2013年6月号 目次

製本かい摘みましては(89)四釜裕子
オトメンと指を差されて(59)大久保ゆう
しもた屋之噺(137)杉山洋一
雑感 今後の楽しみ大野晋
月を追いながら歩く(2)植松眞人
犬狼詩集管啓次郎
アジアのごはん(54)豆乳生活その2森下ヒバリ
103翠蓮──文明へ一声かける藤井貞和
放浪も破綻もせずに若松恵子
唐ぬ世から仲宗根浩
青暗い夕暮れ璃葉
「サストロダルソノ家の人々 ジャワ人家族三代の物語」の世界(2)冨岡三智
掠れ書き29(時を刻む論理)高橋悠治

製本かい摘みましては(89)

テーブルにトイレットペーパーを常備している。ちょっとした汚れをふくのにもティッシュペーパーに手が伸びてしまうのを避けたくて、パックマンみたいなトイレットペーパー・フォルダーを買って置いているのだ。パルプ製の真っ白で柔らかなティシュペーパーがスーパーの目玉商品としてタダみたいな値段で山積みされているのを見るにつけ、青少年たちよ、ティッシュペーパーはタダみたいな安い物だと勘違いしないでねとひとりごちる。我が家のティッシュペーパーの消費量はそうとう減り、トイレットペーパーのそれはずいぶん増えた。長年の消費ペースの習慣が抜けなくて、夜、コンビニにトイレットペーパーを買いにいくためにじゃんけんすることが今もある。コンビニで品切れがあったら困る。POS管理というものはこういう事象にどう関わってくるのだろう。

今冬、旅先で時間が空いたので美術館を訪ねると、平櫛田中展の最終日だった。巨大な天心像などが並ぶ天井の高い部屋がすばらしくて見とれていると、閉館時刻のアナウンスが流れてきた。売店に走るが図録は品切れ。聞けばこの日の夕方、つい先ほど最後の1冊が売れたのですと言う。残念です、しかし見事な仕入れですね。次の巡回先にお尋ねくだされば手に入りますと、連絡先を教えてくれた。というようなことを旅日記を書いたら、読んだ方が図録を送ってくださった。お便りには、あの日私が歩いた町を、同じような目的で訪ねておられたとある。あの日でなくてはならない理由は何もなかったのに、偶然が過ぎる。時間もあまりに近かったから会わなかったのが不思議なくらい。会ってはいなくても、すれ違ってはいたかもしれない。小さい「がっかりさん」みたいな奴が、羽根をパタパタさせている。がっかりさん、びっくりさんを連れてくる。

「品切れ」ということを考えていたのだった。横田茂ギャラリーの関連出版会社である東京パブリッシングハウス(TPH)が昨年末創刊した《crystal cage 叢書》は、品切れすることはあっても数カ月後には重版し、絶版としないことを実現するしくみだ。はなから「限定」を名乗る「本」とはまったく違う。年に4回、3タイトル(各170部)を刊行、それ以前に刊行していて品切れになったものは、その時期に合わせて重版するという。叢書第一弾の1冊、港千尋さんの『バスク七色』は間もなく品切れになったそうだが、予定通り、4月の第二弾刊行時に品切れ解消。本の品切れは困るときもあるけれど、約束がされているなら待ち遠しさを募らせることもできるというものだ。ウンチを我慢するのとは違う。

叢書は、詩人で多摩美術大学教授の平出隆さんがプロデュースしている。大学の研究室を出版社として登録し、8台の家庭用のインクジェットプリンターで本文を印刷しているそうだ。顔料インク8色刷り、1冊あたりのべ1000時間。プリンターは通常、時間を短縮するために双方向印刷の設定がなされているが、単方向にすることで鮮やかな印刷を可能としたそうである。ゆっくりと、インクをしみこませるのだろうか。書籍の内容のみならずこうした制作の工夫についても、ウェブサイトやリーフレットで詳しく公開されている。確かに文字も写真も美しい。厚すぎてめくりにくいと感じる本文紙だが、インクののりの良さで選ばれたのだろうか。自宅のプリンターに電源を入れてみる。くひ〜くひ〜。さーさーさー。くひ〜。毎度の悲鳴。必死なのだ。コイツも単方向設定というのはできるのだろうか。静かにゆっくりなんて、動けるのだろうか。

《crystal cage 叢書》の制作は製本の段階で初めて外に出る。仕様は、角背上製・布クロス装・箔押し各冊3色・糸縢り綴じ。これに、グラシン紙の帯と4色オフセット印刷の透明ケースが付く。外注するにあたってコストに見合う最小ロットが500部であることから、1冊170部という数字がはじき出されたのだろう。表紙ボールは1ミリ厚。本文紙に対してちょっと頼りない印象を持つ。この叢書は「場所」を全体のテーマとしている。第二弾の1冊、酒井忠康さんの『積丹半島記』を買う。半島の付け根、余市のお生まれだそうである。刊行記念のトークで、ある人の「因縁を持った土地というのは思いのほか手ごわい野獣だ」という言葉をひかれた。買った帰りの電車の中で片手で開いてすぐに読みたかったので、もったいないけど思い切って頁を開いた。め〜っと開く。ノドの奥まで空気が入って、きゅっという紙のきしみが産声のようだった。もしかして、気持ちいいのかな。


オトメンと指を差されて(59)

わたくし自分へのおみやげというものが大変苦手なのです。人様へのものとあれば、美味しいお菓子(みやげもの)も、まずい食べ物(いやげもの)も、たいてい外れなく見極められるのですが、旅の記念品として自分に何を買うか、非常に難しくて悩んでしまいます。所有欲が少ないと言ってしまえばそれまでですが、何も見つからなかった場合は、途上であがなった本でおしまいとなります。

とはいえ、本を所望するにしても特に旅の内容とは関係ないものよりは、何かしら思い出と絡めやすいものの方が後々よいですよね。なので実際はそううまくは行かないのですが、旅のあいだに類するものがないか探すよう努めてはおります。

たとえば何でしょうか、とりあえず近場の海外、ということで出かけたグァムでも、何か現地色あふれる本がないかと気にかけていたのですが、やはりというか、どうにも見あたらなくて。立ち寄れる範囲の書店には寄ったのですが、現地のガイドさんには、グァムの人はそもそも本読む人少ないからね、本屋も少ないよ、とまことしやかに言われた通り土産本探しは難航し、ガイドブック以上のものはなく、あれよあれよという間に旅の日程は終わりに向かい、何も見つからないまま出国手続きを終わらせ、税関を越え、あとは飛行機を待つばかり......というところで、待合エリアにふと現れたる機内読書用の小さなブックストア。ここにはないだろう、と思いつつも入ってみましたら!

