からだに飲み込まれた風
形はどこにも見当たらず
黒く泳いでいる
夜の山道のよう
歩いていても
目の前の闇のなかに確かにいるのに
瞳は聞こえたものと違うなにかを映す
流れている、短い爪の内側に
血と一緒に
青い管と一緒に
陽気な悪魔
からだに飲み込まれた風
形はどこにも見当たらず
黒く泳いでいる
夜の山道のよう
歩いていても
目の前の闇のなかに確かにいるのに
瞳は聞こえたものと違うなにかを映す
流れている、短い爪の内側に
血と一緒に
青い管と一緒に
陽気な悪魔
先週は、自治体の犬の殺処分に関する意見を見ていていろいろと考えさせられた。それといっしょに、あるオーガニックを売り物にした企業のフカヒレ批判を見ていて、とても嫌になってしまった。
私は、なんでもかんでも、動物を殺してしまうことには賛成できない。しかし、「絶対に殺してはいけない」と殺さないことを目的にした主張には違和感を覚えた。それは「なぜ、殺してはいけないのか」という考えや「では、自分はそうした死の上に生きているのではないか?」という現実が見えないからだ。いや、おそらく、そういう主張をする人に殺してはいけない理由を聞くと「可哀そうだから」といった言葉が出てくるのだろう。しかし、かわいそうという単語の先に本当に「死」を直視しているのかというとやはり疑問なのだ。
現代は、生と死を、多くの都市市民の生活から遠ざけて動いている。運よく、自分の身近なところで生を得る瞬間や死を迎える瞬間に出会うこともあるかもしれないが、多くの人の日常では、多くの食物は収穫され、加工された状態で提供される。本来であれば、毎日、口に入れる豚であろうが牛であろうが鶏であろうが、直前まで生きて、世話をしていた生き物の死を受け入れて、自らの生へと供されていることを感じるのだろうが、多くの現代人は肉に加工されたものを見て、それが数日前まで生きていたどこかの動物であったことなどは感じることもないだろう。だから、自分以外の者の死に対する呵責を感じることなく、日常を送っているのだろう。
ところが、それが、身近な動物の死となると、いきなり、「死」はかわいそうに変化し、殺すべからずとなってしまう。ところが、残念ながら、毎日、食べている牛の死も、保健所で処分される犬の死も、動物実験で実験に使用される実験動物の死も、それらは何ら違いはないのだ。あるのは、観念の世界にあるおかしな価値観だけである。
そんなことを考えて、そういったことが起きる理由のひとつとして、現代人が身近なところに「生」と「死」という実物を自分の肌感覚として持っていないからなのではないか?という考えに至った。本来であれば、犬の死も、牛の死も、豚の死も、鶏の死も同様に感じなくてはいけないはずだ。もう少し付け足せば、サメの死も、クジラの死も同様なのだ。そして、動物だけでなく、植物の死も、自然の死も、生態系の死も、同様に感じるべきだと思う。
オーガニックといっても、実際には多くの問題を抱えていて、下手をすればオーガニックじゃない方が他の動植物への影響は少ないのかもしれないのだ。しかも、大規模農園は多くの自然破壊の上で成立している。それは、現代の矛盾に満ちた現実である。そして、矛盾をきちんと感じたとすれば、私たち人類が生きるために、必ず起きる他者の死と、その死の上に人類というものが生きている現実を直視するはずである。無駄に殺していいはずはないが、殺さずに済むものでもないのだ。だからこそ、我々は、他者の生に気を配り、死への尊厳を讃えたうえで、自らの生きていることの業を感じて、それでも生きるしかない。
なんとなく、「コロスノハンタイ」という主張に、そのうすっぺらさを感じて仕方なかった。殺すという事実を直視したうえで、それがどうしても必要だったのか、無くすためには打つ手はなかったのか?を考えるべきであり、少なくするためにどうすればよいのかを考えるべきなのだ。そのために必要なのが、「生」と「死」の直視であると思っている。
母は33歳の時に家を建てた。私が幼稚園に通い始める前のことだ。
家を建てる土地は、それまで借りていた家の向かいにあったから、工事の間、時々様子を見に行っていたはずだが、私にはその記憶がない。
父がどう思っていたのかは知らないが、母は合理的な性格だったから、どうせ家賃を払わねばならぬのなら、そのお金を住宅ローンに回したほうがいいと考えたのだろう。また、幼い私が、家の襖という襖に憑かれたように絵を描くのを、手狭な家で暮らしているストレスだろうか、と随分心配したようで、子供たちが走り回れるような壁の少ない風通しのいい家、庭の大きな家に引っ越したかったとも言っていた。
しかし、後に家族全員が東京暮らしとなり、いまその家に住む人はいない。
私自身は、親元を離れてからずっと賃貸住宅で暮らしている。
家を建てようと思い、小さな土地を買ってもみたのだが、諸々億劫でいまだ更地のままだ。
いまになってみれば、家を建てようなどと考えたのも若さゆえの思い立ちだったのかもしれない。
むしろ、年々強く感じるのは、私には家に対する執着がないということだ。
雨露をしのぐ場所がなくては困るが、どこかに定住したいとは思わない。家庭を築きたいという願望もない。
もしも、金銭に恵まれるならば―そして私の荷物が減らせるならば!―ホテルで暮らすのが一番の理想だ。
それが自分の本心だと私が気づき始めた頃、母が聞かせてくれた話がある。
家が落成し、引っ越しを済ませ、その家で初めて眠った翌朝のこと。
目覚めて真っ先に母の頭に浮かんだのは、「当分はここから動けない」ということだった。そして、その現実は母の心をどうしようもなく滅入らせたのだという。これから新しい生活が始まるのに、ちっとも嬉しくはなかった、と。
家を持つことの良さは、持ったひとにしかわからない、と言っていた母の口からそんな言葉を聞くなんて。
私はとても驚いて、また、私が漠然と感じている家に対する足枷のイメージを、若かりし頃、母も抱いていたということに、普段は性格の違いばかりを感じるけれど、こういうところはやはり親子なのだろうか、と思ったりもした。
一方、妹は既に家を建て、子供をふたり育てている。
どうやら母の現実的なところは妹に、気分屋なところは私に流れたらしい。
いつか妹に、目覚めの朝、どんなことを考えたか、訊ねてみたいものである。
ビッグ/コミック/スピリッツを、ふじいさん、コンビニに立ち寄って、
なぜか買いました。 それから雁屋さんにファンレターを書こうとして、
ツィッターの処理を間違え、ははは、刈谷市立図書館に送っちまった。
目取真さんの『まぶいぐみ(魂込め)』をこの二日、読まねばならん。 で、
ととと、「まぶい(魂)」は守り、昔のこと、私も首里城の坂でマブイがヌギュン
したことを思い出しました。 守り神を落とした私は、しずかに祈ります。
ふと、『平和通りと名付けられた街を歩いて』の、カジュがウタおばあを連れて、
山原(やんばる)へ旅立つところを思い出しました。 なぜ、やんばるを目指して、
二人はバスに乗ったのだろう。 『まぶいぐみ(魂込め)』のかみんちゅ(神女)も
ウタです。 幸太郎をグソー(後生)に取られたウタは、幸太郎の体内にはいった
オカヤドカリ(アンマーと言います)と斗います。 私はアンマーをビッグ/
コミック/スピリッツにかさねて読んでしまって、きっと内部被曝のことだと
思えてなりません。 まだまだ祈らねばならないことがたくさんあるというのに、
目取真さんのさいごは「しかし、祈りはどこにも届かなかった」とあります。
私の落としたまぶいは、帰京する前夜、坂へ来ますと、新芽のみどりに隠れて、
光る虫、そうなんです、螢の幼虫でした。 それを見ているうちに、まぶいが
もどされたと思います。 沖縄の螢は幼虫のまま地面を這い続けるのでしょうか。
(芥川賞の『水滴』〈一九九七〉についても言いたいことがいくつかあるけれど、次回に。)
