6月の砂漠

さとうまき

今年は、パレスチナ人が、土地を追われて60年だ。イスラエル人が建国を祝う日を、パレスチナ人は、「ナクバ」と呼ぶ。大惨事と日本語では訳されている。パレスチナ難民キャンプは、シリアやヨルダン、レバノンなどに散在するが、キャンプといっても60年もたてば、そこには、ブロックで家を作り、それが、世代とともに大きくなって、普通のアパートになっている。難民キャンプであることを認識するには、壁にかかれた政治的な落書きや、アラファト議長、ジョルジュ・ハバシュといった歴史上の人物の写真が張ってあることだろう。正直、イラク戦争以降、パレスチナは、しんどいと思う。アラブが、ますます拝金主義になってしまい、自ら問題を解決しようと立ち上がるリーダーはいない。

シリアとイラクの国境に、2000人以上のパレスチナ人がテント生活を営んでいることを知っている人は少ない。当のパレスチナ人ですら知らないふりを決め込んでいる。彼らは、バグダッドに住んでいたパレスチナ人だ。1948年、パレスチナ戦争に加わったイラク軍のキャンプが、ジェニンにあった。(ジェニンは、ヨルダン川西岸)ハイファから逃げてきたパレスチナ人は、イラク兵に連れられて、ゲストとして、バスラの難民キャンプへ到着。その後、バグダッドへ移動して暮らしていた。その後、サダムフセインは、このパレスチナ人たちを大切に保護していたために、2003年のイラク戦争後、サダムフセインに辛酸をなめさせられてきたイラク人たちに迫害させるようになったのだ。隣国ヨルダンや、シリアへ逃れようとする彼らに国境はとざされた。いまだに、2000人以上のパレスチナ人が、国境でテント生活をしているというわけだ。

このパレスチナ人たちが、SOSを何度か送ってきたので、私たちも重たい腰を上げることにした。問題は、キャンプがイラク国内にあることで、そう簡単にいけない。国連や、イラク政府、シリア政府と交渉してようやく許可をもらえた。

夏、砂漠は焼け付く。私たちは、情報収集のためにアンマンのNGOの事務所を尋ねた。イタリアの団体だが、セルビア人が働いていた。スロボダンという男は名前のとおり、背丈も高く、いかつい男だ。軍隊の特殊部隊出ではないかと勝手に想像するのは容易である。そんな男が、うんざりするようにつぶやいた。「砂漠は、地獄だ。この間は、テントを訪問していて、俺は、意識を失って倒れていたのだ」という。スロボダンたちは、小さなクリニックを難民キャンプ内に運営していた。「一体、一日に、何人病人が来ると思う? 100人だ。医者はたった2人。しかも常時2人いるわけじゃないからな」スロボダンは、裏の世界を知り尽くしたような顔立ちだ。背筋が凍るような目でにらみつける。「クリニックは、薬しかないからな。検査は、200kmも300kmも離れた町まで転送させる。費用は馬鹿にならない。4月だけで一体いくらかかったと思う?」スロボダンは、にやりと笑いながらそろばんをはじいていた。

私たちは、夜明け前にダマスカスのホテルを出発した。運転手は、朝が苦手のようだ。私たちの行く手には真っ赤な太陽が昇り始めた。太陽というやつは、勿体つけて出てくるが、いったん出てしまえば、あっという間に、頭上から、じりじりと俺たちを干からびさす。運転手は、ともかくスピードを上げて、走っていく。途中なんども睡魔に襲われたようで、車を止めては顔を洗っていた。ともかく、あっという間に国境に着いた。シリア国境は開いたばかりなのか、破られたイラク人のパスポートのコピーが床に散らかっていた。今日は、私たち以外に、キャンプに行く人間がたくさんいた。国際赤十字、イギリスのNGO、許可を待つ間にも、それぞれが自己紹介をして、名刺を交換しあう。いきなり調整会議のようになった。

イラク警察のパトカーが例によって、私たちを迎えに来てくれる。イラクへの入国は、スムーズだった。しかし、アメリカ軍のチェックがあった。僕たち日本人は問題がなかったが、イラク人には、網膜にヒカリを当てて、情報の記録をとっていた。まだ占領はつづいているのだ。

キャンプにつくと好奇心旺盛な子どもたちと、おばさんがやってきては、いろいろと話をしてくれた。しかし、私たちは、容赦なく照りつける太陽にめまいを訴え、記憶はどんどんと薄らいでいった。

私は、アンマンにいた。私たちは、本当に、イラクに行ったのか、思い出そうと思うと頭の奥のほうから痛みだし、やがてずきんずきんと鼓動のたびに痛みが増幅されていくのである。しかし、キャンプに充満していた汚水のにおいは、はっきりと覚えている。そのにおいを思い出すたびに嘔吐しそうになるのだ。そして、スロボダンのあのいやらしそうな微笑み!
米軍の装甲車が、砂煙を立てて走っていく。

6月の砂漠。。すべては砂煙の中にまかれていく。

雨期――みどりの沙漠44

藤井貞和

◎陸軟風(石原吉郎『いちまいの上衣のうた』のうち)  原題は
   「望郷」だった? 海を見たい
    海 (→) 石への変質
1949年カラガンダの刑務所で 号泣にちかい 思慕 日本海
海であることにおいて それは一つの(ほとんど)倫理となったのである
1949年2月 ロシア共和国58条6項で 4月29日(判決)
 すがりつくような 望郷の思い
 錯誤としての望郷
 故国からも恋われているという サクゴ
 海は過渡的な 空間
 望郷とはついに植物的な 感情であろう
判決とは 肉体的な感覚 断ち切られた故国
 観念や思想が 肉体をカクトクするのは ただそれが 喪失するとき
第二収容所へ
 風 五月を明日にまちかねた 風
  そのときまでは 風はただ比喩
  このとき風はかんぺきに私を比喩とした
   恐怖――故国から忘れられること
    怨郷
   錯誤?
 忘郷

