しもた屋之噺(58)

杉山洋一

ミラノに引っ越して今日でちょうど一週間が経ちます。住んでいるのはミラノの南にあるポルタ・ジェノヴァ駅からアレッサンドリアへ伸びるローカル線に面したロフトで、友人の建築家のフェラーリが元来あった工場の側面をそのまま生かして作った一見コッテージ風な建物です。まだ台所も完成していないので、取り敢えずは携帯ガスコンロと電子レンジで料理を見繕い、一昨日テレコムが工事に来て見ると、新居にはまだテレコムの回線が引いてないというので、あわてて昨日既に回線がひいてある別の電話会社に契約に出かけたりして、なるほど新生活を始めるというのは、煩瑣なことがずいぶん沢山たまっているものだと妙に感心させられます。

イタリアの生活には馴れているし、10年以上前に初めてイタリアに住み始めたとき、文字通り何もない生活から始めて今に至るので、ある程度肝が据わっていますが、10年間住んだブリアンツァを捨てて、初めてミラノに住むというのは、なんとも不思議な気がします。この家は通りからずいぶん奥へ入ったところにあって、ボルガッツィ通りに面していたモンツァの家に比べれば遥かに静かな環境で、ここがミラノなのを忘れてしまいそうですが、家を出てジャンベッリーノ通りまで出れば、街の喧騒にびっくりするほどです。

引越しの最中、合唱の清書が佳境に入っていて、荷造りを放り出して、ダンボールにまみれながら五線紙に向かっていました。他の練習やら本番やらに追われていると、なかなか自分の作品に頭が切替わらないのと、朝9時から、酷いときは夜の11時まで実質10時間以上も練習した後では、体力的にも自分の作曲にかかる気力が残らないものです。イタリア人が怠け者というのは、ただの逸話に過ぎないと憎憎しく思いながら、それでも譜読みが間に合わず、休憩時間には楽譜に齧りついていたりするわけです。そうして本番が終ってみると、ヨーイチは疲れを知らないなどと妙に感心されたりして、少々虚しい思いにかられたりもします。こういう時、作曲と演奏を兼業している人たちのことを、心から尊敬しますが、不器用な人間は尊敬したところで器用に時間と頭が使えるわけでもなく、本当に困ります。昨日もスキャンした合唱の清書譜を友人宅からメールで送ってみると、次の作品の入稿の催促のメールが届いていて、来月以降の本番の譜読みが頭を過ぎって少々気が滅入ってきました。

さて、とにかくこの原稿を送ったら、この週末は家の家具つくりに専心することにいたします。ちょうど今しがた新しい電話会社から連絡があって来週初めに工事が来るそうですし、来月原稿を書く頃までには、それなりに人間らしい生活が成立していることを祈るばかりです。

(9月29日ミラノにて)

ガリン・ヌグロホの映画「オペラ・ジャワ」を見て

冨岡三智

突然だが、この8月5日から1年の予定でインドネシアのソロ(正称スラカルタ)市にジャワ舞踊の調査で来ている。9月はじめに電話付の家を見つけて入居し、やっと自分のパソコンから直接原稿が送れるようになった。先々月に「舞踊の謝礼〜1」という文を書いて、その続きはインドネシアに来てから書こうと思っていたら、すっかり気分が変わってしまった。それでその続きはいつかまたということにして(このフレーズ、しばしば使っている気がする)、今月はガリン・ヌグロホ監督の新作映画「オペラ・ジャワ」評を書いてみたい。

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ガリン・ヌグロホは1961年ジョグジャカルタ生まれ。インドネシアを代表する若手映画監督で、日本でもその作品はよく上映されている。私が同監督の映画を見るのは「そして月も踊る」(1991)、「枕の上の葉」(1998)とその元になったドキュメンタリー「カンチルと呼ばれた少年」に続いて4作目になる。「オペラ・ジャワ」はベネチア、トロント、ウィーンの各映画祭に出品されている。

ちなみに私が「オペラ・ジャワ」を見たのは2006年9月1日、「ソロ・グランド・モール」内にある「グランド21」という映画館においてだった。ソロでは9月1日〜7日までワヤンをテーマにした「ブンガワン・ソロ・フェスティバル2006」が開催されていて、ワヤン(影絵)、ワヤン・オラン(舞踊劇)からワヤンに題材をとる現代作品までいろんなものが上演されていた。このフェスティバルのオープニングを飾るのが「オペラ・ジャワ」で、上映に先立ってガリン・ヌグロホの挨拶もあった。

それではまず映画の内容について、少し長くなるが、招待状に書いてあったシノプシスを翻訳して引用する。

「これはガムラン・ミュージカル映画で、ガムラン音楽や舞踊の名手、インスタレーション作家に支えられている。このコラボレーション作品は真実を求めての争いについて語っているが、真実とは、多くの血を流した果てに打ち立てられるものなのだ。この物語は、小さい村に住むシティとスティヨという夫婦の物語である。彼らは壷を焼いて売っている。ところがその村では、ビジネスはルディロという金持ちの男が握っていて、いつもひどいことをする。シティとスティヨとルディロはかつてワヤン・オラン(舞踊劇)ラーマーヤナの踊り手で、スティヨはラーマ、シティはシンタ、そしてルディロはラウォノを演じていた。スティヨとシティの生活は倒産で先行き不透明となり、そこにかねてよりシティを愛していたルディロが彼女に取り入ろうとする。一方スティヨは、シティの内面の変化に気づいて、自分の経済力のなさや無気力さを感じている。3人の元踊り手は、三角関係に陥っているとは感じていない。ちょうど、ワヤン・オラン・ラーマーヤナの中の「シンタ焼身」の葛藤の場面のように。ルディロはあの手この手で、時には暴力的にシティを奪おうとし、無力なスティヨは、シティを閉じ込めようと極端な行動に出る。シティは動揺の中で自分の本心を見出そうとする。この3人の葛藤で残されたものがまさに今日の我々の光景であり、ラジオやテレビで見聞きすることだ。つまり多くの対立は暴力に満ち、困難を打開する方法は残虐性に満ちていて、最後は悲劇に終わる。スティヨはついに妻を追いかけて殺し、その心臓を取り出して、妻の心の声が本物かどうか確かめる。この映画はガムラン音楽、歌、舞踊、衣装、演技、ビジュアルとインスタレーションによるレクイエムであり、ジャワ文化というマルチカルチャーな表現の中で生まれた。虐殺への悲しみのレクイエム。その虐殺は、大地の果てでの極端な対立、不安に満ちた社会の対立から生まれた。これは、さまざまの悲しみ、災害の、対立の、恐怖の、そして血塗られた大地への悲しみのためのレクイエム。」

次に配役について。シティ役のアルティカ・サリ・デウィは2004年のミス・インドネシアで、彼女だけは舞踊と全然関係がない。スティヨ役がミロト、ルディロ役がエコ・スプリヤントで、この3人のセリフ=歌の部分はみな吹替である。他にイ・ニョマン・スロ(彼はバリ人)やレトノ・マルティ、そしてそれ以外にも多くの有名なソロの舞踊家やグループが出演している。音楽はラハユ・スパンガ。セリフ=歌は全部ジャワ語でインドネシア語の字幕がついていた。

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私自身はこの映画に出演する舞踊家・音楽家の多くを知っていて、その作品も見ている。その目で見ると、この映画には彼らの個性や存在感、舞踊振付が十分盛り込まれていて魅力的だ。しかし、映画としてみると、登場人物、特に主演の3人の人物の掘り下げ方が弱い。そしてそれは出演者の演技力に問題があるというよりは、人物を行動に駆り立てる「必然的な物語」を監督が構築していないからだと私には思える。

まず、ラーマーヤナ物語をベースにする必然性が私には感じられない。(1)ラーマーヤナと、(2)シティとスティヨとルディロという3人の男女の物語では、人物の置かれている状況がかなり違っていて、相似していない。私たちがある古典の物語を下敷きにドラマを描こうとすれば、古典の中でドラマを生み出していた根本的な原因=外的状況を現代に再現しようとするだろう。なぜなら、人間の内面心理は(もちろん個人差があるにしろ)その外的状況から必然的に生みだされてくる部分があり、そこにドラマが成立するからだ。「元ラーマーヤナの踊り手だった」という設定だけでラーマーヤナの世界を借りてくるのは、少し皮相的な気がする。

3人の心理描写も中途半端なのは、これも外的な状況がきちんと描けていないからだろう。3人の心がそれぞれに揺れていることは感じられるが、その心の揺れの直接の原因がはっきりしない。だからドラマも進展してゆかないのである。いつの間にスティヨは妻を殺害しようとまで思いつめていたのか、シティはルディロやスティヨに対してどういう感情を抱いていたのか……。そういう点を監督自身が煮詰めていないように見える。したがってこれが悲劇だという主張ができていないのだ。

さらに、この(2)の物語を(3)現在の社会に満ちている悲劇・暴力というテーマにつなげるには無理がある。映画の最後に、ラブハン(ジャワ王家が毎年、南海に棲む王国の守護神に供物を捧げる儀式)をアレンジしたシーンがある。全人類の悲劇というテーマは、そのシーンの存在によって暗示されているだけで、②の物語から帰納的に導き出されたものではない。それだけではない。彼はシノプシスの中で悲しみの中に災害の悲しみにも言及しているが、これは人間関係の葛藤の中で起きた虐殺とは同レベルで扱うべきことではないはずだ。おそらく彼は自分の出身地であるジョグジャカルタ近郊で起きた地震の惨状が念頭にあり、レクイエムということで一緒くたにしてしまったのだろう。

このように、この映画では、(1)の物語、(2)の物語、(3)のテーマというのはオーバーラップもせず、深化もしない。ただ(1)の人物設定を借りて別の物語=(2)が展開し、そこに(3)のテーマが新たにくっつけられていった……だけなのだ。物語の力によって普遍的なテーマが迫り出されてくるわけではなく、イメージによって話が飛躍していくのである。もちろん(1)の物語の枠を借りて別の物語を展開しても良いし、論理的な展開よりもイメージ表現を重視しても良いが、もし彼がこの映画を通して普遍的な③のテーマを語りたいなら、それが(1)や(2)のドラマの展開を経て必然的に生まれてくるように構成するべきだろうと思う。

こんな批判的なことを書くと、ヌグロホ監督のファンには怨まれるかもしれない。ただ彼を少し弁護しておくと、このような話の展開の仕方はジャワ人にはありがちだ。ジャワでは個別の事例から論理的に普遍的な真理が導き出されるのではなく、その論理のプロセスがすっ飛んで、なんでも象徴・シンボルの話になってしまうことが多い。だから上のような私の意見は、私が話したジャワ人数人にはほとんど分かってもらえなかった。ヨーロッパでの映画祭ではどのように評価されるのだろうか。

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それからもう1つ。「オペラ・ジャワ」に限らずガリン・ヌグロホの映画でいつも気になるのは、物語にとって必然性のない「ジャワ」の強調が多いことだ。「オペラ・ジャワ」の最初に、スティヨがスラカルタ宮廷の行事「スカテン」にアブディ・ダレム(家臣)の姿をして王宮に入るシーンがある。しかし、その後の物語におけるスティヨの境遇を見ていると、彼は別にアブディ・ダレムとして生きているわけでもなく、このシーンは物語とは何の関係もないことが分かる。

またスラカルタ王宮で即位記念日にのみ踊られるという秘舞「ブドヨ・クタワン」の映像が挿入されているが(踊り手から判断すると、これは『そして月も踊る』用に撮影した映像だろう)、これもシティとスティヨの物語とは全然関係がない。2人の愛の象徴としてブドヨの映像を出したのだと言う人もいたが、なぜ「ブドヨ・クタワン」でなければならないのだろうか。確かに「ブドヨ・クタワン」は王と南海に棲む王宮の守護女神との愛を描いているが、シティとスティヨの愛の引き合いに出すには格が違いすぎて、私には違和感がある。ガリン・ヌグロホは「カンチルと呼ばれた少年」でも舞踊・ブドヨ(この時は確かジョグジャカルタ様式のブドヨ)のシーンを挿入している。その時はナレーションから男女の愛の象徴として使っていることが明白だったが、この時も前後のストーリーとブドヨとは全然関係がなかった。

