製本かい摘みましては(91)

四釜裕子

渋谷駅から神南へ向かうのにいつも通る生地屋のマルナン脇の細い道。そもそも、マルナンがあるから通る道である。昔は洋服、引越したらカーテンやら隠し布、季節ごとのクロスやカバー、ときどき製本、そのつどの材料探しに、あるいは、通るついでに目的もなく山積みの布をここで何度も眺めてきた。こんな服こんな暮らしを生地屋で頭の中いっぱいにするだけで充分だった頃がある。欲しい洋服が買えなくても、似たやつを作ればいいサとあたりまえに思っていたし、改めてその手間と材料費を考えてきっぱりあきらめることもできた。こうしてうろつく恍惚少年少女(年齢じゃなくて)に執事のごとく斜め後方からしのびよるのがマルナン名物、おじ(い)さん店員。こちらもきっちり品定めされて、たいていほったらかしにされてたけれど。

この道の駅側に大きなパチンコ店ができて、呼び込みやBGMでかまびすしい。7月、夏らしい汗と煙草とカレーの臭いをくぐっていつものマルナン店内散歩をしていると、閉店セールの張り紙がある。巷でよくあるなんちゃって閉店セールかなと思い、冷やかし半分におじ(い)さん店員に尋ねてみる。「建物が古いからね、ほんとの閉店」。えー。移転でもなく? 周りのお客さんも寄ってくる。そうとなればセール期間が気がかり。いつまでですか? 「まだはっきりわかんないんだよね。8月の末か9月かな。ところでお客さん、リネン見てたね。何つくるの? あっそう。ならこっちがいいよ。ものが違うよ。幅は? ああ充分ね。いい色でしょう」。数日後、閉店日は9月16日、創業71年と知る。なくなれば、この通りを歩くことはないだろう。

渋谷駅直結の東横百貨店は昭和9年開店、マルナンは8年後の創業となろうか。渋谷区教育委員会刊『渋谷の記憶』全五巻を開いてみる。駅前にもかかわらずマルナンのある一帯が写されたものはない。昭和20年、シブヤ109がたつ場所を正面にした写真には、渋谷駅前広場にできたヤミ市が見える。マルナンが最初から今の場所にあったかどうかは知らないが、あの辺りは一面ヤミ市だったようだ。戦前の道玄坂の賑わいを写す写真もあるから、昭和19年11月から翌年5月までの空襲でこの一体も焼け出されたのか。昭和27年、東横百貨店屋上から玉電ビルまでの空中ケーブルカー「ひばり号」を写した写真。現在のQフロントのところに大きな毛糸店がある。ヤミ市あとは「ひばり号」に隠れて見えないが、広場として整備されたようだ。昭和30年、シブヤ109の場所に洋品店「三丸」。道行くひとの洋服の、どれくらいが既製品だったのだろう。

この写真集は同じ地点から撮影した現在と昔の写真が見開きに並べてある。その場所の現在を撮るにあたっては、できるだけ似た状況を狙ったのだろう。同じ地点にある建造物は圧倒的に変わったが、体型や顔立ち、趣向こそ変わってもその実ほとんど変化のない「人々」が、同じように横切っていたりする。私たちは建造物を作っては壊し作っては壊しを繰り返してむくむくと育て、結果、上にも下にも視界は狭め、もはや町を歩くのに視界はほんの直径数センチしか必要がなくなった。初めからこうしたかったわけではないが、気づいたときには取り返しがつかなくて、今や西の空の変化に気づくことなく突然の雷雨に気象予報士の悪口をツイートし、土地の起伏への関心も感度も失って銀座線の渋谷駅はなんでこんな高いところにあるんだと文句を言っている。

田村圭介さんの『迷い迷って渋谷駅』に、『渋谷の記憶』と同じ昭和27年撮影の「ひばり号」の写真がある。こちらは駅前広場から道玄坂方面が見えているが、マルナンの場所らしきところにある建物の看板の文字までは見えない。田村さんは、渋谷川の流れの方向(南北)をy軸、大山街道が示す東西をx軸ととらえて、谷という自然を越えようとする人の営みがクロスした交点として渋谷駅をみる。模型やグラフ、ダイアグラムなど多様な図版も活用して駅の構造の変化を読み解く。多摩川からの砂利と都心からのサラリーマンがこの谷底で出会う明治44年頃の話は好ましいラブストーリーのようで、山手線の渋谷駅を腹とした小さな蝶が羽ばたくようだった。本書はこんなふうにおわる。《いまあなたはこの本を閉じようとしている。閉じる前に、この本のノドが渋谷川のyで、両手の親指を結んだ線がxとして見たときに、その谷底に渋谷駅の姿を思い返していただくことができたら、これ以上うれしいことはない。》あ、ここにも蝶。

しもた屋之噺(140)

杉山洋一

東京に戻ってきました。息子が伊豆から持ち帰ってきた瀕死のクワガタに、砂糖水に与那国の泡盛を垂らして嘗めさせてやると、仰向けで殆ど反応しなかったのが嘘のように生気が戻ってきました。好きなだけ嘗めさせておくと、今度は腰が抜けた放心状態で座り込んだので、泡盛が多すぎたのかもしれませんが、暫くして我に返り、またちびりちびりと美味しそうに嘗めだすあたりに愛嬌が覚えます。外に出たいともがくので放してやりたいのですが、この辺りでクヌギがある場所はどこか、楽譜を広げつつ考え込んでいるところです。

8月某日 ミラノ自宅にて

Rから長いメールが来たので、返事を書く。新曲を勉強するにあたり、初めは全体を読み、それから酷い苦労をして細部を読み、最後にそれらを俯瞰できるところまで持ってゆかなければ、演奏にならない。曲を説明するのでも、アーティキュレーションとダイナミクスを原典に沿って再現するだけでも、音楽にはならない。その後で、俯瞰し自分から全てを剥ぎ取らなければいけない。生徒に調子のいいことを書いて、全てそれらは自分に跳ね返ってくる。俗にいう自業自得。自らの頸を絞める、ともいうらしい。

8月某日 ミラノ路面電車内にて

教師は本来自分が習ったことを弟子に伝えることが務めではなかったか。伝統、伝承、継承などの言葉が、ある時代までの文化を培ってきたことはたしかだ。作曲家と演奏家の分業が進んだからか、啓蒙主義の結果なのか、職業音楽家には世界的なコンクール歴が必要不可欠になった。昔はほんの一握りの才能を認められたものだけが、音楽の英才教育を受け、ひとかどの音楽家として身を立てられるようになるまでパトロンの庇護下に留まっていたのだから、随分状況は違ったとおもう。同時に職業を別にもつアマチュア音楽家は無数にいただろうし、それなりに愉しんでいたのだろうが、そもそもクラシックに関して言えば、最近まで誰でも職業音楽家を目指せるような社会構造ではなかったのだから、万人に職業音楽家への門戸を開いたのが、一つには国際コンクールということになる。当然、教師が生徒をコンクールに入れられる文化を担うことになるのは、理に適っていて却って怖いくらい。恐らく昔からどんな文化でも常に結果や対価を欲していたかとは思うが、これほど性急に求められる時代は、かつてなかっただろう。

