2016年3月号 目次
仙台ネイティブのつぶやき(11)5年目の畑で
東日本大震災から、5年がたつ。早いものだ。
最初の3、4カ月は、時間の経過がひどく遅く感じられ、何年もたった気がしたものだ。あれはどうしてだったのだろう。あまりにいろんな信じ難いことが起きたからか。いま、もう5年たったんだ、という思いで眺める被災地は、決していい状況とはいえない。ボタンを掛け違ったまま見直すことなく事業は進められ、大きな間違いをすることになるのではないかという不安がつきまとう。特に、三陸は。
でも、仙台だって、災害復興住宅が立ち、平成27年度で復興事業は打ち切られのだけれど、そこで置き去りにされていく人や課題は山ほどある。むしろこれからの方が、課題や問題があらわになっていくような気がしている。
3月11日が、まためぐってくる。そう感じるのは、1年で最も寒さのきびしい1月末から2月をしのいだあと、すこしずつ高度を増し明るくなっていく日差しの中でだ。カレンダーをめくり頭で感知するのではなくて、あたたかくなっていく気温や日の光に体が感応する。季節のめぐり、つまりは天体の動きに、生きものとして反応しているということなのかもしれない。天文好きだったら、夜空の星の動きに3月11日を思うだろう。あの日の夜は、満天の星。あんなに美しい星空はあとにも先にも見たことがない。
4月に入って、道端の雑草が花をつけ始め、桜が咲き始めたときは、ひどく不思議な気持ちで眺めていた。オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ...春になると真っ先に開く小さな花が、約束を破ることなく変わらない姿を見せ、そして桜が満開になった。こんなにひどいことがあっても、花は咲くんだ。そんな気持ちで枝先の桜を見上げた。植物の存在に感じ入ったし、なぐさめられもした。草も樹々もすごいなあ。それは、人をなぐさめるだけでなくて力を与えてくれるものなのだ。
大きな被害を受けた仙台の沿岸部には田畑が広がり、いまは専業農家ではなくても代々、米や野菜をつくってきたという人たちがほとんどだ。震災から3カ月を過ぎたころからいままで、集落をまわりいろいろな方たちから話を聞いてきたのだけれど、そこで出会った人たちは生きる証を求めるように畑に向かっていた。
仙台市の東南部、藤塚に暮らしてきたWさんは、大津波で自宅を失ったというのに、3か月が過ぎ避難所を出て借り上げ住宅に入ると、住まいのあった場所にジャガイモの種をまいた。土ではなく、大津波が運んだ海砂の上で、かたわらには貝殻が落ちていた。驚いたことに、ジャガイモは芽を吹いた。「砂だし塩害もあると思ったけど、出てきたんだよ」と指差す先には20株ほどのジャガイモが青々と育ち、伸びた茎の先に花もつけている。少し離れた砂地の上には、ハマボウフウが蘇っていた。「俺の家の跡だってわかるのは、この丸い井戸枠があるからなんだ」といいながら、Wさんは小さな花を見つめていた。
同じ集落のMさんは、やはり同じようにすべてを流されたあと、畑の土の天地替えをして野菜づくりを再開し、夏にはトウモロコシ、トマト、ナス、秋にはキャベツや小松菜をつくっていた。「借り上げ住宅にいるんだけど、マンションのちっちゃい部屋に何もしねでいるって、おかしくなりそうになるんだよ。だから、がれき撤去されたあと、すぐに通い始めて畑やるようになったんだ。塩でだめかと思ったけど、案外いいんだ。直売所に持っていったりしてんだよ」。あの日、乗って逃げたという軽トラ1台だけが手元に残った。その軽トラが暮らしを支えていた。
Mさんのように話す人は少なくない。「狭い部屋でおかしくなりそうだ」「仮設にこもってたら、気が違いそうだ」ということばを、何人から聞かされただろう。中には「毎日やることがなくて、狂いそうだ」という人もいた。多くは年配の男性だった。サラリーマンとして生きてきた人でも、沿岸部の人たちは土に親しんできている。そして作物を育ててきている。土から離れることの不安感、その切羽詰まった感情が、おかしくなる、気が違う、気が狂うということばにあらわれていた。
Mさんは見事に育ったキャベツやブロッコリーを持たせてくれた。青々とした見事な実りは、へし折れた電柱や家の土台を多いつくす雑草や倒れた石碑が広がる荒れた風景の中で、とてもあたたかでなぐさめに満ちているように思えた。
いつだったか、山形県の最上地方の専業農家の男性が「百姓やってて何がいちばんうれしいかって、種まいて日がたって、土の中からぽっと小さい芽が出たときなんだ」といっていたのを思い起こす。土に働きかけ、手間ひま惜しんで手入れをし、そうすれば必ず応えてくれる作物の愛おしさ。何もしゃべってはくれないけれど、手をかければかけただけ必ず返してくれる健気さ。
あらゆるものを失って、中には家族の命まで失ってしまった人たちは、畑の中の小さな、でも力を潜ませている緑に向かいながら、じぶんを取り戻そうとしているのかもしれない。
いま沿岸部では、農地の集約化、大規模化、法人化が進められ、砂ぼこりを上げるトラックが引きも切らない。私に気が違いそうだともらしてくれた人たちは、そこでは埒外にいる。小さな畑はつぶされていく。農業を産業としてだけとらえると、人が土に向かって働きかけて生きてきた初源の感情や多面的な価値はたぶん失われていくだろう。小さな畑をあちこちに、生み出すことはできないのだろうか。
古い8ミリ・フィルムのように
片岡義男さんの新作『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』が2月20日に光文社から出版された。編集を担当した篠原恒木さんによると、「レコードを媒介にして、ご自身の物語を書いていただけませんか。それも時代を区切って、20歳から作家デビューするまでの期間で」というリクエストから本づくりが始まったという。
片岡さんが1974年に『白い波の荒野へ』で小説家としてデビューする前、1960年から1973年までのフリーランスのライターであった時代を、その頃ヒットした音楽(ドーナツ盤)とともに振り返る物語だ。片岡さん自身と思われる「僕」を主人公に、44編の短いストーリーが編まれている。
「著者初の自伝小説」という宣伝文句を見た時は「おお!」と思ったけれど、これまでのように、小説のなかに見えている以上に片岡さんが見えるということはなかった。それで私には充分だったのだけれど...。
