ギターが消えた(その3)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

「あるときはですね、水瓶を積んでラチャブリから来たトラックが水瓶ごと消えたんです。夜遅くにその水瓶を積んだトラックが検問所を通りかかったんですよ。静かに通ってれば何も起こらなかったんでしょうがね。『トゥム(水瓶の方言)だよ、トゥム。ラチャブリのトゥムだよ』と宣伝している声が警官の耳に入ってなかったらね。怪しいのは、トゥムというのが、パッタルン地方だけの方言だからなんだ。それで水瓶トラックの泥棒だとわかって逮捕されたんですよ」

このようなはなしを次々聞かされれば聞かされるほど、わたしの期待は薄れて行く。脳裏に浮かんでくるのは、友人の淡い緑のギターがどこかの家の壁に記念品になってかかっている光景ばかりになってしまった。もしも本気で探したらどこかしらの家の中で見つかるかもしれない。が、それは頭の中ではできても現実にはできないはなしだ。パッタルンの人間がかれらのはなしに出てきたような人間ばかりではないし、悪人ではない人たちも少なからずいるに違いない、とわたしはまだ信じてはいたが。。。

パッタルンとパッタルンの人たちについての知識が頭をかけめぐっていた。パッタルンの人間がいろいろと語って聞かせてくれたからだ。それもこれも2台のギターが跡形もなく消えてしまったことから起きている。かれらのはなしを聞いてしまうと、ギターがもどってくることはないだろうという気になった。でも、まだ希望は捨てていなかった。

「もしも見つけたら、咎めないし、買い戻すからと言って持ってきてくれ」
わたしは本気でそれだけ投資するつもりでいた。

グループの中でも静かにとはいえ解決への動きが始まった。ギターの持ち主は新しいギターを手に入れるため、お金を稼いだり、貯めたり、借りたりしていた。消えたギターのうち練習用に使っていた小さいほうは、日本製だった。なくなったものと観念した彼は財布をはたいて新しいのを買ってきた。3000バーツもしないものを。すごく嬉しそうに満面の笑みで、以前どおり酒でも飲める気分になっている。

それから1週間余りが経った。
ある午後のこと。電話が大きな音をたてた。わたしの携帯だ。ギターについてのいい知らせだった。

「もしもし、1台みつかりましたよ。買い戻しました。もうひとつの高いほうのは、盗んだ奴がわかって、付けて回りましたよ。それで買い戻したいと言ってあります。売らないなら警察にお前をしょっぴかせるぞと脅してあるし。必ず取り戻しますよ。パッタルン人の誇りにかけても取り戻すと保証します。そうそう、買い戻すために払うお金ですが、払わなくていいですよ。ぼくが払います。責任取ります。心配しないでください」

これを聞いてわたしは、パッタルンとパッタルンの人びとが好きになったのだった。
(完)

初出誌:『ラフーオムジャン』第1号 2006年4月

しもた屋之噺(141)

杉山洋一

息子がどうしても行きたいと言うので、遅めの夕食に、散歩がてら「カジキマグロ亭」まで出かけ、二人で人気のないサヴォナ通りを歩いていると、雨が少し降ってきました。夏季休業前日に顔を出して以来ですから、古ぼけた「カジキマグロ亭」のドアを引くのは2か月ぶりでしょうか。色とりどりの珍しく「お誕生日おめでとう」のカードが天井から垂れていて、壁のあちこちには風船が飾られて、何十年も老夫婦が二人で営んできた場末の食堂にそぐわない、賑々しい雰囲気です。店は既にほぼ満席でしたが、こちらに気づいたコックのジョゼッピーナが厨房からでてきて、南の人らしい慇懃な抱擁で迎えてくれるのは、何時もと同じです。
「息子はトマトのパスタで、こちらはあの鰯の」と何時ものように応えると、だしぬけに「これは最後の晩餐よ」と言いました。
ジョゼッピーナは自作の宗教詩で何度も受賞し、油絵も描く才女。ましてや敬虔なカソリック信者ですから、イエスの最後の晩餐がどうしたのだろうと、二の句を待っていると、
「今日でお店を閉めるの。8月末に或る中国人が訪ねてきて、この店を売ってくれって。とても好い人なのよ。ペッピーノと二人で少し考えて、多少の交渉もしてね。売り払うことにしたの。お寿司屋さんにするそうで、家具をすべて中国から持ってくるとかで、明後日この鍵を彼に渡すのよ。今日は奮発して活きのいい鰯をたくさん前菜に入れたから、食べて行って頂戴ね」。目は涙ですっかり潤んでいて、もう一度抱擁してから、厨房へ消えました。

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 9月某日
都響とのリハーサルの合間、野平さんに「何時どのようにこれだけの量の作曲をこなすのですか」と尋ねる。家で時間の許す限りいつも机に向かっていて、演奏と作曲の切替えだけは、長年の訓練で出来るようになった、とのこと。

 9月某日
今日の本番中、実は西村作品の一本締めの掛け声をどうするかずっと悩んでいて、後半西村作品が始まっても未だ決めかねていたが、途中寺本さんが実に好い感じに独奏を吹いて下さって、漸く踏ん切りがついた。

 9月某日
7月に続いて指揮のワークショップ。日本人はやはり吞み込みが早い。棒を振って音を出させるのではなく、棒に思いを籠めるのも違うと説明する。「啼かぬなら、啼かせてやろうほととぎす」。力技ではなく、時鳥が思わず啼きたくなるよう、前以てそっと仕掛けを忍び込ませる。

 9月某日
神楽坂でKさんとトンカツを食す。美味。今後日本のクラシック人口は減り続けるという話。今現在音楽会に足繁く通う世代が、20年後未だ演奏会に来ることが出来るか。彼らより若い世代に、クラシック音楽は果たして浸透しているか。必要とされているか。Kさんは、自分は醒めているからと謙遜していらしたが、客観的に現実を見つめる勇気と重みを痛感。

 9月某日
現音計画演奏会。生まれて初めて4分の曲を振るべく本番の洋服を用意。大袈裟だと内心笑っていたら、間違えて茶色の革靴を持ってきてしまった。有馬さんから黒靴を4分間お借りした。
ドレスリハーサルに一柳先生がいらして下さった。「6、70年代、我々の時代は所謂ローテクでね。ハイテクではなくて…」とのお言葉に、内心「我が意を得たり」と膝を打つ。ハイテクよりも寧ろローテクの方が、ずっと各人の個性を反映させ易いのではないか。ハイテクのように個性までブレンドする能力は、ローテクは持ち合わせていない。

 9月某日
演奏会に足を運んで下さった音楽大学の作曲科の学生さんらにメッセージを、とのリクエストに応えて。
「…作品について細かく説明すると、気持ちがわるくなってしまうかもしれません。「耳なし芳一」という怪談がありますね。作品は言ってしまえば、あんな感じです。楽譜は最初から最後まで全部書いてあります。即興の部分は、オスティナート上の打楽器くらいでしょう。音列はサロウィワのお墓の周りで歌われていた、キリスト教の賛美歌から取られていて、音列の変化、リズム構造は、彼が処刑される直前に書いた声明を一字ずつ転写したもので、声明の内容は相当きついものです。何しろ弁護士もつけられないで、一方的に死刑を宣告され、殺される直前に書いたものですから。
ラジオは、ナイジェリアの現在のFMを幾つか選び、それぞれ8時間くらいずつ録音して、500箇所くらいずつ頭だし出来るようにし、それらが互いに同期しないようにしながら、ランダムに鳴る仕掛けになっていて、リズムは細かく決まっています。これは言ってみれば、ナイジェリアの空気のようなもので、一方的に美化する気もない。ナイジェリアは、いくつか大きな部族があって、オゴニのような少数部族をしめつけていると言われます。これらのFMは、オゴニ側のFMではありません。その他、大多数です。ノイズは単純にサロウィワの最後のインタビュー全部を、200回重ねたものです。
最初から最後まで、それだけです。スコアは存在しなくて、進行表によって演奏が進められます。敢えて通俗的に聴こえるよう、最初からずっと書いてあって、最後に、芳一の耳だけが見えるように、本人の声が少しだけ聞こえる。ところが、実は最初から演奏された全ての音が彼の言葉そのもので、その上に本人の無数の声がかき消すように挟み込まれて、それが最後に一つの声として認識される。まあそんなところです。
あなた方が作曲を学んでいるので、ここまで詳しいことを申し上げたけれど、別にそんなことはどうでもいいんです。ぼくが、あなた方にいえることがあるとすれば、これから先できるだけ、「なぜだろう」、と自らを問いかけるようにしていってほしい、ということです。自分は「なぜ」作曲をしているのだろう。「なぜ」生きているのだろう。「どうして」死んだのだろう。「なぜ」それは起きたのだろう。「なぜ」それは起きなかったのだろう。
こうすれば、こうなる。現象論とでもいうものかもしれないが、それですべて生きてゆこうとすれば、あなたの人生は、とても薄っぺらいもので終わってしまうのではないでしょうか。こうやれば、よい学校に行ける。こうやれば、コンクールに通る。こうやれば、人生で勝利をつかめる。ぼくは、結果よりも、そこに至るプロセスと、そのきっかけとなる、「なぜ」が大切だとおもいます。
最近は啓発本とか、僕も読みましたが、ああいうのが流行っていますが、あなたの人生は、やはりあなたのやり方でしか切り開いてゆけないとおもう。いや、絶対的に切り開かなければいけないのかも、もしかしたら分らないです。みなが同じように物を考え、同じようなものをたべ、同じように平べったい意見をいいあって、それってどうなのでしょうか。
サロウィワの告発は、もちろん僕にとっては311以降の思いそのものです。「なぜ」それは起きて、「なぜ」人が沢山死んで、「なぜ」現在の状況はこうで、「なぜ」みな生温かい言葉でオブラートに包んで、刹那的に生きなければならないのか。それで本当に幸せなのか。
最初からずっと通俗的、世俗的な音楽に見えるでしょうが、それは全て彼の骨の関節一つ一つのようなものです。聴き手は気がつかないまま、最後まで聞いてゆく。別に、どうやって書いたからよいとか、わるいとか、気にすることはないと思います。「どうして」自分はこれを書きたいのか、「なぜ」書くのか。「なぜ」書かないのか。「なぜ」、そんなことを思って、音楽と向き合えば、それがたとえ現代作品であろうと、クラシックであろうと、自らの意思が少しずつ研ぎ澄まされてゆく気がします。
別に政治的である必要もないし、メッセージを伝えなくてもいい。でも、そこに「なぜ」という確固たる必然が、やはり常に必要だとおもうんです。僕があなた方にいえることは、たぶんそんなことくらいかな。歪であっても、そこにそれたらん意味があるものと、どんなに見かけがよくても、何の存在理由もないもの、どちらを選びたいか、という問題です。それはそのまま、あなたの人生観につながるかもしれません。聴いてくださって本当にありがとう…」。