   Håfa adai こんにちは!
   わたしの なまえは Isa、
   チャモロごで にじって いうの。
   チャモロは グァムの ことばだよ。

ありました。ご紹介するとその出会えた一冊目の絵本は『MÅNGE' MANHOBENに会おう』というボードブックで、おそらく英語のしゃべれる子どもに対して、グァムの現地語であるチャモロや、島の伝統や文化を簡単に教えようとするもの。Isa、Mariana、Kinの3人の少女少年を〈MÅNGE' MANHOBEN(かわいい子どもたち)〉と呼んで、一緒に楽しく学んでいけるよう作られており、わたくしが見たときはこれ1冊きりでしたが、今は続編も出ているとか(あとから知ったのですが作者によれば、チャモロと英語の並んだ絵本はこれが史上初めてのものなのだそうです)。

そしてさらにもう1冊絵本があり、なんとこちらは自費出版の絵本『TasiとMatina』。グァム出身の親娘によるもので、天涯孤独な一匹の魚とその友だちになった少女という現地の民話・伝説に基づいた、ぬり絵タッチのものです。

  「どうかしたの、Tasi?」
  「ぼくにも、せわを やいてくれる
   きょうだいが いたらなあって」
   Matinaは Tasiにさみしいおもいをして
   ほしくなかったので、にっこりわらって、
  「わたしが あなたのおねえさんに
   なってあげる!」

正直なところ、こちらの本文はお世辞にも上手な英語とは言えないのですが、〈旅の記念品〉としては、商業的にもこなれたさきほどの本よりも、こっちの方が愛着みたいなものがございます。慣れない観光などをしていても、海に関する言い伝えや人魚の話などが何度も出てきた、ということもありますし。

しかしながら、こうして出会えてしまえば、帰国後ほかにも自費出版されていないものかと気になるわけで。グァムの出版文化については寡聞にしてよくわからないのですが、同じ出版社の本を探ってみると、『Sirena』という形の整った絵本もありまして。

   グァムのお日さまが水平線から顔をのぞかせると
   Sirenaの小さな部屋にはあたたかい光があふれる
   また今日も泳げるとわくわくして目がさめるけど
   ママに山ほど用事を言いつけられるかなとも思う

グァムの人魚伝説に基づくお話。取り寄せてみると、たいへんデッサンのしっかりした長い黒髪の人魚がイラストタッチで描かれていて、出来のよいものでした。

しかしあらためて考えてみるに、お土産屋さんに日本人観光客向けの謎のおみやげをわざわざ揃えるくらいなら、ちょこっとこういったものの翻訳本を置いてみたりとかすればですね、お子さま連れの親御さんが買ったり、ちょうどお土産に持って帰ったりするんではないのかな、とも考えたりはするんですけど。難しいんでしょうか。そういう異文化体験も悪くないような気もいたします。


しもた屋之噺(137)

今日は雲一つない爽やかな日で、随分前にお送りする筈だった楽譜を、漸く七重さんに送信したところです。

「...前にお約束した曲名の種明かしですが、邦楽には全くの初心者ですから、多少は古典の勉強をしようと、まず『六段』の勉強から入ったわけです。結果として、今回の作品は『六段』の主題部分、そして『六段』の原形とも言われるグレゴリア聖歌の『credo I, II, III, IV, V, VI』の『visiblium omnium, invisibilium』の歌詞部分のみを素材として用いることになりました。『六段』が当初違う調子であったことや、琉球箏による『六段』などを聴くにつけ、伝統音楽において作品の本質は、調子を変化させても残るゆくことに強く感銘を受けたのです。ですから今回は、音階や調子そのものが楽器を渉ってゆく作り方をしてみました。悠治さんからギリシャ古代音階のテトラコルドについて沢山教えていただき、本当にありがたかったです」。

それから、特にお世話になった悠治さんと仲宗根さんにお礼を認め、この水牛の原稿を書き始めると、上の階から家人の留守を手伝ってくれている母親の高笑いが聞こえてきます。怪訝に思ってそっと覗きにあがると、座布団に寝転び「飼い喰い」を読み耽っているところでした。そんなに大笑いする本ではなかった気がするのですが、なるほど世代によって笑いのツボにも差があるのかもしれません。

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5月某日ミラノ行車中

日がな一日学校で教えてから、目の前の操車場を隔てた反対側にあるKさん宅へ息子を迎えに行き、中央駅へ走る。駅前にある場末の食堂で簡単な夕食をとり、ホームに向かった。ボローニャで特急から急行に乗り換えたところで、息子にアイマスクをさせて膝の上で寝かせると、ペスカーラに着いた23時過ぎまで、彼は昏々と眠った。彼の頭の上でずっと「時間の渦」の楽譜を開いていたとはしらない。

先日、ジェノヴァへ向かう列車が、トルトーナを過ぎたあたりの草原の真ん中で止まってしまった。ちょうど車掌が検札に回ってきたので次第を尋ねると、牽引していた機関車のパンタグラフが焼切れたという。
「パンタグラフの不具合により列車に遅れを来しております。復旧には最低でも60分はかかる見込みです。ご迷惑をおかけいたします」。暫くして車内放送が入ると、乗客からは一斉に失笑がもれた。2個あるうち片方の無事だったパンタグラフを使って、近くの廃駅までノロノロと走り、乗客はそこで降ろされた。一同ちょうど走ってきた対向列車に拾ってもらいトルトーナまで戻って、別路線でジェノヴァへ向かう。新緑の草原に打ち捨てられた廃駅で、乗客たちは思い思いに記念写真を撮る。天気もよくちょっとしたハイキング気分。

車中モーツァルトの488を読む。こんなに耳に親しい作品が、これほど入組んだ構造になっていたことに新鮮な驚きを覚える。モーツァルトの調性感は、そのまま五感に通じる。イ長調なら488の10年も前に書かれた29番の交響曲も、同じような暖かい手触りがする。クラリネット五重奏や協奏曲と同じ柔和な響き。

5月某日自宅

セレーナから、彼女が指揮を習いたいときいて驚く。聞けばスイス国境のドモドッソラでユース・オーケストラをやっていて、パート練習などで、彼女が指揮をしなければならなかったりするらしい。わたしは内気だから指揮などできないので、手で拍子をとっていると、コンチェルトのソロを弾きに来た彼女の父親がその姿をみて、情けないからお前も少しは指揮を勉強したらどうだ、と言われたそうだ。事情は皆それぞれだが、こちらが教えるのに緊張しそうである。何より、彼女が内気な印象など殆どない。

指揮を勉強してみたいと思う人は、先ず某か自分に表現したいものがあるのが普通ではないか。そして始めてみるとすぐに壁にぶつかる。音楽が自分の言うことを全くきいてくれない。頑張るほど空回りするので、余計もどかしい。もう止めようかと諦めかけたころに、漸く目の前の音楽を初めて自分が受容れられるようになる。音楽は自分でも自分の所有物でもないと理解したところから、演奏者と音楽を通じてコミュニケーションが取れるようになるようだ。その為には、自分の裡から音楽を剥ぎ取り、身体のなかを空にしたうえで、目の前で他者が演奏している音楽と自分がどう対峙するか、客観的に捉えることがもとめられる。音楽家が、自分のなかで湧き上がりほとばしる音楽をそのまま他者に伝えることなど、夢物語だとおもう。自分が考える音楽をまず他者と共有する言語に分解した上で、目の前の音楽にはめこむ。同時に音楽が起こす化学反応に対して再度新しい情報を与える。そのくりかえし。

レッスンで使う頻度の特に高い言葉に「重力」と「惰性」がある。「重力」と「惰性」によって指揮するからだが、「重力」を自身の腕で実感させるのは実はとてもむつかしく、最近はメトロノームに合わせて鉛筆を床に落とす仕掛けで説明を試みている。鉛筆を床に向かって投げつけるのでなく、上から落下させてメトロノームと同期させる。この時、指揮者の意識とは鉛筆ではなく、鉛筆を抓む指先だと理解することが大切になる。

......

