『声とギター/港大尋』2

三橋圭介

『声とギター/港大尋』がようやく完成した。先日、5月2日のCD発売記念ライヴ(7時30分から神楽坂にあるシアターイワト)でアフタートークに出演の管啓次郎さんと新宿で打ち合わせをした(管さんはCDのライナーノートに「タンガダ・マヌの歌声、港のボッサ」というおもしろい作文を書いている)。ただ打ち合わせといっても管さんを交え、港、八巻美恵とわたしの4人でお茶をしただけ。顔合わせのようなもので、港らしく「なんとなく適当にやりましょう」という重要事項を確認した。

港は管さんと約20年ぶりの再会らしくほとんど初対面に近い。「昨日、管さんが夢に出てきたんですよ。管さんは真っ黒だったんだよね。」と港。日焼けして真っ黒だったのか、それとも黒人だったのかは定かでない。管さんといえばたくさんの翻訳やエッセイなどを出版していて、何冊か読んでいる。CDの録音のとき、港のカプチーノ・スタジオに管さんのエッセイ集『ホノルル、ブラジル〜熱帯作文集』(インスクリプト)が何気なく置いてあり、その美しい装丁に目が留まった。借りていこうか迷ったが、もちろん買った。

「言語は島、その長い海岸線はつねに他の言語からおしよせてくる波に洗われ、刻一刻と地形を変えている。まるで渡り鳥が飛んでくるように外国語の単語が滞在したり、流れついた椰子の実が芽吹くようにその場で育ちいつのまにか大きな林になったりもするだろう。いいかえれば、ある言語の中にはいつくもの言語が響いている。」

翻訳者である管さんは言語という島を渡り歩く鳥人(タンガタ・マヌ)。ことばの何気ない響きにアクチュアルな通路を見出し、移動、跳躍することで、自由に旅めぐらすことのできる交通の人。そういえばCDのエッセイのなかで管さんは「旅行とは世界による私の批判」と書いている。批判に耐えるだけの体力と知恵を身につけた人なのだと思う。これはその風貌からも伺える。

残念ながらお茶の時間は短く、あまり話をきくことができなかった。これはアフタートークにとっておこう。だが、港大尋と管啓次郎の出会いは『ホノルル、ブラジル〜熱帯作文集』の表紙を飾る美しい写真ですでに預言されていた。表紙を上から見ていてもだめ。開いてみよう。港を背にWhat?と書かれた船の形をしたベンチにもたげて黒っぽい男がこちらを見つめている。管さんは港について「何?」を語るだろう。管タンガダ・マヌが語る港タンガダ・マヌ。「管さんは真っ黒だったんだよね。」の真相は、当日のライヴに来てご確認ください。では会場(海上?)で会いましょう。

アジアのごはん(23) ダージリンと紅茶

森下ヒバリ

インドの北部の町、ダージリンがお気に入りである。ダージリンは紅茶で有名な地域だが、その名前の知名度の割には、じっさいに訪れた人は少ないのではないかと思う。もちろんインド人にとっては憧れの避暑地である。イギリス植民地時代のイギリス人の避暑地であったことからコロニアルな洗練された建物が軒を連ねる美しい町を想像すると、ちょっと違う。もちろん、植民地時代からのシックな建物も多いが、町はやはりインドであり、車も多くてゴミゴミしているところも多い。けれども市場に行くと、インド文化と少数民族の文化が混在していてとても楽しい。

今回のインドの旅は、まずコルカタからダージリンメールという名の寝台急行でダージリンのふもとの町NJPに行き、そこからまずは東のブータン国境へ。そこから西のカリンポン、そしてシッキム州と回り、シッキムのペヤマンツェから南下してダージリンへとたどり着いた。

このあたりの山の標高は2000メートル程度だが、日本の山々のようになだらかな山ではなく、かなりの勾配の山が連なっている状態である。さしずめ、緑のたけのこが一面に生えているような感じかしらん。つまり、移動する場合、たけのこをひとつ、ぐるぐる回りながら降りていって、地面にたどり着くとまたふたたび次のたけのこを上って……という具合になるので、一つの谷を越えていくのが大変なのである。しかも、たけのこの表面にはみっしりと木が生え、けっこう段々畑も刻まれている。

ダージリンもそのたけのこのひとつの上にある町である。ペヤマンツェのあたりは野菜や穀物の段々畑だが、ダージリンたけのこに入ると、いきなりお茶畑ばかりになった。ものすごい急勾配の道をジープはがんがん登っていくが、窓の外にはとんでもない急斜面の茶畑が続く。茶摘みをしていてもふと気を許したら畑から転げ落ちそうなほどである。ジープも気を許すと転げ落ちそうであるが、なんとか尾根近くのダージリンの町に着くことが出来た。あの急勾配の畑を霧が這い登って、おいしい紅茶が生まれるのだな、と身をもって納得。

ダージリン・シッキム地域にはチベット人が多いことから、チベット料理の軽食堂が多くありどこでもチベット餃子のモモを食べることが出来る。このモモこそが、カレー続きのインド旅行の救世主。モモを食べれば元気が出た。ダージリンの町で食べたモモが一番おいしかった。

