広口瓶かチューブか

高橋悠治

すくい取るか 絞りだすか

薄くひろげる 染みていく 
色がまざってぼやけていくなかに見えてくる模様がある

形のない色のむらに眼が形を読み
意味のない音のうごきに耳が意味を見る

一つの形を描けば 描いたままに形が見えるだろうか
一つの意味が その意味として伝わるだろうか

まばらに打った点を 眼でつなげると形になり
形を入れる空間もできる
形も空間も見えないのに 結界ができるのはなぜだろう

点を並べれば線になる 散っていけば面が感じられ
色の濃淡がちがえば 奥行きのある空間ができる

見えない線で結ばれれば 眼が点から点へ移る
その移動から時間が生まれる

奥行きのある空間は 濃淡の層の重なりか
面が近寄り遠ざかって 入り乱れているのか

省略は そこにないものを想像させる
格子からすこし外れた配置が 作用する
位置は可能性

アブ・サイードがやってきた

さとうまき

イラク戦争時米軍の空爆で、大怪我をしたムスタファ。当時8歳が20歳になった。あの大怪我から良く立ち直ったと思う。今では、不自由なく歩けるようになった。ジャーナリストの土井敏邦さんが取材してTVで報道されたので、募金が集まり、手術を受けることが出来たからだ。

今回は、私たちのローカルスタッフのアブサイードが世話役として一緒に来日し、スピーキング・ツアーを行っている。東京、沖縄、福島、長崎を回る予定だ。

一日、土井さんに預けて鎌倉見学をすることになった。同行したスタッフからメールが入り、「アブサイードが泣いています」「え? ムスタファじゃないの?」後で聞いてみると「ドイさんとは、ファルージャとか危ないところにいって、取材を手伝ったんだ。10年ぶりにあったので思わず泣いてしまったんだ。」とアブサイード。ムスタファは、「僕も泣いちゃったけど、誰も気がついてくれなかったよ」
主役を食ってしまったアブサイード。

スピーキング・ツアーではほとんど出番のないアブサイードだが、彼自身の生い立ちがおもしろい。1953年にバグダッドで生まれた彼はパレスチナ人。両親はハイファの出身で、1948年のイスラエルの建国で、父は銃を取り、家族は、トラックに乗せられイラクへと避難した。数年後父は、ようやくバグダッドの家族を探し当て、アブサイードが誕生する。17歳のときはPLOに参加する。

その話は、みんなの前でしてもらおうと、急遽パレスチナ関係者を集めて、囲む会を開催した。アブサイードはしょっぱなから飛ばしまくった。

パレスチナ人は、政権下では、小さなアパートに家賃も払わずに暮らしていた。サダムが接収したアパートを、パレスチナ人にあてがったのだ。サダム政権が崩壊すると、大家だと名乗る男たちが、銃を持って追い出しにきた。お金に苦労していたアブサイードは、たまたま道端で出会った僕に仕事をくれと擦り寄った。アブサイードはいかに情けなくすがりついたかを説明した。

バグダッドを追放された友人を紹介すると、目に涙をためて、「バグダッドで起こったテロは全てパレスチナ人のせいにされた。そして、何もかも奪われ、これからも奪われ続けるのだ。人間としての権利が奪われてしまった。なぜなら、パレスチナ人だからだ!」アブサイードの涙は、説得力があった。彼の額に刻まれた皺は、じじいのしわでなく、パレスチナの尊い歴史が刻まれていた。少なくとも私には輝いて見えた。おそらく、会場にいた全ての人たちにとってアブサイードは、太陽のように光り輝く爺さんに見えたと思う。

翌日は、ムスタファ君の話を聞く会だった。11年前の映像を見ていると、隣でアブサイードの目頭が熱くなり、涙があふれていた。「また泣いている。。」どうも涙腺がゆるくなってしまったらしい。

こんな爺さんを、いつの間にかスタッフにしてしまい、給料を払い続け、日本にまでつれてきてしまったこと。僕は後悔はしていない。いや誇りにすら思っている。

11月8日は、東京での記念イベントです。
是非皆様お越しください。
http://jim-net.org/blog/event/2014/10/-118jim-net102015.php

まだ若い

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

若者なんだからこころが騒ぐ
創作したくてうずうずする
考えたこと 読んだこと
等しく知識になった
歳とってないよな
誰かと同じだ

長く遠い道のりを後ろに曲がると
ダムが溢れるみたいに
ものがたりが押し寄せる
こころの中に繰り返す音が
歌になって
みんなに聴いてもらう

どうしたってこうしたって
こころがまだわくわくする
夢みた空の果てがきっと見える
いのちが尽きない限り
これからだって
歌を創るパワーがあるさ

こころはまだ若者だから
みずみずしい
何を見ても美しくて鮮やか
あの娘の微笑みに目が覚め
こころはざわめき
紅い炎が燃え上がる

アルバム『きみの名前の本』より

アジアのごはん(65)ココナツオイル

森下ヒバリ

なんか太った‥。6月頃からお腹のまわりが妙にむっちりしてきた、と思ったらわき腹がもったりつまめるようにまでなった。まずい。身体の輪郭が広がっている。人生最大の太り具合だ。ジーンズも入らない。なぜこんなにむくむくとお腹のまわりに脂肪が? その原因の心当たりは一つしかなかった。4月からココナツオイルを熱心に食べ始めたのである。ココナツオイルは食べても太らないんじゃなかったのか? しかしどう考えてもこのお腹の脂肪はパクパク食べているココナツオイルの分だろう‥。

今年の2月タイで自然食品店に行った時、タイ人の友だちのプンちゃんが「これ、口に含んでぷくぷくすると歯と歯茎にすごくいいんだよ、身体にもすごくいいんだって」と棚から取って差し出したのはココナツオイル。「え〜そうなの?」と答えたものの、内心「ココナツオイルはたしか植物製オイルの中では飽和脂肪酸で身体にすごく悪いのに、何言ってんの」と思って聞き流していた。タイの自然系の店にココナツバージンオイルが置かれるようになったのは最近のことだが、それもあまり気に留めていなかった。

そしてタイから帰って4月、久しぶりに近所の「おからはうす」に遊びに行くと、店主の手塚さんが「ヒバリちゃん、ココナツオイルよ!すごいのよこれ!」とわたしの口にスプーンでその油を突っ込んだ。「え、あ〜、うん、おいしいね、これ」「すっごく体にいいんだって」「その話どこかで聞いた‥」

「ココナツオイルは身体によい」という話を二つの国で聞いたので、さすがにネットで調べてみると、なんとココナツオイルは身体に有害どころか、とても健康に良さそうであり、その愛用者たちの熱い語りもすごい。ココナツオイルが身体に悪いというのはウソだったのか?

さっそく「ココナツオイル健康法〜病気にならない・太らない・奇跡の万能油」(ブルース・ファイフ著 WAVE出版1400円)を入手して読んでいたら、ちょうど訪ねてきた友だちが「なにこの本!」「え?」「こんなに思いっきり付箋の着いた本初めて見た〜」と言う。いや、たしかに付箋だらけだ。ページを繰るたびに「これは!」とか「ええ、すごい」とかうめきながら重要と思われる個所に付箋を貼って行ったらほとんどのページに付箋がついてしまったのである。

ココナツオイルは飽和脂肪酸だが、飽和脂肪酸の中でも中鎖脂肪酸という脂肪で、この中鎖脂肪酸はたいへん酸化しにくく、フリーラジカルが生成されることが少なく、吸収されると体脂肪になりにくく、肝臓でそのままエネルギーに転換され(胆汁の必要なしで消化されるので、胆嚢を摘出した人でも食べられる)、コレステロールに影響を与えず、心臓病を防ぎ、血栓を溶かし、糖尿病を防ぎ、有害な細菌やウイルス、寄生虫を殺し、免疫を向上させてガンやそのほかの病気を予防する。肌にも髪にもよく、そのうえケトン体にも転換されるのでアルツハイマー病の予防にもなるという。とにかく奇跡の万能オイルらしいのだ。まだまだ効能はあるのだが、興味のある人はぜひ「ココナツオイル健康法」を読んでみてください。

ココナツオイルが身体に悪いというのは、じつはアメリカの大豆油業界のプロパガンダによる作り話であったというのも驚きだ。何気なく当たり前だと信じていることが、一部の利益のために造られたウソであるということを、いったい何度気づかされればいいのか。

しかし、すばらしい成分で健康に大変よい油であっても、不味ければどうしようもない。その点はいきなり口に突っ込んでくれた手塚さんのおかげでクリアー済みだ。ただ、あの甘い匂いはふつうの料理にはちょっと合わないだろう。彼女が試食させてくれたのはバージンココナツオイル。低温プレスのバージンオイルがもっとも体に良いのは間違いないが、これをそのまま薬みたいに食べるというのも、ちょっと。コーヒーや紅茶に入れるという方法もよく紹介されている。試してみたが、おいしいとは思えなかった。ここは今まで使っていた炒めものや揚げ物の調理用油をココナツオイルに置き換えるのが一番簡単で有効ではないか。

探してみると、ココウェルという会社で販売しているココナツオイルに、精製したタイプの匂いのないプレミアム・ココナツオイルというのがあった。精製といっても溶剤でなく炭と石灰でろ過しているので、安心である。それを取り寄せて使ってみると、クセがなくおいしいし、使いやすい。500ミリリットルで1000円、と同じココウェルのバージンオイルの三分の一のお値段。

まずは、調理用のオイルとして使ってみる。ココナツオイルは25℃前後で固まるが、固体の時は湯煎で溶かして広口瓶に保存し、スプーンですくって使う。保存は常温で問題ない。夏になって、常温で液体になったらオリーブオイルの壜などに入れて使うとよい。一日大人で大匙2杯を目安に摂る。

ココナツオイルを食べ始めて2週間、3週間‥。しょっちゅう起こっていた「あれ、あの名前なんて言ったっけ」現象があきらかに減った。アルツハイマーではなく年頃になると静かに進行してくる「名前が思い出せない」あれである。それが、「あの名前は‥‥ああ〇○」と少し考えると何か水の底からゆっくり浮き上がってくるような感じで名前が出てくるのだった。少し太ってきたので、あせってココナツオイルを食べる量を減らしたら、とたんに名前が出てこなくなった。おそるべしココナツオイル。

しかし、ココナツオイルは余分な体脂肪を減らす働きがあるというのに、なぜ太る? しみじみ考えてみると、オリーブオイルや菜種油と替えて使っているのだが、今まで何も塗っていなかった朝のパンにこってり塗り、炒めものにはいつもより多めにココナツオイルを垂らし、サラダにもたくさんかけ、とせっせと食べているのだからこれまでの油の摂取量よりかなり多くなっている。大匙2杯どころか3、4杯ぐらいは食べていたかも。

これまでの毎日の油分の摂取量が大匙2杯あったとも思えない。ココナツオイルの分はそのまま体脂肪にならなくても、エネルギーとして優先されて使われると、他のタンパク質や炭水化物からのエネルギーが余り、それが脂肪として蓄えられていく。要はいくら身体に良いと言っても、食べすぎだったのだ。年齢的にも代謝が落ちてきたことも影響があるかもしれない。そういえば、おいしいオリーブオイルを入手した時も何にでもかけて食べてすぐ太った記憶がある。油の代謝があまりよくない体質なのかも。

とにかく、たくさんココナツオイルを食べるなら、その分ほかのカロリーを減らすか、カロリーを消費するしかない。ええっどうする。さすがにこのわき腹はまずいだろう‥。まずはいつもの適正体重に戻らなくては。でも、食事を減らすダイエットなんてしたくない。

そこで、思いついたのがトウガラシ効果である。長い間のタイと日本との往復生活でワタクシは、トウガラシが代謝を上げ、たくさん食べ続けていると身体がシェイプされていくことは身をもって知っている。8月からひと月半タイに行っていたのに、今回ちっとも痩せなかったのは、あまり辛い料理を食べていなかったせいだろう。

ちょうど9月の終わりからタイのカラワンを招聘しての日本ツアーで、お世話係となっていて後半は引っ越したばかりのわが家で合宿だった。毎日タイなみに辛い料理を作ってカラワンたちに食べさせていた。これをこのまま続けてみようじゃないかっ。というわけで、カラワンたちが帰国しても、辛い料理を食べ続けている。いつも野菜炒めなどに入れるトウガラシの生潰し(ナムプリック)の量を小さじ山盛り1杯から2〜3杯に増やし、日本料理の時は一味を3倍ぐらいふりかけるようにしてみた。なるべく遠くまで歩いたり、ストレッチも心がける。もっと運動すればなおいいのだが‥。

カラワンツアーが終わって3週間たった今現在、わたしのわき腹はあまり掴めなくなった。すばらしいぞ、トウガラシ。

ココナツオイルは素晴らしいが、適正な量を食べることが大切なのだ。いくら油を食べても太らない体質の方は、どうぞ好きなだけお食べ下さい。おすすめの食べ方はやはり、いつも使っている油を精製タイプのココナツオイルに替え、いつものように使うことだ。揚げ油にはちょっと高価ではあるが、170度以下では酸化しにくいので最高の揚げ油となる。

精製タイプならとくにココナツオイルを使う特別な料理など考えなくてもいい。そして、朝のトーストのバターをバージンココナツオイル+塩に替える。乳製品と酸化したオイルが食卓からなくなることは、あなたの免疫にすばらしい効果があるはず。

ココナツミルクやココナツクリームも、もちろん中鎖脂肪酸が豊富なので、お菓子やタイカレーに使ってみてください。ココナツクリームのKARAというインドネシア産のものが大変おいしい。

好きなものを、100個

若松恵子

『「自分」整理術―好きなものを100に絞ってみるー』(山崎まどか著/2014年5月 講談社)という本の背表紙と目が合って、本屋の棚から抜き出した。

「「自分」というクローゼットを棚おろし」という言葉が本の帯に書いてある。ふと開いたページに載っていたのは、ブロッサム・ディアリーの『ONCE UPON A SUMMER-TIME』というアルバムのジャケット写真だ。「1950年代から1960年にかけてニューヨークやパリのサパー・クラブでピアノを聴きながら愛らしい歌やスキャットを聴かせていた彼女は、60年代後半にはロンドンに渡って素敵なオリジナルナンバーを披露している」という解説がある。ふわふわした金髪のショートカット、にっと笑う大きめの唇。彼女が視線を向ける右端には、彼女のものだろうか、協力して眼鏡を運んで来るツバメたちのイラストが描かれている。山崎まどかの好きなもの、1番目だ。ブロッサム・ディアリーの事は全く知らなかった。「ジャズの世界では決してメジャーな歌手ではありません。ブロッサムは一見可愛らしいけれど、自分のユニークなスタイルを貫き通した信念の人でもあるのです。」という愛情のこもったコメントが続く。

なかなかいいじゃない。と思ってページをめくると、好きなもの2番目は、90年代のはじめに出版された角川文庫の「マイ・ディア・ストーリー」という、海外の少女小説の復刻を目的としたシリーズだ。このシリーズを編集したのは少女小説家の氷室冴子さん。山崎さんはこのシリーズによって大学時代に少女小説に再入門したという。赤いギンガムチェックの表紙がかわいらしい。

6番目の、映画『すてきな片思い』のモリ―・リングウォルドの瑞々しい横顔と、24番目のウエス・アンダーソン監督の唯一無二の立ち姿を見た時点でこの本を買おうと決めて、あとはゆっくり楽しんで読んだ。

ブロッサム・ディアリーについて、山崎まどかは「趣味のいい人たちの密かなお気に入り」と書くのだが、それはこの本で紹介されている100個の好きなもの全部にあてはまる言葉だ。好きなものが共通している楽しさというものもあるが、目利きに密かなお気に入りを教えてもらう楽しさがこの本にはある。しかも、「趣味がいいでしょう」という自慢話にならないのは、山崎まどかが切り取った写真(ビジュアル)と紹介するコメントが素敵だからだろう。独特の感性で好きなものを(嫌いなものも)数え上げるのは、『枕草子』から続く女の子の伝統なのだ。