このような「ジャワ」の強調、しかもジャワ王宮文化の強調は、彼が海外の映画祭を対象に映画制作をしているからではないだろうか。つまりジャワ人である彼が海外で自分の文化的アイデンティティを強調するために必要以上にやっていると思うのだ。そのために彼が表現する「ジャワ」は「ブドヨ=愛」、「ジャワ=王宮文化」のようにステレオタイプ化し、外人の眼から見たエキゾチックなジャワを再生産している。日本でも、「こういうところ(愛の表現)でブドヨを出すあたりがジャワ人ですね〜」と感心する声を聞くから、おそらく映画祭というような場では評価を得やすいのだろうが、私には鼻についてしまう。彼自身はこの点をどのように自覚しているのか、機会があれば聞いてみたい気がする。

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ここでは「オペラ・ジャワ」の映像の美しさや、全編に流れる音楽については触れていない。ただ映画を見たときから、ジャワ人にとって物語とは何なのかということを一番考えずにはいられなかった。そしてその一方で、私の頭にある「物語」、「人物の心理」、「必然」などという概念はどこから来たのだろう、という思いにもとらわれてしまった。だから威勢良くヌグロホを批判しているように見えるだろうが、私自身にもその批判の矢が向いているのである。

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その後……

以上の原稿を送った後でこの映画の歌の担当者の1人に出会い、この映画についていろいろと彼の感想を聞くことができた。私が上のように「物語」の枠組みが弱いと思うと話したところ、インドネシアでもそれを指摘する声があるが、それはガリン・ヌグロホが敢えて狙ったことではないか、と言う。彼によると、この映画で歌の構成を担当したのがスティヨ、シティ、ルディロ役に計3人いて(みな芸大スラカルタ校の先生)、それぞれラーマーヤナの「シンタ焼身」のエピソードの展開に沿って歌詞を書いたのに、編集されたのを見ると、どれも歌詞の順序がかなり入れ替わっていて、驚いたらしい。ちなみに、舞踊のあるシーンで演出した人が、編集されたのを見て「なんでこうなるの?」と思ったらしいから、監督は人々が「物語を欲する」のを裏切りたかったのかも知れない、とも思う。

また、先ほどの歌の担当者は、ラーマーヤナ物語の枠から外れているということについてはヒンズー教の側から反対の声が上がり、それについての論争が新聞に盛んに取り上げられていたとも教えてくれた。そこでインドネシアの新聞を検索してちらっと目を通してみた限りでは、どうやら、インドネシア・ヒンズー教の最高組織(パリサダ)が、ヒンズー教を冒涜しているという風に批判したらしい。

実は私には、この宗教界からの批判というのは全く意外だった。もし「オペラ・ジャワ」がもっとうまくラーマーヤナ物語の枠を生かしてスティヨとシティとルディロの話を作り上げるのに成功したとしても、それがラーマーヤナ物語を冒涜するとは思えない。ラーマーヤナは物語であり、経典ではないはずだ。なぜこの映画にそんなに敏感に反応したのか、調べてみたら面白いかもしれない。

そういうわけで、私がここで取り上げたトピックは、おそらくガリン・ヌグロホが期待するところの批評ではないと思うのだが、映画の周辺も含めて現在のインドネシアなりジャワの有り様が透けて見えてくる映画のように思う。

幾何学と音楽(1)

石田秀実

音を奏でている人は、必ずしも音を記号として奏でているとは限らない。彼・彼女は音のひとつひとつを念念に聴いていく。聴かれた音たちは、記憶の中で再び鳴り響いたり、他の音と重なったり、沈黙の中に浮かびあがったりするだろう。想像力の中で、音たちは必ずしもひとつの直線状を順序良く動いていくわけではない。

音を奏でる人が入り込んでいく空間は、その場その場の音空間と、想像力の中で認知されていく空間との重なり合いの中にある。その場その場の空間では、確かに音は念念に、ある順序で奏でられる。だが、だからといってそれらが必ずしも記号的に順序良く、想像力と記憶の空間に鳴り響いていくという保障はない。それがたとえ中断する音や、切り裂く音などでなくとも。

演奏することと作曲することとは同じことだ、という人は多い。即興することと作曲することとを考えれば、作曲とは時間をかけた即興だという話も何度となく聞く。

けれど、ふつうに作曲という行為を行うとき、人は必ずしも念念に音を聴いているとは限らない。想像力の中で認知されていく音たちの姿を、必ずしもその場その場の音たちと重ね合わせながら、みつめているわけでもない。

なぜならふつうに作曲をするというとき、その前に人はしばしば音の群れのデザインをし、音の群れの全体を幾何学的に透視するからだ。とりわけ西欧近代の作曲では、音を幾何学的に透視してその全体をプログラム化し、見透かすことをする作曲者は、しばしばあらゆるものを一点から見る神のように、音たちの位置を定め、その役割を記号化している。あたかも線遠近法で描く画家のように、聴こえてくる音の役割を割り振り、ある記号的連関として、構成しようとしているのだ。

だが、ひとつの視点、ひとつの記号的連関の体系のみに静止して、音たちをある形に整列させるだけが、作曲のあり方ではない。音は人が出会うものでもある。音に出会うとき、人は近代西欧以来の作曲とは違う姿勢で、音をみつめている。音たちは様々な位相、姿を示しながら、たち現れる。それら音たちと出会う人は、いわば音たちの中に入り込んで、様々な姿形の音を、様々な角度から見つめる。

音との出会いを、いつも体験しているのは、もちろん音を奏でる人だ。とりわけ作曲者によって記号化されてしまった音楽とは、ひとまず別のところで、音を奏でようとする人は、音との出会いの中にある。

とはいえ、こうした音との出会いのかたちで、作曲という行為を考えることも、もちろん可能である。そのとき作曲者は、観察視点を特定しない画家のように、音たちの中に埋もれながら、音と出会い、自らの視点を移動させながら、音の姿を眺める。音たちを記号化して整列させるのではなく、音たちの場に入り込み、様々な姿に見ほれているのだ。音は客体として、記号的連関の中で聴かれるのではなく、生きてゆれ動く空間としてたち現れ、私を埋もれさせている。

feu――翠の虱(24)

藤井貞和

三月二十五日、
灰は耀く、
千のもえがらを、
さらに燃やして。

六月十日、
おれおれ詐欺の、
おいらがしれびとのうたで、
けっこう燃えちゃって。

鏡だということに、
気づくまでの時間もまた、
燃えちゃって。

「おれおれ」と言いかけて、
あとのことばを、わす
うし(なう)、なが(れる)――

(失語の研究はつまり、失語すること。おれがすがわらを読み、すがわらを読みながら、ふとわすれる。「志が之(ゆ)く」と思い、何かをうしなう。めぐる日はいたずらだと、みちざねが言う。その父のだったかな、ことばがながれてどうしようもない。父はくるしむ、詩集の一葉一葉。めらめらとめくるページ。燃えてわすれる。)

反システム音楽論断片5

高橋悠治

ざわめく空間
聞こえる音を声として聞きなし
そこに音をもって加わる
それは名を持たない 顔を持たない
消えながら現れる地下流
とだえることのない ざわめきの流れのあちこちで
ちがう声の間のずれがひっかかり きわだたせる瞬間
そのきらめきが 織りなす音色の空間に 奥行きを暗示する

世界は世界化するとともに 破片の堆積に変わる
それらの破片に刻まれた記憶にしがみつくこともできず
流れに背を向けて流されていく歴史の天使 ベンヤミン
暗いトンネルを掘り進むペンと その先から滴るインクの描く物語に
ついていく カフカ
この世界の片隅で音を紡いでいても 
世界全体の変化に影響されないではいられない

ふりかえると
歴史が 一つの流れに支配されたように見えたとき
その対流も 姿を見せていた 
というのも よくあること

相反する二つのバランスで 現状維持するよりは
システムがふくれあがって すべてを覆い尽くしたとき
底の砂を巻き込んで引く波に足元をさらわれるような
あるいは 内側が空洞化して崩壊するような対抗する力が
システム自体から生み出されるかのようだ

色とりどりの破片を組み合わせるアラベスク
浜辺で貝殻をひろうように 
一つの音 短いフレーズ 和音 音型を集めて
1ページの紙の上に配置する
それらを駒のようにうごかしながら 
関係をつけていく
プリペアド・ピアノ ケージ

連動するリズムの織物が 自由にうごけるように
余白を残しながら 
周期からはずれた位置から入って 
語りかける 単純な線が 通り抜ける
リズムが急に断ち切られ 
支えをなくした線は しばらく漂ってから
落ちていく マイルス・デイヴィス

メロディーが低音のゆっくりした歩みの上に 安定して乗っていて
その中間にハーモニーが詰まっている
西欧近代の音楽の階級組織をこわして
ハーモニーから外れた低音が身体に直接はたらきかけ
リズムが不規則にからみあい
音が 音階や音符や和音といった構造を指し示す記号ではなく 
すでに演奏された音のサンプルの引用としてあつかわれる
1970年代以来のリミックスやダブ
感情を麻痺させる歌ではなく
図式にはまらない複雑な韻をもって社会批判するラップ
身体をうごかして 制度的な束縛に抵抗するダンス

ここにあるのは 音楽の現在の ひとつの現れ
美学や技術に還元されるのではなく
問いかけである生きた身体と
日常生活から離れないで
しかも実験でありつづける
音楽は 音を操作する技というよりは
音のために空間を設定する行為

しもた屋之噺(40)

杉山洋一

時間がものすごい勢いで目の前を走り抜けてゆくように感じる瞬間があります。新幹線のホームに立っているようなもので、遠くから新幹線が近づいてくるのを眺めていながら、自分の目の前を通り過ぎるときは、ものすごい風圧に倒れそうになりながら踏ん張っていて、ふと見ると、もう大分遠くへ通り過ぎていたりするのです。

家人の身体の変調に気づいたのが昨年の7月末。8月東京に戻り、早速医者にかかり妊娠を確認し、初めてエコグラフィーで子供が動いているのを見たときは、理由もなくへなへなと身体の力が抜けてしまいました。あれから時間が過ぎ、長男がミラノで生まれたのが一週間前。階下で、猫の甘え声とも、いるかの鳴き声ともつかぬ声を立て、顔を真赤に染めあげて、小さな腕を振り回しています。

この世に暮らし始めて一週間、というのは一体どんなものでしょう。想像するだけで気が遠くなるような、とてつもない旅をするようなものではないでしょうか。引っ越して一週間というのとは訳が違うはずで、一週間前までまだ他の人間すら見たことがなかった人、というのは、なかなか凄いことだと思うのです。

案外、ずっと子宮でじっとしていたわけでもなくて、次元の波を乗り越えて、どこか見ず知らずの場所に時々ふっとワープしたりして、頃合を見計らっては戻ってきていたのかも知れないし、真面目くさって、ひたすらじっと耳を澄ましていたのかも知れません。何れにせよ、いくらゴボゴボいう羊水の雑音の向こうで、外の世界をうっすらと思い描いていたにしろ、想像していた代物とは似ていなかったに違いありません。

この寝顔を眺めていると、赤ん坊が長い間天使のモデルになったのは、可愛さだけではないと感じることがあります。今まで、数え切れない世界中人びとが、誰も彼らがどこから来るのか知りたくて、思わず空を仰いだに違いありません。教会の巨大なクーポラ一面を空に見立て、人々が天使を舞い降りるように描き始めたのは、もう大分昔の話です。時間は静かに過ぎてゆくような気がしているけれど、実はその時間の中をものすごいエネルギーで泳ぎまわって、赤ん坊が生まれてくるのかもしれません。こちらが時間のとてつもない風圧になぎ倒されそうになっているとき、世の中の赤ん坊たちは、案外その飛沫にのって波乗りでもしているのかも知れないのです。

そうでなければ、世界に飛び出してまだ一週間も経たないのに、あれだけしっかり生きる度胸はすわりっこないさ、自分がよほど気が弱いのか、そんな薄い畏怖すら覚えるのです。
言葉もしゃべれない、ご飯だって満足に食べられない、動く事すらままならない、そんな状況で自分が全く違う環境に放り出されたら、一体どうしてあれだけ堂々と生きてゆけるものかと、思わず自問自答してしまいます。それどころか、与えられた同じ一週間という時間のなかで、この子供と自分と、一体どちらが人を喜ばせて、笑顔をもたらす事ができたかと思えば、あそこで有りっ丈の声を張り上げ泣いている子供が、とんでもない生命体に見えてくるから不思議です。