8月某日 ヴィニョリ通り喫茶店にて

朝早く散歩をしながら、一千年後の人類はどうしているかと思いを馳せてみる。百年後なら多少は想像もつくが、千年後となると、果たして現在までのように発展し続けているかすら怪しい。自分たちの想像も及ばない所までゆくと、つい「猿の惑星」を思い出したくもなる。今度古希お祝いの演奏会をする池辺先生も、「未来少年コナン」の音楽を書いていらしたなどと考えつつ、一千年後の人の顔を想像する。昭和初期の日本人でさえ写真を見る限り、背格好は今と大分違う。現在までの通り加速度的に変化が進めば、一千年後はかなり変化している筈だし、気候も国も言葉も生活習慣も、恐らく現在と同じものを探すのは皆無かもしれない。春をひさぐ習慣は一千年前からあったのだから、もしかしたら一千年後も残っている気もする。宗教だって、一千年後ともなると、もしかしたら少し怪しいかもしれない。古代ローマ帝国とか、古代エジプト王朝などは、一千年後に自らの建造物が残ることを、かなり強く意識していたのではなかろうか。それが事実残ったわけだから、驚嘆に値する。文化、むしろ文明と呼ぶべきものだろうが、それを残さんとする堅固な意志は、古代人の方が遥かに勝っていたに違いない。

8月某日 自宅にて

自動書記的に作曲する愉しみは、試行錯誤を繰り返した後に、自分の望んでいたところに、音が勝手に並んでゆくのが客観的に見られることだ。この感覚は、子供の頃友達と十円玉を人差し指で押さえてやっていたコックリさんに、少し似ている。神秘的やら霊的なものに興味はないが、欲しい所にストンと文字がはまるところが似ている。今回、サロウィワが殺される直前に書いた声明のアルファベットを、全て七進法に読み替えてリズムやら何やらに使用してみると、一種の疑似言語化が生じる錯覚に陥る。夜半に一人で浄書していると、まるで言葉が浮き出してみえるときもあって、鳥肌が立つ。そのむかし各地で言語から文字が誕生したときも、似たような感覚を覚えたひとも、或いはいたかも知れない。記号が、意味や全く違う存在感を放つ、眩いとまどいのようなもの。

8月某日 自宅にて

浄書がひとつ終わった。小学校のころ学校だか学年の代表に選ばれて、一人だけ山端庸介氏の原爆のスチール写真などを何枚も渡されて、それについて作文を書いた記憶がある。小学校に入学したての頃、クラスに「はだしのゲン」が置いてあり、怖かったけれど全巻読んだ。そうして子供ながらに、自分にとってのアメリカは原爆を落とした国だという、如何ともしがたい不思議な感情だけが残った。自分の国に対しても、特攻隊の話を読むにつけ、上手く言葉に表現できない感情が形成された気がする。子供のころに覚えた皮膚感覚は、確かに理性とは少し別の部分に染み通ってゆくのは、自分だけか。
「近隣各国の反日感情」などと読むと、そこには政治的、歴史的な次元を含め様々な要因が蓄積されていることは十分理解しているけれど、自らの裡に薄く知覚される、このどんよりした気持ちが思い出されて、自己嫌悪すら覚える。アメリカ人は嫌いではないし、韓国人や中国人に対し特に何の感情もないが、アメリカに関しては原爆を落として欲しくなかった国という、理性とは違う感情が頭をもたげてしまう。反日感情と呼ばれるものの幾らかは、もしかしたらこれに近い、ほぼ理不尽な感覚なのかも知れない。

8月某日 空港に向かう特急車内にて

実家にお電話いただいと伝え聞き、久しぶりに増本きく子先生とお電話する。「ここに来て漸く、思うように曲が書けるようになったんでしてね」、と明るい声が受話器の向こうで弾んでいて、とても元気を頂く。あの世代それも滑舌の良い女性の話す、リズムカルな昭和の東京の語彙とイントネーションはとても耳に快い。これは東京弁と呼ぶべきものかは知らないけれど、少しずつ色褪せ失いかけている豊かな文化の片鱗が、言葉のはしばしから溢れている気がする。

(8月26日三軒茶屋にて)

もうひとつのドリーム・シンドローム〜ジョン・ケイルの場合

三橋圭介

あの有名なバナナのジャケット。◀PEEL SLOWLY AND SEEとアンディー・ウォーホールの名前しかない。ゆっくりバナナのシールをめくってみると赤っぽい実があらわれる。アルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ」は、1966年に発売された。

「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ」の魅力とは何か? ルー・リードの人間の深部を抉るような詩とその歌声の魅力はもちろんだが、ロック・バンドでヴィオラを奏で、ベースやキーボードなども担当したジョン・ケイルの実験精神も同じくらい大きな存在だった。その意味では、確実にリードとケイルの化学反応が起こしたバンドだろう。それゆえケイルが参加した2枚のアルバムで、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは終わったという見方もできる。では、このバンドでのケイルの具体的な役割は何か? それはラ・モンテ・ヤングやトニー・コンラッドなどと行なった永久音楽劇場やドリーム・シンドロームでのドローン体験をバンドにもたらすことだった。

ジョン・ケイルは、1942年、イギリスのウェールズに生まれた。幼少の頃より、ピアノ、ヴァイオリンを学び、ウェーリッシュ・ユース・オーケストラに参加。その一方、ラジオでリトル・リチャード、エルヴィスなどのロックもきいた。ゴールドスミス・カレッジに進学し、作曲(音楽学という著作もある)をカーデューなどに学び、フルクサスの存在を知る。1963年7月には大学(カーデュー主催)でケージなどのアメリカ実験音楽とフルクサスを特集した2日間の音楽祭(A little Festival of New Music)が行われ、演奏者としてケイルも参加している(ヤングの作品は3作あったが、ドローンによる作品はない)。卒業後はコープランドの推薦でタングルウッドの奨学金を得、作曲の夏期マスター・クラスでクセナキスに学ぶ。クラスの終わりに行われる生徒の作品発表で、ケイルは舞台中央のテーブルを斧で破壊するというフルクサス的パフォーマンスを行なった。その年秋、ニューヨークに行き、ケージが行なったサティの「ヴェクサシオン」の世界初演に参加。この後、ケージの紹介でヤングとのミニマルな永久音楽劇場やドリーム・シンドロームへと至る。

クラシックからフルクサス、ドリーム・シンドロームへと至るケイルの経歴は、そのままヴェルヴェット・アンダーグラウンドに引き継がれたが、なかでも特にヤングのドローン・ミュージックとの出会いは大きかった。ドローンとは、ケイルの故郷のバグパイプの音楽やインドのシタールなどに特徴的なもので、旋律の下で鳴っている持続音のこと(それゆえウェーリッシュ出身のケイルにとって親しみやすかったのかもしれない)。60年代初頭からヤングはそうしたドローンを基本とする音楽を実践していた。そこには一音だけの作品もあるが、ドローン(持続音)の上で即興するために5度と2度を基礎とする場合も多かった。永久音楽劇場の「ラヴィのためのラーガ」でのインド旋法、ドリーム・シンドロームによる”DAY OF NIAGARA”の混沌とした一音のドローン。そこでは音をきくという集中のなかに瞑想や神秘体験を求めている。ひとつの厚みのある音の壁(建築)のきめに耳を凝らし、その音のなかに入り込む。だが、それはしだいに背景のように退いて全体を取り囲む宇宙となるだろう。当時、ヤングはニューヨークで一番のドラッグ・コネクションであり、ケイルはその販売も担当していた。かれらの音楽がどうやって演奏され、きかれていたかは想像に難くない。

ケイルは、ヤングとの活動が金にならないことを悟り、自分で歌を作ろうとしていたという。その矢先、リードのドミナントとサブドミナントを基調とした歌(ドローンが可能)と決定的に出会った。ケイルはそれまでの経験を生かせると感じ、彼の歌にドローンをあてはめた。#ドの持続の上で朗読するような歌が加速をくり返し、ケイルのヴィオラがハウリングしながら狂気へと至る「ヘロイン」、ヴィオラの跳躍するグリッサンドが印象的な「毛皮のヴィーナス」。「ブラック・エンジェルズ・デッド・ソング」では、ヴィオラのハーモニクスによるドーソ・ソーレのドローン(ギターも同じような動きをしている)を一貫して用いている。こうしてロックに移植されたヤングの厚みのあるドローン(音色)が、リードの歌と共振し、激しさを増してヴェルヴェット・アンダーグラウンドとなって完成した。

