2008年10月号 目次
アジアのごはん(26)ごはんかけごはん
タイ北部チェンマイの友人トクが、チェンマイから車で1時間半ぐらいの山の中にあるカレン族の村に遊びに連れていってくれた。カレン族は主にサルウィン川中流から下流域に古くから居住する民族で、ビルマ東部平原とタイの北西部山間部、南部タイの西側の山間部などに住んでいる。
トクはかつて土地問題のサポートをするNGOで働いていて、その仕事でふかく関わっていた村だという。そこに大好きなムーソーという人がいてぜひ会わせたいのだと言う。カレン族の文化を大切にしている村だと聞いて、やっと腰を上げる気になった。
ムーソーの高床式の家に泊めてもらう。ムーソーは村長であるが、大変気さくな人であった。11人も子どもがいるのだが、奥さんは1人だけで、しかも子どもは全員健在である。病院や医者のいない山の中の村では沢山子どもがいても、死んでしまう子も多いから、これは大変なことである。一番下の息子は11歳。
高床式の家の中には囲炉裏があり、そこで夕食をごちそうになった。持っていった川魚などをお母さんと娘が料理してくれたのだが、その煮込み料理はなんだか魚とは思えない味に仕上がっていた。もったりとして味の特徴のない野菜と魚の原形をとどめない煮込み。タイ料理とはかなり味わいが異なる。う〜ん? 白いごはんが山盛り。この煮込みを食べながら、カレン族の料理には期待しないほうがいいなあ、と白いごはんをたっぷりおなかに詰め込む。
翌朝起きてみると、庭では朝ごはんのための炊飯中であった。まっ黒に燻された鍋が七輪の上に乗って、白い湯気を立てている。七輪には長い薪が無造作に突っ込まれている。朝のすがすがしい空気の中、ニワトリや黒豚の子ブタたちが走り回っている。ムーソーの家には動物たちがとても多い。大きな黒豚のつがいが一組、その子ブタたちが6〜7匹、犬が大小4匹、ニワトリが10羽ぐらい、ネコなど次から次へと現れてくるので、いったい何匹いるのかよく分からない。家族構成も、すでに結婚している娘や息子などの家族が入れ替わり立ち代り現れるので、これまたよく分からない。
カレン族のふだんの主食はもち米ではなくふつうに炊いたうるち米である。山の畑で陸稲を育てている。カレンライスと呼ばれる陸稲は粒が大きく、一粒一粒の存在感が大きい。朝ごはん、と家のテラスの床に置かれた花柄のほうろうの大きなお盆には、ごはんがドンと盛られ、真ん中に卵焼きが数枚、ちりれんげが何個か置かれているだけ。ムーソーがほうじ茶をやかんに入れて出てきて、配ってくれる。みんなでその盆からごはんをとって食べて、朝ごはんはおしまい。食べている最中にネコたちが人間と同じように盆のまわりに集まって来て、ちんまり座って残り物を待っている。
今日はこれから、村人が何十人も出て、山の尾根沿いに落ち葉かきをするというので、手伝いに行くことになった。落ち葉かきは、毎年乾季に発生する山火事の火が村のほうまで広がらないようにするためらしい。尾根は山火事対策のために樹木が切られていて、広い道のようになっている。ここに積もった落ち葉を両脇に掃いて、燃えやすいもののない帯状の場所を確保するのである。
尾根にたどり着いたときには、すでに男女別の2〜3グループが道を掃いていた。ムーソーの長男で、NGOで働いているヨンがその辺の木の枝を払って、先が二股にわかれた即席ほうきを作って渡してくれる。適当に葉っぱを払いながら前に歩いていく。これをいくつかのグループが少し間をおいてやっていくので、ひとりの掃く葉っぱはわずかだが、最終的にはけっこう燃えるものの少ない帯状の道が尾根に沿って出来上がっていた。
昼ごろになって、やっと作業は終わり、昼ごはんとなった。涼しい谷のところで、炊事班がおかずを作って待っていた。大きな鍋がふたつ、ドンと置かれている。さすがに身体を動かしたので、おなかが空いた。村人は米飯だけは持参してくることになっているようで、それぞれバナナの葉に包んだ弁当を持っている。
「しまった、お弁当、忘れてきた・・」
ムーソーの家のお母さんが、バナナの葉でピラミッド型にきっちり包んだ大きな米飯のお弁当を作ってくれていたのだが、出掛けに持ってくるのを忘れてしまった。ヨンがだいじょうぶ、だいじょうぶ、と言ってすぐに友人に声をかけて、同じようなバナナ・ピラミッド弁当をいくつも持って戻ってきた。
包みを解くと、中身はすべて飯である。すごい量。どんぶりめし2杯分はあるな。包んであるバナナの葉っぱがそのまま皿になり、ごはんを崩しておかずをかけて食べるのである。お椀に鍋のおかずが小分けされて、食べろ食べろと前に置かれた。ちりれんげもどこからか貸してくれた。手で食べている人も多い。おかずは青菜と豚肉の煮込み、もうひとつは青菜と豚肉の入ったどろりとしたお粥である。
なんだ、2種類とも同じ材料かあ・・。昨夜と今朝のムーソーの家での食事を思い出し、あまり期待を込めずに青菜と豚肉の煮込みをご飯にかける。口に入れたとたん、「おいしいっ」と声が出た。う〜ん、このコク、豚肉はきっと村の黒豚をつぶしたものであろう。ムーソーの村には黒豚しかいなかったもんな。菜っ葉もうまい。絶妙。ごはんに青菜と豚肉の煮込みをさらにかけてばくばく食べる。はあ、しあわせ。
青菜と豚肉のお粥もれんげですくい口の中へ。あ、これまたうまいじゃないの。でもすこし味が濃いかな・・と隣りのヨンを見ると、なんとお粥をごはんの上にかけて、おかずかけごはん、ならぬ、ごはんかけごはんにして手でまぜて食べているではないか。よく見ると、お粥をそのまま食べている人は誰もおらず、皆ごはんにかけて食べている。お粥といっても、かなり濃厚なお粥である。これをごはんにかけると、あんかけごはんのように見えないことも、ない。
このお粥は「タット・ホーポー」という名前の料理らしい。ごはんをごはんの上にかける、という料理を見たのは初めてである。かなり抵抗はあったが、カレン族の料理なので、とりあえず味わってみることにした。ごはんにお粥をかけて・・と。
なんだこりゃ。う、うまい! おかずとして濃い目の味つけなので、ご飯にかけて、まぜて食べると完璧。これまたばくばく。いつのまにかあの山盛りごはんがなくなっていた。お代わりは? と回りからピラミッド弁当がさらに差し出されるが、さすがにそれはお断りした。じゃあ俺が、と隣の男が受け取って包みを開いて第二ラウンドを開始する。そちらは赤米入りのごはんであった。
弁当はピラミッド型包みでなく、まん丸ボール包みもある。各家でそれぞれ米飯の内容や包み方も違うようだ。ビニール袋にご飯を入れてきている男もいたが、彼はややわびしい風情をかもし出していた。残り物ももらっていたし、一人暮らしなのかもしれない。妻に逃げられたとか。
皆が食べ終わった頃、食べるお茶のミアンが回ってきた。北タイで食べられているお茶の漬物である。少しとって、岩塩の粒と一緒に口に入れる。はじめは渋いが、塩が溶けて、ガムみたいに噛んでいるうちに口の中がさっぱりしてくる。噛み終わったら口に残った葉っぱの筋は捨ててもいいし、飲み込んでもいい。液体のお茶を飲んだ後と同じように、口の中が涼やかで、なかなかのものである。もっとも、北部でも町では若い子はだれも嗜まなくなっている。年寄り臭い嗜好品、ということらしい。
たった三度の食事をご馳走になっただけで、カレン族の食事が米飯を中心に回っていることがようく分かった。ごはんかけごはんが意外に美味であることも。ちょっと違うけど、うどんやお好み焼きをおかずに白飯をおいしそうに食べるウチの同居人(関西人)を笑えなくなってしまった・・。
暑い九月、沖縄観光をした。
暑い!
