アジアのごはん(18)竹の子の漬物

森下ヒバリ

先日、家の近所の八百屋さんで赤紫色の皮の細い竹の子、淡竹が売られているのを見かけた。淡竹と書いて、はちくと読む。柔らかい孟宗の竹の子が終わる頃に、食べごろになる歯ごたえのある竹の子である。淡竹は日本のたけのこの中で、タイの竹の子の味にいちばん近い味だ。炒め物、タイカレー、佃煮に向く。

この竹の子を見るといつも、バンコクの定宿の近所にある、おいしいおかずかけごはん屋のことを思い出してしまう。で、くだんのバンコクのおかずかけごはん屋さんの料理のなかで、わたしが大好きなおかずのひとつが、パット・プリック・ノーマイドーン(竹の子漬の唐辛子炒め)という竹の子料理なのである。

見た目は、竹の子の薄切りを鶏肉とキノコと炒めただけである。おおまかにすり潰したトウガラシの赤い色がアクセントだ。ところが、この料理、じつに味わい深い。さわやかな酸味もあり、あっさりとナムプラーだけの味つけのはずなのに、なにこのおいしさは・・! この店に毎日このおかずがあるわけではないが、作り手のおばちゃんも好きらしく、よく登場するメニューではある。

何度目かにこの竹の子炒めを食べた後、わたしはこの料理の名前をおばちゃんに尋ねた。名前を聞いて、この味の深さが分かった。この薄切り竹の子は、ただ茹でただけのものではなく、軽く漬けて発酵させてある竹の子だったのだ。

市場に行くと、根元の部分をごく薄く輪切りにした竹の子を水の入った大きなボウルに入れて売っているが、それが竹の子の漬物ノーマイ・ドーンだ。この漬物の詳細については調査をし忘れたので(食べる方が忙しくって・・)、憶測だが、薄い塩水に漬けて発酵させる漬け方だと思う。だから発酵の程度は軽い。日本の古漬けなどを想像してもらっては困る。でも、酸味が出て、うまみがぐっと増している。

薄くて、しゃくしゃくと歯ごたえのある竹の子とキノコと鶏肉の味のからみは絶妙である。自然の酸味とナムプラーの調和。完璧な味だ〜と、いつもの二倍の量をごはんに乗せてもらって食べていたら、口のまわりがヒリヒリして腫れてきた。辛い。おなかが熱くなってきた。どうしてこんなに辛いのだろう。この店の料理の中でも一、二を争う辛さではないか。でもこの辛さが竹の子の酸味に合う。タイ人は酸味と辛味の使い方がほんとうに上手だなあ、と感じ入る。でも次からはやっぱり、一人前食べるだけにしておこう・・。

このおかずかけごはん屋さんの竹の子炒めはじつはもう一種類ある。同じ味つけのものなのだが、竹の子は根元の方のスライスではなく、上の方の部分で、拍子木切りか削ぎ切りのような形にしてある。そして、具はルークチンというつみれのような物。形は丸いが、味は魚かまぼこである。そして、キノコと赤いトウガラシ。

味は同じく辛く酸っぱくナムプラー味であるのだが、食感がかなり違うので、同じ料理とは思えない。竹の子はつるりとした舌触りで、ルークチンもふにゃふにゃ、つるり。うーん、これはまたこれで、なかなか。しゃくしゃくの方が好みではあるが。

この店のおかげで、わたしはすっかり竹の子好きになってしまった。しかし、タイのたけのこ料理の中にはちょっとなじめない料理もある。タイ東北部の料理でスップ・ノーマイという。竹の子の煮物なのだが、これもけっこう酸味があるが、やはり発酵した酸味だろうか。と思い、イサーン料理の本をめくってみたら、そうではなかった。

こちらは茹でた細い竹の子を木の棒などで叩いて、縦の繊維に沿って細かく割る。それを食べやすい大きさに切って、ひたひたの水で煮て、ナムプラー、プララー(塩辛液)、マナオ汁で味つけする。炒った米粉も入れる。生ハーブで和える。細ネギ、ミントの葉、そしてパクチー・ラオことディル。粉トウガラシ。まるで、たけのこのラープ。(ラープというのはイサーン料理の一つでスパイス叩き和え。おもに肉や魚を叩いて作る。ウマイ)
バンコクの友人オノザキさんはこのスップ・ノーマイが大好物である。だから、彼と一緒にイサーン料理を食べるときは必ずこれを頼む。ただし、彼の目の前からこの皿が動くことはほとんどない。食べられないわけではないが、何か食指をそそらないのだ。プララーの味は好きだが、たくさん入りすぎなのか。生ハーブのディルだって、かなりクセが強いがそんなに嫌いなわけでもない。

