2006年10月号 目次

アジアのごはん(14)タクシン元首相とフライドチキン森下ヒバリ
ナシーブつまりは運命さとうまき
羽根布団小島希里
しもた屋之噺(58)杉山洋一
ガリン・ヌグロホの映画「オペラ・ジャワ」を見て冨岡三智
幾何学と音楽(1)石田秀実
feu――翠の虱(24)藤井貞和
反システム音楽論断片5高橋悠治

アジアのごはん(14)タクシン元首相とフライドチキン

9月の中旬までタイに行っていたのだが、帰国して3日目にクーデターのニュースが届いた。その夜、タイのコンケーンの友人たちが酔っ払って電話してきて叫んだ。「タクシン・パイレーウ! チャイオー!(タクシンは追放されたぞ! 乾杯!)」。私見ながらタクシンとクーデターについて思うことを少し書いてみた。

軍事クーデターという手段はよくないが、タクシン元首相が政権を追放されたこと自体はやはりよかったと思う。タクシンは、自分の私利私欲のために権力を利用してきた。権力で法律を捻じ曲げ、買収で司法の目をかいくぐって汚職と脱税を繰り返し、莫大なカネを儲け続けていたのである。批判をするオピニオンリーダーのメディアを次々に買収し、貧困層や農村部の不満をかわすために、これみよがしなパフォーマンス、ピンポイントなばら撒き政策を行った。

議会の多数派だったので国会にも出席せず、政策・法律はトップダウン方式。閣僚、高級官僚は親戚・同期生ばかりを任命。春の反タクシン・民主化運動の高まりで、一度は退任を宣言し再選挙を約束したが、しばらくするとまた首相の座に戻り、政権に居座った。

タクシン政権の経済政策については評価する点もあるかもしれないが、経済発展の成果で豊かになったのはごく一部の人たちに過ぎない。その頂点がタクシン一族だ。これは、いままでのタイの歴史の中でたくさんの権力者がやってきたことと変わりがない。ただこれまでは軍事力でそれをやっていたのである。

それでも、タクシンはまがりなりにも、民主的プロセスを経て選ばれた首相だった。選挙では買収による票買いがあったことは周知の事実だが、買収されて票を入れた人だって、銃で脅されて入れた訳ではなくタクシンみたいな実業家で金持ちが政治をすれば、自分もお金持ちになれるかもしれないと夢見ていただけだ。

タクシンは、タイの国は自分の会社で、国民はみな自分のために働く奴隷社員とでも思っていたのだろうが、けっきょく最後まで思い通りに操れなかったのが、軍部と王室であった。もちろん、タクシンのやり方にだまされない多くの民衆もいたが、今年の春に起こった反タクシン運動も、タクシンはうまくかわしたつもりだったようだ。選挙でまた勝ちさえすれば(もちろんプロパガンダと買収を駆使して)、民主的みそぎになる、と。プミポン国王を慕う民衆の力もあなどっていた。

タクシンが一代で携帯電話会社を興して財を成したのは、有名なサクセスストーリーである。元々警察官僚だったタクシンは、もっと金持ちになるために政界に出た。政治を、権力を利用すれば、ものすごい規模で儲かることをよく知っていた。だから、タクシンの政治理念には道徳も民主主義も何もないのである。

この春、国中を二分した反タクシン運動は、身近なところでも直面した。バンコクのアパートの近所で、いつもビールを買っているソイの入り口の店のおじさんは、経済がよくなったのはタクシンのおかげ、と「ラブ・タクシン」のステッカーを貼り、店の前で客と論争している。そのステッカーを剥がしてしまったので、以後ビールを買いに行っても口をきいてくれない。友達のエム君は「だって、タクシン自身は別に悪いことしてないでしょう。親戚がわるいことしただけで。いいこといっぱいしてるでしょう」みんな、人が良過ぎます。

どんどん増長するタクシンを見て、今ここで高齢のプミポン国王が亡くなったら、大変なことになると思っていた。国王の抑えが効かなくなったら、タクシンは民主主義の仮面を完全に脱ぎ捨ててしまうだろう、と。その懸念が生まれたのは、タクシンがメディア買収を始めたころからである。

メディア買収のきっかけとなったのは、一昨年の鳥インフルエンザの流行のときだ。タイ中で鳥インフルエンザが流行し、鶏肉を売るのも食べるのも、ぱったり途絶えた。そこで、鶏肉消費を取り戻そうと、タクシン首相自ら「火の通った鶏肉は食べても安全」パフォーマンスを行った。安全キャンペーン会場で鳥のから揚げをマスコミの前で食べる、ケンタッキーフライドチキンに入り、席についてフライドチキンをかじる。このパフォーマンスをテレビで見ていると、嫌そうな顔でほんの少しだけ食べていた。大衆的な焼き鳥でなく、タイでは高級な店のケンタッキーフライドチキンでなぜパフォーマンスなのか。焼き鳥は火の通りが信じられず恐くて食べられなかったのかな? と誰もが感じたと思う。

