暁の調べ――翠ぬ宝78

藤井貞和

火口を、(暁だな、)
いつまでもひらく、
夢のなかで

数千の 白い人々、
夢のなかで (魔よ)

魔よ、醒めるな、
眠りとは氷の一粒で溶けるはずの

ちいさな技術です。 とわに、
溶けることのない
凍る 暁の夢です

(「暁の調べ」は『うつほ物語』〈楼の上〉下巻から。この数日、たてつづけに、火口の、火山の悪夢が痛々しいです。〈リビアの?〉空爆のもとにいるかと思うと、火口です。「隣国に走り火さすな。鎮まれと、山ををろがむ山禰宜たちよ」〈晶子〉。句読点のついているのは迢空が引用するからです。)

何かが変った日

さとうまき

311、ぐらっとゆれて、何かが大きく変ってしまった気がする。僕は、その時事務所にいた。ゆれはしたが、大事には至らなかった。しかし、それから、一週間は、とてもしんどい日が続く。何がしんどかったかというと、無力感だ。一週間、何もせずにただ、TVやネットで原発が放射能を出し続けるのを見て、悶々としていた。東京でもガソリンがなくなり、灯油がない。米や、パンがなくなった。そして、オムツがなくなる。放射能のこともあり、1歳9ヶ月の息子は札幌の妻の実家に帰した。

そして僕は、先週から、山形に来ている。毎日、石巻や、女川町へ支援物質を届けている。最初は怖かった。自分が一体どんな面を下げて、被災者に会いに行くのだろう。邪魔なだけじゃないか? かえって迷惑をかけるんじゃないか。そう思うと無力感にさいなまれた。

被災地に入る。すべて流された町の風景。今までいくつかの戦場を見てきたけど、比べ物にならないエネルギーである。原爆で破壊されたグラウンドゼロに似た光景。自衛隊の車両があちこちを走り、まるで、軍事占領下に置かれたような街角。自衛隊員の仕事は、瓦礫の中から遺体を収容すること。いまだに一万人が行方不明だという。

しかし、避難所で出合った人びとは、とても優しい。南三陸の丘の上に避難してきた人達は自炊していた。100人が狭い公民館で暮らしている。「ご飯を食べていきなさい」先に被災地に入っていた熊五郎は、避難民の炊き出しを食べるなんて、とんでもないと思っていた。しかし、ここはイラク流でいい。同じ釜の飯を食うこと。外は寒く、温かい味噌汁がおいしくて涙が出そうだ。

ヒゲのおじさんは、「2歳になる孫が、保育園にあずけられていたので、娘が車で迎えに行った。それっきり戻ってこなかった。娘の遺体は確認できて、昨夜仮通夜を行ったんだ。2歳の孫はまだみつからねぇ。見つかるまで、ヒゲはそらねぇ」と泣き出しそうだ。

医者を連れて、別の避難所で診察をした。おばあさんが多くやってきて、嬉しそうに苦労話をしてくれて、僕らも気が楽になった。しかし、マスクをつけた女性が目を赤くはらしている。花粉症かなとおもったが、涙があふれ出ている。「3歳の息子が、流されて、戻ってこないんです。もう諦めています。20日近くたつんですから。でも遺体を見ない限り諦められないんです。」僕だったら、ぐしゃぐしゃになった、子どもの遺体をみるよりは、諦めながらも、かすかな希望を持ち続けてるほうが楽じゃないかと思ったりする。

まだ、20歳くらいの漁師の若者は携帯電話の待ちうけの赤ちゃんの写真を見せてくれた。「ここから逃げて、かみさんの実家に世話になっています。この間、久しぶりに会いに行ったら、僕のこと忘れていて、泣くんですよ」ちょっと悲しそうだった。「赤ちゃんにとっても津波は怖かったみたいで、いままで夜鳴きなんかしなかったのに。」
「大丈夫ですよ。子どもは元気に育ちますよ」僕は、自分の息子の写真を見せた。
「一年と9ヶ月でこんなにおおきくなるんですよ。あっという間ですよ」

僕も、息子と別れて20日になる。僕のこと忘れてしまったんじゃないかと思うと少しさびしい。しかし、子を亡くした親の気持ちを考えると、もっと悲しくなる。早く、この苦しみをみんなが乗り越えて欲しい。

製本かい摘みましては(68)

四釜裕子

東日本大震災で被災された方々への救援物資として、私の暮らす渋谷区では4月15日まで学用品も募っている。使っていない鉛筆やペンやノートを集めながら、本を作るたびに印刷やさんに用意してもらう束見本を思い出した。これって、未使用の無地のノートじゃないだろか。防災課災害対策係に電話した。

「出版にかかわっている者ですがノートとして束見本も受け付けてもらえますか?」
「なんですか、ツカミホンって」
もちろんこれではわかってもらえるはずがない。
「表紙が堅くて中身は無地、1センチから2センチくらい厚みがあって、しっかりしたきれいなものなんですけど」
「あ〜いいですねぇ。お願いします」

