酔っぱらいのトラ

冨岡三智

今年はトラ年ということで、ジャワ舞踊(音楽)とトラの関係を無理やり探してみる…と、マチャン・ゴンベmacan ngombeという名称の、太鼓及び舞踊のスカラン(フレーズ)に思い至る。マチャンはジャワ語で「トラ」、ゴンベもジャワ語で「飲む」、ということで「酔っぱらいのトラ」という意味になる。日本でもトラというと酔っぱらいのことを言うけれど、トラと酔うことの間には何かイメージの連想が働くんだろうか…。

ところが、このマチャン・ゴンベという名称は一般的ではない。このスカランは、普通はウディ・ケンセルwedi kengserと呼ばれていて、有名な音楽家マルトパングラウィットが書いた太鼓奏法の本でも、また私が師事した何人かの舞踊の先生にも、そう呼ばれている。ウディ・ケンセルのウディはジャワ語で「砂」の意、「ケンセル」というのは踵を上げずに、床を滑るように移動するやり方で、砂が風や水などによって流されていく様から連想された語である。このパターンは、ガンビョンという舞踊の太鼓奏法で、一番最後に使われることになっている。ちょっと滑っては止まり、またちょっと滑っては止まり…という風に動く。(そう言われても、想像できないと思うけれど。)ガンビョンは、もともと太鼓奏者の繰り出すリズム・パターンに合わせて半ば即興的に踊る舞踊で、このパターンが来るともうおしまいという合図になり、最後にガンビョン共通の終わりのパターンに移行して終わる。

ガンビョンは元々は民間の、レデッと呼ばれる流しの女芸人が踊っていた(だから即興的なのだ)、品の良くない舞踊だったが、マンクヌガラン王家に取り入れられて洗練され、今のように、高校生も踊れるような、健全な舞踊になった。宮廷に取り入れられた際に、卑猥な振りは別のもので置き変えられたり、振付パターンが固定されて作品化され、舞踊に「人が生まれてから死ぬまでの各段階を象徴している」といった哲学的な意味が付与された。だから、最後に出てくるウディ・ケンセルは、人生の段階に喩えると、死を前にした老衰期に当たる、ということになる。

けれど、流しの女芸人の舞踊とくれば察しがつくように、ガンビョンに出てくる振付には、実はエロティックなニュアンスが満載である。ウディ・ケンセルではなくて、マチャン・ゴンベという名称を教えてくれたのは、元ラジオ局所属の有名な太鼓奏者(仮にW氏としておこう)だが、いまだに、W氏以外にこの名称を知っている人には出会っていない。W氏は、ガンビョンの各パターンは性行為の各段階を暗示している、と言う。ここまでは、ガンビョンに関する論文(ジャワ人が書いたもの)にも書いてある。W氏は続けて、マチャン・ゴンベというのは、最後にコトを終えてぐったり疲れた状態を表しているのだ、と言う…。ということは、ゴンベは酒に酔っ払ったという直接的な意味ではなくて、ぐったり疲れた状態ということなのか…。しかし論文にはそこまで書いてなかった。そもそもマチャン・ゴンベという名称でもないし。

マチャン・ゴンベという名称もあるんだろうかと、私は、当時太鼓のレッスンを受けていた芸大の若い先生に聞いてみた。この先生は、「自分は聞いたことがないけれど、語の雰囲気からして、レデッの人たちが使っていたのかもね」と反応した。なるほど、言われてみればそんな気もする。「W先生は大ベテランだし、在野での経験も広いから、そういう呼び方も知っているのかもしれない。」でもさすがに、この男性の若い先生に、「W先生は、このパターンには、コトを終えて…という意味があると言っておられたんですけど、聞いたことありますか?」とまでは聞けなかった。だが、聞いたらニヤニヤと反応してくれた可能性もある。

というわけで、ガンビョンという舞踊は、こんな風にダブル・イメージがある舞踊なのである。W先生が裏の意味を語ってくれた様子が今も思い出されるけれど、こんな猥談をしながら、昔の演奏家や踊り手は楽しんでいたのだろう。マチャン・ゴンベという動きのパターンは、コトが終わった後の疲労状態を表現するために作られたというよりも、動きが創られてから、それを見て周りの人達が妄想をふくらませていき、それにつれて、人によっては妄想を強調するように振りを変えていったのだろう。

新年早々の話としてはどうかという気もするけれど、トラにちなんだお話ということで御免こうむりたい。

蛇足だが、このマチャン・ゴンべの踊り方にはいくつか種類がある。太鼓の手の1フレーズは、A(滑って止まる)とB(ずっと止まる)という2種類を4つ組みあわせるのだが、私が師事した3人の舞踊の先生(所属がバラバラ)は皆違っていた。それぞれが、AABA、ABBA、AABBのパターンを主張する。最初の場合だと、滑って止まり、滑って止まり、止まったままで、また滑って止まる…が基本のパターンで、これを何フレーズか繰り返すことになる。どの先生も「要は太鼓に合わせりゃいいんだ!」と言い、それぞれの先生が口ずさむ太鼓のパターンは確かに動きと一致しているが、その太鼓のパターン自体が3種類ある。これ以外にも、例えばABABとかを主張する人だっているかもしれない。多分、Aパターンだけ、Bパターンだけというのはないだろうと思っているが。

イラク戦争から6年目

さとうまき

2009年、イラク戦争から6年目。2003年の3月20日、当時小学校に上がろうとしていた幼稚園児が、卒業するわけだから、実に長い戦争だ。僕は、2009年を卒業の年と位置づけ、もう本当に、こういう戦争を終わりにしようといきまいていたのだが、確かに治安は良くはなったものの、8月、10月、12月と、100人を越える死者をだしたテロが起こり、まだまだ、安心して住める国ではないどころか、復興も進んでいない。

2009年は、バスラを含め、6回イラク入りした。そこで、多くの子ども達に再会することができ、本当に大きくなっていたのにはびっくりした。そんな子ども達にスポットを充てて、絵本を2冊上梓した。

『おとなは、どうして戦争をするのⅡ イラク編』(新日本出版)
子ども達の、直面した困難と成長を記録し、童話作家の本木洋子さんにも、わかりやすく、イラク戦争の過ちを書いてもらった。

そして、年末に出来たのが、『ハウラの赤い花』(新日本出版)サマーワの白血病の少女、ハウラの絵だけで、絵本を作った。ハウラの絵を楽しめるように、絵本としての完成度を目指した。図書館などで、「いないいないばあ」「ぐりとぐら」とかと一緒に並ぶとうれしい。日本の子ども達が、イラクの子どもの絵を感じてほしい。

早速、出来立ての本を、6ヶ月のわが息子に見てもらった。ゼロ歳の子どもから楽しめる絵本というのは結構あるらしく、我が家も、童話館のブッククラブに登録し、毎月2冊づつ本が届くようになった。しかし、けらけら笑いながら、本を手にするも、すぐにかじりだし、隅を食べてしまった。これはと思い、あわてて取り上げる始末。赤ちゃんの唾液が馬鹿にできなく、あっという間に、本が溶けてしまうのである。

その昔、パレスチナで、友達の家に絵本がなく、「どうして、絵本を買ってあげないのか」とたずねた所、「一度買ってやったら、食ってしまったよ」というので、うーん、日本の子どもに比べてなんとたくましいのかと半ばあきれていたのだが。。。ゼロ歳児の読み聞かせは、なかなか根気がいるものだ。イラクでは、こういった赤ちゃんが、5歳になるまでに、(1000人中)100人は死んでしまうのだ。

イギリス政府がイラク戦争について、参加からイギリス軍が完全撤退した今年までの包括的検証をするということで、12月24日に「イラク調査委員会」の公聴会をロンドンで開いたという。ジョン・チルコット委員長は「イラクへの関与から教訓を学ぶために徹底的かつ客観的で公正な」報告書を来年末までにまとめる方針を示した。公聴会には、ブレアも証人として呼ばれるという。

