2013年2月号 目次
『ジット・プミサク+中屋幸吉 詩選』のこと
市街地にこんもりとそびえる森の中に入り、いびつなジグザグを描く幅の狭いコンクリートの階段を、頂上を目指して一段一段踏みしめてゆく。島の季節は冬なのに、両脇に茂る緑にはまだいきおいがあった。しばらくのぼったところで、ふと足をとめてみた。高速道路を走る車の騒音がだいぶしずかになり、木々の枝や葉っぱをふるわせる風の音、そして三種類ぐらいの野鳥の鳴き声が聞こえてくる。
ここは、知花グスク――沖縄の由緒ある城跡であり、神さまを拝む聖地でもある。やっと、来ることができた。ここに来ることを、十年以上思いつづけてきたのだった。
一足先に頂上の展望台にあがった同行者が、額に手をかざしてつぶやいている。「ここからなら、東シナ海も、太平洋もみえるよ」。ぐるりと一望すると、一方の海のほうには米軍基地があり、もう一方には島の人びとの暮らす町があった。ずっとむこうには、緑の山もみえた。
そうか、そうだったんだ、とひとり納得する。詩人は、人生の最期に、どうしてもこの風景をみておきたかったのにちがいない。二つの海と、沖縄のすべてをまるごとだきしめてから、「カコクナ イシ」を奮いたたせ、「コチラガワ」へと旅立っていったのだろうか。ぼくはリュックサックから一冊の本を取り出して、大きく息をついた。
***
26歳。沖縄の詩人、中屋幸吉が自ら命を絶った年齢だ。それは、1966年、知花グスクでのことだった。『名前よ立って歩け』という、1968年に刊行されたかれの遺稿集に出会ったのは、2001年のブラジルでのことだった。偶然にも、そのときぼくは26歳で、何か宿命のようなものを感じた。
ブラジル滞在二年目のぼくは、サンパウロのある研究所に見習い研究生として属しながら、日系移民の聞き書き調査をつづけていた。そして、研究所に隣接する移民史料館の書庫のなかで、たまたまこの中屋幸吉の本をみつけたのである。移民とともに、書物もまたブラジルへ移り住んだのだろう。ちょうどそのころ、戦後沖縄からブラジルへ移住したY村出身の古老のもとへ足繁く通っていたので、「沖縄戦後世代の軌跡」という『名前よ立って歩け』の副題に、目が引きつけられたのかもしれない。一読して、たちまち、かれの詩に夢中になった。
私の名前を
小川の緑の草むらにひろげ
青空のような安心
とあそびにたわむれたい
にかよった水のながれ
いつもの通り
あくびしながらながれている
この空は
もうだれのものでもなくなった
私のすがたを残したまま
名前が後へあとへ流れてゆく
名前は
さようならと言っている
――中屋幸吉「名前よ立って歩け」より
ひらがなを多用するかれの詩は、何の抵抗もなくすんなりとからだにしみこんでくる。けれども、ひとつひとつの詩のことばを吟味すると、作品を理解するのはむずかしい。「名前が後へあとへ流れてゆく」って、どういうことなんだろう? のんびりした牧歌的な風景に重ねられる、かぎりない憧れと底なしのさびしさの気分。簡単にことばにできない、感情の深み。ああ、いい詩だな。ほんものの文学に出会った感動を、ぼくは異国の地で噛みしめたのだった。
あれから何年もたって、ぼくはサウダージ・ブックスという小さな出版をはじめた。そして「叢書 群島詩人の十字路」という、沖縄の詩人を中心に世界の島々やちいさな土地の文学を紹介する詩の本のシリーズをはじめた。
一冊目は、沖縄の詩人・高良勉とチカーノ(メキシコ系アメリカ人)の詩人アルフレッド・アルテアーガの共著。二冊目は、宮古島出身の詩人思想家・川満信一と、アイルランドの詩人マイケル・ハートネット。そして2012年の年末に、叢書の三冊目として、ジット・プミサクと中屋幸吉の詩選を刊行した。
編者をお願いするのは、八巻美恵さん以外に考えられなかった。八巻さんと会ったのは、ちょうど十年前のことだ。奄美の沖永良部島、ものすごい台風のあとだった。八巻さんが、水牛楽団の活動に参加して月刊のミニコミ「水牛通信」を編集し、そしていまはインターネット上の電子図書館「青空文庫」にかかわりながら、本作りの仕事をしていることは知っていた。けれども、東京で会うたびに島の焼酎がいかにおいしいかを熱心に語りあうことはあっても、八巻さんとは長いあいだ音楽や文学の話をしなかった。なんとなく、照れくさいような気がした。
水牛楽団のレパートリーのひとつに、中屋幸吉の詩に曲をつけた歌があった。そしてかれらの活動の根っこにあるのが、時の独裁政権にたちむかい、「生きるための芸術」と呼ばれる文学作品を数多くのこしたタイの詩人、ジット・プミサクの歌だった。調べてみたら、このふたりの才能あふれる詩人は、偶然にも同じ年に亡くなっている。激動の時代の、1966年。アジアの一角で「世直し」の情熱に燃え、若くして逝ったタイの詩人と沖縄の詩人の共著の本を、現代の「青春詩篇」としてよみがえらせよう。恋をして、理想を夢見て、音楽を愛し、友だちのことが大好きで、大いに笑って大いに泣いた、詩人たちの声がこだましあう本として。最初の出会いから十年の時間をへだてて、八巻さんと詩の話をすることに、もう迷いはなかった。
***
知花グスクの展望台のわきの茂みには、拝所(うがんじょ)があり、ちいさな石の祠があった。いつのまにか空には灰色の雲がかかって、雨でもふりだしそうな気配がただよいはじめる。遠くで米軍のヘリがけたたましい音を鳴らして急旋回するのが見えたが、「あれはさ、米軍住宅のある地区の上空を避けてるから変な飛び方をするんだよね」と沖縄の友人がぼそっと言っていたのを思い出し、やりきれない気持ちになった。
祠のまえの落葉を払って、刷り上がったばかりの『ジット・プミサク+中屋幸吉詩選』の見本と、コンビニで買ってきたオリオンビールを置いて、もうこの世にいない詩人たちの魂にむかって、手を合わせた。いつか、大好きな詩人・中屋幸吉の本をつくって、知花グスクにお参りをしたい。本ができあがったら、誰よりもどこよりも早く、この場所に届けたかった。その念願が、ついに叶ったのである。
缶ビールのプルタブを引いて、土地の神さまにささげるつもりで、ほんのすこし中身を地面に注ぐ。カシャッサ(火酒)をのむ前にはかならず一滴、二滴床に滴らせ、神さまや精霊に敬意を捧げる。ぼくがブラジルの酒場でおぼえた、粋な風習だ。のこりのビールは、二人の詩人を勝手に代表させていただき、グイッとのみほした。
海から海へと吹き渡る風をとおすように、本のページを一枚一枚、ゆっくりとひらいていった。遠い国タイに、ぼくは想いをはせた。そして、海を介してつながるすべての島々からきこえる歌に、じっと耳をすませた。心の深いところで小さな鈴がゆれて、詩の時間が流れだす。
しもた屋之噺133
今朝は暗い雲が低くたちこめる曇り空。息子の小学校の宿題で、今日はquo, qua, quiを含む単語で短文を作らなければならないそうで、こちらが学校へ出勤する前に宿題を手伝うわけですが、「parola
capricciosa(気まぐれな言葉)」を使ってはいけないと、国語の先生から言われたそうです。「パローラ・カプリッチョーザ」なんて、ずいぶん可愛らしい言いまわしだと感心しつつ何の意味かと思いきや、不規則変化をする単語を表すとか。
