2009年11月号 目次
少女の死 | さとうまき |
なにも失われない場所 | くぼたのぞみ |
畑から歩っちゃー(ハルカラアッチャー) | 仲宗根浩 |
メキシコ便り(26) | 金野広美 |
ジャワ舞踊と語り | 冨岡三智 |
ある日のできごと | 大野晋 |
擬態ーー翠の虫籠61 | 藤井貞和 |
アジアのごはん(32)ナム・プリック | 森下ヒバリ |
オトメンと指を差されて(17) | 大久保ゆう |
製本かい摘みましては(55) | 四釜裕子 |
しもた屋之噺(95) | 杉山洋一 |
アマシェ | 高橋悠治 |
少女の死
10月17日、朝の2時30分に携帯電話がなった。一階に電話を置いていたので、とることができず、留守番電話にメッセージが入っていた。イラクのイブヒムからだ。
「サブリーンが亡くなりました」
サブリーンは、2005年に、横紋筋肉腫というガンにかかった。きちんと治療すれば、70%から90%は治るそうである。しかし、サブリーンは、すでに病院に来たときは手遅れになっていた。イブラヒムが、2005年当時、「汚い服を着ている子がいて病院に来るお金もないんだ。支援してあげてほしい」という。すでに、片目を摘出していた。数ヶ月たって、イブラヒムがイラクのこどもたちに絵を描かせたといって何枚かの絵を持ってきてくれた。「なんだこれは!」と言ってしまいたくなるほど爆発している絵がその中にはあった。それが、片目のサブリーンが描いた絵だった。
4年経ち11歳の少女は、15歳になっていた。イブラヒムに頼んで絵をたくさん描いてもらった。猫を飼っていると聞いたら、猫の絵を描いてもらった。ワールドカップではサッカーの絵を描いてもらった。
「マキは、いつも絵を描けっていう」彼女はイブラヒムにこぼしていた。
そんな絵には、「この絵は、マキさんへのプレゼントです。サブリーン」といつも書き込まれていた。
彼女はいつも汚い服を着ていると、イブラヒムが言うものだから、クウェートで何度か洋服を買ってやって、イブラヒムに届けさせたことがあった。最初は、ど派手なピンクのシャツとかだったがおとなっぽくなってくると、銀糸で太陽がぎらぎらしている刺繍の入った黒いアバーヤをあげた。彼女は、つらい手術のたびに、お守りのようにその服を着ていたという。
「みんなが守ってくれているような気がするの」
今年、5月、バスラをたずねることができた。わずか30分くらいであったが、サブリーンがわざわざ太陽の服をきて病院まで来てくれた。この30分は、神がくれた贈り物だった。しかし、その後様態が悪化して残念な結果になってしまった。僕は丁度仕事でバスラに薬を届けなければいけなかったのだが、イブラヒムは、「今、バスラは危険だ。絶対に来るな」という。悲しいかな、お見舞いにもいけなかった。
今、イラクのアルビルというところにいるのだが、イブラヒムがサブリーンの遺品を届けてくれた。「私のことを覚えていてほしいから、死んだらマキにわたして」といったそうだ。イブラヒムがビニール袋から取り出したのは、彼女がつけていた時計、着ていたドレス、頭に巻いていたスカーフ、そしてサングラス! ぬけがらそのものだった。僕はとまどった。こんなのは、普通家族が大切にもっておくのではないのかとも思ったのだが、イブラヒムは「彼女は、孤独だったんだよ。家では、虐待されてたんだ。」というのだ。
うまれてきてつらいことがたくさんあったのだろう。でも天国では、平和に暮らしてほしい。
なにも失われない場所
暮れるにはまだはやい
翡翠色の
記憶のうす闇に手を伸ばし
つかみ
ひきよせようとする
渾身の力こめる指先の
ことばの温もり
埋め込まれた
チップのような
ノスタルジアのかけら
女の口で飛沫をあげる
苛烈なことばたち
灰色の空に
恥ずかしい病のように響く
孤独と
ささやかな笑み
きみの涙は
渇いた赤土にしみて
見えない
五月のオデオン座なんて知らないけれど
十年後の可視光線のなかを
歩いているのよ わたしは
愛するものの束縛から
自由になるため
きみは
なにも失われない土地
を夢みて
雲の潮騒を聞きながら
時のねじれのなかに
とりあえず
旅立ったことにしたの?
ずいぶんじゃないか
畑から歩っちゃー(ハルカラアッチャー)
駐車場に入ると駐車場の大家さんの軽トラックのライトが点いたままだ。大家さんのところに行くと、おばさんが出てきた。ライトが点いていることを伝える。
「あ〜、はるからあっちゃーねぇ、ありがとうねぇ。」
「はる」は畑。あっちゃーは歩くひとやものみたいなもので、その軽トラは大家のおじさんが畑仕事に行くときに使っている軽トラだから「はるからあっちゃー」という呼び方になっているみたいだ。なんか久しぶりに方言の個人的に使う呼び方を聞いておもしろかった。他の方言でもそうだろうがこの微妙なおもしろさというのはそのときの状況もあるし、それを言うほうのキャラクターもあるから、その場にいないとおもしろさはわからないもの。
二度目の台風が近づいたときに、久しぶりにアスファルトの上を水しぶきが走るのを見た。風はかなり強くなっていた。おさまった翌日、車を出そうとドアを開けシートに座る。ドアを閉めようとすると半ドアでちゃんと閉まらない。いつもより強く閉めると、ドアはちゃんと車におさまる。何回かドアを開け閉めする。おかしい。そのまま用事を済ませ家に帰り、奥さんに車のドアのことを話す。「やっぱり。」と言う。前日、子供の部活メンバーを迎えに行った先で、ドアを少し開けたところ突風でドアが尋常じゃないくらい開いた、という。状況をプロレス的に想像すると、ペールワンが猪木に腕ひしぎ逆十字を極められたときぐらいにあらぬ方向に曲がったのだろう(しかし完全に極めているにも関わらずペールワンはギブアップしなかった。特別な間接を持っているらしいけが、その後アームロックを極め猪木はペールワンの肩を外した)。修理屋さんに持っていく。ドアがついている部分が曲がっているらしい。ヒンジも交換しなくてはいけないかもしれないが板金担当が見て判断するが、今日は板金担当が休み。翌日は胃カメラを飲んだあと仕事だから、翌々日の休みの日に持っていくことにした。修理は思ったよりはやく、板金だけで完了した。保険はきかない。修理代は最初のおおまかな見積もりの半分くらいで済んだ。ちょっと近づいただけのちょっとした台風被害。本格的に上陸したら雨はアスファルトから降る。どこから看板が飛んで来るかわからない。一度仕事帰りに車で走っている目の前を大きなブルーシートが横切ったこともある。隣の家の屋上にそのまた隣の家の空の水道タンクが転がったこともある。台風の目に入ったときの静かな時間、五、六年は経験していない。