プロデューサーとなったウォーホールが引っ張ってきたニコが、バナナの皮一枚で抜け、続いてケイルも抜けた。だが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの精神を引き継いだのは、ニコとケイルだった。その後、ケイルはニコのソロ・アルバム4枚をプロデュースした。その2枚目となる1970年の「デザートショア」はその最良の一枚。ニコの乾いた真っ直ぐな声と、ドローンを基調とするケイルの斬新なアレンジは、すでにロックやポップスというジャンルすら越えようとしている。また、彼女の晩年のライヴでは、足踏みオルガンでドローンを奏でながら歌う姿を見ることもできる。リードも後にあの問題作「メタル・マシン・ミュージック」(1975)を作ったが、どれもケイルの存在なくしてはありえなかっただろう。

ブライアン・イーノは書いた。「ファースト・アルバムは10000枚しか売れなかったが、買った誰もがバンドを作った」。そのなかにはデヴィッド・ボウイ、セックス・ピストルズ、ロキシー・ミュージック、ニルヴァーナ、U2、パティ・スミス(詩をメロディに乗せて歌うという意味で、最もリードの影響が大きい)、ソニック・ユースなどがいる。ジム・オルークをはじめとする近年のポストロックなども、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを賛美した。ミニマリズムはロックに影響を与えたといわれるが、ジョン・ケイルは真っ先にそこに飛び込み、ドローンによって新しい音の壁を打ち建てた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、ケイルにとってのもうひとつのドリーム・シンドローム(あるいは夢の劇場)だったのかもしれない。

月を追いながら 歩く(5)

植松眞人

 雲の形は写真と同じになったまま動かない。邦子はそんな雲を見上げながら車を走らせる。カーナビが目的地まであと一キロだと告げる。邦子はハンドルを切って交差点を左折する。大きな牧場が視界に入ってくる。牛や馬はいない。ただ、緑の草だけが敷地いっぱいに広がっている。
 邦子のスマートフォンがダッシュボードの上で、何度か震えて止まる。
「ジュンさんからのメールかもしれない。見てくれる」
「いいんですか?」
「うん。大丈夫」
 邦子はそう言うと、運転しながらスマートフォンを香に手渡す。香は、ジュンさんからですね、と言いながら、少し文面を目で追う。
「読んでもらってもいい?」
 香は、ほんのわずかな間だけためらい、文面をあえて子どもへの読み聞かせのようにはきはきと読み始めた。

『メールは短いのに限る。
私の亡くなった夫がよくそう言っていたけど、
いま私はノートパソコンの前でこれを書いているので、ほんの少しだけ文面が長くなるかもしれません。
あなたからの電話には驚きました。特に、写真の話にはびっくり。自分でもあの写真のことは忘れていたから。電話の時には、とても驚いて、なんだか曖昧な受け答えをしてしまった気がするので、あなたがこっちへくる前に、私が答えられることは答えておこうと思って、このメールを書いています。
あの写真の雲の下には私がいます。とてもよく笑っている私がいます。あなたのお父さんもとてもよく笑っていながらシャッターを切っていました。思わせぶりなのは得意じゃないので書いてしまいますが、あの頃、私はあなたのお父さんに恋をしていました。と言っても、とても可愛らしいもので、あなたのお父さんはそれに気づいていたけれど、たぶん、気づかないふりをしてくれていたんだと思います。こういうことをあなたに面と向かって話す自信がなかったので、私はこのメールを書いたのね、きっと。
あの頃、あなたのお父さんは仕事の関係で、時々、こっちへ来ていらっしゃいました。どこへ行っても、少し浮いてしまう私は、こっちでも、家庭とか仕事ととかいろいろうまくいかなくて、時々訪ねてきてくれる自分より年上のいとこのお兄さん、つまり、あなたのお父さんは私の唯一の理解者だと思い込んでいたのかも知れません。その点については、亡くなった夫には本当に悪いことをしたと今でも思っています。夫は私に本当によくしてくれていたから。
あなたに会えるのは本当に嬉しい。もしかしたら、これ以上お話できることは何もないかも知れないけれど。でも、あなたが嫌でなければ、あなたの知らなかったお父さんについて、何かお話できるかもしれませんね』