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1月某日10:30自宅にて
ジャンニ・ロダーリという作家がいて、息子の国語の教科書にたびたび登場する。宿題に出された詩は毎回、暗記してゆかなければならなくて、最後に書いてある作家の名前まで暗誦させられる。ロダーリはどれもよい詩ばかりで、はじめは感心するばかりだったが、次第に興味がわいてきて調べてみると、国際アンデルセン賞を受賞したほどの有名児童文学作家だった。本当に何も知らないことばかりで困る。逆説的にいえば、何も知らないことばかりで人生楽しいとも、まあ、言えるか。
フィレンツェにいったら、みんなが言っている、かわいそうな、「ぬ」に会うよ。
そいつは、カシラのない、かわいそうないぬで、あわれな動物さ。
なんでも、みんながカシラを吞み込んでしまったそうで...(以下略)
イタリア語で犬はカーネというが、フィレンツェ訛りではカの音が無声音になって、ハーネになる。
みんなが、最初の文字を飲み込んでしまったので、カシラのない犬がフィレンツェにいる、という話。
ロダーリがセルジョ・エンドリーゴという歌手と一緒に作った「はながいるね ci vuole un fiore」という歌は、大人も子供も誰でも知っている。
きみ みえるかな きこえるかな
きがつかなかった ちいさな ひみつ
つくえつくろ まるた、いるね
まるたなら きがいるよ
きをつくるなら たねがいるよ
たねつくるなら みがいるよ
みをつくるなら はながいるよ
はながいるよ はながいるよ
つくえ つくるなら はなが いるよ
はな つくるなら えだがいるよ
えだ つくるなら きがいるよ
きを つくるなら もりがいるよ
もり つくるなら やまがいるよ
やま つくるなら つちがいるよ
つち つくるなら はながいるよ
みんなのために はながいるよ
1月某日10:20自宅にて
ここ暫く日記帳が行方不明になっていた。その合間に亀之助の詩で歌とピアノの唱歌を書いた。「色ガラスの街」から、「私オチンチン嫌いよ」というくだりの旋律を思いつき書き留めたが、実際に譜面に起こすと、思いのほか複雑なリズムでおどろく。
学校の耳の訓練で使う素材を転用した唱歌を、これともう一遍書こうとおもっている。今回はメトロノームを使って生徒にやらせるリズム訓練がきっかけになっている。3小節の8分の9拍子と1小節の4分の4拍子からなる簡単なメロディーを、4分音符や付点4分音符のメトロノームと一緒に繰り返すだけだが、メロディーとメトロノームは「兵士の物語」のようにずれていくので、しばらく繰り返していると、見えなかった拍感が浮き上がる。
1月某日14:00 近所の喫茶店にて
辛いサラミとアンチョビーのパニーニで遅い昼食。夕べは久しぶりにヴィデオ・アーチストのルカと会う。家人がいなかったので、学校帰りの息子を連れてミーティングに出かけた。
「どうして犬が小便をあちこちに引っ掛けるか知ってる?」と息子が尋ねるので理由を聞くと、「犬の友達と連絡をとるためなんだ。犬には電話がないからね」と言う。人間の世界でもマーキングはあるそうで、窃盗団などが下見をした家に暗号を書きつけていくことだそうだ。
先日は、ボローニャでルカ・ヴェジェッティ、吉田もえさん、パオロ・アラッラのパフォーマンスを見る。吉田さんが木炭でカンバスに書きつける音を、パオロがコンタクトマイクで増幅し、コンピュータで変換させた音響。吉田さんは、まず「interosseous cartilage」とカンバスに木炭で書き、その上に「骨間軟骨」と漢字を重ねた。角ばった漢字と、丸みを帯びたアルファベットが重複する部分を塗りつぶしてゆくと、大正時代の飾り文字のようになった。後で彼女に尋ねると、クレーを意識していたという。彼女はカンバスや手元を一切見ないで、観客を見据えて絵を描いていく。感覚で書くのだという。
コンタクトマイクで、吉田さんが書きつける木炭の音を集める集音技術の話から、オペラ劇場やバイロイトはもとより、いにしえのコロスの時代から、空間の音を集め共鳴させることから、音楽を成立してきた、などと話していると、今回のパフォーマンスを監督していたルカが、そもそも楽器そのものが、身体から音を集めて反響させる共鳴具だよ、と口をはさんだ。
1月某日19:00ミラノ行車内にて
今日はトリノのエンリコ宅で、「東京」を舞台にしたオペラを作りたいというヴィクトルに会った。人類学者で日本研究アイヌ研究で功績を残した、フォスコ・マライーニの「随筆日本」を素材として考えているという。無知の極みで、実はマライーニや彼の家族についても、何も知らなかった。ムッソリーニのサロ共和国を受容れなかったため、名古屋の強制収容所で辛酸を舐めたそうではないか。名古屋に西洋人向けの「強制収容所」があったことなど、ついぞ知らなかった。
朝、行きの電車で電話を受けたので、帰りにRの家に寄る。挨拶だけのつもりが、どういうわけか、準備している音楽祭すべての演奏会の経費の話を事細かに説明してくれる。「XXのオーケストラは僕は世界で一番上手だと思うんだがね。もしかしたらベルリンフィルよりも上手かも知れんぞ。ところが何しろ安い。XXXユーロだ、信じられるかね」。信じられるかね、といわれても、どう応えたものか、返答に困る。
1月某日22:20自宅にて
ナポリ広場から運河の方へ折れたサボナ通りの角に、言われなければ気がつかないような場末の食堂があって、南イタリア出身の老夫婦が40年前に開いた。屋号は「カジキマグロ亭」といい、時々通うようになってずいぶんになる。馴染みの客ばかりで、一見客が入れるような雰囲気ではないかもしれないが、ここの「イワシのブカティーニ」は逸品なのだ。ところがこのおばさんは、事もあろうに、元旦の未明に追突事故に遭い、動けなくなってしまった。
彼女が事故に遭う少し前のこと、「カジキマグロ亭」で食事をとっていると、アジア人とおぼしき労働者風の男性がふらりと入ってきて、おばさんに何やら話しかけたところ、いつもは温和な彼女が突然声を荒げたので、思わず手をとめて振り返った。
「いつも通りサンドウィッチなら作ってあげるわ。10ユーロですって。あんた何を言っているの。お金ならたとえ1ユーロたりとも上げないわ。無心するくらいなら、自分で働きなさい。調子に乗るのもいい加減にして。大体、仕事中に入ってこないでってあれほど言っているのがわからないの」。
信仰心に篤い南の人らしく、こうして毎日食べ物を恵んでいるのだろう。自分が知らなかったミラノの一面を垣間見た気がして、どきりとした。
1月某日21:39自宅にて
「おおい、僕だよ。ステファノだ。一昨日、アスンシオンから戻ってきたんだ」。
一年ぶりくらいに、だしぬけにパラグアイ人の生徒から電話がかかってきた。昔はわざわざ指揮を習いにウルグアイまで通っていたそうだが、国から奨学金をもらい、ここ数年イタリアに留学している。もともとは同僚のクラスにきていたのだが、弱視だから指揮は無理だろうと言われたそうで、しょげていたのでうちに来るようになった。最貧国から来ているので、ピアノの伴奏者の謝礼すら払えないとこぼすが、子供のころから、イエズス会で育ってきたそうで、最初にイタリアに滞在したときは、会の施設で暮らしていて滞在費や食費は無償だった。