自宅や職場で、この”未使用の無地のノート”を集めたが、年末の大掃除でだいぶ処分していたことが悔やまれる。

自宅には、サイズも種類もばらばらの紙がいくつかある。適当に集めて厚めの紙を表紙にして中綴じすれば、無地のノートがいくつかできる。文房具メーカーから寄せられる大量のノートにまぎれて、ちょっとヘンだなとかおもしろいなとかきれいだなとか、誰かの心に留まって手にしてくれたらうれしい。

DJせいこうの想像ラジオ

若松恵子

3月11日に地震があって、被災地の状況をテレビで見続けているうちに、何もやる気がおきなくなって、被災しているわけでもないのにだめじゃないかと思い直して仕事に行く日はなんとか起きて、落ち着かない街でうだつのあがらない仕事をして過ごしてきた。

スーパーの棚がガラガラになり、店が早く閉店し、エスカレーターが止まり、駅の電気が消え、行くはずだったライブがいくつも中止になってしまった。おまけのようなことばかりなのだけれど、こういうひとつひとつが何か意気消沈させ、元気を無くさせる要因となった。

繰り返されるACのCMにうんざりしていた頃、いとうせいこうが、ツイッターで文字によるラジオ放送をやっているということを知った。DJせいこうが、リクエストを受け付けてくれる。音はリスナーの想像のなかで鳴る。どこで放送しているのですかとまじめに聞いてきた人に、「心に直接届くラジオ」だぜと彼は言う。かっこ良いではないか!

「被災地のみんな、心の被災をしているみんな、こんにちはDJせいこうです。」と言って放送は始まった。卒業式ができなかったリスナーのリクエストに応えて讃美歌が掛かり(クリスチャンの学校だったんですね)遠藤みちろうのパンクバージョンの「仰げば尊し」が掛かり、「深い黙祷をお届けしたぜ」という時もある。いとうせいこう自身の曲をリクエストした被災地のリスナーに「ずっと歌っているから、つらい時は聞いてくれ」と答える。

「春が来てる。でも歩みが遅い。音楽で呼び込もうぜ。昔から人類はそうしてきたんだ。春がフラフラ寄ってくる曲、音、映画を今日はかけまくるぜ!」という日に、「俺たちが呼ぶ春は気象庁が観測する春じゃねえぞ。一瞬のうちに圧倒的な温かさで雪を溶かし、花を咲かせる想像力の春だ。目をつぶらないと現実に負けて消えてしまう春だ。だが、俺たちはそれを今、呼び込む。つまり祈りなんだよ。かの地への!」という言葉が続き、「リスナーのみんな、「想像力」ってのは、美しくて優しいばかりじゃないぜ。こんな時に春を呼ぶ、音が聴こえると言ってるのは不謹慎だし、非常識だし、ある意味逃避だよ。お前らをだましてるんだ。でも俺はこの虚構を続けるぜ。うしろめたさで毎日ふとんかぶりながら。」というつぶやきに続いていく。

彼が、本気でみんなを思いやっているのはわかってるよ。と思っていると、「さて、ここで俺自身がリクエスト。聞いてくれ。RCサクセション「いいことばかりはありゃしない」。爆音でいくぜ」というコメント。”そうこなくっちゃ、大好きな曲だよ”とうれしくなる。

想像ラジオに、彼の気概を感じる。2011年3月の覚書として「DJせいこうの想像ラジオ」のことを記しておきたいと思う。

肩こり節電

植松眞人

東日本を襲った地震、津波、原発事故の三段重ねが、ちょっとやそっとじゃ収束しないとわかってきた3月の終わり。来月には中学生になる息子を連れて兵庫県伊丹の実家に帰った。

帰った途端に「東京も大変でしょう」とみんなに言われて「大変だと言われても、なんとなくあきらめムードで」と答えるしかなく、被災地ほど痛めつけられてもないし、大阪ほどのんびりもしていられない、という微妙な立場に言葉数が少なくなる。

正直、計画停電や電車の間引き運転、買い占めや自粛ムードで落ち着かないのだが、日々の暮らしは地震前とほとんど変わらない。変わらないのに、毎日の余震や放射能についての報道、これから先本当に仕事はあるのかという不安で、知らず知らず緊張が体の中に蓄積しているような気がする。

そのことにはっきり気がついたのは、今回の帰省中、仕事の関係で一泊だけホテルに泊まったときのこと。あまりの肩こりに観念して、マッサージをしてもらった。背中を丹念に押されて、肩が凝っていることを思い知ったのだが、それ以上に気持ちの方がまいっていたらしく、「相当凝ってますね。いろいろ大変だったんじゃないですか?」と声をかけられた瞬間に涙があふれてしまったのだ。不覚にも、という言葉がすっぽりと当てはまる瞬間だったが、うつぶせ寝の枕に顔を押し付け悟られないようにして「いやあ、あっはっはっ」と意味もなく笑う。そして、笑いながら、「こうしてリフレッシュできたのだから、明日からは、東京でこれまで以上に節電に励もう」などと思ってしまっていることが嫌で嫌でしかたがない。ああ、悔しい。なんで俺が。

