2010年3月号 目次
犬狼詩集
1
ただ待っていれば言葉はやってくるのだから
むしろ避けることだ、群衆的に到来する語句を
それは過去からの思慮のない石つぶて
創造に無用な軋みをもたらすだけ
われわれが手持ちの語彙で語る世界なんて
結局この世界に鳩の卵のように似てしまう
そうじゃない、近代語を捨てて
境界に安心する各国語を離れて
不自然きわまりない語法と用語を開発するべきなんだ
そうすれば知らなかった地帯が見えてくる
知らなかった色彩の悲哀がしだいにわかってくる
ありえなかった知識が生じる
「アリゾナには熱帯雨林がない」ことや
「アマゾナスは砂漠ではない」ことを学ぶ日がくる
それでもすべての雨林に必ず砂漠がひそみ
すべての砂漠に必ず雨林が横たわることもわかる
2
卓上の噴水という思考がかつてあった
高地プロヴァンスの山間の村の夏のひとときが
私のテーブルにも影を落とした
愛らしい人魚が何度も
噴水に乗って空中に踊り出る
両腕を大きくひろげ頬笑みながらsplash!
また深い水へと戻ってゆくのだ
なぜすべての水は執拗に連続しているのか
これくらい連続性を保証してくれるものはない
Aquí sin donde(どこでもないここ)が
時間のないあの村の広場にまっすぐつながる
南海の深みにも
冷たい水の地図にも
すべてのおなじ分子をかきわけるようにして
彼女は果敢に泳いでゆくだろう
人魚、sirenita、水そのものである人魚
トイレット・ボウルにおける挫折
天窓の斜めのガラスに積もる雪
かなえられなかった夢のように
先にのばされた期待のように。
洗面台の三面鏡が
今朝も彼女に語ること
この胸の奥深く
いつのまに抱えたのか
夢の実現という主題。
挫折の大きさに正しく比例して
微笑の魅力は深まった。
野に暮れる
しろつめくさを
花輪にあんで
首にかけたら
山羊が食べた
あかつめくさの
蜜を吸うため
花をさがして
畦道いったら
日が暮れて
あれが幼年期
あれが少女時代
そんなこと
ひとり野に暮らす子は
知らない 知らない
都会のことば
ホワイトクローバーが
しろつめくさ
っていうのも
教科書で
あとから知った
ちしき
まっすぐに
なんでもいうのは
野暮だって
大人になって
ずいぶんしてから
身にしみた?
ゆきがとけたら
うすい
みどり野に出て
歩こうか
はるかな人と
野に暮れて
幸徳某......――翠の黒枠65
いまの裁判は、
畜生道だと、
青木が言う。
近ごろ 一部で、
陪審制度論が、
起こってる。
高津暢は、
愛におぼれながら、
俺は畜生道だと。
つまらぬことを、
思い出したもんだと、
高津。
「逆徒」を弁護して、
何の益があったか。
いまの俺には、
誄詞〈るいし〉が似合いだ。
(『万朝報』は非戦論から主戦論へと、日本ロシア戦争のさなか、意見を変える。変えたあとは国家権力の犬となる。黒枠事件はちょうど幸徳裁判のとき。入営するパンの会のなかまの送別会に、黒枠をつけたのが高村光太郎。『万朝報』の記者がめっけて、「陛下の赤子〈せきし〉として入営する者に弔意とは非国民」と書くね。翌年2月のパンの会の案内状には、『万朝報』を指弾して、「遊楽」の権利を対置する。「芸術的たらしむるがまた吾人の主張の一分にこれ有り候(─そろ)」と。この案内状は12名の処刑直後に書かれたろう、と野田宇太郎は推測している。弁護士平出修の担当は崎久保誓一および高木顕明を弁護すること。ほか弁護人が17、8名、みな「国民」の囂々たる非難を受けながらであった。平出はその後、小説「未定稿」(明治44・5)を書き、「畜生道」(大正元・9)を書く。後者は主人公である弁護士高津暢が、裁判ののち廃人のようになり、年若い女性との愛におぼれて行く物語。)
オトメンと指を差されて(21)
姐御肌だ、なんて言われると内心複雑なところがあります。言いたいことはよくわかりまして、確かに相談事にもよく乗りますし、聞き役になることが多くて、最終的には相手の尻をはたいたり発破を掛けたり、そういうことになりがちなわけですが。
兄貴肌は有無を言わせず引っ張っていくような感じで、姐御肌は一回受け止めてから前に蹴り出して進ませる、という区別をすると、オトメンだからこそ後者の役割になるのかもしれません。そういう立場を引き受ける人が少なくなってきている、というのもありそうですね。
それはともかく、人の話を聞く生活のなかで、ふと気づいたことがありまして。
――「愚痴って大人しか言わないんだな」と。
新解さんに意味を尋ねてみると、「ぐち【愚痴】言ってもどうしようもないことをくどくど言うこと。」と書かれているわけですが、おのれの無力さとか、現実の厳しさとか、理解し合えない人間関係とか、そういうことを漏らすのは、大人であることのひとつの証左なのかな、と思わないでもありません。
たとえば〈周囲の大人がかつて子どもであったことを忘れている有様を嘆く〉と言った愚痴は、まるで自分がまだ子どもであるかのように、子どもであることを忘れていないかのように擬装していますが、それが愚痴である時点で、その当人も〈大人〉ですよね、と考えてみたり。
じゃあ子どもはどういうことをしゃべるのか、という話にもなりますが、ちょっとだけ(精神)年齢が下がって思春期あたりになると、〈文句を言う〉という形になるような気がします。
不平・不満・いらいら・反抗・非難――それは〈どうしようもない〉という含みを持つ愚痴とはどこか違って、〈わからない〉という焦燥の方が強いのかもしれません。敵対的とでも言いましょうか。愚痴はエネルギーが内側へ蓄積してますが、この場合はむしろ外側へとんがって直線的に出ていて、鋭い。もちろんジグザクしているときもありますが。
ふたりで話しているときに人の口から出る言葉......というのは、精神年齢がものすごくありありと出るものかもしれません。ちなみに思春期も反抗期も来ていない幼児、と言ったらいいんでしょうか、幼児的感覚に基づいたとき、でもいいんですが、そういった方々(場合)は、〈自分が楽しかったこと〉をしゃべります。
今日あった面白い出来事、週末の感想、嬉しかったこと、今感じている幸せを、それはもう、ものすごい勢いで話し続けて、最終的には当人の息が切れてしまうくらいで。聞いたあとこちらがかけるのは、もちろん祝福の言葉。
成長してしまったあとは惚気話なんていうのもこのカテゴリに入ると思うのですが、小さな頃は学校での話とか、幼稚園でのエピソードとかになるでしょうか。見た目が大人になってからでも、たとえば職場や仕事のことでこの類の話ができる人は、純粋に感動してしまいます。そういう人こそ、子どもの心を持った人なんだろうな、と。
