ふくしまのなし

さとうまき

最近、福島の果樹園の除染活動を手伝っている。果樹園の脇のアジサイの植え込みが30マイクロシーベルトを示した。これは大変ということで、アジサイの木を根こそぎ引っこ抜き、土を剥ぎ取ることに。しっかりと大地に根を張ったアジサイは、たとえ放射能にさらされようが、生きようと必死だ。抜くのが一苦労。汗と泥と放射能にまみれながらの作業だ。アジサイの根っこが強すぎて、スコップが折れてしまう。小雨が時折降る中で、気温も随分涼しくなってきているが、防護服を着ての作業はこたえる。表土を剥ぎ取り土を入れ替えると、30マイクロシーベルトあった線量が1を切った。やれやれだ。

果樹園の大内さん。「原発が事故を起こしたのを見て、ああ、これで私たちは、加害者になってしまったんだ。そう思うと涙が止まらなかった。布団から起き上がれないほどの虚脱感がありました。その償いのために、出来る限りのことをしようと思う。これからどうなるかわからないけど、それを受け入れる準備はできています。病に倒れても怖くない。新しく生まれてくる子供たちの為に「私は福島の人間なんだ」と誇れるものを残したい。放射能に対する恐怖というものもありますが、自分がしっかりしたものを持っていれば怖くない。障害を持った子どもが生まれてきても、だから不幸だとは限らない。除染しても福島は住めないという人もいるけど、子どもたちが大きくなって、あちこちに出向いたときに、ああ、福島から来てくれたんだ、ありがとうって言われるようになってほしい。一時的に避難とか疎開が必要だと思うけど、除染しながら新しいことを始めなければいけないと思う。」除染は、哲学だし、生き方そのものだと感じる。

帰りがけに、梨をいただいた。車に積んだまま、石巻に着く。50を過ぎたボランティアさんに、梨でもたべてといって手渡す。

「福島から持ってきたよ」

一瞬みんなの顔がこわばった。

「福島ですよね?」

「あ。いや、放射能は大丈夫だと、、おもう」

「本当に?」

「いや、その」

ちゃんと答えられない自分が悔しい。
渡した梨を回収。僕は50過ぎているから喜んで食うよという人に食べてもらいたい。
車を運転していたら、内館牧子さんが、TVのインタビューで50過ぎたおばさんが、「放射能こっちに持ってこないで」て答えていたのに怒りを覚えたというはなしをしていた。そうだそうだ!と思いながらも、複雑な気持ち。一個だけ、ポケットに入っていた梨。それを食べるか食べないかも哲学だし、生き方だ。

大内さんから携帯にメール。「検査結果が出て、放射能が検出されませんでした!」

ああよかった!

むごうた――翠ぬ宝83

藤井貞和

われらありて、人力発電所を発明し、
   子々孫々へ電気を送れ
ロンドンに飛ぶ火。怒れる若者の
   怒りを集め、発電をなせ
死体から盗電われら― 引き込みて
   明るく照らせ。裸電球
電熱のニクロム線を走らする
   毛布。世界にたった一枚
日曜のあさ、静かなり。死体のかず― 
   夏の戸外に、累々と積む
熱風の泊原発、累々と
   死者を積む 見え、小樽みなとに 
放射線量 すでに致死。この国が
   こうして滅ぶことを学んだ
静かなる朝陽さしくる日曜日。
   放射線量 臨界を越ゆ
道路には死体散乱。どうやって
   巣鴨駅までたどりつけるか
室内にいる私だけが助かって、
   よいのだろうか。朝陽さしくる

(昔の連歌師たちが集まって連歌をなすのに、3日で1000句という、ものすごい勢いだったという。ひとりでなす場合もあり、それなら独吟1000句だ。とても3日ではむりだとしても、どれぐらいできることか、八月の数日かけて短歌形式500余〈1000句あまり〉に挑戦する。「うた」というのが内在化して、詩で言うとシュールレエルな支え方をしているのだな、というようなことは改めて発見したことどもであり、夢の体験かもしれない。)

夏休み

三橋圭介

アメリカで書かれた現代音楽の本の翻訳を約7ヶ月間やっておりました。アメリカの1950年代から1980年代の実験的な音楽を中心に、引用の織物のようにまとめられています。日本ではまったく知られていない名前・作品も多数登場して、なかなか難儀な代物でした。前衛と実験というデンジャラスなフルコースを好き嫌いもいわずに食い散らかし、腹痛と脳内爆発するスリリングな毎日は、今日で終わりました。本日、12時半に校了を迎え、原稿は出版者の方へとグッバイしたのであります。気が抜けて呆けて目はうつろというのはいい過ぎです。まだ意欲はあるようです。帰りに本を3冊買いました。一冊アヴァンギャルドと名前の付いた本もあります。日々の習性からか、思わず手が出てしまいました。一瞬ためらいましたが、この習性を生きるのもの人生かと思い、「エイ、ヤー」と買いました。もう一冊は森見登美彦の新釈「走れメロス 他四篇」です。「山月記」も入っているので買いました。中学生の頃、わたしはこれをすべて諳んじることができたのです(なぜか友人のなかで流行っていました)。「ろうせいのりちょうははくがくさいえいてんぽのまつねんわかくしてなをこぼうにつらねせいけんかいたのむるとこすこぶるあつし…」、そして虎の「あぶないところだった」というスリリング(?)なところが好きだったのです。新釈ではどんな風に表現されているか楽しみに読みましたが、採り上げられていませんでした。残念です。もう一冊は秘密です。なぜって…。これから夏休み、精進しに京都にでもいきましょうか。

犬狼詩集

管啓次郎

  39

読むことがこれほど問題になった海岸はない
文字の海岸だ
文学の海岸だ
外国と外国語がさまざまなかたちで漂着する
陽光と砂と波の無限の演奏の中で
移民たちが生きるための説話を探している
そのころぼくはある言葉を発話してそれとは
まったく違うことをいうとか、同時にいくつもの
相反する意味を伝えることなどに没頭していたので
紫外線を浴びすぎることもまったく気にならなかった
そのうち自分が自分自身のメタファーでしかないような
人生に飽きてしまい、歩き出すことにした
海岸線とはそれ自体無限
一歩毎につま先がさす方向を変えるようにして歩きつづけた
魚の頭を嚙んでとどめをさす漁民たちに会った、その先に
ダイアモンドの頭を光らせて巨人が眠っていた

  40

歩くことは穴に落ちることで
穴はときどきポータブルな海溝の深さをもっていた
まるで底が見えない怖さを反転させて
太陽ばかり見上げるようにした(見つめることができないものを)
水面下の一定のレベルで
マンモスが泳ぐところを想像してごらん
そんなふうに大きくひとつに群れた魚たちが
決然と一方向に泳いでゆくのだ
生命の回遊する層はいつでも頭上にある
そこでは聖アントニオが歴史的な説教をしている
やがて星から落ちてくるかけらを木の葉と思いこんで
にやにや笑う魚たちが上陸を計画する
それでぼくも水から上がることにした
熱い砂を裸足で歩くときがきた
その苦痛を乗り越えたとき空が紫色に光る
この苦痛を覚えておくため足首に墨を刺した

風と草

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

草がなびく
風が吹いてくるとき
風の行く方へと
草はなびく
こころがなびく
土地には歳月があり
天には星辰がある
風が還ってきて
ぼくはきみと出会う
草がなびく

眠りにつくとき
草は
じっとして
葉は 重なって並ぶ
冷気が
夜露が 涙をふりかける
魂のないやつのように
風もない まやかしもない
眠っているときは
時を超え 闇を超える

さわさわと風がわたる
おまえは流れに逆らわない
風は通り過ぎてゆく
おまえは風と戯れる
楽しげに

優しく揺れる力とともに
満たされたこころで
風 と 草
草 と 風  自由に
昼と夜は交替して
いつまでもめぐり続ける
風がかすかな音で ウィウ ウィー
草をなびかせてゆく
風がかすかな音で ウィウ ウィー
草をなびかせてゆく

マイタイおじさん、と同じアルバムに収録されている歌ですが、メロディに哀調があってひときわ印象に残ります。スラチャイの歌にはジャングル時代の同士や田舎のおじさん、おばさんは出てきても女性が登場することがないので、貴重な歌です。うたっているのも女性歌手です。スラチャイが自分でうたっているのは「さわさわと風がわたる」で始まる一節だけ。ふたりめの奥さんとなった若い女性を暗示しているように聞こえます。(荘司)

ムイファーが来た。

仲宗根浩

台風が来たのでいつものように仕事場はそれに備えて養生、最後の点検を終えて外に出た。腕や顔にあたる雨粒が痛い。駐車場へと歩いていると、頬をたたかれたように一瞬、風で顔が振られた。雨と風の音の中で何かが転がっていく。メガネが飛ばされた。暗いので探すことができない。仕方ないので車をメガネが飛ばされたところまで持って来て、ヘッドライトを照らし探す。なんとか見つかったのは左側半分。右側はあきらめ、車に乗り込み、裸眼のまま運転する。前が見えない。仕方ないのでなんとか見つけ出した左側だけのメガネを左手で左目にあて、右手でハンドル、ウィンカーを操作しながらトロトロ運転をする。木は六月の台風でだいたい倒されたり、折れたりしたので道に大きな障害物は無い。停電で消えている信号も無く家にたどりつく。

夜中、外はどんな具合かベランダの窓から見ると、逆さになったアンテナが一本のコードだけを頼りに風に揺れている。テレビはちゃんと映っているのでうちのアンテナじゃない。このまま風に飛ばされるのも危ないのでベランダの内側に入れて飛ばされないようにする。後日、アンテナを救ったお礼に上の階のアンテナの持ち主からロールケーキをいただく。

朝になると会社から電話で本日休業とのこと。昼間は二十分くらい停電があっただけでメガネ以外の被害はなく台風九号、ムイファーちゃんはゆっくりと沖縄を満喫していった。台風明けの旧暦七月七日、旧盆前の墓掃除に風が少し強いなかでかける。墓に着いてもどうやって手をつけていいやら。できるものだけきれいにして、花を活け、線香をあげ、母親と二人で旧盆を迎えることを伝える。

片方だけ残されたメガネは、もう右側のレンズだけ購入すれば済む。メガネ屋さんに行くと同じ型番のレンズは既に販売されてなく、結局新しく作りなおすことになる。思わぬ出費。教訓、「台風のときはメガネを外せ!」

台風の後、七月に注文しておいた新しいパソコンが来る。ノートとデスクトップの二台。デスクトップはガキ用なので接続は本人にさせる。ガキのデータファイルの移行も完了しおのれのノートタイプのパソコンのセッティング。まずメールのデータを移す。新しいOSに戸惑いながらもなんとか完了。使いにくいぞWindow 7。今まで使っていたプリンタ、スキャナーは十年選手なので対応のドライバがない。何か印刷するものがあればXPのパソコンにデータを移してやらなければならない。当分、新しい周辺機器は購入する予算がないので、XPのマシンにはもうしばらく働いてもらわないと。しかし新しいマシンは静かだ。ファンがぶんぶん音をたてて回ることはない。データの移動はすべて終わり、あとは整理するのみ。

旧盆中、休みはなくしっかりと仕事。仕事前に親戚まわりをする。今年のお中元、お米の産地を気にする方々が多い。いま流通しているのは去年収穫されたものなのに。これも放射能の影響。西表産の米を買い占める輩もいる。基地内で枯葉剤が使われていたことがニュースになり、戦闘機は飛行中に燃料を垂れ流し、基地内のアスベストが使われた建築廃材が基地の外に出いつの間にか出され、久米島の北にある劣化ウラン弾をしこたま浴びた鳥島の射爆場。沖縄のものだから安全、と必ずしもいえる状況じゃないとおもうけど。

オトメンと指を差されて(39)

