2010年12月号 目次
ハワイの不思議 パールハーバーを忘れるな
友達の結婚式にハワイに行くことになった。どうも、ハワイに行くとは人には言えず、こっそりと夜逃げのように出かけて行ったのである。なぜか罪悪感を感じてしまう。別にパールハーバーで日本がだまし討ちをしたからというわけではない。日本は師走なのにのんびりしていていいのか。
しかし、ホノルルの飛行場に着陸すると、米軍の輸送機が待機している。1893年:アメリカ人農場主らが海兵隊の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立。このときからアメリカの力が強くなり、1898年には、ハワイを併合した。そしていつの間にか、ハワイは軍事拠点として重要な位置をしめる。ワイキキビーチにいると分からないけど、沖縄同様、米軍基地がたくさんある。
先月沖縄に行って驚いたのは、予想以上にさびれている。嘉手納やキャンプハンセンの前の繁華街。ほとんどシャッターが落ちている。昭和の雰囲気満載のバーは、補修もせずにぼろぼろだ。海兵隊が歩いていたので聞いてみると、「物価が高くてね」と嘆く。確かに円高だ。ベトナム戦争のころは、明日、戦地で死すかもしれない兵士たちが、ドル札をブチまくように、遊んでいたというが。最近、米兵は基地の中でこもっているのだろうか。
一方、ハワイは、日本人が円をぶちまけるように買い物をしている。戦闘機も飛んでこないし、本当に基地があるのかと思ってしまうくらいだ。パールハーバーに行ってきた。アメリカが本土攻撃を受けた唯一の場所。ブッシュ大統領は、911を評して新しいパールハーバーといった。
「ある晴れた朝、何千人もの米国人が奇襲で殺され、世界規模の戦争へと駆り立てられた。その敵は自由を嫌い、米国や西欧諸国への怒りを心に抱き、大量殺人を生み出す自爆攻撃に走った。
アルカイダや9・11テロではない。パールハーバーを攻撃した1940年代の大日本帝国の軍隊の話だ。だが、日本は宗教、文化的伝統を保ちつつ、世界最高の自由社会の一つとなった。日本は米国の敵から、最も強力な同盟国に変わった。
我々は中東でも同じことができる。イラクで我々と戦う暴力的なイスラム過激派は、(日本と)同じ運命をたどることになる。」
ハワイからもイラクに歩兵部隊が派遣された。翌日の新聞は、イラクに800人の歩兵部隊が、任務に就くという記事。オバマ大統領は、8月末に戦闘部隊の撤退を宣言したが、未だに5万人のアメリカ兵が駐屯している。まだ、アメリカは戦時下だ。というかいつも戦争をしている国。戦争に向かうメンタリティーは、1941年当時と何ら変わっていない。ワイキキビーチを歩く。よく見ると、海兵隊員が家族を連れて、一時のバカンスを楽しんでいた。
なんだか、あまりのんびりする気が無くなってしまったハワイ旅行であった。
道に迷った魔女
きんきんと風が冷たい夜の街を歩いていたら。
おばあさんに道を尋ねられた。
真っ黒の服、
緑の瞳、
まっしろな髪、
挙げ句に早口呪文のような言葉を喋るので、
どこの魔女かと思いきや、それは呪文ではなく英語だった。
道を尋ねていると理解することは出来ても
英会話能力皆無の私は、どう説明すればいいのか全く解らず
とりあえずおばあさんが手に持っていた地図を奪って、
矢印が書かれた目的地(駅前のホテル)を見る。
ここに行きたいのですか?
と、矢印に指を差して表情とジェスチャーだけで伝えてみせると、
おばあさんは輝く笑顔と激しい頷きを見せてくれた。
足腰が弱そうなおばあさんと手を繋いで、
名前もどこの国の人かも、何故こんな汚い街に来たのかも
聞く事ができず、わからないままそのホテルまで行き、お別れした。
なんだか忘れられないので、絵を描いてそのおばあさんを思い出す。
オトメン と指を差されて(30)
「たいやきうどん」......それは私が長年追い求めてきた料理。いつか作って食してみんと、思い始めてかれこれ二十年。「たいやき」+「うどん」という未知なる領域へと、ついに私はその一歩を踏み出したのです......
お読みの方は一体何のことかと思われるでしょうが、ご想像の通り、そんな料理が実際に存在しているわけではありません。むしろ存在していたらうっすら恐怖すらするのですが、これ、実は私の幼い頃の空耳なのです。
自分世代の幼少期が誰しもそうであったように、やはり私もTVゲーム好きだったですが、小さい頃よくやったソフトのなかに『ぷよぷよ』(あるいは『魔導物語』)というものがありました。ご存じの方には説明の必要はないかと思いますが、この作品の主人公にアルルという少女がいまして、その子が魔法を使うのです。
たとえば「ふぁいやー」「あいすすとーむ」などなど、このあたりは簡単な英単語なので、子どもながら間違えることもありませんし、だいたいの意味がわかるのですが、ひとつだけどうしてもこうとしか聞こえないものがありまして。
「たいやきうどん!」「たいやきうどん!」
はてさて、何のことやら。辞書をくってみてもあるわけがなく、人に尋ねてみても知らぬと言うばかり。「なにそれ?」と首を傾げられようものなら、当のゲームの音声を聴かせ、「ほら!」「う〜ん確かに」と言わしめるものの解決には至らず。
そこで子どもは子どもなりに考えてみるのが常でありましょう。「たいやきうどん」とは何であるか。おそらくそれは「たいやき・うどん」と区切るべきである、というひとまずの推測をつけていたので(「たい・やきうどん」と切らなかったのはその少女の発音による)、どちらも食べ物であるからには、そのふたつが組合わさった料理なのだろうという想像に至るのもうなずけますよね(ね!)。
そう、たいやきが上に乗ったうどんなのだ、それは――こうして、周りの人は知らないがきっと世の中にそういう食べ物があるのだろう、きっと出会ったあかつきには食せるのだろう......と子どものときに思ってはや二十年、もちろんそんなものはありませんでしたよ! どこにも! あるわけないじゃないですか!(すごいアホですよ私!)