確かに秋は来た。でも一週間足らずで入道雲が出た。颱風が夏を持ってきたのか。夏は少し休んだだけでまだ続いていた。
そんな中、法事のため九州から来た姉の一家を観光へと連れていく。沖縄案内の本、雑誌などで紹介されているとこばかりなので以前は知る人ぞ知るお店も駐車場は「わ」ナンバーのレンタカーばかり。お昼どきは八人連れとなるとけっこう店を探すのも苦労する。
以前、奥武島の近くにそば屋があったのを思い出し行ってみた。そば屋はあったがいったん島に渡る。島といっても橋ですぐ渡れる小さい島。昔は漁港と魚屋、てんぷらが売っている売店だけだったが食堂ができていた。試しに入ってみる。メニューは魚のバター焼き、いかの墨汁、煮付け、刺身などなど。沖縄によくある海鮮定食メニューで一つのお膳
に五品くらい。値段は千円から二千円のあいだ。いかの墨汁なんてずいぶん食べてなかったけど(まえの日、いか墨汁を食べたことを忘れた朝、トイレで真っ黒な便が出たときはびっくりするぞ〜)、小さい子がいたのでいっしょに食べられるものをとおもい、無難な魚のフライを注文する。相変わらずご飯の量が多い。他のバター焼きもちょこっと摘まみつつ、お腹を満たし、今度は那覇新都心のブランドものばかり揃ったDFS、免税売店へ。ここは購入したものはすぐ受け取れるわけでは無く、沖縄を離れるとき空港内で受け取る仕組みになっている。沖縄発の飛行機チケットを持っている人しか買い物はできない。興味のないわたしはフロア一角のゆったりしたソファーでごろごろするだけ。帰宅途中、ブルーシールのアイスクリーム屋さんに寄り、久しぶりの観光が終わる。
九州から来た一家は帰るので空港まで送る。駐車場は全部満車の表示。そんな中一台出ていく車が見えたのですかさず入り、停める場所を確保し空港の中に入ると大混雑している。航空会社のコンピュータ・システムがダウンとのことで一家は荷物をあずけることもできず、飛行機がどれくらい遅れるかもわからぬままただ待つしかない。こっちは空港にいても仕方ないので見捨てて帰る。飛行機は四時間遅れだったらしい。
次の週はブラジルから神奈川に移ってきた従兄の子が初めて沖縄に来た。また観光。平和の礎に行きたい、というので連れていった。暑い。公園には陰がない。礎に刻まれた彼のおばあさんの兄さんはサイパンで亡くなっている。名前を見つけ教えてあげる。車で移動中、彼の携帯電話が鳴る。話す言葉はポルトガル語だったり日本語だったりする。沖縄の言葉は全然わからない、日本に来て十年になるのでポルトガル語の読み書きもできない、と言っていた。沖縄そばを食べ、北谷に寄りみやげ物の下見をする。泡盛の値段の高いこと高いこと。近所の酒屋の一升瓶の値段で売っているものある。
翌日、「美ら海水族館」へ五十八号線を北上する。子供の頃に行ったタイガービーチ、瀬良垣ビーチ、伊武部ビーチは閉鎖されていた。瀬良垣ビーチは重機が入り砂を入れているのか、昔の面影はない。自然のビーチはどんどん無くなり、砂浜ではないところに砂が敷き詰められ人工のビーチがどんどん造られていく。それでも彼は海のきれいさに感激している。水族館に着くとまたレンタカーでいっぱいになっている。水族館の中も人が多い。巨大水槽より圧倒された。
観光地めぐりは終わり、まだ涼しくなる気配がない暑い九月のなか、運動会のシーズンが始まった。
コアラの国へ
夏の終わりに急遽オーストラリアに行くことになった。何でオーストラリアにいくかというと、実は、心臓病のイラクの女の子、ヌーランが、難民としてオーストラリアに移住したという。そしてまもなく手術をするので、様子を見に行くことになったのだ。オーストラリアは移民や難民に優しい国といわれているようで、年間1万人を越える難民を受け入れている。イラクからも、今年になってから、豪軍に協力したイラク人600人をすでに受け入れているという。アメリカも米軍に協力したイラク人は優先的にアメリカへ移住できるようだから、軍に協力するのは、悪くはないということになるのだろうか?
ヌーランの一家は、軍とは関係がなく、オーストラリアへ移住するのは簡単ではなかった。最終的には豪政府との間で、場合によってはわれわれが治療費を払うという念書を交わすことで、受け入れられたのだ。したがって手術代を払わなければいけないかもしれないのだ。
オーストラリア滞在はわずか3日しかない。朝、シドニーにつく。夏の終わりということは、南半球では、春。街角には、ユーカリの街路樹が植えられ、真っ赤な花をつけている。コアラがぶらさがっているのかと探してみるがいない。ユーカリは中東でもたくさん生えているのになぜコアラは、オーストラリアにしかいないのだろう。
私たちは、小児科医と面談し治療計画を相談することになった。医者が、手術の内容を説明してくれる。
「それで、先生、お金のほうはどれくらい払うのでしょう?」
「お金は政府が負担します」
ときっぱりといわれた。
ほっとした私たちは、早速町に繰り出し、アラブ人街を探索することになった。タクシーにのると、アラブ人かアフガン人、インド人もいる。なんだか、クウェートにも似ている。連なるアラブレストラン、金融、食料品店。ヨルダン製のジュースも売っている。
ヌーランは、小学校に通いはじめていた。クラスには、アラブの子どものたくさんいる。片言の英語を得意げに繰り返す。お父さんは、あまり英語が得意ではなく、ヨルダンにいた半年前とほとんど上達していない。それに比べるとお母さんはよくしゃべるようになった。
「何でもやらなければいけないから。医者との交渉や、このコを学校に連れて行って、先生に病気のこととか説明しなくてはいけないから」
母は強しだ。
最終日、私たちは、シドニーから、メルボルンに飛んだ。2年前に、難民として、ヨルダンから移り住んだイラク難民の家族を訪問することになった。オーストラリアに行くんだけどとメールしたらぜひ会いに来いという。しかし残念ながら、メルボルンにいるという。シドニーからメルボルンは、飛行機で一時間30分はかかるのだ。しかも母親は妊娠中だ。赤ちゃんが見られるといいねといっていたのだが、飛行場から電話すると、お母さんが死にそうな声で出てきた。どうも、生まれたらしい。
「病院にいったほうがいい? え? 家に来い?」
要領を得ず、とりあえず家まで行くことにした。タクシーに住所をいうと迷わず家まで連れて行ってくれた。
家には、子どもがいた。アリとハッスーン。ヨチヨチ歩きを始めたばかりのハッスーンが大きくなっている。俺を覚えているのかよくわからないが、一緒に遊ぼうと英語で話しかけてくる。しばらくするとランダが帰ってきた。英語でぎっしりと書き埋められたノート。コアラの絵がかかれていたり、蛇の絵が点描で描かれている。「アボリジニの描き方を教わったの」という。コアラがいるの?