おいしいといえば、ダージリン紅茶。ダージリンで買った紅茶を飲んでから、すっかり紅茶党である。もちろん紅茶は好きだったが、今の好きと、以前の好きには格段の差がある。食事のあとのお茶も紅茶、三時のお茶も紅茶。ふーっと疲れたときに紅茶。ダージリン紅茶をポットに入れて熱湯をそそぎ、ティーコゼーをかぶせて待つ。カップに注ぐとほのかに甘い、高貴なかおり。うっとり。口の中に広がるさわやかな渋みと深い味。グレードの高い紅茶の場合は、おいしいばかりでなく三口目ぐらいでぽーっとして軽く酔ったようになる。お茶酔い、とでもいう状態でちょっと恍惚感さえある。

南インドでおなじく紅茶の産地であるニルギリ高原に行ったときには、町で手に入る紅茶はたいしたものではなかった。品質のいい紅茶はすぐに大都市に送られていたためである。産地だから、新鮮でいいものが手に入るとも限らないのだ。しかし、ダージリンには優良な茶園がたくさんあるうえ、ダージリン産の紅茶はブレンドされるよりも茶園の特色を持ったままの茶葉が尊重される。買い付けに国内外から人がやってくるし、おみやげに求める外国人旅行者も多いので、町でいい紅茶が簡単に買えるのである。

紅茶といえば、日本ではリプトン、フォーション、トワイニングだとかの紅茶パッカーと呼ばれる会社のものがほとんどである。会社のブレンドによる差はあるが、トワイニングのダージリンというブランドの場合はトワイニングのブレンダーが、その年のダージリン産紅茶の味を調べ、味や香りのバランスを考えていろいろな茶園の紅茶をブレンドし、さらに輸出国の水質なども考慮して味を均一にして缶に詰めて出荷する。

しかし、ダージリン産紅茶は、香りが高く味もいいが水色はうすめ、という共通点はあるものの、その年の茶葉の出来、各茶園によってそれぞれの味と強い個性を持っている。もちろん、同じ茶園でも特級からふつうまでさまざまなレベルのお茶がある。ダージリンにやってくると、均一化された、ブレンドされたものでない、それぞれの茶園の特色のあるお茶を手に入れることができるのだ。

町でいちばんのナトムルスという店でいろいろなダージリン紅茶を試飲させてもらいながら何種類かを買ってみた。店で飲んで、うん、まあまあだな、と思った紅茶を買うのだが、日本に帰って自分で入れて飲んで見ると、おもわずため息が出るほどおいしい。

タイのチャイナタウンでウーロン茶を買うときもそう思うのだが、日本の水はほんとうにすばらしい。産地の水がいちばん合っている、というのが通説だが、そうは思わない。日本の水で淹れると、ほんとうにお茶はおいしく入る。だから、産地でほどほどの味でも、これは日本で飲むとすばらしいな、というのが少しずつ分かってくる。

すべてオーガニックのマカイバリ農園の紅茶のティーバックがあったので買ってインドで飲んで見ると、すぐに苦味だけが出て、味のバランスがとても悪く飲めたものではなかった。これは失敗、なんでこんな味のバランスの悪いものを売っているのかとふしぎに思ったが、日本に戻って淹れてみると、とてもおいしいではないか。しまった、好きな味じゃないと思ってほとんどタイで人に上げちゃった〜。

ちなみに、お茶にはミネラルの多い硬水である山や鉱泉などのミネラルウォーターは合わないので、水道水を浄水器に通してろ過したものをその場で沸かして使ってください。保温ポットのお湯では紅茶はおいしく入りません。

ダージリンの地元の人が飲んでいるのはダージリンのストレートティーのほか、煮出しミルク紅茶のチャイか、チベット系の人ならばバター茶である。しかし、バター茶も本来ならプーアル茶を使って塩味でまとめるものなのに、紅茶を使ったり、プーアル茶の場合でもミルクに砂糖を入れたり、というふうに変化していることが多かった。紅茶がかんたんに手に入ること、紅茶には砂糖が合うことなどが影響しているのだろうか。チベットの伝統的なお茶文化が揺らいでいる場所でもあった。またもう一度行って確かめてみたいことがたくさんある町である。

じつはこの五月の連休明けにひさしぶりの著書が出る。タイトルは『タイのお茶、アジアのお茶』(ビレッジプレス刊)。ここ数年、お茶好きが高じて、お茶にかかわる地域の旅ばかりしてきた。ダージリンのお茶の話も淹れたかったけれど、そうしていると、いつまでたっても本が出ないので、去年のお茶の旅までのお話である。旅先にそこでしかないお茶や、体験したことのないタイプのお茶(漬物茶とか燻製茶とか)などがあると楽しい。おいしいとなお嬉しい。旅先のお茶の時間は格別。お茶にまつわる人々の暮らしも興味が尽きない……。

朝焼けにうす桃色に染まっていくヒマラヤ、カンチェンジェンガを静かに眺めながら飲んだ朝の紅茶。ダージリンでいちばんうつくしい一瞬を、いま、紅茶の香りでゆっくりと思い出しています。こんなふうに、アジアの各地で一緒にお茶を飲んでいるような気になってもらえたらいいな、と思いながら書いたお茶と旅の本です。

