映画の小物集めてます。

高橋美礼

<グッバイ、レーニン!>の<東ドイツ製ピクルス>

「ポーランドではいまバル・ムレチュニィ(ミルクバー)が若者に人気」と伝えるテレビに映っていた、食器やテーブルクロスの模様が気になる。共産主義時代につくられたミルクバーは低所得層のための食堂で、どこでも同じメニューを格安で食べられる場所だったけれど、今はもう機能していない。番組は、そのミルクバーが最近のレトロブームで復活し、ファストフード感覚で若い子たちが集まるようになった、という短い内容だった。

で、人気のワケは食べ物だけじゃなく、店の雰囲気にもあるらしい。ペタっとした鮮やかな色使いと幾何学模様を組み合わせた、あまり高級とは思えない模様が、お皿にもカップにもテーブルクロスにも壁紙にも使われている。柄×柄なんてあり得ない組み合わせっぽいけど、むしろそれが懐かしくて新鮮。1960年代〜70年代の日本にも、たくさんあった柄物じゃないかな。ポーランドに限らず、旧共産圏では暮らしのすべてが配給で成り立っていたようなものだ。種類だって多くはないから、デザインで勝負するなんてあり得なかったよね。

 <グッバイ、レーニン!>はベルリンの壁が崩壊する当時の物語。主人公のアレックスは、心臓発作で倒れた母親にショックを与えないように、と東西ドイツ統一の事実を隠し続ける。西側の資本主義がなだれ込むように生活を変えていく勢いに逆らいながら、旧東ドイツの製品を探しまわる主人公の姿は、全体が重いテーマにもかかわらず、コミカルだ。

無人のアパートに忍び込んで食料を探し出すのも、中身が問題じゃなくて、パッケージが必要だから。競争社会で生き残るためにアピール度の高いパッケージに切り替えていたり、統一ドイツの名称をつけていたりする食品ラベルはすべて却下。そして母親の前に出すために、コーヒーやジャムをわざわざ詰め替える。なかなか見つけられなかった<東ドイツ製ピクルス>はペンキまみれになっていたにもかかわらず、洗って再利用だ!立派なピクルスを瓶から直接、手づかみでおいしそうに食べる母親には、このラベルこそが安心の素なのだ。

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店頭でどれだけ購買欲をかき立てるか、という度合いをパッケージから取り去ったら、何が残るのかな。わかりやすくなるのなら、競争相手が少ないのも悪くはない。ラベルにあるシュプレーヴァルトは、原料になるキュウリの産地のことで、シュプレーヴァルト・グルケンはいまも瓶詰めが買えるようです。

翠の校庭――88 無関係者

藤井貞和

天城さんの「うた」に、「子孫に残す何あるというか」と。
「どうぞ ハグしてください」と、きょうの後藤さん。
県民の子どもを避難させて、
ウツル、と仲間はずれにされているから、
詩友は世界へハグを求める。
メモよ、骨つぼの霊に、
故郷捨てるおれたちを恨んでくれるな、
と小林さん。
「うしろで子どもの声がした気がする」と、若松さん。

(「三月十一日、浪江町は四つの集落が大津波に呑まれ家並みが消えました。行方不明者九百八十余名の安否確認、倒壊家屋から住人の救出、道路の補修工事等の作業に町職員はとりかかり、一般住民は地震で散乱した家の中を片づけながら、隣町の原発への不安は誰もがあったようです。/東電からは何の連絡もないので、町では少しは安堵していたようです。しかしその頃、東電は立地町の双葉、大熊、富岡の住民達を隣県の茨城交通などからバス百二十台をチャーターして、その日十一日の夜までに県内や隣県の観光地のホテルや宿泊施設に避難させていたのです。許せません。/浪江町長は、東電からは何の連絡もないまま、パソコンのメールで菅首相から避難命令を受け、十二日早朝、各地区の区長を通して、ただちに避難せよとの通達を発したのです。……その日午後三時、原発一号機の水素爆発がありました」〈みうらひろこさん〉。浪江町を置き去りにした東電への告発である。東電は地震で通信回線が切断されたため、浪江町へ連絡できなかったと釈明する。10キロはなれていない町なのだから、自転車でもバイクでも、何なら人が走って知らせる方法もあったろう、とみうらさん。「バスで運ばれた立地町の避難者達は、暖房のきいたホテルで、シャンデリアの光輝やくテーブルでデザートつきの温かい食事を提供されていた。わが浪江町民の避難者の多くは、廃校になった小学校に入れられ、壊れたガラス窓からの冷たい風、床にダンボールを敷き、支給された薄い毛布にくるまり、冷たくなった小さなお握り一個、ある日はメロンパン四分の一切れという食事。「避難」とはこういうことなのかと思いながら、寒さと空腹に耐えていたのです。このあと県内の学校の体育館をはじめ、あらゆる集会所や施設に移り、町によるとその数三百五十ケ所に分散しての避難生活となったのです。各地で受け入れて下さり、支援していただきありがとうございました」と、みうらさん。東電から受けた仕打ち、差別を、県内の詩人各位に知って欲しい、という寄稿である。「現代詩人会会報」102号より。22日に、この会報を〈校正刷のままで〉引用したほか、A3で25枚分、おもに福島県内からの心の声を集めて勉強会で発表させていただいた。孤立させ、心ない差別をいま強いているのは福島県外からであり、みうらさんの悲痛な叫びである「差別、しうち」と混同できない。村民のあいだでいがみあいがはじまっていると、きょうのニュースで村長さんの訴えである。恐れていたことが起きつつあるとも言えるし、それらを「見たことか」と冷ややかに切り捨てる、無関係者の表情も暗闇に浮かんでくる。……「無関係者」と言う語はあるのかなあ。)

炭焼き職人を訪ねて。

さとうまき

今日は炭の話。友人が火鉢に凝っている。不定気に火鉢カフェなるものを、東京の下町古民家などを借りて開催している。一日中火鉢をおいておいて、お客さんと駄弁るという。

あんまりイメージがわかないのだが、楽しそうだ。先日、福島の二本松の「道の駅」で桑の炭が売っていたのを思い出した。火鉢カフェに福島の炭を使ってもらおうと、わざわざ買いに行った。ここの所、福島は雪が続いている。芯から冷え込む。二本松の炭、桑を使っている。もともとこのあたりは蚕の養殖が盛んだったらしい。今では、桑の実のジャムや、桑の木を炭にしているという。どういう風に炭にするのか見たいと言ったらお店の人が、わざわざ農家さんの家まで案内してくれるという。

車で結構山中に入っていく。雪がだんだん深くなってきて、タイヤがすべり運転が大変だ。農家につくと、山男のような親父さんが出てくる。ちょうど釜で焼いているというので、さらに山を少し登ったところに釜があった。

最近、福島に行くようになって農家さんとのつながりが出来てき思うのは、農家のじいさん、ばあさんが実に絵になるということ。先日も柿を食っている柿畑のおじいさんの写真を展示してたら、涙を流しながら見てくれたお客さんもいた。

炭は、セシウムの汚染が心配だ。震災後は、今まで焼いていなかったが、売る、売らないは別に家庭で使うということもあり、とりあえず、昨日から炭焼きを再開したという。「どうせ、俺たちは先行き長くないからね」そういうと豪快に笑う。しかし、百姓、自分達の作った農製品、食べてもらわないと、むなしいし、哀しいのだ。そんな複雑な表情を写真にとらえようとシャッターをきる。帰りに、クヌギの炭を持っていけと下さった。立派な菊炭で結構大きい。それをわたしてくれたばあさんがまた、立派なもんぺをはいているから絵になる。

2月1日からはじまる「イラクと福島のバレンタインデー」の展示には、百姓のじいさんばあさんの写真も展示する。詳しくはHPで。JIM-NET 火鉢クラブ

オトメンと指を差されて(44)

大久保ゆう

2月といえば豆です。誰が何と言おうと豆なのです。

豆に生き、豆に死ぬ、そういう豆主義者として生まれたからには、いつかは触れなければならないことだと覚悟しておりました。そう、わたくし何を隠そう豆の使徒。お肉よりも豆を好み、〈まめ〉という言葉に似合うよう人生までまめにしたる者。そんなまめまめしきお話を今回はひとつ。

えんどう、いんげん、だいず、うぐいす、うずら、ひよこ、グリーンピースにあずき、ピーナッツ、豆といえばたくさんありますが、わたくし豆によって育ってきたといっても過言ではございません。元よりお肉もお魚も苦手、今でこそ生のお魚や薄いか柔らかいお肉なら何とか大丈夫ですが、ほとんどのタンパク質はこれまでずっとお豆頼みで来ておりまして。わたくしの身体はお豆でできているというわけなのです。

思い出せば子どもの頃、給食でいちばん楽しみだったものといえば〈大豆のしゃりしゃり揚げ〉、何だそれはといぶかしがるお方もおられましょうが、この大豆をからりと揚げただけのよくわからない食べ物がわたくしは好きで、今でも夢に出てくるくらいなのに、今まで誰も再現できた人もされたものも見たことがなく、まさに夢のなかのもの。
カレーも自分で作るときはビーフでもポークでもチキンでもシーフードでもなく豆カレー、多種多様な豆の入ったカレーであるわけで、あらゆる料理の肉は豆に置換され、麻婆豆腐の挽き肉だってグリーンピースに変わり、豆丼に豆じゃが・豆うどん、ピーマンの豆詰め、青椒肉絲の肉だってもはや枝豆になってしまうのです。ハンバーグだって豆腐バーグよりもお豆バーグにしてくれた方がうれしいくらいで、できれば豆ご飯の流れから豆寿司的な創作料理ができあがればいいと思う始末。

