2016年4月号 目次
憲法「肯定デモ」ってどうだろう
ぼくはかつて「闘いという言葉を忘れようと思う」(『百姓物語』晶文社 1989年)という詩を書いたことがある。
闘いという言葉で
人を選別し
闘いという言葉で
人を差別し
闘いという言葉で
人を責めていた
いつのまにか
これは自分自身へのいましめの言葉でもあり、新しい模索の出発の詩でもあった。
ぼくは「闘い」という言葉は封印したが、抵抗の精神を忘れたわけではない。ぼくなりに国や空港会社と向きあって来た。
今、世の中は大きな岐路に立っていると思う。2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故で多くの人々を恐怖におとしいれ、広大な大地と海を汚染したのに、再稼働に踏み込んだ安倍政権、特定秘密保護法、集団的自衛権を行使するための安保法制、そして、緊急事態条項でさらなる権力の強化をめざしている。平和憲法を変えようなんてとんでもない。
そのような動きに抗議する人々のデモが盛り上がっている。それに合流するのも一つの方法だ。でもぼくは、もう一つのデモを提案したいと思っている。それが「肯定デモ」。
デモというと、反対! がつくのが常識だ。何々反対デモ、何々を許さないぞ! そのスタイルが苦手な人もいるし、いていいだろう。それこそ表現の自由だ。
「SEALDS(シールズ)」の人々は従来のスタイルを大きく変えた。インターネットで彼ら、彼女らの姿を見て、ぼくは心を大きく動かされた。ぼくも国会前に行こうかと思った。彼らをひと目見たく。でもそれは、追っかけだ、彼らと合流するに見合う、自分なりのスタイルがほしい。
自分のスタイル、自分の表現方法、自分にしっくりするデモは? とずっともやもやしていた。そして、この提案に至った。
シュプレヒコール! とは言わない。「声を上げよう」と言う。
反対! とは言わない。「いいね!」と言う。
主語と述語をとりもどす。ぼくたち国民が主体なのだ。安倍政権が憲法を否定しようとしている。ぼくたちは憲法を肯定する。
平和憲法いいね! と声を上げる。
変える必要ないね!
憲法9条いいね!
基本的人権いいね!
立憲政治いいね!
主権在民いいね!
安保法制に反対する人々に対しているわけでは決してない。だから、安保法制反対いいね! と言う。
いいね! そうだね! と肯定の声を上げる。
どうだろう。賛成していただける方がいたら連絡下さい。
足を失っても、希望は失わない
ムスタファのこと
僕たちは、シリアで戦争に巻き込まれた人たちの支援をしている。ヨルダンで義足を作ったり、リハビリのサービスの提供だ。同僚が障害者の問題の専門家なので、いろいろ教えてもらっている。障害者の権利条約というのがあるが、こういうのを、暗記するぐらいでないと、障害者のことを理解していないと叱られそうだ。
2年前、シリアのダラーという町でロケット弾が飛んできて右腕と右足を切断したムスタファ、12歳。ヨルダンまで緊急搬送され、ぐちゃぐちゃになった手足を切断した。手術が終わると同じようにけがをしたシリア人たちが寝泊まりしているアパートで寝泊まりしていたのだ。ムスタファは強い子だ。障害者になったのに、明るい。
「どうして君はそんなに強いんだい?」と聞いた。
「手足がないのは当たり前。みんなと同じさ」という。
なるほど。革命という名のもとに、戦いがはじまり、多くのシリア人が手足を失った。何か、手足をうしなっていないと革命の仲間に入れてもらえないような感覚だろうか。
私がその時心配していたのが、ここの宿泊施設を出て、家を借りてヨルダン人のなかで住み始めたらどうなんだろう。革命なんてヨルダン人には到底魅力のないものだろう。へたすると迷惑なシリア人として差別されるかもしれない。
2年半が経った。体が成長している。切断した後の骨が伸びてくるので、何度も手術して削った。この間、ムスタファの家を訪問した。近所のヨルダン人の子どもたちと義足を付けてサッカーをやって遊んでいた。ムスタファは、体もでかくなりまるでガキ大将のようだった。いいぞ!
