ゆくはさびし 山河も虹もひといろに
思想の詩終わる六月 きみがゆく
水売りの声も届かぬ幽境へ
炎天に苦しむこともないだろう
五七五 終わるかきみの初夏に
幽明のさかい越えゆく 涼しきや
衰うることなき燃ゆる五七五
壊滅を見届ける 清水昶(あきら)ゆく
(清水=夏の季語。昶(あきら)さんは晩年、俳句ひとすじでした。相伴します。)
ゆくはさびし 山河も虹もひといろに
思想の詩終わる六月 きみがゆく
水売りの声も届かぬ幽境へ
炎天に苦しむこともないだろう
五七五 終わるかきみの初夏に
幽明のさかい越えゆく 涼しきや
衰うることなき燃ゆる五七五
壊滅を見届ける 清水昶(あきら)ゆく
(清水=夏の季語。昶(あきら)さんは晩年、俳句ひとすじでした。相伴します。)
うちの近所には時々狸だのハクビシンだのが出没する。いつぞやは路地の角でばったりと遭遇し、顔を見合わせることがあった。ちょうど、その角の正面が警察署だったのが不思議な縁である。
狸はときどきご近所さんとしても会うのだが、狐にはとんと縁がない。テンやオコジョといったよほど珍しい動物の方が出遇った回数が多いのだから、縁遠いと言た方がよいのかもしれない。そのうち、きつねの近所にでも住んでみたいと思うのだが、どなたかきつねの近所に住まわれている方は情報をお教え願いたい。
きつねと言えば、毎月青空文庫のランキングをのぞく楽しみもきつね絡みだったりする。新見南吉には2つのきつねの話がある。ひとつはご存知「ごんぎつね」悲しいいたずら狐のごんの話である。もうひとつはきつねの親子の姿を描いた「手袋を買いに」で、この2作が上位ランキングに必ず入っている。私の肩を持っているのは「手袋」の方で自分で登録したくらいに好きな話だったりする。そして、毎月、この2作のランクの上下を見ながら勝っただの、負けただのを一人楽しんでいるのだ。ただし、「手袋」には弱点があって、手袋が不必要になる夏場には分が悪い。今年の夏の暑さが、実は私のささやかな楽しみを左右している。
さて、例にもれず、私も連休から数名の作家と密にお付き合いして、作品読みに没頭(すると実ははかが行かないのだけれども)する羽目になった。そのひとり、田中貢太郎は怪奇もの、怪談ものの収集、紹介者として有名だが、中国の怪奇もののなかに、狐の嫁を貰う話が多数でてくる。面白いのが、狐は嫁に貰っても、狐のところには嫁は出さないらしい。中には親しくしていた狐と、そこに自分の妹を嫁に出さないということでいざこざになり、最後は狐の娘を子供の嫁にもらって一件落着なんて話も出てくる。
いくつも読んでいると、ふと、狐とは別の民族なのではないかと思い当たった。そう言えば、西域の少数民族地域にはいまでも欧州系の掘りの深い民族が暮らしている。どちらかと言えば、顔の輪郭が丸く、タヌキ顔のモンゴロイドに対して、いかにも、ひげを蓄えたキルギスあたりのおじさんはきつね顔と言われれば見えない事もない。
そこで思い出したのが、現中国政権の勧める民族融和策であった。伝え聞くところによると、漢民族の若い男性に、少数民族の女性との結婚を勧めているのだそうだ。これが漢民族の女性に少数姻族の男性との婚姻となっていないところがまさにきつね式。今も昔も、きつねとの付き合いは変わらないのかもしれない。
そう言えば、中島みゆきの歌に、狐狩りの唄があったなあ。と、ふと、アマゾンを検索に行く。
6歳の息子が担任のエステル先生に、国歌を歌うときなぜ手を胸にあてるのと尋ねると、「それは心の歌だから」と教えてくれました。
「未だあなたには早いけれど、小学校に行ったらむつかしい歌詞の意味をじっくり勉強するはず。イタリアが生まれるいきさつは大変なものだったのよ。沢山の人たちが命がけで力を併せてくれたおかげで、今のわたしたちがいるの。そんな皆に思いを馳せて、手を胸にあてるのよ」。
息子が3年間通った市立幼稚園の卒園式に顔を出すと、イタリア建国150周年の今年に因んで、最後にさまざまな人種の園児たちが、右手を胸にあて、元気よくイタリア国歌を歌っていたのです。
担任のテレーザ先生とエステル先生は、最後の面談で小学校への引継ぎの話が一通り済むと、「あとは涙がこみ上げてくるだけだから、すぐに連れて帰って」と少し照れながら話していたし、息子が日本に発つ前日、最後の登校のつもりで挨拶にゆくと、明日の便はお昼過ぎ?それなら朝はここで少し過ごしてから行けばいいわ、お別れは明日までお預け、と土俵際で寄り切られました。
あれから一週間経って、一足先に戻った家人と息子を追って今朝ほど東京に戻ったところですが、空港に向かう道すがら、幼稚園に一年の勉強の成果をまとめたアルバムを受取りに立寄ると、アルバムが税関で取上げられないかをとても心配していて、恐らく大丈夫と答えると、「そんな曖昧なことでは困るので、私が秋まで預かっておきます」と言われ、慌てて、必ず息子に渡しますと約束して、何とかお許しを貰いました。二ヶ月ほど家を空けることになり、息子が室内で育てていたトマトの苗のうち、二株は庭の菜園に植替えましたが、留守中按配よく雨が降るとも思えず、残った一株は息子と仲良しのニコライにプレゼントしたところ、日本に戻る日の朝、「トマトがぐんぐん育っていて、一つ新しい小さな新葉も吹いたと忘れずに伝えて頂戴」と、わざわざ彼のお祖母さんが電話をかけてきてくれました。