(1953夏ナホトカ。12月1日帰国。)(「あの部屋をなぜノックしないで、わざわざ自分の後ろ、昨日の部屋に行きたいのか。これが人間なのかな」李静和『求めの政治学』2004)(「……ところで、いったい人間は何をもっとも恐れてるだろう。新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ……」『罪と罰』〈石原吉郎1957年のノート〉)

五月の記憶

仲宗根浩

九州から来た甥っ子が三線を見たい、というので母親の従兄弟が営む三線屋に行く。最近は海外製の一万円代の安価で棹もすぐ捩じれるものが出回っていて困る、自分が作ったものしかもう修理はしない、と言うおじさんはそろそろ八十歳。主に棹は県産の黒檀、黒漆塗りが最高とされていて値段も高い。県産の黒檀なんてもうほとんど無いだろう。色々見せてもらった中に紅木(邦楽のお三絃で使われる高級な棹)のものを見つける。それは糸が複弦3コースで六本張られているものに使うとのこと。三線も高級化している。高価なものを購入する県外のお客さんもいるという。

何年ぶりかで、西海岸五十八号線を車で北上する。富着(ふちゃく)のイチャンダ・ビーチ(イチャンダ=無料、ただ、お金を取られない無料のビーチ)、道を挟んで建設中の新しいリゾートホテル。更に北上すると小洒落た飲食店や新築のマンション。ちょっとしたバブルで家賃高騰と新聞に書かれてたのを思い出す。二年間、通勤のため通っていた道。どんどん変わっていく。もめている東側の基地建設予定地、基地が出来なくても道が造られ、よそからの資本が流れ、元の風景が消えたら同じ。

センター通りにある老舗レストランの閉店。耳に入るのはネガティヴなお金の話ばかり。空き店舗一つ増えると、新しい店舗一つオープン。大きな書店ができたかと思えば、家電量販店は七月に撤退。電柱には告示前の選挙のための立候補表明した方々や政党のポスター。毎回、選挙が終わってもそのまま放置。このようなことを普通になさる方々、政党を支持しない、という信念を持ったとすると投票箱へはなにも書かない紙を入れなくてはならなくなる。

三十六年前の五月十五日の記憶。
信用金庫に長蛇の列のなか、ひとりで自分の通帳の書き替えを待つ。店内に入っても人がいっぱい。周りは大人ばかりでカウンターの様子も見えない。自分の番になる。通帳を差し出す。渡された通帳のドルの預金産高が円に変わっていた。

二十二日、今年も遅い梅雨入り。平年より十四日遅れ、去年より六日遅れ。雨は降らない。二十六日、下の子を連れて海へ行く。平日なのにアメリカンの家族連れが多い。メモリアル・デイでアメリカは祝日だったことを夜に知る。頭にタオルを巻いていたので顔だけ赤く日焼け。笑われる。

二十八日夜、暑さに我慢できず今年初めてのクーラー稼働。二台あるうちの一台のリモコンが利かない。もう一台は基地周辺住宅の防音工事で新しく交換されたばかりなので初稼働。翌日から雨が本格的に降り出し、少し涼しくなる。

いただいた、豚の耳の塩ゆで。すぐ料理できるように五ミリ幅くらいに切り小分けにして冷凍。こういうそのままの形のものを解体するのはだいたいわたしの役目。

しもた屋之噺(78)

杉山洋一

5月、相変わらず瞬く間に一ヶ月が過ぎていきました。
中学の頃から繰り返し読んでいる本の一節に、「人生は信じられないほどのスピードで過ぎ去って行く。私たちは秒速30キロで空間を走っている」とあるのを思い出します。さして出歩いているのでもなく、家でぼうっとする時間もあった筈なのに、振り向けば、軽い眩暈のように揺らめいて見えるのは何故でしょう

日付は既に31日になりました。大阪・京橋のホテル、21階から眺める夜景はとても美しいです。数日前、初めて京橋に着いた日に一人で出かけた、国道1号線沿いの鰻屋「紫煙」に、今日最後の練習が終わったところで、望月みさとちゃんと連立って出かけ、気のいい親父さんが焼く絶品の蒲焼に舌鼓を打ってきました。それからホテルのロビーで、照明の岩村さんや音響の有馬さんと明日、最早今日の本番の最後の調整をし、今部屋に戻ってきました。この21階の部屋に遠くから聞こえてくる、懐かしい踏切の警報機の音や、馴染み深い学校のチャイム、穏やかな救急車のサイレンが、自分が生まれてから25年間送った時間の深さを思い起させてくれます。

今回の演奏会では、大阪いずみシンフォニエッタの皆さんと、みさとちゃんのエテリック・ブリープリント3部作を演奏します。今回、特に限られた時間内での練習でしたが、内容の濃い、充実した時間を過ごすことができました。15個のワイングラス、ワインボトルの他、旨い加減で水滴を落とすものなど、特殊な楽器装置が数多く使われているので、練習の前にまず楽器の調達、準備だけでも大変なのに、とても前向きで気持ちのよい練習をさせて頂けてとても嬉しかったです。

5月末だというのに、数日前に飛立ったヴェニスの空港は深い霧に包まれていて、パリ便が1時間遅れで漸く飛立ったときには、おもわず溜飲をさげました。機中今回のみさとちゃんの楽譜を眺めつつ思い出していたのは、「自分にわかるのは、自分が何も知らないという事実のみ」。何度見返しても、気付かなかったことばかりが目につき、文字通り自分の目は節穴かと納得したものの、着いてすぐ練習が始まることを考えて、思わず溜息がこぼれました。

みさとちゃんの楽譜は「生物」のように見えます。それはつまり、狭義における対位法的声部の成立、発展よりむしろ、作品がひとつの社会を形成しているように感じられたからです。「生物」が社会の構成員としてばらまかれていて、それらは対位法のように多層構造として、重ねあわされるのではなく、まるで航空写真で衛星地図か航空写真で、社会の俯瞰図を眺める気がします。