 香は長いメールを読み終えると、フロントガラス越しに空を見上げた。邦子は黙ったまま運転を続けた。牧場の柵はまだ続いている。道は牧場をぐるりと迂回しながら、ジュンのいる場所へと続いているようだ。
「あ、馬だ」
 香がそうつぶやいて、助手席のウインドウを下ろした。知らず知らず速度があがっていたのか、ウインドウが開いた途端に、ボワッという音がして、風が車内全体に吹き込んできた。その風が、ダッシュボードの上に無造作に置かれていた写真を舞い上げた。何枚かの写真が、邦子の視界を遮った。ほんの一瞬、雲と空の写真が目の前で静止したように見えた。その写真が視界から消えると、本物の空と雲がフロントガラスの向こうに見えた。モノクロの風景とカラーの風景が交錯して、邦子から現実感を奪い取った。香は、とっさに写真をつかもうと手を振り回す。その手の動きに驚いた邦子が急ブレーキを踏む。車が蛇行する。前方から走ってきたバイクが蛇行する車をすり抜けて走り去る。車を真っ直ぐに立て直そうと邦子はハンドルを切り直そうとするが蛇行は横滑りに変わる。目の前を牧場の緑が横へ横へと通り過ぎていく。まるで、緑の景色を延々と移動撮影している映画のようだ、と邦子は思った。映画を見ながら、死んでしまうのか。そんなことも思ったのだけれど、やがて、緑の横移動はゆっくりと停止した。
 車が鼻先を牧場に向けたまま止まった。後から来た車がクラクションを鳴らしたが、それは危険を回避するためというよりも、邦子たちが無事かどうかを確かめるクラクションだった。
 邦子は我に返ると、小さくクラクションを鳴らして、後続車の運転手に合図をした。そして、こちらの様子を見ながらゆっくりと通り過ぎていくその運転手に「大丈夫です。すみません」を繰り返した。後続車が行きすぎると、やっと香を見ることができた。
「大丈夫?」
 声をかけると、香が何も言葉にできないまま大きく何度もうなずいた。
 邦子は深呼吸をすると車を降りた。そして、二歩、三歩と車から離れて、できるだけ冷静に状況を把握しようと努めた。車はセンターラインからはみ出して斜めになっている。鼻先を牧場の方に向けているのだが、ガードレールにこすったのか、バンパーに目視できるほどの凹みができていた。どう見ても、通行の邪魔になると考えて、邦子はエンジンをかけ直すと、車を前後に何度か切り返して牧場の側にピタリと寄せて停めた。
「ちょっとヘンな音がしますね」
 やっと落ち着きを取り戻したのか、香が声をかけた。
「車に詳しくないんだけど、レンタカー屋さんに電話しといた方がいいわね」
 邦子はそう言うと、携帯電話を取りだした。そんな様子を見ながら、香は助手席の足元に落ちた写真を拾い集めた。邦子の父が撮影した空と雲の写真だ。全部で七枚あったはずの写真が六枚しかなかった。香は車を降りると、車道を歩いて写真を探した。
 辺りを見回しても、写真は見当たらなかった。車道も道路脇の草むらも見てみたが、写真が見つからない。
「怪我はないわよね」
 電話を終えた邦子が香に声をかけた。
「はい、大丈夫です」
「それならいいの。レンタカー屋のお兄さんが『怪我がないなら、こちらから迎えに行きます』って」
「来てくれるんですか?」
「念のためレッカー車で迎えに来て、所定の手続きをさせてもらいますって。ちょっと時間がかかりそうなんだけど」
「それじゃ、写真を探しながら待っていましょう」
「写真、ない?」
「一枚ないんです。ほら、一九八〇年長野にてって書いてあったのが」
「あの写真が私たちをここまで引っ張ってきたようなものなのにね」
 二人は本腰を入れて、写真を探し始めた。晴れ渡っていた空は、知らぬ間に薄く曇っていた。日が傾くのとほぼ同時だったので、急に一日が夜へと足を踏み入れたように感じられた。実際にはまだ午後三時を少し回ったところだというのに、長い一日を過ごしているような気分に邦子はなった。
「あの写真、出てくるかしら」
 邦子はそうつぶやいた。その声を捉えて、香が振り返る。
「出てこない気がするんですか?」
 そう言われて、なぜそんなことを言い出したのか邦子にはわからなくなった。しかし、はっきりと「出てこないかも知れない」という気がした。ただ、それを香に伝えるのは早すぎる気がして、曖昧に首を振るとまた車道のあちらこちらを探し始める。
 香は感心するほど、熱心に写真を探してくれている。自分が窓を開けたせいでなくなったと思っているのかもしれない。でも、写真がなくなったのは香のせいじゃない。邦子はそう思いながら、のびをして空を見上げた。相変わらず曇ってはいたが、少し雲が薄くなり、雲の向こうの明るさが増してきたような気がした。邦子は明るい空と薄く伸びた雲の間に、もう一つ何かがあるのを見つける。大きな月だった。薄く青い空に、白く大きな月が見えていた。邦子は白く大きな輪郭のはっきりしない月に見入った。風の音も、香が歩く音も、遠くから聞こえる車の音も、何も耳に入らないほど、月に見入っていた。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。香が邦子の横に立って、同じように月を見上げていた。
「だんだん、月の輪郭がはっきりしてきたわね」
 邦子が言うと、香がうなずいた。
「私、こんなに明るい時間に、こんなに大きな月を見たなんて初めてです」
「私も。でも、気がつかないだけで、いつも見えてるのかもね」
「もしかしたら、本当にいまだけの風景かもしませんよ」
「そうね。それはそれで、なんだかうれしいわ」
 邦子と香はしばらく月を見上げたまま時間を過ごした。
 二人が小さな事故を起こした当事者だということを再び思い起こさせてくれたのは、レンタカー屋のレッカー車のエンジン音だった。
 レッカー車は邦子たちが乗ってきた車の前方に停車した。降りてきた若い男の店員は、必要以上に丁寧に「怪我はありませんか」を繰り返した。そのセリフがとても業務的で、ふいに邦子を現実に引き戻した。
 写真が一枚なくなっている。ジュンさんの家に行く約束の時間が迫っている。車が故障している。目の前の出来事を一つ一つ確認しながら、邦子は、レンタカー屋の店員が、車の破損状態を調べるのを待った。
 車の周囲をゆっくりと一周しながら、用紙に何かを書き込んでいた店員は、運転席に乗り込むと、エンジンをかけてまた車の外に出た。そして、ボンネットを開けて、エンジン音に耳を澄ました。さっきまでは聞こえなかったチリチリという嫌な音が静かな長野の空の下に響いた。
 エンジンを止めると店員は邦子のほうへやってきた。
「たいした破損ではないと思うのですが、このままお貸しするというわけにはいかないんです」
「どうすればいいですか?」
「そうですね。自損だけですから、この車をレッカー移動して、手続きをしていただければ、また新しい車をお貸しすることができますよ」
「え? 貸してもらえるんですか? 新しい車を」
「はい」
「いま事故を起こしたばっかりなのに?」
「会社によっていろいろあると思うんですが、ほとんどの会社は大丈夫です。借りるたびに事故を起こしていたらブラックリストにのると思いますが……」
「事故は初めてです」
「すみません。それなら、大丈夫です。ただ、一度、この車を借りた事務所まで来ていただかなくてはいけないので」
 貸した車を傷つけられたのに謝っている店員がなんだか可愛そうになって、邦子はもう車はいらないと答えた。
「いいんですか?」
「新しいのを借りても、また事故を起こしそうな気がするんだもの」
「そ、それは」
「だから、車はいらないわ。そのかわり、すぐこの先にある家の前までレッカー車で送ってくれませんか。ちょっとご挨拶するだけで、すぐ帰るので」
 もちろん、それが会社としてはルール違反であることは分かっているのだが、この店員なら融通を利かせてくれそうな気がして、邦子は言う。案の定、店員はしばらく手元の用紙を眺めたまま考え込んで、おもむろに顔を上げると、わかりました、と答えた。
「一応、会社には内緒にしておいてもらえるならお送りします」
「いいの?」
「今日は暇なんです」
 店員は笑ってそう言うと、さっきまで眉間にしわを寄せていたのが嘘のようにレッカー車の方へ駆け出した。
 邦子が香に、店員とのやり取りを説明している間にも、店員はレッカー車に破損した車を連結して、移動できる準備を進めている。
「ジュンさんびっくりするでしょうね」
 香が笑いながら言う。
「そうね」
 邦子はそう返事をして、もう一度だけ、車の周囲を歩きながらなくなった写真を探した。

    ■

 ジュンさんの家は牧場から真っ直ぐに車を走らせて五分も行かないところにあった。不動産業者がその一画の土地をひとまとめに買い、十軒ほどの区画に分けて建て売り住宅を作った。そんなところだった。
 それぞれの家々は、特徴のない建て売り分譲住宅にそれなりの個性を与えようと、カーテンの色や壁の色、停めてある自動車の形などで、ささやかに主張をしていた。それが微笑ましくて、小さな事故を起こしたことで、こわばっていた邦子の表情はなごんだ。みんながきちんと幸せを欲している場所で、ジュンさんは暮らしているのか、と邦子は思った。この一画にレッカー車はさすがに似合わないと思ったので、店員に待ってもらい、二人は番地を頼りにその住宅地の一番奥へと入っていく。
 真っ正面に表れた家は、他の家々とは少し違った印象を邦子に与えた。作りはまったく一緒なのだが、ジュンさんの家には、なんの主張もなかった。おそらく、入居したときから、なんの手入れもしていない様子が見て取れた。車も置いていなかった。自転車もなかった。表札も丁寧に書かれたプレートが郵便受けに貼り付けてあるだけだった。ジュンさんの名前だけがフルネームで書かれていた。正面から見える窓はすべて開け放たれていて、開けられた窓際では生成りのカーテンが揺れていた。
「なぜだろう」
 邦子は思わず口にしていた。
「なにがですか?」
 香が答える。
「窓は全部開けられているのに、風通しのいい感じが全然しないの」
 邦子がそう言うのを香は黙って聞いていた。
「風が吹いて、カーテンが揺れて……。でも、私たちは歓迎されていない。そんな気がとてもするの」
 邦子は改めて、正面から見える窓を一つ一つ眺めた。
「なんか不思議な感じがしますね」
 香が言う。
「なにが?」
 邦子が答える。
「ジュンさんに会う前に、あの写真を撮ったのは邦子さんのお父さんだったとか、ジュンさんがお父さんに恋をしていたのだとか、そういう情報を私たちがもう知ってしまっているっていうことが」
「そう言えば、そうよね」
「なんだか」
「もう会わなくてもいいくらい」
 そう言うと、邦子は笑う。
「でも、子どものころ大好きだったジュンさんに会えるんだし」
「そうね」
「こんな機会はもうないかもしれないし……」
 香はそこまで言った後、少しだけ間を置いた。
「私に言えるのはここまでですね」
 そう言われて、邦子は余計に立ち止まってしまう。そうだった。こんなことを言いそうだから、香を連れてきたんだった。邦子はそう思った。それでも、邦子は動けなくなった。車の事故も写真の紛失も、なんとなくジュンさんに会わない方がいい、という暗示なのではないかと思えてきたのだった。
 邦子はジュンさんの家のさらに上を見上げた。日が暮れ始めて、大きな月がよりはっきりと見えていた。月の周囲の空は濃さを増した青になり、月そのものは黄色を帯び始めていた。それでもまだ夜は来ていない。
 どちらでもいい、と邦子は思い始めた。ジュンさんに会っても会わなくても、いいこともあるし悪いこともある、知りたいこともあるし知りたくないこともある、と思い始めていた。
 その時、ジュンさんの家のチャイムが響いた。
 邦子が視線を下げると、香がジュンさんの家の前に進み出て、チャイムを押していた。振り返った香は邦子に微笑みながら言う。
「まずかったですか?」
 邦子は首を横に振りながら答える。
「ううん。いくら迷っていても、こんなふうに扉は開かれるのよ」
 奥から、子どもの頃に聞いたことのあるジュンさんの声がした。それは思いの外、明るい声に感じられた。(了)

