犬狼詩集

管啓次郎

  97

耳飾りの大きさと空の青が彼女を特徴づけていた
銀と金それぞれの美しさを日没との関係において論じている
車が川のように流れる首都高速を音楽的に指揮していた
ロス・アンジェルスをいかにして再天使化するかをバイリンガルで議論する
サボテンの葉肉を練りこんだ緑色のパスタを作った
「汗をかいていますね」といわれて浅い眠りから覚める
死んだ三人の友人と四人で夕方の海岸を歩いていた
どこに行っても犬たちが全速力で体当たりしてくる
性的差異のエチカをあくまでも言語的に素描したかった
ずっと上方に見える指のかたちをした岩におにぎりをひとつ置いてくる
バランスがすべてなのでありえないかたちで小石を積んでみた
「ここからは飛行機が真上に見える、ここでキスして」と十四歳の少女がいう
あまりに多くの魚が水揚げされるのを見てから二度と魚が食えなくなった
精神は分岐点を探し見つかればそれを立方体として表象する
これから新しく覚える文字はたぶん実際には使えないという年齢になった
知恵が情報化されるので人はもう筆談以外に話らしい話ができない

  98

明るい夜を低空で渡ってゆくうちに気温が12°まで下がった
レモンとライムの輪切りを交互に重ねて美しい彫刻にする
じゃがいもを収穫したあとの畑にぽつんと一本の樹木が立っていた
低い位置から森を越えて旅客機が着陸する
横顔を左からしか見せない彼女の理由は取るに足らないことだった
嘴は青、喉は赤、頭は黒、オレンジの細い線一条
骨格は中空構造で軽くて大変に丈夫だった
海抜ゼロ米の墓地なので埋葬といっても架空の出来事だ
美人じゃないからという彼女の困ったような横顔が美しかった
ひとつの種が優勢になることはすべて滅亡への線路にすぎない
北海道は開拓をアメリカ型にしたためすべての狼を無用に殺した
エゾジカの個体数が数字として湖のように岸辺からあふれてゆく
きみがオレンジをくれたのでぼくは栗とヘーゼルナッツをあげた
熊と栗鼠と鳥と魚をまさかおなじ銃で撃つつもりか
追跡の情景を墨だけで描いていった
混合サラダさえ作れないシステムのせいで市電が廃止される

  99

記憶が物質をすり抜けてゆくという事態を再現したかった
珈琲の入れ方がまちがっていてストッキングの味しかしない
教会の鐘がやかましいほど鳴って勤労に感謝した
路面電車の軌道をよろよろと老いた天使が歩いている
美しい文字を書きたいので一日だけ七時間練習した
「野生の虹」という言い方にばかばかしさを感じる時がある
少しでも遠くを見ようと犬が彫刻作品に飛び乗った
二人の中学生がハンブルグ訛りの英語でビートルズを次々に歌っている
生命が上陸を決意したとき海を体内に残すことが問題だった
馬を見れば馬、山を見れば山の輪郭をなぞっている
「花札」というゲーム用カードの意匠に異国的なおもしろみを感じた
グリム兄弟の母親の墓に子猫がちょこんとすわっている
詩人としての透谷も啄木もまるで知らなかったのでごめんなさい
未来主義とはいうが未来に過去の実現を見てはいけない
あるときパンが崩壊し見る見るうちに小麦の穂に戻った
「獣道を今日も山頂まで」と幼稚園児が無言で誓っている

  100

河口近くの泥からきみの手のかたちをした生命を掘り出した
太陽が中空に架かって経済活動を封印する
当時の子供たちはアメリカザリガニをマッカーサーと呼んでいた
蟻たちの実効支配によりきめ細かい都市を形成しよう
一枚の写真の影からその日の時刻を正確に割り出した
なだらかな曲線を見るとなぜ植物的フォルムと呼ぶのだろうか
果汁により記憶をよく洗い細かいことにはこだわらなくなった
標高ごとに茶の葉の色合いが微妙に変わるようだ
雨傘をくるくると回してシェルターの意味を考えた
美しい動物の気配だけが森に立ちこめている
音響を二時間遅延させたのでたったいま雷鳴が聞こえた
自己とは自己の計画を達成する限りで自己なので私に自己はない
夜半の雨に濡れて歩くと思考が異常に明晰になった
一本の樹木に大きな石を載せてその成育を見守っています
ジュゼッペ・ペノーネの名はなぜかいつも葡萄を思い出させた
森の木の枝に小舟がひっかかり通りがかる人々を身震いさせている

  101

たしかに白人なのにアジアを濃厚に感じさせる夫婦だった
グレープフルーツ独特の苦みがピンクの果肉にはなくて目が覚めない
路面電車の前を盲目の夫婦が横切るので思わず悲鳴をあげた
空港でリフトに乗りずっと下降すればそのまま対蹠地に着く
ブラジルにいたころ一羽のarará(オウム)が妙によくなついてくれた
Tatuzinho(アルマジロ)に紐をつけて散歩させた甘美な一日の思い出
Croissant(三日月)とmedia luna(半月)というがおなじものだった
“Ohne, ohne!”と幼児が叫んで炭酸なしの水を欲しがる
橋にむかう道を45°の角度でまちがえていたためどんどん離れてしまった
河川以外に土地の主人はなく河川の汚染は自分の髪で首を吊るようなものだ
雄鶏亭(Le Coq)という居酒屋で朝食に生サラミを食べた
秋が深まって獣脂の甘みが心からありがたく思えて合掌する
「電線がスパゲッティのように揺れて」という画面の言葉にみんな頷いた
大自然の「大」をすべて「犬」に換えて独特のfake感を出す
写真を撮るなら写真を撮ることに徹したいので被写体はむしろ邪魔だった
一枚の板チョコを組織的に十二分割して十二人で同時に食べる

  102

場面ごとに主人公が入れ替わってゆく一貫性を欠いた映画だった
塩に籾を入れて湿気を吸わせているようだ
米には元来ものすごい数の種類があるのにすべて捨てられた
対岸がヨーロッパかアジアかという議論ほど無意味なものはない
トーゴから来たアフリカ人のドラムが五十七分間止まらなかった
幾何学的な庭園にワイルドな山を築き漢字をちりばめる
白鳥の離水があまりに不格好でみんなが笑った
まっすぐな水路の延長線上に迷宮と南極がある
遠征から帰った男たちを川の中洲に隔離する文化だった
新しい猟犬を慣らすため一日中一緒に素手で野豚を追う
十分望んだ角度が得られないので体をむりやりそらせてみた
音声は聞き届けられ波形としては消滅した直後に意味を発生させる
暴動が自然発生するのを雷雨の訪れのように見ていた
木目をじっと見つめて自己催眠による自己治癒を試みる
場面ごとに主人公の髪が伸びている映画だった
そこに見えている敵を敵だと思ううちは心に平安はない