人生がルーティンにはまっていないのも、羨ましい限りです。今日が終われば明日がある、そんな人生は想像も出来ないに違いありません。何しろ、この世界の空気を吸って、まだ一週間足らずなのですから。明日生きているはずだなんて、露ほども思っていないでしょうし、だからこそ、一挙一動すべてにエネルギーを注ぎ込むのでしょう。

彼が本当に幸せな世界に降り立ったのか、我々が断言できる自信は残念ながらありませんが、一週間前に知り合ったばかりの赤ん坊の方は、よほど人を幸せにする心得に長けているように思います。歓迎の言葉をかけるべきなのは、どちらだろう。
そこかしこに咲き乱れる木蓮の匂いが、思わず頬をくすぐります。

(3月31日ミラノにて)

循環だより 春を感じて

小泉英政

冬のゴボウ畑は、ちょっと見ただけでは、そこにゴボウがあるなんて分からない。夏から秋にかけて地面をおおいつくしていたゴボウの大きな葉は、冬の間はすっかり枯れ、ちぢまってしまっている。二月ごろ、ゴボウを掘り抜くと、春を待つ新しい葉が土に埋もれたなかで準備されていて、丁度、フキノトウのような恰好でゴボウの頭についている。出荷の時にその部分を切り落とし、少しまわりの汚れた葉を落として小さな指に渡す。三歳半と一歳半の二人の孫は、純白の綿毛をつけたフキノトウのようなゴボウの葉を一枚一枚順番にむいていく。外で遊ぶには少し寒すぎる、でも出荷場のなかでの遊びも限られていて、多少ぐずりだした時に、それは美しい遊びになった。

三月になってもザクッザクッと霜柱を踏むような寒い日もある。そんななかでゴボウはどこで春を感じとるのだろうか。地表の温度、日の出、日の入の時間、その他もろもろの何かむずむずとしてくるものを全身で感じとって地上に新しい葉を出現させる。もう春だと。

アサツキもぼくにとっては春を感じさせるものだ。アサツキの植えつけはラッキョウと同じく、お盆すぎだ。秋にかけて葉を伸ばし、ラッキョウは冬の間も葉が枯れないのに、アサツキは地上部が枯れてしまう。薄い黄緑色の新芽が地上部に表れると、ぼくにとっての春が始まることになる。アサツキはぬたが美味しい。しかも地上部に出たが出ないころの初々しいのが美味だと思う。しかしそれでは量が出ないし、出荷するにはもったいなさすぎる。まだかな、まだかなと、アサツキの側を通るたびに目をやる。アサツキの旬は短い。二週間あるかないか。旬はシュンとも読みジュンとも読む。旬(ジュン)は一ヶ月を三分したもので、十日一めぐりのものだから旬(シュン)の長さも二週間あるかないかでいいのだろう。

冬の間、草とりはあまりないように思われるかもしれない。しかしハコベは冬の間にとっておかないとと、美代さんはせっせと寒風のなか畑に出る。男たちが落ち葉掃きをしている間、せっせせっせと鎌を動かしてハコベをとる。ハコベは冬の間は根が一本だけだ。「そこをチョンとやるだけだから」。だが、春が近づいてくると、一週間に一度ぐらい雨が降るようになり、ハコベも春を感じてムクムクと大きくなる。ハコベの茎の節々から新しく根を伸ばし、体全体で地面をつかみ出す。そうなったら「チョン」では済まなくなる。ホトケノザもスズメノテッポウも冬の間にとっておきたい草だ。

三月中旬、葉物たちが次から次へと薹立ってくる。少し前まで葉物のやりくりに四苦八苦していたのに、伸び出す時は一斉だ。あっちでもこっちでも春が始まって、ぼくもむずむずむくむく春の畑に立つ。

親父たちの暮らし

さとうまき

さて、イブラヒム父さんがファートマと我が家にやってきたが、親父たちの期待を裏切って、ファートマは外泊がつづく。おやじ3人でいてもわびしいので、別の家に預けられているまだ一歳にならない双子を見に行くことにした。この子達は、最初から親切なヨルダン人に面倒を見てもらっているのでイブラヒムを父さんと認識していないかもしれない。預かっているほうの一家も子どもが7人もいて、大変なのだが、よく面倒を見てくれる。

2ヶ月もたてばずいぶんと赤ちゃんは大きくなるものである。赤ちゃんたちをあやしているとなんとなく、ぷーんとくさいにおいがする。これは、ウンチかなと思ったが気のせいだった。

男ばかり3人で暮らしているのを哀れに思ったのか、晩御飯を持たせてくれた。ここのところ外食ばかり、どうしてもファーストフードになってしまいどうしたものかと思っていた。最近、NGOからスローフードのキャンペーンに協力するように頼まれたので、本を読んで勉強を始めたところだった。家に帰ってなべを開けてみると「マンサフ」という家庭料理。羊肉をこってりとヨーグルトで煮込んである、まさにスローフード。ところがこれがくっさい。ウンチかと思ったのはこのにおいだ。私は食べる前からうっとなってしまった。イブラヒム父さんは、「どうして食べないんだ。おいしいぞ」という。井下おやじは少し食べていた。私はこのにおいがどうしてもだめなので昼間買って置いたカップラーメンを食うことにした。

カップラーメンは3分でできるので、マンサフをお皿に入れている間にもできてしまう。口でスローフードというのは簡単だが、実践するのは簡単ではない。結局のこりは明日、ブンジローに食べてもらうことになった。ブンジローは、日本人には珍しくマンサフが好物なのだ。

あくる朝、私は、乗り合いタクシーで国境を越えてシリアに行くことになっていた。まもなくヨルダン、イラクの国境も開くそうなので、私がシリアに行っている間に、イブラヒム親子もイラクへ帰ってしまうかもしれなかった。そうなると今度はいつ彼らに会えるかわからないから、お別れを言うために早めにヨルダンにもどることにしたのだ。3日後ヨルダンに戻ってくると、イブラヒムとファートマはまだいた。そして、「マンサフ」もまだ残っている。

ブンジローは、留守中にたずねてきたそうだが、井下親父がマンサフを嫌がり、外の中華料理を食べに行ったということだった。こうなるとちょっと触るのが怖くなったので、後始末はイブラヒムに任せることにしたが、イブラヒムは捨てるのを惜しがって食べようとしていた。一緒にもらったパンもカビが生えているのだが、イブラヒムは目が悪くてカビが見えず、食べようとするので、「やめなさい」と諭した。

井下親父は「実は、イブラヒムは、まったくイラクに帰る気がないみたいですよ。どうしましょうかね」という。
「なんとなくいつまでいるか聞いてみよう」ということになった。
「イブラヒムさん。イラクにはいつ帰るのかね」
「今のイラクは危険でしょうがない。できたらヨルダンにいたい。あるいは、日本に連れて行ってもらえないだろうか。なにか仕事はないか」という。
「しごとねぇ」
「私は数学の先生だから数学を教えたいのだが」
「日本人は、日本語しか通じないよ」
「じゃあ、アラブ料理を作る」
「それなら、いいかもしれないね」

しかし、あくる朝、イブラヒムは、指に包帯を巻いている。どうしたのかと聞くと、「実は卵をきっていたら指を切ってしまった。痛い。痛い。ドクター見てくれ」
イブラヒムは一生懸命傷口を井下親父に見せているが、ぜんぜんたいした傷ではないのだ。
これじゃあ、コックになんかなれない。

そこで、私は、井下親父とまた話し合った。
「やっぱり数学の先生しかないだろう。イラクから治療を受けに来ている子供たちは学校にも通えないというから、彼らの家庭教師として派遣するのはどうかね」ということになり、イブラヒム先生の算数教室がはじまったのだった。

製本、かい摘まみましては(7)

四釜裕子

ちいさな床屋をみかけると、建物全景を写真に撮りたくなる。わざわざ探しに出かけることもカメラを常に持ち歩くこともないけれど、二十歳過ぎからの癖なので、結構な枚数になっている。フィルムで撮ってプリントして箱に入れておくだけなので、必要な一枚を探すには全体をひっくり返すことになる。デジカメで撮ってCDに焼いたこともあるけれど、こうして度々ひっくり返して記憶を塗り重ねていくことが、わたしにとっては一番いい整理法みたいだ。

家庭用のインクジェット・プリンタでも写真がきれいに出力できるようになり、プリンタ・メーカーのみならず、専用の紙を販売するところも増えてきた。PCM竹尾では、4月下旬に「DEEP PV シリーズ」として新アイテムが加わるようだ。186g〜300gと厚めでふんわりした質感は、プリント写真の再現ではなく、印刷された写真の美しさを楽しむためのものである。こういう紙なら、数枚の写真を選りすぐって小さな冊子を作ってみたくなる。片面印刷対応とのことだが、表と裏の質感の違いを活かして頁構成すれば、両面印刷して糸かがり本にすることも可能だろう。ちなみに、A4、A3ノビともに縦目、A4一枚136円〜272円といったところ。

DPE窓口やフィルムメーカーのウェブサイトなどで、写真集のオーダーを受けるところがある。写真やコメントのレイアウト、表紙のバリエーションなどは各社異なるが、だいたいどこもCDサイズで24頁以下、中綴じミシンかがりした本文に、コの字型のカバーを貼りつけるという、絵本によくある製本法だ。いずれも、本文紙はアート系、表紙はPP貼りで、やけに丈夫なつくりが全体の野暮ったさを引き立たせ、こちらの好奇心をそぐ。どうしてそんなに丈夫にするのか。耐水性のためばかりとは思えない。「アルバム」からの発想が、丈夫な表紙とテカテカ本文紙を大前提にさせているに違いない。

この仮説を確かめるべく、「Photo Imaging Expo 2005」(2005.3.17〜20 東京ビックサイト)に出かけた。いくつかのブースで、写真集のサービスをみた。ホワイト・フォトブックとでも呼びたいような、究極の「写真集」もあった。これは、ネットで送られた写真データをプリントして両面テープで貼るというもので、表紙は背バンド付き風の革装丁、タイトル箔押し、本文紙(というかそれはアルバム台紙そのままなのだけれど)は1ミリ厚、20頁程度だが重たくて、ものすごい豪華である。これで値段は、数千円。

アルバムでは売れないので、写真集の束見本みたいなもの(=ホワイト・フォトブック)として安くリサイクルしているんでしょう、きっと。これは極端な例だけど、他にもいくつかみるにつけ、仮説は正しいように思えてきた。写真系の企業は、アルバムの延長としての写真集をより安く提供することに邁進し、努力実ってほぼ底値の態である。さぁこれからどうするか。全体として、アルバム系写真集ではまずい、と感じているようにはみえない。なにしろ、「このテカテカの紙はいやなんですけど、どうにかならないんですか?」と問うと、「オンデマンド印刷ですからねー、紙は選べないんですよー」とあっさり応えるところがほとんどですから。

ウェブサイトでいくつかの写真集サービスをおこなっているアスカネットの応えは、ちょっと違っていた。「マイブック」は他社とほぼ同じだが、「マイブックデラックス」では本文紙をラミネート加工せず、特殊ニス加工しているとのことで、紙の表面の印象がいくぶん柔らかい。聞けば、ラミネート加工するのは、オンデマンド印刷専用の液体インキの剥がれと変色を防ぐためだが、結果、独特なテカりが生じると言う。その機能を持たせながら、少しでもマットに仕上げるために、通常は印刷機のあとにかがりと折り機がセットされているが、そのあいだに機械を入れ、ニスびきしているのだと言う。表紙のPP貼りや透明ビニールケースにはまだ疑問が残るけれど、うれしい工夫じゃないですか。

この「マイブックデラックス」をずっと試したかったのだが、編集ソフト(無料)がWindows版のみだった。4月末、ようやくMac版が出るようです。

振付家名のクレジット(3)

冨岡三智

 宮廷舞踊家クスモケソウォ(1909〜1972)は、「スラカルタ宮廷の舞踊」を「スラカルタ地域の舞踊」へと広めた。宮廷舞踊家はそれまで匿名の存在だったが、宮廷外で舞踊教育をリードするようになったために、名前を残すことになった。

   ***

その次の世代でジャワ舞踊を代表する振付家といえば、ガリマン氏(1919〜1998)とマリディ氏(1934〜)である。この2人は「スラカルタ地域の舞踊」をさらに発展させ、古典となる作品を作り上げた。2人の作品を見ていると、宮廷舞踊の儀礼性を残しながらも、より純粋に芸術性を追求している。振付に個人の個性が見てとれる。そういう意味で2人は近代的な舞踊家・振付家だと言えるだろう。2人の作品は現在の芸術高校や芸術大学で教える舞踊の中心的なレパートリーになっており、その曲の多くはカセットで市販されている。

