加齢か

仲宗根浩

九月、まだ蝉はうわんうわん鳴いている。とても久しぶりに日曜日、仕事休みになったので子供の自転車を乗る練習のため運動公園に行く。まだ灼熱の太陽の下、一時間ふたりで自転車で遊んだら汗だらだらになる。運動公園の沖合い、開発のための埋め立てはすでに人工ビーチが完成したと、ニュースでやっていた。見晴らしがわるくなっている。

そんな九月に運動会、なんでこんな時に。それも最低気温は二十七度、最高気温三十二、三度の日に。日差しは容赦なく、二十分くらい太陽を浴びると顔と腕は真っ赤か。日焼け姿がまた間抜けでめがねをかけている目の周り以外赤く、コントの酔っ払いメイクみたいな状態が四、五日続く。太陽の下は疲れる。

今年からか、病院に行くことが多くなった。子供がちょこっと入院したり、身内の入院だだったり。七月あたりからはおのれ関係の通院。今年に入っていつごろだろうか、右肘に軽い痛みがあり適当にほっといていたのがだんだんと、「えっ!」ということになった。日常の動作が思うままにいかなくなった。まず歯を磨くときの右腕の動き、そしてお風呂で身体を洗うとき、肘の運動がつらくなる。こういうときに身体の日常の動きがどういう角度やひねりかたをしているかあらためて認識しはじめる。食事のとき、車の運転でもだんだんと痛みが出るようになり、病院に行く。骨には異常がないため腱が炎症を起こしてるという診断で痛み止めの飲み薬と湿布を処方される。飲み薬の注意書きに酒飲みはこの薬を服用すると肝臓が悪くなるので、薬を飲んでいる間は酒を飲むな、と書かれていた。我慢できない痛みではないので飲み薬は捨てる。まわりもだんだんといい齢になってきているので自分だけガタが来ないわけはない。今月で通院はなんとなく終わったのであとは適当にちょっと前とは違う肘とつきあうことにする。

青空の大人たち(4)

大久保ゆう

 やはり物事は仙人から教わるのがよい。仙人というのは会えるんだか会えないんだか話が聞けるんだか聞けないんだかあやふやで山奥にでも棲まっているというのが相場であるけれどもこの場合は尖った山ではなく海の向こうでむしろ電子の彼方と言おうか、いわば電子の歌姫ならぬ電子の仙人といった趣である。
 スティーヴという名のおじいさんはこちらからしてみれば文字しか見えないため本当におじいさんなのかすらわからないのだがおそらくはその含蓄ある物言いから相当の年齢であることは自ずと知られ、高校生の自分が何やら拙い英語でメールを書くやすぐさま理知的な教えをくださるたいへんありがたい存在であった。手元では調べのつかないこと、自分の考えの足りないところ、知識というものを、電子を介しながらろくに言葉もわからないような小童に平たく(あるいは簡潔に)伝えるそのさまは、受け取る生意気な小童にしても感銘を受けざるを得ない。
 趣味の関係からこのおじいさんとはつながりができたのだが、国内で同じ趣味を持つ大人たちというのは、とかく押しつけがましく妄想をたくましゅうするため、当時の自分はまったく理性的な話ができないとすこぶる不満であった。その趣味の中心話題たる架空の人物は、その時代にあってかなりの論理的思考を持つというのに、その人物を好きだとかいう人々がどうしてそのように非論理的であるのかさっぱりわからないといった風情の自分にとって、その仙人はほとんど初めてと言っていいほどに〈その人物〉に近い思考を持つ人であった。
 スティーヴ仙人が教えてくれたことはたくさんある。ソとスのこと、膝のこと、うら若き未亡人のこと、色彩と音楽のこと、研ぎ石のこと、友人と昔話をした日付のこと――ただ仙人はアドバイスというものを一度もしなかった。それまでに会ってきた同趣味の大人たちはみな一様にああした方がいいこうした方がいいと言い、自分も最初のうちはむしろそれを積極的に求めようとしていたふしさえあるのだが、やがてそれは忠告というよりも妄言といった類のものになっていき(あるいはそもそもからそうであったのかもしれない)、何かしら身勝手な理想へと近づいていくのだが、かたや仙人は指図めいたものを一切しなかった。指導すらなく、ひたすら問いに答えるといった風であった。
 問えば応え、問わねば応えぬ。霞ではなく電気を食べて生きる仙人は、むしろこちらの問いの質こそ試しているようにも思えた。ただ仙人を紹介してくれた女性によれば、くだらない雑談でも喜んでくれるとのことだったから、こちらがただ仙人扱いをしていただけだったのかもしれないが。そのポール・スティーヴン・クラークソンJrが亡くなったのはそれから五年ほど後のことで、六五歳だったという。想像していたよりは、若かった。
 ただその事実を知ったのは後年のことで、あわあわとした不安定な通信のなかで少年が育つにつれ仙人は電子の海に隠れたという印象しかない。ネットワークという霧に覆われた網の向こうにいる賢者だったが、実際には会えないという距離をしてやはり仙人然としたものに思わせたのだろう。少年とは勝手に学ぶ生き物であって、また少年もわきまえたものでうってつけの仙人を探しただけかもしれない。
 仙人とまでは行かなくても電脳の網でほんの少しだけ近しく接した多くの人々というのは妖精のようなもので、少年の主観から見ればひらひらふわふわと何かの拍子に寄ってきては何か会話なりいたずらなりをして物陰に去って行くそれである。思い返してみればいずれの相手とも今や通信はない。渦のある街で働いていたという上司嫌いのエルフの女性は元気だろうか。北の大地で看護士を目指していたらしいピクシーの女の子はどうだろうか。そのとき語った言葉とともに空気のなかへと溶けてしまった。
 しかしなかでもノーム種の男性については、いまだにひょっこり出てくるのではないかと思われるところがある。自分よりも一〇ほど年長で、かぶっている帽子のことを触覚だとして取ると死にますと言い張る人物であったが、その持ち前の知性と、大地の怒りとが、電子の潮の満ち引きのようにやってくるのが常だった。
 彼もまた同じ趣味・関心を持ってはいたが、いつも局外者で、山奥というよりは孤島にひとり棲まっている風情があった(むろん実際に住んではいない)。世を儚み隠棲しつつも、時には吠え、無知と不正義を呪った。彼からしてみても、当初は私自身も呪詛の対象であったのかもしれないが、混沌の周辺、漢語の使い方、コメディアンの真価について等々――幾度とない対立を経て、共感のようなものが生まれるようになる。
 やはり自分も彼にとっては何かしらの妖精であったのではないかと思われるふしがある。彼はやはり土らしく、ずんっ、ずんっ、といった振る舞いであったが、自分について考えてみると、どちらかと言えば風のように、そより、そよる、といった感じであったから、シルフのようなものだろうか。彼が私のことを、一種のそよ風や涼風のように楽しんでくれたということでもある。暑苦しく彼自身嫌う俗世間のなかを、あるいは荒れる怒りに熱っぽくなっている彼のそばを、私がたまにふわりと通りがかると、何やら彼は嬉しそうな反応をしたのである。
 そこで私は私で、彼の性格を知っているから、いじわるっぽく微笑むのであるのだけれども、そうしてみると電子の世界で妖精であるというのは、あながち悪いことではないのかもしれない。何かしらの場所に、そよそよと立ち寄るというのはむろん現実でも好むことではあるけれども、どちらかといえば現実ではさしたる姿として見えないが、仮想空間ではどうやら妖精然と具象化されるようなのである。
 孤島に立ち寄る風の精でこれからもありたいし、またゆくゆくは電子の仙人のような境地にも至ってみたい。物質的なものでないというのがやはり重要なのだろう。私たちの関係は、琥珀の力を通じて静かにつながっては切れるが、見えないからこそその道の始まりと終わりに互いにほのかな実存が観じられるというわけだ。

カラワン40周年ライブ

高橋悠治

9月27日の東京公演に行った。札幌や山口から来た人たちもいて、こんな時でなければ会うこともない人たちに、何十年ぶりの挨拶をかわした。

タイもすっかり変わったのかもしれないが、1974年にバンドができてから、何回かのクーデターや政変を経ても、スラチャイとモンコンの2人は活動を続けているし、それぞれ別なバンドも作って公演してもいるようだ。今度もまだ学生のコンカモンとスラチャイの息子カントルムという、オリジナルの歌を聞いて育った世代といっしょに演奏している。豊田勇造ともすっかりなじんだ音楽のやりとりがあった。農民も水牛もあの頃とはちがうだろうが、日が沈み、セミが鳴き、風や空があって、平和や自由ということばも、まだいきいきと歌えるのだろう。

ギターや、ゆるいリズム、タイ東北の限られた音をことばの微妙な抑揚で使いまわすメロディーはあいかわらずで、歌で世界のなかに立っている姿勢は、草のようにしなやかに見える。ゆったりしているが、スラチャイの声は細く高く、弱くて勁い。色っぽく、おかしくもある。モンコンの粗さを含んだ低い温かい声とは対照的で、この2つの声の出会いが、年月を経て削ぎ落とされたカラワンの歌をいまだに織りつづけているのだろう。同時代に出発した他のバンドは、アメリカのフォークの影響からぬけられなかった。不器用で政治性だけで聞かせていたそれらのバンドはもう聞かれない。「カラワン」だけは、その田舎っぽさでここまで生き延びたのだから、柔軟な姿勢もあるが、ユニークな音楽のちからが大きいのだろう。 「浮かれ騒いだメイドイン・ジャパンとU.S.A.のプラスティック・バンドが消えたあとも、貧民の牛車のキャラバンはすすむ」、という「カラワン」のテーマソングそのままに。

水牛楽団は10年も続かなかった。80年代の日本のバブル経済のなかで労働運動も市民運動もなくなってしまい、20年後に起こってきた別な運動とのつながりもない状態という外部環境のせいだけでなく、内部組織や考えかた・感じかたの不自由さで崩れたとも言える面がある。残っているのは電子領域の「水牛のように」というこのことばの場になった。「水牛楽団」の録音を集めてCDにしてみたときに、「こんなにへたで、ばらばらだ」と言われ、何となくそう思っていた音楽が、ずれと多様さを生かす一つのモデルとしていまだに使えるという感じがした。しかし、グループもなく、それを支える人びとはない。音楽はちがう場所に隠れている。

日本では、自然とか平和主義というだけでウソに聞こえ、だれともしれないあぶらぎった顔まで浮かんでしまう。微笑みの裏に暴力をひそませているタイの権力と、偽善と絆という拘束で支配する日本では 音のかたちもちがう、とふだんは思っているが、こんなに単純で繊細な声を聞くと、ちがう状況でも、まったくあたらしいあらわれのなかに、この声を生かせないかと思うときがある。

薄明の時間

璃葉

ある日の夕方、散歩の帰りに立ち寄った公園の広場の地面に、ガラスの破片が広く飛び散っていた。
三角、四角、台形、三角、三角。無色透明、薄緑、黄、薄ピンク。
割れる前は一体なんだったのだろう。
            ぱきぱきぱきぱきぱき  
かけらを観察しながら歩き回れば、ガラスは踏まれて更に細かく割れていく。

「46番地はどの辺りでしょうかね」
広場の向こうから見知らぬ婆さまに道を尋ねられる。
姿はなんとなく視界の隅に入っていたけれど、何も意識はしていなかったから、声をかけられて一瞬怯んだ。
婆さまはユリの花束を、何にも包まず心臓の辺りに抱いていた。
どこかで切って摘んできたのか、ポケットから木ばさみの取っ手が見えている。
茎から伸びた細長い葉が皮膚にちくちくあたっているようで、少し痒そうにしていた。花びらはしっとり青白く、ひとつひとつが大きい。
目的地の住所を書いた紙を見せてもらうと、住んでいるアパートのすぐ近くだった。
道順を説明すればすんなり理解したようで、彼女はニコニコして礼を言うと、少し早足で一本道を歩いていった。
薄明の時間帯は、度々不思議な人に出会う。
明日には片付けられてしまうであろうガラスの破片をしばらく見つめて、
光源のない空の下、家路につくことにした。

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戦時下のクルディスタン

さとうまき

先日伊勢市で講演を頼まれた。「戦争の悲惨さを伝えてください」とのことだった。

今の戦争はえげつない。たとえば、Iraq, Syria, beheaded というキーワードで検索すると、「イスラム国」が、敵の兵士や民間人を斬首する映像が出てくる。僕たちの支援している難民たちは、こういった恐怖から逃げてきた人たち。今起きてることをしっかりと伝えなければとプレゼン資料を作ってみたが、あまりにもえげつないので、出せない。

クルド自治区は、ペシュメルガと呼ばれる軍隊がしっかりとガードを固めているので、「イスラム国」は手も足も出ないだろうとの見方も崩れ、8月6日には、ペシュメルガも100人以上が殺されてしまった。そして、オバマ大統領も重たい腰を上げて空爆に踏み切ったのだ。

ともかく、何とかしなくてはということで、日本でのスケジュールをすべてキャンセルして、8月20日に、アルビルに入った。アンカワという小さなキリスト教地区があるが、避難民でごった返している。教会の敷地内に設営されたテントや、立てかけのビルや学校が避難所になっている。親戚に身を寄せて、その日その日を乗り切っている人たち。約2週間目になり、日中は45℃を超える暑さ。夜になっても、さほど気温は下がらない。避難民たちもかなりイライラしている。

教会の前には野戦病院のテントが出来ており、カラクーシュという村から避難してきた脳腫瘍の男の子が横たわっていた。アーサー君11歳だ。一年前に手術をして様態はよくなっていた。ところが6月、「イスラム国」とペシュメルガの間で戦闘が始まると、アーサー君は爆発音や銃声におびえ、おじいさんに抱き着いて震えていたという。いったんは、アルビルに避難したが、6月26日には状況が落ち着いたので、カラクーシュにもどった。しかし、体調がどんどん悪くなり、痛みで立てなくなってしまった。8月5日、アルビルでCTを取った。800ドル払わなければならなかった。カラクーシュに戻ると、翌日には、「イスラム国」が攻めてくるので、ペシュメルガが撤退するというのだ。あわてて、子どもたちと一緒におじいさんの家まで避難した。しかし、すでにペシュメルガが撤退を始めており、車を見つけることができず、一家は孤立してしまった。親せきが、キリスト教の民兵に連絡を付けて、車を回してくれた。すでに夜の10時を過ぎていた。家族13人が2トン積みのトラックの荷台に乗り込んだ。アーサーは痛がって泣いていた。

そして、カラクーシュを出発し、最後まで残っていたペシュメルガの車が自分たちのトラックを追い抜いて行った。朝方2時30分に、ハーザルというアルビルに入る検問所で止められ、車は中に入れないというので、一夜を明かす。そして翌朝10時に、お父さんはアーサー君を担いで1キロ歩き、アルビル行きのバスに乗り込んだ。家族で膝にマットレスをのせて、その上にアーサー君を横たえた。アルビルにつくと、すぐに病院に連れて行ったが、がんが全身に転移しておりもうどうしようもないといわれた。4日間入院したが、家族と一緒にいたほうがいいだろうと、教会の避難所に戻ってきた。しかし、テントもない状況だったので、近所の人がアーサーを引き取って休ませてくれた。私たちも変わりばんこで様子を見に行った。しかし、いつ死んでもおかしくない状況だ。近所の人たちも、様態が悪化したらどうしようもないので、これ以上面倒を見るのをいやがった。ちょうど数日前に、避難所に野戦病院のテントができたので、アーサーは、そこで寝ている。ヨルダンの医師が野戦病院に様子を見に来てくれる。アーサーは日増しに様態が悪くなっている。

今回、私は、さらに北上して、ザホーやドホークに避難しているヤジッド教徒(ゾロアスター教に近い)の避難民への支援も実施した。そこでは、建築中のビルなどいたるところに住み着いている。その数は12万人を超えているという。まずこの数に驚く。焼け石に水と揶揄されようが、ともかくこの暑さ、水を持っていくくらいしか手がなかった。間もなくUNが大規模な支援を開始すると聞いている。状況が改善されることを期待するしかない。9月になったら、また出直す。アーサー君にも再開できるだろうか?