料理本のスップ・ノーマイのレシピにヤー・ナーンという不審なハーブの名前があった。聞いたことがない。辞書で調べると、たけのこのえぐみをやわらげるための薬草、とある。ただし、本当は心臓に悪い毒草で、タイでは薬として少量使うという。レシピには少量どころか20枚も葉っぱを入れろと書いてある・・いいのか? もしやこの毒草を舌が拒否しているのかしらん?

スップ・ノーマイはともかく、わたしは竹の子炒めがあれば幸せである。明日にでも八百屋さんで淡竹を買ってきて茹でようっと。根元の方をスライスしたら塩水に漬けてみようか。冷蔵庫の中で残った茹で竹の子が、酸っぱくなっているのを「ありゃ、腐っちゃった」と捨てていたのは、実はもったいないことだったのかもしれない。乳酸発酵しておいしくなっていただけではないのか。

もし、冷蔵庫に残り物の竹の子があって、それがどうやら酸っぱくなっているようだったら、ぜひ薄く切って炒めてみてください。今のところわたしの冷蔵庫には残り物の竹の子はないので自分で実験は出来ないですが、万が一乳酸発酵じゃなくて、腐敗であった場合でもわたしは何の責任も持ちマセン。

ラオスの南部の町パクセーの市場の隅では、一斗缶に水を入れて薪で焚き、そこに竹の子の皮を剥いては詰め込んで茹で、そのまま封をする作業を行っていた。市場の茹で竹の子はこんな風に作られていたのだ。タイの場合はもうガス火の場合がほとんどだろうが、ラオスでは今も薪や炭が大切な燃料である。薪や炭で煮たり焼いたりしたものは、なんでもうまい。薪で豪快に茹でる竹の子をつい、うっとりと見つめてしまった。小さな頃まで生家にあったおくどさんが懐かしい。いや、もう一度ほしい。

都市文化という意識

冨岡三智

ここソロ(正称スラカルタ)市では、観光都市化を目指していろんな取り組みが行われている。もちろんインドネシアは昔から観光に力を入れていた国で、ソロでもそれは同様だ。特にソロには2王宮が存在するから、観光の目玉といえば王宮であり、また王宮文化に端を発する舞踊や音楽といった芸術ものになる。だから、ソロの観光インフォメーションセンターでもらえるチラシなどには、カスナナン王家、マンクヌゴロ王家を筆頭として、ラジオ局、スリ・ウェダリにあるワヤン・オラン劇場、芸術大学や芸術高校などが観光スポットとして載っている。

しかしこういう芸術の専用機関とは別に、最近では特に、地域一帯で、あるいはまた公共の場で、町おこし的なイベントが仕掛けられるようになってきた。

たとえば昨年9月1日〜7日までソロではワヤンをテーマにした「ブンガワン・ソロ・フェスティバル2006」が開催されていたのだが、その時にカウマンというバティック産業の地域で、ある晩いろいろなイベントがあった。2階にはずらりとバティックを干してあるバティック工房の中で現代的な舞踊や影絵が行われ、その次には路地の辻に小さいステージを組んでの有名な歌手の公演があり…と、観客はその地域内を移動しながらいろんなイベントを見る。

そこでは芸術イベントの内容自体よりも、バティック工房の中を見せること、そしてその地域自体をアピールすることに力点が置かれていたように思う。この地域は私の住んでいる地域から大通りをはさんですぐ向かい側にあり、昔からよく自転車で通過していた。しかし別にバティックの小売店があったわけでもなく、表からは何をやっているのかよく分からない家が並んでいて、地味な印象しかなかった。けれど、そのフェスティバルの時に行ってみたら、新しくバティック製品の小売店も何軒かオープンしており、またバティックをする婦人像を軒先に据えている工房もできていた。これらはどれも、バティックの商取引をする人たちにとっては直接関係のないものである。これらは明らかに、バティック産業の地を見たいと思っている(潜在的)観光客のために設けられたものだ。

