2008年12月号 目次
ハニーンのすてきな微笑み | さとうまき |
センター通り | 仲宗根浩 |
性の行き来 | 冨岡三智 |
オトメンと指を差されて(6) | 大久保ゆう |
メキシコ便り(15) | 金野広美 |
蜜から灰へ――翠の羨道50 | 藤井貞和 |
製本、かい摘みましては(45) | 四釜裕子 |
しもた屋之噺(84) | 杉山洋一 |
歓喜の歌 | 大野晋 |
斜めにずれて | 高橋悠治 |
ハニーンのすてきな微笑み
「難民ってカッコイイ」? とてもきわどいキャッチコピーがUNHCRから回ってきた。難民ってかわいそう、難民支援って大変そう。そんなイメージを覆そうという意図だという。
「難民って、難民支援ってカッコイイ」
そんなこと言われたってやっぱり戸惑う。現場で難民と接していると、「カッコイイ」という表現は似つかないし、ふざけんなよと言いたい気持ちもある。案の定、ミクシィとかでは炎上しているそうだ。
イラク戦争で難民になり、隣国ヨルダンで難民生活を送るハニーンは、11歳。卵巣がんを患っている。父は、難民なので、ヨルダンでの就労は禁止されている。ヨルダンの医療保険制度も難民には適用されないから、治療費が払えず、病院にもいけないまま、がんは進行していた。スマイル子どもクリニックの加藤ユカリ先生が、彼女を救いたいと言い出した。
「いくらかかるか知ってますか?」
「20%しか助からないということは、まず死ぬでしょう」
「その金があったら他にも助かる子どもがいる。」
「でも出会ってしまったからには、この命を助けたい」葛藤が続く。
「100人いたら20人は助かるんだ。そこにかけてみよう」
ハニーンは、絵を描くのが大好き。絵描きになりたいという。しかし、集中して描く事ができない。がんが大きくなって膀胱を圧迫し、一時間に何度もトイレに行く。弱りきった彼女にはトイレの扉も重たすぎて自分では開けられないのだ。私は今年の一月、タキに連れられて、病院にお見舞いに行った。病院には支払われるはずの治療費が滞り、病院側は、身代わりにタキのパスポートを取り上げてしまった。
「私は、日本に帰れなくなってしまいましたよ」と冗談を言っていたが、弱っていくハニーンを見るのはつらい仕事だ。
「募金キャンペーンに使う絵を描いてほしいな」とお願いすると、とってもうれしそうな顔をした。抗がん剤のせいか髪の毛は抜け落ち、鉛筆を握る手先の皮膚はぼろぼろになっていた。それでも、力強く線をつなげていく。「私、生きているわよ」と主張していた。出来上がった絵を見せて、「気に入った?」と微笑む。私たちは、大満足だった。
数日して、ハニーンは、息を引き取った。あの時彼女は、壮絶な痛みや苦しみに耐えていたのだった。それでも、絵を描くことで、役に立ちたいという気持ちが、あんなにすてきな微笑みを産んだのだ。
彼女が死んだとき、タキは、しばらく、ふさぎこんでいた。そうなるのは最初からわかっていた。後日、「あの時は、アラビア語なんか勉強するんじゃなかった。彼女や家族の苦しむ言葉なんか聴きたくなかったのです」といっていた。
タキの仕事はイラクにくすりを送り出さなくてはいけない。それをまっている子どもたちがたくさんいるからだ。僕たちは悲しいからと言って立ち止まってはいけないのだ。ハニーンがそんなこと許してくれないだろう。だから、今年の「限りなき義理の愛大作戦」のチョコレートのパッケージにはハニーンの書いてくれた絵を使った。
ぼろぼろになってチョコを売り、支援を続ける僕たちにやっぱりカッコイイという言葉は似合わない。
センター通り
すこし涼しくなったとおもったら、いきなり数日の真夏がきて、こんどは肌寒くなったりしている。寝る時は毛布をかけるようになっているから、確実に冬にむかっていることはたしかみたい。最近、子供が見ているディズニーのテレビ・アニメの舞台が無国籍映画みたいな沖縄になっている。はなす言葉の語尾になんでも「〜さあ。」をつければ沖縄風になるのか、とテレビにツッコミつつ、だらだらと十一月が過ぎた。