梅雨梅雨梅雨梅雨晴れ晴れ梅雨梅雨梅雨梅雨、というようなこちらの天気。ベースにあるのは湿気。それの対策のため布団収納の押入れは扉が完全に閉まらないように対策が奥様の手で施されている。月末となると晴れた日は結構なさわやかな風が吹いたりするこのごろ。
お箏時代の弟子仲間というか姉弟子さんが沖縄に来る、と五月になりメールが来る。こちらの国立劇場の公開講座とのこと。無料とのことで冷やかし半分で講座に申し込む。内容は三味線、主に地唄についてで中国から沖縄を経て大阪の堺に伝来した三味線がどのような変容をしたか、というもの。普段あまり聴くことがない三味線組歌の琉球組などさわりのついた生の三味線の音を久しぶりに聴く。翌日は姉弟子様とお土産のお買い物にお供し、ランチを食べたあと、泡盛をもらう。ありがたや。
ひとがひとりいなくなると部屋がかなりすっきりした我が家で、何が入っていたか思い出せない段ボール箱がある。開けてみるとカセットテープがまた出てきた。何年か前に大量処分したと思っていたが。内容は奥さん関係のお箏のものがほとんどだったが、その中にハングル文字のテープが。もう亡くなったカメラマンで韓国音楽のレーベルの制作をしていた方からいただいたポンチャックのミュージックテープ。かびでやられて再生できるかどうか試すと、ちゃんと音が出た。さすが固定ヘッドのアナログは湿気にも強い。同じような状態で保管されていたビデオテープだと映像、音ともにノイズでだめになっていただろうに。でも今どきポンチャックを聴くやつなどいないだろう。このテープも一度CD化されているものもあるが今では廃盤。とりあえず少しはいい環境で保存。
パソコンのOSが変わったため使えないスキャナーを処分した後長らくスキャナーが無い状態だったが安いプリンター一体型のものを見つけ、ついでに長い間液晶画面が映らない電話機をあきらめて新しいものを購入。電話機のほうは今までにない新しい機能があり接続して電話として使える状態にはしたがワンタッチダイヤルやら電話帳の登録などはまだまだ。年々、こういう設定が億劫になっている。
お買い物のあと、久しぶりに沖縄ジャンク定食の聖地「ハイウェイ・ドライブイン」に行く。夜でもランチのAランチをと思ったがスペシャルランチを頼む。それでもボリュームは身体によくない要素いっぱい。那覇ではABCが逆でCランチがこれでもか、というものだったが、あの店だけだろうか。基本はABCの順番で高カロリーから低カロリーへとお値段もだんだんと下がるものだが。しかしどの店もとんかつの衣の厚いこと。あまり身体によくないものを食べながらじめじめの梅雨あけを待つ。
「アクト・オブ・キリング」(原題The Act of Killing)は、アメリカ人の監督がスマトラのメダン市で1965年9月30日事件の虐殺に加担した実行者たちを取材し、彼らのやり方で虐殺を再現させた過程の記録である。私はyoutubeで無料公開されている159分版(インドネシア人に向けて公開されているので、日本語字幕なし)と映画館で121分版を見た。
先月号で書いたように、私はこの映画のインドネシアの関係者(フェイスブックのインドネシア語版ページのメッセージ箱)に質問を送った。それが5月初めに届いたので、私の感想として私が先方に質問した内容と相手からの回答の一部をここに紹介したい。ただし、私の感想は、私がyoutubeで見たが映画館での公開はまだという時期のものなので、先月号に書いたように、インドネシア人モードで見ている。
(1)私が最初に感じたのが、アンワルに密着しているけれど、イスラム教徒であるアンワルの習慣的な宗教実践(礼拝など)を、監督はあえて取り上げていないみたいだということ。
回答では、アンワルは悪夢を消すため、スマトラのある村に何年もセラピーを受けに行っていたと監督らに語ったという。これはインドネシアでよくある、霊的な治療だろうと思われる。彼はメッカ巡礼もしたが、これらのおかげで悪夢が消えたという話は彼の口から出なかったという。セラピーや宗教は、虐殺という彼が背負っている積年の重みのごく表面にしか届いていないようであり、自分たちはアンワルが過去の暴力行為を正当化しようとしたり、毎晩の悪夢を鎮めようとしたりする心理的な葛藤に目を向けたと回答にあった。インドネシア人と長く接していると、彼らの宗教的日常行為がよく目に入ってくるので、そういうシーンが映画の中に入ってこないことがかえって不自然なように感じて質問をしたのだが、監督たちはそんな表面的なことにはとらわれていなかった。宗教などで彼は救われていないという監督の観察は、とても冷静で鋭い。アンワルの心理を追っていた監督は、アンワルがカメラの前で直接は語らなかったメッセージを追っていたのだった。
(2)次の私の疑問は、アンワルが寝室で寝ているシーンが何度も出てくるが、あれは監督がつけた演技なのか、アンワルが自発的に行った演技なのか、それとも何の作為もなく彼はカメラの前で寝ていたのかということ。あの寝室は、どう見てもインドネシア人の日常的な寝室で、映画用のセットではない。居間などの洒落た部屋に比べて、質素でいかにもプライベートな空間だ。役者でない人が、寝るというプライベートなシーンまでカメラに晒すものだろうか、と素朴に感じたのでこういう質問をした。実は、ここだけは監督がアンワルに寝ている演技を指示したのかもしれない、と私は予想していた。
それに対する回答は、この映画では、「演じる」ことと「行っていること」、「本当のこと」と「フィクション」を区別していないということだった。人は日常生活の中でも、多かれ少なかれ、何らかの役割を「演じて」いたりして、その境目は明白ではない。この映画は、これこそが現実なのだとということを見せるものではない、自分たちも撮影していることを観客の目から隠してはいないし、一方、撮影される側もそこにカメラがあることを意識している。そして、出演者の無意識に出た行為から何かのふりをしている行為まで、そのまま観客に見せている。監督はアンワルに彼の私的な日常生活も撮りたいと相談し、寝室での撮影もアンワルは了承したとのことだ。だからカメラには彼がテレビを見たり、着替えたり、鏡を見たり、歯を磨いたり、寝たりするシーンが出てくる。寝室にカメラを三脚に据えつけてアンワルとカメラだけという状況で撮っていると、彼が寝られない様子が映っているので、監督がそれはカメラがあるせいかと尋ねたところ、いや、よく眠れないことが多いのだとアンワルは答えたのだという。そういう時、歯の痛みで眠れないから、ペンチで歯を矯正しようとしたりするらしい。そういえば、彼が入れ歯を入れるシーンというのはよく映像に出てきた。何か彼の咀嚼できない感情が、歯への過剰意識としても出ていたのかも知れない。
(3)映画の最後で、彼が虐殺の現場に戻って吐くシーンについて、これも前の疑問同様、監督がつけた演技なのか、アンワルの自発的演技なのか、実際に吐き気をもよおしてしまったのか、と質問した。映画を見る前にあらかじめネットでさまざまな意見を探したところ、このシーンは彼が演じたものでないかという感想がいくつかあった。確かに、日本人の目には嘘くさく見えそうなシーンだと感じたが、私は、アンワルがkemasukan(霊など悪いものに入られた状態)したのではないかと感じた。というのも、腹に入った悪い気を吐き出しているインドネシア人の症状を見たことが二三度あるのだが、それがあのアンワルの吐き気の症状に似ていたからなのだ。というか、そのときはもっと頻繁に喉の奥からグワッ、グワッと瘴気がこみあげてきて、アンワル以上に信じられないような光景だったので、アンワルの吐き気もあながち演技とばかりは言えない、という気がした。