そこで、日本でも、これはやらなきゃいけないと、市民のネットワークが立ち上がった。民主党は、もともと、イラク戦争に反対していたから、この検証には乗り気だが、いかんせん目の前の問題が山積しており、首相も、外務大臣も大忙しである。外務省の役人と話をしていたら、「道義的には、戦争に反対だった。しかし、日本にアメリカをとめる力はない、日米関係と国益を考えたら、戦争を支持するしかなかったであろう」という。民主党内でも、もし、当時私たちが与党だったら、やはり、アメリカを支持するしかなかったと思う。検証するのなら、日本の政策ではなく、ブッシュの政策だ。という意見。

大人は、国益で納得できても、子どもにはそういう話は通用しないだろう。今年も、僕は、子どもの目線でやりたいと思う。

というわけで、新年よろしくお願いします。

片岡義男さんを歩く(1)

若松恵子

1960年から1990年までの30年間。私が生まれ、物心がつき、仕事を得てひとり立ちするまでの時間。無意識のうちに大きな影響を受け続けたこの時代を、もう一度味わってみたい。そんな思いが発端でした。送り手としてその時代を過ごした片岡義男さんが見ていたもの、感じていたこと、時代と密接に関わりながら書かれた作品を通して、もう一度この時代を歩いてみたい。まだうまく言葉にできていない夢をもとに、インタビューをはじめることになりました。

――今日お会いするにあたって、年表をつくってみました。その年におこった事件や流行したこと、右はじに、その年に出版された片岡さんの著作名を入れています。そして、これが質問のリストです。

さて、どうしよう

――リストのはじから聞いていってもいいですか。

きちんと覚えている人は、はじから聞いていくとはじから答えてくれるのでしょうけど。僕は何も覚えてないからな・・・。60年代。始まったころは学生です。何でもない、「ただ月謝を払っているから学生です」という感じ。

――法学部ですね。

ええ。試験の日が早くて、発表も早くて、それで決めてしまった。あ、受かったって。体裁とか学校に行きたいわけじゃなくて、時間を稼ぎたかった。

――でも、違う意味でその時期勉強したのではなありませんか。

勉強は何かしたでしょうね、きっと。自分を材料に自分をどんどん特化したということかな。4年かけて自分を蒸留して1滴か2滴、それで行くしかないと覚悟を決めて卒業ですよ。ほんとうにバカだったな。どうしよう。

――そういうことは後になってみないと分かりませんよね。

自分がどれだけ馬鹿か?(笑)でも、うすうすは分かっていたな。1960年、大学2年生。

――最初にアメリカに行ったときのことを聞かせてください。「日本に居ると決めてからアメリカに行った」と小林信彦さんとの対談でおっしゃっていたので。

最初は14歳くらいです。見学しに行った。視察です。

――最初に降り立ったのはどこだったのですか。

ミッドウェイです。軍用機で立川から。ミッドウェイまで行って、そこで飛行機が故障してこの先には行かないと言われて、3日くらい後に別の飛行機で、ハワイに帰ったのです。

――行くことに迷ったりはしなかったのですか。

素直に行きましたよ。無鉄砲に何も考えない子どもでしたから。どんな印象もなかったな。

――日本に居ると決めてからアメリカに行ったのは、大学に入った頃かなと思いました。

いや、卒業してからです。要するに言葉の問題なのです。英語だとあくまでも具体的で現実的なのです。話し言葉だし、基本的には。人と人との関係のなかで具体的に何かができていく、なされていく、アクションを伴うのです。もちろん小説のように書かれた言葉を読むということもあるのですけれど。日本語の書き言葉、日本語に関する認識がもう少し深まるのです。子どもなりに。書き言葉の世界があるのです。話し言葉の他に。これはものすごく大事なことなのです。
小説を書こうとして書けない人がいるでしょう。それは日常の言葉、話し言葉が言葉の全部だと思っているからです。その外に、書き言葉があるのです。いつもの言葉の外に出て、もうひとつの言葉に入っていく、それがわからないと書けない。
そういう思いは、意識のすぐ下あたり、意識と無意識の中間あたりにおきてくるのです。言葉は、どちらかを選ぶかになるわけですから。英語は、何がどうすればどうなるかですからよく分かるわけです。アクションだし、人と人との具体的な関係なのですから。そうじゃない世界、日本語の書き言葉の世界というものがあるのです。・・という話が身に沁みて確定したのは、小説を最初にを書いたとき。「白い波の荒野へ」です。2日くらいで書いたのですが、その2日間がたいへんだった。どうしてかと言うと、書き言葉のなかに正式に入っていくのがたいへんだったから。それまでいろんな文章を書いていたけれど、片足は話し言葉にかかっていました。書き言葉として、できる限りきっちりした、妙な曲線の無い、妙なほつれの無い、角が真四角という、そういう書き言葉のなかに入っていかなくてはならなかった、それがたいへんだった。

――それは、獲得できたと思ったのですか。

とりあえず、スタートはできたのです。書き終えてから、1回書き直しました。ほとんど変わってなくて、言葉を整えただけのように言われたのだけれど、そういうことじゃなくて、日常の話し言葉的にだらしなくほつれている部分を整えたのです。その時の自分にできるかぎりきっちりと。気持ち悪くない程度に精巧に。
『C調英語教室』(三一書房 1963)が23歳、話し言葉に完全に片足がひっかかっています。しょうがないよね、最初だから。これが出た年から起算しても小説が出るまで10年。ちょうど10年かかっている。そんなふうに捉えた方がおもしろいです、僕としては。話し言葉からちょっとだけ書き言葉に寄った言葉で文章を書き始めるわけです。それもきっとモラトリアムですね。修行というか。原稿料をもらいながら練習している。書いていけば気がつくことがあるのですから。
それが60年代だったということが大きくてね。60年代ってすぐ終わるんです。ものすごく激変の時代だから、どんどん終わっていくのです。次の時代になっていく。68年位には完全に次の時代になっているのです。だから60年代半ばを過ぎると何か終わっていくなという感じがありました。今までの、冗談みたいな文章を書いていた日々が終わっていくなという思いがひしひしとした。

――そう感じない人もいたでしょうね。

そういう人は、時代の裂け目に落っこちていく。時代が終わっていくというのを、いろんなところで感じるのです。次の時代にむけて飛んだのが71年の『ぼくはプレスリーが大好き』(三一書房 1973)書き始めてちょうど10年めくらいです。絵に描いたようだよね。小説以外の文章で書き言葉に入っていくために書いた作品。日常とはきわめて遠い題材を選んでいます。最初に書いた波乗りの小説もそうですが、神保町で遊んでいた自分とまるで反対の状況を選ばないと、書き言葉の世界に入っていけなかった。そういう事を無意識に自覚しないでやっていました。頭で考えなかったからよかったのかな。
瀬戸内で過ごした経験が非常に大きかったかもしれない。海で泳げば海や空を全身で受けとめるように、東京でモラトリアムの大学生をやっているとモラトリアムということを全身で受けとめるわけです。文章を書く仕事を始めたりすると、文章を書くということを全身で受けとめるわけですから。

――モラトリアムというと、何もしないというイメージを抱きますが。

全身のこととして何かをやっていたのかもしれませんね。瀬戸内から東京に戻ってきてからは、しばらくつまらなかったな。唯一の楽しみは、やはり全身的なことなのですがアメリカのポピュラー音楽を聴くことだった。ロックンロールの始まりのカントリーやジャズ、全身で受けとめて非常に幸せな感じになるでしょう。頭で考えなかったから良かった。

――60年代はテディ片岡の時代です。「テディ」という名には、何か由来があるのですか。

あります。サリンジャーの9つの短編、あれの最後のタイトルが「テディ」というのです。名前を決めなければいけないという日にその本をたまたま持っていたのです。「テディにしましょう」「どうして?」「サリンジャーの本のここにあります。今見ていたのです」って。

――書かれていたものはテディという名前にあっています。

人の感じにも合っていたのじゃないかな。何だかわからない、トッポイ感じ。

――『僕はプレスリーが大好き』から片岡義男名義ですね。執筆していたのが1968年ごろ。今、ヒッピーや学生運動のことで1968年がちょっと注目されてます。そういうこととは関係なくせっぱつまった思いというのがあったのですか。

