2016年9月号 目次

夏がおわり仲宗根浩
8月の夜璃葉
仙台ネイティブのつぶやき(17)見えない人と歩く西大立目祥子
砂漠の豹狩りさとうまき
142 詞(ツー)藤井貞和
しもた屋之噺(176)杉山洋一
グラッソラリー −ない ので ある−(23)明智尚希
万華鏡物語(3)恥ずかしい長谷部千彩
江利チエミのサザエさん若松恵子
葡萄酒のことなど大野晋
ゴジラとオロチ冨岡三智
カナカナ時里二郎
ふたつ並んだ墓植松眞人
『チリの闘い』を見て高橋悠治

夏がおわり

四月に引越したはいいけど、自分の部屋がぐちゃぐちゃの中、ソファーで寝ていたのもののやっとなんとかベッドを組み立て、三十数年ぶりベッド睡眠をする。それでも部屋はまだ段ボールのまま。まず新しい本棚が必要だ。車の住所変更のため車庫証明をもらい、陸運局で住所変更をすませる。住所変更後の自動車税金の手続きもする。これで引越して最後の住所変更手続き完了。

七月、熊本から中学校の同級生が沖縄に来る。一日、車を運転しリクエストのままあちこち案内したら八月、またロシア赴任を終えた同級生が家族で来たが、こちらは休みでは無い。空いた時間で水族館まで連れて行く。旧盆の渋滞の中二百四十キロ車を転がす。仕事場には二時間遅れで到着。なんで暑い中沖縄に来るのかと思うがこっちがまだ涼しい、と言う。でも日差しにさらされるとこたえるらしい。日差しは凶器だ。

夜は暑い。吹く風もぬるい。仕事終わりに駐車場から家に帰る途中のこ洒落た店のテラス席でお楽しみのひとたち。その横を過ぎて家まで歩きながらよくこんな不快な夜に外で楽しめるものだ、と思いながら涼しい家に入り、すぐシャワー。一ヶ月以上夜、外に出ていない。家の中で夏休み中の子供がオリンピックをテレビで観戦。夏休みは二学期制のため短いのに宿題のことは忘れている。宿題は夏休み最後の日の夜にやっと終わったようだ。八月が終わる一週間前のこと。新聞はオリンピックより高江のヘリパッドの状況を毎日詳細に書いている。イギリスはイラク戦争に関してちゃんと検証していた。ちゃんと検証しない国が次のオリンピックの事を期待を込めて報道する。オリンピックは都合の悪いことから目をそらすためのお祭りになる。

こっちは台風のおかげで夏がひと段落したが北のほうではやりたいほうだい。


8月の夜

あれだけ大きく鳴いていた蝉の声もだんだんちいさくなり
窓辺から鈴虫の声が聞こえる
ときどきひんやりとした風が吹き抜ける
夏から秋へと少しずつ変わっていくこのとき
本を読んだり絵を描いたりして過ごすのは たいへん心地良い
静かに過ごす夜もいいと思えるのは 最近星空を見に行くためによく
外に出ているからだろうか
去年の夏は部屋にこもりすぎていたので すっかり飽きていたけれど
外に出れば中にこもる良さもわかる気がする

8月は流星群を見に行った 生まれてはじめてのこと
夜半 月が山のうしろに沈んでいくと あたりが暗闇に包まれる 星が一段と輝きはじめる
一瞬の閃光 そのうち数えるのも忘れてしまうぐらい あちこちから星が流れる

数日後にリュックの中をあさっていたら 走り書きのメモがでてきた
 8月12日
 まわる星座 手と頬のつめたさ 夜露に濡れる草木 望遠鏡 カメラ
 長く尾をひいた流星  星をさがしながら飲んだ日本酒 蚊 虻
 気温 空気の感触 月が隠れる 夜霧のかたまり

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仙台ネイティブのつぶやき(17)見えない人と歩く

 この6月から、縁あって、視覚障害者の人たちの街歩きガイドをすることになった。友人と交代しながら、3月までに隔月で5回。会を運営するNPO法人の担当者には、集合と解散がしやすいように始点と終点に駅やバス停を定めてもらえばどんなコースでもいいですよ、といわれる。さて、どうしよう。ガイドは何度もやってきたけれど、見えない人と歩くというのは初めてだ。

 最初の打ち合わせのとき、ひと月の活動カレンダーを見せていただいて驚いた。街歩きやウォーキングにはじまって、パソコン教室、オセロの日、将棋の日、音楽サロン、英会話サロン、アロマサロン、茶の湯倶楽部、鉛の入ったボールで行うサウンドテーブルテニス、iPadのいろは教室まである。何と意欲的なのだろう。これは、かなり積極的に動きまわる人たちのようだ。

 あれこれ考えて6月の最初の回は、宮城県美術館の庭にある彫刻めぐりをしようと思い立った。地下鉄駅に集まり、広瀬川のほとりを歩いて美術館へ。建物のまわりをぐるりとめぐるように配置された彫刻をさわりながら歩いたら、きっと楽しい。特に西側のガラス張りの壁面の前の一区画は「アリスの庭」と名づけられていて、巨大な猫やら長身の兎やらひっくり返った蛙やら、ユーモアあふれる彫刻がつぎつぎとあらわれて、だれもが心遊ばせられるから。

 暑い日だったけれど、15名ほどの白杖を携えた人たちがヘルパーさんに腕をとられ集まった。中にはお一人で参加の人もいる。まず、職員の方が本人とヘルパーさんの点呼をとる。だれが来ているのかをみんなで共有するためだ。見えないがためのこの時間で、「こんにちは!」「久しぶりです」と声がつぎつぎ上がっていくうちに空気が和んでいく。この会にくるときは、大体決まったヘルパーさんなのだそうだ。ヘルパーさんたちも街歩きを楽しみにしているらしい。

 年齢は60歳以上、ほとんどの人が中途失明だという。何人かの方に「40代から緑内障でね」「加齢黄斑症で見えなくなって」とうかがった。私と彼ら彼女らの間に明確な線引などできないことを、齢を重ねてきたいまはよくわかる。齢をとるということは、少しずつできないことが多くなっていくこで、その先に見えなくなることがくるかもしれないのだから。

 白杖の先はわずかな段差をとらえ、足取りは軽く早い。「道路わきに黄色いお花が咲いてるよ」「川の水は少ないけど、澄んでるよ」と、目の代わりを務めるヘルパーさんが、歩きながらことばをかけ続ける。「みなさん、若いころ眺めた広瀬川の風景、覚えてますか?」とたずねたら、ほとんどの人が手を上げた。その風景がよみがえるように、と願いながら、いつもより情景をていねいに説明しながら歩く。「この橋は青葉山から流れる沢の上に架かってます。7、8メートルはあるかなあ。水音が聞こえるでしょう」そう話すと、みんなが橋の上で耳を澄ました。つぎつぎと質問を投げかけてくる人もいる。