「ここにはいないわ。動物園にしかいない」
しばらくしたら、お父さんが病院から帰ってきた。
「昨日から入院して、今朝、生まれたんだ。結構難産だった。ようやく出血が止まった」
お父さんは、オーストラリアにきて2年目になる。職業訓練学校に行き、自動車のメカニックをしている。そのおかげで安い車を買って修理して乗っている。
「英語は、あんまりうまくないけど、妻はもう英語べらべらしゃべっているよ」
私たちは、日が傾き始めたころ、病院へ赤ちゃんを見に行くことにした。
お父さんはサダム政権のときは、スポーツ選手だった。オリンピック委員会を率いていたウダイ・フセインの横暴さに嫌気が指して、ヨルダンに逃げてきていた。しかし、イラクから警察が追っかけてくるという恐怖心から家を変え、携帯電話を変え、キリスト教の教会へいったり、モスクにいき、施しを受け、何とか生きつないだ。坂の中腹の壊れかけた家で暮らし、貧困にあえぎほとんど鬱状態が続いていた父親だが、オーストラリアの生活には本当に満足しているようだった。
「もう、僕たちのことは大丈夫だよ」と胸を張って見せた。
ランダも、アリもハッスーンも、初めて弟を見に行くので少し興奮気味。ベッドに横たわるお母さんも、だいぶ元気になったようで、再会を喜んでくれた。そして、横には生まれたばかりのアハマッド君がスースーと寝ていた。
「この子は、イラクで生まれて、この子は、ヨルダンで生まれた。そしてこの子はオーストラリア」
お母さんが紹介してくれる。
僕たちは飛行機の時間を気にし、別れを告げなければならなかった。待たせておいたタクシーに乗り込んで飛行場へと向かった。今回のオーストラリア滞在は、コアラもカンガルーも見ることができなかったが、イラク難民が元気に暮らしている姿。そして新しい命に出会えたことは、まさに筆舌に尽くし難しというかんじだ。
石見神楽とジャワ舞踊による「オロチ・ナーガ」
9月3日から7日まで、「島根・インドネシア 現代に生きる伝統芸能の交流」という企画を実施していた。主催は三保三隅百姓会・パサール満月海岸で、私自身はコーディネート、通訳、それに舞踊家という役どころ。9月7日(日)湊八幡宮(浜田市三隅町)の神楽殿で石見神楽の岡崎社中とジャワ舞踊との共同制作「オロチ・ナーガ」を奉納するのがハイライトで、それ以外にジャワ舞踊とワヤン・べベル(影絵ワヤンのもとになった芸能、絵巻物を解き語りする)のワークショップと公演をし、また一行が関西空港に到着した9月2日には、大阪の高津宮でも奉納舞踊とワークショップを実施した。
私自身が6月にパサール満月海岸でワークショップをして、岡崎神楽社中の人々と手合せしたことは水牛7月号で書いたので、今月は、その「オロチ・ナーガ」が結局どんな作品になったのかを紹介したい。
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「オロチ・ナーガ」は主催者の命名で、要は「ヤマタノオロチ」のお話である。ナーガはインドネシア語で龍の意味。スサノオノミコトをジャワ人舞踊家2名が、オロチにとられる姫と稲田姫の二役が私で、神楽囃子、オロチ、じいさん・ばあさんの役は岡崎社中の人たちによる。神楽の演出通りに舞台は進行するが、私たち3人のベースは全くのジャワ舞踊で、神楽の動きそのものを真似したわけではない。だが、今回幸運だったのは、石見神楽で一番古いと言われる岡崎社中の団長の三賀森さんが柔軟な考えの持ち主で、神楽の古い演出を踏まえながらも、ジャワ舞踊をうまく神楽に取り込んでくださったことだった。
だいたい、スサノオが2人いるという設定だけでも、尋常ではない。ヤマタノオロチの舞台は、現在では数頭のオロチ(最大8頭)が舞台に登場する。だから頭数の多い場合は、オロチ退治の場面だけ2人目を登場させて、退治の時間を短縮する演出をとることもあるという。しかし、物語の場面では当然スサノオは1人しかいない。今回スサノオが2人になったのは、同格のジャワ舞踊家が2人いたからで、片方だけをスサノオに抜擢するということはしなかった。
スサノオが2人いるのは変に思われるかもしれないと考えて、上演前のナレーションの中で説明をつけてみた。英雄というのは、その超人性を強調するため、複数が合体して1人になったり、あるいは分身が複数いて神出鬼没したりする。ジャワの影絵では、森に棲む魔物チャキルは倒されたあと3体の怪物となって現れるし、私が小さい頃のTVヒーローである超人バロム・ワンは「2人で1人、バロ〜ム〜♪」の主題歌通り、2人が合体して1人のバロム・ワンになる。このように、2人で1人、1人が2人というのは、神話の世界では現実なのだ。
この2人で1人のスサノオが、島根ではオロチが若い人を取って食ってしまい、町には年寄りしか残っていない*1という噂を聞きつけて、ジャワからはるばる退治にやってくる、それならばとインドネシア政府はスサノオの出国税*2を免除してくれたので、スサノオは帰国するとインドネシア政府に結果報告しないといけないから、皆さんスサノオを応援してくださいね、という風に話を組み立ててみた。そうしたら、出国税免除〜のくだりで意外にも拍手が沸き起こる。こういうノリの良さはまるでジャワみたいだと嬉しくなってくる。
最初の場面は姫取りといって、野に花摘みに出た姫がオロチにさらわれるシーンだが、私の場合は芝居をせず、ジャワ舞踊をしばらく見せることにした。衣装もジャワ舞踊のものである。ただし、神楽では仮面を被るが、私は被っていない。バンバンとファジャールが、舞台裏でクマナという楽器を演奏しながら詩を朗誦し、私はそれに合わせて舞う。ひとしきり舞い終わって座り、サンプール(腰に巻いている布)を手にかざしたのを合図に、太鼓の音、つまり雷鳴が轟く。天候が急変するので、姫が驚いて辺りを見回したところに、オロチが登場するというタイミングである。
このシーン、オロチは私の背後から滑るように出てくるのだが、オロチの顔が自分の視線の先にくる上に、低い位置から見ているせいか、オロチの動きがとても速く感じられた。舞台の両端からオロチが2頭出現し、私が逃げ惑いながら次第にオロチに巻き込まれていくシーンで、なんと拍手が起こる。どうやら迫真の演技だと思われたみたいだが、正直なところ「拍手してないで、助けてくれ〜」という心境であった。
私がオロチに食われたのち、しばらくオロチだけの舞いがあり、そのあとでスサノオが登場する。私の登場シーンと同じイメージにならないよう、今度は2人の歌に笛の音をかぶせる。ジャワの歌と神楽の笛と、それぞれにやっているだけなのにうまく調和して、神々しい雰囲気がかもし出される。
スサノオの衣装は、ジャワの宮廷舞踊あるいは結婚衣裳で使うドドットという種類の布(約2m×4.5m)を2枚使って、体に巻きつけ、ジャワの白い仮面をつけている。これはバンバンが考案したのだが、スサノオは神だから白い衣装が似つかわしく、むしろ神代の時代の衣装のイメージに近くてよいのではないかと三賀森氏に言ってもらえて、ほっとする。
またスサノオは神ということで手に御幣を持つのだが、このジャワの衣装に合わせて、通常より小さいサイズの御幣を三賀森氏が作ってくださった。この御幣の扱いが上手いねと言われたのだが、バンバンとファジャールは、ジャワ舞踊で使うダダップのようにこの御幣を扱ったのだという。ダダップは武器なのだが、その原型は葉のついた木の幹で、呪術師が祈祷するために使っていたものらしい。とすると、ダダップと御幣はもともと似たような道具であったことになる。