彼女があげた100個のほとんどを知らなかったのだけれど、37番目に「片岡義男の小説を発見する」という題名があって、びっくりする。山崎まどかがあげるのは、『少女時代』という、片岡作品としてはレアな小説だ。「もし彼の作品を英語に翻訳したなら、それを読む海外の読者は、主人公たちが交わす禅問答のように神秘的な会話を非常に日本的だと思うのではないでしょうか。」という見方がとても新鮮だった。片岡の文体を翻訳的だという人は多いが、英訳するという逆の発想を持った人は、これまでほとんど居なかったのではないだろうか。

「ワードローブを見直すように、時々は好きなものの見なおしをして、少しずつ入れ替えて私なりの大人になっていけばいい」というのが、ハウツーものとしてのこの本のコンセプトだ。好きなものを100あげてみたら「ずっと好きなもの」「新しく好きになったもの」「キラキラしたもの」「憧れを含んだもの」「定番のもの」の5つの項目にわけて、それが好きな利用について考えていく。その作業を通じて自分を発見しようという事だ。

私もためしに、好きなものを指折って数えてみる。今は、きちんと整理整頓された気持ち良さを夢想するのみだ。私というクローゼットはまだ当分散らかったままだ。

久しぶりに

仲宗根浩

久しぶりにちょっと用事で大阪へ行く。なんか高いビルが昔より増えている。二十代の頃は年に四、五回行ったこともあったが。帰る日の朝、スーパーマーケットをひたすら探しどろソースを入手。何年か前に業務用の食材を売っているスーパーで見かけたがボトルがでかいのでとうてい使い切るはずもなく買うのを諦めた。家庭用はネットでも購入できるが送料やらなんやらで高くなり、そこまでして注文しようとは思わない。大阪で見た原哲男のコマーシャルが懐かしい。メーカーは神戸だけど。

旧体育の日、いつの間にか十九号は沖縄直撃となっていた。一週間くらい前、台風が近づくとよく見るアメリカ海軍の台風の進路予想のサイトではこの前と似たようなコースだったが直前で変化。仕事帰り、家の近くの信号は消えている。家に戻るとたまに停電。点いたかと思うとすぐ消えたり。たてつけが悪くなった昔のアルミの窓はがたがた、雨と風があたる音でうるさい。翌日朝電話が入り、仕事は休みとなる。窓を少し開けると、雨と風は磯の香りが少しする。窓を叩く風、雨の音でテレビの音も聞きづらいのでヴォリュームも大きくなる。夜の十時位からか雨風の音がなくなる。台風の目に入ったのだろう。目を過ぎると吹き返しでまたうるさくなるはずが、翌日の朝になっても吹き返しがない。暴風域の縁が風が強い変な台風だった。台風が過ぎるとかなり涼しくなったがしばらくすると暑さが戻る。三十度を超える気温にはならないが湿度が高い。クーラーはいらないが扇風機まだまだ必要。

最近、ビデオテープからDVD-Rにダビングしたものが続々と再生できなくなった。念のためハードディスクにイメージでも残しておけば良かったと悔やむ。まだテープは処分していないものもある。これは大事に取っておこう。DVD-Rは寿命が短い気がする。メディアが原因か規格が原因か。もうしばらくするとメディアも無くなるんだろうなあ。家にある一番古いCDは1986年プレスのもの。まだ再生できる。

風が吹く理由(7)心音

長谷部千彩

窓の外の景色にiPhoneのカメラを向け、録画のボタンを押す。波打つ海はインクブルーの濃淡で水面に網目の模様を作り、生命を持った何かのようにもこもこと隆起と沈降を繰り返す。まるで芋虫の背の動き。
遊覧船は波を割って進む。窓の下では、白い引き波が激しい飛沫をあげている。秋の日暮れは早い。西日が波頭に当たり乱反射する様子を眺めていると、私にはそれが小さな妖精が忙しく踊っている姿にも見えてきて、また、硬い床に、ぶつかるように触れるバレリーナのトウシューズのつま先のことも連想され、加えて、金色の何かが粉々に砕け散る、正確には砕け散り続けているようにも思われた。

ボタンを再度押し、録画を終え、小さなディスプレイで動画を再生してみると、船は思ったよりも速い速度を保っているらしい。目で見るよりも、波の動きも光の動きもずっと早く、コマ落としのフィルムのようだった。
エンジンの音。振動。顔をあげて、再び窓の外を眺めると、水面から頭をのぞかせた岩の上で、鳥が数羽、休んでいる。あれは何と言う鳥なのだろう。カモメ。ウミネコ。私にはその違いがわからない。
水平線。今日は一日よく晴れていた。私は心の中で、なんて綺麗なのだろう、と呟く。空も綺麗。海も綺麗。陽の光も綺麗。素晴らしい。そして、私はひどく暗い気持ちになるのだった。

もう慣れている。いつものことだ。こうして東京を離れ、自然の中に身を置くと、私はそこで目にする世界に圧倒され、感嘆の声をあげるのに、同時に強烈な疎外感に苛まれる。部外者として突き飛ばされたような、鼻先でバタンと扉を閉められたような気持ち。そんな時、慌てて辺りを見回すと、大抵、人々は安らぎを覚えたような表情をしていて、それがさらに私の孤独感に追い打ちをかけるのだった。

人間の誰にとっても、自然は安らげるものとして存在しているのだろうか。自然を前にすると、寄る辺ない気持ちになるのは私だけだろうか。母なる大地という言葉があるけれど、もちろんどんな意味で使われているのかもわかっているけれど、最も身近な土はベランダに並べた植木鉢の中にあり、私にとって地面とはアスファルトで覆われた道である。アスファルトの上を革の靴で歩く暮らし。靴の底がすり減ったら、修理に持って行く暮らし。歩く時には、カッ、カッ、カッというヒールが鳴らす小さな音。それが私にとって歩く音。大地と私が作る音。

船着き場が近づいてくる。とても綺麗だった。楽しかった。本当に美しい。そこまでは言える。誰にでも言える。誰もが頷く。私たち一緒ね。同じように感じているのね。だけど私には続きがあるのだ。
―でもその美しさを懐かしく思う記憶が私にはないの。
眩しいのにずっと見ていた波間の光。だけど私の頭の中には別の光が点滅していた。誰に話したらいいのだろう。そもそも私と同じような気持ちであの赤い光を眺めている人はいるのだろうか。街の灯りを受けて暗くなりきれない東京の空に浮かぶ高層ビルのシルエット。その輪郭を示しながら、ゆっくり静かに誰の心を招くでもなく毎晩同じリズムで明滅するあの光。

―あれはね、航空障害灯という名前なんですって。
それは、私が生きた年月の中の多くの時間、私の視界に当たり前にあったもの。私の記憶と現実をきつく結びつけて留めているもの。私はそれを目にする時、自分がいるべき場所にいると感じる。海や山を観ている時のような居心地の悪さは感じない。子供の頃から好きだったもの、寄り添っていたもののそばにいる気持ち。
―私、ほっとするのよ、あの光を観ていると。
昔、一度だけそのことを話したことがある。窓ガラスに手をあてて。
私の好きなあの光は、ゆっくり光るの。
心音みたいにゆっくり光るの。

信州にて

大野晋

もう30年以上前になるけれど、学生時代、ゼミの追い出しコンパと言えば、決まって松本の老舗の木曽屋という田楽や土壌鍋などを出すお店で催すのが決まりだった。当時の会計がどうなっていたのか覚えていないが、学生はひとり数千円を出して、腹いっぱいに食べて、ビールや日本酒をきちんと飲んでいたような気がする。当時は今と比べると安かったとはいえ、蔵造の木曽屋が安かったとは思えないから、先生たちがいくばくかを負担していたに違いない。当時、いっぱい食べた後、なぜかでてくるシソ飯を汁物といっしょに食べたあと、至誠寮の寮歌である春寂寥を歌って閉めるのが習わしだった。

若い連中のことだから、締めのシソ飯が出てくる頃にはおかずになりそうなものは香の物を含めてなにもなくなるのがいつもだったが、なぜか、それだけでおいしく食べられるシソ飯がずっと頭に残っていた。その後、木曽屋の建物がなくなったのが気になってはいた。

何年かたって、ふいな拍子に木曽屋という名前の田舎田楽を出す店にであった。それは、松本市内を当てもなく、ぶらついていたときだった。木曽屋は建物を建て替えて、営業していたのだった。そのときはうれしくて、手当たり次第に頼んでしまったが、後で会計の時、「食べすぎだ」とお店のおばあちゃんから叱られた。その後、ときどき、シソ飯が食べたくなると、松本の木曽屋を訪れるようになっている。今回も、ふとシソ飯を食べに行ってみた。

ちなみに、その後、聞いた話では、シソ飯のシソは乾燥したもの(ゆかりという名前で売られている)ではなく、塩漬けの生のシソを細かく刻んでご飯に炊き込んだものなのだそうだ。

昔から松本市内には蔵が多い。それは、私が初めて松本に住んだ30数年前もいっしょだ。今回は、食事の前に、ふと蔵造りの商店が並ぶ街を歩いてみた。いや、実は昔、行ったことのある漆器屋にお椀とはしを買いに行った次第である。古い重いガラスの木戸をガラガラと開けると、漆器細工がきれいに置かれている。そういえば、その昔、今使っている箸を買ったときは、生活のための木製品が所狭しと並んでいた。いまは安い輸入品に押されて大変らしい。木曽漆器と松本漆器の並んだ店の中から、手ごろな価格のものを選ぶと、また、ぶらりと街を歩いてみる。

東京、横浜、信州と歩いていて、なんとなく、学生時代を過ごした信州が居心地良いと感じた瞬間だった。そういえば、中華街の海員閣がなくなる前に、もう何回か行っておこうと帰りながらに考えた。

グロッソラリー ―ない ので ある―(2)

明智尚希

 1月1日:母親の奇声と同時に、父親なる人の大声も聞こえた。産もうとする母親と産まれよう産
まれまいと相変わらず迷っている僕を応援していた。父親は僕に向け男女兼用の名前を叫んでいた。僕の真価も知らず、それでいて未来に当て込んでいる愚かな
名前であった。産まれている最中に、早くも将来の一部分が完全に断たれた気がした。

┐( ̄ヘ ̄)┌ ヤレヤレ・・・

 度を越した苦労を自慢という悪臭を放って話す人がいる。しかし問い詰めていくと、そこら辺の日常瑣末事のほうが、よっぽど解決困難だったりする。自慢の
大概は似非である。そうまでしないと、自らを悲劇の人物として自らを慰められない卑劣な心根の持ち主なのである。苦労らしい苦労をしている人は、苦労をパ
ロディ化して現在を生きる。

( ´∀`)ケラケラ

 その点、鉄道マニアやバードウォッチングの連中のほうが敏感なんじゃろうな。新ウィーン楽派を痔の真下に敷いて、DVDプレイヤーそのものをたっぷり8
時間見た、このわしのこのわしによるこのわしのための結論がこれだから困っておる。困っております。困ってさふらふ。さんふらわー。おかわりくれよおかわ
りを。

ヾ( ´¬`)ノ_皿_

 ステレオグラムなあたしを見て。

(つω・と){チラッ・・・

 もうね、嫌なんだよ。正月に初詣に行ってバレンタインデーに義理チョコもらって花粉症で四苦八苦してござ敷いて桜を見て梅を見て新入生と新入社員に遭遇
してゴールデンウィークで渋滞して湿度百パーセントの梅雨が来て猛暑日が連日続いてクールビズが終わってクリスマス商戦が始まって年越しそばを食べる。も
うね、嫌なんだよ。

(*´Д`)=3ハァ・・・

 1月1日:まだ今より体が小ぶりで胎内にいる時、父親なる人が人間の生活について話し、産まれたいかどうか自ら判断せよという旨の言葉を送ってきた。し
かしながら僕は第23号ではない関係上、聞かなかったことにしたかった。したかったというのは、聞こえたからには、僕も精神・神経の病を患っていると確信
したからに他ならない。

ε-(;ーωーA フゥ…

 インターネット・プロバイダー・サービスの細胞が臨床に持ち込まれても、たぶんキレまくるんだろ。ポッポー、ポッポーの鳩時計のディヴェルティメント。本
当の顔がひょっこり出たり入ったり。そうして秘密を自らばらし続けたほうが、案外人間としてまっとうなのかもしれん。イェルムスレウと紅ショウガ。いっそ
そのままでいてみろっての。

ヽ(///>_<;////)ノ ヤメテー

 既に読んだ本、まだそうでない本、まんじりともせずにどんどん読んでいった。ほとんど文学部の学生、いや、その中でも本の虫と呼ばれる学生並みに。小
説、古典、評論、原書、図録、実用書、問題集、指南書、漫画などなど。そうして読み始める前に予期した答えに無事に到達して安心する。どんな本も自分の窮
境の何の助けにもならないと。

*:゜☆ヽ(*’∀’*)/☆゜:。*。

 くわせもんよ、ウソをつけ。ちょいなちょいな。ロイヤル・ワラントつきのクレプトマニアのわしがこれから絵を描くぞ。こうやってこうやって。ほれでき
た。六時間かかった。どうだいこれ。パックス・ルッソ・アメリカーナのヴィーガンでさえ、四十七手目であきらめたっちゅうもんじゃ。盗んだ物を盗んだら裏
の裏は表の論理。

ンモォ、、、バカ、、(*μ_μ)r(*-_-)ゞ

 実証主義者は、科学で解明できない事象を認めない。認めたがらない。認めてしまうと科学者ではなくなる。地球上で生起するすべてを科学の力で説明できる
としたら、それはそれで不自然で非科学的だ。反証可能性はどこを浮遊しているのだろう。霊、宇宙人、UFO、これらが人智を超えていないことをどうやって
証明するつもりなのか。

(・∩・)?アレ??≡3

 うからみの/しゃんずらごたんにしるかえば/きょごじんもうの/よみにけこたほ

Σ(´ⅴ`lll)微妙っっ!

 だって三人もいるんだもの。誰か一人は敵になるのが当然じゃて。好事家は胴間声で夜なべの真っ最中ときたもんだ。わしは違う。わしのすごさは今更言うま
でもないが、天才にも一つだけ不可能なことがある。それは自分が天才であることを世に知らしめることだ。そこでわしじゃが……いかん。気づく前から太陽を
直視し続けていたわい。

゚+.(・∀・).+゚.。oO(で?)

 1月1日:僕の知る限り、精神病者は実に穏やかな現存在である。病院の待合室へ足を運べば、誰もが同じ思いを抱くことだろう。したがって僕も静かにして
いなければならない。胎児だからといって泣き叫んでいる場合ではない。世故にたけた赤子のでんぶをたたくというのはどういう料簡なのだろうか。これがいわ
ゆる虐待というものなのか。

‥‥…━━━━━☆o(・o・ ) ハンゲキィ~!!