市販カセットには、2人の曲の他にASKI・PKJT、あるいはPKJT・ASKIとクレジットされているものがある。PKJTは中部ジャワ芸術センタープロジェクト、あるいは中部ジャワ芸術発展プロジェクトのことであり、ASKIはアカデミー(1964年設立、現在の芸術大学)のことである。PKJTはインドネシア政府の開発プロジェクトの1つで、1969〜1981年に実施された。ゲンドン・フマルダニ(1923〜1983)がリーダーである。またフマルダニは1971年からアカデミーの学術部門長、1975年から亡くなるまで学長を務めた。トップが同じであるため、両機関は一体化して芸術活動を行っていた面もあり、そのためPKJT・ASKIと並び称される。PKJTで手がけた古い舞踊のリメークや創作のレパートリーは芸術大学のカリキュラムに定着している。ガリマンもマリディもPKJTやASKIで指導していたが、いわゆるPKJT・ASKI版を手がけたのは、2人よりも若い世代である。

PKJT・ASKIで作られた作品の場合、カセットにしろ公演の場合にしろ、その振付家名はあまりクレジットされない。芸術大学の内部の人ならば誰が中心となってその振付を手がけたのか知っているが、外部の人間には分からない。そのことに私は以前からやや違和感を抱いていた。ガリマンやマリディという著名な振付家が活躍する時代になったのに、なぜPKJT・ASKIでは振付家個人の名前をクレジットしないのだろうか、まるで宮廷舞踊家が匿名であった時代に逆行したみたいだと、最初私には感じられた。

その理由の1つとして、グループ振付が多かったということが挙げられる。フマルダニの考えでは、振付は分業すべきであったようである。たとえば2人で踊る舞踊ならば、1人ずつがそれぞれのパートを振り付ける。これには、PKJTが地方で行われた国のプロジェクトだということも関係しているかも知れない。プロジェクトとしては中部ジャワ州の多くの人々が制作にコミットし、成果を分かち合うほうが成功だと言えるからだ。これは共同体的な発想でもある。とはいえ、同じ国のプロジェクトだったラーマーヤナ・バレエでは総合振付家や振付アシスタントの名前はクレジットされている。それは公演主体のプロジェクトであったからかも知れないし、また年齢的にも地位としても突出した人がいたからこそ可能だったのかも知れない。

それはともかく、PKJT・ASKIが振付家名をクレジットしない理由として他に考えるのは、フマルダニの指導の影響力が大きかったからではないかということだ。PKJT・ASKI版ではグループで振り付けていても、フマルダニが手を入れて変えた部分が多いと多くの人が語っている。それに明らかにフマルダニが著作物で主張している考えが振付に実現されている。

(話がそれるが、そのフマルダニの主張とは西洋舞踊に影響を受けた額縁舞台用の振付、全員の一糸乱れぬ揃った動き、速い動き、などだ。フマルダニは1960〜1963年までイギリスとアメリカに留学しており、インドネシア人の中でも早い時期に西洋舞踊を鑑賞し且つ学んでいる。一方、現在においてもスラカルタの芸術高校、芸術大学にはバレエやモダンダンスの実技はない。)

また練習や振付の後には毎回フマルダニの講評と全員でのディスカッションがあったから、実質的な総合振付家はフマルダニだと言っても良いくらいのものではなかったか、そしてフマルダニ自身にそういう自覚があったために、PKJT・ASKIでは実際に振付に当たった人をクローズアップしなかったのではないか、とも私には思えるのだ。それではなぜフマルダニは自分の名前を出さないのかということにもなろうが、それはやはりプロジェクトの長としてプロジェクト全体の成果を強調したかったのだろうという気がする。

フマルダニは、皆で寝食も芸術活動も共にする共同体を作りあげることを理想としていた、それは1970年代も終わりになってくると半ば実現していた、と私には思われる。そしてそれは欧米の寄宿制の舞踊学校を備えたバレエ団のようなものを念頭に置いていたのではないかという気がする。(しかしまたそれはかつての宮廷の舞踊家のあり方にも共通する。)事実、PKJTの拠点でありASKIのキャンパスでもあったサソノムルヨ(宮廷敷地内にあるコンプレックス)では、練習スペースとなる中心のプンドポ(ジャワの伝統的な儀礼空間)を囲む建物群が寮になっていて、多くの学生や教官、そしてフマルダニ自身も住んでいた。サソノムルヨでは5:00にはフマルダニが率先してクントゥンガン(スリット・ドラム)を叩いて皆を起こし、アカデミーの授業前から舞踊練習が行われた。そしてアカデミーの授業が終わると、また夜中まで各種練習が続く。その間フマルダニはつきあって指導し、細かくコメントを与え、ディスカッションをする……。(ちなみに1時限目の授業は7:30に始まる。しかし舞踊訓練の前の4:00にスンダ・ガムランの練習がある。また一番空いている時間帯だからということで、アカデミーの音楽試験公演もしばしば4:00過ぎから行われていたらしい。)

脱線ばかりになってしまったけれど、いずれの理由にしろ、誰か1人を振付家としてクローズアップするということをしなかったのは、フマルダニがPKJT・ASKIを共同体的なものとして指導したためだと言えるだろう。しかしPKJT・ASKIの時代=1970年代、の終わり頃から振付家が脚光を浴び始める。つまり1978年からインドネシア若手振付家フェスティバルというものが始まるのだ。(1986年でいったん終了し、1991年から現在のインドネシア・ダンス・フェスティバルに引き継がれる。)このフェスティバルは現代舞踊をインドネシアに定着させようとジャカルタで始まったもので、初めて踊り手よりも振付家に焦点を当てている。

(続く)

琉歌の巻──緑の虱(6)

藤井貞和

チュラヘノコミサチ
イクサキチネーラン
ウミンチュヌククル
フニヲマブラ

ハチハチハチルクヌ
リュウカワチヌブイ
ウミヌマブリカン
ザンヨアスバ

ウミンチュヌハタヤ
コウギヌサンビャクニチ
ナミヌマチウドゥイ
ヌチドゥタカラ

(沖縄国際大学では米軍ヘリコプターのつっこんだ一号館わきの宿泊施設で2日間、泊まってきました〈奄美沖縄民間文芸学会公開講座〉。翌日、辺野古岬テント座り込みに参加し、さらに海上をリーフまで出て、オジー、オバー、ウミンチュらが、防衛施設局のつくったやぐらを占拠しているところへ行って、チバリヨー。帰りつつある私の船に、オバーのひとりが「私たちのやってることは限界があります。一日延ばししているのです。みなさまにそのことをつよく訴えてください」と、風のなか、叫び返してくれました。防衛施設局の船がマイクで、「観光気分で来ないでください」と遠くから。すっかりこのじゅごんとマングローブとのたわむれる海を私は「観光」してまいりました。漁協のなかには賛成派もいるために村をまっぷたつに分けたかたちです。やぐらの上からくろいかたまりが海に落ちてきたので何かとおもったら編みかけの編み物。オバーたちはからだをしばりつけたまま、しっかり編み物をしているんですね。抗議は〈8年と〉344日目にはいっていました。)

ちょうど35年前の今日

御喜美江

「先週はどのように過ごしましたか?」と人にきかれたら、スケジュール表を見ながら、それでもあれこれ考え込んでしまう。すでに忘れたこと多し。ところが大昔のこととなると不気味なくらいよくおぼえている。見たこと聞いたことはかなり細部まで具体的に、話した言葉も聞いた声も人の表情までもかなり鮮明に覚えている。さらに部屋の匂いも、絨毯の感触も、夕暮れの色も。記憶は五感に浸透して、体が昔のことを現在にまで伝えてくれる。

昔話を好むのは年をとった証拠かもしれない。でも年をとれて良かったな、って思うときもある。若い人たちは顔も体も美しく将来の可能性も大きいけど、その年令を羨ましいとはほとんど思わない。昔を回想できる年令になって、かえってほっとする時すらある。

3月というのは私にとって一年の節目のような月だが、今からちょうど35年前の1970年3月、当時中学一年生だった私は、南ドイツのトロッシンゲンという町にアコーディオンの専門学校があると聞き、何が何でもそこへ行きたいと両親に頼んで、毎年3月に行われるイースター講習会に参加しました。それは生まれて初めての一人旅かつ海外旅行で、私は母が作ってくれた日英両国語カードを首から数枚ぶらさげ、重いアコーディオンを軽そうに左肩にかけ、新しく買ってもらった水色のトランクを右手に、赤い帽子、赤いコート、白のハイソックスにミニスカートという、今思えばカーニバルでも出るような格好で期待に胸を膨らませ、見送りに来ていた両親と兄に手を振りながら颯爽と日本を飛び立ったのでした。飛行機のエンジン音が急に大きくなり、機体が宙に浮きはじめた瞬間は感動で震えました。

尚、チケットを購入した両親は、少なくとも往復のフライトは一人ではないようにと、ある団体旅行グループの中に娘を参加させ、まわりの皆さんは私の存在を不思議に思いながらも、いろいろと親切に面倒みてくださいました。しかし南回りの旅は想像を遥かに超える長さ、バンコックあたりから気分が悪くなり、カルカッタ、カラチでは、もう吐くものもないくらい食べたものは全て吐き出し、ローマ経由でフランクフルトに着いたときは、すでに廃人同様にフラフラでした。でも空港の出迎え、中央駅、そして汽車へのケアはパーフェクトに準備されていて、何とか生きて目的地、トロッシンゲンにたどり着きました。それはほんとうに長い長い旅でした。

それからの一週間は夢のようでした。左手も単音システムのフリーベース・アコーディオンを器用に操りながら若い奏者たちが弾くバッハやスカルラッティはほんとうに美しく、私は日本へ帰る気をすでにこの時なくしていました。大体、あのフライトがもう沢山。あんな地獄のような思いはもう二度としたくない。それに苦労して帰国したところで、あえて日本で勉強したいことが、もうありませんでした。でも学長さんや周りの人たちから「義務教育は終えること、そしてドイツ語が出来なければ、ここの音楽学校には入れません」と厳しく言われ、「なるほど、そういうことか〜」と納得しました。講習会の閉会式では、一番遠いところから来た、という理由で表彰状と南ドイツ名物のカッコウ時計をいただきました。新聞に載った写真には、絣の着物を意外とちゃんと着たおかっぱ頭の小さな私がうつっています。

さて、帰りはトロッシンゲンから汽車でチューリッヒまで行き、そこから飛行機でパリへ飛び、パリのホテル・アンバサドールで再び団体旅行グループと合流することになっていました。ところがその連絡を取るときになって、ドイツ国内の通信機関が全てストライキに入り、電話もテレックスも通じない、どうしても誰とも連絡がとれないのです。仕方がないので学校の運転手さんがロットワイルという駅からスイスへむかう国際列車に乗せてくれて、一人チューリッヒまで行きました。でもこれが思いのほかおそろしかった。いつチューリッヒに着くのかわからないし、そこがどんな駅かもわからない。汽車が止まるたびにホームに降りて「チューリッヒ?」と誰かに聞く。何度目かに「チューリッヒ?」と聞いて「ヤー!」と言われたので、大急ぎで荷物を持って降りました。そのとき小指をドアにはさんで爪が剥がれ、興奮しているので痛みは感じなかったけれど、見ると血が流れ出ている。血を見た途端に涙がポロポロ出てきた。痛くはなかったが、限りなく心細かった。近くにいた車掌さんに血の出る指を見せたら、陽気な声で笑顔がかえってきた。「あ〜、メソメソしないで、頑張りなさい!」ということだ、と気持ちを取り直し、重い荷物を持って駅の出口の方へ行った。

しかし今度は空港への行き方がわからない。しばらく駅前をうろうろしていたら、飛行機の絵が書いてあるバスが来た。多分空港行なのだろうとそこへ進むと、停留所に見るからに優しいそうな若い女性がいたので、彼女に私の航空券とパスポートを見せると、何だかひどくびっくりして、いろいろ話しかけてきた。全然わからないけど「大丈夫!」と言われているような気がした。彼女はバスの中で私の隣に座ってくれて、空港に着くと、すぐに私をスイス航空のオフィスに連れゆき、そこで機関銃のように喋りまくった。その結果、私はある部屋に拘置され「絶対にここから動かないように!」とスイス航空スタッフから言われた。実はその時、ものすごくトイレに行きたかったのだが、絶対に動いてはいけないので、我慢してそこに座っていた。この部屋には他にも数人いたが、身体障害者、知能の遅れた人、車椅子の老人、そして小さな子供が2人いた。