このあとにじいさん・ばあさんが登場して、スサノオにオロチ退治を懇願し、稲田姫*3を託す。前のスサノオの登場のシーンからこの場面にかけては、スサノオの名乗りやじいさんによる物語の背景の説明など、セリフが重要なのだが、異国からやってきたスサノオとじいさん・ばあさんとでは言葉が通じないので、セリフは全編カットということになる。
三賀森氏によると、昔はこの姫とじいさん・ばあさんとの別れの芝居が大きな見せどころで、年寄りなどセリフを聞いただけで泣けてくるぐらいのものだったらしい。けれど昨今では、数頭のオロチが絡み合う場面が見せどころになって、このシーンはほとんど上演されないか、あっても登場人物がちらっと舞台に登場しただけで終わってしまうという。この場面では、私たちは別れがたく何度も振り返っては追いかけて...としたので、またまた拍手が起こる。このシーンが泣けたと言う人もいて、面映い。
このじいさんを三賀森氏が、ばあさんを神楽の若い人が演じてくれた。二人は翁面、媼面をつけ、白着物に袴の格好なのだが、その上からジャワで染めた布をインドのサリーのように巻きつけてみた。公演前日に、三賀森氏から、スサノオと姫の衣装がジャワ風なので、自分たちの衣装もそれに調子を合わせたいと相談があったのだ。この格好についても、全然違和感がなかった、ジャワの布の染めの色が良かったなどと言ってもらえて嬉しい。
私の方は、先ほどの衣装から花嫁衣裳のドドット(青地に金泥模様)に着替える。神楽では、オロチに食われる姫はシンプルな衣装だが、稲田姫は金冠に赤いゴージャスな着物を着て、手に舞扇を持つ。稲田姫は、オロチが飲みに来る毒酒に姿を映すように高い所に立つという設定だ。扇子を手に持つのは、オロチが怖くて震えている動きを表現するためだという。
さて、この別れの場面のあとにスサノオと姫との(結婚の)舞いのシーンがある。これは現在50、60代くらいの人でも知らない昔の演出だという。ジャワの舞踊家に神楽を知ってもらうだけでなく、神楽社中の若い人たちにも古い演出を知ってもらいたいと、三賀森氏が教えてくれた部分だ。もっともスサノオは本来1人なので、ここは男女のカップルの舞になるのが本当だが、今回は男女2対1の舞いとなる。
そしてオロチが再登場。今度は4頭のオロチが登場する。私は舞台の後ろ中央に置かれた台の上に立っている。オロチがひとしきり舞ったあと酒(毒酒)を見つけて争って飲み、寝入ってしまったところにスサノオが登場する。退治の順序と殺し方については神楽側からの指南を受けながら、段取りを決めてゆく。スサノオがオロチの角に手をかけて首に切りつけている間に、オロチ役の人がオロチの頭を外したり、また最後にスサノオがオロチの口に剣をつっこむときに、オロチの中の人がうまくその剣先をつかんだりという段取りをお互いに踏まえないと、オロチもうまく死ねないし、何より双方ともに危険である。こんな風に、ある程度の定型に沿いながら、戦いの当事者同士で流れを組み立てるのはジャワ舞踊でも同じで、その自由さ加減が神楽とジャワ舞踊では似ていたような気がする。
この退治の場面、神楽のスサノオの動きとは型が違うとはいえ、やはりジャワ舞踊ではプロ、型が決まっていて見事だったという評判で、オロチを討ち取るたびに拍手喝采が沸き起こる。
そしてめでたくオロチを4頭退治してから、スサノオと稲田姫は喜びの舞を舞う。神様がめでたく悪を退治したというような話の最後には、この喜びの舞いがつきものなのだそうだ。舞いながら舞台前方に進み出て物語は終わりとなり、お辞儀をする。神楽の人と練習を始めたときには、まだこの喜びの舞いがあるとは聞いていなかった。というより、聞いたのは公演直前である。おそらく私たちの出来具合なども見計らっておられたのだろう。やはりこのシーンがないと神楽として物足りないということだった。
公演終了後、神楽の出演者も全員舞台に出て座り、お礼の口上と共同制作するに至ったいきさつなどを話する。実はこの公演は神楽の上演としては時間が短い。通常は夜中まで、時には朝までかけて8〜10演目を上演するというのだが、今回は(1)「塩祓い」(神楽の一番最初に上演され、場を清める)約15分、(2)「頼政」約1時間ときたあと(3)オロチ・ナーガが1時間あまりだけ、なのである。ジャワのワヤンも一晩かけて上演するから、本当は一晩いろいろと上演している雰囲気をジャワの人たちにも味わってもらえたらよかったなと思う。これは今後の課題だ。
ところで、上演前のナレーションというのは(3)の前だけでなく、(2)が始まる前にも入れた。最近の「ヤマタノオロチ」はオロチの場面がショー化してつまらないと感じるお年寄りも少なくなく、オロチと聞いただけで帰ってしまう人もいるので、今回は普通のオロチ公演ではないことをあらかじめ知らせておきたいとのことだった。オロチは頭が8つあるとはいえ胴体は1つだから、昔の神楽ではオロチは1頭しか登場しない。だから必然的にオロチとスサノオの戦いのシーンはシンプルだったのだが、そのぶん芝居表現に比重があったのだという。
このナレーションは地元の国際交流部門で働いているキムさんがチマチョゴリを着てやってくれる。彼女は6月の私のワークショップにも、また今回のワークショップにも参加してくれている。前に書いたようなナレーションを、島根弁をまじえてやってほしいとお願いしたら、なかなかうまく盛り上げてくれた。
今回は場面ごとに拍手喝采が起きたけれど、いつもそうだとは限らないらしい。神楽を見慣れている地元の人は、つまらない出来であれば拍手もせず、さっさと帰ってしまうのだそうだ。それならば、よけいにジャワのワヤン(影絵や舞踊劇)を見る観客の反応に似ている。そういうシビアさが逆に芸能のあり方を面白くしているのだろう。ワークショップなどに来てくれた人と話をしていると、若い人でも神楽の展開をよく知っていて、それも、ワヤンの展開を分かりきって見て楽しんでいるジャワの観客の姿にダブる。
こんな風にして終わった今回の共同公演、ジャワの舞踊家たちにとっては今までの来日経験の中でも一番充実して面白かった、特に神楽の人たちが柔軟にジャワ舞踊を受け止めてくれたことが一番嬉しかったと言ってくれた。こういう共同制作は、結局は当事者どうしの組み合わせがうまくいくかどうかにかかっている。今回は主催者の側に私やジャワ人舞踊家とも10年来のつきあいの友人がいて、岡崎社中とつなげてくれた。私の企画力不足で巡回公演するまでに至らなかったけれど、それも今後の課題として、今回の縁を発展させていけたらと思っている。
なお余談だが、今回インドネシアから来日したメンバーは「マタヤ アート&ヘリテージ」(NPO団体)所属なのだが、その代表―彼も今回来日している―が帰国後に、地元紙「ソロポス」が主催する「ソロポス・アワード2008」を受賞した。地方からの芸術発信の功績が認められたのである。その受賞掲載記事の末尾にも、今回島根県に来たことが言及されていて、そのことも受賞理由の1つなのだろう。インドネシア側にも今回の活動が認められて嬉しい。
*1 島根は全国で最も高齢化・過疎化が進む地域の1つ
*2 インドネシア人は出国するのに高額の出国税がかかる。今回は芸術交流の意義や過去の実績などから出国税免除が認められた。
*3 古事記ではこの姫の名はクシナダ姫だが、石見神楽では稲田姫と呼んでいる。
そっと――翠の石室48
うたよ悲しい歌をきょうだけは
うたわないで
落雷よ落雷くらいで暗くならないで(停電)
さぼてんくん
さぼてんくん何してんの
さぼってんの僕
この世からトロイメライ
「そっと、僕はもう行ってしまうんだ
そっとやってきたときのように
軽やかに手を振り
西空の雲へのお別れの挨拶にする
......」
「今だけは
悲しい歌......