何もしなくていいのかと尋ねると、時々会のミサのためにピアノだかオルガンだかを弾くことと、門限があるのがちょっと、と文句を垂れる按配で、どこまでも楽観的なパラグアイ人だった。いつもひどく遅刻をしてレッスンに来ては、白目を剥き大舟を漕いで寝込んでいるが、何故か憎めないし、そこそこ才能もある気がする。「金がないので、レッスンに行かれない」とばかり言うので、「お金なんていいから来たらどうだ」というと、来ない。
「今度こそ時間通り行くよ」と明るく電話で約束したが、先日もやってきたのは朝のテクニックのレッスンが終わったあとだった。それで漸く来たかと思うと、喘息なのでもう帰る、という。なんとも憎めない調子でメキシコ人の生徒とレッスンを入替えてもらったりして、しっかりレッスンをやって帰っていった。彼を見ていると、人懐こいのは得だなと妙に感心させられる。子供のころから、日本にやってきた宣教師たちの話を読んだりして、ズィポーリなど音楽家も多いイエズス会にストイックな印象があったが、色々な人がいるということはわかった。
1月某日23:20ミラノに戻る電車中にて
今日の演奏会場は、今まで何度も通っていた辻にあった。ボローニャのガレリア通りを進み、マンゾーニ通りを入った所にあり、戦時中の爆撃痕が、目に見える形で残されている。爆撃で半分以上欠けたクーポラは、敢えて木で修復することで、オリジナルとの相違が際立たせてあり、ここで聴くグバイドゥーリナは格別の響きがした。こんな風に自分には書けないとおもうが、彼女の曲を演奏したり聴くたびに、どうにも立ち直れないほど打ちのめされるのは何故だろう。
隣に坐って聴いていたダニエラは、今日が誕生日だそうだ。連合軍の爆撃で崩落したクーポラを見上げながら、自分の祖父母は、ファシスト党に入党しなかったために、アルト・アディジェ州に逃げてパルチザンになったの、とぼそりと呟いた。
1月某日18:40自宅にて
階下で家人がバッハのパルティータの楽譜と、悠治さんの「アフロアジア風バッハ」の楽譜を並べて練習している。桃色の付箋が貼られたヘンレ版の譜面でアフロアジア風の原曲のモチーフをまず弾いてから、「アフロアジア風」のくだりを弾いている。分解されたというより、同じものを違う視点で眺める、ピカソのキュビズムのようだ、と家人は評したが、思いの外的を得ている気がする。
先日は、笹久保さんがやはりバッハを録音したものを送ってくれて、「もうバッハは何も参考にしないで、楽器にあった弾き方を、その時の感じで演奏しようと思います」。楽器のせいか、彼の弾き方からか、まるでアンデス音楽のように響くこともあって、面白くて何度も聴き返したが、不思議な深さに溢れている。独特の装飾がひしめく中南米の古い教会を実際に訪れたら、近い感想をおぼえるのかもしれない。悠治さんがシンセサイザーで演奏したフーガの技法や、ジャコモ・バルラの「首輪でつながれた犬の動性」のように、ドナトーニがフーガの技法の上を幾重にもなぞらえても、全く色褪せない瑞々しさは一体なんだろう。バッハとモーツァルトが家から聴こえてくるのは、精神衛生上とても良い。
犬狼詩集
109
流動する海面があまりに眩しくタールの沼のように炎上しはじめた
通行止めの標識のむこうで溶岩が夜の道路を発光させている
野火の黒い煙幕をつっきって平原から脱兎のごとく生還した
恐ろしい情景を想像すると必ず自分の背後でそれが起きている気がする
毎週金曜日ごとに二頭の猟犬に食い殺される女の話を聞いたことがあった
でも彼女に一週間の生存を保証するのはその儀式だ
太陽のことさえ長老はthe bright oblivion と呼んだ
こんなに暑い冬なら砂糖黍でも嚙んで過ごすしかない
夢想と死と詩の区別がつかず困っていた一時期があった
空が快晴と土砂降りによりきれいに分かれている
虹をもたらす光源がひとつスペイン語で沈んでいった
島がひとつの書物であるときかれらの冒険は最近の数ページでしかない
太陽が上る? ちがう、私たちが東向きに倒れているのだった
言葉は音なのだから文字では書けないという思い込みを誰が壊したのかな
何世紀か生きているという老人に思い立って会いにいった
呼吸数を極端におさえ牛蒡のお茶ばかり飲んでいるそうだ
110
空に水たまりのように別の質感のある別の空があった
きみが必要だと語るものの大部分はいびつな真珠にすぎない
冷たい空気塊の中に褐色の肌の聖母が出現した
小刻みに高度を変える旅客機の中で震えている
チーズに味わいを与えるダニがいるかどうか表面をよく観察した
そのギリシャ人の娘はケベックで育ったのでフランス語がよく話せる
街路樹の枝を落とすことを指示した市長にみんなが憎しみを覚えた
親方は煙草ばかり吸っているのに仕事は着々と進む
その街ではパン屋と詩人と犬がもっとも早起きだった
黄金(くがに)ですか三星(みちぶし)ですか意味を教えてくれませんか
散文が話されることはなく話し言葉はすべて詩のようだった
複雑な海底地形に翻弄されて波が一刻も安定しない
高原なのになぜか光と風の感じが海岸だった
「海水の上に雨の真水が載った状態のことを淡水レンズといいます」
素材をなるべく生の状態に戻すことが何より大切だった
サボテンの棘を抜き葉を炭火で焼いて葉肉を日曜日の食事とする
111
詐称の対象としてではなくidentityという言葉を使う人がうらやましかった
素粒子論がわからないのでせめて髪を短く切ってみる
雪の最初の百片を数えたなら幸福になれると彼女は信じていた
思考が突然現実化するほど恐ろしいことがあるだろうか
光だけが実在を保証するのでそれだけその分だけ夜が恐かった
ネヴァダ(雪をかぶった土地)の夜の星、光の宇宙的シャンデリア
きみの性的な神話がおれの夢をことごとく血まみれにした
人生が人生をめぐる命題群ならきみの存在も三つのソネットで要約できる
Reveryとdreamを閉めた扉で隔てて安眠を確保した
窓ガラスを破り外気を入れることで夜を一種の健康法としている
あらゆる写真をピンぼけにすることで優れた写真家となった女性写真家がいた
やはり私には水彩しかないと画材店でつぶやく老人に衝撃をうけた
切り抜いた円い紙とピンポン球と月がちょうど重なるように並べてみた
その蝕から一列に並んで空へと出てゆくことを計画する
誕生日なのでパスポートは更新しないか別の国のものに変える決意をした
月にささげる肉としては鹿と猪のどちらがいいのでしょうか
112
村はずれできみを待つ老人は必ず一時間後の天気のことを話したがった
木の幹が裂けるほどの寒気は経験したことがない
ピンホールカメラで三年をかけて月と星の運行を撮影した
市電の線路で硬貨を潰す遊びを四十年ほどやったことがない
ひとしきり雪が降った後の駐車場でフロントグラスを笑顔に変えていった
柑橘類にオレンジ色と黄色があることに謎をかけられたような気持ちになる
南瓜の肉を「オレンジ色」と呼ぶたびに恥ずかしさにうなだれた
赤葡萄酒の香りを形容するために自然物を並列してそれでいいのか
トロントに行くかモンレアルに行くか、グアテマラ人の大きな迷いだった
パンを食べながらその味わいに青空の名残を探す
使われなくなった線路の枕木の間にずいぶん大きな樹が育っていた
私たちの言葉が絶滅するなら毎日その歌をうたいましょう