霧と生きる人びと

スラチャイ・ジャンティマトン

庄司和子 訳

白い霧がたちこめる早朝
大柄の雄鶏が時を告げると
シャモ(軍鶏)も競って応える
タイ(泰)族の目覚めは早い
シャンステートの夜明け
近づいても誰も見えはしない
どのように暮らしているのか
どのように食べているのか
タイ族の最後の砦
誰もが力を合わせて
護っている

朝飯は霧と食べる
手を伸ばしてもあるのは深い深い霧
霧よ 幾年を経ても
天と地と人を包んでいる

涙が流れ続けた
哀しみは
誰も望まない
誰も欲しない
こころはずっと闘ってきた
タイ族は誰もひるまない

霧と生きる人びと
霧の中にも火はある
こころの中に消えやらぬ火が
シャンステートの人びとの主権

兄弟たちよ、歌をうたおう
みんなでうたえば力が生まれる
生命は希望を失わない
太陽がそうであるように

日の光よ わたしたちを照らして
哀しみと血と涙とを
溶かしてほしい
タイ族よ闘おうではないか
大地、大空、そして呼吸
タイ族よ闘おうではないか
大地と大空がタイ族のものとなるように

注:シャンステート=ビルマのシャン州のこと。泰族(タイヤイ族)の居住地

お盆より早い旧盆

仲宗根浩

今年旧盆、旧暦の七月十五日は八月十日。内地のお盆より早く終わったためか、まわりも夏の終わりが早くなったようだ。地元青年会のエイサーに参加している女の子が旧盆後の最初の週末の行われるエイサー大会が終わり一言、「わたしの夏は終わりました。」旧盆前に帰省した息子くんは羽田で第一ターミナルで搭乗すべきものをずっと第二ターミナルにいて予約していた便に乗り損ね。別便で沖縄着。昨年、一人で沖縄と東京を往復したのは奇跡だったのか! 不思議なやつ。

八月十五日、地元紙の一面は十四日、辺野古沖に埋め立てるところへのブイ設置記事のみ。終戦の見出しは一面の目立つとろに無し。十三日の新聞は沖縄国際大学に米軍ヘリ墜落から十年を大きくあつかっていた。

CDラジカセを入手した。これでパソコンをプレイヤー代わりにしなくてもよくなった。オーディオマニアでもないのでこれで十分。パソコンに取り込んでないCDも手軽に聴くことができる。例年通り、奥さんと子供は実家へと里帰りの間、ひとりで大音量。七十年代のナイアガラ、コロンビア時代のデューク・エリントンを堪能する。デューク・エリントンはヴォーカルとかバックにたつとアレンジが良い、というビッグ・バンドのあるべき姿を確認。この前入手し、中学生の頃手元になかった、ツェッペリンのセカンドをちゃんと聴きなおすといろいろと新しい発見というか気づいたことと同じようなもの。「リヴィング・ラヴィング・メイド」は初期のライヴでやっていたエディ・コクランの「カモン・エヴリバディ」ではないかと勝手に推測とか。六十年代末の音源を聴くとステレオのギミック的なパンを多用する曲が多いので車の中で再生すると気持ち悪くなる。

そんななか、だんだんと夜中は涼しくなっていく。

お葬式の写真

冨岡三智

なんだか、私のエッセイにはお葬式関係の話が多いような気もするのだが、最近もジャワで何人か高名な舞踊家やダランが亡くなり、なんだか書いてみたくなったのでまた1つ…。ジャワでは、お葬式風景を写真に撮ることはよくある。祭壇、出棺の様子、参列者の様子だけでなくて、遺体と一緒に記念撮影というのもわりとするみたいだ。私の舞踊の師匠の家や知り合いの家で、そういう写真を見せてもらった。また、1998年、私の舞踊の師匠の旦那様が亡くなったときには、サルドノ・クスモ氏が来て、せっせと写真を撮っていたのが記憶に残っている。故人はサルドノ氏の舞踊の師匠だったから、ジャワの基準ではサルドノ氏が写真を撮るのは変でもなんでもない。しかし、このときは私にとってジャワで2回目に経験したお葬式だったので、当時は驚いたものだ。いま、インドネシアではフェイスブックが盛んなので、お葬式の写真もよくアップされる。故人の死に顔の写真もあるから、遺体の写真を撮るのは良くないという感覚は、あまりない気がする。

そういう私は、昨年父が亡くなった時に、枕経をあげるところから折々に葬儀と遺体の写真を撮った。葬儀の流れを記録に残しておきたかったし、ジャワのように写真に撮ってもいいじゃないかという感覚になっていたからでもある。けれど、自宅でいる間は良かったが、告別式の時に時折シャッターを押すと、他の参列者や葬儀社のスタッフからの白い視線を感じる。「ご遺族様」が一番前でカメラを構えているのはさすがに目立つのか…。父の告別式は斎場と火葬場が併設された所で行ったのだが、告別式の後、葬儀社の人に「火葬炉は神聖な所ですから写真を撮らないでください」と言い渡されてしまった。後日、同世代の僧侶2人に会うことがあったので、葬儀の写真について聞いてみると、いまでは葬儀社がサービスとして写真を撮ることもあるし、全然気にしないというのが彼らの弁。さらに、「え、火葬炉の前で写真は撮るのはだめなの?」という反応。ということは、火葬炉を神聖視するのは、宗教ではなく慣習の問題のようだ。

そうやって撮った写真もずっと見ていなかったのだが、最近になって取り出して見る。目を閉じた父の顔は、驚くほど祖父に生き写しだ。もっとも、祖父は私が小学校に上がる前に亡くなったので、私の記憶にある祖父の顔はアルバムの写真の顔なのだが、それでも首をちょっとかしげた癖がそっくりだ。年を取るにつれて、父は祖父に似てきたと母は言っていたけれど、最期には、なんだか祖父に同化してしまったような気もする。それがわかっただけでも、写真を撮ってよかったなと思える。

お葬式にはバチバチ写真を撮った私も、父が生前に入院したときには病院で一枚も写真を撮っていない。そのときの方が、なんだか撮ってはいけない気がしたからだ。その点は、私の感覚はジャワの人たちと少し違うのかもしれない。ジャワの人は、入院して面影が痛々しいくらい変わった人の写真も、案外フェイスブックにアップしていたりする。ジャワでは大挙してICUに入った人のお見舞いに行ったりするから、ありのままの病人の姿を見せることに家族もあまり抵抗がないのかもしれないし、むしろ遠方で来てもらえない人へのサービスなのかも知れない。全体として言えるのは、家族が病気や死をことさら隠そうとはしないこと。そして、本人と家族だけでそれらに向き合うのではなくて、共同体の皆で受け止めるという感覚があること。日本でお葬式の写真を撮ることに抵抗があるのは、死を厳粛で神聖なものだと思うからだが、逆に、死を忌避しているからだとも言える。

アジアのごはん(65)タイ米の味とクーデター

森下ヒバリ

7月末に引っ越しをして5日後にタイに来て、すこしのんびりしただけでタイとマレーシアでお仕事。ペナンでうだうだしてからエアアジアでバンコクのドンムアン空港に戻ってきた。

ドンムアン空港は以前は国内線専用だったが、いまはLCC格安航空会社エアアジアのほぼ専用空港と化している。今後はノックエアーなどほかのLCCもこちらに拠点移す方針らしい。ドンムアン空港は、タクシー以外の交通手段が市バスしかない。荷物を持って市バスに乗るのは大変だ。なのに空港のタクシーの質は大変悪く、友達が法外な料金を要求する運転手に口で抗議して突き飛ばされたこともあるほどだ。受付システムも合理的ではなくとても使いにくかった。

スワナプーム国際空港も公共タクシーのブースはあるが、そこで乗ったタクシーに何度遠回りされたり、メーター以外のお金を要求されたりしたことか。あきらかに覚せい剤をやっている運転手に当たったこともある。ホテルの場所が分からないふりをしたり、間違えたふりをして遠回りするので、道が違うと言えば、怒り出されたりとか。なんで、長旅に疲れ果てているのに、タクシー運転手の機嫌を取らなければならないのか。

一国の玄関口の公共タクシーがこれでは、観光客の第一印象は最悪である。どうにかしてほしいと前々から思っていた。今回、ドンムアン空港についてみると何やら様子が違う。飛行機が着くとほとんどの乗客がタクシー乗り場に向かうが、そこで一列で順番に並ばされ、タクシーが5〜6台づつやってきて、係り員の誘導で乗り込むシステムに変わっていた。これが早い。しかも横入りもなし。なぜこれが今までできなかったの? という簡単で合理的で早いシステム。これも現政権のNCPO(国家平和秩序維持評議会)の改革の一端らしい。

今まで両空港のタクシーの質が悪かったのは、ひとえに空港に登録するタクシーを中間搾取するマフィアの存在が大きかったせいだ。空港に乗り入れて客待ちするタクシーは登録して、手数料を払う必要があるが、さらにマフィアにも払わなければならない。その分を挽回すべく、運転手は料金を高く吹っかけたり、遠回りしたり、ぼったくり観光に勧誘したりと務めるわけだ。タイに着いたばかりの外国人がその格好の標的になる。

「NCPOも本気でいろいろ改革してるね」と思いながらタクシーに乗っていると、運転手がいろいろしゃべり始めた。故郷はロイエットで家は農業をしていて水牛は飼っているけど、もう田んぼの仕事は水牛は使わず機械でやってるとか。で、連れが「昨日テレビで見たけどプラユットが首相になったね」と言うと、がぜん張り切った調子で、「プラユットは駄目だ、軍隊の政治だ。選挙しないで首相になるのはダメだろ? な、なあ」と畳み掛けてきた。タクシーの運転手にはタクシン派支持者が多い。元締めのマフィアが利権を得るためにタクシン派と結びついていたので、その配下もだいたいタクシン派である。タクシー改革でみかじめ料を払わなくてもよくなったんじゃないのか? これまで払っていた運転手は、陰でやっぱり徴収されているのかもしれない。マフィアを通さない新規参入が増えないと改革はすすまないのかも。

8月の初めにタイに着いたときには、日本でマスメディアが報じているような「軍政」「クーデター」「戒厳令」から想像されるような気配はまったくなかった。ないどころか、町には中国系の観光客があふれ、道は渋滞し、以前のような猥雑なバンコクがよみがえっていた。4か月前までは、町のそこかしこが反タクシン派によって占拠され、お祭り騒ぎのようなデモが繰り返されていたので、車は少なく渋滞がなくてそれもよかったのだが、とにかく、バンコクはデモ隊がいなくなり、元の姿に戻っていた。

クーデターと言っても、実際に市民に銃をつきつけて軍隊を繰り出して全権を掌握したわけではない。むしろ、市民に一定望まれての登場、という形である。こういう形でしか、長らく続いたタクシン派と反タクシン派の対立は解決できないだろう、しかたない、というのがタクシン派以外の市民の気持ちであろう。もともとタイの政治にクーデターはついて回り、(さすがに最近は減っていたのだが)今回のプラユット将軍は歴代クーデターを起こした軍人の中でも、もっともまともな人物と思われる。今のところは、だが。

先日暫定議会から指名され、国王の任命を受け29代首相に就任したプラユット陸軍司令官は、高潔で正義感にあふれることで知られ、タクシン派と反タクシン派の国を分かつ勢いの国民の対立を解消し、対立の原因ともいえる国政の腐敗をなくすことを目標に掲げている。

タイの国政の一番の問題は、腐敗した政治、利権構造である。利権がはびこり、国家のお金が、国民のお金が莫大な規模で利権に群がる人々に吸い取られているのだ。なので、改革はまったくすすまなかった。それから甘い汁を吸うためにばかげた政策がまかり通る。この構造はタクシン政権時代以前からあったが、タクシンはそれを首相の立場をフルに利用して国家規模の利権をむさぼった。そのあまりにもひどい腐敗ぶりに怒った市民がタクシン追放を求め、タクシンを支持する人々と対立した。これが、ここ数年来のタイを揺るがし続けている政治問題の根本である。

5月22日に全権を掌握したプラユット将軍率いるNCPO(国家平和秩序維持評議会)は、次々と腐敗改革に乗り出した。まずはコメ買取制度の廃止。コメ買取制度は2011年から始まったインラク政権の肝いり政策だが、低い収入の農民を支援するために市場価格の1.5倍でコメを担保に融資するという、事実上の高額でのコメ買取制度だ。これを喜ばない農民がいるだろうか。農民のインラク政権への評価は高まった。だが、まず市場価格以上での買い取りには、法外なお金がかかる。その予算のめどもろくについていなかった上に、質を問わず買い上げたものだから、質の悪いコメが集まった。輸出価格を上げてみたところ、質が下がって値段の上がったタイ米の人気は凋落し、売れなくなった。2012年の輸出量はなんと従来の4割減。30年も世界1の輸出量をほこっていたタイ米が3位に転落した。さらにカンボジア・ラオス・ビルマから密輸入された米が国内米として政府に買い上げられていたことも発覚。また、ついていた予算のお金がいつのまにか相当の金額が消えていたという話もある。とにかく、2013年には農家からコメを徴収はしたものの、お金が支払われないという事態に至った。資金繰りに困り自殺者も出る。払うお金がない、というのがインラク政権の言い分だが、あるはずのお金がない、米は売れない、在庫がどれぐらいあるのかもわからない、在庫の米の管理がずさんで品質が低下してる、などなどともう末期的状態であった。