(徐志摩を女性詩人だとして『言葉と戦争』〈大月書店〉に引いたのは、男性詩人だよって、デンニッツァから教えられた。ごめん。ああ早く再刊にこぎつけて直したいのに。「そっと......」の詩は『時の滲む朝』〈楊逸、このたびの芥川龍之介賞〉に出てくる、徐志摩の詩から。「今だけは悲しい歌(聞きたくないよ)」と、尾崎豊に痛みを覚える主人公。9月尽、西郷信綱さん逝く。追悼文を書いて僕も寝みに就こう。)
手紙
親愛なるみなさまへ
早いもので10月の声をききましたが、いかがお過ごしでしょうか。東京は長雨であまり月を仰ぐことも出来ませんでした。さる9月14日は満月の十五夜で,韓国では秋夕(チュソク)、秋の収穫をご先祖さまにお供えし、一族の健康と繁栄を祈る行事でした。韓国・朝鮮の嫁たち、母たち、娘たちはたいへんお疲れさまでした。
さて、11月カヤグム公演のお知らせをさせていただきます。
わたしが20年以上も学び、その世界に魅了されているカヤグム(カヤグム:1500年前に朝鮮半島南東部にあったカヤというクニで創作演奏された絃楽器)という韓国の古楽器があります。
伽?琴奏者の第一人者、池成子先生が日本に住んでいらしたころに出会って(国際交流基金主催のアジア伝統芸能の交流のしごとを通して)、それから韓国の伝統文化に目を開かれ、ぐいぐい惹かれてしまった、わたしです。池先生も還暦を迎えてから、本やCD製作にも力を入れるようになり、昨秋からカヤグム楽譜集の編集のお手伝いをしました。戸田郁子さんという在韓20年以上の作家が立ち上げた出版社、土香(トヒャン)の力を得て出版にこぎつけました。五線譜は専門の方に任せてもっぱら、民謡の解説、歌詞を日本語や英語に翻訳することの編集をしました。最後の2ヶ月は戸田さんと毎夜メールで通信する仲となり、海峡を越えたパッションを分かち合いました。そしてカヤグム楽譜集『池成子 カヤグム独奏のための南道民謡・雑歌 ソリの道をさがして』が上梓できたのは春の声を聞いたころでした。
その記念公演がケナリの花が咲き出すころにソウルであり、弟子として舞台にあがりました。が、民謡(といっても、叙事詩的な長い歌なのです)を歌いながら、カヤグムを弾くという15分ほどのプログラムを練習しても練習しても追いつかず、もうパニックの日々でした。(当日も「笑顔で歌いなさい」と助言されても、心身ともに硬直したままでした。)
その民謡のひとつが「ケゴリタリョン」。そのなかに、こんな歌詞があります。
月よ 月よ 李太白も遊んだ月よ
今宵の月はことに明るい
男の思いを狂わせる
月よ 月よ 明るい月よ
おまえはなぜそんなにも明るい
おまえの姿は美しい
輝いている星くずもおまえに似て美しいから 天の川もさみしがる
七夕の日を待っていた牽牛織女に会えたかい
(白宣基訳)
編集者としては、タイトルの翻訳で、悩みました。「ケゴリ」とは「蛙」なのですが、池先生が「これはカエルの歌じゃないから」とおっしゃるのです。そう、この「ケゴリタリョン」の歌の中にカエルはまったく登場しないのです。全編これ、女と男の相聞歌の内容であり、とくに女の血潮がめぐりゆくような自然崇拝、生命力を讃える歌なのです。それなのに、何故この歌に「蛙」が掲げられているのか・・・
そうしましたら、詩人高良留美子さんの著作を通じて「蛙」は月の象徴であることを知り、どこかひとつ「つながった」ような気がしたものです。縄文土器の装飾に「蛙」が施されているのは、古代の月信仰と深くかかわることを知り、朝鮮半島のいわばディープサウスで歌い継がれてきた「ケゴリタリョン」に重なるイメージを感じました。うーむ、空の月を眺める気持ちも確かに変わってきました。
秋を迎え、明るい月を仰ぐ今日この頃に、この歌が口ずさめるようになりました。夏の練習もしっかりできて、カヤグムも愉しく弾けるようになりました。
長くなりましたが、わたしどものカヤグム公演のお知らせを添付いたします。
大井町きゅりあん小ホールは席数300足らず、小振りだからこそ絃楽器の演奏会にはうってつけの空間です。韓流ブームにとどまらず、朝鮮半島、アジア、広く世界の民族音楽に関心のある方がたにご紹介いただけることを願っております。
オトメンと指を差されて(4)
最初は3回のつもりだったのがびっくり続くことになりましたので再度みなさまにご挨拶申し上げます大久保ゆうですこんにちはいえいえどうもありがとうございますといいますかこんな恥ずかしい文章をみなさまにさらしてもいいのでしょうかうんいいことにしておきましょうええそうですねみなさまもあまり気にしないでいただけるとありがたいです。
さて、今後のことも考えてあえて仕切り直しまして、再度オトメンのことについてしゃべってみたいと思います。第一回でも述べたように、たとえばオトメンは始終なよなよとしているような人のことを言うのではなく、むしろ普段はきりっとずばっとさくっと仕事(もしくはスポーツでも)をしてしまうような男の人で、でもなぜか普段の生活はとてもとても女の子の趣味に近いことをやっているという感じです。そこのところを間違えると大変なのであらためて強く強く主張しておきたいと思います。つまり表と裏があるわけですね。
自分を例に出して恐縮なのですがたとえば私の文章で言うと、仕事で出しているような翻訳や私のホームページに置いてあるような評論文、あるいは様々なところでする講演とか寄稿文だとかが表になります。何というか非常に真面目で落ち着いていて、私個人のことを知らない人はたいてい私のことを「女性」だと、あるいは「ある程度お年を召してどこか風格のある女性」を想像されるそうです。一方で面識のある人からはクールでクレバーな熱血漢と言われたこともあります。物腰柔らかで笑顔だけど心の奥底では何考えてるかわからないという評価もあります。「ふもっふ」と呼ばれたこともあります。少女マンガのお兄さんキャラがそのまま出てきたみたいな、というのもあったような。一定してませんが、いわゆるそういうものが表面になります。
そして裏面はこれです。
はい。ものすごく。違います。テンションが。全然。人によっては幻滅する人もいるんじゃないかと思うくらいです。わかりますわかりますそういう経験は幾度となくあります。書けば書くほどマイナスなんじゃなかろうかと悩むこともありますが基本的に悩みはくしゃみをするように一瞬で終わるようなタイプなので問題ありませんよ。
で、前回の終わりと繋げると、その表裏がひとつオトメンが恋愛対象になりにくい原因にもなってきます。オトメンの表面は、いろんな人を見る限り、「凛として」いたり、「颯爽として」いたり、「昼行灯だけどやるときゃやる感じ」だったり、そういうのが多いと思うのですが、確かに誰かに好かれることが多いかもしれません。しかしそれはやはりひとつの「憧れ」であって、あるいは「高嶺の花」であるのです。何というか遠くから恋慕されるというのでしょうか。そういう話が多い気がします。
......
そうすると積極的にアプローチはされないのでなかなか恋愛関係には至りません。たまたまこちらからアプローチしたとしても、基本的には表面に憧れて格好いいと思われ惚れられているので、裏面を知ったときの落差にがっかりするそうです。遠くから見ていた方がずっと格好いい姿をながめていられたのに、というわけですね。そんなこと言われても知りませんよまったく。......あるいは窮地に陥ったので憧れのあの人に助けてもらおうすごい格好いいありがとうでもいい想い出としてだけ胸の中に仕舞っておきますさようなら、みたいな。......ええ。ちなみに私の実体験とは何の関係もないので邪推しないでくださいね。
............