音楽と共に語られる物語の読後は、不思議と静かだ。ストーリーひとつひとつは、ある時の印象的な場面が切り取られたものだとも言える。「1月1日の午後、彼女はヴェランダの洗濯物を取り込んだ」の1編は、きっと多くの人が好きだというだろうな。家族を撮影した昔の8ミリ・フィルムのように、光に満ちて、平和で温かな読後感をもたらす。
この静けさは、主人公の僕が寡黙だからだろうか。全編を通じて主人公のモノローグなど出てこない。相手とかわす、短い会話文のなかの率直な返答と、描写される行為のなかにしか、主人公を知る手掛かりは無い。あるいは、1960年代という時代への遠さがそう感じさせるのだろうか。赤電話、都電、編集者に直接手渡す手書きの原稿......。今は失われてしまった物たちも、ストーリーに効果的に作用している。
『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』は不思議な魅力をもった1冊だ。
かつて、片岡さんに60年~70年代の頃の話を聞いて、インタビュー記事にまとめた事があった。あのインタビューから5年たって、あの時代についての物語がこのような形で届けられたことに、うれしさと新鮮なおどろきとで胸をいっぱいにしている。
しもた屋之噺(170)
この二日ほど雨が降りしきっています。朝、日が明けるのはずいぶん早くなって、寒も緩んできたと思っていましたが、またストーブを点けて今月の日記を書き出しています。
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2月某日
国立音楽院にてドナトーニ歌あわせ。2階の教室を訪れるのは本当に久しぶりで、学生時代を思い出す。あの頃と比べると学校はずいぶん綺麗になった。入口で身分証明書を提出し訪問許可証を受け取る辺りに、世相が反映。
初めて歌手4人に会うと、アジア人3人にイタリア人1人。アジア人のソルフェージュ能力は、やはり総じて高いのか。台湾出身でコロラテゥーラのシャオペイは、4人のまとめ役で、とても難しい パートを軽々とこなす。台湾の地震の話をすると、家族は大丈夫と微笑んだ。韓国出身のスヤンは、歌うときの堂々として輝いているが、練習に際してはとても丁寧で感心する。勢いだけではない。第3ソプラノのミキは、内声の複雑な部分をとてもよく読み込めていて、安心して任せられる。アルトのヴィットリアの声色は、豊かで説得力がある。彼女の声を聞いて、何となくドナトーニが一人アルトを加えた理由がわかる気がした。
音とりを確認し、フレージングと声部の絡みを読み返しながら、テンポや強弱、息継ぎの箇所などを決めてゆく。演奏困難なパートで、学生には無理ではと皆心配していたから、ソルビアティやマンカも最初の練習にやってきたけれど、彼女たちの能力の高さと、吸収力のはやさに舌を巻いた。秋には、ゴルリが「アルフレド・アルフレド」を国立音楽院で上演するけれど、彼女たちがいれば安心。
ドナトーニでこれほど自然なフレージングの曲は他にあるだろうか。人生の終焉近く、それまで自身の音楽への参加を頑なに拒んだ彼が、漸く自分に優しさを見出したのか。流れるような曲線のフレーズと音の呼吸。それは時として途方もなく長い息を描くが、以前と違って持続ではなくフレーズと知覚される。音細胞を展開、蓄積し、連鎖させた持続を捨て、直感的にさらりと音楽そのものを描いた。
2月某日
イタリア放送響コンサートマスター、ランファルディが、オーケストラに交じって弾きながら学生たちにさりげなくアドヴァイスをしてくれる。この数日、彼は毎日早朝トリノから車を飛ばしてやってきている。休憩中、ずいぶん彼と話し込む。特に印象に残る指揮者で日本人は大野さん。あとはデ・ブルゴスやプレートルの名前があがる。プレートルは決して分り易くはないが、生み出される音楽の素晴らしさに圧倒されると繰り返す。火の鳥冒頭のクラリネットやファゴットの音型を、尖った嘴のように突いて見せてねと笑った。
初めて会ったとき、ランファルディはいわゆる上手な指揮者の話をしてくれたが、胸襟を開いて親しく話すようになると、音楽の素晴らしい指揮者の話になる。それは、わかりやすさでも、人柄のよさとも、もちろん聴衆の人気とも違う部分での信頼関係。ランファルディはミヨーを大嫌いだという。「屋根の上の牛」をどうしても弾かなければならなくて、それ以降ますます嫌いになったらしい。
2月某日
酷い雨のなか、ドナトーニのクライマックスで使うホイッスル式サイレン3つを買いに朝7時の電車でロヴァートへ出掛ける。明日最初の本番を控えていて、昨日になってサイレンがどこにもないと電話をうける。イオニザシオンで使う、手回しサイレンが一つ用意してあったが、これでは書かれている箇所で演奏できない。長年のイタリア暮らしで、任せておいて後悔するのは厭だと、ちょうど今日のリハーサルが午後からになったので、自分でブレッシャの「カヴァッリ楽器」でサイレンを買うことにした。ロヴァートに8時半過ぎに着いてみると、この街にはタクシーはいないと言う。駅で教わった個人タクシーの電話番号は通じず、インターネットで検索したハイヤーを頼んだが、当初30分と聞いていたベンツは、1時間半経ってやってきた。
2月某日
学生と卒業生混成オーケストラとは言え、「火の鳥」やドナトーニが出来るか不安だったが、練習を始めると想像以上の吸収力におどろく。オーケストラに参加したくて、オーケストラを学びたい若者が集っているのだから、当然でもある。一つずつ説明しなければならないけれど、説明されたくてうずうずしているオーケストラというのも面白い。「火の鳥」やミヨーは兎も角、ドナトーニやチュルロなどの現代作品でも楽しそうで、練習が終るとみな口々に旋律をハミングしながら散ってゆく。ドナトーニも喜んでいるに違いない。
今でこそガッティとマーラーをやったり、彼らのレパートリーの幅もすっかり広がったけれど、3年前まではベートーヴェンかシューベルトの交響曲でも青息吐息で、とヴィオラ科教授のタレンツィが誇らしげに話してくれた。学校あげての再生事業が功を奏したということ。
2月某日
メルセデスのお宅で、シャルロットとファビオというフランス人とイタリア人の夫婦に会う。子供3人はフランス語で話していて、フランス人学校に通う。シャルロットはミラノ生まれのミラノ育ちだが、ミラノのフランス人社会はとても排他的で、ファビオと出会った時、シャルロットはイタリア語は話せなかった。ただ、在住フランス人がミラノを嫌いかというと、正反対だという。そんな話を聞きながら、自分と日本人社会について考える。長年ミラノに住む日本人の友人もいるが、切っ掛けがなくて日本人会に入りそびれたままで、日本人社会がどんなものか全体像すら分からない。