秋空に

大野晋

最近、特に老眼が進んでからコンピュータを見ることが辛くなった。そんなこともあり、このところ、多少時間がある土日や休日でもメールをチェックをしていないことも多い。そういう私がその知らせを聞いたのは、青空文庫とは違うニュースソースからだった。

古くから積みあがった青空文庫の自分の作業バックログを眺めながら、彼のことを思い出す。

文章を書くにしても説明が長くなり、分かりにくいと言われた富田倫生の新しい文章ももう読むことができなくなってしまった。同じ横浜に住んでいるということもあり、また、私が文書書きのために紅葉坂の県立図書館にこもるということもあって、何回か、会ったこともあったように記憶している。紅葉坂の公園から名前を叫べば、仕事場から会いに行くから、と言っていたのを思い出す。

一番最初のテキストファイルの取り扱いを決めた際、「どうせ、著作権フリーなのだからテキストを利用して、有償であっても、無償であっても関係なく自由にしてしまおう」と切り出したのも富田さんだったと思う。青空文庫のテキストファイルのその後の展開を考えるとあれが正しかったのだろう。

青空文庫の作業が個人に依存して継続できなくならないように、とシステム化に取り組んだのも富田さんだったが、そのくせ一番属人的な仕事をやっていたのも本人だった。今考えると、マニュアル化が進まなかったら、もっと生に執着していたのかもしれないけれど、それはデモシカの国の話。

「永久機関の夢を見る青空文庫」などと言いながら一番それに危機感を持っていたのも彼だったのかもしれない。青空文庫の収録テキストを全収録したDVDを配布した際、本にして国会図書館に献本すれば青空文庫がなくなっても魚拓が残ると、実行に移したのも彼だった。まあ、青空文庫と同時期に現れたテキストアーカイブがことごとくなくなってしまったことを考えると、その危惧もわからないでもない。いま、青空文庫のバックログの一覧を見ると年末近くまでの公開予定テキストの列を見ることができる。粛々と青空文庫はテキストを今後も公開し続けるだろう。

私の知っている富田倫生は、おそらく、全体の一部分だったのかもしれないが、他の部分を知る前にいなくなってしまった。

これまでも、「僕は来年はいないから」と不吉な余命宣告をして、けれども、結局生き残っていたから、今年もそうなるかと軽く考えていた。だからこそ、いきなりの訃報に驚かされた。この点は、大いに本人に文句を言ってやらないといけない。心の準備をする時間も必要なんだから、狼少年は狼少年らしく、まだまだ生きていればよ
かったのに。

新しい家で、自宅で物書きができるようになったので、今は紅葉坂には、たまにしか厄介にはなっていない。しかし、今でも、紅葉坂の上の公園から名前を呼べば、本人が答えて、やってくるような気がしてならない。

まだまだ、暑い秋空を眺めて、この空に未来を見たひとりのことを思い出す。

懐かしい農具たち

くぼたのぞみ

 何枚もつなげたむしろの上に、鞘のついたままの、枝さえついたままの、大豆や小豆が広げられていた。短いけれど強い初秋の陽射しが、またたくまに豆の鞘から水分を奪っていく。何日かして、からからに乾いた豆の鞘を、ぱさり、ぱさり、と殻竿で打っていく。
 殻竿は重たい。柄がひどく長いのだ。豆の鞘を打つ部分は幅1センチメートルほどの肉厚の竹の棒串を何本か横に並べて、紐でくくった細長い長方形の形をしていた。

 わたしが生まれた土地に竹は生育していなかった。太い竹は、なかった。だから殻竿は内地から運ばれてきたモノだったのだろう。その土地に育ったのはネマガリダケと呼ばれる細い竹もどきの植物で、調べてみると、チシマザサという笹のひとつだ。名前のとおり根元がくにゃりと曲がっていた。
 このネマガリダケはキュウリやトマト、ツルインゲンの添え木として、交互に組んでよく使われた。思えば、ビニールハウスもない時代、稲の苗床も、野菜の種を植えた畝にも、このネマガリダケをしならせてつくった枠に油紙をかぶせてあった。いまにして思えば、ひどくナチュラルな「自然にやさしい」方式である。
 
 さて、殻竿である。子供にはとにかく重くて、長くて、手に持つだけで精一杯。とても大人のように、ぱさり、ぱさり、とむしろの上に振り下ろすことはできない。それでも、そのぱさり、ぱさり、が遠目にもひどく恰好良く見えて、面白そうで、何度もこっそりトライして、よろけて倒れそうになり、竿を放り出して、しかられた。 
 竿に打たれた豆は鞘からはじけたり、半分はじけたりして、大きめの枝や茎をむしろの上からとりのぞくと、小さな豆だけが下に残った。鞘のかけらもたくさん残っていたけれど、その雑多なごみを含んだ豆が、つぎに入れられるのが箕(み)だ。

 この箕という農具も細い竹を編んだものでできていたように思う。大人は立った姿勢で、その豆の入った箕を腰のところに構えて、上下に、豆を空中に踊らせるようにして、ざっざっざっ、と揺する。風に吹かれて軽い鞘は飛ぶ。かけらも飛ぶ。風下にいると目にゴミが入るので、このときはすかさず風上に逃げる。
 幅広の変形シャベルみたいな形の箕もまた、使っているところは面白そうでならなかった。とにかく動作が恰好いいのだ。子供は是が非でもやってみたいのだ。持たせてもらう。豆が入っているとずっしり重たく、とても上下に揺すれない。へたに揺すると豆がざざーっと地面にこぼれてしまい、拾い集めるのが大仕事。豆も汚れる。当然、しかられる。
 
 農家の子は小学生高学年ともなれば、いろんな農作業をじつに巧みにこなす人が多かった。わたしはしかられることの多い、中途半端な子供だった。家は半農だったから、半端で許されたのだろう。クラスメートが今日は田植えだから、稲刈りだから、といって早々に家に帰るころ、わたしは翻訳小説ばかり読んでいた。いまでいう、ハーレクインジュニア版みたいなシリーズを読みふけるようになったのは、しかし、もう少しあとだったかもしれない。

106翠地下水──みずから汚染水になりながら

藤井貞和

くそ詩、オクロみたいな天然原子炉になること、
水の下で、35トンのウラン235や、
セシウム137や、きみのメルトダウンを、
冷却しなさい。 阿武隈の山塊は、
みずから汚染水になりながら――