そこまで愚かになれるなんて何度転生したのかわからなかった
Buffaloという名を耳にするたびそれを見たくてたまらなくなる
海風が右の耳から入り左の耳へと吹き抜けていった
強い風が鹿の耳のかたちに切り抜かれて見えない渦を巻いている
緑苔に坐る99─新繭隠り
春駒が(どこに)
そらにかける
身体の声は
繭を恋してる
新桑に
天からの滴は
ゆたかな
露の玉づくり
白い繭よ
白馬になりなさい
天のつゆじも
天のつゆじもに包まれて
大きな結晶を
育てています
(「冷え冷えと今宵冷えゆく砂の国。アルベール・カミュきみがたたかう」。無論、でまかせの57577でしかない。「はくちょうの成瀬有、いまかけります。年の夜のそらに顕つか─流離伝」。年末に病室の天井を見つめることとなり、古代の空や〈うた〉をテクスト不在で眺める数日。年占としての春駒に祈りを込めた。この世界が悪化しようと、あなたは気のボールを大きく育てて。)
犬の名を呼ぶ(9)
誰もいない小学校の校庭は、新年の改まった気分を強く印象付けようとしているかのようだ。誰にも動かされていない空気は、ただ寒いだけではなく、シャーベット状の氷の粒を含んでいるかのようだ。
遠くからも見えていた凧は校庭の真上に揚がっている。しかし、その糸は遙か南のほうへ降りていて、どこで誰が操っているのかはわからない。
校庭に行けば、誰かが凧を揚げている。そう思って駆け足でやってきた聡子だが、さほどがっかりした様子でもなく、眩しそうに空の凧を見上げている。ブリオッシュも凧を見上げていたのだが、すぐに飽きてしまったのか聡子の足元に座り込んでしまった。
「誰もいなかったな」
高原がそう声をかけると、聡子は凧を見上げたままで答える。
「でも、あっちに行けば、会えるんでしょ?」
そう言って、糸の降りていくほうを指さした。
「そうだな」
高原は答えて聡子の表情をうかがっている。聡子はじっと凧を見上げている。
「凧を揚げている人に、会ってみたいんじゃないのか?」
高原の問いかけに、聡子は笑顔だけで応える。
「聡子、探しに行こう」
高原はふいに言う。
聡子は戸惑うような表情を浮かべる。
「遠くってもいいさ。探しに行こう」
高原が言うと、聡子が表情を明るくする。
「本当にいいの?」
と聡子は声を弾ませ、そのまま言葉を継いだ。
「もしかしたら、いい人じゃないかもしれないよ」
「凧を揚げている人が、か?」
「うん」
なんだか楽しそうにそんな話をしている聡子が、高原にはとても愛おしい。気配を察したのか、ブリオッシュもすくっと立ち上がる。リードをつけようとブリオッシュのそばに近づいた高原だが、考え直してリードを小さなショルダーバッグにしまい込んだ。そして、聡子の背中とブリオッシュの背中を同時に小さく押した。
二人は駆け出した。
広い校庭の真ん中を切り裂くようにブリオッシュが駆け、その後を聡子が追う。少し凍っていた空気が左右に分かれていく。校庭の真ん中に一本の道ができたように感じられる。その道を高原はゆっくりと歩き始める。聡子の背中を眺めながら、そして、時々空で揺れる凧を見ながら。高原はゆっくりと歩き始めた。
校庭の端まで走って行ったブリオッシュは、まだ追いつかない聡子や高原を心配したのか、一度大きく引き返してきて高原の足元へとやって歩調を合わせる。高原が「いいよ。聡子のところへ行ってやれ」と声をかけるとブリオッシュは、今度は聡子の足元で歩調を合わせて早足で歩くのだった。
聡子とブリオッシュは校庭を横切り、小さな通用門のところへやってきた。まだ校庭の真ん中あたりにいる高原を聡子は振り返る。高原は聡子に笑いかける。すると聡子は迷いを振り切ったような表情で小さくうなづくと、ブリオッシュと一緒に門をくぐり、校庭の外へ出た。
高原は不思議な感慨にとらわれた。さっきまでは聡子が迷っているなどということさえ思わなかった。聡子が振り返りこちらを見た瞬間ですら、聡子が凧揚げをする誰かを追ってもいいのかどうか、迷っているなんて思いもしなかった。それなのに、高原が笑いかけた瞬間に、聡子は迷いを振り切った。その表情を見たことで、聡子が迷っていたのだ、ということを高原は知ったのだった。
ああ、笑いかけてよかった、と高原は思った。さっき、聡子が自分を振り返ってくれたとき、笑いかけてよかった。笑いかけたからこそ、自分は聡子を知ることができた。心からそう思うことができた。そして、ブリオッシュにも笑いかけてやればいいのか、と高原は思った。今度、ブリオッシュと二人だけで散歩に行くときにはそうしてやろう。妻にも菜穂子にもそうしてやろう。笑いかけてやろう。高原はそう思うのだった。
ブリオッシュも聡子も見えなくなった校庭の真ん中で、高原はそんなことを考えながら、立ち止まった。そして、何気なく振り返るように凧を見上げた。高原が凧の姿を認めたのと、凧が大きくバランスを崩したのはほぼ同時だった。高原は右へ左へと八の字を描いている凧を見つめながら、あの凧をいま操っている人を思った。凧が落ちないように、必死で糸を引き、緩め、手繰っている姿を思った。そして、その人の元へと急いでいる聡子とブリオッシュを思い浮かべた。
凧は少し持ち直し、揺れ幅を小さくしている。高原が思い描いた凧を揚げる人は、足元をふらつかせながらも踏みとどまっている。高原はその人の顔を確かめるようにじっと見ようとする。
もしかしたら、自分自身が必死で凧を揚げているのではないか。高原は漠然とそう思った。なぜ、そう思うのだろう。自分もこんなふうに空高く凧を揚げたいと思っているのだろうか。聡子やブリオッシュが見上げてくれるほど、空高く凧を揚げたいと思っているのだろうか。
風が強く吹いた。校庭の砂煙が舞った。糸が強く張る音が電子音のように響いた気がした。空高く揚がっていた凧が、右に大きく旋回した後、グンッと引かれるように空の奥へと押し込まれ、瞬く間に見えなくなった。高原は小さく声をあげた。
ブリオッシュの鳴き声が遠くで聞こえた。きっと聡子は見えなくなっていく凧を追って、全速力で走り始めたに違いない。
高原もその後を追う。大丈夫。もし、凧は見つからなくても、凧を揚げていた人はきっと見つかる。ブリオッシュと聡子がきっと見つける。
共同体とお葬式
最近、身近で不幸があり、共同体(コミュニティ)とお葬式についてちょっと考えるところがあった。
故人に枕経を上げてくれたおっさん(お坊さんのこと)と、親戚の人たちとでしばし語らっていた時、おっさんが「葬儀ホールでお葬式をするようになったここ10年ほど前から、地域共同体は崩壊した」と言う。それは、私にとっては意外な視点だった。
地縁や血縁でつながった共同体が崩壊したのはいつだろう。いくつか説もあるけれど、たとえば、小中学校の現場の先生たちは、高度成長期以降にお祭りが衰退して地域共同体の絆も薄れた、と理解しているように見える。かと思えば、宮本常一は『民俗のふるさと』で、すでに明治になって村落共同体がくずれてきたと言っている。それまでムラというのは同業者集団で、だから一斉に共同作業し、休み、年中行事を行ってきたのが、明治になって教員や役場の役人になる人たちが現れ、彼らが村を出たり、新たに入ってくるようになって、古来からの秩序が破られていったというものだ。その他にもいろんな説があるみたいだが、どんな説であれ、コミュニティは生きている者たちが生きていくために結束するという視点から語られる。けれど、最初に挙げたおっさんの話は、生きている者たちが死者のために結束するという視点でコミュニティをとらえていたので、それが私には新鮮だったのだ。