NCPOは全権を掌握すると、すぐにこの問題にとりかかり、コメ買取制度を廃止し、支払いの滞っていた167万人、1954億バーツの支払いを行った。各県の米の倉庫の調査も行った。帳簿のごまかしなどいくつもの県で不正が発覚している。

ここ数年、外食していてお米がまずい店が多くなったな、と感じていたがタイ米の質がコメ買取制度で低下していたのが原因かもしれない。NCPOのおかげでタイ米の質も向上しそうではあるが、この3年で売れ残った古い米が大量にあるので、普通の食堂のお米がおいしくなるには、まだ相当かかりそうである。

コメ買取制度の廃止の他に、前政権の後始末がまだまだある。全国の小学生すべてにタブレットPC(1台3000バーツ相当)を無料配布する制度。あきらかにタブレット発注にまつわる巨額のわいろや中間マージン目当ての政策だが、「まずしい小学生が教科書を買えないので、買えない子供はタブレットに教科書をダウンロードさせる」のが理由と言う。教科書を買えないような子供には教科書を無料で配布する方が早くて安上がりなことは誰でもわかるだろっ! と思わず声を荒げたくなるような政策であるが、これも配布途中で契約した中国メーカーが逃げ出したり、資金繰りがつかずに滞っていた。この政策も廃止。

利権をめぐるあれこれにも改革のメスを入れている。宝くじ、タクシー、バイクタクシー。さらに悪質な屋台の一層にも乗り出した。どこまで行くのか、行けるのか。

しかし、いくら高潔で正義感にあふれたプラユット将軍・首相とはいえ、現政権は報道規制や表現の自由の規制など、強権的な部分が大いにあることを忘れることはできない。暫定議会が動き出しプラユット将軍が首相に任命されたが、ほとんどの議員が軍人で、さらにNCPOは残り、政治の監視役を務めるという。政治改革を進めて、来年10月以降には民政移管のための選挙を行う予定であるとしているが、たった1年半でタクシン派の利権構造を封じ込めることが出来るのか、プラユット将軍が変節せず改革をつづけられるのか、それはまだまだわからない。

タイの利権がんじがらめは、他人ごとではなく、そのまま日本の姿でもある。

山田太一のやさしさ

若松恵子

6月に、山田太一の講演を聞く機会があった。子育て中の人に向けた企画だったので、自身の子育てにまつわる話を中心に、この頃思うことなどについて話してくれた。山田さんは今年80歳になったが、少年のように恥ずかしそうだった。いばっていない大人は素敵だ。

この講演会はシリーズで企画していて、『ゲド戦記』の訳者でもある清水眞砂子さんからのバトンで山田さんは講演を引き受けてくれたのだった。清水眞砂子さんの『本の虫ではないのだけれど』(2010年 かもがわ出版)に「それにしても山田太一は格好いい」という題名で、山田氏の著書『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(2014年7月PHP新書で再刊)についての文章が収録されている。清水さんが見抜いている山田太一の魅力を、どれだけの人がわかっているだろうか。

清水さんは、テレビの対談番組に出演していた山田太一の生真面目さが新鮮で、「ガツンと一発やられた気がした。」と言い、「私たちはよくひとの真面目さを嘲い、それを頑さと結びつけようとするけれど、真面目に人間を考え、生きることを考えたら、人はどこまでも柔かくなっていくこと、いかざるを得ない」と言っている。「真面目だからこそ柔かい」そういう見方があるのかとハッとした。山田太一の魅力を言い当てているみごとな表現だと思った。

「親は一緒に暮らしているというだけで、言語化できない事をいっぱい伝えてしまっている。」「子どもを持って、人の世話になんかならないなんて気取っているわけにいかなくなった。リアリティを叩き込まれた。」「子どもが自分に抱きつこうと走ってくる。こんな幸福があるのかと思った。それだけでもう充分だと思った。」講演で語られたこんな言葉が印象に残っている。
子育てで大事な事として、山田さんが唯一語ったのは、「子どもを可愛がること」だった。そのシンプルな事がいかに難しいか。夜泣きする赤ん坊を抱いておろおろした時の気持ちを今も忘れないでいる、そういうところも良かった。

講演のことが心に残っていたので、『敗者たちの想像力 脚本家 山田太一』(長谷正人著 2012年岩波書店)を古本屋の棚にみつけた時はうれしかった。1959年生まれの著者とは同世代なので、山田太一ドラマの体験に共通なものがあり、共感しながら読んだ。長谷氏は著書で「同時代の証言としての山田太一論を書きたかった」という。彼の言う”同時代”というのは、再放送やDVDで繰り返し見るというドラマの見方をする時代という所もおもしろい。再放送やDVDで何回も見るうちに、ドラマの魅力に初めて気づくということが何度もあったという。

題名の通り、長谷氏によると山田太一のドラマの魅力は、「敗者が敗者であるがままに肯定され、光り輝く可能性を描いている」ところにあるという。代表作のひとつである「ふぞろいの林檎たち」は、「敗者」が「勝者」に成りあがろうとするのではなく、「敗者」であることを自ら認めることによって、「敗者」としての自分から抜け出す(「勝者」の基準の呪縛から逃れる事)物語なのだ。そういえば、講演会でも「事実は少し揺さぶると嘘ばっかりで、私たちはその嘘に捉われて生きているのではないか。ひとりひとりが自分のリアリティを持った方が良い」という事を話していた。「例えば言葉を発することが出来なくなった人に対して”生きていて何の意味があるのだろうか”と思ってしまいがちだけれど、その人は、口に出して言えない夢を見ているのかも知れない」と。

山田太一のドラマは、そんなふうに、知らず知らずに思い込んでいる事を、あたりまえだと思って見ている世界を、ちょっとずらして見せてくれるやさしさがある。最新のエッセイ集『月日の残像』(2013年 新潮社)を読むと、山田自身もまた、そうやって生き延びてきたのではないかと思われる。

「眼鏡トンネル」という一編が心に残る。家業を手伝わなければならないので、高校からひとり、急いで汽車に飛び乗って帰る毎日。経済的な理由で進学はあきらめなければならず、未来が見えない毎日の中で、「デッキの手すりに捕まってステップを一つおりて、乗り出すようにして風を浴びて」歌をうたっていたという想い出が語られる。「自分ではないみたいだが、よく歌をうたっていた。」という言葉で、その頃が回想される。「自分ではないみたいだが」という所に、ドラマを必要とする心が、すでにめばえているように思えてしみじみとする。

『月日の残像』は、8月29日に発表された第13回小林秀雄賞を受賞したということだ。慎ましい語り口ながら心に残るこのエッセイ集が受賞してうれしい。

物語と構造

大野晋

今年もやたらに暑い8月は終わり、少々気が抜けたように気温が落ち着いている。あまりにも暑かったからという理由で、蚊が少なかったと言われるが、そもそも、蚊は暑い時期よりも少々涼しい時期の方が刺される確率がもともと高かったような気もする。ただし、このところ、40度近い気温が普通になった感もあり、昆虫もあまり住みやすいとは言えなくなったのかもしれない。住みにくいと言えば、庭の何本かの植木も夏、葉を落とすのが当たり前のようになってしまっている。まるで、雨季と乾季のある地域のようだが、このところの気温はまるでそういった熱帯の様相を帯びている。

さて、様々なメディアでいろいろな物語が始まり、そして終わっている。
それは小説に限らず、ドラマだったり、映画だったり、コミックだったり、アニメだったりするのだが、それらで面白いと感じるのには、それ相応の構造があるのではないか? などと考える日々である。

ストーリーの物珍しい物語は面白く感じる。しかし、それは珍しいだけで、たいていの場合は本質的な面白さが伴わなければ、つまらなくなる。本質的に面白い物語は、物語に構造をもっている。そして、その構造が入り組んで、後の気づきが多いほど面白いと感じることが多いように思う。ただし、それはストーリーや登場人物の関係が複雑であれば、よいというのとは違うだろう。ストーリーはシンプルでも、心の動きがきちんと構造を持って変化する物語は面白い。

逆に、唸ってしまうのは、昔の新聞連載だ。長い連載の中で変化してしまったストーリーは、たとえ、複雑な人間関係を構築できたとしても面白いとは思えない。そこには、たぶん、伏線が張れていないことで、物語が平板になってしまっているからなのかもしれない。

そういえば、ミステリーにのめりこんだ昔、当時の二大巨頭であったクイーンとクリスティを比べて、クリスティは明らかにストーリーテラーだなと思ったことがあった。現在の人気を見て、クリスティがまだ第一線の人気作家であることを考えると、あらゆる分野でストーリテラーが面白い条件なのかもしれない。ストーリーテラーの条件は、物語を平板にしない構造だとすれば、物語と構造は密接な関係がある。

実は、物語と構造を強く意識させられたのは、小説ではなく、ゲームの世界だった。ゲームの世界では、ゲームシステムが優劣を決すると考えられがちだが、実際には、売れるゲームには優れた物語があり、その物語にはゲームをする人間を虜にする構造がある。言わば、物語はそれを構成するシステムの出来次第で面白くまなれば、つまらなくもなる。結局、思考の先がシステムに戻った次第である。

製本かい摘みましては(102)

四釜裕子

ネットでなにかを注文したり会員登録するのに名前と住所以外は適当に入れる。おかげでとんでもない日に知らないひとから誕生日おめでとうと言ってもらえる。やっかいなのはパスワードを忘れたとき。たまにあるでしょう、じゃあ、誕生日はいつですか?と聞かれる場合。どう嘘をついたか覚えていないので応えられないというわけです。今回は正直に入力した。名前とフリガナ及び英字表記、性別(男性/女性/その他)、住所、そしてメールアドレス。いとうせいこうさんのオンデマンド出版によるパーソナライズ小説『親愛なる』の注文だ。1997年にメール配信のみで発表した『黒やぎさんたら』に新しいタイトルをつけたもので、6月16日から8月31日までの発売、新書サイズ(W110 × H180mm) で224ページ、1900円(税込・送料別)。寺田克也、KYOTARO、フキン各氏いずれかによる挿絵が付くと案内されていて、2週間後に届いたのは寺田さんのものだった。発行:いとう出版、印刷・製本:不二印刷株式会社、出力機:RISAPRES、Powered by BCCKS。

1997年といえば富士ゼロックスがオンデマンド出版サービス「BookPark」を始めた年だ。村上龍さんがこのサービスを使って小説『共生虫』を単行本に先行してオンデマンド版で出したのは2000年。どんなものかと注文して読んだのだが、棚の中に見当たらない。しかたがないので当時の日記を見てみると、「デジパブ『共生虫』 ○=単行本買うひとより先に読める(ただし今回は誤植で納期が遅れ手元に届いたのは単行本発売日の前日)/1000部限定だからこのあとプレミア付くかも/作家手書き文章を刷ったものが巻末に付いている/スペシャルIDが与えられる(ホームページの特別コンテンツにアクセスできる)。×=表紙の質感がひどい/特別コンテンツったってたいしたことなかった/3500円(送料500円込)はやっぱり高すぎる(単行本は1500円)」と、ある。オンデマンド出版は本の質感がゼロ、なっとらん、みたいなことを、はりきって書いてましたねぇ、この頃。

『親愛なる』がくるまれていたパラフィン紙をはずすと、白い表紙に大きく「111-0041 親愛なる四釜裕子様 東京都台東区○○○ ○-○-○」。これじゃあ外では読めないよと思ったが、誰も私の名前は知らないし、本の表紙に堂々と書かれたこの住所が実在するととっさに思うひとはほとんどいないだろうし、平気になって翌朝電車に持ち込んだ。私のメルアドあてにいとうせいこうさんから届いたメールの第一信から始まる。どうも私のメルアドを装って複数の人間がせいこうさんに奇妙なメールを送っているようだ。ひとりの「私」が金を貸してくれと言ったことに対してせいこうさんは無理だと応え、さらに「私」の家の最寄り駅を言い当てた。なんとこの駅が、私の家の最寄り駅なのである。住所を伝えているのだからごく簡単なパーソナライズなのだろうけれど、急におちつかなくなって周囲を見回したし、誰にでも親がいるようにどの場所にも最寄り駅があることに胸をつかれた。

まもなく、登場人物の中の誰に自分が重なっていくのだろうと思いながら読んでいることに気がついた。正直に「女性」と入力したから少なくともコイツではないなと思う男をはずしたりして、自分に味方して物語を読みたがる性癖を知る。パーソナライズのひとつとなりうるキーワードにもたやすくひっかかる。国籍や年齢や体格や。どれも入力していないのだから関係ないはずなのに、それでもだ。さらにあきれるのは誤植を真面目に疑ったこと。私の名前はシカマヒロコ、逆に読むとコロヒマカシで、そのいずれでもない名前が出てきたのだ。カシマヒロコ。入力を間違えたとは思えない。何度か出てきてそのたびにカシマヒロコじゃなくてシカマヒロコですとひとりごちる。しばらく読み進んで再びカシマヒロコに戻ったとき、それはカシマロヒコでカシマヒロコではないことに気がついた。カシマロヒコ。誤植を疑う余地はないだろう。まさかのカシマロヒコだった。

読み終えて、「自分」はつまりこの読み終えた「私」であった。確かに、他の誰かの『親愛なる』と比べてみたくなる。カタカナの名前がどう組み替えられているのかだって気になる。『親愛なる』交換読書会があったら出かけよう。なにしろ古本屋には売れないし、悪い友だちには貸せませんから。