あるいはわたくしにとって〈あんこ〉なる豆スイーツはお豆レシピのクイーン、日本の至宝、というかおはぎにおかれましては、炊かれた白米とお豆が組み合わさってるのですから、お菓子というよりはむしろごはんですよ、あれです、赤飯がごはんであるのと同様にごはんであるわけです。(めでたいときに夕食として食べればよいのです、わたくしはそうしておりますし、うちの家族からもそういうものとして長年認められておりまする。)

そこで2月。そうでございます、まず節分がありますから堂々と行事としてお豆がたらふく食べられるのです。煎った大豆がそりゃもう大量に。年の数なんか気に致しませんもぐもぐもぐもぐ。今では全国化しましたが関西では太巻きを食べるのですよね、でその太巻きの具も自作するなら好きに選べるってことでお豆にしちゃうのです。あははは。豆太巻き。

そして中旬にはバレンタインデイがあるわけですが、あれだって元々はお豆です、カカオ豆(実だというつっこみはなしで)。ですから街じゅうにこれでもかとお豆があふれるのです2月はっ! わあい、お豆祭りの月ばんざい! 本当、お豆の国に生まれついてよかったです。お醤油もお豆腐もお味噌も、しっかりお豆の味がするものが大好きなわたくし、もうお豆がなくては生きていけません。もし無人島に漂着なんかしたらまず食べられる豆を探しに出ちゃうくらい。お豆大使とかあるならなりたいくらい。豆のためだけにスペイン行きたいくらい。

そんなわけなのでわたくしはピタゴラスの教団には絶対入れないわけで残念なのですけれども、どっちかというとわたくし豆を信仰していると申しましょうか、ちょっとくらい元気がなくても、ただ豆のことを考えるだけで妄想するだけで、にやにやにや、身体の内側から力がみなぎってきますから、何と言いましょうかもうお豆のご加護のたまものであります。ちなみにお豆へのお祈りは、豆をお箸で器から器に移し替えること。百粒でも千粒でも、多ければ多いほど功徳がある……なあんてことはございませんが、わたくし、たぶんいくらやってももくもくもくもく、飽きないとは思います。

マヘリアは歌う

くぼたのぞみ

ゆきは
気配をはこんでくる
音もなく
物語をはじめる
濃密で 無情な
灰色のゆきは
ひとも こころも
ひっそり包む
包んでさらう
しんしんと
ゆきが消しさる
あわいを
マヘリアは歌う

we shall over-come
one day
マヘリアは歌う
we are not afraid
no more
マヘリアは歌う
everything gonna be all right
deep in our heart

道はひろがり
空と地がひとつになって
聖堂が揺れ
ダンジョンがぱっくり割れて
蜜がしたたる
岩のようなハート

まだいる わたしは
ここに いる
あらがい生きる
きみのそばに

上映時間を間違えて

若松恵子

上映時間を間違えて、予定と違う映画を見ることになった。窓口で間違いに気づいた時には上映5分前で、これも何かの縁と見ることにした。

「ツレがうつになりまして。」(佐々部清監督/2011年)、人気コミックエッセイを映画化した作品だ。NHKの大河ドラマ「篤姫」で夫婦役を演じた宮崎あおいと堺雅人が再びコンビを組み、原作も評判になったこともあって、月曜日午後1番の上映は意外と多くのお客さんを迎えていた。少々難解でも心を遠くに連れて行ってくれることを期待して名画座に行く。そういう映画ではなかったけれど、ちいさくキラリと光る、温かな後味が残った。客席はたびたび笑いの渦に包まれ、そしてたくさんの人が涙をこぼしているようだった。もちろん私も、主人公にもらい泣きした。

夫のことを「ツレ」と呼んでいることからも分かるように、主人公達は少し風変わりな夫婦だ。ハルさん(原作者の細川さん自身)は世間一般の「奥さん像」というものから少し自由で、その分、夫の病気に対しても独特の反応をして、それが時には笑いを呼び起こす。ツレのうつ病という深刻な問題に対してもハルさんは子どものようにあどけない反応をして、それは時に常識やぶりであり、見るものは驚きとともに思わず笑ってしまうということなのだろう。2人の世間からのほんの少しの自由さ、そのずれが引き起こすユーモアがうつ病という深刻なテーマに明るさをもたらしていると思った。そして偏見にとらわれずに「ツレガうつになりまして。」と自然体で言えること、そのことがまず多くの人の共感を得たのだろうと思う。この原作の良さをそのまま活かすことに、映画は成功していると思った。

大事なことは本当に少ない。大事なこと、それは例えば「病気になったツレを見捨てずに、いっしょに居続けられるのか」ということだ。仕事ができなくなったら去らなければならない会社の世界、割れずに残って骨董品になった薄荷水のビン、じっと動かないように見えるイグアナ、それらの姿を描きながら、この問いが静かに差し出される。「ツレがうつになりまして。」は複雑でも難解でもないけれど、シンプルに大事なものを描いていて温かな印象を残した。

春はいずこ?

大野晋

今年は例年になく寒いらしく、梅の花が咲いたという便りもまだ耳にしない。まあ、身近なところで季節が感じられた庭の木々が、昨年の家の建て替えでなくなったままだから、早春の紅梅も、そろそろ咲き始める白梅も、居ながらにして眺めることはできなくなっている。そうした意味では、春を感じにくくなっているだけなのかもしれない。信越の雪も今年は例年になく多いということなので、五月の連休には2年ぶりにカメラの機材を抱えて撮影三昧の旅に出かけてみるのもいいなあと思っている。

1月は都響こと東京都交響楽団は定期公演で日本と海外の現代音楽を取り上げる時期である。夏にサントリーホールなどが演奏機会を作っているとはいえ、なかなか、現代音楽を実演で聴く機会は少ない。そして、前例に漏れず、現代音楽を取り上げたコンサートの人の入りもとても少ない。しかし、観客の数と演奏の質が比例するはずもなく、少ない人数の演奏会は余裕のある会場で、ゆったりと音に浸れる滅多にない機会のように思えてならない。今年も北爪作品の音に浸り、杉山さんの指揮をした演奏で、ブーレーズをなんと数十年ぶりにきちんと聞くといった経験をした。ブーレーズの指揮した音源に触れる機会は多いが、ブーレーズの書いた作品を聞くという経験は滅多にない。

殺風景な庭に植えたパンジーは年末あれほど元気良かった葉を、このところの寒気で縮こんでしまっている。まだまだ、春の気配を感じることは難しいが、やってこない春もない。やがて春が来て、生命に満ちた姿を見せてくれるだろう。

ところで、年末に一本植えたエゴノキは果たしてこの春無事に芽吹くのか? おかしなところに興味のある今日この頃です。

鼻水たらしながら

仲宗根浩

旧正月寒かった。旧正月前は部屋の中では半袖でも過ごせるくらい暑くなり、それで寒くなり、そのあとまた暑くなり、風邪をひく。プロレスラーが怪我しても試合をしながら怪我と付き合いつつ治すがごとく、薬を飲み、仕事に行き、夜にはいつも通りに酒を呑み、という生活をしてもプロレスラー並みの体力があるわけなく、全然よくならずに咲き始めた近所の桜に気づき、少し見ていると鼻水が垂れてきた。治らないのはとりあえず加齢のせいにしよう。

去年、うちの奥さんの軽自動車がぶつけられたのを機会に、修理から戻ってすぐにずっと壊れたままでラジオしか聴けなかったカセットカーステレオを今どきのCD、MP3再生、USB、AUX入力端子付、iPod、iPhoneからの操作も可能でお値段も一万円以下のものに交換。メーカーはケンウッド、昔で言うトリオ。中学生の頃、アマチュア無線をやっている奴はみんなトリオの無線機だったな。それなのでトリオのステレオコンポはチューナーのバリコンは他のメーカーに比べて大きさが全然違った、というアナログな昔話。で、交換したはいいがボタンの機能が多すぎて設定が面倒。普通のCD再生やMP3再生はなんとなくできるが、大きな液晶画面設定などないのでラジオのFM、AM切り替えがどのボタンを押せばいいのか迷う。数年前であればあれこれいじり倒して覚えたけど、最近それも面倒になってきた。加齢のせいにしよう。すると今度は私の車のカーナビ、タッチパネルの一部が反応しなくなった。中古車なので、ナビの情報は十年前のもの。その頃には無い新しい道を走ると進行方向を示す矢印が変な動きをして面白かったけど、これはこれでナビ以外はCD再生、ラジオも問題ないのでそのままにしておく。もう二年以上ひとりで車に乗っているときに聴くのは「Bestof Muddy Waters」だけだし、今は車に金かける余裕ない。余裕ないのは無駄な買い物をするから。去年は、要らなくなったクレジットカードをギターのピックにしてくれる「PICKMASTER」という本当に無駄なものを買ってしまった。期待に胸膨らませ、開封し一分後に使い物にならないことをさとり泣いた。出てすぐだったので値段も今より高かった。これだったら普通にギターのピックを買ったほうがいい。ネット上で簡単にクリックしてはいけない、ということをちゃんと学習していない。