十一月五日、朝からニュースはアメリカ大統領の選挙中継あれこれ解説を入れながらやっている。このあれこれがうるさいし、その国の生放送を見たほうがおもしろいだろうと、チャンネルをAFN(昔でいうFEN)に合わせる。全編英語、CMなし、英語があまりにも不得手なわたしがわかるのは画面に出てくる得票率の数字だけ。本来このテレビ放送はよそでは基地内のケーブルネットでしか見られないらしいが近所の基地は電波で出力しているためものごころついたときから、テレビを6チャンネルに合わせればが見られる。この日、放送していたのはアメリカのabcの中継だったか。夕方から東京発信のニュースもこればかり。次期大統領が黒人のため人種偏見について取材したものがあった。家の前に人形を吊るしている映像を見て、去年読んだ「私のように黒い夜」という本にあった写真を思いだした。
子供の頃、ここでも白人と黒人がたむろする場所というのは違った。住んでいたセンター通りと言われたところは白人が遊ぶ場所だった。家の斜め後ろには米兵とお姉さんがよく出入する個室がいくつも並んだ建物(昼は塀によじのぼりよく中を覗いていた)、学校に行く途中バーの入口横には裸体にニシキヘビを手に持ち、いろいろなポーズをつけるブロンドのお姉さんの写真が隠されることなく貼られている。表通りを歩く黒人は滅多にいなかった。歩くときは表通りと平行に、ぎりぎり車が一台通るくらいの裏道を歩いていた。その裏道は昼の子供の遊び場でもあった。狭い中で野球をやっていると、真ん中からピンクと紫色に分かれた派手な服を来た、調子のいい酔っぱらった黒人が手を取りバットの構え方を教えてくれた。夜は表通りのネオンの明るさとは逆でとても暗くこわかったので、表の明るいネオンの下、家が通りで商売をやっている近所の友達とただ走り回ったり(たまに子供には大金の25セント硬貨を目が合っただけでくれる米兵もいた)、酔っぱらいばかり通る中、真面目にキリストの教えを説く人が配るちらしを何枚も意味もなく貰ったりした。九歳までいたところにずっと住んでいれば普通に昔の記憶としていつの間にか消えたかもしれないが、いきなり畑の真ん中に建つ家に引っ越してしまったので、小学校三年生までとそれ以降との落差がありすぎた。あの頃、いっしょに遊んだ者たちは引っ越したり、死んだりして顔を合わせることはない。わたしが家の二階から下を通るアメリカさんめがけ、小便を頭の上に命中させたことを記憶している者もほとんどいない。
性の行き来
ある中学校の合唱コンクールでのこと。その学校では、各クラスとも合唱以外にちょっとしたパフォーマンスを行うのだが、3年生のクラスでは男女生徒が制服を取り替えてパフォーマンスした。私自身が中高生の頃には、こんなこと、発想もしなかったなと思う。彼らによると、今までの先輩たちもやってきたことだそうだ。ともあれこの男女が入れ替わるという発想には、制服がユニセックスなデザインだということも影響しているに違いない。上半身は男女とも同じポロシャツにブレザーだから、ズボンとスカートを穿き替えるだけで簡単に男女入れ替えができてしまう。
***
私は今までジャワ舞踊の手法でいくつか女性舞踊作品を作ったことがある。いずれも部分的に男性舞踊(優形)の振付を取り入れて、そこだけ男性になることを表現してみたかったのだが、このはめ込みは頭で考えるより案外難しかった。ジャワ舞踊では男女でカイン(腰布)の巻く向きが異なる。男性は左前に、女性は右前に着付けるのである。だから合わせが逆になると裾捌きも変わるだけでなく、心理的な男女の壁も越えないといけない。
たとえば着物を着る場合、左右の前合わせを間違える人はいるまい。(と思っていたら、テレビの生放送では時に、着物の前合わせを間違えた人が出ることがあるらしい。もはやそういうことは日本人の常識ではない時代のようだ。)日本では合わせで生者と死者を表現する。生きている限り男女を問わず右前、死んだら左前である。だから生者と死者の壁は大きいけれど、男女の壁はそれほど高くないことになる。だから女性が女性の着物を着て、時に女性振り、時に男性振りをして性を行き来する表現をすることは、ジャワ舞踊ほど難しくない気がするのだ。
歌舞伎では早代わりがあって、男女を問わずに変化できるというのも、そもそも着物が基本的に男女同デザインで右前ということによるのではないかと私は思っている。これがもし、早代わりで生者と死者を何度か交互で表現するとしたら、何度か着替えているうちに、わけが分からなくなって前合わせを間違えてしまうかもしれない。
***
中学生が男女取替えの表現をしたくなるというのは、男女差をはっきり区別させる文化が薄らいできたからということもあるだろう。私の学生時代には、女子学生はセーラー服、男子学生は詰襟の学ランというのが学生服の定番で、そのうえ当時の男子学生の頭は丸坊主だった。丸坊主の男子学生がセーラー服を着ようなどと思いつきもしなかったのも、それが気味悪く感じられるほど、男女差の壁が高かったからだといえる。