曲という社会、枠を与えて「生物」を放すと、解放たれた「生物」は、社会の中で、各自社会の規律を学んでゆきます。アメーバーのような自在な形をしていて、生きているから当然各自別々に呼吸をしてゆくことで、社会構造が活気を帯びてくる。彼女の楽譜はそんなイメージをさらさらと書いたようなところがあって、決して頭でっかちな音楽にならないところに感嘆します。

今回、水滴や、盥に溜めた水をかき回したり、そこに息を吹き込んだり、沢山のホース、なわとび等、多くの非楽音・日常音が取込まれています。この手の非楽音を取り入れた作品は、得てしてコンセプチュアルに妙に頑ななものが多いのです。楽音でない素材の「楽音化」にあたり、強烈な格式化、形式化のような手続きが踏まれることが多いなか、みさとちゃんの場合、「まあいいのよ、使っても使わなくても」という、投げやりなくらいの距離感があり、それが曲としてとてもよい影響を与えていて、彼女はこれらと楽音がまるでじゃれ合うかのごとく、ほとんどユーモアのセンスすら交えて、上手に「社会構成員」としての役を果たせることに成功しているとおもいます。難しい定義づけとか、格式化のような重苦しさがないため、社会は常に活気と驚きに満ちていて、それが彼女の音楽の魅力になっているとおもいます。

同じものを見ていても、ちょっと視点を変えるだけでまるで別のものに見えたりしますが、この同い年で、実際仲よしの作曲家の楽譜を勉強していると、彼女がものを観察するときの視点の柔軟さに、思わず彼女がこの社会をどんな風に見ているのか、ひょっとしたら、同じものを見て、同じことを感じていても、全く違う風に見えているのではないのかしら、と訝しく思ったほどです。音楽の構造や、「社会」の並び、「社会」のアメーバー具合を見ていると、一番近い感覚は「雅楽」ではないかと感じました。その昔「雅楽」に啓発された話も聞きましたし、あながち的は外れていないかもしれません。

ではこの1ヵ月、自分にとって秒速30キロの社会生活は何を残しているか、考えてみました。

毎日、何通と送られてくる指揮科の生徒間のメールのコピー。ベルルスコーニに政権が移り、ミラノ市は学校の援助資金、大幅カットを決め、学生たちは集会を重ね、署名運動をし、市長や文化担当官に書簡を送り、新聞に抗議文を掲載し、見直しを叫んでいるけれども、そんな姿をどこか冷めて見つめる自分。

時を前後して、或る朝9時、早朝のスカラ座脇の喫茶店で、学院長を必死に説得する自分の姿。「フルヴィオ、よく考えてみてほしい。本当に後で後悔しないのかい」。困憊した顔を、より一層険しくさせ、彼は目を落とし、すくめた首は長い影を引いた。エスプレッソは、不釣合いな大きなカップに無機的に入っていた。

まだ楽譜は送ってこないの、演奏者からメールが届くと、続いて彼女のエージェントから、様子はいかがでしょうと慇懃な電話が掛かり、しどろもどろになりながら応答しつつ、庭の向こうの中学校の校庭でサッカーに興じる子供たちを眺めている。

次々と送られてくる楽譜。自分の譜読みが遅いのを恨めしく思いつつ、秋までに読まなければいけない楽譜を試しに重ねてみて、厚さに仰天し、すぐに戸棚にしまい込み、怖気づいて近所の喫茶店に出掛けた。

学校の授業で学生に歌わせたメシアンの旋律課題の美しさ。シンプルな和声進行と、艶かしい旋律。学生は嬉々として繰返し合唱していて、2階のどこからともなく聞こえるメシアン即席合唱団に、中庭で遊ぶ子供が思わず手を止め聴き入っていた。

一足先に日本へ発つ家人と息子が、空港のパスポートコントロールの向こうで、手を振る。庭の芝生のまにまに生え盛る雑草の逞しさを思う。無心で毟った雑草の山。芝生を刈ったあとの草の匂い。

朝4時に起き早朝の便でローマに飛び、ボルゲーゼ公園「映画の家」で記者会見。オペラ座の関係者と一緒に叩きつけるスコールをコーヒー片手にぼんやり眺め、文字通りとんぼ返りでミラノに戻って24時、自宅のキッチンで、庭で摘んだパセリを沢山刻み、一人、唐辛子入りのジャガイモのパスタを作る。

21年の誕生日を目前に死んだ実家の老猫。端正な三毛猫。腹に氷を敷いた亡骸の前に神妙に煎餅を供えしていた3歳の息子。楽譜を眺めていて、全ての音符が有機的に浮き上がる瞬間、別の自分が小さく呟いた。「Take off!」

放っておくと、もうすぐ夜も明けてしまいます。みさとちゃんの「エテリック三部作」どんな素敵な演奏会になるか、期待に胸を膨らませながら、布団に潜りこむことにいたします。この数日間、ハードなリハーサルに文句一つ言わずついて来て下さった演奏家の皆さんに心から感謝しつつ。

(5月31日朝5時 大阪のホテルにて)

ペルーの現代音楽

笹久保伸

ペルーには国際現代音楽フェスティバルがある。
日本ではペルーと言うと、日系人のフジモリ元大統領とか、インカの黄金とかマチュピチュ遺跡やナスカ、シカン文明、そういったものばかり宣伝されている影響で、国際現代音楽フェスティバルなんて人に言ってもあまりピンとこないようである。ペルーに行くとポンチョを着たインディヘナがそこらへんにいるのか、とたまに聞かれる事があるが、それは外国人が日本人は着物で生活していると勘違いすることや、映画の影響で日本人は侍とか、皆空手ができるとか勝手に信じているのと同じ感覚である。山岳地域に行けばポンチョを着たインディヘナが生活しているが、リマは大都会で、高速道路もあるし高層ビルもあるし、寿司屋も5つ星ホテルも、何でもある。