琥珀色

大野晋

このところ、ひょんなことからウイスキーを集め始めた。最初はすでに数本持っていたミニチュアボトルのコレクションだったが、これが手に入る種類が非常に少なかった。市販のボトルをほとんど集めてしまって、はたと困った。

「もう少し長く集まるものを選べばよかった」

そこで、それではということでウイスキー本体を集め始めた。世界のウイスキーは次の5種類に限られるのだそうだ。スコットランド、アイルランド、アメリカ、カナダ、そして日本。舶来嗜好の強い人には信じられないかもしれないが、日本のウイスキーは世界に認められた産地の一つである。そこで、こつこつと日本のウイスキーを集めだした。集めだしてから、はたと、キリがないことに気付く。そうウイスキーは樽や熟成の状態、その年の気候などによって風味が異なっている。おお、きれいな琥珀色の液体よ!

それこそ、果てしない蒐集の旅! 魅惑の趣味である。ところがひとつだけ問題がある。ドクターストップで酒が飲めないのだ。ああ。魅惑の酒。琥珀の夢よ!

しかし、飲んでも酔うことはほとんどないので、まあ、ほんのちびっと香りを楽しむくらいがちょうどいいのかもしれない。ということで、いつか飲める日を夢見て、飲めもせぬ酒の蒐集はまだ続いている。

最近は、気付くと酒屋の棚で、同じ蒸留酒の焼酎の瓶を眺めていることがある。これこそは日本の風味ではあるまいか? おっと、くわばらくわばら。

風と帝国

璃葉

12個の鍵 壊れた時計 眠る兵士達 
青白い朝景色に綿花が踊る

たくさんの血と骨を失った 城も王冠も
その記憶も遠い場所へ旅立ってゆく

山麓や深淵を歩かねばならず
寂しさの影を背負わねばならない
生臭さを漂わせる足跡を残し
絶望を山々に木霊させるだろう

しかし確かに国境を跨ぐ足がある
文字をなぞり、繋ぐ指先がある
陽光を吸い込む瞳がある

目指すは、心の奥の帝国 
澄んだ風だけを持って行くのだ

r_1212.jpg

バティック着付のポイント

冨岡三智

ジャワ舞踊関連の話ということで、今回はジャワの伝統衣装の着付、とくにバティック(ジャワ更紗)の着付のポイントについて書いてみたい。衣装の着付にも興味があったので、留学中は宮廷の古いやり方を知っているような人に師事して、習っていたのだ。以下に書くのは、特に習ったというよりはいろんな人のやり方を見て盗んだコツである。

一般的に、東南アジアの民族衣装の着付けに共通するのは下半身に布を巻くという着方で、それには染物もあれば織物もあるけれど、地域特産の伝統工芸品になっているものが多い。一方で、上半身といえば、だいたい東南アジアのどこでもブラウスみたいに縫製したもので、材質も女性ならレースなどヨーロッパ的なものが多い。これは、昔は東南アジアの女性は上半身に何も着ていなかったのが、西洋人が来て服を着せるようになったので、上半身の服はデザインも材質も西洋風になったのではないかなと思う。というわけで、下半身には土着文化、上半身には外来文化が現れるのがアジアの民族衣装、と言う気がする。ここでは、簡単に着られる上半身の着付はおいといて、下半身だけの着付に的を絞ることにする。

下半身に布を巻くといっても、布を筒型に縫って着るもの(カイン・サロン)と、そのまま巻く着方(カイン・パンジャン)がある。サロンは、少なくともソロやジョグジャといった王宮都市では正装ではない。正装するときは、男女とも、1枚のバティックの端に折り襞(ひだ)を取って、それが前身頃の中央にくるように巻く。バティックの柄や襞の取り方には、音楽や舞踊と同様に、ソロとジョグジャで様式差がある。そういう知識は、今回は割愛…。なお、バティックは木綿布をろうけつ染めしたものが正式で、いかに高価でも、絹布にろうけつを施したものは宮廷の正式の場では着ない。

で、やっと本題。

カイン・パンジャンのバティック着付の一番のポイントは「太腿で着る」ことで、お尻から太腿にかけてぴったり沿うように巻くのが大事。これがあまり着慣れていない人の場合だと、どうしても洋服のようにウェストで着てしまう。脱げないようにと思って、ウェストのところを紐でくくってから(日本には腰紐という便利なものもある!)スタゲン(下帯、後述)で巻く人もいるのだが、それは逆効果で、かえって着崩れる。というのも、どうしてもウェストだけに意識がいってしまい、スカートのような着付けになってしまうからだ。きちんと太腿で着たら、腰紐は不要なのである。ただし、太腿を覆う丈のスパッツやらストッキングやらを下に穿いては駄目である。滑ってバティックが太腿に沿わなくなる。

カイン・パンジャンの横の長さはだいたい2.4mで、体に1周半巻きつけて余った部分が襞になる。バティックを巻くときは、バイアスに布を当て、片足の膝下辺りまで下前を上げて着るのが普通だ。そうすると、裾捌きがよく、裾つぼまりにも見えるというのだが、私はそうしていない。ほぼまっすぐ巻きつけて、着付けてから下前の裾を上に心持ち引っ張り上げるだけである。理由は、あまりバイアスが急すぎると歩いたり動いたりするたびに上前の裾も上がってくるので、落ち着かないから。結婚式の受付だとかモデルのように立っているだけなら良いのだが、私が正装するときは宮廷の行事に入れてもらうときが多く、立ったり座ったりすることが多かったので、けっきょく立居が楽な着方になってしまった。

さらに、一般にジャワでバティックを着つけてもらうと、足を閉じて(あるいは足首を交差して)立った状態できつく巻きつけられてしまうので、「太腿で着る」と言うよりは、足枷をはめられたような状態になる。これでは立居がきつすぎるというわけで、私は足を少し広げて立った状態で、太腿にぴったり沿うようにバティックを巻く。こうすると適度にゆるみができるので、床に座ったり大股で歩いたり(正装時は大股で歩くべきでないのだが、儀礼調査の場合はそんなことも言ってられない!)が楽にできる。この足を広げて立つというのは私には目から鱗で、このコツを私は芸大舞踊科の先生から盗んだ。ちなみに、舞踊用にサンバラン(カイン・パンジャンに布を足して裾を引きずるように着る)を巻くときは、裾捌きがよいように、私は肩幅くらいに足を開いて巻いている。