 時代精神というのは、とどのつまり生活空間なんだな。超越論的に形而下を考えれば、おのが排泄物をアニメ化してはじめて分限を知るってもんだ。3Dで
じゃぞ3Dで。神様、仏様、お客様の言うことにゃ、二拝、二拍手、一杯なぞどこぞのあんぽんたんの所業であるかということじゃ。パラノイアに幸あれ。シュ
レーバーを胴上げせよ。

(●>ω<●)

 ポップな教師の壊滅授業。愛を語りながら放屁。酔って目覚めて晴れ姿。証人喚問にビキニで登場。予告なしにラジオ体操第二。文金高島田の白無垢姿でバク
転。宙吊りなのに優勝。アリの列に参加。トリックアートに間違えられる。つきたい職業トーテムポール。八割がたがアホ。鏡を見過ぎて即死。一見さんが大暴
れ。毛穴開いてまっしぐら。

ぶぁははは (≧Σ≦)b

 ジェットコースター効果と吊り橋効果。他の重大事が自然とおろそかになるほど、特定の異性に愛情を抱いた時、同時に同じくらい愛してもらいたいと願う
時、誰しも言葉や態度の限りを尽くして、愛を手中におさめたいと思う。だがそれは賢い方策ではない。大災厄、大事件が相手に立て続けに降りかかるように仕
向けるのが、最も効果的である。

(人´∀`*)お・ね・が・い

 好みってのはくせ者じゃな。幻灯機の回転やシーザー暗号みたいにゃなかなかいかん。雲を掴んだかと思えば吸い込まれ、吸い込まれたかと思えば十五歳。わ
しはわしで新宿の昭和地下に青い魂を置いてきた。あの頃は総立ちじゃった。したがって明日は我が身、アウフヘーベンしてよからぬ一物がひょっこり花を咲か
せることも十分にありえる。

(。-`ω-)ンー

ジャワ舞踊の衣装 ガンビョン

冨岡三智

ガンビョン(ソロ様式のジャワ舞踊)は民間で発生した舞踊なので、衣装は簡素である。基本はカイン(腰巻)を正装と同じように巻き、上半身に絞りの布(クムベン)を巻き、サンプール(2.5〜3mくらいのショール状の布)を肩にかける。ジャスミンの花輪を首にかけ、髪を結う。一方、宮廷舞踊だと通常より1.5倍長いジャワ更紗を引きずるように着付け、ビロードにビーズや金糸の刺繍を施した豪華な胴着を着て、腰にサンプールを巻き、豪華なバックルのついたベルトで留める。頭には羽のついた冠を被る。ただし、ガンビョンを正式にレパートリーに取り入れたマンクヌガラン王家では、絞りの代わりにビロードの胴着を着て、冠を被る。だが、この着付はあくまでも例外だ。
ガンビョンのカインは、今ではソガ色(ソロ特有の茶色い色)のパラン模様のバティック(ジャワ更紗)を巻く。しかし、このパランだが本来は王族の禁制柄である。1976年発売のカセット『Gambyong ガンビョン』(ACD045)のレーベルでは、踊り子はパラン模様ではないバティックを着ている。また、昔はガンビョンと言えばカラフルな色物のカインというイメージがあったという。色ものバティックといえば、中部ジャワ以外の地方のバティックには赤色や青色が使われる。それに対して、王宮があったソロではソガ色、ジョグジャでは白地にこげ茶というシックな色合いのバティックを着る。要するに、ジャワの基準では、色ものは田舎製で王宮のものではない。ソガ色のパラン模様のバティックを巻くというのは、ガンビョンを王宮舞踊風に仕立てようとしているということなのである。
それに伴ってか、アクセサリや髪型も変化している。現在では、ソロのガンビョンにはバングントゥラッという髪の結い方をする。これはソロの王宮の女官や王女達が儀礼のときにする結い方だ。昔、王族の催しの余興に呼ばれた踊り子が、その髪型で入るように指示されたことがきっかけだという。もっとも、ソロ以外の地域ではこの髪型のかつらが手に入らないので、一般的な髪型で代用する。その頭頂部に櫛を挿したり、ムントゥルと呼ばれる簪を挿すのも宮廷風だ。ムントゥルは宮廷内では本来王女しか使えない。このムントゥルだが、20年前と比べて、おしなべてデザインが大ぶりになっている。
ガンビョンでは、ジャスミンの大きな花輪を首に掛ける。それは豪華なアクセサリを持たない庶民にとってのアクセサリ替わりだとしか思っていなかったのだが、ガンビョンの衣装で一番重要なのは、実はこのジャスミンの花だと衣装着付の人から教えられた。そうしたら、1953年9月発行の雑誌『Budajaブダヤ』の記事で、踊り子が首にかけたジャスミンの花をもらって病気の子供にかけてやると病気が治ると信じられているという話が出てきた。当時、ガンビョンには扇情的なイメージがあることも書かれている。それでも神聖な舞踊というイメージは失われておらず、ジャスミンはその神聖さの象徴なのだろう。
ガンビョンの衣装のバリエーションとして、金泥でアラス・アラサン模様(森に住む様々な動物を描いたもの、森羅万象を表す)を描いたカインとクムベンをセットにしたものがある。一時期流行したようだ。私が留学する1990年代半ばの頃には下火になっていたが、衣装屋ではよく見かけた。この柄は今では一般化しているけれど、そもそも王宮の花嫁衣装の柄である。ガンビョンには格が高すぎる柄だと思うのだが、ガンビョンは結婚式でよく上演されるので、ゴージャスな舞踊の衣装を望む人々の嗜好を汲んで考案されたのだろう。花嫁風ということで言えば、最近は豪華に見せるためか、花嫁風にティボドド(ジャスミンの花を房のようにつなげて作った飾り)を髪に挿すこともよくある。
肩にサンプールをかけるのは民間舞踊に共通している。タユブというガンビョンの元になった踊りでは、踊り子が観客にサンプールを掛けて舞台に誘い込むのだが、踊り手は首に適当にサンプールを引っ掛けて踊っている。ガンビョンでもそうしても良いと私の師匠は言っていたのだが、今では誰もがサンプールをきれいに四つ折りに畳みブローチで留める。品よく見せるためなのだろう。
こんな感じで、民間舞踊のガンビョンも、次第に地域の伝統を強調し、宮廷風、花嫁の豪華な装い風になってきている。実はこのような傾向は伝統行事一般に言える。ジャワでは舞踊上演の場として結婚式がポピュラーだが、結婚式の会場の飾り付けや花嫁花婿の衣装は伝統的だが王宮風の派手なものになり、正装する人たちの結髪やクバヤ(上着)も派手なデザインになってきている。ただ、ガンビョンの衣装の中でも絞り自体は豪華にならないなあ、なんて思う。日本の着物の絞りのように高度で繊細な絞り、絹の絞りが流行るなんてことはなさそうなのだ。たぶん、絞りには庶民のものという印象が強すぎて、そこで贅沢するよりも、ぱっと見て豪華に見える方が良いのだろう。

反射点の遊び

璃葉

午後3時の霧、冷えきった空気、濡れる小石
弾く音や叩く音が連続的に聴こえた
最近は注意深く聴くうちに、強調されて聴こえるようになってきた
点は跳ね返り、長くこだまし、逃げ場なく少しの間のなかで漂う
反響した後、分裂し、木の葉のように散る
眼はそこを見ているようで、時間を見ていることに気付く
在るものを描き、分解して 構築する
誰もがやってきた楽しい遊びかもしれない

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しもた屋之噺(154)

杉山洋一

ハローウィンの今日、9歳の息子は親友のグリエルモと放課後、変装で知合い宅を訪ねまわる計画らしく、先ほどからグリエルモと隣の部屋で笑い声を上げながら着替えています。

自分が丁度彼くらい頃、座間の米軍キャンプに、ハローウィンの夜連れてゆかれたことがあって、憶えているのは、よく知らないところで不安だったのとアメリカ人の背が高かったこと。米軍キャンプの家屋が日本のと違ってカラフルで広く、「奥さまは魔女」のサマンサの居間にそっくりだったこと。貰ったお菓子は、恐らくヌガーのようなものだったのだろうけれど、全然食べられなかったこと。

何より子供心に不思議だったのは、なぜお菓子をわざわざ夜貰いにでかけるのかという素朴な疑問でした。日本の、それも家の近所に、日本語がどうやら通じない場所があって、あまり周りの日本人と親しく付合っている感じでもないのは、随分小さな頃から何となしに分かっていました。

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 10月某日 自宅にて
日がな一日ペソン作品の譜割り。原曲の「イタリアのハロルド」を時間をかけて読んでから初めてペソンの楽譜を開いたので、読み始めるのがすっかり遅くなってしまった。そのお陰で全体として鳴るべき音は見えているので、透かし文様の向こう側が見えないストレスはない。漆黒の宇宙で、ドッキングしていた宇宙ステーションから宇宙船が音もなく無限の空間へと離れてゆくさまを無意識に思い描きながら、ページをめくる。

シューベルトが平行調を愛用したように、ベルリオーズのナポリ調への偏愛をおもう。ベルリオーズの調性配分が一見据わりが悪いのは、ナポリを支点にして糸の切れかけた、さもなくば糸が絡んだ凧のように、風に煽られ荒々しく動き回るからではないか。そのすぐ裏側にいつも主調を隠匿している姿は、どんなに非日常に身を晒していながらも、どこかで常に覚醒している作曲者の意識を垣間見るようだ。

シューベルトやプロコフィエフのように、平行調を鍵にして転調を繰返すのなら機能和声の配分に変化は来さず、どんなに遠くへ出かけようとも安定感があるけれども、ベルリオーズは敢えて好んで荒波に身を任せようとする。そんな姿をみるとフランス音楽は元来もっと直情的に演奏すべきものなのだろうと頭では理解できても、偏屈なイタリアに20年近く暮らしているせいか、そこに身を預けられない自分が厭だ。そんなことをぼんやり思いながら細かく一つずつ音符を眺めていると、漸く表題の「眺望、細部、許可」の意味が見えてくる。それにしても楽譜の誤りが極端に多い。

 10月某日 自宅にて
川島くん指揮の自作自演が面白く興味深い。楽譜を読んで指揮のジェスチャーが生まれるのではなく、指揮のジェスチャーが楽譜になる。逆説的に指揮の本質とそれが内包する矛盾に触れている。この類は自分ではうまく出来ないけれども、だからこそ素朴に憧れる。似たような憧憬はたとえば三輪さんの音楽にも覚える。

 10月某日 ミラノ行特急車内 
ルガーノでのリハーサルのために二日ほど殆ど寝る時間もなく訂正表をつくる。練習前に演奏者に渡すため、ずっと書き続け、イタリア・スイス国境を越える直前に列車から電子メールでアンサンブルに送る。

今日は5時間ほどリハーサル時間が予定されていたが、そのうち2時間は膨大な打楽器のセットに費やし、30分はペソン自身の朗読のためのマイクリハ。30分は休憩。演奏時間は実質2時間ほど。

彼が朗読したテキストが、彼のローマ滞在記「Cran d’arret du beau temps」なのはすぐ解ったが何やら違和感が残り、その理由がわからなかったが、夜ミラノ行きの列車で思い返すと、原文は仏語で、今日ジェラルドは誰かが訳出した伊語版を読んでいた。

伊語圏スイスはルガーノの国営放送局で、パリのランスタン・ドネに数人のイタリア人、アメリカ人のエキストラを加えての練習はフレンドリーで楽しい。自分の仏語も酷いが、イタリア人のマリオは仏語を解さないので、彼には英語か伊語で説明する。リハーサルを英語で統一すればよいのだろうが、彼以外は全員仏語スピーカーなので、英語の会話は長続きせず、そんな時は隣の席のアメリカ人スティーブが丁寧に英語に直す。国営放送のスタッフとは伊語。録音技師同士は独語で話しているが、こちらは全く解さないので関係ない。

練習は楽しく進むが、殆ど寝ないまま練習に出かけて何時間も経つと、自分が何語で何を話しているのか解らなくなり、遂には頭がショートし、煙を吐いて真っ白になる。

 10月某日 自宅にて
朝、家を出るときミラノは霧雨だったのだが、国境を越えルガーノに着くと、猛烈な瀧のような雨が無情に道路を叩き付けている。坂を駆け下りる雨水は一寸した濁流になっていて、傘は役に立たない。こんな日は当然タクシーも皆無で、丘の上の放送局までバスに乗るが、靴の中は音がするほど水が溜まり、下着の中まですっかり濡れ鼠になるが、放送局脇によい塩梅にミグロスがあって下着と靴下とバナナを購う。

しばしばベルリオーズの原曲の楽譜を参照しながら、アーティキュレーションなどを決める全体練習の後、アルトのルシールと二人で列車時刻直前まで稽古をし、入りのタイミングなどを決め、駅まで坂道を一気に駆け降り列車に飛乗る。

風邪で寒気が酷いので、夜中央駅から行着けの韓国料理屋に寄る。何か精の付く温かいものを頼むと、プルコギの入ったスープが出てきた。肉の出汁がよく出た、ほんのりすき焼きを思い出させる味で美味。

 10月某日 ミラノ行特急車内 
放送局での演奏会の後、マリオの息子と国営放送局の玄関で話込む。彼はミラノ大でドイツ文化を学んでいて、ドイツの文学と語学のどちらに進むか、進路を決める処だという。スイスに生まれ育てば、数ヶ国語を普通に話せるようになるのでしょう、羨ましいと言うと、それはないと即座に否定される。誰もが学校で苦労して学び、母国語の他に何とか1つか2つ言葉が出来るようになるのだから、本人の頑張り次第だと言われる。英独仏伊全てが堪能なのは余程勉強した人だけという。

ロマンシュ語は勉強しないのか。ロマンシュ語が話されるグラウビュンデンはそう遠くないがと尋ねると、「あんな誰も使わない田舎言葉、何の役にも立たない。ロンバルディア方言とスイス独語の合いの子だから、勉強しなくとも意味はわかる」と素気無い。

カタロニアのカタラン語や、コルシカ島のコルシカ語、マルタ島のマルタ語のように、小国にとって固有の自国語は誇りかと思いきや、あまり関係ないようだ。あと数百年経てば、グロバリゼーションで世界の言葉も相当淘汰されているに違いない。

 10月某日 自宅にて
10年ぶりに学校の学生オーケストラに携わる。シューベルトの4番交響曲で1月末までの付合い。オーケストラの8割は昨年、耳の訓練の授業で教えた学生だった。相変らずヴィオラや、オーボエ、ファゴット、ホルンが足りないのは10年前と同じだけれど、今回は半年程前から学生たちからやって欲しいと繰返し頼んできただけあって、出欠も練習開始の時間も随分しっかりとしている。練習が終わって、学生たちが楽しそうにシューベルトを口ずさみながら家路に着くのを見るのは嬉しい。

今日は暫く窓の外からこちらを覗き込んでいた映画音楽科の学生たちが10人ほど、練習を聴かせて欲しいとぞろぞろと部屋に入ってきて、最後まで後ろで座っていた。みな本当に音楽が好きなのだ。

ところで、シューベルトはバッハと同じく、作曲家を特に魅了する存在ではないか。マーラー、ブルックナー、プーランク然り。現代作家で言えば、ディーター・シュネーベルの「シューベルト・ファンタジー」は、高校から大学にかけてレコードが擦切れる程聴いた。当初この曲の原曲のト長調の幻想ソナタの方を未だ知らなかったので、初めて楽譜を買ってピアノで弾いた時の感激たるやなかった。鳥肌が立つような音の連続に時間も忘れて夢中になった。それが切っ掛けで特に晩年のソナタも好きになり、CDをつけっ放しにしていた。前にパリでポゼと話した時も、二人でそんなシューベルトの話ばかりしていた。

構造が極めて簡潔で、必要最小限の素材が互いに相関いや相乗し紡ぎだす新鮮な響きは、美しい旋律に心を惹かれるような表面上の喜びとは根本的に違う、バッハとまるで正反対の意味なのに、等しく理知的に身体が反応する歓喜。シューベルトがいなければ、ブルックナーやマーラーはどんな音楽を書いたのか。その後の音楽史に全く違った展開をもたらしたに違いない。

 10月某日 自宅にて
必死に今週末の本番の譜読みをしているところだが、今日は昼前に家人の留守中、息子の面倒を見て貰った友人の忘れ物を受取りに中央駅まで自転車で走った帰り道、中央駅前のピザーニ通りの自転車専用道路で交通事故に遭う。