昔は、地域の助けがなければお葬式は挙げられなかったと、おっさんは言う。車もなかった時代に遺体を墓に運び、埋葬するだけでも大変だ。だからこそ、村八分(十分のうち二分の付き合い―火事と葬式―を残して付き合いを絶つ)にしていても、葬式では付き合わざるを得なかった。昔は通夜と葬儀の会場も、参列者への振る舞う料理も自分たちで準備したから、喪主が普段から付き合いの悪い人だと、近所の人が勝手に必要以上の食事を準備したりして散在し、報復したものらしい。
それが今では、葬儀社が全部手配して、ホールでやってくれる。うちは15年前にお葬式を出したのだが、そのときにはまだ葬儀用のホールというのがなかったので、お寺を借りた。もちろん今回でも帳場では町内会の協力が不可欠だが、寺を借りるより準備は楽だし、冷暖房完備だし、費用も立て替えてくれるシステムでお金をあらかじめ準備しなくてよかったし(15年前の葬式ではそのお金の準備だけでも大変だった)、満中陰と兼ねた粗供養方式になっていたし(市の習慣がそういう風になったらしい)...、というわけで、家族と町内会の負担はぐっと減った。これで家族葬にしてしまえば、本当に隣近所や親戚の誰の手も煩わすことなく、葬儀が執り行えてしまう。もっとも、家族葬はうちのような田舎ではまだまだ抵抗が強いみたいで、そんなにすぐには広まらないかもしれない。おっさんも、家族葬はまだあまり経験がないと言っていたから。
今回の一連の葬儀で、本当に数十年ぶりに出会った親戚の人もいる。家が近くて行き来をよくしている人もいるけれど、親の代は行き来があっても私はあまり行き来がなかった人もいる。それが、亡くなった日から通夜、告別式の長い時間を一緒に過ごして、昔の話なんかを親戚中でしていると、死の悲しみを共有する人がいることのありがたさをつくづく、しみじみ感じる。地縁・血縁でがんじがらみになっているけれど、亡くなるときだけはその帰属する縁があるのは安心だ。
最近は「まちづくり」、「コミュニティ再生」があちこちで叫ばれているし、老人や知的障碍者、その他の弱者を包摂しよう(ソーシャル・インクルージョン)という動きは盛んだが、それらはやっぱり生きている人どうしのつながりというのを前提にしている。もちろん、お葬式を出すのも生きている人同士のつながりがあってこそなのだが、そのつながりを支えてくれるのは死にゆく者であるという視点は、現在の社会ではほとんど意識されない気がする。東北大震災以降、絆ということが叫ばれるようになったのは、やはり死というものに向き合うことで生者がつながることができる、ということを私たちが感じ始めたからかもしれない。
オトメンと指を差されて(55)
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搭載機能55 自動新訳(改訳)補正機能
翻訳を表示する際に、この機能が自動的に働きます。本文内にある訳文と、本文全体の物語解釈に相違点が見いだされた場合、その訳文から原文を自動推定し、その場で物語解釈に沿うよう訳文を補正しながら読書することが可能となります。なおこの機能は文体レベルでも使用可能で、ある本文を読みながらまったく別の文体で意味内容を受け取ることもできます。
たとえば、『とりかえばや物語』や『夜半の寝覚』といった王朝文学の訳文を読ませた場合、本文内の記述から〈貴公子は敵役〉と判定されますが、時代遅れの訳文においては〈主人公は貴公子に無条件で恋慕しなければならない〉という先入観または〈嫌よ嫌よも好きのうち〉という近代的男根主義に引きずられているおそれがあります。この機能では、現代のジェンダー研究による強力なスクリーニング効果によって、時代的な訳文からも新訳を取り出すことが可能となります。
これによって、『とりかえばや物語』は単なる倒錯的な変態性欲の下世話物ではなく、優れた能力を持った女性が自己実現のために男装を選択するも世の中や周囲のジェンダー規範によって暴力的に揺さぶられる心理をつぶさに描いた作品として、また『夜半の寝覚』は多情な女性が乱れた性を続けた挙げ句初恋の貴公子の元へ戻る凡庸な話ではなく、レイプされPTSDとセカンドレイプに苦しむばかりかそのレイプ犯にストーカーされ続ける女性を周囲がいかに守りその中から女性自身がサバイヴしていくかを状況と心理の積み重ねで描いた作品として、鑑賞することができるようになります。
補正機能によって強化された両作品の結末では、主人公が敵貴公子に一矢報いるクライマックスが一層鮮やかになり、とりわけ後者での主人公が積年の想いである〈いかに貴公子が最低な人間であるか〉についてトラウマを乗りこえて吐露する様にはきっと胸打たれることでしょう。
新訳補正機能では、このように原典文芸の〈当時の社会に対して挑戦的であった〉または〈文学を書きつづることによって人生と戦おうとした〉ニュアンスを鋭敏に感知したり、ほかにも作品のテーマ性ないし語りの立ち位置を重要視した上で強調したり、一定の解釈を強める効果があります。詳しいオプションについては次項をご参照下さい。
機能はデフォルトでオン状態になっていますが、オフにすることもできます。ただしオフにした場合は、既存の訳文の解釈を無条件に受け入れることとなりますので、くれぐれもご注意下さい。
搭載機能55-2 自動新訳補正機能のオプション
オプションウィンドウでは、実行する補正機能を選択することが可能です。前項で挙げたジェンダー研究スクリーニングのほか、一人称検知や訳度調整といった項目があり、これらはダウンロードによって機能追加することもできます。
一人称検知では、一人称で記された本文から語り手の年齢職業性別といったパーソナリティを自動推定し、その情報を明示的にした口語的訳文を提出することが可能です。マニュアル操作によって推定情報を変更することもでき、これによって訳文の様々な読み替えが可能になるでしょう。
訳度調整では、座標内の一点を指定することで、訳文の硬軟を変更することができます。座標空間は死訳・過訳・胡訳・逐訳という4つのゾーンに分かれていますので、お好みの訳文に合わせてバランスを微調整して下さい。また、極端な訳文がお好みの場合は、座標空間の限界近くに点を設定すると、生成することができます。
ダウンロードによって追加可能の機能の一覧は、随時更新予定です。情報を登録することで、最新情報を常に受け取ることが可能です。登録については、こちらからアクセスして下さい。
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たびのひと
くすんだ壁の前に座る旅の人
道に迷っているのですか
外は風が強く、塵や枯れ葉が舞い散っています
淡い夕陽が小部屋に差しているけれど
あなたは青白いまま
狭い小部屋の時間は、旅の人には流れない
曇天の下に続く一本道に出れば
時計の針はやっと動き始めます
わたしとは異なる時間
川を越えても一緒になることはない
写真は具象か?