コンクールを受けるため、数日拙宅に寓居しているY君は、その昔は共産党系として知られた、とある高名なピアニストが今もラフマニノフを弾かないのは、ラフマニノフが国粋主義者だったからだとイタリアのピアノ教師から習ったそうだ。共産党のお墨付きがなければ活動すらままならなかった、戦後イタリアの文化活動の一端を見る思いだ。現在イタリアもそれなりに豊かになり、彼らの興味の対象は外国へ向けられるようになった。

随分前にY君のピアノを初めて聴いた時のこと。一回聴いた後で何を言おうか少し迷って、とにかく10回、遅いテンポでメトロノームをつけて弾いてもらった。彼は当初納得できない顔をしていたが、5回ほど繰り返したころから、目の前の音を受容する表情に変化して、最後に好きなように弾いてもらった時には、嘘のように音楽的になっていた。一番驚いたのはY君自身で、何しろ自分ひとりで全てが変わったのだから。目の前の音を受け容れる、という一見簡単そうでむつかしい作業は、何も指揮に限った話ではないようだ。

5月某日自宅

「時間の渦」の練習は、管、ピアノと弦楽器をわけた分奏から始めた。グリゼイは、楽譜上でフルート、ヴァイオリンなど高音楽器を奥に、チェロとクラリネットなど中低音楽器が手前に来るよう、通常と反対の配置を指定しているが、やはり通常の配置に戻そうかと思う。クラリネットがどうしてもフルートの音を遮断するので、和音の響きが落ち着かない。
練習中、時間をかけて音程合わせをすると、別の音楽かと見紛うほど和音が豊かに響き、演奏が大層楽になった。
いくら各奏者が各々正しい音程を試みたところで、全体の響きが頭に鳴っていなければ、徒労に終わるところだった。元来和音を根底に据えて作られた音楽なのだから、傾向がより顕著なの当然だが、目の前の必要に迫られ本質を忘れがちになる。
微分音が混じると、基準音そのものが次第に曖昧になるため全体が飽和状態に陥るので、一度明確にしておかないと、各々無為に自分の音を主張して和音が雑じり合わない結果に終わるのだろう。砂鉄で砂絵を書こうとしてうまくいかないときに、紙の下に磁石を置くことで自動的に絵が浮き上がるような鮮やかな感覚。各々が耳をそばだてればそばだてるほど、音そのものも円やかに角がとれてゆく。

......

練習が終わって、トリエステ出身のスロベニア系イタリア人のズィナイダと食事をとった時のこと。
「君は自分はイタリア人だと思っているの。それともスロベニア人だと思っているの」。
「もちろん、スロベニア人よ」。
「家のなかでは何語を話すの」。
「家族とは、もちろんスロベニア語よ」。
「じゃあ、スロベニアに生まれたかったの」。
「それは違うわね。イタリアでよかったわ。でもその前はトリエステはずっとオーストリア領だったでしょう。あのまま、オーストリア領だったら、もっと良かったわ」。
「へえ、どうして」。
「イタリアは、各地方それぞれすごく特徴があるけれど、トリエステは特にイタリア文化とは歴史的に全く関係ないの。ずっとオーストリア領だったし。今でも文化はオーストリア文化のままよ」。
「ふうん。じゃあトリエステを分捕ってしまったイタリアが厭じゃないの」。
「お爺ちゃんの世代までは、イタリア人と交際でもしたら大変だったそうだけれど」。
「例えばさ、日本は今でも領土問題をずっと引きずっているんだけれど、トリエステのように微妙な地域を抱えながら、どうしてイタリアでは領土問題に発展しないの」。
「既に文書で条約が取交わされているわ」。
「スロベニアに復帰したいとか、思わないわけ」。
「思わないわね。今のスロベニア人は、過去のスロベニア共産主義時代を恥だとおもっているの。そこに触れられたくないから、スロベニアにも戻りたいなどとは考えないわ」。
「じゃあ、君は自分がイタリアの少数民族だという意識はあるの」。
「もちろんよ」。
「分かるようで分からない不思議な感じだ。生まれ育った日本にはない環境だから、実感できないのだろう。イタリア人との対立意識はないわけだね」。
「それはもちろんないわ。ほら、これを見て」。
そう言って、彼女はイタリア語とスロベニア語が併記された身分証明書を差し出した。

5月某日 市立音楽院教室休憩中

日本でお世話になっていた老婦人が亡くなり、可愛がっていただいた息子がメッセージを書いた。
「おばあさんがなくなって、ぼくもかなしいです。ミラノから、おいのりしています。たとえば、空で元気でいますかとか、くもの上で元気にねていますか、とかです」。

......

息子と路面電車で家に戻る途中、毎朝パンを買うジャンベッリーノ通りのパン屋の斜向かいに、乳児用品老舗「チェルーティ」という屋号があることに気がついた。69年に大ヒットしたガベールのナンバーに、「チェルッティ・ジーノのバラード」があって、当時ガベール自身が住んでいたジャンベッリーノ通り50番地の実在の喫茶店「ジーノ」が舞台になっている。
そこに屯する仲間の一人、場末のジャンベッリーノで働きもせずのらりくらり暮らすジーノが、あの夜スクーターを盗んで運悪く捕まっちまってサ、と歌うのだが、この「チェルッティ」のネーミングが、ジャンベッリーノ39番地にその頃から店を構える、ベビーカーやベビーベッドを売る、愛想もなく苦虫を噛み潰した顔のこの店主から何らかの霊感を受けたのは間違いない。苦虫店主とは毎朝パン屋で会うので、明日にでも経緯について尋ねてみようと思っている。

(5月28日ミラノにて)


雑感 今後の楽しみ

実は6月1日は仙台にいる予定だ。別に東北の支援というわけではなく、単純にシンポジウムへの参加とせっかくなので、ニッカウヰスキーの宮城峡へ行ってみたいと思っていて、その旅行が実現したという次第。面白いネタが仕入れられれば、次回あたりに披露したい。

さて、楽しみな話題をひとつ仕入れた。しもた屋の杉山洋一さんがマエストロとして凱旋される。ときは9月2日月曜日。場所はサントリーホールの大きい方。なんと、オーケストラにエレキギター、ジャズバンドまで加えた大所帯の指揮をされるらしい。現在、発表されている演奏曲名は次の通り。

ロルフ・リーバーマン:ジャズバンドと管弦楽のための協奏曲(1954)
野平一郎:エレクトリックギターと管弦楽のための協奏曲<<炎の弦>>(1990/2002)
池辺晋一郎・小出稚子・権代敦彦・猿谷紀郎・新実徳英・西村朗・野平一郎:新作管弦楽(題未定)(2013)<世界初演>

最後の曲名未定の曲(?)、しかも作曲者がずらずらと並ぶ曲がどんなものか? 思いのほかの大作なのか? はたまた、あっさりと期待を裏切る小品なのか? いまから、楽しみにしている。おそらく、現代曲のコンサートなので、客席は空いているだろうから、残暑の東京を夕涼みの楽しみに立ち寄ってみるのもよいだろうと思う。ちなみに、この夏はサントリーホールが8月中は定期点検で閉館なので、9月のこのシリーズがサントリー芸術財団のサマーフェスティバルという位置づけになっている。ダンスだの、リゲティだの、演劇とオーケストラのコラボだのといった興味深い出し物が用意されているらしいので、時間に余裕があれば、シリーズ券がお得だ。

コンサートの宣伝のようになってしまったが、5月のうちから9月のコンサートをとても楽しみにしている。もちろん、すでにチケットは入手済みで、発券だけが遅れている。ふと、発券をさぼるとキャンセルされたのではないか? と心配になる。そうでなくても、エリシュカが都響を振ったコンサートはチケットを発券せずにずっと履歴だけが残ってしまっていた痛い経験がある。以前のぴあの発券システムは期日が過ぎると決済済みでも発券待ちの履歴から消せなかったので、この間のシステム更改までずっと残っていて、私の後悔を念を見るたびに思い出させた。

という話の続きを考えていたら、東京都交響楽団の次期シェフが決定したという情報が舞い込んだ。情報源がジャーナリストなので間違いないと思うが、正式の発表がまだなので気が気ではない。さすがに、噂では感想も書けないが、なかなか、意味深な人事なので正式に決まったら考えるところを残すかもしれない。しかし、情報があっという間に広がる現代。マスコミという存在が必要なのかどうか、考えさせられたのは確かである。もう、きちんとした論考ができないジャーナリストはインターネットに淘汰される運命なのかもしれない。


月を追いながら歩く(2)