俄かには信じ難いが、自転車はひしゃげて動かなくなったものの、身体は一切問題なかった。ただ、保険の調書のために、自転車を自分で保管しておく必要があって、自宅まで持って帰らなければならなかった。昼は公共交通機関が自転車の乗入れを許可していないので、動かない自転車を2時間引きずりながら、歩いて帰り、筋肉痛になった。道行く人にこれは酷いと何度も慰められる。

事故の瞬間、車の運転手と目が合って、子供のときの交通事故を思い出した。

自転車が余りに便利なので、家人や息子にも使わせてあげようかと考えていた矢先のことだったので、それは危険だと誰かが諌めてくれたのだと思っている。

 10月某日 自宅にて
200ページ程の楽譜を、文字通り徹夜で必死に読み込んで何とか練習に出かけた。「身近なことば」というファビオ・チファリエルロ・チャリディの新作は、福島の震災の際の天皇陛下のテレビ会見で始まり、同じテレビ会見で終わる。

その中に挟みこまれる内容は、賃金の安いメキシコに工場を移すという工場従業員たちの告発や、ゴミの収集が途絶えたことに対するナポリ住民の怒りなどの無数のイタリア住民の生々しいヴィデオで、それらの音声をコンピュータで解析され、楽器で同時に再生させる試みがファビオらしいところだ。

冒頭の天皇陛下の言葉は、ハープに変換されていて、最後に改めて天皇陛下の会見が映し出されるところでは、肉声も重ね合わされる。共産党基盤の文化が連綿として続くレッジョ・エミリアらしい企画だけれども、天皇陛下の会見がイタリアの工場の労働者の告発へと引継がれ、90分後に改めて天皇陛下で終わるというのは、一日本人として不思議な気がする。不敬罪というのでもないが、余りに遠い世界の話が同列に並んでいるからだろうか。

本の表紙と内容が合致していないような錯覚に陥るのは、イタリアで皇族にあたるサヴォイア家のスキャンダルなどを無意識に思い出してしまう為かもしれないが、一緒に出演した人気ジャーナリストのガド・レルナーですら、前時代共産党風のセンセーショナルな映像の連続に天皇陛下の会見が品格を添えると大喜びしていたので、外国人にはそう映るものらしい。尤も、作品としてごった煮の情報を、何も整理せずに並列しザッピングしてみせるテレビショーを痛烈に皮肉っていたので、実は大成功しているのかもしれない。

 10月某日 ミラノに戻る車中にて 
数年前までレッジョエミリアでは見かけなかったスリランカ人の雑貨屋にてバナナ購入。レッジョの駅の国鉄職員用食堂でアメリカ牛の巨大ステーキを喰らい10ユーロ。

本番直前のドレスリハーサルの途中からクリックが消えるが、構わずクリックなしで最後まで通すと、作曲者を始めスタッフの誰もクリックがなくなっていたことに気づいていない。本番直前今度はクリックの受信機を大丈夫だからと腰につけられ演奏を始めたところ、クリックが全く届かない。調べるとイヤホンが外れていて初めからやり直し。こんなことで良いのか解らないが、やり直した本番中もあるセクションはヴィデオが丸ごと消えてしまっていた。マルチメディアというのは本番になるとどうも色々気まぐれを起こすものらしい。ということは、本番になると失敗するアコースティックと同じだと妙に納得する。

 10月某日 自宅にて
ヴィジェーヴァノ郊外に住む、引退した老調律師が売りに出していたブリュートナーのグランドピアノをひょんなことから買った。調律師は100年ほど前の骨董品のピアノばかり10台ほど家に置いていて、その中には150年前のプレイエルや最低音がまだ白鍵盤だった頃のべーゼンドルファー、ベヒシュタインなど錚々たる顔ぶれが並んでいた。購入したブリュートナーは、1958年製で、売れっ子ロック歌手になった娘のために買ったものだという。家人は少しくぐもった寂しい響きが気に入ったようで、耳にしたこともない初期のスクリャービンを隣の部屋でそろそろと鳴らしている。

 10月某日 学校にて
接触事故で自転車を失くしたので、新しい自転車が届くまでミラノ市のシェアサイクルを使う。家から学校まで本来であれば自転車で20分ほどの距離のところ、家から10分サヴォナ通りを歩いてシェアサイクルの駐輪場にいき、25分ほどペダルを漕いで、記念墓地向かいのシェアサイクルの駐輪場に自転車を入れ、墓地沿いに10分ほど歩けば学校へ着く。公共機関を乗り継ぐのとほぼ所要時間は同じだが、人いきれのバスや路面電車で通うよりよほど気分がよい。

学校で指揮のレッスンをしていると、上の階から普段指揮クラスでやっているリズム練習が聴こえてきて、一同顔を見合わせて笑う。これは元来指揮クラスのためにエミリオが考えたメトロノームを使う変拍子の練習で、それに音を付けてどの楽器でも出来るようにしたものを、大学の必修授業に使っているので、皆がやるようになった。

ところで、随分前から使用している105教室の窓下に、膝丈ほどの古い石の置物が6つほど並んでいるのだが、これが何の為のものなのか判然としない。脚状で、地に着く部分は獣足に彫られ、中ほどには花模様が施され、天辺は既に大分崩れかけているが、人の顔になっていたことがかすかにわかる。ここ「シモネッタ荘」はスフォルツァ家のルドヴィコ・イル・モーロがミラノを治めていた500年ほど前に建造されたものだが、置物がどの時代のものかはよく解らない。

 10月某日 自宅にて
家人に何のために作曲するのかと尋ねられ、自分自身のための備忘録のようなものと答える。その時に感じたことを書留めておくもの。

正義など、自分が語る資格はないだろうが、戦争はしてはいけない。どんな卑怯な手段を使ってでも、戦争は避けたい。人を殺める恐ろしさもさることながら、その場に自分が身を置いたとき自分自身が狂わないとは断言できない。自分自身でさえ怖い。

ガザで殺害された母親から取り出された女の赤ん坊は、母親と同じシマー(自然)と名付けられ、我々と同じ空気を吸い、何も語らぬままその5日後、同じ名前の母親の隣で土にかえった。人工呼吸器の小さなシマーの写真を眺めつつ、言葉と思いを粉々に裁断してゆきながら、夜半五線紙に向う。

(10月31日ミラノにて)

島便り(7)

平野公子

産直に行くのは、それなりに遠いいので気合いで10日に一度くらい行ければ上々だ。今日は売り場のかごにフェイジョアという実があった。プーンといい香りが漂い、明らかに熱帯の植物のようだ。

島へ来てから見たことも食べたこともない作物に出くわすと、作り方を知らずとも、ともかく手に入れ、焼いたり煮たり蒸したりして口に入れてみることにしている。こうしてまんば、たけのこイモ、チヌほかの魚、いのしし、しかの肉を初食したのだった。

フェイジョアはイチジクのように半分に割ってスプーンですくって食べてみると、ほのかにあますっぱい。色は薄いクリーム色、匂いはかなり強いトロピカルな香り。これは誰もが好む果物とはいいがたいかもだ。私は好みだが、一粒味見した内澤旬子はイチジクの方が好きだと言っていた。しかしこの実は気になる、ちょっと調べてみたら、

フェイジョアは南米ウルグアイ原産フトモモ科の熱帯果樹。現在ではニュージーランドが最大の生産地。一般家庭でも多く消費され、ヨーグルトやアイスクリームなどに加工される他、乾燥させた果肉はフェイジョアティーになる

ということであった。パクパク食べられる実ではないので、ジャムにしてみることにする。

10月からようやくイワトの仕事をスタートさせた。まだここに住むことになるとは思いもしなかった2年前、小豆島の土庄町にあるギャラリーMaiPAMにとても興味を持った。倉を改造したそれはとてもスマートに改築した倉と、もともとの米蔵を生かしたつまりボロのままの倉と2種類の倉を同時に使える展示場。これにわたしが心ひかれないワケはない。その後移住してから島中をみわたしても、ココより魅力的なスペースは、やはりなかったです。

旅の途中でMaiPAMをみたときから、絵本画家のミロコマチコさんの展示をうわーっと想像してしまったのだ。ミロコマチコさんとは一冊目の絵本「オオカミがとぶひ」が世に出る前から小さな展示会があれば通って、その絵に惹かれていたのでしたが、ある日メールを出してとある展示会場でお会いしたのでした。そのときに何も決めていなかったのに、私は言ってしまいました。絵本を作らせてほしい(わたし編集者でもないのに)、展覧会を小豆島のギャラリーでやらしてほしい(まだ小豆島とつながりもないのに)と言ってしまったのでした。ミロコさんはキョトンとそれでもウンと言った気がする。

こういうことは私史上なんどか起こることなので、あとはだんだんに実現していけばいいわけで、山や谷が多いほどそのプロセスこそがヨロコビなのでした。

展示についてはMaiPAMでミロコマチコ展(11月24日まで開催中)を皮切りに来年いっぱい、やらせてほしい企画を5種ほど実現できそうです。そのほとんどが移住後に、あぁやってみたいと思った事ごとなので、これから初めの一歩からの仕込みがたくさんありそうだ。

あぁ、それでわたしとしては一番大きなイベント〈小豆島音楽祭「風が吹いてきたよ」@肥土山農村歌舞伎 野外劇場 2015年5月9日〉の準備にそろそろかからないとヤバイぞ。もう夢にうなされはじめたのだ。棚田の見える樹々の中の古い木造舞台で地元のみなさんや島外のお客さんにゆったり楽しんでいただく音楽祭、あぁ想像するだに嬉しやぁ、、恐ろしやぁ、、、。

夜のバスに乗る。(1)

植松眞人

 夜に追い立てられるように、夜のバスに乗る。
 暗い町のはずれのバス停から、二人でバスに乗る。
 小湊(こみなと)さんは最終バスが発車する間際にあらわれて、僕の手を引っ張ると滑り込むようにバスに乗り込んだ。
 車両の後方にある二人がけの席に一緒に座る。窓際に身体を滑らせていく小湊さんの白い足があらわになって、彼女が高校の制服姿のままだと気付いた。
 僕はいつものジーンズをはいていて、ユニクロで買った長袖のシャツと兄の部屋にあった薄手のジャケットを着ていた。少しは大人っぽい格好をしようとしたのだが、ジャケットが大きすぎて余計に子どもっぽくなってしまった。そんな僕の隣で、制服姿の小湊さんはとても大人びて見えた。
 最終バスに乗っているのは僕たち以外には数名だけだった。みんなが都心から帰ってくる時間に、都心に向かうバスはなんだか陰気な空気に包まれている気がした。それでも、僕と小湊さんは明るい希望のようなものに包まれて輝いているはずだった。
「ねえ、今夜、家出するんだけど付き合わない?」
 放課後、部活からの帰り道。後ろから自転車で追いかけてきた小湊さんにそう言われた時には、なんのことだかわからなかった。僕が答えられずにただ呆然と立っていると、小湊さんは待ち合わせ場所を僕に告げたのだった。
「駅前の三番のバス停に夜十一時三二分ね。遅れないでよ」
 そういうと、小湊さんは再び自転車をこぎ、僕を追い越した。その後ろ姿を見送りながら、僕は「三番のバス停、夜十一時三十二分、と呟き、慌ててスマホのスケジュールに入力した。気がつくと、通り過ぎたはずの小湊さんが僕の隣に戻ってきていた。
「荷物はいらないわよ。お金ならあるから」
 小湊さんは微笑みながらそれだけ言うと、また方向転換して、僕の目の前を立ちこぎをしながら一目散に走って行ってしまった。
 いま一緒にバスに乗っている小湊さんからはあの時の微笑みは消え去っていて、僕もあの時、小湊さんから受け取った震えるような高揚感をいまはまったく感じることができなかった。ただ、暗い夜の道を行くバスの前方を見つめながら泣きたいような不安を感じるばかりだった。

(つづく)

製本かい摘みましては(103)

四釜裕子

台所で、皿を落としてうるさがられたあと翌朝の米をとぎながらがっくりしている母の姿におぼえがある。一人暮らしをはじめてまもなく、自分も同じことをするのに驚いたこともおぼえている。洗いものや布巾がけをしていると指先がすべる。雑にしているつもりはない。その自覚がないのが雑ってことか……。いずれにしても血筋を言いわけにのりきってきたけれど、おとといもご飯用の土鍋が欠けた。炊くのに支障はなさそうだ。落ちていたかけらを拾う。真新しい傷にあてて詫びる。根津美術館で『名画を切り、名器を継ぐ』展を見たばかりだ。東急ハンズで「金継きセット」を買ってもうちでは無駄にはならないかもしれない。

根津美術館にあった丸い大きな白磁の壺はすばらしかった。立ち姿にぞくっとした。そこにあるということはどこか継がれているはずだが、まわりこんで見てもわたしにはわからなかった。説明を読む。寺に盗みに入った男がそこにあった白い壺を叩きつけて逃げた。警察はその破片を証拠品として執拗に集めた。のちに美術館に寄贈され修復されることになる。粉のようなかけらまで揃っていたことで、もともとあった黒漆の繕いまでも復元することができた、とある。志賀直哉が東大寺に譲ったものらしい。改めて眺めても継ぎ跡はわからない。この壺自体の持つ魅力が、関わる人のさまざまな力を引き出してしまったとしか思えない。この壺は明らかな修復復元だが、会場には意図的に改造されたものや最初からパッチワークされたものもおしなべて展示してあり、それぞれの銘が可笑しく読めるのがなおさら楽しかった。

書画もあった。いろんな事情でその一部を切り取って改変されており、こちらもまずそのままに好ましかった。抜群のトリミングで美しく表装された小さな古筆切や古絵巻は、段ボールの中に入れられたオランウータンがひとつだけ開けられた小さな穴から達観した瞳をのぞかせているようで、と言っても目玉はからだから切り取られているという設定なわけだけれども、生きたオランウータンがそこにいるような、と言っても本物のオランウータンだったらこんな風に間近に見つめることはできないわけで、とにかくよくぞ今日までたくさんのひとの手をわたって生きながらえて、わたしの目の前にさえ現れてくれたものだと思う。

巻物を切断した掛物が多い中、冊子を解体したものもあった。まず、『継色紙「よしのかわ」伝小野道風筆』。もとは全紙の長辺を三分割したものをそれぞれ二つ折りにして背側を糊で貼り重ねた粘葉装の枡形本で、糊付けされていない内側だけに書く「内面書写」がなされていた。複数の色の鳥の子紙が用いられたようで、見開きに和歌一首を散らし書きするのが原則だが、左頁から書いて色の異なる次の紙の右頁にかかるように書くこともあり、そういう2枚を、いくぶんの段差をつけて並べて掛物にしてあった。真ん中の折り筋部分がやや黒ずんでいる。ここで切り落としてもよかったものを、そうしなかった誰かがいた。それを汚れとはわたしにも思えない。「よしのがはいわなみたかくゆく水の はやくぞいとをおもひそめてし」(『古今和歌集』巻第11・恋歌1)。冊子の状態で加賀の前田家に伝わっていたものが明治39年に分割売却。『万葉集』『古今和歌集』他からの和歌が記されていたようだ。

もうひとつ、『白描絵入源氏物語残巻』。もとは『源氏物語』に適宜白描の挿絵を入れた粘葉装の冊子本で、それをばらして表裏2枚にはがして金地の屏風に貼り込んでいたようだ。表裏を2枚にはがす、というのは、表裏に描かれていたものをはがしてつなげていたことがわかった『鳥獣人物戯画』と同じようなことなのかどうなのか。改めてそのときのニュース映像を探して見る。高山寺所蔵の『鳥獣人物戯画』4巻のうち丙巻は前半が人物戯画で後半が動物戯画だが、前半と後半はもともと1枚の紙の表と裏に書かれていた。2009年から4年がかりの修復の過程で、薄墨のような汚れが他の場所の絵柄と似ていることに気づいて調べてみると、裏返して重ねたら濃い墨が塗られたところと一致、つまり、反対側の濃い墨のにじみが汚れのように見えていたというのだ。再現している映像もあった。どれもこれも、目の前にあるものをまず十分に見つめることをする人たちがつないできた仕事である。

