宣言

三橋圭介

新年あけましておめでとうございます。

現在、港大尋と小島きり率いる「がやがや」のCDを画策しており、4月か5月には発売にこぎ着けたいと思っております。いやいや、訂正です。ただ、思う だけではどんどん延び延びになって来年、再来年と繰り越されていきます(前例があります)。ですから、ご……ご…5月発売です、と思い切っていってしま います。男前です。いま決めました。できたら発売記念ライヴなんてあるといいけど、悲しいかな、これは確実にあります、とはいえません。でも練習所が広 いので、人を集めて発表会という形式でやるのがいいかもしれません。そうしましょう(よ!)。そういうスタイルのほうがこのCDにはふさわしいと思いま す。今、港や「がやがや」のみんなは、我を忘れて練習に励んでおります(練習は月1回か2回ですが・・・・)。最近は港の宮沢賢治の童話「よだかの星」 に基づく作品から2曲練習しています。練習ではみんなぴょんぴょん飛び跳ね、歌い、踊りしています。でも練習を重ねたからといって、歌がうまくなるとい うのではありません。均質な声で揃った合唱ならどこにでもあります。通常の意味を反転させ、相対化する港の歌を、それぞれ個性を持った厚みの声で奏でる のです。できたらみなさん買ってくださいね。ではお楽しみに…。

福寿草

大野晋

日本の新春を彩る代表的な縁起物の植物といえば、松竹飾りに南天、そして鉢植えの福寿草ということになるだろうか。雪解け後、すぐに花茎を伸ばし、先端に黄色の花をつける。古来より園芸に用いる植物だったが、最近は、園芸ブームで、特に自生地からの盗掘が後を絶たないらしい。しかし、私には窮屈な鉢植えの福寿草よりも伸び伸びと葉を伸ばした大きな自生地の福寿草の方が春らしく感じられる。
日本に自生する福寿草を分類すると4種類になるらしい。詳しくは論文を見るしかないが、植物の世界は様々な同種、異種を抱えるからひとによって見解が異なることもめずらしくない。かく言う私は「まとめちゃえ派」で細かな違いならまとめてもいいのではないかなどと思う。やがては遺伝子の情報も活用して同種異種の判断もつくかもしれないが、細かな形態の変化もなんらかの遺伝情報の変化が引き起こしているのだとすればそうそう簡単に片付かないのかもしれない。

特に、春先、真っ先に咲く福寿草は同じ生育地でも株によって咲く時期が異なるため、細かな形態の変化が遺伝情報として残りやすいのだろう。今後も、違う、同じだと言う応酬は続きそうだ。
正月に鉢物が咲いているのを見るのも好きだが、やはり大きく育った野に咲く方が好ましい。関東では露地栽培で2月から、もっと寒い信州では平地で3月。有名な姫川源流では5月の連休に盛りを迎える。ならば、鉢植えのこじんまりとした姿を見ながら、まだ遠い初春の明るい落葉樹林の下に広がる福寿草の黄色のじゅうたんを思いを馳せよう。

製本、かい摘まみましては(24)

四釜裕子

前回書いたヤリタミサコさんの本のための「無用で離れ難き帯」は、高橋昭八郎さんの「ポエムアニメーション5 あ・いの国」の現物を原稿とした。この作品は小さく折り畳まれており、それを伸ばし拡げた状態で反射原稿とする。できるだけぴんとしたいが、かといってそのために手を加えることはしたくない。紙の折れ線や折り山のめくれ、弱冠の汚れは「味」と考えていたが、作業するうえでその「味」をどう判断するかは難しい。

そこで、版元の水声社、印刷会社のディグ社に時間をいただいて、「あ・いの国」を囲んだ。伸ばしたり拡げたり、折り畳んでみるがうまくいかなかったり……を繰り返し、それはつまり楽しい楽しい鑑賞の時間であった。作品の魅力で、「味」の規準はなんなく共有できた。具体的なことはなにも言葉にしなかったが、適度なズレやカスレが抜群の「味」として再現できた。うれしかった。

10月末、書店に並んだという連絡を受けて、でかける。どの帯が、どう出ているだろう。いくつか書店を回ってみるが、やはり各店1種類。取次1社につき1種類の帯で納品されているからだろう。だから、おおかたの書店でこの時期目にしたのはせいぜい2種類だ。この状況は、もちろん予想していた。水声社の鈴木社長、担当の福井さんとは、もし4種類の帯を取次が認めてくれなかったら書店を回って自分達で帯をかけよう! もし1種類しか扱ってくれなかったら差し換えの帯を持って書店を回ろう! と妄想してシキを高めたものだった、「オビゲリラ」と名付けて。

各4種類、全8種類の帯がずらりと並んだ姿が理想であったし、「オビゲリラ」っていうのは笑えるナと思ったが、実際出ると印象は変わった。なにしろ複数の帯は同数刷っているので、時間が経てばいずこよりか、別柄の帯をしめたヤリタ本が出てくるはずだ。そもそもこの2冊は、このあとずっと長く読まれる本である。売るための役割を果たさない帯であるが、流通する帯の柄の変化が時の流れを飾って寄り添い、細く長く在るべき本を支えることはできるんじゃないか。新刊書店で、そして古本屋さんで。長く、長く。いつでもどこでも、出会うのが楽しみです。

しもた屋之噺(61)

杉山洋一

今晩は久々に深い霧が立ち込めています。朝の4時過ぎ、地階の寝室の窓からこちらをしばらく覗いていた猫の影がゆっくり去ってゆき、5時半過ぎ、寝室と壁一つ隔てて走っているモルターラゆきの線路を、そろそろと列車が通り過ぎてゆきます。クリスマスの連休も終わり、朝霧に包まれて今日から街は少しずつ活気を取りもどします。

12月初めはジェルヴァゾーニの練習の合間にボローニャのアンサンブルとドナトーニやブーレーズの本番があって、毎日の移動中にモーツァルトの交響曲をフューチャーした学校のセミナーの準備をこなし、自分の授業と3日間のセミナーを立て続けに終わらせて気がつくとクリスマスでした。

時間の使い方が下手なのでしょう。学校で教えるときは9時半に教室に入り夜の8時半に部屋を出るまで、水一口も飲まず教えて続けている有様で、時にはお手洗いにすら出ることなく11時間も教室にこもっていることになります。そうやって準備しても、生徒たちはセミナーでオーケストラを前にすると、やはりガチガチになってしまいます。

指揮クラスでは恩師ポマリコのアシスタント役として、新入生のテクニックを担当する気楽な役目の約束で、当初は皆で楽しくがやがややっていたら、一人また一人と、上級の生徒たちが「申し訳ないんだけど、時間が余っていたら見てもらえないかな」と不安そうな顔で入ってくるようになり、結局先に書いたように不安な人にまみれ11時間も教室にこもることになります。

ハフナー・シンフォニーとジュピター、可愛らしい29番がテーマでしたが、ハフナーを選んだ生徒たちは、幾ら教えてもオーケストラを目の前にすると最初の出だしで気後れしてしまい、収拾がつかなくなってしまいます。ジュピターの4楽章を持ってきた生徒はいなかったのですが、天国的な2楽章を伸びやかに歌わせるのは難しいと思うし、実際出だしの8小節を教えるのに1時間かけても、オーケストラを前にすると緊張で全く手が動かなくなってしまいます。イ長調の29番の1、2楽章はシンプルだし、テクニックも取っ付き易いはずですが、付点で飾り付けられた珠玉のメヌエットは侮れません。

今年の新入生は珍しく皆若くて平均23、4歳に見えますが、その他の生徒は30歳代、40歳代で、既に音楽家としてステータスがある人ばかりです。今年新しく入った生徒の一人はミラノ・クラシカというオーケストラの1番フルート吹きで、今年は指揮科の伴奏をミラノ・クラシカがやっているので、先日のセミナー中、彼はずっとオーケストラのなかにいて、降り番になるとこちらの教室で他の生徒と一緒にテクニックをやっていました。新入生たちにもオーケストラのセッションを見学させて、自由に意見を言わせてみたところ、言うことが奮っています。

「オーケストラとの授業はやっぱり胸がおどります。感激しますね」などと最初は調子のいいことを言っておきながら、「どの生徒も点がしっかりしていないと、オーケストラがぐちゃぐちゃになるよね」、「一々オーケストラに向かって注文をつけ過ぎ。何を言おうとしているのかもよくわからないし」。
彼らの中には、さっきまでオーケストラで演奏していたフルート吹きまでいるので、勢い話が盛り上がります。
「身体がぐらつくと、棒が見えなくてイライラする」、「最初のフランチェスコは駄目だったなあ、二番目のパオロも好きじゃなかった。あのジュピターの子でしょう? 三番目のアルフォンソだったかな、あれも好きじゃなかったなあ…」。
さすがに生徒たちが可哀想になってきて、何とか話を纏めないと思っていた矢先、
「もっと棒でやりたいことをしっかり表現しないと、駄目ですね!」
一刀両断ばさりと斬り捨てられたところに、「駄目でした…」と足を引きずりながら打ちのめされた生徒が入ってきました。

5、6年前から通って来ているジャズ・ピアニストのロベルト。イギリス人でロンドン生まれだけれど5歳からミラノに住んでいて、ロバートより寧ろロベルトと呼ぶほうがしっくりきます。背が高く白髪もずいぶん混じり40歳台も半ばを過ぎたというところ。不器用な上すぐにパニックに陥ってしまいます。暗譜で振るのが怖くて指揮台に上るだけで髪をかき乱して混乱してしまうのです。2拍子を振らせれば、どちらが1拍目だか分からなくなるし、メヌエット(3拍子)を振らせれば、物凄い目つきで4拍子を振っている。違うよというともっと目玉を飛び出しそうになりながら2拍子を振っている。止めれば慌てるのは分かっているので、そのままピアニストについていって貰い、最後の小節は当然字あまり。

典型的なブリティッシュ・コメディーのような性格なのですが、ジャズ・ピアニストとして活躍しているし音楽の才能はあるのだからと、辛抱強く身体と頭をほぐすことに費やしてきたところ、去年あたりから俄然調子が出て来ました。ポマリコにもやめてほしいと言われながら、もう一年もう一年と頼み込んでここまでやって来たのだから、彼も相当な頑固者です。そんな頃を知っているので、彼がオーケストラを振るだけで感激するのだけれど、そのロベルトが今回のセミナーでは、上手にジュピターの1楽章を振ったらしい。生徒たちが言うには、オーケストラの音を引き出すのは彼が一番上手だったし、とても勇敢だった。はて勇敢な指揮とはどんなものかわかりませんが、妙な賛辞ながら口を揃えて褒めていたし、自分でも狂喜して髪をかきむしっていたそうだから、直前まで緊張でガチガチのロベルトを落ち着かせるべくレッスンしたのも報われました。

そういう按配で昔の師匠との関係は続いていて、今年のクリスマス25日にはポマリコが昼食に招いてくれました。こちらの25日は日本の元旦そっくりで、家族が集ってゆっくり昼食を頂く習慣です。今年は、厳かで静まり返った朝に抜けるような青空が広がって、見事な一日でした。
数年前にご主人が亡くなったショックから、アルツハイマーが始まったお母さんエンマに会うのは3年ぶりでしょうか。思いがけなく明るく、陽気なエンマの姿に、初めは少し戸惑いました。「エンマの記憶が少しずつ混濁してきていてとても辛いんだ」とポマリコからも聞いていたし、ご主人の喪失から間もない3年前のクリスマスに会ったときの、力のこもらない笑いと大違いで、見違えるように愉快で闊達なおばあちゃんになっていました。
冴え渡るヴァレーゼの白い尾根が、鮮やかに青空に突き出しているのに見とれながら、車中ポマリコとエンマの会話に耳を傾けていると、大方クリスマスのお祝いの電話をどこから貰っただの、親戚の誰それがどうしただの、ごくありふれた家族の会話に聞こえました。

ポマリコが振ったモーツァルトの39番をかけると、嬉しそうにステップを踏んで「わたしはね、若いときに主人と一緒にずいぶん踊ったもんだよ。コンテストでも随分優勝したし」。「音楽を聴くのは嬉しいけれど、弾いてる若者たちの顔が見られないのはちと惜しいね。良く見りゃあんたもいい若者じゃあないか。音楽はいいねえ、若くて器量良しの男の子や可愛らしい女の子が集って一緒に弾くんだから、楽しいよねえ。見ているだけでも楽しいさ」。

前菜のサラミからトルテッリーニのブロードに移った頃でしょうか。「フランチェスコ、ねえフランチェスコや。このトルテッリーニは美味しいねえ」、エンマが思わず声を上げました。傍らに座っていた娘のラヴィニアが、「おばあちゃん、お父さんはエミリオだよ。フランチはエミリオの弟」と優しく言葉をかけると、「ラヴィ!」と小声で諌める声がしました。
それから暫く、純白のテーブルクロスの食卓は、12月とは思えぬ眩い太陽の光が、きらきらと輝くばかりでした。

(12月27日 ミラノにて)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

こころに深く刻まれた人生の場面はどれも記録に残す。時間のあるなしは問題ではない。写真でもなく、イマジネーションでもなく、絵画でもなく。あの日わたしはピンパーと出会った。わたしはその若い女性の奥底に炎を見たように感じた。彼女の両眼にタバコに火をつける際のライターの灯がともったかのように。

孤独にさいなまれたある夜わたしは王宮前広場を周るコンクリートの道をあてもなく歩いては時間つぶしをしていた。もう11時過ぎだというのに若いカップルが幾組もまだ芝生で愛を囁きあっている。それをながめると妬ましい気もわいてくる。自分の恋人を思い出したりもする。彼女はさっさと結婚してしまった。。。それだけだ。わたしたちの恋もそれで終わりだった。彼女が大きなお腹をかかえている姿を思い浮かべてみる。あと何年かすればもう何人もの子持ちになっているだろう。子供たちを学校に行かせるために少しずつ蓄えをしていくことだろう。40歳になるころには勤勉でい続けるにはもう疲れてしまっているかもしれない。異性間の愛情には夫婦となること以外にはいったい何があるのだろうか。寡婦のこころのうちに、背中をさする老婆の掌に、静謐な光と風の中に、彼女は何故暖かさを見出そうとしないのだろうか。

道路には車も通らなかった。たまにバスが疾駆してくるくらいだ。王宮前広場を一周する歩道を歩いていると前方から3、4人の男がやってきた。そして酒の匂いをプンプンさせて通り過ぎていった。タクシーを停める声が聞こえる。それから値段の交渉をする声。そのあとかれらはシートに身を投げかけ脚を投げ出して目的地まで眠っていくのであろう。

わたしが自分の影を見つめているときタマリンドの並木の中の一本から男の呼び声を聞いた。わたしはあいかわらず歩き続けていた。自分が呼ばれているとは思わなかったからだ。

「ちょいと、あなた。。。」その声が大きくなった。それとともにコンクリートに当たる靴の音がついてくるのを感じて振り向いてみると、靴音の主は髪をきれいに梳かしつけた清潔な身なりの小柄な男だった。腕時計をしている。ほの暗い灯りの中でつるっとした顔の肌と笑みを浮かべた眼が見て取れた。

「今もう何時ころですか?」と彼は訊いた。
わたしはその男の腕時計を不可解な気持ちで見やると、彼はゆっくりとわたしに近づいてきた。香水の匂いが鼻についたのでこの男が何者であるかはっきりと分かった。
「君は時計持ってるじゃないさ。わたしはないのに。うるさくついてくるなよ。あっちへ行けよ」
「そんなに急いでどこへいくんですかあ?」男はそう言うとまだついてくる。

この男の汚れた口の中、淫らな熱い息を思うと吐き気がした。話をする気にもならない。時によってはこの種の連中を疎ましいとは思わないこともあるのだが、時によっては疎ましいと思う。いじめてやりたくなる。そこでわたしはわざと笑顔を作って言った、
「家に帰るのさ。いっしょに行くかい。バスももうなくなる。来いよ」と手を広げて見せた。
男はためらいを見せた。彼の顔色が青褪めていくのを見た気がした。それから失望したように戻っていった。わたしは勝利して意地の悪い快感を味わうと男の背後からどなった、
「お〜い来いよ、この化けもん!」

(続く)

