しもた屋之噺(113)

杉山洋一

慌しく時間が過ぎていった今月も終わろうとしていて、オーケストラとの練習の合間、指揮台に寝転がって劇場の天井のライトをぼんやり眺めながら、いろいろな風景を思い返していました。

震災後成田にアリタリア機で降り立つとき、乗客がみな少し緊張して思いつめた表情をしていたこと。朝の成田空港でカツカレーを頼んだとき、出された水を飲むのを無意識に一瞬ためらい、後ろめたい感情に襲われたこと。

年末に他界した祖母の墓参に湯河原へ出かけた折、時差で疲れて東海道線で眠りこんでいて目が覚めると、思いがけず茅ヶ崎の線路端に並ぶ母方の祖父の墓地を通り過ぎるところだったこと。祖母の墓誌に刻まれた真新しい日付は奇しくも自分の誕生日で、海に程近い親戚の家に立ち寄ると、津波に対し半ば絶望的な心地で暮らしていたこと。

息子に付き添った東京の小学校の入学式は咲き誇る桜が美しく、記念写真を撮りながら自分が小学校に入った時に着物姿の母親と撮った写真を思い出したこと。思えばあれは誰が撮ったものだったのだろう。父か或いは誰か友人が撮ってくれたものだったのか。それからの三週間、「起立、礼」の号令すら知らなかった息子には、とても新鮮だったであろうこと。学校は道路を隔てて目の前にあって、ほんの短い距離だけれども、自宅から学校まで、小さい身体に似合わないランドセルを背負って一人で通学することに息子が得意になっていたこと。

イタリアでは小学校の間はずっと親が送迎しなければならないので、日本でなければ出来ない体験だったけれど、授業についてゆけるのか不安で、窓から校庭の一年生をちらちら目で追ったりしたこと。昔は一学年6クラスはあったのが今は2クラスしかなくて、学年全体で一緒に体育をする姿に少し驚いたこと。毎日繰り返される余震や、耳慣れなかった防災放送、それに続いて校庭に走り出してくる銀色の防災頭巾を被った子供たちのこと。

東京より肌寒かった四国に仕事にでかけ、まるで別世界のように感じたこと。
高松のフェリーを見ながら、外海に面したヴェニスの岸壁に停泊する客船を思い出したこと。
春、なだらかに続く山に桜や桃が散らしたように咲きほころんでいて、桃の深みのある彩に感銘を受けたこと。
日本の春の趣に、あたりの空気にまで染み通るような艶かしさを覚えたこと。

リハーサルを終え夜半閉まりかけのラーメン屋に駆け込んだときのこと。何気なく置かれていた出来たての叉焼が美味しそうで、思わず少し切ってほしいとお願いすると、年配の親父さんが、店には出さない一番美味だという縁側の脂身を自慢げにこそげ落として出してくれたこと。彼の讃岐弁はよく聞き取れなかったけれど、叉焼の美味しさとともに心に残っている。

岡山に抜ける電車が海を渡るとき、高所恐怖症と余震の恐怖で息苦しくなったこと。あそこで地震が起きて電車が止まっても、足がすくんで非常用通路に下りる勇気はなかったに違いない。お宮参りのおくるみを抱えた華やかな女性たちが賑わいを添える春の春日大社で、友人が十二単であげた結婚式の床しさ。奈良の建築に塗られた朱の大陸的な味わい。

東京に戻って久しぶりにみんなで集った「味とめ」が、思いの他元気で安心したこと。夜のハチ公前を通ると、電光スクリーンの消えた思いがけない暗さに子供の頃通った渋谷を思い出し、蒸し暑く、人間臭い節電中の通勤電車にすこしだけ懐かしさを覚えたこと。

ミラノに戻る飛行機は驚くほど空いていて、マルペンサ空港のパスポートコントロールには、アフリカの移民が犇きあい、ここには当然ながら別の現実があったこと。ミラノに街に降り立つと、身体の奥のどこかで緊張の糸が解れて、日本の人々思って申し訳ない心地に駆られたこと。久しぶりに会うオーケストラのメンバーの元気な様子も嬉しく、一日のリハーサルを終え、ふらりと立ち寄る劇場脇の「ラニエリ」のラム酒漬けの小さなババと立ち飲みコーヒーが、身体を染み通る幸せに感じたこと。

つい先日まで、せめて息子が死ぬまで、彼が惨い戦争や紛争に巻き込まれず恙無く暮らしてゆけることのみ願って暮らしていて、ささやかな希望は平和だと信じていたけれども、この言葉がただ諍いごとのみに使われるのではないことを、噎せ返るように咲く桜と一緒に、こんな形で知ってしまったこと。

(4月29日ミラノにて)

被災者の方へ、イラクの子供たちから応援 メッセージ

さとうまき

石巻に行って驚いたのは、魚の腐ったにおいと油のにおいが混ざったような泥のにおい。そして、津波の力だ。ものすごい力で、家屋を破壊していった。僕は、仕事柄、戦場を渡り歩いてきたが、こんなのは、見た事がなかった。原爆投下後の写真を髣髴させる。道路は瓦礫が散乱しており、自衛隊の車両があちこちに停まっている。時たま米軍を見かける。水も電気もなく、行政が機能しない状態は、イラクによく似ていた。

しかし、正直311にはすっかりと落ち込んでしまった。いろいろ理由はあるのだろうが、生きる気力もなくなってくるような不安感があり、うつ状態とでも言えばいいのか。そんな時、多くのイラク人が心配してた。

子供たちもメッセージを寄せてくれた。2002年、僕が始めてイラクに行ったときに出合った少女、スハッドちゃん。当時は9歳だった。目がくりくりしていて、とてもかわいらしい。彼女の描いてくれた絵に、「イラクを攻撃したら世界は平和になりますか?」と書き加えてポスターを作った。しかし、そのポスターも役に立たず、2003年3月20日、戦争が始まってしまったのだ。バグダッドは戦火に見舞われその後も内戦状態が続いた。遺体が毎日、道端に転がっていたこともあった。でも、彼女は生き延びて、現在は、青少年オーケストラの一員として、オーボエを吹いている。貧しくて楽器がないというので、私の友人たちでお金を出し合って買ってあげた。