もう、家の中ではクーラーも必要なくなり、扇風機の出番も少なくなる。海に泳ぎにも行けないまま夜に帰ってきた玄関前、左側の手すりに大きめのゴキブリがとまっている。ちょっと見ていたら飛んでいった。ゴキブリが飛んでいくのを見るのもずいぶんとひさしぶり。
メキシコ便り(26)
中米4国から帰ったあと、今度はベネズエラ、コロンビア、エクアドルと南米の北方に位置する3国を回りました。まずメキシコからベネズエラの首都カラカスへ。飛行機がカラカスに着くのが深夜の0時5分。今までホテルは予約などしたことがなかったのですが、時間が時間ですし、外務省からはカラカスに危険度1の注意喚起がされているので、予約だけはしておこうとメキシコからホテルに電話を入れたのですが、これが大変でした。というのはガイドブックには60ドルと価格が表示されているホテルなのですが、料金をきくとこの国の貨幣単位のボリーバルで380ボリといわれました。ドルに換算してくれるように言うとこれがガイドブックとはまったく異なり3倍くらいの180ドルという額になるのです。おまけにボリーバルも普通のボリーバルとボリーバルフエルテ(下2桁の0をとった数え方)の2種類の言い方があり、そんなことを知らない私は何軒か電話をする内にすっかり混乱してしまい、予約ひとつ満足にできませんでした。
しかし、ちょうどその時、家に来ていた友人がベネズエラに友人がいるということで宿の予約とタクシーの手配を頼んでくれました。しかし、まだ問題がありました。深夜なので両替のための銀行はあいていませんし、タクシー代はドルではだめだというのです。うーん困った。私はドルで払えるものと思い込んでいたのです。そこで丁度、私のメキシコの友人からベネズエラにいる彼女の友人にテキーラを届けるようことずかっていたので、その人に相談しました。するとその彼が深夜にもかかわらずホテルの前で待って両替をしてくれることになり、なんとか無事に入国できそうになりました。やれやれです。もうこれからは少々安くても見知らぬ土地の空港に深夜に着くような便には2度と乗らないようにしなくてはと大いに反省した次第です。
当日、飛行機はきっちり0時5分にカラカスに着き、無事ホテルで1泊。一夜明け、ホテル代381ボリを支払わねばならないのにお金が足りません。カードで払えば日本円で18000円位になってしまいます。なぜならベネズエラは公式には1ドル2.15ボリーバル・フエルテですが、実際はブラックマーケットがあり、1ドル5.6から6.3ボリーバルなのです。
ガイドブックに書いてあったホテル料金は闇レート価格でのドル表示だったのです。しかし、普通の両替商や銀行は旅行者には公式レートでしか両替してくれませんし、あらゆるものの値段はどう考えても闇レート価格が妥当なのです。ここはなんとしても闇レートのボリーバルを手にいれなくてはと思い、彼に闇で両替をしてくれるところはないかと聞いてみました。すると彼は噂だけですが、と断わって、ある中国食材店を教えてくれました。
私はさっそくバスを乗り継いで行ってみました。やっと探し当てたその店は住宅地の奥にありました。若い店員に「店主はいるか」と尋ねると、刺青をした、なにやら怪しげなあんちゃんが「何の用だ」と出てきました。私が「両替をして欲しい」というと、店の奥の暗い倉庫に連れて行かれました。なんだかやくざ映画のワンシーンみたいで少しドキドキしましたが、200ドルを1200ボリに替えてくれました。やったー、これでやっとホテル代が払えます。それにしてもベネズエラは個人旅行者にはあまりにつらすぎる国です。
ここ最近この国の貨幣価値はじりじりと下がり続け、ボリーバル紙幣はだんだん紙切れに近づいています。ドルでは受け取らないといわれていたタクシー運転手は、本当のところはドルで欲しかったみたいでしたし、あるベネズエラ人からも秘かにドルをもっていたら両替して欲しいと声をかけられました。この国では外貨の持ち出しも持ち込みも禁じられているため表だっては決してドルを流通させてはいけないことになっていますが、裏ではしっかりドルが幅を利かせ、その力は増しているようでした。
両替するだけですっかり疲れてしまったその日の夜、夜行バスでマシーソ・グアヤーネス(ギアナ高地)への拠点になるシウダ―・ボリーバルに行こうとバスターミナルに切符を買いにいきました。切符売り場は長蛇の列。82ボリといわれ90ボリ出しておつりをもらおうとすると、売り場の女性はいかにも売ってやっているといった横柄な態度で「おつりは今ないから45分待て」というのです。「えー45分、どういうこと」とびっくりしてしまい、「私が他の人に両替を頼みますから10ボリ返してください」というと、彼女は「それなら今売った切符を返せ」とえらそうに言うのです。客に対しての失礼な態度にすっかり嫌な気分になりながらも、並んでいる客の列に両替をたのみました。するとひとりのおじさんが「いくら足りないの?」と聞いてくれ、「2ボリです」と答えると「これをあげるから使いなさい」とお金をくれました。彼女の態度に頭にきていたのですが、これで少しは気持ちも和らぎ、ありがたくいただきました。それにしてもあの売り場の女性の態度は日本ではちょっと考えられないですよね。
その夜9時に出たバスは翌朝6時にシウダー・ボリーバルに着きました。バスターミナルにある旅行会社でギアナ高地へのツアーを申し込み、その日はゆっくりとこじんまりとした町を歩きまわりました。シウダー・ボリーバルは人口27万人のベネズエラ有数の都市で広大なオリノコ川が流れ、平均気温は30度。人々が川岸でビール缶片手に涼をとっています。私も川風に吹かれながらビール売りのおばさんとぺちゃくちゃと話しこんでしまいました。
次の日、飛行場から5人乗りのセスナ機で1時間半、ギアナ高地への入り口になるカナイマに到着しました。カナイマは人口2500人の小さな村で、いまでも原住民族ペモンが多く住み、道行く人々はみんな挨拶をかわしながら歩いているという、なかなかのどかで平和な感じのする村でした。飛行場には若いガイドが迎えに来ていてそのままジープで船着場に行き、細長いボートに乗り込みました。ここからカラオ川、チュルン川を4時間あまりさかのぼり世界一の落差983メートルのサルト・アンヘル(エンジェル・フォール)を目指すのです。