今年、こっちは復帰四十年。ドルを使い、左ハンドルの車が走っていた記憶を持つ若いのもかなりのおっさん、おばさんになっている。そんな感慨とは関係なく家の中ではついにK-Popの波がきた。奥さんは少女時代のCDをレンタルし歌い、スマホでYoutubeにアップされた動画を見て振り付けをチェックしている。で、音をちゃんと聴いてみると完成度が高い。今のシングルCDはほとんどカラオケ・ヴァージョンが入っているのでインスト聴けばよくわかる。昔、CD屋で働いていた頃扱っていた韓国のポップミュージックとは全然違う。制作するツールが標準化されたからかなあ。これも、巷に転がっているグローバル化というもので括られてね。

今年になって、去年以上に、これさえ入れときゃみたいな感じで使われ、読むたび、目にするたび、耳に入るたび、絆というやつには、うっ、やめよう。それよりはやく鼻水止めよ。

犬狼詩集

管啓次郎

  49

くろぐろと濡れた大きな折れ枝に
貼りついた白い花びら
そんな風にエズラのように人々の顔を見て
いつも怯えた気持ちでいた日々があった
そのころは街がなんだか薄暗かった
いま、白く発光する路面に下から照明されて
無表情な人々の顔はどれも眩く明るい
見つめようとしても果たせない
ぼくには能動的な視線がなく
受光器にすぎない眼球のまなざしなんか
洪水のような光に絶えず弾かれる
かぶと虫のあのつぶらな目はいったい何を見ているのか
それでも心は翻訳された光のように明朗で
魂のように飛び交う光の顔たちを避けながら
この都市を森の道をゆくように歩くのだ
ここは際立った暗さの巨大な森林

  50

いくつもの扉がつづく長い通路で
扉を通るたびにボブとイネスが入れ替わる
ボブは兄、イネスは妹
ぼくはその交替を陶然と眺めている
ふたりはふたごのようによく似ている
それどころかふたりはおなじ顔をしている
ぼくとボブは銀玉の拳銃で
ロシアン・ルーレットをやって遊んだ
ぼくとイネスはヴィーニャ・デル・マールの海岸で
海亀の卵を探して遊んだ
その日々が終わり、ぼくらは遠く離ればなれになって
ただイメージの長い通路を歩いてゆく互いの姿を見るだけ
その床はしずかな水面、映る太陽はまだらの光
熱を失ってそのように弱々しく
でも扉を開くたび過去の光が訪れる
その音さえ聞こえる気がすることもある

製本かい摘みましては(77)

四釜裕子

最寄りのスーパーは狭い。界隈で暮らす人は多いのにいったいどういうことかと思っていた。生活していると、最寄りだからやっぱりよく寄るようになる。日々の食材はここで買うことが増え、メニューも変わる。まもなく充分間に合うようになり、そのうち狭さも感じなくなる。探す目も動く体も、慣れてくるのだろう。レジは3台。混雑する時間はそれぞれに8人くらい並び、それはすなわちフロアにある3本の通路の5分の2くらいを占領する。通路の左右の棚を物色する人がそこに分け入る隙はなく、アルコールやチーズ、パンを買いたいひとは右、お菓子やカップ麺は真ん中、総菜やジュースならば左のレジ列に並びながら物色する。

レジを待つ時間がけっこうあるので買物かごを眺めながら合計金額を概算する癖がついた。けっこう当たる。これがうれしい。500円以上違ってたことがある。レジの打ち間違いじゃないかと確かめたらいつも買うチーズの隣りにある500円以上高いチーズを取っていた。買い直すこともできたけど振り返れば長い列、たまにはいっか、と贅沢買い。おとといは、前の人の合計金額が507円だった。その人は500円玉と5円玉と1円玉で507円をすでに手に握っており、ぱっとトレーに置いて颯爽とレジを通過した。私の概算は何千何百の位まで。まだまだだ。この店のレジでいらついている人を見たことがない。

真ん中の列にはちょっとした台所用品も置いている。ラップとかゴミ袋とか。細長い2段重ねの弁当箱もある。幼稚園のころ持たされていた楕円形のアルマイトのお弁当は時々汁がもれていて、でもどういうわけか不快ではなかったな、父親の保温弁当箱は巨大だったな、「これっくらいの、おべんとばっこに……」と歌うときは両人差し指で長方形を描いていたけれど今の子どもたちも同じように長方形を描いているのかな……など考えてたらレジの順番がきた。清算をして袋に詰めながら、昨秋出たお弁当箱みたいな2冊の本について考えていた。

ひとつは渡辺一史さんの『北の無人駅から』で、定規で計ると127×188mm、792ページで厚さは38mmある。もうひとつは北沢夏音さんの『Get back,SUB! あるリトル・マガジンの魂』で、同じく127×188mm、542ページで厚さは38mm。寸法は同じ2冊だがページ数はだいぶ違う。『北の無人駅から』は柔らかい本文紙を糸で綴じてあり、重いけれど読みにくくはない。比べると『Get back,SUB!』の本文紙はやや厚く、糸綴じではないけれども今どきの接着剤は柔軟性があるのでグッと開いてもページがはずれることはまずないが、読んでいて手は疲れた。判型に対して厚みがあるとき「お弁当箱みたいな」と言ってしまうが、こんな弁当箱、実際は見たことがない。細長い2段のお弁当を持つひとと、お弁当箱みたいな本について話してみようと思った。

船上に揺れるスリンピ公演

冨岡三智

1月の10日間、ジャカルタの踊り手3人と一緒にクルーズ船に乗り込んでの仕事というのを初めて経験した。というわけで、今回はその船上での公演で発見したことを書いてみたい。

この船は旅客定員644名、日本船籍としては二番目の大きさであるらしい。常連のお客様の話では、今回の旅は揺れが穏やからしいのだが、私たちのスリンピ(4人の女性で踊るジャワ宮廷舞踊)公演の日には比較的揺れが大きかったような気もする。もっとも、公演ステージは船の先頭部分にあって、一番揺れる場所ではある。

まず、船の揺れは、椅子に座っているとあまり感じなくても、床に座るとよく感じるものだということを発見。私たちが上演した「スリンピ・スカルセ」は短縮版ではなくて43分(入退場を除く)の完全版なので、合掌するため、最初の3分半くらいは床にジャワ式正坐で座る。さらに途中でシルップという静かな部分があり、踊り手が2人ずつ交互に立膝で座るのだが、これが「スリンピ・スカルセ」の場合は特に長くて、それぞれ8分半ずつもある。座ると、床との接触面積が大きいせいなのか、また床と心臓が近いせいなのか、まさに揺れが床から上半身へと波動してくる感じがする。

しかも床に視線を落としているとなおさらそう感じる。宮廷舞踊では王様と目が合わぬように伏目がちに踊るのだが、床を見てしまうと揺れを余計に感じて酔ってしまうので、視線は5mくらい先をまっすぐ見るようにしよう、と練習のときに皆で言い合うも、いつもの癖でそんなに視線を上げることができなかった。視線を落とすと言う宮廷マナーは、海では通用しないなあとしみじみ思う。

意外に大変だったのが、セレッと言って、足を少しずつずらして重心を移動させる動きだった。船のスタッフの人から、ジャンプが多い舞踊は大変だとは聞いていた。けれど、両足が地面についていても、重心を移動させるその瞬間に、少しでも揺れがあると、バランスを取るのが難しくなると痛感。さらに、そういう危機的(?)な状況で、とっさに取る行動というのは4人とも違っていて、そこにけっこう性格が出る。ぐらっときたときに、その勢いで一気に体重を移動してしまって、あとは手の動きで間をつなぐ者あり、いつもより足をずらせる幅を小さくして、揺れでずれる分と合わせて調整しようとする者あり…。ここでふと、伝説的なプロ野球の稲尾投手が、幼い頃から海で櫓を仕込まれたおかげで、足腰やバランス感覚が鍛えられたというエピソードを思い出す。船上公演の達人になれば、足腰が相当鍛えられるのだろうか?