 空と大地の境界線を写し込まない写真は、なんだか気持ちを落ち着かせない。モノクロの画像は、写った空や雲が曖昧なせいか、水平が取れているのかどうかもわからない。
 裏書きされている『長野にて 一九八〇』という文字がなければ、それがどこで撮影されたものなのかわからない。いや、書いてあったとしても、それが本当かどうかなんてわからない。
 邦子は何度もその写真を眺めたり裏返したりしながら、小さくため息をついて、カフェの小さなテーブルの上に置いた。テーブルの上に置かれてしまうと、写真の中の空と雲はさっきよりも曖昧になって、写真の印画紙からテーブルの上にずるずると広がっていってしまいそうな気がした。
 ぬるくなったコーヒーを飲みながら、邦子はぼんやりとテーブルの上の写真を見ている。さっきひとしきり話したカフェの女の子は、なぜかそのまま邦子の目の前の席に座っている。
「仕事は?」と何気なく水を向けてみると、
「ちょうど終わったところなんです」と屈託なく笑い、立ち去る気配がない。
 この目の前に座っている女の子を味方にしてしまおうと邦子は決めた。この子は顔立ちがとても綺麗だし、なにより屈託のない笑顔と、写真をじっと見つめる眼差しが気に入っていた。今どきの女の子は、初対面でも友だちのように話すというが、あれは嘘だと邦子は思う。確かに、なれなれしい人も多いが、それは年齢に関係ない。会社を定年退職する間際の上司のなかにも、周りからセクハラだと言われてしまうほどになれなれしく話しかけてひんしゅくを買ってしまう人がいる。彼らは本当に人との距離感が分からない。でも、若い人たちは友だちのように話すふりがうまいだけだ、と邦子は思う。逆に心開いているつもりで付き合うと、こちらが痛い目に会ってしまうのだ。邦子自身も若い世代とのやりとりで、何度かそんな目に会っていた。そして、そんな経験を通して、邦子なりの若い世代とのやり取りのコツのようなものも知らず知らず身につけていた。
 邦子はあえてあまり興味がなさそうに、名前を聞いてみる。すると、女の子も、構えることもなく「かおるです」と答える。
「本当は薫という字で、もう一つ子をつけて『薫子』という名前がよかったんですけどね」
 そう言いながら、香は『香』という字と『薫子』という字を店の紙ナプキンの端にボールペンで書いた。よほど『薫子』という名前に憧れているのか、画数の多いこの字をすらすらと書いた。
「私は薫子でもいいんだけどね」
 邦子が笑いながらそういうと、香ははじけるように笑う。
「そんなこと言われたの初めてです」
「そうなの?」
「同い年の女の子には、ふざけて私のこと『かおるこちゃん』なんて呼ぶ子はいるけど、ほとんどの人たちには叱られますから」
「叱られるって、どういうこと」
「せっかく親が付けてくれた名前なんだから大事にしないといけないとか、薫子より香のほうがお似合いだよとか」
 そう言われて、今度は邦子が笑ってしまう。
「そうか。なかなか大変なんだ」
 みんなに自分が憧れている名前の話をしている香という女の子も大変だし、その話を聞かされている周りの人たちも大変だという気がして笑ってしまったのだった。その意味が伝わったのかどうかわからないが、目の前の香も笑っている。
「でも、香でいいです。なんだか薫子に憧れている香が、ちょうど私っぽい気がするし」
 そんなことを言う香という女の子が、とても愛おしい気がして、邦子はこの写真のことをもう少し二人で話してみたいという気持ちになっていた。


犬狼詩集

 118

私の村の小学校では山羊を飼っていた
白いあごひげと二本の角のある立派な山羊でした
杭で草地につなぎ一日をすごしてもらう
山羊は動ける範囲で草を食べ続けるので
草には円形に刈り込まれたような痕ができる
五年生になると教室は二階に移り
そのいくつもの円がはっきりと見えるようになった
「同心円」という言葉を初めて教わったのはそのころ
山羊が歩くたび同心円が描かれる、食べ続ける限り同心円はひろがり
こころ、こころ、と鳴り続けます
毎日適当に紐の長さを変えるので
山羊の仕事には濃淡が生じてきれい
ぐるぐる回るうちに円は螺旋になる
山羊は少しずつ地面から浮いている
夏休みを迎えるころには
山羊は、ほら、私たちの目の高さにいる


  119

見ることは事物を小刻みにふるわせて
卵が煮えるようにそれを固めてしまう
そのとき事物は自由を失い
世界は貨幣の裏側のように生気がなくなる
目をそらしてごらん、そらせ、そらせ
きみが見つめるだけそれだけ思い込みが刻印される
きみが知るだけの活字が総動員されて
すべてをアルファベットに置き換えてしまう
それでもう精霊が見えない
陽炎が見えない
星雲が見えない
つばめの飛跡が見えない
目をそらすという動きの中に
逃れ去る光のかすかな美が生じる
見つめてはいけない、目をそらしてごらん
それがphenomenophiliaの合言葉


  120

詩という名で体験されるものを言語の外に求めるとき
さまざまな動く気配が見えることがある
それは動物とも植物ともいいがたいがたしかに生きていて
自力の発光現象と反射光の散乱をうまく組み合わせている
そして物陰から不意打ちする
思いがけないところに隠れているんだ
高らかな音楽、口ごもるためいき
塗られた画布、こねあげたパン種
美しい自転車の暴走、凍った飛行機雲
烏賊の体表の斑点、タテガミオオカミのなだらかな首
強い風にゆれる大樹、強い風に踊る草
古い木造の長い橋、壊れた二眼レフのカメラ
SF映画の予告編、地下鉄駅の公共広告
だが一瞬見出されたそれらは音を立てて
洪水のように言語にむかって流入を始める
光が声になりざわめきが世界を限定してしまう


アジアのごはん(54)豆乳生活その2

なんか...太った。
いや、ぽっちゃりしたというべきか。その理由は分かっている。毎日、豆乳ヨーグルトをあれこれ試作しては、食べまくっていたせいだ。おまけにガスがたくさん出る。これって、一応女子としてどうよ...というぐらい出る。腸内が乳酸菌で活性化して、大掃除でも始まっているのか。

そうだ、フラクトオリゴ糖が減ってきたから、今度はネットで注文しよう、といろいろ探していると、フラクトオリゴ糖をたくさん食べると、ガスが激しく出て始末に困る...というクチコミを見つけた。あ〜、このガス大発生は、オリゴ糖の食べすぎだったのか。

豆乳ヨーグルトを作るとき、オリゴ糖を豆乳に仕込むと、乳酸菌の発酵がうまくいく。さらにオリゴ糖は腸内でビフィズス菌のエサになってビフィズス菌が大繁殖してくれるのだから、入れないわけにはいかない。オリゴ糖は多糖類の一種で、人間の腸では吸収されないが腸内善玉菌のエサになって腸内環境がよくなるのである。食物繊維のような働きをして、お通じもよくなる。

甘みが薄いのでついたっぷり加えてしまっていたのがよくなかった。豆乳500mlに7グラムくらいが適量らしい。2か月は持つはずの液体オリゴ糖が日に日に減っていき、ひと月も持ちそうになかったので、適量の2〜3倍投入していたことになる。

そういえば、オリゴ糖を入れようとして、うっかりいつもの何倍も器に入ってしまったことがあった。そのままヨーグルトにして食べたのだが、お腹がユルユルになった。ほんわかした甘さが好きだったのだが、適量入れるようにしたら、ガスは出なくなった。さらに、フラクトオリゴ糖よりも、ビートオリゴ糖のほうが体にはいいようだ。ビートオリゴは北海道産の砂糖大根(てんさい)から作られる。人間が甘みを楽しむのはあきらめて、ビフィズス菌のためにちょっぴり加えるぐらいにしておこう。