くいとめていられる? なかまたちへ、
身をもって、
訴えているつもりなのだろうよ、
きょう。 すこし若者たちの想像力が伸びた、
でも遅かったよ、くそ詩――

(おやすみ、くそ詩。活断層、がんばってるね。汚染水しっかりよ、応援する。メルトダウンによる、数十トンの放射性物質を、必死に冷却している、阿武隈山塊の地下水が、みずから汚染水になって、再臨界をくいとめている。全国のなかまたちは、いくらなんでも稼働しにくいから、きみは身をもって、訴えているつもりなのだろうさ。)

ぴったり似合うものを探して

若松恵子

本屋さんを覗くと光野桃の新刊が出ていて、7年ぶりのファッションエッセイ『おしゃれの幸福論』を買ってきてさっそく読んだ。90年代半ばから、ファッション誌に登場する彼女のエッセイを見つけては、ぽつぽつ読んで、ファッションの嗜好はまるで似ていないにも関わらず、どこか魅かれるものがあって、本が出ているのをみつけては読んできた。彼女の人生とともに綴られてきたエッセイ集が何冊も私の本棚に大切にとってある。
初期のエッセイには、彼女がミラノに住んでいた頃の想い出と共に「洗練」や「成熟」が描かれていて、彼女の綴る文章に、遠く憧れの思いを呼び起こされて、それが気持ち良くて、読んでいたような気がする。
そのうち、彼女は、ずっと書きたかった「小説」を書くことに専念すると宣言して、エッセイの仕事を減らし、長い時間をかけて2冊の小説を上梓した後、仕事に区切りをつけ、夫の転勤についてバーレーンに行ってしまった。雑誌に登場したその頃の記事によると、仕事を引退するつもりだったようだ。小説家としては成功することはできなかったが、彼女が書いた2冊の小説は、独特の形をもって、忘れがたい味わいを残した。
その頃は精神状態が悪くて、バーレーンに行ったあとつらい毎日を送っていたという事が帰国後に書かれたエッセイには綴られている。
バーレーンから帰国した彼女は、母親の介護やつらい精神状態を何とか乗り越え、執筆活動を再開した。再び彼女の姿を雑誌にみかけるようになり、友人のような親しみをもって私も再び彼女が綴ったものを読んでいる。
6歳年上の彼女は、私よりほんの少し先を歩む人だ。最新刊の『おしゃれの幸福論』では、これまでのスタイルが似合わなくなってくる年齢を迎えて、縛られていた価値観から自由になって、新しい自分の魅力をみつけることの大切さを語っている。相変わらず、自分をみつけきれない苦しさについて、彼女は語っている。ぴったり似合うものを探す旅を彼女は今も続けているのだ。彼女の紹介するコーディネートを参考にしようとして読んでいるわけでもなく、どこか魅かれて彼女のエッセイを読んでいる。いつも、いつも、「こうありたい」と決意している彼女のきまじめさにどこか共感しているからなのだろうか。

振付と音楽

冨岡三智

NHK朝ドラの「あまちゃん」に登場するアイドル・プロデューサーは、詞先(先に作詞)でも、曲先(先に作曲)でもなくて、振り先(ふりせん、先に振付)という設定だ。アイドル・ダンスでは詞や曲ができる前に振付を考えるというのは普通ではないみたいだが、ジャワの伝統舞踊で、私は振り先で作られたダンスを踊った経験がある。というわけで、今回は振付と音楽の関係について。

私の場合、第1作目は曲先で振付した。初めて演奏会で曲を聴いたときに、それまで舞踊にしたいと思っていたコンセプトにぴったりの曲だと思ったからだ。2作目は委嘱曲で振付したいと思っていたので、舞踊音楽の作曲を得意とする音楽家に委嘱した。この人はある程度が振付ができてから音楽をつけたいと言ってきたので、曲のコンセプト、進行、フォーメーション、曲調、曲の形式、演出などを最初に伝え、それぞれの場面の動きを大ざっぱに決めてから一度練習を見に来てもらい、曲ができると、それで踊り込みつつ、音楽の方も手直しという作業をした。

たぶん、こんな風に音楽家と相談しながら振り付けるのがジャワの伝統的な手法だろうと、私は漠然と思っていたのだが、私が踊り手の1人に起用されたある公演では、本当に「振り先」だったので驚いた。つまり、音楽がまだできていないのに、動きだけどんどん決めていくのだ。振付家は当時すでに40代半ばの芸術系大学の舞踊教員だから、素人ではない。彼の作品では男女4人ずつが出演したのだが、女性パートでは私1人が呼ばれ、彼の試行錯誤に付き合って指図されるままに動き、動きが決まると彼はそのつど舞踊譜に足していった。男性パートでもわたしと同様に呼ばれていた人が1人いた。振付がほぼできてから他の踊り手も呼ばれて全体練習が始まり、フォーメーションが付け加わり、全体練習進んでから作曲家がやってきて、振付を見て、音楽ができたのはいつ頃だっただろう…、もう公演にかなり近くなってからのことだ。そういうやり方なのに、ばっちり音楽と振付の雰囲気が合っていて、私はびっくりしてしまった。というのも、この振付家はわたしと違って、曲の形式もあまり考慮してなかったからなのだ。ジャワの音楽はどんな形式の曲であれ4拍単位になっているから、それに合わせてやっていけば良いようなものの、ガムラン音楽のどの形式に合わない箇所もできたりして、私が指摘したこともある。とにかく、全体構成を意識せず(していたのかもしれないが)、冒頭部からどんどん動きをつなげていくという「振り先」の振付方法は意外だった。

私の第2作目の音楽家は楽器演奏者として出発しているせいだろう、曲先の人だった。「歌詞はどうする?」と聞いてくれたのは、わざわざ作詞したいか?ということを確認するためで、私が「別に意味がなくても良いです」と伝えたらそれでOKで、その観点から詞(というか単語)を当ててくれた。私にとって、舞踊の歌は、言葉の意味以上に効果音として意味があるもの。ときどき単語が耳に入っていろんなイメージを喚起してくれるけれど、そんなイメージや音の響きの方が、意味より大事、なのだ。けれど、同じガムラン音楽家でも、詞の朗誦から出発した人は当然ながら詞にうるさい。私が3作目の舞踊作品を作った時は歌の人に作曲してもらったのだが、その人は詞先でまず歌詞を作ってきた。それも1番、2番…という形で。だから、私がインストゥルメンタルな部分を増やしたり、曲を短くしたりするため歌詞を削りたいとお願いすると、意味がつながらなくなると主張されて、結局短くできなかった。

というわけで、私としては、「振り先」100%は唖然とするが、詞先でも困る、振り優先で途中から曲との同時並行がいいなあ、という次第。他の人がどんなふうに創作しているのかは知らないけれど…。

煙と砂埃

璃葉

穴だらけの部屋
光の中に煙と砂埃が泳ぐ
草のような模様は暗い時間に巻き付いて
秒針は進んだり退いたりを繰り返している
不規則に、細かく

  チチ チ リ  チ 

音は抜け落ちたり 鳴り続けたりしながら
夢の奥底に線を引いていく
目を開けば誰も覚えていない

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台風不当り

仲宗根浩

仕事終わりの帰り道、市営グラウンドでのエイサーまつり終わりのちょっとした渋滞に巻き込まれる。通りのコンビニはまつり帰りの若人がいっぱいで狭い駐車場を警備員が忙しく車を誘導している。

相変わらず雨が降らない。台風は二度近づいたが、暑さは変わらず風は気持ち涼しくなっただけ。実家から戻った奥さんと子供を迎えに空港に迎えに行く。飛行機が到着する前に空港内のコンビニに入ると店員さんが「めんそ〜れ〜」と声を出して迎える。「いらっしゃいませ〜」と変わらないイントネーションで気持ちが悪い。「めんそーれ」自体が本来「いらっしゃいませ」という意味ではないことは聞いたか読んだことがある。本来の意味とは違うように使われるようになった絶滅危惧言語の運命か。奥さんに向こうの暑さを聞くと、こっちが湿気が多い、と。一日中雨という日が三ヶ月くらい続いているような気がする。猛暑はないが高い湿度と二十七度より下がらない最低気温が続く夏。どちらも過ごすには体力がいる。