翌週の週刊誌マティチョンの表紙は、ケンタッキーフライドチキンに本当に嫌そうにかじりつくタクシン首相の写真だった。怒ったタクシンは、まず写真を掲載し記事を書いた編集長と記者を更迭させる圧力を会社にかけた。二人は解雇されたが、それでは足りないと思ったのか、マティチョンの会社自体を自分の友人の関連会社に買収させたのである。マティチョンの会社は日本で言えば朝日新聞とか毎日新聞にあたるような日刊紙を出す新聞社である。

これと前後してテレビメディアのiTVも買収。それまで、リベラルなニュース専門チャンネルとして人気を集めていたiTVは、タクシン御用ニュース&流行情報チャンネルに変わってしまった。さらにリベラルな英字紙のネイション、バンコクポストすらも資本関係を握られタクシン批判が影を潜めていた時期がある。タクシンが次々とメディアを支配下におさめて情報操作をするのを見て、特に都市部では反タクシンの動きが大きくなっていった。とにかくタクシンは批判されることが嫌いで、それがメディア買収に結びついたようだが、それはタイの頂点に立ち、絶対的支配者になりたいとうというカネ以外の権力欲がどんどん膨らんできたことを示している。

タイの王室、特にプミポン国王はかつてない尊敬と畏怖の念を持たれている。不敬罪があるから逆らわない、のではなく、多くの国民が心から国王を愛しているのだ。プミポン国王はその人徳でタイの国民の9割ぐらい(憶測です)から熱狂的な支持を得ているのである。その力は凄いものである。国王は、タクシンに批判的だった。だから、タクシンも最後の一線が越せない。大きな力と利権を持つ軍の幹部を自分の同期生派閥で固めようとはしてみたが、思い通りにはなかなかならなかった。軍部の中で強い力を持っていたのが、王党派だったからである。

王党派もタクシンの野望をくじくためにいろいろ画策した。8月初め、4ヶ月ぶりにタイを訪れると、町中が黄色であった。道を歩いている人、バスに乗っている人、みんな黄色いシャツを着ている。聞くと、プミポン国王の誕生曜日の守護色が黄色で、つまり黄色は王さまを表すのだが、王様への愛と忠誠を示すため、みんなで黄色を着ようというキャンペーンが行われていたのだった。ちょうど国王は病気で入院していたこともあり、バンコクも地方の町も黄色に染まっていた。王さまが退院してからも公務員は全員毎日着ていたし、タクシンでさえ着ていた。

このキャンペーンには、国王への忠誠心を煽り、王さまに取って代わろうかとするような言動のタクシンを押さえ込む深い意味があった。今から思うと、このキャンペーンは単純でかつ巧妙、しかも大きな成果を挙げた。目に見える形で王さまへの国民の忠誠心を示され、タクシン派には大きな圧力になった。そして、国民は意図せずお互いに王さま(タクシンではなく)への忠誠心を確かめ合う。

しびれを切らしたタクシンが、ついに軍部の王党派を突き崩そうとして、首相を狙ったテロを機会に王党派の元締め枢密院議長のプレム元首相をタクシン派の軍幹部でつるし上げ、ついに王党派の軍司令官トップ解任に踏み切り、同期生を司令官に任命しようとしたところで、解任されたソンティ軍司令官が中心となってクーデターが起きたわけである。春に一度タクシンを追い詰めたかのように見えた反タクシン・民主化運動も、タクシンはうまくかわしてのらりくらりと政権に執着した。そしてこの機会に、軍部・王室までも支配下に置こうとしてついに支配者への夢は潰えたことになる。

このクーデターが無血で成功し、国民が平静なのも、一部の軍幹部の思惑と打算によるものではなく、王党派の意思だったからだ。そして、王党派の後には、圧倒的多数の国民に支持される国王がいる。タクシンを追放したのは、実はあの黄色いシャツの波だったと言うこともできる。タクシン派の軍人たちの反クーデターが起きなかったのも、黄色いシャツの波のおかげであろう。残念ながら民主運動の波ではないけれども、これもたしかに人民の波ではある。


ナシーブつまりは運命

ヨルダンとイラクの国境の難民キャンプ。今回は日本から医師や看護師など13名を引き連れて健康診断を行うことになった。まもなくラマダンを迎えようとしている9月23日の夕方、ポンコツバスが迎えに来てアンマンを出発した。問題はホテルが大変。ルウェイシェッドという国境の町から15kmくらい手間にモーテルがあるだけ。僕は、結構このホテルが気にっているのであるが、初心者には厳しい。まずはトイレが流れない。便座が無いなど。そして夏は蚊が出る。そして、必ずぼったくられる。

僕はまるでバスガイドさんのように皆様を先導しなければならなかった。アンマンから3時間走ってホテルに着く。砂漠の真ん中のホテル。今回はホテル側も蚊を気にしてかずいぶんと殺虫剤をまいたようで、のどが痛くなる。まるで化学兵器を使ったようだ。息苦しくなってロビーに下りていくとヤスミンがいた。ヤスミンは、イラク人で、もう5年もここで働いている。まだ、いるの?