偶然でしょ。生まれたのも偶然ですから(笑)。要するに遊んでいた時代にけりをつけなければと思ったのです。

――そのための題材がプレスリーなのですか。

音楽です。これも全身性の問題です。全身で感じることといえばそれしかなかったから。

――けりがついたという感じはありましたか。

忙しかった。次の時代が来ているわけですから。いろいろ出てくるし、いろいろ消えていくし、いろいろ変わっていく・・前の時代を引きずりながら、次の時代も重なっていくのですから二重に忙しいのです。73年くらいには「ワンダーランド」が始まるわけでしょう。

――最初に書いたものについておしえてください。

翻訳です。60年か61年。神保町に洋書の露店があって、大学から都電で1本だし、よく行っていたのです。そこで小鷹信光さんと出会った。彼はすでに仕事をしていて。露店の親父を介して知り合って、つきあいが始まって、「翻訳してみる?」という話になって、「本当にやる?」って何度も聞かれたな。僕は「うん」と言えば「うん」なんだけど。ただ返事をしているだけに見えたのかな。それでリチャード・デミングの短編のテキストをくれた。できたのを小鷹さんに見てもらって、そのまま編集者に渡してもらって、掲載された。一語一語直されるのは厭だな、なんて思っていたのですが、そのままある日ゲラの直しが来た。校正の仕方は母親に聞いたかな。彼女は昔教授の秘書をしていたので、知っていたのです。

――ほとんど直しもなしに。

「しいて言えば漢字が多いかな」と言われたくらい。その瞬間に僕は書き手になってしまった。根拠なんてないし、実績なんてないけど。さっきの話と関係するけれど書き言葉のがわに気持ちとしては入っちゃった。

――それまで書いたことがなかったのに、苦労もなく。

置き換えれば良かったから。その当時、僕が知っている程度の日本語に置き換えればいいのですから。もとの作品というのがその程度だったのでしょう。

――題名をおぼえてらっしゃいますか。

覚えていないな。『マンハント』に載りました。

――そして、他の記事も書かせてみようということになるのですね。

ごく気軽に、書かせてみたという感じじゃないかな。それはそれでたいへん幸せなことなのです。すきまの多い自由な時代。書き手と編集者の2人の関係で話が決まっていく。書いたものが良ければ、活字になっていく時代。おそらく、すぐに連載が始まっているはずです。

――『もだんめりけん珍本市』(久保書店 1964)になったコラムですね。

送り出しがわのスタイルとして、本にするというのが最初からはっきりと傾向としてあった。年表を最初から細かく追っていくと、10年でひと区切りついている。

――でも、書き続ける10年というのは、短くはありません。

そうだね。でもあっという間だった。具体的な話と、言葉の問題とがうまくからみあった年表ができるとおもしろいと思う。具体的な細かい話を順番に追っていくとおもしろいかもしれないね。今度はもう少し緻密に、日めくりのように。

――どこからはじめましょうか?

1960年、20歳の時から。思い出しておきます。

(2009年12月21日 下北沢)

オトメンと指を差されて(19)

大久保ゆう

水牛をお読みの皆様、あけましておめでとうございます。旧年中はどうもありがとうございました。本年もよろしくお願い致します。

さて、年始のご挨拶が住んだところで、今年も今年とて相も変わらずオトメンなわけですが、お正月とオトメンのつながりを考えてみると、たとえばお節料理やお雑煮など食べ物が第一に頭へ浮かんでくるわけなのですが、そもそも私がお節料理を苦手としていてなおかつひとり暮らしをしていると自分のためにお節料理を作ったりしないということもあり、またお雑煮もインスタントの御味噌汁やお吸い物+お餅(電子レンジ調理)というふうに簡便にすませてしまうため、あまり語れることがございません。

しかし。

お正月と言えばお年玉よりも年賀状よりも餅つきよりも羽子板よりも凧揚げよりもあれがあるじゃありませんかあれですよあれあれあれ。初詣の御神酒も格別ですがそれよりも何よりも。

――福袋!

昨今の福袋商戦の激化・進化により男性向け福袋もずいぶん増えてきておりまして、メンズファッションの福袋なんていうものもあるわけですが、個人的にはやっぱり行きつけのおしゃれな雑貨屋さんなどに出向いて、そこの福袋などを買ったりした方が幸せになれるんですよね。

福袋を買うのって難しいですけど、やっぱり私はこの「行きつけのお店で買う」派です。あまりよく知らないお店やデパートなどに行って、福袋という言葉に浮かれてついつい不必要なものを買ってしまうよりも、自分の気に入っているものを扱っているところで買ったものなら、何が入っているにせよ嬉しいということで。(今では中身が見えているものも多いですから、いらないとわかってて買う、という事態がありえるわけですが。)

でもでも最近はデパ地下ならスイーツ福袋とかあるんですよねそうするとやっぱり出向いてしまってそのついでに他の福袋にも手を出したりなんかしちゃqあwせdrftgyふじこlp;@

すいません、取り乱しました。

いやそんな話ではなくて、本当は年賀状のことでも書きたいんですけどね。もっと若い頃はお手製のかわいい年賀状などをちまちまぺけぺけと作ったりして、オトメンらしさを発揮していたわけですが、近ごろは年賀状に注力できる時間的余裕がなくて、もう長い間ずっと色んな方々に不義理・失礼をばしております。

でもできるだけ自分で絵は描かないようにしていました。私が真面目に絵を描くと、ありがたいことに「下手」とは言われないのですが、「ものすごく恐い」「何があったの?」「ダイジョウブ?」などと聞かれてしまうので、なるべくやらないようにと……。(どうやら普段の言動やら振る舞いやら何やらと、かなり齟齬があるらしく。その点に関しては、小説などのオリジナルを創ったときと同様の反応なのですが。)

よく言われるんです、「書くと真面目、訳すと繊細、創ると変態」って。

な、ななな、なんなんだそれはっ! と思ったところで事実なのでどうしようもありません。翻訳だけを見られている分にはどうということもないのですが、イメージを壊されたくない人はできるだけオリジナルのものは見ないでくださいね、と喚起を努めるしかございません。(そのためにペンネームが違うというわけでもありますし。)

あけましておめでたいときなのに、人様に私のグロい絵を見せるわけにはいかない、というわけで描きはしないのですが、もしかすると私にそもそも年賀状自体を書かせない方が全人類的には幸せなのかもしれません。たいていの場合、その年賀状には新年のご挨拶とともに、私のしたためた意味不明で不可解なオリジナルの文字列(好意的に取るならばポエム)が書かれていたのですから。

年賀状を書かない(描かない)――大人になった私としては、たいへん賢明な判断です。

当時私の年賀状をいただいていた人は、いったい何を想っていたのだろう、とときどき不安になることがあります。ご友人の方々におかれましては「う〜ん、ユウちゃんなら仕方ないや」と思われていたのではないかと愚考しますが、なかにはきっと私の本性をご存じない方もおられたはずなので、いったいどうだったのだろうな、と。

ちなみに私はぬいぐるみが好きなのですが、買うのはたいてい「かわいい」と言っていいのか「キモチワルイ」と言っていいのか困ってしまうようなぬいぐるみばかりです。

つまりはオカルト少年とオトメンのハイブリッドだったというわけですね。ここはオトメンの連載なので詳しくはお話しできませんが、それはもうそれはもう、オカルト方面へのはまりっぷりはひどかったものです。

というわけで、今の私のお正月はせいぜい福袋を買うくらいなので、全人類は平和なのでした。

過去の文章を探してみた

大野晋

先月の大久保さんの話を読んで、昔、おかしなことを考えたなあ、と過去の文章を探してみる気になった。ところが、その文章がどこを探しても見つからない。文章を作成したPCはとうの昔になくなっている。掲載された先の機関はもうない。なので、数年前まで残っていたサイトの残骸ももう既に存在しない。では、どこかにプリントアウトしたものがないか?探してみたが、手元の資料から探し出せなかった。ほとほと困り果てて、過去のWebサイトのアーカイブを何年分もさかのぼって、ようやく該当文章にたどりついた。