そうして、一週間ぶりに東京で会う息子は、二ヶ月ぶりの日本の小学校がすっかり楽しい様子で、彼なりに溶け込もうと頑張っているのでしょう。数日で「わかんねえ」「すげえ」「きたねえ」などと覚えたての男言葉を、家でも嬉しそうに連発していました。家では日本語は母親としか話さないので、そろそろ彼の日本語の女性化が気にかかり始めたところで、ほんの一週間で、日本語の割舌も見違えるように良くなり、早口になっているのを見るにつけ、子供の吸収力にあらためて驚いています。
さて3年前、ちょうど息子が幼稚園に通い出して暫くしたとき、ボローニャのアラッラとラ・リカータから、才能のある若者がいるので面倒をみて欲しいと頼まれ、ミーノがおずおずとレッスンにやってきたのを思い出します。彼は音楽を始めたのも遅く、高校までは父親を継いで数学者になるか、音楽を続けるか迷っていたそうですが、当時からとても身体が大きく、ムーミンのように太っていて、文字通り繊細な巨漢でした。
飛び抜けてピアノと作曲の才があり、ずば抜けて耳は良かったのですが、両親が離婚していて手元にお金はなく、いつも鈍行でボローニャから通ってきていましたが、その分熱心に勉強して、めきめき力をつけました。自分に教えられることも、そろそろ言い尽くしたかと思っていると、ちょうど息子の卒園式のころ、マインツの劇場のアシスタント指揮・ピアニストに決まったとおずおずと連絡をくれ、一同飛び上がって喜んだことは言うまでもありません。
彼は元来チューリッヒ音大の指揮の博士課程を目指していて、1年目の受験は全く箸にも棒にもかからず、2年目はすんでのところで合格点に届かず、3年目は合格には充分な点数だったけれども、クラスの席が空かずに落ちてしまい、将来を悲観していました。だから、受かるつもりも全くなく、見ず知らずのドイツの劇場で、馴れないドイツ語のサロメのコレペティでオーディションを受けて、初めて、まわりの受験者が各地の劇場のオーディションを渡り歩くコレペティ志望者だと知ったそうです。
最近ふとした偶然から、3年前のボローニャの劇場でのライヒのEightLinesの演奏がインターネットで見られるのを知りましたが、本番でピアノの譜めくりをしていたのも彼でした。あの演奏会の頃、レッスンに来だしたばかりのミーノと、リハーサルの合間に時間を見つけては、舞台裏などでチューリッヒの課題曲だったブラームスのハイドン変奏曲を一緒に勉強していたのが懐かしく、奇しくも、ハイドンの聖アントニの主題は、息子が特に大好きで、拙いながら自分でピアノで弾ける数少ないレパートリーの一つなのを思い出しました。3年という時間が長いのか短いのか、分らない気もするし、少し実感できるようになった気もします。
さて、外は夕立が酷く雷も鳴りはじめました。
蛇の目ではありませんが傘を携え、息子を迎えに行ってくることにいたします。
35
あるひとりの無名の人の出生地と死亡地を
緯度と経度で地図上にしめし
ふたつの地点を直線でむすんだものを
仮にその人の生の、あるいは滞在の、線分と呼ぶ
二十二歳からの七年間
ぼくはそんな仕事をしていた
もちろんその間も調査を怠らなかったので
三十歳の誕生日の直前にはある個人的な
成果に達することができた
六月の桜桃のようにうれしかった
そのときマッピングに成功したのは百二十八の線分
もっとも古い日付は一七四九年で
もっとも遠い地点はゴアだった
線分の群れは東アジア一帯と
フィリピンからトレス海峡、ミクロネシアにまでまたがっていた
百二十八人。ぼくの七世代前の先祖たちだ
36
想像力がそれまでに想像したことのある「世界」を
乗り越える、その一瞬を「詩」と呼ぶことにすればいいじゃない
と私が一緒に勉強したアイスランド女性がかつて話していた
乗り越えはふたつの契機によってもたらされるだろう
一つ、それは外部に由来する
新しい現実表象(言語+心像)が到来するとき
一つ、それは私の内部において
これまで気づかれなかった組み合わせが発見されるとき
いずれの場合もおもしろいのは
想像力それ自体はほとんど無力だということ
想像力とは能動的・積極的な力ではなく
つねに受動的なある態度にすぎないと私は思う
つまり詩は作れない
それはただ見つかるものにすぎない
詩はみずからを見出すものにすぎない
横たわる想像力がみずからを離脱し超越するのだ