 9月某日
現音計画の新作を書いてみて、自分の作曲においては、全ての事象がパラメータ化出来ることを確信する。聴く側にとっては、作風が違って聞えるかもしれないが、作曲の本質は全く変わらない。音を自分の皮膚から引き剥がして、音そのもので存在してほしい。
ところで、今もし本当に戦争が起きたら、オーケストラ作品を書きたいと生まれて初めて切望するかもしれない。今まで純粋にオーケストラ作品を書きたい欲求は皆無だったが、少しずつ戦争に対する恐怖が、実感されるようになっているからだろう。夏休み、日本で過ごす8歳の息子が、夏休みでエジプトに戻っているクラスメートの安否を心配して、ニュースに熱心に耳を傾け、9月にミラノの学校から戻ると、真っ先にクラスメートの無事を話してくれたこと、エミリオの息子が大学で国際司法を勉強し、今はコンゴで国連の難民登録に従事していることなどに端を発して、さまざまな思いが頭を巡る。
例えば大オーケストラに指揮者が二人おいて、それぞれが指揮官のようにコマンドを出す。こう書くとクセナキスのようだが、実際に使われる素材を、進行中の戦争に関わっている国々の国歌や軍歌、召集ラッパ、葬送行進曲などから選ぶとなると、ずいぶん印象は違うだろう。作品として成立させるよりも、半日ほどかかるイヴェントとして、死者の数をリアルタイムに音楽に反映させる方法もあるかもしれない。
現実的にオーケストラをそんな風に使うことはできないだろうが、それ位強い意志がなければ、伝えられないものもあるのではないか。兵士が死ぬサイン、市民が死ぬサイン、女が死ぬサイン、子供が死ぬサインと予め決めておき、死者の数を速度に反映させることもできる。ただそこには、どうしても自分の主観を介在させたくない。敵味方という括りも、多分できない。100パーセント正義の戦争など、存在し得るのだろうか。
この場合、オーケストラという特殊な集合体は、象徴的な意味合いを帯びるに違いない。無数の響きは、一人ひとりそれぞれ意志や個性をもった人格が、うずたかく重なり合いながら造りだされるものだから。戦争を起こしては、絶対いけない。非国民と言われようが自分の家族はどんな形でも生きていてほしい。敵と呼ばれる兵士の一人一人にも、家族はかならずいる。人を一人殺すことが殺人で、大多数殺すことが正義など、どうしても納得できない。

 9月某日
沢井一恵さん宅にお邪魔して、17絃で「六段」を聴かせて頂き、涙がこぼれそうになった。子供のころから、功子先生との演奏で数えきれないほど聴いた筝の音は、身体が覚えているのか、皮膚にすっと馴染むようだった。
夜はユージさん、美恵さんと味とめ。ワサビ漬けとヌカ漬けという二種類の秋刀魚を頂く。美味。三宅一生の日本での最初のファッションショーを、ユージさんと一柳先生が4手ピアノで伴奏した話。演奏曲目はドリー組曲やケージなど。

 9月某日
ミラノに18年も住んで、プロメテオやらオペラやら何度となく一緒に仕事をしているのに、アゴンのスタジオに今まで一度も行く機会がなかった不思議。セスト・マレルリ駅から歩いてカーターのリハーサルに出かけると、実際は駅から6、7分の距離なのだが、すっかり道に迷って40分ほど彷徨った。ピレルリの工場跡地なのか、荒んだ巨大な建物が立ち並ぶ一角にあり、これから再開発も始まるようだが、道すがらネズミが叢を走り回るような、捨て置かれたような風情が漂っていて、国鉄の陸橋を越えて錆びた鉄門を入れといわれても、どこの鉄門も錆びていて、どれだかわからなかった。
カーターのトリプルデュオは実に難しいけれど、三日間演奏家と丁寧に音を読んで分かったのは、指定の速度を目指して音楽を過呼吸状態に陥れるより寧ろ、三つ重なり合う二重奏のタクトゥスが見えるよう、音のあいだに空気を通す大切さだろう。思いもかけない美しさに、目が覚める思いがした。

(9月30日ミラノにて)

蓮の花

三橋圭介

2年前に蓮を購入した。すでに花のつぼみがついているものだった。睡蓮鉢に入れ、数日たのしんだ。色は白。その後、次の年を楽しみにまっていた。しかし葉もでてこない。もうだめかと思い、睡蓮鉢からだして放置していた。ただ、もしかして、まだ生きているかもと思い、少量の水は常にいれていた。3ヶ月くらい前だが、蓮からちいさな葉がでているのを確認した。めだか専用だった睡蓮鉢にふたたび入れた。葉は小さいが数週間で葉を増やし、ぐんぐん成長した。時期が遅いので、花は期待できないが、水面に浮かぶ睡蓮の葉は、めだかの日傘にもなって心地よい。

4日前、水草のなかに花芽を見つける。葉の速度と同じく、すぐに水面を越した。そして昨日、花が咲いた。2年前、白色だった花は、なぜか濃い紫に変っていた。水面に顔を出したその花は、息を呑むような美しさだ。花が咲くときに音がするとよくいわれるが、音はしなかった。きっと人間の耳では聞こえないくらいの音はするだろう。ただ、かたく結ばれていたものが開くとき、「ぽん」とはじけた音がしたような気がするのかもしれない。あるいは日本の情緒的な心がそういう音を求めている。わたしは現実には聞かなかったが、聞こえそうな気がしたし、心のなかで聞いたのかもしれない。2時間くらい花が開いていくのを見ながら、時々、写真を撮ったりした。

月を見ていると動いているのを実感することができる。どこかに視点を合わせ、そこからすこしずつ月が動いているのがわかる。花は、その生の変化を実感するには、微細すぎてとらえどころがない。しかし30分前とは明らかにちがう姿を発見することができる。蓮の花は3日ほど起きたり睡ったりを繰り返す。今日は2日目、もうすでに午後なので花は咲ききった。あともう1日楽しみがある。

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107翠問──以下の問いに答えなさい

藤井貞和

以下のa〜hは新聞記事の見だしを集めた箇条です。いつごろの記事でしょう。

① 2013年8月〜9月
② 2005年7月〜8月
③ 2011年3月〜4月
④ 2020年11月〜12月

a・海水から放射性物質―ヨウ素131法定限度の126倍、「過度の心配は不要」専門家―現場海産物 流通なし   b・海水から1250倍 放射性物質―放水口付近 建屋地下で漏出か   c・2号機 放射線1000ミリシーベルト超、たまり水―抑制室損傷か   d・2号機高汚染水 溶融燃料と接触 安全委―炉心損傷認める、「格納容器から直接流出」   e・圧力容器 破損の疑い、「高熱で底が貫通か」 大量の汚染水 処分困難   f・プルトニウム、燃料棒溶融裏付け―敷地外も測定検討 プルトニウム「微粒子、水と流出か」   g・2号機 亀裂から海に汚染水 流水箇所、初の確認   h・低汚染水 海に放出―1万トン、最大で基準の500倍 高濃度水の保管先確保   i・「水棺」冷却を検討―政府東電 圧力容器ごと浸す   j・冷温停止6〜9カ月―東電が工程表発表 2段階目標、1〜3号 水棺に

