2015年5月号 目次

仙台ネイティブのつぶやき(1)堀の水のゆくえ西大立目祥子
ゴールディ・ホーンの黄色い傘野口英司
新年度仲宗根浩
インドネシアの「世界ダンスの日」冨岡三智
しもた屋之噺(160)杉山洋一
島だより(12)平野公子
ボーイ・ミーツ・ガールの物語若松恵子
死人と椅子璃葉
夜のバスに乗る。(7)渡辺先生を迎えにいく。植松眞人
グロッソラリー ―ない ので ある―(8)明智尚希
私的青空文庫のお話(1)大野晋
ヤジッド教徒の悲劇さとうまき
青空の大人たち(10)大久保ゆう
126アカバナー(11)翡翠輝石(回文詩です)藤井貞和
簡潔な線 透明な響き高橋悠治

仙台ネイティブのつぶやき(1)堀の水のゆくえ

 七郷堀に水が入った。今年もいよいよ始まるのだ。...といっても、ほとんどの人には何のことやらわからないでしょうね。七郷堀とは、仙台の中心部を流れる広瀬川から取水され、東へと流れながら広大な水田を潤す農業用水のこと。毎日のように、この堀にかかる小さな橋を渡るので、水の具合をのぞき見ては4、5キロ先の田んぼのようすを想像している。
 毎年4月下旬、ある日を境に水かさが一気に増える。それは、代掻きの始まりの知らせ。数日後には田んぼに水が入って、耕うん機が行ったりきたりし始めるのだ。田植えはゴールデンウィークから5月20日ごろまで。減反で休む田んぼが多いとはいっても、つぎつぎと田んぼに水が張られていくから、堀の水かさもぐんぐん増していく。梅雨に入るといったん減って、夏の盛りに向けて再び水の量は上昇。梅雨明けの7月下旬から8月初めの出穂と開花を迎える時期、水は堀の脇から延びてくる草の下をとうとうと流れて、見ていて気持ちがいい。でも、このころの天候が実りを決めるので、農家は空模様を気に病んでいるんですよね。そして、9月に入り、朝晩の涼しさに夏の終わりをしみじみ感じるころ、水はある日突然、がくんと減る。稲刈りに向けて、田んぼから水が落とされたのだ。

 大震災が起きた2011年、七郷堀の水は4月になっても5月になっても増えなかった。橋の少し先の中学校の体育館には、沿岸部からたくさんの人が避難してきていた。そうか、今年は田植えができないのだと気づかされ、400年近く営々と休むことなく行われてきた米づくりがぱたりと止まった、その事態の大きさが胸に迫ってきた。
 あまり報道されなかったけれど、仙台市沿岸部も大津波によってひどい被害を受けた。集落が丸ごと流され、人の命も失われた。そして田んぼもがれきに埋め尽くされ潮をかぶった。田んぼに水を運ぶ用水路も、海へと水を流す排水路もがたがたに破壊され、七郷堀に水を入れれば、沿岸部が水浸しになるのだ、と聞いた。
 そうそう、かんじんなことを書くのを忘れていた。仙台は市街地の下流に水田が広がっている。これは全国的に見渡しても、極めてまれなことらしい。というのも、街が川の中流につくられ発展してきたからだ。日本の他の大都市は、もっと下流に生まれてているらしい。たしかに、東京も大阪もそうですよね。どんどん海を埋め立てして大きくなってきたのだから。
 江戸時代をとおして、新田は東へと広げられ、中心部のやや下流で取水された七郷堀の水は、ちょうど毛細血管が細やかに広がって全身に酸素を運ぶように、枝分かれして下流の集落をめぐり一枚一枚の田んぼに水を行き渡らせてきた。明治時代の地形図を見ると、曲がりくねった道といっしょに自然の小川そのもののように高低差に身をまかせ東へ広がっていく堀のようすがイメージできて、楽しい。

 大震災のあと、古文書の読み直しが活発になって、ちょうど400年前の1611年にも今回の大津波と同じ規模の大津波が仙台平野に押し寄せたことが明らかになってきた。もちろんこれまでも、大津波が襲来したことはわかっていたのに、具体的にどんなものかを想像できずにいたのだ。歴史家でさえも。
 たとえば、その年の晩秋に、伊達政宗は初鱈を徳川家康に献上していて、とのとき領内に大津波が押し寄せ、沿岸の船が内陸の神社のご神木のてっぺんに引っかかって止まった話を聞かせたことが徳川家の古文書に記されているのだけれど、それも家康をよろこばせようと話を誇張したのだ、といった具合に。私の育った街には「蛸薬師さん」とよばれている薬師如来があって、大津波のときタコがしがみついて流れてきたお薬師さまがご神体、と伝えられてきた。そんなまさかの伝説も、いまは本当だと心から思える。想像を絶するものを見ないと人の想像力は枠内にとどまったままなんだろうか。

 2012年の春、水は元通りとまではいかないけれど増えていった。2013年には、さらに増した。「3年ぶりの田植えだ」という声が聞こえてきて、ゆっくり田んぼを眺めにいった。空を映して広がる水をたたえた田んぼの風景は、ほんとに美しい。はじまり、動き出す。田んぼを眺めて、このときほどそういう印象を受けたことはない。
 農家の人たちは、表情に安堵感を浮かべながら「寒い、寒い」といっていた。沿岸部に分厚く繁り、田んぼを風と潮から守っていた松並木が根こそぎ流されたからだ。冷たく湿った風にかぼそい苗が激しくゆれている。江戸時代からずっとたゆまず、なぜ松が植え続けられてきたのか。私にもようやく、わけがわかった。

 生まれ育った仙台から、海、山、森、川...そんな話をお届けしていきます。


ゴールディ・ホーンの黄色い傘

海外に比べれば犯罪発生率の低い日本ではあるけれど、昔に比べれば犯罪に巻き込まれる確率が格段に上がっているような気がする。今までのような平和ボケで街を歩いていると財布くらいは簡単に盗られてしまう世知辛い世の中になってしまった。もし、悪漢に襲われた場合に撃退するにはどうしたらいいのだろうか。やはり武器を持たねばなるまい。と言っても、銃砲刀剣類は法律に引っ掛かるので、何か武器に取って代わるような一般的なモノで代用しなければならない。

何が良いんだろうか?

そうだ! コリン・ヒギンズ監督の映画『ファール・プレイ』(1978年)の中でゴールディ・ホーンは、雨傘を使って悪漢を叩きのめしていた。見た目からして鋭利さを強調させている雨傘は、雨の多い日本ではやはり武器となりうる手近なアイテムだろう。

『ファール・プレイ』の舞台はサンフランシスコで、とりたてて雨が多いと言うわけではないそうだ。でも、この映画では必ずゴールディ・ホーンが黄色い雨傘を携帯していた。最初にその雨傘で悪漢を撃退したことから、悪の一味に捉えられた刑事からおびき出しの電話を受けた時に、その刑事は「雨傘を忘れずに」とさらりと言う。その言葉が何を意味するかバレないうえに、雨傘が武器となってゴールディ・ホーンの身を助ける手だてになると思ったからだった。

『ファール・プレイ』は『知りすぎていた男』をベースにしたヒッチコックのパロディ映画で、『逃走迷路』『ダイヤルMを廻せ!』『北北西に進路を取れ』などから拝借したシーンやマクガフィンをちょっとひねって面白可笑しくストーリーの中に取り込んでいるテクニックが素晴らしく、何度も何度も名画座に足を運んだものだった。そして、あまりにもこの『ファール・プレイ』が好きすぎてサンフランシスコのロケ現場まで行ってしまった。

この日はゴールデン・ゲート・ブリッジまで見渡せるほどよく晴れていたけれど、翌日はしとしとそぼ降る雨で、その中をあちこちと出歩いたものだから高熱を出してしまった。ああ、今思えば傘を持ち歩けば良かったのだ。それも黄色い傘を。