アジアのごはん(16)南インドの米粉パン

森下ヒバリ

南インドは、なんとなくアジアの気配がする。はじめてチェンナイ(旧マドラス)の街に一歩踏み出したとたん、ここはアジアだ、と感じた。ここよりもアジア地域に隣接しているバングラデシュでは濃厚なインド世界なのに、南インドでは、いくつかの町を旅したが、どこもゆるゆるとした独特のやさしさが漂っていた。

なにがアジア世界で何がインド世界なのかと聞かれても困るが、チェンナイの町を歩いたり、オートリクシャで出かけたりするときの気分が、ほとんどなじみのアジアの町バンコクにいるときのようなのである。ふしぎにすぐに町になじんで、リラックスしてしまった。

もともと南インドは紀元前からドラヴィタ族の国で、北部のアーリア系の住民とはかなり違う。ドラヴィタ族をはじめインドの先住民族たちは、かなりアジアっぽい人々だったのではないかと思う。色は黒く、背はあまり高くなく、顔つきは丸くてくしゃっとしていたはずである。南ではそういうタイプの顔の人が多い。こういう顔つきのおじさんが、雑貨屋で袋など見ていると「どこから来たの?」とにっこり笑ってくれたりする。

チェンナイから50キロほど南のマーマッラプラムという小さな町には、BC700年ぐらいに作られた磨崖彫刻がたくさんあり、のびやかな造形の神様や牛や民の姿が岩山の壁面にいまも残されている。このまち以外にも古い遺跡はこのあたりに多い。

マーマッラプラムには海岸に「海岸寺院」という遺跡があり、波の高い激しい海に向かって建っている。この7世紀に立てられた海岸寺院が向かっている海のずーっと向こうには、アンダマン・ニコバル諸島があり、その向こうにはマレー半島がある。マラッカ海峡を越えてインドシナ半島、さらに中国まで、アラブやインドの人々が渡って交易していたのは、何も15世紀や16世紀のヨーロッパの進出を待つまでもなく、かなり古代から行われていたらしい。

インドシナ半島の東側一帯は、北部をのぞいて2世紀ごろから15世紀ぐらいまでチャム族の国、チャンパ王国だった。彼らは海洋民族といわれ、交易・海賊で財をなし、そのほか絹織物や稲作、陶器、灌漑など高い技術と文化を持っていた。チャム族は、南インドから移住してきたという説もある。
古代チャンパ王国のミーソン遺跡群は現在のベトナム中部ホイアンの近くにある、チャム族の宗教的聖地だった場所である。ここは山に囲まれた静謐な場所で、その地に立てば、チャム族が聖地に選んだのもすぐに納得できるような神々しさに満ちている。

ミーソンの歴史は4世紀から13世紀にわたる。ベトナム戦争でかなり破壊されてしまったが、今も残るれんがの建物たちは多くがヒンドゥー様式の寺院で、インドの影響を強く受けている。アンコールワット遺跡群がこのチャム族の建造物を真似て、いや参考にしていることは一目瞭然だ。ベト族がほろぼしたチャム族の、その遺跡を世界遺産としてベトナムがいま、一生懸命修復保存に努めているのもなんだか皮肉なものではあるが、ベトナムでは文句なく一番すばらしい遺跡群であろう。

マーマッラプラムの海岸で、チャム族のルーツはこの海岸地方かも……などと妄想にふけっているとおなかが空いてきた。さっそく食堂に入り、南インドの名物料理だというマサラドーサを注文した。そのマサラドーサが出てきて、本当に驚いた。うわさには聞いていたが、レンズマメの粉で作ったパンケーキがこんな形で出てくるとは。

それは直径が50センチはあろうかという巨大なパンケーキで、それをくるりとまいて太い筒状にしてあり、中にカレー味のじゃがいものマッシュが入っていた。もちろんバナナの葉っぱをしいた皿から大きくはみ出している。ほかに2種類ほどのカレーソースのようなものとヨーグルトがついている。

味の方はというと、なかなかふしぎな味である。なるほど豆の粉から作った、といわれればそういう味がするかも。中のカレーじゃがいもはおいしい。もちろん、どの店でも巨大なロール状のものを出すわけではない。ドーサというのがプレーンタイプで、チャパティやナンのように焼いたものをちぎってカレーソースにつけて食べたりもする。

もうひとつカレー文化の国では珍しい食べ物に、イドゥリというのがあった。こちらは米好きな南インドらしく、米粉を発酵させてつくる蒸しケーキのような饅頭のようなものである。もっともレンズマメ粉でつくるものもあるらしい。米好きな上に豆も好きなのね。これの上にカレーソースをかけて軽食とするのだが、これも少しクセがある。見た目は白い蒸しパンなのだが、粉を発酵させているのが独特の風味を生んでいるのだ。こちらはあまり好きになれなかった。

南インドの主食はやはり、なんといっても米飯で、白いごはんにカレーを混ぜて食べる。北ではターリーと呼ばれる定食が、こちらではミールスと呼ばれて、ステンレスの皿やバナナの葉っぱの中央に白いごはん、そしてその回りに何種類ものカレー、ダール豆スープ、生野菜を刻んだサラダ、ヨーグルトなどが一緒に盛られて出てくる。鶏肉を炊き込んだビリヤーニもおいしい。

もう少し南のポンディシェリーは、海岸沿いのうつくしい町で、イギリスがインドを植民地化していく中、最後までフランスが手放さなかった町のひとつである。精神修業のアシュラムが数多くあり、国際的な共同体オーロヴィル(これも巨大なアシュラムのような存在)も郊外にあり、町には少し謹厳な雰囲気も漂っている。

なにせ、泊まったゲストハウスはあとから気がついたのだが、そのオーロヴンド・アシュラム系列の経営で、受付でまず、門限は22時、ホテル敷地内での飲酒・喫煙・麻薬は禁止、これらを守れない人は宿泊できません。と書いてあるものを読まされ、同意すると部屋をくれるのである。この宿は、海岸沿いでどの部屋からも海が見え、広い庭があるというので選んだのだが、部屋に入るとオーロヴィルの創立者オーロヴンド夫妻のアップ写真がどーんと飾ってあるので、やっとアシュラムの経営だと気がついた。厳しいはずである。

一緒に行った若い友人たちは、酒もタバコもたしなむ方だったので、けっこう苦労したようである。酒は外で食事のときに飲み、また部屋でこっそり飲んでも分かりはしないが、タバコの煙は吸わない人間にはすぐ分かる。部屋で吸うわけにはいかない。環境も部屋もすばらしいので、何泊もしたのだが、その間どうしていたのかというと、スモーカーたちは門限時間直前になると、いそいで門のところに行き、門の外で何服かして、おもむろに門を閉める門番の合図で中に入っていたという。他の白人旅行社も何人かスモーカーがいて、門のところはけっこう国際的に賑わっていたようだ。門番のおじさんはもちろんスモーカーで、すっかりツーカーだったようである。

ホテルの海に面した美しい芝生の庭には茶色い猫が住んでいた。ふだんはあまり愛想がよくなかったが、テイクアウトの食べ物を持っているときと、雨の日にだけ擦り寄ってきた。雨の日には寒かったらしく、部屋までついてきた。ちゃっかりとサンドイッチのハムを食べて、眠ってしまった。猫は人間のベッドで一緒に寝たかったらしいが、それはお断りすると、素直にソファに移動した。

じつはこの南インドの旅は、ちょうど2年前のインド洋地震・津波の3ヶ月ほど前のことであった。ポンディの宿の庭の端にはヤシの木が並び、その向こうにはインド洋が広がっていた。その朝や夕べの妙なる美しさ。津波はアチェやタイ西海岸だけでなくインドの東海岸も襲った。ポンディの町でもたくさんの人が命を奪われ、建物も被害を受けたはずである。海に近いあの宿も甚大な被害を受けたはずだ。

あの猫もどうなってしまっただろう。スリランカでもタイでも津波の甚大な被害を受けたのに、沿岸の動物は犬や猫をはじめゾウまで鎖を引きちぎって事前に逃げ、動物の死骸はほとんどなかったという。あのちゃっかりものの猫もさっさとどこかに逃げ出していたかもしれないが。海に持っていかれてしまったたくさんのいのちと暮らし。いつかまたあの町を訪ねるときが来るだろうか。

007「限りなき義理の愛大作戦」

さとうまき

イラクの情勢は悪化するばかり。イラク人の友人の多くは、国を捨てたがっていて、最近、何とかならないかという相談がやたら多い。脅迫状が届けられて、いつ殺されるかわからないというのだ。亡命の仲立ちをしてくれという。毎月3000人もの市民が命を落としているというのに、僕たちは何にもできないのだ。2006年は、ともかく無力感を感じることの多い年でもあった。支援している白血病の子どもたちも、良く知っている子どもが5人亡くなった。

ともかく、病院に来るのも大変だという。バグダッドにはチェックポイントがあって、シーア派かスンナ派かで命を分ける。ルワンダの内戦と同じような状況になってきている。バグダッドの病院では患者の数が50%くらいになってしまったという。せっかく僕らが続けてきた支援も瀬戸際に立たされている。白血病の子どもたちは、今まで苦しい闘病生活に耐えてがんばってきたんだから、あと少しのところを何とか支えてあげたい。

人々はイラクのことなどすっかり忘れて、募金も集まらず、このままでは、薬がそこを付き多くの子どもたちが死んでしまう。そこで、登場するのが、007こと、ジム・ボンド。今年も、バレンタインデーに向けて、チョコレートを売って、その収益金で、ガンの薬をイラクに届けるというのがその計画だ。そもそも、アメリカ軍とかイスラエル軍は、軍事作戦に文学的な名前をつけたりする。「怒りの葡萄」作戦、「砂漠の狐」作戦などなど。それが悔しくて、私は、たとえ、しょうもない仕事でも、大げさに文学的な作戦名をつけることにした。「冬のかき氷」作戦、「サンタの穴あき靴下」作戦、「砂漠のゴール」作戦などだ。しかし、うちのスタッフは、恥ずかしがって、なかなかこの作戦名を評価してくれないのが悲しい。

日本の自衛隊は、サマワでSU作戦。これは「スーパーうぐいす嬢」作戦のことで、目的は、地元の人たちに溶け込むため。サマーワ入りした際、現地の人たちが笑顔で手を振ってくれて、それが互いの心が通じ合う感じがした。それに、これだ! と思いつき、選挙運動の時のうぐいす嬢をまねて、装甲車や車両から現地の人々に笑顔で手を振らせたという。こっちの方がもっと安っぽくて赤面してしまいそうなネーミングじゃないか!

昨年に引き続き、バレンタインデーがまもなくやってくるわけだが、早速作戦会議を行う。「今年は、2007年だから、限りなき義理の愛作戦2007で行きましょう」「それ、なんだか平凡すぎない?」「どうせなら、007(ダブルオーセブン)限りなき義理の愛作戦で行こう。ジムネットのジム・ボンドというキャラクターを登場させて、中東をまたにかけて子どもたちを救うというストーリーだ。」「えー、ぜんぜんかわいくないです。女の子たちが楽しみにしているバレンタインデーのイメージが丸つぶれです。」スタッフの反応はいまいち。「つまりだね。今年のバレンタインは、007世代にフォーカスをあてるんだ。若いカップルだけのバレンタインじゃない。つまり解放だ!」「ジェームズ・ボンドのモテモテ姿にあこがれた世代が一斉に今年定年退職だ。そこを狙うんだ」「いまいちですね。2月は正月映画も終わってるし。」結局作戦会議では結論がでないまま年が明けてしまうことになるが、私の中ではすでに、007のテーマが鳴り響いている。

今年のタイトルは、スタッフの同意も得られず「007(団塊の世代の退職金でチョコレートかって!)限りなき(いつまでも続く戦争を止めさせたい)義理の(約束した支援はちゃんとやろう)愛(やっぱり愛でしょう。平和のためには)大(1万個売ります)作戦」にひそかに決定した。

大掃除も終えた2006年、12月30日、ジム・ボンドは作戦決行のため、ひっそりと孤独にパリへと飛び立ったのだった。

というわけで、今年こそは、イラクに平和が訪れますように。

注:今年のJIM-NETのチョコレートは、北海道の六花停に特注。
メッセージカードには、イラクの子どもの絵に東ちづる、酒井啓子、湯川れい子、鎌田實、坂田明、吉田栄作がお話をつけた。一個500円で1月15日より全国各地で販売予定。詳しくはHP http://www.jim-net.net/

私たちはどこへ行くのか(1)生命を売買する社会

石田秀実

去年は透析をしている者にとって、いやな事件がたくさん起こった年だった。近親者間の生体腎移植をよそおって、腎臓の売買がなされていたこと、その中には腎臓癌などの病気で摘出された腎臓も含まれていたことなど、唖然とする出来事が多かった。透析者にとってはよく知られていた事実だが、中国やフィリピンに赴いて、まだ生きている貧困層や死刑囚から取り出した腎臓を、買い入れて移植する人々が絶えないことも、ようやく公にされるようになった。恥ずかしい限りだ。

生きている人や死刑囚からの内臓売買が、アジアで公然と行われていること、その主な買い手が、日本や香港から移植のためにやってくる、その国ではそれほどでなくとも、他のアジア人から見ればとんでもなく富裕な腎不全患者であることは、関係者の間では、前からよく知られていたことだ。かれらはそれが違法であることを承知の上で、海外渡航して腎臓を買いあさっている。

驚き呆れるのは、それを行っている患者の言動だ。売買による腎移植を正当化するに事欠いて、「移植以外に助かる道はない、死ぬしかない」などという虚偽を平然と述べ、不幸極まりないようなそぶりをして見せる。同じ腎不全患者として、人一倍高い医療費をむさぼり続けることに恥じている私や幾人かの透析者仲間は、そんな実情などどこ吹く風、余りにも身勝手で空々しいうそをつき続ける人々を、苦い思いで眺めるしかない。

この国では、腎不全になっても普通は死ぬことなどありえない。人工腎臓(ダイアライザー)をもちいた透析さえ続ければ、移植などせずとも30年以上も生き続けることができる。しかもほぼ無料で。

透析医療そのものがなく、腎不全になれば死んでいくしかない地域や、福祉制度の関係で、富裕層しか透析の恩恵に預かれない地域は、世界に多い。3時間以下の透析しか受けられないアメリカのような場所や、福祉制度が整っていても、日本をはるかに越える広い国土に、70箇所しか透析施設がないスェーデンのようなところさえある。狭い国土に3000を超える透析施設がひしめき、長い透析時間が確保されている日本の腎不全患者は、恵まれすぎているというほかない。

そんな場所で生きながらえているのに、それにすら満足できず、海外にまで赴いて、他者の生命を売買する違法な腎臓売買に走る人々の本音が、「これ以外に助かる道がない、死ぬしかない」などであるわけがない。透析が苦痛を伴い、厄介である、というだけのことだ。彼らが死ぬ可能性は、あいにくなことにほぼ100パーセントないといってよい。

もちろん長年の透析者として、私にも透析生活の厄介さや苦痛はよくわかる。だが、人工腎臓による透析は、なんと幸いなことに、他者の生命を奪ったり傷つけたりせずに、何十年も生きることができる方法なのだ。こうした人工臓器の開発されていない重い肝臓病や心臓病とは、精神的にも肉体的にも、苦痛のレベルが違いすぎる。
人工腎臓に縛られることのない、より快適な生が欲しいからというだけの理由しかないのに、「ほかに道がない、死ぬしかない」などという虚偽を垂れ流し、経済的格差を利用して、生きている他者の生命を買い漁る人々は、自分が買った他者の生命や生活のことを考えたことがあるのだろうか。毎日のように「恥の文化」とか「国家の品格」とかをこの国の人々が説きまわっているのを見ると、これはたぶんそうしたものがどこにもないからなのだな、と思わずにはいられない。

患者に漬け込む医者の言動も、あきれ返るとしか言いようがない。癌になってしまった腎臓は言うまでもあるまい。機能が正常でなくなって切除しなければならないような腎臓を、免疫機能が落ちた腎不全者に移植することがどんな結果を生むかなど、子供にだって分かる(本当は切除する必要もなかった腎臓を、病気の腎臓と偽って切除し、移植に用いたのかもしれないが)。