これについても、製作者からの回答は上に同じで、アンワルの演技なのか、実際に起こったことなのかを問わず、カメラの前で生じたことを撮影し、観客に提示しているということだった。監督はアンワルに演技をつけたことは一度もないと言う。実は、映画の冒頭で彼がこの虐殺現場に監督たちを連れてきて嬉々としてその様子を語ったのは2005年、映画の最後のシーンは2010年の撮影とのことだ。しかし、私にはこの間に5年の歳月が流れていると実感することができなかった。もっとも映画中には選挙があってヘルマンが落選するエピソードがあって、時間は確実に流れている。しかし、冒頭と最後の虐殺現場に来るシーンには字幕で年を入れるなどして、時間が経過したことをはっきり示した方が、アンワルの吐く行為がもう少し違和感のない形で観客に受け止められたようにも思う。2010年に再度虐殺現場を訪問することを監督が提案したとき、アンワルは2005年とは違って、明らかに気が進まない様子だったという。この時アンワルは実際には吐しゃ物を吐き出してはいないので、単にそういう演技をしてみせた可能性もある。しかし、夜ここに来て撮影したくなかったのかも知れないし、実際に精神的に異常になっていたのかもしれないとのことだ。単なる演技という可能性から、そう演技せざるを得ないという心理の可能性までをも含めて、監督はカメラで追っていたということなのだろう。
「演技と演技ではないこと、ドキュメンタリとフィクションの境目はどこにあるのか」という言葉が回答では何度も繰り返され、「我々は現実の世界をどのように認識しているのか」がこの映画のテーマの1つでもあるという。確かにこの映画では、現実と虚構は二項対立的に存在するのではなく、「スペクトラム」としてある範囲の中に連続して分布するものとしてとらえられている。
質問はまだまだ続くのだが、今月はここまで。
無事に最終話の12話までを終えた「とんびの眼鏡」だけれど、この作品が専門誌に掲載されたコミックで終わるのか、さらに世に出て支持を仰げるのかは、これからの作業にかかっている。単行本として世に打って出るには、まず連載時の「右開き横組み」から常識的な「左開き縦組み」に加工する必要があった。より多くの人たちに目にしてもらうわけだから、読みやすくすることはマストな作業なのだ。
もっとも簡単な方法は、印刷フィルムを「裏焼き」にして使うことなのだが、裏になった描き文字などは、もちろん描き直す必要がある。ところが、そんなに単純な話ではない。裏焼きにすれば精密に描かれたカメラ本体も左右反転してしまうし、シャッターを押す指も左になってしまうのだ。登場人物の表情も、裏になれば微妙に変わってしまう。これらをいちいち手直しすることは現実的ではない。
吉原さんは考えに考えたあげく、コマをひとつずつカッターで切り離し、並べ替えるという手法を選択した。これは極めて有効ではあるけれど、途方もない作業だった。カッターでバラバラにしたコマを新しい原稿用紙の上に並べ、左開きに見合ったコマ割りを再構築して行く。コマの枠は違和感のないように、削ったり描き足したりする。12話すべてを完成させるには、膨大な時間が費やされた。
今ならスキャンした原稿をモニター上でコマごとに切り分け、並び替えはもちろん、ワク線もフキ出しも自在に加工することができる。生原稿に刃を入れることなしに、どんなカタチにでも修正可能なのだが、この時代では望むべくもない。だから完成した修正原稿は厚さが1ミリほどにもなり、1話分の20ページでもずっしりとした重さになった。この重さは、まさに吉原さんの努力の重さなのである。
これらの加工作業で吉原さんに支払うギャランティと、その制作時間を容認してもらうために、私は当時の編集担当取締役である見山さんに直接交渉し、OKをもらっていた。見山さんは、会社が手にする新たな「コミックという武器」の初弾となるこの作品を確実に展開させるには「必要な作業である」と判断してくれたのだ。しかし、大いなる手間と費用の発生には、ひとことイヤ味を言うことを忘れていない。
だけどこれは私たちに向けてではなく、カメラマン編集部の一杉編集長に対してだった。見山さんは「当初から正しい開きのまま進行させて、巻末で上下逆にして掲載すればよかったではないか」と一喝したのだ。私にはそんなアイディアは思いつかなかったから、見山さんのアタマの柔らかさに感心したのだが、一杉編集長は「そんなカッコ悪いことができるか」と反発していた。まぁ、無理もないのだろうが。
さて、このコミックを「どう売るか?」だけれど、私には明確な考えがあった。このときの月刊カメラマン誌の実売り部数は、3万部に届かない(それでもカメラ専門誌の中ではトップだった)ほどで、連載していたコミックの存在をカメラマン誌の読者以外が知っているとは思えない。そこで一度、総集編というカタチで廉価版を発売し、その後しっかりした体裁の単行本にするという目論見だ。
その単行本では、巻末にストーリーは実話がベースであることを初めて明かし、甲子園球場の銀傘の上に忍び込んだこと、川口の315メートルの鉄塔からの景色、首相官邸の退避防空壕の奥に設けられた脱出用トンネルなどなど、実際に撮影された写真を掲載する。私はこのアイディアを見山さんに告げると「船山の思うようにやってみろ。責任はオレがとってやる」と言ってくれた。これはとても嬉しかった。
しかし、廉価版の価格決定ではひと悶着が持ち上がった。単行本を展開する前に廉価版の総集編で作品を広く周知させるのは、講談社の常套手段であり「課長 島耕作」もこの手法を採っていた。私はそれが350円という価格であったことから、これより安価な300円、できれば280円の価格を付けてくれるよう、上申していた。だが価格に関してのクレームが来たのは「その7」で前述した大園常務からだった。
廉価版の総集編で採算を求めては元も子もない。廉価にすることは後に単行本を出すための布石であり、周知させるための広告だと考えてほしい。だけど大園常務は聞く耳を持たず、講談社より100円も高い450円という価格を押しつけてきた。承服できないと突っぱねたのだけれど、このとき見山さんは役員人事で、これも「その7」で前述した田中さんにその役を譲っていたから、援護してくれる人は皆無だった。
私は見山さんの腹心でもあった田中さんに、これまでの経緯を説明し、450円という価格ではコミックのプロジェクト自体が崩壊してしまいかねないと告げた。いいですか? ボクらが仮に、すっごく美味しいコーラをつくったとします。だけどコカコーラやペプシコーラ相手に、それより高い価格で販売して売れると思いますか? 田中さんは「そんな例えをしなくても言いたいことはわかるよ」と言ってくれた。
だけど後日、社長の林さんが私の席を訪れて「船山くん、申しわけないが、この価格を飲んでくれないか」と言ったとき、目の前が一瞬、暗くなったのを覚えている。「とんびの眼鏡・総集編」は、強気だった見山さんのアドバイスで、私の提案よりはるかに多い7万部という刷り部数が、すでに決定していたのだ。少しでも安い価格にするため、使用する紙はインクを過多に吸ってしまう文字どおりのザラ紙なのである。
いくら内容に自信があっても、450円という価格を付けられるシロモノではない。いったい何が起こっているんだ? 気を落としてばかりはいられない。次に控える単行本展開のために、新取締役の田中さんと販売部部長の永井さんを伴って、取次である東販へと向かった。コミックコード取得の交渉である。出版社が書店でコミックの単行本を販売するには、取次からコードの許諾を得ることが必須なのだった。
たとえば現時点でコミックコードを持たないウチの会社は「とんびの眼鏡・総集編」を、月刊カメラマン別冊とするしか販売手段がない。本誌別冊のコードでは書店は2週間しか置いてくれず、この短い期間に売りつくしてしまうことが肝要なのだ。だからこそ、その価格設定は最重要課題であったはずなのだが、もう遅い。コミックコードがあれば、出版社が絶版にでもしない限り、未来永劫、書店は置いてくれるのだ。