そしてこんな文化はバブルの時代で終わった気がする。私が社会人になったのはバブル全盛時代で、男性といえば肩幅の広いジャケットを着て、みな逆三角形の力強い体型を演出していたし、女性といえば、ワンレン・ボディコンのスーツでめりはりのある体型とかとセクシーさを演出していた。
そんな前向きな時代が終わり、経済が悪化して閉塞感が強くなって以来、服装に男女差の表現が少なくなってきた気がする。しかし着物文化を考えてみると、日本はもともと男女差の垣根の低い文化だったとも言えるのだ。バブル時代の男女のイメージというのは、明らかに西洋モデルだった。中学生が男女取替えを面白がるというのも、ある意味で伝統的な現象なのかも知れない。
オトメンと指を差されて(6)
「その人、××のときに○○するでしょ。」
と私が言うと、依頼人は、
「えっ、どうしてわかるんですか!?」
なんていうのはシャーロック・ホームズの世界にしかありえないと思いきや実は私にとってはよくある光景だったりするところの大久保ゆうですみなさまこんにちは。
いやしかしそもそもそんな会話の成立する状況がよくわからんというお言葉もあるかと思いますが冗談というかほとんどあきらめ半分に自分のことを「諮問探偵《コンサルティング・ディテクティヴ》」と呼びたくなるくらい男女問わず私の所には揉め事が持ち込まれます。
ほらテレビとかで探偵の行くところ行くところ事件が起こったり出くわしたりするじゃないですか、普通はああいうのは「そんなことありえないよ」と思うところなのですが大小様々な事件に(部外者としてあるいは探偵として)巻き込まれる私にとっては世の架空の探偵の皆々様は同情の対象なのですどうもご愁傷様だぜ。
事件の遭遇率がこんなに高いのはなぜかと考えてみるにそれはオトメンであることと深い関係があるのではないかと思っているのですですです! この十年さんざん巻き込まれまくって今さらですけどけど! さらに原因がわかったからといって避けられるわけでもないんですけどねねねね! もうそのへんは自他共に認めるところだからいいんですぅーだ!(キャラ崩壊)
さて。
まずはオトメンは女の子とも仲がいいということ。もちろん同性とも仲がいいのでちょうど「つなぐ」役割になりやすいというか緩衝地帯みたいなものになりやすいです。そうなるとまあ男女関係のもつれなどが起こった場合かなりの確率で頼りにされるのだと思います――ほとんどの場合、バカな男が原因だったりするんですけどね! まったく! 前回の欲求不満が......もごもご――これは推測しやすいしわかりやすい理由ですオトメン1。
ふたつにはオトメンは割と組織や集まりの要所にいることが多いということ。何というか最初の定義を思い出しながら考えてほしいのですがオトメンは実務能力的にも頼りにされることが多いです。とはいえ立ち位置的にはリーダーではなく人と時と場合によっては副長だったり一匹狼だったり遊撃隊長だったり狙撃手だったり軍師だったりするわけですが物事のピンチの際というのはえてしてそういう立場の方が小回りがきくしそういう人だからこそ話が持ち込まれる次第なのですがオトメン2。
という点に加えて個人的な要素として事態をさらに悪化させているのは私は「推理ができる」人であるからなのですね......ええと何言ってるんだとかお思いでしょう別に寝ぼけているわけでも自慢しているわけでも自惚れているわけでもありませんいやただ職業的に「推理」とほぼ同義のことができるというだけなのですというかもったいぶらなくてもただ「翻訳」ができるだけなんですけどねオトメン3この語尾もうやめてもいいかな。
テクストが相手だと翻訳(あるいはそれに際する読解)になるのですがそれが生身の人間相手になると「推理」っぽくなるわけです。他の言葉で言い換えると「精神分析」だったり「プロファイリング」だったり「演繹推理」だったりあるいは思考のトレースだったり出来事のシミュレートだったり細かいことは別にしてデータさえあれば職業的にわかる部分があるのです。
などと言うと格好良く見えたりうらやましがられたりするのかもしれませんが、
......ええと
............言っておきますが
..................推理が当たるのは尋常じゃなく怖いですよ?