揺れと一口に言っても、身体の左右に(ということは、船の進行方向を向くか、その逆を向いている場合)、寄せては返す波のように穏やかに反復する小さな揺れだけなら、とても心地が良い。「スリンピ・スカルセ」はスラカルタ宮廷の舞踊なのだが、この宮廷の舞踊には波打つような動きがたくさんあって、椰子の木が風にそよぐさまにも喩えられる。穏やかな揺れなら、振付と船の揺れが渾然一体となって、自分の体が揺れているのか、船が揺れているのかどうかも区別しがたい、恍惚とした境地に陥る。こういう感覚を陸上でも再現できたら、きっと見る人の身体も揺れに同調して、陶酔してくれるに違いない。

この船上での恍惚の境地も、長くは続かないのが残念なところ。波はいつまでも規則的に揺れてくれるとは限らず、さらに、スリンピでは踊り手はしょっちゅう向きを変える。進行方向に対して右側や左側を向いた瞬間に船が揺れると、前後に身体がひっぱられた感じになる上に、重い頭部が振り子のように揺れるせいか、さきほどまでの恍惚感が一気にめまいに変わってしまう。思えば、スポーツジムによく置いてある身体を揺らす器械は、左右には揺れるけれど前後には揺れない。人間の身体というのは、前後の揺れには対応しづらい作りになっているのかも知れない。バランサーとしての手も身体の左右についているし…。

余談だが、この揺れる器械に載って速いスピードに設定すると、足のふくらはぎなどの筋肉が部分的にプルプルするだけだが、非常に遅いテンポに設定すると、胴から腰、足の全体が揺れるようになる。つまり、ゆっくりとした動きの方が全身運動になる。

と、こんな風に揺れに対していろいろと思うところがあるのは、長年習っているうちに、自分が海にいて、視線の先に水平線を見ているような、あるいは自分自身が波に同化したような感覚が、踊っている最中に生まれてくるようになったからなのだ。ジャワ宮廷舞踊にはスリンピ以外にブドヨという9人の女性で踊る種類の舞踊もあるのだが、特にこのブドヨを踊っていると、その感を強くする。たぶんそれは9人という人間が生み出す波動が4人よりも大きいからではないかと思う。別に、ジャワ王家を守護するという南海の女神、ラトゥ・キドゥルの伝説を知っているからそう思うようになった、というわけではない。ふと、そういうリアリティが感じられるようになったという感じである。なので、ほとんど船に乗ったことのない私としては、水平線がどんな風に見えるのか(もちろん線に見えるのだが…)、波がどんな感じに揺れるのか、非常に興味があったのだ。実際に船の窓から海を見ていると、亡き師匠や芸大の先生たち、留学生の人たちと一緒にスリンピやブドヨのレッスンをしていた頃の記憶がよみがえってくる。確かに、あのレッスンの中で見た幻の海をいま見ているのだなと、感慨深いことだった。

静かな日溜まり

璃葉

散歩の途中、薄暗い道に僅かな光が差しているのを見て、
なぜか真っ先に実家の台所が頭に浮かんだ。

あの台所は、窓があるくせに暗い印象が強い。
ただ春になると、朝の淡い光が
お邪魔しますよ、と言うような感じで
台所にひっそり入り込んできていて、
ほんのり暖かい雰囲気になる。

子供の頃、朝早く起きて
台所の床に出来ている小さな日溜まりに
光の縞模様ができているのを見つけると、
それをぼうっと眺めたり、足で踏んでみたり。光と遊んだのを覚えている。

光が溜まっている場所になんとなく惹かれるのも、
その遊びの思い出があるからかもしれない。

自分がいつか住む家の台所には
もっと明るい光を招こう、とふわふわ考えながら
また今日も窓が少ない自宅へと戻る。

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水玉模様のビニール傘

植松眞人

 雨の翌日、必ずアパートの踊り場の手すりにビニール傘が干してある。コンビニで売っている傘よりしっかりとしたつくりで、女性が好みそうな小さな水玉模様がついている。
 駅から歩いて十五分はかかるアパートだが、だからこそ静かで、ゆっくりとできる。そう思って住み始めてもう七年。いつまでも住んでいるつもりはなかったのだが、なんとも住み心地がよく、最近ではずっとここでひとり暮らしが続くのではないか、と思うことがある。
 アパートの向かいにある煙草屋のばあさんは「若いくせになにくすぶってるんだ」と僕の顔を見る度に説教するが、三十六歳が若いかどうかは僕にはわからない。このアパートから出て、一緒に暮らし始めるはずだった同い年の女は「もう若くないから」と僕の元を去っていった。それが二年前のことだから、僕はもう年寄りなのかもしれないと思う。正直、煙草屋のばあさんのほうが僕よりも確実に若い。
 昨日は一日雨が降り続けていたが、煙草屋のばあさんはいつものように、店を開け、いつものように一日中ガラス戸の向こう側に座っていた。ずっと見ていたわけではないが、朝も夜も同じ姿勢で座っていたから、きっと一日中そこにいたのだろうと思う。僕にはその根気はない。客に笑いかける社交性だってない。
 僕は毎日一箱の煙草を吸う。幸い、僕はフリーランスのライターなので、自分の部屋で仕事をするときには誰も嫌煙権を発動することはない。仕事をくれている出版社や制作会社のほとんどが全フロア禁煙になってしまったが、まだまだ喫煙者が多いので、打ち合わせはたいがい煙草の吸える古びた喫茶店だったりする。
 雨の日に煙草屋に立ち寄ると、ばあさんは必ず「雨の日に煙草を吸うとうまいね」と言う。
「そうかな」と僕が答えると、
「そうだよ」とばあさんは笑う。
「あのな。煙草っちゅうもんはな。湿度で味が変わるもんなんだ。あたしゃ若い頃にパリに行ったことがあるんだけどな。日本でなんぼ吸ってもうまいと思ったことがなかったジタンっちゅう煙草がパリで吸ったらほんとにうまかった」
「ジタン」
「そう。その国その国の気候にあわせた煙草が出来るんだろうな。それからあたしゃ、タバコ吸うときはジタンを吸う」
「でも、日本じゃうまくないんでしょ」
「そう。日本のように湿度の高い国はあんたが吸ってるような日本の煙草がうまいな。特にいまのような梅雨時はな」
「それじゃあ、どうしてジタンを吸ってるんですか」
「じいさんだよ」
「え?」
「じいさんが大好きだったんだ、ジタン。だから、じいさんが死んでからずっとジタンを吸ってるんだ」
 このばあさんはそう言うとニッと笑う。そう言えば、ばあさんが店先で煙草を吸っているのは見たことがない。
「いつもの煙草かい?」
「じゃ、今日は僕もジタンをもらおうかな」
「いつものより少し高いぞ」
「大丈夫ですよ」
「吸ったことはあるのか?」
「ありますよ」
「くせが強いな」
「そうですね。かなり」
 そう言うと、ばあさんはまたニッと笑って、くすんだ水色のようなパッケージのジタンを裸のままで差し出した。
 僕が「ありがとう」と言うと、ばあさんは「そろそろ店じまいだな」とつぶやいた。
 アパートの階段は住人たちが傘や靴や服に付けて運んできた雨水で濡れていた。すべらないように気をつけて三階まであがる。すると、いつものように階段を上がったところの手すりに傘が広げたまま干してある。この傘を干しているのは、僕の部屋から二つ目の部屋の住人だ、おそらく。顔を見たことはないが、その部屋の真ん前に干してあるし、僕の真横の部屋はやけに背筋の伸びたまるで兵隊さんのようなサラリーマンで、水玉のビニール傘を持ったりはしない。
 そんなことを思いながら、僕はジーンズのポケットを探って部屋の鍵を取り出そうとする。洗濯したばかりのジーンズは少し縮んでいて、うまく鍵が取り出せない。ガチャガチャやっていると、ちょうど二つ隣の部屋のドアが開いた。なんとなく顔を向けるのがはばかられて、目の端で顔を確かめようとする。僕は心臓が飛び上がるほど驚いた。心臓が飛び上がるという比喩はよく聞くが、本当に心臓が飛び上がるほど驚くというのは、とても静かな状況だと言うことを初めて知った。周囲は物音ひとつたてないほど静かなのに、僕の身体の中だけがパニックを起こしている。
 だって、二つ隣の住人が僕にそっくりなのだ。目の端に止めたくらいで、わかるのか、と言われそうだけれど間違いない。逆に、よくよく見るとどこまで似ているか分からないほどに似ているはずだという確信まである。
 しばらく呆然としていた僕だが、階段を楽しげなリズムで降りていく僕にそっくりな二つ隣の住人の足音に我に返る。そして、慌てて階段の上からのぞき込む。ふらふら歩く様子までよく似ている。後ろ姿で見るラフな服装や頭に被ったハンティングも僕の選ぶものに似ているのだった。唯一、傘だけが僕の絶対に選ばない水玉模様というだけ。後はどこをとっても僕にうり二つだった。
 部屋に戻ると僕は迷うことなく、二年前に僕の元を去っていった彼女に電話をした。彼女はとても驚いて、本当に僕かどうかをしばらく疑っていた。
「ねえ、本当にあなたなの」
「本当に僕だよ」
「だって、別れた女のところに電話をするなんて、本当にあなたらしくないから」
「うん、わかってる」
「で、どうしたの」
「感情的に君に電話をしてるんじゃなくて、これはもう具体的に君がいちばん適任だと思って電話をしてるんだ」
 僕は出来る限り事務的に話をしようと決めていた。
「わかったわ」
 彼女も同じように実務として受け取ろうとしてくれているようだった。
「実はアパートの二つ隣の部屋に、僕にそっくりな男が住んでいるんだよ」
「そう。だけど、そういうことならよくあるんじゃないの」
「よくある、というレベルじゃないんだよ」
「どのくらい似ているの」
「僕そのものなんだ」
「そうなの。年齢も?」
「年齢も背格好も顔つきもちょっと色白なところも、服装のセンスも外出するときにハンティングを被るところも」
 そこまで言うと電話の向こうで彼女もしばらく言葉を失っている。
「でも、事実なのね?」
「うん。びっくりするけど」
「びっくりしてるのね」
「びっくりしてる。こんなにびっくりしているのは生まれて初めてかもしれない。いや違うな。もっとびっくりしたこともあるかもしれないけど、こういう種類のびっくりは初めてだ」
「で、どうするの?」
「どうしよう」
「話はしたの?」
「してない。向こうは僕には気付いていないかもしれない」
「本当に?」
「いや、わからないけど」
「どうしたい?」
 彼女にそう聞かれて、僕は答えられなかった。どうしたいんだろう。二つ隣の部屋に自分にそっくりな人間がいる。そのことに驚くのに一生懸命で、それをどうしたいか、というところに考えが進んでいかない。仮に進んでいったとして、どんな選択肢があるんだろう。僕はそこで堂々巡りに入っていく。
「ちょっと考えたら、また連絡してもいいかな」僕がそう聞くと「いいわよ」と彼女は笑って電話を切った。
 僕は部屋のドアを開けて、二つ隣の部屋の方を見る。僕にそっくりな住人はもう戻ってきたのだろう、水玉のビニール傘がまた干してある。
 僕は考える。僕は僕にそっくりな住人をどうしたいのだろう。僕にそっくりな、僕にそっくりな、と僕がつぶやいている。そして、ふと思いが「そっくりな」という言葉に引っかかる。本当にそっくりなんだろうか、という気持ちが強くなる。背格好や顔が似ていてもそれは見た目だけの問題だ。もしかしたら、中身はまったく似ていないかも知れない。
 僕はまた二年前に僕の元を去っていった彼女に電話をする。
「早かったわね」
 彼女は電話の向こうで笑っている。
「あのさ。顔が似てても中身が全然似ていないと、怖くないよね」
「あら、怖かったのね」
 そう言われて、ああ僕は怖がっていたのかと改めて思う。
「たぶん、怖かったんだ」
「そうね、中身が全然違っていれば怖くないかもしれないわ」
「そうだね。それを確かめればいいと思うんだ」
「だけど、実害はあるかも知れないけど」
「実害?」
「そう。だって、あなたにとても似ていて、あなたと同じ性格だったら、だいたいどういう行動をするのかもわかると思うの。だけど、顔は似てるけど、中身が違っていたら何をしでかすか、わからないじゃない」
「なにをしでかすか……」
「いい人かもしれないけどね」
 彼女は慰めるように言う。
「あなたよりもすごくいい人で、あなたを見守って助けるために存在してるとか」
「どっちにしても確かめたいな」
「なにを?」
「中身まで似てるのかどうか」
「そうね、ここまで来たら知りたいわね」
「どうしたら確かめられると思う?」
 僕がそう質問すると、しばらく彼女は黙り込む。部屋のなかがしんとする。電話の向こうの彼女の部屋もしんとしている。やがて彼女が話し始める。
「例えば、お金を借りに行ったらどう?」
「お金を借りる?」
「そう。あなた、隣の人にお金貸してっていわれたら貸せる?」
「どうだろう?」
「貸せないわよ」
「そうかな」
「そうよ」
「貸さないかな」
「絶対に貸さない」
 ぜったいに、という部分をこれでもかと強調した彼女の顔が目に見えるようで少し笑ってしまう。
「何を笑ってるのよ。真剣に言ってるのよ」
「悪かったよ」
「もし、二つ隣の部屋の人が、中身まであなたにそっくりなら、絶対にお金なんて貸してくれないから。そう思わない?」
「きっと貸さないだろうな」
「そうよ。あなたなら貸さない。だから、今から二つ隣の部屋に行って『すみませんが、一万円貸してくれませんか』って聞いてみればいいじゃない」
「一万円か」
「千円だったら、なんかの弾みってこともあるでしょ、あなただって」
「うん、そうだな」
「だけど、一万円なら絶対に貸さないと思うわけよ」
「そうだな。貸さないだろうな、一万円」
 だんだんと僕の元気が無くなってくる。
「あのね、あなたがケチだとかそういう話をしているわけじゃないのよ。一万円を貸す貸さないって言うのはケチかどうかって問題じゃなくて、生き方の問題だと思うの。人には二種類あるのよ」
「一万円貸してくれる人間と、貸さない人間」
「その通り」
「で、僕は貸さない人間だと」
「そうね、事実として」
「君はどうだろう」
「そうね、いまは私のことを考えている場合じゃないと思うんだけど」
 彼女の言うことはもっともだった。
 僕は電話を切ると、迷うことなく部屋を出て、二つ隣の部屋のドアをノックした。僕とそっくりの声が返事をしてドアが開き、僕とそっくりな顔が出てきた。
「こんにちは」
 僕がぎこちなく挨拶をする。
「こんにちは」
 僕よりもいくぶん爽やかに相手が返事をする。
「僕は二部屋隣に住んでいる者なんですが、実はちょっと困ったことがあってね」
 そう言うと、僕にそっくりな住人は少し親身な顔になって、身を乗り出す。
「はい、どうしたんですか?」
「えっと、実は手持ちが今まったくなくて、いや銀行に行けばいいんだけど、その、なんというか……」
「どうしました? なんでも言ってください。大丈夫ですから」
「そうですか。実はお金を貸して欲しいんだ」
「いくらくらいですか?」
「一万円ほど」
「わかりました。ちょっと待ってください」
 僕にそっくりな住人は、まったく躊躇することなく一万円札を財布から引っ張り出すと、僕に差し出す。
「いいんですか?」
「はい。返してくれるんでしょ?」
「もちろん」
「だったらいいですよ」
「何に使うとか聞かなくても平気なの?」
「返してくれるんだったら、使い道聞かなくても平気です。あげちゃうんなら、気になるけど」
 僕は丁寧に礼を言うと自分の部屋に帰る。そして、目の前に二つ隣の住人から借りた一万円札を置いて、彼女に電話をかける。
「貸してくれたよ」
「すぐに?」
「すぐに」
「迷わずに?」
「迷わずに」
「すごいわね」
「全然似てないよ」
「似てないわね。でも、良かったじゃない」
「なにが?」
「だって、中身まで同じだったら怖いって言ってたじゃない」
「そうだね」
「相手はあなたが自分にそっくりなことには気付いてるの?」
「それが気付いていないようなんだ」
「それは残念ね」
 彼女は本当に残念そうにそういうと電話を切った。
 僕は一万円札を眺めながら、ジタンに火を付けた。そして、しばらくぼんやりと考えている。すると、ふいに「似てないかもしれない」と思ってしまう。中身がこんなに似ていないんだったら、顔も背格好も本当は似てないんじゃないか、と考え込んでしまう。似ていると思ったのは僕の勘違いかもしれない。ハンティングを被っていると思ったのだって、ただの野球帽を見間違えただけのことかもしれない。
 僕はジタンをくわえたままドアを細く開け、アパートの廊下を見る。まだ、二つ隣の住人の水玉模様のビニール傘が干したままになっている。
 僕はしばらくそのビニール傘を眺めて、ドアを閉める。そして、改めてあいつとは似ていない、と確信する。違っていて当然だと思う。
 だって、僕にはあんな水玉模様の傘はさせないから。