新年度

新年度になりこちらの仕事はちょっとまわりや上が変わり少しづつ量が増えてきているような気がする。先月から徐々にであったが、四月に入り定時に終わることはまずなくなってきた。

そう、四月からラジコのプレミアムというものを導入、録音ソフトもパソコンにインストールし、今まで聴くことができなかった放送も生で聴いたり録音して聴いたり。そのお陰でテレビはほとんど見なくなる。視覚から情報が入らないというのはなんと楽なんだろう。目と耳から同時に何か否応もなく入り込むものって一日にたくさんあるのでテレビなどはかなり頭の中を刺激をくれて疲弊させているんだろうなあ、と思ったりしたりする。

で四月になりタブレット端末を新しいものにした。前に契約した端末が二年縛りが切れるのと、新しいキーボード付きタブレットが出たのでついつい。OSもバージョンが上がり、外部のメモリもSDXCで128GB対応。内蔵と合わせて160GB。これで今まで使っていたタブレットの外部メモリ32GBがパンクしそうだった音源にも余裕が出たのでこれでもか、CDから取り込んでもまだ余裕。思えばパソコンのスタートは4MBROMの100MBのハードディスクがスタートだった。内臓ROMやハードディスクの容量の拡大はどこまでいくのだろうか。で、今まで使っていたタブレットは子供と奥さんのものとなる。子供が将棋がやりたい、と言うので将棋ソフトを二つばかり入れる。もともと頭を使うことを苦手な父親は将棋の初歩から教えてくれるソフトを選び、相手をしなくてもいいソフトを選びこちらにあまり質問などこないようにすると、奥さんも将棋をし始める。

ここ、数ヶ月新聞を読む、といってもある筋から偏向新聞と言われるている地元の新聞も含めて購読はしていないので、読むときは職場での休憩時間に職場で取っている地元の二紙。二紙とも広告獲得が難しくなったためだろうか、夕刊はかなり前になくなった。毎日、辺野古のことを知らせてくれる。偏向という筋のひとの文章や動画などもいろいろネットでアップされているのでそれも読んだり見たりする。容認と反対に与する企業は今まで容認した人が出身の企業だったり、反対する企業は流通や観光の企業だったりするのかなぁ、とおもう。まあいろいろいりくんでいて面倒くさいのは確かだ。北谷のハンビー飛行場は返還され北谷には娯楽施設、人工ビーチ、ホテルができた。天久の米軍住宅、車両がたくさんあったところは新都心となり、泡瀬のゴルフ場はついこのあいだにこっちとしてはでかいショッピング・モールができた。経済は優先される。それで昔の地名はなくなった。


インドネシアの「世界ダンスの日」

4月29日はユネスコ傘下のNGO、インターナショナルダンスカウンシル(IDC)が1982年に設定したワールド・ダンス・デイで、この日は世界各国でアマ・プロを問わずダンスの企画が展開される。インドネシアでは2007年スラカルタ(通称ソロ)にある芸大で始まったのが最初のようで、実は私はその第1回目に出演している。というわけで、今月は2007年のインドネシアでのワールド・ダンス・デイの様子を報告したい。

2007年の初回以来、このイベントは「24 jam Menari(24時間踊る)」と銘打たれ、4月29日の朝6時に始まり、翌30日朝6時までノンストップで続く。2007年当時の新聞記事によると、このイベントに約1500人が出演し、うち芸大教員、学生、OBが約1000人、学外から500人だったという。第9回目となる今年の出演者は138団体、約3000人にのぼったという。

このイベントは芸大の舞踊科と市の協力で始まり、現在では芸大キャンパスだけでなく、芸術高校、ショッピングモール、市内メイン・ストリーなど市内各地に会場があり、また昨年は郊外にあるソロ空港などでも開催されたようだが、第1回目はキャンパス内だけで行われていた。

第1回目の進行は、私の記録によると、次のようである。朝6時から学長棟の前の広場で開始の儀(当然ダンス)があり、7時からF棟、9時からフマルダニ劇場、10時からI棟、11時35分からエデン庭園、12時40分からJ棟、2時から学長棟前の広場、5時50分から船劇場(船の彫刻を置いた野外劇場)、8時35分からプンドポ(ジャワの伝統的なオープン・ホール)、11時から大劇場、明け方5時から6時まで大劇場前の広場、という風に、キャンパス内の授業棟や施設を転々とするように、そして、1つ1つの演し物の間に空き時間がないようにイベントが組まれた。つまり、誰かが上演している間に次の催しの準備も進んでいて、その演目が終わるや否や、間髪を入れずに次の演目が続くのだ。そして、それらの時間割のように組まれたイベント以外に、企画代表のエコ・スペンディ(舞踊科教員)が24時間ぶっ続けで踊り続ける。彼自身もキャンパス内を転々として踊り続け、あるイベントの横で踊っていることもあれば、誰も見ていないような所で踊っていることもある...。

私が出演したのは、朝10時5分から10分間、I棟(舞踊科の講義棟)の1階エントランス部分だったのだが、記者や他の出演者や観客で、黒山の人だかりだった。24時間の中でハイライトは夜の催しだから、正直、午前中からこんなに人が押しかけてくるとは思わなかった。ちなみに私の演し物は、当時バニュマス地方のワヤンの曲を勉強していた友人の弾くグンデル楽器に合せて、日本の着物を着て中部ジャワ風の踊りをするという、受け狙いの妙なもの。

午後2時から広場で行われていたのは、大道芸であるレオッグ(東ジャワの虎舞)やドララ、バロンサイ(華人芸能の獅子舞)など。芸大でやったせいか、いずれもかなりハイレベルの芸だった。夜にプンドポで上演されたのは伝統舞踊で、ソロはもちろん、バリやスラバヤ、アチェ(スマトラ島)の舞踊に、ジャカルタのデディ・ルタン・ダンス・カンパニーという有名な舞踊団の公演があった。その後、大劇場はクローズドのせいかコンテンポラリ舞踊中心。私はたぶん、夜中はちょっと寝たけれど、明け方の閉会の儀は見たような記憶がある。今年のイベントの目玉は、パプア、トゥガル(中部ジャワ北海岸)、バニュワンギ(東ジャワ)、ジャカルタからの出演だったようだ。

インドネシアでは正月や独立記念日の前に一晩寝ずに過ごしたり、影絵の一晩公演などが当たり前に行われたりするせいか、24時間ぶっ続けで何かやるという発想は全然奇妙ではない。それどころか、以前、ジャカルタのタマン・ミニではソロ出身のムギヨノというダンサーが35時間ぶっ続けで踊るという企画があったし(彼は交代しなかったけど、演奏者は何組かいて交代したそうだ)、私がスラカルタの芸大に留学したときに履修した振付の講義で、一晩授業(午後8時頃集合〜明け方5時頃解散)をやった教員もいる。ダンスのパワー自体が、インドネシアではまだまだ強いなあと感じる。


しもた屋之噺(160)

明日からミラノは万博が始まり、それに合わせて誂えた新しい地下鉄が今週から開通したとかで、拙宅の近辺のバスや路面電車の路線が軒並み変更になりました。その為か明日から始まるミラノ万博の為か、どの道もとても渋滞していて、自転車がなければ到底学校に通うのが厄介なところでしたが、さて明日からどうなるのでしょうか。