どうしても生体間の腎移植をおこなうなら、生体腎提供希望者の身元を調べ、カウンセリングを行い、言い訳ではないちゃんとしたインフォームドコンセントを繰り返した上で、倫理委員会の手続きを経て、慎重に行わねばならないはずである。そうした手続きを一切行わずに、利益目当てで機械的に生体移植を繰り返して来た医者が、テレビの前では「癌が転移しないかと祈る気持ちでやった」などとうそぶく。そうした報道を、何の批判もなく平然と垂れ流すマスコミの科学部には、医学の常識やイロハを調べる機能がないとでもいうのだろうか。

臓器移植を待つ人が何万人もいる、という報道は事実だが、その9割以上が、人工腎臓で30年以上も生きながらえることができる腎不全患者であることは、なぜかあいまいにしか報道されない。ほんとうに「それ以外に助かる道がない」人々は、ほんのわずかである。それなのに、9割を超える腎不全患者を含めた何万人の人々がみんな、「それ以外に助かる道がない」患者であるかのような虚偽報道が延々と続いているのだ。

夢の医学として語られる再生医学となれば、そのための移植を待つ人の大部分は、「それ以外では助かる道のない」人ではなく、「寿命として死ぬべく定められたすべての人々」になる。人は誰でも衰え、死んでいくはずなのだ。そのすべての人にとっての「あたりまえ」を、再生させて元に戻し、不老長寿にしようとすれば、地球上のすべての人は「常に必ず」臓器移植適応となる。そうなった時に、私たちはみんなで互いに他者の臓器を当てにし、「私は世界で一番不幸です」という顔をして見せ合うのだろうか。

もちろん再生医学が実現した暁には、そうした再生医学の恩恵にあずかれる人と、そうでなく逆に人体利用の原料提供者となる人々との格差は、今をはるかに越える形で開いているだろう。移植に預かれる人々は、「もっとも幸福で裕福な」一群の人々だけになるはずである。

人体利用の原点である臓器移植について言えば、それに不可欠ないわゆる脳死状態の人が、実は「死者でもなんでもない」ことは、1998年のA・シューモンの論文で、科学的にすっかり明らかになった。「脳が死ねば身体の有機的統合性が失われ、すぐに心臓も拍動しなくなって人は死ぬ」というアメリカ大統領委員会の公認した説は、脳神経学者シューモンが実証的に検討してみると、完全な誤りだったのだ。

脳が死んだ(つまり脳の不全状態)だけの、概念の上では真正の脳死者は、その言葉と裏腹に長い間生き続ける、いわば「慢性の」脳死者である。「慢性」という言葉は、「死者」という概念と矛盾していること注意したい。

かれらは「身体の有機的統合性」を失っていないどころか、次第に安定させ始める。不当にも「脳死者」と呼ばれた人々が、出産したり、体温を安定的に保てたのは、そうした身体の有機的統合性が保たれていたからである。いわゆる「脳死者」を「長く生き延びさせる実験」や、「脳死者を使った生体実験」について、得意げに語った人々は、単純で愚かな誤りをしていたことに気づくべきであった。死んでなどいない人に「死者」の名をつけ、そのうえで「その人が生き続けていること、生かしうること」を、矛盾と感ずることもなく得意げに報告していたのだから。

終末期を迎えて苦しんでいるこうした病者を、どう扱うべきかについて、まともな解答を与えていたのは、皮肉にもナチスが1931年に制定した人体実験の被験者についての規正法である。「終末期にある患者には、尊厳があるので、人体実験を行ってはならない」と彼らは(彼らでさえ)規定している。終末期に差し掛かって「深昏睡」状態となり、苦しんでいる患者を前に、どういうわけか「この患者をどう利用しよう」という問いを立て、そのためには「死の概念」まで捻じ曲げて恥ずることのない私たちとは、いったい何者なのか。苦しむ患者を看取ることと、その身体から生きたままの臓器を抜き取って殺し、功利的に利用することとは、まったく別の次元の事柄であるはずである。

「脳死」なる虚偽の概念が形成された過程も、いまでは明らかになっている。俗称ハーバード脳死委員会と呼ばれる委員会が、「深昏睡」という「実は生きている状態」を、「死んでいることにする」ために、「脳死」というテクニカルタームを作り上げたことは、今では明白な事実だ。それを追認したアメリカ大統領委員会で、「科学的脳死概念」として喧伝された「身体の有機的統合性をつかさどっているのは脳なので、脳が死ねば有機的統合性が失われ、心臓もすぐに止まって人は死ぬ」というドグマはといえば、グリセやボイルなど委員会のカトリック神学者の説に過ぎず、科学的検証などされていない代物だった。21世紀になったというのに、私たちは科学的概念と神学的概念を取り違えるほど愚かなままなのだろうか。

こうした非科学的で神学的な概念を、先端科学だと偽って日本にもたらした厚生労働省とその御用科学者は、ここまで明白になった事実にどう答えるのだろうか。1990年代になっても「脳死を人の死と認めぬ人間は、非科学的な野蛮人だ」などと語っていた日本の移植医たちは、肝心の自らの科学性こそ問い直すべきだろう。ちなみに彼らの科学的脳死判定なるものには、肝心の「身体の有機的統合性」を調べる項目が入っていない。それどころか「身体の有機的統合性が喪失していない」ことを示す指標である「体温が維持されている事実」は、かれらの脳死判定基準によると、なんと「脳死の証拠」になっているのだ。

「脳死」という言葉そのものが、今では科学的に認められる言葉ではない。したがって臓器移植は、それを論理的ないし科学的に認めようとすれば、殺人としてそれを構成するしかない。さもなければ悪名高いパーソン論を使って、脳の不全状態に陥った人々や植物状態の人、理性のまだ発達していない胎児・幼児を、人間ではない「異種としてのヒト」として、差別的に利用するしかない。

R・トゥルオグなど、科学的事実をきちんと踏まえようとする医学者は、臓器移植を「正当化された殺人」として認めようとしている。安楽死を認めていこうとする風潮に習い、移植を殺人として認めたうえで、その行為を違法性阻却に当たる行為だとして、論理を組み立てていこうというのである。一方で、P・シンガーなどパーソン論者は、感情ある動物の権利論と組み合わせた形で、感情を喪った人間の「異種化」という解決策を提示している。異種移植だということになれば、殺人ではなくなるからだ。もちろんどんな動物に感情があり、どんな人間に感情がなくなっているかという彼らの線引きは、きわめて杜撰で恣意的である。

だが、最も一般的で非科学的な、そして残念ながら最も一般受けする解決策は、軍事利用と一体のものである原子力の「平和利用」なるものと同様、科学的事実を認めて論理的にことを考えていこうとするものではない。逆にその非科学性と残忍性を隠し、脳死という今では否定されたはずの概念の真の姿をあいまいにしたまま、あくまで科学的に認められたものであるかのよそおって使い続けることだ。

脳死概念が科学的に否定されたことには一切触れようとしない日本の臓器移植改正法案も、この方向で一般人を欺くことをめざしている。アメリカでもヨーロッパでも、脳死という科学的には完全に否定されてしまった概念の真実の姿については、あいまいにしたまま、既成事実となった臓器移植を続けていこうという意思だけが一人歩きしている。科学的真実がどうであれ、21世紀の資本と技術は、生命、とりわけ生きている人間の生命を操作し、売買し、利潤を上げる方向に、社会の舵を切ってしまったからだ。

日本でも、一連の報道の背後に、バイオテクノロジー開発を至上命令とする厚生労働省と経済産業省の、情報操作があることは、素人の目にもよく分かる。シンガポールや、共産主義国を僭称する中華人民共和国など、開発独裁のひしめくアジアの中で、先の見えた石油やITを乗り越えて、バイオテクノロジーを推し進めようとすれば、人体利用の道を開かねばならない。

そのために必要となる原料として注目されているのは、生きている中絶胎児や、いわゆる「脳死」扱いされた、生きている人の身体、さらには植物状態の人、先天的障害を持って生まれる人々、更に不法入国した人々の身体なのだ。生きている腎臓の売買など当たり前であるかのような風潮をつくり、できればそれを明文化して既成事実化することこそ目指されなければならない。欲にぼけた医者や患者の行動であっても、黒い夢をめざして将来を誘導するためには、都合のよい情報として利用するにしくはない。

ちなみに生きている中絶胎児について言えば、その人体売買市場での価値は、1体が3万円ほどだという。生きたまま切片にして、様々なバイオテクノロジーの材料に用いるのだ。もちろんこの値は、売買の値ではなく、「加工料」という形で抜け穴が作られている。小泉元首相が座長を務めたバイオテクノロジーの戦略会議の中で、2010年における世界の人体利用市場市場価値として掲げられているのは、230兆円である。

prefigurative

高橋悠治

望む変化を いまのありかたにする
音楽は変化の先取りの場
日常性は 哲学ではない
日記のように てがみのように
いまならブログか
ちいさなもののつらなりが
そのまま変化であるような
よわい音 ゆれるうごき
音のスケッチ
断片でしかありえない感覚
はじまりも終わりもない
途中も途切れて
まがる線のからまり
唐草
くりかえしのない
おなじもののない
対立もない
ずれる中心
とける結び目
ほそり
かげり
かるみ
しおり
わけいる
しみわたる

来るべき年のしごとに

酸素スプレー

小島希里

先月末、東京で3日間にわたって開かれたコラボ・シアター・フェスティバルに、二日間通った。障害のある人たちとアーティストが表現の可能性を探求するという試み。ほかのどこにもない、ここにしかない音楽や芝居と出会えて、興奮した。以下の四つのグループの発表は、一カ月たった今も心に残ってはなれない。

●神戸 音遊びの会「音の公園」の何曲目かの曲
たどたどしい、足音のように、ドラムの音が前へと進む。歩きはじめたかと思うと、立ち止まる。ゆるゆる一歩、二歩、進み、また、たちどまるかと思うと、少し加速がつきだす。そこに、管楽器が一本、よぼよぼのおじいさんのような足取りで、弱々しく音を重ねる。別の管楽器が二本、そっけなく加わり、長く長く同じ音を吹き鳴らす。
何かが始まるときの、小さな興奮があたりに漣を立てる。たぶん、これは始まりの音楽なんだな。いや、もしかしたら、音楽の始まりなのかも。
ドラムセットを叩いていたのは、知的な障害をもつ十代前半ぐらいの年齢のこども、残りの管楽器奏者たちはプロの音楽家たち。

●大阪 ほうきぼしプロジェクト Live「こまいぬにほうきぼし」
でこぼこした発音の朗読に、観客は身構える。「ぼく」、のひとことに、全力が注がれる。
ぼぼぼぼ・・・・、ぼの音を観客の前に宙ぶらりんにしたまま、朗読者はからだを強ばらせる。静寂が深まるにつれ、観客のからだも強ばっていく。この人、あきらめちゃうんじゃないか、とわたしは不安になる。ええー、これにずっと突き合わされるのかよ、とも不安になる。とその瞬間、「く」の音が追いつく。
朗読が終わり、同じ詩を、ベースに合わせて、彼が歌う。観客が、大きな笑い声をとどろかせる。さっきまでの、しどろもどろは、いったいどこにいったんだ? さっきまで、彼をどもらせ、強ばらせ、喉に石ころでもつまったんじゃないかとみんなを不安に陥れていたものは、いったいどこにいったんだ? ぼく、とすらすんなり言えなかった同じ人が、ベースのリズムに合わせて、気持ちよさそうに歌いつづける。

車椅子の朗読者がずらっと並び、後ろにヘルパーたちが一人一人、座っている。詩の朗読と酸素スプレーが酸素を吐き出す音が、わけ隔てなくマイクを通じて拡大され、観客の耳に届く。一人ずつ詩を読み、ベース一本で歌を歌うだけの素朴なスタイルに生かされて、舞台の上にあるものがすべてくっきりと見渡せる。これ以上のことも、これ以下のこともない、これだけがしたいんだ、という意志が、すべてのやり方に貫かれている。すてきだ。

●奈良 アクターズスクールくらっぷ「ファウスト」
ファウスト博士を演じるのは4人の、いや、5人だったかな、若い知的障害者たち。対する悪魔メフィストテレスを演じるのは、この作品を構成・演出した男性、一人。
ファウストたちは、実に、自由に舞台の上を動きまわる。舞台のはじっこを歩いて、観客席を眺め回す人もいれば、まったく動かないで椅子にじっと座っている一人もいる。事前の決まりごととして了解されているのは、たぶん、人一人博士が登場する、悪魔と博士が対立している、一人の博士が歌を歌う、最後に悪魔が倒れたら博士の白衣をかける。あとは即興的なやりとりだけで、寄り道、道草、あと戻りを繰り返しながら、くねくねと進む。ファウスト博士たちは、悪魔に抱きつくかと思えば、そっぽをむくはで、ちっとも悪魔の口車には乗らない。博士たちはやりたい放題、好き勝手、数少ない決め事も危うくなる。悪魔と博士たちとのやりとりはフィクションと現実のあいだを行ったりきたりしながら、演出家と演じ手たちとの支配関係を、「健常者」と「知的障害者」との支配関係を露わにし、ひっかきまわす。もちろん、みているわたしの頭の中も、ぐちゃぐちゃにひっかきまわされた。

●湖西市 手をつなぐ親の会「すべてを越えて」
舞台にぎっしり立ち並んだおおぜいの踊り手たちが、いっせいに舞台の床を踏み鳴らす。踊り手たちは観客席に向かって、ずんずん迫ってくる。衣装の黒や赤の水玉が近づいてどんどん大きく、派手になってくる。見るからに、鍛錬を積んできた体つきのプロのフラメンコ・ダンサーたちと、見るからに障害をもつ人々と、見るからにそっくりでその母親だとわかる女性たち。踏み鳴らし、踏み鳴らし、唱えているのは、「希望」「愛」「夢」といったことば。陳腐な、手垢にまみれたことばづかいと、型にはまりきらない生々しい動きとが、母親たちのたぷたぷした贅肉と、男性ダンサーたちの厳しく背筋を伸ばし叩きならす拍手の音とが、ちぐはぐに絡み合う。けして調和の取れることのないこのちぐはぐさが、この踊りの強烈な力なのだ。くっきりとした動きの型、リズムの型が、踊り手たちを竦ませる抑圧とはならず、はみ出すもの、ねじれたものを際立たせるばねとなっているところが、ほんとうにすばらしい。

しもた屋之噺(60)

杉山洋一

ミラノは朝晩の冷え込みがずいぶん厳しくなってきて、ひどい日は、明け方は2℃近くまで下がります。そんななかしばらく前に庭にまいておいた芝の種が、10日以上も経ってから、少しずつ芽を吹き始めましたのには、少し驚きました。当初は春になったら種をまくつもりでしたが、このマンションに来ている造園業者が、冬に芽を吹かせて寒さに耐えさせると、芝はずっと強くなるといわれて、試しに種を蒔いてみたのです。

11月は瞬く間に過ぎてしまいました。月の初めはレッジョ・エミリアの音楽祭でフューチャーされたノーヴァの新作を振っていて、パンソニックという有名なフィンランドのテクノ2人組が、インプロヴィゼーションとヴィデオで参加していて、彼らがおかしいほどまったく無表情だったのが印象に残っています。ベルリンを中心に活動していて、かなり有名なテクノ・アーチストなのだそうですが、何しろこちらはまったくの門外漢で、最初はサウンド・エンジニアの人とばかり思っていました。演奏会のあと、「ご一緒できてとても楽しかった」と全く無感情に話してくれましたが、友人に言わせると、それはかなり喜んでいたに違いないということでしたから、普段なら全く何も話さないところだったのでしょう。

演奏会の後すぐに車でミラノに戻り、身支度を整え、次の日の朝早くロスに出かけました。練習させてもらっていたロスのイタリア文化会館長・ヴァレンテさんと知り合い、お寿司を食べながら、色と話題を交換できたのは楽しかったし、ダンス・カンパニーとの合わせもスリルがありました。何しろダンサーたちが準備するために用意された録音がとんでもなく遅いテンポのものだったため、こちらが妥協するより仕方がなかったからです。イタリア現代音楽を、ロスのミュージアムで紹介する企画でしたが、なるほど、こういう風にアプローチをするのがアメリカ流なのだなという感じ。

本番直前、ダンサーの踊りが気に食わないとナーヴァスになったプロデューサーが突然どなりだし、これじゃ全てが終わりだ、なんだかんだと大騒ぎして、最終的にイヴェントが済むと、感激して涙ぐみながら彼らは肩を抱き合って大喜び、という典型的なハリウッド映画のストーリーを目の当たりにしたのも、ちょっとした収穫でした。さすが、ハリウッドの本拠地、ロスだけのことはあります。