刷り上がったばかりの「とんびの眼鏡・総集編」を前に、東販の担当者は、まず吉原さんの絵柄に難癖をつけた。「こういう絵って、今どきウケないんですよ」はぁ?「それよりモーターマガジンさんは、どれだけコミックをやるつもりがあるんです? 単行本やるってことは雑誌と違って在庫管理するってことですよ? 倉庫はお持ちなんですか? 搬送用の車両や、そこに従事する人の人件費まで考えてますか?」
勉強不足とはいえ、こちらは目をシロクロさせるばかりだった。ビックリしたのは販売部部長の永井さんが、まったくフォローしてくれないばかりか、取次の肩を持つようなことまで言い出したことだ。あんた、いったいどっちの社員だ? 挙句の果てに担当者は「コミックコードを許諾してもいいが、その際にはモーターマガジン社が出版するすべての雑誌の掛け率(1冊あたりの取次の取り分)を見直す」と言う。
かなり後にわかったことだけれど、これらはすべてブラフだった。大手出版社ですら在庫管理のための独自の倉庫など持ってはいない。単行本の在庫管理に適した、しっかりした空調設備を備える倉庫は賃貸契約が一般的であり、異なる出版社同士が同じ倉庫を借りていることも珍しくない。そこに従事するスタッフは倉庫会社の社員であり、特定の出版社が彼らの人件費を負担していることなど、ありはしないのだ。
そんなことも知らず、狐につままれたようになった私の背中に、田中さんからの声が飛んだ。「船山、あきらめよう! ウチでコミックをやるのは最初から無理だったんだ」そうだったんだろうか? いや、何かが違う。私の知らないところで何かが動いているのではないか? 単行本が発売できないことを、吉原さんにどう伝えよう? 私のアタマの中には絶望と不安が充満し、考えがまとまらない。
5月は、やはり忌野清志郎のことを想う月だ。1日にひとつ、小さな言葉が添えられている日めくりを愛用しているが、今年の5月2日には「すきだよ、とうたう日」という言葉が添えられていた。ここにも清志郎の事を想っている人が居る、と小さな発見をする。
清志郎にちなんだ2つのコンサートに行った。
ひとつめは4月27日の荒吐(アラバキ)ロックフェス。仙台駅からバスで1時間くらいのところにある、みちのく公園キャンプ場は、まだ桜が少し残っていた。出演することで、みちのくのロックフェスを応援していた清志郎に感謝をこめて、毎年彼のためのコーナーが設けられる。フェス2日目の「THE GREAT PEACE SESSION “僕の私の好きなキヨシローSONGS”」を見に行った。
清志郎の盟友、仲井戸麗市がハウスバンドのバンマスを務め、ゲストボーカリストは、仲井戸麗市が直接誘ったようだった(何人かがチャボから電話をもらったと誇らしそうに話していた)。清志郎ファンならば、出演者のラインナップを見ただけで胸が熱くなってしまう。石田長生、三宅伸治、ワタナベイビー、leyona(レヨナ)、和田唱。清志郎といっしょに生きてきた人たちだ。清志郎との思い出をいっぱいもっているはずなのに、決して声高にそれを語らなかった人たちだ。それぞれが充分考えて、2曲ずつ選んだ清志郎の歌を順番に歌った。みんな自分らしく、清志郎の歌を懐メロにしないで、現在ただ今の歌として歌っていて良かった。そういう意思を感じさせる、名演だった
2つめは5月2日の「忌野清志郎ロックン・ロール・ショー Love&Peace」。2010年から毎年5月2日に開かれているが、今年は武道館から渋谷公会堂に会場を移して開催された。RCサクセションの人気が爆発した、想い出の「渋谷公会堂」だ。今年の出演者は奥田民生、Char、トータス松本、真心ブラザーズ、仲井戸麗市、そして忌野清志郎(ライブ映像による出演だけれどね)。
「全部 the 弾き語り」というタイトルが示す通り、基本的にはギター1本持って清志郎の歌を歌うという内容だ。Charは清志郎との共作「かくれんぼ」を歌った。あんまり有名ではないけれど、素直で良い曲だ。仲井戸麗市も、「けむり」という意外な曲を歌った。過剰な演出の無い、シンプルな良い構成だった。最後にはフィルムコンサートによる清志郎の歌を6曲聴いた。「世界中の人に自慢したいよ」を心から歌う清志郎の姿に新鮮な感動を覚えた。今さらながらの新発見だった。清志郎の魅力はまだまだあるんだぜ!と言われたようだった。
うれしいことに、4月末に清志郎の新刊『ネズミに捧ぐ詩』が出版された。1988年に清志郎がノートに残した未発表の詩が収録されている。そのなかの1篇。母親の若い頃の写真を見た時の気持ちを記した詩がある。
Hey!Baby、見てみろよ
何て、可愛いんだろう!
わーい、ぼくのお母さんて
こんなに可愛い顔してたんだぜ
こんなに可愛い顔して
歩いたり、笑ったり、手紙を書いたり
歌ったり、泣いたりしてたんだね
『ネズミに捧ぐ詩』(2014年/KADOKAWA)所収 「Happy」
こういう独特の感受性が清志郎の魅力だなと思う。清志郎が実の母親と死別していて、会った記憶のない母の写真を見たという特別な事情もあるけれど、ここに書かれているのは、そういう特殊な生い立ちの事ではない。どんな人にも若い頃はあって、人のそういう頃に思いをはせるという、普遍的な心のありようだ。かわいいと素直に思う子どものような心だ。それが清志郎の魅力だ。
清志郎はもうこの世を去ってしまったけれど、彼の残した歌や詩を今も、繰り返し聴くことができる。浜辺に波が残していったすべすべの石を大事にポケットに入れておくように、清志郎という宝物をポケットに入れておくことにしよう。
世の中がワールドカップで騒ぎ出した。しかし、どうも、僕は、みんなが騒ぐとあまのじゃくになってしまうところがある。日韓大会は、開催国にもなったわけだから日本中は大騒ぎだったと思うが、僕は全く記憶になくてTVも見ていない。それは、パレスチナとイスラエルの紛争が激化して、結局私自身が、イスラエルの嫌がらせを受けて入国拒否されるという憂き目にあわされてしまうのだが、同僚たちは、呑気にサッカーで興奮していて、何もしてくれないというありさまだったのだ。それ以来、サッカーには目もくれなかった。
しかし、イラクのがんの子どもたちの支援を始めてからは、変わってきた。子どもたちが、サッカーが好きで、ナカタとか、タカハラとかの名前を知っている子もいる。これは、少しはサッカーを勉強しなくてはと思うようになった。
ワールドカップの時期には、子どもたちに、ブラジルや、ドイツ、アルゼンチンなどのユニフォームを買ってプレゼントするのだ。しかし、残念なことに日本のユニフォームが現地では手に入らない。厳しくライセンスが管理されているんだろう。日本で買うと1万円近くしてしまう。そこで、思いついたのが、中古のユニフォーム。毎回少しづつデザインがかわるから古くなったのを寄付してくださいと呼びかけている。
病院に入院しているがんの子どもたちにプレゼントするのだ。この時期、日本代表チームを応援している日本人のパワーが、がんの子どもたちにも向かえば、きっと助かるような気がしてくる。もちろん、薬などの医療支援も必要だから「感動募金」と称して、募金も集める。http://jim-net.org
たとえば、シリア難民のバッシャール君、12歳。ダウン症で生まれてきたが、白血病になってしまった。シリアのアレッポの郊外に住んでいたので、アレッポの病院でがんの治療を受けていたそうだが、昨年の秋に、戦闘が激しくなり、村から病院に通うこともできなくなった。ともかく息子の治療を続けなければならないと、イラク国境をめざしたのだ。UNHCRで登録を終えると、バッシャール君の様態がわるいので、難民キャンプには入らず直接病院まで搬送された。親切なイラク人が家賃を肩代わりしてくれてアパートに住むことができたが、長くは続かず、お父さんは、仕事を探している。病院までも30分くらいはかかる。JIM-NETも寄附を集めて、貧困患者の交通費や、薬代を支援しているのだが、お父さんは、しつこく支援を要求してくるので、医師も対応に疲れ切ってしまった。