とまあ、それで終わればよかったものを、ふと大人になると思い出してしまうわけですよね、何かの拍子に。そういえばそんなのあったな、と。しかも大人なので、一人暮らしの自炊なので料理は自由なわけですよ。ほら、いけない考えがむくむくと、心のなかで育っていくわけで。今なら......できるっ、アルルさん、オレやってみるよっ!てな感じで。(ちなみにその当のアルルはかわいい女の子でした。)
そして幾多の失敗と試行錯誤を乗り越えて(あれとかこれとか、本当にばっよえ〜んな味!)、とうとう私とアルルさんの「たいやきうどん」は完成に至ったのです! ここでそのレシピを大公開しましょう! 誰ひとりとして得しませんが!
1.まずたいやきを用意します。これは鉄板で焼いたたいやきがベストです。コンビニやスーパーなどではおまんじゅうタイプのたいやきも売ってますが、液体につけるとすぐむにゃむにゃになってしまいますし、粉っぽさも足りないため、何よりおうどんの汁に合いません。冷凍のミニたいやきでも構いませんが、少々耐汁力がありませんので要注意です。
2.大事なのは、うどんに乗せる前にたいやきをオーブンで熱して、外側をかりかり、内側をほかほかにしておくことです。冷たいあんこのなかに熱い汁がしみわたるのは割といろんな意味で拷問です。
3.うどんの麺は、何でもいいです。さぬきでも細麺でもきしめんでもお好きなものを。汁の方は、薄めの合わせみそ味をおすすめします(だししょうゆとあんこはあんまり相性がよくない気が......)。おろしショウガを添えると風味があってなおよいでしょう。面倒な人は市販品で「日清 朝のめざましうどん」というものがあるので、それでもよろしいかと。
4.そしてたいやきの焼き上がりとうどんの出来上がりが同じくらいになるようにすればOK! うどんの上にたいやきを乗せて! これで無難に食べられるはずです!
わあい夢が叶った。というわけで、私ひとりが楽しい「たいやきうどん」の話なのですが、twitterで実験報告などをしていると、「森鴎外の饅頭茶漬けを彷彿とさせますね」というつっこみが入ったりも。そういえば確かに何か近しいものが......。翻訳家の甘いもの好きと何か関係があるのかも......と、さらなる妄想に発展しそうなところで今回はお開き。
(ちなみに正しい魔法名は「ダイ・アキュート」で、威力が二倍になるというものでした。調理・玩味は自己責任でどうぞ。)
地震と火山
この間の10月26日に、インドネシアのジャワ島中部にあるジョグジャで、ムラピ火山が噴火した。ムラピ山は活発な活火山で、ほぼ年中噴煙を上げている山なのだが、今回の地震では、前王から山の番人を任じられていたマリジャン氏も亡くなったとかで、人々の打撃は大きいようだ。このムラピ山は前回は2006年5月にも活動が活発になって火砕流を起こしていて、同じ月にジョグジャ沖で地震も発生している。どうやらこのとき以来、ジョグジャは災害続きである。
ジャワの古都ジョグジャは、北のムラピ山、南のパラン・トゥリティス海岸を南北の軸にして、その中央に都市がある。ジョグジャは特別州になっていて、インドネシア独立後も、マタラム王朝由来のジャワ王家の君主が世襲知事として州を治めている。ジャワ王家の信仰では、北のムラピ山には男神ラトゥ・スカール・クダトンが、南の海には女神ラトゥ・キドゥルが棲んでいるとされる。
ジャワの王は、この南海の女神(ラトゥ・キドゥルというのは、南の女王という意味)と結婚することで王国を護る力を得るとされている。また、緑の服を着た人が海岸に近づくと海に引きずり込むとも言われていて(だから、ジャワ人は緑の服を着て海岸に近づくことはしない)、ラトゥキドゥルという名前はジャワでは有名だ。アブドゥラー・バスキという有名な画家もラトゥ・キドゥルの絵を描いている。
もう一方のラトゥ・スカール・クダトンというのは、ラトゥ・キドゥルほど人格化されていない。スカール・クダトンというのは王宮と言う意味なので、抽象的な王室神ということなのだろう。たぶん、絶えず噴煙を上げている、怒れるムラピ山への畏怖の念があるのだろう。
2006年の地震のときに、こんな小話があった。この地震は、ジルバブを被れと命じられたラトゥ・キドゥルが、怒って引き起こしたものだと。ジルバブというのはイスラム教徒の女性が髪を隠すために巻いているスカーフのこと。ラトゥ・キドゥルは土着信仰の女神だ。ジャワではイスラム教徒が9割くらいを占めているけれど、イスラム教は15世紀にもたらされて以来、土着信仰と混交してきたので、厳格なイスラム原理主義者というのはあまり多くない。だから、この小話の裏には、バリ島テロ事件以来激化してきたイスラム原理主義に対するジャワ人の嫌気が表れているのだ。
こんどの噴火に対して、人々はどのように言うのだろうか。
犬狼詩集
19
ある果てしない冬の日、冷たい水がとどまる街路で
忘れられていたきみが突然に言語的出現をはたす
まるで空虚として折りたたまれていた
悲しいほど薄くてはかない紙片が
花を模倣するようにみずからを開き
水の存在とその影を利用したようだ
だが限られた影の船に導き入れることのできる
動物の種や数には制限があるし
霊的修練をどれほどくりかえしても
到達できる頂は限られている
不動に見せかけた大地がそれ自体として
地球の表層をぐるぐると廻っているのなら
われわれにどれほど定着の意志があっても
居住はことごとく失敗に終わる
私=きみの定点、それは冬の太陽に禁じられた接触の残像
私=彼の居住地、それは影となった多くの禽獣たちの巣穴