私個人はどうかと言うと、基本的には聞くだけで。肯きと笑顔と、時には聞き流しと、相手が言われたいと思っている言葉......あるいは相手の考えている(けど言えない)ことを鏡のように返してみたり。または客観的な論理の代わりをしてみてもいいかもしれません。
だいたい小学校高学年の頃からこんなだった、という自覚と記憶があります。言葉にしてもそのまま受けとるのではなくして、言った人の立場や考え方を考慮した上で、その外見と中身に分解して分析して、あらゆる方面からの検証とコメントを心のなかで繰り返しつつ、微笑みながら相づちを打って。
わかるから、あえて質問はと言われても困りますし、調子のいいときは相手が何かを言う前から何を言うかがわかることもありますから、反応が悪いなどと言われて(あるいは自分の感情や思考を盗まれたかのように感じられて)、自尊心や自我の強すぎる人からは嫌われがちではあるんですけどね。
ああ、でもだから、姐御肌なのかもしれません。「どうでもいいから俺についてこい」が兄貴肌で、「わかってるから前に進みなよ」が姐御肌、だとするのなら、ですけれど。相手の不安を吹き飛ばすものと、相手を安心させるもの、ってことでしょうか。
しかしまあ、兄貴・姐御と性別でカテゴリ分けするのは、ジェンダー論としては安易すぎるものですよね。後者を〈母性〉を呼んでしまうとさらに語弊が出てくるわけで。(そういうものは、男だって持っているわけですから、ね。冒頭の内心複雑の原因は、こういう点にあります。)
オトメンとしては、こういう固定化されたある種のジェンダーを攪乱し続ける存在でありたいものです。
しもた屋之噺(99)
一昨日からにわかに寒さが緩んだと思うと、急に鼻がむずがゆくなってきました。この季節に日本にいるのも珍しく、花粉アレルギーも、はじめの1分くらいは懐かしささえ覚えるほどでした。今月は望月みさとちゃんのオペラの下稽古に連日通いつつ、朝晩机にむかう単身赴任生活でしたが、数日前に家人と息子が一時帰国して、いつもの慌しい日常生活に戻りました。
96歳になる祖母の様子が気にかかっていて、1月末に帰国早々、湯河原の叔父宅に顔を出しました。タクシーを降り、自転車がようやく通れるほど細い辻を一本はいると、子どものころから見慣れた庭と家があります。その昔、亡くなった祖父が庭を丁寧に手入れして、毎朝池の鯉に餌やりをしていたのが、叔父に替わった程度の印象で、子どもたちが隠れん坊をした居間の掘りごたつも当時のままですが、部屋の至るところに飾られた姪や甥の写真や絵、手紙などが、華やぎを添えます。
そんななかで、息子と同じ5歳の姪を連れて実家に寄っていた従弟と話をしつつ、祖母がデイサービスから戻るのを待っていました。週に3日通うデイサービスは、食事のみならず、温泉で気持ちよく入浴できるので、祖母の痴呆が今ほど進むから定期的に通っているものです。車が止まる音がして、叔母が、「ああ、おばあちゃんが帰ってきたわよ」と言って玄関にでてゆき暫くすると、前かがみで倒れそうになりながら、叔母と明るい介護の女性に支えられ、覚束ない足取りで祖母が家に戻ってきました。
「杉山さん、お孫さんが会いにきてくれたよ」
「うん」
「よかったねえ」
「うん」
イタリアに住んで、そう度々会うこともないながら、最近、祖母がどこか子どものようなあどけない表情を見せるのに気がついていましたが、半年ぶりに会うと祖母は、以前よりその印象がずっと強くなっていて、頷く姿も、傍らで眺める5歳の姪にそっくりに思われました。半年前はまだ徘徊していて、その上すぐに倒れるために、身体中青あざだらけだったのが、今や寝たきりの生活に於いて、怪我の心配は殆どなくなり、思いがけなくすっきりした顔を、こちらにもたげるのでした。暫くこちらをじっと眺めては、顔を子どものようにくしゃくしゃにして、「何が何だか、わかりません」。ユーモラスで可愛らしい声で、繰り返します。
半年前に会った時は、このイタリアから訪問客を、或いは分かっていたのかも知れません。が、今は最早、ほぼ乳白色の記憶に浮かびあがる浮島の中、すこぶる元気に暮らしているに過ぎません。ずっと面倒をみている叔父たちの苦労は察するに余りありますけれども、96年間の長きにわたり病気もせずにここまで来て、頭の自動フォーマットスイッチが入って、もうすぐそれも恙なく完成する姿を見ていて、何て幸せな人生だったろうかと感慨深く思います。
「曾おばあちゃんのおてつだいするの」
「こっち、こっち」
まめまめしく姪が祖母の世話を焼いているのを眺めていると、半年前までは、祖母の方が5歳の姪より口も達者だったかも知れませんが、この半年で明らかに二人の言語能力が描く曲線は、見事にクロスしているのが分かります。気の遠くなる昔より、人が連綿と重なり合い、繋がっているのを実感します。
小田原生まれの祖母が、「この度、横浜から嫁いでまいりました。右も左も判りませんので、どうぞ宜しくお願い申しとうございます」。
時代劇の残照なのか、何故ゆえこんなマドロッコシイ言葉を話すのか不明ですが、こんな按配でひょうひょうと話すさまは、愛嬌にあふれています。そうして、皆が他の部屋に下がって部屋に一人になると、祖母は一人で演説を始めるのです。何を話しているのかと別室で耳を澄ますと、途端にやめてしまう。こちらが諦めると、すぐに淀みない演説を再開します。まるでテレビリモコンの遠隔操作そのままで、不思議な光景でした。呆けは悲しいことですが、この96歳の祖母に関して言えば、自分でも意外なほど幸せな印象を持ちました。
この一ヶ月間の単身生活中のほぼ毎日、ミラノで暮らす息子に、イタリア語と日本語でメッセージを書いていました。この3月で5歳になる息子は平仮名、カタカナに馴れたところで、まあ勉強半分、家族のコミュニケーション半分といったところ。イタリア語はまだ読めなくて、家人が代読していました。不当な裁判で絞首刑になったケン・サロ=ウィワの話など書くこともあって、一体どのように読まれていたのか定かではありませんが、暫くしてイタリア語と日本語で返事が返ってくることもあって、これも母親による聞き書き。
パパ いいてんきですか。さむいですね。
それでもチョコレートくれましたか。
チョコレートをぼくにください。
あなたのぜんぶじゃないよ。
ぼくにもパパにもママにもちょっと
みんなでたべましょう。
特に新鮮だったのは、普段イタリア語でコミュニケーションを取っている息子と、ほぼ初めて、お互い日本語で意志を交換したことで、大体同じ内容をイタリア語と日本語で書いて寄越すのですが、そこには微妙ながら、彼にとっての日本人的社会観、イタリアの幼稚園で学んでいるイタリアの社会観が反映しているのです。