ギアナ高地の総面積は日本の1.5倍。ここにはこの地だけに生息する食虫植物のヘリアンフォラをはじめ原始の形をとどめた珍しい動植物が多くみられます。いまだに人が足を踏み入れられない前人未踏の場所も多く、「太古の歴史をもつ世界最後の秘境」ということで、日本でもしばしばとりあげられています。地球は最初はひとつの大きな大陸でした。およそ2億5000年前に始まった大陸分裂の際、ギアナ高地はちょうど回転軸のような場所にあたり、移動することなく留まりました。他の大陸は何度も気候変化の影響を受け変形していきましたが、ここはずっと熱帯気候だったため大きな変化を受けず2億数千年前から変わっていないのです。地質は地球上で最古の部類に属する花崗岩でできています。それが2億数千年の歳月の間にやわらかい部分がはぎとられ硬い岩盤だけが残ったため、その姿は垂直に切り立ち、頂上はまるでテーブルのように平らになり、テーブルマウンテンとよばれているのです。
ここには100あまりのテプイ(ペモン人の言葉でテーブルマウンテンのこと)があり、そのなかでもサルト・アンヘルが流れ落ちるアウヤンテプイは広さ700キロ平方メートルにもおよぶ大きなものです。船着場を出たボートは13人のツアー客をのせカラオ川をゆっくり進みます。この川の水の色はまるでコーヒーのようなこげ茶色をしています。これはジャングルに生い茂る植物から出るタンニンが川に流れ込んでいるためです。はじめのうちは広くゆうゆうとした穏やかな流れが、進むにつれて急流になってきました。瀬が多くなり、まるでコーヒーがぐつぐつと沸き立っているかのようです。
ガイドのアントニオは先頭に座り客に、「もう少し右によれ」とか「ボートのへりに手をかけるな」だとか細かく船の重心をとるために指示をだします。真剣な表情のアントニオの細かすぎる指示は、かえって乗客の危機感をつのらせ、だんだん怖くなってきました。彼は大きなごはん杓子のようなオールで右に左にと細長いボートを巧みに操っていきます。大きな岩がたくさんある細い場所を通り過ぎる時など、船がひっくり返りそうで生きた心地がしませんでした。最初はわいわいとにぎやかにしゃべっていたフランス人のおばさんたちも次第に無口になり石のように固まってしまいました。4時間15分をかけ、サルト・アンヘルの近くのラトン島に着きました。ここはキャンプ地なので今夜はハンモックで寝なくてはなりません。ゆらゆら揺れながらすぐ眠れましたが、同じツアー客のイラン人のアレックスのすごすぎるいびきには何度も目がさめてしまいました。
睡眠不足の次の日、朝早くキャンプを出発しサルト・アンヘルをめざしましたが、この登山道が大変でした。ジャングルの中はごろごろ石と大きく根をはった木々の根っことでとても歩きにくく本当に疲れました。しかしあえぎながらも滝にたどりついた時は思わずその特異な滝の姿に目を見張りました。この滝は983メートルもの高さから落ちてくるため途中で水がすべて霧になってしまい滝つぼがありません。上方は雲におおわれた滝なのですが途中からはもやだけががたちこめています。世界最長ということで特に有名なのですが、その姿もとても珍しいものでした。その日は天気もよく最初かかっていた雲もしばらくすると晴れ、はっきりと全景を見ることができ、とうとうたどりつけたのだという感慨でちょっと胸が熱くなりました。
ここの見晴らし台はきちんと整備されたものではなく、大きな斜めになっている岩に登って滝を見るのですが、すぐ下は断崖絶壁。「ここから落ちて死んだ人もいるから気をつけろ」とガイドのアントニオがまたもや脅します。彼はガイドになって1年、決して笑い顔を見せない若者で純粋のペモン人だそうです。「なぜちっとも笑わないの?」と聞くと「僕には責任があります。それにここにくるのは年配の人が多いですし」と答えました。そういえば13人のツアーの中でも若者は3人だけ。そんな中で私が最年長、いつもみんなから遅れる私を彼は気遣ってくれて手をさしのべてくれます。そうか、彼が笑い顔を見せないのは私のせいでもあるのかと、今さらながらですが気がつきました。どうもすみません。
ゆっくり滝を見たあとは下方を流れる川で水泳タイムです。遠くに雄大なテプイを眺めながら、さんさんとふりそそぐ太陽の中、冷たい小さな滝つぼの中での水浴びは最高でした。すっかり体が冷えたあとはまた川を下り、カナイマに戻りました。川の両岸に次々と現れるテプイはまるで大きな航空母艦のようだったり、ブルドックにそっくりだったりと、その形も大きさもさまざまで、いろいろなものに見えてきてとてもおもしろかったです。2億年ものあいだ変わることなく存在し続けているテプイ。威風堂々としたテプイを眺めながら、私は文明の進歩の名のもとに地球を壊し、ゆがめさせてしまっている人間たちをテプイは静かに見つづけながら、どのように思っているだろうかと、ふと考えてしまいました。
ジャワ舞踊と語り
こんなタイトルをつけると、「ラーマーヤナ」とか「マハーバーラタ」を題材にしたジャワ舞踊のお話をするのかと一瞬思われそうだが、ぜんぜん、そうではない。先月予告した「ジャワ舞踊と落語とガムラン」公演の顛末である。自分の公演について自ら語るので、いつものことながら私の自慢と言い訳だらけになるはず。どうか覚悟を決めておつきあいのほどを...。
●落語
ジャワ舞踊の公演を依頼されたとき、全体を貫く大きな物語の中のシーンとして舞踊をはめ込みたいなあと考えた。いくつかの舞踊作品をただ並べるのではなくて、その作品がどんな風なイメージを持つものなのか、全体の中でなんとなく分かるようにしたかったのだ。かといって、1曲ずつ解説してから上演するやり方だと、学校の鑑賞会みたいになってしまう。神社という場所でやるなら、もっと自然にさりげない方法がいい。
「全体を貫く大きな物語」ということで、落語家さんが作ってくれたのが、ジャワを旅する男が、あの世ともこの世ともつかない所にさ迷いこんで繰り広げるお話である。上演したい舞踊作品はすでに決めていたし、2人で3曲の舞踊を出す都合上、上演順序も決まってしまうし着替えの時間も考えないといけないしで、それに合わせてお話を作るのは大変だったと思う。けれど神社という舞台も取りこみ、下げも舞踊にからんでいて、一期一会のお話を作ってくれたなあと感激している。
この落語家:林家染雀さんはほとんど毎年ジャワに行く人なので、それで安心してお話を依嘱(丸投げ?)できたところがある。彼自身のジャワ体験も反映されているから、話の内容にリアルさがある。もちろんお話は落語だし、古典の落語をいくつか下敷きにして作ってくれたので、ばかばかしさ満載の作りものなのだが、虚構というのは実感のリアリティに支えられているからこそ面白いんだなあと感じ入る。
この物語の中に、舞踊曲以外の部分でも、ガムラン音楽がお囃子としてふんだんに挿入された。落語家さんの出すきっかけで入り、しかも通常よりずっと短く演奏しないといけないから、前奏を変えたところもある。音楽だけで聞かせる曲というのは、短いようでも意外に前奏が長いのだ。でも、私が直接感想を聞いたお客さんには、きっかけがあって音楽がパッと入るその間合いの絶妙さが良かったと言ってくれる人が多かった。もっとも、これは彼が上方落語の噺家で、お囃子についていろいろとリクエストがあったからこそできたことで、江戸落語の人と組んだらどうなっていたのか、私には見当もつかない。