そのスハッドちゃんは、現在18歳。日本を元気付けるためのコンサートに協力してくれたのだ。バグダッドで4月23日に開かれたコンサート。急遽僕もバグダッドに行くことにした。しかし、あいにくの悪天候で飛行機が送れ、コンサートには間に合わなかったのだが。日本の為に何かしたいというイラク人ら250人が聞きに来てくれたという。

そして、「上を向いて歩こう」をオーケストラで演奏。子供たちは、3日間毎日夜まで練習したそうだ。スハッドは、「この楽器(日本からの)で、演奏できて嬉しい。被災者の皆さんが一日でも早く立ち直ることを祈っています。」

バグダッドは、戦争から8年経っても、ほこりっぽく、下水があふれ、停電が多い。軍隊があちこちでパトロールしており、状況は良くないが、イラクの子供たちの演奏する姿は、厳しい環境でも、強く生きて、成長していることの証だ。彼らの演奏は、日本の子どもたちへの説得力のある応援メッセージだ。
演奏はHPでご覧になれます。
http://blog.livedoor.jp/jimnetnews/

アジアのごはん38 放射能時代の食生活

森下ヒバリ

恐れていたことが現実になってしまった。

子どものころ原爆の記録映画を観た。原爆の悲惨さと恐怖は幼かったわたしの胸に突き刺さり、今も抜けていない。きっと永遠に抜けないだろう。確か、小学校の低学年だったと思う。地域の公民館で巡回していたその記録映画の内容は、凄まじかった。その夜は眠れず、うなされた。そのとき以来、戦争と原子力には軽蔑しか持っていない。

後年、広島市の原爆資料館を見て、展示のソフトさに拍子抜けしたことを覚えている。これでは戦争がいかに愚かであるか、原爆が、放射能がいかに恐ろしいものであるか、まったく伝わらないと思った。

今の時代にあの映画を子どもたちに見せたら、親たちからクレームの嵐になるだろう。そんな時代だからこそ、こんな事故が起きてしまったともいえるのだが。とにかく、わたしには原発を推進する人々の頭の構造がまったく理解できない。目先の欲にしか働かない頭の構造なのか。そこまでして欲しいものとは、いったい何なのか?

福島原発事故で漏れた(今も漏れている)放射能は避難区域外では今すぐ影響がない量だ、と政府は繰り返し言う。しかし、チェルノブイリの被害者たちのほとんどが、数ヶ月から十数年たってからの発病、死亡である。チェルノブイリ事故で被曝した人たちの死亡者はまだまだ増えている最中なのだ。

日本でさえ、今までの原発労働者の白血病などの労災認定は年間被曝が100ミリシーベルトに達していなくても行われていて、100ミリシーベルト以下だから安全と言うわけではまったくない。だいたい、100ミリシーベルト、とか言われてもまったく想像できない。マイクロシーベルトとミリシーベルトと、シーベルトの単位のけたの違いもどれぐらい違うのか実感できない。

汚染水の海への流出も今後どのような影響が出るか、未知数だ。今回の事故では、たしかに一時に大量被曝した人は少ないかもしれないが、まき散らされた放射能は、自然界で濃縮される。しかも、まださらに水素爆発などが起こる可能性もかなり残っている。もう、放射性ヨウ素は半減したから大丈夫、と安心してもいられない。

こういう状況下で「食べる」ことはとても重要なことだと思う。眼に見えない放射能を安易に取り込んでしまうか、取り込まないか、またはどう排出するか、影響を抑えるかは食に大きく関わってくる。

原発事故は怖いし、いつか必ず起こるとは思っていたものの、やはり自分の備えはめちゃめちゃ甘かった。放射性ヨウ素についても、少しも理解していなかった。放射能が漏れたら、ヨード剤を飲まなければならないらしい、と漠然と思っていた。病院でもらったうがい薬にヨウ素がはいっているのを見て「あ、これをいざというときに飲めばいいんだな〜」と薬箱に入れてあったぐらいお馬鹿。うがい薬には消毒剤の成分がたくさん入っていて、飲んだらたいへん危険であります。

動物の体は常にヨードを貯めておこうとするので、足りない状態だと、放射性でも何でも取り込んでしまい、がんになってしまう。なので、放射性でないヨードでいつも甲状腺を満たしておく必要があるわけだ。子どもの甲状腺がんの発生率が高いが、大人でも放射性ヨードを貯め込むのがいいわけはない。だから、子どもも大人も汚染されていない海草を毎日食べましょう。

たしか政府が、ヨード剤を配るときに、海草は効果が無いから・・と言っていた。はあ?と思ったが、昆布を生でたくさん食べるとおなかの中で膨れて、胃が破裂する恐れがあるから、海草を食べろと言わないほうがいいと思ったのか。まあ、そういう人も出るかもしれないけど・・。生で食べるなと言えば済むこと。

長崎の原爆で被曝した秋月医師の食べ物の話は有名である。被曝直後に水を飲まなかったこと、その後、塩をたくさんつけた玄米のおにぎり、味噌汁という食生活を続けることで、爆心地に1・8キロという近い距離で被曝したにもかかわらず、医師をはじめスタッフたちは全員原爆症の症状が出なかったというものである。

玄米や味噌には毒素の排出能力があるのは確か。玄米を食べると腸の調子がよくなり、快適なお通じの毎日だから。味噌といっても、促成醸造の味噌では効果も薄い。酵素のたっぷり含まれた天然醸造の味噌がいい。でも、これは玄米と味噌を食べればいいのね、という話ではないだろう。秋月医師は、食が身体にとって大切だと考えていた。もっと食生活全体について考えることが必要なのだ。

毎日がん細胞は出来ているが、それを体内の免疫細胞が駆除していく。それが追いつかなくなると、がん細胞が増殖してがんになる。放射能はがん細胞を飛躍的に増やすので、駆除が追いつかないでがんになる人が多いのである。食品添加物というのも、がん細胞の増殖を加速させるから、なるべく添加物の少ない食べ物を取るほうがいい。白砂糖は造血細胞を壊すから、控えめにしたほうがいい。できるだけ免疫力が有効に働く環境をつくってやらなくては。

もちろん身体に放射性物質を取り込まないことが第一だが、微量の放射性物質がじわじわと拡散している状況では、どうすればいいのか。取り込んでしまったら、とにかくすばやく体外へ排出しなければならない。放射線は、放射性物質から放射されるが、身体にとどまることはない。その放射線を浴びることが害になる。とどまるのは放射性物質であるから、それを身体に入れない、すばやく出す。