敬愛する山本ふみこさんが、ないしょの話をするように「原発切抜帖」という小さな映画のことを教えてくれたのだった。土本典昭監督自らスクラップしてきた原子力関係の新聞記事だけで構成された45分の短い映画だけれど、深刻なテーマにしては小沢昭一の語りと水牛楽団の音楽が洒落ていて、今、再び見るべき映画ではないかということなのだ。水牛楽団が音楽!。そういえば山本さんの美丈夫さと気風の良さはどことなく八巻さんと似ているな、などと思っているうちにがぜん見たい気持が高まった。
1982年製作のこの映画は、借りてきてみんなで見る方法しかないかもしれないと思っていたが、岩波ホールで上映されているということを再び山本さんから教えてもらって、最終日に駆けつけることができた。
岩波ホールの緊急特別上映は、羽田澄子監督の「いま原子力発電は…」(1976年/放送番組センター、岩波映画製作所・テレビ番組)との二本立てだった。先に「いま原子力発電は・・・」を見る。始業まもない新品の福島第一原子力発電所が出てくる。「原発事故が起こる確率は50億分の1で、それは隕石にあたるのと同じ確率です」という説明が出てきて、会場には苦笑のさざ波が起こる。「万が一事故が起こった時には、自動に停止しますから大丈夫です」というセリフには、「ウソだ」というつぶやきが後ろの席から聞えてくる。
早稲田大学教授(当時)の藤本陽一氏に羽田監督は話を聞いていく。”原子炉のからだき”という最悪の事態を防ぐには、1分という短い時間のなかで、離れ業の対処をやってのけなければならないという話が出てくる。原子力は有望なエネルギー源だが、賛成できない理由として構造に問題があること(緊急時の冷却が実際には難しい構造になっている)、放射能をいっぱい持った廃棄物が出ること、軍事利用につながることを挙げている。軍事力につながることなど、今は誰も触れない問題だ。
「事故が起きる確率は、隕石に当たるのと同じくらいと聞きますが」と羽田監督は質問する。交通事故のように、頻繁に事故が起こるものについては充分な確立を求めることはできるが、原子力発電のように、事故が起こったとしても非常に稀なものについて、充分な確立を求めることはできないというのが藤本氏の見解だ。科学的に考えるとはどういうことなのか、信頼できる専門家とはどういう人なのか、藤本氏の説明する姿からそんなことを感じた。
「原発切抜帖」(1982/青林舎)は、「新聞記事は日々の風速計だ」という小沢昭一のナレーションで始まる。画面は広島に原爆が落とされたことを告げる短い記事まで時代を遡る。新型傷痍爆弾に対してどう対処すべきかという心得を述べた記事を映しながら、「戦時中は心得だらけでした」というナレーションが重なる。節電の心得、熱中症にならない心得…今もまるで一緒ではないかと思う。そして原爆のことが明らかにされたのは、終戦直後のことだったという。「どうして広島の時に教えてくれなかったのか。」長崎に原爆が落とされた記事を映しながらのナレーションだ。
1981年の敦賀原発の事故対応で、放射能を含んだ水を雑巾で拭きとったという記事。「たとえ放射能が相手でも、現場の人は素手で働くしかない」という実態。アメリカで、原子力関連の死者を13,000人以内にしようという”安全対策”が取られているという記事。「被曝を前提とされた職業が公認されることになる」というナレーションに、そういう見方もあるのかと思う。新聞の記事と、ナレーションと・・・・。水牛楽団の奏でるうららかなメロディーが、私たちの、のんきさを浮き彫りにしていくようだ。
これは、チェルノブイリの事故が起こる前につくられた作品なのだ。これを見るところから何を始めたらいいのか、不誠実なことは言えないと思う。ただ、「日々家々に配達される新聞」の記事のなかに、淡々と進んでいく事態が書かれていたということは分かった。
北イラクのアルビルは、とても暑い。不思議なことに、シリアやヨルダンよりは北に位置するのに、比べものにならないくらい暑い。50度を越えているだろう。歩いているだけで息が上がるのだ。
アルビルは、イラクでは一番近代化が進んでいるが、それでも辺境の地という感が否めないのは、遠くに聳え立つ山々とぎらぎらと照りつける太陽のせいか。もっとも太陽はどこでもぎらぎらと照りつけるものなのだが、50度をこえる空気は、太陽の水素爆発により発せられる熱線であり、何億光年もかけて地球に到着して、皮膚を焦がしていく。という非科学的な表現をすれば、いかに辺境かがわかるだろう。
そんなくそ暑い辺境で一人黙々とではなく、気勢を上げて働いている日本女性がいる。私と同じ年齢なのだが、アフリカで鍛えたせいか、基礎体力が違うのだ。しかし、住宅環境が悪く、近く引越すというので、様子を見に行く。確かに、アパートの階段の要り口には、生ゴミが回収されず悪臭を発し、ハエがたかっている。何よりも停電が多く、冷房が効かないし、水が出ないという。
仕事の話になると、ついつい力が入ってしまう。議論が盛り上がると息が荒くなる。口角泡を飛ばすという言葉があるが、そんな感じで、僕たちはお互いの不満をぶつけていた。
「ともかく、311後、日本は変になってしまったんだ!」