通し稽古の時、この公演はワヤン(影絵)のダラン(語り手であり人形遣い)を落語家に変えたみたいなあと、ふと思う。ワヤンの面白さというのも、私にとっては、語り(ジャワ語の意味は分からないけど)と、音楽が語りと溶け合っているところの面白さなのだ。「マハーバーラタ」のお話が、語りも音楽もなくて文学としてだけ読まれていたら、あれほど庶民の間に浸透しなかったんじゃないかと思う。ワヤンでは、物語によって世界が構成される。その世界の中で、物体としての人形が「声」を吹き込まれたことで、キャラクターとして生き始める。そして、そのキャラクターが生身の人間で演じられる面白さが、人間が舞踊を上演する面白さのような気がする。
ワヤンを見て育った人たちがジャワ舞踊を見るような感じで、日本の人がジャワ舞踊を見ようと思ったら、やっぱり語りがいる。舞踊作品が始まる前に、その作品の持つ世界や人物設定がなんとなく分かる公演にしようと思ったら、物語を語る形式にするのがいい。でも朗読だとまだ固い気がするし、解説で聞かされると、知識として頭に入るけれど、体に浸透してくる感じではない。では、なぜ落語なのかと問われたら、それはやっぱり染雀さんがいたから、という他ない。
●オーバーラップ
1曲目のブドヨ、2曲目のガンビョンの舞踊の途中では、染雀さんに語りを挿入してもらった。彼は舞踊は舞踊として見せたいと考えていたので、これは私からのリクエストである。ブドヨでは、ちょうど前半と後半の間で一度座るところと、最後に立ちあがって去っていくところである。ブドヨ(宮廷舞踊)の上演でこんなことをしたら、特に伝統主義者からは絶対に反対意見が噴出すると思う。
私がジャワでブドヨ公演をした時は照明を使って舞台に陰影をつけたのだが、実は賛否両論があって、かなり批判もされた。しかし、伝統舞踊には、その舞踊が生まれた時代の制約というのがある。ブドヨが生まれたときには今のような照明器具がなかったのだ。私自身、バリバリ古典舞踊というのを中心に勉強してきた経験から、振付のこの部分では、ある人物にスポットライトを当てたいのではないかとか、ここは映像だとスローモーションにしたい箇所ではないか、と思ったりすることがある。しかし、過去にそんなテクニックはなかったから、動きの振付で調整するしかなかった、と思うのである。
ブドヨの前半と後半の間のつなぎ(パテタンとよばれる部分)は、明らかに舞踊のテンションが一時解かれて、映像作品だったら一度カメラを引き、オペラ座みたいに立派な劇場での公演だったら、劇場の天井などをちらっとカメラで写すかもしれないところだ。それなら、ちらっとここで語りが入って一瞬現実に引き戻されるような効果があってもいい。しかも、そこに後半の舞踊を見るヒントなどが入っていたりしたら、もっといいかもしれない。曲の最後で踊り手が消えいらないうちに語りが入るのは、エンディング・テーマが始まらないうちにエンドロールが入りかけるようなもの、という感じだろうか。もっともこれは今回の要望であり、次回の公演では「踊り手が見えなくなるまで喋らないでくれ」と要望するかもしれない。
●おうむ返し、二の舞い
私が個人的に一番面白いと思ったのが、3曲目の「ガンビルアノム」の前後。落語の中で「ジャワの王子がえらく思いつめた様子でやってくる」ことが語られて、舞踊が始まる。この曲では恋に舞いあがっている王子のハイな様子が描かれた後、一点して落ち込んだ王子の切ない気持ちが描かれる。曲も、テンポが速くガンガン演奏する曲から、ゆったりした柔らかい感じの曲に変わり、その柔らかい曲に、今回は男性の独唱で歌を入れてもらう。ちなみに、これはジャワ人音楽家のローフィットさんが歌ってくれる。その後王子はまたどこかへ出発して舞踊は終わる。王子が去った後、さきほどのゆったりした曲を、今度は歌なしで、しかもフル編成ではなくてガドン(小編成)で演奏されるのをBGMにして、染雀さんが再度その歌の意味を日本語で語るのである。もっとも真面目な翻訳ではなく、物語に合わせた意訳になっているけれど、これで先ほどジャワ語で歌われた王子の心情がよく分かる。
王子の心情を伝えるには、ローフィットさんの歌を日本語訳するという手もあるけれど、今回、私はその手法を取らなかった。ただ、こんな風にあらためて日本語で語るという染雀さんのアイデアを見ていると、バリの「ガンブ」とかジャワの「ワヤン・トペン」(仮面舞踊劇)などを思い出す。こういう舞踊劇では高貴な人物には必ず道化などがついている。高貴な王、王子や王女は高貴な言葉でしゃべるので、、観客にはその言っていることが分からない。それで日常語でしゃべる女官だとか道化が登場して、高貴な人の言ったことを俗な言葉で言いなおしたり、滑稽に繰り返してやって見せる。ちょうど舞楽の「二の舞い」みたいな感じでもある。今回の「ガンビルアノム」の場合は、別に滑稽に翻案したわけではないけれど、これで「ガンビルアノム」の王子の物語を「腑に落とす」という感じがして良い。染雀さんとしては、その後の下げに向けてお話を構成するのに必要だから、お話のおうむ返しをしたのだと思うが、ジャワの伝統舞踊劇のツボにはまっている。落語でもこの手法はよくやるんだろうか。
●
今回は公演全体ではなくて、語りの部分にだけ注目して公演を振り返ってみた。終わってみたら、なんだか「ガムラン囃子による落語の独演会・ジャワ舞踊付き」みたいになったような気もする...。舞踊だけでなく、舞踊を取り囲む世界を生み出すことができていたら良いのだが...。
ある日のできごと
その日、最初の小編成のモーツアルトが全ての予兆だったのかもしれない。痩身で長身の指揮者はオレグ・カエターニ。かのイゴール・マルケヴィッチの子供とのことだが、紡ぎだすモーツアルトはとてつもなくリリックであった。金曜の久々のコンサートはいかにも古めかしい上野の杜の文化会館。最新の、といってもすでに一回目の改修を迎えたサントリーホールよりも、ずっと古さを感じるコンクリートのホールは響きの面でもいささか癖がある。しかし、その癖にマッチするかのようなプロコフィエフのピアノ・コンチェルトとショスタコビッチのシンフォニーが今晩の癖のあるメインディッシュである。