 街歩きガイドをするようになって10年ぐらい経つだろうか。何度かやるうちに、これはライブなんだ、と感じるようになった。同じコースを歩いているのに、盛り上がって楽しいときがあれば、そうじゃないときもある。参加者が、今日は見てやるぞと前のめりで歩くときは、こちらもそれに応えようと歩き方にも説明にも熱がこもる。反対に、ちょっと勉強になりそうなので来てみましたというような参加者のときは、反応が鈍くこちらも何だかつまらない。そんな経験に照らすと、今日は楽しい。みんな積極的。熱心。好奇心にあふれている。見えないぶん感じ取りましょう。一人ひとりからそんな思いが伝わってきた。

 美術館のアリスの庭は大当たりだった。F・ポテロ作の「猫」の前で、「猫といったって3メートルもあるようで、しっぽはふさふさタヌキみたいですよ、ほらさわってみて。ここが顔、出っ張ってる目玉、背中は子どもが乗れるくらい」と話すと、ヘルパーさんに手を取られブロンズにさわる人たちの顔が嬉々としてくる。「あれ、しっぽの下に突起物があるよ」と笑い出す人がいる。「◯◯さん、あっちはなんだろう鳥よ」「ウサギだ、行ってみよう」と、ヘルパーさんも積極的だ。ひっくり返った蛙にロボットが乗っているT・オタネスの「蛙とロボット」。物静かな雰囲気の年配の女性の手を取って「ここが逆さまになってるカエルのでかい口で、ほら中まで手が入りますよ」と話しかけたら、一瞬驚いた表情になり、やがてくすくす笑い始めた。

 日常の風景をこえるもの。想像力を刺激して、毎日の生活の時間に風を通してくれるもの。解散のときのみんなの晴れ晴れとしどこか意気揚々とした表情を見て、美術のそうした不思議な力を思わずにいられなかった。

 そして、障害がある(と思われている)人と健常(と思っている)人は、いっしょに過ごすのがいい、とあらためて思う。遠景で眺めて、大変だろうなと勝手に抱く想像は吹き飛んで、こちらの方がその前向き姿勢に引っ張られて元気をもらうのだから。
 
 8月は仙台駅近くの寺町で墓参り街歩きにした。「今日は墓石をなででもらいますよ」と話したら、どっと笑い声が沸き起こり、2時間、炎天下を歩いた。そして10月は、この稿でも紹介した仙台市野草園に行き、木の実を拾ってみようかなと思っている。

 さわって、耳をすます街歩き。私にとっては、少しマンネリ化し始めたガイドを見直すいいきっかけになりそうだ。見えない人と歩くことを、しばらくの間、楽しみにしよう。


砂漠の豹狩り

日本はオリンピック一色だった。次回は東京というのもあるのだろう。しかし、なんで東京?と思いながらも、ついついTVに見入ってしまう。1964年はどんなんだったんだろいうなと思いつつ。

さて、一方イラクといえば、メダルは3個くらいしか取れないようで、サッカー以外のスポーツは世界レベルからは大きく差をあけられている。

IS(イスラム国)からモスルを奪還しようと作戦が着々と進んでいる。アルビルの飛行場には、数年前から米軍の輸送機が離発着しており、いろんなものを運んでいるんだろうなと思っていたが、先日は、そのわきにコバンザメのように戦闘機が停まっていた。

避難してくる人たちも日増しに増えている。米軍が空爆をして、そのあと、イラク軍とペシュメルガ(クルド軍)が地上軍を送る。解放した村にいる民間人をトラックにのっけてアルビル近郊のデバガという村にあるキャンプに運んでくるのだ。7月に入り一日1000人単位で運ばれてくるという。デバガは、2014に一時ISに攻められた。住民たちは避難して町は廃墟になっていた。一年くらい前に仮設住宅のようなものが作られて、避難した住民が戻りつつあったが、そこに大量に避難民が流れ込んできたのだ。

50℃近い暑さ。そして砂漠の土埃。劣悪なキャンプだ。先ず、運んでこられた人は、スクリーニングキャンプに入れられる。男性と、女性と子どもにわけられ、男性は、ISの戦闘員、スパイでないか調べられる。民間人でもISの思想に洗脳されていれば、テロを起こす可能性がある。そういったことがクリアされないと、町に行く許可が出ない。まるで収容所のような状態である。実際、ISの戦闘員だった人も混ざっていて数週間で5、6人くらいが刑務所に入れられているという。

一方、女性と子どもたちや、問題ないとされた男性は、家族キャンプに移されるが、こちらも物不足。テントも足らず、そこら辺にマットレスをひいて寝ている人もいる。近くのサッカースタジアムも難民キャンプになっていた。

モスルのアラブ人は、ISに2年間も支配され、恐怖におびえて暮らしてきた。そして、今度は米軍の空爆。命からがら逃げてきても、IS扱いされてしまう。ふんだりけったりだ。

写真家の安田菜津紀さんが何度かイラクに来ている。ヒョウ柄を来たイラクの女性をみるとシャッターを切っている。なんでも大阪に、おばちゃん党という政党(?)があるらしく、ヒョウ柄をこよなく愛するのだそうな。で、アラブのおばさんも意外とヒョウ柄の服をきているので、なんだか、おばちゃん同士の連帯が生まれそうらしい。

注意してみると難民キャンプにはヒョウ柄のおばさんがたくさんいた。若い子もヒョウ柄のスカーフをかぶっていたりする。一方男性はどうかというと、サッカーのユニフォーム。バルセロナが圧倒的に多い。声をかけて記念撮影すると、なんだか、サッカーチームの合宿といってもわからないくらいバルセロナのユニフォームは目につく。サッカーが好きな人にとっては、なんとなく親近感がわく。よく見るとほかにもいろんなユニフォームを来ている人がいて、中には日本代表のユニフォームもあったりする。

大阪のおばちゃんも、アラブ人がヒョウ柄来ているの見たら同じようにうれしくなるんだろうなとわかるような気がしてきた。こんな、厳しい環境でも、みんな好きなものを着たいのだ!


142 詞(ツー)

みどりばをまどさきに、にわのおもてに、
日のあしに、あめあとのみずたまりに、
きみのひとみに、さしかけよう、
葉陰をつくろう。 葉ごとに、芯ごとに、
むしのいきに、あおいきに、
といきになって、きみを守ろう。

かなかなに、つばさのあるいのししに、
かわなみに、なつぐもに、はしひめに、
はう虫眠る、たたみに、はじとみに、
孔雀のはねをひろげて。 蛻けに、
はかなく、つばさをもがれて、木のもとに、
脱ぎ捨てられたことばのあかしに。

葉陰よ、霊獣の雨をしたたらせ。
離人症のきみが、独り身をあいし、
ぼくをけっして愛してくれないと告げる、
それでも天敵に、うたをわすれない、
陽気にね、あいするということ


(晩夏のいちにち、つくつくぼうしがはいりこんで、しかも啼き出したのですが、クーラーのかげやら、キッチンのどこやら、啼き弱るまで見つかりませんでした。きみ=つくつくぼうしに捧げる愛の歌。〈詞〉は宋代の詩だそうです。ツーツクツク。)


しもた屋之噺(176)