このところ、抽象化を思索する毎日です。
ところで、よく写真は写すだけだから簡単だなどと言われますが本当なのでしょうか? 記録に使う写真は間違いなく具象表現です。これは事実を写すことにほかなりません。一方で表現として行う写真は実はその製作工程は具象ならぬ抽象表現そのものであったりします。
写真はそれで何をイメージさせるのかを決めます。この時点で、ありのままということはありえなくなります。その次に、決めたテーマに沿って、写真の構図や表現を決めていきます。これをしないと、何が写っているのかよくわからない写真になります。そして、表現したいものに沿って写真を見える形に映し出すことになります。
結局、写真というものは、モノを写しこむという表現手段を使っているにすぎません。
さて、よく百聞は一見にすぎずなどといいますが、写真を撮る人から見ると写真というものは嘘をつくための道具のように見えます。事実を写しているように見えて、実際には事実を曲げることのできる写真。一度、見たモノすらも疑ってみる必要があるということでしょう。
それって、ホントなんですかねえ?
パティ・スミスに憧れている
この、くしゃくしゃの髪型は、パティ・スミスに憧れているからなんだ、と言うと彼女の事を知っている人は意外な顔をして、笑う。
8年ぶりとなるオリジナルアルバム「BANGA(バンガ)」(2012年8月)をひっさげて、パティ・スミスが来日した。仙台からスタートしたツアーは東京、名古屋、金沢、大阪、広島、福岡と丁寧に日本各地をまわるスケジュールが組まれ、著作のサイン会やインタビューに積極的に応えている姿に、東日本大震災と福島原発事故に遭った日本人を元気づけようとするパティの明確な意志を感じた。1月23日に渋谷のコンサートを聴いて、直接被害に遭ったわけではないけれど、世界から見れば、私自身も災害に見舞われた日本に住む者の一人だったんだなと改めて感じた。東京の会場に集まった人たちに対しても、被災地の人にむけるのと同じ思いやりが込められていると感じて、そんなことを思った。そして、それは、日本だけではない、パティや彼女の家族も遭遇している地球規模の問題に共に直面している仲間としての連帯感を持った思いやりだったのではないかと思う。奏でられたのは、とびきりのロックンロールだったのだけれど。
来日に合わせて翻訳が出版された回想記『ジャスト・キッズ』を手に入れて、早速読んだ。ロバート・メイプルソープと出逢い、自分の道を見つけていくまでの彼女の冒険譚だ。
本の中に心惹かれるエピソードが出てくる。「昔、母とショーウインドウの前を歩いていて、なぜ人はガラスを割って中に入らないのかと聞いたことがある。子ども時代、いつも店のショーウインドウを叩き割りたいと思っていた。たまに足で窓ガラスを突き破りたいという衝動にかられることがあるの」とパティ・スミスがサム・シェパードに話すと、彼はその話に共感してくれて「蹴ろよ、パティ・リー。俺が見逃してやる」と言ったという。
入れない場所に、欲しいものを飾ってうらやましがらせるショーウインドウ。欲しければガラスを破って入れば良いのに・・・。それは、単なる破壊ではなく、窮屈なルールにとらわれないまなざしであるとも言えるのだ。社会的には「反抗心」と呼ばれるものなのだけれど。
あれだけの事故があったにも関わらず原発をやめようとしない人たちについて、インタビューに答えるパティの考え方を聞いていると、彼女の物事を見る眼差しはちっとも曇っていないと感じる。彼女は自由で、正直で、率直だ。「しかたないんだ」と物事を留保するようなことはしない。パンクであり続ける彼女は、やはり私の憧れであり続ける。
初台、「騒」のこと、恵美さんのこと
去年の十月、パソコンに手持ちのCD、主に六十年代から七十年代のR&Bを取り込んでいた。少し飽きてきたので別のものでも入れよう、とおもい選らんだのが阿部薫のCDだった。十枚くらいあったの取り込みながらまだ手に入れていないものをアマゾンで探すと「ライヴ・アット・騒 阿部薫、鈴木いづみ、フリージャズメンとの日々」という本があった。著者の名前は騒恵美子こと土橋恵美子さんは初台に三十数年前にあった「騒」というライヴハウスのママさんだ。この本についての解説を見ると著者は2011年に亡くなっていることが書いてあった。すぐショッピングカートに入れた。私が騒に出入りしていた頃は本にある「店を閉めるまでの数ヶ月間の記憶が、じつはごっそり欠落している。」というちょうどその頃だ。
騒を知ったのは当時の情報誌のシティロードだった。熊本から出てきてすぐの田舎者の学生にとってその時の情報誌はぴあがメジャーだったが二週間ごとに出るぴあより月刊のシティロードのほうが財布には優しかったし内容がマニアックだった。騒のライヴ情報を見ると「生活向上委員会」のメンバーのライヴがあったのでここに行かなくては、と思った。「生活向上委員会」は高校の頃、NHKの教育テレビで「若い広場」という番組で知った。メンバーの中心人物の梅津和時さんがRCサクセションの「ラプソディ」でサックスで参加しているのもその後わかり、地方にはないものに飢えていた輩にとってはいっそう強く、行かねばならぬ、という気持ちになった。
最初に騒に行ったのはライヴがあったときか、ライヴがない営業のときかは覚えていない。カウンターに座った十八の若造は恵美さんに「生活向上委員会」の番組を見たこと、それでこの店に来たことを話したと記憶している。そしたら恵美さんは「この空間によく来る人もたくさんあの番組の収録現場にいたのよ。」と話してくれた。騒のことを空間、というふうにいつも言ってた。それからここで、梅津和時、翠川敬基、斉藤徹、板倉克行、原田依幸、宇梶昌二、森順治、菊池隆、井上敬三などの生の演奏を聴いた。客は少ないときで三人くらいというのもあったが、それぞれのミュージシャンが出す音はどれも魅力的だった。恵美さんが本に書いている話もその当時してくれた。大学入りたての無知な若造の話をちゃんと聴いてくれ、相手をしてくれた恵美さんはいつも優しかった。常連の方もとても優しく接してくれて、映画や音楽もことをいろいろ話してくれた。こちらの生意気で無礼なところもたくさんあったと思うが、みながそれを受け入れてくれた。今、その方々に会う機会があればあの頃の無礼、非礼、厚顔無恥な振る舞いについてお詫びをしたいがそれもいまはかなわない。
一度、新宿ピットインで久しぶりのマキさんの三日間のライヴある、というので恵美さんにいっしょに行きませんか?と誘ったところ、マキさんは目の病明けのライヴだったので恵美さん自身が気になっていたのか、二人で行った。まだピットインが紀伊国屋の裏にある頃のこと。
騒が閉まってからしばらく経って、恵美さんから連絡が入った。中野のPlan-Bで阿部薫の映像のイベントをやるから、と。自分が行ける日に行く。初めて見た動く阿部薫の演奏だった。イベントが終わったあと元騒の常連の何人かとファミレスで食事をしその時に「どうだった?」と聞かれた。いままでレコードで聴いた音とは全然違ったので「とても解りやすい明快な音楽だった。」と感想を言うと、大きな目をいつもより大きくしながら「でしょ。」と恵美さんは言った。