放射性物質が肺に入ると出て行かないので、ずっと体内被曝をし続けることになる。はっと気づいて、改めて点検すると持っているマスクはみんな、横がスカスカだ。花粉やウイルス除去率99パーセントと書いてあっても、これでは意味がない・・。ほっぺたのところが密着するようなマスクを探さなくては。

安全な水や食べ物を食べる、といっても安全だという政府の発表はほんとうに信じられるのか、と不安になっている人が多いと思う。その答えは数年後にしか出ない。そしてその時に政府を非難したって遅いのである。いま確実に出来ることは、自分の免疫力を高めることだろう。

放射能に対する恐怖と不安は、いま日本をくまなく覆っている。たくさんの人が精神的に病んでいる。地震と津波のショックと悲しみに加えて終わりの見えない放射能の不安と恐怖。直接的に被害を受けた人も、そうでない人も間接的に身体と心に被害を受けている。

ああ、気分が重い。なかなか元気が出てこない。

こういうときに、心のこもったおいしいごはんを家族や友人と食べると、ああ、生きてるっていいな、おいしいな、うれしいなと思う。まだまだ色々しんどいけど、(簡単でもいいから)おいしいごはんを作ってあげよう、家族にも自分にも。

そして、非常持ち出しの非常食には、おいしい物を入れておこう。

犬狼詩集

管啓次郎

  29

「全体」とは言葉が生む幻想にすぎないだろう
われわれが経験するのは「個別」の一回性だけ
一個であり一回であることの耐え難さに
それでもよく耐えるのは虫の崇高な勇気だ
全体を知らず、世界を語らず
ただ地表に散らばり、それぞれの地点で
生きてきた、生きてゆくつもりだった
ひとつの花にもぐりこむマルハナバチとともに
朽ち木のうろに隠れる大きな鍬形とともに
あるいは川のような勤勉な行列を作る
まっくろな頭をした蟻の群れとともに
日々おなじ行動をつづけてゆくことが
かれらとわれわれに共有された誇りを与える
われわれの上には語り得ない無限、空がある
かれらとわれわれは重力に捉われながら
空と地のこの一方向性を敢然と受け入れる

  30

詩に語れるのは恒久だけ
詩に語れるのは無常だけ
だが詩はどうやってもそのつどひとつの視点しか提供できないので
その恒久も無常も悲しいほど小さい
それでもその仮構されたひとつの視点が鏃のように働いて
それを読む者に必要な飛行を経験させることがある
Deus meu deus (神よ、わが神よ)
神話は現実から十分な距離をおけるだけ
それだけridiculousでなくてはならない
だがどんな距離をとれというのだ、この目が見る光景から
この足が初めて踏んだ新たな土地の表層から
想像力が現実を凌駕したことなど一度もなかった
想像力とは一枚のぼやけたスナップショット
周囲のすべての広大な脅威を
魚の鱗一枚にまで縮小してしまう
その鱗を砂に埋めろ

  31

広大な砂の土地が出現した
歴史がひき剥がされた地表に
非情な悠久が帰ってきた
名前を失ったすべての土地がボンバルディアと呼ばれる
だが正確にはそこはアトピア
無根拠な同心円が引かれた太陽の土地だ
でもその太陽は貧弱でスキャンダラスな偽物で
偽物らしくいかにも壊れやすい
なんだボール紙でできた月以下じゃないか
水に濡れればもう使い物にならない
のみならず太陽を冷やした汚れた水たまりは
あらゆる生命を過剰な霜のように傷つける
山川草木を透明な炎で焼き
すべての鳥獣虫魚の遺伝子に失墜を強要する
貧弱なる偽物の卑小な太陽よ、おまえはもうしずまれ
私たちの母である太陽がくれた浄土をこれ以上汚すな

  32

「森は海の恋人」と男は口癖のようにいっていた
植林により回復された原生の広葉樹の森が
ゆたかな養分を含んだ土壌を作り上げ
ひとしきり降った雨は味わい深い流れとなって
海にむかう、その海で、深いリアスの岸辺で
濃厚な味わいの牡蠣がよく育つのだ
その循環の全体を見渡すとき
海の人間が毎年山に出かけて
苗木を植え森を励ますのは当然の仕事
水系の思想だ、水系の生命をまるごと把握しよう
海は森が育ててくれるもの
そして海辺が破壊された今も
川は流れる、海へ、海へ
「流れる」ということ自体が川の最大のメッセージで
その気持ちはどんなとき何があっても変わらない
さあ、海、この水を飲んで、山の土を味わって

四月のことをつらつらと

仲宗根浩

四月なったので半袖生活が始まる。日差しが強くなり、運転するときはサングラスは必須。でも昨日までは夜はまだ涼しかった。

お嬢さんがピアノを習いたい、と言い近くの教室に通い始める。うちにはシンセサイザーはあるがピアノはない。デジタルピアノを買うことになった。いまどきアップライトのピアノは中古で十万円もしないが置き場所がない。音も抑えることができない。まず近所の楽器屋でヤマハのを色々子供といじっていた。エレピの音が八十年代にあらゆるヒット曲に使われたDXエレピの音。それだけは気に入らなかったが値段が魅力的。音もそれなり。現品で手頃な値段。とりあえずパンフレットを持って帰る。他のメーカーはどんなものかとネットで調べるとカワイから木製鍵盤の新製品が出ている。値段も他のメーカーの木製鍵盤のデジタルピアノに比べて十万円ほど安い。実際に製品があるか車でカワイ製品を扱ったいるピアノ屋さんに行くと、その製品は無い。中古車じゃないが四年落ちのコルグのデジタルピアノがあったのでさわってみると、タッチがフェンダー・ローズみたいだ。でも自分の趣味で選んではいけない。子供のものだ。お目当てとは別のカワイの機種があったので音を出してみると、いい音がした。カタログで調べると仕込んでいるスピーカーが違う。その日は決めずに帰る。サイズ的にもやっぱりカワイかなあ、でもお目当てのものは触ってないし。結局木製鍵盤ではダントツに安いので、冒険してカワイに決める。一週間後に家に届き、ピアノ屋さんの手で組み立てられた。やはり八十八の鍵盤があるとでかい。子供は満足している。奥さんは夜な夜なぼけ防止と言いがらバッハのメヌエットを練習している。八十八の鍵盤が置かれる前はアングルで組み立てた棚に五百枚余りのCDが並んでいたけど、新たな棚ができるまで段ボールに詰め込まれ、積み上げられ部屋の隅。