また先月のことで言えば、5月12日に花市場でジャズ・イン・パッサールという催しが、また5月17〜20日まではヌスッアン市場、トリウィンドー市場、大市場、花市場でそれぞれ芸術フェスティバルがあった。私はこれらのイベントは見ていないが、新聞の写真(花市場でのイベント)を見た限りでは、子供の踊りがあったりして日本の「○○祭り」という感じの雰囲気のようである。どちらもマタヤ・アーツ・アンド・ヘリテージというプロダクションが手がけている。

同じマタヤが手がけているイベントに、隔年実施の「ソロ・ダンス・フェスティバル」というのがある。(これはソロ=スラカルタのダンスの催しではなくて、ソロ=単独の舞踊の催し)今までは芸大の劇場で実施していたのだが、今年4月はオランダ時代に建てられたDHC’45という建物の敷地内で実施された。私は1日目の計3演目しか見ていないが、1人目は鉄の中門の外側で上演し、2人目はその門の中を入ってずーっと移動しながら、ちょうど先ほどの門の内側で上演し、3人目は、2階建ての建物の裏階段の下から上へ、そして2階のバルコニーで上演した。

劇場専用の建物に限られた芸術家だけが集まるというのではなく、芸術をもっと身近なものにしたい、一般の人が多く集まってくるところに芸術を進出させていきたい、とマタヤは考えているようだ。さらにソロの町には王宮以外にも文化財としての建物が多くあり、そのような場で芸術イベントを催していきたいということだった。つまり、都市固有の価値、歴史的記憶に裏づけされた芸術を打ち出していきたいということなのだ。以前は芸術プロダクションを名乗っていたマタヤが、最近アーツ・アンド・ヘリテージと改名したのもそのためだということだった。

(続く)

イラク的な生活

さとうまき

最近、日本の中にいて、イラク的な生活をどうやって造っていくかを考えている。

この間札幌に仕事に行ったときに農的な暮らしという言葉を聞いた。建築家の永田さんが、山の中で暮らしていて、レストランのようなゲストハウスのような「やぎや」をやっている。やぎを飼っていて、乳を絞り、チーズも自家製。裏庭には、畑がある。農的な暮らしをして、戦争しなくてもいい社会を作りたいという。自給自足に近い生活だ。

でも、北海道の気候はアジアの農村とは違う。ニューヨークのようだ。2005年にNPT(核非拡散条約)の延長会議で、国連本部のあるマンハッタンに行ったのだが、そこで知り合った平和運動家のおばさんたちが、ヒッピーをやっていた人たち。「ヒッピーの村があって、ヒッピーの子どもたちの通っている学校がある」というので、マンハッタンからバスに乗って、NY州の州都、オーバリーというところに行った。そして、彼らは、もともとマンハッタンに住んでいたのだが、当時を懐かしみ、ウッドストックあたりに住んでいた。

マンハッタンで暮らす人たちは、なんだか、いつもおびえているようだ。バリバリと音を立てて働き続け、高層ビルにしがみついてないと落ち着かない。いつも、アメリカに忠誠を誓っていないといけない。市民権がいつ剥奪されるかにおびえているような気がした。でも、ここのウッドストックに住んでいる連中は、白人のアメリカ人そのもの。アンティークな屋敷をリノベーションして、楽しく暮らしている。平和について言いたいことが言える。北海道もなんだか、同じようなゆとりを感じたのである。気候も近いのだろう。

驚いたことに、札幌には、JIM-NET農園というのがあって、イラクの医療支援をやろうと、有志で畑を借りて、農作物を作っている。収穫した野菜を、バザーで売って換金して、イラクのがんの子どもたちの薬代を捻出してくれている。小さな畑らしく、そんなに収穫できるわけではないけど、皆が楽しみながら農的暮らしの中にイラク支援を取り入れているのが素敵である。

さて、東京に帰ってきて、満員電車にのるとたちまち頭痛がしてきた。イラクからのニュースは、爆弾テロばかり。相変わらずイラクでは平均して毎日100人が巻き込まれて死んでいる。皆うんざりしている。「暮らしの中にイラクを取り入れるって、自爆テロでもやるの?」といわれてしまいそうだが、そうではない。つまり、暮らしを見直して戦争しないようにするのだ。