決定的な亀裂

くぼたのぞみ

 ナイジェリア出身のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェという作家の短編に『セル・ワン』とう作品がある。拙訳『明日は遠すぎて』(河出書房新社刊、2012)に入っている短篇だ。ここにあまやかされて育つ兄と、それを冷静な目で見つめる妹が出てくる。語り手は妹のほうだ。家族は経験なカトリックで、両親が遠くの祖父母に会いにいったある日曜日に、2人はティーンエイジャーの兄が運転する母親の車で教会にでかける。ところが礼拝の途中で、この兄が姿を消してしまい、礼拝が終るころに素知らぬ顔で戻ってくる。なにをしに外へ出て行ったかというと、なんと、自分の家に強盗が入ったようにみせかけて、母親の宝石をくすねるためだったのだ。

 この短篇を訳しているとき、北の土地ですごした幼いころの記憶が、ぼんやりとよみがえってきた。

 もの心ついたころから、毎週日曜の朝は隣町の教会へ通っていた。父母がクリスチャンだったからだ。両親より一足早く、1歳ちがいの兄とふたりでバスに乗って、日曜学校に出席した。そこで子供向けの短いお話や紙芝居などがあって、それが終ると大人の礼拝が始まる。子供たちも、もちろん親のそばに腰かけて、牧師さんのお説教を聞くのだ。
 礼拝の終りに賛美歌を歌うころ、献金袋がまわってくる。黒いビロードの布でできた巾着みたいな袋で、取っ手がついていた。その取ってもまたビロードでくるまれていた。列の端からまわってくるその袋に、めいめいがささやかなお金を入れるのだ。子供たちも小銭をもたされた。たいてい10円硬貨だった。お祭りのおこづかいが50円か60円の時代、子供にとって10円というのはなかなかのお金だった。バラ売りの大きな飴が2個は買える。
 両親がなにかの理由で来られない日、兄はこの10円を積極活用した。5円玉2つに両替して、1個を献金袋に入れ、もう1個で飴を買ったのだ。それはやってはいけないことではないのか、そんなことをすれば神様の教えに反して、悪い人になってしまうのではないのか、と幼女はあれこれ心を悩ませながら考えた。

 アディーチェの短篇では、主人公は兄のことを両親に告げ口したりはせずに、じっとこらえている。それは、どうみても自分より兄のほうが特別扱いされ、それが社会的常識としてまかり通ることを知っている者の知恵だったのかもしれない。

 一方、戦後の北の新開地で、周囲の男尊女卑の風潮にはっきりと異を唱え、自分の子供は男の子も女の子も平等に育てるのだ、と固く決意した母親に育てられた幼女は、悩んだすえに、母親に兄の献金のことを告白した。早い話が告げ口である。
 その結果、兄がしかられたのかどうかまではよく覚えていない。覚えてはいないけれど、それからしばらく、兄がなんとなくよそよそしく、冷たかったことは確かだ。思えばあれは、兄と妹の決定的な亀裂の始まりだったのかもしれない。

120アカバナー(5) とうめいなおめん

藤井貞和

中也くんが登園すると、
いつもよりこわい顔して、せんせいが
立っている。 あれれ、
どうしてだろう。 中也はね、
とうめいになるおめんを、
わすれて帰ってきた、きのうのこと。
ようちえんでは、そのあと、
たいへんだったんだって。
中也の置いて帰ったおめんが、
泣いてたよ。 ひとばんじゅう、
つくえのした、ひきだしの
なかで。 でもね、
とうめいだから、見えないのさ、
だれにも。 中也にだけは、
見えたんだって。 

ぼくらも泣きたい、
とうめいなおめんがあれば、さ。

(ほんとうはね、中也のおかあさんがたのみに行ったんだって。「すこしうちの子をひどくしてくだされ」、と。それで、幼稚園の先生がこわい顔したりする日ありけり、とか「泣くな心」〈中原中也未刊詩篇〉に書いてある。世阿弥のころに、硝子とか、プラスティックとか、透明な素材があったらば、作ってみるとどうでしょう。「とうめいなおめん」を。みんな悲しいね、表情を隠して。その隠した表情が透き通って。)

父・高橋均(1900-1978)

高橋悠治

子どもの頃の愛読書は、長谷川如是閑の「歴史を捻ぢる」だった。もとは1920年代に雑誌「我等」に連載した社会批判で、後に「真実はかく佯る」の一部になった。寓話風の文体と、柳瀬正夢の挿絵が気に入っていた。資本主義も革命も、恐慌も人種差別もこの本で学んだ。

最近近所の図書館でそれを見つけて、父のことを思い出した。父はリベラルな文明批評家・長谷川如是閑と労働農民党の大山郁夫の作った我等社にいた。自分のことをいつか書いてくれと言われたのがずっと気になっていたが、子どものころの記憶しかなく、その後は父親の過去には関心がなかったので、いまは子どもの頃の記憶と、昔の本から拾い集めたことを書きならべることしかできない。

父は1900年10月20日四国の宇和島で生まれた。新島襄の流れの組合派教会の伝道師の三男だった。組合派教会には反権力で直接民主制の気風があり、その家に育った子どもたちはリベラルで自主独立の生活感覚を受け継いだようだ。祖父の自伝には、丸亀で均の母の登世子の悪阻が医者の誤診で手遅れになったとき、1歳だった均が臨終の床に馬乗りになり、アイアイシーシーとはしゃぐので、やめろと引き戻すと、今度は父親に組み付いて倒そうとした、と書いてある。一家は祖父の布教活動で九州から北海道まで転々として、均が10歳の頃は当時の植民地だった平壌にいた。均はそこから熊本の親戚の養子にもらわれて行ったはずだが、数年後には元通り高橋均の名で東京に現れ、東京音楽学校、いまの芸大のヴァイオリン科に入った。

音楽学生だった頃に我等社にも入ったようで、アンリ・バルビュスの社会主義的反戦運動組織クラルテに参加した小牧近江がフランスから持ち帰った楽譜で、トランク劇場の俳優の佐々木孝丸と、後にメイエルホリドに学びメキシコに亡命した演出家の佐野碩が訳詞をした「インターナショナル」を、均が鉛筆を指揮棒にして、創立されたばかりの共産党の党員たちに教えた。1922年のことだ。代々木の市川正一の家で、堺利彦の娘・近藤真柄や高瀬清、青野季吉の顔も見えた、と「トランソニック」6号 (1975) に書いている。

1976年に均が「音楽の友」に連載した「信時潔伝抄」によると、1923年、均は有島武郎の紹介で、叢文閣という有島の出版社から「音楽研究」という雑誌を出した。和声学や形式論、演奏会評などの他に、アロイス・ハーバの4分音記譜法 (1920) やヴェーベルンが書いたシェーンベルク論 (1912)、ブゾーニの覚書 (1909-22) など、ヨーロッパ音楽最先端の情報があった。

有島武郎はその年に人妻と心中し、雑誌が5号でつぶれると、均は小笠原で1年間漁師をしたり、朝鮮半島から当時の満州だった大連まで13年間の放浪生活を送った、と「信時潔伝抄」には書いていたが、その間の1927年には蔵原惟人の作った前衛芸術家同盟の音楽部長になっている。1928年には同盟機関誌「前衛」に「同盟歌」の楽譜が掲載された。作者名はないが、作詞はフランス文学者・桃井京次、作曲は信時潔だった。プロレタリア音楽運動は、ステージで歌がはじまるとすぐ、聴衆席の警官が演奏禁止、全員解散と命令するという、芥川龍之介の「河 童」でも戯画化されている弾圧で、長くは続かなかった。父の本棚には当時出版されたプレハーノフやロシア・アヴァンギャルドの芸術論があって、子どもの頃読んだ記憶がある。幸徳秋水訳の「共産党宣言」もあった。

1932年大山郁夫がアメリカに亡命し、「我等」は1934年2月に無期休刊した。1935年、均は「音楽研究」を共益商社書店から再刊した。季刊で3年間に12号出したが、創刊号はヒンデミット特集で、信時の知人の元ヴァイオリニスト、ベルリンから帰国したばかりの佐藤謙三や信時の弟子でベルリンでヒンデミットに師事した下総皖一、ピアニスト・作曲家で指揮者になったばかりの山田和男(後に一雄)の論文があり、信時潔も住いの国分寺をもじって古久文二の名で、シェーンベルクと比較したヒンデミット論を書いている。その他に長谷川如是閑、社会学者の本多喜代治のエッセイがあり、シェーンベルクの12音技法についてのエルヴィン・シュタインの論文もあった。

その後はロマン・ロラン、シェーンベルクやバルトークの特集号があり、プロレタリア音楽運動にいた盲目の作曲家・守田正義、信時潔の弟子だった作曲家・橋本国彦や長谷川良夫、音響学の颯田琴次、小幡重一、栗原嘉名芽が書いている。東洋美術史研究者の長廣敏雄による20世紀音楽史の連載もあった。最終号は1937年のドイツ音楽特集で、均の巻頭言は、ドイツ啓蒙主義思想のなかの対立物の闘争と普遍性原理の一つの結末がナチスによる音楽の統制とも言えるかもしれないが、スターリニズムの前例はあるものの、いままではありえなかった事態だと書いている。19世紀末のマーラーやシェーンベルクの調性破壊、ドビュッシーの機能和声破壊につづいて、1920年代はバルトーク、ヒンデミットもいるが、ストラヴィンスキーの方向に未来があるようだという見方は、信時と共有していたはずだが、国家の統制は身辺にも迫っていた。軍歌と国民歌謡、葬送行進曲以外に音楽の場はなくなっていた。

神楽坂署だか麹町署の留置場で政治犯が代々受け継いできた「野坂参三の股引」のお世話になった、と聞いたことがある。勾留されたのはいつで、なぜかは聞かなかった。長谷川如是閑と前後して、当時の鎌倉村へ移住したのも、生まれたばかりの悠治の病弱のためと聞いていたが、それだけだったのか。文章はもう書いていなかったし、何をしていたのだろう。鎌倉の浄明寺には、近所に転向作家の林房雄もいたし、如是閑もすこし奥の十二所にいたが、みんな特高に監視されていたのだろう。当時は東京からも遠く、鎌倉は郊外というより国内流刑地のようだった。隣人には、小津安二郎の映画の台本を書いていた野田高梧や民俗学者・大藤時彦、ゆき夫妻がいた。生活がたいへんだったのは、子どもでもわかった。

敗戦後、1946年には芦田均の秘書として憲法普及会で全国を回り、1947年5月3日憲法記念日には長谷川良夫にカンタータ「大いなる朝」、橋本国彦に第2交響曲「平和」、信時潔にも歌曲「われらの日本」を委嘱させたが、普及会はその年12月に解散した。解放気分はたちまち薄れ、冷戦、共産党員追放、朝鮮戦争と続くなかで政治運動には希望がなく、長い空白の後では音楽にはもどれなかった。三菱化成、いまの新日鉄、の黒崎工場に行ったきりの時もあり、香港にも行って独立運動にかかわろうとしたらしいが、結核に感染して帰ってきた。薬代と転地療養で、母がピアノを教えて、貧困家庭はやっとなりたっていた。最後の職は、河出書房の嘱託だった。長生きしたので、ほとんどの友人は先に死んでいた

1978年2月10日夜半、逗子の湘南サナトリウムで転んで、家族を呼んでくれと言ったそうだが、夜が明けてから母が行った時には意識はなく、まもなく呼吸が停まった。次の朝早く実家に行くと、棺の側には母と二人の妹しかいなかった。火葬場では、骨壷に入れる骨はほとんどなかった。その頃のやりかただったのか、骨だけでなく灰まで掃き捨てられていた。

グロッソラリー ―ない ので ある―(1)

明智尚希

 週末の飲んだくれた帰り道、私は友人から突然やや厚めの封筒を受け取った。家で読んでみてくれと言う。友人も別の誰かから受け取ったらしい。アルコールが入っていたこともあり、ことの顛末や封筒の中身については何も聞かずにそのまま友人と別れた。
 翌朝、その封筒を開けてみると、右上をゼムクリップでとめられたA4サイズの紙の束が出てきた。断章と顔文字がずらりと横書きに並んだワープロ原稿だった。表紙には「グロッソラリー ―ない ので ある―」とあり、下のほうに「忽滑谷源八郎(※ぬかりやげんぱちろうと読むのか?)」と記名してあった。
 なぜ私にこのような原稿を託したのか判然しないまま、とりあえず少しずつ読み進めてみることにした。細かい内容には触れまい。ただ、断章はバラエティ豊かで、口語体もあれば文語体もあり、扱う分野も多岐に渡っていた。アフォリズムもあるし実験的な試みもしている。体裁の整合性が取れているとは言い難いが。
 そうした奔放さや顔文字の多様から、若いかもしくは複数の書き手によるものかとも思ったが、「わし」と表現しているのを素直に受け止めれば、年配の人間による作品としておくのが穏当だろう。しかしよくここまで書いたものだと感心もした。

 さて、タイトルにある「グロッソラリー」とは何のことか。外国語を含む辞書類には一切載っていない。インターネットでかろうじて一件だけ引っかかった。種村季弘氏の『ナンセンス詩人の肖像』である。早速購入し「グロッソラリー」について調べてみた。氏の定義では、「霊媒や意識不明者の発する言葉」とあり、また「グロッソラリーは『グロッソ』(舌の・言語の)と『ラリー』(エルlとrの音の区別がつかず、まさにラリること)の結合語である」としている。
 その他のナンセンス関連の本を渉猟したが、「グロッソラリー」については上記の説明しか得られなかった。おそらく言葉としては存在していながらも、使われる機会が極端に少なく、決定的な意味はないのだろう。外国語スペルが見つからなかったのもその証拠と言えよう。忽滑谷氏は酒への言及も多いことから、酔って意識が混濁した状態で書いたと言いたかったのだと推測できる。
 また「ない ので ある」のダブルミーニングについて、「ないからある(無という有)」と「ないのである(無)」という具合に作品内容を両方に位置づけたのだろう。こうした曖昧性、意味が複数取れる表現、更には意味の所在が明らかでないものも本文に散見される。また、断章と絵文字のバランスが必ずしも妥当でないこともある。著者の持ち味と解釈しておく。しかし断章の文字数をほぼ統一している点がある一方で、前掲のように不統一な箇所もある点は疑問に残る。何でもありという考えなのだろうか。
 前置きはこれくらいにして、まずは読んでみることをお薦めする。忽滑谷氏が健在であることを祈りつつ。

 しかしなんで飲んじまうかなあ。酒は飲んでも飲まれるな、か。いいこと言うね、先人は。わしにとって先人とは、おやじしかいない。おやじも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。おやじにとって先人とは、わしのじいさんしかいない。じいさんも言われてたなあ。酒は飲んでも飲まれるな、とな。じいさんにとって先人……。

クゥーッ!!”(*>∀<)o(酒)”

 運命は自分で切り拓くもの。努力は必ず報われる。継続は力なり。これらの決まり文句は概して成功者がのたまうので、凡人には今一つぴんとこない。成功の大半が運によるものだとしても同じことを言うのだろうか。人間はよくできたできそこないである。できそこないを束の間ながら勘違いさせるために、運の動きや正体が秘匿されている。

チラッ(・。[壁]

 1月1日:深夜2時かないしはそれ以外の時間に、僕は産まれる。胎内にいる時点でへその緒が首に巻きついており、縊死か無念と医師たちを恨んだが、寛恕の心で許す運びと相なった。実は産まれるかどうか結構迷ったのである。いずれクレプトマニアになりはすまいかと嫌な予感がよぎった。僕の予感はよく当たることで有名である。