「ところで、どうしてここで働いているんだい」と聞いても笑っているだけだ。
「こいつは、ヨルダン人と結婚していて、旦那が暴力を振るうから、ここに逃げてきたのさ」マネージャーが教えてくれる。
ヤスミンは23歳だというから18歳で結婚したことになる。
「アンマンにいたの?」多くを語らない。
「こいつの顔は日本人みたいだろ。目が小さいからな」確かにこういう日本人はいるかもしれない。
「大体、どうやってこんなホテルにたどり着いたんだ? 砂漠の真ん中だし」
「ナシーブ」ヤスミンがけらけら笑っている。
「なんだって? ナシーブ?」
「ナシーブというのはアラビア語で、訳すと運命というような意味だ」とマネージャーが教えてくれた。
ルウェイシェッドはすきかい?
「くそだわね」
「いつも、暇なときは何している?」
「なにも。TVを見るくらい」
「退屈?」
「そんなものだとおもうわ」
つまりここでの生活はすべてナシーブというわけだ。

2年前は、結構このモーテル、にぎわっていたから、バーも開店していた。ジャスミンも色っぽい衣装を着せられて、客の相手をしていたが、如何せん、とてもじゃないが彼女のけだるい態度は、接客とはいえなかった。そのときは、僕はビールを飲もうと座っただけで、1600円も取られたのだ。

部屋に戻ると、さすがに、疲れがたまっていたので心地よい眠りについた。ところが、夜中に、隣に寝ていた原のいびきでおこされる。
「くそだなあ」とつぶやきながら眠れないので、テラスに出ると、満天に輝く星。この光が、ここに届くまでの時間。そして私の隣には太古の恐竜「ハラゴン」なんと壮大なスケールだろう。そのように考えるとロマンチックな気分になるが、現実は、どうみてもおっさんのいびき。

翌朝。「眠れましたか」
「イヤー、蚊に刺されましたわ」
「こちらは、こおろぎが紛れ込んでころころうるさくて」
「こちらは恐竜の声で」
「はあ、恐竜?」

9月28日、ラジオのニュースでは、難民キャンプの151人がカナダへ移住することが決まり、今年の年末には難民キャンプはいよいよ閉鎖されると言っていた。イラク戦争から3年と9ヶ月。ルウェイシェッドの物語はいよ幕を閉じようとしている。


羽根布団

がやがやのメンバーの家族に会ってインタビューしたい、という大学生にくっついて、Rさんの家に行ったことがある。Rさんのお母さんはアルバムをめくり、小学校時代のことを話しはじめた。 同じマンションに住む保育園時代からののともだち、そしてお母さんたちに囲まれて、にぎやかに楽しい小学校時代をすごした、いっつもだれかが遊びに来たり、遊びに行ったりして。

じゃあ、学校で、何か不愉快な思いをされたこと、なかったですか? 付き添いのはずなのに、わたしがインタビューに割り込んだ。
「普通の授業のときは、黙って座って、みんなに迷惑をかけないでいればよかったんだけれど、でも、音楽の授業になると、そうも行かなかった。笛の合奏コンクールがあって、そのとき。」というと、お母さんは一呼吸置いた。「あとから、先生からきいたんだけど、音が出ないようにって笛にティッシュをつめましたって。」また、お母さんが一呼吸置いた。「それをきいたときはねえ。赤ちゃんの頃の方が大変だったから。しょっちゅうひきつけを起こして、靴もはかずに抱きかかえて病院に駆け込む、そんなことばっかりだったから。」

突っ込まれたティッシュを引き抜き、耳を澄ましてみる。

  小さな川に 赤い花 流そ 岸辺に咲いた 名も知らぬ願い

ねがい(林光作曲 佐藤信詩)。去年の春頃から、歌集「林光 歌の本」4巻のなかの作品をから手当たり次第に歌っているが、そのなかで彼はこの曲がいちばん好きなようだ。ほかの男の人たちよりも1オクターブ高い少女のような声で、そっと口ずさむ。やさしく歌う声にあわせて、やさしくからだを揺らしながら、両手の人差し指がリズムに合わせて大きな三角を描く。ほらほら、指揮者だと、みんなにはやされると、恥ずかしそうにみんなの前まで進み、人差し指のタクトを振る。

知っている林光ソングを歌い終わり、さらに港大尋作曲作品も歌いきると、わたしたちの持ち歌はぜんぶなくなる。Rさんがわたしの耳元にきてささやく。「ねえねえ、小島さん、『ねがい』、『ねがい』をもういちど」それから勇気をふりしぼり、みんなに向かって、もういちど呼びかける。「『ねがい』もういちど、どうですか」却下されるときもあれば、賛同を得るときもある。