さあ、どうしようか

仲宗根浩

ガキの入試が二日前に終わり、卒業式。風邪気味を理由に卒業式の出席をパスし、午後一時半ころ卒業式に出席した母親は帰ってきた。しばらくして卒業証書を持って帰ってきたガキ。すぐに着替え、遊びに行った。こっちは微熱なのか平熱なのかわからないまま布団の中に入りながら眠ったり、テレビみたりしていたら、地震速報。テレビはちょっと時間をおいて特番に変わる。北関東以北の知り合い、そっち方面に実家がある奴らに携帯のメールで状況確認をする。四時過ぎから次々と返信が来る。その返信のあとは数日、連絡は取れなくなったが。こっちは出勤の時間となり仕事場に行くと、津波警報のため避難している人がいる。市からの要請でカップラーメン二百個準備してほしい、との連絡が入り、いつでも避難場所に届けられるように準備をする。仕事終えて家に帰ると、東京の帰宅難民になった者からもメールが入ってくる。こちらでメールアドレスが分らない者はサンフランシスコ在住の知人にに教えてもらい、安否確認のメールを発信し、地震から三日後には安否確認は済む。

テレビではヘリを飛ばし被害の状況を伝える。タイマーズの「ヘリコプター」という曲を思い出した。阪神大震災のときからテレビ局はありったけのヘリを飛ばして惨状をヒステリックに伝えるだけ。そのヘリを最小限にして避難所の情報収集にあたれば孤立している場所が早く把握できるのに。「エリートだけが乗れるヘリコプター」。ゼリーはまっとうなことを歌っていた。

原子力発電所について、テレビはいろいろな数字を出す。数字が風評へひとりあるきする。関東方面へ食品や乾電池を送る人。店頭には電池、水、レトルト食品が品薄になる。

こちらができることは、今ある自分の仕事をまっとうにするしかない。そうしたうえで、身の丈に合ったことをする。

Opera 書くNoticia Dialogal

笹久保伸

• おい!ポケットからE♯の煙が出てる!
• おい!靴下から聴こえるongakuはバッハでもシューベルトでもない!
• おい!ティーカップは死へのDanzaを続ける
• おい!席を立つな、咳をする責任を問われる
• おい!状況はkikiteki  keikaku停電に突入ともニュースで
• おい!奥様の胸元から瑞々しいほどの炎と煙が
• おい!君の机が震え ウランの入ったワイングラスが溢れderu
• おい!それは水蒸気となり 風に吹かれ君の食卓を越え皆の食道や臓器へ向かっている
• おい!おい、あ、おい・・・
• Oi……….a…..oi…..
• おい!おい、あ、おい・・・
• おい!おい、青い・・・
• aoi!空と
• aoi!雲と
• aoi!霧と
• aoi!海と
• aoi!樹々と
• aoi!aoi ! aoi !
• 青い!
• 痛み Dolor! Pain!  아프다! Douleur! Schmerz! 疼!
• Itai! 痛い!
• 痛い!遺体!Remains!cadáver!Leiche!Cadavre!사체! 遺體!
• 描く!書く!角!格!核! Noyau Nukleus Nucleo 핵 Nucleus 
• ごほん ごほん と 咳ではない核とナイカク
• 書くが 消せない核
• ・・・核

Cuarteto(四重奏)