バティックを巻いたら、今度はスタゲン(下帯)を巻いて留めるのだが、このとき、腰骨の上でスタゲンをまず3回ずらさずに重ねてきつめに巻くというのがポイント。そうすると、その後はそんなにきつく巻かなくても着崩れない。スタゲンは半幅帯の半分の幅(約18cm)に長さ約4.5mの厚地の織布で、下着扱いである。腰から上に少しずつずらしながら巻き上げていくのだが、初心者はここでもウェストをマークする着方になりがちだ。そこに、お腹が出ているのをひっこめたいという欲望も手伝うものだから、スタゲンの巻き始めはおろそかだが、お腹の部分はギュウギュウ締め付けてしまいがち、という結果になる。これでは内臓を圧迫することになり、西洋のコルセットと同じで体に良くないし、柔らかい大地(お腹の贅肉)に載ったスタゲンは少しの地震(運動)でずれやすい。けれど、腰骨は固くて動かないから、ここで3周も巻くと、バティックの位置がしっかり固定される。

スタゲンを巻くときには、前身頃に垂らした襞の根元に当たる部分を少し上に引き上げてU字に外側に折り曲げ、その上からまたスタゲンで巻いていくのもポイント。これは私のオリジナル・アイデア。(ジャワでやっている人もいると思うけれど)。立ったり座ったりを繰り返していると、どうしても前に垂らしている襞を踏んづける可能性が高くなる。そのままスタゲンで押えるだけでは、引っ張られた裾はずるっと出てしまうので、そうならないようストッパーをかけておくのである。

というわけで、バティック着付のポイントは太腿から腰骨のところで、いかに体に沿わせるかという点にある。着物の場合は、バティックのような意味で着物が太腿にぴったり沿うというわけではないけれど、腰骨の位置で留めるというのは同じだ。だから、着物をよく着る人がバティックを着ると、とてもなじんで見える。

上に書いたのを読み直してみたら、正装してがさつに動き回るのを前提にしていて、お姫様度からはほど遠く、赤面してしまう…。

爆翠(睡り)98――spirited away

藤井貞和

むなしく
ここに来ず
いたましく 神か
かつ、この
新月、雲に舞い
楚国よ
つと、ふるさとに
かず知れぬ
からき
汨羅(べきら)か
濡れ
しずかにと去る
ふと、つよくこそ
いまにも屈原
詩の国家
神隠し また
いずこに
故国死なむ  (回文詩)

(屈原は楚辞の作者。「なんだか意味の通じない一文だなあ、などという回文は、これはもう掃いて捨てるほどあるのです」〈あとがき、土屋耕一『軽い機敏な仔猫何匹いるか』〉。)

犬の名を呼ぶ(7)

植松眞人

 幼稚園から帰ると、ときどき聡子は犬の背中に顔をうずめる。そして、自分の息をひそめて耳をすませている。ブリオッシュはまるでそうされている意味を理解しているかのように、じっと身動ぎせずにいる。
 その様子を見ると高原は、いつも聡子という子の優しさに不憫なものを感じてしまうのだった。いつか聡子が言った、
「おじいちゃんとブリオッシュは、どっちが長生きするの」
 という言葉にも、この子の生きるということに対する畏れのようなものを感じてしまうのだった。
「なにか聞こえるのか」
 高原が聞くと、聡子はシーッと人差し指を立てる。そして、どう説明すればいいのだろう、という顔をした後で聡子は答える。
「何も聞こえないよ」
「何も聞こえないのか」
「うん、何も聞こえないのよ」
「それじゃ、何を聞いているんだ」
「歌」
「歌?」
「そう、聡子がブリオッシュの背中に向かって歌うでしょ。そうすると、歌がブリオッシュの身体の中に響いていって、もう一回返ってくるの」
 どうやら聡子は本当に小さな声で、ブリオッシュの背中に耳をつけながら歌っているらしい。聡子の声はブリオッシュを温かな共鳴板にして、再び聡子の耳へと返ってくる。聡子がブリオッシュの身体の音を聞き取ろうとしているのだと思っていた高原は驚いた。
「聡子の歌はどんなふうに聞こえるのかな」
 高原が聞くと、聡子は少し恥ずかしそうな顔をして答える。
「普通に歌っているよりもちょっとうまくなったみたいに聞こえるの。でも、あんまり大きな声で歌うと、私の声が大きすぎてブリオッシュの身体から返ってくる声が聞こえなくなるの。だからって、小さすぎると何聞こえなくなるから難しいんだ」
 聡子がそう言い終わった瞬間に玄関のチャイムが鳴って、菜穂子がやってきた。そして、いつものように菜穂子と聡子は、高原たちと一緒に夕食をとると自分たちのマンションに帰っていった。
 高原は部屋の隅にうずくまっているブリオッシュをぼんやりと眺めている。その背中を眺めているうちに高原は聡子と同じように歌を聴いてみたいと思うのだった。
 立ち上がり、少しずつブリオッシュに近付いていく。気配を察して、ブリオッシュは背中越しに高原を振り返る。別に気にしていないふりをして高原は立ち止まる。ブリオッシュがまたゆっくりと前脚と前脚の間にあごをつけ、目を閉じると、高原は再び歩みを進める。そして、丸めた背中の曲線に沿うように、自分の身体を並べてみる。輝くような毛並みが息遣いと共にゆっくりと揺れている。
 高原は聡子がしていたように、ブリオッシュの背中に顔を埋めてみる。聡子よりも高原の顔がごつごつしているからだろう。ブリオッシュの背中がビクッと波打つ。高原自身も少し緊張して動きを止める。やがて、たがいが落ち着き、たがいを受け入れるかのように、静かな時間がやってくる。本当の静かさは音のない世界ではなく、小さな小さな音を聞き取れる世界なんだということを思い知らされる。
 高原は輝く毛並みに鼻先をくすぐられながら、耳を背中につけてみる。かさかさという音が静まると、高原にはブリオッシュの鼓動のようなものが聞こえた気がした。その鼓動もそのままじっとしていると聞こえなくなった。
 高原は聡子のように歌を聞きたいと思う。しかし、そのためには高原がブリオッシュの背中に歌ってみせなくてはならない。高原は困ってしまう。この歳になるまで、歌など歌ったことがない。いつの間にか当たり前のようになったカラオケというものに興じたこともない。
 何を歌えばいいのだろう。ブリオッシュの鼓動に合わせて、小さくリズムを取りながら高原は自分が歌える歌がないのかと、頭の中をたぐっている。
 やがて、高原は自分に歌えそうな歌などないことに気付く。そして、仕方なくブリオッシュの背中に耳を付けたままじっと耳をすませる。すると、何かがかすかに聞こえた気がした。それはブリオッシュの鼓動ではなく、高原の遠い記憶の歌でもなかった。もちろん、ブリオッシュの毛並みがこすれ合う音でもない。
 聡子の歌だ、と高原は思う。
 ブリオッシュに聡子が聞かせた歌が、いま高原の耳に届けられた。そう思えて仕方がなかった。