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 4月某日 ミラノ自宅にて
病院のレントゲン室で一人、箱を撮影している。不慣れなので何度も撮り直すが、うまくゆかずに撮影時間を伸ばしてゆく。箱の中身は撮れているかと箱を開けかけると、生温かいものが洩れ出してきて、慌てて蓋をしめた。あれは放射能かしら。開けてはいけなかったのかしらと考えてから、全身に戦慄がはしる。こんな恐ろしいものを、何故素人が触らなければいけないかと憤りを覚えると、いつしかレントゲン室は関係者以外立ち入り禁止になっていた。
途方に暮れてこれから自分の身に起こることを知ろうと病院の本屋でページをめくるが頭に入らない。右手の小指が少し熱っぽく痺れていて気のせいだと自ら言い聞かせるが、小指はいよいよ熱くなる。右の小指は切断かと落胆しながら病院裏の坂道を下りているとき、痺れが手首辺りまで広がっていることに気付き唖然とする。ねっとりした冷汗が身体中から噴き出した。

目が覚めると、隣で息子が静かに寝息を立てていた。家人が留守なので、きっと夜明けごろもぐりこんで来たに違いない。

 4月某日 ミラノ自宅にて
繰返し中国の古琴の練習ヴィデオを眺める。「マソカガミ」で使う復元された七絃琴は古琴の原型なのだろう。音質も素朴で野趣に富む。音はすぐに衰弱してしまうから、古琴のように長いフレーズをグリッサンドのみで作るのはむつかしいが、近い奏法は試みられていたかもしれない。西洋楽器が12音を均等に、効率よく演奏すべく発展を遂げたのに比べ、中国の古琴は、開放絃で響かせる裏で、ろうそくの焔で揺れる影のように、同じ音を別絃でひびかせて、音楽を立体的に構成する。中華音楽に常に溌溂とした印象を覚えるのは、発音がいつも明瞭でそれを殊更に聴き手に伝える意思の強さを感じるからか。立体的という表現は、音の存在が、明確に区切られた空間に配置されていることの現われで、音と音との距離感なども、風情というより数量化されて表現される。

日本の須磨琴や八雲琴なども、奏法のみを観察すれば、思いがけなく古琴と共通点を見出すこともあるけれど、本質的に音楽が要求するものが違うので、結果的に全く違う音楽になる。音が置かれる空間の広さは不明瞭で、数量的な音の把握は不可能となり、一つの音ごとに世界が加味され、音と音との間に宇宙が広がる。中国の文化が日本に浸透し溶解してゆく過程を象徴は、この数量的な世界観の消滅かもしれない。

空間が明快に定義された中で発音するのは(発言と置換えてもよいかも知れない)他者に向けた意志の表出に他ならないが、空間容量の把握を必要とせずに発音すれば、自己の内的思索として昇華するのは当然ではないか。先に杜甫のテキストで書いたときも、言葉と音を際限ない空間に流し込む作業だった。神仏習合の遥か昔から、われわれは常に新しい文化を吸収しては、醗酵させて暮らしてきた。昨今の排他的な傾向は、本来の日本らしさに拮抗する気もして違和感を覚えるけれど、醗酵期間をすぎれば開放期が巡ってくると信じている。

 4月某日 ミラノ自宅にて
朝2時間ほど時間が空いたので、自転車を飛ばしてドゥオーモ脇の近代美術館へ出かける。中世ミラノ公国領主だった「ヴィスコンティからスフォルツァへ」という特別展。一地方都市だったミラノが隆盛の象徴としてドゥオーモの建設に取り掛かり、レオナルドを含め数多くの優れた芸術家、建築家を抱えるようになった時代までへの変遷を辿る。ロンバルディア派、特にベルゴニョーネが大好きなので、展示のクライマックスに彼の貴重な傑作が見られるだけで興奮する。久しぶりのベルゴニョーネで、青白い肌のマリアの妖艶な姿に舌を巻き、まるでこちらが魅入られてしまう錯覚。

 4月某日 市立音楽院にて
息子が歴史の宿題を手伝って欲しいと小学四年の教科書を持ってくる。彼らの今年最初の課題はメソポタミア文明。シュメール人から始まり、バビロニア人へと続く。その後にナイル文明のところでエジプト人からアッシリア人、そしてヘブライ人、つまりユダヤ人の生活を学んでから、ここ二週間ほどは地中海文明へを勉強しているようだ。クレタ人に始まり、フェニキア人に入ろうというところ。そしてミュケナイ人まであと一月ほど、今年の授業の間に学ぶらしい。
一年かけて西洋文明の基礎を覚えるわけで、各文化に関して意外に詳しく勉強していて驚く。
シュメールで既に社会階級制度を習いエンリル神やエンキ神なども知っている。バビロニアのハムラビ法典の内容も幾つか覚え、現代イタリア憲法と比較して、各々が意見を言う。マルデュクが世界を創生し、イシュタルが愛と豊穣を司るなどよく覚えている。
エジプトの神については、「死者の書」を通してラーやオジリデだけでなく、イジリデ、ホルス、アピ、アヌビの親族関係と逸話を学び、ミイラの作り方までおぼえて、子供たちに大人気だという。エジプト人の生徒たちはさぞ喜んだろうというと、特に自分の故郷という意識もないらしい。ユダヤ人は彼らにとって身近な存在だが、ここで初めて「単一神」であるとか「聖書」と、「エルサレム」といった現在の生活に密着した言葉が現れる。息子の専らのお気に入りはエジプトのヒエログリフとクレタの美しいクノッソス宮殿で、来年までにどうしてもクレタ島にいきたいと言い張っている。歴史の一番楽しいところを、最初に触れてしまうような感もあるが、内容が楽しいのでクラスメートも歴史がみな大好きだという。
効率が良いかは別として、勉強させられている感がないのは羨ましいし、そういう記憶というのは案外大きくなっても印象に残るかもしれない。
日本の小学校四年生が一年かけて、ツングース系民族を通して日本人の遺伝子的成立を学び、インダス文明からゴーダマ・シッタルタあたりまでやって仏教の基礎を、長江文明、遼河文明くらいから殷王朝あたりまで学んで稲作やら漢字の成立などを知ってから、縄文や弥生、卑弥呼やら天照大神など日本文化の黎明期に入ってみたらどうだろう。案外視点が広い面白い子供が育つかもしれないし、近隣諸国への視点も違ったものになるだろうし、少なくとも遣隋使、遣唐使くらいまではずっと劇的で動的に感じられるかも知れない。「愛国心」を育てるとしても、さまざまな方法があってよいし、転じてさまざまな「愛国心」があってよい。


4月某日 ミラノ自宅にて
「タワヤメ」で使った五絃琴について、改めて資料を読む。
曾侯乙墓は紀元前433年前後に作られ、特に編鐘の出土が有名だが、五絃琴は編鐘の調律に使われた「均鐘」だという。
紀元前186年に作られた馬王堆墓で、2000年経って発掘した際に、保存状態が驚異的でまるで生きているようだと有名になった利蒼の妻、辛追の柩に、龍が片手で指板の細い首辺りをもって、突出す格好で五絃琴を持つさまが描かれている。
実際はどんな風に演奏したのか想像もできない。現代で云えば音叉に当たる器具なのだろうが、大音量の編鐘をかそけく消入りそうな音律標準器で調整したのも不思議な気がする。

「タワヤメ」への答歌として「マソカガミ」を書く。5音を際限なく繰返す五絃琴に対し、七絃琴は左手を使って五絃から外れた音律を奏でる。互いの旋律は少しずつ近づいてゆき、ほんのひと時一つに折り重なって、遠くへ離れてゆく。行き別れた若い夫婦は、真澄鏡に映る姿だけでも夢の中でもと、互いに再会を願い続ける。

 4月某日 市立音楽院にて
普段からソルフェージュ替わりにシャランの和声課題の四段譜を学生に歌わせているけれど、今年の作曲科生はよく出来るのでシャランでは物足りない。
「ギャロンの生徒による64の和声課題集」から、先日は手始めにメシアンとデュティーユを取り上げて好評を博したので、今日は込み入ったマルセル・ビッチュを歌ってみる。
大学の作曲科生だが、デュティーユの名前は知らなかった。ビッチェはまだ生きているのかと尋ねられて答えられなかったので調べると、2011年に亡くなっていた。和声など学生時分殆ど真面目に勉強しなかったので、こうやって生徒に歌わせながら自分も学ぶ。高校以来恩師から借りっぱなしで今や形見となった、日に焼けたボロボロの教本を使って。