大久保ゆう

長くお世話になった京都をついに離れることとなりました。浪人生の頃からなので、ええと、2001年――不穏な21世紀の始まり――ですから、およそ10年。もちろんそのあいだには色々とあったわけなのですが、特筆すべきは、あるいは特筆することがないがゆえ、とも言い換えられますが、(スーパーを除いて)とうとう〈行きつけ〉なるものができなかった、ということでしょう。

これはおそらく私の性格に起因するもので、そもそも自炊するので外食をほとんどしないことなどもあったりするのでしょうが、いつもふらふらふわふわしていると申しましょうか、目に付いたお店に入って食べたり物を買ったりすることが多く、そのためいつも違うお店に行くことになるのです。もう一度そのお店へうかがうにしても、たいてい半年か一年か間隔があいたりしますので、もったいないことに、いわゆるポイントカードなるものがまったく意味をなさないのであります。

なので、困る質問といえば「いつもどこで物(服や小物やスイーツなどなど)を買ってるの?」とか「行きつけのところにつれていってよ」といったものになりまして、それに対しては「いろいろ……かな」などとごまかしたり「う〜ん」などと悩む羽目になるというものです。

いつも一見さんであるわけですね。

こんなに京都にそぐわない人物であっていいのかしらとも思えるほどですが、基本的にはにこにこしていて害のない客なので、結局のところ私は京都どころかあちこちのお店で誰にも顔を覚えられていないと思うのです。どこのお店にとっても、ふと現れて去っていく何でもないストレンジャーであるわけですね。まあでも、それは私が(おこがましいことではありますが)お店を評価する基準のひとつでもあります。

つまり、ふらりとやってきたにこにこ顔の人畜無害な相手に対して、そのお店がどう対応するかと申しましょうか、そういったときの初対面の印象といったものをいつでも大事にしたいのです。すなわち、私も社交的であるからには、人にお勧めのお店を紹介することがあるのですが、そのとき出すのは、だいたいがそういうファーストインプレッションの良かった店なのですね。

当たり前ですが、私に紹介された人もやはり、ふらりと初めて訪れるわけですから、私なんぞにもよく接してくれたお店ならば、きっとその人にも気持ちよく応対してくれるであろう、という推測が働くわけですね。もちろんお店というものは常連さんに親しみを抱いてサービスしたりするのですが、近江の人間としては、異人に対しての歓待というものを、個人的にはより大事に見たいのですね。

なんと言いますか、私は閉鎖的なものに生理的な気持ち悪さを抱くらしく、たいへん申し訳ないことではありながら、この10年のあいだに受けた会員制のあれやこれやのお誘いをその都度さまざまに考えたあげく、お断り申し上げて参りました。同じように、誰かのご紹介であらかじめ話をつけて、という形での来店も、なんやかや理由をつけて、行かなかったというパターンが非常に多いです。(ちなみに誰かの付き添いという形でのお誘いは、ほとんど受けています。もちろん、おすすめされたお店についてもちゃんと行きます。)

そんなわけで、ということでもないのでしょうが、私にとっては初対面の人も、昨日会った人も、一年前に会った人も、十年前に会った人も、今日会ったからといって、接し方に大きな違いはありません。ところや人や場面によって、あんまり変わらない、と言いましょうか。というよりも、差を付けるのがちょっと嫌なのかも。礼儀があるじゃないか、と言う人もあるでしょうが、たいていいつも品よくあろうとしているので、親しい人に対してもそうじゃない人にも、だいたい私は丁寧だと思います。(口調が表面的に変わるくらい、かな。恩や義理のある方に対しては別の意味で違いますけれども。)

たまに、「どうしていつもそんなに丁寧なのか、優しいのか(?)」と聞かれるのですが、自分ではあんまり意識していないのですよね。それはたぶん、突き詰めれば、いつどこで誰と出会っても、相手を〈歓待すべき他人〉だと思っているからなんではないでしょうか。もちろん、相手の態度にもよりますし、お人好しではないつもりではありますが。

万事がこんな調子ですから、他人からしてみれば、私はつかまえづらい人であるようです。相手を特別と思いたがる・特別にしたがる人(あるいは自分を特別にしてほしい人)にとっては、どこまでもやりづらい人であるでしょうし、お誘いという側面では、声をかけられたらそれなりに顔を出すけれども、それ以外のときはいつもふらりふわりしてますから、あえてつなぎとめないとすぐどこかへ行ってしまいますし、ある種の所有欲を満たすには、かなり不適な対象でしょう。八方美人、というわけでもないのですが。

あ、いや、別に〈みんなの××〉みたいなのを目指しているわけではないですよ、その。

たまには

大野晋

たまには違う方向から物事を考えてみる。それが新しい姿を見せてくれることもある。

3月11日の地震は大きいとは思ったが被災地の被害はそれほどのことはないだろうと思った。日本の建物の耐震性は非常に高い。揺れただけでは甚大な被害になるとは思えない。しかし、津波という単語を聞いた途端、私は奥尻の悲劇を思い起こして愕然とした。最近の地震で揺れで多数の人間が死ぬということは滅多にない。特に耐震基準の厳しい日本では特にそれは言えている。しかし、大きな津波や火災など、地震の2次被害が大きなダメージを与えることになる。津波という単語を聞いて、マスコミは何も伝えなかったが、私は最悪を確信した。

被災地の様子を映像で見て、これは戦場だと直感した。人間相手ではないが、大きな破壊に対して、国民を守るにはそれ相応の装備と覚悟が必要だ。日常で対応する警察や消防、ましてや住民のボランティアで成り立つ消防団ではこの大きな破壊には立ち向かえなかっただろう。自衛隊の周囲の国に対するハデやかな武器の装備は役に立たなかったが、有事に対する意識と装備が今回、非常に役に立つと確信した。願わくば、この心意気が多くの外国の人々にも理解されて、軍備に頼らず、有事に立ち向かう国として理解されれば、もっと、尊敬される国に成れるのかもしれない。ただし、核被害にはなにも装備がないというお粗末さも垣間見た。核物質で汚染されたかもしれない場所で、巡視や住民、資材の移動に使える装備がなさそうだったのが問題に思えた。

原子力発電所の対応にも不満が残った。原子力発電所の推進派ではない(中立であったり、擁護したりするとすぐそう批判する多くの論評には辟易とした)が、単純に核は怖いと逃げる気にもなれなかった。広島、長崎の方たちを考えても、大気圏内の核実験がハデヤカだった時代のことを考えても、マスコミのただ不安を煽ればいいといった論調は不満だった。後にデータが出たが、やはり、私たちが生まれた頃の汚染状況の方が福島の事故よりも悪かった。隣の韓国では、日本からの放射性物質だと騒ぎになったが、実は中国から黄砂とともに飛んできた放射性物質が降り注いでいただけだった。それは同様に黄砂の降り注ぐ日本でも変わらないだろう。論理的にありえないといっても、ただただ、パニックになっていたのはY2K騒ぎのときの世界と一緒だった。あの時、メーカの対応側にいた私は、今回も相変わらず繰り返す、不安をあおるマスコミの騒ぎに愛想を尽かしていた。

それにしても、限りある対応策の中で最善の結果を導き出した原子力発電所の現場の方たちは立派だった。特に雑音を自らの職責でシャットアウトした所長は管理職として、技術者として立派だと思う。願わくば、あの経験と知識が後進に伝えられ、多くの原子力発電所の安全対策に生かせる立場へ積極的に登用してもらえればと願いたい。おそらく、日本の組織では、あそこまで上にたてついた人間に昇進の目はないだろうから。(あれば、東電は立派な企業なのだろう)

全ての電源を喪失する。そうしたリスクに対する備えの貧弱さも気になった。おそらく、電源が十分に確保されていればベントの必要などない。電源供給が十分ではない状態で、いかに安全に原子炉を守るかといった観点で、設備や装備、対策が見直されるべきだろう。

自然エネルギーだとか、再生可能エネルギーだとかに過大な期待をかけるのも間違いだ。だだっぴろい荒野を持たない日本ではメガソーラーだとか、巨大な風力発電だとかは用地の確保からして夢物語だろう。それこそ、東京の建物を7割削って、高層マンションをなくし、花火大会をあきらめて、隅田川の河川敷に数百本の風車を造るくらいの覚悟がなければ自然エネルギーは解決策にはなり得ない。むしろ、大都市のエネルギー問題を、都市から離れた田舎に転嫁する、今の原子力発電と同じ構図を描くものだと心得た方がいい。おそらく、協力金といった富の再配分がない分、自然エネルギーの方が原子力よりも地方にはむごい仕打ちになるだろう。

日本を分断する電力周波数の問題や、エネルギー利用地(大都市)の集中の問題、用地、適地の不足。他産業との利害の調整、四方を海に囲まれてしかも地震が多いというLNGパイプラインに不適な地理的な問題など、多くの問題を考えると、現状では原子力’も’使い続けるというのが現実的な選択肢のように思える。

できる限り、安全な対策を施すことと、一から設計、運用できる人材を育て続けることで、世界から頼りにされる国になれば、それはそれでよいことのように思う。今、一番問題なのは原子力の問題から目を背け、もしくは問題を曲解し、もっているはずのきちんとした知恵を持たないことだと、マスコミを賑わした自称専門家たちの様々な意見を聞きながら感じた。同じデータを使ってもバイアスがかかれば、自分たちのイデオロギーに都合が良い正反対の結果が出る。

福島第一原子力発電所の安全はすれすれのところで、現場の技術者たちが守ったが、発電所の外は何も守れなかった。雑音(バイアス)が多すぎて、むしろ信頼できる情報が埋もれてしまった。放射線と人間と医療の研究や知見、施術をどこが担うのか? 原子力を根本から理解し、現場にきちんとアドバイスできるのはどこなのか? そういったところをひとつひとつ考えていく必要がある。

そのとき、反核も、原発推進も、お題目は必要ない。感情やイデオロギーを超越して、冷静に問題に対峙できる、そうした人たちがおおくいて欲しいと思う。日本は世界で唯一の原子爆弾の被爆国のはずである。そして、世界で数えるくらいしかない商業原子炉を作れる技術を持った国でもある。その国に、放射線医療や放射線対策、事故対応に長けた技術がないというのは理屈に合わない。本当に、理屈に合う国に成って欲しい。

生物は突然変異で進化してきた。
その突然変異には地球に降り注ぐ放射線が欠かせなかった。

今も古代の姿をとどめるシーラカンスなど古代の魚たちが深海で発見されるのは進化の仕組みとは無関係ではないだろう。放射線を遮蔽する水の底だからこそ、古代の姿の生物がそのままに保存されたのではないだろうか? 反対に考えれば、私たちは常に放射線の中で生きている。放射線に天然も、人工も違いはない。いや、原子力発電の仕組みも遠く太陽などの恒星の仕組みを真似しているに過ぎないのだ。無関心は問題だが、過度の拒絶反応も必要ないだろう。一定レベルの放射線による被爆では、我々は影響を受けることはない。あればすでに滅びている。むしろ、必要以上に心配するストレスの方が多くの問題のもとになる。

かつて、我々はもっとひどい放射能の中にいた。少なくとも1960年代以前から生きていた人たちはそんなひどい環境で生き延びてきている。過度の心配の必要などないと判断する根拠はそんなところにもある。それでも騒ぐなら、それは広島や長崎出身だからといって、縁談を破談にした、私の小さなときには結構いた、非論理的なわからずやたちと一緒だと言いたい。