1ミリグラム――みどりの沙漠43

藤井貞和

1ミリグラムの「いのち」、

あと1ミリグラムがほしい、

一滴を沙漠に。

沙漠のちいさな、

にんげんのかくれがに、

一滴が足りなくて。

どんどんちいさくなってゆくひとたち、

いまや、

砂粒となって。

この点滴が、

いのちのあした、

いのちの砂でありますように。

(辺見庸『たんば色の覚書』〈毎日新聞社〉より。じんるいが太古からずっとつづけているのは戦争と差別と死刑とです。クラスター爆弾で自分の赤ちゃんの頭を割られたお父さんが、こぼれ出てくる脳みそを泣きながら頭へ戻している〈辺見さんの見た映像から〉。12月25日〈2006年〉、クリスマスの日に4人を死刑した日本政府に対し、さすがにカトリック国から抗議が来たそうです。1ミリグラムがいつかは1グラムに、10グラムにと、最初のミリグラムは軽くても、増やしたいことです。)

製本、かい摘みましては(38)

四釜裕子

「ゲット」という言葉は、はじめて姪から聞いたときから大人も口にするようになってさらにもう死語になったと感じる今も、恥ずかしくて口にできない。「ハマル」も、同じ。でもそうとしか言いようのない状態は何度かあった。最初は中学生のころ。テレビゲームのテニスだ。対戦相手はほとんど父(なにしろ父が買ってきた)、受験を控えた姉に悪いなあと思いつつでもおとうさんとやってんだもんねーとノビノビ。信じられない!って言ってたね、おねえちゃん。もっともです。もうひとつは十数年前、Macを買ったときについてきた雀牌を2つづつとっていくゲーム。初めての自宅パソコンがうれしくて帰宅後毎日即起動、でもやることがそれほどなかったんだろう、まずゲーム、とりあえずゲーム。ある日思い切ってソフトを捨てた。翌日、なんのことはなかった。

そして最近。気づくとユーチューブで、紙で折るだけの小さい本の映像を探している。「origami+book」でヒットするものとその周辺。見ながら折ってもたいていうまくいかない。撮り方が下手だなーとか言って、それでまた別のを探す。こんなことをするようになったきっかけは昨年白金の「TS_g」で都筑晶絵さんの「折り」の技をみたことにある。製本のワークショプで見せてもらった本のなかで最も惹かれたのが、蛇腹状に折った長い紙を背に組み込んだものだった。作り方は習わなかったので家でやってみたらできた。構造がわかってなにかツボを得た気になり、そういえばとかつて集めたおりがみで折る小さな本の折り図を探したのだった。思い出したものもあるができないものもある。それでユーチューブを探したら、アルワアルワというわけだ。たくさんあるが、実は折り方にそれほど種類がないこともわかった。「ORIGAMI BOOK/折紙豆本」と呼ぶらしい。

折紙というと正方形の「おりがみ」が頭に浮かぶが、実際使うのはおりがみに限らない。あの大きさではとうてい折れないものや、縦横1:2の紙を折る場合もある。つまり、のりやはさみを使わずに紙を折るだけで本のかたちを作っていくということだ。紙の表裏の色柄の違いが、仕上がったときに表紙と見返し、それから本文にあたる部分に使い分けられるのが見事で、だから包装紙など片面印刷された薄い紙もむいている。豆本は昨今ブームのようで、各地で製本ワークショップを行う田中栞さんのブログは格段に参考になる。田中さんオリジナルの丸背の折紙豆本とは、さすが。紙を折って本作りを楽しむひとは日本にもたくさんいるのに、ユーチューブで探す限りは日本のひとに行き当たらないのも面白い。

豆本というものが好きではないのに、いったい私は何に〈はまって〉いるのだろう。おそらく、いろんな人が勝手に音楽を流してなにごとかしゃべりながら自分の部屋でちまちま折っては見せびらかしている大雑把な感じ――きれいに仕上げてほめ合うとか贅と技を尽くしてサクヒンにするとかいう以前の笑い飛ばせるおおらかさ――それが楽しいことと、一つのキーワードでユーチューブを走査することに〈はまって〉いるのだろう。折りあがるまで撮って5〜10分程度にまとめられるというのもユーチューブ向きということか。モニターの横におりがみ置いて、あとしばらく遊べそう。

物語の伝播

冨岡三智

昨年9月に帰国してから半年間、実はテレビの朝ドラ「ちりとてちん」につい引きこまれてしまった。見れなかった分のストーリーも知りたいなと思ってネットを検索していたら、番組の公式ホームページやヤフー、ニフティにあらすじが掲載されているだけでなく、毎日ブログにあらすじをアップしている人が多くいる、ということに初めて気がついた。そのスタイルはさまざまで、ほぼ逐一セリフを書き留めているものもあれば、簡潔にあらすじをまとめてから、自分の感想を重点的に書いているものもある。各シーンについて均等に感想を書いている人もいれば、特定の人物に入れ込んでそのシーンを中心にまとめている人もいる。人物関係論みたいなものに当てはめて、なにやら講釈を展開しているものもある。さらに、自分なりにいろいろ外伝を展開している人もいる。