ロスから帰ったその日に、モーツァルトの40番とショパンの1番の協奏曲の本番があったのですが、本番3日前に突然メールがきて、ショパンのソリストが事故で手を痛めて弾けなくなったので、モーツァルトの21番の協奏曲に変更といわれて、まあ21番なら前に振っているからミラノに戻れば自分のスコアがあるものの、当日のドレス・リハーサルぶっつけで本番というのも嫌なので楽譜をロスで買い求めようとするとこれが大変で、結局ロスにはなくて、隣の街まで1時間以上も車を走らせなければいけなかったのですね。それでもベーレンライター版はなくて、ドーヴァーの廉価版のみ。あちこち楽譜を探しているとき、ハリウッドの楽譜屋にも立ち寄りましたが、店内にはカントリー・ミュージックが朗々とかかっていて、当然何もないだろうなと思ったら、ありますよ! と誇らしげに店員がいうので、何かと思うと、2台ピアノのリダクション版でした。これがあるのはこの辺ではうちだけだ、と相変わらず誇らしげでしたから、まあおそらくその通りなのでしょう。何しろハリウッドですから。

ロスからミラノ、という旅程を、勝手に東京とミラノ程度に軽く考えていた自分がいけないのですが、実際は倍とまでは言わないまでも、ロスからフィラデルフィアまで飛んで、そこからミラノまでが東京―ミラノ間という感じでしたから、ミラノに朝早く着いて、家でシャワーを浴びて着替えて、自分が使ったモーツァルト21番の楽譜に目を通しながらドレス・リハーサルに出かけるのは、正直言ってかなり疲れました。それでも練習、本番はとても順調に終わり、お疲れさまと皆がピザを食べている傍らで、あれはおそらく大いびきをかいて寝込んでいたに違いありません。後で起こされたときに体の節々が痛くてびっくりしました。いったいどういう格好で寝ていたのか、考えたくもありません。

それからしばらくの記憶がないのですが、学校で生徒を教えたり、ボローニャに中嶋香さんのリサイタルを聴きにでかけて、思いがけずパリから来た権代さんに再会したり。中嶋さんのリサイタルはすばらしいもので、演奏会の最後をかざった権代さんの曲も素晴らしかったし、その前に演奏された悠治さんの「乱れ乱れて」も周りの観客から絶賛されていました。「乱れ乱れて」の演奏方法について、中嶋さんがコメントをしてくれたのも聴き手にとって良いガイドになったのかも知れません。リハーサル中、中嶋さんが「乱れ乱れて」も権代さんの曲も、演奏会の最後の演目でしか弾いたことがないから、続けてこれらを二つ弾くのは集中力が持たなくて大変、と仰っていたのが印象に残っています。全然そんな感じはしませんでしたけれども。

何が忙しかったのか、とにかく子供を中心に時間が動いていると、自分の用事の記憶がきれいに消えうせてしまうようです。さもなければ、本当に子供のことばかりしていて、自分たちの用事は捨ておかれていたのか。
もっとも、基本的に日記でもつけていない限り、普段でも何も覚えていないわけで、だとすれば子供はあまり関係ないようです。もうここ暫く、自分が何をどうしなければいけないのか、身の回りのことすら十分把握できないまま、毎日を過ごしていて、朦朧としている感じです。

一昨日、ベートーヴェンの2番とヴァイオリン協奏曲の演奏会があって、練習に出かけると、オーケストラに思いがけない知り合いやら、前にオーケストラ・クラスで教えていた生徒がいたりして愉快だったのですが、とにかく一体どうやって勉強したのか自分でも不思議です(毎朝、4時位からもそもそ起き出してはいましたが)。

ともかく演奏会は無事終わり、昨晩家人と子供を空港まで見送りにゆき、これから暫くの間、久しぶりの一人暮らしに戻ります。家人は空港に向かう電車の中で、ずっと台所の換気扇をどうするか気にやんでいました。2ヶ月かけてようやっと届いた換気扇が(一度はどう間違ったか、ベッドの骨組みが送られてきました)、どうやらうちの部屋の形状に合わないということがわかったから。

まだまだ、家も完成というところには程遠く、下の部屋につけるランプは用意してあるもののまだつけていないし、まああちこち足りないものがあるわけです。それも、頭のなかの「しなければいけないリスト」に書き加えてはあるのですが、はなから朦朧として回らない頭をどうやってやり過ごすのか。数日後にリハーサルを控えているドナトーニとブーレーズの譜面はまだ全く開いたこともないし、これから出かける税理士さんは(全てがこんな調子なので)いつも怒られるからおっかないし、数通既に届いている新作の催促のメールはぐるんぐるん頭を巡っているし。とりあえずまずは今日出来ることを何とかこなしてみることにします。家人とすっかりヤンチャになった赤ん坊が、無事に東京にたどり着くのを祈りつつ。

(11月30日ミラノにて)

製本、かい摘まみましては(23)

四釜裕子

10月に水声社から刊行されたヤリタミサコさんの2冊の評論の装丁を担当した。最初の打ち合わせは夏の暑い日で、これまでの作品や活動からヤリタさんが今回どのようなものを望んでいるかは想像できたが、詩人・高橋昭八郎の作品を表紙に使ってね、という課題には、咄嗟に喜んだがたちまち内心凍りついた。どうしよう、好きすぎる。ヤリタさんに、背中を押される。

作品をいくつか選んでラフを作るが、何度やってもどこかで見たようなものに仕上がる。さんざんやったあとで気づくのは遅いのだけれど、昭八郎さんは「gui」という同人誌の表紙をご自身の作品を用いて長年デザインされていて、私も数年前からその同人誌に参加しているものだから、憧れをもってずっと見ているのであった。単純な憧れはたやすく意識下に入り込み、こうもたやすく言動に現われる。これはきっといくらやってもダメだな――と、思った。

ガックリきて作業を放置していたある日、水声社さんが「帯はあってもなくても良いですよ」と言っていた(ような気がする)ことを思い出す。帯なしならばデザインするうえでのハードルはひとつ減る。そもそも、日本の出版文化は独自に帯の聖域を育んできたけれど、たいていの人は本を買ったら帯をはずすだろうし、買うときにどれほど頼りにしているかわからないし、書店にすれば破けたりはずれたりで厄介だろうし、出版社にしてもその効果はつかみにくいからお決まりでつけるのはどうかなと思いつつ、かといってなくても良いとは言いにくかろうに、思いきりの良い版元さんだ。

帯といえば3年前に、作るうえでの幅の限界を知るべく、製本工場を見学したことがある。「トライオート」という機械で、帯は表紙カバーと一緒に掛けられていた。続けて、スリップやはがき、しおりなどもはさみ込む。この一連の工程は日本独自のものなので、機械も国産である。西岡製作所というメーカーで、昭和46〜50年頃に開発したと聞いた。この機械の性能によって掛けられる帯の幅に限りがあり、見学した工場では2.5〜13cmだった。確かに帯幅はだいたいみなそんなもの。範疇外なら一冊ずつ手で掛ける。今でもそういう業者さんが健在なのだ。ただここ最近は幅広の帯が増えているように感じるから、機械の性能が向上しているのかもしれない。

さて話は戻って。「帯はあってもなくても良い」と聞いたことにして、ダメモトで好きに考えてみる。手元の数冊の本の帯をはずして拡げて戯れているうちに、高橋昭八郎の「ポエムアニメーション5 あ・いの国」(1972年)が頭に浮かぶ。この作品は、同じ大きさのごく細長い長方形の2枚の紙を交互に三角に折り畳んだ4つのセットからなるもので、合計8枚の紙にはそれぞれ別の美しい印刷がなされている。この8枚のパーツこそ、本の帯に形が似ているではないか、細長い、まさに帯状の。これをヤリタミサコの2冊の本の帯としてそのまま8種類再現してはどうだろう。なぜか知らないが1冊につき4種類の帯がアトランダムに付いている。帯には書名も著者名も版元名も、宣伝文句も推薦文も何もない。従って本体と離れたらそれがなにものかわからないが、極めて美しい。ああなんて無用で離れ難き帯! (つづく)

ヤリタミサコの2冊の評論外観
「あ・いの国」のこと

師を亡くす

冨岡三智

本当は11月26日に行った公演のことについて書きたかったのだけれど、その公演の前にインフォーマントだった師匠を亡くした。それで、今回はまずは追悼の文を書き残しておきたい。

師の名はSri Sutjiati Djoko Soehardjoといい、ブ・ジョコ(ブは女性に対する尊称)と呼ばれていた。亡くなったのは11月8日(水)20:10で、その前日昼に容態が急変して入院した。2003年4月、私が留学を終えて帰国した1、2ヵ月後に、最初にストローク(とインドネシアで呼んでいる、脳梗塞?)倒れて入院し、今年の3月に2度目の入院をしていた。最初に倒れたときのことは「水牛」2003年10月号に「舞踊とリハビリ」として書いている。このときブ・ジョコはかなり回復して、ゆっくりながらも歩き、言葉も話せるようになっていた。2003年の夏、2004年の夏、2005年の夏と私はインドネシアに調査に行き、ソロに滞在している間はブ・ジョコの家のプンドポ(表の広間)で練習させてもらい、そのときはブ・先生もプンドポまで出てきて、横で私の一人練習を見てくれていた。

2度目に倒れて入院するしばらく前に、私は偶然ブ・ジョコに電話し、助成金が取れたので今年の8月からインドネシアに行き、先生に習ったスリンピ・ブドヨの調査研究を続けるのだと伝えていた。先生が亡くなったあと、その息子が語ったことなのだが、ブ・ジョコはこのときにかなり深刻な容態になり、8月に私が来るまでは到底もつまいと思っていたそうである。師は私が来るのを待っていてくれたのだろうか。

今年8月に来たとき、ブ・ジョコが意外にも元気なのに私は驚いてしまった。歩くスピードはむしろ以前より速くなっていたし、顔の色艶もとても良い。ただ声はほとんど言葉にならなくなっていて、私や他の人がその声の真意をはかりかねていると、とてももどかしげな表情になるのだった。それでも私は時にはなんとなく先生の家に遊びに行き、プンドポで一人練習したり、先生のベッドの横にあるテレビで昔撮ったビデオを見たり、また単にテレビドラマを見たりしてすごす時間を作っていた。先生の家は灯が消えたように寂しくなっていた。以前は、私をはじめ大勢の留学生らが舞踊を学びに来ていて、プンドポには音楽の絶える間がなかったのに。先生はいつもプンドポを自分で箒がけして、私たちがやって来るのを待ってくれていたのに。今プンドポは、その中央の4本の柱の間(ここで舞踊が踊られる)にも応接セットがおかれていて、誰もここで踊る人がいないのは明らかだった。

10月25、26日はレバラン(断食明け大祭)で、一族で最年長のブ・ジョコの家に皆が集まるのが習慣だった。私も遊びにいって先生に断食明けの挨拶をした。先生は新しくおろしたオレンジ色の服を来て化粧もし、私は何気なく先生とその長女と3人で写真を撮った。このあと先生はにこやかに子供、孫をはじめ一族、たぶん30人以上いたと思う、の挨拶を受け、元気そのものだった。

11月7日昼に入院した時、さっそく病院に駆けつけたのだけれど、そのときはまだブ・ジョコはICUで治療を受けていて、私はおろか家族の誰もその中に入れなかった。夜に再び来た時、もうICU入室が許されているからといって、先生の妹さんがICU室に導いてくれた。先生はそのときずっと目を開けていた。妹さんが、「三智が来ましたよ」とブ・ジョコに声をかけてくれた。私には先生が何を見ているのか、聴覚がまだ残っているのかも分からなかったが、11月26日の公演、その前の録音の練習が順調に進んでいて、ぜひ先生にも公演を見てもらいたいのだと声に出して伝えた。後で聞いたところでは、先生の末の娘さんが昼に入室したとき、先生はふと微笑して、パチャ・グル(舞踊で首を動かすしぐさ)をしたのだという。それは一瞬のできごとで、そのときには意識はもうなかったはずなのに、先生は確かに踊っているとしか思えなかったという。

11月8日夜8時過ぎ、先生が亡くなった時間、私は芸大大学院長のスパンガ氏の家のプンドポにいた。私は今度の公演で、ここで練習している芸大の先生たちやおじさんたちに演奏してもらうことになっていた。公演前に行う録音では、ついでに先生が振付けた作品「クスモ・アジ」の曲も録音しておこうと思って、この日初めて練習していたところだった。練習しているときにスパンガ氏がプンドポに出てくるのが見え、終わると私を手招きした。「重要な話があるんだが・・・」とスパンガ氏が切り出したとき、私はてっきり録音費用についての話だと思っていたので、わざとにこやかに「あらー、なんですか?」と切り替えした。それがブ・ジョコの訃報だったので、私はフリーズしてしまった。昨日病院にお見舞いに行きながら、私はブ・ジョコがこんなにすぐに亡くなると思っていなかったのだった。そうしているうちに芸術高校からもブ・ジョコの訃報を伝える使者がやってきた。ブ・ジョコはなにしろ芸術高校の1期生として学び、その後教員となって定年まで勤め上げ、多くの芸術家を育てた人だから、芸術高校は電話であちこち連絡するだけでなく、主な関係先には使者を立てたのだった。私たちはそこでいったん練習を中断し、使者の人が先導して皆でお祈りをささげた。

その後、公演演目であるスリンピの練習をはじめたのだが、結局その日は私も他の踊り手も心ここにあらずだったらしい。踊っていると、ブ・ジョコに習ったことのあれこれがいろいろと思い出されてくる。それに、この夜は雨季に入って本格的に雨が降った最初の夜だった。ものすごい土砂降りと雷雨で、たいていの地域で停電した。この雨もブ・ジョコの死を悼んでのことだったのだろうか。私も、そしてブ・ジョコの子供たちにとっても、この雨はブ・ジョコが安らかに神に召された験(しるし)のように思われた。そしてちょうどブ・ジョコの亡くなったときに私がその作品を練習していたということも、遺族はそのような験の1つとして受け止めてくれたようだった。

この夜私は練習を終えてから12時過ぎにブ・ジョコの家に駆けつけ、通夜をした。亡きがらはプンドポの奥のダレムと呼ばれるスペースに、バティック(ジャワ更紗)にくるまれて安置されていた。表の方では近所の人たちによって明日の葬式の準備が進められている。ダレムでは続々集まってきた遺族がそのまま雑魚寝している。私は明け方の5時にいったん家に戻って水浴びをし、服を着替えて朝8時にもう一度ブ・ジョコの家に行った。そのときに最後のマンディ(水浴び)をさせるのだという。日本で言えば湯灌だろうか。先生の亡がらは先生の娘2人と妹に抱きかかえられて清められ、その後イスラムの白い装束にすっぽりくるまれて、棺おけに安置された。そして確か12時過ぎから告別式が始まり、2時に墓地に埋葬された。

これから公演しようというときに、その公演のインフォーマントのブ・ジョコを亡くしたことは、私にはこたえた。もっと早くに先生に成長した姿を見せるべきであったのに。けれども、先生はもしかしたら、もう私の手を離しても良いと思ってくれたのかも知れなかった。あとは一人でその道を進みなさいということなのだろうか。先生はいつも「舞踊教師が教えられるのはマテリアル(演目)だけなのです」と言っていた。どのように踊るのかは先生ではなくて生徒が自らが探求すべきことだとブ・ジョコは考えていた。いつだったか、ブ・ジョコに「どうして先生はスリンピ、ブドヨを必死で習得したのですか」と聞いたことがある。宮廷舞踊のスリンピ、ブドヨは1969年から始まったPKJT(中部ジャワ芸術発展プロジェクト)の一環で初めて一般公開されたのだが、多くの演目を習得し書き残している人はほとんどいないというのが実情なのだ。そのときのブ・ジョコの答えは、「もう私には舅(1972年に亡くなった宮廷舞踊家クスモケソウォ。ブ・ジョコはクスモケソウォの助手をずっと勤めていた。)がいない。もう甘えずに、自立しなければいけないと思ったのよ。舞踊教師として私は宮廷舞踊を伝えなければいけないと思ったの。」というものだった。私はそれまで、ブ・ジョコは単に宮廷舞踊tが好きだから伝承してきたのだと思っていたのだが、自分の道をそこに見出していたのだった。そしてよく考えてみたら、ブ・ジョコが偉大な舅を亡くしたのは今の私くらいの年齢の時なのだった。私ももう甘えられる年ではなくなったのだな、これからは一人なんだな、ということを感じながら、私は11月26日の公演に臨もうとしている。