A 白いヨット・・・・・・・・・・・鉛筆の中のトンネルに・・・・切り開かれた一本の大根の葉っぱB   青い三角形のミツバチの箱の・・・・・・輝く夜の 太陽が暑いと言って涼むスリッパの姉妹
C 水は上からしたにしか・・・・・・・・・・・・・・決して流れない・・・・・・・のか?・・・・・・・・・・・・のか
D    うす暗い夕暮れ時に・・・・・・お母さんの顔をした・・・・・風船の色を・・・・・確かめる  すると
A   その箱の中から一体何が入っているかという問いすら忘れ君たちは・・・・・水分を失っていた
Bその葉っぱは緑色だったが決して水分を失っていなかった・・・・・水分を失ってはいなかったのだ
C  のか・・・・・・なのか・・・・・・のか 流れは変わらないのか・・・・・・決して望んではいけないのか
D 意外とその風船は空高く飛んでいったので・・・・・見守った・・・・・・・そうすでに・・・・・・・いたのだった
A水分がなくてとても寒いね・・・・・・・水分がなくてとても
B           あるわけないよ!・・・・・・水が欲しい
C・・・・なんか 暑くない?  おーい・・・・そこに・・・・・マッチはありますか・・・・はい・・マッチですが
D三角形の塩水はわりとそこで冷やされていた・・・・・・・・・品切れです・・・・・
A 過去に戻る事はできない・・・・・・・・・・・・・・水を! 水を!
B          そんな遠くに・・・・・・遠い買い物に・・・・・・・・・行こう!
C      未来が                         オアシス・・・オアシス
D                   熱を帯びた高温のライオンを冷やす雨の水たまりを買いに
A とっさに夢から覚めたライオンに噛み付いた黄金の蛙は虹に帰って行った
B  ああその星空を3センチでいいから私に分けてくれない?と テイブルの置物がストーブに言った
C    月夜の灯りよりも・・・・・その一本のマッチが・・・・・・ほしい・・・・・と望んではいけないのか 
D品物が入りました・・ええしばらくぶりです・・その夜に北園様のお宅にお届けしたらよろしいのですね?
Aはい・そうです!   マッチが入荷致しました
B    そうです!      えっ・マッチですか 北園様はお留守ですか?
C    そうです!      望んではいけないのでしょう          
D    そうです! 星空を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・雪をかぶったうさぎの足音を
A録音に出かけてしまいました・・・・・・・・・・・・青山の先に・・・・・・帰宅は何時になりますか?
B   白い・・・・・・静寂のオブジェ・・・・・青い洗濯バサミに挟まれたカマキリのDanceを収録に
C 黒い・・・・・律動・・・・・・・・・まだ・・・まだまだ・・・・・・まだまだまだまだまだまだまだ
D・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰宅の日程は?・・・・・・・・
A            ただいま・・・・・・・えっ、また雪?でも黒いわね・おかえり
B     黄金の蛙は虹に帰っていった・・・まあいいか・・・・・飲み過ぎだわ
C           風船はすでに水を飲み干してしまった・・・・・きっと・・・・
D熱を帯びた高温のライオンを冷やす雨の水たまりを買いに出かけた食塩と△が帰ってきました
Aあらまあ・・もう私の喉を潤す冷たいマッチの事をお忘れなのね・・・昨日サンダル!
B        熱が出ているのに    風船は水を欲しがっていた・・・・しかし・・その星空 それはあんまりだ
C  6月にはカバンから出て行こうかな・・・・・働くのだ・・・・・雑巾らが君らを働く
D北園さんのライオンを暖める為の白い煙突が三角形の上を逃げ出して歩いている

日常

大野晋

さて、原稿を書こうと水牛だよりを読んでいたら、シアターイワトが計画停電中も予定通りに公演するというのを読んだ。ふと、思ったのは、停電中の時間を選んで、暗闇の中で、闇をたしなむような公演の方がむしろふさわしいような気がした。残念ながら神楽坂は停電しないけれども。実際には消防法などの問題はありそうだが、電気という当たり前のように使っていたモノと現代社会からは遠くなってしまった闇をテーマに何かを考えるのもこの機会には必要だと思う。

計画停電はわが地域にもやってきた。いつもよりかなりきつい満員の電車で帰ってきたら、駅から先は真っ暗になっていた。その真っ暗な中を歩きながら、むしろ懐かしい暗闇に「こんばんは」を言ってみた。

ふとある春の日、まだ周囲の山々に雪が残る頃、都会育ちの私は山国の街の学校に通うために駅から降りた頃を思い出した。ひとりぐらしの希望と不安とを感じながら歩く夕方の街は家々の中から生活の音がして、当時も私には面白く感じた。今では、ほの暗い街の夜歩きは趣味のようになっているが、停電で消えた街を歩いているとその感覚が戻ってきて、明るすぎる都会の明かりをかえって疎ましくも感じられるのだった。

当時、真っ暗な街の中で仰ぎ見た満天の星空。プラネタリウムの中だけの夢物語だと思っていた流れ星が実際に一晩に何回も走ることを知った驚き。または、高山の頂上に暮らしたときに見た下界の遠い街のはためく明かりたち。寝転がってみた満点の天の川の中を人工衛星の明かりを見つけたときの感動。そういったものを思い出しながら、この闇も忘れられないかもしれないとふと思う。

節電のためと、いろいろなところで照明を落としているが、私にはむしろ、今の明かりの方が生活にはふさわしいように感じてならない。昼のように明るい夜の都会はかえって生活には不要なものばかりなのかもしれない。なにせ、実際に大都会を離れれば、そういった気持ちのいい闇が世の中にはあり、それと対照的な暖かい生活がある。いや、むしろ、そうした生活が途絶した部分が大都会だから、満たされない魂のために、不必要な明かりが欲しいと思うのかもしれない。

今月は被災地へのお見舞いの言葉が多いのだろうけれども、本当にいくつの言葉を紡いでも、大災害の当事者への気持ちには足りないように思う。なので、一言。一日も早く日常に戻られることを祈念しておりますとだけ書いておこう。

どんなに大変なことでも、どんなに悲しいことでも、やがて生活していれば日常に変る。もう、もとの日常に戻ることはないのだろうけれども、違う日常が待っていて、そこで暮らしていくことになる。できれば、その新しい日常で、また楽しいことやうれしいこと、悲しいことすらも、新しい生活として楽しみにしたいと思う。

