が懐かしそうにそういったところでリミニの小さな駅舎の前に着いた。
どう答えたものか戸惑っていると、「マエストロ、ありがとうございました」。少しはにかみながら、手を差し出してくれたのが忘れられない。
(12月18日 リミニからミラノにもどる車中にて)
サンタクロース
今から30年近くも前のこと。大学生だった僕は、とあるデパートのアルバイトでサンタクロースをすることになった。サンタクロースの格好をして、車にのっておもちゃを届けるだけで、一日一万円がもらえる。説明会では、「中には、サンタクロースを信じている子どももたくさんいるので、夢を壊さないようにしてください」といわれても、真昼にこんな脱脂綿の付け髭でだまされる子どもがいるのだろうか。僕自身は、小学校に入るとすぐに、サンタクロースが親父だというのを見破っていたから。ところが、実際やってみると、僕を見て興奮してしまって、目がランランとなっている子や、わざわざ手紙を託してくれた子もいて、なんだか、こっちが感動してしまったのだ。その当時はサンタクロースの衣装も100均ショップで売られておらず、衣装そのものが珍しかったのかも知れない。
2011年、東日本大震災で厳しい一年だった。
埼玉県の加須には、福島県の双葉町から避難してきた人達が高校の跡地でくらしている。仲間が炊き出しに行くので、その横でサンタの格好をしてチョコレートを配ることになった。サンタがやってくると喜ぶだろうなと。30年前の感動がよみがえる。しかし、今年は被災地に、サンタクロースが押し寄せているという。加須の避難所には、数日前に本場のフィンランドからサンタがやってきたという。さすがに100均でかったコスチュームだと偽者だとばれてしまう。そのために、ヒゲを伸ばしたのだ。白髪も混ざっているものの却って薄汚くなってしまった。白く染めようとしたが、ヒゲは太いためか、全然そまらない。結局つけひげを着けた。
実際、チョコを配ったが、お年寄りや、子どもたちが、チョコを喜んでたくさん持っていってくれたが、誰も僕のことをサンタだとは思ってくれなかった。
クリスマスイブは、久々に、家族がそろうことになった。妻と2歳半の息子は、3月15日に東京を去り、僕は被災地に向かったのだ。しばらく見ないうちに、でかくなった息子は、よくしゃべる。駅に車で向かえに行き、家についたところで子どもは、先に家に入れて、僕は、車庫で、サンタに変身して息子の前に登場したのだ。
「あ、パパが、サンタの格好している!」
息子は大喜びだったが、なんとなく哀しかった。
2012年、今年はいい年でありますように。
オトメンと指を差されて (43)
水牛をお読みのみなさま、あけましておめでとうございます。時の流れは速いもので今回で4度目の新年のご挨拶となります。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
年初と言えば、やはり一年の計を考え決めるということになるのですが、わたくしは割合しっかりなにがしかを設定してちゃんとこなしたり年末に振り返ったりする類の人間でございまして。昨年については、まあまずまず及第点といったところでしょうか。今年もまた年始の何日かを費やして思案するわけですけれども。
それはそれとして、うっすらとしたわたくしの記憶を辿っていくに、この癖はどうやら幼少の頃よりあったようでして。わたくしはちいさな商店街に生まれ、小さい頃は近所にあった専門店の寄り集まったごくごく小規模の複合施設と同年に生まれたことから、なぜかそこのマスコット扱いにされたらしいのですが、その施設(現在はすでに閉鎖)にあった駄菓子屋風のお店でお年玉を握りしめながら、ある年始にこう決めたのです。
「今年は......しゃべらないでおこう。」
現在のわたくしからすれば、つっこみどころが多すぎて何からどう言えばいいのかわからなくなるのですが、つまるところ、幼少のわたくしは年単位でキャラといいますかペルソナといいますか、外界への態度をころころ変えていたようなのです。正直、外から見てもあんまり変化はなかったのかもしれませんが、ある年には朗らか(?)によくしゃべり、ある年には寡黙になったりする、そういうことを自分に課していた、と。昔から演劇的性格だった、といえばそうなのかもしれませんが、とにかく変わった子であったことは間違いないでしょう。
ただ、わたくしにとっては「思ったことを口に出さない」ということは、今でも重要なことであるわけで、そのときの判断にも何かしらの理由があるのではないか、とも思えます。というのも、それは別に心のなかが腹黒いとか悪口を考えているとかいうことではなく(そういうことには興味がございません)、その、何度かこの連載でも触れておりますが、わたくし、基本的にはいつもぼーっとくだらない想像をしておるのです。だいたいが妙な言葉遊びや、ものすごいどうでもいい〈仮定:もし××が○○だったら......〉、あるいは勘違いや思い違い聞き違い、そういうことが常に頭のなかでぐるぐるしておりまして、うっかり口に出そうものなら、なんというか天然扱いされますので。黙っていれば、笑顔の人、静かな人、あるいはさわやかな人、といった感じで見てもらえるので、処世術としてある程度の調節を。(とはいえ、人前に引きずり出されたり、受け止めてくれる相手がいるとわかっているときは、かつて中学で生徒会長をしたときやこの連載におけるごとく、テキトーに外へ出すのですが。)
しかし具体的に言わないとわからないと思うので、極端なたとえばを出しますと、
Aさん「そういえば、冷蔵庫にキリンが入ってるんだけどさ......」
私(えっ? 冷蔵庫にキリン? えっえっ? それって無理なんじゃ......てゆうか首はどうやってしまってある......)