本当のところ、テレビ・ドラマのあらすじやコメントがブログのコンテンツになるんだろうかと、最初のうちは少し否定的に思っていた。けれど、いろんなブログを読んでいるうちに、ふと、こうやって人は昔から物語を共有してきたのではなかろうかという思いがしてくる。しかも、ドラマが始まって途中からブログに書き始めている人が多いことからも、よけいにそう感じる。つまり、これらのブロガーたちはあらすじを書こうと決めたから書いているのではなくて、ドラマの進行につれてどうにも書かざる気持ちを抑えられなくなって書き始めたようなのだ。

芝居であれ、語り物であれ、それらが語ってみせるドラマ・物語は、こんなふうに観客によって受け止められ、その人が身近な人にその物語を伝え、それをさらに別の人が聞いて自分の芝居に取り入れ、その観客がまた別の人に話し伝え……と連鎖し、広がってゆくものだろう。そもそも最初の話を生み出した人だって、全くのゼロから物語を立ち上げたというよりは、神話や地域の伝承、自分が経験したこと、時事ニュースや他の人から聞いたお話などからヒントを得たり、それらを組み合わせたりして、新たな物語を生み出してきたことだろう。そうやって物語は口から口へと伝えられ、多くの人の共感を巻き込みながら、その物語を共有する人間関係を、共同体を、さらには大きな文化圏を産み出してきたのだろう。

ラーマーヤナやマハーバーラタという物語も、そういう風にして伝承されてきたのだ。インドにおいてこれらの物語はいくつものエピソードを取り込みながら形成されてきたのだが、東南アジア一体に広がってゆくにつれて、さらに本家インドにはなかったエピソードも派生させてゆく。近く本朝を眺むれば、平家物語もそんな風にして成立してきたと言われる。だから、たぶん人間には、他の人に物語を語らずにはいられない習性というものが備わっているに違いない。自分が見たこと、聞いたこと、経験したことを第三者に語ってみせることで、本当にその物語を自分の心におさめ、経験の血肉とすることができるのだろう。

テレビが産み出した朝ドラの物語が、それを見た人によってブログを通じて語り伝えられ、さらにそれがインターネット上の口コミでどんどん伝播していって、それが番組以外のイベント(ファン感謝祭だとかテレビでのスピン・オフ制作決定)を派生させ、それぞれのブロガーたちもダラン(影絵操者)よろしく、自分オリジナルの派生演目まで生んでいる。私は、このブロガーたちの外伝を読むのが実は好きである。悪く言えばテレビ視聴者の妄想にすぎないのだけれど、いかにも登場人物が言いそうな口調やセリフを取り入れて、番組では描かれなかったシーンを描写しているのを読むと、結局、物語はこんなふうにして派生してゆくのではないのかなと思うのだ。マハーバーラタやラーマーヤナが東南アジアに伝わってきたときも、まさにこんなふうな熱気が渦巻いて、派生演目を産み出しながら急速に各地に伝播していったに違いないと私は想像する。

しもた屋之噺(77)

杉山洋一

このところ、夜半に雨が少し降り午前中には気持ちよく晴れわたることがあって、夜明け前の今も、鳥のさえずりのなか、しとしとと庭の芝をぬらしています。

今月は半ばにサンマリノで仕事をしてきました。ヴァチカンと同じくイタリアの中にある小さな共和国です。駅まで迎えに来てくれるオーケストラのディレクター、マルコに時間を知らせるため、インターネットでチケットを購入しました。ミラノ発、サンマリノ着何時何分。乗り換えはヴェニスの手前のパドヴァ。初めてでかけたので、なるほどパドヴァ辺りから南に走る線に乗り換えてゆくわけかと勝手に納得していましたが、これが大間違い。旅程をメールでしらせると、マルコから折り返しあわてて電話がかかってきて、「サンマリノには駅なんてありませんよ。戦前にはリミニまで鉄道が走っていましたが、何十年も前に廃止されたままです。リミニまで迎えにいきますからね、よろしく」。
無知というのは恐ろしいものですが、イタリアのサンマリノが南の果てだったらまだしも、北イタリアの隣り合わせの州ヴェネトとエミリア・ロマーニャにあったりすると、譜読みでぼんやりした頭にはわけがわかりません。

海水浴で知られるのリミニの駅舎は、心地よい塩梅で古くさく、意外なくらいこじんまりとしていました。マルコの車は素敵なサンマリノのナンバープレートが付いていました。味気ないEUの統一規格のデザインとはずいぶん違う、サンマリノの水色と白の国旗が描きこまれた風格あるナンバープレートで、13年もイタリアに住みながら、今まで一度もお目にかかったことがないことに、少し驚きました。

マルコの車から外の田園風景を眺めつつ、小学校のころ、世界地図を見ながら、リヒテンシュタイン、ヴァチカンやルクセンブルグと一緒に世界のサンマリノの名前を覚えて、国の中に国があるなんて面白いものだ、すごいな、と子供心に心を躍らせた感覚がふと甦ってきました。尤も、こうして話しているのも早口で少し耳慣れない訛りながら普通のイタリア語だし、田園風景もイタリアと変わらないし、国境と言ってもスイスに入るのとは比較にならないほどスムーズで、子供心のときめきは、知ってしまえば少しがっかりしてしまう気もして、そっと取っておきたい気もします。