その時、急に話が途絶えた。
「あ、ハエを飲み込んだ」と彼女。
確かに、ハエは、水分を求めて唇の周りをうろうろ飛んでいるが、つい口の中に入ってしまう事がよくある。
「どうしようって、ぺって出したら?」
僕は、目の前をハエが飛んでいることに気がつかなかったので、彼女の口からペッとハエが飛び出してくるまでは、信じられなかった。
「今、この辺で動いている」彼女はのど仏のあたりを指差した。
「あ、落ちた。。。〈胃の中に〉」
Sさんは、議論を吹っかけた私の方をにらんで、「どうしてくれるの!」といわんばかりだ。それでも僕は、ハエを一息で飲み込んでしまうなんて信じがたかった。
「うーん、胃液で死んじゃうから大丈夫じゃないかなあ」といい加減な返事をしたが、その夜、彼女は強烈な腹痛にのたうちまわったそうだ。
君の墓の後ろに立つ僕の墓の前に立ち
左右色違いの靴を斜め下から履く
どうか君の好きにさせておくれ
終電で帰宅するが
秩父の信号の赤 緑に刺された深い霧を見て
できる事
蛙の見る夢について考えた
夜の霧は黄色いレモンをつかまえよう
と
走り出す白い子供の青いTシャツように
無邪気に溢れ出していた
今の季節、保存食作りで台所は忙しい。淡竹、実山椒、山蕗、梅、新ショウガ、ラッキョウ。どうしてこうも同じ頃にどっと出てくるのか。おかげで、最近は6月にはけっして旅行せず、日本にいるようになってしまった。
昨年の12月、アパートの玄関前のスペースに植えていたビワの木になんと6年目にして初めて花が咲き、青い実がついた。6月に入ってしばらくすると、実に色がほんのりついてきた。数の多い小さい実を摘果したり、茂りすぎた葉っぱを取ったり、カラスにすべて食べられないよう、手の届くところに袋をかけたりする。
ビワの実の具合を眺めているうちに奈良から梅が届く。鈴なりになっているビワの実でビワ酒を漬けようと思い、今年は梅酒はやめておいて、6キロ全部梅干に仕込む。
梅漬けはカンタンで楽しい。届いた梅を台所に置いておくと梅が熟れてきて、なんともいえないよい匂いが部屋を満たす。仕込みをはじめて、洗ったり、塩をまぶしたりしている間にも、その匂いに包まれて、なんともシアワセな気分である。花もいい匂いだが、この熟れた実の匂いは格別。これは梅漬けをする人だけが味わえる快楽といってもいい。ああ、梅の木がほしいなあ・・。
ビワは小粒だが、だんだん熟れてきて、けっこうおいしくなった。小粒なものを集めて焼酎につけてビワ酒に仕込む。雨の合間を縫って熟れた実を取り、友達に届ける。とてもうちだけでは食べきれない。今年は豊作らしく、方々で黄色く熟れた実がついたビワの木をみかけた。心配していたカラスも、色づいた初日にいらしただけ。ときどきヒヨドリの夫婦が食べに来るぐらい。
梅雨の合間に、あんまり暑くて日差しも強いので、去年漬けた梅漬けを干すことにした。いつも土用のころは忙しくて、さらに8月はいつも日本にいないので、梅漬けを干すタイミングがむずかしい。でも、日差しさえ強ければいつ干してもいいのだと気がついてからは、すっかり気が楽になった。1年でも2年でも塩漬けのままで置いておいてかまわないのである。むしろ、塩がなれておいしいぐらいだ。
土用干しの呪縛から自由になると、なんと梅干作りの気楽なことよ。しかも、3日3晩続けて干す必要もない。1日干して、次の日天気が好くなかったら、また梅酢に戻しておけばいい。雨が降るかもとやきもきしたり、外出を取りやめることもないのである。ばらばらでも、連続でもだいたい、3日間以上干すと、梅漬けは晴れて梅干に変身する。
先日仕込んだ今年の梅漬けの梅酢もあがってきた。塩は2割よりやや控えめなので、上から泡盛をカップ1杯注ぐ。これはカビ予防。梅の実が梅酢に漬かっていて、重石もしてあったら、干さないままでもたいがいカビは生えない。
もしカビが生えたら・・表面のカビの部分を取り除き、梅は焼酎などで洗って一度日に干す。梅酢はさっと熱して冷まし、また梅を沈める。重石を少し重くする。塩を追加する、などなど。けっして捨ててはいけません。
先週は思い切ってラッキョウ漬けに取りかかった。正直言ってラッキョウ漬けだけは苦手だ。あの、じっと立ってラッキョウを一粒ずつむいて、根っこを切って整えるのが、なんともつらい。貧血を起こしそうだ。流しで洗ったりしながらする作業なので、座ってするわけにもいかないしな〜。
でも、食べるのがきらいなわけではない。市販のものは甘すぎるので、やっぱり自分で作らなくっちゃ。ことしは少なめに500グラムにしたら、鼻歌を歌っているうちに仕込めた。この調子なら、またラッキョウを見かけたら追加製作してもいいかもしれない。
ヒバリのラッキョウ漬けもまた手抜き・・いや、ややこしくない大胆仕込である。一般的には皮をむいてそうじしたら、一度根っこをつけたまま塩漬けすることになっている。その後、ふたたび甘酢に漬けるらしいのだが、そのとき塩を抜いたりもするらしい。なぜだ? 初めから甘酢漬けにしちゃいけないの?ラッキョウをはじめて漬けようと思ったときに、作り方を調べて、この二段階が面倒臭いなあとあきらめかけた。しかし、「いきなり漬け」という漬け方を教えてもらい、「これならできそう」と思ってやってみたら、十分おいしいではないか。