日本がイラク戦争を支持した理由は、一言で言えば、日本の国益にかなうからだ。アメリカが言ってたような大量破壊兵器もなかったし、911を支援したという証拠もなかった。それでも、いまだに日本が、自分たちがやってきたことが正しいと言い張るのは、国益である。国益といえば、日本人皆が豊かになって幸せになりそうな響きがある。これって、結構魔法の言葉みたいだが、現実はどうなんだろう。戦争をやれば、お金が動くから、一部の人は儲けているだろうけど、石油の値段だって、上がり続けているから庶民の生活は決して楽にはなっていない。国民の税金は、アメリカの国債を買って、結局戦費に使われて軍需産業が儲かるのだろう。戦争なんかしなくたって、お金なんかなくたって、のんびりと豊かに暮らしていける方法があるはずだ。ただし、貧乏くさいのはよくない。

久しぶりに、日本国際ボランティアセンターの事務所に行くと若者たちが石鹸を作っている。タイで自給自足的な生活をしてきた若者が、廃油を利用して石鹸を作っているのだ。そういうライフスタイルを東京でもやってみようと遊んでいる。そこで、イラク石鹸を作ってくれと頼んだ。簡単にできるらしい。イラクっぽい香りとして、アラビアコーヒーの粉末を混ぜてもらった。熟成に一ヶ月くらいかかるそうだ。これを、イラクの子どもたちが描いてくれた絵でパッケージにして、友達に配るのが楽しみである。今度、ヨルダンに行ったら、イラクっぽい香りを探してこよう。ジャスミンの花とかいいかもしれないし、バスラの乾しライムなんかも使えるかもしれない。やがては、石鹸教室を開いて稼いでやろう、なんて。

一週間に一回ぐらいは、バスラに電話をする。イブラヒムは、最近、停電がひどいとぼやく。一日に3時間くらいしか電気が来ないそうだ。もう住民は怒りまくって、タイヤに火をつけて抗議しているという。タイヤに火をつけるものだから、またまたバスラは糞暑くなる。暑い、暑い。気温は最高気温で45度、最低でも30度になっている。そんな中でもうれしいニュースといえば、がんが再発して右目を最近手術したササブリーンの話題。サブリーンの描く絵にはいつも12歳って書いてある。もう2年くらい経っているから本当は14歳くらいだと思うんだけど。「サブリーンが猫を飼い始めた」3匹飼っていてとってもかわいいらしい。イブラヒムは写真をたくさんといってきたといって誇らしげだが、停電が多くて画像を旨くパソコンで送れないと嘆いていた。

サブリーンの絵を大きく引き伸ばして部屋に張ってみる。イラク的な暮らしもだんだん様になってきたようだ。

朝の5時、こんな時間に電話。相手はイブラヒムである。いやな予感がするけど、イブラヒムは電話口で、「がんが再発した子をシリアで放射線療法を受けさすんだ。明日出発するんだ。皆でカンパを集めているので、日本からもいくらか出して欲しい」
「いくらいるんだ。」
「いくらでもいい」
「だから、いくらなんだ」
「いくらでもいいんだよ」
イラク人ってこういうときはっきりと金額を言わない悪い癖がある。
私は寝ぼけながら、「じゃあ、100ドルね」
「サンキュー、サンキュー」とイブラヒム。
でも、バスラからシリアまでは、車で移動しても500ドルくらいはかかりそう。
「じゃあ、とりあえず、200ドルね」
「サンキュー、サンキュー、サンキュー」
イブラヒムのサンキューの回数が増えた。訃報じゃなくてよかった。無事に治療が受けられますように。

また、うとうとして、目を覚ますと、北海道からもらってきたミントの苗が伸びている。ひょろっと伸びている。このまま伸びるとジャックと豆の木のように天まで伸びていきそう。いいぞ、いいぞ。早く、イラク風のミント・ティを飲みたいものである。

イブラヒム来日決定
8月10日から9月10日までバスラの小児がん病棟で活躍するイブラヒム先生を日本に招聘することになりました。
皆様のカンパや講演会の企画などを募集しています。
詳細は http://www.jim-net.net/notice/07/notice070530.html

八本の針(翠の虱32)