いや、予兆はすでに会場に入る時点であったのかもしれない。いつもは十数人くらいしか並ぶことのない当日券売り場が長蛇の列。先週の日曜日の同じ指揮者の公演が評判がよかったからかなあ、位にしか考えなかったが、今となったらあのときから始まっていたのかもしれない。いや、もっと考えてみれば、いつもコンサートの最初に、一番最後に出てきて、挨拶をするコンサートマスターがとっとと定位置に座った時点で、何か起きるな!と感じるべきだったか。
リリックなモーツアルトのシンフォニー第29番K.201で少し高揚した後、指揮者とともに登場したのはカティア・スカナヴィというギリシア系のロシア人。なぜ、ギリシアとロシアが関係しているのかよく理解できないが、長いけれども装飾のないスカートが印象的。
東京文化会館の大ホールでピアノを聴く際には、演奏者のタッチによると舞台下からピアノ下面の汚い音がダイレクトに会場に出てきて、おんおんと曇った反響音しかしない(特に前方の席では)困った傾向がある。さて、今回はどうしたものだろうかと思っていると、プロコフィエフの3番のピアノコンチェルトの最初のピアノの音が力強いタッチで、ピンッと出た。どちらかといえば、硬質なインパクトの強いタッチが似合うだろうと思うこのコンチェルトに良くあった音で、なかなかの演奏が硬質な反響をする文化会館に響き渡る。
演奏後、アンコールで演奏したのが、プロコフィエフとは対照的なリリックなショパンのノクターンで、「私はこんな演奏もできるのよ」とスカナヴィさんに切り返された感じがした。後日、あちこちの演奏会の感想を読んでいて「もし自分の知り合いの女の人に、目の前でこんなふうに弾かれたら、一発で恋に落ちます。そういう演奏だった。」という表現をしているのを見かけたが、まさにそんな感じの演奏だった。もちろん、休憩時間にロビーに置かれた彼女のCDが恋に落ちたおじ様たちに求められて、とっとと売れ切れてしまったことは想像に難くない。
休憩後は一転、非常に厳しいショスタコーヴィッチ。交響曲の6番は大作の5番と7番に挟まれた微妙な位置にある曲で、演奏機会こそそれらメジャー曲ほどは多くはないが、学生時代の酔狂で、プロコフィエフとともに全曲聴きこんだ私には非常におなじみのひとつ。譜面台が取り除かれた指揮台から、暗譜で、指揮者が音量、テンポ、キュー出しなどをてきぱきとこなす様子を見ていて、なるほど、これならコンサートマスターの仕事は少ないわなあ。と変なところを感心する。いや、それにしてもおみごとなシンフォニーでした。
ちなみに、この文章が掲載される頃は遠く北の都にいるはずだ。今年三度目、チェコのマエストロ エリシュカの指揮では二度目のスメタナ「わが祖国」を聴きに、札幌・キタラに。さて、どのような演奏を聴かせてくれるのだろうか? 非常にわくわくとしている。
擬態ーー翠の虫籠61
あいの夕べは なにしてあそぼ はりのおめめで あかいふうせん ぱちんとわって ふわふわくもに のぼりたい
あおむしといき さんしょのはっぱ さなぎになって ぼくねえさんの かげになりたい このはになって 眠りたい
(擬態は対象となるあいてから遺伝子を獲得しなければそっくりさんになれないはずである。だよねえ? 揚羽蝶の幼虫はあおむしになる直前に「鳥のうんこ」になる。黒い物体に白くまぶしてある感じが落ちてきた糞〈ふん〉を擬態しているというわけ。うんこの遺伝子をどうやって獲得するのだろう、謎だ。最大の擬態は人類。)
アジアのごはん(32)ナム・プリック
なんとか料理の腕が戻ってきた。
ひと月、ふた月の長さで旅行して、その間ほとんど料理をしないでいると、見事に料理の腕がにぶる。味付けのポイントをはずす。煮方や火の通し方のコツを忘れている。料理の手順がヘンテコ。ということの繰り返しで、なにかぼんやりとした味の料理がもたもたとできあがってしまう。う〜ん、いかん。だから、旅から戻ったばかりのわが家にはあまり遊びに来ないほうがいいとは思う。でも帰ってきたばかりは、新鮮なタイカレーペーストやハーブ、トウガラシや粒コショウ、お茶などいい食材も揃ってはいる。しかし味のぼけた和食を食べさせられる確率のほうがだんぜん高い。一日読書をしないと頭が悪くなる・・という話があるが、料理を毎日しないということの威力もすさまじい。
だからといって、タイを中心としたアジアの旅では、自炊しようという気にはほとんどならない。タイや周辺諸国の料理はとにかくおいしい。現地の料理を食べるためにその国を旅しているようなものなのである。バンコクに行ったら月ぎめで借りるアパートホテルには、流しはあるものの、調理器具もコンロもない。だいたい、バンコクの友人たちのアパートもそうだが、いわゆるタイのアパートには台所というものが付いていないことが多い。
はじめは、なんで台所がないのかふしぎだった。台所は生活の要じゃないの? しかし、アジアの都市部、とくにタイの外食事情はたいへん恵まれている。24時間どこかでなにかが食べられるほか、お持ち帰りの出来る惣菜屋さんもたくさんある。その料理の味のレベルも高いし、安い。中華料理の影響で、野菜料理も多いし、いろいろ味や食材の注文もつけられる。もちろん、ちゃんと自炊している人もいるが、ごはんを炊いて卵だけ焼いて、後のおかずは買って来る・・式の半自炊者が都市部では大半ではないか。働いている人などは、休みの日だけゆっくり料理するが、平日は買ってくるか食べに行く、という人が多い。もちろん、まったく自炊しないという人もたくさんいる。
同じように、自分で料理せず外食や出来合いに頼る食生活でも、日本のコンビニ弁当やコンビニ・スーパー惣菜で構成される食生活と、タイの外食や屋台や店売りの惣菜で構成される食生活は、まさに天国と地獄ほどの差。旅行者にとってもシアワセである。
おいしいアジアの食を日本でも活かすために、アジアの旅から日本に戻るときにはいろいろなスパイスやハーブを買い込んで持ち帰ることになる。ヒバリが必ず持ち帰るのは、生の極辛トウガラシのプリック・キーヌー、タイのレモンのマナオ、そして生のトウガラシを潰したトウガラシ・ペーストの「ナム・プリック」である。トウガラシは日本のものとは味や香りがちがうので、やはりタイ産でないと。
まずはタイの極辛トウガラシ、プリック・キーヌーを輪切りに刻んで魚醤油のナムプラーに漬け「プリック・ナムプラー」を作る。魚醤油のナムプラーは京都でもタイ製のイカ印がすぐに手に入る。1ミリから2ミリぐらいの幅にコトコト刻み、ジャムなどが入っていたビンに三分の一ほど放り込み、上からナムプラーを口まで注げばおしまい。これで辛くて香り豊かな「プリック・ナムプラー(トウガラシ魚醤油)」の出来上がり。炒め物などに大活躍。