学校の帰り道、夕暮れの教会の鐘をききながら自転車を漕いでいて、20年前なら、こんな風景一つ一つに感動したに違いない。自らの感受性の鈍化におどろく。
時間を見つけては魔笛譜読み。アリアのオーケストレーションで、実にていねいに声が通るよう楽器を軽くしてあることに改めて感嘆する。どれだけ時間に急かされて書いたか想像すらできないが、全く手は抜かれていない。全体の構造の簡潔さ、対称性、使われている素材の類似性など、万が一にも作曲の効率も鑑みられていたのかも知れないが、それ以上に、全体の均整に対して絶妙に寄与する。
2月某日
イタリア人のリッカルドとウルグアイ人のメルセデスと、スペイン語風イタリア語表現の話。
風邪をひく--buscarsi un
raffreddoreという表現があって、奥野先生の本で独習したから、大学に入る頃から知っていたが、使ったことも耳にしたこともなかった。聞けば、2世代ほど上のリッカルドの祖父母はしばしば使っていたと言う。
Taccaniの辞書によると、buscareはスペイン語の「探す-buscar」が語源で、同じく「探しもとめる」の意とあるが、「探し求めて風邪をひく」という表現は、どうも腑に落ちなかったが、リッカルドが分かり易く説明してくれた。
buscarsi un raffreddoreは、「わざわざ寒空の下薄着で突っ立っていたら、案の定風邪をひいた」の意味で、「自ら風邪をひいた。風邪を自ら探しにいった(è andato in cerca di un raffreddore)」の文字通りの意味だった。
同じくリッカルドが、床に臥せっていたメルセデスを、sembra che Mercedes si stia covando un raffreddore, と形容したのが、とても美しいと感心する。直訳すれば、「どうもメルセデスは風邪を抱卵している」、という言い回しで、covarsiは鳥が卵を温めるときに使う。今の若者はこんな深い言葉の使い方はせずに、単刀直入に「風邪をひいた」とだけ云う。リッカルドと奥さんのカルロッタと話していて、世界で最も直接的かつ綜合的、普遍的な言語は、Veni, Vedi, Viciのラテン語だという。彼らに言わせると、こんなカエサルの言い回しは邪道で、ラテン語の真骨頂はキケロだそうだ。普通に高校でラテン語を勉強する国は、ヨーロッパでもイタリア以外あまりないときいた。
(2月29日ミラノにて)
不思議の国の本屋さん
アリスは本屋さんの中をお散歩するのが好きでした。
深い深い本の森の中で、知らない本を見つけるのが楽しかったのです。
でも、アリスは思います。なんだか、本の森の様子がおかしいのです。
開店していないふりの森:
ある日、アリスが森を歩いているとその奥の方に新しい本が山のようにうず高く積まれているのを見つけました。まだ、箱から出して間もない本や箱の中に入ったままの本が本の森の奥の方の平棚の上にたくさん置かれていました。アリスは思いました。
「これは本屋さんが開店しているのでしょうか?」
もうお昼をずっと過ぎた午後でした。
「たぶん、開店していないふりをしているのね。きっとそうだわ」
その後、その本屋さんの奥には何週間も同じ本が置かれたままだったというのはまた後のお話です。
あちこちに置かれた本の小山:
ある日、アリスは本屋さんの森の中を歩いていました。すると、そのあちこちに平積みの本の上に、本の小さな山を見つけました。アリスは思いました。
「きっと、慌てもののうさぎさんが忘れていったのね。きっとそう。」
ところが、次の日も、その次の日も、その山は置かれたままです。しかもよく見ると大きな本屋さんのあちらこちらに同じような山が置いてあるのです。
「ずいぶんとたくさんのうさぎさんが忘れ物をしたようね」
ふと、その山を見てみると同じ本がたくさん積まれていました。
「さて、これは忘れ物かしら?それとも?」
その山はいまも置かれたままとのことです。
透明な本の宣伝:
ある日、アリスが本屋さんの中を歩いていると、お店の中でビデオから面白そうな本の宣伝が流れているのを見つけました。
「面白そうな本ね。買おうかしら?」
アリスはビデオの近くの棚を見回しましたがその本は置かれていませんでした。
「きっと、普通の本棚にあるんだわ」
アリスはその本の仲間が並んでいる本棚も探してみましたがその本は見つかりません。
「きっと、これは透明な本の宣伝なのね。きっとそう」
このお話には後日談があります。
アリスはおうちの近所の本屋さんでその本を買うことができました。棚にあったその本たち(実はその本は3巻まで出ていたのです)を抜き取ったアリスは思いました。
「きっと人気のある本よ。これでこの本屋さんには当分なくなってしまうわ」
ところが次の日、その本屋さんには抜かれたのと同じ3冊の本がきちんと補充されていました。アリスはあの透明の本が置かれていた本屋さんって、売る気があったのか不思議に思いました。
最近、アリスがお散歩するような本屋さんはどんどんなくなっています。最初は屋敷林や公園の植え込みのような本屋さんがなくなりました。それから、あちこちにあった少し大きなチェーン店がなくなりました。最近では、大きな本屋さんもなくなっていきます。
「わたしが散歩できる本屋さんっていつまであるのかしら?」
アリスはちょこんと首をかしげました。
136 閉館
あたりの書架がまぶしかったから、
少年は、
中城(なかじょう)ふみ子歌集を盗み出した。
乳房を喪失する少年の図書館。
ぼくは自由の女神にさよならする。 「ノミ、
すら、ダニ、さへ、ばかり、づつ、ながら」。
ああ、定型詩と「さよならだぜ」。
黒雲が覆う自由の女神、
かえらないだろう、ふたたびよ、
ぼくらの図書館に。 ノミ、
カエル、ヘビ、ダニが、
詩行から詩行へ跳躍する、
ぴょいぴょいのうた。
閉館。 光がとどかない館内に、
短詩をまた送っちまって。
(古いメモに、「なんという広津さんの思い隈〈ぐま〉。かくあるべきがほんとうなんですと、ナショナリストの推理作家の手を握り、広津さんは静かに泣いていたと、週刊誌が報じている。苦労したという直木賞作家の記事の傍らで」と。短歌から自由律へ向かう途中で、小説が光ったということだろう。『乳房喪失』〈一九五四〉は中城の歌集。広津さんは広津和郎。推理小説作家は松本清張。「ナショナリスト」云々はよく分からない。直木賞作家もだれのことか、わからない。松川事件の最高裁判決〈二審へ差し戻し〉は一九五九年八月。)