Aさん「(しゃべり続けている)」
私(というか、もしかして......キリンさんの......お肉? お肉があるの? どういうこと? これから食べるのかな? うええ? これちゃんと聞いた方がいいのかな......)
Aさん「あんまりうちお酒飲まんから、1缶でも開けてってくれると助かるんやけど」
私(......あっ。ビールのことか。よかった、しゃべらんで、聞かんで......あ、でも動物のキリンが冷蔵庫に入ってるのも何か面白そうだな......手乗りキリンとかいるとかわいいし、ぬいぐるみ......そうだ消臭剤を兼ねたキリンのぬいぐるみとかあったらいいな......別に缶ビールを模した消臭剤でもいいけど......)
または
Bさん「こないだインドゾウを買ったんだけどね、いやあこれが大変でさ......」
私(うええ? インドゾウ? 買ったの? えっ、それって飼ってるってこと? 家で? そんなのできるの?)
Bさん「(しゃべり続けている)」
私(いやでも屋上で飼えるっていうし、どこに囲うにしろ彼ならやりかねないところもあるし、もしかしたら新しい治療法でゾウセラピーみたいなものがあるのかもしれないし、えーとえーと)
Bさん「でも地震も怖いし、患者のためにもちゃんと付けて、大きさによってすぐ電源とかが......」
私(......はっ、これはもしかして震度計のことか。あー、びっくりした......それにしてもゾウセラピーって確かにありそうだな、これってたとえば......イルカセラピーみたいな感じで、背中に乗ったりとか鼻に巻かれて持ち上げられたりとか......でもああいうセラピーって動物への負担が大きいっていうから......やっぱぬいぐるみか、そうかぬいg)
というようなことがあったりするため(さすがに実際キリンやゾウでは勘違いしませんがだいたいこんなニュアンスの間違いをするので)、思ったことをすぐしゃべらんようにしておるのですよ!
何の話でしたっけ。そうそう、年始の抱負ですね。こういうことは、はっきりさせたり口に出すことによって自分を追い込むような側面がありますよね。言霊とでも申しましょうか。であるからしまして、ある種の人(わたくし含む)には、抱負なり一年の計なりを言わせて聞き取る、ということもきっと大事になってくるのでしょう。わたくしのしゃべることは、他人にとって重要だろうが面白かろうがそうでなかろうが、おおかた当人にとってはどうでもいい妄想なのですけれども、ちゃんと言質を取っておだてたりあおったりすると、急に現実味を帯びてしまって、そこそこ真面目に取り組むので、誰かに何かをさせたいみなさまにおかれましては、年始早々ついでに色んな方から言質を取るのがよかろうかと存じます。
ちなみに今年の年初につきましては、わたくしの言質をお取りにお越しになる場合、わたくしもそれ相応の対策や防御や反撃を致しますので、この年始攻防戦をともにお付き合いいただけると幸いです。
白い水平線
凍った海の上を、歩いたことがあるかと訊かれた
無い、と答える
昔、北に住んでいた知り合いの家の目の前は海で、
真冬になると水平線の向こうまで氷が張り
見えもしない向こうの島まで歩いていこうとしたという。
一歩間違えれば、氷が割れて溺れていたかもしれない、と
笑いながら話す彼女。
海に縁がない私には未知の世界のお話で、
興味津々だった。
凍った海の上からの景色
どんな風が吹くのだろうか
どんな音が聴こえるのだろうか
知らない地面の空気が、足元から
煙のように舞い上がってくるような気がした。
だれ、どこ4
●ジョン・ケージつづき
香港の黄大仙(Wong Taisin)廟でミカンや花を捧げ香を焚き竹筒を借りて竹の番号札が振り出されるまで揺する。幸運な数が出るまで続ける。一人分3回までは許されるらしい。だが親戚一人ひとりの分もまとめて紙に書き取っていく。
chance operation偶然の操作、偶然に干渉するやりかた。材料をととのえる、組み合わせは自分で決めないで、サイコロや3枚のコインを投げる、乱数表やコンピュータの易占プログラムのプリントアウトをたどる、やりかたはさまざま。結果得られた数を音の特性に置き換える。だいたいは結果を受け入れるが、おもしろくない場合はやり直す。自分では思いつかないような音から音への曲がった道ができることがある。いくつかの段階を経て、介入の余地を残しておくのがいいのだろう。完全自動洗濯機のように最後までコンピュータがやってしまうと、失敗しても修正できないから捨てるよりない。クセナキスの1960年代コンピュータ作曲のプリントアウトを見ても、多くのサンプルからおもしろそうな結果を選んで、順序は自分で決めていた。ケージのやりかただと、作曲という作業は音から音への一歩ごとの小さなプロセスを続ける事務しごとに見える。それが日常性ということかもしれない。