オトメンと指を差されて(53)

大久保ゆう

「唐突で申し訳ないのですが〈しわす〉って美味しそうですよね。何がと訊かれるととにかくとしか答えようがないのですが何となく〈きさらぎ〉を巻いてお弁当に詰めてピクニックに出かけられそうな趣があるわけで後は下にほのかに香る〈さつき〉でも敷いて〈うづき〉から削った百貨店で取り扱われていそうな高級箸で食べながら魔法瓶に入れてきた〈ふみづき〉を飲んで〈やよい〉でもリズムよく口ずさんでおけばいいんではないかなと存じます。」

上記は、大久保ゆうが〈師走〉を話題にリラックスした状態でつぶやく世間話のサンプルである。彼にとっては、挨拶代わりの話というのは天気でも時事でもなく、そのあたりにたまたま転がっていた単語を拾い上げて、これまたそのあたりに漂っているイメージに接ぎ木して場の中へ投げつけるようなものであって、中身というものはほとんどなく、よってまっとうなエッセイの枕にもならないものだ。

そこを何とかもう少し形になるようなもの、話の広がりそうなものをと、〈年末〉をキーワードにしゃべらせてみると、こうなる。

「個人的には〈年末年始〉っていうのはヒーローの時間かな。といっても世界を救うような大層なやつじゃなくて、ささやかな問題を解決して去っていくような。たとえば、旧年なかなかクリアできなかったTVゲームのエンディングをいきなりやってきて見せてくれるような友だちの友だちとか、ずっと開かなかった賞味期限の近いジャムの瓶をこじ開けてくれる親戚とか、小さく世界が変わってくれるような、それでいて大人にはたいしたことなくても子どもにとってはそこにはキラキラしたものがありますよね。たぶんクリスマスのプレゼントとかお年玉とか予定調和なものよりも、あとあと心に残るものがあるんじゃないかなって。」

もっともらしくも思えそうだが、しかし本人にとってこのような言葉は、その場で思いついた出任せに過ぎない。しばらくしてから誰かが本人に「そういえばあれさ」と聞き直そうにもだいたいにおいて忘れている。コミュニケーションにおいて、とりあえずその場の時間が埋まったり、目の前のページがそれらしく埋まったりすればいいだけのもので、真偽構わずうっちゃってしまう。

大久保ゆうという人間が、しばらくのあいだ周囲から不定型なものと目され、そのように扱われてきたのは、おそらく上記のような表層状の問題が原因かと思われる。それに関連して生じた厄介については、プライヴェートのことであるのでここでは省略するが、次第に困っていったことは想像に難くなく、あらためてある程度の個性を出すことを決意するに至ったのである。

そして次のような語りへと進化(あるいは退化)する。

「温泉? そう温泉! 大好きなんですけどね、暇があったら回りたい、色々行きたいって思うんだけど、それってたぶん私個人にとっては宗教的なものなんですよ。心っていうか信条として。これは冗談じゃなくって割と本気で、信仰ってだいたい親とか周囲から幼い頃に叩き込まれるものじゃないですか、聖書とか教典とかを渡されて暗唱させられて。中身なんてさっぱりなんですけどね。だからか、まあ同時にマンガみたいなものも買い与えられるわけですよ。偉い人の伝記みたいな感じで。私ね、すごいそれ読んでたはずで、読んでたこと自体は覚えてるんですが、ほんと内容が全然思い出せなくって。かすかに覚えているのが、主人公のおっさんがめちゃくちゃ温泉入ってる、すぐ入ってる、しかもあちこち入ってる、湯治してるわけです。あれはもう、強烈な刷り込みですよ。ある種の崇高さというか、〈善〉というイメージと一緒に温泉がやってくるわけですから。だからこの時期になると、強迫観念に近いレベルで温泉に入りたいって――」

話のしっちゃかめっちゃかさについては正直大差ないが、より個人を感じさせるものにはなってはいる。ここから本人の〈割と好きなもの〉をターゲットにして妄想や個人情報の取扱レベルを微修正してやると、普段みなさんが読んでいらっしゃる〈オトメン〉の文章になるというわけである。

「チョコレートは吸血鬼の主食なのです。血の代わりにトマトジュースを飲むとか色だけじゃねえかと常々疑問を抱いてきたわたくしではございますが、夕方前あたりに起きてきてホットチョコレートを飲むことこそ始終血を吸ってるわけにはいかないイモータルな化け物の普段のあり方なわけです。てゆうか赤ワインとかで代用するよりかっこよくないですか、かっこいいですよね、かっこいいから同意しなさい。そして吸血鬼になりたいと思う世の志望者諸君はなべて冬でなくとも常にココアを飲むべきである!」

このバランスさえ守れれば何でもそれっぽくなるので、誰でもこのエッセイの代筆ができるようになったというわけであるからして、もしかしたら来年あたりから筆者が突然変わっているかもしれない(そんなことはありません)。

真夜中に走り出す指

くぼたのぞみ

真夜中の台所で詩が生まれたのは
遠いむかしのような気がする
その台所にきょう 人の気配はない
きのうSさんに向かって放ったはずのことばが
手放しきれない話者をきりきり縛る

文学のことばなど なんの役にたつのか?
辺境で老いてゆく人の口からこぼれる
優しさの衣つるり◯けたことばが
無意識の共有部分に爪をたてる
文学のことばなど なんの役にたつのか?

真夜中に走り出す指は 気配まで消臭された台所で 
失われた玉を透かし 生き延びるための
無骨なレシピを書き出し 
アジア風炊き込み御飯の定義で
分裂することばの屋根をささえる

打ち上げ花火の文飾が夕闇の濁った雨に滲んで
目くらましの話法も朽ちた落ち葉の底に沈んで
ことばのあぶくは要らない ドライヴ感ばかりが
うつし世と同衾する文体は要らない と
つよく澄んだことばの白玉を手探りする

ワールドカップでイラクが勝てるか

さとうまき

サッカーのワールドカップ最終予選。9月11日の日本とイラクの戦いは、日本に軍配が上がった。なかなか勝てないイラクを応援している。しかし、日本戦以外はTV中継がない。一生懸命インターネットTVを探すが、有料チャンネルでいかがわしいので、登録するのを躊躇する。

経過時間と、得点だけが出てくるサイトを見つけた。そこで、先日10月16日に行われたイラクVSオーストラリア戦。インターネットの画面とにらめっこ。一分ごとに経過時間が増えていく。得点は0-0、最後の残り10分になった時に、イラクに1点入った!おーと興奮する。しかし、残り5分。守りきれと祈る。しかし、オーストラリアが0から1に変わる。あっという間に2になってしまい、結果的に負けてしまった。とても悔しい。こんなに悔しいものなのか。