アジアのごはん(75)ラオス肉食旅日記
ラオスのサイニャブリという町にやって来た。たまたま象フェスティバルの日だったので、メインストリートのゲストハウスは満員。でも、少しはずれた場所にあるホテルに何とか部屋を見つけることができた。ところが、ホテルの周囲に食べ物屋の看板が見当たらない。困ったな、ちょっと歩いて市場周辺まで行くしかないか、としばらく歩いているとラオスのビール、ビアラオの看板が見えた。
よろこんで店に入ると、どのテーブルも中央に穴が開いている。先客の様子を伺うと、皆なタイで「ムーガタ」と呼ぶ焼き肉鍋をつついている。あ〜、ムーガタの店かあ。焼き肉はわたしも連れもふつうは食べないのだが、どうしよう。食べられないわけじゃないが、肉食ではない二人なのだ。
ムーガタはちょっと不思議な形をした焼き肉の鍋で、平らな鉄板でなく、丸くて、ドーム状に盛り上がったアルミの鍋である。ドーム状の部分を下から炭火で熱して、肉をのせて焼く。そしてドームの根元というか周囲が溝になっていてそこにスープをいれて野菜を煮て食べるのである。肉を焼くときに出た肉汁はドームから溝に流れ込むので、スープはどんどん旨くなる。焼き肉だけど、鍋でもある。
昔、タイでムーガタが出現した時には、韓国式鍋と呼んでいたが本当に韓国にこんな鍋があるのか? いや、ありません。ムーガタがタイに出現したのは、25年ぐらい前、ちょうど、ヒバリがタイ東北部のコンケーンに住んでいた頃で、発祥地はコンケーンの南のコラートのようだ。日本に出稼ぎに行っていたタイ人が韓国風焼き肉と日本の鍋をミックスさせて考え出したと言われている。コンケーンにもさっそく店が出来て、友達のブンミーと食べに行った。いまやタイ全国で大人気のムーガタであるが、ラオスにも店が出来ていたとは。
焼き肉以外のメニューもありそうなので、とりあえず席に着く。隣のテーブルに、店の女の子が大きい炭の入ったバスケットを運んできた。真っ赤に燃〜える炭! タイのムーガタより迫力満点、炭火焼肉、といった趣である。半分は鍋でもあることだし、久しぶりにムーガタを食べてみることにした。肉の種類は、豚、鶏、牛肉、内臓ミックス。豚肉を選んで、ラオスのうまいビール、ビアラオを飲みつつしばし待つ。
皿に並べられた薄切りの豚肉、トレイに盛られたキャベツ、白菜、空芯菜、バジル、ネギ、クレソン、きのこ、春雨、卵、そしてインスタントラーメン! それからタイスキのたれに似た赤いたれ。にんにくと生トウガラシの刻んだの、マナオ(柑橘)の入った薬味セット。やかんに入ったスープ。これらがテーブルに並べられてから、炭火のバスケットが運ばれてきて、テーブルの穴にセットされ、その上に鍋をのせる。
鍋のドームの頂上に豚の脂身をちょんと載せて、鍋が熱くなるのを待つ。乾燥しているラオスの道をバスに揺られてきたので、ビアラオがいくらでも飲めてしまう。シンプルでうまいビール。さあ、肉をのせて、と。焼けるのを待つ間に溝のスープに野菜を入れていく。隣のラオス人は、最初からインスタントラーメンの袋を破り、スープの素まで溶かし込んで、乾燥めんを割って入れている。いやいや、うちは鍋奉行のヒバリさんがそんなん許しまへんわ。味の素てんこ盛りのインスタントラーメンスープの素なんか入れたらせっかくの肉汁入りのスープが台無しやんか。
薄い肉なので、すぐに焼ける。あ、やっぱりおいしいわ、これは。肉はあんまり〜、とつぶやいていた連れは立て続けに肉を鍋からはがしている。野菜も食べなさいよっ。やっぱり炭火のせいか、いや肉がうまいです、これは。野菜も沢山食べられるし、大満足。最後にインスタントラーメンの麺を入れてみたが、麺にもケミカルな味付けが付いていたので、これはやはりまずかった。
サイニャブリの外食事情はなかなか大変だ。象フェスが終わって、客がほとんどいなくなった市場の横のサンティパープというゲストハウスに引っ越したが、町の住民はほとんど外食をしないようで、昼はまだしも、夜になると営業している食堂・レストランというものがほとんどないのである。宿の斜め向かいに昼だけ出るおかず屋さんで、おかずともち米、串に挟んで焼いたスペアリブなどを買って宿の庭のテーブルで食べたりした。ふだんなら、けっして買おうと思わない脂身満載のスペアリブの串焼きであるが、めちゃめちゃおいしそうだったし、事実めちゃめちゃ旨かった。さすがに食べ残した脂身の塊は、少しかじったあと放ってやったら、それまで警戒心むき出しで近寄ると脱兎のごとく逃げていた茶虎猫が目をらんらんと光らせて飛んできた。
サイニャブリはメコン川からは少し距離があり、まわりは山また山である。市場では川魚も牛肉も、なぜか巨大なタコまでも売っていたが、とにかく豚肉の旨い町なのであった。あんまり豚肉のムーガタが気に入ったので、ムーガタの鍋をお土産に買って帰ろうかとちょっと本気で考えたほどである。
のんびり過ごしたサイニャブリを去り、タイの国境の町ケンタウまで戻って来たが、名残惜しいのでラオス側でもう一泊することにした。町でただ一軒、夜営業している食堂もムーガタの店だ。最後にあのおいしい豚肉をもう一度食べようと思ってムーガタを頼んでみる。しかし、国境の町の豚肉はごくふつうの味だった。炭火マジックも効かない。一皿が食べきれない。
国境からタイへ戻る乗り合いトラックバスに乗っていると、タイからピンクの豚を載せて走ってくるトラックとすれ違った。ああ、ラオスの国境の町の豚はタイから来ていたのだな。タイのバンコクに戻ってくると、ヒバリの肉食ブームは一気に終わりを告げた。バンコクで食べる肉は、あまり味がしないし、少ししか食べられない。豚の飼育方法やえさの問題だろう。タイの豚肉はもう、CPなどのアグリカルチャー企業に管理されて飼育されている大量生産に近い工業的な肉がほとんどだ。バンコクの不夜城のような街の光の下では、サイニャブリの郊外で走り回っていた黒い豚たちのおかげで短い肉食生活を楽しめたのが夢のようである。豚肉で満たされた後、暗い夜道をとことこ帰るサイニャブリの夜よ、またいつか。
ふるいひと
昨(さく)のお祭りが果てて
ひいなの箱には
わたしのひいなはいない
いつもそうするように
ふるいひとが わたしのひいなを連れて行った
箱の中で やみの服を着せるのはあんまりだから