自分の書いた文章なのに、その文章にたどりつけない。インターネット時代の著作物はこうして消えていく。消えた、いや、存在したことを示せない著作物はないのと同じことだ。現在の著作権は無登録主義だが、登録の必要性はなくとも著作物が消え去れば著作権は消滅したも同然。

さて、探しだした文章はこんなものだったが、果たして探しまわる価値があったのかどうか。

「そもそも、欧米語と日本語では認識の仕方が違うのでは?」

おそらく、筆文字を書かれるT氏ならわかると思いますが、表音を主とする欧米語(代表例:英語)と表形文字を使用する日本語とでは、私たちの言葉の認識に違いがあるように思えます。これは、ワープロの文字変換の過程で気付いたのですが、私たちが手で文字を書く時には文字の形で文章を考えているようです。一方、ワープロ等のかな漢字変換で文章を書く時には、音で文章を考えている気がしています。要は、手(筆)で書く時には文章自体をキャラクタとして認識しながら文章を作成し、ワープロ等で作成する時には、文章を話し言葉と同じプロセスで作成している。(私自身が、文章を書く時に意識してみるとこういう結果になりました。もし、読まれる方で興味がある方がいらしましたら、気をつけて、どのように文章を作っているか見て下さい。)このため、コンピュータのWEBやチャット、会議室という表現手段の上では話し言葉によるコミュニケーションが取られるように思えます。

さて、欧米人や他の表音言語を使用する人種には、そもそも、このような認識の違いが起こりにくい。(ないとは言いません。)なぜならば、言語の認識が視覚によるものと聴覚によるもので異なっていないからです。

で、何が言いたいのかというと、この表形言語を使用する私たちは、知らず知らずのうちに他の種族と違って、視覚による表現、コミュニケーションが発達(というか、欧米人とは違う形になって)しているのではないか。という事です。マンガ、アニメーション、ゲームと私たち日本人が海外に発進してきた文化は、そもそも、他の種族と異なる形に発達してきた私たちの表現形態、要は漢字というものを母体に、物事をデフォルメし、抽象化させる能力が原動力になっているように思えるのです。さて、私も日本語が好きです。しかも、日本語の持つ、字として、文章としての表現力の持っている力がとても好きです。書道という、字や文章をそのまま、視覚表現としてしまえるのは日本語と中国語(朝鮮半島の言葉はハングルオンリーの方向に向かいそうですから)の特権なのではないかとも思います。そして、この日本語の特異性を背景にした情報処理技術が日本から飛び出さないかと期待を持っている次第です。

四辻のブルース その二

仲宗根浩

十月にライ・クーダーの八十年代のアルバム及びサントラが紙ジャケ、リマスタリングされたのをまとめ買いしたのを始め、十月のマイルスのボックスセット、そして十二月はジミ・ヘンドリックスの全アルバムが紙ジャケ、SHMーCDとなって発売。これまで手を出してしまうと、クロスロードで悪魔に魂を売ってしまうことになるので堪えた。それで夜な夜な、修理したギターを手に取り弦高を調整し、オクターヴ調整をしこしこやりながら、マイルスのボックスセットを最初から聴こうとおもうと、おもっきりジャズだった。まああたりまえだ。最初にレコードで耳にしたマイルスの演奏は「バグズ・グルーヴ」だったなと思い出しつつジャズどっぷりは疲れる。自分がリアルタイムだった復活した八十年代から聴きはじめた。そのころのライヴレポートではいろいろ叩かれていたなあ、と思い出しながら、聴くとファンクとロックでやられた。久々に聴いたマイク・スターンのギターはミーハーのこころにくすぐり、エフェクターのコーラスをかませてマイク・スターンごっこしたりして遊んでいたら、毎月に千六百円ぐらいしか使われない携帯電話に緊急出勤体制のメールが入る。年末の休みがすべて吹っ飛んだ。昔から年末、正月は仕事が入るようになっているし、世の中お正月休みを貰えるのはわずかな人々だけと思いつつ、仕事場で声だし動き回る。

知り合いから普天間基地のことに触れたメールが来た。うちは嘉手納基地の近くだから近辺の住宅は防音工事というものが施されている。窓をアルミサッシにしてクーラー及び換気扇が備え付けられただけの防音。でも飛行機が上を飛んだらテレビの音は聞こえない。ここ最近のニュースでの「普天間」のイントネーションに違和感を覚えながら、取り上げはするけどそんなに興味がないんだろうなあ、とおもいながら、晦日にクリームとは全然違うライ・クーダーの「クロス・ロード」のカヴァーを聴いて、いつものように酔っぱらいながら寝て起きたら仕事に行く。

製本かい摘みましては(57)

四釜裕子

引っ越した友人に大好きだというホッキョクグマの写真集を送ると、荷物に囲まれて途方に暮れてます、ホッキョクグマのように身ひとつで生きられたらいいのにね、と返事が届く。おりしも年内最後のゴミ収集日の前日で、まったくそうだと掃除を終えて、夕方、三遊亭鳳楽『文七元結』を聞きに行く。腕のいい左官屋だが博打好きの長兵衛の家は着るものもみな質に入れていて、案じた娘がこっそり吉原へ身売りに出向いたその翌日、賭場で身ぐるみ剥がれて半纏一枚で帰って来た長兵衛が、娘に会いに行くために女房が着ていたたった1枚の着物を借りるのだ。身ひとつに着物1枚ずつではじまる一家の話、生きられぬわけはなさそうだけど……。

身ひとつで生きられないなら身ひとつで死ぬこともできない。野見山暁治さんが『四百字のデッサン』に書いた椎名其二の言葉を思い出す。《何て人間はぶざまなんだ、鳥や獣のようにひっそりと自分だけで『死』を処理できないものなのか》。虐殺された大杉栄のあとを受けてファーブルの『昆虫記』第2〜4巻を翻訳した椎名其二(1887-1962)は、のちにパリで製本を生業にした。晩年は息子に妻を託して自らはパリ郊外の知人の別荘で1人暮らし、最後は身寄りのない者となのり自ら病院へ入って息をひきとったそうである。

蜷川譲さんの『パリに死す 評伝・椎名其二』には椎名が製本をはじめたいきさつが描かれている。妻子を抱え生活に困窮していた戦後のパリで、40年来親しくしてきたヴラン書店の店主に突如こう告げたそうである。「今度、製本屋をはじめる」。道具も技術ももちろん客などあるわけがない。手元にある古い本をばらして綴じ直して糊づけすることからはじめるつもりだと言う。店主からおよそ1万フランの援助を得て最低限の道具を揃えたが、知り合いの製本屋に秘伝だからと技術の伝授を断られ、やむなくひたすら自分の古い本をばらしてはその構造と技術を独学したらしい。元来器用でこだわりの人であったのだろう。数年で習得して客もつく。森有正もそのひとりであったが、だからといって豊かに暮らしたわけではない。

《たまに椎名さんの好きな本なぞが入りこむと、パリ中を歩きまわって色や模様の選択が異常にうるさくなり、約束の日までに出来上がるということは先ずなかった。 そんなにお客を困らせるぐらいなら、誰か傭ったらどうですか。とあるとき、私は山積みになったままの仮綴じの本を眺めて椎名さんに言った。何気なく言ったつもりだったが椎名さんはそのとき真剣になっておこった。きみは私に搾取しろというんですかい。手に職をもち、人の生活をさまたげず、自分の働いた分だけの報酬を手にすること。これは椎名さんの信条だったのだ》(『四百字のデッサン』)