台風が近づいていて、強い雨が叩きつけています。目の前の小学校の校庭全体が大きな水溜りになっていて、水鏡の中の校舎が地面に伸びています。通り雨だったのか、顔を上げると、曇っていた空は見違えるように明るくなり、水鏡に映る緑はとても瑞々しく輝いています。

  ・・・

 8月某日 大井町
リゲティ「アヴァンチュール・新アヴァンチュール」の歌手リハーサル。演出をつけるため、楽譜を外から眺めるような練習は避けたい。楽譜上の音声、音響を再生する演奏を目指すのではなく、楽譜上に書かれた感情をやりとりする訓練が必要となる。リズムこそあれ、演劇に余程近い気がするし、グラン・マカーブルに繋がるコンテキストが垣間見られる気がする。
発音記号の羅列ではなく、我々が初めて目にするキリル文字やタイ文字を読むように、意味を持った文字列に感じられるまで繰り返すことにより、架空の言語による小オペラとして成立させたい。

 8月某日 三軒茶屋
リゲティ・リハーサル2日目。大井町の駅に降り立つと懐かしい海の匂いに身体が反応する。イタリアの海より湿気を帯びてどこか色の濃い匂いに、体の奥で疼く記憶。ほんの薄く広がる、かかる匂いのなかで生活する人たちが、無性に羨ましい。

昨日はアヴァンチュール冒頭から始めて、新アヴァンチュール前半で終わったので、今日は新アヴァンチュール後半から、一つ一つのセンテンスで、誰が誰に何と言っているのかを理解しつつ丁寧に紐解いてゆく。だから書かれている内容がナンセンスで、ドラマツルギーの継続性が欠如した内容であることを除けば、劇場での音楽稽古に全く等しい。ナンセンスなのだから聴衆が捧腹絶倒するほど表情を豊かにしたいし、産み出される音響体はあくまでも表情の発露の結果であってほしい。

そこまで表情が明快にできれば、当初感情表現の羅列に見えていたものが、実は寄木細工か、さもなければモザイクかステンドグラスのように、合理的に組合されていることが理解されると信じている。この、分断中断され時には入れ子状に組み合わせられたドラマツルギーが、演奏に際して咀嚼に苦労する部分かも知れない。その下地に大岡さんの演出が付けれてくれたら、どんなに面白いだろうとほくそ笑む。

練習が終わって家に戻ると、息子が家人の演奏会へ出かけたいと言うので、慌てて家を飛び出す。家で練習していた三宅榛名さんの「捨て子エレジー」は、演奏会で聴くと実に衝撃的だった。幼少、恐らくまだ昭和40年代に何度か目にした、新生児遺棄事件の新聞記事が目に浮かび、思わず涙腺が緩む。隣の息子は何も分からず母親の歌う姿に腹を抱えて笑っているので、うるさいと叱る。

ルチアーノ・ケッサの「舞台上の物体による変奏曲」は、ピアニストが縫いぐるみの手を取って演奏する。この作品の演奏中は、会場中から笑い声が沸き上がったのは、曲ごとに家人が仰々しく3体の縫いぐるみを楽屋に取りに戻ったから。「変奏曲」は3曲から成り、それぞれイタリア各地の民謡を基にしているのは、音楽学者でもあるケッサの一面を反映している。

1曲目の「La Valsugana」 はトレント辺りで歌われる有名なアルプス民謡。「河が乾いた谷」と呼ばれるValsuganaはトレント南西部に実在する。

「ヴァルスガーナに着いたら、お母さんが元気か見に行きましょう。お母さんは元気。でもお父さんは病気でした。あたしの彼ったら、兵隊さんになって出てってしまいました。
一体いつ戻ってくるのでしょう。皆が云うことには、あの人ったらもう新しい許嫁を探しているそう。なんて悲しいお話しかしら。あたし信じられません。あたし信じちゃいませんが、もし本当だったら、金髪か黒髪の新しい彼を、今晩にも見つけちゃうんだから」。

3曲目の「Non potho reposare」も、サルデーニャで今も老若男女構わず愛唱される、熱烈な愛の歌で、まず最初にピアニストが縫いぐるみに旋律を教えると、縫いぐるみが独りで即興を始める。可愛らしいけれども怪奇譚風でもある。

2曲目の「Meridemi mi」は、トリノあたりのピエモンテ地方の古民謡。これは「乳児殺し L'Infanticida」と呼ばれ、ヨーロッパ全体に幾つもの異本のある伝承で、大凡次のようなもの。

「干草集めの三人娘が、牧草地へ出かけた。一人赤ん坊を連れるのはルチアマリーア。ルチアマリーアは赤ん坊をつかむと水に投げ込んだ。海の水は濁ってゆく。彼女の母親は、近くへ駈け寄り叫び声を上げた。お前何てことするんだ。ああ、ルチアマリーア。皆が一斉に叫びながら走ってゆく。お母さん、ああ声を落としてお話しください。さもなければ、私は裁きにかけられ、吊るされてしまいます。しかし程なくルチアマリーアは捕らえられ、囚人として塔の地下牢に繋がれた。そこに或る紳士が通りかかった。是非囚われの女を見せてください。とても美しいそうじゃないですか。それなら紳士殿、明日いらっしゃい。あの奇麗な女を見られます。死刑執行人が前で、彼女はその後ろ」。

作曲者から送られてきた、昔の老女が歌っている録音の歌詞は、上記の歌詞ともう一つの「乳児殺し」の歌詞との混交が見られる。異本として、8年後に漁師に助けられた赤ん坊が成長して母親を訪ねるものもある。

「お母さま、私を結婚させて下さい。私をオランダの王子のお嫁さんにして下さい。ああ、我が娘よ、あと一年お待ちなさい。そうしたらお前にオランダの王子を上げましょう。お母さま、私はもう待てません。オランダの王子を下さい。9カ月のはじめ女は男の赤ん坊を産んだ。可愛い私の赤ちゃん、お前は私をとても苦しませるの。お前を世間に連れてゆけばきっと私は蓮っ葉と罵られ、お前を水に投げ込めば、私の魂は断罪される。でも、蓮っ葉と罵られるより、心だけ断罪される方がまだいいの。彼女はその唇で赤ん坊に接吻し、自らの手で赤ん坊を波のまにまに放り込んだ。海に出ていた船乗りたちは、浜が真っ赤に染まっているのを見て言った。イザベラさん一体どうしたというのです。どうしてこんなに赤くなっているんです。私大きな魚を見つけたんです。石を投げつけようとしたんです。彼らはこの小さな赤ん坊を見つけて裁判所へ持っていった。裁判長よく見てください。今の若い娘どもがどんな偉いことをやらかしているか。こんな酷いことをする娘は誰だって、灼熱のペンチで身体を捥がれるべきでしょう。でもよく考えてみてくださいよ裁判長。そこに居ります娘はあなたの娘、イザベラですから」。