(*’∇’)/゚・:*【祝】*:・゚\(‘∇’*)

 でもむなしいね。真理と真実を語るってのは。とうとうここまできたか。まあとにかくあれだ。星は輝きミミズはうねる。三文芝居でニンジンぶらさげちゃあ元も子もないのは、最初からわかりきっていた驚天動地だ。おこがましいったらありゃしない。なんたって足指の香りが夜逃げ前日であれば、わしだって一方ならぬ思い入れがある。

( ?´_ゝ`)

 ずらんかどっかれ 男それし
 びすんかどっかれ 花けしい
 血さげもあんらに らもげしし
 まきにしおつたら 夢けんじょ
 精さつつべよせ  ほはたるく

ヾ(^o^ヾ) (ノ^o^)ノ

 並外れた屈辱や挫折を我が物としてしまうと、人間の性質というものがわからなくなり、自分という人間もどう動いていいのか何を言えばいいのか硬直状態になる。しかし神経戦の多いちまたにあっては、不感症は有力な武器の一つになり、あらゆる局面で勝利をおさめるかもしれない。当人には勝利の実感もなく何の意味もなさないが。

(・ω・`メ)(-ω-`メ)ウン♪

 感謝感謝。へそのゴマで感謝。どんどん食い込むおかちめんこ。フランスはいいねアメリカは。知らなくてもいいことがこの世にはある。宇宙の平泳ぎってのは物干し竿ですかい。そうきた日にゃあ四角四面な甘ったれを応援しながら、追いかけて追いかけて追い越すしか間に合わせの老人用おむつはないわい。風はだいたい左から吹いてくる。

(○´3`)ノοκ

 企業で働くのは、単に生活と趣味のためである。社訓、愛社精神、ホウレンソウなど余分なものを作られたり求められたりするのは迷惑千万。心の最深部から同調する人は少なくないだろう。カネが欲しくて働いて眠るだけ。一生ラットレース。働くのを一段とつまらなくすることに無意識裡の力を注ぐのは、この国の企業の特徴である。

(´・_・`) ツマラナイ…

 ぱぎゃがまはらのチルデンコンシャは、うったけほるしながら、ちょちょまるけさらで、やーかーさぎたしるめ。うんば。ダモスしゅうしゅうなかはりつて、いいきょるはんきょりじゃっぱ。しでかんおすみてぱぎゃがまはらのチルデンコンシャは、そってれやってれキゼラマしょうたる。けけけどんしゃんりきにき。ちんたる。

(-c・*)//いってらあ

 1月1日:「産まれる」という動詞は受動態である。この受動態、時には「迷惑の受動態」と呼ばれる。「見られる」「食べられる」「やられる」などがそれに該当する。僕は少々迷惑だった。それは僕の体の色と関係している。「赤ちゃん」というほど赤くはなく、元より暖色は好まない。そこで「青ちゃんです!」と大人げない反論を試みた。

(; -o- )σ ォィォィ・・・

 まずは実験してみていただきたい。日本に暮らす架空の人物になろう。大切なのは食品選び、摂取する順番、咀嚼、女房の実家には気を遣うこと。大反響をいただいた一件のスナックに入ると、戦場ジャーナリストといえども、目の前で人が殺されるのを目撃することはない。その理由を、熟年夫婦の夜の生活をリサーチしたからとしている。

。゚(゚^∀^゚)゚。 ギャーハッハッハッハッハッハハッハッハッハッハッハ

 ダボシャツにももひきで白でまとめたってか? 世知辛い世の中、芸術家以外はそうはいかねえ。歩いてりゃ「どこへ行くんですか」、自転車乗ってりゃ「ご自分のですか」。そのくせ「手錠、きつくありませんか」て、気遣いの時が違うだろ。家にいりゃ「生きてますか」とくる。ああ生きてるよ。死ぬ前にせめてその制服を着させてくれや。

ε=(。・`ω´・。)プンプン!!

 さほど親しくないのに、相手を強く抱きしめる人は、信じられない程度の独占欲はおろか破滅への願望を気づかない場所に持っている。裏切られるためにある期待とやらにまた裏切られたにもかかわらず、全幅の信頼を置き続けている人。期待は破滅の類縁関係にあることに、実際に破滅するまで気づかない哀れな人。彼らに花束を。

*゜✽。+*✽ (´ω`*)*。゜.:キレイ:.゜。*ダナッ

 私は薄味のほうが好きです。

d((o゚c_,゚o))bオッケェ♪

 スフェリコンじみた鳴き声のカラスでさえ、消しゴムがけんか四つにうんざりした時なんざ、最後はやっぱり万引き、もとい、正式名称、万有引力のせいで、4時間もストーリーを捏造されて一本とられた。出し抜けの行動ってのは、最後が五里霧中だからどこへでも転がっていけて、畢竟、成功らしきありかを見つけられるのも知らんとはな。

(*’へ’*)ぷんぷん

 1月1日:言葉が通じなかった。叫んだはいいものの「元気のいい赤ちゃん」との解釈が下された。せめてすれっからしの嬰児とでも呼んでもらえたなら、僕の心中の平和を保てたというものだ。この段階では、まだ首までしかこの世に出てきていない。へその緒もほどけ、ようやく出産の体裁が整った。母なる女性の苦しげな声を耳にした。

(・x・ ).o0○ ウゥム

 まったくどうしたもんかね。早いもんで世も末だよ。世紀の初めが断末魔。赤子の誕生みたいなもんか。ありがたいありがたい。そうは言っておきながら、ひねくれもんが主役に抜擢される道理じゃ。わしゃあどこへ行くのかねえ。古本まつりでせどりながら便意を催す事態へまっしぐらかい。いいにおいのする下衆になんか負けるか。

く( ̄△ ̄)ノガンバレェェェ!!

【死語のランキング】
 第1位:KY
 第2位:チョベリバ
 第3位:やってみそ
 第4位:くりそつ
 第5位:いらっしゃいまほー

(* ̄ ̄ ̄ ̄ー ̄ ̄ ̄ ̄)フッ

 自殺が残された唯一の幸福への道だとしたら、尊重する気持ちを禁じ得ない。この最期の幸福を頭ごなしに否定するのは、殺すことより残酷である。一部の人の間で、死はロマン化されているが、隣り合わせになったら嫌でも悟るだろう。死とは、無感情で泥臭く、手加減を知らず、聞き入れる耳を持たず、どこか爽快感があるということを。

(´ω`)☆だわさ♪

 
 人を見た目で判断してはいけない。外見だけで性格や能力や家柄、はたまた貯金や財産などわかろうはずがない。細かいことを把握してしまうほどの眼力の所有者が、この世にいるわけがない。一人ひとりに個性があり、まさに十人十色。フラット化や没個性が指摘されており、個人の情報に乏しい昨今、人を見た目で判断して何が悪い。

o(`益´╬)o むっ

 少なくとも普請中ではもうないな。ませいぜい準備中ってところで手を打とうや。おっぱじまったら大逆転かもしれん。そう思いたいね。わしなんか温厚の中でも温厚ななしのつぶてじゃが、近頃の若いもんはそりゃあ寒がりで、そんな有様を目の当たりにした日にゃあ、この歳になってニイタカヤマに登っちまうかもしれん。

-=≡∠(メ☼д☼)/疾風迅雷!!

つんのめるようなエンプティネス

くぼたのぞみ

 ポンプで地下深くから汲み上げる水は、夏は冷たく、冬は適度にぬるく、そして美味しかった。そのことを知ったのは’68年に東京に出てからだ。あこがれのメトロポリスで水道の蛇口から流れる水は、しかし、夏は生温く、冬は指がしびれるほど冷たかった。なんだか裏切られたような気分がした。最初はふっと気味の悪い、薬臭い味も感じたけれど、やがて慣れた。人はなんにでも慣れるものだ。
 あのころ東京の標準的アパートには浴室はもちろん洗濯機さえなく、洗濯はすべて手洗い。コインランドリーが出現するのはそれから10年以上あとのことで、冬は手のひらも指も真っ赤になった。電気代、ガス代、水道代を計算した紙を手にした大家さんがドアを叩いたとき、水道代というものがこの世に存在することを初めて知った。東京では水にお金を払って暮らすのか、とちょっと驚いたのは、たかだか半世紀前のことだ。

 人混みにも気持ちがくじけた。池袋、新宿などの地下道を歩くときは、どういうわけか決まって人とぶつかりそうになる。だから歩き方も学ばなければならなかった。向こうから歩いてくる人に視線を合わせてはいけない、少し横に焦点をずらして歩けばぶつからなくてすむ、と気づいたのは、半年くらいたってからだ。パンフォーカス歩きの習得である。
 初めての夏休み、北海道へ帰省したときに感じた空間をめぐる身体レベルの体験は「劇的」ということばがふさわしい。このときの感覚は身体の奥にいまも眠っていて、いつでも取り出し可能だ。汽車(北海道では「電車」とは呼ばない)の車両から荷物をかかえて降り立った滝川駅のホームは、東京の山手線の駅にくらべるとほぼ無人といってもいいほどの人気のなさ。その「カラッポ」感に、ステップを降りたとたん身体が前につんのめりそうになった。この身体感覚が3年ほど前、南アフリカのカルーを訪ねたとき、思いがけずよみがえってきたときは驚いた。そこにはまさに、つんのめるようなエンプティネスが広がっていたのだ。

 話しことばの最後に「だわ」とか「よね」とか「かしら」なんて女性特有の助詞をつけることも、その独特のイントネーションも、東京育ちの友人たちとの会話から日々、習得に余念がなかったものの、夏休みや冬休みに帰省するや、語尾の重たい北海道弁にすぐにもどってしまった。東京風のことば遣いをすると「なに、すかしてんの?」と言われて完全に周囲から浮いてしまうのだ。
 これは高校一年のとき、逆の立場ですでに経験済み。東京から転校生のAさんがやってきた。髪が少し赤く、話し方が軽やかで、手を口にあてて微かに笑う。ただそれだけのことで、ひどくよそよそしく感じられた。いま思うと笑える。だが、それが人と人の関係の冷たさのようにも感じられたのは一考にあたいするか、どうか。おなじ日本語でも、分厚い膜がすっとかかるその感覚を初めて経験した瞬間だったのだから。遠い「東京」を辺境でちらりと垣間見る思いがしたのだろう。その落差を、今度は自分がかもしだすことになる、と不安になって、帰省のたびに咄嗟にカチリとモード切り替えが行われたのだろう。まさに、ディープな田舎と都会の行ったり来たりである。

 しかし、そんな微妙な差異やモードの切り替えを意識していたのは、最初の一、二年のうちで、大都会の生活習慣になじむにつれて、やがてどんどん鈍感になっていった。都会生活に溶け込むことが最優先課題となり、ことば遣いも東京風に近づいて、やがて地下水のことも忘れてしまった。その感覚を呼びもどしたい、消えてしまう記憶を記録したい、と思うようになったのは、たぶん、あの事件のあとだった。

バスを待つ。

植松眞人

 ある日、僕は見知らぬ峠でバスを待っていた。見晴らしのいい峠道で、少し肌寒いくらいの風が吹いている。どこからどうやってきたのか、僕は疲れ切ってもうそこから一歩も歩けない。普段バスに乗らないからか、バスに乗ることが怖い。電車なら乗る前に切符を買うので、切符さえ買えれば後は乗るだけでいい。ところがバスは料金を乗ってから払う。乗る前に払うのか、降りる時に払うのか。もし、バスに乗ったときに小銭がなかったらどうなるのか。
 そんなことばかりを考えてバスを待っていると、とても息苦しくなる。息苦しくなると同時に、子どもの頃、同じようにバスを待っていたことを思い出す。近所のバス停で親戚の家までお使いを頼まれ、一人でバスに乗ろうとしていたのだった。いまと同じような不安な気持ちで待っていたバスは、大勢の人が乗っていて満員だった。子ども一人くらいは乗れるだろうと、ワンマンカーの運転手はバス停に停車してドアを開けてくれた。しかし、僕はあまりの人の多さに車内に入ることができなかった。圧倒されてただただ開いたドアいっぱいの人々を見ていた。すると、ドアのすぐ横に立っていた若い女の人が僕の手を取って、車内に引っ張り上げてくれた。
 ドアが閉まりバスは発車した。車内は思った以上にぎゅうぎゅう詰めで、僕は大人たちに囲まれて息もできないくらいだった。車内は気温も高く僕はだらだらと汗をかきながら息を荒くして、ここままでは呼吸困難で死んでしまうと本気で思っていた。その時、僕をバスに引っ張り上げてくれた若い女が自分のはいていたスカートの中にすっぽりと僕を入れてくれたのだった。
 スカートの中は明るかった。とても明るい光の中でスカートの内側には映画のようにバスの車内が映し出されていた。僕は息苦しさから解放されて楽しい気持ちで女のスカートの中でバスの揺れる感触を楽しんでいた。ときどき、スカートの外側から女の手が入ってきて、僕の頭や肩や足を撫でて安心させてくれた。ああ、子どもで良かった。大人だったらこの女の人も、こんなふうに良くはしてくれないだろう、と思ったのだった。
 そんなことを思い出しながら、まだ来ないバスを待っていると、もう、バスがこなければいいのにと思えてきた。

しもた屋之噺(153)

杉山洋一

夏前からの無理がたたり、昨日から毎度の眩暈で倒れていましたが、今日はこうして何とか少しずつ原稿が書けるまで快復しました。今日は曇り。暑いとも寒いともいえない気温です。これで晴れていれば一年中で一番過ごしやすい季節で、とも書けるのでしょうが、太陽が見えないだけで、どうとも表現できない、目の前の乳白色の空のような不思議な心地になるのですね。子供のころ家族で登った御嶽山のことを思い出しながら、日記をいくつか抜書きしてみます。

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 9月某日
ミラノへの機中。昨日の芥川賞のあとで、家人と息子と沢井さん宅による。初めて目にする五絃琴と17絃箏に息子は大喜び。沢井さんが目の前で弾いてみせてくださる17絃に目を輝かせる。木戸さんからは、湖北省で発掘された当初の中国語で書かれた五絃琴の報告書のコピーをいただく。

今回の芥川作曲賞では、二つ大きな勉強をさせてもらった。睡眠不足がたたると、自分のテンポの感覚は狂ってしまうこと。それから、恣意的に楽譜を読まないように努めているつもりでも、それだけでは充分ではないということ。

コーネリウス・シュヴェアが書いた戦艦ポチョムキンのためのスコアを読む。まずタイミングを整理し、分数を細かく割り出し、譜割りする。気の遠くなる作業。譜読みは読書の代わりを果たすわけだが、曲をどう振るかというより、寧ろその曲がどのように作られているのか知りたくなることが多く、甚だ時間を無駄にしている気がする。

 9月某日
ジュネーブへの車中。目の前でアメリカ人の中年旅行者グループが、互いに写真を撮り合ったりして楽しそうだが、声が大きく周りの乗客はうんざりしている。
8月に息子が「赤毛のアン」のアニメをずっと見ていたのをぼんやり思い出し、あの属9度で始まる三善先生の主題歌が頭に浮かび、サブドミナントの借用和音など、先生がサワリとカタカナで書かれた音が心に沁みる。

あの和音が書いてみたくて、学生時代にコマーシャルなど嬉々としてこなしていた。北陸銀行のコマーシャルを書いたとき、録音が終わってブースに戻ると、妙齢の担当者が感動して泣いてらしたのが、あのサワリの音の魔法だった。赤毛のアンの主人公は、まるで息子の性格にそっくりで、共感を覚えて見入っていた。

 9月某日
洋楽器と邦楽器の演奏法のちがいについて、先日のリハーサルのあとの龍笛の岩亀さんの言葉がずっと反芻している。「同じ山に昇ろうとしているのだけれど、辿る道が違うというのかしら」。