上のガキは高校生になった。沖縄では高校合格となると家で親戚一同集まり大宴会となるが、我が家はそうゆう事があることもあまり知らず、お祝いをいただいた親類にお返しの品を持ってガキを連れてご挨拶にまわった。お祝いで小金持ちになった奴は、すぐに任天堂の新機種3DS買いやがった。親に昼飯でもご馳走してくれよ〜、と言っても無駄だった。

震災で全国解禁になっていたラジコが通常の状態に戻り聴けなくなった。テレビはどこ見ても同じなので、ラジコや深夜ラジオをよく聴いてる。ラジコのおかげで十四年ぶりにリアルタイムで演芸好きにはたまらない「ラジオビバリー昼ズ」を最初から最後まで聴いた。冒頭のフリートークはポッドキャストで毎日チェックしてたがやっぱり最後まで聴けるのは楽しい。ラジコ全国解禁中に友人からJ-WAVEでRCサクセションの「サマータイム・ブルース」が流れた、とメールが来るが、のがした。原発事故の後、放送局は自粛してるらしい。忌野清志郎は湾岸戦争のとき泉谷しげるに持ち曲の「戦争小唄」を今やれ、言ったという。泉谷しげるはやらなかった。

仕事から帰ると、おっ、今日は十六日。カフカだ。リアルタイムの時間は仕事中だったのでアーカイブでみる。ダカダッダッ・ダカダッダッ・ダカダッ。何すんの今から、と思いながら始まり、見終わったら深夜一時過ぎになっていた。再演されますように。行けないとおもうけど。

仕事先、「今、内地のものは怖くて沖縄産のものを送ろうとおもうだけど。」という派手なババアの相手をする。相手をしながら、おいおいなにかあ、北海道から九州までみんな放射線にやられているのか、馬鹿かおのれは、おのれのようなやつがあらぬ風評を広めるんだよ、と内心ではつぶやき、表向きは丁寧に産地についての確認の仕方を説明する。家に帰っても嫌な気分。酒を煽る。

福島での余震の速報がテレビのテロップで続いたので白河に住むマッキーにメールを送る。連休でも夏休みでも、気晴らしにいつでも沖縄に来い、と。近所のホテルだったら知り合いが働いているから、あれこれ、あちらこちらからのコネを使いまくり安くしてくれだろう。返信では子供の学校のスケジュールがガタガタとのこと。最後に「もうちょい、がんばろう。」とあった。

四月が終わればこちらの仏壇行事も落ち着き始める。一月の正月、二月は旧正月とあの世の正月の十六日祭。三月はお彼岸。四月の清明(シーミー)と毎月何かある。うちのシーミーの前の日に墓掃除に行く。行ってみるときれいにされていた。先に来たいとこがやってくれたみたい。掃き掃除と雨が墓の屋根をつたってできた汚れをたわしでゴシゴシ。いつもだと二十九日だが今年は三十日。連休なので熊本から三名やってきた。ひととおりのお供えものを持ち、母親が親戚の墓にも御願(ウガン)をしたあと、重箱を広げみなで食べる。今年十九名が集まった。天気は曇りだが、少し雨がぽつぽつ。家を出る前、ニュースで沖縄は梅雨に入った模様とのこと。はやくも長い夏が始まった。

春の道

璃葉

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もともと自転車の運転が下手なうえに、
急がない時の方が多いので、
ゆっくり、ノロノロと道を進むことが多い。
何かに思いを馳せながら自転車を運転するのは楽しい。

楽しいが、怪しまれる。

霧雨の夜に、フードをかぶって、
桜吹雪を堪能しながらいつもの様に
だらだらと自転車をこいでいたら、
ガードレール下でおまわりさん2人に呼び止められた。
怪し気だと思ったのだろうか。
残念ながら、ちゃんと自覚している。

色々質問をされ、
そこから自転車の防犯登録の確認をされつつ、
結局は15分程、楽しく雑談をしてしまった。

いつの間にか雨はあがっていて、
帰り道の空には群雲から月が顔を出していた。
桜の花びらがしんしんと降ってくる。

なんだかトクした気分になったので、自転車を降りて歩いてみた。

色川武大という不思議な人

若松恵子

伊集院静氏の最新作『いねむり先生』(集英社)は、色川武大と過ごした日々についての思い出を記した小説だと知り、震災の影響で遅れた発売を待ちかねて早速読んだ。

不思議な読後感で、作者が色川武大と過ごした時間の、夢のなかでのできごとだったような朧な感じが全体に漂っている。この小説を読んで、色川武大がどんなひとだったか、はっきりわかるわけではないし、伊集院氏が何に苦しんでいたのか、それを色川氏がどのように救ったのか、明確な物語の筋があるわけでもなかった。

ただ、ただ、色川武大が傍らにいた時間のまるごとが、温かな記憶として書き留められている。伊集院静、色川武大、2人の風貌を写真で知る私としては、後ろから2人の姿を見ながらついて歩くような感覚で物語の時間を楽しむことができた。色川氏について書くなら、このように描くことが一番ふさわしかったのだろうなと思った。

私が色川武大の作品と出会ったのは、大学を卒業して働き始めたばかりの頃だった。飛び込みの営業をするために家から家を訪問する毎日で、成績も上がらず、街のなかで私は全く途方に暮れていた。当時、担当のまちは葛飾。『花のさかりは地下道で』(1985年/文春文庫)をふと棚から抜き取った金町駅前の本屋さんを今でもよく覚えている。書名に自分の境遇を重ねたのだと思う。

12の短編小説が入ったこの本の表題作「花のさかりは地下道で」には、戦後の混乱期に上野駅の地下道で出会った「アッケラ」という女性の思い出が綴られている。2人はあることをきっかけに心が通じるようになり、街で行きあうたびに独特の親しさを示し合うようになる。「稼いでいるかい」「そっちはどう。ツイてるの」と、短く声を掛けあうだけなのだけれど、「べつに、深い交渉は何もない。身体に触れたわけでもないし、相談事をしたわけでもない。」のに、「ただ、顔を合わせると、お互いに、睦んだような眼の色」になり、「私たちはそこに、味方の眼、味方の声、のようなものを感じていた。それで充分、という気がした。」のだという。この物語を読んでからは、仕事で街を歩いているとき、曲がり角などでふと「稼いでいるかい」という色川武大の架空の声を思い浮かべて、自分を励ますことがあった。そうやって、何とかつらい時期を凌ぐことができたのだった。