いや、むしろ市販の甘っちょろい甘酢漬けよりずっといい。もっとも、家に遊びに来てこのラッキョウ漬けを食べ「このラッキョウ、野性的だね・・」と1個しか食べなかったヤツが一人だけいるが、そいつとはその後、別のことで信頼関係をなくした。いや、けっしてウチのラッキョウに文句をつけたからじゃありませんってば。
ラッキョウはかじったときの歯ごたえが重要だ。口の中でしゃりっと砕けるあの爽快感。歯ごたえのいいラッキョウ漬けは、仕込みのときの切り方で決まる。では、漬け込みの手間一回だけのヒバリ式ラッキョウしょうゆ漬けの方法でえ〜す。
3年ラッキョウはおいしいけど、小さくて手間が3倍なので、素直に大粒の1年物のラッキョウを仕入れる。
水洗いして泥をざっと落とし、長すぎる茎を切る。そこから薄皮をむく。根っこの部分を切る。ぎりぎりに根っこが微妙に残っているぐらい。まちがっても、市販のラッキョウ漬けのような大胆な切り方をしてはいけない。茎も市販のものよりやや長い感じでね。もう一度洗って、砂がついてないか確かめ、ざるにあけて水を切って乾かす。塩をちょっとふって、まぶしておくと身がしまって味がなじみやすい。
口の広いガラス瓶などに、水気を切ったラッキョウを入れ、しょうゆ1、酢1、さとうかはちみつ0.5ぐらいの感じで上からかける。さとうやはちみつをわざわざ別なべで熱して溶かして混ぜ合わせておく必要はありません。そのうち溶けます。いや、溶かしておいてもいいですけど。鷹の爪を1〜2本ほど入れる。乾燥したものね。
甘みはお好みで。これより少なくしておいて、しばらくして味を見て加減してもいい。塩味も足りなければ、しょうゆを足してしばらく置く。ラッキョウがひたひたになっていれば大丈夫。甘みは、砂糖やはちみつのかわりにみりんをいれてもいい。
1〜2か月で食べられます。1年間はカリカリです。
もっとかんたん、味噌漬けラッキョウ。家にある味噌を手ごろな容器に取り、洗って皮をむいたラッキョウのなるべく小粒なものを選んでそこに入れるだけ。ラッキョウが味噌にまぶされていればいいんです。3日で食べられます。酒の肴に絶品です。
沖縄の島ラッキョウを生で味噌をそえて食べる、あんな味。でも少し漬けてあるから絶妙なまろやかさもある。ほんの少し、あるだけで満足。1週間ぐらいで食べきりたい。お酒は、もちろん、泡盛か焼酎オンザロック!
ラッキョウは夏バテによく効きます。疲れた夜にはまず前菜でラッキョウ漬けを少し食べて元気を取り戻そう。暑さに負けて、電力会社の策略の「電気がないと困るでしょ〜」作戦に取り込まれないよう。今年も暑くなりそう(というかすでに真夏並み)だけど、原発なくても大丈夫、なとこを見せつけてやろうではありませんか。
アルバイト先の店長と
友人達に誘われて
つい先日、曇り空が広がる三浦半島へ出かけた。
店長が船を持っている、という話は
前々から聞いていたが、それが漁船なのか、
ボートなのかヨットなのか。
どんな船を持っているか全く興味が無く、
聞くタイミングも逃していた。
なので当日、駐艇場に並ぶ白くスラリとしたヨットを見た時には、
さすがに興奮した。いつものんびり、ほんわか、とした店長の顔が
急に男らしく見えてしまったりもして。
船にあまり乗ったことが無いので、
水面の近さや、身体中を通り抜けていく湿った風や、
ちょっとした浮遊感が新鮮で、
子供のようにはしゃいでしまい、(実際、子供か、と言われた)
太陽が出てもう少し暖かかったら海に飛び込んでいたな、残念。なんて言葉も漏らした。
その後、三崎の町へ。
本で読んだ三崎の風景はやはり想像通りだった。
しかし、閉店しているお店もちらほらあり、人通りも少なく、とても静か。
少し町の元気がないように見えるのは、震災の影響だろうか。ふと考え込んだりしたが・・・。
時間がゆっくり、ゆっくり、流れている港町を散歩できたのは
せかせかした東京に慣れてきてしまった私にはとても幸せなことだった。
三崎の町へは、車だとあっという間についてしまうが、
電車から電車、バスに乗り継いで行くのも楽しそうだ。
次は美味しい魚とお酒を頂きに行こうかしら。
年に一度の健康診断の半日ドック。医者から、かくれ肥満と言われました。体型は問題ないですが、中性脂肪、コレステロールが高いです。お酒は?と問われれば、毎日、と答えると一週間に一回になさい!と言われ、そうお高く言われるとひねくれ者には逆効果、と思いながらも、まあ、詳細な検査結果が届いたらこちらも考えてみようじゃないか、と病院を後にする。しかし、今回の胃カメラは去年よりちょいときつかった。あれも医者の技量?それとも麻酔のかかり具合?おのれの年齢による体力低下か?