今から二週間ほど前、また別の彼のやわらかな音楽に遭遇した。
ダンサーで振付家の山田珠実さんのワークショップでのこと。新聞紙をあちこちに散らばらせた四十畳の広い和室に、十人ほどの人が目をつむって寝転がり、残りの十人が何かしかけてくるのを待ちかまえた。じゃあどうぞ、と山田さんの声で、しかける側の人たちが動き出した。ふと見ると、Rさんが横たわる一人の女性の傍らに正座して座っている。わたしもそっとそばに正座した。女性の脚部と上半身には、もう一枚ずつ新聞紙が広げてのせられていた。Rさんはていねいに新聞紙を延ばし、さっき置いた新聞紙の上にさらにもう一枚ずつのせた。さらにもう一枚ずつ。さらにもう一枚。サワサワ、サワサワ。サワサワ、サワサワ。Rさんはわたしには目もくれず静かに静かにこの作業をずっと繰り返し、新聞をやさしく積み上げた。羽根布団のようなにふわふわで分厚いベールが、今日、初めてあったばかりの彼女を覆った。

もうおしまい、さあ、もう帰りの支度をしましょう、というそのとき、Rさんは必ずみんなに呼びかける。「『いつでも誰かが』をやろう!」この提案は、けして却下されることがない。図書館でCDを借り、録音してきた上々颱風のカセットを、Rさんがプレーヤーに入れる。音楽が鳴りだすと、さっきまでと隅っこにいた人も、なんだかやる気のなかった人も、にわかに動きだす。人気のない夜の寝静まった野原に、海から森から天から地から様々な生き物が繰り出してきて、秘密のお祭りを始めたみたいだ。上下にまっすぐぴょんぴょん跳ねつづける虫、でんぐりがえしをする岩、学校で覚えた別の曲の振り付けで踊りつづける何者か。レゲエのリズムに乗って、みんなのからだが弾む。どんどん弾む。弾み続ける。

音楽が終わると、部屋はパタッともと通りに寝静まる。「いつでも誰かが」はがやがやの終わりの音楽。どの人も、もうこの場所には用はないといった感じで、さっさと帰りの支度を始めている。Rさんはもう靴を履き、出口に立っている。踊り終えたダンサーたちは、味気ないほどすばやく夕暮れのなかに消えていく。


しもた屋之噺(58)

ミラノに引っ越して今日でちょうど一週間が経ちます。住んでいるのはミラノの南にあるポルタ・ジェノヴァ駅からアレッサンドリアへ伸びるローカル線に面したロフトで、友人の建築家のフェラーリが元来あった工場の側面をそのまま生かして作った一見コッテージ風な建物です。まだ台所も完成していないので、取り敢えずは携帯ガスコンロと電子レンジで料理を見繕い、一昨日テレコムが工事に来て見ると、新居にはまだテレコムの回線が引いてないというので、あわてて昨日既に回線がひいてある別の電話会社に契約に出かけたりして、なるほど新生活を始めるというのは、煩瑣なことがずいぶん沢山たまっているものだと妙に感心させられます。

イタリアの生活には馴れているし、10年以上前に初めてイタリアに住み始めたとき、文字通り何もない生活から始めて今に至るので、ある程度肝が据わっていますが、10年間住んだブリアンツァを捨てて、初めてミラノに住むというのは、なんとも不思議な気がします。この家は通りからずいぶん奥へ入ったところにあって、ボルガッツィ通りに面していたモンツァの家に比べれば遥かに静かな環境で、ここがミラノなのを忘れてしまいそうですが、家を出てジャンベッリーノ通りまで出れば、街の喧騒にびっくりするほどです。

引越しの最中、合唱の清書が佳境に入っていて、荷造りを放り出して、ダンボールにまみれながら五線紙に向かっていました。他の練習やら本番やらに追われていると、なかなか自分の作品に頭が切替わらないのと、朝9時から、酷いときは夜の11時まで実質10時間以上も練習した後では、体力的にも自分の作曲にかかる気力が残らないものです。イタリア人が怠け者というのは、ただの逸話に過ぎないと憎憎しく思いながら、それでも譜読みが間に合わず、休憩時間には楽譜に齧りついていたりするわけです。そうして本番が終ってみると、ヨーイチは疲れを知らないなどと妙に感心されたりして、少々虚しい思いにかられたりもします。こういう時、作曲と演奏を兼業している人たちのことを、心から尊敬しますが、不器用な人間は尊敬したところで器用に時間と頭が使えるわけでもなく、本当に困ります。昨日もスキャンした合唱の清書譜を友人宅からメールで送ってみると、次の作品の入稿の催促のメールが届いていて、来月以降の本番の譜読みが頭を過ぎって少々気が滅入ってきました。