 8月某日 恵比寿
息子が借り出されたとある歌の収録は、「今のは60点。80点を目指して頑張ってみよう」と始まった。「今のはちょっと残念な感じで72点。まだまだ行けるね」。「今のはとても良かったね。80点。最後は良かったけれどリズムが惜しい。もう少し頑張ってみよう」。日本のテレビを見なくなって久しいが、今でも「日曜のど自慢大会」は続いているのだろうか。
帰りに二人、坂の下の小さなイタリア料理屋に入り、息子には定番のペンネ・アッラビアータを、自分にはミックスサラダと、トリッパのトマト煮を頼む。若いコックが一人で切盛りしていて、ローマあたりで修行したのか、思いの外美味。
ここ暫くリゲティのアヴァンチュールを譜読みしていると、ピアノの部屋から「捨て子エレジー」が、息子の寝室からはこの歌を練習する声が聴こえていた。

 8月某日 新宿
新宿まで自転車を走らせ、高層ビル街の一角で、大岡淳さんに現在のリゲティのリハーサル状況を話す。大岡さんはバタイユを通して、現在の社会を描いたりもする。バタイユは、遠い昔に読んだきりで、今読返せばどんなことを思うのだろうと考える。ロートレアモンとかアラゴンとかブルトンとか、少し違うけれど、サドとか。あの頃は何も理解しないまま文字だけを読んだ。今これらの本を手に取れば、分析的にしか言葉を絡めとることが出来ないに違いない。あの頃のように、意味も分からず、でも瑞々しい映像の羅列とは映らないに違いない。若いということは決して悪いことではないし、理解すること全てが素晴らしいとも言えない。家に戻り、大岡さんの本を一気呵成に読む。

 8月某日 三軒茶屋
両国で家人が藤井一興さんと四分音ピアノ二重奏の夕べ。このところ、ヴィシネグラツキをいつも彼女が一人で練習していて、同居している者からすると、この纏わりつく音を早く何とかして欲しいと思っていたが、微分音の二重奏で聴くと、納涼肝試しよろしく8月の夜に似合う。初めてロシア正教会に入ったとき眺めた、並ぶイコンの周りで、天井から釣られた香炉から立ち昇る神秘的な香の煙を思い出す。スクリャービンよりおどろおどろしい皮膚感覚の音楽。

両国の駅前の四川料理屋で、藤井一興さんと家人は日本の音楽教育について話し込む。音楽大学の音楽教育が個性を育てないこと、濁るペダルの音と、叩きつける打鍵についてから弱音のタッチについて。それらの話の端々で、ユージさんのピアノの話。「アーメンの幻影」の冒頭の意味が、ユージと弾くと、最後に辿り着いて初めてああ弾いたのかが解る仕組み。天才は違うと力説。

 8月某日 三軒茶屋
両国のスタジオで指揮ワークショップ。モーツァルト39番の2楽章から始める。
まず、CGC上の長三和音を、ハ長調として認識できるように弾き、続いて同じ和音を今度はト長調として認識できるよう、それぞれの参加者がピアノで弾いてみる。
続いて、2楽章の長大なゼクエンツを、各々が考えた調性に則って、ピアノで弾く。和音と和音の間に、見えない稜線が感じられるまで、何度も繰り返してみる。並列された和音の集合ではなく、和音と和音と間にある空間に、一つの線、糸がずっと繋がれているのを理解してほしい。流れが自然に聴こえるまで何度も丹念に繰り返し、その音を頭の中で聴きながら指揮してみると、確かに各々が感じている音楽が浮き彫りになる。

そうした準備をしない別のゼクエンツの箇所を試しに振ってみると、出てくる音がまるで違って、痩せた音になる不思議。そうなるのは分かっているけれど、科学的な理由はよく言い表せない。何しろ音を出すのは指揮者ではないのだから。
モーツァルトのような作品では、自分から音楽を発するのではなく、そこにある音楽をただ眺めながら振るとき、ただ4音の半音階でも鳥肌が立つには充分だった。
水谷川さんと瀬川さんがいらして下さったので、近所の猪料理屋のランチをご一緒した。今回は低音部のピアノを作曲の加藤くんが引き受けてくれたのはとても心強かった。

 8月某日 宇部空港
秋吉台の自作指揮レッスンと発表会が無事に終わった。作曲と指揮は全く違うことではあるが、自分の書いた音を客観視する訓練は、決して無駄ではないだろう。
或る学生は自分の書いた音を音楽的に振ろうとすればするほど音楽が消されてしまう経験をしただろうし、別の学生は、ただ拍を振るのではなく、自分がどんな音を欲しているのか、それを想像するだけで演奏者の音がまるで変わるのを実感したに違いない。また或る学生は、指揮でほんの少し曲の構造の輪郭をしっかりなぞってやるだけで、曲全体がまる違って響くことに愕いたかもしれない。
そして誰もが、書かれている音を出来る限り聴き取ることの難しさを、痛感したのではないか。音は縦にも横にも聴かなければならず、振ってそこに音を合わせるのではなく、音がはまるよう、こちらが予め空間を準備しておけば、音楽は自然に浮かび上がることもわかったのではないか。音楽は、自らの正当性を殊更に強調することでは決してない。

日一日一日、学生たちの顔つきがまるで変わってゆくのが印象的だった。決して長時間アンサンブルを振れるわけではないから、その分厳しい宿題を各々に出し、少しでも時間がある時には、他の作曲学生を集ねて口三味線を頼んだり、学生通しで互いに意見を言い合っては練習していた。その熱意が演奏者にも伝わったのだろうし、演奏を引き受ける責任のようなものが、顔に浮かびあがってきたのではないか。

 8月某日 三軒茶屋
打ち合わせの最中、何度も家人が連絡をしてくるので何かと思うと、中部イタリアの地震だった。前に震災で甚大な影響の出たラクイラに近い。ラクイラで震災復興の演奏会をしに出かけたのは、もう一昨年の秋になるのだろうか。あの時に見た、崩れたままの無人の中心街の静けさを思い、震災に遭った友人たちの顔を思い浮かべた。石造りの住宅が脆くも崩れ去る光景は、ラクイラに何度か通ったので、容易に想像がついた。
アマトリーチェに知り合いはいないようだったが、近くのテルニやぺスカーラには沢山の友人が暮らしていて、国営ラジオが刻々と伝えるニュースに耳を傾ける。観光客が溢れかえっていたアマトリーチェの街で、瓦礫の下にどれだけの不明者がいるのか予想がつかないと途方に暮れる救助隊の言葉が、ずっと頭の中で反芻している。

 8月某日 三軒茶屋
息子を甘やかすのも良くないと思い、今年は一人で草津の音楽祭に参加させている。同じ、小学六年のとき、ヴァイオリンを習いに出掛けて、タマーシュ・ヴァシャーリが学生オーケストラを指揮していて、みんなでブラームスの1番のピアノ協奏曲など弾いた。当時は同じくらいの小学生、中学生が随分参加していたが、今はそうではなくて、同じくらいの子供は親同伴だとか。時代が変わったのだろう。
死ぬことはないだろうから、適当に放り込んでサバイバル経験をさせればよいと思っていたら、家人はそれでは不安だと言うので、いつも殆ど使わない日本の携帯電話を息子に渡すことにした。