カーレースのゴールのような国境を越えて、なだら坂をひたすら昇ってゆくと、街の風景が少し違うのに気が付きます。古く朽ちかけた建物はどこにも見当たらず、近代的で少し素っ気ない作りの家が並んでいます。銀行や店並みも、街を走るバスもイタリアとは違うので、外国に来た実感が少しずつ湧いてきます。そうこうするうち坂の勾配も途端にきつくなり、思わず耳がつんと詰まって、熱心に国の生い立ちを話してくれているマルコの声が遠くなりました。しばらく切り立った山を這うように走り、衛兵が警備しているサンマリノの旧市街入口を越し、劇場横に車を横付けしてくれました。

旧市街は一面、白い石で組まれた昔の要塞そのままで、ごみ一つない町には土産物屋と観光客ばかりが目に付いて、理路整然としていました。雑然としたイタリアの喧騒を忘れるほど静かで、高台から眺めると、あたり一面に新緑の丘が波状にうねる向こうに、リミニの海が夕日にきらきらと輝くさまは美しい絵画のようでした。劇場もこじんまりとしていましたが、磨き上げられ掃除もゆきとどいていました。イタリアというよりスイスのイタリア語地域を彷彿とさせます。

オーケストラのリハーサルは午後5時から11時半という珍しい時間配分で、7時半から1時間の食事休憩がありました。食事休憩のあいだも、歌手やソリストたちと練習を続けていたので、マルコが気を利かせて、この辺で一番旨いものファスト・フード!とハムとチーズの出来立てのピアディーナを買ってきてくれました。熱々でシンプルなこのピアディーナの美味しかったこと。思わず、旨いねえというと、周りのサンマリノ人たちが一斉に頷いて満足そうに顔をほころばせました。

旧市街下に広がる城下街ボルゴ・マッジョーレ界隈に着くのは結局0時前で、宿のレストランは終わっていましたが、何でもいいのだけれど、何某か食べられないかな、と言うと、荷物でも部屋に片付けておいで、何か用意してあげるから、ととても気さくで親切に接してくれました。部屋から降りてくると、ほうら美味しいよ!と言って、オーナーのアレッサンドロが大皿いっぱいにチーズやサラミ、パンや食後のケーキまで出してきてくれました。流石にすべては平らげられないだろうと思っていると、アレッサンドロと話し込みながら気がつくと皿は空になっていて、こちらが驚きました。

「サンマリノは工業が盛んで、イタリアなどから工場が進出しているけれど、サンマリノ人にブルーカラーは皆無なので、イタリア人や東欧からの出稼ぎの働き手が毎朝リミニから大量にサンマリノにやってきて、夜にはリミニに戻ってゆくのさ」。
思いがけない言葉にびっくりしました。「ブルーカラーはイタリア人か外国人しかいない」という言葉の上に、サンマリノ人の高い誇りが燦然とかがやいていたからです。聞けば、サンマリノに住む外国人はきわめて少ないとのこと。「そうしなければ、こんなちっぽけな小国はすぐに潰されてしまう。最近はキューバ人妻とか、東欧の女性を奥さんにもらうのがサンマリノ人の間では流行っていてね、確かにキューバ人の奥さんは多いな」。
聞けば、サンマリノに住む滞在許可を得るのは途轍もなく難しいそうで、たとえ男性の外国人がサンマリノの女性と結婚しても、永住権は貰えないそうです。逆に、外国人の女性がサンマリノ人の男性と結婚すれば永住権が手に入るのだそうです。小国として生き抜いてきたしたたかさを垣間見た気がします。

翌日、朝食に降りてくると、見てごらんよ、とアレッサンドロがサンマリノの新聞を見せてくれました。よく指差されたところを見ると、カラー写真を存分に使って昨日のリハーサル風景が2面一杯使って載っているではありませんか。どうも写真を撮っている人がいると思っていましたが、翌日の朝刊に載せるためとは想像もしませんでした。それだけでも驚いたのに、輪を掛けて驚いたのは、翌日の朝刊にも、同じように2面ぶち抜き写真つきでリハーサルの様子が事細かに載っていたことです。何も記事にすることがないからなのかどうか不思議ですが、6月にまたサンマリノに戻る折にでも訊ねてみるつもりです。余りに恥ずかしいので1部すら貰ってきませんでしたが、今となっては珍しい記念になったかなと少し残念に思ったりもします。

夜も鍵を掛けずいられるくらい平和で豊かな暮らしぶりで、道で行き逢う人は、いつも何某か知り合いや友人だったりします。サンマリノ人社会自体がそれだけ小さく狭いということかも知れませんし、それだけ狭いと否が応にも犯罪率も極端に低くなるに違いありません。サンマリノはイタリアよりずっと豊かで、イタリアのように混乱していない。有言実行、誰もが集合体として互いに社会を築く誇りを高く掲げている、そういう印象を持ちました。「最近はブルーカラーの外人が増えてねえ、僕らはそういう仕事はしないから仕方がないのだけれど、色々困ることもあって」、とか「あそこにずっと停めてあるイタリア・ナンバーの車は誰のかね」、などという会話を聞いていると、実際に住んでみたら難しいこともあるのだろうと薄く感じたのも否めません。