そして、11月14日、今度はヨルダンでイラク戦だ。その前の時間には、日本がオマーンと対戦。こちらはTV中継もばっちり。しかし、そのあとの、イラク戦はやはりネットでにらめっこ。時間経過と得点だけ。0-0のまま経過時間だけが過ぎていく。それだけを見ているのだが、とても興奮する。そして残り2分、おー、1点がイラクはいった。そしてイラクが勝った。どんなシュートかもわからないけど、こんなに勝つのは、感動する。そして一気にイラクは最下位から3位に浮上した。まだまだ、ワールドカップに出場できる可能性はある。
 
しかし、最新のニュースは、ジーコ監督が辞任。イラクが、契約金をちゃんと払わなかったからだという。

イラクは、治安の問題もあり、ホームでの試合ができない。僕は、イラクの復興の指標が、ホームで国際試合ができることだと思っているが、治安どころか、お金の未払いとはなんとお粗末なことだろう。何とか残り試合頑張ってワールドカップ出場の切符を手にしてほしい。

きまぐれ飛行船(4)

若松恵子

片岡義男さんがパーソナリティを務めたラジオ番組「きまぐれ飛行船」。番組ディレクターを担当した柘植有子さんと『FM fan』に掲載されたオンエアリストを見ながら13年間を振り返ってお話を聞いた最後に、柘植さんにとってラジオって何ですか?と質問してみた。

例えばラジオドラマ。

「あ、雪ね。」
「彼来るかしら?」

こんなセリフと効果音だけで、雪が降ってきた様子、彼を待っている女性の姿を想像することができる。しかも思い浮かべるものは聞いた人それぞれで違う。セリフや効果音だけでイマジネーションを膨らませてくれるもの、それがラジオだ。テレビドラマだったら、雪の光景も女性の姿もひとつの具体的なものでしかない。ラジオはそれを聞く人それぞれが違うイメージを自由にもてるものだ。

柘植さんが即興で語ったラジオドラマのなかのセリフは、早速私の目の前に雪を降らせた。生放送全盛時代、ディレクターがQを出しながらDJを務める「アナデューサー」という役割があって、柘植さんも担当したことがあるということだが、柘植さんの語る言葉も耳に心地よい。

でもラジオも変わってしまったわね。自分の夢(妄想)を託せる余地のある声を持った人が少なくなってしまった。

「きまぐれ飛行船」も柘植さんがこだわる”ラジオの良さ”を持った番組だったという。そして、パーソナリティが片岡義男さんでなかったら、あのような番組にはならなかったかもしれないという。良く見せようとか、盛り上げようとか、押しつけがましいところが一切無かった。ぽーんと飛んだら風まかせ、天気まかせの、飛行船。80日間世界1周の気球ではなくて、ツエッペリン号の小さいやつ。

「きまぐれ飛行船」というラジオ番組を成立させていた時代は去ってしまった。ラジオを愛する人も少なくなってしまった。「声」に静かに耳をかたむける時間は、なぜ可能だったのか。

柘植さんが『映画館へは、麻布十番から都電に乗って。』(高井英幸著/2010年・角川書店)という本を紹介してくれた。そのなかに印象的な言葉があった。「今と違って映画は映画館でしか観られなかった。たくさんの映画を観ることは、たくさんの映画館とめぐり逢うことでもあった。映画は絶えず映画館の印象と共に記憶された。」
録音方法も無く1回きりの放送に耳を傾けていた時、新しい音楽との出会いがラジオからしかなかった時、ラジオは今よりもずっと特別な存在であったに違いない。「きまぐれ飛行船」の想い出は、番組が流れた時代の印象とともに記憶されている。

*きまぐれ飛行船を特集した『Raindrops』No2が完成したら希望者に差し上げます。
 お名前、送付先をinfo@suigyu.com宛てにご連絡ください。

コザ、深夜の飲み屋街の散歩道

仲宗根浩

十月に受けた健康診断の結果が届く。おう、中性脂肪が十数年振りに正常値になっている。γ-GDPの数値、異常値ではあるがここ数年で一番いい。他は相変わらずの、逆流性食道炎、慢性胃炎、胆のうに2ミリのポリープとここ十年ぐらい変化なし。血液検査の結果で調子こいた。肌寒い夜、酒をロックであおり、あさがたまでYoutubeにアップされている色々なロック・ギタリストの動画見たら翌朝見事に風邪。休み明け、鼻水たらしながら五日間、お仕事はなんとか乗り切り、休みに入ると身体は使いものにならずひたすら寝るだけ。朝は寒いが、日中は少し暑くなるので何を着ればいいのやら。それでも夜な夜な飲みにいく。

仕事終わり、帰宅。テレビでフィギアスケートの映像。使っている音楽、聴き覚えがある。ゲイリー・ムーア?「パリの散歩道」?ネットでその大会のサイトのぞくと選手が使用する曲の記載があった。「パリの散歩道」をバックに演技した十七歳の選手は一位。フィギュアスケートでは珍しい、七十年代のベタなロックの選曲。

深夜のゲート通り、外出禁止のため店の明かりはなく人もいない。地元の飲み屋街、歩くと自分よりすこし年上のおねえさん方のお誘いがかかるのとは対照的。

予約しておいたLed Zepplin、2007年の再結成のDVD、深夜眠りながらも三、四日かかかり見終わる。ボーナスのリハ映像のテイク、いくつか本番の演奏より出来がいい。ジミー・ペイジが使用しているギターはギブソンのみ。大人の事情だろうか。

製本かい摘みましては(84)

四釜裕子

ポフウェル氏に初めて会った日は寒かった。1998年、ちょうど今時分のことである。とうもろこしのなわばり争いで荒らされた農場の後始末などをやっていた某の縁でカメレオンの耳に音色を移植したり、てんとう虫の水玉模様が舞い上がる街からひげを盗んだり、鼻血をふいたり、水曜日を出前していた。「gui」という同人誌の縁だった。一目見て惚れた。「gui」は1979年に、藤富保男、奥成達、山口謙二郎が始めた同人誌で、創刊以来、B6判のかたちを守る。ポフウェル氏に出会った時の表紙は高橋昭八郎によるもので、2ミリあきの銀色の線が美しかった。