(4月30日ミラノにて)  

島だより(12)

わたくしは何事にものめりこむ割にはせっかちなところもある。あれっ、逆かもしれない。

ジグゾーパズルの謎解きをやっているような画家たちへの資料調査をひとまず棚あげして、「もし小豆島に小さなミュージアムができたなら」という仮説をたててみた。そこでどんなことができるだろうか、イヤどんな美術館だったら作る面白さがあるのだろうか、というところから妄想仮説資料(資料については事実確認をしながら)をたのまれもしないのにせっせと書き出し、それをわたくしからの報告として、役所のメンバーにとりあえず保存していただくことにした。一年掛けたら何か見えてくるかもしれない。その後2年掛ければ小さな美術館をつくることも可能ではないだろうか。

地方には大きなりっぱな美術館がたくさんある。小豆島は小さい。資力もない。でもどこにもない、ここでしかない美術館を作れる気がしている。残されていた絵のおかげだ。

島に相応しい美術館は海が見えて天井の高い50坪ほどの2階建で充分。一階の半分はオープンキッチンとブックカフェ。島の人が島の食材でつくるごはんと飲み物。持ち出して海辺で食べるのも可なり。境のないあとの半分は企画展や講演会や読書会や音楽会や映画会に使う。二階の半分が100年前から島にスケッチにこられた画家たちの常設展。あとの半分は島民たちの絵画教室スペース。
 
仮説企画展のひとつ 小豆島と小磯良平のかかわりを第一に取り上げてみたい。

小磯良平(1903-1988)は神戸生まれ。東の安井曾太郎、西の小磯良平といわれる近代洋画界の巨星のおひとり。生涯の作品/資料の多くは神戸小磯良平記念美術館(生前のアトリエがそのまま併設)に所蔵されている。あいにく小豆島にのこされている絵は一枚もなかったが、調べた図録で知るかぎり7、8点の小豆島スケッチは記念美術館に所蔵されているはず。そもそも小豆島西村に小磯が建てた小振りなアトリエ(1961-1976)は現存している。小磯58歳から73歳にあたる時期だ。同郷で中学時代2年先輩であった古家新が1961年に水木にアトリエを建てているところから、おそらくその誘いがあったのではないかと推察できる。

小磯のアトリエを見に行った。そこは海を見渡せる小高いオリーブ畑のなかに建つ、こぶりな木造2階屋だった。よくぞ残っていてくれました。嬉しい。小磯良平のアトリエを建てたひとり大工の方はすでに亡くなっておられたが、近くに90代の方が当時の様子を覚えておられるとか。ヒアリングに行ってきます。


ボーイ・ミーツ・ガールの物語

3月の「水牛のように」に、今年の2月に急逝したシーナ&ロケッツのシーナのことを想って文章を書いた。今回はシーナの相棒、鮎川誠のことを書きたいと思う。

4月7日、「下北沢ガーデン」というライブハウスにシーナ&ロケッツに縁のある人たちが集まった。鮎川誠が4月7日を勝手に「シーナの日」と名付けて<『シーナの日』#1〜シーナに捧げるロックンロールの夜〜>と銘打った追悼ライブを開催したのだ。ギター鮎川誠、ベース奈良敏博、ドラム川嶋一秀のシーナ&ロケッツがゲストを迎えて、シーナが好きだったパンク・ロック・ブルースを一緒に演奏し、楽しもうという一夜だ。

ゲストは、「ユーメイドリーム」「スイートインスピレーション」などシーナ&ロケッツに多くの詩を提供しているサンハウスの盟友・柴山俊之を筆頭に、仲井戸麗市、永井隆、石橋凌、花田裕之、浅井健一、チバユウスケ、金子マリ、Charなど、日本のロックをつくってきた面々だ。この企画を立ててから3週間余りだったということなので、何を置いても駆け付けたという出演者それぞれの思いが静かに積み重なって、このライブの空気を作っていたように思う。ステージ上で、みんな多くを語らなかった。ここに来て、鮎川と飛び切りのロックをぶちかます、それで充分だった。

ゲストひとりひとりを鮎川誠が紹介していく。みんな鮎川を励ますために集まって来たのに、逆に鮎川にもてなされている感じだ。シーナ&ロケッツとの出会い、共演のエピソードなどについて、彼はひとりひとり、心をこめて丁寧に紹介していく。宝物を見つけて、得意になって仲間に報告する子どものような鮎川の話し方、思いが先に溢れてしまって、言葉が追いつかないといったたどたどしさが魅力になっている語り口だ。

この日のライブは、いつものように、ロックを演奏する喜びに溢れたステージだった。「追悼」ということの特別な演出は無かった。今日仲間とロックを演奏している事、この時間が現実であり、いちばん輝かせたい全てだ。やせ我慢でもなく、自然体でそれを実現している鮎川誠の姿に心を打たれた。

鮎川自身は「ピンナップ・ベイビー・ブルース」を歌った。駅に貼られたポスターの女の子に恋をして、彼女を自分のものにしたいと思い詰める孤独な少年のブルース。糸井重里が作詞してヒットしたナンバーだ。「ピンナップ・ベイビー、ひとめ惚れ、おまえを剥がしてさらっていきたい。」という歌詞に、会場に貼られていたたくさんのシーナのポートレートを重ねて思った。

そんな鮎川の姿が心に残っていた何日後かに、ふとつけたNHKで静かに語る僧侶の微笑みに目がとまった。ベトナムの禅僧、ティク・ナット・ハンだった。彼はライターのボタンを押して着火し、蝋燭に火をともし、「炎を出現させるボタンを押したのは、きっかけをつくったのは私だけれど、炎はある条件が揃う事でこのように出現し、こうやってほかの蝋燭に移していく事もできる。」と語り、今度は蝋燭を吹き消して「炎は見えなくなったけれど、炎はどこにも行っていない。炎として見えていた(出現させていた)条件が変わっただけだ。でも炎はどこかに行ってしまったわけではない。生も死もこれとおなじことだ。」と語った。大切な人の死をどう乗り越えるか、その問いに対するティク・ナット・ハンの答えだった。

4月7日のラスト、アンコールも終わって最後にひとりだけステージに残って、鮎川誠は客席の方に丁寧にあいさつし、「またライブで会いましょう」と語りかけていた。鮎川誠にとって、シーナがどんなにかけがえのない相棒であったかということは、ファンならみんな想像することができる。シーナを失った後も、鮎川誠はこれまで通り仕事をして、生きていく。それを受け取ることがいちばん大切なことなのだ。

大切な人を亡くしたあとにどう生きるかなんて、その時になってみないとわからない事だ。今は、鮎川誠の振る舞いと、ティク・ナット・ハンの言葉をふたつ、覚えておきたいと思う。


死人と椅子

もう此処にはいない人に語りかけるとき
僕の声で 空気は少しだけ 震えている
椅子からそちらの葉と土まで
見えないけれど到着しているのはわかる ぼんやり広がる網目
ことばは光る灰色
おだやかな黒い夜を包んでいる気さえしています