ひとつ手前の駅で降りる。

植松眞人

 地下鉄のホームに降りると、目指していた駅とは違っていた。一駅手前で間違えて降りてしまったのだが、次の電車がくるまでに十分以上待つくらいなら、歩いた方が速いと考えた。どうせ約束の時間までに一時間以上ある。もともと駅前の喫茶店でも探して、珈琲を飲みながら気持ちを落ち着かせようと思っていたのだった。
 祥子は改札を出て、案内板で地上に出てからの方向を確かめた。ふと案内板の隣を見ると、昔ながらのチョークで書く伝言板が設置されていて、子どものようなたどたどしい文字で『切磋琢磨してください』と書かれていた。誰が誰に当てて、切磋琢磨してほしいと頼んでいるのか。相手の名前も自分の名前も書かれないままに、切磋琢磨という画数の多い文字が伝言板に書き置かれていた。祥子は子どものような文字を書く自分の祖母を思い浮かべた。祖母が自分よりも数時間前にこの見ず知らずの駅に降り立って、祥子に向かって『切磋琢磨してください』と書き置いていったのではないかという気持ちになった。
 生前の祖母が祥子にそんな話をしたことは一度もない。いつもニコニコしているだけで、祥子に何かをしろとか、したほうがいい、などということは一度も言わなかった。それなのに、なぜ、切磋琢磨という言葉で祖母を思い出したのかが不思議だった。
 祥子は階段を一段一段あがりながら、切磋琢磨とはなんだろうと考えた。正確な言葉の意味は思い出せなかったが、一生懸命に自分自身を磨くのだという漠然としたイメージが浮かび、自分は何を磨けばいいのだろうと考え始めた。数年続けた仕事はただ営業から上がってくる数字を打ち込むばかりで、最近では営業社員が出先からパソコンやスマホで打ち込むことも多くなったので、これから先、仕事が無くなるのではないかと同じ仕事をしている社員たちの間でよく話題になっている。子どもの頃から習っていて、この会社に入社したころに再び習いだした書道は、どうにも頭打ちで、自分ではこれ以上うまくなるとは思えない。階段をあがりながら考えても、何を磨けばいいのかがわからない。祖母が出てきて、それを書いたのだとすれば、仕事や趣味の話ではなく、結婚のことなのだろうかと考えを巡らせてみる。大学時代に付き合いだして、今の会社に入ってすぐに別れてしまった男が祥子にとって最初で、いまのところ最後の男ではあるが、まだ三十までには二年ほどある。それほど焦る気持ちもなくやってきたが、そう思いながら地下鉄の駅の階段をあがり、踊り場まで来て、急に全身が泡立つように怖くなった。私が切磋琢磨しないから、仕事がうまくいかないのか。私が切磋琢磨しないから書道だってうまくならないのか。そして、恋人ができないのも、それが理由なのか。
 地下鉄を降りるまで、久しぶりに会う友人のことを考え、初めて行く友人のおすすめのカフェで、何を食べようかということしか考えていなかったのに、いま祥子の頭の中には切磋琢磨という言葉とともに、様々な不安がいっぱいになっている。そして、優しかった祖母までが、祥子の不安を煽り、なぜかこれからの人生が決してうまくは行かないのではないかという結論めいたものを重く祥子の行く先に置いたような気持ちにさせられていた。
 地下鉄の階段は長く、二つの踊り場を経て、地上へと続いていた。エスカレーターもない階段をあがり、やっと地上への出口が見えてきたところで、とても強い風が祥子を後ろへと引いた。地下鉄がホームに出入りするときに強く吹く風だと祥子は思った。思いのほか強い風は、階段をあと数段残したあたりで祥子を立ち止まらせた。ぐっと足元に力を入れて、祥子はふらついた身体を持ちこたえさせて、風が止むと同時にすっと背を伸ばした。
 ほんの一瞬、地上出口から差し込む強く暑い日差しに目を瞬かせると、祥子は勢いよく元来た階段を駆け下りた。一足飛びに階段を駆け下りながら、祥子はほんの少し笑い、掲示板の前に立つと、掌で『切磋琢磨』という文字を消した。(了)

なぜ、J・M・クッツェーを訳すのか?

くぼたのぞみ

 まだ8月だというのに妙にひんやり、小雨さえぱらつく池袋の、あるスペイン料理店での話。クッツェー三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト刊)をめぐるイベントが終わった打ち上げの席で、隣席の人から質問がきた。
 
 ──くぼたさんは、若いころ音楽でアフリカ系の女性ヴォーカルのもつ生命力や癒す力に惹かれ、それが文学作品に結実したものを80年代初頭に熱心に読み、それからコンデ、ダンティカ、アディーチェ、ウィカムなど、アフリカ系の女性作家の作品を訳してきましたよね。なのに、なぜ、白人の作家であるクッツェーを追いかけてきたんですか? 翻訳する男性作家はクッツェーだけですよね?

 それはイベントの最後に話したかったことで、メモにも書き込んでいたのだ。言いそびれてしまった、と気づいたときには手遅れだった。だから、ワインも入った勢いで、答えることばに力がこもった。

「アフリカ文学」を研究する人たちは、植民地化によってあの大陸で抑圧されたアフリカ人たちに共感する傾向がある。少なくともわたしと同世代まではそうだった。彼ら彼女らの声に耳を澄まし、被抑圧者を代弁する文学を熱心に研究、紹介してきた。欧米中心主義の日本のアカデミズムでは「アフリカ文学」は専門分野として成立しにくい。だから先人の作業の積み重ねと努力には本当に頭が下がる。
「アフリカ文学」をやるそんな困難さを重々承知の上で言うのだけれど、わたし自身が細々とアフリカ系文学の翻訳をしてきた者として言うなら、クッツェーを翻訳することはわたしにとって、彼のような人の視点から世界全体を見なおすレッスンだった。
 つまり、南アフリカという土地に20世紀なかばに、オランダ系白人の家系に生まれたジョン・クッツェーという人間が、ヨーロッパやアメリカとの歴史的関連のなかで自分の立ち位置を見定めていったプロセス、それをわたしはじっくり考えたかった。彼の視座を学ぶ必要があった。わたしが生まれた北海道と日本のメトロポリス東京との位置関係を、世界規模の植民地化の歴史の枠組みのなかで再考してみたかったから。北海道という旧植民地の入植者の末裔である身には、アフリカの被抑圧者側に身を寄せて共感するだけで、ことが済むとは思えなかったのだ。

 スペイン産のフルボディのおいしいワインを飲みながら、イベントが無事に終わった安堵感もあって、そんなことを勢いにまかせてしゃべったような気がする。

 クッツェーという作家は作品内に、歴史の源流まで遡ろうとするベクトルを書き込む。ギリシア・ローマの古典からの引用も多い。ユダヤ・キリスト教文明との絡みも当然出てくる。そんな長いスパンで見た世界史的視点のなかで、偶然ある時期に、偶然ある土地に放り込まれた個別の人間の生を描く。
 この群島の近現代にその枠組みをあてはめるとどうなるか。明治政府が近代化を押し進めた北海道でわたしは生まれ、18歳までそこで暮らした。それ以前は「蝦夷地」と呼ばれた土地を「旧植民地」と再認識する過程に、クッツェー的視点が助けになった。なぜなら、1950年代から60年代にかけて、この国の教育は北海道が旧植民地であったことをまったく教えなかったばかりか、アイヌ民族は滅びた、とまで言ったからだ。その影響はいまも根強く残っている。

 みずからの体験を、アフリカとヨーロッパの関係に対比させながら、歴史的な光のなかに置いてみる。そこに見えてくるものを考え抜くために、クッツェー作品の一行一行、一語一語と格闘した。一度、日本から離れ、個人的な感情の濁りが入り込まない場所で思考し、そこで獲得した視座から、この群島の歴史を見直す必要があったのだ。1988年にズールー民族の叙事詩を四苦八苦しながら訳しているとき、ひょんなことから友人が手渡してくれたペンギン版で、当時売り出し中の『マイケル・K』とういう作品を読み、これ、すごい! 面白い! とやみくもに翻訳し、その10年後に『少年時代』を、それからさらに9年後に『鉄の時代』と訳していく長い時間のなかで、自分の立ち位置を明らかにする作業はゆっくりと、じっくりと進んだ。避けて通れないプロセスだった。ヨーロッパと南アフリカとの関係で考えてみるなら、自分は「ヨーロッパ白人」の位置にあるのではないか。そんな思いから、反アパルトヘイト運動の仲間にクッツェー作品を「なんやシロか!」と言われて絶句しながら、読み、訳しつづけた。

 そこからは、アフリカ系の女性作品に心を寄せるだけでは透視できない視点が浮上するのだ。彼女たちの作品だけ読んでいたのでは、世界全体を俯瞰できない。もちろんジェンダー的にも「人種」的にも真逆のクッツェーは、しかし、わたしにとって避けて通れない道行きへの道案内。若いころ、かのボードレールにさえなってみたのだから、それを思えばなんのことはない。クッツェー自身が作品に深く埋め込む歴史的視点に、自分のなかの暴力性を作品内に徹底的に叩き込もうとする人間クッツェーの倫理性に、強い関心を抱きつづけることは困難などころか、むしろじつにスリリングな経験だったのだ。

 というわけで「自伝的作品」は訳者の重要課題となった。1980年代から90年代にかけてポストモダン、ポストコロニアルといった文脈で理解される「偽装を凝らした」作品を発表してきたこの作家は数年前、ついに、ペーパー類をすべてランサム・センターに譲り、その作品の生成過程に誰もがアプローチできるようにした。作品行為の、手の内を明かし始めたのだ。あたかも作品の「偽装」を剥がしてくれ、と言うように。まだ生きている作家がこれをやったのだ。
 そこに人間クッツェーのある決意が透かし見える。

118アカバナー3 かなしか

藤井貞和

折口はん、あんたのまれびとはうそや
そんなのいいひん、あらへん、神はん
いてはらへん  てんのうじの地震
もえつづけて六十九年 えらいこっちゃ

「かなしか、いう奈良の鹿見ゅーと
悲しか、ばい」 阿蘇の神はんと
かなで書くのやー 春日野の神はんと
あれはてたココロをあらそうかなや

ロードクでは、かっこがぬけるで
かなしかのこらん  とめたらあかん
書いたらあかん  かっこつかへん
鹿がぴー 鳴きます、若草山のてっぺんで

神ばいたいで書くのや  神しばいや
てんまんぐうの道行きや じょーろりや
天魔ばしから、手ぇとって往(い)の
いくののはしは生くの生かぬの

(七月八月、大阪と奈良とを過ぎながら。悲鹿〈かなしか〉)

「ライカの 帰還」騒動記(その11 エピローグ)

船山理

コミック編集部解体については、係わらせていただいた作家さんたちに正直にことの顛末を伝えることにした。一方的にこちらが悪い、こうなってしまったのは自分の努力が足りなかったせいだと、頭を下げる以外なかったからだ。吉原さんには私は日ごろから、あなたはメジャーで活躍しなければならない人だ、マガジン社はそのインターバルに、あなたをメジャーから借りているだけなんだよ、と話していた。
そんなおり、毎年年末に行なわれる小学館のパーティに招待を受けたので、吉原さんと2人で出かけて行った。これは帝国ホテルで行なわれる恒例の行事で、著名なコミック作家さんたちが一堂に集う、華やかで盛大なものだ。バンケット会場を2つぶち抜いて行なわれるパーティは大勢の関係者で溢れかえり、ホスト側の小学館も、ほぼすべての編集スタッフと役員たちが、それぞれのケアに奔走する。
そこでは編集スタッフが待ち構えていたのだろう。吉原さんを見つけると私を押しのけ、5〜6人で彼を取り囲むと、まるで旧来の知己に出会ったかのように談笑を始めたではないか。わずか数年前に吉原さんをパージした小学館が、彼を凱旋将軍のように迎えているのである。吉原さんは戸惑ったように笑っていたが、私はその光景を目に留めた後、その場から姿を消すことにした。
吉原さんが改めてメジャーに迎え入れられる。それが現実になった瞬間に立ち会えたことは嬉しい。だけど、もうコミックの舞台に立つことはないだろう自分との距離感を考えると寂しいような、いたたまれないような、そんな気分に襲われたからだ。考えてみれば厚かましい限りなのだが、私はこのとき、コミックに編集として係わることを心底、好きになっている自分に気づかされた。
パーティがお開きになると各編集部は独自に2次会を設定する。私は大した考えもなく、誘われるままビッグコミックオリジナル編集部による六本木のクラブ会場に足を運んだ。だけど編集長の亀井さんは大御所の作家さんの接待か、役員たちのフォローで別行動だから、編集スタッフは知らない人ばかりだ。それでもソファーで談笑する村上もとかさんを見かけたので、ホッとして声をかけさせてもらった。
村上もとかさんとは小学館デビュー作となる「赤いペガサス」で、例の友人を通じてF1レースの資料提供に協力させてもらった。それは私がオートバイ編集部に在籍していたころだから、ずいぶん長い。その後も何かと親しくさせていただいている。そのとき、村上さんの作品で、つい先日目にしたばかりで気に留めていた1カットを思い出した。それは小学館の作品ではなく、集英社のものである。
もとかさん、こないだ最終回を迎えたスーパージャンプ、お疲れさまでした。あのラストカット、主人公の顔のアップ、いい表情が描けてましたねぇ。あれ、もとかさんが描いたんじゃないでしょ? すると「バカ言え! オレが描いたんだよ!」そこで2人して大爆笑したのだけれど、さして広くないクラブの会場で、私は周囲の視線を一身に浴びることになり、あたりは静まり返ってしまった。
すると私の右手から、すっとんで来た人がいる。見ると名刺を差し出して平身低頭しているではないか。大御所である村上さんと大声でバカ話をしている見知らぬ男、つまり私は何者なんだ? 年間にして小学館に10数億円単位の収入をコンスタントに提供する作家さんに、こんな口を利く男が少なくとも身内にいるわけがない。よほどの関係者だと思われたのだろう。差し出された名刺には副編集長の肩書があった。
彼に奥のソファーに案内された私は、村上さんに軽く手を挙げて会釈し、促されるままに席に着いた。そこで私は正面に座っている人と視線を重ねたのだが、あれ? どこかで会った人だぞ…と思っていると、彼がおそるおそる名刺を差し出した。私はその名前を見て愕然とする。石川サブロウ。そう、「とんびの眼鏡」を描いてもらおうと私が心に決めていた、その人ではないか。何という運命の引き合わせだろう!
石川さんは私をまったく覚えていないようで、それはそれでホッとしたこともあるのだけれど、私の胸中は複雑な思いが駆け回っていた。もし石川さんが、あのとき描くことを受け入れていたとしたら、あの作品はどんな具合に仕上がっていただろう? 編集としての興味は正直あったが、吉原さんの手によって、これ以上ないほどに完成しているものに、どんな想像も入り込める隙はなかった。
石川さんは少年ジャンプ誌の連載終了後、作品発表の場に恵まれていなかった。私は目の前にいる彼が、あのときのようなオーラを発していないことにも気づかされた。けっきょく私は石川さんと会話らしい会話をすることもなく、クラブ会場を後にした。帰りのタクシーの中で、石川さんが村上もとかさんのアシスタント出身であり、そのことを後から知ったんだっけ、などと考えながら眠りについてしまった。
後日、新潮社から「ライカの帰還」を香港でも発行したいとの依頼が当地の出版社からあり、どうしますか? という電話があった。吉原さんはどう言ってますか? と訊くと、私がOKなら構わないそうだ。それじゃ相談するまでもないなと、承知させてもらうことにした。印税に関してはレートがどうとか言われたけれど、そんなことより海外でも注目されたということに正直、びっくりだった。
ほどなく私の手もとに「人間捜影」と題された香港版が届けられた。吹き出しのセリフがすべて漢字になっているのはもちろんだけれど、描き文字による「音」が、いちいち欄外で説明されているのが面白い。巻頭のレイテ沖海戦で米海軍爆撃機が発する「オオオ…ン」は飛機飛行的聲音だし、爆撃にさらされる空母瑞鳳が発する「ボボボ…」は猛烈轟炸的聲音なのだそうだ。編集のこれらの読者への気遣いは興味深かった。
かなり後の話になるけれど、新潮社版でカットされた3話を収録した「ライカの帰還・完全版」が、新潮社からの発行後、12年近くを経て幻冬舎から発売された。このときは朝日新聞の紙面に表紙の画像入りで紹介されて、こちらから何の売り込みも依頼もした覚えがないだけに、驚かされたものだ。同時に幻冬舎を通じて、台湾からも同様の依頼があったから、この作品は都合、5つの出版社から出されたことになる。
香港版と台湾版を見比べると、吹き出しの中が同じ漢字だらけでも、けっこう異なっていることに気づかされた。私は中国の言葉はサッパリなのだけれど、広東語と福建語の違いなのかな、とも思う。台湾版では「音」の描き文字がなるべく活かされていて、もとの絵柄を尊重してくれているのに好感が持てる。香港版のように「音の解説」はないのだけれど、その代わりに独自の説明が欄外に加えられていた。
たとえば主人公が空母の艦上で、上官から「予備学生あがりか?」と訊ねられるシーンは「是預備學生出身的?」となるのだけれど、預備學生の箇所に※が設けられ、かなり長めの解説が加えられている。これはオリジナルでは触れてない分、へぇ〜っと感心してしまった。新たに描かれた文字のセンスなどから見ると、台湾版はかなり手練れの編集者が係わってくれているように思う。ありがたいことだ。
そうそう、マガジン社のことについても触れておこう。びっくりするほどの、どんでん返しがあったのだ。何がどうなったのかは闇の中だが、次期社長を目指していたはずの大園常務は突然お役御免になり、林社長が再び正面に復帰したのだ。そして大園さんが抜擢した2人の役員も、それぞれカタチは異なるものの、相次いで更迭されてしまう。文字どおりの報復人事というやつだ。恐ろしい限りである。
これで、かつての編集担当取締役だった見山さんが呼び戻され、コミック編集部も復活となったらドラマとして面白かったのだが、現実はそうは行かない。林社長は赤字寸前まで転落していたマガジン社の収支を操作し、少なくとも自分が社長でいたときは黒字決済だったという証拠をつくってから、社長の座をオーナーの長男に譲って、自分はさっさと身を引いてしまったのだ。これも恐ろしい限りである。
私はと言えば古巣のオートバイ編集部に副編集長として配属され、ここでもコミックがらみで面白いことを手掛けてさせてもらった。その後、小学館を辞めてしまった例の友人から、彼が参画している外資系のコミック編集部に誘われ、大いに悩まされた。そして34年務めたマガジン社から転職し、そこで大御所作家さんたちと得難い経験を積ませてもらうのだけれど、そのことはまた別の機会があれば語らせてもらおう。