結果家人が何度電話しても、息子は忙しいとか友達と約束とかで殆ど話すことができず、彼女は忸怩たる思いでいるようだし、こちらもこういう時に限って電話を使わなければならないことが重なり、そのたび毎に、電話が通じなかったことを相手に詫びて、息子が草津に持っていて、と説明を余儀なくされている。
何故か一番最後の息子からの連絡は、昼メシを皇后さまと一緒に食べた、という本当なのかにわかに怪しい短い連絡があったきりで、状況が皆目見当もつかないが、兎も角息子がいない状況は同じでも、祖父母に預けるのとはこちらの心持ちがずいぶん違うのは、息子が妙に大人びた声を出しているから。
初めて電話で話したときは、カセルラを早く弾き過ぎとカニーノさんに諌められて、と不満を呟いた。音楽的に弾けない所を、早く弾いて誤魔化そうと思っただけなのだが。まあ息子が家から出てゆくのもあっと言う間だね、と家人と二人(鳩が豆鉄砲を食らったような)顔を見合わせている。こういう時の母親は少し寂しそうだ。

 8月某日 三軒茶屋
台風の影響で、秋吉台から東京に戻る最終の飛行機便は1時間遅れた。機内で広げられるような小さな楽譜ではないので、諦めて熟睡し、帰宅して夜半に譜読みを続けた。
そんな慌ただしい中で、芥川の練習が始まる。鈴木くんの作品は、演奏者が目まぐるしく変化するセクションの構造に、どれだけ早く演奏者を慣らしてゆけるか。渡辺さんの作品は、書き込まれた細かい指示を、どれだけ丁寧に実現できるか。大場さんの作品は、社会にコミットする作品の姿勢を、我々演奏者がどう表現できるか。大西さんの作品は、作曲者が意図している音の具体的なイメージにどれだけ肉薄できるか。当然、それぞれのリハーサルの内容は全く異なったものとなる。

 8月某日 三軒茶屋
芥川の練習の後、三輪さんと和光市駅近くの中華で、紹興酒を互いに酌み交わしつつ話し込む。音楽をつくる意味について。予め頭に浮んだ音響をただ楽譜に書くだけで、演奏者にその行為へ参加させるモチベーションを与えられるか否か。独奏作品や室内楽の場合とオーケストラでは、同じ関係が保てるかどうか。
フォルマント兄弟で最近、ペルゴレージの「スターバトマーテル」を歌わせたという。初音ミクのようなサンプリング音源ではなく、純粋に無から波形の合成によって発生させた声で、宗教曲を歌わせて、そこに宗教的意味は発生するのか。
場末の美味しい中華を食べたい二人の希望は一致していて随分探し回り、果たしてくぐった暖簾は中国人一家の経営。繁盛しているだけに実に美味。ダーロー麺という耳慣れない麺は、とろっとした餡に野菜がたっぷり乗っていて、少しだけ辛味が効いていた。

 8月某日 成田空港
芥川作曲賞の演奏会が無事に終わってレセプションに少しだけ顔を出し、三軒茶屋に荷物を置きシャワーを浴びて、成城のヴィオラの佐々木くん宅に駆けつけたのは夜の9時前だった。今朝、西江さんから佐々木くんの電話番号を貰ったばかりだったけれど、ミラノに戻る前にまどかちゃんに手を合わせたかった。仏壇の前で佐々木くんにかける言葉もあまり見つからないまま、近くのバス通りからタクシーを拾って家に戻った。気がつくと、さっきまで強く打ちつけていた雨は止んでいた。
(8月30日 ラノにて)


グラッソラリー −ない ので ある−(23)

「1月1日:『よく知られた通り、アルコールを急に止めると手足が震える、いわゆる心身譫妄状態になる。離脱症状だ。呂律が回らなくなったり、物忘れがひどくなったりもする。逆に体に悪いような気がするんだけど、そうしなきゃならないみたいだな。それと並行してアルコール外来にも通って、抗酒剤を処方してもらうそうだよ』」。

(((゚Д゚;)y-~ ソワソワ

 まず主人公Aありき。Aに関する説明が次に来る。そして日常生活の紹介。そこで顔見知りであったりなかったりするBの登場じゃ。このBと関連するかしないかしてCが出てきたり出てこなかったりする。やがてインシデント、ハプニング、アフェアーがあって主人公は悩むが、最後は逆転か平凡に終わる。これが小説と呼ばれています。

マ━(*゚Д゚)人(゚Д゚*)━ス!

 風呂上がりにアイニージュー。仲が悪けりゃ笑わせとけ。何事も意志が大事じゃよ意志が。意志を捨てる意志。心のジョギングってのは実に難しいね。だってやり方がさっぱりわからないんだもの。やっぱり心より体だね。肉体。シモの方へ漂流する老人は嫌いかい? お嬢さん。あなたもシモから出てきたんじゃよ。シモン・ド・モンフォール。

うーん・・(〃 ̄ω ̄〃ゞ

「泣く」とは、極度に喜ばしくないことやおかしなことに直面した時、頭部の正面上部の2つの穴の隅から、透明な液体を分泌する生理的反応のことである。後者では、一定のリズムを持った途切れ気味の音声を頭部下部の穴から発し、諸臓器を収めた部位を左右に振ったりよじったりすることや前肢末端部にある器官を打ち鳴らすこともある。

。・°°・(((p(≧□≦)q)))・°°・。ウワーン!!

「1月1日:『抗酒剤って聞くと、アルコールへの欲求を押さえる薬だと思うかもしれないけど、そうではなくて抗酒剤を飲んだあとにアルコールを飲むと、吐き気、頭痛、激しい動悸、めまいがして、言ってみれば苦しめることでアルコールをやめさせようっていう薬なんだよ。地獄のような苦しみらしいよ。名前は忘れちゃったけど』」。

。。゙(ノ><)ノ ヒィ 。。

 最期について考えると、意識の一部と呼べる部分さえ領していないように思われた、現実への妄執に近い頓着に気づかされる。最期へ至る道筋、この瞬間のおのれの状況や状態など現在に端を発しているから厄介で、なかなか最期そのものまで漂着しない。しかし、いよいよその時という場面で、最期に関わる思慮内容などなんの役に立つのか。

シ、シヌ......_(:3 」∠)_

 さすが幸子じゃ。生活世界でソクラテスとT-Rexとはな。リンダの問題、あれはまあキャサリンが何とかするじゃろ。わしゃいっぱしのエロトマニアを気取って、明美にいけいけどんどんでやらずぶったくりの毎日じゃよ。太郎冠者はごめんだね。精子の性染色体がXならXXで女子、YならばXYで男子になるなんて。人間動物園じゃないか。

ε≡'`ァ'`ァ≡o(;*´Д`)o【興奮中】  (゚Д゚;ノ)ノ

 パンチ、キック、ひじ打ち、ひざ蹴りなどで、医師の処方箋なしでも買える青少年向けのクラシック音楽システム。国民全員に番号をふり、拠点空港と地方空港を結ぶ路線などで飛ぶ。英国発祥で、世界11カ国・地域で売られている。女性の高校の進学率が低かった時代は、「市民が銃で武装する権利」を守るロビー活動を活発化させた。

┐(^-^;)┌ さぁ・・?