1月に会った時は、感染症と出血で体中にアザが出来ていた。医師も心配だという。それでも私たちが支援した抗生剤が効きだし、一か月後には元気になっていた。しかし、最近また調子が悪いという。「2週間程前のケモセラピー後から白血球の低下、口内炎出現、肝臓肥大と調子がよくなく、連日抗生剤の点滴、電解質バランスを整える一般的な点滴治療を行っています。いつも泣いていて、話しかけても顔を背け、泣き叫んでます。点滴自体は痛くないはずですが、腕に針が刺さっていること、お口の中やお腹が痛いこと、体がだるいこと、全てがつらくてどうしていいかわからないようです。」と現地に派遣している田村看護師が報告してきた。バッシャール君にユニフォームを着せたい。
間もなく、ワールドカップが始まる。会期中の6月20日は世界難民の日。日本は、ギリシャと対戦するが、この日は、バッシャール君のように、異国で難民となりがんなどの病気と闘っている子どもたちに、スポットライトを当てたい。
しかし、会場となるブラジルが揺れている。
「ブラジルW杯の「代償」、会場建設で加速するホームレス化」という記事がある。
サッカー王国のブラジルが、「ワールドカップよりも福祉を」訴えて、デモを続けているというのだ。そして、4000世帯がホームレスになってテント暮らしをしているという。世界難民の日。我々は、本当に、ただゲームを楽しむだけではいられない。
長いエスカレーターを眼下にすると頭から吸い込まれそうで、どれだけ遅刻していてもかけおりることができない。手すりを握って目線は上に、おとなしくからだをまかせる。永田町駅、ここのエスカレーターの照明は東日本大震災をきっかけに間引かれたまま。ほんとうにそれまですべての蛍光灯がついていたのか、どれだけ明るかったのかと思わせる。いつかこの照明もきれいに整理されるのだろうか。いやこの間抜けな状態のままがいい、見るたびにこうして思い出すことができる、間引かれたわけを知らない小さなひとがおかしいと笑うときに話してあげられる。薄暗いという不便もない。ぼんやり見上げていると手ばかりが前にいくので、足もとの速さに合わせて時々手すりを握り直す。この一瞬さえちょっとこわい。エスカレーターはどこもみな手すりのほうが回転が早いのだろうか。
電車を乗り換えて文庫本を開く。数ページ読んだところで車中の読書はおしまい。目の調子が悪い日はしかたがない。暑くて今日は半袖だ。露出にまだなれていない自分の肌がおかしい。左腕のよっつのほくろ。父とほぼ同じ場所にあるやつだ。子どものころから変わらずに今もあるとは知らなかった。目を閉じる。聞くでもなく聞こえてくる誰か知らないひとの声。車中話がけっこう露骨であることも知らなかった。個人名に企業名、下品というかあまりに無防備で、やっぱり本を読むかねむりこけて過ごすほうがいい。この日、目の前に立ったふたりの男。社会人である先輩が就活中の後輩に世間のあらなみを語りながら乗ってきたふうである。目標を持て。どんな家に住みどんな結婚がしたいか具体的にイメージせよ。会社に入ってもそれだけに頼っているようではダメ……、続けて先輩は自分がやっている投資について語り出し、キミもやるべき、ボクを見ろ、こんなにうまくいっている、そう言った。後輩は、正直僕は車も家も欲しくない、とにかく今は内定が欲しいだけなんです、そう言った。降りる駅が近づいた。この短編のタイトルは何がいいだろう。「温度差」ではそのままに過ぎるか。電車がとまり、しつれいと言ってふたりを見た。やせていた。
奥多摩の小さな村に取材に行った。取材が終わり、せっかくだからと一人で歩き回っていると急に視界が開けた。小学校だった。広い運動場があり、奥の方に三階建てくらいの木造の校舎があった。校庭の真ん中には大きな木が一本生えていて、夢の中に出てきそうな小学校だった。
フェンスも校門もなく、運動場を取り囲むように少し背の低い木が防風林のように植えられている。僕はその木の間をすり抜けて、校庭に入り込む。校庭の真ん中の木を取り囲むように陸上競技用のトラックが白線で描かれていて、三人の子どもたちが駆けっこをしている。
三人の子どもたちは、スタートラインに並んで立と、いちばん年上らしき女の子が大きな声で「よーい」と叫ぶ。そして、しばらく間を開けてから「どん」と大声を出すと、みんなが一斉に走り出す。年上の女の子は年下の子に手加減をしているのか、様子を見ながらゆっくりと走る。小さな男の子は必死で走っている様子だが、同い年くらいの女の子に抜かれてしまう。
結果が出ると、また三人はスタートラインに並ぶ。「よーい」「どん」という声が響く。小さな男の子が必死で走り、最後に小さな女の子に抜かれる。その繰り返しだ。
三人は何度も何度も同じ結果の駆けっこを繰り返している。僕はその様子を飽きもせずに眺めている。校庭の隅からその様子を眺めているのに、ときどき三人の子どもたちの表情が手に取るようにはっきりと見えたり、どれだけ遠くから眺めているのだろうというくらいに豆粒のように見えたりする。
不思議だな、と思っていると、
「こんにちは」
と女の子の声がした。いちばん年上の女の子だ。
「こんにちは」と僕は答える。
「元気に走っていたね」
「はい」と女の子は返事をして、他の二人も遅れて「はい」と返事をする。
「この子は弟のタケシです。小学校一年生です」
そう紹介されて、男の子はただ照れたように笑っている。
「この子は従姉妹でルミちゃんです」
タケシは、自分が紹介されたときには照れて笑っているだけだったのに、ルミちゃんが紹介されると「はいって言わなきゃいけないんだぞ」とルミちゃんの背中を僕の方へ押しやろうとする。ルミちゃんは嫌がって、タケシを振り返って頭を叩こうとする。タケシは駆けっこでは負けていたくせに素早く逃げて、脇にあった雲梯に手をかけて器用に移動しはじめた。ルミちゃんは雲梯の下からタケシを捕まえようとする。タケシは捕まらないように雲梯に捕まりながら身体を揺すって、右へ左へ移動する。そして、ふいに力を入れたかと思うと、雲梯の上に立ち上がって、手放しでバランスを取りながら歩いたりしている。
「あぶないよ」
年上の女の子が注意するが聞いていない。
「君はタケシくんのお姉ちゃんなの」
そう聞くと、女の子はさっきのタケシくんと同じ照れた表情をして、はい、と小さく返事をする。
「タカハタミサトです」
礼儀正しくいかにも長女らしくミサトは自己紹介する。僕は思ってもいなかった場所で、思ってもいなかった友だちができたような、そんな気持ちになり、立ち上がった。
「ようし、久しぶりに雲梯やってみようかな」
僕はそう言うと、雲梯に手をかける。手をかけたと同時に足を跳ね上げてぶら下がる。
そのつもりだった。
しかし、実際には身体は一瞬も雲梯にぶら下がらずに校庭に叩きつけられた。
タケシとルミちゃんが大声で僕を指さして笑う。ミサトが大丈夫ですか、と近寄ってくる。大丈夫大丈夫、と僕は立ち上がる。思いの外腰を打っていたが、平気なふりをして立ち上がる。
もう一度、僕は雲梯の鉄の棒を握ってみる。はしごを横に渡したようになっている棒は、さっきは気付かなかったが、意外にひんやりとしている。その棒をしっかりと握り、今度こそ、と僕は身体を浮かそうと腕に力を入れて、身体を引き上げる。力が入らない。身体が落ちる。腰を打つ。また同じ結果になった。
そんな僕の真横でタケシが雲梯をまるでチンパンジーかオランウータンのように自由自在に動き回る。見ると、タケシの腕にはしなやかな筋肉がうごめいている。それに引き替え、三十代も半ばになった僕の腕は白く、筋肉の盛り上がりさえない。