いや別にくだらないことで当たるのはいいんです。「あなた、トイレのトイレットペーパーの端を折る人でしょう?」とか「目薬挿すとき目をつむる人でしょう?」とか「消しゴムの削りカスをついつい集めちゃう人でしょう?」とか。別にそんなの言いませんが。
じゅうぶんなデータさえあればある一定の状況下においてある人がどんな行動をするかそれくらいは翻訳家としてわかるのですが......そうして導き出された某人の行動と結果がとんでもないことだったら......とんでもなく恐ろしいことだったら......背筋を凍らせるほかないわけなんです。ぞくぞくぞくっ(凍る音)、ぶるぶるぶる(震える音)、ぶんぶんぶん(信じたくなくて首を振る音)。
私だってまずそれが妄想なのではないかといったん冷静になりますよ。でも当たるから怖いんです、事件を片づけたあとで裏を取ったら合ってたりするから困るんです、推理して嬉しいとか楽しいとかそういうのは本の世界だけの話ですよ! 安全だから楽しめるというのはジェットコースターとかと同じなのかもしれませんが巻き込まれている身としては「心臓が止まるわ!」と言いたくなります。(ところでジェットコースターは面白いですよねいつも大爆笑しながら乗ってます安全安全うん私の日常に比べればめくるめくファンタジーエンターテインメントイリュージョンですよあはははは。)
で、とんでもないことが起こるのをわかってて放置しておけないからいくら関わり合いになりたくなくてもそういうときには飛び込まざるを得ません。そうして事件が解決して日常に戻って依頼人もいなくなってしまったあとのあの虚無感虚脱感と言ったら、もう耐えられ、な、い!(悪い意味で)
しかしまあシャーロック・ホームズ氏はそういう事件を楽しんでいるわけですが自分の気持ちを裏返したときホームズが事件のない毎日を「つまらん」と言うのはわからないわけでもないのですというかそういう自分の日常があるからホームズの翻訳にリアリティが保てたりするわけなのですが(そしてそれを素直に喜べず苦笑いする自分がいる)。
そういえばよくよく考えれば翻訳家というのもかなりオトメンらしい職業ですよねと思いつつこのへんで紙幅が尽きてきたので続きは次回。
メキシコ便り(15)
異文化だと開き直るタラウマラの男に心底、腹立ちを感じながら、異文化を超えたところにあるだろう男女の良好な関係性についてスペイン語で言えないもどかしさを抱えながら、クリール近郊を訪ねました。ここには高さ30メートルのクサラレ滝や、レコウアタという銅渓谷の一角に温泉が湧き出しているところや、周りを大きな岩や松林に囲まれたアラレコ湖など、多くの景勝地があります。でもクサラレ滝は正直言ってイグアスの滝を見たあとなので、しょぼかったです。しかし、アラレコ湖は静かでとても美しい景観の中にありました。ボートを漕ぎ出し、隅々までゆっくり見て回りました。湖岸にはタラウマラの家があり、馬が草をのんびりと食んでいました。
そしてこの湖の近くに彼らが住む洞窟があるというので行ってみました。洞窟は確かに人が住んでいた形跡があり、岩が火を使った跡なのでしょうか、黒こげになっていましたが、中ではみやげ物が並べられ、女の子がチップを入れてくださいとばかり、かごを持って入り口に立っていました。ギエスカと名乗ったその子に「カマ(ベッド)はどこにあるの?」と聞いてみました。するとあそこと指さしたのは、洞窟の前にある木造の家でした。洞窟はタラウマラが現在も住んでいるというふれ込みで観光客を集めていますが、彼らは実際は別の家に住み、住居跡の管理をしているという感じでした。だって中には鶏がいっぱいいて、ごみだかなんだかよくわからないビニール袋がたくさん置いてあるばかりで、とても人が住んでいるとは考えにくい環境だったのです。
なんだかがっかりしてしまいしたが、気を取り直して、次にレコウアタの温泉に行きました。温泉は谷底にあるので、大きな道路からは1時間半歩かねばならず、下りとはいえ汗びっしょりになりました。湯の温度はちょっとぬるめでしたが、毎日シャワーばかりの身にはやはり、いい湯だなーとなります。それに渓谷がとても美しく、深い緑をながめながら、また、鳥の声を聴きながらの温泉はやはりほっこりして肩の凝りがすっかりとれました。しかし、「行きはよいよい帰りは怖い」ではありませんが、1時間半下ったということは、帰りはまた1時間半登らなければならないことになります。これは大変、せっかく温泉で流した汗がまた吹き出て、汗だくになります。でも悪運の強い私です。自家用車でここまで来ていたメキシコ人の夫婦に上まで乗せてもらえることになり、「行きはよいよい帰りもよいよい」になりました。