さて、とにかくこの原稿を送ったら、この週末は家の家具つくりに専心することにいたします。ちょうど今しがた新しい電話会社から連絡があって来週初めに工事が来るそうですし、来月原稿を書く頃までには、それなりに人間らしい生活が成立していることを祈るばかりです。

(9月29日ミラノにて)


ガリン・ヌグロホの映画「オペラ・ジャワ」を見て

突然だが、この8月5日から1年の予定でインドネシアのソロ(正称スラカルタ)市にジャワ舞踊の調査で来ている。9月はじめに電話付の家を見つけて入居し、やっと自分のパソコンから直接原稿が送れるようになった。先々月に「舞踊の謝礼~1」という文を書いて、その続きはインドネシアに来てから書こうと思っていたら、すっかり気分が変わってしまった。それでその続きはいつかまたということにして(このフレーズ、しばしば使っている気がする)、今月はガリン・ヌグロホ監督の新作映画「オペラ・ジャワ」評を書いてみたい。

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ガリン・ヌグロホは1961年ジョグジャカルタ生まれ。インドネシアを代表する若手映画監督で、日本でもその作品はよく上映されている。私が同監督の映画を見るのは「そして月も踊る」(1991)、「枕の上の葉」(1998)とその元になったドキュメンタリー「カンチルと呼ばれた少年」に続いて4作目になる。「オペラ・ジャワ」はベネチア、トロント、ウィーンの各映画祭に出品されている。

ちなみに私が「オペラ・ジャワ」を見たのは2006年9月1日、「ソロ・グランド・モール」内にある「グランド21」という映画館においてだった。ソロでは9月1日~7日までワヤンをテーマにした「ブンガワン・ソロ・フェスティバル2006」が開催されていて、ワヤン(影絵)、ワヤン・オラン(舞踊劇)からワヤンに題材をとる現代作品までいろんなものが上演されていた。このフェスティバルのオープニングを飾るのが「オペラ・ジャワ」で、上映に先立ってガリン・ヌグロホの挨拶もあった。

それではまず映画の内容について、少し長くなるが、招待状に書いてあったシノプシスを翻訳して引用する。

「これはガムラン・ミュージカル映画で、ガムラン音楽や舞踊の名手、インスタレーション作家に支えられている。このコラボレーション作品は真実を求めての争いについて語っているが、真実とは、多くの血を流した果てに打ち立てられるものなのだ。この物語は、小さい村に住むシティとスティヨという夫婦の物語である。彼らは壷を焼いて売っている。ところがその村では、ビジネスはルディロという金持ちの男が握っていて、いつもひどいことをする。シティとスティヨとルディロはかつてワヤン・オラン(舞踊劇)ラーマーヤナの踊り手で、スティヨはラーマ、シティはシンタ、そしてルディロはラウォノを演じていた。スティヨとシティの生活は倒産で先行き不透明となり、そこにかねてよりシティを愛していたルディロが彼女に取り入ろうとする。一方スティヨは、シティの内面の変化に気づいて、自分の経済力のなさや無気力さを感じている。3人の元踊り手は、三角関係に陥っているとは感じていない。ちょうど、ワヤン・オラン・ラーマーヤナの中の「シンタ焼身」の葛藤の場面のように。ルディロはあの手この手で、時には暴力的にシティを奪おうとし、無力なスティヨは、シティを閉じ込めようと極端な行動に出る。シティは動揺の中で自分の本心を見出そうとする。この3人の葛藤で残されたものがまさに今日の我々の光景であり、ラジオやテレビで見聞きすることだ。つまり多くの対立は暴力に満ち、困難を打開する方法は残虐性に満ちていて、最後は悲劇に終わる。スティヨはついに妻を追いかけて殺し、その心臓を取り出して、妻の心の声が本物かどうか確かめる。この映画はガムラン音楽、歌、舞踊、衣装、演技、ビジュアルとインスタレーションによるレクイエムであり、ジャワ文化というマルチカルチャーな表現の中で生まれた。虐殺への悲しみのレクイエム。その虐殺は、大地の果てでの極端な対立、不安に満ちた社会の対立から生まれた。これは、さまざまの悲しみ、災害の、対立の、恐怖の、そして血塗られた大地への悲しみのためのレクイエム。」

次に配役について。シティ役のアルティカ・サリ・デウィは2004年のミス・インドネシアで、彼女だけは舞踊と全然関係がない。スティヨ役がミロト、ルディロ役がエコ・スプリヤントで、この3人のセリフ=歌の部分はみな吹替である。他にイ・ニョマン・スロ(彼はバリ人)やレトノ・マルティ、そしてそれ以外にも多くの有名なソロの舞踊家やグループが出演している。音楽はラハユ・スパンガ。セリフ=歌は全部ジャワ語でインドネシア語の字幕がついていた。