結局、私の思考というものは、たまではなく、普段から斜め向きなのだと話をまとめていて、いま気が付いた。

「パンジー・スプー」上演をめぐる問題

冨岡三智

2011年8月12、13日、ジャカルタのサリハラ劇場で舞踊作品「パンジー・スプー」が上演された。この作品の公演プログラムからうかがえる製作の問題について、私が書いた批評が全国紙コンパスの21面(芸術面)に8月21日(日)付で掲載され、それに対して、グナワン・モハマッドが書いた反論が翌週28日のコンパス21面に掲載された。ちなみに、この論争はコンパス紙に掲載される前から今に至るまでフェースブック上で続いているので、アカウントを持っている人でインドネシア語ができるという人は、ぜひのぞいて欲しい。今回は、この一連の論争について書いてみる。

「パンジー・スプー」はスリスティヨ・ティルトクスモの作品で、1993年にジャカルタで初演され、1995年までの間に国内、およびオーストラリア、韓国で計23回上演された。ここまでが最初のプロデューサーによる製作である。その後、別のプロデューサーによって2006年にシンガポールで、今年ジャカルタで再演された。スリスティヨは2006年までは作品に出演していたが、今年は出演していない。最初から通して出演しているのは男性舞踊家のパマルディのみで、最初の製作と2番目の製作とで女性舞踊家は総入れ替えとなっている。

私の批判の趣旨は、公演プログラムの書き方のいい加減さには、公演製作の問題が反映されているというものだ。

まず、一番の問題点は、ストラダラ(芸術監督、演出、振付などを兼ねた、作品のすべてに責任を持つ人)のスリスティヨの名前がクレジットされていないこと。演出家とプロデューサーが書いた記事の中でそれぞれ1度ずつ名前が出て来るが、正式なにクレジットがない。にも関わらず、ユディの演出は基本的にそれまでの場面構成や演出をほとんどすべて踏襲しているしかも、再演ならば、普通は元々どんな作品だったのかという説明やそれまでの公演の舞台写真があったりするものだが、1993年に初演したという記述以外何もない。そのため、ぱっとプログラムを読んだだけでは、ユディの新作だと誤解されても不思議ではない書き方になっている。事実、公演を見ていない人にこのプログラムを読んでもらったら、やはりそんな風に誤解した。

さらに、演出家とプロデューサーの文章では、かつて、スリスティヨと作中の歌の歌詞を書いた文筆家のグナワンと作曲家が「パンジー・スプー」をコラボレートしたと書かれている。この記述は今年のプログラムで初めて現れた。1993〜1995年のプログラムでは、この3人のコラボレートだとは一言も書かれていないし、インドネシアのパフォーミング・アーツ事典でも、スリスティヨの作品として明記されている。さらに私が当時のオリジナルキャスト全員にヒアリングしたところでも、振付に関してはスリスティヨと他の舞踊家がコラボレートしているが、あくまでも作品の責任者としての作者はスリスティヨである、後の2人は詩と曲を提供しただけで、コラボレートしたと言えるような関わり方ではない、という見解で一致している。

また、初演からずっと出演している唯一の舞踊家で、作品の中で主役の王を演じるパマルディの名前が、サリハラ劇場が出している月間プログラムやブログサイトには出ていなかった。それなのに女性の踊り手の名前だけが出ている。これは全くおかしい。パマルディは現役芸大の先生で今年で53歳。あとの出演者は20代から30代初めで、彼女たちは群舞である。さすがに公演プログラムに名前は入っていたが、格下の女性の踊り手、男性の補佐的な役割をする出演者とまぎれるように名前が出ていて、これは失礼な扱いだ。

つまり、1993〜1995年の上演の歴史、上演に関わった人の名前が意図的に消される一方で、かわって、新たにコラボレーターを名乗る2人が作品を乗っ取ろうとしているかのような印象がプログラムから読みとれてしまうのだ。なので、プログラムを作成するに当たっては、原作者と作品の歴史を尊重して言及した上で、今回の再演についての情報を掲載すべきだと主張した。しかしそれに対するグナワンの反論記事はかなり感情的で、「スリスティヨはパンジー・スプ―のストラダラではない」、「だれが”白鳥の湖”初演のストラダラのことなど気にする?」とはっきり書いている。(しかし、”白鳥の湖”の初演情報はかなり残っているのだが…)

サリハラはグナワン・モハマッドがパトロンとなって作った芸術家集団が運営している。グナワンはスハルト時代に言論の自由を求めて闘争したジャーナリストで、テンポ誌の創刊者の1人だ。芸術、メディアの先鋭的な集団であるサリハラが作ったプログラムとしてはいかにもお粗末だという以上に、サリハラにしてこのレベルというのが私には非常に残念だったし、言論の自由を求めるグナワン(の集団)が他の芸術家の作品を食い物にするという現象に、皮肉なものを感じ取る。

私の記事が新聞に出て、思った以上に反応があった。私に賛同するという反応がメールやSMS(携帯電話のショートメール)や電話で数多く届き、また、フェースブックでは友達リクエストが激増した。もっとも、プログラムの記述なんてどうでもいいじゃないか、という反応もあったが…。傑作だったのは、「インドネシアには、作品の経歴を大事にするという発想も、公演プログラムが大事だという発想もなかった。あなたの意見はとても新しい!」という感想。

興味深いのは、私の記事に反応してくれた人の多くが美術家、作家、芸術イベントの製作に携わる人、ネットワーカーである一方、パフォーマー、しかも伝統芸術分野の人の反応がとても鈍いことだった。美術家、作家が鋭く反応してくれたのは、著作権の概念が確立している分野だからだろう。私が記事で書いたような事件はパフォーミング・アーツで起こりがちであるので、しかも実はこのスリスティヨというのは、インドネシア観光文化省の芸術局長という、この分野では有名な人なので、舞踊家や音楽家がもっと反応してくれると期待していたのに、声をひそめている。自分の問題として捉えていないのか、サリハラが恐いのか(事実、パフォーミング・アーツの人でサリハラを批判する勇気のある人はいない、と私に言った人もいる)、それがちょっと残念だ。

言葉の花束を……。

若松恵子

『いまだから読みたい本―3.11後の日本』(坂本龍一+編纂チーム選/小学館)という新刊を本屋でみかけた。ふと横を見ると『ろうそくの炎がささやく言葉』(管啓次郎・野崎歓編/勁草書房)という新刊も並んでいて、本屋が並べたわけだけれど、震災後の同じような時期に出版された2冊のアンソロジーに興味を覚え、両方とも買って帰ることにした。ついでに最近書評で知った『通勤電車でよむ詩集』(小池昌代[編著]/NHK出版)も棚からみつけ出し、3冊のアンソロジーを手に入れたのだった。

『いまだから読みたい本―』の前書きのなかで、坂本龍一は、「3・11以降だからこそ胸にひびいてきた言葉」があると書いている。インターネット上に誰かがポストした言葉や文章に刺激されて、自分でもいろいろな本を再読するなかで、こうした非常時だからこそ思い出した、あるいは胸にひびいてきた本がたくさんあったというのだ。「友人たちとFaceBook上でたくさんの文章や本を挙げていくなかで、それを本にしようという話が起こり、であるならば、ただ個人の関心を追及するばかりではなく、もっと多くの人に共感してもらえるような読書案内にしよう」、「こういうときだからこそ、心にひびくたくさんの言葉を集めて、少しでもだれかの役に立てばと願って」編んだのが、この本であるという事だった。

『ろうそくの炎がささやく言葉』のあとがきで編者は、「人間のひとりひとりはあまりにも弱いので、私たちは感情をも言葉にして分かち合い、そこから力を汲み上げる工夫をしなくてはなりません。その作業に直接役に立つ本を作ろう。たとえば、しずかな夜にろうそくの炎を囲んで、肉声で読まれる言葉をみんなで体験するための本を。それがこの企画の出発点でした。」と述べている。「言葉だけでは復興は不可能だとしても、復興は言葉の広がりの中で勢いを得るはず。」「復活を希求する言葉の広がりに、新たな響きを少しでもくわえられたらと願って」「ただ言葉の花束を編もうと決め」つくったのがこの本だという。

坂本氏も管氏も、3・11の震災以降、言葉を失って呆然とする体験をし、災害を報道するマスメディアの言葉にむなしさを感じ、しかし、一方で言葉によって再生をしたと語っている。

アンソロジーとは何か。まず、心に響き、忘れないようにと書きとめた言葉があり、やがて、それを誰かに贈りたいと思う。あの人なら受け取ってくれるはずたという期待、この言葉を受け取ってくれる人を広い世の中から探したいという思い。受け手にとっては、その言葉を選んだ人を通して、新たな言葉と出会うというおもしろさ。

『いまだから読みたい本―』の冒頭には茨木のり子の「大男のための子守唄」が掲げられている。この詩に触発されて、『茨木のり子集 言の葉2』を読み返す。金子光晴について語ったエッセイは、「無造作に投げ出されている金子光晴の言葉は、出土品の玉のように美しい。手作りで、磨き抜かれていて、とろっとしている。時の風化に耐えてきた、これからも耐え抜くであろう底光りがある。私はこれらを見つけるたび、ほくほくしながら、だいぶひろってきたのだった。」という魅力的な文章からはじまる。そして、ひろってきた玉の、水晶だけ拾って貫けば「抒情詩人」、トルコ石だけ連ねれば「水の詩人」と、金子光晴の多様な魅力について、鮮やかなイメージで描き出している。

ほくほくしながらひろってきて、自分だけの首飾りをつくる。このイメージはアンソロジーを編むこととそのまま重なる。選ばれた言葉が唯一無二なら、それを見つけ出した人も唯一無二という感じだ。見たてと配列の妙によって、作品の魅力もさらにひきたつというものだ。

そして管氏は、アンソロジーを、肉声によって届けたいと言っている。しかも、電燈ではなく、ろうそくの灯りのもとで。直接声が届く距離で伝える大切さ。肉声で読まれる言葉をみんなで体験する大切さ。朗読には時に手拍子や、共感の合いの手(イエーィなんての)が入るかもしれない。言葉の合間に、楽器が鳴らされれば、もうそれは音楽だ。

そういえば、夏フェスで、リスペクトに満ちたカバーを聴いて感動したのも、このアンソロジーとおなじようなことだったのだと気づく。

しもた屋之噺(116)

杉山洋一

みさとちゃんの「瀧の白糸」二回目の公演を終え、漸く就学児となり会場で演奏を聴けるようになった息子を連れ、先ほど帰宅しました。前回の公演は、まんじりともせず画面に見入って、殺陣の場面が強く印象を残したようで、帰りしな繰り返し話してくれましたが、今回は、また見たいとせがむので連れてゆくと、始まってすぐに「またこの映画なの!」と落胆を顕わにした後、ずっと眠りこけていたそうです。今回面白かった場面を尋ねると、記憶にないと至極真っ当な返答が返ってきました。

ところで、みさとちゃんの「瀧の白糸」は、演奏する程に面白みが増して飽きることがありません。奏者それぞれに違った旨みが感じられる筈ですが、指揮する立場からすれば、演奏の度に映画を相手に鬩ぎあう臨場感と心地よい緊張はこの曲独特のもので、同期に夢中になるより寧ろ、映画と音楽が互いに影響し合ってきざはしを一段一段昇るのを確かめる感覚に近いと思います。前回の演奏から久しぶりに楽譜を開くと、それぞれの素材が実に無駄なく、有機的に書かれていることに感嘆しました。

本番前、ふらりと楽屋を訪ねてくれたみさとちゃんと雑談しながら、作品が全体の構成から音の選び方まで、思いがけず論理的に書かれていることに気がついたと話すと、「そうなのよね。でもそれは実は偶然なの。実際のところ、どうやって書いたのか記憶にないのだけれど」と彼女らしく答えてくれました。偶然であっても、透徹とした客観性は最後まで貫かれていて、映画に媚びずに、一定の距離を常に保ち続けて相手を見据えていて、「だから旨く映画と音楽が融合するのかなあ」。そんな話をしていると会場の呼出しベルが鳴って、「ここにわたしのバッグを置かせておいて!」と慌てて客席に走っていきました。何と言っても今回は演奏家の皆さんが白眉で、ほんの少し顔を向けるだけで思った通りの音を返してくれるのです。ですから本番中も驚くほど魅力的な音が沢山あって、冥利につきると思っていましたが、実際のところ「瀧の白糸」は指揮者は殆ど何もしないので、演奏者と作曲者の技がより際立ちます。