(おわり)

しもた屋之噺(152)

杉山洋一

ふと気がついたことがあります。今月、自分はいわゆる忙しい人になっているのではないか、そう思った瞬間、背筋が寒くなりました。忙しいというのは仕事が沢山ある状態を云うのだとばかり信じておりましたから、自分と無縁の言葉だと思っていましたが、本人の仕事の処理能力を超えれば、それは既に忙しい状態なのだと漸く理解しました。元来生産性が低い人間が、忙しい毎日に陥るのは思いの外簡単だったのです。息子のためにせめてもう一日どこかで時間を作りたい、両親の処へ出かけたい、お墓参りしたい、大切な友人に会いたい、と思っても、何一つ実現できないまま一月が過ぎてしまいました。

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 8月某日 ミラノ自宅
ヴィオラの笠川さんミラノ来訪。微笑みの絶えないとても感じのよい方で、こちらはケーキの一つでも用意したいと思いつつ、周りの店は8月で軒並み休みで、唯一あいていたアイスクリーム屋でジェラート購入。

譜面を読みながら思うこと。作曲では、こうしたらどうなるか、という多少の冒険心が許されるだろうが、おそらく指揮では許されない。演奏者は具体的な方向性を指揮者に望んでいて、時間もごく限られている。困ったなと思う。

 8月某日 ミラノ自宅
パレスチナで凶弾に斃れた妊婦から取り出された赤ん坊が死亡。「悲しみにくれる女のように」という、バンショワを原曲とするアグリコラの作品を素材にデュオを書こうとしていて、この妊婦と赤ん坊のことが頭から離れない。自分にとって作曲とは、言語化できない感情を他人につたえる手段なのかもしれない。すこぶる原始的な理由。

世の中には、たぶん正しいことと正しくないことなど存在はしない。それを正しいと思うかどうか、のかすかな隔たりが、それらの間にあるだけ。だから、何がどれだけ正しいかと謳い競うのは、あまり意味がない気がする。

どれほどかうちのめされた
かなしみにくれる女のように
わたしはいつなんどきも
なぐさみをうける希望もない
不幸におしつぶされ
朝も晩もただ死を欲するばかり

恐らく原曲は乙女の失恋を唄っているのだろう。
一見明るいバンショワの旋律が、より強く胸に迫る。

 8月某日 三軒茶屋自宅
初台でSさんとポーランド料理のランチをたべる。彼は大学時代ワイマール共和国からナチス台頭までの時代を、日本社会党のブレーンだった教授のもとで勉強した後、好きだった音楽の道に進みたいと音楽学で音楽大学の院にすすみ、フルトヴェングラーが戦後指揮活動を止められていた頃に作曲した、交響曲第二番を卒論のテーマに選んだ。ドイツは文化が花開いた時期だが、イタリアではムッソリーニの農業政策などが実を結んで世界から認められていたころ。
彼は大学時代、ワイマール共和国が、さまざまな歴史的分岐点で別の選択をしていたとしたらその後の歴史にどう影響を与えただろうかという仮定と検証を行っていた。
「面白かったですよ。でも今は、むしろ現在の日本とワイマール共和国とをつい比べてしまう」。

 8月某日 三軒茶屋自宅
横浜近郊の駅ビルでカレーを食べていると、隣のテーブルで60歳くらいの女性が四方山話をしているイントネーションが湯河原のそれに似ていて驚く。ハマ言葉とか言うくらいだから、横浜あたりは全然違う訛りだと思い込んでいた。

武満さんの「カシオペア」自筆譜をたずさえ、すみれさん宅へ一石さんとお邪魔する。先月末にミラノで受け取った自筆譜には、冒頭の速度表示も、練習番号も小節番号もなく、打楽器のパートも殆ど書き込まれていないので、一石さんにお願いしてオーケストラのパート譜を一部送っていただき再構成した。何日か夜明けまで譜読みして、何とかすみれさん宅にでかけると、すみれさんのお宅で、ていねいに書き込まれた打楽器パートを目にしておどろく。その上、前回若杉さんが使われた浄書譜をみて力が抜けた。今更こちらを使う時間もないが、どうしたものか。

尤も、自筆の初稿で勉強したのは、もちろん意味があった。ページごとにブロックとして書かれていて、その中では和音が一定であったり、フレーズ構造がまとまっていたりする。だから寧ろたとえページを入れ替えても差し支えがないのだろう。パート譜に書かれた練習番号の順番が入れ違いになっているところを見ると、当初は違う順番でページが並んでいたのかもしれない。

すみれさん宅に並ぶ夥しい打楽器を見ると、眞木さんや八村さんはこれらの楽器を手にとって曲を書かれたのだなと、感慨をおぼえる。すみれさんの演奏される姿は、子供のころから数え切れないほど演奏会でみていたままで、そんな当たり前のことに感激する。渋谷のトップでコーヒーを挽いてもらい帰宅。

 8月某日 三軒茶屋自宅
ラジオで8月15日が何の日か知らない若者が多いというニュース。彼らがそれを知らなくても生きてゆけるような文化を培ってきたのは、我々自身であって、責めるべきは彼らではない。何が正しいという以前に、これでは近隣諸国と齟齬が埋まらないのは当然かもしれないし、温度差が広がりそうでこわい。ともあれ、ラジオを聴きながら、近所の豆腐屋の出来立ての木綿豆腐を食べられる幸せをかみしめる。

漸く芥川賞の譜面に集中できると思いきや、Sさんより電話。手伝ってほしいことがあって、とわざわざ三軒茶屋までいらして、楽譜を届けてくださる。一見すると理解できない譜面で、自分で役に立つのか不安。リハーサルは3日後なので、秋吉台から半日ぬけなければならない。

 8月某日 羽田空港にて
Kの楽譜を一日読む。楽譜にびっしりと書き込まれた分厚い注釈に面食らい、英語に訳されたガイドをペンで楽譜に書き込んで一日が終わってしまう。そのあと夕方から明け方にかけて譜割り。慌てて荷造りをして、息子と羽田空港へやってきた。飛行機で寝るつもりだが、今週と来週をどう乗り切るのか想像するだけで寒気がしている。

 8月某日 秋吉台にて
生まれて初めて秋吉台にやってきた。学生時分からここの音楽祭に来てみたいと思っていたけれど、恐らく一歩を踏み出す勇気と自信がなかった。だから、こうしてここに参加している学生をみると、あの頃の自分よりずっと頼もしくみえるし、こちらが励ますのも少しおこがましいような気さえしてくる。
昨晩は23時すぎまで作曲学生と演奏家で集い、彼らが楽譜の読み難さについて話しあうのをきいていた。一見読みやすそうに見える浄書ソフトの功罪。手書きの楽譜がより読みやすいことは確かに多い。

慌てて息子を寝かせ、芥川賞の譜読み。夜半、雨足が強くなり、叩きつけるような雨。布団はひいてあるが、横になれないまま朝。
朝、竹藤さんと木下くんの自作を聞かせてもらって、11時半にTさんの車で宇部空港へゆき、家人と入れ替わりに東京にもどる。車中、Tさんが音楽を志したきっかけなどを聞き、心を打たれた。先日のSさんにしてもTさんにしても、ただ漫然と幼少から音楽を続けて音楽家になるより、ずっと深い情熱を感じる。
家人が羽田空港に忘れてきたトランクを受取りにでかけ、コインロッカーに預けてから、リハーサル会場に向かう。

リハーサルでは一度通して聞かせていただいてから、お互い手探りで限られた時間で何をどうしたいのか考える。皆さん錚々たる演奏家の方々だから、こんな風にやってみたらどうかと提案するだけで、次々に新しいアイデアが生まれて、その度にまた新しい問題が生まれてくるのを、あれこれ話しつつ解決してゆくのは楽しい。チーニ財団の委嘱で98年にピサーティが楽譜を再構成し、エミリオが蘇演したノーノの「森はわかわかしく生命に満ちている」も、こんな作業だったに違いないと想像しながら羽田に戻る。

あの世代の作曲家の歴史的作品を、今後どのようなスタンスでどう演奏してゆくのか、伝統と旧弊の継承と因襲は、今後我々の世代の大切なテーマになる。活発で開かれた議論こそが、文化全体をより深いものに培ってゆく。音楽は再現のみならず、常に創造的でなければならないが、恣意的な創造性に身を委ねると後戻りもできなくなる危険が潜む。自らの過信が一番怖いのだが、演奏は何か明確な方向性がなければひとつに纏まらない。結局古典派もロマン派も近代音楽も現代音楽もまったく同じ。朝5時に目覚ましをセットして今日は眠ることにする。

 8月某日 秋吉台にて
不謹慎とは思いつつ部屋の一番後ろでSくんの楽譜を勉強しながら、徳永崇くんの話をきく。彼がかけてくれた岩手の秘謡「氷口御祝(すがぐちごいわい)」のヴィデオが特におもしろい。男性が高砂を謡い、女性が萬鶴亀(まがき)節をアイブスのように重ねて謡う。

湯浅先生も先日同時に複数の時間を一つの曲に重ねることについて話されていたが、今日は徳永くんがツァイトマッセや、グルッペンについて触れていた。作曲家からすれば、それは純粋に知的好奇心をそそる研究だろうし、演奏家からすれば時間構造が出会う部分で得られる快感かもしれない。聴き手からすれば、それらが組合わさって醸し出されるスリルやエンターテイメント性かもしれない。
先日の夜半の豪雨が、隣の広島で甚大な被害をもたらしたことを知る。

 8月某日 秋吉台にて
鈴木くんや田中くんの面白いレクチャーを聞いて、何も準備をせず秋吉台にやってきた自分を恨めしくおもう。結局作曲の近藤くんが書いてきた「ウサギとカメ」の5音のモチーフと「akiyoshidai」というアルファベットで、たとえばどのように自分なら展開させるか、ボードに五線譜を描いて即席でやることにする。
作曲のレッスンを見学していて、どうして揃って皆がモチーフを変容させずに使うのか、不思議だったからでもある。やってみたのはアルゴリズムのものすごく原始的な方法だが、これをコンピュータでやるのと、手で変化させるのは音が違ってくる不思議について、湯浅先生や田中君が話す。

毎晩のひらかれていた演奏会はどれも素晴らしく、到底一つ一つ書ききれない。特に先入観もなく秋吉台にやってきたが、結果として忘れ難い経験になった。一週間で作曲の学生さんたちと何が出来るのか不安だったけれど、皆さんがとても熱心で、本番は見違えるようだった。ただ譜読みを深夜から朝にかけてするしかないのが辛い。布団には一度も入れなかったし、夜半は睡魔と夢と現実が交錯する幻想的な世界に陥り、後で見ると自分の書き込みの意味がわからない。