国際現代音楽フェスティバルに話を戻そう。「国際」と名が一応あり海外からも演奏家が来る。フェスティバルがあるという事はそういう作曲家たちがペルーにいるという事である。昨年のフェスティバルは「Edgar Valcarcelを讃えて」というコンセプトでEdgar氏の作品がたくさん演奏された。Edgar Valcarcelはペルーのアンデス地方プーノ出身の作曲家である。アルベルト・ヒナステラの弟子で60年代にはアメリカへ渡り、電子音楽の研究もしていた。彼の叔父にあたるTheodor Valcarcelはインディヘニスモの作曲家で有名である。

EdgarValcarcelはとても面白い人で、今70代だと思うが、とても魅力的な作曲家である。過去に彼はペルーの国立音楽院の院長でもあったが、とにかく貧乏らしく、「貧乏だ、情けない、この国はだめだ、文化庁は何をしている……」が彼の口癖である。彼の給料は月200ドルらしく、相当厳しいそうである。ペルーで最も重要な作曲家の一人であるが、どこからの支援もなく、彼は本当に大変そうだった。Edgarは「自分が死んだら、書いた楽譜は絶対に家族には渡さない、家族に渡したらゴミ箱行きだ、息子が大切に保管したとしても、孫が捨てるかも」と言っていた。作曲家が一生かかって書いた楽譜を後に家族が捨ててしまった、という例がペルーにはよくある。彼は電子音楽をやっていたが、パソコンはまったく使えない。メールすら打てない。楽譜も手書き、彼の家にある虫に食われた2台のピアノは調律されてなく、狂ったピアノで仕事をしている。理由は調律費が払えないから。彼の精神には本当に頭が下がる。

ところで彼の作風だが、何しろ楽譜は出版されていない、録音もほとんどされていないのだが、アンデスの民謡をモチーフに、分解したり、断片的にしたり、何かをはさんだり、抜いたり、そういう手法が多く見える。独特で、西洋的もしくはアメリカ的な音楽とは異なり面白い。

Edgarの友人でArmandoGuevara Ochoaというユニークな作曲家がいる。彼はアンデス地方「クスコ」出身でペルーの音楽史に残る名作を残しているが、彼はほとんど行方不明に近い。かなり探して、数回Armandoと会う事ができたが、彼は今80代で、今もなお放浪生活を送っている。ちょうどダラスからクスコに戻ったばかりの彼に会ったのだが、奥さんに捨てられ、家がなく、お金もなく、ピアノの生徒が経営する小さいホテル(ペンション)にいそうろうしていた。用事でリマに出るときは警察の宿舎にお世話になったりしている。Armandoは楽譜を大切にしない人で、しかも放浪しているので、どこに楽譜があるのかわからないらしい。手元には旅行かばん2つだけだった。

クスコの作曲家でPablo Ojedaと言う人がいたが(いるが)、彼はある時まで音楽界で活動し、ある時からインカから伝わる宗教(密教らしいが、実態は不明)に入り、音楽界から姿を消した。今はクスコ付近のジャングル付近の道端にて暮らしているそうだ。

若い世代の作曲家は何をしているかと言うと、あまり新しい事は出てきていない。優秀な人たちは海外に出てしまい、ペルーには仕事がないため帰ってこない。このフェスティバルで演奏される若い作曲家の作品はほとんどない。最近新しい音楽院がリマ市に設立され、期待は大きい。

このフェスティバルの特徴に、出演者が(海外の)ペルーの現代作品を必ず演奏するというのがあり、面白い。ペルーではペルー人がペルーの現代作品を演奏するようなイベントは他に無く、ようするに、聴くことすらできない。その点このフェスティバルはペルー音楽界において非常に大きな意味を持つ。

興味のある方、フェスティバルは毎年11月頃にリマ市で開かれるので、ちょっと遠いですが是非。(泥棒に要注意。)

メキシコ便り(9)

金野広美

メキシコ・シティーの3月、4月は街中に薄紫色のハカランダがあふれます。ちょうど日本の桜のようです。ただ桜は1週間ほどではかなく、美しく散ってしまいますが、ハカランダはその名に反して?2ヶ月くらいは咲いています。落ち方も桜のように舞うのではなく、大粒の涙が落ちるように、ポトリポトリと散っていきます。花の形はちょうど小さな釣鐘のようです。しかし、散ったあとの木の下は、さながら紫のじゅうたんを敷き詰めたように、とてもきれいです。この木を見ながら私は日本の春を懐かしく思い出していました。でも誰もこのじゅうたんの上でお弁当をひろげることはしないので、やはりここは日本ではありませんでした。

メキシコの気候は乾季と雨季の2期で、はっきりとした春夏秋冬はないのですが、メキシコ・シティーの朝晩は、1月、2月はオーバーがいるくらい冷えます。でもそれも3月、4月になるとずいぶんとやわらぎ、コンサートやダンスなどのイベントが増えてきます。

先日とてもおもしろい演出のバレエを見ました。演目はチャイコフスキーの「白鳥の湖」で場所はチャプルテペック公園の中にある湖でした。この公園はとても広く、お城や、美術館や、博物館、動物園、植物園などがあり、週末は家族連れでにぎわうところですが、湖が3つあり、その中のひとつを使っていました。湖に張り出すように2か所の舞台をつくり、一方は宮殿、一方は湖岸の大きな木をそのまま利用して、森の中を表現していました。冒頭の音楽が流れ出すと、2羽の白鳥にスポットライトが当たりました。なんとその白鳥たちは優雅に湖を泳いでいるではありませんか。そう、それは本物の白鳥だったのです。そして宮殿の舞台がぱっと明るくなり、たくさんの貴族の扮装をしたバレリーナたちが、舞踏会で踊っています。湖岸では本物の馬にまたがった騎士が行きかいます。ちょっと度肝をぬかれたオープニングで始まった白鳥の湖でしたが、踊りは国立バレエ団のプリマ、イルマ・モラーレスをはじめとしたメンバーで、すばらしいものでした。特にイルマはその長く細い手足と、しなやかな体で、白鳥のオデット姫はどこまでも可憐に、黒鳥のオディール姫は妖しげな魅力を放ちながら優雅に踊りました。白鳥たちの群舞も時にユーモラスに、時に愛らしく、とても美しいものでした。夜空に星がまたたく中、ライトが効果的に使われ、悪魔の登場には花火が打ち上げられるというど派手な演出で、さながら、大スペクタクルを見ているようでした。日本では古典バレエは大抵、ホールのなかで催されますし、こんな大掛かりな舞台で見たのは始めてでしたので、ちょっとびっくりしながらも、楽しい舞台でした。