彼にとって現時点での日本語は、まず母親とのコミュニケーション手段のせいか、無意識に自己が強く出てくるのに対して、イタリア語では、より社会的な表現になってエゴが薄められて出てくるのは、恐らく彼が友達との付合いの上で、肌で覚えた表現方法なのでしょう。これでは日本人、イタリア人本来の志向と反対だとも思うのですが、何しろ社会生活の経験が5年未満ですから、今後どう変化するのは全くわかりません。
このところ毎日のようにオペラの稽古で顔を合わせている演出家の粟國さんも、幼少からローマで育って、お父様とはイタリア語、お母様とは日本語の環境で暮らしてきたそうです。それにも関わらず日本語が本当にお上手でびっくりしたのですが、二人だけで話していると何となくイタリア語になってしまうのです。自分が最初に仕事で使い始めた言葉で、仕事上で話すのはイタリア語が今でも一番気楽なこともあるでしょうし、彼の特にうつくしい空間の使い方において常に保たれている左右対称のバランス、情熱的かつ直截的表現ながら、直情的な下品さを極力排除する舞台作りが、イタリアで培われた彼の人生とは切離せないであろうことを、無意識にいつも感じるからでしょうか。
メキシコ便り(29)チリ
エクアドルからメキシコに帰り1週間、今度は再度、チリ、ボリビアと旅するために出発しました。夜11時5分の飛行機でサンチアゴ・デ・チリへ。翌朝8時すぎに着き、ホテルに直行。少し休んだあと、いまではビクトル・ハラ・スタジアムから国立競技場に異動になったルイスに会うためでかけました。当初私はビクトル・ハラはここ国立競技場で死んだものと思い込んでいたので、過去2回のサンチアゴ訪問時に2回も来ているので、慣れた道です。
ルイスは相変わらずのやさしい微笑みで迎えてくれました。1年3ヶ月ぶりの再会です。いろいろたまった話をいっぱいして、彼は国立競技場の中を案内してくれました。やはりここも1973年の軍事クーデターの時に3000人余りが閉じ込められた場所です。今は改装工事中でグランドの中までは入ることができませんでしたが、スタジアムの中には小さな部屋がたくさんあり、ここも刑務所代わりになったと説明してくれました。
通りかかるルイスの友人たちにもひとりひとり私を紹介してくれ、彼の上司の部屋では1時間余りも話しこんでしまいました。そして、チリではどこに行きたいかを尋ねてくれ、私がパブロ・ネルーダの家や、ワインのボデガ(ワイナリー)などに行きたいというとネットでいろいろ調べてくれました。そんなルイスが教えてくれたボデガに予約の電話をいれ翌朝でかけました。
チリワインは日本でも多く輸入されていて、フランスワインなら5000円はするところが1000円くらいで買えます。「この値段でこの味なら結構、結構」というわけでなかなかの人気ですが、その中でも有名なコンチャ・イ・トーロのボデガにいきました。
サンチアゴから27キロ、バスで約1時間かかりました。入り口で7ドルと15ドルの見学コースがあるといわれ、4種類のワインとそれにあったチーズが食べられるという15ドルのコースにしました。でも日本だとお酒の工場見学は試飲をさせてくれて、おまけにタダなのになーと思いながらもお金を払って中に入りました。
社主の大邸宅の庭やブドウ畑、樽によってそれぞれの温度管理がされている倉庫などを見学したあと、ソムリエのサロメさんがワインの味わい方を4種類のワインを飲み比べながら解説してくれました。グラスを傾けたり、回したりしながら色や香りをまず楽しんでから飲むというものですが、今までワインをそんな風に優雅に飲んだことはない私は、それなりにその作法と、チーズをはじめとする料理との相性の話はなかなか繊細な話でおもしろかったのですが、こちらのスーパーで700円位で売られているワインを少し飲むだけで15ドルはやっぱり高いと思ってしまいました。しかし、それにもかかわらずここは予約が必要なほど観光客がひきもきらないのです。
そのあとぶらぶら庭を散歩していると「そこから先へは立ち入り禁止です」と警備員に言われました。そこで彼と少し話をし、ここで飲んだワインや、観光客の多さ、見学費用の高さなどについての感想を言うと、彼は小声で「この会社はあまりに有名になってしまったので、密かに商標を別の会社に売っているのだよ」といいました。そして、「本当に安くておいしいのはね」といって別の会社の銘柄を教えてくれました。ここで働いているにもかかわらず、私のような外国人観光客にこんな話をするなんて、きっと会社は儲けているにもかかわらず、従業員には安い給料しか払っていないのだろうな、などと思いながら豪華な大邸宅と広大な庭のあるボデガをあとにしました。
次の日はイスラ・ネグラにある、詩人、パブロ・ネルーダの家に行きました。太平洋を望む高台にその家は建っていました。ここも観光客がいっぱいで予約がなければ入れないといわれました。しかし、「せっかく日本からはるばる来たのだから入らせて欲しい」と頼むと「他の人には内緒にしてね」と受付の女性が特別に入れてくれました。
海をこよなく愛したというネルーダの家はまるで船室のようにつくってあり、ドアもトイレもとても小さく、大きなネルーダはさぞかし窮屈に行き来したのではないかと思いました。友人だったアジェンデ大統領とお茶を飲んだという客間は、海と庭に面する2面が大きなガラスになっていてとても明るく、さぞかし話しがはずんだのではないかと思います。また、たくさんある部屋には彼の膨大な美術品のコレクションなどが所せましと並べられ、まるで彼の家は海に浮かぶ美術館のようでした。
1973年9月11日、ネルーダがガンで療養中にチリでは軍部によるクーデターが起きました。アジェンデ大統領が死んだあと、家に軍部が乱入、蔵書や調度品を破壊しました。そのため彼は急に容態が悪くなり病院に行く途中、軍部に車から引きずりだされ亡くなりました。アジェンデの連合政府に協力した彼もやはり、ビクトル・ハラと同じようにクーデターにより殺されたのだと私は思います。
次の日、パタゴニアの入り口にあたるプエルト・モンに行くため8時の夜行バスに乗りました。サンチャゴから1024キロ、約13時間かかります。朝9時に着きましたが、めちゃくちゃ寒くて、あわててて上着を2枚重ね着しました。バスのターミナル近くに宿をとりさっそくツアーを申し込みました。1日目は近くの湖や火山、牧場、川などを回り、2日目はチロエ島という島を巡るのです。しかし降り出した雨でオソルノ火山は全く見えず、美しいはずのジャンキウエ湖の水は暗く激しく波打ち、ひたすら寒くてゆっくり外で観光している気になれず、早くバスに戻りたいと思うばかりでした。