ひいなの箱の開(あ)く日までと いい置いて
わたしのひいなを連れていった
ふるいひとは
花のみつでうたを溶かし
空をわたる鳥と交わす呼吸(いき)を風に変えて
わたしのひいなと 遠くで暮らした
ふるいひとは
ひいなを連れてもどってくる
あさいめざめのさかいをふんで
湧水(ゆうすい)のゆらぎから
あらわれるてのひらをさけながら
けれど
さきくさのさく季節になっても
ふるいひとは見えない
もうそろそろねと
おかあさんが納戸の押し入れを開ける日にも
わたしのひいなを抱いて
さきくさのかたわらを過ぎていったそのひとを
見なかった
けれど
納戸からおかあさんが出してきた
ひいなの箱には
わたしのひいなは
ちゃんと帰っている
昨のお祭りのあと
ひいなを仕舞うお手伝いをした ちいさな手の記憶の繭玉を
ふるいひとは やみの紙にくるんでひいなの箱に仕舞ったはず
それから
わたしのひいなを抱いて
さりぎわに
薄目を開けた小さなゆびと
《なしなししななし》
《なしなししななし》
なにもなにもわすれてしまうための
おまじないのゆびきりをしたはず
けれど
どうしてだかわからない
ふるいひとと なにもなにもわすれてしまうおまじないをしたのに
みんな みずのなかのことのように
おぼえている
けれど
ふるいひとのゆびも
ふるいひとのかおも
ふるいひとのこえも
おぼえていない
ふるいひとは見えない
わたしのひいなを抱いて
さきくさのかたわらにいても
わたしはもう見えない
さみどりの草のまだつめたい水の気配がする
(名井島の雛歌から)
天正壬午の乱とセノパティ
NHKの大河ドラマ『真田丸』は、天正10年(1582年)の武田家滅亡から始まり、その3か月後に起きた本能寺の変後の信濃の混乱(天正壬午の乱)に至ったところ)2月末時点で)。この年代に何かひっかかるものを感じていたら、これがジャワでセノパティがマタラム王国を建国した年の1つだとされていることに気づく。なお、建国の定義や依拠する資料などによって建国年代はまちまちだが、だいたい1570年代から1580年代の間とされている。
セノパティは中部ジャワのパジャンの支配下でマタラムの領主となり、後にパジャンの王に代わってジャワの王となる資格を得る。3代目の王、スルタン・アグンの時代(1613〜1645)に最盛期を迎え、ほぼジャワ島全土を手中に収める。スルタン・アグンの時代はちょうど第2代・秀忠(在位1605〜1623)、第3代・家光(1623〜1651)の時代にだいたい重なっている。そして、家光が1636年に日光東照宮の大造替を手掛けて現在のように整備したように、スルタン・アグンも1643年頃にマタラム王家の廟を完成させた。ちょうど同じ頃、地方から出た領主が天下を統一して三代目にその地位を盤石なものとしたという点で、セノパティはジャワ版家康、と言えなくもない。
ただ、その後が違った。マタラムでは地方貴族の反乱、王位継承問題、オランダ東インド会社の介入などがあって、結局、1755年に王国は2つに分裂する。日本では元禄バブルも吉宗のデフレ政策の時代も終わって第9代・家重(在位1745〜1760)の時代だ。この、マタラム王国のすったもんだの時期が意外に長いことに驚く。この後継者争いで暗躍するのがオランダ東インド会社で、設立されたのは1602年、セノパティが死んだ翌年であり、江戸幕府が始まる1年前である。スルタン・アグンはオランダが商館を開設したバタヴィアを2度にわたって攻撃したが、その後継者たちは諸問題が起きるとオランダに支援を要請し、そのたびに王国の特権を譲り渡すようなハメに陥った。マタラム王国は分裂してスラカルタ王侯領とジョグジャカルタ王侯領となり、それぞれオランダ植民地支配下、一定の自治を認められて存続するのだが、こんなマタラム王国の歴史は果たして大河ドラマになるだろうか...と妄想してみる。
セノパティからスルタン・アグンまでの三代記なら、栄光に向かうので見るのも楽しそうだ。とはいえ、セノパティは歴史資料として実在が確定できないようなので、話はほとんど創作になるだろう。マタラム王国の公式"史書"『ジャワ年代記』では、セノパティの部分は神話的な脚色に満ちている。星の啓示を見たとか、瞑想していたら海が沸騰して、そこに海底に住む女神(ラトゥ・キドゥル)が現れて王を海底の宮殿に誘い...と浦島太郎のような話が展開する。これらのエピソードを入れると講談にはなるかもしれないけれど、大河ドラマとしてはリアリティに欠けすぎる。
資料で存在が確認されるスルタン・アグンの王以降の時代だと、内紛がめじろ押しの時代なので『真田丸』に太刀打ちできそうな話ができるかもしれない。けれど、どこでドラマを終わらせたら良いのだろう。マタラムが劣勢になっていき、最後は、暗愚のパク・ブウォノII世(と私が言うのではない、歴史研究者が言っている)によってマタラム王国がオランダ東インド会社に引き渡されるところで終わるというのも、あまり共感を呼ばない気がする。ただ、それを、ジャワ王家を調略するオランダ東インド会社の視点から描くと面白いだろうなとは思うのだが、オランダを倒して独立したという建国物語を持つインドネシアではその視点も受け入れてもらえない気がする。『真田丸』のように、現在の国家の枠組み内ですったもんだがある分には問題ないが、オランダだの華人だのが出てくると厄介だ。また、"マタラムは2つに分裂しましたがそれぞれ存続しました"というのも波乱万丈の歴史ドラマの幕引きとしては物足りない。文化史ならその先の時代がメインになる...。というわけで、セノパティの業績が歴史的にもう少し解明されてドラマを作れたら、やはりそれが一番面白そうだ。。
グロッソラリー ―ない ので ある―(17)
1月1日:「おすすめの映画は、1991年公開の『みんな元気』だな。高校生の時なんか学校なんか行かずにぶらぶらしてた。新宿か銀座のどっちだったけなあ、確か単館上映だったと思う。リアリスティックなとこがいいね。作り物っぽくないとこ。ちなみにそれ見た翌日、新宿の昭和地下に行ってるからな。これもまた現実。わはは――」。
(▽⌒) ワハハ
精神的な沈滞がひどい時、嫌がる四肢を動かして散歩に出る。血流が聞こえ、感覚の目覚めがあり、得体の知れない粒子、モナドが全方位から急速に肉薄してくるのがわかる。デュナミスを間近に感じる。エネルゲイアが見通せる。ここで知覚の扉を開放したままではいけない。我がものとするために、沈滞が始まった同一地点へ戻る必要がある。
ハァ━(-д-;)━ァ...
あっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあっあ
いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、いい、い
うっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっうっ
えあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえあふえ
おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおお、おおおお
∵ ゞ ( > ε < ; ) ぶっ
ぼんやりと思い出しても、老若男女を問わず嫌な輩がぞろぞろ現れる。上役の前でだけ大きな態度で不平不満をぶつけてきた同僚・教師、年上だという理由だけで誹謗中傷の限りを尽くした老人など。真剣に復讐を考えた。だが復讐するにしろしないにしろ、賢いのか愚かなのか知りようもなく手を束ねて、いずれぼんやりと思い出すことになる。
▄▄█▀█●
1月1日:「本のほうは、そうだなあ、いろいろあるからなあ。映画より歴史が長いぶん、名作が多いんだよな。まあ同じくらい駄作も多いわけだけどな。ははは。古典もいいし現代ものもいいのがある。難しいね。でもまあやっぱり『グロッソラリー ―ない ので ある―』だな。なにしろ俺が出てくるからな。ちょっと読んでみるか――」。
((^┰^))ゞ テヘヘ
孤独とは、他者の存在を意識しながら、自分の身体性と向き合うことである。孤立とは、他者の存在を意識することなく、自分の身体性とも向き合わないことである。独りとは、他者の中にまぎれこみながら、自分にささやかな称賛を送ることである。一人ぼっちとは、他者の中にまぎれこみながら、自分を好きでいられる心情のことである。
(φ(。・c_,・。)...フムフム
[怒りのランキング]
第1位:「一回やっただけで彼女面すんなよ!」
第2位:「メール遅いんだよ!」
第3位:「おまえか、校長室の花瓶割ったのは!」
第4位:「そんなとこに自転車止めるなよ!」
第5位:「広がって歩くな!」
コラァ( ≧∇≦)ノ。°゜°。。ヘ(。≧O≦)ノ
自分らしさを痛切に感じる時というのは、どうにもやりきれない。個性と言えば聞こえはいいが、それよりももっと個人的なものである。特に顔見知りの前で、自分でも重々承知している性向を外部化した時などたまらない。自分らしさの表出は取り返しがつかない。無言の冷笑を招く。この事態を避けるためにも、よそいき用の自分が必須となる。
(ノc_,・;)ハア・・・
リンゴ病総裁が、スペインの牛追い祭りでテンプテーション。背面跳びを決めたかと思いきや、ふんどしいっちょでダルマ職人を目指すそうだ。悲しいレトリック。両手両足を精一杯広げて赤ちゃんプレーのまねをするが、証券会社の外交員はスラングばかりで営業しポルシェで帰社する途中、地球が回っていたのでバックしていた。どんとこい。
(≧∇≦)ノ彡バンバン!
たわいのないこと。大抵の人にとっては、問題にもならない対象だが、作り手にとっては制作を促進する一つの大きな導線となり、どんなことを「たわいのないこと」とするかが発話者のあるいは自分自身を測る材料となる。したがって神経質にかつ鋭敏な人間にならなければならない。森羅万象がたわいのないことだということを念頭に置いて。
(ー`´ー)うーん
まあどうしたのケンちゃんそんなに......とんまな顔して。
あはっ♪(^∇^*)*^∇^) あはっ♪
まさに現時点において自分を客観視することは可能なのか。客観的に見ているといっても、見ている主体は自分であり、そこには当然ドクサが入り混じっている。ということは、誰しも客観的的にしか自分を見ることができないことになる。「第三者的に」「客観的に」という言葉には要注意。話者の本音が出る態勢が整ったことを意味するからだ。
σ(´∀`me)??