 8月某日 三軒茶屋自宅
昨日は羽田からそのまま練習場に向かった。傍らのMさんに詳しく教えてもらいながら、昨日はそれを演奏家に伝えるに留める。それを踏まえて、与えられたごく限られた時間のなか今日何ができるか、練習場に向かう電車のなかで書き留める。
無意識にシェルシやザッパの楽譜を思い浮かべながら、Mさんの教えを枠として演奏家を規定するのではなく、彼ららしい演奏の結果としてその枠が自然と浮き上がるようにしたいとおもう。作曲者がそうとしか書きとめられなかった音楽のすがたを、思い描いてほしいとお願いする。恣意的に傾きすぎぬよう、皆さんのもつ古典の枠組みをうまく生かしたい。

(8月30日 三軒茶屋にて)

風が吹く理由(5)新盆

長谷部千彩

広東語のレッスンを受けた帰り、いつものように教室の数軒隣りにあるコーヒーショップに寄った。普段ならサラリーマンや学生が注文の列をなしているのに、今日は誰も並んでいない。店内は閑散としている。コーヒーとサラダを買い、空いている席に腰を下ろす(といっても、ほとんどの席が空いている)。はっとする。
―あ、もしかして今日からお盆?
道理で朝からSNSのタイムラインに旅先からの写真が多くあがっているわけだ。私は、その中に、スイカと缶ビールが供えられた墓石の写真があったことを思い出した。「好物だったスイカを差し入れ。暑くなる前に、と思って早めに出たけど既に汗だく(–;)」と添えられたコメントと、それを読み、猛暑の中、平日の朝から電車に乗ってお墓参りに行くなんて、彼はどれだけ連れ合いのことを愛していたのだろう、やっぱりあれかしら、ゲイのカップルというのは愛情が濃いのかしら、などと勝手に想像し、勝手に感動していたことも。なるほど、新盆だったのだ。

コーヒーショップを出た私は、事務所のマネージャーに電話をかけてみた。
―今日からお盆みたいね、知ってた?
―らしいですね。
―世の中の人たちって本当にみんな休みをとっているのかしら?
―サラリーマンの人たちはとっているんじゃないですか。事務所に来る時、電車、ガラガラでしたよ。

音楽業界という盆も正月もない世界で働いてきたせいもある。だけど、それだけではない。私がお盆の始まりに気づかなかったのは、私の育った家庭にお墓参りの習慣がなかったということもある。いや、正確には、幼い頃には、その日が来れば、祖父母の家に連れて行かれ、そこから親族とともに車に分乗し、お寺へ向かった。そんな記憶もある。柄杓で墓石に水をかける行為、仏壇の前で煙くゆらすお線香、リンの響き、涼しげな花を浮かび上がらせ、くるくる回る行灯、夜遅くまで続く酒宴のことなど、夏の行事は記憶の断片として私の中に沈んでいる。
けれど、そういったあれこれはいつの間にか私の暮らしから消えてしまった。両親が離婚し、東京に引っ越し、祖父母が亡くなり、親戚とも疎遠になり、いま、私は、田舎と呼べる場所をなくすということは、手を放した風船が空に飛んで行くように、先祖という概念も失うことになるのかも、と考えている。
そして、失ったものがあった場所に芽を吹き、根を張ったのは、人間は死んだら終わり、人間は生まれ変わらない、だから生きている間だけが大事なのだ、という死生観だ。それは、お盆という行事から遠ざかった長い時間を経て、私という人間の立つ強固な地盤となっている。

その夜、予約がとれないと噂のビストロに友人たちと集まった。テーブルがおさえられたのは、お盆で東京に人がいないからかも、とひとりが言った。私は、お盆の間って仕事休んでいる?と尋ねてみた。ふたりとも、休んでいない、と首を横に振る。全員フリーランスであることを考えると、想像通りの答えではある。当然ながら、彼女たちにも、お墓参りに行った様子はなく、また、行く様子もなかった。
誰も彼も罰当たりな。心の中で笑ってみるも、すぐに考え直した。罰なんて当たらない。少なくとも私に限っては。”ご先祖様”という概念がない以上、”ご先祖様”は存在のしようがないのだし、ならば何の加護も受けられないだろうけど、罰というものも当たらないだろう。
バッグの中では、携帯電話が時折唸り、仕事のメールを受信している。明日もやはり暑いのだろうか。何件か回らなければならない用事がある。私は炭酸水を口に含んだ。せめて―せめて夕立でも降ってくれたらいいのに。

島便り(5)

平野公子

あれれれ、こんなつもりじゃなかったんだが…。
半年間に島の若者たちが訪ねてくる、友人が移住して来る、屈託なく話す食べる呑むうちに、島でわたしはイワトではなく、カモメという名の集まりを始めようとしているのです。人ごとのような言い方ですが、ホント人ごとのように始めます。

O君はオリーブ会社の広報で、つまり勤め人ですが、実にライブが好きな若者で、年間優に4-5回は自発実行しているらしい。だいたいこの島はイベント好きです。しかも彼は移住から3年目にして島中にネットワークを拡げている。私は彼にいろんな人を紹介してもらった。車で送り迎えつきで。

 なんか俺大きいライブやりたいんです。 わたしはカフェでやるようなライブはやんないよ。
 どこか、ココならってとこありますか。 無理かもしんないけど、ある! そこならやる!

私が密かに使わせていただけるのならやってみたかった場所は、現存している、年に一度は地元民の歌舞伎舞台として使われている、棚田を見渡せる場所にある農村歌舞伎舞台2カ所なのだ。県の無形文化財でもある。ここで野外音楽祭、うたのイワトみたいなのを年に一度3バンドくらいでやれたら、なんか有り難き幸せなんだが、所詮無理だろうと思っていた。

 俺もいつかあそこでやりたかった。やりましょうよ。ウエー、あそこ出来るんかな? 
 これから俺動きますよ。公子さんだったらどんなプログラムになりますか?

そんな話をしたのが4月。で、結論から言うと、来年5月9日小豆島音楽祭「風が吹いてきたよ」@農村歌舞伎舞台 実現できることになってしまった。どこの地方でもそうだとおもうが、島と言っても一様ではなくて、かなり細かく地区/集落が別れている。それぞれ地区ごとに気風が大部ちがうようだ。O君が地区のひとたちに段階を踏んでプレゼン(説得)するまでには3ヶ月が必要だったようだ。私は一度もそこに参加していない。どんな言葉がやりとりされたのかも知らない。

快諾もらいました。という嬉しそうな電話がきただけ。でもそれで充分。実現には問題山積なのは当然だが、音楽祭の準備は幸運をもってはじめる。O君とそして参集してくれるみんなと。

(残暑のため、この続きは次回にします。食品のこと、農産物のこと、イラストインタビューのこと、レクチャーシリーズのこと他進行中のこと、それぞれの人とそれぞれの場所でつぎつぎはじまりそうです。で、全体をカモメと名づけたのでした)

青空の大人たち(3)

大久保ゆう

 たとえば自分が乳児の頃マスコットだったなどと申し述べると人は聞いて何だよくある持て囃され型の幼児かと思われるだろうし少し事情を知る人ならうちの家業が洋品店であったことを思い出して我が子かわいいあまり商品や店名にその名を付けたり広告に用いたりするあれかとも察されるのかもしれないがここで綴るのはまったくそういう話ではない。

 家業の店舗の三軒隣、実家とは直接関係のないいわゆるギャルレ――つまり専門店の集まる建物――があり、一歳になるかならないかの頃、その一周年の記念に私は販促として広告に用いられたのであった。むろん親の許可はあっただろうが本人の同意などなく今や当時の二色刷のチラシから読み取るしかないが確かにそこには自分の名と写真がある。そして以後周辺では自分は本名ではなくその建物の名称であった鼻濁音入りカタカナ二文字の末尾に「夫《お》」をつけた実に益体もなく自我があれば屈託のひとつでも見せなくなるようなあだ名で呼び習わされたわけだが(鼻濁音の気恥ずかしさをぜひとも考えてみてほしい)、そもそも私が選ばれたのは同じ町内に一歳になろうかという子が三人しかおらず他のふたりに拒まれたため同じ町のよしみで商い上のギヴ&テイクですなわち子どもにはあずかり知らぬ大人たちの政治上の取引の道具にされてしまったというわけで、何かしらそこには子を表に出したいという親馬鹿も多少もあったのかもしれずそうなると抗議のしようもなく照れるほかない。

 ともあれ。そのギャラリアは一種の庭であった。しかしそれは自分がそこで遊んだとか心温まる触れ合いがあったとかましてや原風景であったとかいうような類いのことではなく、ただ家を出たところにある前庭であったというだけで、それだけに今でもどこに何があって何を買ったかということを覚えているにすぎない。

 入口をくぐると病弱なおのれにとって欠かせぬ薬局があり少し進めば香ばしく薫るパン屋がある。広めのスーパーマーケット然としたエリアを抜けると精肉・生魚の個別店舗が構えておりその裏には乾物や菓子の小売りで青果の奥をゆくと弁当屋と花屋があるという具合だ。階上には玩具店・手芸店・化粧品店・文房具屋・家電屋、あとは衣類を売る店や筐体ゲームの一角もあったはずで催事場もありそこではよく玩具屋がイベントや大会を開いていたのが一度も勝ったことがない。エレベーターの隙間に五〇〇円玉を落としたことやエスカレーターの隙間から見える緑色の光が怖かったことなどギャルレのあらゆる〈ひび〉然としたものが恐怖の対象として現れたのも今となれば一興である。

 しかし幼い記憶を掘り起こそうとしてもどうにも思い起こせることが大してないが、印象深いのは商う人々の顔が楽しそうであったことだろう。とりわけ夏に建物の裏の川で花火を打ち上げる日には普段解放されない屋上を開け、建物内の商店総出で縁日をやり近い町内の人々を集めて皆で夜空の華に興じた。商うとは何よりも自分たちが朗らかであることが大事だというのがおそらくは商店主たちの総意であったのだろう。

 そもそもその建物が築かれたのは以前のギャルレが火災によって焼け落ちたからだという。そのときの写真は見たことがある。さいわい怪我人こそ出なかったが何十という店舗が灰燼に帰した。してみれば多くの商店主にとって新しいギャルレは再起の砦であったことは疑いの余地がない。ならばこそ再生を意味する赤子を象徴に用いたのだろう。祭り上げられたおのれがそれをうまく言祝げたかと言えば、みじんも自信がないばかりかあろうことか失敗してしまったのだと思う。なぜならその建物は今や陰形もなく、うちの家業が店じまいするよりもずいぶん先に閉鎖・解体されて高層集合住宅に建て替わっている。当時の店は同じ町にはいくつと残っていないし、個人的に知る数少ない主たちも少なからずすでに物故している。

 どうにも〈顔〉を出すことで周囲に与えたあるいは自身が得られた実用的効果はこれまでのことを考えても微々たるものなのだが、新聞取材なども同様である。初めて大きく載ったのは朝日新聞で高校生の時分だったがそのときは校内にいらっしゃる嬉々とした年配の方々によく声を掛けられた。一方で生徒や教師間ではただよくわからない陰口や世間話の種にされただけで評判は下がりこそすれ上がりはしない。とはいえそのとき来てくださった記者はたいへん誠実な方で、ともに取材された人物はマスコミ嫌いであったが丁寧に説得なさって結果立派な記事ができあがっていた。その後毎日新聞や讀賣新聞の方とも接することがあったが、こうして最終的に〈記事〉を仕上げてくださった方々は何ら傲慢なところもなく田舎の少年に向き合ってくださりジャーナリストとはかくたるものかと思い知らされたものだ。

〈仕上げた〉とわざわざ書くのはむろんそうではなかった人もいたということで、あるとき公共放送から若者と文学というつながりで番組を作りたいという取材申し込みが青空文庫経由で来たことがあり少年はどうぞどうぞと取材日を決めたが結局その日が来るまで以後の連絡もなくどうしたものかと思っていたらそのまま放送日が来てしまいそれを見た青空文庫の富田倫生さんがたいへん激怒されたということがあった。自分はそれなりに斜にも構えたいっぱしの思春期であったのでTVとはそんなものかと達観したものだったが怒り心頭の富田さんはその制作会社とは今後一切関係しないとおっしゃられるまでに至ったため、悪いことをしてしまったと個人的にたいへん申し訳なく思っている。

 それからというもの富田さんつながりで何かしらの縁ができたが結果として実を結ばなかったことが取材・仕事を含め複数あったのだがご本人の耳には入れないよう苦慮したもので、不快な気持ちは自分のなかだけで済ましておくことにしたのだ。誰かと誰かの縁を強めたりつないだりするのはいいが、マスコットとして不出来なおのれが人や商いの縁を切ってしまうことだけはどうしても嫌だったのだ。今から思い返せば温度差や理解差みたいなものがあったのだろうと思うし、富田さんはたびたび私のこと(それも私にも思いも寄らない所)を褒めてくださったが富田さんの周囲の人はその熱と内容がさっぱりわからないといったふうで、自分もそういった視線に晒されて肩身の狭い思いをしつつ期待に応えようとするのだが富田さんにしかわからない直観を富田さんならぬおのれが一生懸命説明しようともやっぱり相手にはわからない。そうして私の習作は富田さんだけが気に入ったまま数年が流れたあと突如として話題となり当時わからなかった顔をしていた人たちが持て囃すのが恒例だったが、それには富田さんも嬉しそうだったので自分も何食わぬ顔をしてそれを受けた。むろん親や周囲の人も喜んでくれるのだから過去の不快が何であれ拒む理由などないわけだ。

 要するにメディアに顔を出すというのは自分のためではなく、むしろ不出来なマスコットながらも自分を育んでくれた周囲の大人たちが満ち足りた気持ちになるからだと言える。かつての商店主たちへの恩返しというよりは詫びといった類のことで、主たちは今の自分を知らぬかもしれないばかりかすでに亡くなっている人々もいるのだが、とりあえずはメディアを通じて湖の上に広がる虚空に顔を出すことだってできようというものだ。

『海からの黙示』をめぐって

高橋悠治

2011年3月11日14時46分、地震があった。渋谷駅の地下鉄出口で階段をあがったときだった。長い揺れの後で外に出てみると、人びとが空を見上げていた。何かが見えたのだろう。携帯電話は通じなくなっていた。電車は停まっていた。わずかに残っていた公衆電話から家に電話をして、まだ走っていた路線バスで帰ったが、数分後には公衆電話の前に長い列ができていた。その後バスも停まり、道路は渋滞し、人びとは何時間も歩いていた。