(答え③。なお云えば、a 2011年3月22日夕刊、b 3月26日夕刊、c 3月28日朝刊、d 同・夕刊、e 3月29日朝刊、f 同・夕刊、g 4月3日朝刊、h 4月5日朝刊、i 4月8日朝刊、j 4月18日朝刊 〈いずれも東京新聞〉)

アジアのごはん(58)タイピンの砂煲飯

森下ヒバリ

宿の向かいの年季の入った茶室で、連れと朝のお茶をする。カスタード入りの中華まんもひとつ。紅茶やコーヒーのカップがレトロで渋い。緑色の絵が付いたこのカップ、マラッカの骨董屋で売っているのを見た。マラッカの古いショップハウスを改造したヘリテージホテル、ホテル・プリでもこのカップを使っていた。この店のは、一体いつからどれだけ使っているのか。店の主は華人の白髪じいさん。

マレーシアをマラッカから北上してクアラルンプール→イポー→パンコール島を経て、ここタイピンへと旅して来た。店の一角には、幾つかの七輪と積み重ねられた小さな土鍋、漢字で「砂煲飯」と書いてある段ボールの張り紙。「SAPHOHAN 5RM(リンギット)」とも書いてある。「‥あれはたぶん広東系の釜飯やと思うわ」「え、食べたい!」夕ごはんはこの店で決まりだ。店を出ると、正面にわれらが宿の北京ホテルが見える。

北京ホテルは1927年築のまさに「天然」ヘリテージホテルである。実態は古い年季の入った旅社(中華系の簡易宿)なのだが、単なるボロな安宿ではなく、ほとんど改築せずに建築当時の様子がほぼ保たれているのだ。もともとはタイピン(太平)華人のサロンであったが、のちに旅社となった。ファサードのりっぱな二階建ての一軒家で、白く塗られた壁、すり減った木の床、チークの黒光りする階段、幾何学模様のタイル、ところどころに埋め込まれた装飾タイルが美しい。通りの向かいから眺めると、あれ、右の奥の屋根の瓦がちょっと崩れかけている‥。まあ、うちの部屋の上じゃないから、いっか。

二階の、ちょうどファサードの真上に当たる部分は共用の広間になっていて、テーブルやイスが置いてあり、三方に向いた窓がついている。古びた木枠の窓に嵌っているのは黄色と緑と青の古い模様ガラス。あ〜、この窓ごと持って帰りたい。なんという愛らしさだ。「お、気持ちいい〜」連れが乱暴にガタガタと窓を開け放つ。「て、ていねいに開けないと! 窓枠ごと落ちたらどうするの〜」窓の向こうにタイピンの街並みが広がった。ちょっと南洋を愛した金子光晴の気分だ。

あんまり古い宿は、好ましくない雰囲気が漂っていることも多いのだが、ここは大丈夫。宿のスタッフもあっさりと感じが良い。もっとも水回りの設備の老朽化や窓のがたつきなど、人に宿泊を自信持っておすすめできるレベルでは到底ない。でも骨董好きとか古い建築好きな人には見学してみてほしい宿である。

朝のお茶のあとは、街の散歩だ。あちこちに現代風の建物はあるものの、旧市内は基本的に古い南洋華人式ショップハウスで出来ていた。もう、歩きながら建物に気を取られて、キョロキョロしっぱなしである。あ〜楽しい。今風に改装したり、ピントはずれにオシャレにしたりしていない。昔のままの建物を普通に使って、生活しているところがいいんだな。

南洋華人(海峡華人とも呼ぶ)というのは、14世紀ごろから広東や福建、潮州などの華南地方から東南アジアに移住してきた中国人のことである。財を成した彼らが建てたのは中国風と西欧建築のミックスしたレンガ造りの丈夫な建築物で、マレーシアのマラッカ、イポー、タイピン、ペナン、などではその建築物がいまもたくさん残り、使われている。

ショップハウスは一階の間口が狭く、ウナギの寝床のように奥の深い建物で、何軒もつながって建っている。一階は商店や事務所として使い、二階が住居。通りに面した面積で課税したためにこういう造りになったというのも、京都の町屋とそっくり同じである。

ペナン島のジョージタウン旧市街が世界遺産になったのは、家賃統制が長く続き、店子が何世代も動かずに居住しつづけ、取り壊しを免れた歴史的建築物がほぼ町ごと残ったためである。こういうシックな海峡華人建築はタイにもあったのだが、ほとんどが取り壊され、わずかに痕跡を残すのみとなっている。同じく、色つきガラスの窓を持つ、和平飯店・ピースホテルという旅社もあった。壁にはかわいい装飾タイル。1930の文字。ここの一階は大きな茶室である。あんまりおいしそうな気配はなかったので、次のブロックまで歩いていくと賑わっている茶室があった。

店は「太平豆水茶餐室」という名前で、文字通り豆乳ドリンクが名物のよう。白い液体に黒い豆などが入った甘そうな飲み物が運ばれていく。茶室というのは食堂ではあるが、店自体は飲みものだけを扱う。店の表や一角に食べ物屋台が場所を借りて店を出し、茶室のテーブルで客が食べる、というのがマレーシア中華食堂方式だ。この茶室には、マレー系のおかずかけ飯屋、中華系の鶏飯屋、そして経済飯という中華系のおかず屋が軒を借りている。連れは鶏飯、わたしは経済飯にしよう。経済飯もおかずかけごはんで、皿にまず白いご飯を盛ってもらい、トレーに入れられた何種類ものおかずの中から自分で好きなおかずを取ってごはんの上にかける。おかずをかけたら、その皿を会計係に見せると、量を見て値段を紙に書いて渡してくれるので、その金額をあとで払う。タイでは、一種類いくら、二種類のせていくらと値段が決まっていて店の人がごはんにおかず載せるのがふつう。タイよりもこの経済飯システムの方が、肉を入れないとか、ナスたくさんとかいろいろ自由度が高くていいな。ナスとひき肉あんかけ、キャベツ炒め、卵焼きをのせて4.5RM。タイよりちょっと高めだ。ふむふむ、おいしい。飲み物は砂糖もミルクも入ってない紅茶のテ・オ・コソンを頼む。ちょっと豆水にも心ひかれたが、汗をかいてへとへとの機会にとっておこう。

タイピンの街を歩き回って、いよいよ夕食。やってるやってる、七輪の上に片方だけ持ち手のついた土鍋がのって、湯気を立てている。メインの具は鶏肉だが、塩魚とシイタケもオプションであるので、鶏肉は入れず塩魚とシイタケにしてもらう。店では先客のじいさんが、ひとりで黒ビールを飲んでいた。お、この店ギネスがあるんだね。南洋華人はギネスがお好きである。東南アジアで売っているギネスはマレーシアに工場がある。茶室のじいちゃんにギネスを頼み釜飯が出来るのを待つことにしよう。

釜飯の他にも何か食べたいな。釜飯屋さんの張り紙に「豆芽」「青菜」と書いてあった。あとは何もない。見ていると、鍋にもやしを入れて茹でて皿に盛っている。そういえば、どこかでイポーはもやしが名物、という話を聞いていた。イポーから1時間半のここタイピンでも同じかもしれない。注文すると、すぐに茹でもやしが出てきた。茹でもやしに醤油味のタレがかかり、カリカリ玉ねぎの揚げたのがのっている。あつあつのもやしに箸をのばす。もやしがおいしいので有名、というのも何だかピンとこなかったが、ここに至って納得。タレもいいが、もやしがウマイ!

そうこうするうちに、釜飯が運ばれて来た。ふたを取ると、う〜ん、いい匂い。中国醤油で茶色く染まったご飯の上に卵が一個ぽんとのっている。まさに炊き立て中華釜飯。おこげが大好きな連れは、幸せそうにちりれんげを口に運んでいる。昼間、古い建築やそこに使われているガラスやタイルを飽きずに眺めているわたしもこんな顔をしていたのかな。おこげの付いた香ばしいご飯を噛みしめながら、一日が終わっていくことも噛みしめているよう。

じいちゃん、ギネスもう一本! 明日はペナンに行く。旅は続くよ、どこまでも。

体調を崩したら…

冨岡三智

今月、体も胃腸も疲れてしまって、なかなか元気になれない。ふと、昨年の国際学会で知り合ったフィリピン人研究者のことを思い出す。彼は伝統医療について研究しているとかで、しんどくなったら西洋医学の薬を飲む以外にどういう行動をとるかと、インタビューされたのだ。そこで、「寝る、食事を抜く、鍼やマッサージに行く」と答えたら、珍しい答えだと驚かれた。標準的な回答がどういうものかよく分からないのだが、インドネシアにいた時にどうしていたのか、唐突に思い出してみたくなった。

●湯たんぽ
以前、インドネシアで過労により腎炎になったことがあり、それ以来、疲れると腎臓が疲れる。そういう時はゆでたコンニャクを腎臓の裏(背中)に当てると良いというアドバイスをもらったことがあるのだが、コンニャクを調達するのがめんどくさい。まして、インドネシアならすぐには手に入らない。というわけで、湯たんぽに代える。といっても、湯たんぽはペットボトルにお湯を詰めたもの。東北大震災のときに、そういう風にして被災者に湯たんぽ支援をしている団体のニュースを見て、これならインドネシアでもできるなと思ったのだ。熱帯の国だと思って油断しがちだが、インドネシアでは意外にも夜は涼しく、それに床も石やタイルが主で体が冷える。湯たんぽを使うと体の芯が温まって、汗をかく。そうすると疲れが抜けるのだ。風邪をひいているときにも有効。ちなみに、湯たんぽの前に私は足湯もする。バケツにお湯を入れて、膝下までしっかり足を温めて、靴下を履く。その後に湯たんぽをして寝ると、より体が温まる。