アジアのごはん(43)納豆

森下ヒバリ

タイのバンコクに来ている。乾季だというのに、毎日のように雨が降っているのは、いったいどうしたことだろう。去年も、乾季が終わらないうち から雨がたくさん降り始め、雨季の雨の全体量が増えて、川の水が増え近年にない洪水が起きた。この調子では、今年の秋も、いやそれ以前にまた タイ中部は洪水になってしまうかもしれない。杞憂で終わればいいのだが。

今回の旅には初めて、たくさんの納豆を持参してみた。いつも、インスタント味噌汁は持ってくるが、さらに梅干一袋、納豆6パック、しょうゆの 小瓶、出しの素、アオサと乾燥わかめ、さらに秋刀魚の蒲焼き缶詰6個、ニシンの甘煮2袋、マヨネーズにインスタントラーメンまでリュックに入 れて来た。ここ1年ぐらい、旅先で外食ばかりの食生活に苦痛を覚えるようになってきているので、がまんはせずに時々日本食を食べようと思って いる。ときどきおいしい日本食を食べると身体も心も落ち着くのだ。

というわけで、タイに来て3日目にして、すでに納豆ライスを食してしまった。納豆はたくさんあるし、と軽い気持ちでご飯に乗せて梅干と食べた が、これがまたおいしいのなんのって。日本人でよかったな、などと呟いてはみるものの、実は納豆をちゃんと食べたのは、二十歳になってからで ある。ヒバリが育った岡山の家では、納豆を食べる習慣はなかった。一度だけ「これが納豆というものらしいよ」とおそるおそる食卓に乗せられた ことがあるが、食べ方もよくわからないからかき混ぜもせず、そのまま上から醤油をかけただけ。「なんじゃこりゃ」というのがそのときの家族全 員の感想で、それ以降、納豆が食卓にのることは二度となかった。今でも両親はまったく納豆を食べない。

関西もあまり納豆を食べない地域だが、当時でもスーパーなどで売られてはいた。大学で京都に来て、大阪の友人宅に遊びに行ったときに初めてき ちんとかき混ぜられ、ねぎとからしを混ぜた納豆をごちそうになったのである。出されたものの、どうも気が進まない。「おいしいから!」という 料理上手な友人の言葉に意を決して口に入れてみると、なんとも美味。「これが納豆!?」それから、ちゃんと丁寧にかき混ぜ、ねぎとからしを添 えて食べております。