豆乳ヨーグルトは、いろいろなやり方で試作した結果、米乳酸菌液で作るのがいちばんおいしく、身体に合うことがわかったので、食べる量も一日200mlぐらいになっている。なので、だんだん体型も元に戻りつつある(はず)。朝ごはんを豆乳ヨーグルトや、豆乳と野菜ジュースにするダイエット法もあるというのに、何で太ったのか。これまで朝ごはんは紅茶のみだったのに、豆乳ヨーグルトを朝にも食べ、おやつにも食べ、晩にも食べていたら、まあ太るわね。ふつうに朝ごはんを食べている人が、朝を豆乳ヨーグルトだけにしたら、そりゃダイエットになるでしょう。

豆乳ヨーグルトは、豆乳300mlをちょっと温めてから、米乳酸液を30ml、オリゴ糖を少し加えて混ぜ、一晩おいておく。翌朝には固まっているが、とろ〜んとやさしい味である。もっと酸味がほしいと思い、前の日の昼ごろから早めに作って、常温で長めに置いておいたり、もう一日冷蔵庫で熟成させてから食べるようにしてみた。すると、コクも酸味も出てさらにおいしくいただけるようになった。ちなみに、乳酸菌液を入れすぎると、モロモロになって固まらないので適量を。

豆乳ヨーグルトには、豆腐作りに向いている濃いタイプの豆乳よりも、あっさりした飲料用のタイプが適している。添加物のない、産地のはっきりした大豆を使った無調整豆乳を使おう。いま使っているのは、九州のふくれんの無調整豆乳だ。九州産の大豆で、無添加。濃い豆乳のほうがおいしいかと思って、生活クラブの豆乳で作ってみると、ほとんど豆腐になってしまった。しかも豆臭い。豆腐がないときには、けっこう使えるかもしれないが...。

ふ〜む、この固い豆乳ヨーグルト(豆腐もどき)、乳清を切って水気をなくしたら、カテージチーズみたいなものが作れるんじゃないか。冷蔵庫に放置しておくと、だんだん透明な水分(乳清)が出てくるので、一週間ほど置いておいた。塩を少し入れておくと水もよく出る。水を切ってブレンダーでかき回すと、クリームチーズの出来上がり...あれ、マヨネーズ状になってしまったぞ。

水切りがぜんぜん足りなかったな〜、ぺろりと舐めてみると、んん、これは! 冷蔵庫を開けてマスタードを取り出し、塩麹も少し足して...胡椒は食べるときでいいな、もう一度ブレンダーでひと混ぜ。豆乳マヨネーズの出来上がり〜。ハンドブレンダーを買ってからはマヨネーズを手作りしているのだが、乳化させるために加える油の量がハンパじゃない。マヨネーズとは、ほとんど油なのである。しかし、これなら油分ゼロ。豆乳ヨーグルトを一週間も置いておかなくても、よく水を切ってレモン汁など加えればおいしくできるだろう。

さっそく瑞々しいレタスでサラダを作り、とろりとかけてみる。何にも言わずに同居人に出してみると、「おいしいね、このマヨネーズ。さっぱりしてる」「ふふふ。これ、豆乳ヨーグルトから作って、油も酢もいれてないねんで」「へええ。こっちの方が好きやわ」豆乳クリームチーズを作るはずが、なぜか豆乳マヨネーズになってしまったが、とりあえず大成功。

前回も書いたが、豆乳ヨーグルトの種となる、米乳酸菌液の作り方はいたって簡単だ。お米三合あたり500〜600mlぐらいの水で研ぎ、その濃いとぎ汁に白砂糖15グラム(大匙1)を加えてペットボトルに口ギリギリまで入れ、室温で置いておく。一日一回か二回ふって混ぜるだけで1週間もすればお米に付いていた乳酸菌が増殖して出来上がり。培養中に酵母が入ると炭酸発酵してブクブクになるので、ふたはゆるめておく。

リトマス試験紙でチェックすると、さっと赤くなる酸度になればいい。飲んでみて少し酸味がある程度。ヨーグルトの乳清の味である。出来上がったら、底に沈んだ白いものは酪酸が多いカスなので、上澄みをそーっと瓶などに移し替える。冷蔵庫に入れれば、酵母などが増えて炭酸発酵することもない。

この出来上がった米乳酸菌液は、豆乳ヨーグルトに使うほか、そのまま少しずつ飲むのもおすすめ。冷やして少し甘みを加えるとおいしい。さらに、薄めて化粧水にする人もいるし、部屋やトイレにスプレーして消臭、空気浄化にも使える。うがいや歯磨きにも。乳酸菌は豆乳が大好きなようで、豆乳ヨーグルトにすると乳酸菌培養液よりも十倍以上に増える。これで、ヒバリの腸内はピカピカ、免疫力増大! ...になってくれるかな〜。

米乳酸菌液を作るのは自信ない、という人は、好きな市販のヨーグルト(殺菌してないもの)を豆乳500ml あたり大匙2杯ぐらい加えてよく混ぜ、あればビートオリゴ糖を少し加えて、豆乳ヨーグルトを作ってみてください。乳酸菌は、一種類よりもいろいろあったほうが体にはいいけど、食べないよりずっといいからね。じゃあ、別に市販の牛乳ヨーグルトでいいじゃん、と思うなかれ。牛乳は日本人に合いません。乳脂肪はいろんな成人病の原因となる。豆乳(大豆)は逆に成人病を防いでくれるし、乳がんや子宮がんなどの女性のがんを予防してくれます。さらに免疫力を強めてくれるとなれば、日本中に放射能がまき散らされ続けている今こそ、豆乳ヨーグルトを食べなくっちゃ。

それに、乳酸菌を培養していると、乳酸菌が何だかカワイク思えてくる。最近のうちのペット、米由来の乳酸菌ちゃんです。食べるけど。


103翠蓮──文明へ一声かける

蛆たかれ とろろく女体
  かき抱きかき抱きつつ
  汝が命愛(=を)し    (岡野弘彦)
眠る蓮(=はちす)、古墳の甲冑、「蛆たかれ」、夜の明けのほどろ
能狂言の身ぶりに戻り、
近隣の助け合いと、
物々交換とから
再出発に向かいたい。
文明の難民として、
......
文明そのものに、
一声かける方向に転じたい。    (鶴見俊輔)
眠る蓮のひと、愛する女の、「蛆たかれ」、雷雨が一つ火に浮く闇
梅雨あけや
雷雨のあとの
たまり水 星のうつりて
夏近づきぬ     (成瀬有)
一睡の夢から、ちびきの岩かげに狂言師一人覚めて

(ハゲタカ号が四月十七日に、シェルブール港を出て、喜望峰から、オーストラリアの南端を通って、今月中旬に到着するのですって〈六月の悪夢〉。写真に見ると、輸送容器が三つ、見えるのだって。燃料は20体だから、一つで十分なのに、襲われたときの用心にダミーを乗せてあるらしい、と。機関銃を装備し、武装兵に守られて、相互に護衛しながら二隻でやってくる、げな。900キログラムのプルトニウムを含む、MOX燃料の向かうさきは高浜原発。あまりにものものしく武装してやってくるとなると、ロケット弾を一発、撃ちこんでやりたくなる。「関西電力は福島原発事故を他人事のように考えている」らしいと、伴英幸さん〈ビッグイシュー215号から〉。茂山千作さん〈千五郎さん〉、五月二十三日死去。)


放浪も破綻もせずに

第85回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した「Searching For Sugar Man」(邦題シュガーマン 奇跡に愛された男)を新宿で見た。高橋茅香子さんの「映画パンフレット評」を読んで、ぜひ見たいと思ったからだ。パンフレットに関しての評価は厳しかったけれど、高橋さんが「私はきっと、もう一度映画を観にいく。」と書いているのを読んで、その日のうちに出かけたのだった。見て良かった。現実の物語というのは、良いものだ。