●塩
食べたくないくらい疲れた時は、無理に食べない。日本でもインドネシアでも、食べないとだめと言って無理に食べさせようとするけれど、体力が回復してくれば自然にお腹がすく。無理に食べると、私はすぐに吐いてしまう。食べられるようになるまでは、薄く塩分を足した白湯やお茶(日本なら番茶、インドネシアならジャワティー)を飲む。体が自然と塩を欲する気がする。そのことを、インドネシアである人に言ったら、その人はコーヒーに少し塩を足して飲むのだと言った。それも試してみたけれど、なかなかいける。もっとも、何も食べられない状態でカフェインはきつすぎるので、ある程度食事ができるようになり、薄いコーヒーが飲めるようになってからだけど。別の人からは、炭酸水に塩を足して飲むという話も聞いた。きっと、皆、疲れると体が自然と塩を欲するのだろうな。

●炭酸水
炭酸水はインドネシアではソーダ・プティ(白いソーダ)と呼ばれていて、ファンタと同じ瓶に入っている。胃腸が悪い時には炭酸水もよく飲んでいたのだが、最初は無自覚だった。炭酸水を買いに行って、お店の人に「今日は胃腸が悪いの?」とよく聞かれ、ジャワでは炭酸水は胃腸に効くと言われていることを知った。最近は日本でもよく目にするようになったので、嬉しい。胃酸過多の人にはだめらしいが、私には効果がある。

●おかゆ
少し食べられるようになったら、薄いお粥を食べる。私は奈良の生まれなので、しんどい時には、番茶で炊いて塩を仕上げに入れた茶粥でないと食べる気がしない。ジャワでは、サラーム(コブミカン)の葉とバワン・メラ(エシャロット)の実を刻んだものを入れて炊いて、最後に塩を少し入れるお粥の作り方を教えてもらった。お腹をこわした時に良いという。試してみたところ、爽やかな香りがあり、胃もすっとする。ジャワの料理には珍しいあっさり加減だ。

●サンタンNG
サンタン(ココナツミルク)入りの食事は、しんどい時には私の胃は受け付けない。けれど、サンタンで野菜類を煮込むサユール・ロデはインドネシアでは代表的なおふくろの味で、どこの食堂にでもあるだけではなくて、病院に入院した時ですら、毎食出てきたのには閉口した。これ、インドネシア人にとっては胃にやさしい料理の内に入るんだろうか…?

●ニンニクNG
あと、私にとっては、にんにくもNGである。体調を崩してジャワの一般的な料理が食べられなくなっても、変わらずに食べられるほとんど唯一の料理がタフ・クパットだった。これは、タフ(油揚げ)、クパット(粽のようなもの)、モヤシやバワン・ゴレン(掻き揚げ)などを切って混ぜて、ソースをかけたものだが、ソースにはニンニクや唐辛子も擂って入れる。体調が悪い時には唐辛子を入れないでと注文するのだが、つい、ニンニクのことは言い忘れてしまう。ニンニクは精力剤だから、体力がない時に口にするとかなり体にこたえる。のだが、ジャワ人にはそれが分からないようなのだ。唐辛子を控えることには同意してくれるのに、にんにくを入れないでと言うと驚かれる。ソップと呼ばれる、鶏肉や野菜が入った清ましスープも、さっぱりしている点は合格なのだが、意外にニンニクがどっさり入っているので、食べられないことが多い。

●ジャムー(ジャワの漢方)
留学生にはジャムーを愛飲していた人もいたが、私はあまり飲まなかった。ジャワでは、流しのジャムー売りの女性がいて、呼び止めるとその場で調合して飲ませてくれる。生薬を売っている店でも調合してくれる。何度か飲んだけれど、私にはピンとくるものがなかった。第一、私が住んでいた地区には売りに来なかったので、いざという時に間に合わなかったという次第。

●クロック
マッサージや鍼灸はプロにやってもらうものなので割愛するとして、自分や友達同士でできるのがクロック。クロックについては、「水牛」2011年7月号でも書いたことがある。バルサム(タイガーバームのような塗り薬)などをつけて、背中の皮膚を筋に沿ってコインで擦ると、マスック・アンギン(風邪が入る)した箇所が赤くなり、そうなると風邪が抜けるというもの。乾布摩擦などのように肌を刺激するやり方で、疲労が重いと、擦ったところが真っ赤になる。これで急に高熱が下がったこともある。普通は背中くらいしかしないけれど、私は首、頭皮、髪の生え際(額とか)もする。クロックは、今ではジャワでも田舎の年寄りしかしないみたいだ。

時間は流れる

大野晋

富田さんのお別れ会に出かけた。
残念ながら恐怖のトリプルブッキングのせいで第一部のみの参加。久しぶりに見た大久保さんが無闇に大人になっていたのにびっくりした。会の中で流された富田さんのビデオを見ながら、いろいろなことを思い出した。

山形浩生さんのしょぼいを聞いたときの青空文庫は、たしか、他のホームページと同じようにリンクや転載に関する注記が書かれていたんじゃなかったか? そこをフリーミアムを日本に紹介した山形さんから指摘されての話だったように記憶している。私が青空文庫に関わった当初は、インターネットの発展が社会に対してどのような変化を与えるのかと言う目で、未来が見たいと気持ちが強かったように感じる。まあ、その頃の予想を遥かに超えて、インターネットは早くなり、EBK形式などのリッチコンテンツは廃れていき、早いインターネットとは正反対のテキストが青空文庫のフォーマットで生き残ったというのはなんという皮肉だろうか。
とにかく、最初の頃は利用をどのように収録作品からつなげるかに興味を持ち、童話を入れたり、童謡を入れたり、探偵小説を入れたり、チャンバラを入れたり、SFを入れたりとジャンルの拡張に走っていた。面白いことにひとつ入れると、読者が入力者につながり、作品が増えていくサイクルに繋がった(かもしれない)。そこに残るためには、とにかく、結果を残す必要がある。そんな時代が青空文庫にもあった。

著作権の切れた小説を探していると面白いことに気づいた。今は書店の店頭で手にはいらない書籍でも、面白くない書籍では必ずしもないのである。いや、むしろ面白い作品が著者の死後50年以上も埋もれていることにショックを受けた。これはのちの私の著作権に関する立場にも直結している。要は、出版社にとって利益のある作家の書籍が店頭に残っている。売れ行きが悪く、または何かの問題を抱えると途端に出版社は絶版にしていく。長期販売による文化の担い手という再販ルールの趣旨はとっくの昔に市場から抜け落ちていた。
日本語改革の動きも整合性に欠けたものだった。ゆるやかな指針のみを述べ、運用を出版社に委ねたために、文章表記が揺れ動いていた。「ヶ」とか「ヵ」とかの問題は、実は国語改革の中で忍び込まされていた。なんと、否定はされているのに書き換えのルールは規定されていないのだ。結局、そういった状態が表現の揺れを誘発させた。
コンピュータ化に伴う漢字の字形の問題もあった。国内でOSを作っていた頃はJISにない漢字は外字として、表外に定義していたが、もはや外国製のOSが100%となった現在、自国の文字を自国の判断でコンピュータシステムに定義し、使用することはできなくなった。そのことに気づかない作家や学者は、珍しい漢字が使いたいと駄々をこねた。
私の事前の目論見は無残にも外れて、さまざまな矛盾が青空文庫から見えてきた。そう、事実は小説よりも奇である。そういう状態を見ながら、私は少しお休みを頂いている。青空文庫はいつのまにか、あることが前提になり、出版社から、テレビドラマの台本、ラジオ放送の朗読に至るまで普通に使われるようになった。私があせる必要はもうない。

大久保さんは自らのことを勝手にいろいろとやる担当と称したが、考えてみれば私もかなり好き勝手にやったものだ。タナに上げた戦前の著作権の10年条項で公開自由になっている海外小説(クリスティやクイーンの初期のものが該当する)や県歌、市歌なども入力中の一覧に登録させてもらっている。また、校歌も収録したいと虎視眈々と狙って収集している。
そう言えば、以前、富田さんとカストリ本は収録可能か? 検討したこともあった。すでに、田山花袋作と伝えられる「四畳半襖の下張り」は花袋全集版と私家本を資料として収集済みだ。純文学よりも大衆文学の方が散逸する危険性は高い。そういう観点でカストリ本を確認したが、なにぶんにも迷子著作権の宝庫だった。などと考えながらも、純文学の作家だって、豊田三郎や久米正雄などを考えても分かるように、現役本が残っている作家は少ないんだよね。