20
十二月が十二月を思い出している
冬至と前日のあいだに危険な谷間がある
灰色の霙が正午に降り出して
深夜には流星のような雨になった
光が降る、小さな光の群れが
その群れを毛皮に宿して
はぐれた犬の仔が懸命に走っている
彼はabécédaireを学ぶだろう
どんなミモザ色の予感が過去における
未来をさしていたのか
未知の活用を探していたのか
そのころ初めて読んだ詩は「地帯」で
それですべての朝の街路が詩の洪水になった
リュテシアのアテナイの地理学者が
赤いセーターを着て口笛を吹いていた
坂の石段に性別があることを彼に教わった
しもた屋之噺 (108)
街をゆきかう人々の頭を覆う毛糸の帽子が目立つようになったと思いきや、今朝は夜半から粉雪が舞い始め、目の前の風景はうっすら雪化粧しています。ここ暫くは朝晩深い霧が立ち籠めていて、そんなときはドライアイスに似た焦げ臭い匂いがそこはかなく漂います。深い秋の香りです。街のあちこちに掛けられた気の早いクリスマスの電飾を無意識にからかっているうち、今朝の雪の到来はすっかり冬へと季節が移り変わっていたことを気づかせてくれました。
雪と言えば、今月半ばインスブルックの演奏会からの帰路、夜明け前のアルプス越えのブレンネル峠は猛吹雪が吹き荒れて、一寸先も見えないほどでしたが、麓のボルツァーノに着くころには、紅く燃え立つような朝焼けに果てしなく広がる、澄み切った空気の美しい秋晴れに心が躍りました。
インスブルックではドナトーニ没後10年に因み、拙作や友人たちの作品とともに、ドナトーニの「Arpege」や「Lumen」をオーストリア放送協会のラジオで演奏しましたが、特に「Arpege」関しては、さまざまな演奏家と何度も演奏してきて、初めて本番で満足のゆく演奏ができました。完璧な演奏よりもむしろ、今まで納得のゆかなかったテンポ設定を大胆に代え、ヴァイブラフォンの余韻で聴こえにくかったリズムを特に際立たせ、協和音程を互いにゆっくり聴きあうことで見えてきたものを、演奏会で形に出来たということでしょう。
ブレンネル峠への道すがら、ドナトーニが埋葬されている故郷のヴェローナを通りました。彼は今もコンクリート壁に誂えられた殺風景な共同墓地に仮埋葬されたままですが、当初は没後10年で、故人の生前の希望に則り、記念墓地の名士の墓に移される予定でした。「先日ヴェローナ市役所から、今ごろになってやっと審査のためドナトーニの経歴書を送れ、なんて電話を受けたのよ」。
アルプスに向かって急峻な山肌の底を這う一本道をひた走りながら、マリゼッラが憤慨していました。没後5年で故人を偲ぶ演奏会があれば、優れた作曲家。没後10年でまだ演奏会の機会があったなら、それは相当優れた作曲家だった証し。没後50年で演奏会があれば天才と呼べるだろうし、没後100年でも演奏されれば、それ以上の才能だったということ。生前よく笑いながらそう話していましたが、確かに的を得ていて、イタリア人独特の伝統に対する嗅覚の鋭さに驚かされます。無数のちりあくたが堆くつもっているからこそ、伝統の深みが増すのでしょう。
今月初めまで尾形亀之助をテキストにマドリガルの小品を書き溜めつつ、初めて日本語に対する恐怖心が煽られなかったのも、そんな認識に安堵を覚えたからかも知れません。来月東京で演奏するプーランクの「人間の顔」やペッソンのアダージェット編作を読んでいても、彼らが特に伝統に敏感なことにどうしても目がゆくし、伝統という言葉の底に澱んでいる、積み上げられた過去の時間の重さをおもいます。
プーランクは中学から高校にかけて一番よく聴いた作曲家でした。初めて練習したクラシックのピアノ曲は高校入試で弾いたプーランクの「夜想曲」だったし、入試の和声課題の当日肌身離さず持って歩いていたのも彼のチェロソナタでした。高校で最初の理論ピアノの試験も、下手の横好きで懲りずにプーランクの「憂愁」を弾いたし、「仮面舞踏会」を小編成に編作して学校で演奏した覚えもあります。彼自身がピアノを弾きベルナックが歌っているシャンソンのレコードは特に気に入っていて、こんな風に歌曲が書けたらどんなにか素晴らしいだろうと思っていました。来月並んで演奏する拙作の「ひかりの子」も、明らかに「人間の顔」に感化されていると思うし、当時はプーランクを介してモーツァルトやシューベルトが好きになったものでした。今回の亀之助のマドリガルも、足元にも及ばないながら「動物詩集」のような世界を夢見て書いていたことは確かです。
今回「人間の顔」を演奏するにあたり、20年以上経って改めてプーランクの楽譜を開くと、掴みどころがないほど難しいことに驚き、過去の自分が何一つ理解していなかったことに唖然としました。学生をしながら音楽を嗜んでいたころは、主観や恣意的思い込みに偏っていたのでしょう。かかる桃源郷も人生の或る時期には大切かも知れませんが、音楽が自分のためだけに存在するのではなく、一つの音の裏には数え切れない人々の人生がぎっしり詰まっていることを実感したなら、昔と同じように楽譜を開くことが出来ないのは当然だろうし、実際に音になるその瞬間まで、一つでも楽譜から真実を見出そうと躍起になるのも、自分がこの世界で生きてゆく上で最低限担うべき責なのでしょう。
音楽ごとき霞を喰らって生かして貰っているのなら、その程度の自覚は必要じゃないかい。ドナトーニの言葉は、微笑を湛えて静かに諭しているようにも感じるのです。
木車、胞衣車、白衣――翠ぬ宝74
トーコック(藤井貞和訳)
・近鉄奈良駅を楽隊で数人が(それとも楽器はひとりだった?)