このようにさんざんな初日でしたが次の日はきれいに晴れ、チロエ島に行きました。ここはアレルセという木を薄く切り、赤や黄色、緑など、色とりどりに塗り魚の鱗のように外壁に貼り付けた家が多く、とてもかわいらしい街です。道路はカミーノ・アマリージョ(黄色の道)と呼ばれチャカイという黄色の花が道路の両側と草原一面に咲いています。そしてここは魚がとてもおいしいところで、昼食に食べたあふれるばかりの貝のスープ、蒸したメルルーサは絶品でした。でも味つけがうすく、これに醤油があればいうことなしだったのですが・・・・。
それにしても春だというのにこの寒さ。私はがまんできずに毛糸のマフラーを買ってしまいました。行く先々のみやげ物屋には観光客の気持ちを見透かしたようにいろいろな毛糸製品が売られています。他のツアーの人たちも次々カーディガンなどを買い込み、どんどん太っていきました。
次の日、どうしてもオソルノ火山が見たくて初日と同じツアーに申し込みましたが、約束の時間の15分前にバスターミナルに行ったにもかかわらず、すでにツアーバスは出発してしまっていました。旅行会社の担当者も困惑していろいろ運転手と連絡を取っていましたが、結局どうしようもなく、当初の10倍出せばタクシーで連れていくというのですが、そんなに出せるわけはなく、私一人で路線バスを使っていくことにしました。
この日は空も晴れ上がりオソルノ火山がきれいに見えました。頂上に雪をかぶったこの火山は富士山そっくりで、湖のかなたにこれを見たときは、まるで富士五湖から富士山をみているのではと錯覚したほどです。広い緑の草原には牛や馬が放牧され、桜や菊、藤の花が咲き乱れ、カエデの木や、まるで北山杉のような林まで現れては、なんだか日本を見ているみたいで、娘や息子、父や母はいまごろどうしているかなあ、などいつもはあまり思い出すこともない家族がちょっぴり懐かしくなりました。
日本へのノスタルジーを感じてしまったあくる日、サンチャゴとの中間あたりにあるテムコという町に移動しました。ここはチリの先住民マプーチェが多く住むところです。彼らが住んでいた先祖伝来の土地をチリ政府が材木会社に売ってしまい、今なお、政府と衝突が続いています。3ヶ月前にもデモ隊と警察が衝突し、32歳のマプーチェの男性が亡くなったということでした。
私のガイドブックにはテムコの情報は何もなかったのですが、行けば何とかなるだろうと行くことにしました。マプーチェの民芸品を売っていた店で、ここからバスで45分のインペリアルという街にマプーチェが多く住んでいるということを聞き、行ってみました。そして、ここで銀細工の小さな店を出している純粋のマプーチェのセフリーノ・チェウケコーイさん(52歳)にいろいろ話を聞くことができました。
マプーチェは現在チリとアルゼンチンにまたがって住んでいますが、チリには50万人が住み、主に農業で暮らしを立てています。そしていくつかの家族で共同体を形成しています。彼のコミュニティー、ソト・カルフケオは18家族が所属しそのリーダーには4人の妻がいるということでした。セフリーノさんに「うらやましい?」と聞くと無言で照れたように笑っていました。女性は平均8人の子供を産み、家事をし、子供を育て、美しい織物をつくります。それにしてもどこのインディヘナの女性も同じように重労働ですね。私など2人しか育てていないので、その苦労は想像がつきにくく、本当に頭が下がります。
セフリーノさんは若いころは出稼ぎで南米各地を点々として働いていたそうですが、6年前にこの店を出し、古くから伝わるマプーチェの銀細工の首飾りや指輪を作って生計を立てているそうです。なかなか美しかったので私も素敵なデザインの指輪を買いました。いまでは別れて暮らしているという彼の家族の話しなどをしてくれたあと、最後に彼が「いろいろ苦労はしたけれど、私はマプーチェとして生まれてよかったです」と静かに語った言葉がとても印象的でした。
次の日サンチャゴにもどり、ルイスとまた会いました。そして彼との「今度チリに来たときにはビクトル・ハラの『耕す者への祈り』を原語で歌う」という約束を果たすべく、彼の現在の勤務地である国立競技場の多くの人が閉じ込められていたという部屋の前で歌いました。彼はにこやかに、そして小声で一緒に歌ってくれました。そして、私がビクトル・ハラ・スタジアムでも歌いたいというと、自分は行けないけれど、話をとおしておいてあげると言ってくれ、明日スタジアムを訪ねるよう言いました。
次の日は土曜日で、ほとんど従業員はいなかったのですが、1年3ヶ月前、ルイスと一緒に私の日本語の「耕す者への祈り」を聞いていたというクラウディオがいて迎えてくれました。そして「話はルイスから聞いているので是非歌ってください」と言ってくれ、ハラの絵が掲げてあるスタジアムに案内してくれました。私はハラとここで亡くなった人たちに敬意を払うため、ゆっくりおじぎをしてから心をこめて歌いました。スタジアムの構造がよかったのか、私の声はとてもよく響きました。ここでもクラウディオが小さな声で一緒に歌ってくれました。そして歌い終わったあと、彼は少し涙ぐんでいるようでした。何度も何度もすばらしいといって、私の手をとり、そして抱擁してくれました。私も胸がつまってきて、知らず知らずのうちに涙がでてきてしまいました。
私がこの歌に出会ってから30年以上が過ぎましたが、今やっと原語で、そしてビクトル・ハラの死んだ場所で歌うことができました。思えば私はこの日を迎えるためにスペイン語という言葉に長年こだわり続け、この年になってからでもなんとかものにするまではと若者たちの背中を見ながらがんばれたのではないのだろうか、という気が今ではしています。ビクトル・ハラが亡くなって36年。しかし私の中ではハラはずっと伝説とともに生きつづけていました。そしてとうとう彼の最期の場所まで私を引き寄せたのです。私は「耕す者への祈り」をビクトル・ハラに捧げるため歌いました。
沈黙の瞳によみがえれアンデス すべての息吹きわきいずるふるさと
ぶどうの房も輝く稲も 耕す我らの実りであれ
立ち上がれこの大地に 命かけ身をおこせよ
山も川もその手ににぎれ 耕す君の手に守るときは今
嵐の中に咲く花のように 貧しさに生きるきょうだいよ
いざその手に銃をとれ 種まく手に武器をとれ
奪われてはならぬ我らの祖国 正義と平等の耕す者の国
抱きあい進め 死を恐れず 耕す者よ 立ち上がれ アーメン アーメン
言の葉のはなし
さて、本屋を歩いていて、最近面白い本を見つけた。「カタログ・チラシ キャッチコピー大百科」(ピエブックス)という本なのだが、キャッチコピーが延々と集められている本。たしか、以前にも広告批評かなんかの別冊か何かで同じような趣向の本を見た気もするが、これもなかなか面白い。面白いと思えば買ってしまうので、我が家にはおかしな本が興味のままに集まってしまう。この本もさっそくコレクションに加わってもらった。わたしって、なにものなんでしょうね?