さて、どこまで実現できるか分からないが、9月の末に華々しく終了した「あまちゃん」ではないけれど、未来を切り開くために動くことにしよう。沈んではいられないのだ。

イメージとしての戒名

植松眞人

 母の誕生日を待っていたかのように、父が亡くなった。入院してから一ヵ月も経たない六月の終わりの夜明け頃のことだ。
 父と私は、あまりうまく話せない親子だった。父は生まれて半世紀も経つ息子を、まるで小学生を相手にするかのようにしか接することができなかった。私は私で、利かん坊の子供のように、いつまで経っても父をなりたくない大人の代表に見立てることしか出来なかったように思う。
 緩和ケアを主体とする病院へ移ったのは入院してからわずか二週間目。その時の主治医との面談で、ご長男はどんな方なんですか、と母は聞かれたらしい。
「嫁さん子供と一緒には帰ってきても、一人では絶対に寄り付かん子ォやったんです。もう何十年もずっと。それがようやっと、この二年三年は一人でも帰ってくるようになって……。ようやっと、一人でも帰ってくるようになったのに……もうお父さんが生きられへんようになってしまうなんて……」
 と、私のことを初対面の主治医に涙ながらに話したらしい。そして、実際、その通りの息子だったと思う。
 しかも、この二年ほど実家に帰るようになったきっかけも、自分で興した広告制作事務所の経営が思わしくなく、借金を無心したことだった。
 もともと大学進学を控えた時期に、いまでは思い出せない何かで、父と言い争ったことが原因で、私は父と話をしなくなった。親離れしたい盛りだった私は、渡りに舟とばかりに、実家を離れ、出来る限り父と接触しないで生きてきたつもりだった。
 もちろん、自分も結婚し、子供たちが生まれてからは、年に一度は父母と孫を会わせるために帰省はしていたのだが、やがて小学生にあがった娘から「お父さんとおじいちゃんはなんで話をしないの?」と気づかれてしまうほど、私は殺伐とした雰囲気を漂わせながら実家で過ごしていたのである。
 なのに、父に無心をする。それは自分の弱さを吐露する相手が父しかいないという事実を思い知らされることであり、同時に最後のよりどころなのだと突きつけられることでもあった。もちろん、そうすることは辛かったが、それはおそらく父にとっても同じくらいに辛いことだったのだろうと思う。
 最終的に銀行とのやり取りをする母と私との間で、父はおろおろと落ち着きのない様子だった。しっかりやっていると思っていた息子が、右往左往している様を見て、動揺してしまったのだと思う。
 そんな父が亡くなって、通夜、葬儀、初七日、四十九日が過ぎ、百か日を迎えた。ずっと長男として喪主を務めてきたが、ここで一段落だという思いがあった。
 焼香の順番が違うだの、納骨が早すぎただの、四十九日は近所のショッピングセンターの駐車場が空いている時にしてくれだの、好き放題な親戚一同を目の当たりにして、父が亡くなったことを実感するよりも、こんな親戚一同のなかで育ってきたのだと改めて噛み締める数ヵ月だったような気がする。しかし、もうすぐそんな気忙しさからも解放される。私はそんなことばかりを考えていた。
 父が亡くなってからの様々な手続きや段取りを私は嫁さんと母に任せっきりにしていた。自分では何一つやっていないのに、こんなに疲れるのはなぜだろう。私はそんなふうに思いながら、百か日の朝を迎えた。そして、一足先に目を覚ましていた嫁さんに声をかけた。
「おつかれさま」
 嫁さんはきょとんとした顔を私を見る。
「なに、それ?」
 そう言って笑うと、
「さあ、朝ご飯朝ご飯。もうお腹空いてたまらんわあ」
 と階段を下りていく。
 子供たちを東京に置いてきたことで、少し気持ちが軽いのかもしれない。
 大学受験を迎えた娘と、高校受験を控えた息子は、私たちがいないほうが気楽に時間を過ごせるだけには成長していて、「家のことはちゃんとしてるから任せといて」とその場限りの気の効いたセリフを吐いて、嫁さんをその場限り安心させるのだ。
 階段を下りていくと、すでに母がトーストを焼いている。いい香りがして、腹が鳴る。
「コーヒー、淹れよか」
 母がそう聞いて、私が答えるよりも早く、嫁さんが
「お母ちゃん、ええから、ええから。私が淹れるから」
 と、答えて動き始める。
 私は二十歳前に家を出てから、自分の父母をお父ちゃんお母ちゃんとは呼べなくなった。面と向かっては「なあ」と呼びかけるばかりだ。そこへいくと、嫁さんは何の屈託もなく「お父ちゃん、お母ちゃん」と私の父母に呼びかける。
 父が亡くなって、名義変更などの手続きをするために、銀行員が来た時にも、母と嫁さんを本当の母娘と間違えていたらしい。
「今日の百か日の法要は、ちゃんとお父さんのほうが来てくれるんやろか」
 コーヒーを飲みながら母が言う。
 実家では私が子供の頃からずっと月命日には近くのお寺さんから住職がお経をあげに来てくれていたのだった。私が高校生の頃だったか、先代の住職が亡くなり、息子さんが後を継いで、月命日の法要も引き継がれた。今では、そのまた息子さんも住職になっている。
 父が亡くなったとき、檀家である寺に電話をかけると、お父さんのほうの住職が出た。丁寧にお悔やみを言ってくれて、実際、お通夜の席では涙ぐみながらお経を上げてくれたのだった。
 しかし、翌日の葬儀は、どうしても都合があわずに、息子のほうの住職が努めてくれた。私としてはお父さんでも息子さんでもどちらでも良かったのだが、これがどうにもうまくない。読経が極端に短く、何よりも私の父との思い出が何もないので、読経の後、天気の話しかできないのだった。葬儀、初七日、四十九日と、毎回「暑い気候が続きますが、みなさんお体大丈夫でしょうか」という話を聞いていた親戚からは「前に聞いた」と露骨に返すものがいたくらいだ。
 さらに、納骨式で、自ら墓石を抱え、墓石の一部を欠けさせるという失態があってからは、さすがに親戚一同の不満がたまってしまい、ついに母がお寺に直接出向いて、「百か日法要は、お父さんのほうでお願いできますでしょうか」と頼み込んだのだという。
「私もさすがにあんまりやと思うから、後で電話したんよ。息子さんが悪い訳ではないけど、亡くなったお父さんを知ってるのは、お父さんのほうのご住職だけですって。そない言うて、百か日はお父さんのほうでお願いしますって、言うといた」
 嫁さんはそういうと、淹れたてのコーヒーを飲み、トーストを頬張った。
「そうやなあ。あの息子ではありがたみもないしなあ」
 私がそう言うと、嫁さんは笑いながらため息をつく。
「そうやろ。お父ちゃんの戒名の説明もしてくれへんしな」
 母もそれを聞きつけて口を挟む。
「そうやねん。もうな、うちのお父ちゃんもな、お父さんに法要してもらわな浮かばれへんわ」
 母はそれだけ言うとなぜか笑う。
「ほんまやなあ、お母ちゃん」
 と、今度は嫁さんが笑う。
 ちょうどその時、インターホンが鳴り、仕出し屋から弁当が届いた。
 仕出しについても一悶着あった。葬式の仕出しのほうが、四十九日の仕出しよりも美味しかったとか、来れなかった親戚の分を持って帰ってやりたいので折り詰めにしてくれとか……。
「お母ちゃん、今度はもうお弁当にしたから、持って帰りたい言われても、はいどうぞ! 言えるわ」
 嫁は嬉しそうに母にそう言う。まさに準備万端である。後は、十一時までに親戚が揃い、十一時にお父さんのほうの住職がやってきてくれればそれでいい。おそらく端折った短いお経なのだろうが、それでもかまわない。お経を読んだ後は、戒名の意味をつらつらと話してもらえれば、それでおしまいだ。そんなことを考えていると、すでに法要が始まる前から安堵のため息が出そうになる。