けいようしい──翠の虱(25)

藤井貞和

「美しい、正しい解」という作品を去年書いたとき、

じぶんのなかでこわれたいくつかの、文法的問題点。

そのなかに、「けいようし」がありました。「けいようしい」

と言ってしまうんです。けいようしくない、けいようしかろう。

活用してしまうんです。うつくしく、ただしく、あおく、きよく、

声もなく、……

(英語やフランス語、その他でもおなじことがいえる。メランコリイ、メランコリック、アイロニイ、アイロニック、メロディ、メロディックなど、名詞/形容詞の対立はそのまま、日本語の連体形/連用形に対応する。なぜだろう。偶然の一致と思ってしまうひとはたぶん、どうかしている。うつくしっく、声もなっく、といっちまうんです。)

がやがや

三橋圭介

先日、港大尋と「がやがや」(障害者と健常者のグループ)の練習に参加した。はじめて行く光が丘駅周辺の人工的な雰囲気に飲み込まれながら、稽古場の区民会館に到着。打ち合わせで「がやがや」のメンバーが集まる一時間前に行ったが、もう何人か集まりはじめている。ぞくぞくやってくる。がやがやしはじめた。沈黙は金ではない。きっと「がやがや」という人間たちの集まりはみんなにとって大事な時間なのだろう。みんなひさしぶりに会って楽しそう。がやがや。なかにはほとんど話をしない子もいる。そこにいるだけで安心。がやがや。いつもしゃべっている子もいる。がやがや。ライヴのときに見かけなかった新入りさんもいる。私に話かけてくれる。がやがや。全員の自己紹介のあと、誰かが「歌おうよ」と言いだす。港がギターを取りだし、音楽がはじまる。ライヴのとき以来「がやがや」は歌をうたっていなかった。でもはじまると声が集まる。それまでほとんど話もしなかった子がうたいはじめる。林光の「雨の音楽」がはじける。一人の男性のはりきる声がみんなを誘う。縦ノリのリズム。それでもいい。歌わない人もいる。にこにこ笑って楽しそうに見ている。だれも彼に「いっしょに歌おう」とはいわない。でもがやがやの輪のなかに、それぞれきちんと自分の居場所がある。

反システム音楽論断片7

高橋悠治

空気の微妙な震え その変化が音となり
音を音楽という秩序におしこもうとする企ては いずれは破綻する
それが音楽史となった
究極の音楽と言えるものは だれも作れない
耳は響きに浸っていても 身体はやがてちがう音楽を要求する
身体を揺り動かす音の力は 音量ではない
かすかなリズムの揺れが身体の共振を触発し
その共振が自発的に内部で乱反射し 拡大して
身体全体を一つのリズムで揺さぶる
音はそのきっかけとなるもの
そのわずかな力がはたらきかけるのは
文化を 歴史を前提とした社会的な身体

音楽は すでにある音楽からできていなければ
身体に受け入れられることはない
そして そこに いままでなかった音が含まれていなければ
身体をうごかすことはできない
人間は いつも未知のものに惹かれるから
文化や歴史を創ってきた
そしてそれらは完結することはない
文化も歴史も したがって音楽も不満の表現だ
決して満たされることはない

振動の拡大は崩壊にいたる
吊り橋を渡るアリの群れの歩みが ついには橋を落とすように
めだたない一つの変化が 内側から全体に作用する
全体に共振する一点を発見するために ハンマーで叩いて
組織の弱い個所をさぐるように
実験が必要とされる

アフリカから輸入された奴隷たちが 数世紀かかって 
主人たちの音楽の時間枠をずらし
シンコペーションによって 対話する複数の声
抵抗する複数の時間を創りだしたこと
また
さまざまな色とかたちが組み合わされて
単一のイメージに収斂しないアラベスクのひろがり
としての音の世界を創ること

これらの実験によって
音楽は別な世界の夢でありうる

(この連載はここで中断する 書きはじめた時の予想とはちがって 以前に書いた断片はそのままでは使えなかった 音楽は変わり 考えることも変化する さらに実験をかさね 観察と発見がなければ これ以上は書くことがない)

しもた屋之噺(59)

杉山洋一

今月も文字通り気がつくとあっという間に過ぎてしまい、やり残しの仕事ばかりがこちらをうらめしそうに眺めています。この所朝の4時過ぎに起きて、子供が起きるまでの僅かばかりの貴重な時間を、自分のために使っているのですが、朝の霧がとても濃くなり、秋の深まりを感じます。一面が乳白色に包まれて、庭の木のシルエットが黒く浮き上がるのも美しく、朝9時過ぎ、庭からへろへろの柵ひとつ隔てた小学校の校庭で、子供たちが歓声をあげて体操を始めるころ、霧もすっと消えてゆき、空にぽっかりうそのような青空が顔をのぞかせるのも、どことなく愉快で、思わず顔がほころびます。

先週の今頃は、名古屋の中部国際空港で朝一番の成田ゆきに乗るため、見事な朝焼けのなか、何十年かぶりに名鉄電車に乗っていました。前日、名古屋で多治見少年少女合唱団の皆さんが歌ってくださった、「たまねぎの子守唄」を聴きに、ほんの4日間だけ日本へ戻ったからです。春に東混で初演した「ひかりの子」と同じ、スペインの近代詩人エルナンデスのもっとも有名な詩の一つ、「たまねぎの子守唄」をテクストに使い、フランコ政権下、政治犯として獄死する監獄で、見たことすらない7ヶ月の次男の写真を眺め暮らし、貧しさゆえに、たまねぎとパンしか口に出来ないと嘆く妻の手紙に応えて書かれた「たまねぎの子守唄」は、誰しもの心を穿ちます。

たまねぎはじっと閉じた
貧しい霜。
お前の昼と
僕の夜が生んだ霜。
空腹とたまねぎ
黒い氷と霜
大きいものと円いもの。

空腹の揺りかごに
僕の子供は佇んでいた。
たまねぎの通った血で
乳汁(ちしる)を吸っていた。
でもお前の血には
甘い霜が降りている。
たまねぎと空腹。

褐色の女が月明かりに熔(と)け
揺りかごの上に
一本また一本
細い糸を放っている。
笑え息子よ。
お前が望むなら
月を持ってきてやろう。

我が家のひばりよ
沢山笑え。
お前の笑みは
瞳に耀く世界の光。
この魂がお前の声を捉え
宙を叩くほどに。

お前の笑みは僕を解き放ち
翼をもたらす。
孤独を追い払い
牢獄を消し去る。
口は空を駈け
心はお前の唇に、
明滅している。

お前の笑みは
勝利の剣。
花々とひばりたちの
勝鬨(かちどき)の声。
太陽の好敵手。
僕の骨と愛の
来るべき未来。

羽ばたく翼を纏う身体
睫毛は早く
彩り溢れる人生。
どれだけの五色鶸(ひわ)が
お前の身体から
飛び立ってゆくのだろう!

目覚めると自分は赤子だった。
お前目を醒ましてはならぬ。
僕の口は悲しさに歪んでいるけれど
一枚ずつ翼の羽を
笑みを護(まも)りながら
揺りかごのなか
お前は笑みを絶やしてはならぬ。

広漠と空を駈け
天を亙(わた)るものであれ。
何故ならお前の身体は
誕(う)まれたばかりの空。
もし許されるものなら
お前が辿った道程を
起源にまで立ち戻るものを!

八ヶ月になったお前は
五つのオレンジの花と共に
五つの微(わず)かな
野生を剥き出しにしながら
青春が薫る
五本のジャスミンの花と共に
僕に笑いかける。

それらは明日
並んだ歯の裏側に
お前が武器の芽生えを覚え
歯の底で
身体の芯めがけて
駈け降りる火を認めるとき
口づけの境界線となる。

乳房の重なりあう月のなか
お前は飛んでゆけ。
乳房は悲しみのたまねぎ
お前は満ち足りている。
決して崩れてはならぬ。
何が生じて何が起こるのか、
お前は知らなくてよい。

スペイン文学において、もっとも悲しい名作と讃えられるこの詩は、内容の美しさ、強さだけでなく、エルナンデス独特の、実に豊饒な響きのレトリックの魅力もあります。しかも、この詩は大衆を意図して書かれたものではなく、純粋に狭く暗い監獄のなかから、自分の子供がほほえむ写真のみを胸に、想いがどうか届いてほしいという願いだけを頼りに書かれていて、何度も読み返すと、「父性」と「男性」が痛切に浮かび上がります。

今の自分よりずっと若いエルナンデスに、父のもつ強さと尊厳、男、人間としての生が、深く刻印されることにも、さまざまな思いが巡り、国と民族の存亡のために、命をかけて戦っていた一人の人間の強靭な精神力を思います。この驚くべき強さは、ファシスト裁判で「この頭脳を止めおかなければならぬ」と言わせしめたグラムシを想起させずにはいられません。ちょうど同じ頃、等しい状況下で彼も獄中にあって、自らの子供を見ずして世を去ったのではなかったでしょうか。もちろん、エルナンデスは詩人・活動家であり、グラムシは共産党の頭脳だったわけで、全く違う志向もあって、スペインとイタリアという、人種そのものも似て全く非なる国に生きたのですから、混同は許されませんけれども。

曲はともかく、多治見のみなさんの演奏は、とても素晴らしいもので、子供たちがこんなに真摯に、想いをひとつにしてこの詩に対峙している姿を詩人が見たら、どんなにか喜ぶだろう、そう思いつつドレス・リハーサルを聞いていたら、不覚にも頬を熱いものが伝いました。生まれて初めての経験で、恥ずかしかったですが、周りに誰もいませんでしたから良しとしましょう。曲の質より、詩と演奏に圧倒されたのですが、多治見のみなさんは、原語で歌うと決めてから、単語一つ一つの意味を噛み砕いて理解していって、最後には、スペイン語のもつ強烈なエネルギーを十二分に発散してくれました。人間の声がもつ途轍もないポテンシャルに、あらためて驚かされました。

日本を旅行する機会になかなか恵まれないので、リハーサルのために多治見に一日お邪魔できたのも楽しい思い出です。特に電車が高蔵寺を過ぎたあたりで、途端に深くなる山や川の深い色が日本らしくて、車窓を走る風景にときめきを覚えた子供のころを懐かしく思い出しました。多治見の街の静かで上品な佇まいと、人々の温かさが、自分にとって「たまねぎ」にまた違った意味を与えてくれたように思います。「たまねぎ」を歌っているときの、ひたむきな子供たちの顔が鮮明に頭に焼きついたまま、ミラノへ戻りながら、こういう音楽との付き合い方もあったのだなと、うらやましい気持ちさえ頭をもたげました。掛け値なしに純粋に音楽と向い合えるのが、何の見返りも展望もなく言葉を綴った、エルナンデスにどこか通じるものを感じたからかも知れません。

さて、明後日から始まるノーヴァの譜読みすらまともに出来ていない上に、一昨日は客間のタンスを一人で作ろうと箱を持ち上げたところ滑り落ち、左足の親指をしたたか打って酷い思いをしました。予定では今日、ついに念願の電子調理台が一ヶ月遅れで届くはずで、わびしい簡易調理台と電子レンジに頼る日々から漸く脱すことが出来るか、というところ。エキサイティングな気持ちで朝届くはずの調理台を待っていますが、すでに午後一時。イタリア時間は我慢という言葉を教えてくれます。数日前まで物置と化していた客間も、何とかこの原稿を書ける環境にもなって、夕方ミラノに着く義父たちのベッドメイキングをしてみたら、最低限の人間らしい生活は保証できそうな気もしてきました。今週は家人が留守で、久しぶりに子供と頭をつき合わせて朝から晩まで暮らしていると、意外に理解力が進んでいるなとか、色々発見もあって面白いのですが、やはり夜、寝かしつけていて、気がつけば不覚にもこちらが眠り込んでしまっているのが一番の問題だったりするのです。

(10月28日 ミラノにて)

幾何学と音楽(2)

石田秀実

ギリシャ・ローマ期の間に、すでに発達していた線遠近法の技法を、ある意味で打ち破ったビザンティンの絵画は、自然の外のありもしないひとつの視点から、神のように静止してみる描き方を嫌った。彼らは逆に、神が自然の中のあちらこちらを、逍遥し、眺め渡したかのような逆遠近法の絵画を描いた。ヨーロッパ中世の絵画を担う技法でもあったことから、しばしば野蛮な技法のごとく記述されることもある逆遠近法は、実は、線遠近法の「神に対する不遜さ」に気づいた人々によって、あみだされたのだった。

逆遠近法のもうひとつの意味は、記号学者、ボリス・ウスペンスキーがいうような、人が実際に「在る」空間の体験である(ボリス・ウスペンスキー『イコンの記号学』 新時代社 1983)。画面の内側ではなく、外側の超越的一点から、事物を見る線遠近法の作者は、そこからのみ見える視角に固執することになる。その一点に不動の姿勢で立つ人間が中心点となり、そこから二次元平面である画面を、幾何学的な空間として見うるように、線遠近法絵画は描かれている。

それに対して逆遠近法の作者は、その絵画の中に入り込んでしまう。入り込んだ作者は、そこで様々な場所、様々な視覚から事物に触れ、そこにある空間の全体のなかで、事物がどのように多様的に見えるかというより、「在るか」に注意を向ける。個別の事物が、絵画の外側の在る一点からどのように見えるかが、コピー=写実されるのではなく、その事物の空間内における在り方が多角的に示されるのだ。そうして描かれた絵画の中で、個個の個物は、確かにある一点から写実的に見えているようには見えない。だが、そこではそれら「事物が在る空間」が、その内側から、全体として体験されている。絵画は、それを描く人がその中に埋もれている空間として、見られるというより、体験されるのだ。

完全な逆遠近法というわけではないが、日本の絵画の特徴とみなされている俯瞰視も、最初は西欧的な逆遠近法との関係で、研究がなされた(熊代荘蓬「東洋画の逆遠近法に関する観察」『画説』61号 国書刊行会 1942など)。絵画の外ではなく、内側の空間の中に入り込んで、その空間を体験するような画法である。西欧的な俯瞰視との違いは、観察視点が特定できず、どの視点から眺めたのか想定できない(というよりむしろ、視点が多様に動いていく)ところにある。視点は、描かれるものの動きに従って、様々なところに自由に動いていく。絵画の外側の超越的な一点から描く線遠近法とは、まったく異なる感性が、ここにはある。絵の中の景観は、外部からではなく、絵画の中の人物、画中をさまよう人から見られた景観である。

観察視点が揺れ動く俯瞰視と水平視とが混在したその空間は、認知論的には、目に映るイメージよりも心的イメージを伝える絵画技法として、このごろ注目され出している(山田憲政「動く襖絵―日本の伝統的空間認識」栗山茂久・北澤一利共編『近代日本の身体感覚』 青弓社 2004所収)。それは幾何学的というより、心理学的に描かれた、絵画の空間認識だといえよう。

音と人とが偶然出会うことから始まるような作曲のあり方は、こうした非幾何学的絵画のあり方と、似ているところがある。人は自然の中で移ろい、多様な音空間に出会う。音空間は人を包み、人はその中に埋もれる。
音空間に埋もれながら、更に人は移ろい、多様な音の多様な相を体験する。いくつかの音空間は重合し、それらは人の動きにつれて、様々な位相を示す。そうした音空間もまた移ろっていき、聴こえたり消え去ったりしながら、人と多様な関係を取り結ぶ。そこでは音たちは、外側から予め幾何学的に順序だてられる対象というより、音空間の内側で移ろう人が、たまたま出会っていく存在である。

たとえ時間と共に幾何学的に順序だてて奏でられた音であっても、認知論的に考える限り、その音空間の重なりや動きは、順序どおりに認識されるとは限らない。音の群れを外部から、予め幾何学的に透視して、その位置を定め、役割を割り振っても、音の認知は必ずしもそのようになるとは限らないのだ。
心的イメージの中で、音達がずれたり重なり合ったりして、多様な記憶の空間を形作っていくことを、わたしたちはすでに過去の音楽体験の中で、経験してきている。凝縮した時間の中に浮かぶウエーベルンやフェルドマンの音楽は、幾何学的に順序良く整序された音楽記憶の空間とは、およそ異質の心的イメージとして、私たちの想像力の内に鳴り響く。