ようし、このままでは終われないぞ、と僕はもう一度雲梯の横棒を握る。
「身体を揺すりながら、次の棒をつかむんだよ」
そう言いながら、タケシは僕の前を行く。僕はわかってるよ、と答えて僕はもう一度、雲梯にぶら下がる。今度は捉えずはぶら下がれた。しかし、まったく身体を揺するどころじゃない。その時、タケシが僕の真横に来て、声をかける。
「ねえ、おじさん、なんて名前?」
僕は一瞬、自分の名前を思い出そうとして、雲梯から落ちる。
大きな声でタケシが笑いながら、僕を指さして笑っている。
「名前もわからないの」
タケシは聞く。僕はとっさに弟の名前を思い出してしまい、自分の名前が思い出せない。なぜだろう。なぜ、名前が思い出せないのだろう。
でも、と思い出した。あの頃、雲梯をタケシのように自由自在に遊んでいた頃には、名前なんて聞かないままで日が暮れるまで遊んでいたことを。
「もう一回挑戦しますか」
ミサトが生真面目に聞いてくる。
「もう、いいや」
僕がそう言うと、タケシとルミちゃんがまた僕を指さしながら大声で笑い始める。(了)
5月もほぼ泊まり人で埋まってました。
民宿化してしまった島の我が家は元醤油屋さんの一族の本家であったところ。家のとなりに土蔵も100坪ほどの醤油蔵(今は納屋になっている)もあり、家自体そうとう古い。おそらく100年は経っているだろうが、長い間に土間は台所に井戸まわりは外スペースの通路に作り直され、サッシのついた離れはあとから作られたものだろう。屋根は瓦だが回りは醤油屋独特の色合いの板塀。ガラス戸にはめられているガラスそのものが既に懐かしい年代物である。おそらく昭和30年代に子どもだった人にはこの家の調度や戸の桟にいたるまで見た事のある懐かしさなんだろうと思う。デジャブだね。しかし、ココはシモキタか?なんていう新しい家もあちこち建っているなかで、古民家が残されているのは島でも少なく、あっても放置された侭になっている。たしかに住めるようにするには手入れも気入れも必要なりだから無理ないが、もったないくらいいい古民家がそのまま朽ちていくのかと思うとつらい。
ある夜、天井から板塀の外から確かに動物が動き回っている音がした。一週間ほどそのまま様子を見ていたが、前の畑の肥料土の山は穴ぼこだらけになっているし、夕方たき火をしていた甲賀さんの目の前をものすごい早さの生き物が横切った、という。確かになにか来ている! 蛇かな? 蛇には畑で会ったときに庭にいていいよ、と声かけておいた。おそらく違う。イタチかな? 大家さんのおじさんが言うには、あぁこの肥料土の中の虫(カブトムシの幼虫など)喰いにきおってるのはイタチか狸やろ、ということで家の中の動物とは違うようだ。
天井を下からボウでつついてみた。ミャーミャー慌てた鳴き声と動き回る足音。天井からバラバらと落ちて来る土砂。やはりいたか。ごめんごめん誰だかしないけど、赤ん坊生んでるならいてもいいよ。大きくなったらみんなでどこかへ出ていってね。下から声かけた。もしかしたら道で話しかけた、じっとわたしを値踏みしていた野生猫かもしれない。しかし、いったいどこからはいったのだろう。しみじみじっくり家の回りの壁や窓や屋根や、そのつなぎ目を見たら、入れる入れる、家のアチコチが隙間だらけだ。私が動物だったらチョロイ、なんでも盗み出せるよ、この家。東京にいたときからほとんど鍵かけたことない私にとっては理想のすきまだらけの家です。
そんな我が家に島のネイテイブなのに寝袋もってきて泊まった男がいる。自然舎(じねんしゃ)主宰の山本さんです。通称やまちゃん。やまちゃんは島のあちこちで見かける。島のあちこちのイベントに必ずいる。お酒飲むと、イヤ飲まなくとも中心になって柔らかく話し続けている。いでたちが目立つ。背は低いがハンサムである。
この人は島で唯一わたしがからかいがいのある男でどんなに直球変化球でからかっても(半分本気なのは言うまでもない)うまくかえしてくる。実に貴重な男なのです。そして海の男である。東京都の職員として小笠原で勤務、その後故郷の小豆島へ戻り、カャックツアーを本業とした、ということだが、途中は謎だらけである。そこが面白い。
まだ未体験だが海の上をほぼ布一枚に乗り込み海面を滑るカヤックツアーは風波雨のときは休業。これぞ水商売の極みと言えるのではないだろうか。
そこでやまちゃんはつぎなる手をうつことになった。通年商売のできるカフェを作ろうと。民家を買い取り、改造しはじめてほぼ3年経つという。まだできていない。そりやダメだよやまちゃん、いくら島でも準備がながすぎる、そうだ7月の末にライブやろう、若い2人が東京からくるからライブやろう、それまでに開店しよう。そうだ10月「満月バー」もやまちゃんのカフェでやるよ。店の名前決めた? ほら甲賀さんがロゴ描くってよ。言っておきますけど私決めたら必ずやるからね、やまちゃん!
で、自然舎(じねんしゃ)やまちゃんのカフェ「たこのまくら」のロゴ&デザインは甲賀さんもう作っちゃいました。10月の満月バーお楽しみに。
窓の外はどこまでも薄い青空が広がり、眼下には沸きたつ白い雲海がびっしり敷き詰められて、太陽光に反射して輝いています。ミラノに戻る機中で、この原稿を書いています。明日は朝から学校のレッスンで、もうすぐ試験期間ですから、学生もきっと少し緊張しているでしょう。これを書いたら、ともかく眠って身体を休めたいと思います。
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4月某日
水牛の原稿はもう送った。バッハの「14のカノン」による新作をともかく形だけにはしたい。しかし譜読みが遅れている楽譜が頭を過ぎり、放下できない。
4月某日
美しい夕焼け。今日は朝から学校。一年間教えて来た生徒たちは、ここに来て少し形になった気がする。
こちらはやることが多すぎて、頭がついてゆかない。今度日本に帰って、譜読みも作曲も間に合わないとユージさんか野平さんに嘆いたら笑われるに違いない。指揮は読まなければいけない音が多くてと言えば、ピアノは全部自分で音を出さなければダメなんだぜ、と返ってくるに決まっている。焦っても仕方がないので、机に向かう。
5月某日
朝からバッハ「14のカノン」7番による弦楽作曲。午後は放っておいた芝刈り。ドナトーニのCDに書いた下手な仏語の解説文をブークリさんに直してもらっていて、In Cauda Venenum
の含蓄は、イタリア以外では通じないと知る。ラルースの引用より、イソップの「狐とカラス」を例にあげたらというと、それならフランスではフォンテーヌ版の「狐とカラス」がいいわね、誰でも学校で習うから、とのこと。「行きはよいよい、帰りはこわい」とは、我ながらなかなか名訳とほくそ笑む。
5月某日
大雨。前に日記に書いた鯨肉について。特に鯨肉に思い入れはないが、他人事とは思えないのは、生活に不可欠ではないが、なければ人生が薄ぺらくなりそうだから。ゲンダイオンガク何某とかいうあれに似た親近感。
5月某日
1日学校で教え夜マスターを聞き直す。朝、学校にゆきがてら、路地裏の「中国式按摩中心」に、ピンのような細長いヒール靴に、黒いミニスカートを履いた痩せぎすの妙齢が入ってゆくのを目で追いつつ、やるせない気分に襲われる。授業中、ぼんやり慰安婦について考えていた。
5月某日
毎朝、息子を学校へ送りに行きつつ、ショパンの二つの協奏曲の練習に自転車で出掛ける。ミラノで練習と本番があるのは珍しい。コントラバスに10年ほど前、音楽院で教えていたカルロがいて、3歳の娘さんがいるという。懐かしいし、彼の音楽活動が続いているのは何より嬉しい。
5月某日