そして何とか無事13:45発のパリ行きエールフランス683機に乗った私は、一刻も早くトイレに行きたかったのですが、離陸後すぐにフランスへの入国審査書が配られました。もちろんチンプンカンプン全然わからない。「困ったな〜」と思っていたら、後ろから何と日本語が聞こえてくるのです。そこでおそるそる「すみません、この書類の書き方、おしえていただけますか?」と聞きました。それは若い日本人のご夫婦で、初めはかなり驚いていらっしゃいましたけど、男性の方が全部書き込んでくださいました。当時私は13歳でしたが、体は細く背は低く非常に小さかったので、このご夫婦は私の一人旅を信じられないといった様子。

「パリの出迎えは大丈夫ですね?」(男性)
「ドイツの通信機関がストライキをしていたそうで連絡がつきませんでした。出迎えはないと思います」(美江)
「それは大変だ!着いたらすぐにJALのカウンターに行って、誰か面倒みてくれる人を探しましょう」(男性)
「はい……」(美江)
「とにかく僕たちから離れないように」(男性)
「はい……」(美江) 〔あ〜、これでまたトイレに行けない〕
それからパリのオルリー空港に着くまで、このご夫婦は
「どうしてたった一人で?」
「何が目的で?」
といろいろ聞いてくれました。そしてパリに着いたらすぐにJALカウンターに行き、いろいろと交渉してくれて、気がついたら私だけタクシーに乗っていました。そして私は無事ホテル・アンバサドールに着きました。

尚、この御夫婦はパリで乗りついで、どこか他の地へ飛ばれたはずです。ご主人がヨーロッパ勤務を終えられて、世界旅行をしながら日本へ帰ると申されました。お名前、ご住所を聞く余裕が全くなかったのが何とも遺憾で、35年経った今、「もしあの時、あの飛行機の中に、あの御夫婦がいらっしゃらなかったら……」と思うのです。

私がクラシック・アコーディオン奏者になることを決めたのが、この1970年3月でした。でもあのチューリッヒ→パリの旅は、まさに宙に浮いた時間で、13歳の私は不安と恐ろしさ、そして小指の怪我、さらにトイレにいきたさで、もう死にそうでした。あの御夫婦にめぐりあわなかったら、「人生そんな甘いものじゃない、もうこんな無茶な冒険は二度としないように!」と自分を戒めていたにちがいありません。そして帰国後は日本の高校へ大学へと進み、まったく違った人生を歩んでいたことでしょう。

その2年後の1972年秋、私はドイツへ留学しました。そしてクラシック・アコーディオン奏者になりました。しかし、もしあの御夫婦に助けていただけなかったら、私の人生は全く違う方向へ向かっていたような気もして、一度「ありがとうございました」を言えたらな〜とこの頃、よく思うのです。心の中では何百回と言ってきた「ありがとうございございました」を声に出して。ご年令は現在、60〜70歳くらいでしょうか……。1970年3月27日(当日の天気は晴れ)チューリッヒ発13時45分、エールフランス468便で13歳の日本人の女の子を助けてくださったご夫婦です。『水牛』を読んでいらしたら……と願いながら書かせていただきました。どうかお目にかかれますように……。

この日は私の人生で一番長かった日、かもしれません。

(2005年3月27日東京にて)

瞬間の音楽 きっかけの

高橋悠治

シューベルトのメガネ あの小さな丸い枠
もっと昔の音楽家のメガネをかけた肖像画は
思い出せない
紙の上にしっかり固定された音楽 音の絵
古典主義の単純さと大きくなっていく構成
白いアクロポリスの神々
色あせた廃墟

メガネをはずすとぼやける楽譜
それでも頭のなかで鳴りつづけるダクティル
中心のアクセントからはずれて
あてどなくさまようリズム
トンタタ トンタタ 駆り立てられて
行き場のない内側の旅

個人主義と個人の力ではどうにもならない
システムの大きさ
窓のないモナドのモザイクに 組みこまれないように
つなぎとめる ことばのない歌の
語らないことばが 検閲をくぐって
くりかえし くりかえし 執着する
かなしみ
音楽の政治思想

おやじ

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

幼い日 田や野原を
かけ回って遊んだ
流れに手をつっこみ
かにや魚をとった
自然のなかで生きていくすべを
おやじが教えた

けがしたときは肩ぐるま
流れ渡り切り株またいだ
忍耐の人だった おやじ
思い起こせばこころに涙
おやじがいてくれなかったら
おれはどうなっていたか

子らはどうなっていたか
この社会のなかで
まともなヤツになっていたか
それともぐうたらな
人生おくるだめなヤツ
おれにもわからない

今 子らは成長し
芽を出し 実を結んで
列をなす
この幼子のふたつの瞳に
かつての自分がある
わが子は日々育っていく。。。

スラチャイはタイの東北地方の貧しい農村の出身で、父親は村の小学校の校長を勤めながら農業をやっていました。川や田んぼでかにや魚をとるのは日本のように、ただのこどもの遊びではありません。夕飯のおかずとかプララーという塩辛のような常備菜を作るためです。父親は子どもが幼いときから川や森につれていって遊ばせながら、「生きていくすべ」を身につけさせるのです。自然のなかで育ったこのころがいちばんしあわせだった、とスラチャイはよく回想しています。

スラチャイは長男が生まれてまもなく、’76年のクーデターで8年間のジャングルでの生活を強いられたため、子どもの成長を見守るという生活を経験しませんでした。この詩は現在9歳の次男が幼い頃のもの。はじめて我が子の育っていくさまを身近にみつめて、父親の苦労に思いをはせています。身内のことをほとんど歌にしない彼にしてはめずらしい歌です。(荘司和子)

水牛とアリババ

さとうまき

メソポタミア文明といわれてもなかなかピントこないものだ。アメリカ軍だらけの今のイラクからメソポタミア文明を想像するのはなおさら容易ではないが、サダム・フセインはそういった歴史を好んで引用していた。2002年のバビロン音楽際では、メソポタミアの衣装を復元したダンスがあった。でも最後のほうはスクリーンに映し出されたスライドは、クルド人の格好をしたサダム、ベドウィンに扮したサダム、背広を着たサダムとサダムファッションショーになってしまった。「イラクには歴史に裏打ちされた文明がある。アメリカにはそれがない」ラマダン副大統領はそういいきった。彼は今頃なにをしているのだろうな。あの時代が懐かしい。

ぼくたちはチグリス川沿いに南下しバスラを目指した。暑くて、へばっていたのだが、2日くらい前から急に涼しくなった。風が心地いい。川沿いには湿地帯が広がっている。昔はもっと湿地帯が広がっていてそこにはマーシュアラブといわれる人々がいたようだ。ところがサダム政権化で灌漑が行われたために多くの土地は干上がってしまったという。このマーシュアラブというのがどういう人たちなのかよくわからないのだが、ともかく水がないと生きていけないようだし、魚を食べないと死んでしまうんだそうだ。砂漠で暮らすアラブ人には、信じられないといった感じ。彼らに言わせればまるで半漁人のようだという。

途中、クルナ村に立ち寄る。森住卓さんが取材した白血病の子どもが住んでいるという。土壁で出来た家は、まるでメソポタミアの時代から変わらない。それでも、そこで暮らす人々はもっとリアルで、リズムを持っていると思う。南から風が吹き、砂塵が舞い上がる。この中には劣化ウランの粒子がきっと含まれているに違いない。45億年の半減期。この放射能で多くの子どもたちが白血病になってしまった。確率の問題ですよ。日本だって10万人に4名は小児白血病になる。「誰も恨んではいけません。確率なんです」と子供向けの本には書いてある。たとえ、10倍に増えても10万人に40人、確率の問題ですという。しからば、思いっきり、息を吸い込んで劣化ウランの微粒子を含んだ空気を取り入れる。これでぼくたちは、平等になったわけだ。あとは確率の問題。誰だって白血病になるんですよ。インシアッラー。

劣化ウランを含んだお茶が出された。ブンジローは、脂汗を流しながら一気に飲み干した。森住さんもちびちび飲み干した。今度はぼくの番だったが、やめにした。それってずるいんじゃないか。そんな葛藤をしているうちにコップのへりに止まっていたハエが足を滑らせてお茶の中に落ちてしまった。「ハエだもの。ごめんね。ハエはいっている。」代わりのお茶を入れようとするのをさえぎった。「もう良いです」

ムスタファ君は5年前に白血病になったそうだが今は元気になっている。「なんか絵を描いてよ」と頼む。ムスタファ君はちょっとつまらない絵を書き出した。「じゃあさ、何か動物書いてみようよ。ほら、猫とかさ」
ムスタファ君は自画像と猫をかいてくれた。これは結構傑作だ。

ムスタファ君に別れを告げて村を出ようとすると、子どもたちが走ってくる。ずっと車を追っかけて走ってくる。映画「ひばくしゃ」の中でもここの子どもたちは走っている。この世の終わりに向けて走っているような気もする。

バスラにいく楽しみは何かというと、病院で子どもたちと遊ぶこと。バスラのイブンがスワン病院の「遊び部屋」はとても楽しい。子どもたちはいつもけらけらわらっている。
5歳のザイナブちゃんは、なんか歌を歌ってくれた。「羊さん、羊さん、ナイフで切られてああかわいそう」という風に聞こえる。お母さんが、促すと次から次へと歌が出てくる。とっても得意げだ。「天使の歌声」をMDに採らせてもらった。それでも、時と場合によっては簡単に子どもは死んでしまう。明日になったら血が止まらなることもある。今のイラクでは輸血もろくに出来ないからそのまま死んでいくのだそうだ。

バスラを後にした。また湿地帯を横目に北上していく。途中には水牛がいた。普通の牛の2倍はある。ドライバーに頼んで車を止めてもらった。実は、この水牛をずいぶんと前からぼくは追っかけていた。昨年の10月、ものすごい勢いで、高速道路を飛ばしている際に、ちらちらと水牛がいるのが見えたが、どうもうまくカメラに収まらなかったのだ。車を止めようとするとかなり遠くであれが普通の牛か水牛かを見分けて運転手に指示を出さなければならない。結構難しい。イラクでは畑に出ているおばさんは全身黒装束だったりするし、黒いヤギもいる。

今度は、ようやく水牛の前でうまく車を止めることに成功したのだった。ぼくはもう喜んでこれをカメラに収めようと、車を降りようとした。運転手が「やめろ」という。何でもアリババ(盗賊)があちこちにいるからだという。「やつらは外国人とわかったら銃を持って襲ってくる。ほらそこで日産のピックアップで待ち構えているのがアリババだ」実際襲われている車もいた。アリババ対策なのだろう。イラク警察があちこちで検問をやっていてその数が20近い。ぼくは残念だったが、車の中から水牛の写真を撮るにとどめた。

人と水牛

人はたがやす 水牛はたがやす
人と水牛の かたく結ばれた
作業のみのりは だれにとられた
田んぼに出ようよ 鋤と鉄砲かついで
貧しさに耐え 涙かれはて
つきぬ悩みも なんでおそれようか
死んだも同じの ひどい暮らしだよ
血も汗もしぼりとり どん底にしずむ
百姓をみくだす やつらは打ち倒せ

タイとイラクではずいぶんと様子は異なるだろうが、ひどいくらしに違いない。

黄色い鳥と春の声

御喜美江

2月25日、5か月ぶりに帰国した。
ドイツでの仕事が終わって、下関における父の一周忌の法要と、東京で開かれている佐藤真紀さんの『こどもたちの描いた絵の展覧会』に間に合うようにカレンダーで帰国できる日を探したら、デュッセルドルフ発が24日夜、成田着25日、この日しかなかった。エールフランス航空パリ経由の夜便はめずらしく空いていたので、機内では夕食のあと肘掛を上にあげ、3つの座席に毛布を何枚か並べ、小さな”空の寝台”を作って就眠準備についた。幅も長さも全然足りないし、ベルトの金具も椅子のかたむき加減も体には馴染まないけど、でも飛行機の中で”横になれる”というのは最高の贅沢。毛布にくるまって文庫本を読みながら、「あ〜、なんと快適!」と大満足。ところが夫はというと、体が大きいので横になるのは恥ずかしいらしい。というか彼が横になるためには少なくとも5つ座席が必要だから、それはなかなか難しいことで、気の毒にも背筋をまっすぐのばし、きちんと座って読書なんかしている。彼が言うには、きちんと座らないと膝が前シートにあたって痛いとのこと。その点、日本人の体型は胴が長く、足は短く、横幅もそんなにはないから長いフライトには大変むいている。海外旅行で日本人が圧倒的に多いのも、もしかしてそれが理由かもしれない。