・もちいどの通り、杖で隻足(二名ほど)
・附属幼稚園の門のわき、腸のはみだした銃創を見せて(一人)
・4人、6人で
・両足を切断していたひとはだれかに台車で運ばれてきた
・手がかぎになって、小箱をそこにひっかけていたひと(複数回)
・ひとごみから数人であらわれ、消えて行き
・なぜか夕暮れ、会うかれらの時間
・近鉄線に乗りあわせた
・奏でる音楽
(どれだけ思い出せるか、子ども心に、かならず白衣で街や車内に見かけた、沈黙する場合もあるけれども、口々に訴え、要求し、音楽を奏でて。あわれみを乞うのではない、どこか毅然としていたかれら。しかし数年のちには退落し、単なる物乞いへと堕ちていった場合もある。フジーさんは何人、思い出せますか、傷痍軍人を。北村透谷を読みに読んで、評伝も書いてきた平岡敏夫さんが、いまなお読むたびに胸踊り、心を熱くするという、「客居偶録」(明26)には、足に銃創を印し、盲目で小鼓を打ちながら物乞いする元会津武士と、木車にかれを載せて帰らぬ乞食巡礼の旅に出る老爺、ようするに主従老人二人を、国府津在の透谷はたまらず呼び寄せて一飯を与え、見送るという、新刊の『北村透谷』の「「客居偶録」―胞衣車を押す芥川にふれて」を読みながら、フジーさんは少年時代に見かけた傷痍軍人をひとりひとり思い出している。なぜ白衣(の着流し)だったのだろう。しかしかれらの一人が乗せられてきた台車をもう思い出せない。芥川が胞衣〈えな〉車を押すのは「年末の一日」。〈今回は未定稿〉)
秋深く。。。
さて、何から書いていこうか。
まず、先月の原稿を書き上げてから横浜の少し奥(山側)のこじんまりしたコンサートホールまで、コンサートを聴きに行った。新進気鋭の若手音楽家が集まった「山田和樹とその仲間たち(横浜シンフォニエッタというのがホントの名前)」のコンサートは若い音楽家たちが集まった非常にモチベーションの高い演奏会。近年、国内のオーケストラのレベルが上がったと言われているが、こういった若い人たちがうまく下支えをしているのだろうなどと、感慨にふけりながら聴かせて頂いた。有名指揮者コンクールで優勝した指揮者の山田さんの今後にも期待なのだが、それといっしょに意欲的なプログラムを作り上げたその仲間たちにも期待したい。ぜひ、忙しくなる若い音楽監督の留守に、様々なマエストロと他流試合をして欲しいと思った。そのくらい面白い合奏団体である。
世界を眺めてみても、非常に若い指揮者と新しい音楽集団が育ちつつあるように感じている。そういえば、むかしむかし、若きネヴィル・マリナーやホグウッドらも、新しい潮流(古楽器やピリオド奏法による演奏など)をアカデミー管弦楽団やエンシェントで作り上げてきている。30年ほどの年を経て、そろそろ、新しい潮流が若い演奏家から生まれてきてもいい頃合なのだろう。
非常に若い演奏に元気付けられていたら、今年のできごとを見直すようなCDに出会った。東京芸術劇場の休日の昼に都響が行ったインバルのベートヴェンの5番と7番のコンサートのCDが発売になった。その会場で、実際に立ち会った私は前方正面の席で、自分の上を運命がどどどどっという音を立てて流れていくのをただ呆然と聞いたのだった。冒頭の一音で、「こいつはすごい」と直感したものの、その後は音の洪水の中にただただ押し流されないように、うずくまっていた。冷静にCDで聴き返してみると、なるほど、と客観的に思えたが、やはり、あのときの実際に立ち会った感覚が思い起こされ、実演に立ち会うことの面白さを改めて認識する。何万円もする海外演奏家のコンサートもいいが、ぜひ、数千円でいいので、国内の音楽家の様々なパフォーマンスに触れるのも実際的でお勧めしたい。いや、近年の演奏レベルの向上で、意外にコストパフォーマンスの良い体験が得られるだろうと信じている。
話は変わるけれど、最近、システムについて勉強をしている。社会学に起源をさかのぼり、システム工学と情報システムの歴史に下るあたりのつじつまを付けるべく、知識を集めては縫い合わせるのが目的だ。まあ、勉強と言っても、目的としては概要を理解してリファレンスを作るだけなので、関連図書を拾い集め、斜め読みをしながら知と知をつなぎ合わせる作業をしているだけなのだが、この作業に都合の良いものと都合の悪いものがいろいろとある。まず、都合の良いものとしては、インターネットの書店の検索機能はすこぶる都合が良い。書評を読みながら関連ありそうな書籍を串刺しにしたり、横並びにしたりしながら拾い集めて取捨選択することに関してはインターネット、ことにネット書店の存在は大きい。効率よく集まってくる。逆に都合が悪いのは、リアルな世界の図書館や書店の使い勝手がすこぶる悪い。ひとつは検索機能がないこともあるが、小さなところでなくても、大規模書店や大きな公立図書館であっても、網羅的にリファレンスの対象となるような書籍が揃っていないことだろう。いったい、あの書棚に何を置いているのか不思議になるのだが、単純な読み物はあっても、過去の知を溜め込んだような硬い書籍の在庫はあまりない。もうひとつ、最近の悪い傾向は、インターネット書店で書籍を拾い集めると最後は買うしかないことだ。こうして、置き場所もないのに書籍があふれかえることになる。図書館にあったとしても、何年も借りっぱなしにするわけにもいかないのだから、仕方がないのだが、いやはや大変なことだ。