帰ってテレビを見ると、どこかの工場が爆発して白い煙を噴き上げていた。でも、それはまだフクシマではなかった。フクシマはもうはじまっていた。いまも終わっていないし、終わりはないかもしれない。

金属の筒に入ったウランの粒が鉄の釜のなかで発熱して、水を蒸気に変える。釜の外から水で冷やしているが、その水はタービンの羽に吹きつけられて電気を起こすその蒸気が、冷やされて水にもどったその水らしい。と聞けば、永久運動機関のように、いつまでも発電し続ける夢のような機械のようにも聞こえるが、そんなことがありうるだろうか。機械はすこしずつすりへって、こわれていく。鋼鉄もコンクリートもやがては風化してぼろぼろになる。国だって何千年も続かない。国滅びて山河あり。物質の発熱は何万年続くのか。

広い窓から海が見え、対岸には白い建物が小さく見えた。千年も前からこの土地は、都に食物と奉公人を送っていた。いまは補助金もあり、出稼ぎもなく、都市に電気を送る。格差の構造は変ったのか。

2011年3月11日は一つだけの災害ではなかった。一つの島だけでなく、地球全体で地震、津波、台風、大雨、落雷、竜巻が毎年起こっている。水の惑星の水は動きまわり、地層も呼吸し、身震いしてバランスをとる。人間の技術は惑星をうごかせないし、その動きも予測するには大きすぎ、複雑すぎる。わからないことがおおい。それでも、「リスクのない技術はない』と言いながら、停めることができない装置を作る会社があり、他の国にも売りつける政治家がいる。

富山妙子が描いたいくつかの絵と、絵葉書を見ながら、2012年の暮に24分のピアノ曲を録音した。その音楽に添って、絵にもとづく映像が作られた。「死して成れ」というゲーテの詩の一節。グリーグの『蝶』というピアノ曲のリズムとパターン。こうして『海からの黙示』というディジタル・スライドができた。

光をもとめてろうそくの炎に飛び込む蝶、日本では蛾と呼ぶが、「死んで生まれる」ことがなければ、暗い地上にひととき身を置くだけの存在にすぎない、と書いたゲーテは、科学者でもあった。原子の火に焼かれた蝶はいつかまた飛ぶのだろうか。

静かな海、崩れた建物、積み上がったがらくた、人のいない春。見えるものから見えないものを想像するしかない、怖れをもって。音楽が聞きなれない音を立て、映像はさまざまな記憶や自由な思いを呼びこむように。

えげつなき人々

さとうまき

日中は、45℃を超える。夜になっても温度は下がらない。息を吸い込むと熱風がのどを痛めるから、少しずつ息をする。そして、ここ、北イラクのアルビルは、冷房も停電で効かないことが多い。事務所の前には、下水が流れていて、少し臭いが、この水のおかげで少しばかり気温は、低い気もするが、当然不快感は増す。

イラクとシリアでは、「えげつない」戦争が続き、避難してくる人たちが後を絶たない。

僕は7月、写真家の村田信一とともにヨルダン、イラクを旅していた。おりしも、ワールドカップの決勝トーナメントがはじまり、僕は結果が気になっていたのだが、村田氏は、あまりサッカーには関心がなかった。「もともと、戦争で敵の首をはねて、蹴って勝利を祝うところから発生したみたいですよ」と教えてくれる。俄かには信じられないが、イラクやシリアで勢力を伸ばしている「イスラム国」は、シリア軍や、イラク軍兵士の首を切り落とし、橋の欄干に串刺しにしたり、まるで、オブジェの様に切り落とした首をいくつも並べてワイヤーでつるしている。村田氏は、「なんてこった」とため息をつきながら、毎日のように、そういった映像を見つけては、教えてくれた。僕たちは、イラク難民やシリア難民というくくりではなく、「イスラム国」の恐怖から逃れてきたばかりの人たちのキャンプを訪れた。モスルからアルビルに入る州境の検問所の手前にできたハザールキャンプは、テントの数も足らず、駐車してあるトラックや車の日蔭に集まってぐったりしている人々。ペットボトルの配給があると殺気立って集まってくる人々。またアルビル市内の工場の跡地に避難してきた人々は、豚小屋の様にフェンスだけで仕切られ、いくつもの家族が死んだように折り重なって眠っていた。

「なんてこった!」
僕は、言葉を失い、完全に「人道支援」というものにもやる気をなくしてしまった。そして本当に小さな支援活動しかできなかった。

7月8日になると、イスラエルはガザの空爆を開始した。
「なんてこった!」とため息はさらに深まっていく。
「えげつない」としか言いようのない殺し合いが続いている。

しかし、帰国すると、僕が団体のHPに投稿した「えげつない」殺し合いという言葉は、知らぬ間に、「むごたらしい」と変えられていた。問いただすと、関西弁だからだめだという。

「なんてこった!」
このえげつない世界をどう変えていけるのだろうか?

ふわ〜り ふわ〜り

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

降りていく 降りていく
ふわ〜り ふわ〜り
別れには こころも萎える
生きていくことは
こうもはげしく疲れ
消耗するものか
それでも
感銘がある

はるかに遠い昔のこと
ひとに応えた経験
扉に向かって耳を傾ける
風の音がする
強く 速く
ヒューン ヒューン

降りていく 降りていく
ふわ〜り ふわ〜り
それはきっと愉しいことだった
何処へ行く
健康そうな少女
プルメリアの花が一面に散っている
樹は空へ向かってすっくと立ち
その枝は月に届いて
月に寄りそう

わたしは倖せ
わたしは哀しい
寂しい 寂しい 寂しい
孤独だ
海に想いをはせる
人気のない岩礁
山に想いをはせる
まだらに禿げた山
霧と露を想う
しずくが ポト ポトッ

今夜はきっと哀しい
しょんぼりと座っている
楊枝をつまみあげて
前歯で噛んでみる
かじる かじる かじる
そして 捨てる
静寂がやってくる
喉の奥でうたってみる
寡黙に奏でる
そして暗闇にまっしぐらに落ちていく

(1983年作品)

117アカバナー2 化(まぼろし)

藤井貞和

月しろの光、 光のくさむらに、 (のたうつかげのわれらの― 不乱
舞茸を舞々つぶり、 食えば舞う。 (かなしむ― 月光下の、 撒(さん)である
月の兎、 (腐肉の犠牲。 いま明かり行く真性の菌(たけ)に  食われて
夏越しの茅の輪、 (燃える地上にかげもまたスリラー、 潜るスクリーン
うしろ正面の磔。 (怪かしの来てむさぼる、 ぼろぼろの鬼ごっこ
地底に届く足と、 (浮く手と、 眠りの擬態と、 月しろの磔刑
再びひきこもり― (君(きみ)、 さくらじま、 火のなだれくる無慚を恋えば
美神― 君咲く。 地の底の(「火の壁を越えよ」と声がする、 抗議
Spirited away!  脳(なづき)の(白さ、 骨通し来たる春、 遅い田植えというか
みとせのあなた、 鼠知らせの(啼き、 聞こえ、 還り来る花火の― 化(まぼろし)
神が来る風葬のあとの― しらじらと洗う(手足に、 まだ呪詛が足りないのか)、 俺
あらしのゆくえ、 いつしか)みとせの(あなたに遠のいて)、 化(まぼろし)が来る
嘆きの水よ)、 くれないの死者に)寄り添う(小動物を追う)、 あぶくま― 遙か
吹き落ちて)、 心火のあまい)乳汁を、 あかごなす、 魂か― 泣きつつ渡る)
つぶたつ) 粟のそじしに、 惨として別れた)。 そじしが)切り立っていた)

(韻律をなさず。((((波紋(光)波紋(音)波紋(光)波紋(踏む。)波紋(光)波)紋(光)波)紋)。)

台風と台風のあいだ

仲宗根浩

この前の続き、缶詰の「すとぅー」には島豆腐となーべーらー(へちま)をいれて鍋で暖められ立派な沖縄の家庭料理になった。ちゃんぷるーにスパムなどのポークランチョンミートを入れたりとアメリカの缶詰が沖縄の料理に入って来た。ツナ缶の「とぅうなー」は沖縄から熊本へ引越したときに同じ製品でも「とぅうなー」では通じなかった。復帰前と復帰後の日本のチョコレート、マヨネーズの味の違いに子供ながら愕然とし、慣れるまでに少しの時間が必要だった。その頃は英語という認識がないまま使っていた言葉がある。米兵相手に雑貨やチャイナ風の色っぽい衣類を売っていた店を「しゅうべに屋ぁ」と呼んでいた。近所に何軒もあった。これが英語の「souvenir」を元にしているのを知ったのは中学生くらいだったか。そういうお店に入る米兵は「はろー」、挨拶でハローを連発するから。二週間ごとに忙しくなるときは「今日はぺいでい(給料日)だから。」と大人は話していた。

大きな台風と警戒を促された台風は進路予測がいつの間にやら変わっていた。危ない西海岸コースを通る。もう少し本島よりだったらうちのアパートの一階店舗のシャッター二枚めくれ上がっただけではすまなかっただろうし停電は必至。小学校は台風が過ぎた翌日の豪雨でまた休校となり子供は二連休。月末は雨台風で職場を一人で雨対策のため養生したあと、「レッド・ツェッペリン、リマスター・プロジェクトの第二弾発表!」のお知らせメールが届く。六月に届いた第一弾の三枚の音圧、車の中で通常聴いているヴォルームだといきなりスピーカーの音が割れた、とアナログ感満載な音の仕上がりのためすぐ予約。数ヶ月前にちゃんとしたオーディオセットがあるところでツェッペリンのアナログ盤を聴いたときにかなりの音の良さを再認識。さすがに各面後半になると音がしょぼくなるのはしょうがないとしても両面一曲目の出だしのロックな音は最新リマスターにも負けない。音楽のメディアとしてのCDもいつまで続くのか、もうそろそろ終わるのか。

棺桶の入る家

冨岡三智

何か月も続いていた自宅の改装がやっと終わる。家の改装を嫌がっていた父が亡くなったので、母は心おきなく踏み切ることができた。いままで店舗にしていた所も部屋に改装し(もう廃業しているので)、玄関も普通の家のようにする。玄関を開けるとすぐ正面に上がり框と引戸があって、まっすぐに部屋に入るという、いかにも昭和の住宅という感じのデザインになった。うちは終戦直後に建てたようなボロ住宅なので、構造上デザインも限られるとはいえ、もうちょっとお洒落な改装もできたかもしれない。けれど、私としてもこの昭和風にしたいという希望があった。(決定したのは母だけど)。つまり、棺桶を部屋から運び出せることのできるデザインにしたかったのだ。

店舗だったときは、店の扉こそ大きかったけれど、棚をたくさん据え付けたために裏の住居部分に続くドア周辺が狭くなってしまって、棺桶が通らなかった。だから納棺は座敷ではなくて、店のちょっと広くなった所でやるしかなくて、人に父を抱えてもらって店まで運んだ。せめて母が亡くなったときには、ちゃんと座敷で納棺して、そのまま玄関から担いで運び出してあげたい。

こんなことを考えるようになったのは、以前に読んだ養老孟司の『死の壁』の影響が大である。解剖医の氏がある遺体の棺桶を高層団地に運ぶときに、団地は人が死ぬことを想定して建てていないことに気づいたということが書かれていた。最近では団地だけでなく一戸建てでも、表から玄関の中が見えにくいように、あるいは奥行を出したり高級感を持たせたりするために、玄関へのアプローチから中の廊下に至るまで、曲がっていることも少なくない。こぢんまりした家やマンションなら苦労するだろう。養老氏の本を読んで以来、そういう造作の家を見ると、棺桶をどうやって入れたらいいのか、やたら気になるようになってしまった。

風が吹く理由(4)獅子座

長谷部千彩

7月が終わりに近づくと、毎年思い出すことがある。父の誕生日のことだ。

両親は私が14歳の時に離婚した。そのことについてネガティヴな感情の記憶はない。寂しくも悲しくもなかった。
父はどうやら子どもという生き物が好きではないようだ―そう幼い頃から感じ取っていたので、父が出ていくのは、家族の誰にとっても正解だと思った。むしろ、これから自分の身に起こる諸問題、進学や結婚について、父がいないほうが選択の幅が広がるような気がした。当時は、娘は自宅から通える大学に進学させたいと考える親も少なくなかった。

それでも、20代半ばまでは、時々父と会ってもいたし、連絡をとりあってもいた。語学留学していたパリのアパルトマンで手紙を受け取ったことを覚えている。しかし、その後は、私も働き始めて忙しくなり、すっかり疎遠になった。もう20年近く音信不通だ。もともとお互いの生活に特に興味もなかったし―父が書いた文章が何かに掲載されたといって冊子が送られてきたことがあるが、元気だということはわかったので、一読して捨てた―、振り返ってみれば、面会も、父と娘の責任を果たすためだけに会っていたという気がする。母が気を使ってその段取りを組んでいたのだと思うけれど、学生時代の私には、正直なところ、喫茶店で父と会う一時間がもったいなかった。父も早く帰りたそうだったし、私も友達を別な喫茶店に待たせていた。
そういう意味では似た者同士の平和な関係だ。

父は七月生まれの獅子座、私が九月生まれの乙女座、母と弟、妹は六月生まれの双子座だった。星占いを信じているわけではないけれど、実際、双子座の三人は感覚的に似ているところがあって仲が良く、父と私はそれぞれ単独行動をとるタイプだった。だから、父に対して何を感じることもないが、自分の中に父に似たところがあるとは思っている。私がひとりでいるのを好むのは、きっと父から受け継いだ性分だろう。

数年前、ふと思い立ち、妹に「パパと連絡とってる?」と尋ねたことがある。妹は、当然といわんばかりの表情で「とっていないよ」と答えた。そこで、今度は母に、「パパって生きてるのかな?」と訊いてみた。母は突然の問いに、きょとんとした顔で、「生きてるんじゃないの?」と言う。「パパが死んだら、誰かうちに連絡してくれる人っているの?」と、私がさらに尋ねると、「いないけど」と拍子抜けするような返事。逆に「えっ、あなたパパに会いたいの!?」と驚かれてしまった。私は、慌てて、「全然、そんなこと思っていないけど」と否定した。
「いや、年も年だし、死んでいてもおかしくないかなと思って」と、質問の真意を説明したけれど、母は私がセンチメンタルな気分にでも浸っていると誤解したかもしれない。