それ以降も『怪しい来客簿』『うらおもて人生録』と読むなかで、つねに色川武大のこの独特のやさしい眼差しをみつけることができた。『うらおもて人生録』には、朝、学校に行く途中ですれ違う「くずやさん」の話が出てくる。ごみを収集して集積場までリヤカーを引いていくおおぜいの「くずやさん」のなかに色川少年は贔屓の人をつくる。色川少年が気に入るのは、痩せて、全くうだつのあがらない、ツイていなさそうな人なのだ。そんな人を贔屓にしていたって、何の得にもなりそうもない人から色川少年は目が離せない。どうしても片すみの人に目がいってしまうのだ。負けている方に心寄せてしまうのだ。

色川武大の肖像を見ると、途方に暮れたような大きな瞳が印象的だ。髪も薄いので、その顔は赤ん坊のようにも見える。少し悲しそうで、でも眼に映るものをみんな受け入れているような眼差しだ。彼はもう死んでしまったのだけれど、この眼差しで、どこかで今も見ていてくれるような気がしてしまう。作品のなかに、彼の眼差しが永遠に留められているからそう思うのだろうか。そもそも一度も会ったこともないのに、励まされたと思っているくらいなのだ。作品を通じたつきあいは、ずっと続くということだろうか。

『いねむり先生』の扉にはこんな言葉が掲げられている。
「その人が 
眠っているところを見かけたら
 どうか やさしくしてほしい
その人は ボクらの大切な先生だから」

伊集院氏も私と同じように、また街のどこかで色川武大と出逢えると思っているようだ。色川武大は独特に不思議な存在感を持つ。

製本かい摘みましては(69)

四釜裕子

新井敏記さんの『鏡の荒野』(スイッチ・パブリッシング 2011.4.1)を、東京大田区洗足池のほとりで読む。2010年11月19〜21日、京都造形芸術大学で行われた新井さんの講義をまとめたもので、23人の学生との、話を聞く/紀行文を読む/紀行文を書く、という三日間の”旅”の記録だ。大きさは本文が縦182ミリ×横119ミリで192ページ、糸かがりされており、2ミリほど天地を大きくした表紙カバーがかけてある。林望さんの『謹訳 源氏物語』の装丁に似ているが、こちらは本文の前後に厚みのある紙が数枚貼られており、表紙カバーは一番外側の厚みのある紙を芯として巻き込むことで強度を得ている。いっぽう『鏡の荒野』は、カバーをはずすと無地の本文紙がそのまま出てくる。つまりかたちとしては”カバー”だがその実”表紙”そのもので、巻き込むのに芯となるような厚紙はないからやや頼りない。何度も読むには、背をボンドで貼るか、上製本に仕立ててしまえばいいだろう。そういう誘いをまとう本でもある。

『鏡の荒野』の本文紙は週刊誌などに見られるようなザラ紙系のものだ。私も同系の紙を、あるシリーズの本に使っている。次の刊行がせまり週明けにも印刷会社と打ち合わせをしようとしていた時、東日本大震災が起こった。このシリーズに使う紙を作っていた製紙工場も被災して、今まで通りの紙を使えないことがしばらくしてわかった。印刷会社の担当者が似たような紙を方々から工面して、それぞれのデメリットを示しながら説明してくれる。このシリーズを立ち上げる時、本文紙のほんのわずかの風合いや色、厚さの違いでいくつも束見本を作ってもらったね、最後はどうしても値段がネックになって、それはすなわち在庫の問題だったね……と、当時のやりとりがよみがえる。代替えの紙はまもなく決まったが、他で担当している月刊誌では一冊まるまる同じ紙で代替えすることができず、数カ月にわたっていわば寄せ集めで乗り切ることになった。震災後の刊行号には、早々に読者から紙が変わったことについてコメントが届いた。ニュースで聞き及んでいたのだろう、被災した工場への気遣いと、「本」という物への気づきの言葉だった。

出版科学研究所によると、3月の書籍の新刊点数(取次扱い)は前年同月比6.9%減の5481点、3〜4月発売予定だった雑誌は延期が360点、中止が30点(2011/4/13)とのことだ。理由はそれぞれあるが、在庫していたものが流されたり抄造自体が困難だったり、紙の問題は大きい。いったい本1冊作るのに全部数でどれだけの紙が必要なのか。簡単には想像できないが、せめて1冊の本をばらばらにして、床に並べてみるといい。縦横測ってかけ算した数字を読むのと比べて、大きいか、小さいか。いずれにしても”意外”なのではなかろうか。

小田和正に抱かれて。

植松眞人

中学生から高校生にかけて、オフコースというバンドが絶大な人気を誇っていた。しかし、当時の男子でオフコースが好きだと公言するものはいなかった。少なくとも、僕は個人的にその声を聞いたことがなかった。♩さよなら〜さよなら〜♩と歌い上げるそのキーの高い声と、女々しく感じられた歌詞が、男子の聴かず嫌いを加速させていた気もする。そう言えば、タモリがオフコース嫌いを公言していたことも、なぜか男子中学生、高校生を強気にさせていたのかもしれない。そばに「オフコースが好き」という女子がいれば、あからさまに、必要以上に嫌な顔をしてみたりする程度に男は男であったわけです。

さて、そんなわけで、オフコース解散後の小田和正という人の歌もまともには聴いたことがなかった。ときどき、コマーシャルで流れる妙に押し付けがましい、当たり前のことをせつせつと歌い上げる歌声を聴きかじるのみだった。それがなんの弾みか、彼のアルバムを購入してしまったのだ。気の迷いとしか思えない。そして、♩だれかが〜どこ〜かで〜♩という歌声を聴いて涙ぐんでしまったのだ。おそらく、これは小田和正が好きになった、ということではない。その確信がある。真剣に付き合った恋人とうまくいかなくなった女性が、いろいろ努力した挙句に、結局その恋人と別れてしまい、その直後にずっと口説かれてはいたけれど、面白みのない男に弾みで抱かれてしまった。というくらいに、自分でも信じられない状況に陥ってしまったのだ。