様々な繰り返しの音楽や、レゲエなどのリズムも、人の想像力のなかで移ろい、重なり合って、人を音空間の重合の中に埋もれさせる。ひょっとしたら、そこにおいてさえ予め定められてあったかもしれない幾何学的なそれぞれの音の位置と役割は、記憶の空間の中で、どこかに消え去り、心的イメージとして、その認知論的意味を失っていくのである。

それに替わって想像力を占めるのは、予め定めてあったこととは別の、聴くことの中から組み合わされ、創造される心的イメージだ。幾何学的に透視されていたかもしれないイメージや見取り図からは、思いもよらないような心的イメージが、想像力の中にひろがっていく。音楽を聴くことが、テーマや形式を探し当てることではなくなるような、音楽の在り方、音との関係のあり方を探っていって、たどり着くひとつの始まりの地点に、私たちはいる。

動きを揃えること

冨岡三智

複数の人が一緒に踊るとき、たぶん私たちのほとんどは全員の動きが揃っている点をとても評価する。バレエやミュージカル、ラインダンスなどで、大勢の踊り手が一糸乱れずに踊っているさまを見るのは壮観だし、そこに美しさを感じる。けれど、揃っているのが美しいというのはある1つの価値観であって、絶対的なものではない。

バレエやミュージカルやラインダンスなどには、振付家という全体を統括する人がいる。画家が一点透視法を用いて画面に絵を描いていくように、振付家は、自分の目という一点を基準にして、大勢の踊り手を額縁舞台の中にデザインしてゆく。踊り手の動きは1つに揃えられ、個々の面貌が消されて、最後には1つの線として配置される。そうしたときに初めて別の美しさが見えてくる。それが全員が揃っている美しさ、なのだ。

そういう視線が1970年代にジャワ・スラカルタの伝統舞踊界にも持ち込まれた。アカデミー(ASKI、現在の国立芸大)の学長で、かつ中部ジャワ芸術発展プロジェクト(PKJT、1969〜1981)の長も兼任していたゲンドン・フマルダニという人が、西洋芸術の概念を持ち込んで伝統舞踊改革を推し進めた。それは一言で言えば伝統舞踊の舞台芸術化で、その中でもPKJTの一番の特徴が、複数の人で踊る演目(特に女性舞踊)で全員の動きを一糸乱れぬように揃えたことなのだ。当時それは驚異的で新鮮で、一般の人たち、特に若い層の心をとらえたのだが、その一方で、舞踊関係者からはロボットみたいだという批判も受けていた。

この「揃っている動き」の発見は、当然ながら「群舞」という概念の発見と表裏一体の関係にある。フマルダニは1960〜62年に欧米に留学してモダン・ダンスやバレエも学んでいる。そしてイギリスではバレエを見た感想を書き残しているのだが、そこには、空間におけるバレエの線のすばらしさと、ジャワ舞踊ではたとえ複数の人が一緒に踊っていても、それは単独で踊っている人が集まっているだけなのだ、という気づきが書かれている。この舞踊の線というのは明らかにコール・ド・バレエの人たちの軌跡を指していて、フマルダニ自身も群舞という概念を言い表すのにコール・ド・バレエという語をよく使っている。

しかし、フマルダニがコール・ド・バレエの概念をジャワ宮廷舞踊の演目(特に儀礼性の高い女性舞踊)にまで当てはめたのは間違いだった、と私は思う。確かに元来のジャワ宮廷舞踊には単独舞踊の演目はなく、複数(4人とか9人)で踊るものばかりだ。それに皆同じ衣装を着て、同じ振付を踊る。しかし、だからと言って、彼女らは群舞(コール・ド・バレエ)だと言えるのだろうか? たとえば、やはり宮廷の式学である舞楽も皆同じ衣装を着て同じ振付を踊るけれど(4人で踊るものなんかは、宮廷舞踊のスリンピととても似ている)、あれを私たちは誰も、コール・ド・バレエみたいなものだとは思わないだろう。ジャワ宮廷舞踊や舞楽の踊り手は、コール・ド・バレエのように、他の何か(主役)を引き立てるために背景化された存在ではない。舞台には彼らしかおらず、彼ら自身が「世界」、あるいは「宇宙」を代表している。舞楽の方は知らないけれど、ジャワの女性宮廷舞踊の踊り手には、各ポジションに「頭」、「首」、「胸」などという名前がついていて、つまりはそれぞれに意味がある存在なのだ。

一糸乱れぬ動きを、フマルダニは踊り手たちに毎日長時間の練習を課すことで、可能にした。全員の動きを経過点ごとに揃えて、手で布を払ったり、引きずっている裾を足で蹴り払うタイミングまで揃えていった。だから当時の踊り手=今の芸大の先生たち、とくに女性の先生たちは、全員の動きをいかに揃えられるかという点に練習の意義や達成度を見出す。女性舞踊にそれが顕著なのは女性舞踊の方が一緒に踊る人数が多いのと、それからやはり公演機会が多かったからだと思う。

私はかつて芸大の先生たちと一緒に公演したことがあって、来月もそのメンバーと一緒に公演することになっているのだが、この全員で揃えようという志向の強さには参ってしまう。今度の公演は私がスポンサーなので、とにかく、全員の動きは揃える必要がない、昔の宮廷舞踊のように個々の舞踊を踊ってください、と強く要望している。それでも先生たちは、「1人だけ動きが違ったら、間違えたと思われて嫌だ」と言う。他の人と揃わないということを、なんだかとても恐れるのだ。私としても、「むしろ古い上演の仕方として、あえて全員の動きを揃えてしまわないようにした」ということを、司会の方から言ってもらわないといけないなと思っている。

ジャワの音楽や舞踊にはウィレタンwiletanという語があって、個々の演奏家や踊り手の間で微妙に異なる個人様式のことを言う。過去の有名な踊り手は皆それぞれ独自のウィレタンを持っている。そういう単語があるということからも分かるように、各人でウィレタンが違うのはむしろ当たり前なのだが、先生たちのウィレタンに対する態度はこうだ。Aという公演ではaというウィレタンでいきましょう、とか、振付のこの部分はaというウィレタンだけど、あの部分ではbにしましょう、とかいう具合に、いろんなウィレタンをメニュー化しておいて、その中から1つ選んで揃えるのである。確かに芸大という所にはいろんな調査レポートがあるので、先生たちはいろんなウィレタンを知っている。私はウィレタンというのは踊り手の人格と一致した時におのずとにじみ出てくるもの、あるいは個々の踊り手がアイデンティティをかけて追求するものだと思うのだが、先生たちは、いろんなウィレタンをとっかえひっかえ使い分られることにプライドがあるみたいで、自分の個性にあったウィレタンを追求しようという姿勢があんまり見られない。(本当は、そういう意識がない、とまで言ってしまいたいぐらいだ。)そしてそれはたぶん、全体で揃えましょうという志向の高さと裏表の関係にある。

こういう具合だから、4人で踊るスリンピで、私と3人の芸大の先生が踊ると、当然私だけが揃っていないということになる。このことは以前の公演でも観客から指摘されてきたのだが、しかし上手下手は別として、私の舞踊の方がよりクラシックに見えるとも、何人もの人に評された。皆で揃えようという意識が私にはないのだが、それはつまり観客に見せようという意識が乏しいのだ。そういう観客へのサービス精神がないという点が、とてもクラシックな舞踊と映るらしい。来月(26日)の公演がどうなるか分からないが、また来月か再来月にその結果を書いてみたいと思う。

アジアのごはん(15)チェンマイのカレー麺

森下ヒバリ

今回は、タイの北部の古都チェンマイに行くと必ず食べる名物料理、カレー麺のカオ・ソイの話。カレー麺は、タイではチェンマイ以外ではほとんど食べることが出来ないので、チェンマイの名物料理となっている。今ではチェンマイのふつうの麺屋さんでも食べられるところが多くなったが、もともとは中国人イスラムの料理屋でしか食べられないものだった。ビルマにも似たような料理があるため、ビルマ料理ではないかと言われることが多いが、歴史を辿ると違うことが分かる。ちょっとふしぎな由来を持つ麺なのである。

チェンマイ旧市街の城壁から門を出てターペー通りを東にしばらく行くと、夜にはみやげ物屋台が並ぶナイトバザールのチェンクラン通りとの交差点に出る。チェンクラン通りを南に入っていくと、チェンクラン通りとチャルーンプラテート通りの間にイスラム通りとでもいうような短い通りがある。

この通りにはイスラム学校、礼拝堂、イスラム料理屋、宝石屋などがあり、住人はほとんどが中国系のイスラム教徒だ。豚肉もお酒も絶対置いていないイスラム料理屋は2軒あり、カレー麺のカオ・ソイと鶏肉の炊き込みご飯カオ・モック・ガイが中心のメニュー。

ここで食べるカレー麺カオ・ソイは、こんな麺料理だ。黄色い小麦粉の中華麺の上に赤いトウガラシ油の浮いたココナツカレースープをかけ、よく煮込んだ鶏肉をのせる。さらにその上にカリカリに揚げた中華麺をのせ、香菜パクチーをふりかけて出来上がり。小さな別皿にマナオ(タイのライム)、シャロット(小赤たまねぎ)、そして高菜漬けが添えられて出てくる。マナオを絞り、シャロットと高菜漬けも入れる。そして、ナムプラーやトウガラシなど調味料を少し加えて味を調え、いただく。

タイ中部主流のさっぱり汁麺のクイティアオとはちょっと味わいが違う。まったりとしたココナツミルクの風味が強いため、カレー風味はそんなに舌に残らない。このカレー麺はターメリックや乾燥スパイスのマサラ、インド風のカレー粉を使うが、いわゆる伝統的タイ料理にカレー粉は使わない。じゃあ、カオ・ソイはカレー粉を使っているからインド料理か、と思うのもまた少し気が早い。中華麺を使うインド料理はない。一方、ビルマのカレー和え麺パンデー・カオスエはカレー味だし、まだ食べたことはないが、パンデー・カオスエのバリエーションとしてココナツミルクスープのオンノー・カオスエというものもあると聞く。また、マレーシアのカレースープ麺ラクサもカオ・ソイに似ている。

ではなぜ、このインド・中華折衷料理のようなカオ・ソイがチェンマイ名物になったのか。その答えがこのイスラム通りの歴史にあった。

バンコクなどの中国人が福建・広東方面からやってきたのとは異なり、チェンマイに住む中国人の多くが雲南省からやってきた人々で、しかもムスリムだというのは、以前から知ってはいたが、彼らがどういう経緯でこの地にやってきたのか、あまり気にしたことはなかった。あるときイスラム通りの店でカオ・ソイを啜りながら、店の表で売られている雲南のお茶を見て、その頃アジアのお茶についてあれこれ調べていたわたしは、はっと思い当たったのである。

各地のイスラム・コネクションを利用して、雲南の中国人イスラムたちは古く元朝以来、交易にかかわってきた。雲南のお茶は優秀なチベットの軍馬と交換され、それは茶馬貿易と呼ばれていた。そのお茶も背の低い馬の背に乗せられて交易の場に運ばれていた。しかし、そうだ、交易はチベットだけではなかったぞ。むしろ、チベット向けは中国の政府がかかわる交易で、個人商人たちの出る幕はない。お茶や生糸など雲南の物産は北や東へ向かう交易路だけでなく、雲南省西部からビルマのバモー、そして川を下って王都マンダレー、パガンへというルート、昆明や西双版納から南下してチェントゥンを抜けチェンマイに至り、さらにチェンマイからメーソットを抜けビルマのマルタバン港(現在のモッタマ、モーラミャイン)へ抜けるというルートがあったではないか。
さっそく調べてみると、わたしが座ってカレー麺を食べていた店の辺りは、まさにその交易路の宿営地、かつて中国人ムスリムの商人たちが荷物を乗せた何十頭もの馬を連れて辿りついては、その馬を繋いだ場所だった。彼らは中国では馬幣(マーパン)と呼ばれ、タイではホー、ビルマではパンデーと呼ばれた。

もっとも、このチェンマイルートは19世紀半ばまでは、山が深く道が悪いためあまり盛んな交易路ではなかったようだ。しかし、1856年に清朝によるムスリム弾圧が起こり、一時は大理にイスラム政権までできたが、結局は清朝によって滅ぼされ、雲南省に住んでいたムスリムがたくさん殺され、ビルマへたくさんのムスリムが逃げ、移住するという事態になったのである。雲南省には当時100万人いたというムスリムが10分の1に減った。雲南に残ったムスリムは南に追いやられ、それまであまり使っていなかったチェンマイルートを交易に使うようになった。19世紀後半から第2次大戦に至るまでチェンマイは中国人ムスリム商人たちの交易路・中継地となったのだ。

馬幣の往来が盛んになってから、このイスラム通りは、現在に近い形で形成されてきたと思われる。第二夫人を交易地で娶り、そこにもうひとつ家を持つのも便利であるし、中国から移住してくる人もいただろう。イスラムに対する迫害から逃れる人もいただろう。中国人ムスリムたちは中国、ビルマ、タイ北部を行き来して物産を運んでいたわけだが、ビルマにはイギリスが植民地化してからベンガル地方のインド人がたくさんやってきていた。ベンガル地方はムスリムが多い。彼らが、中国人ムスリムと結婚することもよくあった。

つまり、カオ・ソイは雲南から来た中国人ムスリムがイスラム・インド(ベンガル)のスパイスを取り入れて創作した料理のひとつなのである。ココナツミルクを使えば、豚骨ダシを使わなくてもコクのあるスープが出来る。鶏の炊き込みごはんのカオ・モック・ガイの方はインド・イスラム料理のチキン・ビリヤニそのままでとくにアレンジはなされていないのに比べて、カレー麺カオ・ソイは小麦粉麺好きの中国人の工夫の成果なのだろう。

カオ・ソイという名前だが、実はタイ語で、米の麺を表す言葉である。カオは米、ソイは細長いものを表す。古くは、カオは料理のことも意味していたので、米の麺に限らず、麺料理という意味合いがあったかもしれない。西双版納、ビルマのシャン州、北部ラオス、北部タイ地方では米麺のことをこう呼んでいた。チェンマイからバスに乗って半日で行けるメコン川の向こうの北部ラオスではカオ・ソイといえば、今でも米麺に肉味噌をのせた料理のことである。北部タイのチェンマイでは、最近はすっかり中部タイで使われる福建・広東系の米麺を表す言葉クイティオに取って代わられてしまい、チェンマイにしかないカレー麺にだけその呼び方が残ることになったと思われる。

ビルマ語の麺を表す言葉はカオスエと言い、パンデー・カオスエなどのカレー麺があるため、タイ料理とは異質なチェンマイのカレー麺カオ・ソイがビルマから来たと思われているのだろう。しかし、カオスエはタイ語(シャン語)カオ・ソイからの借用、訛りである。パンデー・カオスエは、まさに「中国ムスリムの麺」という呼び名。これらカレー麺を考えたのは、ビルマ北東部に住んでいたか雲南に住んでいたか、チェンマイに住んでいたかは分からないが、このあたりを交易していた中華麺が好きなムスリムの中国人商人たちなのだ。中国人ムスリムの妻となったベンガル人奥さんの作、というのが一番ありそうだ。
カオ・ソイを食べると、きまって服に点々と赤い油のシミをつけてしまう。とろりとしたスープ麺は汁が跳ねやすい。いつも後で気付いて、あ〜、しまったと思う。雲南から馬と旅を続けていた商人たちも、シャツにシミをつけて舌打ちしていたかもしれないと思うと、なんだかふしぎな気分になるではありませんか。

オモシロクロン──翠の虱(25)

藤井貞和

オシクモロン
いや、オクシモロンのニシワキは、
声以後(古英語)を、
象(ぞう)に見せかけて。

想像と、象(ぞう)徴とを
悲惨と、飛散とで、
はさんでいる笑う宝石である。

噴水もまた、
飛散する。 困ったな。
新倉に訊け。
あれも、これも、それも。
白、黒、オモシロクロ評論。

(あれも これも それも。 沖縄の人はね、琉球新報と、沖縄タイムスと、どちらを読んでるのですか、と訊かれると、朝日新聞も読んでるんです、と答える〈高良勉〉。 佐久間〈鼎〉が、「こ」「そ」「あ」「ど」を美しいと言ったのは、ヒヤランヅ゛ェアをどうしようとしたんだろう。)