恵美さんと最後に会ったのは、池袋のCD屋さんに勤めている頃、帰宅途中の池袋駅構内だった。その時近況を話し、今住んでいるところの名刺をもらった。あれから十七、八年経っただろうか。
あしたのチョコレートに奮闘
さてさて、チョコがもらえる募金、「あしたのチョコレート」もいよいよ佳境にはいった。シリア難民も70万人をこえ、死者は6万人という異常事態だ。何とかチョコ募金の一部をシリアにもまわそうと、年末年始、僕はヨルダンとイラクのシリア難民を訪問してきたのだ。
今年張り切っているのが、斉藤爺さん。63歳でJIM-NETのスタッフに応募してきたのが一年前のこと。ちょっと僕も疲れてきたから若くてバリバリ営業のできる人に任せたい。若者を育てたい。求人に応募してきたのは、男性よりも女性が元気。営業には自信があるという30代の女性が数名だったが、中に紛れて、爺さんが一人いてびっくりした。
一時面接の結果、採点すると、爺さんが最高得点を取ってしまった。しかし、イメージでは、バリバリ、てきぱき働く若者のはず。でも採点結果は斉藤爺さん。何回計算しなおしても、斉藤さんの得点が高かったのだ。斉藤さんは見かけよりも老けて見えるし、息がかすれて、苦しそうにしゃべる。大丈夫だろうか? 過酷な仕事をこなせるのだろうか。僕が出張でイラクに行っている間に、最終面接を理事にお願いしたら、斉藤さんが選ばれていた。
この斉藤さん、働き始めると、なれない仕事で、てこずっているが、やる気満々だ。
「ハー、病院に行ったんです。ハー、先生にMRIの結果が良くなってますよって言われましたハー」
「ハー、妻にも、ハー、以前の会社で働いているときよりもハー、生き生きしているよといわれてるんです」と嬉しそうだ。そして、なんだか、すっかりと、皆の人気者になり、チョコ募金のリーダーをすることになった。
しかし、人生そうは甘くない。チョコ募金の個数が伸び悩んでいる。僕もだんだん心配になって、「斉藤さん、今日はどうでした?」毎日聞く。鎌田實代表も、心配して斉藤さんに毎日聞いてくる。
斉藤さんは、「ハー、みなさんから、ハー、毎日今日の売上個数を聞かれるんです。そして妻からも」
斉藤さんは、今日も、愛妻弁当を食べて、頑張ってチョコの在庫を計算して営業をかけている。チョコが売れ残ると大変なことになるのだが、斉藤さんを見ていると、なんともホンワカしてくる。
「まあ、いいか、きっとうまくいくし、うまくいくしかないでしょう(うまくいかなくてもしゃあないなあ)」
JIM-NETのチョコ募金、手作りの味わいが、あふれ出ている。
チョコ募金の申し込みはこちら
http://www.jim-net.net/choco/
製本かい摘みましては (86)
NHK「小さな旅」の大野雄二さんによるテーマ曲は、いつから流れているのだろう。田舎生まれの若者だった私には、豊かだけれど厳しい自然と温和だけれど退屈な人がいる「田舎」に媚びるような番組に見えたし、テーマ曲もそれを助長していかにも古くさいと思っていた。若者でなくなるうちにそういう気持ちは失せていき、番組の始まりと終わりに流れるテーマ曲もチャンネルを変えることなくしみじみと聞くものになった。体を過ぎる年月は心を過去につなげてくれる。先輩へ、両親へ、祖父母へ、見ず知らずのありとあらゆる先人へ。未来はそのなかにあるんだなと思える。
「小さな旅」で「旅人」をつとめる国井雅比古アナウンサーに久し振りに会う前に番組のホームページをのぞくと、これまで訪ねた場所の一覧があった。「コブックPDFをダウンロード」なるアイコンに誘われてゆくと、1回の旅をA4サイズにまとめたものが現れた。8つにくぎってあり、地図や写真に旅人のコメントもある。プリントして切り込みを入れて凹凸に折って、小さなガイドブックとして活用して欲しいというわけだ。「小さな旅」の愛称「こたび」のガイドブックだから「コブック」というのだろう。スタッフのどなたかがこっそりと、しかし楽しく丁寧に更新しているように見受けられる。
国井さんが担当した回をプリントして綴じてみた。厚みは5センチ程になり、ころんとしてかわいい。いつか国井さんのエッセイで読んだ「あーちゃんの紫」色の布で表紙を作ってプレス機に入れ、その日を待つ。前日からの雨がどしゃぶりになった。晴れたら市ヶ谷の釣り堀にと思っていたが、近くの喫茶店に場所を変える。話もそこそこ、渡したくてしかたがない。「あの、今日はプレゼントがありまして。これ、何だかわかります?」「......。小さな旅? ホームページ? 何これ......え、どうしたの? 作ったの? へぇ〜」なんてことを言われただけでたまらなくうれしい私。
自分で作ったものを贈るのが好きなひとは作ったものへの思い入れってあまりないんじゃないだろうか。考えるのが好き、作るのが好き、それで驚かれたり喜ばれたりしたら最高という勝手だからその瞬間が頂点、そのあとどう扱われようと処分されようと気にならない。こういう気の持ちようの初体験は小学校のころにある。初めてひとりで編んだマフラーを父にプレゼントしょうと仕上がりを母に見せたら、左右でこぼこでこれじゃあダメよとあっさり解かれ、編み直してくれた。ひろこがひとりで編んだのよ、母はわざわざ言葉を添えて、父はえらく喜び首に巻いて仕事にでかけたが、数日後、父の車の後ろのシートに隠されたようにしてあるマフラーを見つけた。改めて見ると父には似合わない色だった。ごめんよとマフラーに言って、あとは見なかったふりをした。あっさり解かれた時、泣いたのだった。母はだいじょうぶよとなぐさめてくれたのだが、そういうことで泣けてきたのではなかったが言葉にできなかった。
尾崎俊介さんの『S先生のこと』(新宿書房)に、S先生こと須山静夫さんから就職祝いにもらった手作りの本のことがある。絶版になった著書をプレゼントしようとして、手元に一冊だけ残っていた本を複製してくれたという。見開きでコピーした面を内側に折って重ねて白面を糊で貼り合わせ、見返し、花布、硬い表紙をつけ、表紙、カバー、帯はオリジナルに似せてあったそうだ。ひらくと煙草の香りがした、とある。尾崎さんはのちに絶版になった本を古書店で手に入れたが、この2冊は今も手元にあるそうだ。須山さんは手先も器用な方だったらしい。ご自宅の本棚はもちろん、庭に自ら穴を掘り、地下室も作ったという。
掠れ書き25 ピアノを弾くこと