ぱらぱらとキャッチコピーを見ながら思うのは、昨今話題の著作権で考えると非常にややこしい本であること。例えば、「少女よ、大志を抱け」というキャッチコピー(単純に裏表紙に書いてあって目に付いただけなのだが)は、これだけで著作物と言えるのでしょうか? まあ、この文だけでも、札幌農学校のクラーク博士の「少年よ、大志を抱け」のパクリだというのははっきり分かる文であり、なんとなく、そこらじゅうで同じことを言う人間はたくさん居たようにも思うが、どうなんでしょうね。
要は著作物というのはわかっているようでいて、わかっていない難しいものということだろう。実は同じ様に悩んでいる著作物がもうひとつある。
没年から、来年、著作権保護期限切れになる著者を追っていて、ふと、今年は60年安保から50年も経っていることに気付いた。その騒乱の中で亡くなったある著者の本が当時のベストセラーになっている。私などはまだ生まれてもいない時代で、70年安保の最中、虎の門病院の小児病棟の病室から眼下を行進するデモ隊を見ながら、これからどうなるのだろうと不安になった記憶がある世代だから、イデオロギーも何も関係ないのだが、本を読みながら、若者らしい純粋な価値観や正義感があふれていて、時代の息吹を知る上で、面白いテキストだとは感じた。ただし、寄せ書きのような形態をとっているその本は、どうみても、複雑な著作権処理が必要そうで全体を通して電子テキストにすることは憚られるのだ。
で、結局、思ったのは、なんともこの世は著作権で考えるのはややこしいということだった。昨今、電子書籍が注目されているらしい。しかし、そもそも、あまりきちんとした契約書を結ぶことが少ない日本の出版慣習の中で紙の本から問題なく電子の本が作れるケースは少ないだろう。
なぜ、フェアユースなのか?なぜ、著作権保護は長すぎると困るのか?それはややこしい本が現れた時によくわかる難問題なのだ。ちなみに、うちの過去の共同著作物の分担執筆者2名の現住所がまだわかりません。現実の世界は、著者存命中からややこしいのです。
桜が終わったらイッペーが満開に
トゥシヌユルー(旧暦大晦日)に入った夜中、突然に九年間使っていた時代の遺物シェル型のiBookが動かなくなった。メール用としてメインで使用していたが、どのような手を尽くしても動かない。中身はどうしようもないので、Windowsのマシンのメールソフトの設定をし、ウィルス対策用のソフトをインストールする。
メールアドレスは携帯電話に登録してあるのでそれを登録すればいい。携帯電話に登録していないアドレスはおさらばとなる。これもしょうがない。デジタルは消えるとき、いつも突然なのでこちらのデータは潔く諦めたほうが楽だ。数年前まで仕事で毎日のように使っていたメールソフトを久しぶりに使うとぜんぜん使い方を忘れている。最近はメールアドレス変更の連絡はほとんどWebメール。それでもわたしゃはWANよりLAN、ワイヤレスよりワイヤード。三十年近く使っていたアイロンがついに壊れたため購入、テレビ関係も地デジとやらになってしまった。
同じタイミングでこういうCDが出ましたけど、というメールがあるところから来る。あなたが欲しがっていたものが入荷しましたけどどうしますか? こんなDVDはどうですか? こうなると物欲と懐の葛藤で悩みに悩みつつ、クリック、またクリック。大丈夫か? 今年は下のガキが小学校入学だぞ、上は受験だぞ、そんなの頭から消えている。ブラインド・レモン・ジェファソン、ブラインド・ブレイク、フレディ・キング、ゴールドワックスのシングル集、映像ではマイケル・ジャクソン、「キャデラック・レコード」、レス・ポールのドキュメンタリー。これらを堪能したあと、九十九年ぶりの地震とやらで早朝起こされた。でも隣接する市町村の震度は出るが沖縄市だけ出ない。ここは震度の測定はしていないのか。その翌日は一日中、津波警報のなか、あの世の方々のための正月(十六日祭)準備が行われる。少しの間の暖かい日がすぐ終わり、暑さに変わる。初の扇風機稼動。先月のさくらにかわり、近所のイッペーの並木は黄色い花が満開。
製本かい摘みましては(57)
NHKの番組情報誌「ステラ」で資料を探していたら、製本工芸家・栃折久美子さんの記事が目に入った。1995年10月16日〜19日、深夜のラジオ番組「ラジオ深夜便」に出演し、翌月に予定されている「ルリユール20年 栃折久美子展」を前に自身の歩みを語ったものだ。ルリユール(製本工芸)を学んだベルギーから帰国した3年後の1975年に個展開催、ブックデザイナーの仕事をしながら、のちに一緒に工房を運営するアシスタントと自身のアトリエで研鑽を積み、80年にはルリユールを日本で習得できるように道具や材料を揃えた工房を都内のカルチャースクール内に持った。「ステラ」誌面にはご自身がルリユールした赤瀬川原平『オブジェを持った無産者』、竹西寛子『兵隊宿』、中原中也『山羊の歌』の写真が添えてある。
「深夜便」の放送を私は聞いていないが、それより少し前になにかの雑誌で「ルリユール」を知り、95年11月の栃折さんの個展にでかけるべく、会場に電話をかけたのだった。それが思わず長話になりルリユールを習ってみたいのですなどと言うと工房に見学にいらっしゃいと教えられ、その時たまたま電話をとったのが栃折さんであったことを後に知る。翌週、教えられた場所に出向くとそこは駅前の百貨店の上階の一室で、三方を道具や材料に囲まれた中でにぎやかに製本している人たちがいる。ここで習えばどんな本も思いのままに作れそうだ!という無邪気で幸せな予感を得て、早速翌月から通うことにする。帰りに下のフロアの書店に立ち寄り眺めていると、ちょっとはみ出た『モロッコ革の本』(栃折久美子著)に呼び止められ、運命だ、と思う。