 最初にやってきたのは亡くなった父の妹夫婦だった。
「少し早く着いちゃったわよ」
 と十時半頃に到着した。
 その後も順調にみんながやってきて、十時四十五分には全員が仏壇の前で座っていた。亡き父の思い出話も、四十九日あたりで尽きてしまい、特にみんなで話すこともない。みんなが手持ち無沙汰で住職を待っている。
 しかし、そんな時に限って、こないのだ。十一時になっても住職は来なかった。それでも、集まった親戚一同はまだ黙っている。ただ、五分も我慢できない。十一時五分になると、さっそく文句が出た。
「うちが頼んでるお寺さんやったら、絶対遅れへんけどなあ」
 と母の弟が話しだす。
「ほんまやなあ。だいたい三十分くらい前には着いて、待ってはるもんなあ」
 と、母の弟の嫁が答える。
「そやねん。待っとるねん。そやから遅れへんねんなあ」
 同じことをちょっとだけ言い方を変えて、互いに話し続けている。
 たった五分遅れただけで、そんな話が出てくるくらいだ。以後、誰かがずっと住職の時間の遅れを指摘し続け、十分が過ぎ、二十分が過ぎるころには、弾劾に近い言葉まで飛び出してしまう。
「えらい待たせるなあ。坊さんは気楽な商売やのお。待たせても当たり前やとおもとるんとちゃうけ」
 と言葉が荒っぽくなった瞬間に、タイミングよくインターホンが鳴った。お父さんのほうの住職だった。ちょうど三十分遅れで到着した住職は、「三十分の遅刻やなあ」とか「割引やで割引」という小さな声を聞かぬふりで仏壇の前に座った。
「ほんまに遅くなって申し訳ありません」
「いいえ。ちょっと心配しましたけど」
 と、私の嫁がちくりと刺す。
「今日はお参りしていただくのと、あとご位牌を新しいものに変えていただきたいんです」
「はい。わかりました」
 住職はこれ以上曲げられないほど腰を折って、うなずいている。
「それから……」
 今度は私が声をかける。
「実はまだ、戒名の意味を聞かせてもろてないんです。できたら、その戒名の意味も教えていただけますでしょうか」
 そういうと、住職は強くうなずき、やっと住職らしい顔つきになって、私の嫁から新しい位牌を受け取って仏壇のほうを向いた。
 さすがにお父さんのほうのお経は、息子のそれよりも落ち着いていて渋さがあった。それでも、お経の長さは息子とそう変わりなく、十五分もすると終わりの気配を見せた。母の弟夫婦はきっと後で何か言うだろうが、私はかまわなかった。足もしびれている。一分でも短くしてくれていい。早く終わって、早く弁当を食べてお開きにして、シャツを脱いで寝転んでしまいたかった。後は一年後の一周忌だ。それまでは親戚一同になにを言われてもかまわない。そんな気分だった。
 読経が終わり、回されていた焼香盆が住職に戻された。住職はもう一度深々と仏壇に礼をすると、私たちのほうへと向き直った。
「本日は、バタバタと遅れてしまい申し訳ありませんでした」
 住職はもう一度遅れた詫びをいうと、深く頭を下げた。
「外次(そとじ)さんには古くからよくしていただきました」
 住職はそういうと、言葉に詰まった。見ると、住職は涙ぐんでいた。私はふいをつかれた思いだった。仕事として読経してもらい、仕事として戒名の意味を教えてくれればそれでいいと思った自分が少し恥ずかしくなった。目の前で住職が私の父を思い泣いている。私は正直期待していなかったのだ。いくら古くからの付き合いだと言っても、彼岸の季節に、心のこもった法要などしてもらえるはずがないと思っていた。だから、お経が短くても平気だったのだ。ところが、住職が泣いている。泣いて話が出来なくなっている。住職は懐からハンカチを出すと、涙を拭い言葉を続けた。
「それから、戒名の意味をということでしたので……」
 そういって住職は戒名が書かれた真新しい位牌を取り上げると両手で包むようにして、戒名をこちら側に見せてくれる。そこには『正隆逡外信士』と書かれている。
 父の名前は外次と書いて「そとじ」と読む。少し変わった名前だが、戒名の四つ目の文字「外」は、外次からとったものだろうと予測していた。あとは「正」とか「信」とかそれらしい漢字を使えば出来上がり。戒名というのは、なんといい加減なものだろうと私は思っていた。
 そんな私の考えを見透かすかのように、住職は話しだした。
「外次さんから『外』という字をひとついただきました。そして、全体の意味ですが、これはもう本当に私のイメージなんです」
 イメージ? 私は虚をつかれた。住職のイメージで戒名をつけるのかと、素直に驚いた。
「外次さんは大きなスクーターに奥様をお乗せになって、あちらこちらをいっつも走っておられました」
 そうだった。父は八十を過ぎても、亡くなる二ヵ月ほど前迄は大型のスクーターに乗っていたのだ。母を後ろに乗せて、職場に連れて行ったり、買い物に行ったりしていたのだった。
「そのような俊敏な様をイメージしまして、『俊』という字を使わせてもろたんです」
 俊敏の俊だったのかと私はうなずく。
「それから、私が若い頃から、外次さんとは時々お話させてもろてまして、曲がったことの嫌いなまっすぐなお方ということが伝わってきまして、俊敏に動き回られることで、正しいほうへと色んなものを導かれて、そして、正しいほうへとお行きになった……。いやほんまに、これは私の勝手なイメージなんですけども、そういうイメージが浮かびまして、『せいりゅうしゅんがいしんじ』と『正隆逡外信士』という戒名をつけさせてもろたんです」
 私と嫁は思わず、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「いやもう、ほんまにイメージなんですが」
 と、住職は少し困った顔で私に言う。
「充分です」
 本当に充分だと思えた。人の言うことをなかなか聞かず、かんしゃく持ちで、母を困らせ続けた父だが、そんな父が母をスクーターに乗せて走り回っていた姿を思い描いてありがたい戒名をつけてくれた人が目の前にいる。それだけで、私は素直に住職に手を合わせた。
 父が亡くなってから、百か日を迎えるまで、バタバタとするばかりで、心から父を思うことはあまりなかったような気がするのだが、たった今、住職から戒名の意味を聞いた瞬間にふっと父があの世に旅立ったのだという気がしたのだった。いろいろあったけれど、これで良かったのかもしれない。そう思えた瞬間だった。
 知らぬ間にまた涙があふれた。
 住職が帰った後も、口うるさい親族は住職のお経が短かっただの、位牌が小さいだの、一周忌はどうするだの口さがない。
 私は仏壇の中にそっと置かれた位牌を見て、『正隆逡外信士』という文字を一文字ずつ小さく声に出して読んでみた。すると、嫁さんが「ええ戒名やね」と笑った。「ええ戒名やな」と私が答えた。(了)

手に入れた恋愛小説

若松恵子

これひとつだけ持っていれば大丈夫と思える恋愛小説は、私にとっては片岡義男著『彼のオートバイ、彼女の島』(角川文庫/1980年)だ。
「MOTO NAVI(モトナビ)」というオートバイ雑誌の10月号は「片岡義男とオートバイの旅」という特集で、「彼のオートバイ、彼女の島 2013年、夏」と題したページでは、小説の舞台となった瀬戸内海の白石島を訪ねている。小説に登場するカワサキ650RS・W3というオートバイの写真も載っている。心から懐かしくなって、「彼のオートバイ、彼女の島」を再読した。

オートバイが大好きで、バイク便の仕事をしながらも、まだ人生のモラトリアムのなかにいるコオ。バイク便の会社では正規職員なのだが、音楽大学にも籍をおいているのでつい甘えて自分の事を「アルバイト」と言ってしまう彼。まだ人生の行く先を決めかねているコオが、バイクで信州を旅した時に偶然出逢うのがもうひとりの主人公「ミーヨ」だ。
ミーヨはコオと出会って、自分もオートバイに乗りたいと強く思い、免許を取る。彼女は信州からの旅から帰って、自分の住んでいる島で、コオと離れている時間にバイクに乗れるようになる。後ろに乗せて!という女の子、コオの元彼女の冬実がミーヨの対比として登場する。ミーヨがオートバイに乗れるようになったことを知り、コオの胸がいっぱいになってしまう場面で、ミーヨはこんな風にささやく。
「信州で、カワサキにまたがってるコオを見たとき、ものすごくうらやましかった。カワサキに嫉妬したの。自分でも乗りたいと思ったし、あのカワサキみたいに好かれてみたいとも思った」と。

この章に続いて、2人でツーリングに出かけるエピーソドが描かれるが、この物語のクライマックスだ。深まりゆく秋を2台のオートバイが走っていく。ミーヨの走りを見守りながら走るコオ。キャンプ場に到着して、ふたり同時にオートバイのエンジンを切る。「とたんに、秋の山の夕暮れが、ぼくたちふたりを、押しつつんだ。静けさは、圧倒的だ。心地よく肌寒い。いまぼくたちは、ここにふたりだけだ。ほかから完全に切りはなされている。自然のなかにほうり出された感じが、全身の感覚にせまってくる。」2人きりで充分だという、恋愛の幸福の頂点がここにはある。閉鎖的な意味ではなく、2人きりの幸せと心細さのようなものが、秋の高原の香りとともに描かれていて今読んでもみずみずしい。

「月刊カドカワ」の著者自身の解説によると『彼のオートバイ、彼女の島』については、「作者である僕からのメッセージとしては、彼と彼女が抽象的に完璧に対等である、ということを読んでほしい。この原稿を書くために、僕はW1を2台、そしてW3を1台買った。」という事だ。抽象的に完璧に対等な関係のなかで、相手を得たことによって、より世界がクリアになり、広がっていく、そのうれしさを恋愛と呼ぶなら、その状況は途上ではなく、行き着く先で、いつまでも変わらずにそうあり続けていてほしい状況だ。ぴったりの相手と出会った「うれしさ」は永遠に鳴り響いていてほしい。

『彼のオートバイ、彼女の島』のストーリーも、2人の恋愛が確かめられた後は、何かが起こるわけでもなく、「物語はこれからも続いていくよ」という感じで小説は終わる。「それから2人は永遠に幸せに暮らしましたとさ」と言って、私も本を閉じる。