六月のある日、帰ると夜は十一時過ぎ、室内三十一度。台風のあと、梅雨が明けずっと暑い。扇風機が一台壊れた。モーターの異音、羽は回ったとおもうと止まったり。古いものじゃないけれど、これを機にこいつをあきらめ、二台扇風機を購入し各部屋一台づつ扇風機を置こうと考え家電量販店に行き二台購入。数日経ったある日、家に帰ると長らく使っていた扇風機が羽がぽっきり折れた状態で佇んでいる。高校入学後初めての中間テストで早くも数学で赤点をかましてくれた息子が倒してくれたらしい。各部屋一台扇風機というインフラが早くも崩れる。翌日にすかさず代替のため一台購入。クーラーの清掃も終えて長い夏に向けて体制がととのった。
早い梅雨明け後、小学生の子供はプール授業が始まった。学校から帰ってきても普通に外で遊びに行く。線量なんて気にすることがない普通の日常がある。
月食気づく間もなく、夏至の翌日慰霊の日。学校が休みのうちの小学生は、十二時に黙祷をする、と言っていたがいつの間にか時間が過ぎていた。母親に南の方角を聞き、風呂場のほうだと教えられると、ひとりで風呂場で黙祷をしている。
台風五号が近づく。今年は一号から近くに来たので行きつけの居酒屋、糸満出身のご主人は「今年は一号から近づいてくるから台風の当たり年かも。」と言う。漁師町出身だからその通りかもしれない。五号が通り過ぎたあと、雨がかなり降り、風が強い日が少し続いたので、しばらくは涼しくなったあとまたいつもの日差しの強い日にもどる。
私は中学の時以来鍼灸にお世話になってきたという肩凝り持ちなので、ジャワでの留学・調査でなにより大事なのが、マッサージの類を受けられる場所を探し出すことなのだ。というわけで今月は、私が今までジャワで遭遇したマッサージについて書いてみたい。
●ウルット
インドネシア語でマッサージのことは一般にピジットpijitという。皮膚に対して垂直に押すのがメインなので「指圧」に近いと思う(「指圧」の厳密な定義は知らないけど)。ウルットurutという語もある。これは垂直に押すというより、筋を水平に押して一本一本位置を整えていく感じだ。今風の設備の所では、単にオイル・マッサージのことをウルットと言っているみたいだが、私がソロで見聞きし体験したウルットというのは、足の筋を違えたり、ねんざしたりした人のための治療で、ウルット治療を専門にする人がして、ピジット・マッサージ師とは一線を画していた。
私が以前見たウルットというのは、チウというアルコール度数90%くらいの酒を患部の足や手に吹き付け、ご飯粒をつけてそれを伸ばすようにして筋を整えていくというやり方だった。チウは飲料用アルコールではなくて(これを飲む酔っ払いもいるが…)、治療用だ。チウと言えばウルットという観念は、少なくとも私の周りにいたジャワ人には一般的なものだったと思う。と言った早々でなんだが、私が受けたウルットではチウを塗らなかった。私は2007年の公演1週間前に右足を捻挫してしまい、当時行きつけの鍼灸師さんにウルットをしてもらったのだが、この人は自分で木を削って施術棒のようなものを作っていた。足には何も塗らず、その棒を足の筋に当てて、ゆっくりと筋を元の位置に押し戻すようにしてゆく。この棒は指よりも細いので、微妙な操作が可能なのだった。この治療を1回受けて、確かに筋の位置が戻ったと自覚でき、痛みが激減したことを覚えている。
●クロック
ピジットやウルットはお金を払って他人にやってもらうものだが、家族や友人間でお互い施術し合うのがクロックkerok/クロッアンkerokanだ。これはマスック・アンギンmasukangin(アンギン=風が体内に入ること、風邪をひくこと)したときにする。首から背中にかけて、バルサム(タイガーバームの類)を塗って、骨や筋に沿ってコインでこすっていくと、アンギンが入った場所が赤くなるというもの。
余談だが、この時のコインには旧100ルピア硬貨が具合がよくて、ジャワの人たちはこれを使っていた。大きくて薄く、肌当たりがいいのだ。今は流通していないので、代わりに何を使っているのだろう?私はクロックのためにこの旧硬貨を何枚か取ってある。昔、ピジットの後でクロックもしてくれたおばさんは、クロック用にオランダ時代のコインを使っていた。100ルピアコインより大きくて立派だった。また、レンズをはめていない虫眼鏡のような形をした器具を使っていた人もいる。この器具は市販されているが、私には100ルピア硬貨の使い勝手が良かった。
話を元に戻す。私は自分でクロックするが、これは体がだるいとき、風邪をひいたときにかなり効果的だ。私はクロックした後に39度以上の熱が一気に37度くらいまで下がった経験がある。友達も同様のことを言っていた。ただしそれも熱の種類によるみたいで、熱が下がらないこともある。コインでこすらなくても、手で揉むだけでも患部の皮膚は赤くなる。アンギンが入るなどと言うと呪術めいて聞こえるかもしれないが、クロックの話を日本で鍼灸師さんにしたら、原理的には乾布摩擦や小児鍼と同じだから、それは効果的だろうと言われた。これらは予防的に行うもので、クロックは風邪をひいてから行うという違いはあるけど、確かに皮膚を刺激するという点では同じだ。
このクロック、都会の若者はあまりしなくなっているらしい。ジャカルタの友達に「えー、michiはまだやってるの?」と驚かれた経験がある。「昔、おばあさんがやっているのを見たことはあるけど…」と言われて、がっくり。ソロやジョグジャではまだまだ一般的だが、格好悪いとか古臭いとか、田舎的だとかのイメージがあるのかもしれない。
●リフレクソロジー(反射区治療)
インドネシアでも、日本のようにフランチャイズ志向の足裏マッサージ店が急速に普及してきているのだが、そういうお店はおいといて、ここでは反射区を刺激するという意味でのリフレクソロジーをやっている所、人を紹介する。患部を直接刺激するわけではないけれど、患部から離れた別の部位を刺激すると、それに対応する患部も直るというのが反射区治療だ。
ソロで私がよく行っていた足裏マッサージ店は足裏専門で、他のマッサージメニューはない。足裏、甲、足首から膝裏まで、1時間半かけて徹底的にマッサージしてくれる。足の指も、一本一本、一節一節やってくれて、ここまで丁寧にやってくれるお店にはいまだかつて出あったことがない。カルテもあって、終了後、身体のどこが悪かったか施術者が書き込んでいる。ここで足を揉んでもらうと、足が暖かくなり、軽くなり、そしてオナラがよく出て、気分が爽快になる。オーナーは華人系で客層も華人系が多いが、一般のジャワ人も多い。華人系の人たちは夫婦、恋人、親子、友達同士など連れ立って来ることが多いのが特徴だ。
足裏ではなく、足の膝から足首までの間(脚の部分ですね)を刺激するというのもある。この治療に特に名前があったかどうか、覚えていない。私は2000年か2001年頃に一度受けたことがあるのだが、それ以前からそういう治療があるという話は聞いていた。施術者は脚の各所を素早くつまみ弾いていく。それで痛い部分があると、そこに対応する内臓なりが悪いということになるのだが、どこをつままれても痛かったというのが正直なところだ。その治療で良くなったかどうかも、私にはよく分からなかった。私が施術してもらったA氏というのは、ソロではこの技法で有名な人らしく、結構えらい人達も通ってきているみたいなことを後日別のところから聞いたが…
●刺激療法?