小田和正の「どーも」という本当に意味不明なタイトルのアルバムを聴いて、僕も一瞬、これだけグッときたのだから、これだけ涙ぐんでしまったのだから「いままでのように聴かず嫌いではいけない。ちゃんと聴いてみよう」と何度となく聴いてみたのだ。

そしてある瞬間に、ふと思ったのだ。ああ、親戚のおじさんだ、と。僕にとって、小田和正の歌は、割に嫌いではない親戚のおじさんなのだった。間違っちゃいないが、そんなに力説されても困るなあ、ということを、法事で集まった親戚一同のすみっこの方で切々と訴えられているような感じ。だから、時にものすごく納得するし、でも、心のどかで「当たり前のやんけ」と反発したい気持ちが消えることがない。

というわけで、小田和正に抱かれてしまった僕ですが、次は納得できる男が現れるまで、ふしだらな恋はしないことをここに誓います。

8か、6か

大野晋

最近、一番困っているのは、数字の転記ミスが多いことだ。特に、6と8を頻繁に間違えるので困っている。今、仕事では日々、転記した電話番号を見ながら電話をかけ歩く毎日なので、かなり支障が生じている。どうも、乱視が悪化したか、老眼が進んだか、それとも両方なのだと思うが、同じ間違いばかりしている。これでは、もう青空文庫の校正などはできないだろうな。少しばかり沈んでしまう。

さて、数ヶ月前にとってしまったコンサートのチケットを無駄にしないために、1泊2日の強行軍で札幌を往復してきた。しかも、2日目は14時から別のコンサートとダブルブッキングというおまけまでついていて、なかなかにしんどいツアーになった。その上、20度を上回る横浜の暑さそのままに、薄着で出てしまったものだから、10度を下回る現地ではちょっとだけ寒い思いをした。(暑がりなので、困るほどでもなかったが)

コンサート自体はチェコの老マエストロ エリシュカの存分に堪能できるドヴォルザークのスターバトマーテルだったので、時節柄、非常に身の引き締まる思いができた。

ま。いろいろありますが、我々は、元気を出さないといけませんね。

オトメンと指を差されて(35)

大久保ゆう

Q:鞄がどうしても軽くならないのですがどうすればいいでしょうか?
A:あきらめてください。

どうもこんにちは、大久保ゆうです。みなさん、鞄に物やら荷物やら詰めるとき、物がたくさんありすぎて困ってしまうことってありませんか? ありますよね、ええあるはずです。

私の場合、何をするにしてもだいたい10kgオーバーするので弱ってしまうのです。えっ? どこへ旅行するのかって? いえいえ、普段の通勤とか通学ですよ。あるいは日帰りのお出かけとか買い物とか。ほらほらほら、あれも要るこれも要るって選んでいったら、たくさんになっちゃうじゃないですか。

普通だったら目の前に積み上がった大量の荷物を前にして、呆然絶望しながらこれじゃあ重いからと減らしていくのが常道なのでしょうが、私は持って生まれた生物的な特性によって多少無理をすれば持ち運べるのでなんだかんだ詰め込んでしまうわけで。わちゃわちゃわちゃっと。

Q:でも鞄を軽くしたいんです。
A:むしろ腕力の方を鍛えて下さい。

高校のときは自転車通学をしていて、鞄はだいたいハンドル前のカゴに入れていたのですが、あるときそのカゴが鞄の重みに耐えかねて自壊してしまうなんてこともありましてね、そのときは平常時20kgだったと思うのですが、なんて情けないカゴだとかいいながら太いパイプ製のカゴを取り付けたことがあったり。

部活は演劇でつまるところ文化部なわけですが、運動部の平均を凌駕する鞄の重さからついに私の鞄は周囲から〈米俵〉と言い習わされるようになり、ことあるごとに閉まらない蓋や折り目付の重しにされたりあるいは重量感ある枕にされたり倒れてきそうな物をささえるつっかえにされたりと、周囲の部活からさまざまに利用されました。

別に大したものは入れてないはずなのですよ。普通の人が普通にいるはずのものを詰め込んでいるだけなのに、それをまとめると何かものすごい重量になっているっていう。私が演劇以外に生徒会やら他の部活も掛け持ちしていたからって、それだけで人より重くなるはずはないのですよ。ただ要る(かもしれない)物は全部入れる、全部持ってく、っていう自分内の決まりがあるだけなので。

Q:えっと。
A:無理を通せば道理は引っ込むのです。

それを証明するかのように、今でも仕事用の鞄や研究用の鞄あるいは移動用の鞄は、常に10kg超、さっき10kgの米袋をそれぞれに入れてみたらすっぽり入るどころか持ってみるとやや軽く感じるくらい。

そんなわけなので、私の鞄に求められるスペックなり必要要件なりは、まず丈夫なことと容積がたくさんあること、運びやすいこと、あとちょっとだけかっこいいこと、ということになります。最後はとっても大事。さすがに全部満たす物がなかったりお高くて手が出なかったりすると、自ら改造することになります。いつも資料をつめこむスーツケースは重みでタイヤが自壊したので丈夫なものをあとからくっつけてあります。

ともかくそういった鞄さえあえば、もう一緒にどこへでも行けるわけで、だいたい15kgくらいあれば一通りのものは揃いますので(ノート・洋書・辞書・資料・筆記用具・ポメラその他もろもろ)、それこそどこでも研究・翻訳できちゃいます。大切なバディってことで。

Q:バディって……
A:まあ人体よりは軽い。……お姫様だっこで10m歩くことを考えたらこれくらいなんてことはありません。

はい。ってことで、いつもうろうろごろごろ、在宅ならぬ移動型放浪翻訳者にとっては鞄がとっても大事なわけですが、それを手にどこへ行ってどんな感じで翻訳しているかについてはまた自壊、いや違った次回。

マレーシア、クチンの芸術高校

冨岡三智

4月17日、半島にあるクアラルンプールからサラワクの州都、クチン市に向かう。サラワクはボルネオ島(インドネシアではカリマンタン島と呼ぶ)にあり、この島にはマレーシア、インドネシア、ブルネイの3国の領土がある。ひょんなことから私と、フィリピン人の演劇家、彼女の夫の音楽家がこの学校で2日間のワークショップを行うことになったのだ。国内便に乗ったはずなのに、着いたら入国審査があって驚く。独立時の事情に由来するらしいが、なんだか半島側との距離をつくづく感じた。