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夜のバスに乗る。(7)渡辺先生を迎えにいく。

 犬井さんの計画通り、僕と小湊さんを乗せたバスは、一度車庫に入り、ほかのバスの入庫と入庫の隙を突いて再び公道へ出た。犬井さんはバスの照明を極力落とし、ヘッドライトだけの状態にして走る。
 ここまで走ってきた道を半分ほど引き返すと渡辺先生の家に着いた。意外なことに渡辺先生は住んでいるマンションのエントランスから外を見ながら、僕たちの到着を待っていた。
 渡辺先生はとてもちょっと困ったような顔をしていたが、それでも僕がバスから降りていくと笑顔で迎えてくれた。もちろん、その笑顔は僕たちのこれからの行動が自分の表情ひとつにかかっているのかも知れない、という緊張に覆われている。だけど、僕たちの行動はちゃんと計画されていて、渡辺先生の笑顔には左右されない。僕はそのことを先生に伝えて、余計な緊張をしないでほしいと願うのだけれど、うまく伝えられなくて、僕もへんに緊張した笑顔を浮かべてしまったのだと思う。渡辺先生と僕は互いにちょっと歪んだ笑顔のままで、なぜだか握手をした。
「小湊から、この時間にエントランスに出ていてくれと言われたんだが...」
「はい」
「これは斉藤が黒幕なのか」
 黒幕と言われて、僕は笑ってしまう。普段とても大人しい小湊さんがまさかバスで自分を迎えに来るなんて先生には想像も付かなかったのだろう。だけど、それを言うなら僕だって小湊さん以上に大人しいし、学校で目立ったことをしたことがない。そのことは先生だって充分にわかっているのだろうけれど、そこは男だということで、とりあえずは僕が首謀者なのか、と聞いたのだろう。
「いえ、僕ではありません」
「やっぱり、そうか」
 そうつぶやくと、先生は僕の背後に停車している路線バスを見る。僕が振り返ると、小湊さんがバスの窓をあけて、顔をのぞかせている。先生は首謀者で黒幕の小湊さんを落ち着かせようとしてなのか、満面の笑顔で小さく手を振る。
「先生、小湊さんはとても落ち着いているので、大丈夫です」
「そうか」
「はい。小湊さんはとても落ち着いていて、一応、小湊さんの希望のようなものがあって、それを穏便に叶えたいと願っているだけなんです」
 渡辺先生はしばらく考えてから、わかった、と言った。そして、僕の隣をすり抜けて、バスに向かって歩き出した。僕も先生の後につづいた。先生はバスに向かいながら僕に話しかけた。
「小湊は自分の希望が叶えられなかった時にはどうしようとか、そんなことを考えているのか」
「いえ、なんにも」
 先生は僕を振り返った。
「なんにも」
「はい、なんにも考えていません。もし、先生がこんなことしちゃだめだ、と言ったらそこでこの計画はお終いです」
 先生はまた歩き出し、前を見たままで、そうか、とつぶやいた。
 僕たちはバスにたどり着いた。前方のドアが開く。先生が先に乗り込む。運転席に座っている犬井さんが「こんばんは」と声をかける。先生は少し驚きながら「こんばんは」と返す。バスを運転する人間がいるのは当然なのだが、僕と小湊さん以外の自分の知らない人がいることに驚いたようだった。自分の生徒以外の人がいることで、小湊さんの計画がどんなものであるにしろ、とてもデリケートで危険なものになったという実感があったのだろう。先生は犬井さんに挨拶をしたあと、犬井さんの顔を見つめたまま、立ちすくんだ。


グロッソラリー ―ない ので ある―(8)

 1月1日:「あんなに温厚なやつでも自殺を図るなんて、ひっそり希死念慮でも抱いてたのかもな。幸い一命は取り留めて、今はAAとか通いながら生きてい
るわけだけど、血を吐いて三日三晩部屋で倒れていたそうだよ。その時のことがきっかけで断酒を決めたらしいけど、これがまた中毒中と同じくらい大変だと
言ってた。笑いながら――」。

ゲロォ...(T┰T )

 落胆や失望には副産物がある。必ずしも悲劇的なものとは限らない。肩を落とし地面に這いつくばるような目線でいると、社会の、人間界の真なるありさまを
目の当たりにするチャンスが与えられる。これを逃さない手はない。現実を構成している要素が、いかに皮相的でいんちき臭く、無意味な産物に満ちているかを
思い知ることができる。

( ̄ー+ ̄)ニカッ!

 1月1日:「よく知られた通り、アルコールを急に止めると手足が震える、いわゆる心身譫妄状態になる。離脱症状だ。呂律が回らなくなったり、物忘れがひ
どくなったりもする。逆に体に悪いような気がするんだけど、そうしなきゃならないみたいだな。それと並行してアルコール外来にも通って、抗酒剤を処方して
もらうそうだよ――」。

{{{{(+ω+)}}}} ブルブル

 今日、旧知の友人が亡くなった。まだ若かった。浅からぬ縁のあった人たちが、この数年で立て続けに去っていく。だんだんと生のテリトリーの外堀が埋めら
れていくような、しらみつぶしの順番がそろそろ自分に回ってくるような、そんな感覚を拭い切れない。人間が死ぬことで歴史は作られる。しかし歴史のほうは
人間に対して機械的だ。

。・゜・(/Д`)・゜・。うわぁぁぁぁん

 メランコリーメランコリー。自分大好き人間が陥ったつもりのメランコリーメランコリー。メランコリーをエネルギーとしてメランコリーで生きるメランコ
リーメランコリー。リストカットリストカット、死ねないことが十分にわかっている上でのリストカットリストカット。自分の存在を広く宣伝したいだけのリス
トカットリストカット。

Ψ( ̄∀ ̄)Ψケケケ

 SEO、SEM、SEC、SEX、なんだかわけのわからんものばかりじゃな。あ、最後の一つはよ〜くわかる。もう大好き。根っからのファン。こうわくわ
くするな。憧れと郷愁。わが心の故郷。心ばかりじゃないぞ。体の故郷でもあるな。しかし今でもお豆さんがなんのためについてるのかわからん。考え過ぎて頭
痛がする。な〜んて嘘じゃよ。

ダァ━━(*´Д`人´Д`*)━━スキィ!!

 今日という日が人類最後の日でなかった不思議に思いを致す。戦時中に希求する平和とは戦争のない日々だった。いざその平和を獲得すると、今度は虚無とい
う時限爆弾が仕掛けられ、有事の可能性やその気運が高まる。何の布告もなく核ミサイルが各所に落ちてきても我を通して生き残ってしまうくらい、人間はわが
ままなのかもしれない。

*―●))))))))\(∀^*)コウゲキ!!

 一切不可解というのは飽きっぽいということと関係があるようじゃ。瞬間接着剤でいつまでも密着しているのではなく、軽く塗った糊といった感じ。完全無欠
な理解など元より存在しない。限界効用逓減の法則により、それまでしがみついていたものから、滝のように流れ落ちる。メガネをちゃんとしてなけりゃダメ
じゃてそりゃ。

(;@3@)ヮヵンナィ

 1月1日:「抗酒剤って聞くと、アルコールへの欲求を押さえる薬だと思うかもしれないけど、そうではなくて抗酒剤を飲んだあとにアルコールを飲むと、吐
き気、頭痛、激しい動悸、めまいがして、言ってみれば苦しめることでアルコールをやめさせようっていう薬なんだよ。地獄のような苦しみらしいよ。名前は忘
れちゃったけど――」。

"(/へ\*)")) ウゥ、ヒック

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人......。

クゥーッ!!"(*>∀<)o(酒)"


(ご自由にお書き下さい)


(´・ω・`)ショボーン

 平和のために戦争をする。出すために飲み食いする。笑ってもらうために大怪我をする。善人と思われるためにやせ我慢する。破壊するために壮大に作る。異
性の気を惹くために気苦労する。負けたくないがために最初から負ける。本性を悟られないためにおどける。薄ら馬鹿を隠すために難解な語句を並べ立てる。死
ぬために生きる。

( ゚Д゚)_σ異議あり!!