今年は休みの曜日めぐりがよく、旧盆の中日とお送りする日があたった。中日は親戚まわりをする。夜から台風の影響で風が強くなり、エイサーの太鼓の音がまわりまわってどこからへんを練り歩いているのかわからない。ここ数年、音が聞こえたほうに行くこともしなくなった。年がら年中イベントごとにやっているせいかありがたみがなくなるというか。

小学校のプールが午前中開放されるので子供いっしょに行くと強い日差しの中、空からは演習の戦闘機の音がやたらする。油断していたため日焼け対策がおろそかになっていた。家に帰りシャワーのお湯が日焼けしたところにあたるとひりひりするので、水で行水。それ以来、シャワーでお湯を使わなくてもよくなった。何日かあと、ヘリコプターが墜ちた週の最初の金曜日のゲート通り閑散としている中MPが巡回している。あばれる輩が今でてくるとよけいに面倒な事にならないためだろうか。日に焼けた肩は一週間足らずで皮がむけはじめ、そこだけ脱皮。

オトメンと指を差されて(61)

大久保ゆう

富田倫生さんのお別れ会があります。

そらもよう 2013年08月31日

わたしはそこに記載され、大久保ゆう(青空文庫)とあります。戸惑いを隠せません。なぜか。

ひとつには、わたしは青空文庫の作業をさほどこなしてはこなかったのです。長さにして量にして、平均値以下、これまで何百人といたはずのボランティアから考えればほんの微々たる尽力であり、一万を越えるファイルを基準にするとわずかな数しか手がけていません。実運営は言わずもがな。

ふたつには、わたしは富田倫生という人物のことを、ほとんど知りません。思い出にしても会話にしても、これまで彼と出会ってきた他の人々に比べれば接触がほとんどないも同様、何を教わったわけでもなく、おそらくはこの肩書きから周囲の人が推察するような師匠弟子の関係があったということでもありません。

それでもどうしてここにわたしの名前があるのか。推測と煩悶と修正。

大久保ゆう(青空文庫の、子ども)

たぶんこれがわたしの自意識と一致する、ただひとつの答えです。青空文庫が始まって間もない頃、インターネットでそのサイトを見かけ、1998年にはひょっこり勝手に現れ、ひとりの少年が遊び、暖かく見守られながら15年。

そのあいだにわたしは成長などして翻訳などして、童話や海外文学を増やしてみたり、芥川龍之介「後世」を見つけてきたり、映画に字幕を付けたり新聞に取材を受けたりサークルを作ったり朗読を進めたりサンタクロースになったり絵本を入れちゃったりミュージカルをしたりと、それこそ好き放題。

富田さんがそんな少年・若者のことをどう思っていたのか今となってはわからないけれど、青空文庫にこんにちわをしたごくごく初期の頃、自宅にいきなり「リーダーズ英和辞典」と「本の未来」が送られてきたことがありました。おそらく高校1年生にして「仮定法をまだ習っていない」と豪語しながら翻訳に取り組む少年を見かねたのでしょう。そのときの手紙には、短くこうあります。

「1999年5月11日
 青空文庫に関連する拙著を、同封しました。
 自分の本を送るなどと言うのは、ちょっと下司な気もします。(なら、すんなって)
 他の呼びかけ人には、内緒にしといてね。」

みっつには、そもそもわたしは青空文庫に収録された電子テキストをそんなに読んでもいません。きっと、ブラウザで、PDAで、T-Timeで、iPhoneで、Kindleで、わたし以上に読書した人はそれこそ大勢いらっしゃるはずです。青空文庫形式を使って小説を書いた人もいますし、青春時代に青空文庫に触れて本の世界へ入った人もいらっしゃるでしょう。

それに対してわたしは、青空があってそこに読まれる本が待っているにもかかわらず、その青空をただ走り回ってはしゃいでいただけなのです。あるいは、ながめていただけ。ただ自由に、気ままに。青空の下にいて、気の向いたときだけ本を読み、気まぐれに邪魔やお手伝いをしただけ。

ほら、これってすごく、子どもっぽい。

子どもというからには、やんちゃもするし、親に反抗もする。言うことなんてぜんぜん聞かない。ふらふらして家業を継ぐのか継がないのか何者になるのかもはっきりしないままなのに、けれども心のなかでは、何か親孝行しなきゃな、と思いつつ、いつまでもそれができず、ついにしそびれてしまうような、そんなありふれた子ども。

その日その時間、わたしはそんな子どもとして、その場所に現れると思います。

富田さん、本当に、さようなら。

10年後のNO WAR!

さとうまき

イラクからスハッド&ハディールの姉妹が来日し、長崎をはじめに、東京、大阪、松本、宮城、福島をぐるっと回った。バイオリンと、オーボエを抱えて、コンサートツアーと称したが、僕の意図したところは、バグダッドを生き抜いた子どもたちの音を聞いてほしかったこと。

10年前、「大人はどうして戦争するの?」と厳しく問いかけたイラクの少女は20歳になっていた。この問いに、アメリカだけではなくて、戦争を支持した日本の大人たちも答える義務がある。日本が、戦争に加担しているという意識はほとんどない。僕も、昨年まで大学で教えていたときに生徒たちに聞いてみたら、「自分たちがキチンと就職できる経済成長が一番大切」という意識で憲法9条を変えることもいとわないという意見が多かった。

戦争という選択に、その土地で生きる人たちの生き死が見えず、日本の子どもたちは、「かしこい」大人になっていくのか。だから、今回のツアーでは、同世代の大学生との対話の場を作り日本が加担した戦争を生き抜いたスハッドら姉妹から「戦争」を感じ未来を考えてほしかった。しかし、イラクは、現在も一か月に1000人以上が殺されている状況で、「暮らしはよくなった」と答え続けるスハッドには、子ども時代の平和なイラクの記憶は薄れ、戦争に慣れっこになってしまっている。

今まさに、アメリカがシリアを攻撃しようとしている。
化学兵器は誰が使用したかもわからないのに、アサド政権への懲罰だという。

空爆で痛みを受けるのは、シリアという土地で生きる子どもたちだ。国際社会は、アサド政権と反体制派の話し合いの場所を未だに作れずに、アメリカの軍事介入で、さらに戦いはエスカレートしていくだろう。

僕は、アメリカの武力行使に反対する。日本政府は、攻撃を支持すべきではない。

10年前に、当時10歳のスハッドちゃんが描いた絵に、NO WAR !と書き足したのは、私たち、大人だった。
私たち大人は、大人になったスハッドらとともにこれからもNO WARと言い続けなくてはならない。

写真論

管啓次郎

  1 
「あるものを写真にうつしたときどう見えるか、それを見ることだけが写真に対するおれの唯一の関心」(ギャリー・ウィノグランド)。だって撮られたものは、現実とはまったく似ていないじゃないか。秋の燃える木の葉はもはや木の葉ではない。泳ぐ湖の魚はすでに泳ぎを知らず魚らしい動きは何もない。太陽すらもう眩しくはなく氷原は砂丘と変わらない。何というジョークだろう、何という現実性のなさ。写真には必ず枠があり人が写真を見るときそれは現実の視野のわずかな一部しか占めず、周囲では生活が続く。その枠は死者の肖像画の枠に似ている。私たちの四次元的で予断を許さない動きと音にみちた、いつも全面的に色彩にみたされた現実の小さな一部分として、写真が枠の中で提示するのはたしかな実在の痕跡。聖骸布。だがそこではすべてが面に還元されるのだ、どの一部をとっても絶対的に平等な唯一の表面に。そこにあるのは染み、とぎれめのない紋様をもつモザイクだけ。