椎名が亡くなる1年前の様子は、やはり野見山さんが『遠ざかる風景』に書いている。弱った体でもはや仕事などできるはずもないのに、友人知人を廻って金を借り、すでに売り払っていた製本道具をまた買おうとしたらしい。《戻すあてもない大金を、なんだって平気で借りてきたのか。当座の生活費を借りる方が、老人の意には反しても、まだ迷惑をかけないで済む。今から金を返しにいきましょう……》。野見山さんはそう言って、《そのための協力をこばんだ》。『パリに死す』の中で蜷川譲さんはこの一節にも触れて、その判断は好きなようにさせる愛と尊厳が欠けていたのではないかと書いた。これを読んで愛だとか尊厳だとかを考えた。相手が老人であることが、なにか特別なことになるのだろうか。会ったときに33歳年上であっただけの、乱暴ではあるが大切に思う友人への愛と尊厳に満ちたそのままの言葉に思える。

『文七元結』は、真面目に働いて娘を呼び戻すためにと女郎屋の女将が長兵衛に貸した50両が、通りすがりの男・文七の身投げを思いとどまらせてさらに縁を呼ぶ話だ。見ず知らずだろうが親子だろうが人の命より50両が安いことは確かだ、そこにどんな理屈があるか。長兵衛はこしらえる腕に自信があるから、50両くらいなんとかなると考えてもいただろう。江戸で職人は「つくる」でなくて「こしらえる」と言ったと鳳楽師匠がまくらで話した。『元犬』では白犬が言う。ヒトとなれば裸じゃいれねぇ。腰に1枚巻いてだな、働かなくちゃあいけねぇんだ。角館生まれで日仏を行き来した其二親方を主人公に、新作落語『巴里製本』なんて聞いてみたい。

メキシコ便り(28)コロンビア

金野広美

太古から続く悠久の時を感じさせてくれたギアナ高地をあとに、コロンビアの首都ボゴタに着きました。ここコロンビアは外務省の「渡航の是非を検討するように」という通達が出ているため、みんな非常に危険だと思い行く人が少ないのでしょうか、ほとんど旅の情報がありません。私のガイドブックにもボゴタの地図もなければ、地方都市の記事も3箇所しか載っていません。それもほんの少しです。日本にいて外務省の通達だけを見ているとコロンビア全土が危険だらけといった印象を受けますが、実際毎日そこで暮らしている人もいるわけだし、確かに外務省が危惧するような危険な場所も多くあるでしょうが、そうではない静かな場所もたくさんありそうで、これは行ってみなければわからないのではと常々感じていました。

ボゴタはアンデス山脈の東、標高2600メートルの高さにある近代的な高層ビルとコロニアルな建物が混在する人口700万の大都市です。コーヒーの国だけあって多くのコーヒーショップが軒を連ね、パン・デ・ケソ(とてもおいしいチーズを焼きこんだ丸いパン。1000ペソ、日本円で約50円)を食べながらコーヒー(日本円で70円から100円)を飲む人たちがくつろいでいます。また博物館、美術館がたくさんあり内容はとても充実しています。その中のひとつ、黄金博物館に行ってみました。

ボゴタはスペイン人がやって来る前、高度な文明を築いたチブチャ族の都があったところで、彼らの首領は金粉を体に塗り、黄金の装身具をつけ儀式に臨んだということで、これがエル・ドラド(黄金郷)伝説を生み出したといわれています。この博物館には金製品2万点余りが展示され、ヒョウやワニ、鳥などの動物や人物などを表現したその細かい細工には目をみはるものがありました。

「黄金の部屋」と名づけられた部屋に入ると中は真っ暗でインディヘナの音楽だけが流れています。しかし一瞬、電気がつき、明るくなったかと思うとまわりはすべて金、金、金。光り輝く黄金でデザインされた流れるような文様は丸い部屋全体がひとつの美術工芸品のようです。私は、金は派手すぎてあまり好きではないのですが、このときばかりはその美しさに見とれてしまいました。

また、コロンビアのメデジン出身のフェルナンド・ボテロが自らの作品やコレクションを国家に寄贈して造られた「ボテロ寄贈館」もダリ、シャガール、ピカソなど多数の有名どころが並び、なかなか見ごたえのある美術館でした。ほかにもディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロ特別展を開催していた国立博物館など何か所か回りましたが、それぞれ展示に工夫がこらされ、センスのいいミュージアムが多かったように思います。

夕方、通りを歩いていると楽しげな音楽が流れてきました。アルパ(ハープ)とギターをかかえた辻音楽師が3人で演奏しています。よく見るとアルパをひいているのは少年です。これがなかなかうまかったので声をかけてみました。彼は13歳のオルマン君でお父さんとその友人との3人でコロンビアの大衆音楽ジャネーラを演奏しているとのことでした。そのうちに知り合いの人が通りがかり、みんなでマラカスなどを持ち演奏を始めました。私にも歌えとうながすので一緒にアドリブで声をいれました。自分たちが楽しんでいるだけにしか見えないにもかかわらず道行く人はお金を入れていきます。ちょっと不思議な気分になりましたが、とても楽しかったです。

お父さんと一緒にその場にいたオルマン君の友人のファン・デビッド君、11歳は日本にとても興味を持っているらしく、ずっと日本について質問してきます。コロンビアでも日本の漫画が多く放映されているので日本に親しみがあるということですが、その質問内容はなかなか高度で「なぜ日本はエレクトロ技術が高いのか」などと聞いてきます。11歳のコロンビアの少年にそんな質問をされるとは思っていなかったので、ちょっとびっくりしながらもわかりやすく説明するのに四苦八苦してしまいました。

そういえばインターネット・カフェで日本のニュースを読んでいた時にもカップルから声をかけられ、日本についての質問攻めにあいました。そして別れ際に漢字で自分の名前を書いて欲しいといわれ、茉莉亜(マリア)、辺羅留土(ヘラルド)と書いてあげると大喜びされ、二人は大事そうにその紙きれを持って帰りました。こんなに日本から遠い国で、日本に興味を持っているコロンビア人に会えてちょっとうれしくなった1日でした。

次の日、ボゴタから北へバスで1時間半のところにあるシバキラの町に行きました。ここには岩塩の鉱山があり、塩で作られた教会があるのです。中に入ると塩の大きな十字架がある礼拝堂がたくさんあり、この鉱山全体が教会になっています。今では別の鉱山で35人が働いているだけということでしたが、この十字架を見た時、多くの礼拝堂をつくった人たちは、暗い鉱山の中での厳しい労働の安全を神に祈りたかったんだろうな、などとちょっとつらい気持ちになりました。

その夜、夜行バスに乗り太平洋岸に近いコロンビア第3の都市カリに行きました。朝5時半に着き、ホテルを探して落ち着きシャワーを。ボゴタは寒かったのにここは暑い。じっとしていても汗が噴きでてきます。街の中心のマリア公園では珍しくかき氷屋さんがあったので思わず食べてしまいました。バナナやマンゴーをいっぱい入れてくれて1000ペソ(日本円で約50円)安いです。

メキシコではいろいろ悪い噂があり、私はおまわりさんを見ると避けて通るのですが、ここのおまわりさんはちょっと違って本当に親切です。私が果物屋さんを探してうろうろしていると、声をかけてくれそこまで連れて行ってくれます。そして別の場所をたずねても「そこだとタクシーが便利だ」とタクシー運転手を探して私を目的地に連れて行くよう指示してくれます。メキシコでは考えられない、もう感激です。メキシコのおまわりさんは、その体ではとうてい泥棒など追いかけられないでしょうというおデブさんがいっぱいですが、カリのおまわりさんは背が高く、すらっとしていて、とてもかっこいいおにいさんでした。

次の日の朝6時半のバスで南に9時間、サン・アグスティンに行きました。ここは紀元前3300年ごろから紀元前3000年くらいに起こったといわれているアグスティナ文化発祥の地で多くの石像が残っています。馬でしか行けない場所があり、四方に散らばった遺跡を5時間かけてめぐらなければなりません。乗馬はまったくやったことがないのですが、馬は初心者でも乗せられるように調教されていると聞き、乗ってみることにしました。