この一週間前まで、まるでジャンルの違う「ファルスタッフ」にかかりきりでしたが、「ファルスタッフ」の初演と「瀧の白糸」の原作、泉鏡花の「義血狭血」は図らずも1年違いで発表されていて、「ファルスタッフ」と「瀧の白糸」の現代語からの距離感に、ちょうど似た部分を感じました。実は日本語の方がよほど変化が早い印象を持っていたのですが、近代から現代にかけての変化は、見たところ同じ程度で、なるほど「義血狭血」を読む感覚で、現在のイタリア人はヴェルディのオペラを聴き、読み下しているのかと、ずいぶん乱暴な論法で溜飲を下げたのです。

この夏は地方に出掛けている時間が長く、インターネットでニュースを読むより、毎朝気に入った新聞を買って、くまなく読む習慣がついたのですが、膨大なインターネット情報を選んでいるより、新聞を一紙読みきる方が、ずいぶん充実感があるのに驚きました。休み時間には、本も駅の本屋で買い込んだりして随分読みましたが、特に印象に残っているのが溜池山王駅の本屋で購入した内澤旬子さんの「世界屠畜紀行」だったのは、実はイタリアに住み始めてすぐの頃から、屠畜について気にかかっていたからでもあります。

留学して二年目くらい、仲の良かった近所の八百屋の親父に、とびきり美味くて安いステーキを買いにゆくからと連れて行ってもらった肉屋は、街外れの野原にぽつねんと建つ看板すらない普通の一軒家で、細い道路を隔てて向い側には、2、30頭の肉牛が牛舎で飼われていました。不思議な肉屋だと訝しがりながら友人の後をついてゆくと、玄関の扉の前に地下室に降りる細い階段があって、そこから胸を突き上げるむっとした生肉と血の強烈な臭いが漂っていたのを覚えています。友人に分らないようにそっと息を止め階段を降りてゆくと、天井からぞんざいに吊り下げられた血も滴る枝肉が並ぶ中で、赤く染まった白いツナギの作業服姿の、肉屋の主人が黙々と枝肉を切り分けていました。

痩せ型で少し頬もこけた主人は口数も少なく、不気味に感じたのは雰囲気に呑まれていたからに違いありません。友人は挨拶もそこそこに、嬉々としてどの肉でステーキを十枚、自家製ソーセージ十何本とごっそりと頼んでいましたが、「今朝屠ったばかりで、きっと旨いよ」と応えつつ、厚切りのステーキを一枚一枚切り落としてくれました。初めて嗅ぐ強烈な臭いに食欲などとうに失せていたのですが、折角だからお前も買っていけと強く勧められ、仕方なく2、3枚血の滴る生臭い肉の塊を包んで貰って持ち帰りました。帰りしな細い階段を昇って外に出ても、生臭い臭いは身体や服にすっかり染み付いていて、吐き気すらこみ上げてくるのを我慢して友人の車に乗り込むと、牛舎の方からか、「パン」と乾いた銃の音が辺りに響きました。

祖父が生前網元で、子供の頃から魚を食べて育ってきたせいか、元来肉食に特別な愛着もなく、ただ生臭い肉片を冷蔵庫に残しておきたくなくて、その日の夕食に早速塩コショウをして調理したのです。正直なところ自分では臭くて食べられないのではないか、そんな危惧すら持っていました。ところがどうでしょう。口に入れた瞬間、今まで食べたこともないほどの美味しいステーキの味に、思わず鳥肌が立ったのです。信じられないような肉汁と旨みに、官能的なほどの感激とえも言われぬ罪悪感との間で、人生が引っ繰り返る程の衝撃を覚えました。

あの時あの肉片を嫌悪感を持って口に運び続けていたなら、或いは後に菜食主義者になっていたかも知れませんが、ともかくあのステーキは理屈抜きで自己嫌悪を覚えるほど美味だったのです。それ以来、ことあるたびに屠畜について考えるようになり、自分たちが日々頂いて暮らしている命について考え、あの体験に深く感謝するようになりました。もう少し大きくなったら、普段スーパーマーケットのパックの肉片しか知らない息子にも、ぜひ同じ体験をさせてやりたいと思っています。

そうして「世界屠畜紀行」を読み終えたとき、ふと今まで自分が余りに無知だった、原発との関わりともどこか似通っている部分を薄く感じていました。今回数ヶ月に亙り地方都市に通っていると、東京では見え難い様々な社会の構図が浮上って見えることもあり、たくさんのことを学びましたが、その中で、原発問題は思いもかけず自分たちの仕事から遠い存在ではないことも知りました。何れにせよ自分のように外国で過ごす時間の長い人間が考えたところで、誰に対しても無責任な発言しか出来ないのは明白で、自分に与えられた仕事を、せめても誠実に精一杯に勉めるより仕方がないと思っています。

先述の通り、今回日本で仕事をするなかで、日本の演奏家の飛び抜けて高い技術や意識の高さに改めて感激しましたし、演奏家や作曲家だけなく聴き手の存在も含め、音楽文化に関わり支えている全ての人に対して、心からの敬意を新たにしました。これだけ生活が豊かになったなら、ともすれば意識が希薄になって白けてしまいそうなところを、常に謙虚で弛まない向上心を持ち続けていることに強い感動を覚えたのです。それは自分にとって何にも代え難い未来への希望を体現していて、日本での無数の出会いにこれほど励まされるとは思いもかけませんでした。ミラノに戻ってその感謝の気持ちを些末であれ社会に対してどう還元してゆけるのか、そう考えれば襟を正さなければならない気もするし、不謹慎とは自覚しながらも、沢山の思い出を旅支度に詰めつつ少しばかり胸を躍らせてもいるのです。

(8月28日三軒茶屋にて)

帰り道のお月さま

璃葉

8月のまんまるな月は、深みのあるオレンジ色。
すっぽりと収まりたくなるような、まるい月。

いつも見慣れた、冷たく光る覗色(のぞきいろ)のそれとは違った、
暖かい色で、高級なチョコレートのよう。

チョコレートにはあんまり興味がないけれど、
あの丸く美味しそうな月なら、手をのばして
取って食べてしまいたい。

小さい頃読んだエリック・カール作の「パパ、お月さまとって!」
という絵本を頭に浮かべて、そう思った。

あの子供は、まさか月を食べたいとは、思わなかっただろうな。

moon.jpg

製本かい摘みましては(72)

四釜裕子

新宿二丁目、階段であがったビルの四階の小さな部屋に入ると、うずたかく積まれた新聞に埋もれるようにして、床に座ったひとがいる。しゃばっ、しゃばっ、と、新聞をめくる音。たまった古新聞を読み直している、らしい。壁の二面には新聞が几帳面に貼られており、手前のテーブルにはまとまった量の新聞が置いてある。奥にノートパソコンとインクジェットプリンタ。新聞をめくっていたのは写真家の岸幸太さん。これまで東京の山谷、横浜の寿町、大阪の釜ヶ崎でくりかえし撮影してきた写真を新聞紙に出力して、一冊の本を作っているのだ。写真展「The books with smells」(2011年8月23日〜9月30日)の会場である。

小さくプリントした写真を片手に、写真家は古新聞を延々めくる。記事の内容、レイアウト、色に、どの写真をどう重ねるか。決まったら、新聞は断裁することなく実物をそのままプリンタにセットして一部ずつ出力する。写真はすべてモノクロだ。黒字に白で抜いた記事の太文字はどんな写真が重ねられてもよく目立つ。逆に写真の小さな白地が、小さな記事の小さな文字を引き立たせることもある。広告写真と一体化したところもあるし、写真を重ねていないところもある。おもしろい。

とはいえなにしろ「新聞」だから、記事を読んでしまう。東日本大震災の記事が目立つ。まもなく半年。忘れたつもりはない。だが、おはようを言い、コーヒーを飲みながら新聞を開く毎日の朝は、昨日までを忘れることに違いないことも知る。気が遠くなる。テーブルから離れて、壁に貼られた作品を見る。一歩二歩と後ろに下がると、写真に写るひとびとが飛び出して見えてくる。新聞の文字がテレビのテロップ、というよりはナレーション、というよりは、雑踏のざわめきとして聞こえてくる。遠くなった「気」が戻される。

「The books with smells」は最終的に、新聞紙100枚に両面出力した400ページ前後を糸でかがって本に仕上げるそうである。インクがのることで新聞紙には今のところハリを感じるが、これから日々朽ちてゆく。期間中様子を見ながら、いくつかの選択肢からその方法を探すようだ。「本」に仕上げたあとの展示については知らないけれど、めくられるための「本」であることに違いはない。大きな読み台のようなものに置かれてしゃばっ、しゃばっとめくられて、多くのひとの汗と脂を吸うのが似合う。本文を保護するとかまして飾るとか、そのための製本は不要だろう。

雨の音に

くぼたのぞみ

しとど降る雨の音に
きみをおもう
もうすぐやってくる
九月をおもう
雨が多く
それでいて青空が突き抜ける
九月

ちいさな樹海の下り坂
抜けながら見あげると
暑熱に疲れた樹木が
黄ばみはじめた鱗片を
はらはら散らしていたのは
昨日 それとも

三月の
葉芽ふくらませていた枝は
花のない冷たい雨にうたれ
胸をかむ薫風に吹かれ
じれる熱風にさらされ
なかったことにしたい人たちの
おびただしい背中が
強引に築かれた崩壊寸前の壁のまえで
明晰さも倫理もなく
絡まる意識の濁りとなって
この土地を囲っている
それを
あわれと詠んではいけない
きみは裸足になるがいい

あれから半年
しとど降る雨の音に包まれ
夏の終わりの
青いりんごを食べながら
灰色の空の一点をにらみ
明日も食べる 容赦なく食べる
食べることが
細胞壁を突き抜け
きみの子どもたちの傷みとならぬよう
祈りながら
息をするやさしさを
抱きとめるばかり

掠れ書き16(漂う舟のように)

高橋悠治

記憶は、崩れていく廃墟か、過去は偶然の出会いの堆積か。予想しなかった状況に出会い、切り抜けてきた経験が個人の歴史と行動様式をつくる。それは一時的な安定だが、仮の足場として、隠れ家として、夢みるための繭として使えるだろう。

道は世界より前にうごきはじめていた。時間も空間もうごいていくものに追いすがる尺度にすぎない。この世界には構造も要素もあらかじめあたえられていないから、うごきの軌跡が場をつくる、それを構造と呼ぼうか、要素はうごきを跡づけるとき、ところどころに打たれる目印、構造に先立って選ばれ、構造を組み上げる素材となる実体というよりは、うごきの名残りとして燠火のように見え隠れする幻影ということになる。楽譜の上では、まだ鳴っていない音もページの上で見えているから、空間配置のようにして音楽の構成を考えることもできる。音楽家のあいだで作曲家の地位が上がるにつれて、紙の上の設計図にしたがって音楽の細部までが決められるようになった。だが音は記号ではないし、音楽は記号操作とはちがう。いま聞こえているメロディーは5分前に聞こえたものとおなじではない。いま聞こえているメロディーと言っても、じつは記憶がむすびつけている音の残像から立ち上がるイメージでしかないが、楽譜を離れて音を聞く体験とはこんなにも頼りないもので、それだからこそ心を惹きつけ、説明できない出会いの印象が いつか思いがけなく遠い過去のように水中花となって立上ってくることもあるのかもしれない。