ピアノは生活の手段だった。オペラの練習や歌の伴奏から、前衛音楽の演奏家になり、そこにバッハのようなクラシックのレパートリーを入れてきたので、ピアニストとしての教育は受けなかった。家が貧しかったのでピアニストとしての教育を継続して受けることはできなかったこともある。19世紀的な名人芸はできもしないし、やる気もなかった。1950年代の前衛音楽では点としての音のタイミングと強度を指定された通りに区別するのがすべてだったのか。それに対してオペラ的なものは身振りとしてのパターンを過剰に提示すればよかったのか。必要な身体技術を身につけるだけでピアノを弾くことはできる。作曲家だから作品を分析することができて、その知識の上で演奏を構成していると思われているかもしれないが、演奏している時に考えることは妨げにしかならない。同じメロディーが再現するからと言って同じ演奏はできないどころか、時間が経てば同じ音符もちがう響きがするのでなければ、演奏する意味がない。
書かれた音符のちがいをはっきり聞かせるだけの楽譜に忠実な演奏は、1930年代から数十年続いた演奏スタイルにすぎなかった。そうだからと言ってそれ以前の個性的な表現や技術や感情に支配された演奏スタイルに帰るわけではない。
ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グールドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。19世紀音楽はだれでも弾くから競争になるだけだし、音楽がもう死んでいて、経済的価値しか残っていない。
20世紀の構成主義や技術主義的な音楽観はバッハやベートーヴェンからシェーンベルクまでのエリートのものだった。音楽が制度であるかぎり、作曲や作品の権威はなくならないのかもしれない。でも、何を弾くかが問題であるうちは、音楽の歴史は作曲家の歴史で、楽譜に書けるようなピッチや時間の長さといった数量が中心である音楽は、市場経済の一部になっていくのだろう。
ピアノを弾くのがいやだった時期が長かった。シンセサイザーやコンピュータ、アジアの伝統楽器に惹かれていたこともあった。電子音には自発的変化がない、擬似ランダムな操作で変化を加えてもそれはほんとうの偶然ではなく、発見がない。伝統楽器は伝統のなかに入らなければ何もできない。残ったのはピアノだけだった。この19世紀の音楽機械、力と速度と量を操作する技術の楽器を異化することができないだろうか。
ちがう原理による音楽を作ることはできる。だが、「何」の限界にとらわれないためには、「どのように」からはじめるのがよいかもしれない。
音楽は音が聞こえるという「聞こえ」がすべてだ。聞こえるものの背後に音楽の本質があるというベートーヴェン的思い込みは耳の現実ではないように思える。音は聞こえたときは消えていて。音の記憶にすぎない。『印象がすでに表現だ(馬にとってのように)』(クラリセ・リスペクトール)。『見えること、それこそあることかもしれない、そのように、太陽は見えているなにか、そのものである』(ウォレス・スティーヴンス)。楽譜の上で左と右に見える模様は、右から左へ見ていくことはない。時間を横軸とし音の高さを縦軸とする格子のなかの模様を耳は聞いていない。音はすぎていき、次の音は前の音とはちがって聞こえるのを時間と呼ぶなら、時間は規則的に区切られた線のように連続してはいないだろう。記憶される音楽は録音された音楽とはちがう。
ピアノを弾くときは低く座る。ほとんどのピアニストは鍵盤を見下ろす位置に高く座り、背を前に倒しているが、これでは背だけでなく肩や腕にむだな力がかかるし、タッチが浅くなるような気がする。キーを見ながら弾くと、手や指の位置に関する固有感覚がにぶくなる。ピアノを弾いて疲れるのはまともではない。弾けば弾くほど身体から余分な力がぬけてらくになるはずなのに。と言っても身体は静止してはいない。静止させた身体から手や指だけを動かすのは部分的な運動でストレスが大きくなる。じっさいには、身体が静止しているときはない。いつもうごいているからうごかすこともできる。全身がいつも円を描くように運動しているから、それにのせて力を分散させれば、わずかな動きだけで大きな変化を作ることができる。聴覚神経も固有振動があるから音がきこえるのと似ている。
メロディーはさまざまな粒子の相互干渉の流れを無視して、音楽を一本の連続線に均す。近代和声は連続を求心性の周期に翻訳していた。ところが演奏はメロディーを音色の時差のグループに断片化し、和声を点滅する響きの距離空間に解体する。音色、音質、リズムの揺らぎは楽譜に書くことはむつかしいし、あらかじめ決めることができないから、指定することには意味がない。廃墟に残された道標のように何ものも指していない無意味な指定は、無視することができるばかりか、構造主義的な音楽観に特徴的な二項対立のように、取り除くことによって音楽は解放されるだろう。同時性、周期性は見かけの要約だから、乾物をもどすように指のうごきがこわばりを取り除いてしなやかさをとりもどす誘い水になる。ピアノの均質な音色は、強弱の差異を小さくしながらタイミングをすこしずらすことによって翳りを帯びる。
ここに書いていることには個人的な好みもあるが、時代のスタイルの現われでもある。その有効性ははじめから限られている。表現や構成や綜合をめざしてはいないし、それらからはむしろ解放された方向にひらいたものでありたいとは思うが、じっさいそうなっているかどうかはわからない。こうありたいと努力するようなことではなく、努力やよけいな緊張のない、なにかちがうものであろうとするストレスのない、うごいている身体がそれ自体とそれを撹乱する外側の両方に注意を向けている夢の持続のようなありかた。それはことばの本来の意味で練習とも言えるが、楽器の練習と言うときによくある反復ではなく、いつもちがうやりかたの実験でありつづけるという意味の練習と言ってもよいだろう。
ピアノ練習には音はあまり必要ない。聞くことに連動する身体のうごきを意識すればよいのだから。次の音の位置にあらかじめ手があるように、見ないでその位置を感じ、それからそれを音にする、そしてそこから離れる、それをグループごとに沈黙で区切りながらためしてみる、それだけのこと。音はすでに記憶だから、音のイメージはあり、じっさいの音にすこしさきだってあり、音をみちびいていく。知覚は感覚に約半秒遅れて起こるといわれるが、イメージは音を作る身体運動の半秒先を行くように思われる。それが楽譜を読む眼のうごきでもあり、初見の方法でもある。
音のイメージとじっさいの音との落差あるいは乖離は知覚の時差がある限りなくならない。音には思い通りに操作できない部分が残る。それは偶然でもあり時間を遡って修正することはできないから、それに応じて次の音のイメージが修正され、さらなる乖離が続く。完全な方法はありえない。演奏は不安定なもので、いままで書いたこともガイドラインにすぎないし、それだって保証されたものではない。
それなのに、確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられないためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。