時が経ち――どんな本でも思いのままに作れるような人になっていない私にとってその運命って何?なわけだけれど、その後ずっといつも机の近くに『モロッコ革の本』があるのだから、出会ったあの日は確かにウンメイの一日である。今日もまたページをめくる。冒頭は栃折さんが留学先のブリュッセルに向かうアエロ・フロート機内でうんざりしているシーン、その原因が札幌冬期オリンピック帰りの一行と乗り合わせたことにあったとは、何度も読んでいるのに忘れていた。それから38年後、21回目の冬期オリンピックが終ろうとしている今日なのである。
「ステラ」に戻る。栃折さんはこう言っている。「ルリユールは、ことばの入れ物。その中に想像の世界があります。決して難しいものではなく、だれにでも簡単に楽しむことができます」。本格的にやろうとすれば、ルリユールはとても簡単に楽しむことなどできない。だが楽しむことに"本格的"もそうでないもあるものか。「ことばの入れ物」に興味を覚えた者たちよ、妄想結構、無理でも結構、難しいかどうかを惑ってる間に想像を多いに楽しめ。栃折さんのそういう思いを、今も私は時折勝手にこの背に覚えるのだ。
イラク紀行(1)
イラク国内、シリア国境近くに出来たアルワリード難民キャンプに春の兆しが見えてきた。
かつて2000人近く居た難民が、移住先が決まりだし、キャンプを去っている。現在は1000人ほどになり、4月の終わりには、300人ほどになるという。
キャンプに入るには、イラクのビザがいる。ヨルダンでイラクのビザを申請した。担当の太っちょのおじさんに、「2時に取りに来てください」といわれた。事務所でくつろいでいると、「イラク大使館です」と女性から電話がかかってくる。いやな予感。
「確認させてください。ビザ申請は3名ですが、パスポートは、2人分しか提出していないのではないですか」
「はあ、意味がよくわからないですが」
「こちらには、2名分のパスポートが提出されています」
「いや、私は、3名分のパスポートを確かに提出しましたよ」
一瞬不安になりポケットをまさぐるが、ポケットにはパスポートはない。
「もしかして、パスポートをなくしたのですか?」
「い、いや、ただ確認をしただけです」といって女性は気まずそうに電話を切った。
パスポートがなくなったらどうしよう。日本に帰れなくなってしまう。日本大使館で再発行してくれるだろうが、私の飛行機はシリアから出発。シリアのビザは、どうするんだ! 不安に駆られているうちに2時になってしまった。とりあえず、大使館にいくと、太っちょのおじさんが、「いやー心配かけてすまなかったね。こういうことはよくあるんだよ。気にしない気にしない」と笑っている。よくあるって???
イラクは、サダム・政権崩壊後の2度目の国民議会選挙を控えている。確かに、復興の兆しも随分と見えてきたが、まだまだ侮れない。紆余曲折あって、結局、難民キャンプには私一人で行くことになった。2月24日から27日までキャンプに3泊して、今しがたシリアに戻ってきたのだ。さすがに、4日もキャンプに居ると、うんざり。特に、後半は雨に降られたので、閉じ込められた感じがした。難民たちは、長い人で5年間もこんな生活を強いられている。早くキャンプが閉鎖されることを願うばかりだ。詳しくは次回。(シリアにて)
片岡義男さんを歩く(3)
テディ片岡というペンネームのきっかけになった『ナイン・ストーリーズ』を柴田元幸訳で再読しました。参考に氏の編集する『モンキービジネスVol.3』を読んでいて、柴田氏と岡田利規氏の対談の中に印象に残る一説があったので引用してみます。
さらに2人は『ナイン・ストーリーズ』の魅力にふれて、「これは要するにどういう話かという事が要約しにくい」(岡田)「ストーリーに還元したらこぼれ落ちてしまうものがいっぱいあるんだけど、かといって何の必然性もなく出来事が並んでいるのでもなく、こういうふうに展開するしかない、と納得させられてしまう力がある」(柴田)「だからといって、小説の細部を何もかも覚えておくことなんかできないから、どんな小説かっていうことをすぐに忘れてしまう。でもすぐにまた読み返したくなるし、もったいなくて1日に2編を読む気が起きなかったりする」(岡田)と言っています。
これは私が片岡作品に感じている魅力と重なるところがあります。インタビューで、質問者の勝手な思い込がばっさりと切り捨てられてしまったなと感じる一瞬がありますが、そんな時でさえ感じる片岡さんの静かさ、やさしさがどこから来ているのか、その謎を解くヒントにもなるように思えます。適当に知った風なことは言わない、言葉を発する時のこの片岡さんの姿勢によって、答えは質問者の想定を超えて自由に深いところまで及んでいくのだとわかってきたところです。
今回も片岡さんのこの発言からインタビューが始まりました。
まず最初に書いておいてほしいのですが、言葉づかいをちゃんとしなければいけないと思い始めたのです。これはホームページに掲載されるのですよね、個人的な話ではなくて。乱暴な、ぞんざいな口調というのはよくないと。
――ホームページの原稿を直したいと思われましたか?