製本、かい摘まみましては(22)

四釜裕子

「水なし印刷」なんてとっくにないものと思っていた。いくら「環境にやさしい」印 刷ですといったって、しょせん印刷代が高くてやがて淘汰されるだろうと思い込み、 関心をなくしていたのだ。この夏、ある印刷会社に「うちは水なし印刷です」といわ れ、とっさに「まだあったんですか?」と返して怪訝な顔をされ、さらに「じゃあ値 段が高いのでしょう?」と問うと「昔の話です」と返された。昔の、話。今の話が知 りたい。お願いして、水なし印刷の現場を見に行く。

通常のオフセット印刷では、印刷の工程で湿し水を使う。水が油をはじく性質を利用 して、紙にインキがつかない部分をつくるのだ。この水には、印刷機能を高めるため の化学物質が付加されている。対して水なし印刷は、表面をシリコンゴムで覆った版 を用い、これがインキをはじくので、水は、使わない。これが「水なし印刷」という 名称の由来だ。さらに、これまでのオフセット印刷では版の現像により強アルカリ性 の廃液が出ていたが、水なし印刷では出ないので、「環境にやさしい」方法といわれ てきた。

日本で水なし印刷の開発に着手したのは1970年代。その目的は、インキが水でにじま ないこの方法で、より高精細印刷を実現したい、というもの。なによりその版素材の 開発がキモだったようで、まずは3Mがトライするも、詳細はわからないが実用化に いたらず、1976年に繊維メーカーの東レがシリコン版を開発する。それには、東京の 文祥堂印刷が、鍋を囲みながら発した同社代表の「やってみようか」の一言で会社を 実験工場とし、開発の一翼を担ったようだ。

従って、「環境にやさしい」なる枕詞がついたのは後のことで、ずっとやってきた方 々にとっては今やタナボタと受け止めるしかないのでありましょうが、私などはその 枕詞こそが牽引したのだと思い込んでおり、愚かなことですが、おおかたそうではな いかしら。今では多くの企業が、環境保全推進の姿勢を示すひとつの手段として、自 社の印刷物を積極的に水なしで印刷している。

水なし印刷はその版面の温度を一定にすることが必要なため、印刷工場全体の温度や 湿度が管理されており、また臭いもない。見学した工場内も、実に快適でスマートで あった。別室で作られた版のデータがケーブルを通して送られてきて、版の現像もあ っという間に終わってしまう。版材や専用インキの値段は従来のものに比べれば高い が、それまでの廃液・排水処理のための費用はかからないし、ヤレ紙(印刷に失敗し た紙)は減り、また印刷機械のオペレーター養成期間も短縮されるというから、全体 としてのコストはむしろおさえられるというのは、うなずける。

こうしてみるといいことずくめの水なし印刷だが、それを推奨する団体、WPA ( Waterless Printing Association )が認めた水なし印刷に付す「バタフライマーク」 は、米国の国蝶・オオカバマダラ ( Monarch Butterfly )だ。この蝶は美しいしアイ コンとしてもいいのだけれど、私たちは今後印刷物にこの「バタフライマーク」と大 豆インキ使用を示す星条旗柄の「ソイシール」を、よかれとして印刷物に付してゆこ うとしている。気味の悪いことである。

音色1

三橋圭介

音楽をきくとき、音色は最も大切な要素だろう。ただ音色という言葉は難しい。ある人が音色と呼んでいるものと自分が音色と呼んでいるものが同じとは限らない。

一般的にはヴァイオリンの音色、ピアノの音色などともういが、ピアノの場合なら、「音色を変化させる」という言葉のなかに、「タッチを変える」という意味合いが込められることがある。タッチを変えると音の質感は変わる(アタックの音が関係しているだろう)。いつも使っているクラヴィノーヴァはサンプリングされた音で、理論的にはその大小の変化しかない。しかしタッチによって(あるいは曲想の変化によって)、音色が変わったと印象付けることができる。これはある種の「錯覚」で、多くのヨーロッパ芸術はこの「錯覚」をたくみに使う。

ピアノも技術によって音のムラを無くして均質化し、クラヴィノーヴァに接近していく。「あの人のピアノは多彩な音色で」というとき、大方の場合この種の「錯覚」であることが多い。

逆に考えるなら、均質化した技術ではなく、不均質な技術による演奏のほうが音色が豊かということになる。ピアノではないが、スーコフスキーの弾くケージ。たとえば、「チープ・イミテーション」はおもしろい。なめらかさや流暢さからほど遠く、一般的な演奏基準からすれば下手に聞こえる。ヴァイオリンの音はムラだが、だからこそとても豊かで複雑に響く。下手だからではなく、巧い人が音色のためにあえてそうやっている。これは決して「錯覚」などではない。

高い山は下界とは違うという話

大野晋

夏の高山のお花畑は、花が咲きそろいまるで天国の様相を呈しています。
気温も、下界に比べるとすごしやすい温度で、私なども避暑を求めて高山に登ったものです。

人間、本当に似たような環境を見ると、するっと違いを忘れてしまいがちになります。
天国のような、などというと実際に天国のように思いますが、実は高山は過酷な地獄のような環境だったりするわけです。お花畑がなぜお花畑としてそこにあるかというと、寒さが厳しかったり、湿度が足りなかったり、風が強かったりして高い木が育たない厳しい条件のためであったりするためなのです。であれば、天国のように見えはしても、実は地獄のような世界が待っていると言えるのかもしれません。

しかも、こういった厳しい気候条件の場所には春も秋もありません。あるのは、厳しい冬と楽園の夏だけです。
下界は春だといっても天上界はまだ冬ですし、下界は秋だと思っても実は天上界はいきなり地獄の冬に変化することがあります。

この厳しさを理解していないと、いきなりの冬山への変化に遭難事故が起きたりするのです。
この秋も厳しい秋でした。いきなりの冬山に多くの遭難のニュースを聞くにつけ、高い山を下界と同じ気持ちで見ることの怖さを感じました。

違うからこそ、あの美しさがあるのだと理解してほしいと思った10月連休でした。

砂漠のスーパーマン

さとうまき

デンマーク、2003年のイラク戦争のクルド難民が、今コペンハーゲンで暮らしている。この一家と一緒に、絵本を作ろうというのが今回の訪問の目的だ。小雨降る朝、飛行場に降り立つと、ファーデル(19歳)が迎えに来てくれた。私のスーツケースを取り上げて、バス停まで運んでくれるが、コロをうまく転がす方法を知らず、ぼこぼこぶつけながらしんどそうに運んでいる。

ファーデル一家は9人家族。お父さんは83歳。一番下のアーデル君は11歳だから70を過ぎてからの子どもだ。結局他にも6人くらい子どもがいるらしく、合計すると一ダースを超えているのだが、詳しくはよくわからなかった。このイラン生まれの老人の生命力は驚くべきで、イラン革命で祖国を追われイラクへ移住、そしてイラク戦争でイラクを追い出されたのだ。いまだに威厳すら感じられるのである。

「子どもたちが体験した砂漠の生活を書いて欲しいんだ」
逆立ちの大すきなアーデル君(11歳)とスウェイバちゃん(13歳)がちょうど手ごろな年頃だ。
「それは、いい考えだ。本になるんだね。僕も描くよ」とファーデルが描き始めた。
とても下手な絵だったので、「もういいよ。子どもたちに集中してもらおう」

そんなわけで、一週間、こもりながら子どもたちと絵を描くことになった。アーデルもスウェイバも昼間は小学校にいってデンマーク語を勉強している。私は、コペンハーゲンの町をうろつきながら時間をつぶす。ファーデルは、働くことを考えている。デンマークの難民政策も、政権が右傾化して、厳しくなっているという。難民を手厚く保護すると、今度はデンマーク人が文句をいう。
「商売を始めたいんだ。お金を貸してほしい」とファーデルが切り出してきた。
「私も貧乏だからね。でも本ができればいくらかお金が入ってくるよ」
「そいつはいいや」と有頂天になっている。

ファーデルの近くには50を超えた姉たちが別に暮らしている。彼女たちは、デンマーク語の学校に通うわけでもない。生き別れになった弟がニュージーランドに再定住したので、いつも弟に会いたいとファーデルたちを困らせている。
「毎日なんだ。みんなうんざりさ」いまだに、砂漠のキャンプから外に出られない人たちがいるわけだから、ニュージーランドにいけただけでもありがたいと思わないと。イラク難民は100万人はヨルダンにいて、難民認定されるのは、毎年数十人、受入国が決まるのはその中でも本のわずかにすぎない。

さて、子どもたちの絵はどうなったか。
アーデルが見せてくれた絵は、スーパーマン! そんなのキャンプにいなかっただろう。それでもアーデルは調子に乗ってスーパーマンの絵ばっかり描いていた。
 次の日、見せてくれた絵は、怪獣の絵。そんなのいたの? それでもアーデルは怪獣の絵を描き続けた。

一方、スウェイバの方は、私の意図を理解してくれて、キャンプの生活を、描いてくれた。お姉さんのシーシャ(18歳)も手伝ってくれて、素敵な絵を描いてくれる。私はお礼にシーシャの英語の宿題を見てやったりしたが、スウェイバが今度はなんとなくすねてしまった。この3人は、ひっきりなしにファック・ユーと罵り合っている。アーデルとシーシャは、ファックユーとつばを吐いて、殴り合いのけんかを始めてしまうありさまだ。

おそらく衛星放送のTVを見て覚えるのだろう。イランのMTVのような番組があり、これがなかなかファックユーな音楽で、露出度の高いお姉さんが踊っている。今のイランからは想像できない映像だ。彼らはイラン語(ペルシャ語)もわかるので大喜びで見ている。でもお父さんがやってくるとあわててチャンネルを変えて、クルド語の放送になる。そして、延々と続くクルディッシュダンス。テンポが速く、リムスキーコルサコフの蜂が飛んでいるみたいに聞こえる。

そして、毎日クルドのお茶をのんだ。角砂糖を口の中にほうばり、紅茶をグラスから受け皿に注いで、ずずーと口に含むと砂糖を溶かしながら飲んでいくのがクルド流の茶道だ。シーシャもおてんばのスウェイバもよく働く。ファーデルがえらそうに「おーい、お茶」といえば、文句も言わずにお茶を出してくれる。おかげで、膀胱が破裂するくらいお茶を飲んだ。

デンマークとクルドが混在する中であっという間に一週間が過ぎた。若い子どもたちはすっかりデンマーク人のようになっている。ちょっと年取った子どもたちは、生活のために何とかデンマーク語を覚えようとがんばっている。老人たちは、クルド人として一生を終えようとしている。難民の世代を絵本で表現できないか? それが今回の企画だった。

ファーデルがうれしそうに「本はできそうかい」と聞いてくる。
「タイトルが決まったよ。スーパーマン・砂漠に行く」
私は苦笑いしながら、これじゃ本にならないよとつぶやいた。

ピンクの桜

小島希里

玄関のブザーを押すと、ドアの向こうから、声がする。「ほら、ター君、希里さんよ、希里さん」広い玄関の中に入ると、廊下の向こうから、ター君が駆け寄ってきた。わたしが、映像作家だったら、この瞬間をカメラに収めるだろう。両手を羽根のように動かして、太ももを叩き、左右に大きく揺れながら、25歳のからだがゆっくりこちらに近づいてくる。フレームから出入りする。歓迎してくれているその気持ちが、いつもよりかすかに早い足取りに現れているところを、カメラは捉えられるだろうか。わたしの姿を認め、目を合わせ、立ち止まったター君は、手を差し出すでもなく、声を出すでもなく大きく目を見開き、じっとわたしを見つめている。
「こんにちは」とわたしが声をかけると、くるっと向きを変え、ター君は広い廊下の奥の居間に戻っていった。

がやがやに参加するとき、ター君は、いつもリュックの中に演歌歌手のカセットテープを忍ばせてくる。何よりも、演歌が大好きなのだ。香西かおり、中村美津子、天童よしみ・・・女性歌手の張りのある声が好みなのかな。春がくるまで 桜はさかん、そやけど心は ピンクの桜・・・持ってきたカセットのなかから一本選んでもらい、演歌がなるなかお昼を食べていると、いつも笑いがこみ上げてくる。さて、今日はだれの曲を選んで、聞かせてくれるんだろう。

お茶を飲んでお母さんとおしゃべりしているわたしの横に、隣の部屋からター君が小さなポータブルのカセットプレーヤーとプラスチックの籠をもってやってきた。籠のなかには、カセットテープが20本ぐらい入っている。片手でデッキを膝の上にのせると、反対の手でなかから一本のテープを迷わずつかみ、挿入した。すぐに早送りのボタンを押しつづけぱっとはなすと、再生ボタンに指を移し、音楽をならした。と思ったら、何秒か─―わたしにはなんの歌かわからないほどの何秒間後にすぐに停止ボタンを押し、早送りのボタンで最後までテープを回すと、取り出しボタンを押してテープを出し、裏返して、またテープを挿入。テープをひっくり返し、挿入。そしてまた、早送り、再生、停止、取り出し。次のテープへ。

同じ作業が、10本分ぐらい繰り返された。ター君は荷物一式を持って部屋から消え、さっきのカセットプレーヤーと別のテープのはいったケースを手に下げ、戻ってきた。早送り、再生、停止、取り出し、ひっくりかえして挿入、早送り、再生、停止、取り出し・・の繰り返し。職人のような確実な手つきには、何か使命感のような、達成目標があるような、まっすぐな強い意思を思わせる。お母さんによれば、一本一本のテープのなかの、好きな歌のなかの、好きなフレーズのなかの、ごく一部分だけがききたくて、こうしているらしい。

こうやって、テープをかけていると、カセットプレーヤーは一月もしないうちに壊れてしまうらしい。「だから、ほら」とお母さんが部屋の奥から数台持ってきた。「安いときに、何台かこうやって買いだめているんですよ。もし、カセットデッキを売る店がなくなったら、ほんとうにどうしましょう。ター君、生きていけなくなっちゃうんじゃないかしら」彼はCDには、まったく興味を示さない。厳選された歌のかけらと、カセットプレーヤーの温度やボタンの感触、早送りのときの震動や裏返すときのテープの重みとが交じり合わなければ、求める音は聞こえてこない。

わたしが映像作家だったら、とまた思わずにはいられない。この音と景色を同時に、映し出せたら。お姉さんの「うるさいから、やめなさい」とくりかえす声もいっしょに捉えることができるのに。テープの数は、どれぐらいあるんですか、とお母さんにたずねてみた。「この前、ごっそり捨てたんだけど、それでもまだ、山のように二階にしまってあるんですよ。でも、ター君には小出しにしてわたしているの」心のなかのカメラが、戸棚にしまいこまたテープが居間にぜんぶ並べだされたところを思い描く。テープの海にかこまれたター君がみてみたい。

反システム音楽論断片6

高橋悠治

どうしても ことばはことばを呼ぶ
何もしないうちに 理論だけが空回りする
そうならないように 目をそらして
視界に入ることばから 別な方向へ加速する
跳ね回るピンポン球のように いまは
先月の石田秀実に触発されて かってな夢見にふける

音のあらわれを待つ時間の長さ
あらわれた音を耳で聴くというより
身体を揺り動かす地震波のように
音は予期した身構えをはずし
その瞬間は はかられる線上の一点ではなく 
足元からさらわれて 思わず一歩踏み出してしまう
かまえもなく 音は音を呼ぶ
これが 即興でもあり
ある作品を演奏するなら
一つ一つの音の群れに 時間の弾みを帰していく試みになる
紙の上で音符を即興的に書き付けていくことには
別な問題がある
できるだけ速く書かなければならない
それでも 演奏する身体の速度には追いつけない
型は 一種の速記だが
閉じられた地域のなかで郷土芸術が栄えた時代はすぎた
共有する型や伝統は すでにみせかけのもの
それなら 現実の世界化を逆手に取って
引用の織物を作ること
異なる音階 作品 時代 文化の色彩の層と断絶による
短波ラジオのダイヤル
遠い声を伝える 世界の音楽化

メロディーとハーモニーの快楽にひたるのでなく
伝統の再興でもなく
それらも蔭の部分として含みながら
身体のリズムと批判のことばの両極の間に張られ
ストレッチによってやすらぎ
関係にひらかれながら 我を忘れる
音色の帆