藤井貞和

刺繍による、布地のうえの曼珠沙華、ヒナゲシ。

縫いとる絨毯を引き辟(さ)くこと。 ぼくのシーツ。

あめ牛、馬が糞をする、そのうえに小便をするぼくの、

美しい絨毯。 現実の像だ、図形によって色相を奏でる、

浮紋だけが真偽を超えるから。 菅(すげ)よ、

ここにあなたを引き辟(さ)くための八本の針がある。

……一本は龍樹の鉢のなかに落とされた針である。

童話のなかにあった、寝転がって見ていたら。

「ぽとりと落とされた針の極微(ごくみ)を」と、そこにはあった。

中間子の白雪姫がひろった。 湯川(=秀樹)が

宇宙の箱を差し出して、輪に描く。 切り辟(さ)き魔よ、

天の運針によって、大きな大きな輪をえがいて! 

「えがく」という語をどうか、文字通りに受け取ってほしい。 

これにかぎらず、どうか。(4月1日)

(「電話口で、詩を読むように話してくれた。/神様、神様、/誰が、私たちの望みをかなえてくれるの?/たくさんの贈り物で、この日を幸せにして。/私が、学級で勉強するのを助けてくれるとうれしいなあ。/科学の力で私の頭を賢くして、心をきれいにして。/私とこの国をすべての悪いことから救ってください。」〈[水牛のように]5月1日「太陽の布団」佐藤真紀〉より。私こと、〈戦争のない国〉研究に今月から取り組んでいる近況です。)

しもた屋之噺(66)

杉山洋一

とんでもない暑さが続いて、流石に扇風機を使い始めたかと思うと、途端に気温が下がって今度は毛布を出したりしています。と思えば、突然もの凄い嵐が吹き荒れて、3時間もすると何事もなかったかのように天気が戻ってきたりします。剥げていた庭の芝が、ようやく生え揃いつつあって、ペットボトルを振り回して新しく蒔いた種を食べにくる鳩や小鳥を毎日追い散らしつつ、元気よく伸びるホウレン草やルーコラを摘んでは新しい料理を考えるのが、家人のちょっとした楽しみになっています。ルーコラなど、生で食べることくらいしか考えていなかったものが、ボウボウ生えて、どんどん食べないことには雑草化する状態になると、いろいろ試す余裕も出てきます。炒めても苦味がちょうどよい塩梅に上がることが分かって、チリメンジャコと大蒜と一緒に炒めて中華だしで味を調えた炒飯など乙なものです。

ここ暫く、ひどく寒い毎日が続いているので控えていますが、暑気にやられていた頃は、毎日芝の水撒きを息子が楽しみにしていて、ホースの水とさんざんじゃれては、通りかかる犬やら近所のおばさんたちに声をかけていました。

イタリアに来たばかりの頃に比べはっきり自覚できるのは、人間の可能性への確信です。本当にたくさんの人に出会って生きてきて、本当に厭だと思える人に会ったことがないのと、周りのひとたちが、見違えるように輝いてゆくのも見て、人というのは、本当にいいものだと思えるようになったのでしょう。このように感じられるというのは、自分がそれだけ恵まれた環境に育ち、恵まれた友人に囲まれて生きている証だろうし、有り難いことだといつも思っているのです。

イタリア人のヴィオラ奏者でPという男がいるのですが、彼は確か今27歳くらいだと思います。18歳まで遊びでヴァイオリンをさわっていた程度で、高校を出たら両親は彼を保険会社に勤めさせる積りで、彼自身ほとんど就職を決めていたところが、青春時代のもやもやから何となく就職もやめ、やることがないので嫌々ヴァイオリンでディプロマを取ったのが21歳くらい。それからヴィオラに転向し、ナイトクラブでタンゴなど弾いていて、自分でも何をしたいのか分からないから、とりあえず作曲の勉強でもしておこうと思い、ヴィオラを勉強する傍ら、2年ほど個人レッスンを受けていたらしい。

ミラノの若いアンサンブルで、ヴィオラをどうしても探さなければいけなくなって、ロンバルディアの田舎に住んで、作曲も勉強している友達がいる。まだヴィオラになって間もないので、楽器に関しては自分のものとなっていないかも知れないが、すごく真面目だし、本当にやろうと思うと、すごくしっかりやる男で信用できる。試してほしい、と言われ、ヴィオラが弾けない男をわざわざ選ぶアンサンブルも変わっているが、自分のアンサンブルでもないし、まあいいか程度の気持ちで会ってみました。現代音楽には興味があるが、自分にはとても出来るはずがないですから、と、とても尻込みしていたのを覚えています。