偶然は向こうから落ちかかるもの、それを避けようとして曲がり、あるいはそれに添ってめぐり、方向を変えて、行先のない旅になる。先が見えなくても「一瞬先は闇」の不安ではなく、日常はそこにいるだけなのがあたりまえで、いまここはどこかとあたりを見回す余裕もなく、次々に無意識のトンネルに落ち込んで忘れられる瞬間があり、現在とはそういうこととするならば、地図の上でここからそこへと設定された目標と道筋をひたすら先へと辿るのではなく、歩くにつれて見知らぬ風景がすこしずつ現れてくるなりゆきのなかで、流れる水のように過ぎて帰らぬ線ではなく、記憶のなかを探り、浮かび上がる断片をそのつどの手がかりに迷い逸れて、追いついてくる時間や空間がさしだす線や枠からはずれる。

17世紀の日本には構造や全体から俯瞰されるのではない、プロセスの芸術があった。書院造、回遊式庭園、蕉風連句など、要素の配分や位置ではなく、まず歩き出しうごきだすものが通りすぎる部屋の空間のちがい、視線をさえぎり方向を変えて回りこむと見えてくるものと隠れるものが、全体を予感させないで、移ること、前の空間と次の空間のあいだに起こる連続と転換が、それぞれの空間を独立したものとしながらも、前の場の見えてない部分をきっかけとして次の場にひらき、次の場によって前の場をちがう文脈で見せる、これは庭や家ではなく、机の上の白紙に書き込まれる瞬間に現れる連句の集団即興の場合、書きつづけて書き終わるまで全体は姿を現さないあそびには、ただ書きつづけるという以外に何の根拠も保証もない。式目や句法は場の限界を消極的に監視する規則だとしても、規則にはいつも例外があり、プロセスの推進力のほうが優先して、そのたびに伝統を組み直していく。

ここに西洋的な構成主義と日本的な感性の対立を見るのは意味のないナショナリズムで、老子の道もエピクロス派のクリナメンも、オートポイエーシスもラディカル構成主義も、アルチュセールの偶然の唯物論も、世界のなかにあり、不安定な大地と戦乱の時代に微かに見える隠れた小道の表現かもしれない。それらは徴であり、兆しであり、それを指すことばのなかにではなく、そのことばの消えた余白に漂うなにか、だから言われたことばを信じることや示された方法に従うのではなく、文脈を転換しながら、その場で対応する以外にないプロセスを照らす闇の光のようなものだろうか。

それはそれとして、世界を見るみかたはそのなかでどうふるまうかとかかわっている。全体から部分へ、構造から要素へと分類するのは、全体を管理し操作するための方法で、そういうシステムは細かくなればなるほど制御できない混乱のなかに解体していくだろう。現実世界に統一原理や目標をもとめれば、いつも予期しない事態に足をすくわれる。原子のような孤立した静的な単位の関連のネットワークから全体を組み上げていく方法も、部分をすべて合わせたものよりも全体は複雑だというだけで、対象と外側からの操作をあきらめようとはしない。人間の思い上がりから生まれる論理は、理論として整っていても、現実とは遠い。

マフィンが売れないのは僕のせいかな。

植松眞人

 小さなカフェをひらいた。
 といっても、自己資金はゼロ。父に融通してもらった金で開いたカフェだ。内装のために少し公的な融資をしてもらったが、その保証人も父なので、個人的にはなんの苦労もしなかった。
 都内だけれど、住宅の多い私鉄沿線のこの町は、昔から生まれ育った馴染みのある場所だ。ここなら商売になる、という勝算があって場所を決めたわけではない。ここなら知り合いが多い、ここなら自分が楽しく過ごせそうだ、ということでここに決めた。
 正直、僕には商才はないと思う。商才があるなら、今まで働いていた小さなOA機器のメーカーでもきっと芽が出ていただろうし、辞めようかと思っているんです、と飲み会の席で上司に愚痴っただけで、これだけスムーズに円満退社の話が運ぶわけがない。上司にしてみれば、文句ばかり多くて、働きの悪い僕を辞めさせるいい機会だったに違いない。渡りに船というわけだ。
 会社を辞めたいきさつを話すと、母は大きなため息をついた。
「人がいいっていのか、馬鹿だって言うのか」
 きっと馬鹿なんだと自分でも思う。母に言われるまでもない。悪い奴ではないが賢くはない。さすがに三十数年生きてくれば、自分でもわかる。その上、カフェを開きたいだなんて言い出すお調子者。馬鹿だと言ってくれるだけ親のありがたみがわかるというものだ。
「とにかく、父さんと話してみればいいよ。何をするにしてもお金ないんでしょ。父さんに相談しないとなんにも始まらないんだから」
「そうだね」
 僕が答えると、母は呆れたように笑う。
「不思議な子だよ。普通、男ってのは父親にもっと反発するもんだよ。依怙地になって援助を断るか、逆に開き直って物乞いみたいになるか、どっちかだと思うけどね」
「そうかな」
「そうだよ」
 母は僕を眺めて何度目かのため息をつく。
「なんか息子と話してるっていうよりも、本当に出来の悪い社員と話してるようだよ」
 母はそう言った。
 父の経営している小さな商社は、実質母が経営しているようなものだから、母からそういう言われ方をすると、やっぱり少しこたえる。
「ごめん」
 なんの気負いもなく、自然に僕は謝ってしまう。
「なんかやだ」
 母がそう言う。
「え、なにが?」
「なにがって、そういうところがいやなんだよ、あんたって子は。甘えるでもなく、小馬鹿にするでもなく、飄々としていられる感じが憎らしいんだよ。こっちは親だからさ、結局最後は甘やかしちゃうんだけどさ。なんだか、それをよしとしない感じが伝わってくるのよね」
「いやもう、自分じゃわかんないよ。ごめん」
「父さんに似たのかねえ。とにかく、父さんと話してみればいいよ」
 母はそう言った。
 確かに、僕にはそう言うところがあった。親に甘えてはいけない、という気負いのようなものが全くなかった。かといって、親のすねをかじってずっと生きていこうと開き直っているわけでもない。それなりに真剣に考えて、親孝行だってしなきゃなあ、とは考えているのだ。ただ、どちらにしても、ストイックになるということが出来ないのだった。
 日本の古い車を東南アジアへ輸出する、という商売で会社を立ち上げた父だが、父親にも似たような傾向があるようで、そこがどうやら母の気に障るようだ。
 父の会社はそれなりに利益を上げているのだが、父の考えた最初の商売ではとっくに儲からなくなっていて、いまは母がまるで家計簿のように細かくお金の管理をし、主婦のように素人考えを真剣にビジネスにする、ということで利益を確保していた。そして、そんな利益をすぐに浮ついた思いつきに使おうとする父と僕が似ていると母は思っているのだ。自分ではよくわからないが、母がそう言うのだから、父と僕は似ているのだろうと僕は納得していた。

 そんな父と話したのはその日の夜だった。母から概略を聞いていたのか、父はストレートに切り出した。
「カフェって、なんなんだ」
 父は真顔でそう聞いてきた。
「そうだなあ、今風の喫茶店っていうのか」
「スターバックスみたいなやつか?」
「ああいうコーヒーショップじゃなくて」
「ドトールみたいなのか」
「いや、あそこまでおじさんが集まる喫茶店でもなく」
「じゃ、おっさん相手じゃなく、女性客を相手にするわけか」
「ま、どっちかというと、そうかな」
 そこまで話すと父は、わかった、と資金を融通してくれることを約束してくれた。たぶん、夕べ見た『ワールドサテライトニュース』かなにかで、女性客をターゲットにした飲食店が繁盛しているというようなニュースを見たに違いない。
 自分の会社は実質、母が経営しているのだが、父はそれも含めて自分の経営力だと思っている節がある。そうでなければ、奇跡的に世界経済の隙間をついて創業以来ずっと右肩上がりが続くわけがない。父は真剣にそう思っているのだ。しかし、だからこそ、僕もあまり罪悪感を持つことなく、父に無心ができるのだ。
 僕がカフェを開くという話も、きっと母から聞かされ、おそらく利益が出るだろう、という話をされていたのだと思う。父からは否定的なニュアンスの言葉はでなかった。母は決して息子だからと、中途半端に目をかけたりはしない。きっとこの場所でカフェをやるなら、誰にやらしても、大損はしないだろう、と踏んだに違いないのだ。

 ということで無事に父からの援助と公的な融資で、僕は小さなカフェをひらいた。お客さんが十人も入れば満席になるような本当に小さな店だ。もともと和菓子屋さんだった場所を借りた。冷蔵ショーケースは必要ないので、これを取っ払って、その分、テーブルと椅子を増やした。狭苦しい感じになるのが嫌だったので、狭いながらもゆったりと席をつくったら十人でいっぱいの店になってしまった。二十人は入れられると思っていたので、少し誤算だったけれど仕方がない。
 一緒に店をやってくれるのは、来年には結婚しようと話しているノンちゃんで、お金はいらないと言ってくれている。もちろん、利益が出たら払ってあげるつもりなのだが、利益がでるまでは、ちょっと我慢してもらえばいいと、僕も少し甘えたことを考えているのだった。
 ノンちゃんは二十六歳で、僕は三十六歳。歳は十も離れているけれど、見た目はそれほど離れているとは言われない。ノンちゃんは年相応で、どちらかというと僕がお気楽な生活を送ってきたせいか、妙に若く見られてしまう。ノンちゃんと僕は、共通の友だちのお芝居を見に行って知り合った。芝居が終わった後の打ち上げに一緒に参加したとき、ノンちゃんは僕に、何歳?とため口で聞いてきた。僕が正直に歳を言うと、最初きょとんとした顔をして、その後、耳まで真っ赤にして謝った。ほとんど同い年ぐらいだと思っていたらしい。それが僕とノンちゃんの出会いだった。

 店を開いて半年たった。ようやく収支がとんとんのところまできた。ほっと一息ついたという気がした。ただ、父の会社で経理をやっているオオタニさんからは、収支がとんとんになってからが難しいんですよ、経営って、と言われていたので気合いを入れ直さなければ、とメニューなどは常にいろいろ考えては工夫をしていた。
 オープンした頃は、おいしいコーヒーとハーブティーだけで勝負しようと思っていたので、それ以外のメニューは置いていなかった。それでも、知り合いがたくさん来てくれて忙しかった。ただ、時々「お腹が減った」とか「甘い物がほしい」という人がいたので、近くのスーパーで買ってきたクッキーなんかを一緒に出すようになった。
「このクッキー、お店で焼いたんですか」
 なんて聞いてくるお客さんがいたりする。もちろん、僕は正直だから嘘は言わない。
「そこのスーパーで買った物なんです」
 というと、そのお客さんは露骨に残念そうな顔をした。添加物とか怖くないですか、と女性のお客さんは言うけれど、僕はあんまり気にしたことがなかったので、いつも曖昧に笑ってごまかした。
 実はこのことに一緒に店をやっていたノンちゃんはとても傷ついたらしい。お客さんに残念そうな顔をされたことよりも、僕がなにも気にせず、スーパーのクッキーを出していることにがっかりしていたのだと、だいぶ時間が経ってから聞かされた。
「やっぱり、こういうカフェは、手作りのものを置いた方がいいと思うの」
 そう言いだして、その日から店の奥でノンちゃんがクッキーを焼くようになった。そして、それをコーヒーやハーブティーにサービスで付けるようにすると、お客さんが本当に嬉しそうに喜んでくれた。
「これって、お店の手作りですよね」
 お客さんはそう言うけど、このいびつな形を見て手作りだと思わない方がおかしいと僕は思った。それくらいノンちゃんの焼くクッキーはヘンな形をしていた。ただ、お客さんにとってはそれこそが、手作りの証のように見えるのか、嬉しそうに、有り難そうにクッキーを食べるのだ。
 僕がその話をノンちゃんにすると、ノンちゃんはちょっと得意そうに答えた。
「もちろん、わざとちょっと形をヘンにするのよ。型とかを使ってまん丸にすることはできるけど、それじゃ面白くないもの」
 それを聞いて、僕はノンちゃんはただものではない、ノンちゃんを奥さんにすれば間違いないと感心してしまうのだった。