次の日、銅渓谷に行こうと朝10時半のバスに乗りましたが、私の悪運もここで終わり、最悪の日になりました。バスに乗って10分もしないうちに道路をパトカーが通せんぼしています。どうしたのかと聞くと世界自転車競技会があり道路を使っているそうで、通れないから戻れというのです。仕方がないのでバスは戻り、料金を払い戻してもらい、汽車で行こうと駅に行くと、こちらも人身事故にはなっていないが、脱線事故が起こり不通だというのです。えー、みんな困っていると一人の男が近づいてきて、150ペソ(1500円)出したら銅渓谷まで連れて行くというのです。政府が出した特別の許可証を持っているとかで、客を募っています。普通にバスに乗っても往復100ペソ(1000円)なのでまあいいかと乗りました。するとやはり同じ場所で通せんぼです。でも運転手が警官となにやら話していたかと思ったらパトカーが道をあけたのです。戻ってきた運転手に私が「たくさんお金が必要だったんじゃないの?」というと図星をさされたのか苦笑していました。すんなり通れた道路は自転車など1台も見ることがありませんでした。私がそのことをいうと、運転手は「これがメキシコだよ」と小さく答えました。
地下鉄が30分も来ない時、荒い運転で急ブレーキをかけられ、倒れそうになった時、道路の大きな穴ぼこがいつまでもそのままだったり、役所であちらこちらと窓口をはしごさせられる時、メキシコ人は時に自嘲的に、時に軽く笑いながら、そして時にあきらめきった表情で「メキシコだからね」といいます。私はこの言葉に、あまりにも多すぎる不条理に対して自分自身を納得させるメキシコ人の、ちょっぴり悲しい生活の知恵を感じてしまいます。
1時間あまりで着いた銅渓谷はとても雄大な景色が広がり、そのスケールの大きさに息をのみました。展望台近くで民芸品の店を開いているフィラが「断崖の頂上に家が見えるだろう」と双眼鏡を貸してくれました。見えました。見えました。小さな白い家が。そこからここまでは徒歩で3日かかるそうですが、フィラの店に置くための民芸品を運んでくるそうです。高さ1300メートルはあるという、その家のある切り立った絶壁にたてば、足がすくんで動けなくなりそうで、本当にすごいところに住んでいるなとつくづく感心してしまいました。
運転手が1時間後に来いといった場所に行っても、彼はまだ来ていません。遅れること30分、自分をガイドだといっていたのでこれからどこかに案内でもしてくれるのかと思いきや、昼ごはんを食べに行くというのです。仕方がないのでつきあいましたが、露天のおばちゃんやそこの娘さんをひやかしながら1時間半、そのあとどうするのといえば帰るというのです。えー、帰りは6時になるというから、ホテルを予約したのに、今帰るのだったら夕方のバスに間にあうじゃないのとばかり、運転手をせかして帰りましたが、なんと15分ほど走るとまた大きな車が道路を通せんぼしています。谷底に落ちたトレーラーを引き上げているのです。オー・マイ・ゴッド、これで完全に時間には間にあいません。私の悪運も尽きた本当にさんざんな一日でした。
蜜から灰へ――翠の羨道50
コレージュ・ド・フランスでは、フランク先生が庭を指さしながら、
「30分も待っていれば、レヴィ=ストロースがここいらに出てくるんですがね。」
コレージュ・ド・フランスを出たところで、フランク先生が一角を指さして、
「ここでロラン・バルトがはねられたのですよ、くるまに。」
忘れてはならない、黒がA、Eが白、Iが赤、Uが翠、Oが青。
「赤のあとになぜ翠が来るかって?」「翠のあとに青!」
100歳の赤い火、『みる きく よむ』にはそんな話題があったみたい。
「Uは「iu=y」(フランス語の音韻)だから? それともウ(母音字)?」
(ランボーは言う、「錬金術が碩学の秀でた額にきざむ、皺のやすらぎ」と。レヴィ=ストロース『みる きく よむ』〈1993、みすず書房 2005〉より。11月28日、100歳の日に。ちなみに推測するなら、「みる」が黒、「きく」が白、「よむ」が赤。)
製本、かい摘みましては(45)
南青山のブックストア&カフェ「Rainy Day」で、「あなたの好きな文庫本を革装します」という案内をみる。見本は二種類。ひとつは、切りっぱなしの革でくるんで見返しも加えず背のところだけはり合わせたもの。もうひとつは、角背上製本そのものだが、折り返しや溝にあたる部分の革が薄く漉いてある以外は下ごしらえや装飾に手をかけず、これまたワイルドかつシンプルに仕上げたもの。このカフェで革のワークショップを担当している原田さんの手によるもので、いわゆる"革製本"は習ったことがないと聞く。鞄や靴、ほかの革製品同様に、使い込むことでやってくる心地よさへの期待が宿る。
革で本を装丁してみたいと私が最初に思ったのは、そんな期待ではなかったか。その後"ルリユール"を習うも半ばでくじけ、一番の原因は革漉きだった。そもそもパッセ・カルトンの工程は数多くて多岐にわたり、ひとりで全てをやろうとすればたいていどこかで苦手が出る。私の場合はそれが革漉きで、表紙用の革の緻密な採寸や手術用のメスまで駆使する日々にうんざりしてしまった。のらりくらりやりすごすも、紙より布、布より革が製本作業に親しい素材であることだけはわかって、美しく仕上げるこつを習うのは楽しかった。だがアリガタイことに技量及ばず、結果、身が心を助けてくれた、と今は思っている。