むしろ直すのだったらもっと高校の時に身についた変なしゃべり方にするとか。べらんめいではないのですけれど、不良というか、学校の成績が悪い子どもたちのしゃべり方みたいな。
――しゃべるのを聞くと、あ、不良なんだとわかる。
不良っぽいというか、不良じみているというか、日活アクション映画のチンピラみたいなしゃべり方。「太陽の季節」以降の一連の非行少年ものがあるでしょう。湘南のしゃべり方。結局、キィになるのは人称なのです。「オレ」とか「オマエ」とか「アイツ」とか。
――片岡さんは「僕」ですよね。
いや。本当は「オレ」なんじゃないかな、身に付いているのは。しょうがないから、オレの代役として「僕」です。子どもの頃は「僕」だったのですが、高校生になって「オレ」になってしまった。
――「オレ」を選んだのですね。
そう。「僕は知りません」という言い方が普通だとすると、「俺ぁしらねえよ」となる。
――これからは、その口調でお話になるということですか。
いや。丁寧に。うその方で。
――インタビューの録音テープを聞くと、片岡さんの話し言葉は非常に書き言葉に近いと感じますが。
難しい事というか、めんどうくさい事をしゃべる時は、そうした方が楽です。話し言葉はもどかしいでしょ。
今日は、60年代の頃のことについて、少しメモをしてきました。60年代の僕は、単なる労働力だったという話をした方がおもしろいなと思ったのです。要するに、労働力なのです。
――ええ。
戦後の教育システムというのは、日本をうめつくす会社に労働力を供給するシステムでしょ。もののみごとにその典型です。大学を出たばかりだから、最若年とは言わないまでも、一応若年労働者です。60年代は僕にとっては、若年労働者としての10年間。労働者というのは勤勉でなければいけないから片っぱしから依頼を引き受ける。ものすごく忙しくて、勤勉な限りにおいては優秀な労働者...。今だって同じですけれど。
――今は高等遊民のように見えますが。
とんでもない。冗談じゃないですよ。
――でも、楽しそうです。
労働者に徹すれば良いのですから。徹するとはどういうことかと言うと、その時自分にできることを片っぱしからやれば良いということです。やれることしか、できないわけですから。
――依頼されるということは、できると思われているのですものね。
そうです。労働力として見込んでくれたというか、拾ってくれたわけですから。仕事そのものは文章を書くことだから、何か特別なことかなと錯覚する人もいるかもしれないけれど。当人も錯覚するかもしれないけれど、全然そういうことではなくて、単なる労働力なのです。
――片岡さんには、お金にならない文芸同人誌時代とかないですものね。
それはどうしてかというと、形から入らないで済んだからです。文芸同人誌というと純文学という形から入らなければいけないでしょう。形があるということが、すごく不得手というか、嫌というか、逃げたくなるというか、反発するというか。そういうことはやらないのです。
――いまだにそうですよね。
どういうことが関係して形から入らずにすんだのかと考えてみると、大学まで行ったことが大きかったと思います。例えば中学卒業後すぐに世の中に出た場合、彼にとって一番かわいそうなのは、まわりの大人たちが枠を押し付けてくるということです。新卒で会社に入ったら枠だらけなのです。また、労働者として見込まれるためには人とのめぐりあいというか、接点がなければいけない。そういうめぐりあいのチャンスがあったというのも大学まで行ったということが大きかったと思います。枠にあてはまらないでいい自由が少しあり、依頼してくれる人との出会いがあれば、あとは勤勉に労働を提供すればいいわけです。そして僕にとっての勤勉さとは、同じことを二度と書かないという事でした。型にはまらなくていい、型をまもらなくていい労働力。
――勤勉さの考え方はおもしろいですね。それは、同じものを書いたら恥だというような思いですか。
いや、仕事として同じことは書けないのです。この話、この前と同じじゃないかと言われてしまう。
――1回出したら書き直せないともおっしゃっていましたね
書いてしまったらおしまいでしょう。反省もふまえて次はちゃんと書こうと思うのです。そして、食べ物の話をすると、労働者だから餃子ライスなのです。通説によると、大連から引き揚げてきた人が、日本で仕事をしなければならないから習い覚えた餃子で店を開いたということです。餃子を売るなら人がたくさんいる所がいい、戦後の日本なら経済復興だから物を作っている工場の近くならそこにたくさん労働者が来る、その人たちに餃子を売る。餃子ライスは典型的な労働者の食事なのです。餃子ライス、最高です。
――それで今でも写真によく撮るのですね。
僕にとっての60年代は20代の勤勉な労働者、餃子ライスの日々。青春小説です。
――そういう正しい青春は今はありません。
60年代は成立したけれど、60年代のおしまい頃はもうだめなのです。68年くらいかな、何かが決定的になったのです。オリンピック、戦後から始まったことが、68年くらいに決定的になったのでしょう。
――エッセイで、片岡さんが25歳の時に、それまで持っていた写真を全部捨ててしまったということと、生まれた目白の家を見に行かれたということを書かれていて、1965年に何かあったのですか。
いや、何もないです。どうなっているのかと思うじゃないですか。それだけです。暇だったのです。見に行ったらそのままありました。まだその頃は戦前と陸続きでした。今はもうないでしょうね。土地の権利関係が残っていれば路地とか私道とか残っているでしょうけれど。
「マンハント」の片岡さんが書かれていたコラム、ファンがたくさんいたと思います。この文体は発明したのですか。
いや。話し言葉の変形でしょう。さっき話したような不良少年の話し言葉の変形です。
――落語の影響を指摘している人がいましたが。
むしろ漫才かな。戦後のラジオの漫才。あれはおもしろかったです。漫才という枠はちゃんとあって、舞台と客という枠もちゃんとあって、よっぽどひどいことを言わない限り、あとは自由なのです。それがおもしろかったのかな。人が言葉を使う時の自由さかげん、自由さによって笑いが生まれたりすることが。形がないというのは非常に良いですね。自分に徹することができる。自分に徹しようという意識は全くないけれど、結果として自分に徹しているわけだから。使える言葉しか使えないから、書けば書くほど自分に徹することになる。だから、書けば書くほど無形の得をしている。原稿料をもらいながら修行になっている。
――片岡さんの書かれたものが「マンハント」の個性をつくったとも言えると思うのですが。
そんなことはないです。
――それは言い過ぎですか。小鷹信光さんが、片岡さんは最初からうまかったと回想されていました。