じゃあ裏面はどうなのかというと、裏面で仲良くしている人は前回述べたように気安い友だちになるわけなので、そこから恋愛関係になって発展のしようがありません。結局どっちにしても難しい。誰にでも二面性はあるといっても、その差が激しすぎるということなんでしょうかね。好いたり好かれたりの関係よりも、オトメンには同じようなタイプのよき相棒の方がうまくやっていけるのかもしれません。
..................やれやれ。
あ、そうか。ため息も多いかもしれませんね、オトメンは。だからといって村上春樹的なものをオトメンだとか言い始めるととてつもなくややこしいというかそれはほぼ間違っているのが確実なので何ともいいませんが、逆にレイモンド・チャンドラー的なものはオトメンに近いかもしれないというか表面は果てしなくハードボイルドに接近している人も数多いのではないかと思うオトメン。文学的な話をするとフィッツジェラルドの小説はオトメンじゃないけど、チャンドラーの小説はオトメンで、チャンドラーの小説を格好いいとか思う人はオトメンじゃなくて、何だかわからないけどチャンドラーの小説みたいなことになってるんじゃないかと思えるような現実をくぐり抜けて表面的には何も見せないんだけど裏で苦笑したりため息をついたりするあたりがオトメンです。みなさんは何言ってるかわかりますかわかりませんね実を言うと私も何を言ってるかわかりません。
......なので、オトメン=新しいハードボイルド、とかそういう定義でいいんじゃないかな! じゃないかな! じゃないかな!
しかしそのため息は、どちらかというといわゆる男性のなかで囲まれているときにかなりあるような感覚があるのですが、それはまた次回ということで。
しもた屋之噺(82)
今月初め、まず東京でジェルヴァゾーニが桐朋でワークショップやら作曲レッスンのお手伝いをしました。パリのコンセルヴァトワールで教えているだけあって、二日間にわたる文字通り的を得たレッスン内容に驚かされましたし、演奏の難しいジェルヴァゾーニの作品に熱心に取組んだ学生さんたちにも感激しました。最後の打ち上げで感動したジェルヴァゾーニは思わず涙までこぼし、帰りのタクシーでも、こんなに温かくもてなされたのは初めてだ、日本人が感情を表出しないなんて大嘘だね、なんと温かいのだろう、と繰り返していました。
慌ててミラノに戻った翌朝から、ローディの音楽祭のためドナトーニやバルトークのリハーサルが始まり、挙句の果てにブソッティの「マルブレ」では、相当怪しげなスピネッタまで弾いてシラを切るつもりでいると、あろうことか荘厳なインコロナータ神殿での演奏会の写真が新聞に載ってしまい後悔あとに立たず。
でも、今まで殆ど演奏されなかったドナトーニの「ソロ」と「アザール」は、誰もが息を呑む美しさで、ブソッティの「ソロ」を素材に作曲されたという「ソロ」など、楽譜も普通に書かれているし、もっと演奏に恵まれて然るべきだと思います。エスプレッシーヴォに盛り上げてゆく中盤、モダールにかそけく終わる終盤も秀逸で、もしかすると名作と目される「Etwas Ruhiger Im Ausdruck」より美しいかもしれません。
ピラミッド型に配置された演奏者が、各人それぞれ独立して、聴衆を丹念に観察しつつ演奏を進める「アザール」は、楽譜よりも会場にばかり目を凝らす演奏者の姿が滑稽だし、そこから生まれる乾きながらも、活き活きとした音響はドナトーニならではの明るさを放ちます。
それから間もなく、東京から戻った3歳になる息子はミラノの幼稚園に通い始め、現在朝9時から午後2時までは、ささやかながら拙宅には穏やかな時間が流れます。その合間、そして家族が寝静まった夜半から朝までを使い、明日から出かけるジュネーブ室内管との演奏会のために、武満さんの「ア・ストリング・アラウンド・オータム」の他、モーツァルトの協奏交響曲やらサラサーテのツィゴイネルワイゼンを勉強し、本番の翌日からヴェローナでリハーサルが始まるメルキオーレの新作オペラを譜読みし、来月半ばパリの秋でのニーウ・アンサンブルとの本番ため、ペソンや今井さんや細川さんなどの譜読みに明け暮れていました。でも、前から譜読みしていたポゼのヴァイオリン協奏曲も、未だ頭に入っていないし、それを思うと頭と目がくらみそうになります。
折角なので、今月末ジュネーブの本番の後で原稿を書きたかったのですが、入稿が間に合いそうもないので、幼稚園で息子がポレンタ版砂遊びに精を出すあいだ、階下で家人がさらうブソッティの新作を遠くに聴きつつ、隠れるように書いています。
それら演奏会の顛末は来月にでも書ければいいと思いますが、今回「ア・ストリング・アラウンド・オータム」を勉強していて、武満さんについて学んだことが沢山ありました。モダールな和音の連なりが織り成す音楽の方向性を丹念に紐解いてゆくと、そこに生まれる緊張と弛緩の関係には、明らかに機能和声上のドミナントやトニックを意識させるものもあり、逆に敢えてモダールの特徴を生かし、ニュートラルに響かせる空の部分もあって、その上に多層的に一見非調性的にひびく旋律を被せていることがわかります。
同時に、何度となく丹念に角を削りつつ、明快な繰り返しを避けつづけるモティーフ操作と、それに対峙する明快な再現部を鑑みつつ全体の尾根を俯瞰してゆくと、大学の頃、ただ無機質に分析するばかりだった武満作品の印象からほど遠い、思いがけなく幅広い豊かな世界、クラシックな意味でとても音楽的な呼吸が目の前に開けたのでした。
つまるところ、武満作品の魅力とは、根底の部分で誰もが享受できる作曲者のメッセージによるものだ、という至極当たり前の結論を痛感しながら、今回ソリストの今井信子先生に沢山教えて頂けるのをとても愉しみにしています。この経験は、来年ミラノで「ノスタルジア」と「地平線上のドーリア」を演奏するにあたり、良い肥やしになることを確信しています。
最近、こうして学生時分の自らの資質の低さに驚かされることが多く、自分が漸く理解できるようになったばかりのことを、未だ自分の半分くらいしか生きていない学生さんたちが、忽ちのうちに自らのものにしてゆく姿には、羨ましさを超えて、頼もしさにただ目を見張るばかりだったりするのです。
「考える」旅の始まり
「テレビが言うことは、ぜんぶ嘘だよ」
ある日、そんなことを父が僕に言ったことがあった。なぜ父がそんなことを言ったのかはよくわからない。三〇年近くも前の話だから記憶は定かではないが、確か父は寝転がってテレビを観ていて、うしろにいた僕に聞こえるようにそう言ったのだったと思う。
もしかしたら、ただの気紛れや二日酔いかなにかの不機嫌さのせいで、父はそう言ったのかもしれない。あるいは、いつもテレビで得た知識を鵜呑みにして話す僕や、テレビから無闇に垂れ流されるさまざまなくだらないことにうんざりしたあげくにそう呟いたのか。いずれにせよ、既に父は他界してしまったし、生きていたときもそんな些細なことを訊いたりはしなかったから、今となってはその真意を知ることはもう出来なくなってしまった。
多少は不機嫌だったかもしれないが、父がそのとき放送されていたテレビの番組に、直接腹を立てて言ったのではなかったのは覚えている。だから、テレビに対してそう言ったのか、僕に対してなのかすらもよくわからないままに、僕はうしろ姿の父からその言葉を受け取ったのだった。あまりにも何気なく受け取ってしまったから、言い返すこともその意味を訊くこともしなかった。簡単に聞き流せるような言葉だと、迂闊にもそのときは判断したのかもしれない。
額面どおりに受け取れば、間違っているのは明らかだと、そのときの僕は思ったのだった。どう考えてみても、「テレビが言うことは、ぜんぶ嘘」なわけはないし、誰だってそんなふうに言われれば、「そんなわけはないよ」と苦笑するだろう。しかし、表面的には間違っていたからこそ、その言葉は僕に「考える」ということを強いたのだった。僕の内部で反論を呼び、その反論がまた別の考えを生んで、頭の中での議論が始まったのだっだ。まるで堂々巡りのように、ひとつの答えが出てくれば、すぐさまその答えに対しての別の考えが浮かんで来る。そうやってその言葉は、僕の内側で出口を失い、吐き出せないままに永遠にとどまってしまっている。いや、そうやって永遠に閉じ込めてしまうことで、いまではなにかしら真理に近づけるように感じているのだから、むしろ自分で意識的にそうしたのかもしれない。
ただ、その言葉でなければいけなかった理由には、父の言葉を永遠にとどめたかったということもあるのかもしれないと、いまの僕はそんなふうにも思う。叱られたのでも注意されたのでもない、真実を語ったのでも、忠告されたのでも、文句を聞かされたのでも、愚痴を言われたのでもない、そして警句でもないそんな何でもないようなその言葉が、いつの間にか僕が父から受け取ったいちばんありがたい言葉になっていったからだ。