おかげで、"とらわれの革装本ドグマ"とは別のサイクルにある革の本にこうして会えた。所有や保存、ましてや"作品"としてのものではないし、これを見本として習うものでもないだろう。こういう位置に寝そべる"製本"に、私は添いたい。
しもた屋之噺(84)
昨日の夜明け頃からミラノは久しぶりの本格的な雪になり、午後初めまで勢いよく降り続いたお陰で6、7センチは積もったでしょうか。3時半、止んだ雪景色のなか息子を幼稚園に迎えに行くと、道すがら、小中学生が我先に雪球を作っては、歓声を上げて投げ合って、雪でしんとした街の風景を、子供たちが賑々しくしています。
夜半や夜明けに仕事をしつつ、夏の終わりまで姦しいほどだった鳥のさえずりが懐かしくなります。鳥がどこかへ渡ってゆくからなのか、冬は単にさえずらないのか知りませんが、ごく稀に、深い夜のとばりの向こうから、キキと鋭い声が聞こえると、その美しさにはっとします。
鳥の声で思い出しましたが、ここ暫くドビュッシーの「牧神の午後」を読んでいて、9月末に、ジュネーブ室内管と今井信子さんと一緒に武満さんの「ア・ストリング・アラウンド・オータム」を演奏したときのことを、しばしば思い返しています。
「牧神」は、来年ミラノのポメリッジ・州立オーケストラと演奏するのですが、新年早々サンマリノのオーケストラ選抜メンバーと、アウシュヴィッツ解放記念の演奏会でも、シェーンベルクの室内編成版を演奏します。「牧神」は速度表示が曖昧でさまざまな演奏スタイルがあるのを、ご存知の方も多いとおもいます。速度表示に特に変化が記されてないところで速くしたり、「動いてゆきながら」と書いてあるところでわざわざ遅くしてみたり、「冒頭の速度で」の指定に至っては基本のタクトゥス(拍感)すら不明瞭です。
特に原典版至上主義ではありませんし、ルバートに異議はありませんが、ただ、それが根拠もなく因襲的なだけなら、「牧神」のように構造が一見流動的な場合、さらりと演奏したいと思う方なので、楽譜を開いて暫く自分なりの切掛けを探していて、武満さんの「ア・ストリング・アラウンド・オータム」を思い出したのでした。
タクトゥスに関して、武満さんがどこまで意識して書いていらしたかは分かりませんが、この作品のTempo I=4分音符「46」とTempo II=4分音符「32」に関して敢えて言うのなら、Tempo Iの2倍、Tempo IIの3倍である、大凡「94」前後のタクトゥスを、武満さんは常に意識されていたことに気がつきます。つまり曲全体を通して、ルバートを除いて、実際のところ速度が変化しないわけです。それに気がついてから、曲の流れが明快に感じられ、作品に支配的な3連符の意味が明確になりました。
個人的なアプローチに過ぎませんが、近しい試みは、「牧神」にも当てはめることが出来ると思いますし、そう読み進めてゆくと、曲の多くの素材やフレーズまでもが、実に律儀に3対2のプロポーションを保っていることに気がつきます。ドビュッシー自身による2台ピアノ版に残るアーティキュレーションや速度記号から、恐らく彼が当初抱いていた、恐らく今よりもすっきりした体裁の印象を、垣間見ることが出来るでしょう。もっとも、それらの指示を敢えて書き換えて、現在の版が残っていることを忘れては本末転倒になってしまいますが。
ただ、音楽は解釈を説明するためにあるわけではありませんし、作曲者自身の作品に対する印象すら、実のところ非常に流動的なものだと思います。ですから、正しい演奏解釈など、存在し得ないでしょうし、それよりは素晴らしい音楽を素晴らしい音楽として如何に伝えることが出来るかに、最大限腐心すべきだと思います。同時に、作曲家が伝えようとしたことを再現したいと願うのは、演奏家としてのせめてもの良心とでも言うもので、そこから楽譜を旅するロマンが始まるわけです。
最初に今井信子さんと楽屋で打合せした際、まず仰ったことは、「武満さんは、この作品を、楽譜から受ける印象より、ずっと骨太な演奏を願っていた」ということで、少なからずショックを受けました。「だから、書いてある通りに演奏すると、彼が思っていた音楽にならないのよ」。
伝達ゲームではありませんが、どうしても時間とともに変化してゆくものはあって然るべきだと思いますけれども、この作品は今井さんのために書かれていて、彼女が武満さんと一緒にお仕事されるなかで、身体のなかに染みこんでいった呼吸が確かにあり、それがとても深い表現力と説得力になって迫ってきて、文字通り何十倍も演奏を引き立てて下さいました。やはり、作曲者自身の息吹が吹きかけられていると、演奏の鮮やかさがまるで違うのは確かかも知れません。