さて、”空の寝台”に寝入ってから約2時間後、ふと目が覚めた。すでに日本時間に変えておいた腕時計を見ると、(2月25日)12時50分である。その時、はっと思った。ちょうど一年前のその時間12時48分、父は病院で息を引き取った。母と私は10分遅れで間に合わなかった。あれからちょうど一年が経ったのだ。なんだかすぐそこに父がいるようであわてて窓から外を見ると、下のほうに小さな灯りがポツン、ポツンと見えた。ここはロシア上空。そして私は今、父の命日に日本へむかって飛んでいる。これはまったくの偶然……だったのだろうか。

翌日、表参道のクレヨンハウスで行われている佐藤真紀さんの『こどもたちの描いた絵の展覧会』を見に行った。佐藤真紀さんにお会いしたことは一度もないが、ここ数年のイラクにおける想像を絶する難しい状況の中で、常に人々に、とくに子供達に、生きる道と希望と勇気をあたえる素晴らしいお仕事をなさっていることに深い尊敬の念を持ち、さらに”読む水牛”では名前を毎月一緒に並べていただけるので、私のなかでは”クラスメート”の意識が自然と生まれてしまって、この展覧会は何としても是非見たいと思った。

展示されている絵はさまざまで、いくら見ても見飽きなかった。ハイダル・アリ君が描いた”お母さんの涙”、これは涙を流しているお母さんの横に小さなボクが立っている絵で、なんともたまらく悲しい。ヤスミーン・イブラヒームちゃんの描いた、燃えるビルと戦車の間で赤い花をイラク人の手から兵士の手へわたす絵にも心打たれた。空には戦闘機ではなく黄色の鳥が飛んでいたのも忘れられない。その黄色い鳥は東にむかってまっすぐ飛んでいた。

全体に暗い絵を想像して行ったのに、実に色彩豊かで夢のように明るい絵が多かったのにも驚いた。また”黄色”が、ほとんどの絵に使われていたのも大きな印象で、子供ながらに”光”をもとめる切なる心、また”光”だけは失ってはいけない、と叫ぶ声が聞こえてくるようだった。今まで絵を見て、これほど”黄色”に深い感銘を受けたことがあるだろうか。イラクのこどもたちの絵は、私に色の意味をも教えてくれた。

「絵は描けないけど見るのは大好き」と思っていた自分に、この展覧会は新しい刺激をあたえてくれた。絵から伝わってくる声、言葉、ほんとうにすごいと思った。

それから3月はずっと日本で、今日28日はマンションのお花見に参加した。風のない暖かいおだやかな日和だったが、明日は鈴木理恵子さんとのリハーサルがあるし、4月1日はいよいよアコーディオン・ワークスなので、気持ちにも時間にも余裕はない。母には「練習があるからお弁当だけもらって帰るけど、いいでしょ?」と言い、生まれて初めて母子2人でお花見に出掛けた。ところが荒川の桜並木についてみると春の空気が実に爽やかで、気がついたら2時間も居座ってしまった。草の上でお弁当”京友禅”、トン汁、ビールをいただき、ビンゴゲームでは3等賞を取ったりした。

ここでは明るい”春の声”が聞こえてきたけど、でも気持ちはどうしてもアコーディオン……、帰宅して夜までずっと練習していたら腰がズキンズキンしてきた。もう楽器からは体を、譜面からは目を離そう。そして昼に見た美しい桜並木と、広く青い川を頭に思い浮かべて寝ることにしよう。でも、その風景のなかには、あの曲、あの楽章、あそこのテンポ、あの指使い等などが細々と楽譜からおどり出て、ちらちら降ってきそう……

(2004年3月28日東京にて)

しもた屋之噺(28)

杉山洋一

3月の上旬、それまでの厳しい寒さも緩んで、街の木々の蕾が一斉に膨らんだかと思いきや、ここに来て底冷えする毎日が続き、スイス国境あたりの山々の尾根も、寒気で雪に覆われてしまいましたけれども、気がつくと、拙宅裏の桜並木が紫色のあでやかな花を開いていて、今晩から夏時間に切替わるのを、自然の方がよほど心得ているように思われました。

今日午後の便で、友人の遺骨が、ご主人に抱かれて日本に帰ってゆきました。10年来ミラノに住んでいて、友人や恩師のはなむけに何度か立ち会いましたが、日本の友人が逝去したのは初めてで、普段すっかり感じなくなっていた価値観の相違に、改めて感じ入るものがありました。何の因果か4年前ドナトーニが横たわっていた地下の霊安室に彼女を訪ねると、相変わらず殺風景な2畳ばかりの白タイル貼りの個室に、換気扇の音だけ虚しく響いていました。

日本なら亡骸を家に持ち帰り、しめやかにお通夜を過ごすところでしょうが、かかる習慣のないイタリアでは、遺体はそっけない霊安室に残されたままなのが寂しいところです。葬式と言っても、花輪を飾った多少広い個室に遺体を移し、友人が順番にお別れしてから神父に祝福を授けてもらうだけの、はなはだ簡素なもので、「そんなお気遣いはご無用」と常套句を独りごちつつ、神父がお礼袋にほくほく手を伸ばすさまのみ、日本の葬式坊主と瓜二つで、感慨深く思いました。

日本と比べ、棺が大層頑丈で賑々しいのは、土葬が一般的なキリスト教の習慣に則ったものに違いありません。そのまま火葬場で燃やすために作られた日本の棺桶とは、意図が根本的に違うのです。日本なら、最後に遺族が順番に石を持ち、涙を拭いつつ釘を打ったりするところですが、こちらは情緒もへったくれもなく、電動ドライバーで葬儀屋が首尾よく閉めてゆきます。

遺体を日本に搬送する許可を得るのが厄介なので、葬儀のあと荼毘にふすため、遺体はミラノ郊外の斎場へ、霊柩車で運ばれてゆきました。日本ならタイミングよく荼毘にふされ、数時間後には遺族が骨を拾ったりするところですが、イタリアではただ遺体を斎場に預けるだけで、数日経ってから「出来上がっております」と連絡が入るのだそうです。骨壷に骨を入れる順番にまで細心の注意を払う、日本人の殆ど芸術的な感性とは程遠く、ただセラミックの骨壷に詰めてあるだけで、「喉仏」も何もあったものではないようです。

穿った考え方をすると、あの棺、頑丈に作られすぎているし、鉄で下側が補強されていて、どうやってもあのまま荼毘にふすことは出来ないように思われます。斎場では何日か経って荼毘にふすらしいので、斎場に預けられた後、どうやら改めて電動ドライバーで棺を開け、亡骸を出して、遺体のみ焼かれることになるに違いありません。日本人の感覚では、キリスト教の「永遠の平安」とは程遠い扱いに憤りすら感じますが、彼らの感覚からすれば、もしかするとそれなりに筋は通っているのかも知れません。あの棺も恐らくリサイクルに回され、次回はイタリア人か、案外アルバニア人あたりの相手をすることになるのかも知れませんが、住宅から家具まで、古いものを流用するのが誇りの人種ですから。

最近はイタリアの墓地も敷地不足で、10年ほど集合墓地に置いてから、改めて棺を開いて遺骨だけを拾って、骨壷に詰め直し、もう少し立派な墓地に埋葬しなおすとか。かような感覚は我々には到底理解出来ませんが、流石にこれはイタリア人も同じらしく、最近では初めから荼毘にふし、どこか適当な場所に埋葬する傾向にあるそうです。

日本に遺骨を持って帰るためには、特別の許可証、一種のパスポートが必要なのだそうです。以前、在日韓国人の音楽家がミラノで亡くなったときは、故人が韓国籍だったため、日本に遺骨を帰してあげるのが大変だったと聞きました。外国人として生きる厄介は、こんなところにも現われます。

友人には、小学校に上がろうかという未だ幼いお子さんがいるのですが、学校の先生たちは、「ショックで子供にトラウマが残るので、頼むから遺骨を子供に見せないで欲しい」とご主人にくれぐれも頼んだということですが、この辺りも、日本人の感覚とは少し違うではないでしょうか。我々は死んで骨になるのは当然の摂理として受け入れられますが、話を聞いてみると、彼らにはグロテスクな印象を与えるようです。

逆に言えば、彼らが死者を笑顔で祝福するのに、エキセントリックな印象を禁じ得ません。泣き女までゆくと大袈裟かとも思いますが、せめて坊主が無表情に南無南無と唱えてくれた方がしっくり来ます。傍らで遺族が泣き崩れているのにも関わらず、神父が亡骸に向って「いやあ、めでたい。これであなたも、天国で主とともに永遠の平安を成就されるのです」、と晴れやかにのたまわれても、妙に空々しく感じてしまうのは、自らの精進が足りないのかも知れませんが。

そんな諸々の出来事に感じ入っていると、ヴィオラのパオロが突然、「君は生まれ変わりを信じるかい」と尋ねてきました。「特に興味はないけれど」突拍子もない質問に少々面食らいながら答えました。「君はカソリックなのかい。何れにせよ、キリスト教の教えとは矛盾するだろう」「確かにカソリックでは輪廻転生を否定するけれど、そういうことではなくて、大いなる存在としてのイエスを信じているのさ」「キリスト教というより、メシアを待ちこがれるユダヤ教みたいだな」隣で聞いていたヴァイオリンのアルドが口を挟みました。「次に生まれてきたら、君は鼠だったりするかも知れないんだぜ。それでもいいのかい」「それはそれでいいだろう。今自分に与えられている人生を、誠実に全っとうしたいだけだからね。そうして生れ変ったら、また新しい人生を懸命に生きぬくだけさ」

(3月29日モンツァにて)

折って綴じると……

LUNA CAT

幼い頃、「ノート」が嫌いだった。
というよりも、「本」にひかれていたというほうが正しいのかもしれない。

幼稚園から小学校低学年くらいの頃、ノートをそのまま使うことをしない子供だった。もちろん、勉強するときには仕方なく使うのだが、プライベートの場では、ひと手間かける。ノートの紙を切り取って折り、セロハンテープや針金で綴じて(ホチキスの平綴ではなく、針金の中綴!)、作品毎に個別に「製本」するのである。作品は物語だったりマンガだったりするわけだが、作品の長さと無関係に、一定の枚数があらかじめ綴じられている「ノート」というものに対して、大いに不満を抱いていたらしい。

三つ子の魂百まで、と言われているとおり、この傾向はその後もずっと続いている。高校までは、不満を抱きつつも、いわゆる「ノート」を使っていたが、大学時代にはルーズリーフノートを愛用するようになった。社会人になってからも、紙に記録することが多かった時代には、ルーズリーフノートを使っていた。時はめぐり、モノを書くという行為が「ワープロやパソコンのファイルにビットを記録する」ことと等しくなってからは、「一定の枚数」から解放され、ハードディスクの容量が飛躍的に増大した結果、記録媒体による制限に煩わされることもなくなって、現在に至る。

「本とコンピュータ」2004春号で「折って綴じれば本になる」という記事を読み、「装丁探索」(大貫信樹著、平凡社)で「針金綴製本」の話を読んで、そんなことを思い出した。

紙を折って綴じることはできても、そこに書く手段が手書きしかなかった時代と違って、いまではいとも簡単に文字や絵や写真がレイアウトでき、印刷できるようになった。ちょっとした分量のものをプリンタで印刷し、綴じる。そうすれば、過不足のないページ数の、ちょうどいい本ができあがる。ほんとにささやかな規模のオンデマンド本というわけだ。

3年ほど前に購入したプリンタは、今ではパーソナル市場からは撤退してしまったらしいが、某複写機メーカーの製品で、いまや花盛りのパーソナル複合機のはしりだった。付属のユーティリティソフトには、「小冊子作成」という機能がある。買ったばかりの頃に試してみたら、縦組みにしても左開きのままになり、使いものにならないので、いちどで懲りてしまったが、オンデマンド印刷機も発売しているメーカーらしい機能と言えそうだ。