西洋の定量記譜を、邦楽風に読むときの感じは、ほんの少しだけオラショを思い起こさせる。拍節感がまず変わる。アップビートがなくなり、ダウンビートのみで数える。アップビートがない分、テンポは束縛から解放され、かなり自由に浮遊できる。テンポが水平に延びてゆけば、そこにはメリスマ調の足跡が残される。

そう思ってから、バンショワの旋律を違う視点で眺めてみる。リズムがとけ、音高の点から無数の細い糸が横に延びる。イスラエル国歌とパレスチナ国歌をからめて、先月来ずっと引き曳っている思いにかえたい。

 9月某日
ジュネーブ ピトエフ劇場でのリハーサル前日夜になって、コーネリウスの使った英語版ポチョムキンと、今回使う仏語版ポチョムキンの尺が7分も違うことを知る。

楽器のみのリハーサルの後、ふと気になったので、ミヒャエルに一応明日からのヴィデオを見せてくれと頼み、ホテルで眺めてみると全く長さが違う。見当もつかず途方に暮れ、勢い余っていつものインドカレーを食べに出かけると、いつしかエチオピア料理屋に変わっていた。
エチオピア料理がどんなものか知らなかったし、カレーを食べるつもりだったので、斜向かいのタイ料理屋でレッドカレーとトムヤムクンを食べ、帰りに駅構内のスーパーでバナナを一房買い、風呂に入って寝てしまった。

それでも気が弱いものだから、朝3時くらいにはしっかり起きて、一つ一つタイミング合わせの場所を調べ直し、その中に何とか収まるように秒数を計算し直してゆく。
10時からの練習に間に合わせるため、9時半まで必死に計算をして、バナナを齧りながら祈る思いでタクシーに飛び乗る。計算といっても、ひたすら引き算をしてゆく作業なので、息子が先日までやっていたドリルを思い出す。恐らく息子の方が計算間違えは少ない。

 9月某日
1907年から9年にジョゼフ・マーシャルによって建てられたピトエフ劇場は、ラヴェルの実弟が描いた大きな壁画が残る、古典様式とアール・ヌーヴォーの折衷様式が美しい。ジュネーブの街はいつ来ても暮らしやすそうな印象を受ける。どことなく明るく輝いてみえるのは、湖があるせいか。

マチネの本番が終わり、隣のイタリア料理屋で簡単な昼食をとり、ボタンをつけるため近くのスーパーで針と糸、改めてバナナを購い控室でボタンつけ。トラムで駅前のホテルに戻って、ソワレまで休み、慌てて劇場に戻った。本番後、ブリスやコーネリアスとホテルまで歩く。
ブリスとは作曲中の室内オペラや、新しく購入したクラブサンのはなし。コーネリアスとは、フライブルグ音大での映画音楽作曲科のカリキュラムについて。

 9月某日
生まれて初めてのミュンヘンで、初めてウルフ・ヴァインマンに会う。空港から中央駅までの近郊電車でも、みな表情が明るいのが印象に残る。奨められるまま白ワインを口にすると、美味しくて呑み過ぎそうになった。自分の名前もヴァインマンというくらいで、ワイン好きに悪いのはいないと笑う。

なぜ現代音楽のレーベルを作ったのかと質問すると、自分が知らないものを発見したいからだという。たとえ初め自分が好きではない音楽であっても、自分はそこから何かを学びたいから録音してきたのだそうだ。
夜、鴨肉とクヌーデルとビールで夕食。美味。疲労と心地よい酔いがまわって夜行寝台で熟睡し、夜半に目を覚ますとちょうどブレンネル峠を越え、ブレッサノーネをさしかかったところだった。
この辺りはまだBrixenと駅名も独語で併記されている。

 9月某日
今朝6時にメールをチェックすると、成田を一人で出発する息子の写真が義妹より届いた。頼もしく誇らしい精悍な顔つきに見えるのは、少し緊張しているからか。大したものだと感心。
息子自身の希望もあって、子供の一人旅のサービスを頼んだが、この間まで誰がこんなサービスを使うのだろうと不思議に思っていたくらいで、まさか自分が頼むことになるとは想像もしなかった。
こちらが緊張して空港へ迎えにゆくと、思いの外寛いだ顔で出てきて拍子抜けする。

 9月某日
仲宗根さんからのメール。何度か沖縄の「屋号」について教えていただく。頭では分かるけれど、実際にどう息づいているのか、メールを頂くたびに自分の目で見てみたい思いに駆られる。
「歴史をみると、たとえば日本書紀というものは、勝者が書いたものだと思うのです。その時勝者が本当に正しかったかはわかりません。沖縄でも同じです。琉球王朝に叛旗を翻した者は数々いるとおもいます」。

沖縄の歴史を教えていただきながら、マルタやキプロスのような小国が長く英国領だったことを思い出し、長くイタリア領でありながら、現在は仏領となっているコルシカの歴史などを読み返す。

コルシカやそのすぐ下にあるサルデーニャには独自の古い言語体系が残っていて、コルシカには古いイタリア語方言が、サルデーニャには古いロマンス語が息づいているのも似ている。

同じように現在に伝えられる沖縄の諸言語がユネスコの消滅危機言語に指定されているのを思い出し、幾つか録音をインターネットで探す。仲宗根さんも言われるとおり、いつの間に標準語の母音が五つになってしまったのか残念に思うほど、豊かな響きがする。

その折、大学時分文献を読んでずっと憧れていた八丈語もインターネットで初めて耳にして、興奮と驚きを禁じえなかったのは、想像以上に万葉に近い響きを実感したから。言葉の美しさに文字通り聞き惚れる。

 9月某日
来年初めに書く、波多野さんのための歌のテキストを漸く決める。三浦さんからずっと早く題名を決めてほしいといわれていて、半年間どうにも決められなかった。

賑々しい詩を探し続けていたが、ここ暫くイスラム国の処刑のニュースが続いていたところに、昨日はアルジェリアでフランス人のガイドが殺害され、神戸で女児が殺害されて、衝動にかられ、改めてクロード・イーザリーがギュンター・アンデルスに書いた手紙を全て読み返してみたが、何か違う。

あの時イーザリーは、自分が伝えたいものを伝えられぬ忸怩たる思いにかられていたけれど、今自分が書かなければならないのは、それとは少し違う。
久保山愛吉の資料も改めて読み返してみたが、これをそのままテキストにするのはむつかしいだろうし、特定の国家や人物を糾弾したいのではない。
ジョー・オダネルの「焼き場に立つ少年」のような透徹とした視点で、何かいえるものはないか。

結局、「国破山河在」の「春望」と、「戦哭新鬼多」の「対雪」を使うことにする。杜甫の視点の鋭さに、あらためて心を打たれる。

(9月30日ミラノにて)

自然について考えたこと

大野晋

27日は御嶽山の噴火に非常に驚いた。
以前、何回か、噴火している火山なので噴火するという認識ではいたが急なできごとでびっくりしている。
遭難された方やその家族の方には何と言ったらよいかわからない。

学生時代に山で生活していた身としては、なんともならない人間の身にもどかしさを感じるが、それがやはり人類の弱点であり、人間がおごってはいけないという警鐘でもあるだろう。

異常気象でもなんでもない普通のできごととして、自然の中にいる私たちは常に肝に銘じておく必要がある。

私たちは自然の前では常に無力だ。

島便り(6)

平野公子

家族に猫が加わりました。
老夫婦と小猫の組み合わせは、なんかヘンです。
40数年東京で猫のいないときがなかったほど猫キャリア高の平野家ですが、島に移住してからは、私たちより長生きするだろう動物と暮らすのはやめようとすっぱり決意していたのに、です。

ある日、車で連れてこられたのは、お寺に捨てられていた白に薄茶ブチの子猫のオスで、かた耳をカラスにやられたらしく負傷猫でした。慈空さんという坊さんからたのまれたので、名前を空(そら)として引き取りました。生後2ヶ月でした。

これがなかなかのヤンチャで甘えん坊暴れん坊の島猫でありました。
日に三度は行方不明になる。名前を呼びながら探すわたしに気がついて、結局は戻っては来る。屋根や大きな樹に登ってしまってから、助けを求めて泣く。しかたなくハシゴに乗って助ける。耳の治療に町に一軒しかない遠くの動物病院へバスに乗って通う。道中泣きっぱなし。わたしを親猫の代わりに、噛む蹴る跳びかかる。おかげで手足はキズだらけのDV状態。夜はわたしの敷きふとん内でゴソゴソ。
家中のそこここには捕まえて来た昆虫やムカデや蜘蛛の残骸だらけだ。
まだ来てから一月半なのに、すっかり俺ん家という態度でのさばっている。
この先、保育園も学校も行かない、したがって宿題もない。
しかも何の役にも立たないのが、猫である。

家の回りは四方を山で囲まれている。毎朝山にかかる霞や雲をみて、お天気状態がわかるようになった。遠くから響き渡るミキィーン、ミキィーンという雄シカのよび声は恋の季節の到来だ。めったに人前には姿を見せないがイノシシやシカ、タヌキ、カラス、トンビ、サル、リスなど鳥や野生動物がひそんでいる。
ノラというより野生猫や野犬もいるらしく、家猫といえどもいったん外に出れば危険いっぱいである。が、子猫が家の回りの畑で走り回っている様子やトンビが上空にくるとサッと身を隠すところを家のなかから観察していると、さすがに産まれた場所のDNAはあるようで危険を察知する能力が高い。
家からは出さないように、と動物病院の小柄な医者から言われたが、そうはいかない。この環境の中で、土砂崩れが起きようが地震がこようが私と生き別れしようが、一匹でも死ぬまで楽しく生きて行けるように育てるつもり。
何の役にも立たないけれど。

台湾とインドネシアのポテヒ(布袋戯)

冨岡三智

9/17〜23まで、事業「アジアの人形芸能:ポテヒ(布袋戯)日本公演 ―台湾とインドネシアから―」の実行委員として関わってきた。というわけで、今回はそのお話。

まず、この企画は大正大学教員の伏木香織氏の発案によるもので、日本、台湾、インドネシア、マレーシア、シンガポールの研究者による国際プロジェクトである。中国福建省にルーツを持ち、台湾や東南アジア(インドネシア、マレーシア、シンガポールなど)にかけて広がったポテヒ(布袋戯)指人形劇に関する共同調査をして、まずは最初の成果をこの9月にシンポジウムとして発表すると同時に台湾とインドネシアのポテヒを日本で紹介し、来年以降に出版とDVD発売をし、さらに他の国々でも関連事業が始まる予定だ。

今回日本に招聘したポテヒ団体は、台湾は台北の台原偶戯団とインドネシアは東ジャワ州のFu He An(漢字表記では福和安)。台湾ではポテヒが国を代表する文化表象となっていて、ポテヒ専用のテレビチャンネルもあれば、ポテヒのコスプレをする若者もいるという。つまりそれだけポテヒが娯楽として浸透し、そのぶん新しい影響も受けている。台原偶戯団はその中にあって伝統的でクラシックな路線を維持しているが、オランダ人の芸術監督、ロビンのもと30か国以上で公演し、創作も多く手掛けていて、日本でも2009年に『SPAC春の芸術祭2009』(静岡芸術劇場)に招聘されている。一方、インドネシアでは2000年代初めまでの30数年間、華人文化が禁止されていて、専門家にもインドネシアにポテヒがあることはほとんど知られていない。今回、海外初公演となるFu He Anは、厳しい政治の下、ジャワの田舎の寺廟で細々とポテヒを継承してきたので、意外に古い要素を伝えている。けれど、言語はインドネシア語に置き替わってしまっているというのが他国でのポテヒ継承状況と異なる点だ。

台湾の上演メンバーは2人の人形遣いと演奏家兼歌手の3人で、うち2人は女性という構成。インドネシア組は2人の人形遣いと3人の演奏家で全員男性、メインの人形遣いが語りもする。2団体の特徴をざっくり比較すると、イケメン・ヤング台湾組と、メタボ・おっさんインドネシア組である。もっとも、インドネシア組には今回の滞日中に26歳になったというイケメン・ヤングが1人いて、彼が両者をつないでいた感がある。

上演内容で比較すると、台湾組は古典作品をオムニバス風にアレンジし、語りがなく音楽・歌と人形さばきで魅せる舞台。美しい歌声にのせて美男美女人形が繊細に動くシーン、人形が煙草の煙を吐くシーン、華麗な手さばきで演じる戦いのシーンと、短いながらも変化のある場面をテンポよく展開する。二胡代わりのバイオリンの音は甘美で、男性や女性の歌声は官能的で、そのメロディーがずっと耳に残る。美しいなあ〜、こんな世界もあったんだなあというのが正直な感想。

一方、インドネシア組は伝統的なポテヒのやり方で、1人の人形遣いが声色を変えて全人物を演じ分けながら、物語をずっと語り続ける。その点はワヤン(影絵)とも共通している。最初は王や大臣が出てくる重々しいシーンから始まって、最後は戦いのシーンというのもワヤン(影絵)の展開に似ている。1人の人形遣いによる語り芸というのは、ワヤンを知る人には珍しくないのだが、この種の芸を初めて見た人にとっては驚きだったようで、とにかく語りの迫力に圧倒されたという感想をいくつも聞いた。音楽は二胡も使うけれど、打楽器やチャルメラの音が目立ったかもしれない。台湾の洒落た演出と比較すれば素朴な展開だが、インドネシアの舞台は終わったあとに何か心に残るものがある。それは何だろうと思ったのだが、もしかしたら心象風景にあるお祭りのイメージをかきたてられたからかもしれないと思い至る。いつも春頃に廻ってきた神楽の笛や鉦の音、秋祭の雑踏…。そういうものを楽しみにしていた子供の頃の自分が蘇る。そういえば、神楽や秋祭を担っていたのも、こんなおっちゃんたちだったなあ…。

こんな対照的なグループだが、それぞれに事業から得るところがあったようだ。インドネシア組は長らく内内でポテヒを継承してきたため、自分たちが伝えてきたポテヒの福建語の部分(人形の登場シーンで使われる詩)の発音がどの程度正確なのか、不安があったようだ。(台湾の人たちは、自分たちと同じ語りだ、意味も分かると言っていたけれど。)その発音を台湾に行ってきちんと習いたいとか、台湾の人形遣いの技を習いに行きたいとか台湾グループにいろいろと相談していたので、それが実現すると嬉しい。一方、台湾組は台湾組で、インドネシアのポテヒの古さを発見したようだ。インドネシアでは、人形遣いは座って上演するけれど、台湾グループは立って上演する。けれど、台湾の人形遣いのLaiさんによれば、彼の師匠のお父さん(=李天禄氏)世代までは座って上演していたらしい。その世代のやり方がインドネシアにはまだ残っていて、人形舞台に照明をあてるやり方など、グドの舞台は台湾の古いポテヒのスタイルと同じだと言う。それから「ジャワのワヤン・ポテヒ」の本に採録されているFu He An団長のコレクションの古いポテヒ人形の中には、中国のものだけでなく明らかに台湾にしかないデザインの人形もあると指摘していた。またロビンは、インドネシア側が何のキャラクターか分からないと言いつつ展示していた人形頭部の1つを指して、これは台湾では劇神の人形だよと指摘していた。インドネシアでは劇場と関係の深い神への信仰も弾圧されたので、分からなくなっていたのだろう。