メキシコ・シティーでは毎日どこかで、イベントやコンサートが催されていますが、日本ではおおよそ人がはいりそうにない前衛的なパフォーマンスや美術展でも人は来ます。無料ともなるとめまいがしそうなほど、人であふれます。ここでは古典から前衛までさまざまな作品に触れる機会が安価で、すぐ手の届くところにあります。そして、どのように前衛的で実験的であってもそれを受け入れる土壌がここにはあります。無料の催しも多く、仮に有料でも値段がとても安いのです。たとえば先のバレエも前の席で150ペソ(日本円で約1500円)、先日行ったジャズコンサートなど、壁画で飾られたすばらしいホールであったのですが、学割で半額になるので、20ペソ(200円)です。そのあと行ったコンテンポラリーダンスは30ペソ(300円)、アフリカ映画祭の映画は15ペソ(150円)でした。普段でも映画は45ペソ(450円)、水曜日は日本のように女性だけでなく男性も半額で23ペソ(230円)です。メキシコに点在する多くの遺跡も一部を除いて学生と教師は無料です。博物館や美術館も70ペソ(700円)くらいから15ペソ(150円)くらいまでいろいろですが、これも学生と教師は無料や半額で、日曜日は一般の人でも無料です。そのためでしょうか、日曜日は多くの親子連れを美術館や博物館でみかけます。

先日もチャプルテペック城のなかにある国立歴史博物館に行ったのですが、父親が展示物の前で、熱心に子どもにメキシコの歴史を語っていました。メキシコの古代文明の歴史は紀元前13世紀、オルメカ文明から始まりますが、1519年、エルナン・コルテスひきいるスペイン軍の侵略、1810年、イダルゴ神父による独立運動、1910年から始まったメキシコ革命など、メキシコは激動の歴史をたどってきましたが、独立運動や革命のヒーローたちのレプリカの前で、子どもに熱心に話している父親の姿はほほえましくも頼もしく、子どもはうなずきながら父親の話しを一生懸命に聞いていました。きっとお父さんは物知りでえらいのだと尊敬していることでしょうね。日本では父親が日曜に博物館に子どもを連れて行き、日本の歴史を教えるなどという姿をあまり見たことがないので、このような光景を見るにつけ、メキシコと日本の家族のあり方の違いを感じると同時に、ひょっとするとメキシコは文化に関しては、日本より豊かな国なのではないかと思いました。というのは子どものころから親につれられ、色々な音楽や絵画、伝統にふれている子どもたちの中にはきっと広く、豊かな感性が育っているでしょうし、そんな子どもたちが将来、表現者になったり、批評眼をもった観客になっていくのではないかと思われるからです。地方には何千年も脈々と続く伝統文化があり、都会では数々のすばらしいホールや屋外施設のなかで、常に新しい試みがなされているメキシコ。新しいものと古いものが混ざり合いながら、ふところの深い豊かな文化がここメキシコでは根付いているのではないかと思いました。

アジアのごはん(24)ひよこ豆もやしスナック

森下ヒバリ

そう来たか。コルカタのオールドマーケットの近くの路地の角でみつけたスナック売りが売っていたのは、なんともふしぎな豆のおやつであった。おいしそう……と立ち止まると売り子の兄さんが、食べてみろと手のひらにひとつまみ落としてくれる。

豆は茹でたブラック・チャナ、黒ひよこ豆である。そして、なんとその豆からは白い芽が5ミリ〜10ミリくらい伸びているではないか。よく見るとえんどう豆も少し入っている。もやしかあ、と口に入れ噛みしめる。「いける……」と思わず口走って豆売りの兄さんの顔を見ると、にやりと笑顔。「5ルピー分ね」とすぐに頼む。

豆をすくって容器に入れ、刻んだ赤たまねぎの親戚のシャロット、青唐辛子の刻んだのを少量混ぜ、何か分からないがおいしいスパイスと塩、そしてライムの汁とをしぼってシャッフル。紙をくるりと円錐形に巻いたものにざーっと移して、はい、と渡してくれる。
もやし、と言うとつい日本ではのびた白い芽を考えてしまうが、茎を食べるあれはもやしの食べ方のほんのひとつにすぎない。もやしとは、種子(豆)が発芽した状態であって、その発芽のために種子の成分が大きく変化して、人間に食べやすくなり、栄養分も飛躍的に増える状態になったもののことだ。発芽準備に入って成分が変化していれば芽が出ていようが出ていまいが、もうそれはもやしである。

最近注目されている発芽玄米も、もやしなのである。豆はどれもけっこう消化が悪いが、発芽させれば、ぐっと消化がよくなるうえに蒸したり茹でたりする時間も短くてすむ。食べにくい豆をおいしく食べやすくする食の知恵なのだが、日本の豆の食べ方には発芽させてから食べるものが少ない。ちょっと不思議なぐらいだ。むかしはあったがすたれたのだろうか。

ひよこ豆スナックは、実にうまかった。豆になんともいえないうまみがあるのである。もやし効果。味付けの塩もかすかな硫黄臭があり、どうやら岩塩のようだ。ビールのおつまみに最適。でも町にリカーショップはあまりない上にしょっちゅう閉まっている。コルカタでは酒飲みは苦労する。もっともお隣のバングラデシュのように町にアルコールの影も形もなく、犯罪者のようにこそこそホテルのボーイに耳打ちされて、やっと手に入れられるほど厳しいわけではない。