 これだけ手作りクッキーが喜ばれるなら、別の甘いものも作ろう、と言うことになった。しかも、クッキーのようにサービスでつけるのではなく、ちゃんとお金をいただいて提供するメニューだ。そんな話をしているときに、ノンちゃんが思いついたのがマフィンだった。
「マフィンは子どもの頃、実家の母さんから教えてもらったの。ホットケーキミックスを使った簡単な作り方だったけど。いまはホットケーキミックス使わなくても、材料を合わせるところから、目をつぶっていても作れるの。時間もかからないし、食べるほうも小さいからおやつにちょうどいいと思う。アイスを付けたり、ジャムをつけたり、付け合わせもしやすいし」
 ノンちゃんのその一言で、マフィンを出すことに決めた。最初に作ったのは紅茶のマフィン。甘さを控えめにしたマフィンは、知り合いに試食してもらうと絶賛の嵐だった。
「これなら売れる」
「お金を出してでも食べたい」
 身内とは言え、そう言ってくれることに勇気を持った。ノンちゃんはニコニコしながら、マフィンを焼いた。
 僕は黒板にチョークで書いた。

 紅茶のマフィン 四百円
 紅茶のマフィン 梨のシャーベット添え
 五百五十円

 マフィンを出し始めた初日は五つ売れた。
全部で九つ作っていたので半分以上は売れた計算だ。そして、日が経つにつれてマフィンは少しずつ売れる数を伸ばした。
 売り出して二カ月で作っていた九つがほぼはけるようになり、三カ月目に入ると足りない日が出てきた。そこで、ノンちゃんはマフィンを二十個つくった。
 さすがに毎日二十個がコンスタントに出ることはなかったが、それでも時々十五個売れたりした。

 ノンちゃんに負けてはいけないと、僕は僕でランチメニューを考えた。ピラフとカレーだ。どちらも流行のカフェによくあるようなワンプレートにして、女性が喜びそうなサラダとスープをセットにした。
 時々、マフィンがびっくりするほど売れたり、ランチ時に人が表に少しだけ(ほんのに三人だけだけど)並んだりすることがあって、僕たちはとても驚いた。自分たちが出している食べ物が、そんなに人の期待に応えているとは到底思えなかったからだ。
 自分たちでも作った物は食べていたから、味はわかっている。それが並んでまで食べる価値があるかどうかは僕たちがいちばん知っている。正直、そこまでうまいとは思えなかった。だから、僕たちは店が流行ったら流行ったで、なんとなく居心地の悪さを感じて、お客さんが帰り際に小さなキャンデーをあげたりして、ホスピタリティでバランスを取ろうとした。
 そんな僕とノンちゃんの様子も、カフェ好きの女子にはたまらなかったらしい。ネットのカフェクチコミサイトで、「若いカップルが一生懸命にやっているカフェ」とか「素朴な味と、素朴な人間味がいい」とか、およそ味とは関係がない部分が評価されているのがわかった。もちろん、それもお客さんを呼ぶ価値には違いないと、僕たちは頑張った。だからこそ、収支がとんとんのところまでやってこれたんだと思う。

 ある日、ノンちゃんは僕に言った。
「ねえ、もっとおいしい物を作りたいの」
「いいね。僕もそう思うよ」
 と、笑顔で答えると、ノンちゃんは少しだけ切羽詰まった顔になった。
「私、シフォンケーキを作るわ」
「シフォンケーキって、柔らかいスポンジの少し大きめのケーキだよね」
 僕がそう言うと、ノンちゃんは切羽詰まった表情を少しだけ和らげて笑う。
「だって、私、自分がつくったマフィンを決して悪いとは思わないけど、最高だとも思わないの。なんかね、母さんから教えてもらったものだから商品って感じがしないんだと思う。最高とは思わないけど、特別なのよ」
「わかるよ」
「だったら商品として、マフィンよりももっとおいしいものを作って、来てくれるお客さんを喜ばしたいなって」
 そう言って、ノンちゃんはその日からシフォンケーキ作りに取り組んだ。僕たちは休日になれば、シフォンケーキで有名なカフェや喫茶店、洋菓子店に出向いて、いろんなシフォンケーキを食べてみた。朝昼晩とシフォンケーキでお腹がいっぱいということもあった。気付いたのは、おいしいシフォンケーキはお腹がいっぱいでもちゃんとおいしく食べられるっていうことだった。逆においしくないシフォンケーキはお腹が空いている時でも、少し胸焼けがしたりする。

 僕たちがたどり着いたシフォンケーキは、僕たちの店から私鉄の駅で二つしか離れていない場所にあった。カフェや喫茶店ではなく、駅前の小さな洋菓子屋さんのショーケースの中にシフォンケーキを見つけたとき、ノンちゃんは僕を見て笑った。その笑顔を見て、僕はここのシフォンケーキはいけるかもしれない、と何となく確信した。僕は別に洋菓子について詳しいわけでもないし、カフェについて充分に研究したわけでもない。僕が確信したり納得したりするときは、いつも何となくだ。
 ノンちゃんはその小さな洋菓子屋さんのショーケースにあったごく普通のシフォンケーキを指さして、あった、と小さく叫んだ。店のおじさんは驚いた様子をしていたが、決して迷惑そうな顔はしなかった。むしろ、妙な子が飛び込んできたな、とおもしろがっているように見えた。
「すみません。シフォンケーキをください」
「一つでいいですか?」
「はい、一つでいいです。あ、それから、ここで食べていいですか?」
 ノンちゃんが言うと、おじさんは店の隅っこに置いてある小さな椅子を指さした。
「じゃ、お皿に入れてあげるから、そこの椅子に座って食べればいいですよ」
「普段から、この椅子で食べる人がいるんですか」
 ノンちゃんが聞くとおじさんは声を出して笑った。
「そんな人いないよ。だけどね、この店の常連さんはお年寄りが多いんですよ。だから、店までたどり着いたときにはもう息切れしてたりして。だから、椅子に座ってもらって、ちょっと休憩してもらうの。そのための椅子なんです」
 おじさんにそう言われて、ノンちゃんはにっこりと笑った。
 ノンちゃんが座り、僕がその隣に座った。
 しばらくすると、奥さんらしき人がお盆をもって出てきた。お盆の上にはシフォンケーキとフォークが二本。それから汗をかいたコップに入ったお茶が二杯。
「すみません。気を遣わせてしまって」
 僕がそう言ってお盆を受け取ると、奥さんはにっこり笑ったまま引き返した。
 ノンちゃんはもうフォークを手に取り、シフォンケーキを一口サイズに切り取ると、口に運んだ。そして、しばらく口をもぐもぐさせた後、僕を見てとても素敵な表情を見せた。いま食べたばかりのシフォンケーキを身体全体で肯定したというか受け入れた表情だった。
「おいしい」
 そう言うと、ノンちゃんはもう一口食べた。食べながら、僕にも食べてみてとうながす。僕もシフォンケーキを口にしてみる。本当においしかった。しっとりとしていて、それでいてべたつかない。当たり前と言えば当たり前で、特別な味ではないのだが、これまで食べてきたシフォンケーキが一工夫しようとして、なんだかとても主張しすぎていた気がしたので、なんだかとても素直なシフォンケーキに出会えた気がしたのだ。
 思えば、ノンちゃんはいままでも、素直な味のするものばかりを好んできた。お店で出しているマフィンもとても素直な味だし、選んだ紅茶の味もそうだった。
「あなたたちはお店をやっているの?」
 おじさんは僕たちに聞いた。おじさんは年の頃なら六十歳あたりで、白髪交じりの髪を短くしていて、とても精悍な顔をしていた。洋菓子屋さんというよりも、寿司屋の板前さんみたいだった。
「はい。どうしてわかるんですか?」
「いや、なんとなくだけど、シフォンケーキを探してる人なんてあんまりいないからね。うちでも、シフォンケーキはそれほど人気がないんだよ」
「そうなんですか」
「ほら、イチゴやメロンなんかが載ったケーキのほうが見た目も派手だし好まれるね。せっかくだからってことで」
「確かにそうかもしれませんね」
 僕がそう言うとおじさんは笑った。
「そうだよ。シフォンケーキって、お店でおいしい紅茶を飲んでると食べたくなるんだよね。それに、だいたいシフォンケーキって何かとあわせてもおいしいようにできてるんだよ」
 おじさんのその言葉を聞くと、今度はノンちゃんが質問した。
「あわせてもおいしいように、ですか」
「そう。となりに、ちょっとシャーベットを置いてみるとか、果物を添えてみるとか」
「いいですね、そういうの」
「うん。だから、こういうお店ではなかなか人気が出ないんだけど、喫茶店なんかをやってる人は、こういう味を探してる人が多いんだよ」
 なんだか図星を指されたようで、ノンちゃんは普段よりちょっと頬が赤くなっているような気がする。
「あの、私たち半年前からカフェをやってるんですが、どうしてもシフォンケーキを出したいんです。いまは手作りのマフィンを出していて、それなりに人気はあるんですが、次は手作りのシフォンケーキを出したいって……」
 おじさんは楽しそうにノンちゃんを眺めている。
「あの、それで…」
「作り方を教えてくれっていうんだろ?」
「いえ、あの、そんな厚かましいことじゃなくて、ヒントというか」
「一緒だよ」
 と、おじさんは声に出して笑った。
「ヒント出す方がじゃまくさいよ。それにね、うち、シフォンケーキやめちゃうんだ」
「え、やめるんですか?」
 今度は僕が大きな声を出してしまった。
「そう。だって、売れないんだもん」
「だけど、こんなにおいしいのに」
「いくらおいしくても、売れない商品は作れないよ。それに、今はいないけど、娘と娘婿がこの店を継ぐって言うんで、ある程度、商品も整理しておかないとね」
 おじさんはそういって、ショーウインドウに入っていたシフォンケーキを全部出してきた。
「だから、これを持って帰って自分たちでいろいろやってみればいいよ。こんなタイミングで会ったのも何かの縁だろう。遅すぎかもしれないけど、オレからカフェのオープン祝いってことで」
「いや、でも」
 僕が遠慮していると、隣でノンちゃんが嬉しそうに笑って、
「ありがとうございます」
 とお礼を言う。
「がんばります。だけど、自信がありません。こんなにおいしいシフォンケーキ私につくれるでしょうか」
「大丈夫だよ。誰にだって作れる。気負わず頑張ればきっと大丈夫」
 おじさんはそう言って、残っていたシフォンケーキをすべて箱に入れて、僕たちに持たせてくれた。