結局、私が知ることができたのは、父が生きているか死んでいるかわからないということ、それから、たぶん私たち家族の中で、父は永遠に生きていることにされるだろうということだ。打ち上げられた衛星が地球の周りをぐるぐる回っているみたいで面白いなあと思った。しかし、きっと父も―生きているならば―、打ち上げられた衛星が地球の周りをぐるぐる回っているみたいに、子どもたちは元気に暮らしていると、勝手に思っているだろう。私たちは父を安心して忘れている。父も私たちのことを安心して忘れている。

7月が終わりに近づくと、毎年考えることがある。人は疎遠になった者のことを、生きていることにも死んでいることにもできる。動かしがたい生は、いま目の前にいる人のものでしかない。

製本かい摘みましては(101)

四釜裕子

月の始めにカレンダーをめくる。旭川のアドヴァンス社の大きなものと、栄光舎の3カ月一覧型の2つ。部屋掛けはこれっきり。実家には各部屋にカレンダーがあった。トイレや廊下、洗面所にも。茶の間にいたってはたいてい2つ。小さいころは柱に日めくりカレンダーもあり、おはようを言うころには毎朝祖父が「今日」にしていた。柱時計のねじを巻くのもジュウシマツに餌をやるのも祖父。どれも子どもには興味のあることで、ねだるうちにカレンダー以外は姉とわたしのしごとになった。『時をかける少女』で日めくりカレンダーをめくるのは原田知世の妹。祖父はなぜ孫にそれを譲らなかったのだろう。ただいちばん早起きだったからとは思うけど。

アドヴァンス社のカレンダーにはきまぐれに予定が書き込んである。電話をしながら、話しをしながらのなぐり書き。二重三重丸に矢印など。改めて見ると、予定が変更になったときに書き込んでいる場合が多い。けっこう可笑しい。あるとき思った。細かく記録するたちでもないくせに日記や手帳はいつまでもとっておく一方で、めくったカレンダーはなぜこうも当たり前のように捨てるのだろう。破るからか。そのことで「カレンダー」としてのかたちは瞬時に無くなり、いらぬものになってしまう。切った野菜が排水溝に落ちた瞬間に生ごみになるのに似ている。終わったぞ、めくるぞ、破るぞ、捨ててやる。とりかえしがつかない、というエクスタシーを与えるアクションだ。このアクション連鎖を断ってみたい。破った1枚を捨てたくないかたちに変化させたらどうだろうと考えた。

カレンダーの一日分の大きさが等しいことは、「本」のかたちに限りない親和性を感じさせてくれる。周囲の余分を切り、左から右から交互に切れ込みを入れて蛇腹に折って、一日分を一ページとした本のかたちにする。これをよくプレスしているあいだに、カレンダーに大きく描かれた「月」をあらわす数字の部分を切る。数字が表1にくるように案配して折り、表紙カバーとして中身にかぶせる。何冊も作るうちに蛇腹折りのずれは減り、束も、チリのとりかたも安定してきて、左右520ミリ、天地750ミリのひと月分のカレンダーが、左右75ミリ、天地100ミリ、背幅5ミリ、文庫本のおよそ半分の大きさの「カレンダー本」になった。限定一部の月刊誌の発行が今も続いている。

「ライカの帰還」騒動記(その10)

船山理

新潮社への入稿に、あらかたメドがついたころ、マガジン社の近ごろの動向が耳に入り始めた。正直、社内のドタバタなどに興味はなかったのだが、自分の部署やスタッフにも影響しかねないとなると、あまり能天気でいるのも何だな、と思う。社内で飛び交うウワサ話の中に「船山はハシゴを外された」というのも聞こえて来たから、ほー、そうなのか、うんうんと、ひとりで頷いていたのである。

私が作家さんとの打ち合わせで社外を飛び回っていたせいで、社内事情にすっかり疎くなっていたこともあるのだけれど、いくつかのウワサ話を組み立てると、何となくその全貌が見えてくる。まず、経理部の女性の寿退社があった。これは式にも呼ばれたし、ビデオ撮影も依頼されたからよく覚えている。問題はその後任人事で、会社はこれを契約社員にすると組合に通達した。今どきなら、何てことない話だと言っていい。

ところが、それまで会社との間でこれといった争点のなかった組合にとって、このことは格好の攻撃材料になった。いわく、これまでマガジン社の業績を支えてきたのは、社員の頑張りに他ならない。なぜ正社員として迎えないのか。契約などという不安定な雇用は許さない、と噛みついたのである。これに対して、会社側は「社員採用の条件を含む、すべての人事に関する裁量は会社に帰属する」と一蹴した。

そして組合は、この回答に「残業拒否」で対抗する。確かに雑誌は編集スタッフの頑張りで支えられている部分が少なくない。誰も好き好んで残業を繰り返すわけではなく、担当ページのクオリティをキープするには、自分の身を削る以外に手段は見当たらないし、編集現場は半ば、これを当然のこととして受け止めていた。そこに19時以降の残業を拒否するとなると、雑誌の「勢い」は見事に止まってしまう。

この事態を会社も組合も甘く見すぎていた。会社側にしてみれば、多忙な部署では通常の勤務時間の倍近くにもなる膨大な残業代を払わずにすむのだから、結果的に大幅な人件費の削減になる。組合側にすれば、残業がなくなれば、もっとゆとりのある生活が楽しめるので、何の不都合があろうか、というわけだ。どちらもこの会社を支える原資が、どうやってつくられているのかを見失っていたのである。

私に言わせれば、これは双方の「平和ボケ」以外の何ものでもない。これまで順風満帆で来ていたこの会社は、潤沢な内部留保金とその運用益で経営的には何の問題もない、と判断していた節がある。ところが組合の残業拒否は、あるまいことか1年半も継続した。これは雑誌社の寿命を縮めるには、充分すぎるほどの時間だった。雑誌の実売り部数は軒並み大幅ダウンし、編集長たちは蒼白になった。

意地になって一歩も引かない構えを続けていた社長の林さんに、会社のオーナーが助け船を出した。これが常務の大園さんである。しかし、この人には野心があった。ウワサ話の中には、彼が「マガジン社の次期社長はオレだ」と、あちこちで吹聴しているというのもあった。そして編集担当取締役だった見山さんを更迭し、編集と営業の役員に自ら抜擢した若いスタッフを配置して、林さんへの包囲網を築いたのである。

次に彼が手がけたのは、林さんの提唱した「余計なこと」の芽を摘むことだ。コミックの事業展開は、まさにその筆頭だった。とんびの眼鏡・総集編の販売価格が、当初の予定から大幅に引き上げられたこと、販売部長と新しい編集担当取締役を伴ってのコミックコード取得で、あまりにも唐突な引き下がり方をしたこと。なるほど、すべてに辻褄が合ってしまう。ハシゴを外された、というのは、こういうことか。

つまり、あの取次でのコミックコード取得交渉は、茶番劇であったということだ。知らなかったのは私ひとりで、取次の担当者はウチの販売部長と口裏を合わせ、調べればすぐわかるようなウソまでついて、私にコード取得をあきらめることを強いた。ははぁ〜ん、である。新編集担当取締役の田中さんが「ウチでコミックをやるのは最初から無理だったんだ」と言った言葉も、これで納得がいく。

要するに「とんびの眼鏡」は、ウチの会社では成功してはならないものとして、決定づけられていたことになる。私はこのことを確信したとき、大いに落胆したかと言うと、それは微塵もなかった。大手出版社である新潮社が注目してくれたことに、誇らしい気持ちでいっぱいだったからだ。もっともこの単行本の話がなければ、私の気持ちはズタズタだったに違いないのだが。

ややあって、とんびの眼鏡・総集編の販売実績が出たというので、私は役員室に呼び出された。そこには林社長の姿はなく、大園さんの左右に編集担当取締役の田中さん、営業担当取締役の梶田さんが陣取る。大園さんは販売部から提出された書類を前に「7万部を刷った総集編の実売り部数は、わずか1万部にも届かなかった。この責任をどう取るつもりだ!」と私を一喝する。私は茶番劇に付き合うつもりはなかった。

とんびの眼鏡・総集編は、月刊カメラマン別冊というカタチで販売されました。これは後に取次からコミックコードを取得し、単行本として展開するための布石だったはずです。書店の店頭に2週間という、ごく短期間の販売にも係わらず、しかも廉価版でありながら法外な価格を付されて販売されたこの総集編は、1万部と言えども大いに健闘したと思っています。私は彼らの前で胸を張って答えてみせた。

大園さんは苦虫を噛み潰したような形相になり、やがてあさっての方角を向いて「これでコミック編集部は解散だな」と言う。私にはこれも織り込み済みだった。会社に望まれない、足もとのしっかりしない部署で、大事な作家さんたちとお付き合いさせてもらうわけには行かないからだ。私はニッコリ笑って、たいへん残念です。それでは後処理に回らせていただきますので、これで失礼しますと席を立った。

やがて、コミック編集部は翌年3月末をもって解散する旨、通達が出た。さすがに素早い対応だ。と感心する。3月末と言えばまだ半年はある。この時間を有効に使って、吉原さんを始め、係わらせていただいた作家さんたちへの連絡や、突然に連載が終わったという印象を持たせないよう、各編集部の編集長たちと綿密な打ち合わせを行なう。編集長たちは、一様に私に気の毒そうな目を向けてくれた。

私にしてみれば、とんびの眼鏡が「ライカの帰還」と名を変えて、新潮社から単行本出版されるんだよ! と彼らに伝えたかったのだけれど、これはもう少し内緒にしておこうと思った。私がその制作に係わったということが知れると、余計なトラブルを招きかねないし、ヘンな横槍を入れられるのもマッピラだったからだ。もっとも心配だったのは、マガジン社が何らかの妨害工作をすることだった。

しかし、これは杞憂に終わる。例の友人からの受け売りだが、たとえ企画そのものが、その出版社のものであり、連載中の原稿料を支払ったからといって、出版社には何の権利も生じない。作品の著作権はすべて作家に帰属し、作品をどこで出版するかを含めて、作家さんにすべての権利が生じるということだ。判型に関しても、総集編のB5サイズに対して新潮社の単行本はA5サイズであり、これもクリアしてしまう。

いくら出版社が、これはウチが携わった作品だと言っても、作品はあくまで作家さんのものなのだ。掲載権という言葉があるとしても、出版社はその第一次掲載権を作家さんから「借りている」に過ぎない。だから、どちらかの都合で他の出版社から単行本が出ることになっても、誰も文句は言えないのである。さすがに同じ判型で出すことはご法度だが、サイズが違えばOKというわけだ。

念のため、私は「ライカの帰還」のあとがき(解説)を執筆した際に、末尾のクレジットを「編集部」としている。これは新潮社の編集部によって書かれたものですよ、という意味合いで、私の影は見えないようにしたつもりだ。だから文中に、このストーリーは実話をベースとしていて、そのモデルは、もと朝日新聞社、出版写真部部長の船山「さん」である、と親父を紹介している。

後日談になるが、新潮社版「ライカの帰還」にカットされた3話を加え、B6版で幻冬舎から刊行された「ライカの帰還・完全版」では、初めて原作は私の手によるものと、吉原さん自身が明かしてくれている。ところが解説部分をトレースするにあたって、幻冬舎はこのクレジットに私の名前を入れてしまった。息子が親父を紹介するのに船山「さん」はないだろう。言ってくれれば「父」と書き直したのに。

やがて新潮社から「ライカの帰還」が刊行された。表紙には親父から借り出したライカDⅢaが、大戦中に発行された新聞をコピーした紙に包まれた状態の写真が使われている。これは最終話でライカが主人公の手に渡るシーンを再現したもので、アイディアは例の友人であり、撮影は田中長徳さんだ。親父はこの本を手にしたとき、これまで私に一度も言ったことのない「おめでとう」という言葉をくれた。

私には、もうひとり、この本をいち早く届けたい人物がいた。大園さんによって関連会社に異動させられた、もと編集担当取締役の見山さんだ。彼の職場に赴き、これがボクの出したかった「カタチ」ですと手渡すと、しばしの間、本を見つめて「とんびの眼鏡のタイトルで、ウチから出したかったな」と呟き、私に握手を求めた。私は不覚にも大粒の涙を堪えきれなかった。

対立は対立しか生まない

大野晋

このところ、対立に伴う争いのニュースが絶えない。人類は対立するしか能のない生き物なのかと悲しくなることもしばしばである。しかし、ちょっと待てよ、と考えてみた。

一般的に対立の先に行きつく所は決まっている。
(1)言い争いになる
(2)手が出る
(3)にらみ合いになる(冷戦)
しかし、対立の先に行きついたとして、問題が解決したと聞くことはない。

洋の東西、兄弟喧嘩から夫婦喧嘩まで、対立を生む原因は「主張の食い違い」である。普通の場合には、話せばわかることが多い。それは、相手の立場の理解不足が対立の構図を生んでいることが多いからだ。対立は、相手のことを知ることで解消することが多い。
ところが、「譲れないこと」が原因になると、お互いの主張が並行線となり、対立が争いにエスカレートする。夫婦であれば、離婚の危機ということだが、国家間になると最悪の場合、戦争が巻き起こる。その原因には「棚には上げることのできない」なにかが存在する。

多くの譲れないこととは。
(1)信じていること:信仰の理由、主義の理由
(2)自分を曲げたくないという気持ち:わがままや多数派の力学
(3)なんとなく???

ここで気づいて欲しいのは、そういう場合、対立が続くということは相手も譲りたくないと思っているということだ。全くもって、人間というものは困った存在なのだが、少し気持ちを切り替えることで打開策が見えたりしないものだろうか?

例えば
(1)双方が  :片方だけではみんながハッピーにはなれない
(2)相手のことを考えて  :自分の主張だけをするのではなく
(3)良い落としどころを探ること :世の中を探せば、結構、いい落としどころは見つかるものさ。

こんなふうに考え方を変えると、対立が少しでも実りの多い議論に変わるのではないか?と考えている。ときに、対立しているという状況になっているとき、どこかにその対立を望む勢力がいるのではないかと疑ってかかることが大切だ。世界で起きている対立の構図を見ながら、そして10年近く前のマクロスFというアニメーションを見ながら、そんなことを考えた。

青空文庫も、少し、延長反対!だけではなく、落としどころも考えてみたらいいんじゃないのかな?