こういうとき、伴奏しているオーケストラも指揮者も聴き手も、みな一つになって感動を共有できることに、改めて感激し、そこに武満さんの凄さを見ました。決して大きくない今井さんの身体が、途轍もなく大きく感じられたのは、言うまでもありません。
その演奏と、自分が苦労して勉強した楽譜との距離が、どれだけ近くて、どれだけ遠いのか、正直いって全く分かりません。これから先もきっと分からないと思いますが、でも、分かりたいと思う気持ちこそが、音楽を続ける糧になっているのでしょうし、これはこれで良いのかも知れない。
さて、こう赤裸々に告白してしまえば、後はドビュッシーともがっぷり組むことが出来る気もします。5年後には全く反対のことを書いているかも知れないけれど、それもまた良し。素晴らしい演奏家や作曲家との出会いは、掛値なく、深く心に刻み込まれてゆきます。
歓喜の歌
今年も歳末がやってきた。
私のところにも何枚かの第九のお誘いが来て、いやおうにも師走モードになっていく。元来、あまり、第九には縁がなかったが、ここ数年は演奏会に行くようになった。ベートーヴェンの書いた、独唱と合唱付のこのオーケストラ曲はアジアの端っこのこの多少、落ち込みやすい国の人々にはなにか、心に触れるものがあるようだ。
第九で思い出したが、つい最近私が学生時代に聞いたことのあるホグウッドのベートーヴェンの交響曲全集を入手して、聴く機会があった。あのときは、古楽器の響きになにかおかしいものを感じたものだが、最近はピリオド奏法や古い形態のティンパニーでの演奏が多いせいか、なんとなく、今っぽく聴こえていたのが変な感じがした。そう、もう30年も昔の話なのだ。
フロイデ!《友よ》とベートーヴェンは呼びかける。友よ、このような音楽ではなく、もっと歓喜に満ちた生への賛歌を奏でようではないか!
そう言えば、この間、まだ数年、命を永らえることができたという人の話を聞いた。そのときはあまり感じいることもなかったが、こうして年の瀬を実感すると、命をつなぐこと自体への感謝の念が沸いてくる。たとえ私でも、また、来年の今日を迎えられるかどうかは不確定なのだ。
いいことも、悪いことも、暗くなるようなニュースも多かった1年だったが、この1年を無事に送れて、そしてまた新しい歳を迎えることができそうな今を祝おうじゃないか。生命への賛歌として聴けば、第九をこの落ち込みやすい人々が好むというのも納得できない話じゃない。
友よ! 今日を生き、明日を迎えられそうないま、歓喜の歌を歌おうではないか!
斜めにずれて
またコンピュータの事故でデータを復元してもらった後しばらく気づかなかったが、コンピュータ音楽のために使っていたソフトウェアも消えていた。それらを入れ直すことはもちろんできるが、コンピュータで音を作り、それを操ってきた何年かの、失望してはまたやり直した試みをやっと思い切るきっかけが、予期しなかった機械のトラブル、それとも処理の不手際のかたちで降りかかったと思ったほうがいいのだろうが、疑似乱数を使ってあらかじめ設定された音が偶然に出現したかのようにふるまう、またはとっさの判断でボタンを押す手が生気のない電子音をその瞬間に活性化しているようにみせかけ、自分でもそう思い込みながら、身体のない音を操るようなことはもうしなくていい、そう思ったとき、では残された音楽する道具はピアノしかない、これだって鍵盤を介して振動する弦には直接触れないで音を操る装置してみれば、西洋19世紀的コンピュータにすぎないかもしれないが、演奏する人々の手が記憶のたまり場として利用した痕跡が影のように行き来する、伝統とも歴史ともいえる仮想空間のひろがりのせいで、そこでピアノ的とされる音楽様式とそれを生み出した時代の思想にはこだわらず、引き潮とともに離れていく港からの弱い光に照らされてるようにして、離れる距離の側から行く先の見えない航路をさぐり、隠れている岩に乗り上げるときの抵抗もないかわりに、難破するというかたちでこれを終わらせる保証もない不安定な状態のまま漂っていき、そうしながらも、いままで扱ってきたすべての楽器、電子音や三味線や人間の声、録音された自然音をこの楽器の上に映して、残された短い時間のあいだに何ができるのか想像できる、と一応は言っておくとして、だいいち何かができなければいけないということはない、音が聞こえたときにはその音はもう手のとどかない時間の闇に落ち込んでいるのとおなじで、手に持ったものを取り落としたときのように、意志をもたない音、自分の手のうごきにしたがって起こる響きに裏切られながら、片足が沈まないうちに次の一歩を踏み出して水中を歩くようにひたすらつづけるそのなかで、手がかかわっているそこから目を逸らして背中にかかる風圧、それは未来からの風かもしれないが、単純に風が吹いてくる方向での展望に背を向けているたよりなさかもしれない、そんな感じに気をとられて、この未来、といってもまだわからないというだけの、すこしも肯定的な意味を含まない未来への撤退そのものが、すくなくとも自分にとっての可能性の一部として、近