マレーシアの国立の芸術学校は、大学がクアラルンプールに1つ(ASWARAアスワラ)、高校がここクチンと半島部のジョホールにある。インドネシアと違って、マレーシアでは芸大の方が先に設置されて、その後に高校が設置されたという。普通は、中等教育機関を先につくって、彼らの卒業後の進路として高等教育機関の大学をつくるんじゃあなかろうか? しかこの学校は国立とはいっても校舎は間借り、日本の学校の教室の半分くらいの部屋に30人くらいがひしめいているという状態で、それを思うと、インドネシアの芸術高校や芸術大学はやっぱり恵まれた条件にあるし、国も芸術教育に力を入れているという気がする。それはともかく、芸術高校の設置地域からすると、マレーシアは半島側のムラユ文化とボルネオ島側の文化(オラン・フルとかビダユとかいろんな森の民の文化がある)を自国の民俗文化の中心と認識していることになる。が、もちろん、これらの土俗文化は当然インドネシアと(ブルネイなどとも)共有している。

昨年見に行った芸大(アスワラ)の舞踊科では、ムラユ舞踊、バレエ、インド舞踊、京劇を必須にしているということだったが、ボルネオの舞踊については言及しなかった。都会のクアラルンプールでは、ボルネオの舞踊は単なる地方舞踊という認識なのかもしれない。クチンの芸術高校ではボルネオ舞踊の授業は当然あって、彼らはボルネオ文化村のイベントにも毎年出演しているということを先生は強調していたが、初日の歓迎会で生徒が上演してくれた舞踊は、ムラユ舞踊と中国舞踊を組み合わせた新作(クレアシ・バル)だった。女性の衣装はムラユ風、髪型がちょっと京劇風で、男性はムラユ風の格好だが手に扇を持っている。ムラユも中華もマレーシア文化の一部。マレーシアもインドネシアと同様に、自分たちの多様な文化の融合とこれからの伝統舞踊の創造ということが学校の使命になっているのだろう。

ただ、この歓迎の舞踊も、文化村の劇場でのショーも、また芸術高校が作成した学校PR用のDVDに映っている舞踊も、どれもテンポが速いのが気になった。伝統舞踊を現代に生かそうとすると、どうしてもそうなってしまうのかもしれないし、イベントでも見栄えするのだろうが、外国人の目にはかえって単調に映る。

そんな風に言うのも、実は、私はジャカルタで以前カリマンタンの人達の舞踊を見ているからなのだ。もちろん、このサラワクと文化は共通している。文化村その一行はインドネシアの独立記念の一環でジャカルタに招かれ、カリマンタン島の最寄りの空港に出るまでトラックで2日もかけてやってきたと言っていた。皆お年寄りで、おじいさんたちが盾と槍を持って踊る舞踊は、静かに流れる水のように優美で、時々おじさんがシュルッと向きを変えるのも、まるで鮎がスッとUターンしているのを見るような美しさだった。その後ろで鳥の羽根を扇のように組み合わせたものを手にしながら踊るおばあさんもとても静かな気配だ。ジャワ舞踊に通底する静けさと優美さがあるなあと、そのとき感じ入ったのだった。

そのイメージが強烈にあったので、ジャワ舞踊のワークショップでもボルネオのビダリ舞踊を取り入れることにした。ジャワ舞踊でウクルと呼ばれる手首を回す動きや、ウンパッと呼ばれる手をしなる動きはボルネオの舞踊にもある。ワークショップは2日しかなく、しかも2日目の夜には舞台発表してほしいという依頼があったので、ジャワ舞踊そのものを教えるには時間が短すぎる。しかし、彼らがすでにできるビダリ舞踊の真中の部分に、ジャワ舞踊の要素を少し加味して、私もその間でジャワ舞踊を踊るというコマを挟みこめば、なんとか発表できるものができるだろうと考えたのだった。

彼らに何種類かボルネオの舞踊を見せてもらったのだが、どれもテンポはほぼ一定だ。彼らに聞いても、テンポの変化があるのは稀だというし、太鼓がテンポを変える合図を出すというアイデアもなさそうだった。またテンポも速いので、ジャワ舞踊のイラマIIのゆったりした速さで動くことと、イラマIからイラマIIへとテンポに変化をつける、太鼓で合図を作る、ということをやってみた。そうしたら、やっぱりというか、ゆっくりと動くことが苦手だった。息をするように、歌にのせて動くというのを感じてもらうために、ビダリの舞踊の前に、歌に合わせて踊る動きをつけたのだが、それもやる度にどんどんテンポが速くなって、機械的な動きになってしまう。とても心に沁みいるメロディーなのに…。発表の後で、校長先生が、あの歌の舞踊も、お年寄の動きは全然違うんだという話をされていたけれど、たぶん私が見たカリマンタン舞踊と共通する雰囲気だったろう。

彼らに、一拍でやっている動きを4拍でやってみるよう言うのだが、動きを均等に分割することができない。それに、私が数を数えると、なぜか一緒に声を出す。私が声に出して数えなくていいから、自分の動きに集中するようにと言っても、それが非常に難しいみたいなのだ。素人の方が、案外、カウントにこだわらず素直にゆったり動くことに集中できるのかもしれないと、今までの経験から思う。私自身は舞踊をするのにあまり数を数えるのは良くないと思っているので、なるべく数えないようにしてきたのだが、どうしても彼らは数えないと動けないみたいだ。今から思えば、逆にきちんとカウントして、1で手はここまで到達する、2でここまで到達する…と区切りながら教えた方が良かったかもしれないと反省している。

自分たちの知っている動きでも、ゆっくり動くということを通して、その意味について考えてほしい、ジャワ舞踊に共通するものは自分たちの文化の中にもある、というのが私のメッセージであったのだけれど、それを伝えるのは難しかった。休憩のときに数人、なんでビダリ舞踊の動きを使うの?と質問してきた生徒がいたので、彼らには説明することができたのだが、多くの生徒にとってはわけのわからないワークショップであった気もする。私としては、自分たちの知っている動きをゆっくりすることができなければ、未知のジャワ舞踊のゆったりした動きもできないだろう、という気がしていたのだが、もしかしたら、知っている動きのテンポを変える方が、未知の動きを習うより大変なのかもしれない。