実際弾かせてみると、決して器用なわけではなかったのですが、人間的にも信用できそうだし、音が太くて良かったので、暫く一緒に仕事をしてみることになり、こうして今まで付き合いが続くことになりました。

それからというもの、人一倍真面目に楽譜を勉強し、こちらが幾ら細かく注文をつけても文句も言わず、瞬く間に上手になっていきました。上手になったからといって偉ぶるわけでもなく、人間的に誰からも信望されて、周りのアンサンブルからも声がかかるようになったころ、ようやくヴィオラのディプロマの試験を受けるとか受けないとか言っていた記憶があります。

そうやって、いつしかあちこちのオーケストラからエキストラに呼ばれるようになり、そうすると、オーケストラのオーディションの招待も少しずつ受け取るになり、今はオーケストラ・ケルビーニの首席として、ムーティなどと定期的に仕事をするようになりました。アンサンブルを振りに来たドイツ人指揮者に引き抜かれて、ドイツ・ケルン放送の新曲録音を頼まれたりするようにもなり、以前のどことなく不安な面影もなく、とても充実しているのがわかります。
「自分の周りにはずっと音楽の才能のある友達が何人もいる。18歳のころ、友人のピアニストのAなど、雲の上のような存在だった。何でも知っていて、何でも出来て本当に尊敬していたのに、彼はこの歳になってもコンヴァトの伴奏研究員で使いまわされている程度だろう。世の中は何て理不尽なのかと歯がゆくなる。何が違うのだろうかと何時も不思議に思うんだ」。

ヨーロッパの人たちは、日本的な器用さを誰でも持っているわけではないので、たとえば指揮のレッスンをしていても、どうにも上手くならないことも多いのです。そのなかで、恐らく最も指揮が不可能と思われていたジャズマンが一人いたのですが、昨日の指揮のレッスンでは、ジークフリート牧歌を上手に暗譜で振っていました。一体何年勉強を続けたことか。とにかく、まだ駄目だといわれても、勉強を続けたい一心でとにかくこつこつと続けてきて、いつしか、彼の顔つきも変わってきました。奇跡とまでは言いませんが、昔の彼を知っている人が見れば、恐らく奇跡と呼んではばからないかもしれません。

人間にはこういうとんでもない可能性があって、その可能性を引き出せるのは本人だけなのだな、奇跡というのは、そんな、とんでもない無限の小さな力が起こすものなのだな、そんなことを、2歳になった息子を眺めながら感じています。

(5月31日 ミラノにて)

製本、かい摘まみましては(29)

四釜裕子

「オペラ座のジオラマを一緒に作らない?」と八巻さん。ジオラマ? 何で作るの? オペラ座なんて外から見ただけで入ったことがないんだけど……。数日後、江戸前寿司を食べたあと八分咲きの桜の木の下で八巻さんが見せてくれたのはA4サイズの冊子。「これを切って貼って組み立てるのよ。どう? おもしろそうでしょ」。L’Instant Durableというフランスの会社が作るオペラ座(ガルニエ)の紙製建築模型組み立てキットといったところか。

縮尺は250分の1、正面から見て左右に分けた形で作り上げ、外側だけではなく一部は内部も組み立てられるようになっている。完成すれば38cm×63cm×高さ26cm。作り方と建物についてそれぞれごく簡単な説明が付され、のりしろには合番がふられているから作業はそれほど複雑ではないだろう。ある雑誌のオペラ座特集に、これを仕上げて載せようとのこと。冊子は片岡義男さんのものだからそのまま使うわけにはいかず、カラーコピーして持ち帰る。折しもBSで映画『オペラ座の怪人』を久しぶりに観る。

段取りを考えて、早速いくつか切り抜いてみる。パーツに分けると、ペーパークラフトとしての細やかな設計が際立つ。コピー用紙で、大丈夫だろうか。ボンドでうまく、貼れるだろうか。試しに、正面玄関の二階、レンガをアーチ状に組んだ天井部分を組み立ててみる。三枚を貼り合わせて立体がたちあがった瞬間に、ひしゃげてしまう。両面テープで張るにはのりしろが小さい。「八巻さん、これ、無理かも」「じゃあ裏貼りしようか」。ケント紙を貼って、やり直す。