納豆は、日本に固有の食べ物と思われがちだが、じつはタイにもラオスにもビルマ、インドにもある。もちろん、日系スーパーにある日本製の納豆の話ではない。

タイ北部の納豆は、トゥアナオといい、大きく分けて二種類ある。一番ポピュラーなのは納豆菌で発酵させた大豆をすりつぶしてペーストにし、薄いせんべい上にして乾燥させたもの。乾物屋で積み重ねて売っていて、スープの味付けに味噌のように使う。知っていなければ、納豆とは分からない。

もう一種類は納豆菌で発酵させた大豆に塩やナンプラー、唐辛子で味をつけ、浜納豆のようにしっとりした状態でまとめたものである。こちらは、そのままご飯のおかずや酒のつまみに食べることもできるが、かなりしょっぱい。やはり、煮物や野菜炒めの調味料として使うことが多い。

どちらも、タイ族の食べ物であるが、中華系タイ人の多い中部やマレー系の多い南部では食べない。ラオスでも北部でほぼ同じものを食べる。

ビルマ、インド東北部の納豆は、日本の納豆に近いタイプだ。インドの東北部ヒマラヤを仰ぐダージリンにはじめて行ったときのこと。市場で、おばちゃんが木の葉っぱに包んだ納豆のようなものを売っているのをみつけた。ただの煮豆ではなさそうだった。さっそく買ってみた。かすかに納豆の匂いがする。しょうゆはなかったので、塩をかけて食べてみた。かき混ぜてもあまりねばらないが、味は日本の納豆によく似ている。
「あ、納豆だよ、これ。けっこういける!ねえねえ食べてみて」
「え、いや、これ腐ってんちゃうの?」
日本では大の納豆好きな同居人は及び腰である。
「発酵だよ!」

ダージリンで入手した「HIMAYALAN RECIPES」というブックレットによると、このダージリン納豆はキナマと呼ばれ、このあたりの山岳民族やネパール系住民が食べるという。

キナマの作り方はこうだ。1キロの大豆をよく洗い一晩水につける。圧力鍋で軟らかくなるまで煮る。ここで、つぶしてもつぶさなくてもいい。それをきれいな葉っぱに包み、かごに入れ布をかけて5日間放置し、ねばりが出れば出来上がり。カレーに入れたり、揚げて食べたりする。市場で買った納豆も、2日ほどおいておいたら納豆のいい匂いがしてきたので、発酵が浅かったのかもしれない。ねばりはあまりない。

このあたりの山岳民族は、タイ族系やチベットビルマ語族系の人々で、雲南あたりからタイ、ラオス北部、ビルマにかけて居住する人々とほぼ同じ系列の民族である。雲南を中心とする照葉樹林文化の民族だ。日本も海を隔てているとはいえ、気候風土はこの照葉樹林文化に属する。納豆文化圏なのだった。

納豆が発酵するには、納豆菌が必要だが、納豆菌は日本の場合どこにでもいる。稲わらには特に多いので稲わらで包んで納豆を作っていた。ダージリンの納豆はきれいな葉っぱに包む、とあるのでここにも納豆菌はたくさんいるようだ。

ちなみにインドネシアには、大豆を煮てクモノスカビで発酵させたテンペという食べ物があるが、風味は納豆とはかなり違う。まったくねばりはない。これは揚げて食べたり、煮込みに入れたりする。あっさりした味だ。納豆とはいえないだろう。

お正月に、タイ北部のチェンマイに住んでいるタイ人の友人トクが京都にやってきた。日本に帰っている妻と4歳の娘に会いに来たのだ。一緒に飲んでいると「ココロちゃん(娘)は毎日納豆を食べてるよ。すごく好きみたいで」と、何か複雑そうな顔。
「チェンマイでも納豆あるでしょ?」
「いや、あの、日本のは匂いがきついし、あのねばりが気持ち悪くて」と、トクさん。
「ええ、日本の納豆おいしいよ!」

さっそく居酒屋のメニューを探して納豆を注文する。ただし、匂いがあまり気にならない「納豆包み揚げ」にしておいた。お揚げに入って出てくるかと思ったら、出てきたのは餃子の皮に包んで揚げたものであった。
「うん、おいしいね。これなら大丈夫」とトクさんパクパク。

納豆は大豆の何倍も消化がよく、栄養も豊富。また血液をさらさらにするナットウキナーゼという成分も豊富だ。腸内環境を整える力も強く、食べ過ぎやおなかの調子の悪いとき、またちょっと危ないかな、というものを食べた後にも納豆を食べておくといいという。旅の道連れに納豆、というのはこれからクセになるかも。

Daniel Kirwayo追悼/または想い出

笹久保伸

2012年1月24日にDaniel Kirwayoが死んだ 彼はペルーのアヤクーチョギターの名手であったが 新しいアヤクーチョギター音楽を独自に模索し始めたパイオニアだったためペルーのギター界ではほとんど支持されていない上 名前も忘れられている

彼は不思議な人だった アンデス音楽の世界をギターで描く人が多いなか 彼は彼の世界をギターで描いた結果 アンデス音楽になった と言うような演奏をしていた 「人魚との契約」や「ハチュア」「パイルージャ・パイルン」などは彼の代表作だろうか ああいう演奏家は他に見た事がない

彼の活動はアンデス音楽の巨匠として知られ数回来日もしている名手 Raul Garcia Zarateの華やかな活動の影となり 一生Raul Garcia Zarateのように一般的に認知される事はなかった 演奏スタイルや音楽も独自に身につけた独特な音だった スピリチュアルな日もあり 会話していると どこかに飛んでいる時もあった

ヨーロッパに長年住み ペルーの仲間とは全くの音信不通だった彼が ペルーに帰国した頃のペルーでは 「キルワヨはフランスで死んだ」 と言う事にされており 有名なギタリストManuelcha Pradoが「キルワヨの想い出に」 と言う曲を録音して販売したりしていた 帰国したキルワヨはジョークのように笑っていたが アンデス音楽の業界からは一切身を引き 演奏もしないで 演奏家ともわざと距離をおいていた と言うか 過去の「仲間」の誰の事をまったく信用していないかった

こちらがDaniel Kirwayoの存在を知ったのは 小学生の頃 アンデス音楽好きの父の友人が持って来てくれた1本のカセットテープだった Raul Garcia Zarateしか聴いていなかった自分が初めて聴いた他のアヤクーチョ音楽だった その不思議な演奏にびっくりしたが まさかその後彼の生徒になるとは夢にも思わなかったし まさか生きているとも思っていなかった

リマへ渡ってすぐの頃に彼と知り会った その後 2年間生徒として一緒にギターを弾き 遊んでいた その2年間はレッスン以外に週に3回は彼と会って話していたし スペイン語の先生でもあった 彼の家に行くと レッスンと言うか ほぼ1日中彼の家でギターを一緒に弾いて遊んでいた 昼には彼の元・奥さんが作るスープを飲んだ 奥さんが家にいない時にはインスタントラーメンを作って食べた事を思い出す 今思えば 料理は上手だったし 包丁も使えて 人参の皮のむき方が上手だった

一緒にコンサートをした事もあったが そういう事より 彼の誕生日会で一緒に弾いた事や 私の誕生日の日に当時住んでいたアパートまで突然来てくれて 一緒にギターを弾いてくれた事をよく覚えている

あの日日は二度と戻らない とはわかっていた

ほぼ誰にも認められず 理解されず もがいていた いつも不安そうで 寂しそうだった 「楽譜を出版したいので文化庁の助成金を待っているんだ」 「若者にギターを教えて応援したい」 と言っていた彼の事を思い出す 自分以外の生徒に会った事はなく どうやらあと1人しか生徒はいないらしい

そう言えば一曲委嘱した事もあった 難し過ぎて初演して以来演奏していない気がする あの譜面は一体どこにあるのだろうか

2007年以降はこちらも日本に戻り 彼とゆっくり会う事もなかった 最後に会ったのは確か2009年にリマで行われた ICPNA国際ギターフェスティバルだった 来るとは知らなかったので驚いた 彼のPayrulla payrunを演奏し 演奏後にちょっと話そうと思ったら 終演後サッと消えていた

今となって振り返れば あの頃は彼の状況も変化している時期だったが 当時は知るよしもなかった

そのうち彼を訪ねる日が来るので その時に話そう

皮肉と怒りをこめて挑戦する/忘れられない/あの目

しもた屋之噺(121)

杉山洋一

久しく休んでいた学校の授業も今日から再開。外はまだ暗闇ですが、拙宅の傍らを一番電車が走り抜けてゆきました。ジャンベッリーノの通りをナポリ広場まで歩いて、帰りに出来立てのパンと朝食用の菓子パンを購うのが日課で、そろそろパンも焼き上がる頃かと思います。上着を羽織って出かけてこようと思います。

2012年1月X日 02:25
元旦。丸一日ノーノのCantiの譜読み。昔使った楽譜が突然本棚から姿を顕す。自分の古い書込みに、余りに雑な当時の勉強の様子が浮上る。ドナトーニはノーノの音列作法を最後まで嫌っていたが、ノーノの無骨でプリミティブな音の並びこそ、ノーノの魅力ではないか。
同日10:00
今朝早く散歩をすると、爆竹だらけの昨日の歩道が綺麗に片付けられている。パン屋の親父が、カーニバルのとき食べる「キャッケレ」という揚げ菓子を店頭に並べた。「クリスマスが終わったとおもったら、もうカーニバル気分かい」と客に言わせたいがためだという。いみじくも、後から入ってきたご婦人が一字一句違わず文句を垂れて、一同声をあげてわらった。昨日の夜明け前、道ですれちがった男に「新年おめでとう」と思いがけず声をかけられる。