ないということは白いキャンバスに新しい画が描けると言うことでもある。決して真っ暗闇なのではない。いや、真っ暗もまた新しい発見と暖かい人間の営みがあって楽しいのだ。

しもた屋之噺(112)

杉山洋一

昨晩二週間ぶりに家人が東京から戻ってきました。本来なら6歳になった子供をつれて東京へゆくはずでしたが、出発直前に震災に見舞われて、子供を日本につれてゆくのは止めました。明日には家人と入替わりに単身日本へ発ちますが、数日でも家族が揃って過ごすのは何より嬉しいものです。

今年は息子と二人きりで過ごす機会が多く、家事や育児に追われ仕事の工面が辛い以外、思いがけない発見もあり、親子の会話が増えたのは貴重な収穫でした。息子の誕生日には、小さな袋にさまざまな駄菓子を息子と詰めて、幼稚園のクラスメート全員に持ってゆき、誕生日会も友人宅で開いて頂いたし、授業やレッスンの時には友人宅で預かってもらったりと、それなりに慌しく時間が過ぎました。6歳の息子なりに、日本の地震は治まったか気にかけてみたり、母親はしっかりやっているかと案じてみたり、毎朝一人で起きてはそのまま机に向かって宿題をしたりと気丈に頑張る姿は、親ながらいじらしいと感心しました。

或る朝、子供を幼稚園に送って部屋に戻ると、食卓に鉛筆で書きなぐった息子の鳥の絵が無造作に放ってあって、思わず見入っていました。空を羽ばたく鳥の姿に心を打たれ、帰宅した息子に思わず本当にお前が書いたのかと尋ねると、怪訝そうな顔で頷きました。明日日本に発つ前、ファルスタッフの中表紙にでも貼りつけてゆこうと思っています。

美しい夜明けの小鳥の囀りに和み、朝食を交えて庭の樹の芽の成長を愛で、指差されるまま真っ青な空に走る一直線の飛行機雲に歓声を上げ、道すがら燃える夕焼けの色を熱心に説明する話に耳を傾け、引き算ドリルが難しいとマイナスに縦線を加えて全部足し算にした息子に雷を落とし、彼の希望に従って夕食を支度し、大騒ぎして風呂に入れ、時には喧嘩しながらごく普通の日々をやり過ごしていました。そんな当たり前の時間がどれだけ掛け替えのない日常なのか、身につまされました。

何時までも記憶に留められる気の遠くなるほど長い瞬間が、びっしり隙間なく積み上げられてゆく姿をただ呆然と見つめながら、先月までの日常が音を立て脳裏に食い込むのを薄く感じ、眼前に立ち籠める深鼠色の雲に目を凝らし必死に薄陽を探しています。

努めて今まで通り暮らそうとする自分と、それに疑問を投げかける自分がいて、無気力に襲われる自分と、それを諌める自分がいます。音楽の拠り所を信じる自分もいて、後ろめたい気分になぎ倒される自分もいる。思い切ってラジオの電源を切って外から耳を閉ざし楽譜に没頭していて、ふと音楽に救われている自分を見出し、目の前の風景がくぐもって見えました。

学生だったころ初演を聴いた「進むべき道はない、だが進まなければならない」が頭を過ぎりながら、ノーノの圧倒的な表現力の強さを思いだしていました。パリで「プロメテオ」を演奏したとき、最初の一音から会場が震えたのをよく覚えています。演奏の善し悪しなどでは全くなくて、演奏者と聴衆と作曲者が何かを一つのものを共有と切望し、互いが周波数が寸分なく合致したときに生まれた、圧倒的なエネルギーでした。信じることで初めて力が生まれます。信じなければたとえ正しくとも力を発さないのは、指揮と同じでしょう。誰もが自らの選択を信じる勇気と、その力を併せる勇気を信じて、とにかく足を踏み出さなければいけない。そう耳元でささやく自分を、とにかく信じてみたいとも思うのです。

(3月29日ミラノにて)

犬狼詩集

管啓次郎

  27

立体視が幽霊を求めている
左目が見る事物の光と右目が見る事物の光のずれが
そこにいないものを呼び出すのだ
互いに干渉する光の縞、島に
奇妙に太った幽霊が住んでいる
青く濁ったファンファーレも聞こえず
隊列には行進のそぶりもない
うすむらさきの空へと子供たちが
動きもなく、音もなく、斜めに登ってゆく
その階段的な傾斜はパイプオルガンと
オルガンパイプ・カクタスの総合
器官を欠いた小さな体と
名も無い残酷な密輸人の化かし合いだ
子捕りよ、盗んだ子らを売るのはやめろ
かつて海だったこの果てしない砂漠の
太った幽霊のまわりで子供たちが遊んでいる