近所のランチ及び北上58号線。

仲宗根浩

ある日、お昼を外で食べようということになり、奥さんとふたりで近所を歩く歩く。奥さんがまだ食べたことがないタイの屋台料理屋さんはお昼の営業はしていない。すぐ近くのペルー料理の店は定休日がこっちの休みと重なっている。何もない、というかもう既に入った事があり、味がわかっている店しかない。この前開店したばかりの沖縄そば屋さんはいつの間にかもう店じまい。残っているのは昔からのランチ営業をやっている喫茶店や食堂ばかり。しょうがないので、母親と近場で食事となるとよく行くお寿司屋さんのランチに行く。お寿司屋さんといっても沖縄の魚料理やイカの墨汁も置いている店。ランチタイムにマグロカツ定食とかやっているのを以前食べに行ったことがあるので、そこのランチ未経験の奥さんを連れていく。メニューを見ると種類が増えている。魚のバター焼きがあったので注文すると、揚げた魚の開きにバターソースともいえない代物がかけられたものが出てきた。バター焼きはオーブンでじっくり焼かれ、ほろほろとほぐれる身にガーリックが効いたバターが絡んでいるものなのに。前もバター焼きと称しこんなのを出した店があったことを思い出した。魚は揚げると身のほろほろ感がなくなってしまう。その夜、行きつけの居酒屋のマスターに話すと「しょうがないよぅ。ちゃんとバター焼きしたら手間がかかるからねえ。」とあっさり言われた。そんなもんなんだ。お手ごろ価格で魚のバター焼きは食べられないんだ、と自分を納得させる。

それからしばらくして、子供も学校が休みの土曜日のお昼、「ペルー料理を食べに行こう!」と家族四人ですぐランチタイムと縁がなかった近くのペルー料理のお店に行く。土曜日なのでランチメニューは無い。ここは開店当初から炭火のいい香りをうちのアパートの階段あたりまで漂わせていた店。日系ペルーの家族の方々がやっていることは知っていた。店に入るとおねぇさんから分厚い料理に関して詳細な説明が書かれた写真付のメニューを渡される。子供二人は無難なもの、それもよそでもでも食べられるだろうというものをそれぞれ頼んだ。冒険心のないやつらだ。こちらは未知のものをが欲しいわけで、わたしはロモサルタド、奥さんはアロスコンボヨという料理を注文。美味しいではないか。別のテーブルの三人のスペイン語(おそらく)で話しているアジア顔の女性はインカコーラのペットボトルを飲んでいる。インカコーラは黄色なんだ。こっちは紫トウモロコシで作られたチチャモラダ、というのを四人で回し飲み。その後子供が注文したデザートのフランも一口食べたら美味しい。しっかりと肉を食した。

こんなことをしているといつのまにか、下の子の運動会が終わり小学校が代休となった翌日、職場でもらったリゾートホテルのランチバイキング割引券があった。当然平日だとかなりの格安になるため、実家の母と姉を誘い、その日まじめに登校した高三男子を除き五人で久しぶりに国道58号線を北上しリゾートホテルへと向かう。奥さんから58号線は以前とは違い変な場所を通ると聞かされていたのでネットのマップで調べると新しいバイパスらしきものができている。実際車で走ってみると、十二年前の情報しかない愛車のカーナビは道が無いところを走っている。いつか元の国道58号線、それより以前の一号線といわれた頃、ひたすら海岸線沿いの道を車でたらたらと北上してみたいとおもったがいつになることか。

璃葉

言葉の火を盗んで
紙に灯す
黒線が皮膚の下に伝わり
種を蒔く
冷たい指先に
落葉色の夢が滲んでいった

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写真論

管啓次郎

  3 
昔これらの言葉を呪符のように持ち歩いていたことがあったが実際よくわかっているわけでもなかった(いまもそう)。Studiumとは注釈的理解、理解とは見えるものを知識に置き換えること。見ているものの秩序をふたたび言語にゆだねるのか? 映された時代を決め場所を決め、人物を特定しようとし、状況を想像で物語に還元する(anon.と記された写真でもおなじこと)。そんな勤勉な置き換えによってかえって痩せた無に近づいたものだけが「世界」を構成するのだ、恐るべき空洞化の果てに。Punctumそれは特異な細部、言葉にしてもまるで意味をもたない点。それが一枚の写真に、「言葉にならない、あの感じ」をもたらす。しかし、とそれから思うようになった、「点ではないな」。写真という表面は枠をもちながらそれ以上どうにも分節できない全体としてのみ現われる。一枚の写真が自分にもつ意味(それはその写真がそれであること)と価値について、その判断はつねに瞬時に行われる、点もなく細部もない、表面の全体なのだ。われわれと画像との関係はつねに言葉に対するよりも早い。

  4 
Pantopeの世界になった、すべての地点がおなじ権利とおなじ強度をもって併置されている。彼女はひとりの生身の人間ではない、それは集合的に見られた「写真家」の姿。チロエ島とマン島に、コンゴ川流域とマルパイスに同時にいる。トポスが空間の一区域ならきみはそれを超越し、知らない土地をどこまでも進むだろう、前にも後ろにも。だがそこできみが出会う相手はあの途方もない老人、出生直後の乳児。あらゆる時を見通す昆虫のような複眼の持ち主なのだ。Panchroneはこの表面にすべての時間を見抜く。「今」とはさまざまな時間の先端の束、ここでは起きたばかりの事件のかたわらで太古や創世が続いている。不動のこの表面をしずかに見つめているつもりで、われわれはすべての時間にさらされている。紋様のずれゆきとともに露出するすべての時間の先端が、私の砂の体をいま崩落させる。

製本かい摘みましては(92)

四釜裕子

「夕方から雨になるでしょう」。天気予報はそこで終っていただきたい。傘をお持ちになったほうがいいなんて続けずに。予報通り小雨になった今夜、傘を持たない人を傘に入れて駅までいっしょに歩きながらこの話をしていた。傘を持つかどうかは自分で判断するからよけいなお世話、というのがその主旨だ。「よけいなお世話と言えば」、とその人がエンディングノートの話をはじめた。おやじがなくなったときの面倒を思い出してなにかしら自分は用意しておこうと思うのだが書店にならんだエンディングノートの用意周到気遣い万全、押しつけがましさにほとほといらだつ。無地の大学ノートでいい。書くべき時期も内容も自分で決める。探していながらなんだけど、よけいなお世話なんだ。なにしろ鍵付きや革製まであるんだよ。自分で買うならまだいいが「はい、おとうさん」なんてプレゼントされたらたまらない、鍵付きや革製なんてそういう使い方を想定しているんじゃないかしら、と。

自分自身が書くつもりで手にしたことがないからかおしつけがましさはわからないが、商品としてのエンディングノートには私も似た不快を持つといいながら、鍵付きという言葉にむかしむかしの日記帳を思い出していた。いわゆる交換日記というやつで、2人、あるいはもっと多くでお金を出しあい、サンリオショップで何冊も買った。たいてい数ページで終わったし、手元に残ったものはない。自分用の日記帳といえばサンリオやキャラクターのものではなく、ごく普通の大学ノートや無地のノートが多かった。どういう基準で選んでいたのか、今思えば子どもなりの背伸びだったのかもしれない。最初のページに「この日記帳を見たひとは死ぬ。」と書いていた時期もある。特別隠し置くことはなかったから、死ななかったけれど家族は読んでいただろう。

ある詩人が生前書きためた創作ノートを見る機会に居合わせた。書きなぐっているように見えていて、その実、ページを大切に埋めている。常に持ち歩いて思いついたら書き留めていたたぐいのものではないだろう。そのうちの一冊に、周囲から声があがった。このノート、私も使っていた。あ、僕も。A5版のなんてことのない無地のノートで、白のビニール製テーブルクロスのようなものが表紙カバーになっている。背幅が1センチほどあり、詩人はこのノートをよく開いて書き込んでいたと想像できるから、糸綴じではなかろうか。この場で資料をおし開くことはできないので確認はせず。無地のノートといえばこれしかなかったよね、とその2人は言う。中学卒業のときにサイン帳にしたんだ、170円くらいじゃなかったかなと、猛烈な記憶力を持つひとりが言う。背に「SHAK-UNAGE No.WN-B.R.」とあるばかりで、メーカー名は記されていない。

コクヨのウェブサイトを見てみた。1905(明治38)年、富山県出身の黒田善太郎が大阪に開業した和式帳簿の表紙店が最初だそうである。ノートの製造は後発で、最初に手がけたのは戦時中とある。グレーの表紙にクリーム色の本文用紙といういわゆる大学ノートは、1885(明治18)年ころには日本で発売されていたそうだ。コクヨが昭和34年に発売した無線綴じのノートは当時にしては珍しく、ページを破ると片方のページも抜け落ちる糸綴じノートの不便を解消しようとしたようだ。以後、ミシン目付き、スパイラル綴じ、キャンパスノートと続き、「SHAK-UNAGE No.WN-B.R.」らしきものはない。文具メーカーのものではないかもしれない。いずれにしても、文房具店で子どもでも買える無地でシンプルなノートが珍しい時期があって、それを好んで使っていた人がけっこういたようである。