大きすぎるセーター
彼女の着ているセーターが少し大きすぎるのではないかと思った。とても暖かそうだし、きれいな発色だし、ふわっとした綿毛で覆われたような質感も上品だし、すべてが申し分ないと思うのだが、少し大きすぎるのではないかと思った。
「そうかしら」
彼女はそう言って、僕の部屋で鏡を探した。僕の部屋の鏡は洗面台にある薄汚れた鏡だけだ。彼女はそれを思い出したのか、玄関の脇にある洗面台のほうへ行く。
「そうかしら」
今度は鏡に自分の姿を映しながら言っているらしい。
洗面台にある鏡は、歯を磨いた後で、ちょっとしみるところが虫歯になっていないか確かめたり、ぼさぼさの髪の毛に水をつけて納めたりするときに使うものだ。彼女の全身を映し出して、セーターが大きすぎないか確かめるためには、少しサイズが縦に足りない。
彼女がどんなふうに自分の姿を、いつもは顔しか映さない鏡に映し出す工夫をしているのかは、ここからは見えないけれど、しばらくすると、また彼女の声が聞こえた。
「確かに、少し大きいかもしれないわ」
そう言うと、洗面台のほうからかさかさと服と服が擦れるような気配がする。
「なにをしているの」
僕が聞く。
僕の問いかけに、彼女は言葉では答えずに脱いだセーターを洗面台のほうから放ってよこした。
「なにも脱ぐことはないよ」
僕が言うと、
「大きすぎるセーターを着ているのって恥ずかしいわ」
と答え、髪を整えながら彼女が洗面台から戻ってくる。
「だから、大丈夫だよ。誰も気付かないと思う」
そう言ってから、僕はそれは嘘だと思った。
「それは嘘だわ」
彼女は僕が思ったとおりのことを言う。
「あなが気付いたのに、他の誰も気付かないなんてあり得ない。むしろ、あなたが気付いたくらいだから、世の中のほとんどの人が気付くくらいに大きすぎるんだと思うの」
「そうだね」
そう答えるしかなかった。でも、だからって脱ぐほどだとはやはり思えなかった。
「だけど、脱がなくてもいいと思う」
僕が言うと、彼女は笑う。さっき、大きすぎるグレーのセーターを脱いでしまったので、彼女は急にやせ細ってしまったように見えた。まるで、毛を刈られてしまった羊のように思えた。
「大丈夫。前にこの部屋に置いて帰った赤いセーターがあるから、あれを着ればいい」
彼女はさっき脱いだ大きすぎるセーターを椅子の背もたれにかけると、僕の小さなクローゼットを勝手に開けて、赤いセーターを取り出して着た。僕はその赤がとても彼女に似合っていると思った。
「似合う」
と僕はつぶやいた。つぶやいてから、でも、以前のほうが似合っていた、と思った。彼女が赤いセーターを着てきたのは確か、ちょうど一年前の今日、彼女の誕生日だった。二十代最後の誕生日を迎えた彼女は「もう若くないのよね」と言いながら、とても若くて見えた。そして、この赤いセーターはまるで彼女に着てもらうためにそこにあるかのように見えたのだった。
「似合うってなんだろう」
と彼女がつぶやいた。セーターが彼女に似合っているのは確かだけれど、似合うってどういうことなのかは、僕にはわからない。
それよりも問題は彼女がまだセーターの大きさを気にしているということだ。
果たして今度は赤いセーターが自分のサイズにぴったりなのかどうか、彼女には確信が持てないようだった。
「似合うということは、サイズがぴったりということなのかな」
彼女は僕に聞く。
「でも、さっきのグレイのセーターのほうが、君に似合っていると思うな」
「サイズが大きすぎても?」
「そう、サイズが大きすぎても」
彼女はしばらく、自分が着ている赤いセーターと、脱いだグレイのセーターを見比べたり、さわってみたりしていたのだが、ふと手を止めると僕の前に座り込んだ。
「ねえ、本当にサイズが大きすぎても私に似合ってた?」
「うん。似合ってたよ」
僕がそう言うと、彼女はぼんやりと椅子の背にかけられたグレイのセーターを見やった。そして、彼女は自分が着ている赤いセーターと椅子の背にかけられたグレーのセーターの両方に手をふれながら黙り込んだ。
「ごめん」
僕が謝ると、彼女はしばらく黙っていたあとで言う。
「これから出かけようというときに、セーターが大きすぎると言われた人の気持ちなんて、あなたにはわからないわ。そして、その後に、別の赤いセーターを着て、似合うと言われた人の気持ちも絶対にわからない」
そう言って彼女は僕をまっすぐに見た。
確かに出かける直前に着ていこうと思っていた服のサイズがおかしいと言われたら、僕だって気分が悪いに違いない。
「ねえ、どうしたらいいだろう」
僕が許しを請うように言う。
そして、青く晴れ渡った春めいた休日に、どこにも出かけず、赤いセーターを着て、大きすぎるグレイのセーターをぼんやりと眺めていることこそが、彼女に似合っていることだとふいに思ったのだった。そのことに彼女も気付いたのか、彼女の口元が少し微笑んでいるように見えた。(了)
大人げない話(2)続・ばらまき土産
パリで暮らしていた頃、オデオンという駅のそばにアパルトマンを借りていた。セーヌ左岸、パリ中心部。サン・ジェルマン・デ・プレからサン・ミシェルへ抜ける道り沿い。観光客の多いエリアとエリアをつなぐ道は昼夜問わず活気にあふれていた。
フランスは美食の国といわれるが、それはそれなりの値段を払えば、という話。日本のように一食1000円程度でそこそこ美味しいものが食べられるとはいかない。外で食べれば少なくとも20ユーロ。にもかかわらず、大した味ではないのだから残念な国だ。となると、料理に興味のない私でも、在仏中はおのずとキッチンに立つ回数が増えていった。当然、スーパーマーケットへ足を運ぶ回数も。
サン・ジェルマン・デ・プレのスーパーマーケット、MONOPRIX(モノプリ)へは、週に一、二度、訪れていただろうか。既に、観光客の多い地区、と書いたが、その店では、しばしば日本人観光客に出くわした。お菓子の棚、スパイスの棚、お茶の棚。限られた時間に焦っているのか、棚と棚の間を足早に歩く彼らは、滞在中の買い出しではなく、大抵は手頃なお土産を探しに来ている。
それにしても不可思議なもので、日本人観光客は海外にいると、まわりに同胞はいないと思い込むらしい。とにかく声が大きいので、日本人の私に会話は筒抜けだ。
「これ!ばらまきにちょうどいいじゃん!」
背後から聴こえたその声に、その日も思わず振り返ると、新婚旅行中とおぼしきカップルが床にしゃがみこみ、棚の下段に手を伸ばしていた。女がつかんだ箱には、一回分のサラダドレッシングが入った高さ五センチほどのミニボトルが数本収められている。ふたりのやりとりを聞くこともなしに聞いていると、それをバラバラにして何人かに配るという算段。その思い付きに得意気な女。傍らで男が「いいね、いいね」と頷いていた。
確かにミニチュアボトルが可愛いといえなくもないけれど―。
私には、そのドレッシングに馴染みがあった。エールフランスのビジネスクラスに乗ると、食事の時に、塩と胡椒、彼らが手にしているサラダドレッシングの小瓶がテーブルに並べられるのだ。
―それ、渡す相手によっては、機内食で配られたものを流用したって思われちゃうよ?