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私自身はこの映画に出演する舞踊家・音楽家の多くを知っていて、その作品も見ている。その目で見ると、この映画には彼らの個性や存在感、舞踊振付が十分盛り込まれていて魅力的だ。しかし、映画としてみると、登場人物、特に主演の3人の人物の掘り下げ方が弱い。そしてそれは出演者の演技力に問題があるというよりは、人物を行動に駆り立てる「必然的な物語」を監督が構築していないからだと私には思える。

まず、ラーマーヤナ物語をベースにする必然性が私には感じられない。(1)ラーマーヤナと、(2)シティとスティヨとルディロという3人の男女の物語では、人物の置かれている状況がかなり違っていて、相似していない。私たちがある古典の物語を下敷きにドラマを描こうとすれば、古典の中でドラマを生み出していた根本的な原因=外的状況を現代に再現しようとするだろう。なぜなら、人間の内面心理は(もちろん個人差があるにしろ)その外的状況から必然的に生みだされてくる部分があり、そこにドラマが成立するからだ。「元ラーマーヤナの踊り手だった」という設定だけでラーマーヤナの世界を借りてくるのは、少し皮相的な気がする。

3人の心理描写も中途半端なのは、これも外的な状況がきちんと描けていないからだろう。3人の心がそれぞれに揺れていることは感じられるが、その心の揺れの直接の原因がはっきりしない。だからドラマも進展してゆかないのである。いつの間にスティヨは妻を殺害しようとまで思いつめていたのか、シティはルディロやスティヨに対してどういう感情を抱いていたのか......。そういう点を監督自身が煮詰めていないように見える。したがってこれが悲劇だという主張ができていないのだ。

さらに、この(2)の物語を(3)現在の社会に満ちている悲劇・暴力というテーマにつなげるには無理がある。映画の最後に、ラブハン(ジャワ王家が毎年、南海に棲む王国の守護神に供物を捧げる儀式)をアレンジしたシーンがある。全人類の悲劇というテーマは、そのシーンの存在によって暗示されているだけで、②の物語から帰納的に導き出されたものではない。それだけではない。彼はシノプシスの中で悲しみの中に災害の悲しみにも言及しているが、これは人間関係の葛藤の中で起きた虐殺とは同レベルで扱うべきことではないはずだ。おそらく彼は自分の出身地であるジョグジャカルタ近郊で起きた地震の惨状が念頭にあり、レクイエムということで一緒くたにしてしまったのだろう。

このように、この映画では、(1)の物語、(2)の物語、(3)のテーマというのはオーバーラップもせず、深化もしない。ただ(1)の人物設定を借りて別の物語=(2)が展開し、そこに(3)のテーマが新たにくっつけられていった......だけなのだ。物語の力によって普遍的なテーマが迫り出されてくるわけではなく、イメージによって話が飛躍していくのである。もちろん(1)の物語の枠を借りて別の物語を展開しても良いし、論理的な展開よりもイメージ表現を重視しても良いが、もし彼がこの映画を通して普遍的な③のテーマを語りたいなら、それが(1)や(2)のドラマの展開を経て必然的に生まれてくるように構成するべきだろうと思う。

こんな批判的なことを書くと、ヌグロホ監督のファンには怨まれるかもしれない。ただ彼を少し弁護しておくと、このような話の展開の仕方はジャワ人にはありがちだ。ジャワでは個別の事例から論理的に普遍的な真理が導き出されるのではなく、その論理のプロセスがすっ飛んで、なんでも象徴・シンボルの話になってしまうことが多い。だから上のような私の意見は、私が話したジャワ人数人にはほとんど分かってもらえなかった。ヨーロッパでの映画祭ではどのように評価されるのだろうか。

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それからもう1つ。「オペラ・ジャワ」に限らずガリン・ヌグロホの映画でいつも気になるのは、物語にとって必然性のない「ジャワ」の強調が多いことだ。「オペラ・ジャワ」の最初に、スティヨがスラカルタ宮廷の行事「スカテン」にアブディ・ダレム(家臣)の姿をして王宮に入るシーンがある。しかし、その後の物語におけるスティヨの境遇を見ていると、彼は別にアブディ・ダレムとして生きているわけでもなく、このシーンは物語とは何の関係もないことが分かる。

またスラカルタ王宮で即位記念日にのみ踊られるという秘舞「ブドヨ・クタワン」の映像が挿入されているが(踊り手から判断すると、これは『そして月も踊る』用に撮影した映像だろう)、これもシティとスティヨの物語とは全然関係がない。2人の愛の象徴としてブドヨの映像を出したのだと言う人もいたが、なぜ「ブドヨ・クタワン」でなければならないのだろうか。確かに「ブドヨ・クタワン」は王と南海に棲む王宮の守護女神との愛を描いているが、シティとスティヨの愛の引き合いに出すには格が違いすぎて、私には違和感がある。ガリン・ヌグロホは「カンチルと呼ばれた少年」でも舞踊・ブドヨ(この時は確かジョグジャカルタ様式のブドヨ)のシーンを挿入している。その時はナレーションから男女の愛の象徴として使っていることが明白だったが、この時も前後のストーリーとブドヨとは全然関係がなかった。