著作権保護期間延長にさからいつつ
あくまで他者でありつづけること

アジアのごはん(14)タクシン元首相とフライドチキン

森下ヒバリ

9月の中旬までタイに行っていたのだが、帰国して3日目にクーデターのニュースが届いた。その夜、タイのコンケーンの友人たちが酔っ払って電話してきて叫んだ。「タクシン・パイレーウ! チャイオー!(タクシンは追放されたぞ! 乾杯!)」。私見ながらタクシンとクーデターについて思うことを少し書いてみた。

軍事クーデターという手段はよくないが、タクシン元首相が政権を追放されたこと自体はやはりよかったと思う。タクシンは、自分の私利私欲のために権力を利用してきた。権力で法律を捻じ曲げ、買収で司法の目をかいくぐって汚職と脱税を繰り返し、莫大なカネを儲け続けていたのである。批判をするオピニオンリーダーのメディアを次々に買収し、貧困層や農村部の不満をかわすために、これみよがしなパフォーマンス、ピンポイントなばら撒き政策を行った。

議会の多数派だったので国会にも出席せず、政策・法律はトップダウン方式。閣僚、高級官僚は親戚・同期生ばかりを任命。春の反タクシン・民主化運動の高まりで、一度は退任を宣言し再選挙を約束したが、しばらくするとまた首相の座に戻り、政権に居座った。

タクシン政権の経済政策については評価する点もあるかもしれないが、経済発展の成果で豊かになったのはごく一部の人たちに過ぎない。その頂点がタクシン一族だ。これは、いままでのタイの歴史の中でたくさんの権力者がやってきたことと変わりがない。ただこれまでは軍事力でそれをやっていたのである。

それでも、タクシンはまがりなりにも、民主的プロセスを経て選ばれた首相だった。選挙では買収による票買いがあったことは周知の事実だが、買収されて票を入れた人だって、銃で脅されて入れた訳ではなくタクシンみたいな実業家で金持ちが政治をすれば、自分もお金持ちになれるかもしれないと夢見ていただけだ。

タクシンは、タイの国は自分の会社で、国民はみな自分のために働く奴隷社員とでも思っていたのだろうが、けっきょく最後まで思い通りに操れなかったのが、軍部と王室であった。もちろん、タクシンのやり方にだまされない多くの民衆もいたが、今年の春に起こった反タクシン運動も、タクシンはうまくかわしたつもりだったようだ。選挙でまた勝ちさえすれば(もちろんプロパガンダと買収を駆使して)、民主的みそぎになる、と。プミポン国王を慕う民衆の力もあなどっていた。

タクシンが一代で携帯電話会社を興して財を成したのは、有名なサクセスストーリーである。元々警察官僚だったタクシンは、もっと金持ちになるために政界に出た。政治を、権力を利用すれば、ものすごい規模で儲かることをよく知っていた。だから、タクシンの政治理念には道徳も民主主義も何もないのである。

この春、国中を二分した反タクシン運動は、身近なところでも直面した。バンコクのアパートの近所で、いつもビールを買っているソイの入り口の店のおじさんは、経済がよくなったのはタクシンのおかげ、と「ラブ・タクシン」のステッカーを貼り、店の前で客と論争している。そのステッカーを剥がしてしまったので、以後ビールを買いに行っても口をきいてくれない。友達のエム君は「だって、タクシン自身は別に悪いことしてないでしょう。親戚がわるいことしただけで。いいこといっぱいしてるでしょう」みんな、人が良過ぎます。

どんどん増長するタクシンを見て、今ここで高齢のプミポン国王が亡くなったら、大変なことになると思っていた。国王の抑えが効かなくなったら、タクシンは民主主義の仮面を完全に脱ぎ捨ててしまうだろう、と。その懸念が生まれたのは、タクシンがメディア買収を始めたころからである。

メディア買収のきっかけとなったのは、一昨年の鳥インフルエンザの流行のときだ。タイ中で鳥インフルエンザが流行し、鶏肉を売るのも食べるのも、ぱったり途絶えた。そこで、鶏肉消費を取り戻そうと、タクシン首相自ら「火の通った鶏肉は食べても安全」パフォーマンスを行った。安全キャンペーン会場で鳥のから揚げをマスコミの前で食べる、ケンタッキーフライドチキンに入り、席についてフライドチキンをかじる。このパフォーマンスをテレビで見ていると、嫌そうな顔でほんの少しだけ食べていた。大衆的な焼き鳥でなく、タイでは高級な店のケンタッキーフライドチキンでなぜパフォーマンスなのか。焼き鳥は火の通りが信じられず恐くて食べられなかったのかな? と誰もが感じたと思う。

翌週の週刊誌マティチョンの表紙は、ケンタッキーフライドチキンに本当に嫌そうにかじりつくタクシン首相の写真だった。怒ったタクシンは、まず写真を掲載し記事を書いた編集長と記者を更迭させる圧力を会社にかけた。二人は解雇されたが、それでは足りないと思ったのか、マティチョンの会社自体を自分の友人の関連会社に買収させたのである。マティチョンの会社は日本で言えば朝日新聞とか毎日新聞にあたるような日刊紙を出す新聞社である。

これと前後してテレビメディアのiTVも買収。それまで、リベラルなニュース専門チャンネルとして人気を集めていたiTVは、タクシン御用ニュース&流行情報チャンネルに変わってしまった。さらにリベラルな英字紙のネイション、バンコクポストすらも資本関係を握られタクシン批判が影を潜めていた時期がある。タクシンが次々とメディアを支配下におさめて情報操作をするのを見て、特に都市部では反タクシンの動きが大きくなっていった。とにかくタクシンは批判されることが嫌いで、それがメディア買収に結びついたようだが、それはタイの頂点に立ち、絶対的支配者になりたいとうというカネ以外の権力欲がどんどん膨らんできたことを示している。

タイの王室、特にプミポン国王はかつてない尊敬と畏怖の念を持たれている。不敬罪があるから逆らわない、のではなく、多くの国民が心から国王を愛しているのだ。プミポン国王はその人徳でタイの国民の9割ぐらい(憶測です)から熱狂的な支持を得ているのである。その力は凄いものである。国王は、タクシンに批判的だった。だから、タクシンも最後の一線が越せない。大きな力と利権を持つ軍の幹部を自分の同期生派閥で固めようとはしてみたが、思い通りにはなかなかならなかった。軍部の中で強い力を持っていたのが、王党派だったからである。

王党派もタクシンの野望をくじくためにいろいろ画策した。8月初め、4ヶ月ぶりにタイを訪れると、町中が黄色であった。道を歩いている人、バスに乗っている人、みんな黄色いシャツを着ている。聞くと、プミポン国王の誕生曜日の守護色が黄色で、つまり黄色は王さまを表すのだが、王様への愛と忠誠を示すため、みんなで黄色を着ようというキャンペーンが行われていたのだった。ちょうど国王は病気で入院していたこともあり、バンコクも地方の町も黄色に染まっていた。王さまが退院してからも公務員は全員毎日着ていたし、タクシンでさえ着ていた。

このキャンペーンには、国王への忠誠心を煽り、王さまに取って代わろうかとするような言動のタクシンを押さえ込む深い意味があった。今から思うと、このキャンペーンは単純でかつ巧妙、しかも大きな成果を挙げた。目に見える形で王さまへの国民の忠誠心を示され、タクシン派には大きな圧力になった。そして、国民は意図せずお互いに王さま(タクシンではなく)への忠誠心を確かめ合う。

しびれを切らしたタクシンが、ついに軍部の王党派を突き崩そうとして、首相を狙ったテロを機会に王党派の元締め枢密院議長のプレム元首相をタクシン派の軍幹部でつるし上げ、ついに王党派の軍司令官トップ解任に踏み切り、同期生を司令官に任命しようとしたところで、解任されたソンティ軍司令官が中心となってクーデターが起きたわけである。春に一度タクシンを追い詰めたかのように見えた反タクシン・民主化運動も、タクシンはうまくかわしてのらりくらりと政権に執着した。そしてこの機会に、軍部・王室までも支配下に置こうとしてついに支配者への夢は潰えたことになる。

このクーデターが無血で成功し、国民が平静なのも、一部の軍幹部の思惑と打算によるものではなく、王党派の意思だったからだ。そして、王党派の後には、圧倒的多数の国民に支持される国王がいる。タクシンを追放したのは、実はあの黄色いシャツの波だったと言うこともできる。タクシン派の軍人たちの反クーデターが起きなかったのも、黄色いシャツの波のおかげであろう。残念ながら民主運動の波ではないけれども、これもたしかに人民の波ではある。

ナシーブつまりは運命

さとうまき

ヨルダンとイラクの国境の難民キャンプ。今回は日本から医師や看護師など13名を引き連れて健康診断を行うことになった。まもなくラマダンを迎えようとしている9月23日の夕方、ポンコツバスが迎えに来てアンマンを出発した。問題はホテルが大変。ルウェイシェッドという国境の町から15kmくらい手間にモーテルがあるだけ。僕は、結構このホテルが気にっているのであるが、初心者には厳しい。まずはトイレが流れない。便座が無いなど。そして夏は蚊が出る。そして、必ずぼったくられる。

僕はまるでバスガイドさんのように皆様を先導しなければならなかった。アンマンから3時間走ってホテルに着く。砂漠の真ん中のホテル。今回はホテル側も蚊を気にしてかずいぶんと殺虫剤をまいたようで、のどが痛くなる。まるで化学兵器を使ったようだ。息苦しくなってロビーに下りていくとヤスミンがいた。ヤスミンは、イラク人で、もう5年もここで働いている。まだ、いるの?

「ところで、どうしてここで働いているんだい」と聞いても笑っているだけだ。
「こいつは、ヨルダン人と結婚していて、旦那が暴力を振るうから、ここに逃げてきたのさ」マネージャーが教えてくれる。
ヤスミンは23歳だというから18歳で結婚したことになる。
「アンマンにいたの?」多くを語らない。
「こいつの顔は日本人みたいだろ。目が小さいからな」確かにこういう日本人はいるかもしれない。
「大体、どうやってこんなホテルにたどり着いたんだ? 砂漠の真ん中だし」
「ナシーブ」ヤスミンがけらけら笑っている。
「なんだって? ナシーブ?」
「ナシーブというのはアラビア語で、訳すと運命というような意味だ」とマネージャーが教えてくれた。
ルウェイシェッドはすきかい?
「くそだわね」
「いつも、暇なときは何している?」
「なにも。TVを見るくらい」
「退屈?」
「そんなものだとおもうわ」
つまりここでの生活はすべてナシーブというわけだ。

2年前は、結構このモーテル、にぎわっていたから、バーも開店していた。ジャスミンも色っぽい衣装を着せられて、客の相手をしていたが、如何せん、とてもじゃないが彼女のけだるい態度は、接客とはいえなかった。そのときは、僕はビールを飲もうと座っただけで、1600円も取られたのだ。

部屋に戻ると、さすがに、疲れがたまっていたので心地よい眠りについた。ところが、夜中に、隣に寝ていた原のいびきでおこされる。
「くそだなあ」とつぶやきながら眠れないので、テラスに出ると、満天に輝く星。この光が、ここに届くまでの時間。そして私の隣には太古の恐竜「ハラゴン」なんと壮大なスケールだろう。そのように考えるとロマンチックな気分になるが、現実は、どうみてもおっさんのいびき。

翌朝。「眠れましたか」
「イヤー、蚊に刺されましたわ」
「こちらは、こおろぎが紛れ込んでころころうるさくて」
「こちらは恐竜の声で」
「はあ、恐竜?」

9月28日、ラジオのニュースでは、難民キャンプの151人がカナダへ移住することが決まり、今年の年末には難民キャンプはいよいよ閉鎖されると言っていた。イラク戦争から3年と9ヶ月。ルウェイシェッドの物語はいよ幕を閉じようとしている。

羽根布団

小島希里

がやがやのメンバーの家族に会ってインタビューしたい、という大学生にくっついて、Rさんの家に行ったことがある。Rさんのお母さんはアルバムをめくり、小学校時代のことを話しはじめた。 同じマンションに住む保育園時代からののともだち、そしてお母さんたちに囲まれて、にぎやかに楽しい小学校時代をすごした、いっつもだれかが遊びに来たり、遊びに行ったりして。

じゃあ、学校で、何か不愉快な思いをされたこと、なかったですか? 付き添いのはずなのに、わたしがインタビューに割り込んだ。
「普通の授業のときは、黙って座って、みんなに迷惑をかけないでいればよかったんだけれど、でも、音楽の授業になると、そうも行かなかった。笛の合奏コンクールがあって、そのとき。」というと、お母さんは一呼吸置いた。「あとから、先生からきいたんだけど、音が出ないようにって笛にティッシュをつめましたって。」また、お母さんが一呼吸置いた。「それをきいたときはねえ。赤ちゃんの頃の方が大変だったから。しょっちゅうひきつけを起こして、靴もはかずに抱きかかえて病院に駆け込む、そんなことばっかりだったから。」

突っ込まれたティッシュを引き抜き、耳を澄ましてみる。

  小さな川に 赤い花 流そ 岸辺に咲いた 名も知らぬ願い

ねがい(林光作曲 佐藤信詩)。去年の春頃から、歌集「林光 歌の本」4巻のなかの作品をから手当たり次第に歌っているが、そのなかで彼はこの曲がいちばん好きなようだ。ほかの男の人たちよりも1オクターブ高い少女のような声で、そっと口ずさむ。やさしく歌う声にあわせて、やさしくからだを揺らしながら、両手の人差し指がリズムに合わせて大きな三角を描く。ほらほら、指揮者だと、みんなにはやされると、恥ずかしそうにみんなの前まで進み、人差し指のタクトを振る。

知っている林光ソングを歌い終わり、さらに港大尋作曲作品も歌いきると、わたしたちの持ち歌はぜんぶなくなる。Rさんがわたしの耳元にきてささやく。「ねえねえ、小島さん、『ねがい』、『ねがい』をもういちど」それから勇気をふりしぼり、みんなに向かって、もういちど呼びかける。「『ねがい』もういちど、どうですか」却下されるときもあれば、賛同を得るときもある。

今から二週間ほど前、また別の彼のやわらかな音楽に遭遇した。
ダンサーで振付家の山田珠実さんのワークショップでのこと。新聞紙をあちこちに散らばらせた四十畳の広い和室に、十人ほどの人が目をつむって寝転がり、残りの十人が何かしかけてくるのを待ちかまえた。じゃあどうぞ、と山田さんの声で、しかける側の人たちが動き出した。ふと見ると、Rさんが横たわる一人の女性の傍らに正座して座っている。わたしもそっとそばに正座した。女性の脚部と上半身には、もう一枚ずつ新聞紙が広げてのせられていた。Rさんはていねいに新聞紙を延ばし、さっき置いた新聞紙の上にさらにもう一枚ずつのせた。さらにもう一枚ずつ。さらにもう一枚。サワサワ、サワサワ。サワサワ、サワサワ。Rさんはわたしには目もくれず静かに静かにこの作業をずっと繰り返し、新聞をやさしく積み上げた。羽根布団のようなにふわふわで分厚いベールが、今日、初めてあったばかりの彼女を覆った。

もうおしまい、さあ、もう帰りの支度をしましょう、というそのとき、Rさんは必ずみんなに呼びかける。「『いつでも誰かが』をやろう!」この提案は、けして却下されることがない。図書館でCDを借り、録音してきた上々颱風のカセットを、Rさんがプレーヤーに入れる。音楽が鳴りだすと、さっきまでと隅っこにいた人も、なんだかやる気のなかった人も、にわかに動きだす。人気のない夜の寝静まった野原に、海から森から天から地から様々な生き物が繰り出してきて、秘密のお祭りを始めたみたいだ。上下にまっすぐぴょんぴょん跳ねつづける虫、でんぐりがえしをする岩、学校で覚えた別の曲の振り付けで踊りつづける何者か。レゲエのリズムに乗って、みんなのからだが弾む。どんどん弾む。弾み続ける。

音楽が終わると、部屋はパタッともと通りに寝静まる。「いつでも誰かが」はがやがやの終わりの音楽。どの人も、もうこの場所には用はないといった感じで、さっさと帰りの支度を始めている。Rさんはもう靴を履き、出口に立っている。踊り終えたダンサーたちは、味気ないほどすばやく夕暮れのなかに消えていく。