リハーサルは夕方からですから、朝から夕方まで、宿のレストランの机を一つぶんどり次の本番の譜読みに専念できました。何度も本番の準備は出来たかいと訊ねられましたから、宿のひとたちには、本番前に譜読みばかりして、よほど勉強して来なかったと思われたのでしょう。仕事をするには落ち着いた気持ちの良い環境で、結局サンマリノの観光は全くできずじまいでした。

イタリア人ソリストと昼食をとりながら話していて、「ここはスイスにそっくりさ。仕事するには最高だけれど住みたいとは思わないな。とにかくサンマリノ人にはお金がたまるようになっているんだよ。何より小国で税金がイタリアとは比較にならない程低いからね。特にサンマリノ人を保護する、という点においては、本当によく機能しているから」というふと口をついて出てきた彼の言葉は、イタリア人のサンマリノ観を言い尽くしているのではなでしょうか。普通のイタリア人なら、もう少し灰汁があってアソビのある暮らしぶりでなければ息が詰まってしまうに違いありません。逆もしかり。サンマリノ人も、遊びにときどきイタリアへ降りてゆくのはいいけれど、長く住んで仕事したいとは思わないのではないでしょう。ただ、仕事ぶりはとてもしっかりしているので、イタリアで出世をするサンマリノ人は多いそうです。逆に、サンマリノで出世するイタリア人は皆無だと聞きました。

ディレクターのマルコも、支払いは何月何日、どういう形で送るが、サンマリノでの税のシステムは云々、お前のイタリアの税理士には然々伝えればよいと、具体的に説明してくれましたし、演奏会のあと、サンマリノピアノ国際コンクールを企画しているプレジデントは、とピザを食べてながら、毎回審査員の公平な審査にどれだけ苦労させられるか、裏話をいろいろ話してくれました。「どうしたって、自分の情がかかった演奏者に票を多くいれたくなるのは分かるけれど、毎回、各審査ごとに審査員は参加者とは無関係だという誓約書を書くんだけどね。それでもシラを切っている審査員が必ずいるんだ。でも、そういう贔屓は、ずっと観察していれば絶対にわかる。臭いなと思って、インターネットで検索すれば、隠し通せるものではないんだよ。そうして追求すると、大概、そう言えば数年前にマスターコースに来ていたかも知れない、みたいに始まるわけさ。もちろん、その時点で、審査からは外れてもらうことになるがね。かなりデリケートな問題だけれども、いい加減なコンクールだと思われたくないし、他の参加者にとっても失礼だと思うからね。どんな厄介が付き纏おうとも、そのあたりはしっかりやることにしているんだ」。

彼の熱のこもった話ぶりを聞いていて、世界で最初に生まれた、全体でミラノ市よりも小さいという共和国が、こうして今まで生き抜いて来られた信念の強さを見た気がしました。そこから学べる大切なことも、たくさんあるのではないでしょうか。

気がつけば、外はすっかり晴れ上がり、目の前の校庭では子供たちが元気よくサッカーに興じています。雨上がりは気持ちも良いし、小鳥のさえずりを愉しみながら、フラッティーニ広場脇のお菓子屋のババー(リキュール漬の揚ケーキ)目指して、坊主連れで散歩にでも出ようかと思います。

(4月29日ミラノにて)

だんだんと暑く

仲宗根浩

旧暦三月三日(四月八日)、浜下り。海に入り身を清め、潮干狩りをしたりする日。
すっかり忘れていた。姉が海藻やモズクを採ってきたのでお裾分けをいただく。翌週、娘を海に連れていく。行ったのは北谷のビーチ。昔、飛行場だった場所が返還され開発され映画館、ホテルなどのリゾート施設ができどれくらい経ったろう。ビーチはよそから砂が運ばれて造られた人工ビーチ。修学旅行の生徒だろうか、砂浜でバレーボール、そのあとはバーベキュー。片方ではアメリカン・スクールの生徒が大勢遊んでいる。こちらは遠足みたいなものか。海に足を入れるとまだ冷たいがすぐ慣れる。たいして時間もかからないので、水着を着て車に海へ行き、水着を着たまま車に乗り込み帰る。