ジャカルタの外れにある、とあるモールにあるマッサージ院で受けた治療。普通のマッサージのつもりで寝台にうつぶせに寝たところ、いきなり、ベッドのマットをはたくもの(インドネシアでは80cmくらいの細い籐の棒?ひご?を数十本、ささら状に束ねたものでマットをはたく。)で、足から背中にかけて順にバシッ、バシッとはたかれた。その後普通に揉んでくれたが、まさか、はたかれるとは思っていなかったので、驚いた。これも伝統的な療法で、邪気を体内から追い払っていたのだろうか…?ともかく、刺激を受けたせいか、それなりにすっきりした記憶はある。
[某オトメンの仕事場にて、どうにもこうにもかわいくない(むしろグロテスクで異形の)ぬいぐるみたちが語らっている。]
でかい上にフォルムと色のおかしいO(以下O) ひーまーだーなー
真面目なキャラにごまかされがちだがよくみると気持ち悪いT ですね
O ここ最近ずっとおれらの持ち主パソコンに向き合ったり紙めくったりしてるんだぜ
T 仕方ないですよ、だって今あの人、論文と発表をいくつも抱えていて、研究にかかりっきりなんですから
O まーなー 持ち主は研究となると人でなくなるからなー
T しかし今日〆切の原稿などもいくつかあったりしたと思うのですが、どうなったんでしょうね
O ちゃんと書いてたんじゃなかったっけ
宇宙的に最強で怖いはずのC(以下C) ふはははははははっ
O&T わっ
C ぐわっはっは
O いったいなんなんだよ、いきなり
T そうですよ
C なにやらきさまらが原稿の話をしておったようなのでな、ふわっは
O だからどうしたっていうんだ
C あれならとうに没にしてやったさ、ぐわっは
T な、なんでですかっ! 書いたんなら出せばいいじゃないですか!
C ふっふっふ、きさまら、研究をしてるときのやつを知らないわけではあるまい
O あっ
C その通り! やつは必要以上に呪わしく冒涜的なものを書いてしまったのだ! オカルト少年の昔取った杵柄でなあっ! だからわしが没にしてやったわ!
T あっ、これですかね
C おいやめろ見るな読むな
O なになに……ああ……うん
T これはだめですね
C だろう? 擬音だって普段の「ぺけぺけ」じゃなくて「ぐももふげで」になってるしさ…… ってちがあああああうっ
O なんなんだよ
C われらが持ち主がマッドサイエンティストであることは、どうあっても伏せねばならんのだっ
T どうしてですか? べつにいいじゃないですか、オトメン以外にも属性が増えて
C そこっ 属性とか言うなっ
O この「居るだけで隣の人の心を折る」ってエピソード最高じゃないか。全世界に公表していこうぜ
C やっめっろっ そんなことはこのCさまが断じて許さんっ! 研究で忙しいときの持ち主はけして外に見せてはならんのだっ
T この「人の呪いを吸い取る」っていうのも
C 禁止っ 名状しがたい台詞禁止っ!