1960年代の終わり、デトロイトの場末のバーでひとり歌っていたシクスト・ティアス・ロドリゲスは、大物プロデューサーに見いだされる。大きな期待を持ってリリースされたデビューアルバム『Cold Fact』は、商業的には大失敗に終わる。2枚のアルバムを残し、ロドリゲスは音楽業界から姿を消すが、アメリカ人のガールフレンドが持ち込んだことをきっかけに、彼のアルバムは南アフリカで大ヒットする。鎖国状態のようだった南アフリカで、自由を求める若い世代に支持され、本人も知らないうちに、ローリング・ストーンズに並ぶほど有名なアーティストになっていたのだった。反体制的なロドリゲスの歌は放送禁止になったりするが、アパルトヘイトへの抵抗運動に取り組む人々の心の支えとして聴かれ、運動の盛り上がりとともに広がっていった。しかし、アメリカで無名のまま消えてしまったロドリゲスについての情報はほとんどなく、南アフリカでは「失意のうちにステージで自殺した」との都市伝説だけが残されていたのだった。90年代になって、ロドリゲスの歌を聴きながら成長した2人の熱心なファンが彼をついに探し出し、南アフリカに招いて凱旋公演を行う、というのがこのドキュメンタリーのあらすじだ。

見る前にこのあらすじを知っていても、面白味が半減するという事はないと思ったので、書いてしまったのだが、それはなぜだろうか。やはり、この映画がドキュメンタリーで、現実の人々の現実の物語だという事が大きいと思う。

この映画のハイライトは、ついに、ロドリゲスその人が画面に登場する瞬間だ。ロドリゲスの佇まいが、彼の人生のあり方をまるごと伝えているように思えて、胸を打つ。どんな名優の演技にも代えられない、実在の人物が醸し出す魅力がフイルムに焼き付けられている。ロドリゲスだけでなく、彼と初めて電話で話した時の喜びを語るファンの子どものような手放しの笑顔や、凱旋コンサートに詰めかけた大勢の人たちの全身に満ちている喜び、父親としてのロドリゲスがどんなだったかを語る娘たちの表情それぞれも、ひとつひとつ魅力的だ。それを眺めているだけで楽しい。あらすじがわかっていても魅力が半減しないのは、この理由からだと思う。

伝説の人物を見つけ出す物語なのだけれど、見つかったところでおしまいという感じにはならない。映画パンフレットに「はじまりの物語」と書かれているが、同じような印象を私も持った。「あの人は今!」というテレビ番組では、輝きを失い、変わり果てたスターの姿を見ることも多いが、ロドリゲスはそんな事にはならない。

映画では、音楽業界を去ったあとの彼の人生が紹介されるが、ステージの上に居なくても(誰も見ていなくても)、彼は独立独歩に、彼のやり方で彼の人生を豊かにしてきたのだということが分かってとてもうれしかった。人知れず、彼が彼の場所で輝き続けていたということが、彼が見つかったこと以上に「奇跡」と思えた。独自の歌を歌う人は、社会にあわなくて、ドロップアウトしてやがて人生を破綻させてしまうというイメージを勝手に描いていた。ロドリゲスの歌のイメージからは、「失意のうちにステージで頭をピストルで撃ち抜いて自殺した」という方が合っているのかもしれないけれど、実際の彼は地に足をつけて生きてきたのだった。放浪もせず、破綻もせず、でも自由に生きてきたのだった。彼のその姿にファンは希望を見いだし、改めて彼のファンになり、新たな物語がまたはじまっていくということなのだろう。

この映画の影響もあり、ロドリゲスはまた人々の前で歌うようになり、この夏には大きなフェスヘの出演も決まっているという。高橋茅香子さんが紹介してくれているコンサート・レビュウによると「ギターを抱えてステージに現れた70歳のロドリゲスは、いつものように革のパンツにブーツ、黒いシャツと上着、黒い帽子にサングラスで、温かいユーモアをちりばめたトークでも満場を魅了した。」ということだ。歌う事を楽しんでほしいと、切に願う。


唐ぬ世から

四月終わりから五月初めの連休はシフトで見事に仕事が入る。まじめに働く。

そんな中、六年ぶりに会う昔の職場の同僚と八時間耐久飲酒。
途中、私の大好きだったベーシスト、国仲勝男の知り合いの方がやっているスナックに寄る。昔、ある音楽雑誌でライターもどきをやっていた頃、近所の店にライヴで来た時に色々話を聴こうと思っていたら、演奏終了後、そんなのいいからいっしょに飲もうと強制的に誘われ、取材などさせてもらえず、ライヴに来ていた昔馴染みのスナックのおねぇさんがたといっしょに飲み、帰りしな、お店の名刺をもらって別れた。そのあと、名刺はどこかにいってしまったが、図書館に行く途中、中の町の飲み屋街を歩いていると、かすかな記憶にある名刺と同じ名前の店の看板があったのでずーっと気になっていた。あれから十数年経ったであろう、ある日、夜の中の町の飲み屋街を歩いていると急にあのおねぇさんたちの店を確認してみようと酒の勢いもあり、階段をあがり店の入口でその時の話をすると覚えていてくれた。その時はカラオケで盛り上がっているお客さんもいたのでまた来ることをお約束し、やっとお店にお邪魔し、ゆっくりと当時のことを聴くことができた。国仲勝男のLPを買った高校生は熊本で沖縄の音楽の状況とか全然知らない。おねぇさんたちも音楽よりもその頃溜まっていたディスコでいっしょに飲んでいたことを話してくれた。国仲勝男の映像は「山下洋輔トリオ復活祭」のDVDで見ることができる。でもベースは弾いていない。

長時間飲酒の翌日、起きてもつかいものにならず惰眠。連休が終わると沖縄は梅雨に入るが、今年はゆっくりだなぁと思っていいると、五月十四日に梅雨入り。

最近、楽器を触っていないので近所の楽器屋さんにギターの弦を買いに行くと、CDやDVDの取り扱いをやめるとかの告知が出ている。その数日後、以前働いていたCD屋の沖縄の店舗が閉店する記事を新聞で見る。今はしょうがないか、とおもう。音楽ソフト、DVDは全部ネットで購入している。近所の楽器屋さんのCDコーナーを見るとレアなジャケットのものが売れずに残っているのを発見したが中身は同じなのにジャケ違いで購入するとまたあれがあれこれいうのがわかるので購入を諦めた。時代は変わる。

近所を歩いていると「屈辱の日」の集会のちらしが電柱にまだ貼られている。どの政党もどの団体も貼りっぱなし、あとはほったらかし。
「唐ぬ世から大和の世 大和の世からアメリカ世 アメリカ世からまた大和の世 ひるまさ変わたるくぬ沖縄」と嘉手苅林昌、佐渡山豊も歌ったこの一節が「沖縄を返せ」よりしたたかだとおもう。

梅雨の中休みは見事な入道雲
本格的に夏が始まり、東京にいた頃の若造は沖縄で五十になった


青暗い夕暮れ

夕暮れの野原は青く、空は灰を被り、風は遠いところでじっと立ち止まっている
木の幹も揺れる葉も口を噤んだ
灯りは草花を染めることが出来ずに、木机の上で内緒話をしている
耳はわたしの心臓の音だけ掬いとった

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「サストロダルソノ家の人々 ジャワ人家族三代の物語」の世界(2)

先月は、この小説の翻訳について書いたが、今回は小説の世界について感想を書いてみたい。

書評については、次のものが参考になる。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2013/02/post_284.html