最近、自炊と称して、本を解体してPDFに焼く行為がブームなのだそうだ。本という形が好きな人間には壊すこと自体はあまり進められる行為ではないのだが(そういえば、青空文庫用にスキャンしやすく壊れている分厚い本が何冊か持っているけれど)、本の置き場所と言うことを考えても、また資料として多くの書籍を持ち歩きたいと言う要求から考えても、電子化に反対できるものではない。著作権団体などは自炊(書籍の電子化)を請負う業者に訴訟を起こそうなどという動きもあるそうだが、全ての書籍の著作権が有効なわけでもないだろう。その前に、書籍が探せない、置けない状態にあるのだから、自分たちも電子化を進めた方がいいように思えてならない。根こそぎ利益を得ようと欲張れば、かえってチャンスを逃すことになるように思える。
近江商人は江戸時代より商売に長けていたと言われるが、その根本は情報にあったとされる。その近江商人を表す言葉として「三方よし」というものがある。
売り手よし、買い手よし、世間よし。
全員が自分を譲らなければ三方よしにはならず、お互いの利益を譲り合いながら一番よいバランスをとるという商いのコツなのだそうだ。著作物を作るクリエイターにとっても出版、書店にとってもいい、そしてそれを買う購入者にとってもいい、それだけでなく、クリエイターもしくは思想家の作った著作物を後世まで語り継ぎ、発展させることができことで社会にとってもいい、少しずつ権利を譲り合って、一番よいバランスを探ることが今の著作権ビジネスには求められているのではないかな?
さてさて、いよいよと師走になり、誰かに追い回されるようで忙しい毎日。
みなさま、お体にご注意を。
十一月になる と毛布を出し
冷えてきた、といっても仕事場では半袖。家では長袖だったり半袖だったり。外に出ると着込んだ人、Tシャツの人がごっちゃ。
休みの日、いつものように明るいうちからの昼酒。試しに買った、紙パックの泡盛の菊の露。まずい。紙パックの匂いが酒にうつっている。やっぱりちょいと高くても瓶じゃないとだめだ。紙パックのものを空いた一升瓶に移したがすぐには紙の匂いは消えない。もう買わないぞ。瓶だと酒屋さんは空き瓶、十円で引き取ってくれる。むかしは空き瓶屋さんがあってなんでも瓶を集めては小銭にしていた。あの頃何セントで交換してくれたか、忘れてしまった。
で、お昼ごはんはどうしよう。奥さんはこどもの学校のボランティアでまだ帰ってこない。帰る前に洗い物を済ませ、たまにしかやらないお昼づくり。賞味期限が三日過ぎただけの焼きそばが冷蔵庫にあった。適当に野菜を出してきざみ、ツナ缶のオイルはフライパンへ。野菜、ツナを炒める。レンジで麺を温めほぐし入れる。焼きそばの袋に入っている粉末ソースを入れ、なじませながら、フライパンを返すと具がちょいと飛びコンロの横に。こういうのは少しやらなくなるとすぐ下手になる。できた頃、奥さん帰宅しふたりで食らう。食らったあとテレビをだらだら見ていると小学生が帰ってきてしばらくすると中学生も帰ってきた。それぞれ勝手に遊んでいる。小学生はフェルトを使って母親と何やら作り始めた。こうなるとこっちが晩ごはんもつくらなくてはいけないので準備する。冷蔵庫にある豚のばら肉と野菜を炒める。調味料は冷蔵庫に余っているわけのわからないタレとか油味噌片。付けるために全部入れる。味見をしないで出来上がったものを食卓に出す。こっちは呑んでいるので昨日のあまりもののサバの煮物をつまむ。誰も文句言わないので大丈夫なんだろう。冷蔵庫の中がちょっとすっきりしたけど、冷凍室にはなんか得体の知れないものがまだ何かある。
"クレージー・ハート"に触れてみる
ロードショー公開を見逃していた「クレージー・ハート」(スコット・クーパー監督・脚色)を飯田橋ギンレイホールに追いかけて見ることができた。落ちめのカントリー歌手をジェフ・ブリッジスが魅力的に演じて、本年度のアカデミー賞主演男優賞を受賞した作品だ。主人公は、かつて一世を風靡した伝説のシンガーソングライター、バッド・ブレイク。自分で車を運転しながらアメリカ中をドサ回りしている57歳だ。
例えばある晩のステージはボウリング場のレーンの横にしつらえられた小さなスペース。出番前に飲み過ぎてしまって、間奏のあいだに裏口で吐いたりしている。「やれやれ」という状況なのだけれど、どんな町にも目をキラキラさせて彼を見つめるファンが1人か2人は居て、ちょっと泣かせる。一方バッドも、やるときはやるという感じで、時折りキラリと輝く本気の一瞬を見せたりしている。全編、スクリーンの真ん中にいるのは、このくたびれたおじさんなのだけれど、何ともいえない存在感があって、どことなく魅かれてしまう。
映画のもうひとりの主人公、ジーン・クラドックは、バッドにインタビューするためにやってきた駆け出しの記者だ。もともとファンだったこともあって、インタビューを通してますます彼に魅かれてしまう彼女。ずっと年上の、今はもう時代遅れになってしまった彼のなかにある、"輝くもの"を見出したからだ。
彼女が彼のなかに見出し、魅かれたもの、それが"クレージー・ハート"だ。"クレージー・ハート"・・・それは音楽を生み出す才能のことであり、同時に普通の暮らしにはどうしても収まることができないハートのことだ。自分には無いものとして魅かれ、ためらいながらもクレージー・ハートに手を伸ばして触れてみるジーン。"クレージー・ハート"を持つ人と、"クレージー・ハート"に魅せられて手をのばさずにはいられない人と。この二人は互いを認め合い、結びつくことができるのだろうか。クレージー・ハートを持つものと、クレージー・ハートを理解するものとは等価の存在として一緒に生きていくことができるのだろうか。ジーンに感情移入しながら、ちょっと深よみすぎる感想を持った。