1月X日 08:30
夢に三善先生やI先生、N君が出てきた。夢で、大学入学当時、同期の作曲仲間でずば抜けていた別のN君の話をしている。彼はしばらくして学校を出て自分の活動を始めた。大学の頃、作曲仲間の間では商業音楽の憧れがとても強かった。当時はまだ社会は潤っていて、ちょっとしたコマーシャルでもフルオーケストラで録らせてもらったりした。2分ほどのスコアをかき、パート譜も徹夜で書いてスタジオに通った。N君は当時既にNHKドラマの主題歌など書き、和音もアレンジも垢抜けていた。作曲仲間通しでいかに平易な旋律にテンションの高いコードをつけられるかを競い合い、武満さんの映画音楽やポップソングは、我々の憧れだった。「どですかでん」や「波の盆」、「はなれ瞽女おりん」など我先にと真似を試み、同時に中川さんはコマーシャル音楽に新しいジャンルを確立しつつあった。そんな話を夢で恩師と語り合い、若い頃胸を躍らせ音楽と付き合った感覚が甦ってくる。

池谷裕二、糸井重里共著の「海馬」に出てくる、脳はパターン化して理解し記憶する話を、ノーノの「Incontri」を譜読みしながら思い出す。この作品は、全体が彼がよく使う鏡像形で、臍から前後に読みひろげ構造を把握する。便宜的にフレーズを決めると、今度は音楽がそのようにしか眺められなくなるのが不思議だ。観念の固定化、音楽のロールシャハテスト。古典であっても、フレーズを一度決めツボに填まれば、そのようにしか感じられなくなるし、調性も決めてしまうと、その色でしか感じられなくなる。

ノーノのように、強弱や長い音符のクレッシェンドで音楽のドラマを形作るのは、ドナトーニにとっては姑息な手段だった。音符を書く「手」そのものが満足できるかどうかの問題だろう。改めて眺めると、ノーノの初期作と「プロメテオ」の音の質感や和音の手触りは存外に近しいことに驚く。古いノーノの楽譜を拡大し顕微鏡で内部に走る神経を切り出してフェルマータをつけると、それはちょうど時代をくぐるトンネルになって、プロメテオの胎内へつながっている。ドナトーニもノーノも、まったく違う音の真実を信じていたが、恐らくどちらも正しかったと演奏してみて思うのは、どちらも発された音に魂が宿る瞬間があるから。魂の種類は明らかに違ったけれど。義父が写生した熱川の風景を額にいれ、古い燕尾を直す端切れを買いにゆく。

1月X日 0:40
満月がうつくしい。漸くブーレーズのフレーズが音楽的に感じられるようになってくる。音の知覚が、表面的なデジタルなものから、身体の奥でアナログ変換される感じに変化は、せいぜいそうなってほしい、という希望に近いもの。元来自分の身体になかった細胞が、少しずつ身体へ染みこんでくる。ブーレーズの解釈について、何ヶ月も悩むとは思わなかった。自分が作曲者の演奏スタイルと違って構わないか、自分なりの納得する落とし所を見つけるのに、時間がかかった。ユニヴァーサルの出版譜の最後に付録されている、作曲中の自筆譜のタクトゥスと浄書譜との相違が、自分の解釈を推し進める決めてになった。ドビュッシーと同じ。

作曲時の均質化された一定のタクトゥスを正当化できるよう全体を眺めなおし、現実に即した配分をかんがえる。指揮者がさまざまなオプションから選び、演奏してゆかなければならないから、当然作曲者と演奏内容が変わることが作曲者の希望に違いない、と自分に言い聞かせて、楽譜を読み進む。際限なく書き込まれているルバート記号の実現は、リハーサル時間も制限とのせめぎ合いになるだろう。

楽譜をよみ練習していると、作曲者としてのブーレーズと演奏者としてのブーレーズが、くっきりと別の次元として浮上ってくるようになった。こんな風にして読むフランス音楽は、相当フランスのエスプリからかけ離れ、イタリアの田舎臭さが充満しているだろう。それがいいとも思わないが、ここで習った楽譜の勉強は、クラシックであろうと現代作品であろうと、こんな不恰好なものだった。

1月X日 02:00
ブーレーズの勉強を終え、寝る前にメールをチェックすると、コントラバスのスコダニッビオの訃報がとどいた。正確には何のコメントもなく、新聞記事が転送されてきただけ。「さようなら、ステファノ」とだけ書いてあり写真が張ってある。いつもお茶目な冗談を飛ばす彼のことで、最初はずいぶん質の悪い冗談だとおもったのだが、記事を読むと、冗談でもなんでもなく、訃報だった。
同日15:35
朝、小学校を遅刻させ、保険局で息子の予防接種。今日の接種内容のカルテに納得できない女医さん二人が、わざわざ自ら二年前のカルテを探してきて疑問点を解決してくれる。15分ほど治療はストップするが、誰も文句を言わない。隣の部屋で家人が「焔に向かって」を練習していて、ペダルを外し速度を落とし内声を浮立たせる。まるでミヨーのブラジル音楽のような響きがして、改めてスクリャービンはリズムのないジャズコードだったとを思い出す。ブーレーズの共通音と中心音をマークし直す。これで少しは楽譜から音が浮ぶようになるか。

1月X日 01:00
機内は驚くほど空いている。グラーツ辺りを通過中酷く乱高下してジェットコースターさながら。そんな中でブーレーズの楽譜を開くと、無意識に「頭の歓び」という言葉を反芻している。作曲とは純粋に「頭が歓ぶ」行為で、楽譜を読み下す行為も等しく「頭の歓び」だと思う。頭が歓んでくれているお陰で、ジェットコースターも気にならない。

1月X日 01:00
お濠端のスタジオでラジオの収録を終えて、癌で片肺を全摘出したA先生に会いにでかけた。目の前にずいぶん痩せた恩師がいて、笑顔で話していても心で涙がながれ、時々それが目からこぼれそうになるのを堪える。久しぶりにT駅を降りて通い馴れた道を探すうち、路頭に迷う。親同然に可愛がって頂いた恩師を何年も訪れない間に家が建ち並び、風景はすっかり変わり果てていた。言葉をうしない、暗闇で自責の念に押しつぶされる。

1月X日 09:20
東京に初雪が降った。
両手を使って指揮するのは、不器用な人間には残酷な仕打ちだ。譜めくりすら馴れるまでは苦労するし、現に今でも失敗する。毎朝歩きながら左手の練習をするのだが、生まれつき左利きの癖に、右手と独立した動きが出来ない。生徒の苦労を、こんな風に実感させられるとは思わなかった。ブーレーズはアウフタクトの細かい指示をたくさん書き付けているが、こんな曲でも強拍と弱拍、フレーズが古典的であることにヨーロッパの伝統を感じる。イワトに悠治さんたちのリハーサルを覗きにでかけ、平野さんが出してくださったニッキ入り暖かいリンゴジュースが、身体の芯に染みる。

1月X日 23:00
リハーサルを終え町田に両親を訪ねる。夕食を終え三軒茶屋に戻ろうと外に出ると、大雪。昨日は「膀胱切開手術図」の演奏会へイワトに出掛け、そのまま流れで神保町の「源来酒家」へ。新節を控えた大晦日で、8年寝かせた紹興酒の樽を割って振舞ってくださる。嬌声につられ見物にでかけた平野さんの戦利品。実のところ、昨日の練習が終わり九段下へ向かおうとすると財布に1銭もなく、海外のカードでキャッシングできるATMを探して、上野の街を小一時間放浪した。

1月X日13:55
機内では、無心でエマニュエル・バッハの譜読み。和声を分析し書込みをしていると、ローマに着く2時間ほど前に赤ペンのインクが切れて、仕方なく眠る。読込むほどに、大学時代エマニュエル・バッハばかり読んでいた頃の喜びを思い出す。目まぐるしい和音の連結は、人間の豊かな表情に似ている。一句一句、顔の表情に抑揚をつけて話すさまが目に浮び、話しながら目尻に皺が寄ったかと思えば表情がくぐもり、目の奥が輝く。気がつくと、無意識にスコダニッビオの少年のような表情を思い出していた。最後に彼に会ったとき、まだ彼は元気で、ボローニャの楽器博物館の2階の広間で、恥ずかしそうに頭を掻きながら自作を指揮していて、「指揮をするのが子どもの頃からの夢でさ。下手なのはよくわかっているんだけど」と話す表情は、純粋であどけなかった。

あれから暫くして、筋萎縮性側索硬化症で動けなくなり、寝たきりの彼の部屋とテレビ電話で繋いでリハーサルをしていると人づてに聞いた。連絡を取ろうと思ったが、言葉が見つからなくてそのままになってしまった。初めて彼と演奏したのは、随分前のことでルクセンブルグだった。ドナトーニの複雑なピッチカートを、ジャズでもやるように嬉々として弾き、夜はバーに繰り出しビール片手に怪しげなテレビを一緒に眺めた。あれから何度か一緒に演奏したし彼の曲も演奏したけれど、ベッドから動けなくなった彼と会う機会もなかった。彼から誘われ来月マチェラータに演奏に出掛けることになり、最後に来たメールには「grazie caro yoichi」とだけ書きつけてあり、すべて小文字でやっと書いた感じが伝わって胸が痛む。おそらく奥さんが代筆したのではないだろう。どんな思いでこのエマニュエル・バッハをマチェラータで演奏することになるのか。