マルペンサから東京にむかう機中。先日の国立音楽院でのエンリコとの演奏会当日は、家人が留守で、午後息子を学校に迎えにゆき、ドレスリハーサルにつれてゆく。想像通り、楽団員は大喜び。ショパンのような協奏曲でも、フレーズの終わりは、ピアニストに追随するだけでなく、指揮で方向性を提案すると、双方向で音楽的になると知った。セレーナとカニーノさんが思いがけなくいらして下さる。
5月某日
東京着。朝から譜面に向かう。時差ボケで寝るのは朝の6時。アイマスクをして寝て、朝の9時頃からまた譜読み。夜明けの5時頃、中央郵便局に手紙を出しにゆきがてら、向かいの24時間営業のスーパーに入り、239円の刺身を90円で購う。早起きは149円の得。気がつくと、山鳩がほうほう啼いている。子供の頃東林間で聞いた啼き声。「グレの歌」の旋律。
5月某日
沢井さん宅へお邪魔する。弾き易いよう音を減らそうと伺うと、弾けないところはないですと言われ驚く。まさかと思いつつ、五絃琴はここにないか尋ねると、出して下さる。思いがけなく本物を手にした感激から、随分長い間喜々として遊んでしまい、忙しいさなか何をしにきたのか分からない。沢井さんの演奏を聞いて、「クグヒ」は、目の前で演奏して下さった沢井さんの「六段」に影響を受けていることに気付く。無意識のうちに彼女の凛と澄んだ古典の響きに憧れて書いていた。
5月某日
目の前の小学校校庭で、あまちゃんの主題歌で組体操の練習。「天国と地獄」のカンカンと「あまちゃん」は似ている。尤も、文明堂のカンカンと言った方が日本人には納得がゆくだろうが。情報の多さに、頭と耳がついてゆかない。夕べは明け方まで、ピアノで和音を拾い弾きしたが、聞ききれない。もっとも、指揮者が聴こうとしなければ、誰も音を聴けなくなってしまい、指揮者が合うと信じなければ決して合わず、合わないと思った時点で合わなくなるのは自明の理なので、一人でも楽しみにしている人がいる限り、出来るだけのことはしたい。
5月某日
若い作曲家たちに会う。器用におかれた音も、不器用におかれた音も、不安と希望に満ちていて、無意味であったり、無味乾燥とした響きに陥らない。思いの全てを書き連ねたエネルギーは凄まじく、尻込みしたくなる。バンコクからきたシラセートに、クーデターについて尋ねると、「あまり心配していません。僕らはもう慣れっこですから」。
5月某日
エトヴェシュさんは情熱的で思いやりに溢れている。こちらが音を正確にはめようとし過ぎることを諌めて、音楽の流れについて話した。響き一つ一つについて、目をみつめながら話す。
彼とは三日間色々と話した。最後の練習が終わったとき、「じゃあね」と一度挨拶をしてから振り返り「君は賞の順番は分かるかね」と仏語でぽつりと尋ねた。順番が既に決まっているとは思っていなかったので一度怪訝な顔をむけると、同じ言葉をもう一度くりかえした。「いいえ、全く分かりません」と応えると、「そうだな、その方がいい」、「そうですね」。
それまでの彼はまるで審査員らしからぬ態度で、リハーサルに積極的に参加して、音のバランスやテンポ、構造をどう表現するかについても発言していたし、実は音まで一つ変えたから、指揮者としてオーケストラには随分と迷惑をかけてしまった。
まるで本当にワークショップで教師が生徒の作品を最高に仕上げようとする姿そのままで、およそ審査員らしからぬ態度だった。彼が書いたように新しいオーケストラのレパートリーをここで作り出したいと心から願っていたように見えた。けれど、あの最後の練習の後、彼は審査員に否が応でも戻らなければならなかった。それは、少し寂しそうにも見えて、後姿を見送りながら、彼の真心を本番でできるだけ演奏者に伝えたいとおもった。
本番の朝、彼の控室を通りかかると呼び止められて、みると奥さんに「ほらあなた」と急かされている。はい、と差し出したのは、金のマジックでメッセージが書かれた彼のCDだった。思いがけないプレゼントを両手で受け取りながら、何か互いに理解できた気がして、本番に向けどうしようかと悩んでいたことは吹っ切れた。
ドレスリハーサルのあと、作曲者たちと昼食にトンカツを喰う。なぜかジョヴァンニ・ダリオがこちらを凝視したまま箸をつけないので尋ねると、どうやって食べるのかを観察しているのだという。先日、ワサビを一気に食べて偉い目にあったのだそうだ。
本番後、知り合いからどの曲が好きだったかと尋ねられたが、本当にどの曲も好きだった。それぞれに面白さがあり、それぞれにむつかしかった。本番を終えて、靴を脱いだところで野平さんがみえて、続いてすみれさん夫妻と功子先生がご挨拶にいらした。皆さんお元気そうで嬉しい。
コンサートマスターを見事に務めた松野さんは、小学生の頃から尊敬するヴァイオリンの先輩だった。ヴァイオリンで同門だった浅見さんに思いがけなく声をかけて頂き感激した。みなヴァイオリンを誠実に続けていることが、ただ羨ましく、感服する。そんな音楽に対する掛け値なしの愛情が自分にあるかと自問しながら、毎練習後帰途につく。
5月某日
7時起床。仕事のメールを片付け、渋谷のトップでツナトーストとマンデリンを頼む。東京にいる間、ささやかな自分への褒美は、子供の頃から数え切れないほど食べたこのトーストと珈琲を、子供の頃から知っている店長さんに作ってもらう至福。そのあとNHKでレスピーギについて少し話し、夜「味とめ」。酔っぱらう前に教えてほしいとユージさんにテキストについて相談するが、マンボウ刺で「朝日」を呷り話しているうち眠り込む。目が覚めるとユージさんは、オーケストラの可能性について話していて、自分よりオーケストラに新しい次元を見出していて新鮮な羨望。帰りがけに煮たばかりのきゃらぶきを頂く。きゃらぶきとタラの芽は、子供のころ両親としばしば登った大山の山道を思い出す。
5月某日
空港で佐藤さんよりお電話をいただく。ジュネーブのブリスから頼まれ、テレムジークの所在をさがしていて、有馬さんから頂いた佐藤さんに今朝メールをお送りしたばかりだった。夕べ遅く家につくと、ドナトーニのCDが完成していて、発売日まで発表になっている。偶然なのか、意図したのか、ドナトーニの誕生日が発売日と気づき、一瞬鳥肌が立つ。
青い山並みに思いをはせながら「カフェ・ピンネシリ」でお茶を飲み、幼いころ北国ですごした「記憶のゆき」を踏みかためる計画で、月刊ウェブマガジン「水牛のように」に詩を書きはじめた。やがて記憶のなかの「ピンネシリ」がゆるやかに解けていった。それで一区切り、と思ったのだ。
ところがユキは、あいかわらず、踏んでも踏んでも粉のような降りかかってくる。花のない春の災厄で、見えない光を発する非情な粉塵まで混じって。風が吹くと舞いあがり、一寸先は闇のよう。
踏みかためるために履いた赤いゴム長靴は、理不尽な、詭弁の吹きだまりに膝まで埋まり、記憶のゆきは狂うように舞って、荒れる。
軽い靴にはき替えた。あれは百里靴だったかもしれない。翻訳中のJ・M・クッツェーが暮らした南半球の岬の街、ケープタウンへ飛んでしまったのだから。テーブルマウンテンの真っ平らな山の頂きからは雲が流れ落ちていた。青空を背に、まるで純白のレースのように。分厚い窓ガラスごしにその雲を見ながら飲んだルイボスティー。
乾いた空気のなかに立ちのぼる湯気が、一瞬、鼻孔から頭骸骨のうちがわに染みて、やわらかな記憶の肉を洗い、時間軸の骨だけ残す、奇妙な薫り。旅で出会う「異邦の薫り」とはまさにこれか。そんなプロセスから生まれた詩も、詩集『記憶のゆきを踏んで』におさめた。
幸運の鳥が舞い降りたらしい。編集は八巻美恵さん、装丁は平野甲賀さん、発売はもうすぐ出る訳書、クッツェーの三部作『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』の版元インスクリプトだ。詩集の表紙には「甲賀グロテスク」の文字がそろい踏みし、帯には自在に百里靴をはき替える希代の詩人、管啓次郎さんのことばが並ぶ。翻訳者からいま一度、詩人に身をひるがえして、22年ぶりの詩集です!