  28

パイプオルガンが幽霊の声を
メタファーとして響かせる
光の舌、炎の舌が
歌いたくて歌えなくてやきもきしている
かれらを手なずけて隊列へとまとめたのが
キリスト教ヨーロッパの最高の独創だった
xとyからなるイグレシアで
声のない群衆が歌の始まりを待っている
「新大陸」の海岸では一連の山並みの
命名権をめぐって代理人たちが口論している
「のこぎりの歯」なのか
「神の指たち」なのか
「パイプオルガン」なのかを決めかねて
光の舌、炎の舌は何の意見もいえなくて
ひどく焦れている、焦れながら
山並みが海嘯のように鳴り出すのを待ちかまえているのだ

東北の震災、ジャワの震災

冨岡三智

先月号でムラピ山噴火とチョデ川の火山泥流のことを書きかけたけれど、まさかその半月後に日本が大震災に見舞われるなんて、想像もしていなかった。今月は先月の続きを書くつもりでいたけれど、先に、この地震に関して感じたことを書き留めておきたい。

私は、いま一時帰国中で日本にいる(3/16-4/6)。関西にある私の実家は地震の被害を受けてはいないが、これで南海地震が誘発されたら…と両親の不安は大きかったようだ。両親は小さい頃(1946年)に南海地震を経験していて、もう近い内に再発してもおかしくない。その頃は現在のように震災警報もなければ避難誘導もなく、揺れる中を小学校にたどりついたら、地震で学校は休みにすると言われてそのまま帰宅させられたらしい。そんな話を聞いていると、日本は戦後、地震災害に備えるノウハウをずいぶん積み重ねたものだと思う。現在と違って情報手段も交通手段もなかった大昔は、地方で大地震があった場合には村ごと壊滅して終わり、そこから離れた村の人達は何も知らない、ということもあったのかも知れないと思う。

実家の近所で避難所に指定されている公民館は坂の途中にあるが、この坂は江戸時代の南海地震で生じた段差らしい。その坂の途中にある家のおばあさんが、お姑さんからそう伝え聞いているという。地震がきた時にそんな所に逃げても大丈夫なんだろうかとかねがね思っているのだが、行政はそんなローカルな伝承は把握していないのだろうなあ…。

ジャワ島地震がジョグジャで起きたとき(2006年)、ジャワの友人たちが、ジャワには今まで地震がなかったと言っていたことを思い出す。自らが震災に遭うのは初めての経験だとしても、ジャワでも歴史上大きな地震――世界遺産のプランバナン寺院は16世紀の地震で崩壊している――も起こっているし、活火山もあるから、いつ揺れたっておかしくないと思うのに、地震の記憶は伝承されてこなかったみたいなのだ。日本でなら、地震の災害は昔から歴史の記録に残っているし、どこに逃げて助かったとか、そんな伝承が被災地には少しなりとも口伝えで残っている。それに毎年の防災訓練もある。やっぱり始終どこかで揺れていないと、大昔からの記憶は伝承されてこないんだろうか。

ジョグジャ出身で今は日本に住んでいる友達は、ジャワでは不吉なことを口にすると、それが現実になると考えられているから、天災などが起きても、たぶんその事実は伝承されてこなかったのだと言う。その考え方は日本の言霊信仰と同じだ。ジャワ人も日本人と同様に、内実はともかくも「表面的には、つつがなく滞りなく終了する」ことを尊ぶ民族だ。けれど、2006年の地震からは少し状況は変わってきたようである。私はこの2カ月、ガジャマダ大学の寮に住んでいたが、この寮の掲示板や各部屋の扉の内側には、「地震が起きたら…」と書いたポスターが貼ってあり、「揺れが起きたら机の下に隠れよう」とか、書いてある。町のショッピングモールなどにもそういう掲示が見られるから、あのジャワ震災はこの地に防災という意識を持ち込んだなあと思う。

今年1月半ばにジョグジャに来てから驚いたのが、ジョグジャ市内のコンビニで不織布のマスクをよく見かけること。ショッピングモールでは、マネキンにジルバブ(イスラム教徒の女性が被る頭巾)とコーディネートして、柄模様のマスクを着せているのも見た。昨年11〜12月に噴火したムラピ山の火山灰から気管支を守るためだ。ジャワでバイクに乗る人達には、埃除けにバンダナを三角に折って鼻と口元を覆うように巻く人が多いのだが、今ではマスクをきっちりしている人も見かける。この間は、汽車の中でマスクする人も見かけた。私は、これまでインドネシアで人々がマスクをしているのを一度も見たことがない。隣のソロ市にも何度か出かけたが、ここではマスクをした人を見かけることはなかった。ソロに在住する友人に、「ジョグジャではコンビニでマスクを売っているよ」と言ったら驚いていた。ジョグジャには町のあちこちに被災者救援用の詰め所(POSKO)もあり、一見平穏に戻ったように見えても被災地域なのだと感じさせられる。