パソコン初心者向けの書籍でも、本の作りかたの解説を見かける。解説の中身は、主にワープロソフトの使い方なのだが、本の作りかたというタイトルにパソコン初心者が興味を持つ程度には、人は本を作りたがるものであるらしい。

とはいえ、「本コ」の記事にあるように、「印刷すること」と「製本すること」とは、いまだに頑として別個のものとして存在している。そして、印刷することは驚異的と言えるほど簡単になったけれど、製本することに関しては、パソコンもワープロも存在していなかった頃と、ほとんど変わっていない。折って綴じることはできるとしても、表紙をつけて本にする過程に、いまひとつ不満が残る。印刷は短時間に大量にできるようになったけれど、それを本のかたちにする技術はついていっていない。ちょっとしたものならともかく、自分で長篇小説を書き、プリンタで出力して製本しようとすると、途方もない労力がかかるだろう。自力でできないから、業者に頼めば良いかといえば、そうでもない。

ノートに不満を抱いていた小学生は、社会人になったばかりの頃、社内報に、オンデマンド本の出現を予見するようなエッセイを書いた。それから十数年が過ぎた頃、オンデマンド本は現実のものとなった。ただひとつ、そして決定的に異なっていたのは、現在「オンデマンド本」と呼ばれているものは、出版社の所有するデジタルデータをオンデマンドで「印刷する」本であり、印刷したものをオンデマンドで好きなように「製本する」本ではないことだ。デジタルから紙に変換するという機能を提供しているだけで、変換後の形態には、選択の余地がない。

停電になっても、パソコンが壊れても、ハードディスクが飛んでも、CD-ROMが読み込みエラーとなっても、ソフトが新しいOSに対応しなくなっても、それでも読めるというのが紙の本の大きなメリットであることは間違いない。だからオンデマンド本も、デジタルデータのままではなく、紙に印刷されていることに価値があるというのも、一理あるのかもしれない。しかし、いまや、印刷するということに対するハードルは、驚くほど低くなっている。かつてのひねくれ小学生としては、オンデマンド本の存在意義というものは、そこから先の選択肢がどれだけあるかでも問われるべきではないかと考えてしまう。

紙の本を求める理由として、電気も特別な道具もいらないというだけでなく、モノとして手元に置いておきたいというのも、大きなウエートを占めているのではないだろうか。わざわざプロが作るのだから、自分が印刷して束ねるのと大差ないのではさびしい。多少費用が多めにかかったとしても、紙や判型や、フォントや版面や、表紙の紙やデザインに、愛蔵本となりうるような選択肢は不可欠だと思う。極端な話、たとえばアパレルのデザイナーと提携した少部数発行の本があったって良いのだ。ファッションから本にアプローチする読者がいてもかまわないのではないか。残念なことに、そんな発想は、いまのところ出てきていないようだけれど。

折って綴じることと、本をつくるということの間には、微妙な距離がある。
製本は、その微妙な距離を守り続けて、最後の聖域として残るのかもしれない。あるいは、印刷の選択肢が十数年の間に飛躍的に増えたように、たとえばこれから十数年のうちに、選択肢が増えていくのかもしれない。
ともあれ、折って綴じるという行為の彼方には、まだまだ、はるかに長い道のりが続いているらしい。

容疑者は夜汽車?

松井茂

2003年の年末から2004年1月末、約1カ月ほどの時間をかけて、鶴見幸代の合唱曲のために『縞縞』という詩を書いた。字面的にはヨーロッパとアメリカと日本の通貨をならべた詩だ。自分だけではおそらく書かない種類の作品だったので、鶴見幸代が声を掛けてくれたことに感謝している。また、この詩を書くことを通じて、多和田葉子の文章を読むようになったことも刺激的なことだった。

それにはいくつか事情がある。2003年12月28日に豊田市美術館で、『宥密法』のクロージング・イベントとして、私とさかいれいしう、豊田市美術館の学芸員・都筑氏の3人で、2時間半にわたるパフォーマンスを行った。それが終わってから、美術館の方と話をした際に、パフォーマンスをみていて、多和田葉子の朗読パフォーマンスを思い出したと言われたのだった(未だ、多和田葉子のパフォーマンの詳細をしらないので、どうしてなのかはよく分かっていないのだが……)。作家の存在は、もちろん知っていたが、読んだことはなかった。大学生のときに、古典の授業で『犬婿入り』を読むことを勧められたけれど、どうせ民俗的な翻案の小説なのだろうと思って読まなかったことを思い出す。豊田から帰宅して、偶然、兄から多和田葉子の『容疑者の夜行列車』を「いらないから」ともらった。

ドイツ在住で、ドイツ語と日本語で小説を書きわけている作家だという事実から、勝手にハードで重厚な内容を想像し、すぐには本を開かなかった。だが、読み始めると、あまりといえばあまりに軽くて読みやすい文体で驚いた(軽薄と言うことではなくて、意図的に軽い、つまり戦略的な文体だからなのだと思う)。一人称の語りなのに「あなた」という言いまわしで、よそよそしい独白が、読者と主人公と筆者とそれぞれの間に客観的(であるかのよう)な距離間をうみだして展開する(後半で「あなた」と語ることになった起源譚も出てくる)。

内容は、ユーラシア大陸をあっちに行ったりこっちに行ったり鉄道で移動する話の断章からなる。展開のある物語ではなく、それぞれが独立した話。主人公は舞踏家だが、公演地から公演地へと移動する。はっきりいって、たんにこの移動についてだけの話(むかしに放浪した時代の話もある)。ある意味で、書くこと=語ること自体が目的で、書き=語るために移動していると思えてすらくる。この作品が何かの賞を受賞したときに、審査員のひとりが「この小説は夢の話で云々」と言ったそうだが、私は、その話を聴くまでこの小説が夢の話とは思わなかった。もちろん真偽はわからない。幻想譚めいてはいるが、寓話的とも思わなかった。私は、これまでに知らない種類のリアルに触れた気がしていた。

第一話に「パリへ」というタイトルの、夜汽車でハンブルクからパリへ向かう話がある。途中、ストライキで汽車が止まる。フランス語を話す相手にフランス・フランでチップを払うと、相手が逃げるように去っていった。そして、やがて汽車の替わりにバスが来てそれに乗る。すると、国境がみえてくる! 「あなた」は、いままでいた場所がベルギーだったと気づく。ベルギーもフランスも、フランス語を話し、通貨はフランだが、その価値はかなり違う。「あなた」は「大金を払」ってしまったのだった。ちなみに1ユーロは、6.55957フランス・フラン=40.3399ベルギー・フランだった。これは、ユーロ以前のヨーロッパで起こりうる勘違いで、要するに悪い冗談なのだろう。そこに普遍的なリアルがある。

今どき日本から出たことがない私は、これを読んだころ、理屈で『縞縞』に通貨の単位を使うことを考えていた。しかし、ユーロという統一通貨と従来の通貨(ユーロからみれば地域通貨ということになる)の関係から、文化や普遍性について語れるということに、リアルな実感がなかったのだ。多和田葉子の小説を読んで、夜汽車でユーラシア大陸を彷徨し、通貨という視点から考えることに確信が持てたのだった。その他にもとにかく、多和田葉子の小説、エッセイを読んで考えさせらることが、いろいろあるのだが、それはまた稿を改めたい。文体の問題やら、語り口の問題で気になることがいろいろあるし、普遍性の考え方や、言語観等々、興味は尽きない。初期の作品のいくつかには、母語の外で暮らす違和感を表明した作品があり、それはそれでたしかに面白い(『犬婿入り』も違和感の表明だ。また『ペルソナ』や『アルファベットの傷口』の中によみとれる悪意は読んでる方がほんとに痛い気持ちになってくる)。また、ある時期以降は、違和感の表明のしかたが物語的ではなく、もっと駄洒落的な展開になっていくように思われる。つまり、文章が、文字通りの意味とは遊離して、音響から拡げられていくところがあったりする。これが微妙に篠原資明的だったり、藤井貞和的だったりと、詩的な展開で面白い。

忘れられない日付

宮木朝子

イラク戦争開戦から1年、暴力の吹き荒れる世界にも、再び春が訪れる。
映像の伝える鮮血の赤が、きょうもまた目を灼く。
ちょうど1年後の3月20日には、友人たちのコラボレーション作品が、この日付を忘れられないものとしてくれた。自分なら逃避的な表現をしてしまうかもしれないが、彼らはそんな世界に対して、大胆に、自在に、表現を返してゆく。作曲家の鶴見幸代さん、詩人の松井茂さんによる、時事的で芸術的な問題作、『縞縞』。

*電磁波にとりかこまれての自閉症――
現在作曲中、6月発表の2曲についての創作メモ。

『Compostela(星降る野原)- for Trumpet and α 』

「初めて踏んだ砂漠の地。乾いて崩れた明るい色の岩石の質感と、灼けつくような陽射しに目をあけていられない白く照り返した空気とのせめぎあいのただなかにいることの、臨場感に圧倒されていた。〜
乾いた空気の中を突き抜けて存在する音、をもしもフィルムに焼き付け、多重露光することができたなら? Still shot(静止画像)としての音響。これはむろん比喩のなかでの出来事だが、感覚の中では矛盾なく存在する。同じ音列によるメロディーが微妙な音響的誤差をともなって、ブレるように響くこと、その連鎖によってつくられた時間軸は、螺旋状に連なり、堆積した記憶の侵入により、歪んでゆく。やがてブレから滲み出してきた音響が、メロディーをかき消してゆく。。」

『Orfeu mix〜distant love in electronica2004(仮題)
――for electronic organ,electric guitar, and electronic sound』

世界から剥奪され、断片化されたもの(音響)から、あらたな(身体)像を予兆として結ぶ、という行為に、四肢分断され世界に散種されたオルフェの最期を重ねてみる。

想起することにより現実のものとなる情報。過去-現在-未来が同時にいま・ここに・在るということのシンセティックな意味。合成される全時間の瞬間。継時的なものが無効となる瞬間、をつくる。

electronic organを、(電子の器官)と読み換え、”エモーション””官能”に対して変調をかけ、remixをおこなう。

Stillなものと、溢れかえるノイズとしての情報。重なりあい、変化する景色。
夢の時間、神話の時間における、”Love”のくりひろげられる場所。

失われた伝統(1)ラウル・コチャルスキのショパン

三橋圭介

ショパンはすぐれたピアノ教師だった。かれは自分の曲を、特にポーランド人の弟子たちに非常に厳格におしえた。その伝統とはどのようなものだったか。その答えはラウル・コチャルスキの演奏のなかにあるかもしれない。

コチャルスキは1885年にポーランドに生まれ、1948年に亡くなった。年代的に見るなら、かれよりもロマン派の時代に青年期を過ごした1848年生まれのウラディミール・パハマン(1933年没)のほうがロマン派的伝統を身につけているはずだ。たしかにそうだろう。だが、ショパンの音楽がロマン主義の伝統のなかでどのような位置づけにあったかを考えなければならない(シューマン同様、ショパンは自分の音楽をロマン主義ということばで説明されることを好まなかった)。コチャルスキが1920年代から40年代にかけて残した録音(Archiphon ARC-119/20、Biddulph LHW022)からきこえてくるのは、ロマン主義のパハマンとも、もちろん華麗なヴィオルトゥオーゾを装った現代ともまったく別の音の世界だ。

ピアニストとしてコチャルスキは4歳でコンサート・デビューし、また5歳からはじめた作曲では、7歳までにすでに40を越える作品を書いた。そうした才能に目をつけたのが、ショパンの高弟カロル・ミクリ(1821-97年)だった。かれは1892年から4年間、まだ幼いコチャルスキをショパンの伝統の後継者にしようと徹底的に仕込んだ。それはショパンの厳格なメソードに基づいたもので、たとえば、姿勢から運指法、ペダル法、レガート、スタッカート、装飾音、フレーズの構成、リズムの扱い、ルバートなどだった。当時、レッスンがとても大変だったことを、コチャルスキは告白しているが、かれの歴史的録音をきくと、たしかに身につけたと感じる何かがある。

「あの木々を見てみなさい。葉が風にざわめいて波打っているが、幹は動かない。これがショパンのルバートだ。」リストがいったと伝えられているこのルバートは、ショパンのピアノの演奏のなかでも最も特徴的なものとして挙げられている。それは左手の正確なテンポを保ちながら、右手を遅らせながら自由に歌わせる技術だ(パハマンのルバートは、旋律を正確に歌いながら、左手を操作している)。これはハイドンやモーツァルトの時代に使われていたルバートと同様の効果がある。