あらすじ:
この小説は、オランダ植民地時代末期から日本占領期、独立戦争を経て1965年9月30日事件(スカルノ体制崩壊につながる共産党虐殺事件)に至るまでのインドネシアのジャワ社会において、プリヤイ階級に属するサストロダルソノ家三代の物語を、家族それぞれの視点からつづった物語である。初版は1992年刊行で、原題は『Para Priyai -sebuah novel(プリヤイたち、一つの小説)』。ガジャマダ大学文学部教授のウマル・カヤム(1932〜2002)が、ギアツなど欧米諸国のインドネシア研究者によって語り継がれてきたプリヤイ解釈に失望して執筆したという。プリヤイ階級というのは、植民地時代にオランダ式教育を受けてホワイトカラ―職(役人、教員、軍人階級など)に就いた社会階層のことで、庶民とは異なる独自のライフスタイル、立居振舞、宗教的スタンスなどを持っていた。ほぼ世襲だったが、中には稀に庶民からプリヤイの世界に這い上がることに成功した者もある。ここに描かれる一族の始祖サストロダルソノも、教育を受ける機会に恵まれて農民の子から小学校教員となり、プリヤイ階級の末端に連なった。つまり、この小説はプリヤイになり、プリヤイであろうとする家族の物語なのだ。

  ●プリヤイと王

この小説を読んで最初に感じたのが、地方在住のプリヤイにとって王宮は遠い存在なのだなということ。私は、中部ジャワのスラカルタ王宮やマンクヌガラン王宮で舞踊やガムラン音楽を勉強していたから、称号や装束や振る舞いなどによって王宮における階級差や序列がいかに表現されているか(また、いたか)、かなりイメージできる。その環境にいると、自然と王が絶対であるかのように思えてしまう。

だが、東ジャワの町、ワナガラ(架空の町)を舞台とする登場人物にとって、たとえばハルドヨ(サストロダルソノの二男)が言うように、マンクヌガランの「王様閣下」は、「昔のマタラム王国のほんの一部に過ぎないソロ地方の半分を治めるだけの小さな王国の王(p.235)」である。「たとえその権力がどんなに小さくても、私にとってはジャワの王様であることに変わりはなかった(p.235)」と尊敬しているとはいえ、王宮関係者や王侯領内の農民のように王との距離が近い者なら、あるいはB.アンダーソンのジャワ王権論の読者なら、ジャワの王の存在をそういう風には言わないだろう。正直なところ、私はハルドヨの率直な現実認識に驚いた。彼のこの相対的な視点は、給料をオランダ植民地政府からもらっているプリヤイだからこそ得られたのだと思う。

ハルドヨはマンクヌガラン王侯領府で働く教師として推薦されたときに、オランダ領東インド政庁の教員として働くよりも給料が下がるが、それで良いかと念押しされている(p.233-239)。上の彼のセリフは、まさにそのときに出てきたものだ。プリヤイにとって、ジャワ王家が小さな存在であることは、支給される給料を見れば明白だ。しかし、ハルドヨやその父・サストロダルソノが、給料が下がってもマンクヌガランの王のために働くことは名誉であると考えるように、ジャワ王家はプリヤイの精神的な支柱になっている。

けれど、プリヤイ一家の初代・サストロダルソノとその息子ハルドヨでは、王に対するイメージは少し違っている。サストロダルソノは、子供たちにワヤン(影絵芝居)や古典文学(ジャワの王が記した『ウェドトモ』や『ウランレー』の詩集など)に幼少から親しませ、結婚式にはワヤンを上演し、人をワヤンの登場人物になぞらえて評価し、何らかのメッセージを伝えたいときは子供に詩の朗誦をさせる。彼は、遠縁の伯父クスモ・ラクブロト(p.255)のように、ジャワ神秘主義を自ら実践――川に身を沈めて瞑想するなど――するところまではいかないが、「王様は超能力をお持ちなのだから」、一生懸命仕えるようにと息子に助言をする。一般的に、ジャワの王=神秘主義の実践を通じて得たパワーを持つ存在、と考えられているからだが、ハルドヨがマンクヌガランの王を尊敬するのは、そういったパワーがあるからではなくて、王が、近代へと移り変わっていく時代に立ち向かおうとするから――つまり、砂糖などの産業を振興し、下水溝などのインフラを整備し、教育や芸術にも力を入れるから、なのである(p.236)。このあたり、プリヤイ二代目としての発想だなあと感じる。

  ●家族儀礼

この小説では歴史的事件を背景に家族3代の物語を描くのが主なので、家族儀礼の様子はそれほど詳しく描かれていないが、それでも、花嫁の家で盛大に式を挙げたあと、1週間後に花婿の家でも祝宴を設ける(p.65)という結婚式のあり方、妊娠7か月目にミトニと呼ばれる安産祈願の儀礼をすること(p.143)、人が亡くなると遺体が水で清められ、夕方に埋葬され、夜に(少なくとも死後3日目までは)法要がある様子(p.44-45)などが描かれている。当時のジャワ人プリヤイが生きていたライフサイクルを知る上で、これらの描写は貴重だ。もう少し詳しく描写してくれると、ジャワの風俗を知る上でさらに興味深くなるのだが...。もっとも、著者のウマル・カヤムは作家以上に研究者なので、ちゃんと時代考証、儀礼考証するほど暇ではなかったのだろう。

余談だが、結婚式のシーンの「いろいろな料理があたかも川を流れる水のように、とどまることなく次から次へと運ばれた(p.65)」という描写について、料理が次から次へと出てくる様子を、ジャワ人は川の流れに喩える。私自身、ジャワで人を招いたときに、料理をせっせと作って出していたら、バニュミリだねえと褒めてもらったことがある。バニュミリというのがジャワ語で水が流れるという意味。ジャワ舞踊やガムラン音楽では、水が流れるように滑らかに優雅に動きや音が移っていくのがアルス(上品)とされるので、私には最も親しみのある語だったのだが、料理を出すときにもバニュミリと形容するのか...と、当時、意外に思ったことを思い出す。ここの描写を読んでいたら、その時の情景が蘇ってきた。

さらに余談。お葬式で夕方に埋葬するとあるのだが、ここ、原文ではsiang(昼)なのかsore(夕方、午後3時前後〜)なのか、気になる。昔のことは分からないが、現在のジャワでは墓地に埋葬するのは1時頃からである。ジャワでも日本(少なくとも私の地域)でも、墓地には朝から行くのが望ましく、夕方にはお参りしないものだが、一体何時頃に埋葬されていたのだろう...。

  ●名づけ、改名

この本は註釈がなくて読みやすいのだが、逆にもっと註釈を入れて説明してくれてもよいのに、と思う部分もある。上項の家族儀礼や、ここで述べる名づけの習慣がそうだ。複数の翻訳者の中に、伝統文化の註釈者を1人加えてくれたら良いのになあと、正直思う。

ジャワ人はよく改名する。この本でも、サストロダルソノは幼名がダルソノだが、それは農民である彼の父親に目をかけてくれるプリヤイが名づけてくれた名前で、本来はプリヤイの子の名前だという。母親は当初、そのような名前は村の赤ん坊には重過ぎて短命になることを不安がっていたが、結局受け入れる(p.49)。そして、そのダルソノが教員になってプリヤイの仲間入りをするとき、父親は、今度は立場にふさわしい大人の名前としてサストロダルソノと名づけてやる(p.56)。また、サストロダルソノは預かった田舎の子、ワゲを学校に行かせると決めたときに、学校に行く子にふさわしいように、ランティップという名を与える(p.34)。また、サストロダルソノの長女、スミニの結婚相手のラデン・ハルジョノが結婚の申し込みの手紙をよこした時、彼はすでに副郡長となっており、ラデン・ハルジョノ・チョクロクスモと長くなっていた(p.114)。こんな風に、ジャワ人は社会的な立場が変化するにしたがって、それぞれの立場にふさわしい名前に改名する。

余談だが、他に、病気が治ることを祈って改名することもある。私の舞踊の師匠は、1950年代に、生まれて1歳に満たない長女を舅と姑に託して海外公演に出たことがあるのだが、帰国したら長女の名前が変わっていた。それは、子供が大病にかかったときに舅と姑で改名してしまったためらしい。