翌年1月、ポフウェル氏に再会する。言水制作室による『ポフウェル氏の生活』に彼の日記があったのだ。左右150ミリ、天地210ミリ、発行日は1998年12月31日とある。菜の花を見てたらぼくだって黄色いのさとコーンスープに肩をたたかれた、なんて書いている。暮らしぶりは変わらずそんなようなものだった。地蔵を現世につれもどしたりタンチョウヅル夫妻に舞踏の手ほどきをうけたり、平行四辺形の気まぐれに翻弄されたりバターに包まれ眠っていた。日記は短いものだった。彼の生活は日記で読むと、作り話のように響くと思った。

生きていれば惚れた人に会う機会もまたオマケのようについてくる。今年11月、左右108ミリ、天地175ミリ、Luluというオンデマンド印刷による『ポフウェル氏の生活 百編』に乗ってポフウェル氏がイギリスからやってきた。つるっつるの表紙に青い針金のハンガー、青みがかったなんてことない本文紙という衣装が抜群に似合う。奇数ページに四角くなって現れる。相変わらずみかんのスジをとる仕事を老後のアルバイトにしようと考えていたり雪にアイロンをかけている。オラウータンの含み笑いに墨を塗って半紙に写したり、新婚夫婦に回覧板を回してもいる。エアーズロック大学のてっぺんで誰も知らない化学反応を実現させた過去を懐かしく思い出して、100になった。赤いコートが似合う詩人・南川優子の伴走を続けるポフウェル氏である。

しもた屋之噺(131)

杉山洋一

世の中には二つ、確実に存在するものがあると思っています。一つは時間の一方向への経過と、そして人間はいつか死ぬということです。この二つの現象は、とても厳しい現実をわれわれに突きつけますが、もしかすると、自分はもっとこれらの現象の素晴らしさに目を向けなければいけない、最近そう思うことがあります。少なくとも、音楽はこれら二つの現象なしには、存在し得なかったでしょうし、何も発展しなかったでしょうし、生きる欲望すら生まれなかったに違いないでしょう。

庭の大木が見事に紅葉したかと思うと、瞬く間に落葉し、はらはらと芝生を黄金色の葉で覆っているのですが、それはうつくしい光景です。それをうつくしいと思えるのは、春になれば確実にまた芽がふくのを知っているからです。確かに初めてここで冬を過ごしたとき、本当に春に芽がふくのか心配していたのを覚えています。時間が過ぎることは過酷ですが、でも確実に次の新芽を運んできてくれる、それを信じることで踏み出せる一歩もあるとおもうのです。

11月X日13:00自宅にて
イタリアのお盆「死者の日」に合わせ、ヴェローナの記念墓地に息子を連れて行く。イタリアのお墓をまだ見せたことがなかったが、日本と違い墓石を掃除もできなければ、水をかけたり、線香も焚かないので、息子にとって些か不本意な墓参だったようだ。
連休とあって特急の切符は全て満席で、仕方なく自由席の急行に乗る。目の前の席に5歳ほどの女の子を連れたお母さんが座り、国語の宿題をやっている息子が、不規則変化の名詞を読み間違えるたび、大声で笑って母親に叱られている。
ネイティブではないから、気づかない間違いもずっと息子の前でやってきているに違いない。申し訳ないような後ろめたい気持ちになる。
人いきれに押されて、近くに年配の女性がやってきたので席を譲るが、「私が座ると、あなたが立たなければならないから」と、なかなか承知してくれない。車内は芋を洗う騒ぎではない混みよう。乗降すらままならず、駅ごとに発車が遅れていく。
記念墓地に入ると、あちこちの墓にたむけられた白百合の香りにまじり、薄く香をたいたような独特のすす臭い匂いがするのだが、あれが人間の匂いなのだろうか。日本の墓地にはない匂いで、どこかで嗅いだ記憶だけが残っていて前からずっと思い出せなかった。
霊安室の匂いに似ていると気がついたのは、帰りの列車のなかだった。

11月X日23:00自宅にて
中央駅でネッティと久しぶりに会う。ビッローネとネッティとトゥラッツィの3人からなるラッヘンマンに影響された作風の一派が、以前ミラノに存在していた。当初市立音楽院で働いていたビッローネは、イタリアを捨てウィーンに移住した。ヨガ教室をやっていたネッティは、結婚して子供ができて、奥さんの故郷、南イタリアのプーリアに引越し、本格的なヨガ学校をつくった。唯一ミラノに住み続けている最年少のトゥラッツィは、リコルディ社で仕事しながら、小さな私立音楽学校を経営している。
ネッティはミラノに住んでいた頃から、作曲を収入源にしたくないという思いから、ヨガを教え幼稚園で音楽の幼児教育に携った。作曲を収入源としてマーケットに迎合すると、理想の音楽ができないからだ。それでドイツやスイスで彼の作品が盛んに演奏されているのだから、彼の判断は正しかったし、信念も決して間違っていなかったと思う。中央駅の喫茶店でエスプレッソを啜りながら、饒舌だった。「50歳までは教えたくないって、昔から言っていただろう。実際50歳が近づいてきて、他人に教えられるような知識が、漸く自分に備わりつつある気がする」という。彼はスイス・ルガーノの国立音楽院で、2日間作曲のマスターコースをやってきたところだった。ミラノを離れて、自分の本来のリズムが見つかったという。「あのままミラノの強迫的な生活に翻弄され続けていたら、今頃自分の音楽はお釈迦になっていたさ」。
プーリアの小さな町に住みながら、誰も彼が作曲家とは知らない。ヨガの先生の印象しかないだろうし、音楽をやっているとも、ことさらに周りに話さないという。「勿体ないじゃないか。バーリあたりの作曲の学生にとって、君の存在がどれだけ励みになるか考えたことがあるのか」というと、と虚をつかれたような顔をした。民族音楽やロック、ジャズ。音楽の95パーセントは書かれていない音楽だ。残り5パーセントの書かれた音楽で自分は何をなすべきか、自問を繰り返していて、視点は常に開かれていなければならない、と力説した。

11月X日20:00自宅にて
スイスに向かう列車のコンパートメントで出会った男性はコソボ人だったが、セルビア人に対して憎しみはないといった。自分の国はとても小さいともいった。戦争は、ただ偉い政治家たちが自らの利権のために事件を起こし、互いに既成事実を積み重ねて市民を陥れた結果だという。「戦争は、国を痩せさせ、市民を疲弊させるだけさ」。かつてコソボ人、マケドニア人、モンテネグロ人、セルビア人は共存していたし、憎悪がクローズアップされることもなかった。政治が互いの憎悪を駆り立て、望むと望まざると市民はその運命に翻弄された。スイスに住む姉にオリーブ油を届けるところだが、イタリア国外への出国が禁じられているので、スイス国境のコモまで姉が受け取りにくるといい、男性はオリーブ油を6本入れた頑丈そうな袋を抱えて、コモ駅で降りた。複雑な事情を持つ彼の収入源なのだろう。