 口に入れシコシコした瞬間、フィリピン支局から一報が入った。血糖値は食事をすると緩やかに上がり、三四時間で空腹時と同じ値になる。正直な話、運任せ
のギャンブルで楽しんでいる時代ではない。男はズドン。ストロングミサイルをいつものお茶の代わりに一杯。両方から一気に二本来ており、今後のパートナー
を求めて勝てれば良し、と。

. ∵:.(:.´艸`:.).:∵ぶっ

 カルチャーショックってのは、ありゃ一時的なもんじゃな。母国と外国が違うのなんて当たり前。おんなじだったら気持ち悪いっての。で、その外国に一定期
間滞在していると、当初感動したものに飽き飽きし、戸惑いなんざ慣れに取って代わられる。外国は旅行程度でいいんじゃ。ショックが旬のまま帰ってくれば使
い物になるってもんじゃ。

(´<_` )流石だな

 1月1日:「抗酒剤を服用していたとはいえ、当初はそれでも酒を飲み続けて尋常じゃないくらい苦しんだそうだよ。紙パックの小さい日本酒を半分飲んだだ
けでも、数時間後に胃の中にあったものを全部戻したらしい。しかも駅の階段でな。全部戻すということは抗酒剤も出たわけだから、そこから改めて根性で酒を
飲んでいたんだって――」。

こんじょう(。+・`ω・´)シャキィーン☆

 結婚や同棲を否定するのは、長いこと心で一方的に養ってきた幻想が壊されるからである。お互い離れていて、頻繁には会わず、思いを膨張させているうちが
一番いい。アガペ―、エロス、フィリアの正三角関係はそんな時に誕生する。だがやがて幻想を自覚するとともにいずれかの辺が短くなる。最後に残った点、こ
れこそが真の愛なのだろう。

(´・∀・`)ヘー

 厂下广卞廿士十亠卉半与本二上旦上二本与半卉亠十士廿卞广下

(⊃Д⊂)ゴシゴシ

 ところてんから滑り降りてきたブラフマン、タリスマン、ルサンチマンは、アンガージュマンとマージナルマンとの来るべき対決に備えて、フリーライダーに
変身してからニューマン、フリードマンと一緒に国語辞典でペーパードライバーを素揚げにした。これにはクリンスマンが激怒、全員をところてんへ滑り上げた
とさ。

(,,゚Д゚)∩先生質問です

 その世紀が独自色が帯び始めるのは、世紀が変わって最初の十年前後という説がある。
十九世紀は文明と文化、二十世紀は戦争と経済と言えるだろうが、こうした分別をしたがるのは、人間の哀しい性でもある。アンシャン・レジームの崩壊が随所に見られ、新しさへの気運が高まっている。これもまた人間の哀しい性であることに違いはない。

(´゚c_,゚` ) ワーカリマセーン

 1月1日:「そうやって飲んでいても、量自体は少なくなっていったり三日間は飲まずに過ごせたりと改善していったみたい。で、三日が一週間になり一週間
が一カ月になり、とうとう飲まなくても大丈夫になったんだって。飲酒への欲求もその頃にはなくなっていたようだ。ただ酒乱だったから、たまに飲むと大トラ
になったらしい――」。

゚+。:.゚大丈夫...゚.:。+゚ ・´д`・〃)ノ))

 今となっちゃあ何とかしたかったもんさ。もしもわしが政権を奪取したら......もしもわしがカレーだったら、良くて仰向け悪けりゃ精進。これに尽きる。口で
言ってわからなきゃあ、ヌルハチ的になるかアモカチ的になるか選べばいい。自由は自縄自縛にして自由自爆。自由が自由になったことなんかあるか? え? 
あ? ほい。

(´ー`)┌フッ

 働くとは耐え忍ぶことである。働かないこともまた耐え忍ぶことである。前者には「我慢給」が支払われ、後者はコミュニケーション的行為が付与されてい
る。我慢大会の参加賞たる「我慢給」は、生活という別の我慢大会で我慢され、生活なき生活を送る人々は、我慢を昇華するだけの方法を知り抜いている。そう
いう現実があるだけである。

工エエェ(´Д`)ェエエ工

 ♪ババンバ バンバンバン、浮気ばれた? ババンバ バンバンバン、かあちゃん逃げたか? ババンバ バンバンバン、そりゃそうだろ。ババンバ
バンバンバン、明日からどうすんだい? ババンバ バンバンバン、浮気相手と過ごすの? ババンバ バンバンバン、宿題やれよ。ババンバ
バンバンバン、また来世! ファーーーーーーーー。

♪((└|o^▽^o|┐))((┌|o^▽^o|┘))

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたな
あ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じい
さんにとって先人......。

クゥーッ!!"(*>∀<)o(酒)"

 Aという一般論を言えば「自分の中でAはない」と言い、それならばとBという一般論を持ち出せば、やはり同じ答えが返ってくる。自分にしか通用しない
ルールを作っているX。それでいて飄然としている。信念と見るか非常識と見るか。一般論と常識が外れたXは、案外な才能を持っているのかもしれない。そう
肯定するより救いはない。

|||||(* ̄ロ ̄)ガーン

 テクニカルな御曹司は、厄介なことに時にコンポジション爆薬となる。点綴された刹那、大股開きで線描画をものすものじゃ。計算間違いしたからといって、
澄んだ鳴き声は失われるわけはない。仮に失われたとしても、ホワイトハウスコックスの三つ折りから、何名かを登場させれば容易に解決を見る。失語症は現代
に妥当なメカニズム。

(´-`) ン?

 1月1日:「本人の話すところによると、知人と居酒屋で飲んでからコンビニでウイスキーの小瓶買って、飲みながら歩いていたらしいんだけど、そこから先
の記憶が全くないときた。知人と飲んだあと共通しているのは、必ず警察や救急隊のお世話になったとのことだった。パトカーや救急車には何度乗ったかしれな
いと言ってたな――」。

ヽ( ̄△ ̄( ̄(エ) ̄)ゝ

 若いんじゃない。幼稚なだけなんじゃよ。いい歳して親孝行の一つもできなかった。まともな収入がなかったからな。仕事も転々とした。もう数えきれんくら
いだ。会社人間にはなれんかった。やけ酒を飲んじゃ、それこそ若いやつらとひと騒動を起こし、警察のお世話になった。お迎えが近いと感じた時に限って、生
きる力が湧いてくる日々さ。

オジャマシマス /・_・ヾ\ ← のれん

 進歩主義者か否かに関係なく、人類は結果として進歩を目指し、そのうちのいくらかは実現してきた。危険の裏書きのない進歩はない。ある場合は成功し、あ
る場合は取り返しのつかないことになる。後者をいかにして少なくするかが課題なら、当たり前のものとして基本に立ち戻って検証する。人類の裏書きに退行の
跡がないとは言い難い。

(。>ω<。)ノ またねぇっ

私的青空文庫のお話(1)

以前、似たような話を書いた気もするのだけれど、少し工作員から見た青空文庫を書いておくのも面白いだろうと思いまとめてみました。

そのサイトを見つけたのは偶然だっただろうか?もしくは、その頃、多かったインターネットのお役立ち情報だったのか、今となっては判然としない。3ケタには遠く及ばない冊数の書籍が登録されたそのサイトは、大型計算機のコンピュータソフトウェアを専門にした当時の私にインターネットという技術のもたらす可能性を帯びた存在のように見えた。情報の流通コストが大きく下がるというインターネットのもたらす変革は、言葉では理解したように思えても誰も体験したことのない状況はやはりやってみないとわからない。というか、新しい未来の形に少し携わりたくて、工作員の端っこに加わることになったのは20世紀の終わりのことだった。

当時のネットは今ほど当たり前のものにはなっていなくて、よくリアルとぶつかっては問題になった。青空文庫の最初の問題は、新潮社のCD-ROMから収録した夏目漱石の著作の引き上げだったのではないだろうか? 本来、著作権切れで自由に扱えるはずで、担当編集者とも話のついているはずだった夏目漱石の著作が出版社からの申し入れで一気になくなった。ただし、なくなったはずの夏目漱石の著作は底本を変えて、すぐに青空文庫に再収録されてしまった。多くの工作員がなくなったテキストの入力と校正を最優先に処理した結果、あっという間に復元したのだ。だから、この事件が青空文庫の仕組みが柔軟に動いた始まりだったようにも思う。