裏貼りのおかげで紙に張りが出て伸びも防げたが、その厚みによって今度は折りがうまくいかない。へらを使って折り山をつぶすが、繊細な設計とは厚み分の誤差が出てしまう。のりしろが水色に塗られているので、はみ出ると目立つ。二等辺三角形を重ね貼りするようにして作るドームも、てっぺんに厚みが重なってうまくおさまらない。「どうしましょう」「気にしない気にしない」「そっか」「そうそう」。いい「加減」のチームだ。

それから週におよそ一度、顔を合わせて組み立てた。途中合番が見つからなければ誤植だと言いのけ、貼る相手が見つからないのりしろは切り捨て、紙幅が足りなくなればひっぱって伸ばして貼りもした。毎回やりはじめは二人とも気が遠くなっているが、慣れてくると「今日で完成かもね」、そうしてつごう4回の作業であった。最後に撮影の段になって、貼り忘れていた天井画の縁がやっぱり気になりもじもじしていると、カメラマンのあべさんが「両面テープでひっかけるようにしたら?」と抜群のアドバイス。ピンセットでそっと差し込み、シャガールの絵の縁にひっかけて、その粘着力があるうちにカメラにおさめていただいた。

全体を眺めてみると、正面入口から見て一番奥、そこは事務棟なのだろうか、屋根の部分は小さなパーツを複雑に組み合わせて貼らねばならず、えらく面倒だったのになんだか地味だ。できるだけ窓を多くとろうとしたのかただ増築を重ねただけなのか、中庭というにはあまりに狭い空間を囲む構造も、外側からはわからない。それに、一番大きな三角屋根に付けた小さな出窓はやっぱり謎だ。窓を開けても外が見えない。「オペラ座の蜂蜜」の蜂蜜の部屋か。あるいは鳩部屋? いったい、どんな部屋なんだろう。とにかく、遠目に見れば見事なオペラ座が完成だ。どんなふうに誌面に出るやら、不安だけどもう満足、なのであった。

撮影したその日、八巻さんがまたまた「こんなのがあるわよ」と取り出したのは桂離宮である。集文社刊、縮尺は100分の1、建物の説明は宮元健次さん、模型制作は小保方貴之さんだ。印刷は鮮明で、「敷地」として庭を描いた台紙も付いている。なにより気になるのは、クリーム色を帯びた「紙」。伸びにくく折り山がつきやすく、厚みはないけど張りがあって、きっとこのために開発された特殊な紙に違いない。これは試してみなくては。ただ、興を削がれる要素がふたつ。作り方の説明が丁寧過ぎること、表紙に「最後までがんばって模型づくりの楽しみをさらに深めてください。」とあること。集文社さんはよけいなことを言いなさる。

アフロ・アジア的

高橋悠治

数える デジタル 量る アナログ 
デジタルは点描 アナログはスケッチ
固まった輪郭を溶かして 
書けない 言えない 微妙な変化を感じてください
ほの暗い空間に明滅する 眼差し
地下から現れ どこともなく消えてゆく 川
始まりもなく 終わりもない 流れ
巡りはじめると ささやきに引き込まれ
つぶやく声が起き上がり
心は揺さぶられ だんだんに鎮まる
だれのものでもない意識がめざめる
指先のかすかな揺らぎも はっきりわかるほど
眼交いに 揺れうごく気配
何ものかが 周りをうろついている
500年も世界にこだました軍隊の行進
その後から 賛美歌の合唱
そんな無残な響きを洗い流してくれる
囲い込まれた島々にまき散らした種から
黒い大西洋を渡って運ばれた リズム
密やかな両手が撚り合わせる アフロ・アジアの書
モザイクからアラベスクへ アラベスクから文字の模様へ
見渡せば 遠い霞が縁取る 乱れた線
暈 影の光 あいまいに光る葉陰
ゆっくり移ってゆく色に 偲ばせる 長雨の兆し
染みわたる虹の 徴

* いくつかのことばを石田秀実と井筒豊子から借りて