4月末に私はまたジョグジャに戻ることになっている。ジョグジャでも、また地震や噴火が起きないとも限らない。その時には、せめて落ち着いて行動したい、と思う。

ことばの種子を蒔く

くぼたのぞみ

謎と氷がとけたとき
避けられない天災と
避けられる人災が襲ってきて
溶けないはずのものまでとけてしまい
土が
海が
生き物が
震えおののく

粋をみがいて無意識に
おごり 
やせる 
都のこころをなぐさめるように
雪の舞う東北の
瓦礫のなかから
土くさいことばが聞こえてくる
なんという皮肉

この春
風に運ばれるのは
花粉だけではなかったね
列島をつらぬき
まるい空をおおって
世界をつなぐのは
放射能だけでもないんだよ

それでも/だから
憂いの染みた土にむかって
ぱらぱらと
ことばの種子を蒔く
悲しみをとかして耕した湿地のなかに
祈りをこめて種子を蒔く

長いながいときがたち
やがてふいに芽吹くのは
草木だけではないのだから

オトメンと指を差されて(34)

大久保ゆう

みなさん、春です、春なのです。ぽかぽかしてきたのです。春は油断なりません。いつでもどこでも私を誘惑していて、うっかりするとときめかされてしまいます。そんなことになった日にゃあ――

 1.外を歩く
 2.ぼーっとする(or本を読む)
 3.空を見る

ことになっちまうのですよ! ああなんて恐ろしい! ああ仕事が手に着かない! 困りましたね!(ちらっと横目) 春のせいですから、だって春のお方が誘うんですもん!(ちらっちらっとあたりをうかがう)

頭もいい感じにほかほか暖まっているので、色んなことがゆる〜くなってしまって。街を歩いていて、現れた魔法の五文字、そりゃもうお財布のひももだるんだるんびろんびろん。ついでに花粉症で鼻はじゅるんじゅるん、目はちくちく、といってもまだまだ軽度なのでたいしたことはありませんが。

ふわふわ、っとなっちゃって、うろうろ。適当な場所をみつけて、座ったり。きっと私はあやしいひと。まあ周りにはいろいろとものがあるので、最後にはやっぱり見上げるわけで。

空を見るって、いちばん贅沢な時間の使い方ですよね。いやもう、これ以下の暇つぶしはないってくらいに。たぶん、なんというか、自分と時間が一対一で向き合ってるような、そんな感じなのかな、って思ったりもするんですけど。私にもっと風読み・空読みスキルがあるといいんですが、何にもないので、ただ〈見る〉ことしかできないんですよ、正直のところ。

空の向こうにはたぶんたくさんのことがあるんでしょうが、ぼーっとするだけ。時の歩みは、びっくりするくらいに遅くて。自分がそのときの時間と一緒にただ流れてるだけだからなんでしょうかねえ。

それこそ、空を見るってだいたい地球上ならどこでもできることなので、私にとっては旅の定番であります。観光地へ行ったり、美味しいもの食べたり、っていうのもいいですが、その場所の空を見るってのもいいですよね。何も用意しなくていいし。

やっぱり色んな場所の空を見てみたいなあ、と思っていて、実際にどう違うとか、見た目が変わるとか、そういうった部分にはあんまり興味がないのですが、その場所その場所と、ただ時間を共有していたいと言いますか、まあそんな意味合いで考えておりまして。

世界じゅう、なんてできると面白いんですが、とりあえずは日本じゅう、全都道府県を回るくらいを目指してたりするんですけどね。まとまった休みがあるごとにちょこちょこ出かけているのですが、まだ……30くらいしか行ってないので。今年も、春夏秋冬で、たぶん数県ずつ。

そのときには、元気な空が見られるといいな。

季節の声

璃葉

実家のすぐ傍に野原があった。
自然に育てられた様々な種類の草花、
真ん中に立つ大きな松の木。
周りを囲む雑木林。
小生の頃、近所に住んでいる友達大勢で
走り回ったり、秘密基地をつくったりして、
チビなりに大忙しだった。

春の暖かい光の下で、シロツメクサやホトケノザを摘み、
蝶を追いかけ、梅雨時にはバッタが大量発生。
傘を差しながら素手で捕まえた。
夏になると雑草はますます生い茂り、深緑の上に蝉が飛び交う。
タモを旗のように掲げて走った。
秋にはススキが目立ち、枯れ葉も雨のように降ってきて、
それを集めて皆で焚き火をした。
雪が積もると、ためらいもなく寝転んだ。そして風邪をひいた。

現在、野原があった場所には遊歩道ができ、
防火貯水槽が埋められ、健康器具が並んで、
悪ガキ達だけの野原ではなくなってしまったのだが、
あの場所で出会った動物や植物、季節ごとに変わる匂いは、
今でもはっきりと覚えている。

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掠れ書き 11(テクストと音楽・・・遅延装置)

高橋悠治

『カフカノート』の作曲を終わって、いったいこんなことでいいのだろうかと思いつつ、しかしリハーサルのコラボレーションから見えるものもあるだろう。机の上にあるノートを読み上げる声は夢のなかで聞こえてきたことばのように続いて思いがけず途切れる、ピアノの音は途切れながらそのまわりに漂っている、ピアノは片手で弾けなければ両手で、または両手が別な時間、別な線でテクストをなぞっていく、声と楽器の線にうごかされてはじまり、中断されては再開される身体のしぐさが第3の線になる。計算された効果や構成ではなく、ゲームの規則のように、3本の色鉛筆をにぎって描く線の束のように、消えていく残像をひきずりながら、どこへいくかわからないまま進んでいく。