ルバートとは17世紀終わりから18世紀にかけて、歌のベル・カント(美しい歌)様式が器楽に移されて発展したもので、バスの安定した動きの上でアリアやレチタティーヴォなどをうたう歌手が、音を長くしたり、短くしたりしながら、装飾音をつけて演奏したことにはじまる(そうしたベル・カントに基づく装飾的なルバートの例は、モーツァルトの緩徐楽章に多く見つけられる)。ショパンは常々イタリアの歌手のベル・カント唱法を見習うように注意したが、それは旋律を巧みに歌うことと密接に結びついていた。

リストがいう「ショパンのルバート」は、当時でも評判が悪かったという証言もあるが、コチャルスキはそれをミクリから学び、よく理解していたのだろう。かれの弾く前奏曲の第2番は、即興的な装飾を一切行っていないが、リストのことば通りの演奏の例だ。だが、それを実際にきくととても奇妙な印象を受ける。左手のパターンの上で、右手が全体に遅れながら同時に進行するが、こういう表現は今までコチャルスキの演奏以外ではきいたあことがない。だが、「奇妙に感じる」のは、いわゆるクラシックをきく耳できくからであって、アジアや東欧の伝統的なアンサンブルをきく耳には親しいものだ。たとえば、ドローン上に浮遊して戯れる旋律は、インド音楽やジプシー・ヴァイオリンのアンサンブルなど、そうした例はたくさんある。こうした伴奏と旋律を完全に独立させるやり方は、理論ではなく、和声と旋律の音色の微妙なバランス関係、つまり不規則の規則によって行われている。

さらに装飾音との関わりでいえば、ノクターンの作品9の2はミクリをはじめとして、いくつかの装飾稿の存在が知られているが(ショパンはおなじ曲を2度おなじように演奏しなかった)、コチャルスキの演奏はそのどれともちがう。抒情豊かに旋律が歌の内的な流れにたゆたうように揺らめき、冒頭の旋律のくり返しの前で、巧みなルバートをかけて半音階的に駆け上って旋律を受けつぐ。息を呑むような瞬間だが、ショパンは声楽のポルタメントの効果をピアノに求めたといわれているが、ここではそれを彷彿とさせるものがある。歌はくり返される度にその息遣いと共に多様な表情を見せていく。

コチャルスキの前奏曲、練習曲、ノクターン、マズルカなど、これまできいたどんなショパンともちがう。詩情にあふれ、瞬間に瞬く儚い美しさがあるが、その歌の行方を追いかけていると、いわゆるクラシック音楽のショパンをきいているというより、ポーランドの伝統音楽のなかのショパンをきいているような錯覚すら覚える。また、コチャルスキという演奏者の個性というものをまったく感じさせない。よい意味で、ローカルな素朴さ、美しさをたたえた歌う音色の音楽であり、ショパンがほんとうはこういうものだったのか、という思いを強くさせる。その意味でもショパンのピアノの伝統が当時でも極めて孤立した現象だったと想像することもできる。ラウル・コチャルスキのショパンは、そのことを伝えている。

私のスリンピ・ブドヨ観

冨岡三智

スリンピとブドヨはともにジャワの宮廷女性舞踊で、マタラム王朝の後裔のジョグジャカルタとスラカルタ(ソロ)の宮廷に伝えられている。どれも完全に上演すると1時間ほどかかるので、現在では10〜25分に短縮されている。スリンピとブドヨの完全版をできる限りすべて修得するというのが、私の留学時代の課題であった。今回はスリンピとブドヨ(完全版)という舞踊について、私が自分自身の舞踊体験から感じとったことだけを書いてみた。したがってこれらはジャワの文献に書かれていることでもなければ、舞踊の師が教えてくれたことでもない。また観客の立場から見た見方でもなく、私が5年間振付の時間を経験し続けて感じたことである。

●スリンピ
スリンピは4人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付は抽象的で、同じ振りを2回または4回、方角を変えて繰り返し、シンメトリーなパターンを描く。舞楽のようなものだと想像してもらえれば良い。宮廷舞踊では4本の柱で囲まれた方形の空間で舞うのだが、その空間の雰囲気も舞楽の舞台に似ているように思われる。

スリンピでは基本的に、4人の踊り手が正方形、あるいはひし形を描くように位置する。最初と最後は4人全員が前を向いて合掌する。曲が始まって最初のうちは4人が同じ方向を向いているが、次第に曲が展開していくにつれて、踊り手のポジションが入れ替わり、さまざまな図形を描くようになる。4人1列になったり2人ずつ組になったりすることもあるが、4人が内側に向き合ったり、背中合わせになったり、右肩あるいは左肩をあわせて風車の羽のように位置したりすることが多い。こういうパターンを繰り返し描いて舞っているうちに、空間の真ん中にブラックホールのような磁場があるように感じられてくる。踊り手はそこを焦点として引き合ったり離れたり回ったりしながら4人でバランスをとって存在していて――それはまるで何かの分子のように――、衝突したり磁場から振り切れて飛んでいってしまうことはない。4人が一体として回転しながら安定している。それも踊り手は大地にしっかり足を着地させているのでなく、中空を滑るように廻っている。そんな風に、スリンピは回る舞踊だと私は思っている。

そしてまたスリンピは曼荼羅だとも思っている。私がそう言った時に、まさしくそう思うと言ってくれたジャワ人舞踊家が2人いた。(同意してくれそうな2人にしか話していないが)曼荼羅は東洋の宗教で使われるだけでなく、ユングの心理学でも自己の内界や世界観を表すものとして重要な意味を持っているようである。曼荼羅のことを全く知らなくても、心理治療の転回点となる時期に、方形や円形が組み合わされた図形や画面が4分割された図形を描く人が多いのだという。スリンピが曼荼羅ではないかと思い至った時に河合隼雄の「無意識の構造」を読み、その感を強くしたことだった。さらに別の本(「魂にメスはいらない」)で曼荼羅の中心が中空であるということも言っていて私は嬉しくなった。スリンピという舞踊は今風に言えば、1幅の曼荼羅を動画として描くという行為ではないだろうか。ブラックホールを原点として世界は4つの象限に区分され、その象限を象徴する踊り手がいる。そんなイメージを私は持っている。

●ブドヨ
ブドヨは9人の女性が同じ衣装を着、同じ振付を舞う舞踊である。振付も抽象的で、同じ振りを方角を変えて繰り返すところなどもスリンピと同様であるが、9人という人数で踊られるだけに複雑なフロアパターンを多く描き、またシンメトリーでないものも多い。ブドヨはスリンピと違って多くの作品が失われてしまった。ただしブドヨの本歌とも言うべき「ブドヨ・クタワン」はいまなおスラカルタ宮廷で毎年王の即位記念日に行われている。これは門外不出の舞踊である。今に残る数少ないブドヨ、または元はブドヨであったと言われるスリンピ作品を舞ってみて痛感するのは、ブドヨは大地を歩く舞踊であるということである。

ブドヨに特有なステップのあるララスやプンダパンという動きでは、踊り手は前に進むかと思えば後退し、また進み……を繰り返す。大地を慎重に踏み固め、練り歩いているような気に私はなるのだが、歩くという行為自体が宗教的、呪術的行為になり得る。

アボリジニには聖地を結ぶ古い小道を儀式的に徘徊(walk about)し、それぞれの聖地で決められた儀式を行って、精霊のエネルギーの循環を助けるという信仰があるそうだ。またイギリスでキリスト昇天祭に催される「大地の境界線を打ち据える」(beating the bounds)儀式も似たような徘徊の行事だという。ライアル・ワトソンの「アース・ワークス」でこれらのことを儀式的徘徊の存在を知った時、また日本でも陰陽師が行うという反閇(へんばい、歩くことによって行う呪法)があることを知った時に、これらはブドヨと同じではないかという気がしないではいられなかった。

9人がこうやって大地を踏みしめてもぞもぞ、ぬるぬると移動するとき、私はこの9人が巨大な1個の生命体となって大地を這っているような感覚に襲われる。1人1人の踊り手は大地を踏みしめているのだが、1個の生命体となった時には、蛇のような足無しのものが這っていくという感じなのだ。特に9人が一列の隊形の時はなおさらである。だがこの生命体は9人の徘徊によって生じたエネルギーかも知れない。それは「気」のようなもので、霧が谷川の上を蛇のように(気とくれば龍に例えるほうが良いかもしれない)流れていくように、ブドヨのエネルギー体が大地を這っているのかも知れない。

何ともまとめようのない文章になってしまった。読者の方は、宮廷舞踊に対してなんと突飛なことを考えているのだと思うかもしれない。だが舞踊の動きはイメージの中に生き、そしてイメージは連想に支えられていると私は思っている。スリンピやブドヨを、こんなイメージを持った舞踊として表現できたらと私は思っている。

3月の練習

高橋悠治

    これでは以前とおなじだ
      また はたらくようになってしまった
  と思いつつ
 3月は3つのコンサートの練習をしてすごした
      18世紀から20世紀にかけて興り栄え崩壊した西洋音楽が
         楽譜に書かれ
        楽譜はスケッチではなく設計図になって
 しかも楽譜に書かれた音符を絶対とする信仰が
    1930年代に生まれたために
        逸脱を許さない安全の規律にしばられ
機能主義と速度を競う演奏の態度が生まれた
 演奏機械の誕生
    それは国家社会主義とケインズやニューディールの時代
  崩壊した経済を国家の介入でのりきる戦略のもとでの
        文化統制の表現
 純粋 均質 本質 こんなことばがいまも生きているのか
            そこで練習はもう
変化するおなじ アミリ・バラカ
  あるいは 毎回の更新ではない
         おなじ回路をくりかえし
   意識から無意識になっていくプロセス
    ゆっくりくりかえし だんだんに加速する
     あるいは一気に速度をあげて確認する
  こんな練習法が通用しているのはなぜか
三味線の稽古では 練習曲もなく
     ならうとは 文字通り師に倣うこと
        はじめから速いものは速く おそいものはおそく
 いっしょに3回弾き 今日はここまで
質問してはいけない
  なぜなら と師は言われないが
            わからない者がする質問は
           その水準での誤解にもとづいている
 それに応えれば その水準から出られなくなる
     そしてわかれば 質問してもむだだとわかる
 質問はなくなっても 問いはのこる
        あるいは答のない問いだけが生きつづける
            ところで
ネイガウスやリヒテルの現代ロシアピアノ奏法では
 やはり速いものをおそく練習するのはむだだと思われていたらしい
         そのかわり
  つまずいたところで中断して
         そこまでとそれからを練習し
            くりかえすことは4回まで
     すると うごきはなめらかになっている
 エイゼンシュテインのモンタージュやメイエルホリドのビオメハニカの
     ロシア・アヴァンギャルド思想はこうして
           ピアノ演奏技術を装って
        スターリン時代を生きのびたのか
  また
   グレン・グールドの練習法のひとつ
             一方の手の指で他方の手の指を踏みつけながら
 1曲を弾き通す
           足枷をかけられた囚人のように
        それができたら 元通りにやってみると
    ふしぎに もうできていた
           こうして
 バッハのゴールドベルク変奏曲全体を練習するとは
   北の人の なんという苦行か
グレン・グールドが小屋のなかで練習しているビデオを見た
        歌いながら 時々中断しては
 考える隙もなく すぐやりなおし
   そうだ
     考えないことはたいせつだ
その場でなんとか切り抜ける
  それが人間の歴史
             そこには原理ではなく方便だけがある
    対機説法と言われるもの
     分析ではなく分岐
        思考ではなく瞑想
    精神ではなく身体からはじめれば
        心身二元論に陥ることはない
            身体の中心をいつも意識すると
末端は自律する
            どこで読んだか忘れたが
抱いている赤ん坊を取り落としかけたとき
            一瞬力がはいるところが 身体の中心
   あるいは丹田
        あごがゆるみ 肩が落ち
            腕が身体から離れると
  指が身体の中心から操られる
            こうして人形のように空洞になった身体が
     音をきく
   と言うより
  音がきこえてくる
        合図することなく 相手を見ることなく
    それぞれの時間でうごきながら
          いっしょに合奏する方
  異質のままでありながら対話することができる
      共同体と個人の
   あるバランスの取り方