そんなこんな中、無事に発表は終了。私の知っている、あの優美なサラワク(カリマンタン)の舞踊をもう一度目にしたい、と思いながらクアラルンプールに戻ったのでした。

ちいさなサイン ――翠ぬ宝79

藤井貞和

一方井さんの詩に、「あの子、
静かに眠っている」、と

静かに眠っている子の、

言葉よ、「慎ましく生きる人々の姿を、
私は決してわすれない」とも

ほしかったものはありますか?
         (一方井さんが訊く。)

「映し出されるのは形のない
あの子」(眠っている……)

      
(一方井亜稀さんのコメントに、「3・11を機に詩が紡がれるとするならば、それは傷を負った人々のリズムによってのみであろう。本作は震災以前に書いたものだが、これがどのように読み手に届くのかは分からない。ただ、書かれた(そしてこれから書かれる)全てのものはこの震災に耐えうる力を持たなくてはならないだろう。更に言うならば、遠いいつか、震災が忘れ去られてなお詩として機能するものでなくてはならない。言うまでもないが、このことは3・11以前にも公然と書き手に突き付けられていたはずである」とある。『現代詩手帖』5月号より。なお、一方井の訓み方がわからない。)

掠れ書き12(『カフカノート』の後に)

高橋悠治

シアターイワトで4月16日と17日の2日間、3回公演した後で、それについて考えてみる。

客席を4隅に配置したのでステージは十字型になり、ピアノが中央奥にあり、反対側に白い机、その上にノートが1冊。中央に低い白い台、これはベッドにもベンチにもなる、ピアノの傍には白い梯子。これらはすべて平野甲賀の構想と制作。

練習はまず歌を一節ずつ全員でうたうことからはじまった。次に全員でテクストを朗読する。それから各断片を分担して読み、あるいは歌い、ノートのページをめくって交代する。読み手以外の3人は、自分で考えた動きをためす。それらの動きをその場にいあわせた全員が見ながら、すこしずつ修正していくが、細部まで決め固定することは避けて、その場で変える余地を残す。こうして二日目には全体の通し稽古ができるまでになった。演出家はいないから、一つの視点ではなく、様々な視点を組み合わせて、ゆるい約束ごとができていく。それでも、全体を構成し、台本を書き、作曲をした時の予想がまずためされることになる。

朗読は一節ごとにイメージを作っていく。それは意味や感情を通した解釈ではなく、ことばのリズムと、呼び起こすイメージの変化をたどっていく。そこに動きと音楽の層がかさなり、ずれと相互作用を起こす。読むのは自分ではなく、遠くから聞こえてくる声を伝えるだけ。動きは自分の表現ではなく、操り人形のように全身が連動して、突然始まり、突然終わる。楽器の音は最小限の音の身振り。これらはスタイルではなく、身体技法から入り、その場の状況に対応して、内側から声を含む自分の身体の動きを観察し、空間のなかで他の動きを関連づけながら位置や動きの方向が決まる。というのは外側からみた結果論だが、じっさいには意識の遅れをできるだけなくして、予備動作なしに瞬発する動きを想定している。カフカのアフォリズム「目標はあるが道はない、道と言うのはためらいだ」とはちがって、目標も道もない、偶発的なできごとに対して、ためらいもなく、別な偶然で応えること、と言っても、これこそすぐにはできない、訓練がいる。それは強制はできないし、それに方法や技法を統一する必要も意義もない。なにかに意味をもとめるのは、人間的なまちがいかもしれない。偶然に現れ、また消えていくさまざまな現象が衝突し、思いがけない一時的な関係が生まれては変化し消滅する空間と時間の場を設定して、そのなかでひとつではなく、多くの重なりあい、矛盾する動きが見られるようにする。

以前の二回の試みの後で、第3の版を考えたとき、最初と最後に置く断片だけは決まっていた。その時は、最初の断片で災害から逃げる翼を使わず、死者たちや神々とともに町にとどまる老人の話は、偶然地震の後になったが、もともとアフガニスタンやイラクでの無意味な戦争から思いついたことだった。最後の断片のオドラーデックは、ヨーゼフKの処刑の後に生き残るかのように思われた「恥」のように、ちいさくささやかであることで、この無意味な世界に無意味な死をこえても残る「無」すれすれの不安と気がかり。

白い木彫りのオドラーデックがステージの上方から見下ろしている。平野甲賀が余震のあいだ彫り続け、それはジャコメッティの彫刻のようにやせ細っていった。最後の断片になると、それがゆるやかに回転する。観客はほとんど気づかない。

このテクストと音楽と行為によりながら、演劇でもオペラでもない、作品でさえないこころみは、練習に近い。逆に、その練習は練習ではなく、毎回少しずつちがう上演とも言える。いつまでも未完成で、いつでもやりなおせるあそび。

それはクラシックや現代音楽コンサートの聴衆や、ジャーナリズムや音楽批評をあてにしてはいない。1960年代の草月アートセンターや、1980年代の水牛通信のように、まずシアターイワトという場があり、そこにかかわる人びとのネットワークを創りながら、そのまわりにすこしずつひろがっていく、Ustream中継やYouTubeなどインターネットは記録として残るが、人びとの集まる場は、ばらばらの個人的電子空間で代替はできない。一時的な相対的自律空間は永続はしないで、制度に取り込まれる前に消滅し、不意に別な場所に現れる。カフカのノートになるこころみは、オドラーデック的存在様式を発見することになった。

最後に当日のプログラムノートの引用:
『カフカノート』はカフカのノートブックから集めた36の断片の束であり、カフカについてのノートでもある。
1990年の批判版全集のテクストにより、ドイツ語原文と日本語のどちらでも上演可能。日本語訳は、パラグラフ、句読点、歌の場合は音節数もできるだけ原文に近づけた。

ノートブックの白紙の空間は、心のなかの小部屋であり、行く手の見えない道であり、小動物の走りと囚人の処刑場、日常の闇の時間でもある。
そこににうごめく夢魔の人文字の活人画。
だれとも知れぬ声が語り、時には歌声がきこえる。
楽器が声の線をなぞっていく。
全体はささやかな生命に落ちかかってくる災いにはじまり、生き残っていく不安に終わる。