プリック・ナムプラー製作の次は、タイのレモンであるマナオ(ほんとうは持ち込みしてはいけません)を使って甘辛酸っぱいタレをつくる。材料はマナオのしぼり汁、ナムプラー、さとう。割合は1:1:0.2〜0.3ぐらい。さとうは三温糖がいい。これは、タイ料理の辛くて酸っぱいサラダ、ヤムの調味料である。タイ人は作り置きしないが、日本ではマナオや味の近いかんきつ類がいつも手に入るわけではないので、わたしは作り置きしておく。水が入らないので、かなり長持ちする。マナオがないときは、すだち、かぼす、ゆず、夏みかんなどを使うといいが、ずいぶん香りが違う。レモンでもいいが、味と香りがきつすぎるので他のかんきつ類も混ぜるといいかも。
このタレは、そのままタイふうサラダのドレッシングにもなるし、オリーブオイルと和えてイタリアンサラダのドレッシングのベースにだってなる。というか、うちのサラダの味のベースは、はっきりいってほとんどこのタレである。まずはサラダの材料にオリーブオイルをかけて混ぜ、それからこのタレをちょっとだけかけて和える。好みでさらにレモン汁をしぼったり、塩や酢を足したり、材料や気分によってアレンジする。
我が家のメインディッシュは、冬は湯どうふ、夏は野菜たっぷりサラダであるので、夏、いや寒くなるまで、ほとんど毎日のように大盛サラダを作る。毎日のように食べるから、味つけも材料も微妙に変える。でも、味のベースにこのタレがあると、おいしさの核心みたいなところがピシッと押さえられていて、実に頼もしい。このタレ、自家製ドレッシングの素、とでも言おうか。タイ好きの出雲のヨネヤマさんがさっきうちに来て昼ごはんを食べて行ったが、タコとアボカドと豆のサラダをたいそうお気に召した様子。「その味のベースはナムプラーなんだよ〜」と教えると「え〜、ぜんぜん気が付かなかった〜」とびっくりしていた。
トウガラシ漬けナムプラーを作り、ヤムのタレを作り、さて次は。タイの市場で買ってきたトウガラシ・ペースト「ナム・プリック」をビンに移し変え、冷蔵庫にしまう。ふう〜、これでしばらくはおいしい食生活が保証されるぞ。ナム・プリックとは、ウエットな状態のトウガラシ加工品のタレやつけ味噌のことであるが、ヒバリの愛用している市場の手作りナム・プリックの成分は、シンプルだ。やや荒めに潰した生トウガラシ、かすかな塩、ニンニクの潰したもの少々。生トウガラシは、プリック・チーファーという種類の、日本の鷹の爪ぐらいの大きさのトウガラシである。プリック・キーヌーほどではないが、やはり辛い。それをすり潰してあるので、これは炒め物などの辛味付けに最適である。ラーメンに入れても最高。しかも、ただ辛いだけでなく荒めにすり潰して塩を加え、おいてあることで微妙に発酵して、じつにウマイ。その場で生トウガラシを潰して料理しても、フレッシュでうまいのだが、このペーストはまたなんともいえないコクがある。
ところで、今回の旅の前に名古屋の友人のタナカ嬢から「あのトウガラシ・ペーストを買って来てえ〜」と懇願された。タナカ嬢は去年タイに一緒に行き、バンコクで市場に寄って、いつもヒバリがひいきにしている店で同じナム・プリックを買って帰ったのである。
「そんなに気に入ったの?」「あれ、激ウマだがね。ほんで、炒め物とかもいいけど、冷やっこに乗せて、醤油をかけて食べたらもう、たまらんのよ」「げっ、あれを冷やっこに!? そ、それは、ちょっと過激な辛さじゃないの?」「いやあ、辛いけど、もう麻薬的なうまさっすよ。もう、残りがないの。あれがないと生きていけない。大変だろうけど、お願い買って来てっ」「わ、わかった・・」
こうして、今回はいつもの2倍の量のナム・プリックをカバンに入れて帰国することになったわけだが、それを渡したときのタナカ嬢の喜びようといったら。で、その冷やっこのナム・プリック乗せの味だが、じつはまだ試していない。もし、試してみて激ウマだったときには、わが家での消費量が2倍に増え次回からタイであのトウガラシ・ペーストをこれまでの3倍ぐらい買うことになるのかと思うと、二の足を踏む。
日本の空港から家に戻る途中、ニンニクの香りがもれ出して、帰りのバスの中で肩身がせまいのだ。けっこう水っぽいし、袋が破れたらカバンの中は大惨事。今でさえ、料理にはこれがないとだめなのに、さらに消費量が増えるとなると・・でも、おいしいんだろうなあ・・やっぱり、あんなに喜んでたし・・うう、どうしよう・・。
オトメンと指を差されて(17)
主夫になりたい、という願望はあったりします。といっても楽したいというわけではなくして、そっちの方が性に合ってて、社会的にももっとお役に立てるかな、などと考えるわけでして。
朝起きて、お弁当と朝食を作って、午前中にだいたいの家事を済ませて、午後は自分の趣味やら翻訳に時間を費やして、夜のディナーが終われば早々に寝る。......なんていうふうな生活がありえるとするなら、おそらく洗濯以外のほとんどが(私にとっての)創造的になるという何という素晴らしい生活!
あれ? 今のひとり暮らしと大差ないかも。
とはいえ、結婚するとしてもあまり相手には依存したくないなあ(&依存されたくないなあ)、と思う今時の若者でもあるわけで。伝統的な〈結婚〉というより〈パートナーシップ〉のイメージですね。
主夫になるについて相手に求めることと言えば、住む家を提供してくれることと、食費等の家事費用を負担してくれることくらいで、自分の衣類やら楽しみやら贅沢費については自分で稼ぐから、ふたりで暮らす分には特に家計をひとつにする必要性を感じないというか何というか。
......なんて言うと、「それは主夫というより家政夫だよ!」と突っ込まれてしまうのですが、確かにそうかも。でも相手が誰でもいいわけじゃないし、利害関係だけで結びつく気もさらさらないんですが。
今のところは妄想止まりですけどね。若いうちはまだまだ結婚しそうにもないので(そんな気配もなければお話もないですし)、人並みに(オトメンとして)そういう生活への幻想を抱いてしまう微笑ましい話として流していただけると幸いです。
欲がないよね、ともよく言われるのですが、おいしいご飯とあたたかいお布団とお風呂があれば、欲望としてはほぼ満足しちゃうんです。あとは古い本を図書館から借りてきたりなどして、古い映画を見られればそれでよくて。
あとは何かしら生きるためのお金があれば、あとの時間もお金も能力も、できるだけ公共的なことに使う。クリエイティブコモンズでの翻訳でもいいし、青空文庫でもいいし、〈公共事業わたし〉みたいな感じで。
そういうことに専念するには、主夫生活がいちばんうまく行くのかな、と思うわけです。
......実際に今やってることとは、まったく違うんですが。社会人として働きづめ、研究者として調べづめ、というやつで、現実問題としては、人生をセミリタイアでもしないとそういう生活は無理なのでしょう。
〈寿引退〉?