 わからない事項ばかりが近くにあると、生気が吸い取られる。崖の上にある日常に辿りつくために、疑問と名のつく溝に手足を引っかけなければならない。だがどれも解答と推量がない。これでは不明事項の思う壺である。何一つ確かなものに触れられない時、人間は自暴自棄か無気力になる。不明事項の思う壺は、また少しかさを増すことになる。

モウヤケクソφ(*ーДー)ノホットイテ

「1月1日:『抗酒剤を服用していたとはいえ、当初はそれでも酒を飲み続けて尋常じゃないくらい苦しんだそうだよ。紙パックの小さい日本酒を半分飲んだだけでも、数時間後に胃の中にあったものを全部戻したらしい。しかも駅の階段でな。全部戻すということは抗酒剤も出たわけだから、そこから改めて根性で酒を飲んでいたんだって』」。

o(`・д・´)ノ キアイッ!!

 デンマーク体操にコペンハーゲン解釈にデニッシュロールか。電車の中で大便が出る瞬間の、肛門の感触を大声で話し合ってる女子高生たちにはかなわないわ。ありゃ反則じゃて。こちとらフルーツポンチが精一杯だっつうの。わしも歳を取ったなあ。自分に課した格率がリゾーム状に広がりすぎた。最初はやっぱり話し合いからじゃな。

キャッ ♪(v〃∇〃)ハ(〃∇〃v) キャッ♪

【まああるわなランキング】
第1位:誰かのキャリーケースの後ろを歩きながら二回は蹴った
第2位:イヤホンの絡まったヒモのせいでぐっと血圧が上がる
第3位:エア交際相手がいきなり海外留学
第4位:喫煙所の押し黙った異様な雰囲気
第5位:洋服自体が似合わないのにごちゃごちゃ試着する人

(´゚∀゚`)! アルアル

 思想とは、一個人が世のため人のために思惟するものだと解釈している。思想をする自分自身も考えの対象となる。思想は身体化の促進剤である。主に表情や顔つき、物腰や所作、そして当然発言内容にも露呈する。困るのは思想がない人である。仮にも人間の形をしているのだから何かしら読み取れるはずなのだが、ごく稀に例外と遭遇する。

(・・*)。。oO(思想中)

 チカリタビーでベッドにバタンキューしたいわ。ちょんがーの身分で会社でハッスルしすぎた。金曜の夜ってことで、ナウなヤングもボインもツッパリも渋谷辺りでハッピーなんだろうな。トッポい人はチョメチョメ。あ、ちょっとタンマ。まあいいや。ちなみに俺はテクノカットどえーす。さてドロンするか。とっくりのセーターにチョッキ。

...(;´゜,∀゜)キッィネ;(。´^¬^)チョットネェ(^△^ ;;)ソダネェ ...


万華鏡物語(3)恥ずかしい

書籍を二冊、並行して作っているため、今年の夏は、加筆修正作業にかかりきり。連載が二本終わったこともあって、新しい原稿はほとんど書かなかった。ウェブマガジンでのブログも七月の頭で止まっている。

ブログについては、こんなはずではなかった。引き受けた当初は、書籍の制作過程のことでも綴れたら、と考えていた。それなりに書く気はあったのだ。でも、いざ、本のことをブログに書こうとすると、なんだか無性に恥ずかしい。なぜかわからないけれど、私は、本を出版することに恥ずかしさ、照れくささを感じてしまうのだ。

そういえば、最近、対談記事に添える写真を撮ってもらったのだが、そのときも恥ずかしかった。恥ずかしくて、恥ずかしくて、無事、撮影は済んだものの、写真の笑顔は―余裕などではなく―どう見ても照れ笑いだ。

自分の書いたもの、自分が写っているもの、本当は自分自身の存在にさえも、私はいつもどこか恥ずかしさ、照れくささを覚えている。ゴダールの映画に、恥という概念が人間の行動の枠を決める、というような台詞があった。その通りだと思う。私はいろいろ恥ずかしい。自意識過剰と言われればそれまでだが、あれもこれも恥ずかしい。恥ずかしいと感じるがために、小さい人生を送っている。ゴダール流に言うならば、小さな枠の中で生きている。


江利チエミのサザエさん

日本映画チャンネルの蔵出し名画座スペシャルとして、江利チエミ主演のサザエさんシリーズ全10作品が、4月から順番に毎月1作品ずつ放映されている。ビデオ化されていない映画で、視聴者からのリクエストも多かったという。日本映画チャンネルの鳴り物入りのCMを見て、何となく4月の第1作を見てみたのだけれど、思いがけない面白さがあって、以降、毎月楽しみに見ている。

第1作は1956年製作の白黒だ。磯野波平が藤原鎌足、フネが清川虹子、ワカメが松島トモ子、ノリスケが仲代達也、「クイズグランプリ」で知っていた小泉博がマスオさんだ。もう少しあとの時代の彼らを子ども時代の私はテレビで見ているのだけれど、その時抱いてしまったイメージよりもみんな若くて初々しくて、そんな印象の落差もまた、この作品を面白いと感じた理由なのかもしれない。

江利チエミの生まれ年を確かめてみると、映画が作られた当時、彼女自身も20歳くらいでサザエさんと同年代だ。その後の彼女の不幸を知ると、この頃の彼女はスターとして輝きに満ちた順風満帆の時代だったのだと分かる。無邪気で曇りのないかわいらしさが映画を盛り立てている。歌う場面が必ず出てくるのだけれど、しっかりした大人っぽい歌唱力もまた魅力だ。清川虹子もやわらかい、娘をかわいがる母親として登場している。呼び捨てではなく「サザエさん」と呼んでいるのにびっくりする。波平もちっともカミナリおやじではない。その反面、カツオのいたずらは遠慮容赦なく盛大だ。自己規制しない、いたずら小僧で子どもらしい。磯野家の家族会議の場面が何回か出てくるのも新鮮だった。順番で議長を回していて、ワカメが立派に議長を務めていたりする。今のアニメのサザエさんは、波平が家長として仕切ってる感じがするけれど、藤原鎌足の波平は、こまった顔も平気で見せてしまう少し頼りない感じの父親で好感を持つ。戦後民主主義の影響が色濃いのか、磯野家のイメージは今とは違っている。

実写版なので、当時の東京の姿を見ることができるのも面白い。家のつくり、庭や垣根、舗装されていない道路、バス停、人々の髪型や服装、ご用聞きのサブちゃんの前掛けや自転車、デパート・・・。今は無くなってしまった良きもの達もたくさん出てくる。第10作が作られた1961年もまだ私が生まれる前だ。

8月に放映された第5作でサザエさんはやっとマスオさんと結婚した。マスオさんの故郷、北海道で結婚式をする事になり、北海道に出発する前夜、近所の人たちと祝いの宴をする磯野家のうれし寂しい場面で映画は終わる。部屋に掛けられた花嫁衣裳が写されるだけで、花嫁衣装を着た江利チエミに挨拶させたりしない演出がさりげなくて、しゃれているなと思った。シリーズものの宿命で、マンネリしていくのか、面白いまま走り抜くのか、来年1月まで続く放送が楽しみだ。