この言葉を僕は実によく思い出す。いや、思い出すというほどにも忘れられないでいる、と言ったほうが正確かもしれない。噛んでも噛んでもなくならないスルメみたいに、それはずっとどこか僕の中にある。そして、考えれば考えるほど、この言葉の中にいろんなことが含まれているように思えてくる。テレビのことだけではなく、父のことも、母のことも、それから世の中のさまざまなことさえも、その中にあるように思えてくる。まだまだ考えることがたくさんあるのだが、考えたひとつの結果として、ある日、僕はこの言葉の中に「見えるものだけを信じてはいけない」という意味を見つけたのだった。だがそれは、単なる始まりにしか過ぎなかった。どこかに到達したというのではなく、ただ「考える」という旅がこれからも終わりなく続いていくことが、決定的となっただけだった。
この先それがどこへ到達しようとも、父から受け取ったこの言葉が出発点であることには変わりがない。僕以外の人にとってはほとんど何の意味もなさないだろうし、父もそんなことを言ったなんて、とっくの昔に忘れてしまっていたはずだけれども、うしろ姿の父から受け取ったこの言葉が、僕にとっては何にも換え難い父からの贈り物となったのだ。そしてそれは、僕の頭の中にある薄暗い空間のなかの何やら湖のような黒い水たまりの底に、まるで澱のようにこれからもずっと静かに横たわり続けるのだろう。穏やかで平和な風景をときどき波立たせるために、それはいつまでもそこに存在し続けるはずだ。
メキシコ便り(13)
音楽で満たされ、楽しかったなかにも苦難のアルゼンチンの歴史を思い起こさずにはいられなかったサルタからいったんブエノスアイレスに戻り、チリのサンチャゴに行きました。サンチャゴまでは飛行機で2時間足らず、夕方には着きました。飛行機から降りると、雪をいただいたアンデスの山々が美しくそびえていました。それにしても寒い。まるで冷蔵庫の中にいるようで、急いでホテルに向かいました。
サンチャゴの街は旧市街と新市街に分かれ、名所旧跡は旧市街に多いのですが、街の中心は新市街に移り、旧市街のほうは夜10時を過ぎるとひっそりしてしまいます。その日はたいした観光もできず、眠ってしまいました。次の日、キラパジュンの歌で知ったイキーケに行きました。イキーケはサンチャゴから飛行機で3時間足らず、バスだと24時間かかる、チリ北部の街です。19世紀に内陸部から産出する硝酸塩の積み出し港として繁栄した港町で、今では漁業が主要産業となっています。
空港に着いた時は、サンチャゴとのあまりの違いにちょっとびっくりしました。というのはここの空港の周りは一面砂漠で何もありません。でも乗り合いタクシーで30分も走ると美しい海岸線の続く街が見えてきました。街の中心はメルカード(市場)で郊外へのバスが頻繁に出ていきます。
その日は到着が遅かったので次の日、イキーケから45キロ東にあるハンバーストーンとサンタ・ラウラに行きました。ここは硝酸塩の産出が盛んだった頃に300あまりあった硝石工場で、今ではゴーストタウンになり、世界遺産に指定されている所です。ハンバーストーンには3700人、サンタ・ラウラには870人の住民がいたそうです。広い範囲に工場や学校、劇場の跡が残り、当時の繁栄がしのばれました。しかし砂漠の中に残る赤さびた廃墟は、やはりうらさびしいもので、色とりどりの民芸品を並べたみやげ物屋だけが妙に突出していました。
次の日はバスで3時間のマミーニャというところに評判の温泉があるというので行ってみました。メキシコではお風呂といっても風呂桶がなく、シャワーだけの生活が何ヶ月も続いていたので、温泉ときくと気持がグラリと動いてしまうのです。ここは真っ黒の泥を体中にぬり、太陽にさらしながら歩き回り、最後に温泉で流すというものなのですが、周りからまる見えで、試してみる勇気がわきませんでした。仕方がないので湯だけの風呂に行きましたが、何と日本の温泉とは似ても似つかないものでした。小さな個室にお湯の入っている穴と堅い木のベッドがあるだけ。これで1時間300円。うーん、安いのか高いのかわからないまま、湯につかりました。しかし中は湯かげんも丁度でとても心地よく、すっかりリラックスしてしまいました。
次の日の朝、ホテルの近くの港に行ってみました。たくさんの露天が出て、とれたての魚をさばきながら売っていました。ティブロンという白身魚の全長2メートルはあるものは1キロ400円、コングリオというのはアナゴなのですが、身が厚く白身魚のようなもので、1匹100円、アルバコーラという白身魚も束にして売っています。この他にもたくさんの貝類など、実に種類が豊富で、近所の人たちが買いにくるのか、よく売れていました。港の中にあるレストランでアルバコーラが食べられるというので、注文したところ巨大な唐揚げが出てきました。朝からこれはちょっと食べられないと思い、店の人には悪いのですが、衣を全部はがして食べました。柔らかい白い身がホクホクしてとてもおいしかったです。
このようにイキーケの街をいろいろ楽しんだのですが、最後にキラパジュンが歌っていた事件のあった場所に行ってみたいとガイドのエステバンに聞くと、多くの人が殺されたサンタ=マリア小学校は、メルカードの前にあったそうです。今では別の建物が建ってしました。メルカードは朝8時前から夜12時すぎまでひらいていて、とてもにぎやかに人が行き来し、昔の悲惨なできごとを思い起こさせるものは何も残っていませんでした。次の日、暖かいイキーケから再び寒いサンチャゴに戻りました。
サンチャゴは東西約40キロ、南北約50キロにわたって市街地がひろがり、歴史が集約された旧市街には、1973年ピノチェットによる軍事クーデターでアジェンデ大統領が死んだモネダ宮殿をはじめとして、チリの歴史を知るうえで欠かせない博物館などが集中しています。モネダ宮殿は、ちょうど何か政府の催しがあるとかで見学できませんでしたが、国立歴史博物館をはじめ、プレコロンビア芸術博物館、サンチャゴ博物館、国立美術館と4か所回りました。私にとっては国立歴史博物館で見たイキーケのデモの様子を写した一連の写真と、軍事クーデターの勃発を伝える当時の新聞の生々しさが、強く心に残りました。
また一方、今回サンチャゴに来たらどうしても見ておきたい場所がありました。それはビクトル・ハラが殺されたスタジアムでした。地下鉄のエスタシオン・セントラルから歩いて5分のところにそのスタジアムは「エスタディオ・ビクトル・ハラ」と名前をかえて建っていました。そしてここの館長のルイス・カルデナス・キンターナさんに中を案内してもらいました。椅子席が4000という広さのこのスタジアムに、クーデター当時5000人が拘束されたそうです。柔和なお顔できれいなスペイン語を話されるルイスさんは52歳、彼も当時ここにビクトル・ハラとともに押し込められたひとりだそうで、ビクトル・ハラが坐っていた椅子、暴行を受けた場所、息をひきとったところなどを指し示しながら、ハラが9月11日に閉じ込められてから虐殺される16日までの6日間の様子を詳しく話してくださいました。ここでは800人から1000人が殺されたそうで、ハラの最期についても今までいろいろな本を読んではいましたが、実際にその現場を前にして、あまりにも悲惨すぎる生々しい映像が頭の中をめぐり、思わず顔をおおってしまいました。
そのあともルイスさんとチリの新しい歌の運動のことなどをいろいろ話しながら、私がハラの代表曲「耕す者への祈り」が大好きで、日本語で歌っていたというと、ぜひ聞かせてほしいといわれ、事務所のみんなの前で歌いました。ルイスさんは「日本語はわからないが、とても美しい言葉だと思う。あなたの歌もすばらしい」とほめてくださいました。そして「もう一度サンチャゴに来て、今度はスペイン語でも聞かせてください」といわれ、帰ったばかりにもかかわらず、また行きたくなり、次は南の方も回ってみようかな、などと考えている私です。
ペルーでの話(2)
ペルーの場合基本的に白人系は裕福でそれ以外の多くは貧しい。インディヘナ、黒人には差別、偏見もある。家を助けるために幼くして働き始め、学校へ通えない子供、教育を受ける環境に育たない人々はとても多い。そんな人々のために募金、寄付金が他国から贈られることもあり、学校が建ったり、物のプレゼントが届いたり、古着が届いたり、様々なことが起こる。それらはNGO団体や企業が行うことも多い。
自分がペルーで見たこと、体験したこと
ある企業のペルー支店の社長と偶然話したときの事
「いや〜、今から楽器を小学校に寄付しに行くんだが、君ギター弾くならちょっと一緒に行ってプレゼントして、少し弾かない? しかしここの人はあんな安い楽器で、すっごく喜ぶんだからね、はっはっは、君、一緒に行ったら神様みたいに思われるよ。」
ある団体が田舎の村やジャングル奥地に学校を建てる、しかしそこで教える先生がいない。そこまで教えに行く先生がいない。学校を建てた人はそこまで考えたのだろうか?