しかし、それでも、インターネット上のアーカイブサイトに対する風当たりは緩むことはなく、ときには出版サイドから、ときには同じインターネットのサイトから多くの風が当たることが多かった。その際、大きな後ろ盾になったのは、青空文庫の呼びかけ人諸氏が出版界とのパイプを持っていたからに違いないだろうし、ボイジャー社やDNP、筑摩書房といったネットとの付き合い方を模索されていた方たちとの付き合いの結果だろうと思っている。

今でこそ、そこにあるのが当たり前になっている青空文庫ではあるが、当時の状況では、もしかすると今の状態でも、数年先にそこにあるとは限らないというのがインターネットの世界の常識だ。だからこそ、富田氏は、アーカイブを残すことに拘っていたように思う。それは自分の仕事を絶版という決定でなくされた編集者の心だったのかもしれない。

とにかく、1000冊。今でこそもっと多くのデータが集まってはいるけれど、当時は無視できないくらいの大きな数字を残すことが青空文庫の目的とばかりに工作員ががんばっていた。(ようなきがする)

その残す中から、さまざまなジャンルへ広げていったのだけれど、その話は来月にしましょう。


ヤジッド教徒の悲劇

4月8日、「イスラム国」に誘拐されて連れ去られていた人たちが200人ほど解放されたというニュース。自らもヤジッド教徒で、昨年8月の「イスラム国」の侵略から逃れて避難生活をしながら支援活動を一緒にやっているハナーンさんから電話があり、40人くらい解放された人がいるというので一週間後に合わせてもらうことに。

アルビルから車で4時間近く走る。ハンケという村には、難民キャンプがあり避難民がたくさん暮している。キャンプには入りきらず、町中がテントだらけ。解放された人たちは、建設中のコンクリートの家にいた。

僕と鎌田先生が入っていくと、薄暗い部屋がいくつか分かれていて、9家族すんでいるという。逃れたばかりの人がいると聞いたという話を切り出すと、リーダーらしき男の人が、この人も、この人もそうだと集めてくれ、気が付くと、子どもと老婆数人を中心にいつの間にか部屋は40人くらいが集まってくれていた。みんな、くたびれたような目だった。タルアファルという村に連れて行かれ、そこの小学校で1000人ほどが暮していた。イスラム教に改宗させられ、毎日コーランを読まされていたという。イスラム国がリストをつくり、男は兵士に、女性は、シリアに連れて行かれ、兵士と結婚させられようとしていたという。そこで、意を決して逃げてきたのが26人ほど。そして残りは、「イスラム国」が自らバスを出して、解放した人たちだったということが分かった。

25歳の女性、ナジュラ(仮名)は、シリアのラッカまで連れて行かれ、一か月ほど牢屋に入れられていたそうだが、その後、「イスラム国」の家族の面倒をみさされた。隙を見てトルコに逃げてきて、昨日、ここまでたどり着いたという。従妹の3歳くらいの女の子を娘だと言い張って行動を共にしたが、「イスラム国」の兵士と結婚させられたようだった。
「妊娠しているかもしれない」とうので、検査を受けたいという。
「ともかく、病院に行くお金は僕たちが支援します。」
そういって引き上げたものの、もし、妊娠していたらどうなるのだろうか?

この国では堕胎は違法だ。同じようにイスラムの国で、好まざる妊娠をした場合、別の病名で入院して、こっそり出産し、赤ちゃんを引き取る孤児院があった。また、他の国で聞いた話だと、こっそりとやってくれる病院もあるらしい。そういう外国で堕胎させるか? 堕胎が出来ないなら、生まれてきた赤ちゃんを僕たちが引き取るか? ただし、いずれ出生の秘密をその子が成人して知ってしまったら? 自分には、「イスラム国」というテロリストの血が流れている。その子の将来を思うと、これまた厳しい。そんな、話を内内で悩んでいたのだ。

近くの病院では、噂になると困るので、4時間かけてアルビルの病院まで来てもらい、検査を受けてもらった。結果は妊娠していなかった。ああ、よかった。でも、似たような境遇にある女性たちは、未だに、「イスラム国」の捕虜になっている。解放とともに特別なケアが必要だ。


青空の大人たち(10)

青空文庫を秘密結社と考えれば文庫の実質的なリーダーであった富田倫生氏は比喩的には秘密結社の首領ということになるのだろうが事はそれほど簡単ではない。そもそも青空文庫には代表がおらず活動を「やりましょう」と呼びかけた人がおりそして作業をとりまとめてアップロードなどの世話する役があるだけといういつぞや別稿にもまとめたがやはり当初は文学同人に近いものであったのだろう。

とはいえ富田さんは青空文庫の中の人でありながらしばしばその動きはそこからはみ出ており、私の個人的な記憶を振り返ってみると青空文庫にこんにちわをしたごくごく初期の頃に自宅にいきなり富田さんから『リーダーズ英和辞典』が送られてきたことがあった。それは翻訳公開に関して訳文の内容を点検してもらっていた際に「ここの原文は仮定法だと思うのですがどうでしょうか」とアドバイスをいただいた高校1年生の私が(まったく記憶にないのだが)「仮定法はまだ習っていない」と豪語したらしくつまりろくな文法知識も辞書も持たずに徒手空拳で翻訳に取り組む少年を見かねてのことだったのだろう。

それから何度も使っているうちに手垢にまみれついにはぼろぼろになって今ではカバーも完全に外れてしまったのだがおそらく富田さんの自宅か仕事場でも使われていたものと見えて複数人の手でその役目をまっとうしたのだから辞書としては幸せだったろう。私は辞書にペンを入れないためこの本にあるアンダーラインは富田さんの手元でつけられたものだと思うのだが開いてみるとこんな言葉に赤線が引かれている。

 brainchildn.〈口〉案出されたもの、独自の考え、創見、発明、頭脳の産物

直訳すれば脳の子どもであり、してみると青空文庫はまさに富田さんのブレーンチャイルドであって、であればこそこうして親のように青空文庫のあれこれを世話したということでもあるだろう。しかしその送付物のなかには辞書だけでなく富田さんの著書『本の未来』も含まれており添えられた手紙には短くこう書かれてある。

1999年5月11日
青空文庫に関連する拙著を、同封しました。
自分の本を送るなどと言うのは、ちょっと下司な気もします。(なら、すんなって)
他の呼びかけ人には、内緒にしといてね。

『本の未来』は青空文庫前史とも言うべき本でここに「みにくいあひるの子」の引用があったことから次に訳すのはアンデルセンにしようと思ったりしたわけだが、むしろ今から振り返れば文字通り未来を託されてしまったのではと思い込むこともできて勝手ながら面はゆい。結局「あひるの子」は自分の訳ではなく菊池寛訳で公開されることになったが(入力担当は私)、私と富田さんとの交流は実際のやりとりというよりも、作品を介する形になることが多い。

その最大の一例は芥川龍之介「後世」だろう。現在未来に自分が評価されるとは必ずしも限らないと知りながらも芥川が百年のあと「その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか」と願ったエッセイである。ある時期から富田さんはこの文章を青空文庫の理念を示すものとして自分の講演で必ず読み上げるようになったがそういえばこの短文を見つけてきて電子化したのは大学生になりたての私であった。しかも初めて目にしたのは浪人中に解いていた現代文の問題集のなかであって一読して滂沱、その繊細な筆致と想いにまったく設問など手に着かなくなる始末。その印象がよほど強かったのだろう、無事京都大学に進学したのちその附属図書館にあった片田文庫という全集本の寄贈コレクションから「後世」の箇所を見つけ出してその内容に思いを馳せながら一文字ずつ丁寧にテキストファイルに起こしたのだった。