暑さに我慢できず扇風機のスイッチを入れる。
うちでは扇風機をしまう、ということはない。どうせすぐ使うから出しっ放しにしているだけだ。暑さのせいか、前々からやろうとおもっていた通常のエレクトリック・ギターを改造し六弦のスティール・ギターにすることを決行する。正式には膝の上に置いて弾くのでラップ・スティール・ギターだ。フレットが摩耗して、普通に押弦をすると音がびりつくギターを専用のパーツを使いスティール・ギター並に弦高をあげるだけ。改造はいたって簡単で「エクステンション・ナット」という金属製のパーツをギターのナット部分に取り付け、弦高を約1センチほどあげスライド・バーを滑らせるときにフレットに触れないようにする。パーツは以前、ネットでメーカー、価格ともに調査済み。安価なものなので通販で購入すると、送料のほうが高くなりかねない。パーツの写真を印刷し近所の楽器屋で取り寄せ可能か確認する。すると楽器屋のお兄ちゃん、写真を見るなり「スティール・ギターのものですね。」と言い、店の奥へ行き品物を持って来てくれた。すげぇ。たまに、誰が買うんだ、こんなマニアックなもの、と心配になるものを置いていたりする店だ。二、三年売れずに置きっぱなしになっていて半値になっているギターもある。そうするとなんとか、家庭があるおじさんでも、購入できる。まだロックの街の気概は残っているのか。改造したギター自体は三十年近く前の日本製コピーモデル。高校を卒業する前に友人から購入した。以来、電気系統のパーツは一切交換していないため歪みとは違う、適度によごれた音がする。このよごれた部分が気にいっている。理想はジャクソン・ブラウンの名曲「ファーザー・オン」のバックで鳴るデイヴィッド・リンドレーの音、マヒナスターズのそれではない。実際音を出す。理想と現実のギャップに元ロック小僧の気概は失せる。これもアラン・ローマックスの本を読み、確認がてら手元にある戦前のブルース・ミュージシャンの映像を見直し、アメリカのルーツ・ミュージックの音源を久々に聴き漁ったためか。

ある日、作業着でデッキブラシを持ち、水を流しつつ、雨水で汚れたコンクリート製の墓を掃除。翌日、清明で自分の家、両隣にある親戚の墓にお供え物をし拝む。そしてだんだんと暑さをまし五月を迎え、梅雨が来る。

バスラが危ない

さとうまき

3月25日、マリキ首相がいきなりバスラに攻め込んだ。対抗するサドル派を一気に壊滅しようともくろんだ「騎馬の襲撃」と称されたこの作戦。アメリカのブッシュ大統領は「イラク政府が国民の多数を代表しているわけだから、犯罪分子や、無法者とは戦わなくてはならない。今、バスラでおきていることは、そのようなことだ。自由なイラクの決定的瞬間である。」とマリキ政権のバスラ制圧作戦を賞賛し、アメリカ軍も、バスラに空爆を行った。

しかし、サドル派の抵抗は強く、マリキ首相ひきいる軍隊は投降するものも多く出た。結局、イランの仲介で双方が停戦に合意したような形で紛争は終結した。とメディアでは書かれているが、現場の人々に電話してみると、空爆やら家宅捜査でおいそれと外にも出られない。

頼りにしていたローカルスタッフのイブラヒムもヨルダンに会議にでてきておりかえれなくなってしまった。最初は、勢いづいてバスラの家族や友人に電話し情報を集めてくれていたが、途中からどうも様子がおかしい。ぜーぜーと咳き込み、活動が鈍ってきた。
「今、バスラに戻ったら殺される」
飛行機が飛ぶようになっても
「今、帰ったら殺される」
学校が始まって、娘が小学校にいけるようになっても
「今、帰ったら殺される」
と駄々をこねる。完全にぐうたらになってしまったのだ。それでも、無理やりに飛行機のせてバスラに帰ると食料配給やらに奔走。見違えるようにがんばっている。

一ヶ月がたった。ニュースをチェックした限りでは、今日はバスラは平穏だろう。アンマンの加藤も特にこれといったニュースはまだ耳にしていないようだった。私は、友人たちに、「バスラはよくやく落ち着いてきたようです」と経過報告のメールをおくったばかりだった。バスラにいるイブラヒムに電話をする。

木曜日は週末の前の日。イスラム教の国では金曜日が休日。朝から、イブラヒムは、病院にいった。今日は、院内学級で教えた。しかし、ドクターに呼ばれる。薬を買ってきて欲しいというのだ。シャットル・アラブ川の向こう岸は、タヌーマ地域。そこには薬局がたくさんある。イブラヒムは兄と一緒に12時ごろ薬局に着く。しかし、1500ドルの抗生剤を買い付けると、いきなり銃撃戦が外で始まったようだった。銃声が聞こえる。店員3名と客2人と女性の客が1人いたが、皆流れ弾に当たらないように身を伏せた。停電。ヘリコプターが舞う音がする。6時間がたっただろうか。「今なら大丈夫だ」イブラヒム達は外に出て車に乗り込んだ。弾丸が飛び交う中を車はスピードを上げて駆け抜ける。イブラヒムは、6、7人の人が道路で血を流して倒れていたという。生きているか、死んでいるか、わからない。

それでも何とか病院に行き返し買い付けた薬を持ってきたが、医者たちはすでに避難していたので、教室に薬をしまいあわてて外にでた。数人の患者が病院に残っているだけだった。外出禁止令がでているのか通りには誰もいない。イブラヒム達は全速で家路に着いた。無事に家に着いたときは夜の8時だった。
「イブラヒムハイキテイルヨ、アリガトウゴザイマス」

終わりのない話

笹久保伸

楽器は不思議で、良い楽器を使ったからといって良い音が出るとは限らない。発展途上国に行くとボロボロの楽器での演奏に感動させられる事がよくある。そもそも「良い音」などという音はあるはずがない。聴覚は一人一人異なるし、聴こえ方も厳密には異なる。つまり「良い音」とは各自異なる。また味覚にも言えるが「好み」などは育った環境、幼い頃に食べてきたもの、体験によって決まる。一体誰が「良い音」を作ったのか。