 僕たちはそのまま家に帰らずに定休日の自分たちの店に行った。さっそく、シフォンケーキを焼いてみたい、とノンちゃんが言ったからだ。僕もその方がいいと思った。
 実際、僕にはノンちゃんがこれまでに作ったシフォンケーキと、洋菓子屋のおじさんが作ったシフォンケーキの味の違いがそれほどわからなかった。確かに、おじさんの作ったシフォンケーキの方がしっとりとはしていたが、ノンちゃんのシフォンケーキがしっとりとしていないわけではない。程度の差はあるけれどどちらもおいしいと僕は感じていた。
 しかし、ノンちゃんはおじさんのシフォンケーキの中に、なにか理想というか目標というか、自分の目指すべき味を見つけたようで、店に入るなり、黙々と材料を用意して、シフォンケーキを作り始めた。時々、おじさんのシフォンケーキを取り出すと、フォークで一口切り取って口に入れて、もぐもぐと食べた。まるで実験をしている科学者のようで、とてもアカデミックな感じがした。そして、うん、と声に出してうなずくと、また自分の作業を進めるのだった。
 僕はノンちゃんのシフォンケーキ作りを眺めながら、経理のオオタニさんに言われた損益分岐点について考えていた。月にどれだけ売り上げればいいのか。いくら以上維持費に使ってしまうと赤字になるのか。それを逐一教えてもらい、ようやくこの半年で、僕たちの店が損益分岐点を超えたことがわかった。といっても、ここまでの赤字分があるので、利益の出る状態をしばらく続けて初めて、本当の利益になるのだと言うことも聞いていた。
 ノンちゃんのおかげだと僕は思う。ノンちゃんがお茶を選んだり、マフィンを作ってくれたおかげでお客さんが来てくれたのだと心から思う。
 ノンちゃんのシフォンケーキ作りは夜遅くまで続いた。いつからシフォンケーキを出す、と決めていたわけではないので、急ぐ必要はなかったのだが、ノンちゃんはカフェを開く何時間も前から店に入って、シフォンケーキを焼いた。もちろん、店で出すマフィンも作っていたから、休む暇もなかったくらいだ。それでも、まったく苦にならないようで、ノンちゃんは本当に楽しそうにシフォンケーキを作り続けた。
「マフィンを母さんに教えてもらった時もそうだったけど、少しずつ理想に近付くんじゃないのよね」
 シフォンケーキを作り始めて二週間目くらいだっただろうか。ノンちゃんが急にそんなことを言った。
「少しずつ、良くなっている時って、急に歩みが止まっちゃうのよ。それよりも、何をやってもうまく行かないって言うときの方が、急に堰を切ったかのように求めていた味が手に入ったりするの。不思議よね」
 ノンちゃんの言葉に、僕はうなずいたが、本当のところ、僕にはそんな経験がなかったので、よくわからない。よくわからないけれど、その時のノンちゃんの表情がなんだか確信に満ちていたので、きっとそうに違いないと思ったのだった。

 シフォンケーキを焼き始めて一カ月くらい経った頃だろうか。その日、カフェの定休日にも関わらず、僕たちはいつもの定休日のように、店に来てシフォンケーキを焼いていた。そして、朝仕込んだシフォンケーキがオーブンで焼き上がった瞬間に、ノンちゃんはこう言ったのだった。
「お昼から、ミヤギさんとこへ行くから」
 ミヤギさんというのは、あの洋菓子屋のおじさんのことだ。あれから、一度だけノンちゃんはシフォンケーキの作り方について、電話をして確認したことがあった。確か、生地を寝かせるタイミングについてだったと思うが、それ以外は一度も連絡は入れていない。
 そして、このタイミングで、ミヤギさんに会いに行く、ということは、シフォンケーキの完成を意味していた。
「余熱をとって、少しだけ味見して、きっとそれで合格だから、ミヤギさんに見てもらいましょう」
「きっと合格なんだ」
「うん、わかるの。きっと私としては合格だと思う。あとは、ミヤギさんが合格って言ってくれるかどうかね」
 ノンちゃんは自信ありげに、でもやっぱりちょっと緊張した顔でそう言った。

 ミヤギさんはノンちゃんのシフォンケーキを一目見た瞬間ににっこりと笑った。
「よく頑張ったなあ。うん。よく頑張ったよ」
 ミヤギさんはそう言うと、素手でノンちゃんのシフォンケーキをちぎると、口に放り込んだ。そして、もぐもぐと口を動かし続けた。
 ノンちゃんと僕は緊張しながら待ったが、ミヤギさんは口の中のシフォンケーキが小さな欠片がきれいになくなるまで、黙って口を動かした。やがて、水を一杯飲むと、それを飲み干して言った。
「これはおいしい。オレのよりおいしいんじゃないか」
 ノンちゃんは本当に驚いた顔でミヤギさんを見た。
「いえ、そんなことはないと思いますけど」
「いやいや、少なくとも、オレよりもかっちりしてるよ。あと、慣れてきたら、もう少し角の取れた味になると思う」
「角張った味ってことですか」
 僕が聞くと、ミヤギさんは首を振った。
「いや、そう言うことじゃなくて、ただ単に遊びがないっていうのかな。もう少しで、自由度が増すっていう意味だね。だけど、それは作り続けないと絶対にわからないんだ。オレだってそこを教えてくれっていわれても、どう教えていいのかわからない。まずは、自分の思うレシピをしっかりと守って、次ぎに、気温や湿度、季節に合わせてそのレシピを融通する。そのさきなんだよ、角が取れてくるのは」
 僕にはよくわからない話だったが、ノンちゃんは素直に「わかりました」と答えて、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「頑張ったのは、あなただからね。というかさ、これからだからね、頑張らなきゃいけないのは」
 ミヤギさんはそう言って、自分のことのように喜んでくれた。

 翌日から、ノンちゃんの作ったシフォンケーキが僕たちのカフェで出されるようになった。誰もそう言わなかったくせに、本当はシフォンケーキを渇望していたのではないか、と思わせるほどノンちゃんのシフォンケーキは好評だった。
「こんなにおいしいシフォンケーキは食べたことがない」
「もっとパサパサしてるのかと思った」
「ノンちゃんの優しさが滲み出てる」
 みんながそれぞれにシフォンケーキをほめた。ノンちゃんはそう言われて、嬉しそうに笑った。
 しかし、僕たちがシフォンケーキの好評に胸をなでおろしていたのは、最初の一週間だった。ちょうど一週間経った頃、以前から出していたマフィンが一つも売れなくなってしまったのだ。
 シフォンケーキを出し始めた時は、お客さんの目が一時的にシフォンケーキに移っただけだろうと思っていたのだが、毎日、少しずつでも売れていたマフィンが、ついに一つも売れなかったというのはショックだった。
 その日、閉店時間が来るとノンちゃんは、オープンと書かれた札を裏返し、クローズと片仮名で書いたほうを店の外に出した。そして、レジのすぐ横で朝と同じ状態で並べられたマフィンをノンちゃんはぼんやり眺めていた。

 僕はそのうち、マフィンもシフォンケーキも同じように売れるようになる、と思っていた。だって、どっちも同じようにおいしいと僕には思えたから。
 しかし、一カ月たっても二カ月たっても、マフィンは売れなかった。そして、シフォンケーキは毎日売り切れた。
 僕はノンちゃんに、もう少しシフォンケーキを多めに作ったらどうだろう、と提案してみた。ノンちゃんは、そうだね、と答えるのだが、その通りにはしなかった。シフォンケーキも、そして、マフィンも増やしたり減らしたりせずに、作り続けた。そこに僕はノンちゃんの意志のようなものを感じて、なにも言えなかった。
 ノンちゃんは毎日、マフィンを九つ作った。そして、毎日、マフィンを九つ捨てた。最初のうちは、もったいないね、とか、残念だね、とか声に出していたノンちゃんだが、いまでは何も言わず、これが仕事なのだ、と言い聞かせるようにマフィンを捨てた。
 僕もなるべくノンちゃんがマフィンを捨てるところを見ないようにしていた。そして、そんな時、ノンちゃんが僕のことを少しだけ卑怯に思っているような気がした。ノンちゃんに直接聞いたわけじゃないから、本当にそう思っていたかどうかはわからない。もしかしたら、自分でそう思っていたからかもしれない。確かに、僕は自分で自分のことを卑怯に感じていた。