文筆業や研究職にそういうのがあるのかどうかはわかりませんが、そんなものかもしれません。専業主婦が一般的だった時代には寿退社がありえたのですから、オトメンも主夫になるときには、そういうことがありえるのかもしれません。
正直のところ、オトメンが増えてきたことによって、これからどんなことが起こるのか、どんな問題が生じてくるのか、っていうところで、わからないところがあるんですよね。予想としては、こと〈ビジネスの世界〉においては、これまで女性が社会進出で感じてきたことを、男性が再び繰り返して経験していくんではないかと、そんなふうには思うんですが。
結婚と引退のこともそうですし、育児休暇とか、職場でのセクハラとか、男性であるがゆえに〈余計〉に理解されがたいという障害が出てくるものと考えることができます。
とりわけセクハラに関しては、若いオトメンはすでに学校や入り立ての職場で体験済みなのではないでしょうか。たとえば、男だから卑猥なトークは好きなはずだろという思い込み、男だから結局は狼なんだろという視線――それはオトメンが思わずため息をつく、耐えられないことのひとつでもあります。
今の時代、学校や職場では、たいていセクハラに対しての対処法などの講習会・講演会などが開かれるわけですが、そこへオトメンが参加するのはまだまだ厳しいものがあります。だいたいの参加者は女性の方ばかりですし、男がそこにいるというだけで厳しい目を向けてくる(色眼鏡で見る)参加者も少なくありません。
そうすると違和感のひとつでも抱きたくなるものです。ここはセクハラの問題を考える場なんですよね? ただ単に男が嫌いだと愚痴を言う場ではないんですよね? などというふうに。
オトメンがよく生きていくためには、男性という立場からこれまで女性の問題であったことに直面していかなければならないように感じています。そしてそれは、想像以上にきびしくてつらい道です。
『オトメン(乙男)』のTVドラマが放送されたことによって、もちろん認知度は上がって、これまでより理解されるようになるかとは思いますが、社会に受け入れられる存在となるには、まだまだ時間がかかるでしょう。社会にとっての異物はまず恐れられ、そのあと笑われ、そのどちらもが尽くされ飽きられて(慣れられて)はじめて、溶け込むことができるものです。
TVドラマは総じて楽しいコメディで、私もとても大好きですが、放送が終わるにあたってちょっと真面目なお話をしてみるのでした。
製本かい摘みましては(55)
間村俊一さんによる堀江敏幸さんの『正弦曲線』(中央公論社)の装幀がいい。12ミリくらいの薄い本で淡いクリーム色の函付き、函と表紙には恩地孝四郎の「ライチー・一枝」から輪郭を得て箔押しされており、函の底にもタイトルが記されてある。表紙はがんだれ、溝に筋つけされており、紙が柔らかいので片手で持ってもよくしなり、いわゆる「五点支え法」(*)でも読むことができる。本文天は新潮文庫のように不揃いで、本文の組は地の余白が大きくとられてゆったりしている。見返しは黒。堀江さんはサインするとき、銀色のペンでここに書くのだろうか。
月刊誌「ラジオ深夜便」の関連で『母を語る』(NHKサービスセンター刊)というムック誌を担当した。軽くて開きやすくて読みやすいかたちにするために、デザイナーの丹羽朋子さんと大日本印刷と編集部で装幀についての検討を重ねた。横になって読むのにもさわりなく、鞄に入れて持ち歩くにも邪魔にならず......「ラジオ深夜便」の読者の声から具体的な読み手の状況をさまざま知らされていたので、目指すところははっきりしていた。結果、210mm×138mmで144ページ、PUR糊であじろ並製、表紙は柔らかく、本文紙はややグレイ、本文は小塚明朝14.5Qでゆったり組んだ。表紙は淡い布地柄で、表1表2表3表4が共柄なので風呂敷で包まれたような印象である。もちろん、「五点支え法」でも読むことができる。
〈ラジオ深夜便〉はNHKの深夜のラジオ番組で、聞く人の眠りを妨げないことを第一義に毎晩放送されている。「母を語る」はそのなかで、アナウンサーの遠藤ふき子さんが企画交渉聞き手収録編集すべてを担い、1995年から月に一度の放送を続けている長寿コーナーだ。書籍化されるのはこれで3冊目。〈ラジオ深夜便〉は、一人暮らしで、眠りにつくまで、あるいは早くに目覚めて日が昇るまで聞いている人が多くいる。また雑誌の編集部には、本屋に行くにはバスを乗り継いでいかねばならない人からの便りもある。そうした状況を想像はできていても、一人一人の文字を読むほどに「想像」の甘さと強さを感じるばかりだ。今年もこれから寒くなる。遠藤さんの声を思い出しながら、夕暮れどきに木製の机の上から『母を語る』をひき寄せてページをめくったり、ちょっとしたおしゃべりの話題になったらと願っている。
*「五点支え法」 本を片手で持ちながらめくる様子で、xixiang(越膳夕香)のブックカバーにbookbar4(わたし)が指の位置を刺繍して本の"柔軟性測定実験"をしたときに述べたもの。
しもた屋之噺(95)
「不況バンザイ!」と言われたら、君は何と答えますか?
明後日、イタリア国営放送3チャンネルの来年放送予定の新番組、現在の不況を明るく乗り越えるコツ「不況バンザイ!」のインタビューのため、テレビのクルーが拙宅へやってくるとかで、急遽居間の掃除に精を出しました。質問事項がいくつか送られてきたのですが、最初の質問がこれです。一体どう答えたものか。何でも、ミラノに住んでいる指揮者や作曲家に話を聞きたいということで、一人の生徒さんを通して、お鉢が回ってきたわけですが、実は今月は珍しくこの手の話が次々と舞い込み、困り果てていました。
神仏習合から非核三原則、政教分離など、中学生のための日本文化紹介の電話インタビューやら、ミラノ・ムジカ演奏会の宣伝のためのFMラジオ生放送のインタビューなど、やるたびに落ち込むのでもう引き受けまいと心に誓っていたのに、生徒さんから、折角だしぜひ、と頼み込まれると、結局今回も彼の好意もむげにできず、結局終わってから大いに後悔するのは目に見えているのです。来月末のボローニャ・テアトロ・コムナーレの演奏会でも、本番直前にコンフェレンスがあって、出席するだけでも辛いのに、何か話さなければならないと聞いて、今から脅えています。
今月は初めにミラノでロンバルディア州立オーケストラ「ポメリッジ・ムジカーリ」と武満徹、田中カレンなど邦人作家のほか、マンカ、ジェンティルッチなどイタリア人作家があって、最後は「牧神の午後」という不思議なプログラムでした。日本から帰ってきたばかりだったので、イタリアが懐かしいというか、目が飛び出るほど驚くというか。練習が始まる段になって、楽譜を読んでないどころか、誰がどのパートを弾くやら弾かないやら、まだがやがややっているだけでなく、特に編成や並びが変則的だったせいもあって、何処かへ行って帰ってこないステージマネージャーが椅子と譜面台を動かさない限り自分はここから動かないと始まり、少ない練習時間を無駄にできないので、それなら動かしてあげるから、と宥めると、「マエストロ、それはいけません。ともかく連中はまともに仕事をしない。これは前々から我々の間で大いに問題になっておりましてね」。でも、そうやって頑張っている限り、君も仕事をしないことになってしまう、と口が滑りそうになるのをこらえて待っていて、喫茶店から悠々と帰ってきたステージマネージャー陣が漸く椅子と譜面台をセットし、演奏者が席に着いたと思いきや、今度は、自分のパート譜が譜面台に載っていない、わたしのパート譜セットをどこにやったのよ、などと始まり、なかなか音が出るまでに至りません。
それでも練習が始まれば、没頭してどこまでもぐいぐいついてきてくれるので、あれだけ短い練習で互いに何とかしてしまうわけです。それが善か悪かは別として、無理やりでも何とかしてしまう、何とかなる、という意味において、イタリア人は天才的な才能を発揮しますし、学ぶところも少なからずあるように思います。