葡萄酒のことなど

まず、「など」の方から。

ほんの少しのご無沙汰で、信州小諸の懐古園にある蕎麦屋 草笛本店に顔を出したら、バラックのような建物がきれいになっていて驚いた。そばの味は変化なかったのでよかったのだが、いきなりの変化はびっくりを超越していた。昔の汚い建物も好きだったんだけどな。

さて、ひょんなことから、日本のワインに興味を思った。正確に言うと全く興味がなかったわけではないけれど、面白そうだと腰を落ち着けて追いかけてみる気になった。

東京モノの私は身内に酒飲みがいなかったこともあり、ぼんやりと葡萄は山梨、ワインは山梨という印象を思っていた。これは小さな頃、学校の林間学校で行った清里からの帰りに毎回買い込んだ葡萄屋(当時、中央自動車道もなかった頃の清里へのバス旅行は途中でトイレ休憩もかねて、必ず勝沼あたりの葡萄園というか、葡萄棚を吊った売店に立ち寄るのが普通だった。この頃のなごりはまだ勝沼周辺の街道筋にわずかながら残っている)の葡萄ジュースの印象が強かったからに違いない。

その後、進学した信州で初めて、塩尻の大規模な葡萄農園や地域限定の葡萄の産地(松本郊外の山辺地区は上質な葡萄が取れることで地元では知られている。ただし、ほぼ100%を地元で消費するためにあまり県外で知る人は少ない。)などを知っていくのだが。

当時のワインにした葡萄は、ベリーAや甲州、ナイアガラや生食にもするデラウェア、巨峰などを使っているのが普通で、まだ、欧州の葡萄を日本で本格的に育てるまではいっていなかったように記憶している。農産物の輸入解禁がテレビを騒がせていた時代で、低価格の海外産のフルーツに奪われる市場で、いかに日本の葡萄の流通経路を広げるかといった観点が一般の人の観点だった時代。

そんな時代に、アルコール度数の少ないワインを楽しむ理由は、信州限定商品を探し出して買い込むことだった。必ず秋になると近所のスーパーの酒屋にメルシャンの信州限定品で「桔梗が原ロゼ」と「善光寺平竜眼」という2種類のワインが並ぶのを楽しみにしていた。まあ、当時の学生のコンパでは、もっとコストパフォーマンスのよい一升瓶ワインが活躍するのが普通だった時代の密かな楽しみである。

さて、その後、よく調べてみると、メルシャンの桔梗が原の農場では、欧米に認められるワインを作るべく、メルローという欧州種の葡萄の栽培を始めていた時代と重なっていて、もしかすると試験栽培されていたメルローの使い道があのロゼだったのかもしれないとふと考えた。

一方の竜眼は、甲州と並ぶ日本の固有品種で、もとは明治時代に中国から輸入された竜眼葡萄らしいと言われているけれど、その後、忘れ去られて、1970年代には細々と長野市周辺に残って、善光寺葡萄などとも呼ばれていたという話を最近知った。善光寺平は今の千曲地区を指すのだろうから、当時、白ワインの原料品種の育成に、メルシャンが千曲地区で乗り出していたのかと思ったりした。

1980年代にはそんな感じだった信州のワイン造りだが、今は隔世の感がある。

今年開かれたサミットで各国の首脳に出されたワインのいくつかは、それこそ、善光寺平周辺で作られた葡萄を使って作られているし、桔梗が原で作られたメルローの赤葡萄酒は過去何回も国際コンクールで金賞を受賞して今や幻のワインになっている。限定品だった竜眼葡萄の白葡萄酒は、いまや信州を代表するローカル商品として、いくつもの醸造所で作られている。

そんな様子を見るにつけ、原酒の枯渇というとんでもない事態を招いたジャパニーズウイスキーブームの次は、日本ワインではないかと強く思うのだった。というか、すでに人気商品は入手困難になりつつありますけどね。今のうちにいろいろと飲んでおくと面白いですよ。


ゴジラとオロチ

先月、関西のりんくうタウンで「シン・ゴジラ」を見る。巨大不明生物ということで、真っ先にヤマタノオロチが思い浮かぶ。実は、2008年に石見神楽とジャワ舞踊のコラボレーションをやったことがある(水牛2008年7月号)。神楽のオロチは当然等身大なのだけれど、古代の人はオロチのサイズをどれくらいに想像していたのだろう。

シン・ゴジラの身長は118.5mで、1階3mとして概算すると40階建くらいか。だが、初代ゴジラ(1954年)は50mと今の半分以下だったらしい。ちなみに、高さ制限のある奈良市内では最も高層の建物で46m(ホテル日航奈良)。1954年当時、首都圏でも50mのゴジラは巨大に見えたのだろう。ところで、古代の出雲大社は48mあったとされる。3本の太い柱を一組にした柱根が見つかっているから、現実味があるようだ。その当時に初代ゴジラサイズの建築を目指したとすれば、出雲政権は大和朝廷にとってゴジラなみの脅威だったに違いない。ヤマタノオロチもそれくらいのサイズだったろうか...。


カナカナ

目が覚めると
カナカナの すずふるような声が
しろじろと聞こえてくる
三つ、四つ、それ以上ではない
声は同じ調子で
ゆめのほうから追いかけてきたようにも
うつつのほうからやってきたようにも・・・

伯母はにべもなくさえぎって言う
―名井島にはセミはいない

ねつのない小さなほのおのような声の穂先がそれぞれにあって
そこにしがみついているものがいる

―それが「セミ」だと言うのなら そうかもしれない 

―聞こえないはずのものが聞こえるのは
あなたが病んでいるから

声の穂先のさきにいるセミ

―「ゆめ」を見るように《改良》されたアンドロイドなら
「セミ」は持っているものよ
あなたの場合は 生まれた時から
「カナカナのすずふるような声」が
「ゆめ」と「うつつ」をゆききしているのはたしかなこと

カナカナの声が聞こえるのがどうしていけないの?