11月X日19:00ミラノに戻る車内にて
エンツォ・レスターニョに会うのは久しぶりだった。家は国立音楽院の裏手だと言われて、懐かしいトリノ国立音楽院脇を通る。木造の響きのいいここのホールで何度も演奏会をやっていたのは、思えば15年も前のことだ。当時からあった向いの古い楽譜屋「ベートーヴェン・ハウス」は今も残る。マッツィーニ通りを進み、ポー川にぶつかる手前辺り右手に、古書店「フレディ」があって、ショーウィンドウには、日焼けしたマリネッティの「未来派」関連の初版本が並ぶ。上の棚に伊訳されたトロツキーの古い理論書が一通り揃っているのも壮観だ。トリノは昔から癖の強い露店の古本屋が多かった。今朝も、地下スーザ門駅から取り壊し中の地上旧駅舎を抜けてチェルナーイア通りに入ったところで、昔と同じアーケードに軒をきしる古書店に目をうばわれた。
何しろ、大判の「毛皮を着たヴィーナス」が、一番目立つところに飾られている。中学の頃何度となく読んだが、面白さがさっぱり分からぬまま、詰まらないと古本屋に売飛ばしてしまった。今読み返したらどうだろう。女々しい印象だけが強く、どう芸術性に優れているのか理解しないまま、数十年経ったが、それほど第一印象は決定的なのだと怖くもなる。

同じ頃古本屋で「ジュスティーヌ」を見つけて、そちらは暫く読んでいたが、大学のとき、やはり詰まらないと古本屋に売ってしまった。自分にとって読み応えがあったのはサドだったわけだが、内容よりも寧ろ、澁澤訳の調子が気に入っていたのだろう。
尤も、当時一番喜んで読んだのはロートレアモンだった。サドとマゾッホとロートレアモンが同列なのが、内容も分からぬまま背伸びして読んでいる感じでいいじゃないか。そんなことを思いながら、エンツォの家の呼び鈴を押した。
意外に小さなアパートで、書斎は至る所に本がしきつめられていて、彼は来年出版する、シェーンベルクとストラヴィンスキーの本を執筆中だった。「春の祭典」と「月に憑かれたピエロ」の年にかけて、彼らを今までとは違う視点で比較研究したいという。すごい量の本だと驚くと、「本に囲まれて暮らしていても、不思議ではないだろう」。例の低くよく通る声が懐かしかった。
短い廊下の奥に白い洗濯機が見えていて、長年の一人暮しらしい独特の生活臭がする。映画の1シーンのように、ステレオタイプをそのまま切出したような暮らしぶりで、よくノリのかかったワイシャツに大ぶりの濃緑のネクタイをゆったりと締め、ガウンを羽織って仕事をしている。「変わらないね」と言うと、「71歳にもなると、流石に身体が言うことをきかなくてね」。独特の往年の俳優を思わせる口ぶりも映画さながらで、彼の暮らしぶりに似合っている。

11月X日14:00サンタゴスティーノのスリランカ食堂にて
その昔市立音楽院に引き抜いてくれた当時の学長が、現在はIESイタリアの幹部で、彼からどうしてもと頼まれて、イタリア短期留学中のアメリカ人大学生に、短期で和声の授業とイヤートレーニングを教えている。借用和音やらナポリ和音くらいまでは、辿りつかなければならない筈だが、初めての授業では導音が主音に解決する初歩の基本すら理解していない。三善先生のレッスンで初めて和声課題を持っていった時も、こんな感じだったと思えば、いきおい、同病相あわれむ感、いよいよ強し。
中学1年の頃、「このバスに音を足して4声部にしていらっしゃい」と課題をいただき、自信たっぷりに並行和音で書いていった。和声課題が何かすら理解していない上に、当時の自分にとって美しい進行とは、悠治さんやアキさんが弾くサティの旋法調の並行和音だった。少し呆れたような顔をされて、「この本を勉強しなさい」と芸大和声の赤本を渡されたのを覚えている。先生は本当に我慢強い方だった。

11月X日23:30トラム車内にて
スカラ座まで「ルチアーナを送る会」に出かける。フォワイエのトスカニーニ・ホールで、客席は150席ほどしか用意されておらず、立ち見客も同数は居ただろう。当然周りには年配客が多くて、こちらは立つことにした。
最初にスカラ座のリスナー総裁が話し、実弟クラウディオ・アッバードからのメッセージが読まれると、息子のアンドレア・ペスタロッツアがブラームスのホ長調の間奏曲を弾いた。この作品を選んだ理由は、まるで母をそのまま体言しているようだから、弾く前にアンドレアはそう語った。彼がピアノを弾くのは、初めて聴いた。繊細で染み通るような音楽だった。では一体自分は両親の人生をどれだけ理解しているのだろう、そう思うと居たたまれない気持ちにかられる。
ルチアーナは生前、自分が死んで演奏会を開いてくれるなら、どうかシューマンとクルターグとブラームスを弾いてほしいと書き残していた。
アッバードのほか、ラッヘンマンやグアストーニのメッセージが読まれ、メッシーニスやブソッティ、フランチェスコーニ、マンゾーニとヌーリア・シェーンベルグが壇上でマイクを握った。最後に、長兄マルチェロ・アッバードが「ルチアーナ、お前はつねに音楽と一緒だ。これからも、いつも音楽と一緒だ。音楽のあるところに、お前はいつもいる。音楽のあるところに、お前のいるのがわかる。お前がミラノの音楽をつくった。ルチアーナ、ありがとう。お前は音楽そのものだ」。そういって、マルチェロはまるで目の前の宙に浮かんでいるルチアーナに拍手を送るようなしぐさをした。
拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
最後に故人と特に親しかったヴィクトリア・ムローヴァがバッハを弾き、気がつくと、隣でクラウディオの息子ダニエレが、目を伏せながら聴き入っている。互いに目が合うと握手をし、そのまま無意識に抱擁した。

11月X日20:00自宅にて
市立音楽院で指揮を教えるのは、エミリオが去って以来初めてだ。学長の粋な計らいか、その昔ずっと指揮クラスが授業していたホールがあてがわれ、数年前に戻った心地だ。学校に入ると、ここ数年いつも「ヨーイチ」と名前で呼んでくれる事務の誰もが、嬉しそうに「マエストロ!」と声をかけるので、びっくりする。誰もが昔の温かかった学校の雰囲気が懐かしいのだ。エミリオから最初に指揮のレッスンを受けた部屋で、最後にレッスンを受けた部屋で、昔と同じように丸く円を作って、朝から授業をはじめる。0からの生徒ばかり12人を前にして、その昔学校で教えていた学生の顔が思い浮かぶ。昔と同じフルコンのピアノは2台とも残っていたが、当時使っていた指揮台は最近壊れてしまって、今はもうないということだった。