朝9時、ガイドに助けてもらいながら生まれて初めて馬に乗りました。何とか乗れましたがものすごく怖い。しかし馬は始めはゆっくり歩いてくれるので、少しずつ慣れてきました。慣れるとなかなか気持ちがいいものです。

まず最初に訪ねたエル・タブロン遺跡にはアントロポソモルファといって半分人間、半分動物の石像があり、顔は人間なのですが、口がジャガーというなかなか興味深い相をしていました。チャキーラ、ラ・ペロタ、エル・プルタルと順に緑に囲まれた山の中の遺跡をめぐりました。赤や青の色がわずかに残っている男女の石像は、まるでお墓を守っているかのようにその前に立ち、なんだかけなげでとてもかわいらしかったです。このころには馬にも大分慣れ、馬上からガイドに質問する余裕も出てきていました。

しかし、帰り道、馬は登りになると、勢いをつけるためでしょうか、急に走りだしました。ヒェー怖い、あぶみを力いっぱいふんばりましたが、振り落とされそうで生きた心地がしません。おまけに私の馬は道の真ん中を走らず、わきの草がいっぱい生えているところを走るのです。そこには木があり枝が張り出しています。顔を枝にひっかかれそうで、恐ろしいといったらありません。頭を低くしながらなんとか走り抜けましたが、もうくったくたになりました。

そしてその夜はもう悲惨。体中痛くて、おまけにお尻の皮が直径3センチほど剥けているではありませんか。でっかいバンドエイドなんてないし、シャワーをするとお湯がしみて痛いし、もう馬なんて2度と乗りたくないと思ってしまった私の乗馬初体験でした。

体中サロンパスだらけで眠った次の日、考古学公園に行きました。ここはきれいに整備され多くの石像が展示されています。特に小高い丘になっているアルト・デ・ジャバパテスは一面芝生で360度の眺望がひらけ、緑あふれた美しい中に石像たちがかわいらしく立っていました。ここの警備をしているエルネストはいつも一人なのですが、この仕事をとても気にいっていると話してくれました。というのはこの丘はいつもさわやかな風が吹き、その風にふかれながら勉強できるからということで、英語を独学しているそうです。スペイン語と英語の両方で書かれたガイドブックを見せながら、ここ以外のコロンビアの遺跡についてもいろいろ教えてくれました。

次の日、国境越えをするため朝6時サン・アグスティンを出発。乗り合いタクシーでピタリートへ。ここからバスでモコア、パスト、国境の町イピアーレスまで行くつもりだったのですが、モコアからパストまでがすごい道で時間がかかり、イピアーレスまでたどりつけませんでした。2、3000メートルはあるだろうという高い山を、バス1台がやっと通れる幅だけの、ガードレールもないじゃり道をのろのろと曲がりくねりながら登って行くのです。もし対向車とぶつかったらどうするの、と思っていると途中2時間ほど行くとトラックと鉢合わせしました。両方の運転手がなにやら話しあって、結局トラックの方がバックしましたが、もしバスの方がバックするのだったら恐ろしくて身も凍ってしまっていただろうと思います。バスの窓の下は目もくらみそうな深い谷。怖くて怖くて下を見ることなどできません。無理やり眠ろうとしましたが、何せガタガタ道、揺れて揺れて眠ることもできません。運転手に「なんて怖い道なの、あと何時間かかる?」と尋ねていると一人の女性がとなりに座るように言ってくれ、途中でお菓子も買ってくれました。彼女は病院に行くため月に1度このバスに乗るそうですが、私は2度と乗りたくないと思いました。

パストで1泊したあと、次の日早くイピアーレスへ行きました。国境ではたくさんの両替商がたむろしています。ここで余ったコロンビアペソからドルに両替をしたのですが、どうも受け取ったお金が少ないような気がして自分の計算機でやり直しました。すると両替商の計算機に細工がしてあったのでしょう、33ドルもごまかされていたのです。そのことを指摘すると「ばれたか」というようなばつの悪そうな顔をしながら33ドル渡してくれましたが、転んでもただでは起きぬ小悪党。なんとその中に偽札をまぜていたのです。

ビアフラ/69/東京

くぼたのぞみ

そこから
きみは
歩いてきた

ことばを
知ったのは20年後で
69年ではない

写真は
真夏の東京の駅頭にあり
水煙が
真冬の本郷にたちこめた年
おぼえてる?
ミニスカートにサンダルばきの
きみがそれを見たのは
クワシオルコル
巣鴨だったか大塚だったか

バルーンのお腹に
枯れ枝の手足
パネルに貼られた写真は
足早に通りすぎる者の目にも焼きつき
それでいて
どこかうさんくさい埃もかぶり
モノクロだったから
わからなかった あなたの
抜ける髪の毛が赤さび色だったなんて

そんなプロパガンダ元年
疑いをもって ひとりで
歩くこと 精神の
ひのようじんに
5人組はいらない

69はことばがこわれた年

そこからきみは歩いてきた
ほとんどひとり
剥がれるように
まっさかさまに
日本語の海へ
モンデットは波を見たの?

あなたが死んだとき世界は沈黙していた

ふたしかな
恩寵

恥辱
が裏と表だなんて
合点が行かない粉雪の舗道から
歩いてきて
歩いていて
歩いている

アジアのごはん(33)おでんのルーツ!

森下ヒバリ

おでんを作ろうと思い、いつもの引き売りの有機八百屋さんに電話した。年末なので配達のみの時期なのである。「大根と、板コンニャクと、ごぼ天とジャコ天ありますか? おでんの材料なんですが」「ごぼ天もジャコ天も、てんぷら系もちくわも売り切れです」

しまった。この店で扱っている練り物はとてもおいしいので、近所のスーパーの練り物だとおでんの味がかなり落ちてしまう。くっ、もっと早く注文しておけばよかった。

おでんに練り物はかかせない。練り物から出るダシがおでんのひなびた何ともいえないあの味をかもし出すのである。練り物が入っていないと、ただの煮物である。

まあ、牛すじとかタコとか鯨のコロなどを入れる地域もあるのだが、やはりおでんの具の三種の神器は1に大根、2にコンニャクそして3にごぼう天やジャコ天、ちくわ、はんぺんなどの魚の練り物だ。この三種はどれも欠かすわけにはいかない。それから好みで茹でタマゴ、焼き豆腐、じゃがいも、昆布巻き、厚揚げ、揚げのモチ入り巾着などなどと続く。

各家庭や地域の好みで、「なに言っとりゃーす、味噌煮込みだがね!」などと怒られそうなのだが、現在の日本でのいわゆる「おでん」の基本形として、コンニャク・大根・練り物が必ず入り、昆布や鰹などのダシ汁と醤油でコトコト煮込んだ煮物、といちおうここで定義しておく。

うちのおでんの基本のダシは昆布とかつお節。味付けはうすくち醤油とみりん少々。ほどほどにコッテリ味に仕上げる。関西風というとうす味、と思われる方も多いだろうが、関西の味の真髄はダシにあるのであって、関西の料理がすべからくうす味というのはまったくの幻想である。関西といっても大阪の料理はけっこうコテコテが多いし、京都でさえも下町は甘辛コッテリ味が大好きだ。

わたしの生まれは岡山だが、学生時代を京都で過ごし、出版社に就職して東京に出た。初出勤の日にいきなりサービス残業をやらされ、それでみんなで夕食に近所の店から出前を取った。わたしはおかめうどんか何かを頼んだのだが、それが届いて、箸をとったときのショックをいまだに忘れない。「う、まっ黒のダシ汁! な、なにこれ?」そして、そのうどんに口をつけたときのさらなるショック。「×××(自粛)!これ、お湯に醤油入れただけ?」

まあ、これは二十年以上前の話なので、東京のうどんのダシ汁も進化しているとは思うのであるが、好意的に言えば、東京では濃い目のしょうゆの味が麺にからむところを楽しむのであって、関西のズルズル飲んでおいしいダシ汁とは成り立ちが違う。つまり、関西で慣れ親しんでいた、ダシのようくきいた汁うどんとはあまりにも違ったのでショックを受けたのである。もっとも、箸を置いて、すぐさま京都に帰りたくなったのは、まあ事実であるが。