―聞こえる必要がないから と伯母は微笑んでこたえたあと

―その聞こえないはずの信号音をカナカナの「すずふるような声」だと知覚したときにあなたが感覚したことをもう一度いってごらんなさい

「ネツノナイ チイサナ ホノオ ノ ヨウ ナ コエ ノ ホ サ キ ガ・・・」

―アンドロイドは 病むと コトバのあとを追いかける

ヒトのように


ふたつ並んだ墓

 久義丈治郎と高梁すえは第二次大戦が終わる直前に結婚した。食べるものにも事欠く生活のなかで、たがいに一緒になれば少しは食べ物を融通してくれるだろうと思っていた、というのだから呑気というのか考えが浅いというのか。
 しかし、同じ程度に貧しかったからこそ、思惑がはずれても互いを責めることも恨むこともなく傷をなめ合うように暮らすことが出来たのかも知れない。
 二人の営みは三男四女をもうけて苦しいながらも家庭というかたちをこしらえたのだが、丈治郎が五十を迎える頃に彼の浮気によって崩壊した。今とは違い、男の浮気には寛大な時代ではあったが、さすがに家族で暮らしている、わずか数軒先の文化住宅に愛人と居を構え、しかもその愛人が妻すえの古くからの友人となると話は変わってくる。
 二人はきっぱりと離婚して、同じ市内の同じ町内に暮らし続けた。丈治郎はもともと大らかというのか、深く考えないというのか、ときおり突拍子もないことをしでかす性質をもっていたのだが、離婚して愛人と暮らしはじめても、すえと子どもたちが暮らす、もともと自分が建てた家にしょっちゅう現れた。
 最初のうち、すえは丈治郎がやってくると家を明けたりしていたが、途中から口は聞かないまでも、顔を合わせても平気になり、子どもたちなどは「お父ちゃん」と呼びながら、「また来てね」と送り出すようになった。
 しかし、そんな丈治郎も酒と煙草のやりすぎが祟ったのか、七十を迎える直前に亡くなってしまった。すえは丈治郎の葬儀をきちんと自分の家で出してやり、そのときに愛人を座敷にあげてやったまではよかったが、最後の最後、我慢が効かなくなり、村の焼き場に棺桶を運び出す段になって、嘆き悲しむ愛人を手厳しく言い込めて文化住宅に帰らせたことは後々まで語りぐさとなった。
 それから三十年近く生きたすえは大往生で逝き、それぞれに家庭をもった息子と娘たちは、父の墓のとなりに母の墓を建ててやることにした。「なんだかんだ言いながら、なかのいい夫婦だったんよ」という長兄の言い分が通ったというかたちだった。もちろん、兄弟の中には反対するものもいた。「いくらなんでも、離婚した夫婦がなんぼ墓に入ったからって、隣どうしはちょっと」というもっともな意見だった。
 しかし、そんな反対意見があったからだろうか。すえが逝って、十年が経った頃のこと。長兄がいらぬことをした。墓を隣どうしに建てるだけではなく、それぞれの遺骨をほんの少しずつ混ぜたのだ。
 ことの真偽は、長兄が亡くなったいまとなってはわからない。しかし、長兄に頼まれたという住職が「わしは反対したんじゃが」と近所のスナックでチーママ相手に話していたらしい。
 それから、久義の家にも高梁の家にもろくなことが起こらなくなった。怪我をする者、離婚をする者、事故を起こす者、病気になる者が続出し、ここ数年は若い者から年寄りまで不思議なほどに亡くなる始末だ。
 それでも、いまさら墓を動かしたり、遺骨をもとに戻したりすることもできないので、まだ存命中の息子娘五人は、主に母すえが眠る高梁の家の墓を念入りに拝むのである。(了)


『チリの闘い』を見て

9月10日から上映されるパトリシオ・グスマンの記録映画『チリの闘い』三部作 (1975-1978) ここでは試写用DVDで見て思ったこといくつか

労働者たちのそれぞれにちがう いきいきした表情 はてしない討論 だれも経験したことのない日々 これからどうするか 予想できなかった問題と解決のむつかしさ ちがう意見がぶつかりあいながら なんとか切りぬける 一生のあいだに出会うか出会わないかの 忘れられない日々 締めつけていた力がおもいがけなく外れ 解放されて 感じたことを自由に言える場が生まれた やるべきことは多く 時間がたりない いつもの暮らしのなかに突然空白の場所が現れる でも それこそが自分たちの空間 それをまた失わないために 何をする

政党の指導で権力を奪い取るだけでは終わらない そこからが課題のはじまり 次々に起こる問題の現場で グループが生まれ一時的なつながりを作って 毎日の小さなできごとにすばやく対応しながら しごとの場に討論の時間をかさねて 実験をつづけていく いったん遠のいた資本の圧力は 遠巻きの輪を縮めてくる   

選挙で大統領に選ばれた社会主義者のアジェンデは 自律的大衆運動と保守派の支配する議会のあいだで板挟みになる 代表民主制度の限界を越えるのはむつかしい アジェンデを支えるのは工場労働者たちだが デモに参加するのは若い男が多く 女たちは配給の列に並んだり生活に追われている 先住民の姿はほとんど見えない これが1970年代の運動状況だった

いままでの社会主義組織の「団結と統一」ではやっていけないとわかってくるが 選んだ現場の代表が官僚主義に染まることもある 左派と右派の両側で 拳を上げて叫ぶ演説の ことばはますます激しく 現実はゆっくりとしか動かない そうなると 警察や軍隊の武器や暴力が勝つ場面が増えていく

チリのクーデターの後に支援コンサートがあって 加藤登紀子に誘われて出演した 3年後にタイのクーデターがあった その後で作った「水牛楽団」は ビクトル・ハラやビオレータ・パラの作ったチリの新しい歌を またタイの民主化運動のなかでうまれたカラワン楽団の歌を日本語にしてうたう ささやかな活動を数年間つづけた この映画の第3部に流れる『ベンセレーモス』や『不屈の民』もその頃知った歌だった ピアノでは ともだちのフレデリック・ジェフスキーが書いた1時間もかかる『不屈の民変奏曲』を弾き 林光が来て元歌を歌ってくれた 二人で九州の高千穂まで行ったこともあった 

20世紀の革命も二度の世界大戦も いま振り返って こうすればよかった あの判断は誤りだった と言うことはできる でもその時には 以前から引き継いだ問題が残っていて いままでの考えかたや感じかたではもうやっていけないことはわかっても ではどうすればいいのか ちがう意見がぶつかり 折り合いをつけて なんとか毎日を切りぬけるとしても 迫ってくるもっと大きな暴力に対抗する余力あっただろうか
 
音楽では 声をそろえて行進のリズムで高まる1930年代までの革命歌のスタイルは いまでは右翼や軍靴のリズムと区別がつかなくなってしまった ブレヒトとアイスラーのむだがなく甘さのない知的なリリシズムはあの時代の高揚した気分をよく伝えてはいるが いまでは「団結した人民は決して破れない」とはうたえないだろう 解放の日々は短く 抑圧の波が揺りかえし 逮捕・虐殺 数えきれない敗北と失望とをくぐって 小さな変化でやっと息がつける日々 それもまたすりへっていく

1824年9月 メッテルニヒ体制のウィーンからスウェーデンにいた友人へのてがみに フランツ・シューベルトは自作の詩を添えた 《Klage an das Volk 民衆への嘆き(訴え)》と題して 「時代の青春は終わった 無数の民衆の力も使い果たされ......若い日の行動を夢に見る」 そして 「芸術だけが時代の姿を描き 運命と和解する力をもたらす」 燠火のように灰のなかに眠っている種子がある と言いたかったのか 数年後この時代の気分をミュラーの詩に発見して 『冬の旅』が生まれた

一枚岩でなく さまざまな立場のちがいと矛盾を活かせる運動のために まだまだ模索がつづく 革命歌の足並みそろえた行進のリズムではなく やわらかく自由な風が吹きすぎるビクトル・ハラの歌 女たちのくるしい生活の声がきこえるビオレータ・パラの歌 牛車のゆったりした歩みのようなカラワンの歌は 20世紀の冬の旅の記録と夢 種子はどこで目覚めるのだろう