ケージには時々フェスティバルやパフォーマンスで会った。プリペアド・ピアノを弾いたり、HPSCHD初演の時はハープシコードも弾いた。バッファローで使ったプリペアのセットはその後行方不明になってアメリカから日本まで問い合わせの電話が来たこともあった。どのみち、同じ響きは二度と作れない。
HPSCHDもSong Booksも中心のない空間に多数の演奏者の同時演奏、大量の録音素材や映像の同時再生、マーシャル・マクルーハンの「ひとつずつ順々にの視覚空間ではなく同時多発性の聴覚空間」を文字通りやろうとした、あの時代の、二度とできない試みだったのではないだろうか。もちろん再演はされているはずだが、あの時の熱気と一体感が再現できるとは思えない。と言って、これらの膨大な素材の集積、当時の「世界」だった「本」から一部分を取り出して「作品」として編集したら、まるで別ものになるだろう。
サンフランシスコでSong Booksの公演前日の練習を見る。博物館の個室ごとにちがうパフォーマンスがエンドレスでつづいているなかを、ケージの案内で通り抜ける。歌う人、食べる人、逆立ちする人、料理の匂い、唸り声、わめき声、山火事の音、地図の映写、すべてが増幅されて混じり合うカオスとノイズ。「すごいだろう。まるで精神科病院だ」と言ってケージはたのしそうに笑う。
アナーキズム、すべてを受け入れ、許そうと思う、中心を作ったり管理しないでも、自発的な動きがぶつからないような隙間だらけの空間で、ゆずりあい、折り合いをつけることができるだろうという期待。じっさいには、暫定協定modus vivendiは一度決めればずっとそのままでいくわけはなく、毎回決め直すことになる。新しい記譜法を考えて、詳しい説明や演奏指示を書いておいても、練習に行くと、演奏家はほとんど読んでいない。自分の論理で慣習や文化伝統から離れた普遍的・抽象的なシステムを押しつけるのは有効でない。一度に変えられることもあれば、すこしずつ変わるものごともある。
ケージ・スマイルと言われた人のよさそうな印象、it's beautiful, isn't it?という素朴なアメリカ語のニュアンス、アメリカの正装というデニム・ジャケットとジーンズ、あるときは菜食、ある時はマクロ・バイオテックの弁当、音楽をステージから引きずり下ろし、日常のすべてが音楽と思える状態に近づける試み、日々是好日。こんなふうに作られた「ジョン・ケージ」でありつづけようとする努力。大量の音の同時多発するカオスのなかに無名の人として沈みこもうとする一方で、沈黙とわずかな音をたのしむ繊細な耳の人。
ケージとカニンガムが住んでいたニューヨークの半地下のアパートに行ったのはいつだったか。通行人の足が窓の外を行き交い、がらんとした室内にわずかな植物がある。そのかなり前には、郊外のストニーポイントのアーティスト・コロニーに建てられた家、ガラス張りでトイレにもドアがないような電球のような家。無名性を自己主張している住居。
1960年代にはクリスチャン・ウォルフや一柳慧は反ケージでおもしろいと言う余裕があった。80年代の終りに武満に招かれて新作初演に来たケージに、コンサートの後、サントリーホールのロビーで会った時は、自分のコンサートにも来てくれるようになったのかと言われて、こちらも意外だった。70年代に、仲間だったコーニリアス・カーデューやフレデリック・ジェフスキーから政治的反動、帝国主義者のように扱われていたことに、かなり傷ついたのだろうか。
クリスチャン・ウォルフが言っていたように、何年も作曲を続けていると、今度はいままでとちがうことができたと思っても、じっさいにはまたおなじことだったりする。何十年も前にケージが書きとめたクリスチャンの「結局はすべてがメロディーになる」という意味のことばと似ている。武満は「今度こそちがう作品を作るそのために対位法を勉強したい」とよく言っていた。ケージが「ケージ」であるために自己をきびしく律していたのとちがって、武満は「武満」の響きを捨てるわけにはいかなかった。ちがうくふうや複雑な音を重ねるたびに、音楽はもっと「武満」になる。エゴから離れようとするのは二十世紀の芸術家の病気かもしれない。