貧しい人々に古着が届くと、確かに着る人もいるが、それを売る人のほうが多い。
ある団体から、ペルーでチャリティーコンサートを企画して、君が演奏し、その収益をペルーの貧しい地域に寄付しようと持ちかけられたことがある。そもそも、ペルーで寄付金を集めようという事自体が疑問だった。普通に考えれば、日本でそれらのイベントを企画して、その収益を送ったりする。のちに、そこで集まった収益を旅費にし、ギャラにしよう、と話がだんだんおかしくなり、もちろん参加をやめた。
どの出来事にも言葉がつまった。
製本、かい摘みましては(43)
東京・高輪のギャラリー・オキュルスで、渡辺啓助さんの七回忌に寄せて開かれた『W.W.W. 長すぎた男・短すぎた男・知りすぎた男』展(2008.5.17-31)のために作られた冊子に、渡辺兄弟の四男・渡辺濟(わたる)さんの2つの句集が写真で出ている。ひとつは、ホッチキス留めした和紙の束に句を書いた紙と写真をひと見開きずつに貼り、青の厚手の和紙を表紙としてかぶせ、「限定一部 其一番 昭和五十三年 盛夏」と記された『うめぼし』。「蟻誘ひ 空を翔ばんと 梅の種子(たね)」、その左に、路に転がるまっ赤な梅干しの種を照らす強い日差しの写真、といった具合で全10篇が並んでいる。もうひとつは、長兄である啓助さんが濟さんの句のなかから好きなものを選んで自筆で和紙にしたため、やはりホッチキスで留めた『螻蛄の会』。いずれもあまりに簡単で小さな句集だが、なんて妬ましいほどあこがれる「本」であることだろう。
渡辺濟(1912-2002)とは「日立の赤ヒゲ先生」の異名を持つ内科小児科の開業医で、通所施設「太陽の家」の運営にも尽力し、句や絵画、写真に親しんだ。植字工や観光バスガイド、古本屋など8つの職業を持つ8人になりすまして自筆で句集をまとめたり、病院の休診日には路上で靴磨きをしたり、逸話多き人物であるらしい。長兄の啓助さんは推理作家、次兄の温さんも推理作家で編集者だったが1930年に27歳で事故で亡くなっている。この3兄弟を偲ぶ展は、啓助さんの四女で画家でありギャラリー・オキュルスのあるじである東(あずま)さんが、夏の海に飛ぶ3羽のカモメにW.W.W.の文字を見て、「あの3人の精神の冒険家達」の展覧会をと思いついたものだという。冊子のあとがきには、とりあげる作品の選択においては濟さんのものが一番思い悩んだとあり、「父が好きで口ぐせのように言っていた『知られずして、すでに忘れられた詩人』を地でいったような人物であった濟は、書くことへの懐疑をもち、心の奥深いところで文学を否定しているところがあり、芸術への疑問の迷宮の中で右往左往しているようにも見えた」とある。
ホッチキスで留めたあまりに好ましいかたちに、初めて自分で原稿用紙に詩(みたいなもの)を書いた日を思い出した。ちょうどいま時分の季節だったのだと思う。見上げた空に動く雲をみつけた。空は車庫の屋根と母屋の屋根と林檎の木の枝に枠取りされていて、右から左へ動いたので体の向きを変えればそうは見えないと思ったのかぐるぐる回転したがやっぱり雲は動いており、ほんとうに驚いた。葡萄棚をくぐって両親の部屋に入り姉のために用意されていたのであろう原稿用紙を棚からこっそり抜き取ってまた戻って空を見上げ、動く雲をいま一度確かめて「雲が 動いた」と書いたのだった。そのあとになんと書いたのだったか使った原稿用紙は2枚で、恥ずかしくて後ろめたくて2階に上がって机のひきだしに隠した。しばらくして、原稿用紙の枠外にタイトルと名前を書き足して二つ折りして重ねてホッチキスで留めた。またしばらくして、今度は画用紙を表紙代わりに巻いてのりで貼り、表に「詩集」と書いて隠した。隠したモノはいつしか忘れて、探すこともなく失せた。あれは私の初製本だったのかなと思った。
9月は追悼月
9月11日マリアのための追悼コンサートで『なびかひ』を弾く
691年に人麻呂が書いた詩によるピアノ曲
中嶋香の委嘱で書いたが 自分で弾くのは初めて
1972年にもおなじ詩でチェロと男声合唱のための『玉藻』を書いた
その時は青木昌彦の妻・石田早苗を悼むために
夫を喪った妻のうたを妻を喪った夫のために引用するのは
男は女でもあり 女も男でもありうるからだろうか
最近は休止符を書かない楽譜をためしている
音と音の間が 不連続でもあり連続でもあるように
9月19日から21日までシアターイワトで『トロイメライ』の初演
シューマンのピアノ曲でもあり如月小春の戯曲でもあった
少年と少女 それに地球をかかえた『人類』という設定は如月小春のもの
物語はアンデルセンが初めて書いた童話『雪の女王』から
いくつかの詩は如月小春の別な戯曲から
詩の引用を含むテクストは彼女の戯曲にもとづくが
如月小春のためによんだ弔辞の引用でもある
音楽はシューマンからはじまり それが即興のなかに崩壊し
最後に原曲が再生する
飛び降りて死んだ少年を死の国から日常によびもどす少女のように
即興ははじまりと終わりのフレーズの間にあり
ちがいがきわだつように 無自覚な連続や反復を抑制する以外の
規則も共通のスタイルもなく
26日と28日は東京と大阪で柴田南雄の十三回忌コンサートがあり
そこで山田百子と『歌仙一巻 狂句こがらしの』を演奏する
ヴァイオリンとピアノは前半と後半の終止以外には同時に演奏しない
引用を交えたソロが交替する連句構成
連句形式の厳格な規則はともかく
付けと転じによる予定調和のないプロセスは
ちがうものがちがいをのこして協力する関係をつくりだす
芭蝉の作法は 最少限の音の配置から遠い空間を想像させる
極小の政治学