しかし、次の日もまたその次の日も同じ路地の角に行ってみたが、その豆売りはいなかった。後日コルカタにやってきた友人たちに「ひよこ豆のもやしスナックがおいしいねん!」と力説したのに、影も形もない。見つけられないまま、北に移動してダージリンの町でまたひよこ豆スナックを見つけた。

そう来たか。またもや豆売りのおにいさんの前でわたしはうっとりと立ち止まった。今度は、ひよこ豆もやしでなく、うち豆である。うち豆というのは、茹でたり蒸したりした豆を叩きつぶして平たくして干したものである。日本では大豆や青大豆でやる。丸くつぶされたひよこ豆がうつくしく積み上げられている。やはり、同じように刻んだシャロット、トウガラシ、スパイス岩塩、ライムで味つけ。これはうち豆を油で揚げてあるようで、かりかりとしていて香ばしく、先のもやしスナックとはまたちがうおいしさ。

ダージリンはインドの一部とはいえ、もともとチベット・ビルマ系やタイ系の先住民族が住んでいる地域であった。チベット人の移住も多い。インドをイギリスが植民地にして以来、ネパールからゴルカ族が労働者として移住してきて、現在の住民のマジョリティはゴルカである。町にはさまざまな民族の姿があり、ベンガル人ばかりのコルカタなどと違って、町を歩いていても回りから激しく浮いたり、じろじろと見つめられたりすることが少ない。おいしいチベット餃子のモモもあるし、ものすごく気楽だ。

市場に行くと、はずれの道端でおばちゃんが納豆を売っていた。見た目は日本のひき割り納豆そっくりである。「これは買ってみなくちゃ」「ええ?どうすんの?」旅の相棒は、こういう旅先の発酵ものに不信感を抱いているので、顔を背けている。日本では毎日食べるほどの納豆好きなのに。宿で食べてみると、ねばりはないが日本の納豆そのままの味。けっこうおいしい。醤油がほしいぞ。「おいしいよ。食べてみない?」「い、いやけっこうで〜す」発酵してるだけで、腐ってないってば……。

タイの北部やラオスにも納豆があるが、つぶして平たくしてせんべい状にして乾燥しているものがほとんどで、たまに大徳寺納豆のようなやわらかいものがある程度。家庭料理にダシとして使うことが多いので、いままで買って食べたことはなかったが、もしかしてそれはとってももったいないことだったかもしれない。

旅先に醤油を持って行くというのは、ほとんどしたことがない。こう、何か旅人としては軟弱なような気がしていたからである。もっともタイにはナムプラーというすばらしい魚醤油があるので、不自由を感じたことはないからでもある。でも納豆にはやっぱり大豆醤油でしょ。

日本に帰って発酵学者の小泉武夫さんの本「納豆の快楽」(講談社)を見つけ、読んでいると、小泉先生は世界を飛び回っておられるが、旅には必ず納豆を持参するという。一ヶ月ぐらいの旅には生で、それ以上のときは乾燥納豆をもっていくそうだ。ちょっと腹具合がおかしいときや、あ、これまずいかも、と食べてから思った場合でもその納豆を食べるとほとんどけろりと治ってしまうという。食中毒の予防に大変よいばかりか、日々の体調を整えてくれる健康食品なのである。旅先で納豆を見つけたら、どんどん食べなくっちゃ。

カルコタに戻って、町を歩いていると道端に豆のスナック売りを見つけた。以前のお兄さんとはちがう店だが、同じだろうと買ってみると、何か違う。
「あれ、おいしくない、固い……生みたい」「あ、もういいわ」豆好きの友人も一口食べてうっという顔。その店のひよこ豆は、もやしにしてあるが、茹でてなくて生なのであった。ガリガリとして青臭くぜんぜんおいしくないし、消化できそうにもない。なぜ、茹でていないの! すぐ近くにもう一人同じ豆売りがいたが、その豆も生のようであった。ひよこ豆は細い白い茎をくるくると伸ばし、畑にまいたらぐんぐん成長しそうである。

北に行く前に食べた、茹でてあるひよこ豆もやしのスナックはとてもとてもおいしかったのに、どういうことなのだろう。インド人は茹でてないガリガリ生タイプもお好きなのであろうか? いやいくらなんでもおなか壊すと思うんだけど……。
豆好きで、豆に関してはエキスパートのはずのインド人である。何か理由があるのだろうか。ひよこ豆スナックの三つ目の食べ方に、謎はふかまるばかりである。

製本、かい摘みましては(39)

四釜裕子

「Rainy Day Bookstore & Cafe」で5月24日、青空文庫製本部の出張講座で、八巻さんと製本ワークショップを担当しました。会場はスイッチ・パブリッシング社が運営する本屋+カフェで、酔っぱらってのぼりおりするには危険に違いない階段を下りた地下です。打ち合わせで、真っ白な紙をとじるのはおもしろくないからスイッチ社の刊行物を素材にしませんかと言ったら、雑誌「coyote」から抜き刷りした星野道夫さんの「アラスカどうぶつ記」だったら人数分用意できるとのこと。それで一回目は、中綴じ上下二段に組んだ「アラスカどうぶつ記」をまん中で切って並べ替え、ひと折り中綴じの布装ハードカバーに仕立て直すことにしました。

作業の最初の楽しみは、本文紙をどう切るか。上下二段に組んであると言っても全てのページがそうではなく、表紙は中央に熊の愛くるしい写真があるし、次を開けばぐっと下の位置にタイトルがあります。私の試作品は熊の顔を無惨に断ち切り、タイトル文字も上半分だけという無粋なヤツでしたが、参加したみなさんは口々に、星野さんが撮った熊にカッターは入れられないと、早速にワーク、ワークがはじまります。熊の全貌が見えるように折りを工面したり、好きなページが活きるような組み直しに余念がなく、のっけから予定時間オーバーの、楽しい予感。