(11月30日ミラノにて)

だれどこ8

高橋悠治

●吉田秀和(1914-2012)

シューマンの評論集『音楽と音楽家』の訳者としてこの名を知った。まだ小学生だったと思う。ピアノを練習はしないで、当時新しかった音楽の楽譜を弾いてみたり、父の書棚の本で聞いたことのない音楽について読んでイメージのなかでそれらしい音を聞いていた。ロースラヴェッツ、ハウアー、ケージさえも数十年後に知った本当の響きよりすばらしかった。ヴァレーズの楽譜を見つけられないで、輸入楽譜の店主に頼んで作曲者に問い合わせてもらったこともあった。「わたしの音楽はもう演奏されないし、楽譜も出ていない」という返事が来た。1950年頃だろうか。その後演奏され新作も委嘱され楽譜も出版されるようになったが、もう年をとりすぎていた。作曲家も演奏家も旅をしてやっと生活ができるのは、いまも変わらない。少数の人にしか受け入れられず、その人たちと出会うためにはうごかなければならない。うごいていれば、いままでとちがうことも見えてくる。旅や巡礼は昔は職人や修行者には欠かせない年月だった。いまでも電子図書館だけではわからないことがある。

シューマンの批評は当時の音楽制度に反抗してまだない音楽を夢見ることばだった。ショパンの初期の作品をききながらE・T・A・ホフマン風幻想のなかで千の眼、孔雀の眼、バジリスクの眼に見つめられていると感じる文章を読んでその曲を聞いてみても音楽のどこにそんなふしぎがあったのかわからない。ブラームスを紹介した時もそうだった。批評された作曲家自身にも見えなかった可能性を感じさせ未来をつくりだす批評もあれば、サルトルが書いたジュネのように作家を定義してそれ以上書けなくする批評のことばも稀にある。吉田秀和の翻訳は批評家として出発する時のしごとではなかっただろうか。

桐朋学園に途中から入り中途退学したときも、吉田秀和は主任で、音楽史を教えていた。『新しさを追い求める時代は終わった、これからは編集と引用のモンタージュしかない」というような文章を小論文の課題で書いたのをおぼえている。T・S・エリオットの『荒地』やエイゼンシュタイン、マヤコフスキーを読んでいたからだろう。ヴァレーズのレコードを聞かせてもらいに休日に家まで行ったこともあった。2級上の作曲科の学生だった鍋島元子といっしょだった。

雑誌に連載された吉田秀和のヨーロッパ紀行では、1954年のケージとテュードアのヨーロッパ・デビューやハウアーの「退屈そのもの」のピアノ曲だけのコンサートのことも書いていた。その後20世紀音楽研究所を作ったりしたが、60年代からだんだん興味が演奏のほうに移って来たように見える。音楽時評にもヨーロッパの演奏家のことでなければ、相撲か西洋美術のことを書いていた。

『吉田秀和全集』のなかの一巻に解説を書いた。他人の考えを理解することはできない。離れたところから見て、それとはちがうことを考えて書く。それが批判で、批評かもしれないが評論とはどこかちがうニュアンスがある。批判は継承でもあり伝統でもありうるが、分析や評論は伝統にはならないだろう。付け、あしらい、転じ、それが伝統の運動。

批評家や学者・研究者は作られたものからはじめる。デカルトは暖炉の傍のソファーで夢を見る。論理も感覚もことばにして、細部を追ううちに時間の迷路に入りこむ。ことばの上で対象の全体を表現することが仮にできたとしても、それが何になるだろう。音は音の記憶でしかない。残像や軌跡、廃墟、ここから立ち去った影にどうして追いつけるだろう。作曲家や演奏家にはまだないものが聞こえることもある。蜃気楼にすぎなくても「まだ意識されないもの、近づいてくる別な世界」とエルンスト・ブロッホが言う。

そこにない音楽が批評のことばから起き上がることだってないとは言えない。印象や記憶や感触ではない、立ち去ったものを追う道ではない、その瞬間にうごいていたことに気づく交差する軌道に移ってどこへともなく運ばれていく。

鎌倉で会うこともあった。バルバラがいた頃、それからまたずっと後になって、たった一度だけ行ってみた桐朋学園同窓会がきっかけで再会し、実家に行く折に訪ねて1時間ほど話をする。その時は思うままに、決して書かないような批判も口にしていたから、慎重にことばを選んで書いていたことはよくわかる。年をとれば新しいことに対応するのがむつかしくなるだけではなく、望まなくても権威とみなされる。そうなれば結果を考えずに思ったことを言うことができなくなるだろう。それでも言いたいことがあればわかる人には伝わるような多層的表現をとって、白井晟一の建築の入口のように透明な壁があり、向うが見えると思っても曲がり込まないと入れない。

ある日は書いたばかりの文章、シューベルトの「菩提樹」とトーマス・マンの『魔の山』の最後の部分について、ヨーロッパ文明が滅びていく戦場で戦友の手を踏みつけながら起き上がりまた倒れるハンス・カストルプに聞こえるなつかしい樹のざわめき、ここへ帰っておいで、と呼ぶ声、また戦時中の高校の軍事教練の記憶を織り込みながら書いた「永遠の故郷」の一章について話してくれた。『魔の山』はこどものころ読んだ本で、希薄な空気のなかでの啓蒙主義者セッテンブリーニと改宗ユダヤ人ナフタのせめぎあいを熱病の夢のように読みふけったことを思い出す。

作品展をやってやろうと言われ、水戸芸術館で「高橋悠治の肖像」というコンサートが企画される。2009年のことで、作曲やピアノ演奏が批評された記憶もないし、認められているとは思ったこともないので意外な気がした。鎌倉から時間をかけてそのコンサートにも来てくれたのも意外だった。1960年代からその時までのさまざまな方向にちらばった作品を集めても、その後は見えない。使えるような材料の蓄積はなく、そのたびに別な失敗をかさねる。時々はこれでよかったと思える時もあるが、永くはつづかないし、次の作品には何の役にも立たない。

「もう書くことしか残っていない」と言いながら書きつづけた人がこうしたかたちで自分の出発点に回帰するのを離れた位置からながめながら、記憶のなかで熟成したものが世界と向きあう姿勢として表現されるという、このいきかたではなく、迷路の曲がり角で突然射しこむ光、記憶に立ち戻りながらそこから絶えず逃れる小道がないかをさがしつづけている、というほうがこちらのいきかたかもしれない。世界は暗い。それでもなにかうごめくものがある。希望と言えるようなものではなく、日々の暮らしのなかで思いがけず垣間見るなにか、言うに言われないもの。