この世には数えきれないほどの音楽が存在するが、音楽は聴き方も感じ方も、考え方も自由である。例えば西洋音楽は世界的に普及しているが、理由はその政治力(戦争に強かった、など)が原因で、西洋の音楽自体がこの世で「最も優れた音楽」だったからではない。(と思う)

グレゴリオ聖歌を仏教で言うところの声明(お経)に例えるとすると、もしも過去、アジアが西洋よりも戦争に強かったら、経典や声明を基に数々の音楽の定義が生まれ、今とまったく異なる音楽史ができていただろうし、「良い音」の価値観も現在とはかなり異なるであろう。琵琶や三味線、琴などが世界中に広まり、今日本人がバッハを弾くように、多くのドイツ人が八橋検校の曲などを苦労しながら弾いていたら、どんな感じだろうか。

しかし歴史はその道を選ばず、今に至る。

これは自分の体験からも言える事だが、例えば私は民族音楽を研究し演奏する、現地の人々が弾くように弾きたいと思い努力し、ある地点に立ちふと気がついた事、いくらそれらしく演奏しても、私が弾くのと現地の人が演奏するのではその「意味」が異なる。技術や音楽性とは別の次元のテーマである。良くも悪くも、現地に生まれなおさない限り、ある意味永久に現地の人々のように演奏はできない、と言える。

ペルーアンデス音楽の場合、「貧しい農民の生活(人生)を知らずに彼らの音楽を演奏できるはずはない」とペルー人音楽家に言われ、では農民の生活を知ろうと思い、山岳地域に行っても、住んでも、それを知っても、外から見るだけでなく中へ入っても、結局彼らとは異なる状況下に自分は存在している。しかしそれはペルー人にも同じ事が言える。都会生まれの音楽家はインディヘナ音楽を決して上手く演奏できない、とよく人は言う。(都会の人間に貧しい農民の痛みが分かるはずがない、という観点からである)

このテーマを他の演奏家に聞くと「考えないほうがいい」と言っていたが、これは永久に考え続けられるテーマであろうと思う。そもそも都会人もしくは異国人による「インディヘナ音楽の演奏」とは一体何だろうか。それは「都会人もしくは異国人による、インディヘナ音楽」であり、そう聞くとある意味変な感じがするが、かと言って西洋音楽を弾く日本人や、バッハを弾くカナダ人のグレン・グールドに人々はあまり違和感を持たない。

「演奏」も、その文化に生まれた人の演奏だからと言ってすべてが素晴らしいと言えるのだろうか。答えは、そうであり、そうではない。

ペルーの人類学者・作家のホセ・マリア・アルゲーダスは、アンデスの田舎町アンダワイラスに生まれ、いわゆるインディヘナ文化の中で育った。しかし彼の両親は白人系であるため、(山岳地域に生まれたのにも関わらず)インディヘナの人々とは異なる、という強いコンプレックスを常に持っていた。アルゲーダスは白人系であるが、アンデス文化で育った事もあり、逆に、都会の白人系の人々ともあまり上手くやっていけなかったし、一方インディヘナとも違い、
精神的居場所がなくとても苦労したそうである。

何をするにしても、正面から進むという事は多くの壁(闇?)にぶち当たり、もしかしたら、永久にそこから出られないのかもしれないが、しかしそうする以外に他はない。

冷えとひらき

高橋悠治

年とともに身体は衰えていく
心も冷え うごきがおそくなる
演奏も作曲も即興でさえ そのたびに新しくはじめないと
何もはじまらない
昨年はブゾーニとモンポウを録音し
今年はアキといっしょに石田秀実のピアノ曲集を録音した
ブゾーニは夢のように変わりつづける音の流れに
モンポウは遠いざわめきのこだまに
石田は山水画のなかの空間に歩み去る後ろ姿に惹かれて

ヴィトゲンシュタインとベケット
ありふれたことばがありえない組み合わせのなかでくずれていく
この穴だらけのつづれ織りは
ことばよりは音のありのままのありかただから
きれぎれになった響が沈黙のなかでふるえ かすれ
diminuendo cascando消えていく
こうして昨年からtwining voices纒穣聲nabikafiなびかひ sinubi偲を書き
いまhanagatami 花筺1と2を書いている
喪失からはじまり
残された空間のかすかなすきまが ささやきでみたされる
ためらいながら 身を引きながら よろめきながら つまずきながら

低音をくるわせて 支えをはずし
影の揺れと震えの上下に打たれるわずかな点の余韻
おなじようでいて すこしずつずれていく景色
さらさらとこぼれていく
さやさやとふきすぎていく

休止符と小節線を書かない楽譜にしてみる
拍を数えない 同期しない
それぞれの音が それぞれの時間で明滅する空間
断片を入れ替えて 流れを断ち切る
音をはずして つながりにくくする

書きながら時間をかけてためしているやりかたを
身体に染み付けて 演奏を解体していく
自然にうごいてしまうことから距離をとる
わずかな変化に注意を向けると ありきたりのうごきはしずまる
ほどけ ばらばらになっていく
こんなことで いいのだろうか

くりかえすたびに変化する
二度とおなじうごきはなく
はじまりの地点からはなれて 二度ともどることはない