表紙用の布はこちらで用意しましたが、希望するひとには手拭いを持参してもらいました。アイロンで、接着芯を貼って使います。製本でやるところの布の裏打ちはめんどうで、さらに悪いことには、誰かに聞くほどもっとめんどうなものに思えてきます。布は製本に近しいのに(もしかしたら紙よりも!)、どうしたことかと思うのです。洋裁や手芸をしていればなじみの接着芯が、お楽しみのための製本の味方にならないわけはなく、そう考えて昨今よく使うようになりました。おかげで接着芯自体の進化も知ることができて、楽しみが増します。

さてワークショップではそれぞれ微妙に違うサイズの本文紙が切り出されました。その大きさを基準にして、表紙の芯になる2mm厚のボール紙を切っていきます。この段階で、今回のだんどりでは表紙にタイトルが入らないことを参加者に告げます。それが嫌なら、たとえばボール紙の厚みの半分を削ってくぼませたり抜いてタイトルを入れるようなサンプルを前にして話しますと、まもなくそれぞれの手が動いてまたまたワークがはじまります。この後に、糸の色、穴の数、針の運びを考える「かがり」という華やかなワークがあるのですが、徐々にいい具合に作業進度にズレが出てきて、順番に大きいテーブルでノリを入れるのを見ながら随時、おいしいコーヒーをいただきます。

この後はそれぞれが、さみだれ式に完成へと一気に邁進していきます。一人一人進む作業に付き添うことになるので、全体を眺めることができません。一冊ずつの本を前にしてしゃべるのが一番の楽しみですが、最後の最後にそれがままならなくなるというのが残念、今回はみなさん、どうだったのかなあ――。この後レイニーデイでは、「Rainy Day に関わる出版物を素材にして、まるごと、あるいは解体したりリメイクして新しい本のかたちを作る楽しさを体験」する製本ワークショップとして継続の予定です。ワークショップとはまた別に、作ったものを持ち寄ってただしゃべる会もやりたいね。どうぞよろしく。

13のレクイエム ダイナ・ワシントン(1)

浜野サトル

 
『Dinah Jams』というアルバムがある。日本ではこのほうが売りやすいからだろう、『ダイナ・ワシントン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』という邦題がついている。ダイナ・ワシントン(vo)もクリフォード・ブラウン(tp)も、それぞれジャズ史を語る上で欠かせないビッグ・ネームである。ただし、日本では、1950年代から、クリフォードのほうが人気も知名度も高かった。だから、邦題には彼の名が入れられた。どちらも夭折したミュージシャンなのだが。

夭折についてはあとで述べるとして、これはジャズ史に残る名盤であると同時に、特異な記録でもある。何が、どう特異なのか。

演奏内容の問題ではない。単純に録音形式が特異なのである。聴けばすぐにわかることだが、録音には聴衆の拍手や歓声がいりまじる。つまりは、ライヴ。しかし、クラブやホールでのライヴではない。会場はレコーディング・スタジオだった。

録音は1954年。当時は、クラブやホールの演奏を高品質にライヴ収録する技術はまだなかった。ライヴ録音が皆無だったわけではない。『ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン』という掛け値なしの名盤がある。1941年、ニューヨークのジャズ・クラブでのライヴ録音。しかし、ここでの音は、オーディオ狂の好事家の手によって紙テープに録音された。それ以前のエリントンやベイシーのライヴ盤も、同じような経緯でレコードになった。そういう時代だった。

聴衆が目の前にいるライヴには、スタジオ録音にはない独特の熱気がともなう。それでは、会場の熱気をまるごとハイ・フィデリティで収録するには、どういった手段が考えられるか。スタジオに客を集めて、疑似ライヴを行う。それしかないという判断で実現したのが、この『Dinah Jams』だった。

選ばれたのは、ロサンジェルスのキャピトル・スタジオ。当時、アメリカでは最先端の、ということは世界でも最先端の録音設備を誇ったスタジオだった。演奏に参加しているのはほとんどがアメリカ東部で活躍していたミュージシャンたちだが、それなのになぜ場所はロサンジェルスとなったのか。ハリウッドである。ハリウッドがらみの仕事があるから、ロサンジェルスの録音スタジオにはふんだんに資本が注ぎこまれた。結果として、ハリウッド消費文化が、ジャズ史の貴重な1ページに寄与した。そういうことだ。

  
『Dinah Jams』の原液となった演奏は、ジャム・セッション形式で行われた。1954年8月14日。夏の盛りの1日、午前中に始まったセッションは、夜になっても終わらず、約20時間続いた。ジャムだから同じ楽器を演奏するミュージシャンが複数集められていたが、その中にあって歌とドラムスだけがそれぞれ1人だった。歌はもちろんダイナ・ワシントン。ドラムスはマックス・ローチだ。つまりは、この録音は「マックス・ローチの驚異のスタミナを楽しむべきもの」といってもいい。

20時間にわたったセッションは、結果として2枚のアルバムに仕上げられた。1枚は『ジャム・セッション/クリフォード・ブラウン・オール・スターズ』。残る1枚が『Dinah Jams』だ。

ということからも想像されるように、『Dinah Jams』には、ダイナ・ワシントンの歌を中心とする演奏だけが集められている。実際にはダイナ抜きの演奏もたくさん行われていて、そちらが別アルバムにまとめられた。

しかしだ、それでいて、このセッションは、ダイナのためのセッションだった……という実感がある。細かい記録は何も残っていないから、事実がどうだったのかはわからない。しかし、音楽を聴いていると、そういう実感がする。なぜか。ダイナを取り巻くミュージシャンたちの演奏、ことにクリフォード以下3人のトランペッターのプレイに、ダイナへのこの上ない深い愛情を感じないではいられないからだ。

例えば、冒頭の「恋人よ我に帰れ」のエンディングを飾る3本のトランペットのこよなく美しいオブリガート。「アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン」のこれまた3本のトランペットによるユニゾンのダイナミックなエンディング。これほど熱気と集中力のこもったプレイも珍しい。このセッションにあって、というよりは当時のジャズ・シーンにあって、ダイナはまさしく美しい花であり、光輝く存在だった。