このような「ジャワ」の強調、しかもジャワ王宮文化の強調は、彼が海外の映画祭を対象に映画制作をしているからではないだろうか。つまりジャワ人である彼が海外で自分の文化的アイデンティティを強調するために必要以上にやっていると思うのだ。そのために彼が表現する「ジャワ」は「ブドヨ=愛」、「ジャワ=王宮文化」のようにステレオタイプ化し、外人の眼から見たエキゾチックなジャワを再生産している。日本でも、「こういうところ(愛の表現)でブドヨを出すあたりがジャワ人ですね~」と感心する声を聞くから、おそらく映画祭というような場では評価を得やすいのだろうが、私には鼻についてしまう。彼自身はこの点をどのように自覚しているのか、機会があれば聞いてみたい気がする。

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ここでは「オペラ・ジャワ」の映像の美しさや、全編に流れる音楽については触れていない。ただ映画を見たときから、ジャワ人にとって物語とは何なのかということを一番考えずにはいられなかった。そしてその一方で、私の頭にある「物語」、「人物の心理」、「必然」などという概念はどこから来たのだろう、という思いにもとらわれてしまった。だから威勢良くヌグロホを批判しているように見えるだろうが、私自身にもその批判の矢が向いているのである。

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その後......

以上の原稿を送った後でこの映画の歌の担当者の1人に出会い、この映画についていろいろと彼の感想を聞くことができた。私が上のように「物語」の枠組みが弱いと思うと話したところ、インドネシアでもそれを指摘する声があるが、それはガリン・ヌグロホが敢えて狙ったことではないか、と言う。彼によると、この映画で歌の構成を担当したのがスティヨ、シティ、ルディロ役に計3人いて(みな芸大スラカルタ校の先生)、それぞれラーマーヤナの「シンタ焼身」のエピソードの展開に沿って歌詞を書いたのに、編集されたのを見ると、どれも歌詞の順序がかなり入れ替わっていて、驚いたらしい。ちなみに、舞踊のあるシーンで演出した人が、編集されたのを見て「なんでこうなるの?」と思ったらしいから、監督は人々が「物語を欲する」のを裏切りたかったのかも知れない、とも思う。

また、先ほどの歌の担当者は、ラーマーヤナ物語の枠から外れているということについてはヒンズー教の側から反対の声が上がり、それについての論争が新聞に盛んに取り上げられていたとも教えてくれた。そこでインドネシアの新聞を検索してちらっと目を通してみた限りでは、どうやら、インドネシア・ヒンズー教の最高組織(パリサダ)が、ヒンズー教を冒涜しているという風に批判したらしい。

実は私には、この宗教界からの批判というのは全く意外だった。もし「オペラ・ジャワ」がもっとうまくラーマーヤナ物語の枠を生かしてスティヨとシティとルディロの話を作り上げるのに成功したとしても、それがラーマーヤナ物語を冒涜するとは思えない。ラーマーヤナは物語であり、経典ではないはずだ。なぜこの映画にそんなに敏感に反応したのか、調べてみたら面白いかもしれない。

そういうわけで、私がここで取り上げたトピックは、おそらくガリン・ヌグロホが期待するところの批評ではないと思うのだが、映画の周辺も含めて現在のインドネシアなりジャワの有り様が透けて見えてくる映画のように思う。


幾何学と音楽(1)

音を奏でている人は、必ずしも音を記号として奏でているとは限らない。彼・彼女は音のひとつひとつを念念に聴いていく。聴かれた音たちは、記憶の中で再び鳴り響いたり、他の音と重なったり、沈黙の中に浮かびあがったりするだろう。想像力の中で、音たちは必ずしもひとつの直線状を順序良く動いていくわけではない。

音を奏でる人が入り込んでいく空間は、その場その場の音空間と、想像力の中で認知されていく空間との重なり合いの中にある。その場その場の空間では、確かに音は念念に、ある順序で奏でられる。だが、だからといってそれらが必ずしも記号的に順序良く、想像力と記憶の空間に鳴り響いていくという保障はない。それがたとえ中断する音や、切り裂く音などでなくとも。

演奏することと作曲することとは同じことだ、という人は多い。即興することと作曲することとを考えれば、作曲とは時間をかけた即興だという話も何度となく聞く。

けれど、ふつうに作曲という行為を行うとき、人は必ずしも念念に音を聴いているとは限らない。想像力の中で認知されていく音たちの姿を、必ずしもその場その場の音たちと重ね合わせながら、みつめているわけでもない。