  ●洋風の呼び方

サストロダルソノの孫世代、つまりジャカルタに住む長男の息子、娘の名はトニー(独立戦争で死亡)、トミー、マリーと外国風だ。特に後者の2人。確かに、こういう名前が都会の裕福な家の若い世代には多いなあと納得する。そして、トミーとマリーは両親のことをパパ、ママと呼ぶのも、他の家族と違うところだ。実は今から10年くらい前のこと、1970年代にソロからジャカルタに移った人から、「ソロでは、まだ両親のことをバパッ、イブと呼んでいるのか」と尋ねられたことがある。その人はパリパリのジャワ伝統主義者で、自分の家では子供にはバパッ、イブと呼ばせているが、ジャカルタでそういう家はもう希少で、昨今はパパ、ママと呼ぶのが普通になった、と聞かされたのだ。そういえば、ソロでもパパ、ママという言い方はかなり普通になってきていると思うが、それでもバパッ、イブという呼び方はまだ健在だし、いかにもジャワ風の名前(本書のダルソノとか)も、まだまだ多い。こんなところにも、サストロダルソノ家3代の変化が表れているなあと思う。

  ●

というわけで、今回もなんだか、重箱の隅をつつくような感想ばかりになってしまった。けれど、書き始めると、取り上げたいことがいろいろと出てくる。というのも、この本を読んでいると、自分の知っているジャワ人の顔、ジャワの状況が次々と思い浮かんでくるのだ。フィクションだけれど、この時代を生きた人たちのリアリティが感じられる。来月ももしかしたら感想の続きを書くかもしれない(他のトピックを思い出さなければ...)。


掠れ書き29(時を刻む論理)

手をうごかし、耳をはたらかせ、あるいは目で見わたして、不規則なリズムを作っていると、いつか規則性のパターンが現れている、これはいけない、と意識してパターンを崩し続けて、やっと不規則の側にとどまるそのとき、不規則と感じられるそのことに、どんな規則性の感覚がはたらいて、そこから意図して外れ続けることができるのか、と考えると、人間のからだが時を刻んでいることを思いだす。

平均して1分間に60からせいぜい80といわれる心拍と、16から20といわれる呼吸が続くかぎりで、心もはたらいているのだろうか、そう問われても、いつもは脈を感じたり、呼吸を意識しないで、それらがささえているはずの、複雑なからだの動きや、心というレベルにばかり囚われているのだろう、ということを反対側から考えれば、心拍や呼吸を意識しないでいられるあいだだけ、複雑で不規則な行為や、偶然落ちかかってくる感覚や認識に対応できるので、意識が心拍や呼吸に集中することを選べば、これはいわゆる瞑想状態で、瞑想の場合には意識がさまよいだすのをたえず引き戻す作業に気をとられて、瞑想が死の擬態であることは忘れがちになっていないだろうか。

ところで、死に近づいていく人の場合は、耳もとで呼びかけても、意識がないのか、あっても、応えるための筋肉が麻痺しているのか、死んでいくこと、生きているからだが持っているエネルギーや可能性をすべて使い尽くす作業にかかりきりでいるので応えたくないのか、ついにわからないままに終わる。瞑想がついにおよばない生と死の、それにもかかわらずと言うか、それゆえの、だれのからだにも起こっている現実が、外からの視線を拒否する、と言えないだろうか。意識はなくても、生きようとするからだの意志、と言うと意識のレベルで捉えられるかもしれないが、からだの動きは、意志で動かす随意筋の範囲を越えて、動きつづけていなければ死んでしまう、心拍や呼吸だけでなく、意識を通さない、意識に上らないが動き続けている、不随意筋といわれるものの運動があって、ここにいまある世界のなかに、ほんのしばらくのあいだでも存在していることはできるのだろうから、と言ってみたくもなる。

生命を維持している「しるし」とされている、心拍や呼吸の時間は、「刻む」とか「数える」とか言ってしまうけれど、じつは波打っているのだから、たとえば心臓の筋肉が血液を押し出す瞬間だけを感知して、波の頂点の間隔を計ったときの「刻む」という言い方から、時計のような機械の時間とつい比較することになるが、人工の時間ではない特徴の一つには「ゆらぎ」があることを思いだすと、時間のありかたがまったくちがう、しかし、その質のちがいを語るのも、「ゆらぎ」という現象があることでさえ、機械の時間のことばでしか言うことができない、それが人間のことばの限界のように見えるが、ことばはそういうものだったのか、いつからかそれが変わったのか、そんなことを思ってしまう。

心拍にくらべて呼吸は約4倍もおそいが、この二つの動きが相互作用していることはだれでもわかっているつもりでいるかもしれないが、息を吸うときに心拍は速くなり、息を吐くにつれて、ゆるやかになっていくようだ。それだけではなく、肺や腎臓のように血液を必要とし、また血液に必要とされる臓器が心拍のゆらぎにかかわっているらしい。肺のガス交換は約4秒、腎臓の血液濾過は約20秒、その中間に、脳に血液を送る頸動脈の関門が約10秒の波で心拍を撹乱する、撹乱の反作用も幾重にも折り重なって、撹乱の波は繊細になり、天秤のバランスがゆれている、と言ってみるけれど、これは計器上に見えている「ゆらぎ」の解釈で、乱れを意識したり、まして制御することはできないレベルの不規則性こそ、意識の前提となっていると考えられるのではないのか、ゆらいでいるから意識があるが、ゆらいでいると意識したら、意識されないことを前提にしている時間感覚が崩れてしまうかもしれない。そうなったら、いわゆる日常世界のみかけの確実性は根拠を喪って、夢のようにふわふわした感触しか残らず、哲学だ瞑想だ、などと冷静に言ってはいられない、ということになりかねない。

音楽は、いや、音楽も、人間の時間を機械の時間に置き換えようとして、17世紀からがんばっていた。フランス王の音楽家リュリは、重い杖で床を叩きながらオーケストラを一つのリズムにまとめようとしているとき、自分の足を突いて、足が腐って死んでしまった。国民国家の時代に、人間の集団を一つのリズムでまとめる必要は、足並み揃えて行進するナポレオン軍の兵士とともに、感染をひろげていった。ベートーヴェンは、メトロノームを使って、機械の拍でオーケストラの大音響を制御しようとしたのではないだろうか。工場の時間が社会の時間の基準になろうとしていた時代が、もうそこに来ていた、と言えるかもしれない。

一つのからだが、いくつかの波を統合せずに相互撹乱させて生きつづけ、生きつづけることを意識さえしているのとは反対に、たくさんのからだを束ねて、外側から一つのリズムで操る力にも、音楽は奉仕してきた。行進と突き出す腕、脚は自由に歩き回らない、手は曲線を描いて舞うことはない。打ち寄せる波の重なりを持続として感じるのではなく、頂点だけを均等な距離にはめ込んで、直線上に点在する時間を刻んでいると、この離散的な時間は、加速していけば圧縮されて痙攣し、減速すれば分離して、動きを停めるだろう。密度が乱高下し、突然発生する大きなエネルギーは自己破壊に向かうよりないように思われる。

撹乱しあう波の重なりの上に危ういバランスをとりながら、そのことを知らない、ほとんど静止しているかのような針が、じつは微かに不規則に震えているのが、安定したと言われる状態だとすれば、見かけの単純さこそが複雑の究極の姿であり、その見かけの下で、たえず崩れては新しいバランスに落ち着く内側の寄木細工の万華鏡的変換が、一段ずつ衰弱の梯子を降りていく、とそう見えることもありうる。さまざまなリズムの層のずれが同時進行しているあいだに、それぞれがわけもなく変化し、変化によって干渉しあって、それらの組織や構造が、突然のようにちがうものになっていたのに気づくまで、ここで制御していたようなつもりになっていた、というように、まかせていた流れに裏切られ、どこか遠くに運ばれていれば、それを受け入れる、とこのようにして、音楽を創るはずだった作業のなかで、作者も創られていくほかはない、というのもありうることだ。