関西ではおでんのことをもともと「かんとだき」と呼んでいた。「だき」は「大根炊き」「お揚げと大根の炊いたん」などという関西風の煮物の呼び方の「炊き」である。「かんとだき」は、なぜか「かんと煮」または「関東煮」などと漢字では表記される。しかし「かんと」であって、「かんとう」ではけっしてない。

「おでん」のルーツは豆腐田楽にある、というのが現在のおでん業界、おでん愛好家などの主な意見である。その主張は、だいたいこんな感じである。<田楽は、茹でた豆腐に串を打ち、味噌をぬって焙ったものだが、それを「お田」と呼んでいた。(田楽が田楽と呼ばれるようになったのは諸説あるが、それはおいといて)それが、江戸時代に屋台で売られて庶民に大人気になる。江戸末期ごろ、それまでの屋台の焼き田楽が、味噌煮込み田楽、しょうゆ煮込み田楽になる。それが関西に伝わって、いままでの焼き田楽と区別するために「関東煮(かんとうだき)」と呼ばれた。つまり、つゆだくさんの煮込み田楽は関東から関西に伝わったのものである。「関東煮」縮まって「かんとだき」と呼ばれ大人気となった。これが現在の「おでん」のもとである>

これらのおでん江戸起源説では、「かんとだき」の漢字が、「関東煮」となっているために煮込みおでんが関東から関西へ伝わったという根拠のひとつにされていることが多い。もうひとつの根拠は、江戸末期に江戸の屋台のおでんが、焼き味噌田楽から煮込み田楽に変わったから、それが発祥、というものだ。さらにおでんは濃いくち醤油のコッテリ味だから関東起源、とか。

「かんとだき」が関西でも「関東煮」と表記されるのは、どうやら日清戦争のときの兵士向けの自炊マニュアル冊子が始まりのようなのだ。この資料をどこかにやってしまったので、うろ覚えなのだが、その内容は「関西に、関東炊き・関東煮という煮物があり、簡単でおいしく大人数のために作りやすい・・」として紹介されていたのである。その後、「かんとだき」は文字表記が「関東煮」として流布することとなったと思われる。

しかし。だいたい関西人が、関東から伝わった煮物を「関東煮」などと呼んで重宝する、というのはどうも不自然である。関西人の気質としてありえない。しかもなんで「関東煮」で「江戸炊き」じゃないの? それまであった焙り田楽のおでんと区別するなら「煮込みおでん」でいいではないか。しかも江戸末期といえば大阪は堺が国際港で大変にぎわった商業都市。食い倒れの町でもある。料理も関西の方が格段に洗練されていた。ダシのきいていない江戸風の食べ物を当時の関西人が見下していたであろうことは想像に難くない。

まず、「かんとだき」が関東から伝わったものである、という説を聞いて思ったのはこういう不自然さであった。そこへ、「かんとだき」は「関東煮」ではなく「広東煮」である、という話を聞いた。「かんとんだき」の「ん」が落ちて「かんとだき」になったのであると。

大阪の日本橋道頓堀にある創業弘化元年(1844年)のおでん屋さん「たこ梅」の言い伝えによると、たこ梅の「かんとだき」は現在では「関東煮」と表記されているものの、初代が堺の出島の中国人(広東人)たちの煮物料理を食べて、こらウマい!と感動して自分で工夫して店で売り始めたのがはじまりだという。店の公式見解としてはおでんのルーツはいろいろな説があり・・、として自らがおでんのルーツであるという強硬な主張はしていないのだが、「たこ梅」の「かんとだき」は広東人の煮物を意味する「広東煮(かんとんだき→かんとだき)」であるとしている。広東人の煮物の名前は分からなかったようである。ちなみに「たこ梅」の「かんとだき」はまさに正真正銘「おでん」である。ん? 広東の煮物? おでんのもととなりそうな広東の煮物といえば、あれしかない。それは「醸豆腐(ヨントーフー)」だ。「醸豆腐」とは、もともと豆腐の肉詰めのことであるが、この豆腐肉詰め、魚の練り物各種、大根を一緒にスープ煮した料理も、「醸豆腐」と呼ぶ。この「醸豆腐」は広東人の移住者の多いシンガポールやマレーシアでは在住日本人たちの間でひそかに「おでん」と呼ばれて広東料理屋台で愛食されているという。

ちなみにタイでは、「醸豆腐」に麺を入れるバージョンが進化したものが、華僑があがなう魚つみれ入りの汁麺としてバンコクを中心に存在しており、「醸豆腐」の気配は汁麺の具にたまに現れる大根の炊いたのや3センチ角の肉詰め豆腐にかすかに窺えるのみである。

「たこ梅」に伝わる「かんとだき」のルーツの広東人の煮物が「醸豆腐」であるとすると、それまでかみ合わなかったパズルのピースがピタリとはまる。「醸豆腐」の特徴は具に豆腐と大根と練り物を入れることである。大根と練り物が重要なダシなのである。つまり、江戸の「煮込み田楽」が関西に伝わって「関東煮」になった・・という説では、煮込み田楽にいつから大根や練り物が入ったのか説明が付かない。現在のおでんの基本が「大根、こんにゃく、練り物」になったのは、広東人の煮物こと「醸豆腐」の存在抜きに考えられないではないか。

つまり、いま日本で「おでん」と呼ばれているものは、「煮込み田楽」と「かんとだき」とのミックス、もしくは「焼き田楽」が「かんとだき」化したものと考えてみたらどうだろう。このミックスの度合や、地域の特産物によって、味噌をぬって食べたり、コロを入れたりとかするような違いが出てくる。江戸で焼き田楽が煮込み田楽に変わったのも、実は大阪から伝わったと考えるほうが自然である。

ここまで書いてきて、「アンタ、なんか関東にウラミでもあんの?」という声が聞こえてきそうだが、ワタクシに個人的な関東の料理に対するウラミは、まったく・・いや、だからうどんにダシがきいてないって・・、いやありませんってば。

しもた屋之噺 (97)

杉山洋一

十年ぶりという大雪が天窓をすっぽり覆っているせいか、久しぶりの拙宅は妙に薄暗く感じます。この庭も垣根の向こうの中学校の校庭も、見事に深い雪に包み隠されていて、引っ越し祝いに頂いたヒイラギだけが、必死に雪から頭をもたげようとしています。

メールでもチェックしようと階下に下りコンピュータをつけると、見たこともない画面が現れ、突然コンピュータの奥底にしまってあった先月ボローニャで演奏したドナトーニの練習風景の録音がかかりました。どこか間違って触ったかと録音を止めると同時に、新着メールの着信音が鳴ったのでメールを開くと、ドナトーニ作品の演奏依頼でした。亡くなって随分になるのに、案外その辺をフラフラしているのかと思うと、愉快な気分になります。

カナダのマニャネンシから久しぶりに連絡があって、積もる話に思わず花が咲きます。こんなとき、スカイプで顔を見て話せるのは楽しいものです。92年に初めてイタリアに来たとき、最初に会った作曲家がマニャネンシで、彼は当時シエナでドナトーニのアシスタントを長く務めていて、ドナトーニとの関わりはとても深いものでした。ですからどちらともなくドナトーニの話になり、ドナトーニの名著「Questo」を英訳したいと思っている、と聞いてびっくりしました。ちょうど自分も邦訳したい、しなきゃいけないのではないか、とこの所ずっと思っていたからです。

彼曰く23ページまで英訳したけれど、イタリア人でさえ難解な内容だし、何となく意味は訳せても、「彼の言葉」までは訳せず挫折していたと言うので、もう10年前に「Questo」の前書きだけ邦訳して、到底無理だと投げ出したのにそっくりだと笑ってしまいました。100パーセント訳すのは不可能でも、70パーセントでも訳せば、70パーセントは伝えることができる。0パーセントと70パーセントでは大きな違いだ。そうすれば将来誰かが興味をもって、自分よりもっと上手に訳してくれるかも知れない。お互いそんな風に励ましあって、少し勇気が沸いてきたところ。