うまいかどうかは別にして、これを書けと言われれば最初から書けたのです。
――流れるように読めますね。
話し言葉ですよ。
――「現代有用語辞典」という連載コラムが好きです。他の書き手と比べて片岡さんがどれくらい異質なのかということまでは読みこめていないのですが。
書き手というのは、みんな異質なのです。その方向とか度合いがそれぞれ違っていて、編集者がどれを選ぶかによるわけでしょ。
――編集者に恵まれたという気持ちはありますか。
あります。形をおしつけない編集者でした。純文学の編集者にはめぐり会っていないから。おしつける人だと大変だと思う。けんかですよ。まあ張り倒すでしょうね、間違いなく。
――片岡さんが!!。張り倒した人がいるのですか。
ありますよ。色々と。
――「あなたは原稿を渡すがわの人になりなさい」と言ったのは「マンハント」の編集長だった中田雅久さんなのですか。
そうです。それは決してほめ言葉ではなくて、君は編集者はやめた方がよいという意味でしょう。
――片岡さんは「マンハント」について、あまり発言なさらないですが。
忘れちゃったのです。何を書いたか忘れています。
――「マンハント」はアメリカ版がまずあるのですよね。
「マンハント」はその日本語版と称して娯楽的な総合雑誌を作ったのです。ほとんどタイトルだけ借りて。そういうスタイルの草分けですね。
――雑誌「フリースタイル」に鏡明さんが「マンハントとその時代」という記事を連載されていて、アメリカ版の「マンハント」はサブカルチャーだったという話ですが。サブカルチャーということに対して何か感じていらっしゃったのですか。
(*後日確認したところ鏡氏は「フリースタイル」(vol.42006年)で「ポピュラー・カルチャー」とおっしゃっていました。サブカルチャーと読み違えたのは質問者の責任です)
サブカルチャーという言葉そのものが無かったのです。まあ若年労働者にふさわしい世界、餃子ライスにふさわしい。この時代が終わってしまうというのがおもしろいよね。時代が終わるということがあるのですね。
――時代の終わりをどういう風に感じたのですか。
要するに終わるのです。仕事はいっぱいあるのだけれど、ふと気づくと終わっているのです。そして次に始まった70年代はどういう時代だったかということにはあまり興味がないな。終わっていく時代に、自分なりに結着をつけなければならない。
――どうやって。
本を書いたのです。『僕はプレスリーが大好き』。あの本を出してくれた編集者がいたというのもすごいことですよね。
――今読んでもおもしろいです。
むしろ今だから理解できるのかもしれない。その時わかる人がいたかどうか。
――当時日本にないものだったからでしょうか。
すごく遠いものを書いているよね。不思議なことに。
――『僕はプレスリーが大好き』のあとがきが好きです。色々な参考文献があげられていて、アメリカのアンダーグラウンドマガジンとか、違う形の文化とかメディアを知っていて、そのうえで「マンハント」に書いていたということが大きかったのではないかと思うのですが。意識していらっしゃったのですか。
わからないです。知っていることは知っているわけだし、知っていることを知っていることとしてどれくらい自覚して、意識しているかというのはまた別の問題なのです。ほとんど意識していなくても文章の端々に出てくることについては、自覚していないからわからないです。ただ、新しい考え方というか、それまでになかったもの、別の視点、新鮮な視点というのが好きなんじゃないかな。
――英語のものを読んでいたというのは大きかったですか。
それはありますね。
――若年労働者は年をとっていきます。
そうですよ。僕自身は68年ごろになると完全に飽きているのです。依頼をこなすだけです。提案もしないし、ルーティンです。
――「マンハント」の時代について、片岡さんは一過性の、ある時代のできごととおっしゃるかなと思ったのですけれど、実際に「マンハント」に書かれたものを読んでみると一過性のものではないなと感じたのです。「決して一過性のものではないよ、テディ片岡は」と思いました。
言葉でできているわけだから。言葉を使うということは普遍的なことでしょう。言葉の使い方の問題なのです、おそらく。何をどう考えようと最終的には言葉で固定するわけだから。僕の言葉の使い方に一貫性があるということでしょうね。
――『ナイン・ストーリーズ』のテディは早熟な天才なのです。ぴったりです。
ではそういう話にしておきましょう。
芭蕉の切れ
1694年(元禄七年)に大阪で亡くなった芭蕉がその年に詠んだ俳句が14句ある。それらをタイトルとして14章のオーケストラ曲『大阪1694年』を作曲するとき俳句にローマ字を付け、英訳してみた。
俳句の英訳はたくさんある。「古池や」の31人の英訳を集めたサイトまである。(http://www.bopsecrets.org/gateway/passages/basho-frog.htm)直訳ほど、詩がある。語順や構文のちがい、文化のちがいがあっても、意味や状況を説明し、解釈し、俳句論や禅にこだわれば、リズムもイメージも消える。
俳句は瞬間の光を書きとめるが、作品は創造の残り物。解釈し分析する俳句論から俳句はできない。時計を分解掃除してから組み立てるのとはちがう。声にして読めば浮かび上がるリズムとイメージの断片。声は律とは別なリズムで句を切る。たとえば、「キクのカにクらがりのぼるせっクカな」。イメージは統合されず、散乱する。たとえば、「此秋は何で年よる雲に鳥」。人生最後の秋、老いの実感、雲に消える鳥影、と解釈でつなげれば、俳句は消え、感傷が残る。「秋」は環境空間、「何」は答えのない質問、「年」は時間。「よる」は近く、「雲」は遠い。「鳥」は飛ぶ。ことばの絵ではなく、たばしる子音。瞬間に投げ出された韻が、句を乱切りにする。風景は見る人とかかわりなく過ぎてゆく。病んだ社会、病むからだから解放されて、「夢は枯野をかけ廻る」、からからと音たてて。
発句は連句の発端。連句は感性のちがいが視点を変えていく即興のあそび。あいさつのように相手があり、寄り合いの雑談のようにこだわりがない。振り返らず、あてもなく、ひたすら先へゆく。歌仙のようなルールは、座への入場切符。季語や月の座のような式目も、前の句に付けながら転じる遊びを複雑にする。そこに意味をもとめて弟子たちが練り上げた方法論や規範は、ひとが立ち去った後の部屋のように空虚。
「切れ」はことばの方法論ではなく、芭蕉の生きるプロセス。身分社会からはずれ、故郷なく、定職なく、座という一時的自律空間を主催する旅の人、ことばの教師。弟子たちは身分や職業から離れ、男も女もいる。社会から切れた空間、ことばにまつわる文化を連鎖のパラドックスで解体する時間。ことばの切れが、ひとびとをつなぐ。「秋の夜を打ち崩したる咄かな」。句会は陽気なにぎわい。