詩人バジル・バンティングは北イングランドに生まれ、クエーカー学校で教育され、良心的兵役拒否で1918年に半年ほど投獄された。詩への興味からペルシャ語を独習し、第2次世界大戦中に諜報機関M16に加わってイランに派遣され、外交官や新聞記者を装って、1951年にモサッデグがイランの石油を国有化したとき、CIAが組織した暴動やクーデターにかかわっていたらしい。1952年イランから追放されて故郷に帰った。イギリスの芸術家=旅人=スパイの系譜は、チョーサー、クリストファー・マーロー、ダウランド、デフォーから現代まで続く。
ではバジル・バンティング『外山の長明』の後半ー
祖母が家を残してくれたが
いつもはいられなかった
からだも弱いし さびしかった
30になった時 こらえきれずに
身にふさわしい家を建てた
竹の一部屋 車置き場かと思われて
雪も風も防げない
家は河川敷に立ち そこらあたりは
やくざなやつらで あふれかえる
この時代は
あるべき世界を思って悩んだが
50歳になろうとして
もう時間がないとさとり
家とつきあいから離れた
雲のかかる大原の山に
春 秋 春 秋 春 秋と
ますますむなしく
60年は露と消え
最後の家 いや 小屋を建てた
狩人の仮の宿 古びた
蚕の繭
10尺四方 高さ7尺
すみかというより泊まる場所
これまでの定礎式もなしにした
枠組に粘土を塗って
角を掛けがねで留める
かんたんにはずれて この場所に飽きたら
運んで行けるように
手押し車2台の残骸と
車を押す人の費用だけ
手間がかからない
日野山に踏み入って以来
昼は竹の縁側の
日除けでしのぎ 夕日は
阿弥陀を照らす
窓の上の棚に本を
琵琶と箏を手許に置いた
ワラビとわずかなワラを敷いた寝床
平机を陽だまりに 小枝をたきぎに
石を集めて 組み合わせ
池を作って 竹のかけひ
薪は積まなくていい
雑木林でじゅうぶんだ
外山は ツタに覆われ
外山は 深い渓谷の奥
西側はひらけ おもかげが楽園から
藤の青い雲の上に立ちのぼる
(香は西へ 阿弥陀へ流れ)
夏のカッコウが「来るかい 来るかい」と
冥界の山路に誘い
秋のキリギリスが甲高く鳴いて
「移りゆくこの世」
戸口に雪が積もり
溶ければ 罪のなだれとなる
静けさを破る友もなく
つとめを怠っても咎める者もいない
日に一食のつつましさ
節制を破りようもない
舟の跡の白波は
明け方に満沙弥の見た舟が
岡の屋を
漕ぎ出た跡の水は光る
「モミジ葉とカツラの花に」と
午後が囁き 白楽天が
潯陽江の岸辺で別れを告げる
(琵琶の調べをためしてみれば)
指よ しなやかであれ 『秋風の曲』を
松に聞かせ 『急な流れ』を
水に聞かせよう うまく弾けないが
聞く人もいない
ひとりだけのたのしみだ
16歳と60歳 山番の子と二人
遊びまわって つばなのつぼみをしゃぶり
遊びまわって 柿や岩梨
唐黍を谷の畑からいただいてくる
峰から見れば 空が京都にかかり
里は 伏見か鳥羽か
つましいたのしみ
思いは峰を伝って走る 炭山に登り
笠取を越え 寺をたずね
石山に参る(足を痛めず)
詩人たちの墓詣で 蝉丸の詩に
「これもあれもと
一生は走り過ぎ
あれもこれ
屋敷も藁屋も
住みにくい」 *これやこの/行くも帰るも分かれつつ/
知るも知らぬも逢坂の関
みやげには 桜の花や モミジ葉が
季節のままに仏壇を飾り
思わぬ客に花の一枝をそなえる時も
晴れた月夜に
窓辺に座り 浮かんでくる古いうた
「猿の叫びに袖をぬらし」 *巴猿三叫 曉霑行人之裳」(大江澄明)
「あれはホタル
真木の島の
漁火に似て」 *木の間より見ゆるは谷の蛍かも
漁りにあまの海へ行くかも(伝喜撰法師)
明けがたの雨は
葉叢にうたう
岡のそよ風か *神無月寝覚めに聞けば山里の
嵐の声は木の葉なりけり(能因法師)
「キジが鳴けばこころは揺れて
ちちははを思う」 *山鳥のほろほろと鳴く声聞けば
父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ(行基菩薩)
灰を掻き起すと
「火がはぜて
燃え上がり たちまち燃え尽きる
老いの連れ合いにふさわしく!」 *言ふ事も無き埋み火をおこすかな
冬の寝覚めの友し無ければ(源師頼)
景色一つ
一つの季節にとどまらず
心はうごき
思い出は尽きない
ひと月のつもりで来て
もう五年
屋根には苔が生えた
なにがしが亡くなったと
京都のうわさ
この空間は身の丈相応
おのれを知り 人の世を知る
……
乱されたくない
(勅撰集の
編者になれだって?
乱されたくない)
きみは妻や 子や
いとこ はとこを
もてなす家を建てなさい
召使も友だちも持てない身なら
こんな世で
身ひとつのためでなく
なぜ家を持つだろう?
友だちは金持ちのカネをアテこみ
友だちはエライひとにタカる
まともに生きるなら 友はいない
友とするのは楽器の糸と季節の花
召使の働きは
給料しだい
平和と静けさ それがどうした?
町のほうがもらいが多い
自分で床を掃けば
文句もないし
歩いて疲れたって
馬の世話はいらないし
手足は見なくても
まめにはたらく
疲れさせはしないし
健康にもよい
上着は藤衣
敷布は麻
食べものは
木の実と若菜
(言うまでもなく
これらすべては個人のことだ
富を楽しむ者たちに
簡素な暮らしを説いてはいない)
移りゆく川霧の身は たよりにならない
たいしたことも望めない
夕食の後は宵寝して
季節のめぐりを見るのもよし
渇望 いらだち 無気力
それがこの世の流れ
渇望 いらだち 無気力
くるまを持ってもよくならない
お仕着せの召使では
よくならず 砦をまもっても
よくならない こんなことではおさまらない
渇望 いらだち 無気力……
都には居場所もなく
乞食と思われるが
ここの暮らしになじめないきみは
お気の毒だが 俗世間にそんなに染まったか
月影は闇に溶け込み
崖の小道に
危険な角が待っている
ああ 嘆くことはない
世によいものは何もないとブッダは言うが
この小屋は気に入った……
世を捨てて
見かけだけは
出家のようだが
貧乏暮らしはたのしくない
感情に駆られるたちだから
舌があわてて
念仏を二三回
(原詩を読みたければ http://www.poetryfoundation.org/poetrymagazine/poem/9369)