ダイナの歌唱自体、もちろん見事なものだ。彼女はここでは、最高のしもべたちを従えた女王様然としてふるまう。美には美を、ダイナミズムにはダイナミズムを。トランペットのフレーズが高鳴れば、彼女も張りのあるシャウトで返礼する。と思えば、スロー・バラードでは静かな歌声がおそろしいほどの感情の深みにまで達する。

個人的には、これらの歌にいったい何度、どれだけ深く強く勇気づけられてきたことだったか。歌われているほとんどは、ティン・パン・アリー系のありふれたラヴソングである。しかし、歌の中味など関係がない。言葉は破片であっていいのだ。「意味」の代わりにここには「力」が、生きている人間が演ずる音楽の生き生きとした躍動がある。その力が、この1作をジャズ100年の歴史を語るに欠かせない名作とした。

  
しかしながら、聴いていて、何ともいいようのない違和感に襲われる瞬間がある。その違和感は、ダイナの歌唱そのものから発する。

例えば、「恋人よ我に帰れ」の最初のヴァース。

  The sky was blue and high above
  The moon was new and so was love

ダイナは、1語1語をおそろしく明瞭に発音しつつ歌う。ほら、あたしはこんなにもきちんと英語を発音できるのよ、とでもいいたげに。そうして、間違いなく意識的になされている明解な発音は、彼女の過剰な意識の存在を想像させる。

ダイナ・ワシントンは、しばしば「ブルースの女王」と呼ばれた。しかし、アメリカの黒人たちが同じ黒人たちを聴き役として歌うときのブルース独特の表現、一聴曖昧だが、黒人たちにあってはまさしく王道というべき独特の表現は彼女にはない。

彼女はブルースを得意としたが、ブルースは素材であるに過ぎなかった。『Dinah Jams』に参加した聴き手たちは歓声に感じられる野太い声の調子からして黒人主体だったと思われるが、彼女の歌唱は「黒人という同胞」に向けられたものではなかった。彼女の視野にはもっと広い世界があった。いや、端的にいうなら、彼女は人種の違いやジャズという音楽ジャンルの垣根を越えて、ポピュラー音楽という世界をまるごとその手におさめたかったのではないか。そういう野心の持ち主だったのではないか。そして、そのことが、彼女独特の歌いぶりにあらわれていたのではなかったか。

あるいは、ダイナはただ単にコンプレックスの強い人だったのかもしれない。何よりも、黒人であることからくるコンプレックス。黒人たちの身体能力が秀でていることを感じないではいられないような、のびやかでダイナミックな歌いぶり。あきれるほどのリズム感の素晴らしさ。ややハスキーな声を思う存分駆使した、感情表現の見事さ。彼女の歌は、黒人の優位性をこれでもか、これでもかと感じさせるものだった。しかし、彼女自身は、そのことに満足はできなかった……。

かぎりなく魅力的で刺激的なダイナ・ワシントンの歌。しかし、その歌声の底からは、彼女自身をあまりにも早い死へと追いやった何ものかが見えてくる気がしてならない。

(続く)

※参照=『ダイナ・ワシントン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』

訳詩

高橋悠治

(6月のコンサートのためにモンポウの歌曲の詩を訳した)

 魂をうたう (Cantar del Alma) サンフアン・デラクルス

あの永遠の泉の隠れ家
それがどこかはわかる
夜のなかでも

その源はどことも知れず
だがそれこそがすべての源
夜のなかでも

くらべるものもない美しさ
天も地もそこで飲む
夜のなかでも

その流れはゆたかに
地獄も天国もまた人も養う
夜のなかでも

泉から湧き出る流れは
みごとでつよい
夜のなかでも

生きた泉を求めるのなら
それはいのちのパンのなか
夜のなかでも

 きみの上には花ばかり (Damunt de nos nom_s flors) ジョセップ・ジャネス

きみの上には花ばかり
まるで白い供物のよう
光はきみのからだにふりそそぎ
枝にはもうもどらない

香りのいのちすべてが
口づけとともに贈られて
きみはかがやいていた
閉じた眼に充たされた光のせいで

せめて花のため息であれば
百合のようにきみに身をささげ
きみの胸の上で萎れ
そうなれば
きみのそばから去ってゆく
夜を知ることもなかっただろう

 遊びうた(4-5-6) 作者不詳

4.ギーコギーコ

ギーコギーコ
サンフアンの木こり
上もよく挽く
下もよく挽く

凧揚げ 何あげよう?
ドングリとパン
夜にはパンと梨
それとも梨とパン

5.パリ娘

パリの小娘
灰色の靴貸して
天国へ行くため
一人一人は
聖者の道を
二人並んで
空の道

6.鳥さん、かわいい鳥さん

鳥さん、鳥さん、かわいい鳥さん
そんなに急いでどこ行くの
通りへ
牧場へ
一二三

(次に ジョビンが作曲した『黒いオルフェ』のための詩二篇)

 幸せに (A Felicidade) ヴィニシウス・ジ・モライス

悲しみには 終わりがないが 幸せは終わる

幸せは風に舞う羽のよう
高く飛ぶのも とまらない風を
感じているあいだだけ

貧しい人の幸せは
祭りの幻
一年はたらいて ほんの一瞬
夢のなか

王様 海賊 花作りになって
灰の水曜日にはすべてが終わる

悲しみには終わりがないが 幸せは終わる
幸せは花びらの上の露のよう
平和なきらめき やさしくゆれて
恋の涙となって落ちる

幸せはきみの瞳のなかの夢
過ぎゆく夜は夜明けを探す
しずかにしてね 

一日のはじまりに元気にめざめたら
愛の口づけをしてくれるように

 モディーニャ (Modinha)  ヴィニシウス・ジ・モラエス

心がこんなに引き裂かれては
生きていけない
幻想にとらわれ
幻滅するだけ
ああ、こんなふうに生きるなんて
絶望の月の光が
憂鬱を心にまき散らす
そして詩を

悲しい歌が胸から出て
思いの種をまき
心のなかで泣いている
心のなかで