くに漂う漂流者をさがし、合流しないまでも、ある期間は視界のなかにもう一つの漂流物があるだけで、見えない行く手がまるで見当違いでもないという、ささやかな慰めにも似た気のゆるみが次の一歩を、よろめきと区別するという、どこかおかしな間隔と調子で遠ざかってゆく、後から見れば折れ曲がった軌道をたどりながら、全体としては安全圏内、既知の範囲、制度内、といろいろに言うことができる偽の光の陰をはずれて拡散しつづけ、近くにあるはずの別の軌道もじつは遠く、わずかな差と思われるものも越えられず、自然と後ろ髪を引かれるように下り坂を転がっていく、その速度がそれ自体微分化されているように、あるいはほとんど停止状態に感じられるときもあるように、そこにしばらく踏みとどまって砂の城なりとも築くあそびに時を忘れていられる、その錯覚のつづくままに、次の足がかりをさがして移動していく足下からの不安定とわずかな姿勢の傾きが、抵抗できない変化への誘いとなって、どんなかたちでも安定した底辺からの樹形図様の発展をゆるさない、砂の城から漏れる砂粒が微かな流れを作り、組み上げたかたちがどこか予想しなかった地点から崩れ折り畳まれていくのにつれて姿を現す、過ぎ去った過程の展望の周辺視が、後退にともなう視野の拡大と意味付けられるとしても、周辺に目を凝らすことはできない、周辺に見えるものは、周辺であることによってしか見えてこないものだから、そこに焦点をあわせることもできず、反対に焦点がどこにもないことが、視野の拡大という量的な側面からではなく、複眼化という質的転換から考えられれば、折れ曲がった軌道のあらゆる曲がり角に、そうではないという道が浮かび上がってくるだろう、というのはただのことばだけでないなら、それが個々の偏りの積分となり、複数の退路がひらける、それも一つの道だけを見ていたときとちがう、この時代の道連れのにぎわいというか、混沌としたうごめきというか、そのなかに呑みこまれたそれぞれのうごめきの偶発的な取り分としてあるこの軌道の無名で、微細で、どうでもいいようなこだわりのなかでさらに崩れていくという安心感が生まれるとさらに、ここに来るまでに影響されたというよりは、記憶にひっかかっているいくつかのことば、それも読んだというより、耳に聞こえたことば、ある情景とそれを話した人のいる風景の、されにその奥には、過ごした時の厚みをともなったことば、たとえばclinamenと言えば、エピクロスの教説の最重要部分でありながら、なぜかもとの(par)enklisisというギリシャ語では今に伝わるエピクロスの断片やてがみには見つからず、ルクレティウスの「自然について」という詩のなかに書かれているだけで、それをよんだこともあり、あとでこどもの合唱と打楽器のためにエピクロスの教えをまとめてテクストをつくったときにも使ったこともあるが、このことばから浮かんでくるのは茂みからまばらにのぞく空の断片と落ち葉に覆われた小道、それは1963年10月のベルリンのはずれで、郵便局へとつづくその小道をたどりながら、古代ギリシャ哲学史の概略を語る声がつづき、そこから偶然に起こるわずかなずれから立ち上がる世界像となって刻み込まれるこのことばがひっそり置き忘られられて暮れかかる光のなかでいまもその声の余韻を守っているのか、またあるときにはアメリカではじめてナイアガラの滝を見たとき、このことばがよみがえり、飛び散る水滴とその間に薄くかかる虹によって書かれるのを感じたと、作家はそこまでは言わなかったが、語られたことばから結ばれた映像は、その時から間歇する記憶のなかで、ことばに置き換わってそこにまだあるように感じられる、そのようにしてクレーの歴史の天使についてのベンヤミンの文章、「判決」を徹夜して書き上げた朝のカフカの日記も、ことばそのものでなく、それをよんだ時の部屋、そこにあったもの、そのことばではないかもしれないし、偶然その場で聞こえてきた声の抑揚にすぎないかもしれないような、どうでもいい細部を巻き込み、それらに置き換えられていて、それだからことばはことばでなく、記憶は記憶されているなにかとして名指せるような特徴さえもっていない、そんな輪郭のない感じとして、しかもそれだからかえって生きられた時間の、香りも味もない暗がりの斑点がところどころに押された空間への投影であり、そのようなものとして、音楽について考えようとする時にことばの裏に立ち上がってくる、その結果として音楽を語ることばの偏りが、語られる音楽の傾きととらえられるのは、どこまで意図的な操作と言えるのだろう、それとも意識する前に染められた語りの調子が、それを批判することばにさえ乗り移っているのだろうか、どちらにしても、音はすぎてゆき、かたちは崩れてゆくが、崩れることが違うかたちの始まりであり、過ぎ去る音があってはじめて音楽は可能となるが、音とともにすぎてゆく意識はそれを知らないままに終わるだろう、それでなければ音楽のありかたに変化が起こるはずもない。