なぜならふつうに作曲をするというとき、その前に人はしばしば音の群れのデザインをし、音の群れの全体を幾何学的に透視するからだ。とりわけ西欧近代の作曲では、音を幾何学的に透視してその全体をプログラム化し、見透かすことをする作曲者は、しばしばあらゆるものを一点から見る神のように、音たちの位置を定め、その役割を記号化している。あたかも線遠近法で描く画家のように、聴こえてくる音の役割を割り振り、ある記号的連関として、構成しようとしているのだ。

だが、ひとつの視点、ひとつの記号的連関の体系のみに静止して、音たちをある形に整列させるだけが、作曲のあり方ではない。音は人が出会うものでもある。音に出会うとき、人は近代西欧以来の作曲とは違う姿勢で、音をみつめている。音たちは様々な位相、姿を示しながら、たち現れる。それら音たちと出会う人は、いわば音たちの中に入り込んで、様々な姿形の音を、様々な角度から見つめる。

音との出会いを、いつも体験しているのは、もちろん音を奏でる人だ。とりわけ作曲者によって記号化されてしまった音楽とは、ひとまず別のところで、音を奏でようとする人は、音との出会いの中にある。

とはいえ、こうした音との出会いのかたちで、作曲という行為を考えることも、もちろん可能である。そのとき作曲者は、観察視点を特定しない画家のように、音たちの中に埋もれながら、音と出会い、自らの視点を移動させながら、音の姿を眺める。音たちを記号化して整列させるのではなく、音たちの場に入り込み、様々な姿に見ほれているのだ。音は客体として、記号的連関の中で聴かれるのではなく、生きてゆれ動く空間としてたち現れ、私を埋もれさせている。


feu――翠の虱(24)

三月二十五日、
灰は耀く、
千のもえがらを、
さらに燃やして。


六月十日、
おれおれ詐欺の、
おいらがしれびとのうたで、
けっこう燃えちゃって。


鏡だということに、
気づくまでの時間もまた、
燃えちゃって。


「おれおれ」と言いかけて、
あとのことばを、わす
うし(なう)、なが(れる)――

(失語の研究はつまり、失語すること。おれがすがわらを読み、すがわらを読みながら、ふとわすれる。「志が之(ゆ)く」と思い、何かをうしなう。めぐる日はいたずらだと、みちざねが言う。その父のだったかな、ことばがながれてどうしようもない。父はくるしむ、詩集の一葉一葉。めらめらとめくるページ。燃えてわすれる。)


反システム音楽論断片5

ざわめく空間
聞こえる音を声として聞きなし
そこに音をもって加わる
それは名を持たない 顔を持たない
消えながら現れる地下流
とだえることのない ざわめきの流れのあちこちで
ちがう声の間のずれがひっかかり きわだたせる瞬間
そのきらめきが 織りなす音色の空間に 奥行きを暗示する

世界は世界化するとともに 破片の堆積に変わる
それらの破片に刻まれた記憶にしがみつくこともできず
流れに背を向けて流されていく歴史の天使 ベンヤミン
暗いトンネルを掘り進むペンと その先から滴るインクの描く物語に
ついていく カフカ
この世界の片隅で音を紡いでいても 
世界全体の変化に影響されないではいられない

ふりかえると
歴史が 一つの流れに支配されたように見えたとき
その対流も 姿を見せていた 
というのも よくあること

相反する二つのバランスで 現状維持するよりは
システムがふくれあがって すべてを覆い尽くしたとき
底の砂を巻き込んで引く波に足元をさらわれるような
あるいは 内側が空洞化して崩壊するような対抗する力が
システム自体から生み出されるかのようだ

色とりどりの破片を組み合わせるアラベスク
浜辺で貝殻をひろうように 
一つの音 短いフレーズ 和音 音型を集めて
1ページの紙の上に配置する
それらを駒のようにうごかしながら 
関係をつけていく
プリペアド・ピアノ ケージ

連動するリズムの織物が 自由にうごけるように
余白を残しながら 
周期からはずれた位置から入って 
語りかける 単純な線が 通り抜ける
リズムが急に断ち切られ 
支えをなくした線は しばらく漂ってから
落ちていく マイルス・デイヴィス

メロディーが低音のゆっくりした歩みの上に 安定して乗っていて
その中間にハーモニーが詰まっている
西欧近代の音楽の階級組織をこわして
ハーモニーから外れた低音が身体に直接はたらきかけ
リズムが不規則にからみあい
音が 音階や音符や和音といった構造を指し示す記号ではなく 
すでに演奏された音のサンプルの引用としてあつかわれる
1970年代以来のリミックスやダブ
感情を麻痺させる歌ではなく
図式にはまらない複雑な韻をもって社会批判するラップ
身体をうごかして 制度的な束縛に抵抗するダンス

ここにあるのは 音楽の現在の ひとつの現れ
美学や技術に還元されるのではなく
問いかけである生きた身体と
日常生活から離れないで
しかも実験でありつづける
音楽は 音を操作する技というよりは
音のために空間を設定する行為