ボローニャ・テアトロ・コムナーレのマッチャルディからのメール。
「本来なら文化と発展に寄与すべきところ、今の劇場ときたら政治と役立たずばかりが跋扈している。我々関係者の務めは、そんなあるべき姿を目指して粛々と仕事をすることだと思う」ボローニャのコムナーレに来る前、マッチャルディはトリエステのヴェルディ劇場でソルビアティの新作オペラを成功させています。そんな話をソルビアティとしているとき、最初に彼が言ったのは、「このオペラの目玉は経費が安いこと。場面は転換しないからセットは一つで済むし、合唱もない。とにかく安くできる良いオペラを作ることを目指したんだ。お金をかけなければ新しいプロダクションは出来ない、という固定概念を壊したくて」。実際ソルビアティのオペラは素晴らしいものでした。緊張感もあり彼の音楽もとても自然にオペラに溶け込んでいて、劇的要素も充分でした。

ミラノの州立オーケストラ、ポメリッジの音楽監督になったフェデーレと連れ立って、ビゼー「アルルの女」初演版をポメリッジの定期に聴きに出かけたとき、彼が背筋をぴんと伸ばし、初めて音楽を聴いた子供のように目を輝かせてビゼーに聴き入る姿にある種の感激を覚えました。
「ビゼー氏がどれだけすばらしく書けたか!とんでもない才能だよ!
打楽器はもちろん、グランド・ピアノと縦型ピアノが一つずつ、ヴァイオリン7本にヴィオラ1本、チェロ5本にコントラバス2本、ホルンが2本にサックスが1本、フルートを除いて木管は1本ずつという奇妙な編成から、まるでフル・オーケストラのような響きを引き出して、大合唱を支えます。
「目をつぶって聴いてみろよ。この編成なんて到底信じられない!魔法だよ!」
演奏会の真最中に興奮してこう話しかける音楽監督もどうかと笑いましたが、彼のような特にオーケストレーションが上手な作曲家から言われると、さすがに深い言葉です。確かにイタリアはとんでもない不況で、文化やそれも音楽の打撃は想像を絶するものです。そんな中でも信念を持ち肯定的に生きる友人たちはみな輝いていて、活力や生命力に満ちているようにおもいます。

先日のボローニャの演奏会でも、劇場のオーケストラがあれだけ心を砕いて現代作品を演奏する姿をみて、思うところが沢山ありました。最初の練習が始まる前に、駆け寄ってきた演奏者たちが「普段うちらは椿姫とかやっていて、こんな難しい譜面読めないんです。譜面だって貰ったばかりで」と不安そうに話していましたが、実際鳴らしてみればそれは見事で音楽的でした。こんな世知辛い時世ながら、音楽を通して元気をもらうことがたびたびあって、嬉しくなります。

先日ちょうど40歳の誕生日にはサンマリノで大雪のなかクリスマス・コンサートをしていました。前半はサンマリノの童声合唱を伴奏して、後半はニーノ・ロータ。なにしろサンマリノは小さな国でサンマリノ人だけで大オーケストラは出来ないので、イタリア人も多数混じっているのですが、初めの練習にでかけると、セカンド・ヴァイオリンのトップ裏が先日のボローニャのコムナーレのヴァイオリンのおじさんで、会うなり「いやあ先日はお世話になりまして! 凄かったねえ」と声をかけてくれました。何でも今年は子供たちから率先して合唱をすることになったとのこと。昨年一緒に演奏して愉しんで貰えたかなと少し嬉しくなりました。1年ぶりに会うと、子供たちはみんな随分大きくなっていて、声もよく出るようになっていました。

ニーノ・ロータ特集の演奏会の最後を飾るのは「アマルコルド」。このフェリーニの名作はサンマリノの隣にあるリミニの街が舞台で、題名「アマルコルド」も今も使われる方言の言い回しです。「アマルコルド」ではリミニ出身のフェリーニが自らの青春を赤裸々に綴りますが、この辺りの国民性は映画そのままで、ミラノあたりからやってくると正に外国です(たしかにサンマリノは実際外国なのですが)。ですから彼らにとって「アマルコルド」は文字通り心の故郷なのでしょう。携帯電話の着信音が「アマルコルド」になっている人も何人も見かけました。

もう今年も終わりだなんて何だか信じられない気がしますが、気を取り直しとりあえず熱いシャワーで目を覚ましてレッスンに出かけることにいたします。

(12月28日ミラノにて)

教科書――翠の虫籠63

藤井貞和

人虎伝ブームということが昭和十年代かあって、「山月記」はその一つなりしという。
「蜘蛛の糸」のさいご、お釈迦様はなぜ冷たくぶらぶらと立ち去るのでしょう。
ヨーロッパ女性を妊娠させ、廃人になして逃げ帰りし日本人男のはなしが堂々と、
教科書に載せられているのですよ。彼女の眉をひそめしは「舞姫」のこと。
さて子供の、虎と蜘蛛と舞姫とを盤上にのぼせてコックリサンを始めると、
眠たき午後の魔は教室を襲う、こっくりこっくりするぼくらを乗せて先生の船。
虎を教室につれてきちゃ、だめ。天国から地獄を見るのに井戸があるなんて、
だめ。舞姫は表層で、うらに近代文学が燦としてあるさまを読まなきゃあ、だめ。
先生はだめだめだめを繰り返す。繭を解いて彼女は虎になりました、かの日。

(舞姫の連想で、『平家物語』巻五〈覚一本〉の終り「奈良炎上」は、丸腰の平家の軍勢を奈良の大衆が首狩りして、猿沢の池のほとりに六十箇並べたという。それで怒った清盛が大軍を差し向かわせると、奈良阪および般若寺で七千人を擁して城を築き、めちゃめちゃな合戦である。ここに「奈良阪」「般若寺」とあるので、「奈良阪」はいまの奈良阪とちがう。車谷口〈いまのジェーアール線辺り〉あるいはその西の歌姫口が往時の奈良阪だったと、新刊の『平家の群像』〈高橋昌明〉にある。舞姫と歌姫、関係ないか。『中島敦「山月記伝説」の真実』〈島内景二〉も参照する。虎や友情より、「山月」こそが主題だろう。戦乱に明け暮れるというのも背景にある主題の一つである。)

絵巻はどこからか

高橋悠治

絵巻はどこからかわからない複数の視点から描かれていた
それとも視点がない空間なのか
そのなかで
どうなるかわからない筋の絡まりから身を引き剥がしながら
たくさんの登場人物がそれぞれの感じを持って
だが想定される性格からは思いもよらない行動に出る
そういうシェークスピアについてピーター・ブルックが書いていると
小島信夫が語っている本がある
いまここにあるものは
それなりにあるべき理由をもっている
歴史はそれを認めるからつながる
論理はあって道理はないことが重荷になって
状況を変えることはほとんどできないから
まったくちがうことからはじめる
蕉風連句の付けながら転じるとはどういうことだろう
芭蕉がその場で言ったことば
弟子の記録
後世の研究や分析からは
その時そのことばを書いたプロセスは見えない
ちがうことばを書くこともできただろう
付句は発句からあるきっかけを引き出して
予測できない方向に転じる
きっかけは見えないもの
それともそこに欠けているなにか
付けられたことばは偶然とは思えない
と思うのはみかけだけ
添削すればまた別な線ができる
その座にあって生まれ
それを書くひとのことばのそれまでと
息のつける空間がそこにありながら
そのことばには必然もなく
根拠もなくその瞬間に浮かびあがる
書くことばが途切れないように
前の句にたえずもどりながら
ことばのつらなりの
折れ曲がる線は角々の撓みと重みで
ゆれながらかってにうごきだす
ふりかえれば別な入口が見える
通らなかった道の
視野になかった風景のひろがりを隠して
一本の曲線に見えるものは回帰する微分のあつまりで
微係数には平均値がない
偶然でも必然でもないプロセスは
確率とはちがって顔がない
回りながら逸れるこまの軌道