O もうなんなんだよ、なんだったらいいんだよ
T そうですよ、どっちにしろ原稿は出さないといけないんじゃないですか
C ぐっ、ぐぬぬ……
T それにメールがたまってたりブックフェアに行けなかったりオフ会に出られなかったりするんですから、それに対するエクスキューズも必要でしょうが
O おい、なんとか言ってみろよ
C では……あれだ、われわれが今の話で原稿を埋めてだ、最後に一言だけ持ち主からコメントをいただければよいのではないか
T&O ほほう
C どうであるか
O いいぜ
T そうしましょう
C うむ、ではみんなして聞きに行こうぞ
(ぬいぐるみ3匹が某オトメンに近寄る)
C&T&O 持ち主、何かコメントを
(せっぱ詰まっている某オトメン、声に振り返る)
普段はオトメンに擬態しているが本当はマッドサイエンティストだったU(以下U) ……えくれあに……みそがはいったら……とっても……しあっわせ……♪
C&T&O どうもありがとうございました
我が家の愛猫、マロンはもともと他の家人と僕との接し方に差を付けている。テーブルの下に隠れていて、僕が通りかかると突然飛び出してきて足に食らいつくのだが、そんなことをするのは僕に対してだけなのだ。嫁にも娘にも息子にもそんなことはしない。
エサをねだるときも同じだ。朝の8時頃と夜の7時頃がマロンの食事時。その前後になると「ごはん、ごはん」とうるさい。いや、冗談ではなく「ごはん!」と鳴くのだ。正確には普段の「にゃあ〜!」が「ゴニャン!」になるくらいなのだが、明らかにマロン自身は「ごはん!」と鳴いているのである。で、これが始まると誰彼なしに足下にまとわりつく。そこまでは家族全員に同じ対応なのだが、それでもエサをやらないでいると、僕にだけ甘噛みしてくるのだ。嫁にも娘にも息子にもそんなことはしないのに。
こうなると、マロンが僕の扱いと他の家族の扱いとに差を付けているとしか思えない。そして、最近になって、新たに僕だけにとる行動が増えた。それは、僕がカーペットの上にあぐらをかいたときに実行されるのであるが、こんな感じだ。
僕がコーヒーなどを手にテレビの前に陣取る。カーペットの上にじかにあぐらをかいて、リモコンでテレビの電源を入れる。そして、ゆったりと映画なんかを楽しみ始めると、小さくニャン!と鳴きながらマロンが近寄ってくるのである。そして、僕の真横に座る。このときは必ず手足を小さく折って箱座りするのである。僕が気にせずに放置していると、マロンは再び、ニャ!と鳴くと突如、僕の真横で白い腹を見せるのだ。まるで甘えるかのように、媚びを売るかのように、白い腹を見せて、ニャアニャアと鳴く。僕がそれでも無視していると、あぐらをかいた足とカーペットの間に自分の前足を突っ込み、白い腹を見せながら手足をバタバタさせるのだ。まるで先に寝ている男に媚びを売りながら近付いてくる恋人のようだ。
マロンがこの行動を取り始めて約1ヵ月。そう、僕がちょっとばかり入院して帰ってきてから、突如この行動が始まったのである。なにが起こったのか。もしかしたら、僕の身体の変化がマロンの中の何かに火を付けたのか。もうまるで、恋人にモーションをかけるかのように、マロンが僕に色目を使いながら、腹を見せ、ちょっかいをかけてくるのだ。
なぜだ、マロン。僕はもう来年五十歳になるおっさんだぞ。そして、マロン、お前だって、人間で言うと30代半ばになっているのだぞ。おっさん同志の関係に、何を望んでいるのだ。
そんなことを考えながら、ぼんやりと雑誌を読んでいた。今日の午後のことだ。また、マロンが近付いてきた。隣に来て、腹を見せるのだろうと思いながら雑誌を読み進める。来るなら早く来い。お前は僕を恋人と間違えているのか。それともちょっかいだして遊んでいるだけなのか。そんなことを思いつつ、気持ちとしてはマロンが近付いてくるのを楽しみに待っている。おかしい、来ない。どうして来ないんだ。そう思うが僕は意地でも雑誌からは目を離さない。駆け引きに負けてたまるかと思う。すると、かすかにマロンの爪がカーペットの上を歩く音がする。
僕は隣でマロンが横たわるのを待っている。ところが、急にマロンは僕の背後から走り寄り、僕の背中を駆け上ったのだ。そして、僕の頭の上にあがろうともがいたあげく、ドタンとカーペットの上に落ちて、ニャア!と鳴いて走って逃げた。
その去り際に、マロンが一瞬立ち止まってこちらを振り返ったのだが、その時の顔を見て悟ったのだ。ああ、遊ばれていたんだな、と。もちろん、そう思ってしまったことをマロンに知られないように、僕は雑誌のページをめくるのだった。
ジョン・グレイの『わらの犬』(Straw Dogs)」(2002)という本を読んで 老子の天地不仁、以万物為芻狗ということばを知る。そこで老子を読み、最近発見された馬王堆漢墓の『老子帛書』や郭店楚簡まで目を通してみた。
このことばはいちばん古い郭店楚簡(紀元前3世紀)にはない。馬王堆の二種類の帛書(前168年)にはある。『老子』は戦国時代に言い伝えられたことばのコラージュだから、どこかからまぎれこんできたのだろう。「世界に慈悲はない、すべてはわらの犬のように捨てられる」というのは一般的だが、そうでない訳もあり、英訳老子は123種、その他の言語でも無数の訳がある。解釈の数はさらに多い。
これらのことばの集まりである『老子』を統一された思想と考えるよりは、それぞれの断片が読む人の思いを映す鏡としてはたらくと思いたい。すべては揺れ動いて停まらない。不安定な大地と戦乱の世界には、信じられるような原理もなければ、それを信じる自分もいない。落ちかかってくる偶然を切り抜けながら生きていくのは身体の知恵で、意識や心、まして思想や信条ではないだろう。科学は仮説にすぎないし、現実にあわなければ、「わらの犬」のように捨てられる。それでも受身ではいられない。とりあえずの仮説を次々に脱ぎ捨てながら、身体というシステムを維持していく
普遍的な人間のありかたや、人間であることの特別な意義が感じられない時代に、さまざまな生きかたがあり、それらのあいだで折り合いをつけながらやっていくよりないとすれば、グレイのいうホッブス的modus vivendi (とりあえずの共存協定)は、老子のいう「道」、弱くしなやかに受け流すやりかた、またはエピクロスの「庭」、一時的な自律領域(ハキム・ベイのTAZ)かもしれない、決まった方向も目標もなく、意味や論理で差別することのない、ゆるやかな結びつきのなかで、ちがう位置から世界を観て、一歩ごとにたしかめながら、すこしずつうごいていくことになるのだろうか。
書いていると聞こえてくる、音にならない音楽。微かに白く、遠い空間、前後との差しかなく、切れながらつながる時間。ほとんど連句のような。