 その日は朝からノンちゃんが出かけていて、僕が一人でカフェにいた。なんでも、ノンちゃんの学生時代の友だちが長野で陶器を作っていて、カフェで使ってはどうだろう、と連絡をしてきたのだ。
「学生時代はTOEICを受けて、将来アメリカでコンサルの仕事をする、って言ってた女の子なんだけど、知らない間に田舎暮らし始めちゃって」
 ノンちゃんはそう言って笑っていたが、久しぶりに本人の顔と作品を見てきたいのだ、と僕に話してくれた。僕はもちろんいいよ、と答えてさっそく今日、朝早くから出かけていった。
「それじゃ、今日はシフォンケーキないの」
 そう言いながら、いつもの席に着いたのはタカシくんだ。タカシくんは近所の駄菓子屋さんの三代目で、カフェを開いたときからの常連さんだった。
「大丈夫、ちゃんと作っていってくれたから」
「そうなんだ。じゃ、僕はシフォンケーキとコーヒーちょうだい」
「はい、シフォンケーキとコーヒーですね」
 僕は一人でオーダーを通して、一人でサイフォンでコーヒーを落とし始めた。僕のコーヒーの淹れかたは父から教えてもらったものだ。まだ、僕が子どもだった頃、コーヒーが好きだった父が僕に淹れかたを仕込んだのだった。
 アルコールランプを時折調整して、タイミングを見計らって、上蓋をとって豆を攪拌させる。そして、ランプを外し、コーヒーの落ちてくるのを待つ。僕はその瞬間を見つめるのが大好きだった。その間は、いつもお店のこととか、お客さんのことも忘れてしまう。
「おーい。聞いてる? 今度のお祭りのこと」
 タケシくんが僕に向かって話していることに気付いた。
「なに?」
 僕が答えると、タケシくんは呆れたような顔をしている。
「ほんと、コーヒーを淹れてるときは何にも聞いてないんだから。今日はノンちゃんいないんだから、ちゃんと店にも気を配ってないとだめじゃん」
 そう言って、タケシくんは笑った。
 僕は淹れたばかりのコーヒーとノンちゃんが作っておいてくれたシフォンケーキをお盆にのせ、タケシくんの座っているテーブルに運んだ。
 タケシくんはテーブルに置かれたコーヒーカップとシフォンケーキを見て、嬉しそうな顔をした。
「このシフォンケーキ、ほんとにうまいんだよね」
 タケシくんはそう言って、おいしそうにシフォンケーキを口にほおばった。僕はどうしても聞きたくなって、ちょっといいかな、と声をかけてタケシくんの向かいに座った。
「あのさ。タケシくんもシフォンケーキばっかり注文するよね」
「ばっかりって、そんなことないよ。時々チキンカレーとか、サンドイッチも注文するし」
「うん、そうだね。でもそれは僕が作ってるんだよ。そうじゃなくって、ノンちゃんがつくってるものの中ではシフォンケーキしか頼まないだろ」
「そうか。そう言えばそうだよね。ノンちゃんが作ってるのはシフォンケーキとプリンだろ。おれ、プリンはあんまり好きじゃないんだよね」
 タケシくんは申し訳なさそうに言う。
「シフォンケーキとプリンと、実はもう一つあるんだよ。ノンちゃんが作ってるものって」
 僕がそういうと、タケシくんは考え始めた。
「シフォンケーキ、プリン、えっとなんだったけ」
 タケシくんはそう言って初めてメニューの書いてある黒板を眺めた。
「あ、そうか。マフィンか」
「そう。マフィンなんだよ」
「マフィンがどうかした?」
「どうもしない」
「どうもしないの?」
「うん。どうもしない。どうもしないんだけど、売れないんだ」
「え……」
 と、タケシくんはとても意外そうな顔をした。
「売れないのか。僕はとても売れてると思ってたよ」
「そうなの?」
「うん、売れてると思ってた」
「なぜ?」
 僕は素直に聞いてみた。なぜ、タケシくんがマフィンが売れていると思ったのか聞いてみたかったからだ。
「なぜだろう。え、え、わかんないよ。なぜだろう。なぜ、売れてるって思ってたんだろう。勝手な思い込みかな。全然、売れてないの」
「全然、売れてないんだ」
「だけど、オレは頼んでなかったかもしれないけど、隣のテーブルとかで誰かが頼んでいたはずだよ」
「うん、それは三ヵ月前までの話なんだ。三ヵ月前からマフィンは一つも売れていないんだ」
 僕が言うと、タケシくんはこれまでの三ヵ月間を一生懸命に思い出しているようだった。
「三ヵ月の間になにがあったんだろう」
 タケシくんがそう言って、僕が目の前のシフォンケーキを指さした。タケシくんはシフォンケーキを不思議そうに見つめた。
「シフォンケーキ?」
「そう、シフォンケーキ」
「シフォンケーキがどうしたのさ」
「シフォンケーキを作り始めてから、マフィンが売れなくなったんだ」
「そういうことか」
 と言ったきり、タケシくんも僕も黙り込んだ。だいぶ、長い間、二人は黙り込んで、目の前にあるシフォンケーキを眺めていた。すると、タケシくんが思い出したように、顔を上げる。
「今日はマフィンはあるの?」
 僕は立ち上がって、厨房からマフィンをひとつ持ってくる。そして、シフォンケーキの隣に並べる。
「確かにマフィンだ」
 タケシくんはそう言って、マフィンとシフォンケーキを交互に見てる。
「オレも最初はマフィンを頼んでいたよね」
「そうだね」
「うん、確かにそうだ。そして、このマフィンはすごくおいしいんだよ」
「うん、すごく評判はよかった」
「だけど、シフォンケーキがメニューに加わってからは、マフィンを頼まなくなった」
「うん。そうなんだ。それがタケシくんだけじゃなくて、お客さん、みんななんだよ」
「みんな…」
「そう、みんな」
「だから、まったくマフィンが売れなくなった」
「そう。ひとつも売れなくなった」
「なぜだろう」
 タケシくんが本当に不思議そうな顔をして僕に聞く。
「だから、こっちが聞いてるんじゃないか。お客さん代表としてのタケシくんに」
「そう言われても困るなあ。いままでそんなこと考えもせずに、ごく自然にシフォンケーキを頼んでたよ」
 タケシくんは、僕が真剣に聞くものだから、彼なりに真剣に考えてくれた。でも、なにも思い浮かばないようだった。
「というよりも、売れないんだったら、マフィンを作らなければいいんじゃないかと思うんだけど、どうだろう」
 タケシくんは考えあぐねた結果、そう言った。僕も深くうなずいた。
「そうなんだ。だけど、ノンちゃんはマフィンを作り続けるんだ」
「なぜ?」
「それは、マフィンがおいしいから」
「マフィンがおいしいから……」
「そう。タケシくんもさっき言ってたじゃない。あのマフィンはおいしかったって」
「うん、言った。ほんとにおいしいんだもん、あのマフィン」
「だろ。だから、ノンちゃんとしてはいくらシフォンケーキに人気があって、マフィンが売れなくなっても作るのをやめるわけにはいかないんだ」
「わかる」
 と、タケシくんは言った。
「うちの駄菓子屋でもそうなんだ。昔から人気のある酢昆布を置いてはいるんだけど、実はそれほど売れないんだよ。だけど、ごくたまにどうしても酢昆布が欲しいっていうお客さんがいてさ。そのために、置いてあるみたいなもんなんだ」
「でも、酢昆布はごくたまにでも、買ってくれるお客さんがいるんだろ。ノンちゃんのマフィンは、ひとつも売れないんだよ」
「そうか。それじゃちょっと状況が違うなあ」
 そう言ったっきり、また二人は黙り込んだ。今日は黙り込むのにふさわしい日なのか、他にお客さんも来ない。
 その後、僕たちはたわいない話をして過ごした。日が傾いたカフェの窓からは西日が差し込んでいる。強いオレンジの日差しで、店の中は濃い陰影がついている。僕はこの時間の自分の店が大好きだった。以前、そう話をしたとき、ノンちゃんもそうなのだと話してくれた。それから、毎日、夕方の西日が差してくる時間になると、僕たちは仕事の合間に、この風景を愛おしく眺めるようになった。
 今日も強い日差しが、床の上に作る影を僕は楽しんでいた。すると、影が大きく動いて、店のドアが開いた。ノンちゃんだった。
「ただいま」
「お帰り」
 僕が言うと、タケシくんも「お帰り」とノンちゃんに声をかけた。
「コーヒーカップとお皿の見本をもらってきたわ」
 そう言って、ノンちゃんは僕たちが座っていたテーブルの上に、友だちが作ったというコーヒーカップとお皿を置いた。
「どうしたの?」
 ノンちゃんが僕に聞く。
「何が?」
 と、僕が答える。答えながら、僕は失敗したと思っていた。なにしろ、目の前のテーブルには食べかけのシフォンケーキと、マフィンが一緒に置かれていたのだから。僕は下手に言い訳をしてもばれるだろうな、と思い、正直に話をした。
 すると、ノンちゃんは嬉しそうに笑いながら言った。
「心配してくれてありがとう」
「心配してるわけじゃないんだけどね」
 と、タケシくんは言う。
「ただ、自分でも不思議だったんだ。確かに、シフォンケーキがメニューに加わってからはマフィンを頼まなくなったんだけど、マフィンを頼まない理由がないんだよ」
「シフォンケーキの方が食べ応えがあるからかしら」
 ノンちゃんが素直に聞く。
「いや、オレも言われて初めて考えたんだけど、そんなふうにどっちがいいかっていう比べ方はしてないんだよね。ただ、シフォンケーキって言っちゃうって感じだな」
「ただ言っちゃうって感じかあ。つかみ所がないわね」
「そうだなあ」
 と、 僕も言う。そして、僕のアイデアを言葉にしてみる。
「シフォンケーキ作るの、しばらく止めてみるっていうのはどうだろう」
 それを聞いて、ノンちゃんは笑顔になり、タケシくんは不思議そうな顔をした。
「えっ! だって、売れてるんだろ、シフォンケーキ」
「うん、おかげさまで、人気があっていつも売り切れてる」
「だったら、どうして止めちゃうんだよ」
「だから、マフィンのためだよ」
 タケシくんはますますわからなくなったようだ。
「だったら、いままで通りシフォンケーキを作って、マフィンの宣伝に力を入れるとか、そういう方法はどうなんだろう」
 タケシくんの言葉を聞いて、ノンちゃんがそれに答える。
「結局は一緒だと思うの。ただ、マフィンが売れなくなったのが悔しいってことじゃないのよ。なんか自分で作っておいてヘンな感じなんだけど、もっとマフィンを大切にして、マフィンがちゃんと定着してから、シフォンケーキを作れば良かったって。なんとなくそう思うの」
「まるで、自分の子どものことを話してるみたいだね」
 と、タケシくんは笑ったが、本当にノンちゃんは自分の子どものことのように思っているのだった。
「ヘンな感じがするかもしれないけど、そうなのよ。だから、いったんシフォンケーキを作るのを止めて甘いものはマフィンだけにする。そういう意味よね」
「うん。僕が言っているのはそういう意味だよ」
 僕がそう言うと、ノンちゃんは、ありがとう、と答えた。
「でもなあ、お客さんは圧倒的にシフォンケーキを支持しているわけでしょ。うまくいくのかなあ」
 タケシくんは、そう言ってお客さん代表として難色を示していたが、僕とノンちゃんはこれ以外の手はないと確信していた。カフェのオープンと同時に出していたマフィン。その人気を回復するためには、一度、いま一番人気のシフォンケーキをやめてマフィンにメニューを絞る。そうすることで、マフィンのおいしさを再認識してもらう。
「そうすれば、きっと、もう一度シフォンケーキを出したときには、マフィンもちゃんと売れ続けるような気がするんだよ」
 僕はタケシくんに納得してもらうことが、お客さんに納得してもらうことのように感じて、熱を込めて話した。
 
 翌日、僕たちはシフォンケーキをメニューから外した。飲み物とフードメニューはそのままにして、スイーツは以前からあったマフィンとプリンだけにした。
 そうすることで、マフィンが売れるかどうかはわからないけれど、一度、シフォンケーキを止めてみようと僕とノンちゃんは決めたのだった。いつもシフォンケーキを注文してくれていたお客さんからは、なぜシフォンケーキがないのか、という声が寄せられた。なかには、シフォンケーキが食べたく来たのに、と帰ってしまうお客さんもいた。僕とノンちゃんはそんな様子を目の当たりにすると、やっぱりショックだったが、できるだけ平気な顔をするようにしていた。
 シフォンケーキをやめた初日、マフィンは売れなかった。その次の日もマフィンは売れなかった。三日たち、一週間たっても、マフィンは売れなかった。以前、マフィンを注文していて、シフォンケーキに移行していたお客さんたちは、シフォンケーキがなくなったからといって、マフィンを注文しなかった。僕たちも代わりにマフィンはいかがですか、とは言わなかった。
 結局、半年経っても、マフィンは一つも売れなかった。だからといって、カフェが流行っていないわけではなかった。毎日、お客さんは入っていたし、ランチタイムには何人かが入り口で待っていたりした。ドリンクメニューもフードメニューも、それなりに人気があった。そう、売れないのはマフィンだけ。どうしてなのか、と考えていたのは最初の一月だけで、後は売れない状況を受け入れ、維持でもなく惰性でもなく、ノンちゃんは毎日九つのマフィンを作り、毎日九つのマフィンを捨てた。
 夜の八時頃、店を閉めて掃除をしていたとき、ノンちゃんがため息をついて、客用の椅子に座った。
「どうしたの? 疲れた?」
 僕が声をかけると、ノンちゃんが首を振った。
「疲れてなんかないわ。ただ、やっぱりどうしても不思議なの」
 僕もノンちゃんの向かい側に腰をおろした。
「不思議って、何が?」
 僕が聞くと、ノンちゃんが笑う。
「だって、最初はマフィンが売れていて、シフォンケーキを出したら、シフォンケーキが売れ出して、マフィンが売れなくなった。で、シフォンケーキを止めたらマフィンが売れると思うじゃない。ところがどっこい、よね」
「そう、ところだどっこい、なんだよなあ」
 僕がそう言うと、ノンちゃんは思い立ったように席を離れ、厨房に行った。そして、手に売れ残ったマフィンを持って帰ってきた。
「どう? 食べてみる?」
 僕は一瞬迷ったが、久しぶりにマフィンを食べてみることにした。僕たちはシフォンケーキを止めてから、売れ残ったマフィンを口にしなかった。作るときには味見をするが、売れ残ったものを食べることはなかった。特に自分たちにそれを禁じていたわけではないけれど、なんとなく、それが商品として作られたマフィンに対する礼儀のような気がして、食べようとはしなかったのだと思う。
 目の間に置かれたマフィンを僕たちはそれぞれに手に取った。そして、僕は少し恐る恐る。ノンちゃんは意外になんの躊躇いもなく、マフィンを口に入れた。
 僕たちは互いに、じっくりとマフィンを味わった。何の飲み物もなく、ただマフィンだけをじっくり味わって、またしばらく口を閉ざした。
 ふいに、ドアが開いて、閉店したことを知らないお客さんがやってきた。
「すいません。もう今日は閉店なんです」
 ノンちゃんがそう言うと、お客さんは少し恥ずかしそうに帰っていった。
「またよろしくお願いします」
 そう言って、ノンちゃんがドアを閉める。そして、僕のほうを振り返ると、とても明るい笑顔を向ける。
「ねえ、いまのお客さんにマフィンを食べてもらったら、なんて言うと思う」
 僕は迷わず答えた。
「おいしいって言うよ」
 すると、ノンちゃんはとても嬉しそうな顔で言う。
「私もそう思う。おいしいって言うと思う」
「だって、おいしいもん」
「だって、おいしいよね」
 僕たち二人はそれから一時間ほど、閉店した後のカフェの薄暗いテーブルに座って、このマフィンがどれだけおいしいのか、と言うことについて話し続けた。なぜ、売れないのか、という話にはならなかった。避けているわけでもなく、ただ、なぜおいしいのか、どうおいしいのか、ということだけを二人は話し続けた。
「ねえ、このマフィン、明日は売れる気がするんだけど、どうだろう」
 僕が言った。
 ノンちゃんがうなずいた。