"クレージー・ハート"を持つ限り、バットは家庭に収まりきれずにドサ回りを続けることになるのだし、"クレージー・ハート"を持ち続けるからこそ彼から魅力的な歌が生まれてくる。だから、2人はずっと一緒にいるというわけにはいかなくなる。ジーンは"クレージー・ハート"に魅せられながらも、離れていくしか方法はない。
映画は、2人のハッピーエンドに終わらないのだけれど、むしろその結末が新鮮な幸福感を残す。離れてしまったからこそ、ひと時のことだったからこそ、"クレージー・ハート"に手を伸ばして触れてみたという経験が、色あせることのない永遠のものとなって、いつまでもジーンを照らし、勇気づける光のようなものになっているのだ。
クレージー・ハートを持つものと、それに魅せられるもの。
表現者とそれを受け取るもの。
ジーンの姿に自分を重ねながら、そんなテーマに心が捉われている。
繊細な女性
日曜日の朝っぱらからトイレットペーパーが切れている。まだ寝静まっている家族を待っていては大事に至るということで、財布をもって外に出てみると、しんとしているのはわが家だけ。世間様はすっかり目をさまして顔を洗ってひと仕事なさっている感じだ。
日曜の朝の神楽坂はスーパーの朝市が開かれていたり、パン屋さんが元気に挨拶をしていたりして、なかなかに活気がある。しかも、まだ観光客がうろうろしていない時間なので、同時に落ち着きもあったりする。
さて、感慨にふけっている場合ではない。トイレットペーパーだ。地下鉄の神楽坂方面から飯田橋方面へと坂道を下っていく。神楽坂上という交差点を渡ると、ドラッグストアの大手であるヒグチとセイジョーが真っ正面で向かい合っている。ちょうど、この向き合った二つの店が同時にシャッターを上げたところだ。よかった。ここまで来て待たされたら、えらいことになるところだった。
とりあえず、セイジョーの側にある歩道を歩いていたので、そのままセイジョーの店先にあったネピアと書かれたトイレットペーパー4ロール入りを手に掴む。いや、待て、と妙な予感がして、真向かいのヒグチの店先を見る。同じようにトイレットペーパーが積まれていて、大きく『168円』と書かれている。その圧倒的な存在感を放つ価格表示にうろたえつつ、手にしたネピアの値段を確認すると、そこには『298円』とある。同時に、かつて私を「ちんけな男」呼ばわりした妻の言葉が蘇る。中三の娘との会話の中で、嫁は確かにこう言ったのだ。
「トイレットペーパーは、やっぱりヒグチやなあ」と。
弾かれたように、車道を横切り、車にはねられそうになりながらもヒグチの店先に。そして、168円と書かれたトイレットペーパーをひっつかんでレジに並ぶ。並んでいる間にもさざ波のような震えが時折全身を襲う。残された時間はそう多くはない。それでも、落ち着きを取り戻そうと、何でもないふうを装って、トイレットペーパーのパッケージを見る。そこには大きく、カラフルな文字で、『ナイーブレディ』と書かれている。
ナイーブレディとは何だろう。繊細な女性なのか? 何故、トイレットペーパーに繊細な女性などという名前がついているのか? これではまるで女性向けの生理用品のようではないか。だいたい、トイレットペーパーを買うと、レジでは店の名前の入ったテープをチョロッと貼るだけで終了だ。つまり、私はここから自宅まで、ナイーブレディと書かれたトイレットペーパーをずっと世間様に晒しながら歩かなければいけないことになる。まるで、私自身がおっさんなのに「ナイーブレディーなんですよ」と喧伝しているかのようなおかしなことになる。いかん。これはいかん。どんな理由があろうとも、いくら大事が迫っていようとも、ナイーブレディを抱えて神楽坂を歩くなんて真似はできない。
私はナイーブレディと書かれたトイレットペーパーを手にしていることに耐えられなくなり、ヒグチからセイジョーへ引き返すが、やはり倍近い値段のネピアしかない。こうなったら二者択一だ。私自身がナイーブレディを名乗るか、ネピアを買って嫁に叱られるかだ。
思いあまって、立ち尽くしている間に、私には最後の時が迫っていた。身体の中で小さく音がして、歯止めが利かなくなるであろう予感がする。もう、迷っている時間すらないのだ。しかし、妻に屈するのも、ナイーブレディになることも受け入れがたい。
私は取り敢えず迫り来る危機を乗り越えるために、すべてを保留にして近くのスーパーのトイレに駆け込んだ。そして、事なきを得ると、ヒグチもセイジョーも放置して、そのまま喫茶店でコーヒーを飲んだ。
そうすると不思議なことに、「ナイーブレディになってもいいかもしれないな」という余裕が生まれたのだ。コーヒーを飲み干すと、私は軽い足取りでヒグチ薬局を目指すのであった。
製本かい摘み ましては(64)