結局のところ本を本につなぐ行為とその意義とが芥川本人のみならずそこに関わった人間も含めて複層的に示されるという点でもパブリックドメインの青空が生んだひとつの価値なのだろう。

そうした活動を主唱した富田さんにはやはり闘士然としたところがあって各所においてそのエピソードは尽きないのだけれども個人的に知る範囲での話を持ち出すと著作権保護期間延長問題で青空文庫が反対の署名運動をし始めてしばらくのちにThinkCも軌道に乗り出していた頃のこと。自分はまじめに毎回レポートをまとめながらなおかつパブリックドメインの映画に自前の字幕をつけてフリー公開するという時代を先取りしすぎた行いに突っ走っていたときのことなのだが、きっとその突出感やちょうど富田さんの大好きな『素晴らしき哉、人生!』を手がけたということもあったのだろう、まだ少年のごとき私を横にしてある席で「彼はベルヌ条約を打倒する人だから」と紹介がてらもはや既定事項であるかのように突然言い出してそののちあらためて裏で「よろしく」と念押しされた。

ベルヌ条約というのはご存じの通り今の著作権法の国際的枠組みの根本を形作っている条約のことであってこれをひっくりかえしてほしいから「打倒をよろしく」というのは後進にゆだねるにしても正直のところ無茶にもほどがある。真意としては青空文庫で文化の共有と継承というあり方の実現をそれこそものすごい規模でまざまざと目の当たりにしたからこそで今の枠組みで作る人も受ける人も引き継ぐ人もみんな本当に幸せになれるのか疑問を抱き始めたからだと思われるのだがただこんなことを右も左もわからない少年に託すあたり、どうにも悪の秘密結社の総統か何かが世界征服を持ちかけたとしか思えないところがある。

結果として何年がかりかで自分はレポートをまとめあげてベルヌ条約の「保護と利用」を脱構築して「共有と保障」というまた別の枠組みを考えることになったのだが富田さんはこのオンデマンドで作られたレポート冊子をいたく気に入ったようで、「アシモフさんをたずねたとき、特装版のFoundation'sEdgeにサインしたものをいただいた。紙の本は時に、思い出をまとう。最初の本となるThinkC×Cを、大久保ゆうさんが送ってくれた。書棚の隣にならべて、はじめてメールをもらった頃の事を思う」とツイートしてくださり私もまた同じレポートを富田さんの刊行後すぐに断裁されてしまったという旺文社文庫版『パソコン創世記』の隣に並べてある。

その小ぶりの本が刊行されたのは自分がまだ3歳のときであるからもちろん新刊で買ったものではなく青空文庫の底本を探して古書店を回っていたときに手に入れたもので久々に手にとって開けてみると扉の裏に富田さんの自筆で大きく「『つながれ、人の輪』2003年4月26日青空文庫オフ会にて」と記されてあった。


126アカバナー(11)翡翠輝石(回文詩です)

アジアの燃える ゴースト、鉈かざし、喉ぬらし、
危機の奇蹟の椅子引けよ また、
血が浦添によって、空の燃える ゴースト。
鉈に、だれがなのか、
光、慈悲、波紋、うろくず(=鱗、魚)か、
業苦か、塵の身。
翁長知事、自治がなお、
御法(=みのり)近く、うごかず。黒雲母は 聖(=ひじり)か、
悲歌の流れだに、タナトス 驕る。
獲物ら、蘇鉄よ 煮え、空穿ち、弾よけ、
翡翠の輝石の、聞き知らぬ、どの視座か、
タナトス驕る獲物、アジア


(『琉球共和社会憲法の潜勢力』〈川満・仲里編、未来社〉から慈悲ということばをもらい、高良勉『言振り』〈未来社〉を眼前に置いて、「こちら特報部」〈東京新聞2015/4/11〉を利用して、回文詩はこれでさいごにします。翡翠輝石はいわゆる翡翠。回文はもの凄いエネルギーを要し、半分はこちらがわが選ぶ語句ですが、半分は作品の向こうがわから来る語句なので、ことば遊び詩とはいえ、たぶん言っていることは正しいと思います。『びーぐる』27(澪標、2015・4)に、八重洋一郎さんが、「先ごろ所用で二週間ほど東京に滞在していたが、しばらくしてある事に気付いた。それは沖縄についての情報が極端に少ないということである。沖縄現地では毎日毎日、名護市辺野古への米軍新基地建設に反対する住民たちの動向が報じられ、......本土側にはこのような事態はほとんど知らされておらず、従って日本の全面積のわずか0.6%にすぎない沖縄に在日米軍基地の74%が集中している事実が引き起こす様々な出来事に全く無関心である」〈詩と沖縄の現在〉と書き出しています。朝日新聞ディジタルサイトをひらいてみると、なるほど新着ニュースが100ほど並んでいて、沖縄関係は一つも見つからなかった。メーカーの新製品の話や芸能ニュースやあれこれが満載で、朝日新聞はまったく腑抜けになったのか、隠忍自重しているのか、よく掴めないが、二つや三つはさりげなく沖縄住民大会の予告記事でも映画記事でも出して、大新聞の役割どころ、本土人に向けての回路を失わないでほしいな。八重さんのような思いに対して応えてほしいとふと思いました。むりかしら、ね。さすがに本土のいくつかの市議会が沖縄での過重な負担に対して見直すようにとの議決を試みているようで、少数とはいえ貴重です。ドローンに辺野古岬から採集してきた「泥〈どろ〉―ん」を積んで、もし運転できるならば飛ばしてみたいな。どろーん。)


簡潔な線 透明な響き

今年2月浜離宮でホールでピアノを弾き、4月には室内オーケストラのための『苦艾』を京都で初演した。その二つを聞いた浅田彰がREALKYOTOに書いたレポートを読んで、思ったことをすこし書く。

浜離宮のキャッチワードに使った「簡潔な線、透明な響き」はクリスチャン・ウォルフの音楽についてだれかが言ったことをすこし変えたことばだった。ウォルフの曲を中心にしてバッハの『フランス組曲』もハイドンのソナタも、ウォルフの好きな音楽らしく、ジェズアルドと自分の曲も、たまたまその方向だった。

『苦艾』で距離をとって配置した楽器のあいだで短いフレーズを投げ合う「ホケット」や、ほとんど一つの線をずらしたりなぞるだけの薄いオーケストラの響きも、ウォルフや昔の近藤譲のやりかただったが、やってみるとまったくちがうことになる。演奏も作曲も、あるものをきっかけにはじめても、他人の感覚ではできない。

演奏は、楽譜を毎回読み、読みなおすなかで、解釈や表現は考えず、構成や論理はどうでもよく、楽譜に書けないリズムや音色のかすかな変化がおもしろくて、うごきが音をはこんでいくのにまかせて、外側の音が身体のうごきに移ってくるのを待ちながら、あれこれ試してみる。ヴィゴツキーが観察したこどもが、そっと自分に言いきかせることばが内側に染みこみ、かたちが消えて意識もされない心の根になっていくありさま、ロベール・ブレッソンのモデルたちが眼を伏せて何をしているかも知らずにしているうごきに近い、と思うこともある。

作曲は、『苦艾』の場合、連句の朗読につけた音楽でもあり、連句の「付けと転じ」を使って書いた音でもある。エピクロス的な偶然のわずかな偏り、クリナメンが音の道を逸らして、構成するのとは逆方向に、短いフレーズの形をたえず崩していく。

演奏は練習が本来の場で、作曲でも目標や意味や根拠はなく、音をあれこれ試しあそぶだけ、コンサートはその上に慣習の衣を羽織っているだけとも言える。音楽は職業だから、生活のためにやるべきことはすこしはある。それ以上のよけいなことをしないで、ひっそり暮していられればいいだろう。