心の中でつぶやいてから、余計なお世話だわ、と慌てて言葉を掻き消すも、私の心配をよそに、ふたりは値段を確かめて、籠にドレッシングの箱をドサドサと放り込み始めた。
それにしても―。
ばらまき土産という言葉が使われるようになったのはいつからだろう。10年前にそういった言葉は存在していなかったように思う。それがいまでは、女性向けのガイドブックでは、必ずといっていいほどページが割かれているのだから、一般的には「ばらまき土産」は完全に定着した言葉であり、慣習なのだろう。その証拠に、パリのスーパーマーケットで「ばらまき」という言葉が聞こえてきたのは一度や二度ではなかった。そして、その殺伐とした響きを耳にするたび、私はぎょっとして反射的に振り返ってしまうのだった。
かねてから、日本には、出張や旅行の後、みんなで分けられるようなお土産を職場に持って行くという慣習はあるにはあった。しかし、そのふるまいは、「気遣い」という、もう少し控えめなものだったはずだ。それがいつしか「ばらまき」と名前を変え、そのむき出しな語感に呼応するかのように、一段階、ガサツな物のやりとりへと落ちて行った。
あの「ばらまき」土産を受け取ったときの味気ない感じをどう表現したらいいのだろう。望まぬことに巻き込まれたようなもやもやした気持ち。釈然としない感じ。そんなやりとりをするぐらいなら、いっそ何のやりとりもないほうが潔よいとさえ思うだが、それは私だけだろうか。
その一方で、もうひとりの私がこう呟く。
―でもさ、「ばらまき」にしても気遣いにしてもやってることは同じだよね。配って歩くものにしたって、チョコレイトとかそんなものでしょ。ならば、「ばらまき」だろうが気遣いだろうが所詮は同じものじゃない?
確かにそうなのだ。それなのに、何だろう、このぬぐえない不快感は。ああ、悩ましき、ばらまき土産。それとも、こんな言葉ひとつに傷つくのは私が大人げないからだろうか。
戦場ヶ原の夜空
戦場ヶ原の雪降る夜は 恐ろしいほど神々しく 寒かった
借り物のヘッドライトをつけて 暗い林のなかを進む 時刻は0時近く
電灯もなにもない樹々の奥は いくら目を凝らしても闇しか見えない
眠っている樹木を起こしてはいけないと言っているかのように 静寂が横たわる
風だけが通り抜けることを許されているような
林を抜けると急に視界が開けて 広い農場に出る
まっすぐ伸びる一本道
山の上に浮く月と目が合った 痩せかけた月
月も散らばった星々も 澄んだ空では硬度の高い石みたいだ
世界には星の光だけで歩ける場所があるらしい
明るすぎる本州ではきっと無理だろう
遠くの空が ぼんやり橙色に染まっている
街の光が 秘境といわれる山々の空まで届いている
低く唸る風 山からの声 風に混じる雪
月と星の観察は続く
だれ、どこ(11)青木昌彦(1938年4月1日―2015年7月15日)
はじめて会ったのは湘南学園中学の文芸部、6ヶ月しかちがわないのに4月1日生まれは1年上のクラスだった。それが1951年で、最後に会ったのは2015年4月京都フィルハーモニー室内合奏団のコンサート、『苦艾』の初演のとき、いつものように予告もなく会場に現れた。
鎌倉から江ノ電で鵠沼、砂地と松林に囲まれた木のバラック。先生たちは若く、生徒と仲間のようにつきあっていた。授業が終わるとほとんど毎日ふたりで会って、やっと翻訳紹介されはじめたジョイス、プルースト、ダリ、それにマルクス、読んだ断片について話し合い、古本屋をまわり、話題がつきると、何時間も黙って、いっしょにいた。この世界の向こうにある知らない世界の夢、終わりのない知的冒険。1954年に東京のそれぞれ別な高校に移っても、時々会っていた。1956年からは東大に会いに行った。共産主義者同盟ブントで姫岡玲治を名乗っていた頃。すすめられて宇野弘蔵の三段階論を読んだ。原理・段階・現状分析と下降する三段階。武谷三男の『ニュートン力学の形成』では、現象・実体・本質と上昇する認識が科学史のなかで、ティコ・ブラーエの観測、ケプラーの惑星運動法則、ニュートンの万有引力という例がわかりやすかった。現象の記述にはじまり、そこには見えない実体を仮定してその機能を法則化する、本質は普遍的な運動原理になる。その運動を現象とみなして、次の認識の環がはじまる。経済学と音楽は領域がちがっても、システムや方法は仮の足場で、時代や社会状況が変われば、生きかたも変わっていく。
1963年に日本を出た、かれはアメリカへ、こちらはヨーロッパへ。その後こちらがアメリカに移って、ボストンの雪のなかで転び、気がついたら、かれの家で寝かされていた。数年後に妻だった石田早苗が事故で亡くなり、柿本人麻呂の挽歌をチェロと男声合唱の曲にした。『玉藻』はアメリカで書いた最後の作品。ベトナム戦争末期だった。1972年日本に帰ると、かれは京都大学にいた。1975年の次の結婚の披露宴では、ドビュッシーの『喜びの島」を弾いたと思う。その後もよく会っていたし、日本で本が出版されるたびに送ってくれた。いる場所や考える方向が変わり、遠く離れていても、意識するまでもない共感でつながっている感じをもっていた。権威にしたがわない、すこし離れて批判する眼をうしなわない、おなじところに停まっていない、すぐ飽きる、この飽きっぽさで続いていた友情かもしれない。
1990年以後の比較制度分析では、多数のプレイヤーがそれぞれの予想や共同認識から行動方針を決め、多様な関係の結びつきと組合せが、発展しながらいくらか安定すると制度となる。歴史や文化のちがいから、制度はひとつではないし、ゲームのルールは経験の要約にすぎないから、ちょっとした変化のきっかけでバランスが崩れてしまう。いまは冷戦が終わった1990年代はじめから一世代30年かかって次のバランスが作られるまでの不安定な時期らしい。それだからこそ、ちがう眼で世界を見て、冒険ができるはずだ。ほとんどの実験が失敗しても、いずれどこかで折り合いを付けられる。
音楽の制度問題は2000年前後に考え、『世界音楽の本』を岩波で出したとき、書いたことがある。シュンペーターの「創造的破壊」とはちがうが、実験の成果が制度になって固まってしまうとき、そこから逸れてちがう方向をさぐるのが「創造」だと感じていた。
会う時は、かれが見つけてきた食べ物屋で、ふたつの家族のつきあい。食べるのも飲むのも好きだった。日常のなにげない話と、陽気なふるまい。次にまた会うまで。次が突然なくなるまで。いっしょに歩いていても、気がつくと、どんどん先に行ってしまい、角で待っている。少年時代からおなじだった。その頃、「ふと振り返ると、いっしょに歩いていたはずが、ずっと後のほうで倒れていたりして...」と言って笑っていたが、......