カフカの文章は、入眠幻覚のように、書こうとする意志を鎮めて、心身が脱力したときにあらわれるイメージやことばを捉えて、芭蕉がいうように「もののひかり消えぬうちに書き留める」作業が俳句に完結するのではなく、うごきだしたことばが停まるまでひきのばされ、停まりそうになる時には、うごきがそれ自体をコマの緒のように鞭打っても先へ先へと逃げていく。落ちかかってくるものに対しては、まず避ける、それからすこしずつ近づいていく、触れてたしかめる、最後に受け入れる、という複雑な経路、まがりくねった慎重な対応の軌跡が生まれるだろう。

だが、カフカはかなりの速度で書いている。1991年の手稿版でも見られるように、段落は長いし、普通は分割するようなセンテンスも、コンマを打つだけで先を急ぐ。話す速度で書こうとしているようだ。最近の史的批判版では手稿そのもが写真版になっているようだが、その筆跡を見ていると、もしかするとこれは近代の速度なのか、飛行機、未来派、戦争、ファシズム、ダダ、ロボット、ロケット、大虐殺、加速度で転げ落ちる文明に巻き込まれながら、エッシャーのメビウス的階段を這い回る虫のように登れば登るほどじつは落ちている、息を切らしたバスター・キートンの石の顔がヨーゼフ・Kの顔と二重写しになって、ではこれは不条理な運命に巻き込まれた人間の悲劇なのか、またはちょっとしたことにありもしない兆しを読み取る自縛自縄の喜劇なのか、それともほとんど書かれた人物と密着しながらその側ではなく「世界の側に」立つことばで追いつめていく判決文なのか、おそらくそのどれでもありうるし、だがどれとも言い切れない、ことばを紙に書いている、文字通りペンで紙の表面をひっかきながら、ペンはひっかからずに流れるインクの跡を残しながらうごいていく、それについていく手と、そのことばで書かれた限りで姿を見せ、紙から手が離れた後は失踪する主体は、一人称で書かれていても書いている手とおなじではない。書かれた人物が経験するできごと、物語も、書いている手のうごきの影にすぎないとするならば、書く手の感じていることばの手触り、手が書くことばを通して聞こえてくるだれのでもない声の途切れない響きの変化が、鏡のこちら側にある作者の存在で、といっても、それは作者の生活や経験や知識というより、それらの堆積が環境となってある時あるリズムと抑揚のあいまいな輪郭がうごきだし、それをことばとして聞き出し、聞き出したことばがことばを呼ぶうちにそれらの関係がつくられ、その網目の中でうごきまわるエネルギーがめぐりながら関係を複雑にしていき、共鳴によってことばの揺らぎが大きくなり、拡散して、こんどはその拡散するエネルギーそのものが、ある境界のなかでそれ自体を抑制する方向に向かい、やがてそれ以上の推進力を失って収束に向かう、このプロセスは一回性のもので、二度とおなじようには起こらない。書かれたことばやそこに見え隠れする人物や物語は、創造プロセスの痕跡、外側から観察され、さまざまに解釈されるてがかりにすぎないが、そのプロセスは、意味や解釈、分析などではなくて、別な身体がなぞる声の線によってずれをもった別な振動となった共振が読む側に波及する。

書く手が残した文字を日本語という別な言語に移し替えること、ちがう歴史のなかで造られてきた言語のなかから、一対一で対応する単語からはじめてセンテンスを組み立てていくならば、翻訳以前に解釈があり、翻訳の文体があり、解釈された意味に沿ってあらわれてくる別な風景がある。途切れながら続く声からはじめれば、単語は後回しで、まず呼吸の長さであるパラグラフ、呼吸をさまざまな響きで彩る声のリズムと、抑揚の輪郭のメロディーを、別な言語の響きを使ってなぞっていく作業がある。知的に理解しようとするか、生理的に同調しようとするかのちがいだが、どちらも外側からの観察の結果であることはかわらない。後のアプローチをとる理由は、これが眼で読む文字ではなくて、声のパフォーマンスのための台本であることによる。聞こえてくる声の速度とそれを書く手の速度、書かれたノートを読みあげる速度はみんなちがうし、読みあげる場合はその空間によってさまざまになるが、内部の声から文字、ふたたび声になって劇場空間へと移るにつれて速度は遅くなっていく。そこに音楽がからみつき、別な身体のしぐさを見る時間が加われば、もっと遅くなるだろう。しかも紙の上の文字とちがって読み返すことはできない。声も音もしぐさも知覚された時にはもう過ぎ去り、消えている。「ことばを横切る光の名残」があるだけ。劇場という遅延装置 delay のなかで夢のなかの声は過去へと飛び去っていく。