サントリー本番の朝、息子に届ける三軒茶屋の小学校の宿題を受取りに、朝早く担任のT先生を訪ねると道路は一面氷ついていた。校門前の床屋二階のベランダが道路に崩落していて、驚く。教室の廊下に児童の書初めが貼られていて、それぞれ字が個性を主張していていずれも力作だった。本番前に舞台裏でいただいた大福餅の旨かったこと。久しぶりに会う旧友の笑顔。Sと抱擁しようとして、互いに強か顔をぶつけて大笑いする。ミラノに戻ると、庭の樹には蕾がたくさん膨らんでいた。

(1月28日ミラノにて)

ケンタック(その2)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

「ケンタック」
これといって強める口調でもなく先ほどと同じ答えが帰ってきた。再びこのように答えるのを聞くと、これ以上訊いたら何か咎められそうな気がして、黙るしかない。黙るといってもまだ頭の中は訊きたいことがやまほど飛び交っているのだが。

わたしが沈黙したことで二人のあいだの空気がふつうに戻った。関係が良好なあいだにわたしたちはことばを交わす。

わたしがここまでやって来たのは、なぜか名前を聞き出せなかったある中年の男のことばからだった。彼は指さしながらはなした。どこか田舎訛りのはなし方なのだが、それがどこの訛りなのかどうしてもわからないのだった。

そこは家が何戸もないような新しい集落でにぎわいがない。お寺も学校も電信柱さえもが見あたらない。人里離れた山林の村落で、何もない広いところにある。村人がすでに使わなくなった畑のようにも見える。広い丘陵があるがたいして高くも険しくもない。谷にはすっかり乾いた渓流がある。さまざまな昆虫がいる。木々はあちこちにまばらだ。もしもたまたま通りがかって休憩のつもりで景色を眺めるとしたら、そんなに悪くはない。かといって大変美しいとか、住みたくなるとか、何かそんなようなレベルだとはいえない。

一体どこなのか、何郡なのか、何県なのか、わたしは知りたいとは思わない。わたしの対話相手との間だけで内密にしておけばいい。村の名前、場所、ですら奇妙だし、それがどういう過去をもってきたのか知らなくてもかまわない。そう、わたしはまた夢の世界に足を踏み入れたようなのだ。わたしは見たままあるがままでよくて、それ以上に詳しく知りたいという願望はない。その後に続く不可思議な物語、それが興味深いのは別として。(つづく)

だれ、どこ5

高橋悠治

●林光(1931年10月22日-2012年1月5日)

「ゆきはあたためはしないが/ゆきのかたさとつめたさが/ぼくをつつんでくれるのだ/ともだちのような ゆき/ゆきのような ともだち」(林光、1994)

最後に会ったのは、寺嶋陸也が林光の『ピアノ・ソナタ』1番から3番までを弾いた夜の上野、東京文化会館小ホールロビーだった。その前会ってから何年も経っていた。それでも昨日会ったかのように、「おや、こんなところにも来るのか」と言った皮肉っぽい調子はいつものものだった。それから何を二人で話したか忘れてしまった。

林光が若かった頃、鞄を持つ人がすくなかった時代、たくさんの本を腕に抱えて歩いて来るのを思い出す。本のこと、時代のあれこれの話題について、訊いてみると、問題全体をかんたんに説明してくれる。わかっている人のことば、どこに行くか知っているひとの歩み、すこし足早に、若々しく。

桐朋学園高校時代にはじめて会った時はソルフェージュや聴音の先生で、わかりやすく、だがどこか新鮮なメロディーの課題を出されると、こちらはできるだけ不自然な異名同音に書き取って提出していた。それなのに、時々夜遅くなると、家に泊めてもらった。まだ原宿の両親の家の一部だったと思う。「林光は調性音楽なのに、きみの世代は無調か」と小倉朗に言われたことがある。

小倉朗のオペラ『寝太』の練習でピアノを弾いたのがきっかけで学校をやめて二期会に雇われ、オペラの練習をし、合唱団の伴奏をして全国を歩いていた何年かも、前任者が林光だった。演劇や放送劇のための作曲をした頃も、当時林光のマネージャーだった飯塚晃東の事務所に所属していた。林光の『劉三妲』という、中国民話によるミュージカルのようなもののオーケストレーションを手伝った記憶もある。あれは現存する作品だろうか。その頃ほかの作曲家のためにもスコアを書いた。黛敏郎の菊田一夫・東宝ミュージカル『君にも金儲けが出来る』や安部公房台本の『可愛い女』の一部のオーケストレーションと練習ピアノ、劇団四季のための『ウェストサイド・ストーリー』のオーケストレーションまでやったが、バーンステインのオリジナルがあるのに何の必要があったのだろう。山田耕筰のオペラ『香妃』の2場面のオーケストレーションもしたが、これはたぶん使い物にならず、後に團伊玖磨が完成版を作ったと思う。團伊玖磨は、小学校時代にしばらく和声を習ったことがある。

どこに行っても林光が先にいた。ピアノという楽器が好きで、オペラや芝居が好きでたくさんの音楽を書き、忙しいあまり作曲は遅れ、それでもぎりぎり間に合わせる、それが期待されていた通り、そこに求められていたと思わせる音楽だった、というような才能あふれるひとの後にいると、ピアノを弾くのもいやで、オペラや芝居がつくりごとにしか見えず、歌手の声やオーケストラ組織も気に入らないという結果になったのもしかたがない。

1967年ニューヨークにいた時、林光が従姉のフルーティスト林リリ子のカーネギー・リサイタル・ホールでのコンサートの伴奏で来て、おなじ通りにあったホテルに泊まっていた。後になって『72丁目の冬』というヴァイオリンとピアノの曲をポール・ズコフスキーと録音したことがある。ポールはこの曲が気に入っていた。72丁目はセントラル・パークの西にあり、ちょうどうちの向かい側の古い建物がダコタ・ハウスで、ロマン・ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』はおなじ年にそこで撮影された。その8年後ジョン・レノンも住んでいて、その前で射殺された。林光のホテルはそれより2ブロックくらい西にあり、古い建物だった。音楽はマンハッタンの持つこのような古さや恐怖をまるで知らないかのようだ。

1972年作曲家のグループ「トランソニック」を作った時は、日本の前衛芸術は大阪万博を頂点として、その後の退潮の時代だった。万博に参加するかしないかで芸術家たちの論争があった。万博のような場は前衛芸術家にとってまたとない機会だったから、反対派から資本に買収されたと言われても、あれこれと参加の口実を見つけることができた。「トランソニック」はいわゆる前衛作曲家の武満徹、湯浅譲二、一柳慧、松平頼暁だけでなく、ずっと年上の柴田南雄と、いくらか離れたところにいた林光を個人的に誘ってグループを作り、全音楽譜出版社の松岡新平に頼んで季刊誌を出した。雑誌は池藤なな子が編集して3年間12号出した。そのほかにはシンポジウムを2回やっただけ。雑誌の6号で政治参加を特集したとき、武満と意見が合わず、武満が抜けたので近藤譲に入ってもらった。12号出して限界をかんじたところで解散を提案したが、受け入れられないのでこちらが脱退し、くさび役がいなくなるので柴田南雄と林光もグループを離れた。

林光はつきあいのよい人だったと思う。1960年の草月アートセンターでの作曲家集団でもそうだったが、実験の場ではそこにできる限りの社会的展望をもたせながらつきあっていた。金子光晴の詩による『骨片の歌』(1960)やキム・ジハの詩による『苦行……1974』(1975)は、いつもとちがう苦しげな響きを立てる。その苦行の音も「夢を見る/鳥になる夢を見る……」とつづくうちに、凝った響きの檻から抜けだしていつもの軽やかさにすべりだそうとする。武満が「今日の音楽」フェスティバルを西武パルコ劇場ではじめて、1975年の第3回「社会参加の音楽」は、林光と高橋悠治にまかされた。ヘンツェやクセナキスを含むプログラムを作り、そこで林光の『苦行……1974』も高橋悠治のユニゾン・コーラス『毛沢東詞三首』も初演された。林光はコンサートの構成に時間がかかったので、作曲にかかった時はもう初演の数日前だった。時間がないので、メロディーを先に書き、そのあとで楽器パートを書き加えて完成した。こちらの『詞』は、同じくメロディーを先に書いたが、どのように伴奏をつけていいかわからなかったので無伴奏のままにした。才能のちがいというものか。ちょうどベトナム戦争が終わった時だった。

『苦行』はその頃富山妙子の最初のスライド作品『しばられた手の祈り』の音楽にも使われた。『しばられた手の祈り』は、獄中にいた詩人キム・ジハの作と伝えられる賛美歌で、林光はそのメロディーをヴァイオリンとピアノの変奏曲にした。ヴァイオリンは黒沼ユリ子で、桐朋学園から知っていたから誘われて録音を見に行った。映像と合わせる日は林光は忙しいので代わりを頼まれ、自分でもその賛美歌の変奏曲をピアノで作り、音楽トラックを編集した。それ以来いままで富山妙子の映像作品の音楽を作っている。 (この項つづく)