  2 
「数学者たるキャロル、あるいは写真家たるキャロル」(ドゥルーズ)。アリスの作者を語るために数学が必要なら、おれは黙っているしかない。それでもなお写真は平等に、誰の目によっても見られている。「数学がすぐれているのは、それが表面の数々を作り出し、深みに恐るべき混淆を孕んでいるような世界を沈静化させるから」と自殺した哲学者が語る(『批評と臨床』河出文庫)。同様に何億枚もの表面を作り出すのが写真の作用、そして世界は水をかけられた蜜蜂の群れのように沈静化させられる。世界が分封される。ごらん、すべての写真の表面に騒擾はなく、混乱も高揚もない。熱帯も亜寒帯もカラコルムもハルツームもなく、密林と幾何学的な庭園の区別も存在しない。すべては空白のないモザイク、絵画をめざすモザイク。そのどこかに生じている模様のズレばかりに気をとられて、われわれはいつも別のことを考えはじめてしまう。この世界を見つめているつもりで、別の世界のことばかり考える。写真なんか実在への通路にはならない、写真はきみに実在を教えない。

掠れ書き32 壁の向うのざわめき

高橋悠治

むかしの日本語で、「ここ」「そこ」「あそこ」という場所が、「こなた」「そなた」「あなた」という人称代名詞の住み分けになり、また、「こなた」は一人称から二人称に変わり、二人称となった「こなた」「そなた」「あなた」の共有する空間のつくりもちがう感じがする。

自分のものだった空間から引き下がり、他人に住まわせて外からながめる、注意深いまなざし、目の前と後ろ側を同時に意識する「目前心後」、後ろの音を聞こうとして身体がひろがりゆるむ。「ウチ(内)」が私的なことでなく、所有できない半透明な空間を指して。

双数をもつ言語。二つのものが並んでいるか向き合っている一組・一対は、複数のものを一つとみなす時とはちがうように思える。子どもがまず身体をうごかし、母親のことばが聞こえ、聞こえたことばをひとりでつぶやき、そこから意識が生まれる、としても、その先は、社会に向かっての表現、ことばで意志を伝えようとするしかないのだろうか。

夏の間ずっと作曲していた。一つのことに集中していると、くりかえしになったり、限界が見えるような気がして、毎回ちがうことをしようとすると、書き加える方向に行きそうになる。一本の線を淡く彩るつもりで、もう一つの音を置く、その音が動き出してもう一本の線になり、ポリフォニーが生まれる。メロディーがあり、それを支える低音があり、その間に詰め物としての内声部があるという、バロック以来の西洋音楽にいつかもどっていることに気づく。彩りとしての響きは、その余韻の境界を越えないのがいいのではないか。

自由間接話法。他人の声が自分の喉から聞こえる、壁の向こうのざわめきが森のように耳を包んでいる間は、安心していられる、というような。

歌。自分にそっと歌いかける。メリスマの悦び。その後の音楽史は忘れても。

連句のように、後もどりしない回廊に沿ってちがう風景がひらける、「付け」といっしょに「転じ」があるプロセスを解釈したり分析して何になるのだろう。「式目」のように細かく分類しても、芭蕉の「ただ先へ行く心」は見えないし、学問や権威が「ただ後戻りする心」を育てて。

「付け」では小さな循環が起こっている、「転じ」でそこから抜けだしていくなら、回りながら伸びていく植物の運動。

「行くにしたがい心が改まる」のには、一歩ごとにどこかで連続を断ち切っているはずで、その間に他のことをしていて忘れる時間があるから、新しい心が生まれるのかもしれない。近代合理主義の論理から、矛盾のない全体構造を先に考えれば、短時間の集中した作業で作品ができる、これが20世紀の生産性だったが、効率と多産には、どこか息苦しさが感じられないか。

本歌取り。前からあることばを編集し省略して横にずれていくプロセス。見え隠れすることばがだんだんまばらに散って。

楽譜書きのソフトに本来の使い方から外れたことをやらせる、たとえば、一小節に指定された拍子を無視してたくさんの音符を入れる、それも声部ごとにちがう長さの音を。すると音符の位置を固定するのがむつかしくなる時がある。もう一度見ようとすると書いた音がページの外に行ってしまっていることもある。酷使されたソフトの復讐だろうか。

モートン・フェルドマンのやったように、ページの上に数小節数段のマス目を作り、見かけはおなじ長さの一小節のなかにそれぞれちがう拍子と長さのパターンを配置すると、単純な反復のモザイクから予想できない複雑なむらと揺らぎが生まれる。でも、これらのパターンの、半音と短3度の組み合わせの単調な響きは、ドイツの凍りついた暗さのなかで、終わってしまった観念の夢を追っているかのようだ。

17世紀のフランスでは自由リズムの前奏曲があり、それ以前にはリュート音楽の影響で和音を不規則に崩すスタイルがあった。同時に発音するとノイズになるだけの和音もさまざまに崩して表情ができる。そのようにピアノも弾いていると、微妙なタイミングの伸縮やアクセントのつけかたで、楽譜から音符に書けない抑揚が立ち上がってくる。それは19世紀的な自己表現の音楽とはちがって、音楽がこちらに語りかけてこない、どこからか聞こえてくるそんな感じ、夢のような手触りが感じられるような気がして。

tweetは「さえずる」、小鳥のか細い高い鳴き声だったが、ツイートは「つぶやく」と訳されている。いまは時々コンサートの予定や「水牛」に書いた文章にリンクする「お知らせ」のツイートをしているだけで、情報が多すぎて情報にならないのに、だれが読むかわからない空間で「さえずる」のではすぐ忘れられるだけだろうが、それがちがう場所を指す標識ならば、そこに行ってみる手間をかけるために、かえって読まれる場合もありえなくはないとも考えられる。それにしても確率は低く、しかも確率のように数で偶然を制御する考えとは縁を切ろうとしているのだったら、そんなことを問題にするのもおかしいはずだが。

ツイートの別な使い方。「ボット」のように、自由間接話法の、だれとも知れない声の仮の置き場所として使えないかと思ってはいるが、なかなかとりかかれないまま。

私的な生活や感想をツイートやブログで公開していれば、見えない他人から監視されている囚人の安心感にひたりながら、格差社会から排除されている現実を意識しないで済むのだろうか。インターネットのなかの仮想友人だけでなく、現実の人間も仮想化しているから、じっさいに困ったときは、だれも助けてくれないどころか、ゴシップの種にしかならないのに。

友情は妄想にすぎないとしても、それだからこそ、裏切られたら意味がないということにはならないだろう。裏切られてもやはり友人だと言えるような、ほんの何人かがいるなら、それ以上の何を望むのか。細い曲がりくねった道。

見知らぬ他人の声で「つぶやく」。「水牛のように」に毎月こんなことを書いているのも、自分のために書きとめておくだけだ、とは口実で、じつは公開の場で考えてみせるパフォーマンスではないのか、と時々疑いながら。

いつも音楽のことを考えながら書いている。思い浮かべるのは、システムでも方法でもなく、音の聞こえ、音への態度、音の漂う空間の感じといっしょに動いていく感触のようなもの。ことばはその喩えになるだけで、ことばを書くことや、ことばで考える対象を問題にしているわけではなくて、音に対する態度を観察するための外側の足場という気もする。歌曲のように、詩を歌う声のまわりに別な音を引き寄せる場合は、ことばの線は過ぎてゆく時間のなかの導線かもしれない。

でも、音楽に引き寄せて考えているなら、音楽も喩えにすぎないのだろうか。でも何を喩えているのか、それはわからない。