「地平線のドーリア」をミラノで演奏しながら、子供のころに上野の文化会館でこの曲を聴いて、遠くからへろへろの音響のつむぎ出す不思議な空間を心地よく眺めていたのを思い出し、胸が熱くなりました。途中のヴィブラートのフレーズの歌い方など、芯の奥がたぎるようなところがあって、イタリア人の「地平線」もなかなか味わい深いものでした。
中旬には、一年ぶりにお会いした今井信子さんや吉野直子さんがミラノで武満さんなどを演奏されたので楽しみに出かけたのですが、本当に豊かな音楽とそれを待ちに待っていた溢れんばかりの聴衆の熱気で、本当にすばらしい一晩となりました。それだけでなく、吉野さんご夫婦と近所のプーリア料理にでかけたり、今井さんやみなさんと応対のいかがわしいシチリア料理屋でオーナーに追い払われたり、揃って黒服に身を包んだファッション業界人のパーティと隣合せで、カブール広場の眺望の良いレストランで遅い夕飯をいただいたりと、すっかり愉快なひと時を過ごしました。
同じミラノ・ムジカ音楽祭の一環ですが、すぐれたヴァイブラフォン奏者で、特にジャズを得意とするアンドレア・ドゥルベッコが、先日武満さんのために書いた小さなオマージュを演奏してくれたので、子供が熱を出し、すわ豚インフルエンザかと慌てふためきながら本番直前に駆けつけると、会場のピッコロ・テアトロ・スタジオは観客が入りきれずに目の前でくじ引きをしているではありませんか。現代音楽の演奏会など元気がないものだと思っていたもので、それは驚きましたし、自分も入ることすら出来ないかと肝を冷やしました。演奏会後も、挨拶もそこそこに慌てて家に飛んで帰ってしまい、なんとも申し訳ないことになってしまったのですが。
ちょうどそのころ家人が10日ほど日本に戻っていたので、来年春に75歳になる母が子供の面倒をみに手伝いに来てくれました。さんざん世話になったお礼を兼ねて、日帰りでヴェニスに連れてゆくと、サンマルコ広場はどっぷりと水に浸かっていて、満潮と重なり、ひどい所では30センチ近い深さになっていたかもしれません。こんな風景は11月くらいかと思っていたので、困りましたが、それはそれで不思議な美しさがありました。何しろ普段は人いきれの広場ががらんどうなのですから、落ち着きを取り戻していて、ひたひたとまるで目の前の海と一つに繋がってしまったかのようでした。
やる気のまるでない土産物屋の妙齢から、ビニールを張り合わせただけの簡易長靴を一足10ユーロで買わなければ、細い路地などたちまち運河の水で膝下まで冠水していたりして、到底歩けるものではありませんでしたが、それはそれで母親にとっては愉快なヴェニス小旅行の思い出となったようです。
無数の溢れかえる路地をやり過ごし、何とかアカデミア橋を超えてサンバルナバ広場脇の食堂に必死にたどり着いたときは本当に安堵しました。友人が是非にと奨めてくれただけあって、どれもがそれは美味しかったこと!鳥肌が立つほどのシャコのパスタや、飛びきり新鮮なカレイのグリルなど、感激を言葉では到底書けないほどです。窓際の席で、ロンガ通りの細い辻をゆきかう人を眺めていると、冠水ヴェニスならではの妙齢の長靴のお洒落と、両腕いっぱいに長靴を抱え、靴屋に卸に行くとおぼしき女性が目立ちました。
そんな毎日のなか、生徒のひとりがトリエステのコンクールのヴィデオ審査に通ったということで、時間を見つけては、何度となくミラノの中央にある彼の家にでかけ、ピアノ合わせに付合いました。彼の母方の曽祖父はトリエステの劇場支配人も務めた高名なヴァイオリンニストで、高祖父と言うのでしょうか、祖父の祖父は、ウィーンで学んだ19世紀の重要な画家で、家中いたるところ、トイレに至るまで彼の絵が飾ってあります。非常に裕福で芸術的薫り高い家庭で、まるで映画に出てくるような佇まいと言えば、間違いのないところです。典型的なユダヤ人家庭の芸術家、富豪のイメージを体言しているわけですが、最後の練習が終わり、ピアニストと一息つきながらふとイタリアの歴史に話が及んだときのことです。
「三国同盟の印象が強い日本人からみると、イタリアが戦勝国扱いなのは不思議でさ」。
「ムッソリーニも20年代、ヒットラーと繋がるまでは農業政策やら高速道路建設など、外国からも評価が高かったと読んだことがあるけれど、実際の所はどうだったのかね」。
すると、それまで落着いて話していた彼が少し興奮して、こう話してくれました。
「その歴史は捏造に違いないんだ。実際ムッソリーニは当初から自分とそりが合わない人間を悉く排除していたからね。戦時中、うちの家族もずいぶん酷い目にあった話を何度も聞いた」。
「親戚の誰はどこに逃げて、誰にかくまってもらって、と色々とあったそうでね。あちらこちらに散らばっていったんだ。そんな中、SSに追い掛け回されてガルダ湖の上にあるほんの小さな街に逃げ延びた親戚がいた。もう死んでしまった年老いた父の叔父にあたったかな。匿ってくれていた、正にその家の主人が密告してね。逮捕されアウシュヴィッツに送られ、そこで死んだんだ」。
「長い間、父だけがその密告者の名前を知っていてね。他は皆年齢的にももう亡くなっていたからね。皆で父に何度となく密告者の名前を教えろと詰め寄ったんだけれど、頑として死ぬまで一度たりとも話してくれなかった。彼の名前を言ってどうなるものでもないだろう。彼は今では彼の家族もいるだろうし、そういう時代だったのさ。今さらこれ以上いがみ合ってどうしようと言うんだ。つるし上げたところで何になるわけでもないだろう、ってね」。
「そんな父のことを、つくづく偉いと思う」。
すっかり長くなってしまって。家まで送ってゆくから、と外に出ると、辺りはもうすっかり日も暮れて、ミラノの秋らしい深い闇に包まれていました。
アマシェ
マリアン・アマシェが亡くなった(2009年10月22日)と聞いて、1992年徳島21世紀館のあの30日間を思い出す。彼女は大きな展示室とつながった石の廊下のための音楽を創りに来た。最初の3日間はスピーカーを置く場所を決めるだけに過ぎた。数多くのスピーカーを使って多チャンネル音響空間をつくる普通のやりかたとはまるでちがっていた。凹凸を付けた床面に少数のスピーカーを壁や天井に向けて不規則に置き、空間に音を放射するよりは、建築そのものが振動するようなやりかたで、ひとは音と向き合うのではなく、音のなかに入り込み、内部からそれを体験する。固体振動は空気振動に比べて数倍の伝達力がある。彼女は録音された音素材を、持参した使い込まれた古い小さなアンプを通してそれらのスピーカーに出してみる。そのテストにまた数日かかった。ほとんど眠らず、1日20時間もひとりではたらいていた。
普通のメロディー、短いフレーズが劇のキャラクターとなって動き出し、それ自体の物語を語りだす。クローズアップ画面の内側にいるように、音は耳のそばにいたと思うと、内側に入り込み、鼻先を旋回し、目の前を通り過ぎる。遠くから羽虫のように飛んで来てまつわりつき、どちらを向いても振り払えない音もいる。雨のように降りかかり、眼に見えるかのように3次元の姿かたちを刻々に変えてゆく。それらは2つの部屋のあちこちに出没する音の人物たちだった。聞こえる音だけでなく、それに呼応して聴覚神経が作り出す内耳音響放射(otoacoustic)と呼ばれる生理現象によって頭の中で自発的に生まれるパターンで、電子音の冷たさはなく、自然音や楽器の音のような外部の音でもない、どんな音と形容することさえできない、視覚と触覚のあいだのような感触があたたかい流れのように身体を通り抜けてゆく。
彼女の指はアンプの上をうごきまわり、全身が揺れてほとんど踊りながら、1時間ほどのドラマをその場で創りだしてゆく。それは後にも先にもない、記録も再現もできない幻覚だった。TzadicからCDは出ているが糸の切れた人形のようにさびしい。夢を紡いだ操りの繊細な指、人形遣いは去った。