革で装丁された本が、過ぎし良き時代のもの、あるいはそれに憧憬をあらわすに限らないことを知ったのは、鳥居昌三さんが私家版で刊行した2冊の革装本、北園克衛詩集『重い仮説』(1986)とジョン・ソルト詩集『Underwater Baclony』(1988)を見たときだった。銀座にあった山口謙二郎さんのTBデザイン研究所で、1990年代のはじめのころだと思う。謙二郎さんは函を数回ふって大理石の丸テーブルの上に本を出し、「ほら」と手渡してくださった。どちらもカーフ革による総革装で、表紙に色を抑えたシンプルなモザイクがなされている。つややかでわずかの弾力を感じさせるカーフ革を緊張で汗ばむ指で触れるのは気がひけたので、いったんテーブルに置いて指先をシャツでぬぐい改めて手にすると、あまりの軽さに驚いた。本文は和紙、なにしろ束が薄くて、どちらも10mmに満たなかっただろう。質感や装飾、実際の重さもさることながら、この本に連なる人の軽やかさが感じられて、革装は重厚貴重絢爛高価との思い込みはことごとく覆され、いわば"革装"のモダニズムにさらされた幸せな瞬間だったと思っている。
この2冊は季刊「銀花」98号(文化出版局 1994夏)で、鳥居さんを紹介したページに写真が掲載されている。「日本ひとめぐり 本工房の主人たち」という特集で、美術史家の気谷誠さんが書いている。鳥居さんは海人舎という屋号で私家版を出しており、革装本は7冊、ご自身の詩集『化石の海』(1985)を皮切りに2番目3番目が前述の2冊であった。いずれも和紙に刷ってソフトカバーで100部ほどを刊行し、そのうちの数部を装幀家の大家利夫さん(指月社)に依頼して仕立てている。鳥居さんが北園克衛の「VOU」の同人でもあったことから、気谷さんは北園の詩集への情熱を鳥居さんが引き継いでいるとし、北園が編集を担当した「書窓」(昭和14年 特集:現代書物文化)にも触れている。北園は、C.ジャナンやJ.クレッテによる装幀論を自ら訳してフランスの造本芸術を紹介し、黄、黄緑、グレー、黒などのモロッコ革を直線的なデザインでモザイクしてタイトルの『DOPHNE』の文字を電光掲示板のように配したピエール・ルグランの革装本を写真で掲載した。気谷さんは《おそらく彼にとって、造本芸術の中心地であったフランスの豪華な装幀は、理想の装幀を夢想するときの核であり、また同時に、触れようにも触れ得ない、彼方の美であったに違いない》と結んでいる。果たして北園はどう感じていたのか、残されたエッセイなどに私はまだそのヒントを見つけていないが、自身の手による実験の範疇におさまらない"革装"は、少なくとも当時の北園が向く先にはなかったように思う。おもしろいのは「書窓」のこの号に北園が寄せたエッセイだ。「未来の書物」と題して、写真とマイクロフィルムについて書いている。前者はのちの「プラスティック・ポエム」につながる。
さて『重い仮説』は、北園亡きあと、それまで全集には収録されていない作品の中から鳥居さんが選んだ4点をおさめ、大家さんが30部仕上げている。表紙のモザイクは北園のイラストで、そのイラストを表紙にした紀伊国屋書店のPR誌「机」(8巻1号 1957.1.1)が、世田谷美術館の「異色の芸術家兄弟 橋本平八と北園克衛展」(2010.10.23-12.12)に展示されている。兄弟の出身地である三重の県立美術館から巡回しており、北園が手がけた装幀やデザインも一覧できる。図録もすばらしい。デザインワークをまとめた章扉に置かれた言葉も、これまたすばらしい。《私の「理想の装幀」というものは、必ずしも、私個人の独創的なデザインの上のアイデアを反映しているという意味ではない。......それはどういうものかと言えば、ただそこには、その書物の著者名と書名があるばかりであるといったようなものである。......幸いにも今日ではブック・ジャケットがそういう役目を果たすことになっている。そういうわけで、最近の書物には、このジャケットに相当の費用をつかう傾向が強くなってきているが、このことによって、本当の本の表紙の方のデザインが閑却された形になっている。このチャンスを利用して、装幀家は、清新な理想の装幀を実現しているといったような言い方をしてもよいのではないかと思う。「装幀を感覚する」『朝日出版通信』4号(朝日新聞社 1961.12.20)より》。ただいま2010.12.01、今朝の朝刊のコラムにあってもなんら違和感はない。
11月、茅場町の森岡書店では《私は、北園克衛をどう見るか。How to look at : kit katを通じてデザインのプリンシプルを学んできました》というデザイナーの山口信博さんの「How to look at : kit kat 山口信博の北園克衛コレクション/展」があった。評論家で詩人の金澤一志さんを招いたギャラリー・トークの最後、信博さんがしみじみとこう言っ た。「あのペラペラ感、あの小ささ。年をとっても豪華にならないのは、立派だなぁ、見上げたもんだなぁと、思いますね」。北園の詩集はどれも小さい。いくつかあげると『白のアルバム』普及版(1932 厚生閣書店)縦175mm×横135mm、『若いコロニイ』(1932 ボン書店)縦84mm×横123mm、『円錐詩集』(1933 ボン書店)縦185mm×横146mm、『黒い火』(1951 昭森社)縦144mm×横118mm、『煙の直線』(1959 國文社)縦178mm×横148mm、『空気の箱』(1966 VOUクラブ)縦174mm×横113mm、『白の断片』(1973 VOU)縦178mm×横148mm。名だたるデザイナーはなるほどいつかは豪華本を作っている。もし自分がデザインを職にして自由のきく仕事がきたなら、一度は豪華にやってみたいと思うだろう。北園はデザインにもすぐれていたが詩人であった。あのスタイルが、もっとも自分が思う通りのかたちなのだろう。