東京と横浜で合同で公演やワークショップをしてきた彼らも、最終日の23日は台湾組が東京で、インドネシア組は奈良県で別々に公演。私はインドネシア組についたのだが、22日の夜、奈良の宿泊施設で皆の部屋から聞こえてくるのは台湾組のポテヒの録音の麗しい声。まるで台湾の宿に泊まったみたいだった。皆も台湾組と離れてちょっと寂しくなったのかもしれない。翌日の公演後は、主催をしてくれたNPO大和社中の人たちと一緒に懇親会をしたのだが、社中の人たちもおっさんばかりだったので、普通の酒盛りのノリになる。社中の人たちから、おそるおそる「1曲だけ自分たちのために二胡を弾いてもらえないかな…」と乞われると、待ってましたとばかりに演奏が延々と始まり、社中側からも手拍子が始まってやんやの騒ぎ。日本側が「二胡があると、お酒がすすむね〜」なんて言えば、インドネシア側も一升瓶を抱えてグビグビやっている。それまでも、毎日のイベントが終わると台湾組とインドネシア組の演奏家たちの間で即興演奏が始まっていたのだが、あくまでもセッションと言う感じでこういうノリではなかった。もっともお酒も入っていなかったが。都会派の台湾ヤング組がここにいたらどんなノリになったんだろう…。「おじさんは嫌ね…」とか思われたかも。

●事業の公式サイト
アジアの人形芸能:ポテヒ(布袋戯)日本公演 ―台湾とインドネシアから―
http://potehi2014japan.blog.fc2.com/

橙の影

璃葉

橙色の帯 西の空へ伸び 沈んで 枯れてゆく
重く冷たい風が吹き 背中にのしかかった

地上の色を こっそりと土が抱え込むとき 秋は終わる
秋が終わる前に 橙の影が隠れている道を歩いた
ぼくの足音をきいて 鈴虫はしん、と黙った

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“冗談”を真に受けて

若松恵子

東京の下北沢にある本屋さんB&Bで4月から毎月1回開催されてきたイベント、『片岡義男と週末の午後を』の9月13日のゲストは町山智浩さんだった。6回シリーズの最終回にふさわしく、愉快に盛り上がった2時間半だった。このシリーズは、作家の川崎大助氏が構成、司会を担当し、4月はブルータス編集長の西田善太さん、5月は作家の堀江敏幸さん、6月は写真家&作家の大竹昭子さん、7月は翻訳家の鴻巣友季子さん、8月は翻訳家の小鷹信光さんをゲストにむかえた。毎月1回の週末の午後は、あっという間にめぐって来たけれど、春が過ぎ、夏が来て、秋になり、季節は確かに過ぎた。お気に入りなのか、同じデザインのシャツで通した片岡さんとすごす特別な土曜日だった。

町山智浩氏は1962年生まれの映画評論家。B&Bのホームページに掲載された前口上によれば、―『宝島』編集部を経て『映画秘宝』を創刊、渡米後も大活躍の町山さんは、「テディ」時代から片岡義男作品を愛読していました。拳銃、アメリカ犯罪小説、ビートルズ、オートバイ……若き町山さんが「片岡義男というフィルター」を通して垣間見た、まばゆいばかりの「男の子文化」の世界とは何だったのか? 神保町古書店片隅のペーパーバックから現実のアメリカ大陸まで、ポピュラー・カルチャーを足がかりに駆け抜けた先達(片岡さん)と後輩(町山さん)が、熱く語りつくすもろもろ、たっぷりお届けします。―との事だ。

町山さんの片岡作品との出会いは、KKベストセラーで発行されていたジョーク本だったという話から対談はスタートした。1974、5年頃、小学校でジョーク本のブームがあって、片岡さんがしとうきねお氏と組んで作っていたジョークやいたずらの本が好きだったという。その後片岡訳の『ビートルズ詩集』のお世話になり(安い洋盤を買っていたので訳詩が付いていなかったのだ)パイオニアのCM「ロンサムカーボーイ」の影響を受けて、荒野で缶ビールを撃ってみたくてアメリカに渡ったというのが町山氏の物語だ。
さあ、色々と聞いていきますよという矢先に、片岡さんは、やわらかい声で「みんな冗談です」と静かに言ったのだった。あれを真に受けたの?と、やさしくなだめるように。いたずらが成功した時のようにうれしそうに。

真剣に聞き入っていた話を「冗談だよ」と言われたら、普通は「なーんだ」とがっかりして、ちょっと怒ってその話を手放してしまうものだけれど、片岡さんに「冗談だよ」と言われるならば「ええ、分かっていました」と、できれば共犯者的な笑顔でその言葉を受け止めたい。町山さんも「冗談」と聞いて、がっかりしているようにも、もちろん怒っているようにも見えなかった。
片岡さんが”冗談”に独特の意味を持たせているのは分かったので、注意深く耳を傾けていると、映画「激突」のおもしろさについて話している時に、冗談とは「抽象的な高みにあがること」という言葉がつぶやかれた。リアリズムの世界に張り付いて生きるより、”冗談”によって現実から浮き上がった方がおもしろいよという事らしい。笑い飛ばせる距離まで現実から離れること、それが抽象化ということなのだろうか。
片岡さんの”冗談”を真に受けて、拳銃やアメリカを体験した町山さんだが、片岡作品を追体験してみて、「なんだ、実際は違うじゃない」と思う事はなかったと話していたのも印象的だった。片岡さんによれば「”冗談”を成立させるためのリアリズムですから」ということだ。

イベントも終わりに近づき、鞄を持って退場という頃に話された、ロックンロールについての話も心に残った。町山氏は、片岡さんが「ロックとは嫌なんだ、嫌だと思う事だ」と書いていたのにとても影響を受けたと語り、映画を見たり、音楽を聴いたりして好きなもの、嫌いなものがあるけれど、「自分は現実を肯定しているものは嫌なんだと分かった。現実を肯定するなら、芸術は要らないじゃない?」と語った。それを受けて片岡さんは「町っ子がロックに行き、田舎にいた子はブルースマンになった。町っ子はティーンエイジャーとして守られた時代があるからロックンロールに行った」と話していた。「町っこがやってられなくて、西部に行ったのがビリーザキッドだった」という片岡さんの言葉に対して、町山さんは「ロックが出た時、反抗の手段が初めて銃でなくなった」と返していた。町っ子(シティボーイ)の片岡さんもティーンエイジャーとして守られていたから、冗談を言う余裕があった。片岡さんにとっては、銃ではなく、言葉だったのだろう。

風が吹く理由(6)プラットフォーム

長谷部千彩

「この子ができてから」と言って彼女は、また西瓜のように丸く突き出たお腹をさすった。きっと無意識のしぐさなのだろう。何度も何度も、彼女はまるで占い師が水晶玉にかざすかのように両手でお腹をさすっている。目のやり場に困り、私は彼女の肩の向こう、通り過ぎていく老女を眺めた。出産に話の矛先が向かないよう、注意深く言葉を選んでいるつもりなのだが、うまくいかない。臨月の妊婦にそれ以外の話題を強いるほうが無茶なことなのかもしれない。

彼女はここ数年、私の最も身近な友人だった。お互い仕事を持っているから、頻繁に、とまでは言えないけれど、それでも時間に都合がつけば、一緒にお茶を飲んだり、美術館で絵を観たり、時には小旅行へ出かけたりもした。女同士のたあいない、ありふれたつきあい。それは、女友達が少なく、音楽業界という男社会で働いてきた私にとって、新鮮な、そして楽しい経験だった。

妊娠したことを知らされた時、彼女が子供を欲しがっていることは知っていたので、素直に、良かったね、と思った。そして、そう彼女に言った。あの時、私は、おめでとうという言葉を使っただろうか。使わなかったような気がする。「もう子供がいなくてもいいかなと思い始めている」とこぼす横顔を見ていただけに、私には、「良かったね」が、何よりふさわしい言葉に思えた。
「これから生活が変わるだろうから、あまり会えなくなるね」と私が言うと、彼女は、私の言葉を打ち消すように、そんなことはない、むしろ身軽なうちに、行きたいところに行って楽しむつもりだ、と笑っていた。

彼女は私の家の近くに建つ総合病院を産院に選び、検診の後にはふたり落ち合って、午後の数時間、お喋りを楽しんだ。そこだけ切り取れば、それまでと変わらぬつきあいではある。しかし、最初は、しきりに、子供が生まれるという実感がない、と言っていたのが、数週間も経つと、彼女の話は、出産への不安や子育てへの緊張に内容が移っていった。
私の妹は二児の母だが、こちらが気を揉むほどあっけらかんとした様子で出産までの時間を過ごしていたこともあって、私は、彼女のナーヴァスな表情に驚き、内心戸惑っていた。力になってあげたいけれども、出産経験のない私には、リアリティのない話ばかりだし、体調のこととなれば尚更で、同じ女の体を持っていても、共有できる悩みとは言い難い。子宮、胎内、妊娠中毒症、バースプラン、帝王切開・・・馴染みのない言葉に、私は相槌を打ちながらも、ごめん、悪いけど全然わかんない、と心の中でつぶやいていた。そして、ぼんやり、早く生まれてくれないかなあ、と考えるのだった。
子供が生まれたら、数年の間は怒涛の勢いで日々は流れていくだろう。その流れの中には苦労も感動もあるだろう。そして、そのほとんどは私に無関係なことだろう。私たちは、私たちが互いの話し相手だったことをたぶん忘れる。それが一時的なことだとしても。そう思った。そして、ならば、そのことに、つまり、彼女の話し相手の、もはや私が適任者ではないことに早く気づいて欲しいと、私は祈るような気持ちで願っていた。

そう思うには私のほうにも事情があった。いままでこうして女友達と過ごしていた時間を、これを機会に仕事に振り替えようと考え、数年前から温めていた企画を形にすることにしたのだ。彼女のお腹の中で小さな命が目鼻をつけ、四肢を伸ばしている間、私は新しい人間関係を築き、その準備に取り掛かっていた。私の生活も、日々、何かしら変化があり、刺激に満ちている。しかし、その喜びを報告すべき相手は、彼女ではないような気がした。彼女の頭の中と私の頭の中には、違う景色が広がっているのだ。

まるでプラットフォームにいるみたいだと思った。友達を乗せた列車が発車するのを、私はプラットフォームで見送ろうとしている。出発時刻まであと数分。早く出発してくれないかな、そう思いながら、発車のベルが鳴るのを待っている。いま感じている気まずさは、あの気まずさによく似ている。そして、私には、列車を見送った後、向かう場所が―既に約束があるのだ。
車窓が遠く流れていくとき、ひとは別れの寂しさよりも、やっと行ってくれたという解放感を味わっている。私もそこに佇むことなく、踵を返し、階段を駆け下りるだろう。タクシーに飛び乗って、待ち合わせの喫茶店に向かう。素早く相手の姿を探し出し、「遅くなってごめんなさい」と謝ってアイスコーヒーを頼む。私はバッグからタブレットPCを取り出しながらこう言うだろう。
彼女にも。私にも。すべての人が持つ未知なる明日。
「この間、持ち帰った件だけど、いいアイディアが浮かんだの」

119 アカバナー4 ぴー

藤井貞和

「師父よもしもやそのことが
口耳の学をわずかに修め
鳥のごとくに軽跳な
わたくしに関することでありますならば」……(野の師父)
と、宮澤賢治はここまで書いて
「軽跳」という語でよかったか
誤字のような気がするし、と
でも藤井さん、軽跳でゆきましょうや はは
と賢治はわらう、振り返りながら

「そのこと」とはなんでしょう、賢治さん
作物への影響
二千の施肥の設計
そうね、施肥と「風のことば」(のどにつぶやく)

わらうはずはないね、藤井さん
前月にはあけがたの奈良の鹿のぴー 尻から出すおならの音で眼を覚まし
今月は「かげぐち」とたたかいましょう、百の種類と言いました
わあ 百も数えるのです。 しかも「思いを尽くして
ついに知り得ぬものではありますが」と
賢治は言います。 ぴー、知り得ぬことと知りながら
でも一つ一つ、畝に沿って播種のように
施肥を続けましょう、この世への施肥

(富山妙子さんのイベント「海からの黙示」へ出かけました。シカゴ大学のノーマ・フィールドさんたちのサイトには富山さんの絵が使われています。ゲーテの「魔法使いの弟子」たちが集まりました。富山さんは言う、「3・11からあとの日本社会は、厳粛な祈りの時にあって、近代が犯した何かを、償おうとしていたし、私〈富山さん〉も絵をかき続けた。それが一年も経つと、どうだろう。近代が滅んでゆく。ぶちこわしてゆく日本。それでも次代への贈り物をかき続ける」と。制作を始めて二年目、異形の蝶の死が発見されたという。「死して成れ、蝶よ」と、苦境にあるときのゲーテからのメッセージだと言う。すみません、曖昧な聞き取りで。鎌田さんは大きなスクープ「吉田調書」を押しつぶす一斉の反朝日キャンペーンとは何だろう、と問いかけていた。私もここに書いておこう。いちえふ(という漫画がある)から第二原発へ逃げてどこがわるい。おれだってヒラだから逃げるよ(とあのときおれもシンクロしていた)。東電社員の名誉が傷つけられた? 吉田はあとからであろうと「2Fに行った方が正しい」(幹部は別だろうけど)と、それを朝日が報道する理由はあるし、近代百年、新聞が「ごめんなさい」をさせられてきた数ある歴史のなかで、このスクープから調書が出てきた意味はもの凄く大きいね。三十年後に公文書館から出てきたって意味ないんだ。というより、国立公文書館あたりに眠る「資料」類はいろんな隠蔽工作の結果どもなんだから。そうさせなかった、今回の歴史への関与は新聞の役割そのものであり、施肥(ではない、是非)高く評価しなければ。)

避難民の死

さとうまき

夜中のフライトで、アンマンからアルビルに飛ぶ。飛行機の中で夜が明ける。地平線から真っ赤な太陽が顔を出すとあっという間に、周りは明るくなる。9月も終わるというのにまだまだ日差しが腕に刺さってくる痛さ。

クルディスタンについて真っ先にキリスト教地区の避難民テントに行ってみる。「イスラム国」に追われて逃げてきた脳腫瘍の男の子アーサー君は生きているだろうか。仮設テントのベッドの上でほとんど意識もなかった彼が元気になっていたらそれは奇跡だろう。
「アーサー君は?」「10日前に亡くなったよ」
やっぱり奇跡は起こらない。

数日後、僕たちが支援している小児がんの病院に行き、担当のペイマン先生と話す。ベイジというところから避難してきているアハマド君のことを思い出した。ベイジは石油の製油所がありイスラム国が支配している。
「アハマッド君は?」「20日ほど前に亡くなりましたよ」

アハマッド君のお父さんは、精製所の中で、園芸の仕事をしていたけども、アハマド君を連れてアルビルまで逃げてきた。アハマド君は再生不良性貧血で化学療法を受けていたが、薬の効き目がなく海外で骨髄移植するしか生きる望みはないとのこと。僕はペイマン先生に呼ばれて、「お父さんがお金は何とかかき集めると言ってる。問題は、海外に行くためのパスポートをイラク政府が発給してくれないのよ。何とかならないかしら」と相談されたのだ。

イスラム国が勝手に国を宣言してパスポートを発給するというから、バグダッドのパスポートセンターは、ベイジにいる人間はイスラム国のパスポートを使えと突き返したのか? それで僕は怒りに震え、パスポートを持つのは当然の権利。人道的な理由から即座にパスポートを出すべきである趣旨を書いてあげた。ぼくのレターがどれだけ効き目があったのかわからないが、9月頭に会った時は、お父さんはうれしそうに、「パスポートは発給してもらえることなったんだ」といっていた。「私がインドの病院と話をつけてあげたの。骨髄のマッチングも彼の弟で90%でしたので、お父さんも車を売ってお金の準備を始めました。」後はパスポートだけ。しかし、その前に、アハマッド君は体調が急激に悪化し、亡くなってしまった。翌日、イラク政府からパスポートが届いたという。

他にも「あの子はどうしてますか?」と聞きたい子どもがたくさんいるが、聞けなくなってしまった。

JIM-NETでは、10月25日から11月8日まで活動10周年を記念したイベントを開催します。
詳しくはhttp://jim-net.org/blog/event/2014/09/2.php