今ではノート売り場はたいへんな賑わいだ。ノートというより雑貨の態か。本屋も雑貨屋と見紛う場所がある。タイトルにひかれて手にした本が、箱入りで派手で豪華すぎる装丁というか完全にパッケージになっていたのに気がひけて、というか、余計だと思ったので棚に戻した。パッケージをはずした特装本か電子本として出たときに、買おうと思う。

ぎんぎん ぎらぎら

くぼたのぞみ

  ギンギン ギラギラ ユウヒガ シズム 
  ギンギン ギラギラ ヒガ シズム

 四角い背中を生徒たちに見せながら、教壇のうえでマエノ先生は踊ってみせた。背広を着たまま、腕をひじのところで四角く折り曲げ、10本の指をめいっぱい開いた両手を耳より少し上のところでくるくるまわしながら、マエノ先生は教壇のうえでゆっくりとまわってみせた。彼女をいじめた担任のシモダ先生はその日は休みで、マエノ先生がピンチヒッターで2年松組を教えにきたのだ。

 算数の授業を少しやったあと、生徒たちが喜ぶ「おはなし」になった。その「おはなし」のなかにアイヌの人たちのことが入っていた。「ガッコウ」で、「小学校」で、彼女が「アイヌ」ということばを耳にしたのはそのときが初めてだった。
 小学2年の算数の授業でそのときいったい何を教わっていたのだろう、とにかく教えるべきことをひととおり教えたあと、マエノ先生の口から突然「アイヌ」ということばが飛び出した。アイヌは数をちゃんと数えられないんだ、とマエノ先生はいったのだ。冗談のつもりだったのか、小学2年の生徒たちへの受け狙いだったのか。
 イチ、ニ、サン、シ、ゴ、あとは、イッパイ、になっちゃう、きみたちはちがうね、もっと頭がいいんだ(ニホンジンなんだから)と大きな声で笑った。生徒たちも、大きな声で笑った。自分たちはいま小学2年生で、こうして算数で足し算やら引き算やら、いろんなことを学んでいる、もちろん「5」以上の数だって、小学2年生なんだから数えられる。「15」だって、「121」だって数えられる。「802」だって知ってる。なのに、アイヌは大人になっても「5」以上は数えられないと教えられて、素足のまま上靴をはいた子供たちは、きゃあきゃあと蔑みの声をあげたのだ。1957年の北海道の、稲作農家が大半を占める村の、小学校で展開された授業風景だった。

「アイヌ」ということばを、彼女が最初に耳にしたのはいつだったのか。小学2年のときの、その授業より前に耳にしていたことは確かだ。その授業で「アイヌ」と聞いて、それが意味するものをすぐに理解したのだから。といっても、実際にアイヌの人たちと日常的に接していたわけではなく、むしろ「見たことがない人たち、どこにいるのだろう?」と思っていたのか、いなかったのか。どうやらその年齢まで、はっきりとした輪郭をもつことばとして認識していなかったらしく、早い話が、よくわからなかったのだ。
 当時は「カミングアウト」などということばはもちろんなく、逆に、周囲の大人たちは、その語をなにか触れてはいけないもののように、会話のあいまにちらりと挟むだけだった。子供にとっては実体の見えないことばだった。それでも、その語の裏に貼りついた、なにやら表沙汰にしてはいけない不可解な、薄暗いニュアンスだけは、じわじわと、しっかりと伝わっていたのかもしれない。

 マエノ先生は算数の課題を教えて、いまにして思うと、あまりの恥さらしに赤面してうつむくしかないような差別的発言をして子供たちを笑わせたあと、間がもたなくなったのか、急に、お遊戯をやろう、といって「ギンギン ギラギラ」をやりだした。
 なんだか汚されたような気分だった。お遊戯なんて、ぜんぜん面白くない! ばかばかしくて、やりたくない! と思いながら、やらなければまた怒られるかも、と、いやいや彼女も両手をあげた。マエノ先生のごつい指先からビームのようにギラギラと発せられる架空の光が、その後、たびたび浮上しては、旧植民地北海道の開拓村の奥へ奥へ追いやられていった人たちのことと結びついて、彼女の記憶のなかで定位置を占めるようになっていった。

 やがて、30代になって自分の子供たちのために買った童謡のアルバムで、この「ギンギン ギラギラ」という歌を聞いたとき、ざらりとした感触とともに、この2年松組の授業風景が浮かんできた。このことはいつか書こう、と思ったのはそのときだった。

オトメンと指を差されて(62)

大久保ゆう

先日の富田さん追悼イベントおよびお別れ会では、多数のご来場・ご視聴をいただきまして、どうもありがとうございました。そしてまた、スタッフの皆様にもたいへんお世話になりました。心より御礼申し上げます。

内容のご報告は、私自身、現場でせいっぱいだったのもあり、取材してくださった記者の皆様の各記事やご来場の皆様のご感想などをご覧いただけると幸いです。

個人的には、これまでの距離感もあるからか、富田さんのことについて、実感できるようなできないような、そんなどっちつかずの状態にあります。ただ当日「ベルヌ条約」の話をできたことで、必要以上に張っていた気は、元通りになったような。とにかくやれることをやろう、と思うばかりです。

富田さんはこの連載をご覧になって私に「こんな一面もあったとは知らなかった」とおっしゃったそうなのですが、思い返すにそれはたぶん、富田さんと向き合うときには気を張りすぎて、あんまり素直な自分を見せられなかったからかな、と。

先日も同じで、会場にいた方に怒られてしまいました。あらためて、すいません。

富田さんの残してくれたものを、これからも大切にしようと思います。

掠れ書き33 即興の場

高橋悠治

ピアノの即興演奏の場合は、まず鍵盤のどこかに手を置き、動かしてみる。弾こうとする音を思いついたら、それをまず弾いてみることもできる。この場合は、意志があり、意図があると言えるかな。そうでなく、置いた手をゆるめることもできる。ゆるめると言えば、意図があり、意志がある。意志があれば筋肉が硬くなり、その抵抗を越える時間だけ動きが遅れるだろう。すると予期しない瞬間に音が出てしまう。この一瞬の遅れは、自分では気づかなくても、観客からは見えている。ミラーニューロンが作用して演奏者と同調している身体運動に不自然なブレーキがかかれば、共感もそこで一瞬停まる。見ていなくても、音を聞いているだけでも、リズムの微かな乱れとしてつたわるのではないだろうか。ありうることだ。

手をゆるめるのではなく、手がゆるむ、意図せずにどうしてそんなことができるだろう。手がゆるむというのはひとつの言いかたで、おそらく手から上半身のほうに引き下がって、足裏と坐骨で安定した座にもどる感じがするときにそれが起こる、と言えるかもしれない。すると、手は意図で動きを妨げないかもしれないが、全身の姿勢を整えるというところに意図があり、手は一瞬意志の束縛からはずれて鍵盤に落ちるのだろうか。

手にまかせずに、まず弾こうとする音をイメージし、それを弾くこともできる。その場合は、意識は手から離れてイメージした音のリズムに同調しているだろう。演奏に先立って考える時間はある。それでも手が動き出したら、考えないで感じるだけになる。

ともかく最初の一音あるいは一連の音が鳴った。そこでどうするか。考える時間はあまりない。余韻を聞きながら感じるだけ、考えれば手がためらう。音が行きたいほうについていく、と言う人もいるが、たいていは作曲家だから信じるかどうかは結果として書かれた作品によるだろう。それも紙の上ではなく、弾いてみるか、すくなくともイメージのなかで聞いてみるよりない。1960年以後は、音列技法や構造分析や作曲理論は共有されていないし、一つの方向へ向かって無限の進歩を続ける、というような音楽観は過去のものになった。どのみち今は即興しているわけで、紙の上で全体構成や図式があったり、次のページが見えていることもない。

前後との差しかなく、切れながらつながる空間。それぞれの一節は隣り合っていて、似ているかもしれないが、変化しながらいつか次の一節に流れこむのではない場合がある。また別な時は、おなじものが反復される時にどこかが省略され、どこかにちがうところがあり、このプロセスが続けばいつか別なものになっていく。

偶然が入り込んでくる。瞬間に消える音にかたちをあたえるのは記憶で、紙に書かれた図形や記号が記憶のかわりに使われるようになったのは、偶然に応える有効な対策のひとつでもあり、何かが継続しているという安心感のせいでもあると考えられるだろうか。

即興は場をつなぐ。その場にいる人びとをひとつの音楽でつなぎとめているだけでなく、他の演奏者にも応えながら、スタイルという側面では、この場が孤立したものでなく、別な場所、別な時にあるたくさんの場所、そこにいる人たち、そこにあった音楽とどこかでつながっているという思いのひろがりがある。

その場で生まれる音は、それぞれの楽器、それぞれの音楽の偶然の出会いの結果で、それが次の音に交代するのも、それぞれのパターンの絡みあいと、それらを断ち切る別な偶然の現れと言ってもいいだろう。

つながりながら切れている、一度だけの経験でありながら、くりかえされる場でもある。即興はくりかえせないが、録音したものを聞き返して、そこに何かを発見したとすれば、それは意図しなかった音、意識していなかった部分、記憶されなかった小さな断片であるのかもしれない。そこから別な音楽が生まれる芽のようなもの。