信博さんのようにデザインやアート、ほかに建築、音楽など詩以外の関心から北園に惹かれる人は多い。金澤さんはそれを可塑性という言葉でお話しになった。北園自身は常に紙の上、それも見開きにどう美しく配するかを考えて詩を書いてきたわけだから、文字をばらしてタイポグラフィの素材にされたり曲をつけられたりするのは好まなかっただろう。でもかたちをどう加工したところで変わらない「北園克衛の詩」に確信があったから、かまわない、こだわらない気持ちもあったのではないだろうか。『重い仮説』も、北園の可塑性が鳥居さんに作らせたと言ってみたくなる。総革本にしてあの、ペラペラ感。手にした瞬間を思い出すたびにまた鳥肌が立つ。鳥居さんは、前述の「銀花」の取材時すでに体調をこわされていて、刊行前の1994年4月25日に亡くなった。それを書いた気谷誠さんも、2008年9月22日に急逝されてしまった。改めて、残念でならない。
掠れ書き (7)
太陽の光があたって反射する表面には、輝きしか見えない。雲が通り過ぎ、翳ると、細かい凹凸が浮き出す。曇った日には、物の輪郭はくっきり見える。日が傾くと、影が長くなり、重なり合って、色は複雑になる。求心力・重力がありながら弱まった状態で、観察する眼の運動は、自由になり、深くなる。
このように、中心の光や物がすでにあることを前提とした立場とは逆に、物のあいだ、隙間から考えることもできる。物の輪郭を見定めるとき、物の表面の終わるところではなく、何もない空間が物で区切られる、空間の側から見ると、そこに輪郭線が、物の占める場所からすこし離れて、切り取り線のようにはっきりしてくる。物はそのとき、影のように正体不明の障害物、空間にせり出して、眼を遮る不透明なスクリーンとなる。輪郭線が物の側ではなく、空間の側にある、しかも物とは接触しない、わずかな距離をおいて、輝きを持たない、そこだけ脱色されたような薄い線となって、物の侵入から空間の自由な交通を防衛している、そのこちら側でだけ、眼だけでなく、身体となった意識がうごいていることを、どう考えればいいだろう。
物に接触している身体は安定しているが、停まっている。いつまでもそうしてはいられない。外側だけでなく、身体の内側もうごいている。うごいているかぎり、はじまりも終わりもない。起源も目標もないと言っておこうか。誕生や死を見ているのは、その身体ではなく、その外側からの観察でしかないから。
アルチュセールがヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の最初のセンテンス Die Welt ist alles was der Fall ist について Fall を事柄とかケースとかではなく、文字通り「落下」と訳すことによって、エピクロスと結びつけている対話を読んだ(ルイ・アルチュセール「哲学について」)。まっすぐに落ちていく原子の雨の、粒子の軌道のわずかな偏り(クリナメン)のつくりだす結合や反発の関係のすべてが世界である、それも一つの世界 Universe ではなく、無数の世界 Multiverse であるという考えかたを、起源も目標もない、つまり無神論で非権力の庭に女も奴隷も迎え入れたエピクロスの哲学、というより、生活共同体を説明することばだと思えば、うごいていく身体である意識の活動が、この社会で、この制度のもとで、すこしでも自由になっていく方向で、どんな音楽になって響くか、についてのひとつのヒントがそこにあるだろう。アルチュセールは、材料としての物質や化学物質とはちがう、実験装置としての物質、身振りの痕跡としての物質について語っている。音楽のなかで、音は身振りの痕跡であり、記憶を刻む装置ではないだろうか。音楽は、かつてあった音楽によって条件づけられ、ちがう時、ちがう空間に何回も呼び出され、あらためて問われる。
音楽的記憶を刻み、ふたたび刻む演奏のなかで、その瞬間に突然何の理由もなく起こるクリナメン、それは自由意志のたとえでもあるだろう。偶然のなかにおかれて、決められた意志からは予想できない決断をしつづける、という意味では、自由意志は意志ではなく、意志をもたないことでもない。抵抗する意志の持続とでも言えばいいだろうか。知らない海域で暗礁を避けながら舵を切る航海は、速いように見えても、舟はゆっくりうごいていく。直線に見えても、稲妻形に折れ曲がっている試行の連続。
創造は計画とはちがう方向に傾いていく。そうでなければ、何も起こるはずがない。それが一回限りではなく、何回でも起こる、可能なかぎり創造しつづけることは、時間を瞬間にまで圧縮することによって、うごきまわれる空間を無限大に近づけること。水のように浸透し、蔓草のようにひろがっていく。
たとえをつみかさね、慎重に書きすすめていると、いつかたとえが定着して、それとしての意味をもちはじめるのではないか。本を読みながら、手がかりになることばを拾いながら考えることもできるが、書かれたことばや思想の引用は、それらへの同化ではなく、そこから離れるための足場とも言えるだろう。一般化していく傾向、抽象化する観察。どこかで見切りをつけて、個別のケースにもどる時期が来る。たとえは必要以上のものを呼び込む傾向があり、そのあいまいさが逆に必要な場面もあるにしても、たとえは別なたとえと矛盾することでみがかれる。付け加えることも、削ることも、プロセスのなかで起こることで、そこにたちどまらないで、つづけていくこと、そしてここでは、ことばは音ではないことを、しかし音を考えるにはことばしかないことを、時々思い出しながら。