アヤのこと
アヤは、イラク人だ。5歳の時にがんになりヨルダンのキングフセインセンターで治療を受けるが、左足を付け根の部分から切断しなくてはいけなかった。義足がすぐ壊れるので、何度か作りなおしてあげた。
そのアヤが、17歳になっていた。イラクのTVにゲストで出たり、皆の前でスピーチをしているという話を聞き、アヤに再会したくなった。バグダッドからアルビルまで来てもらいスピーチをしてもらった。
「皆さんこんにちは、私はアヤ・アルカイスイです。高校2年生です。私の病気について、どうやって乗り越えたかを皆さんに話すつもりです。
2003年にももに痛みを感じた。当時の医者の間違えで私の病気はひどくなりました。イラクからアンマンに行って、ヨルダンの病院に通って、もう遅いからと足の一部を切断された。体にまだガンの細部あると言われたから化学療法を始めましたが、とてもショックでした。前の生活と完全に変わりました。体の一部をなくすのはとてもショックです。
麻酔がきれたら足がない。大泣きした。私の叫びは病院にいる人、みなに聞こえた。
切断の後に杖や車椅子を使うことが嫌でした。杖や車椅子を使うと私は皆と違うと感じた。当時小学生でした。
しばらくしてから、義足を付けた。最初はとてもつらかった。義足とスカーフの人生を始めた。化学療法で髪の毛はすべて抜けた。学校の友達は、アヤどうしたの?なぜそういう歩き方するの?と聞くけれど、小さいから答えることができなかった。
中学校に入ったら他人の質問や目線に傷つくようになりました。私は悩み始めた。どこに行っても、周りの人は私に可哀そう、まだ若いなのに、あなたのために神さまに祈る等、私に言っています。自分は普通と思っていますが社会と障害者の間に誤解があると思います。
高校に入ったら私はあきらめたのです。イラク社会では障害者文化がありません。中東の社会は障害を持ってスカーフを被っている女子が表に出ることは受けいれられない社会です。障害者たちは社会の一部とわかって欲しいです。普通の人と同じ権利を持ってることはわかって欲しいです。
私より私の家族がもっとショックを受けました。家族は、私が表に出ることに対して反対でした。しかし、私は他の障害者に自信を持つてもらうために、私を見習ってほしいと思い一歩踏み出したのです。私は足を失くしたのですが、私の人生で生きる権利を失くしてはいないです。」
シリア、イラク環境は最悪なのに、子どもたちが成長している。それは希望だ。
みずのほとり
みずのほとり
草つつむ石のかみ
めはなもなく
なでられて
さすられて
記憶のほとり
だれのてのひらも
ひからびて 空をすくえない
みんないなくなって
これからさきも
だれもやってこない
みずのほとり
草つつむ石のかみ
めもなく
はなもなく
なでられて
さすられて
記憶のほとり
だれのあしうらも
あおい空をふみしめられない
みずのほとり
草つつむ石のかみ
不意に
ふるいひとのこえが
風のように
村の地図をよみあげる
せみはやし
とりなしやま
すくりす
たせ
あめやみ
がやがや
めもなく
はなもない
だれかのしるしのように
みずのほとり
草つつむ
石のかみ
(「名井島の雛歌」から)
チャランゴを爪弾く
数週間まえの肌寒い日、自宅にチャランゴが届いた。買ったチャランゴは全長60cmほど。ギターを小さくしたようなこの楽器は、5コース10弦。胴体はオレンジの木でできているらしい。いろいろ試してみたい楽器のなかで、なるべくひっそり弾けるもので、値段があまり高くなく、西洋音楽からは離れている楽器を持ちたいと思っていた。しかしやはり、ひっそり弾いてもチャランゴは思った以上に大きな音が鳴る。となりの部屋に聞こえてしまわないように(たぶん聞こえている)弾く毎日がはじまった。
楽器は、弾けば弾くほど魂が流れ込んでいくと、むかし誰かが言っていた。
それは言語をおぼえることと似ているのかもしれない。話せば話すほど、ことばに生命が吹き込まれていく。魂の共鳴の相手がチャランゴになるとは。自分で選んでおきながら、奇妙な感覚だ。
ひとの話し声、機械の音、自分の思考、日常のさまざまな音や思惑は、心に入り込んでくる。外出先から帰ってきたとき、その雑音は煙が充満するようにどんどん膨らんで、飲み込まれそうになりながら寝りにつく日がよくあったものだが、チャランゴを抱えて、弦を一本はじいてみれば、ざわつく心はいつの間にか静寂の海を漂っている。
朝と夜の海が合わさる幻想の情景 浮かぶ山 陰と陽 現実から離れる術
技術の上達についてはさておき、いまは自分の心に平穏をもたらすもの、限りのない想像をはたらかせるものとして、爪弾く毎日なのだ。
137 源氏物語学説
それはそうと、一九八〇年代終り近くになって、なぜ、
レイプ学説が飛び出してきたか。 千田さんは書いている、
おれの『従軍慰安婦』(一九七三)を、何十万人もの、
元日本軍兵士が買い、かくれて読み、嘆息とともに書架深く、
それを仕舞い込んだ、と。 学徒動員世代の、今井さんが、
空蝉も慰安婦、浮舟も慰安婦、とそういうふうには、
論じなくても、覚悟の、さいごの源氏物語論である。
(「千田」と言うのは千田夏光さん。「今井」は今井源衛さん。一九九〇年代の初頭に今井さんは「女の書く物語はレイプからはじまる」と論じた。)
しもた屋の噺(171)
朝日が目に眩しい朝です。仙台から東京に戻る始発の新幹線でこれを書いています。昨夜、多賀城であった魔笛が終ったとき、熱狂的なスタンディングオーべーションが湧き起こりました。現地から参加した出演者の一人が、東北の人たちがこんな風に喜ぶなんて信じられないと呟くと、別の東北出身の出演者も大きく頷きました。
伏線に「復興」が関わっているとは言え、恐らく大半は初めて魔笛を見る人ばかりでしょう。オペラは勿論、ともすればオーケストラすら初めてかも知れない多くの子供たちも、3時間以上食い入るように見入っていたと聞き驚きました。まめまめしく本当によく世話を焼いてくださった市役所の方々も、このホールが街の人で一杯になることすら珍しいのに、満杯どころかこれだけ喜んで貰えるとは、と感慨で言葉が詰まっていました。これが「魔笛」の素晴らしさなのかもしれませんし、歌手とオーケストラ、演奏者みなさんの力なのかもしれない。
二週間前、初めてここを訪れたときは、部外者の自分が復興支援を、それも音楽などどれだけ役に立つのか、不安と疑念に囚われていたのですが、今回の演奏会に携わって、とても大切なことを学ぶことができたように思います。新幹線は福島を過ぎたところです。
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3月某日 ミラノ自宅
居間で譜読みをしていて、ふと目を外に向けると、3歳のころの息子の後ろ姿が走ってゆき、強烈な懐かしさに胸がしめつけられる。一瞬、頭が混乱する。今日という日はもう戻ってこない。家人が日本に行っているので、息子の学校とリハーサルの送り迎えを、譜読みと授業の合間にやりくりする。かかる非常時には外食にして家事を手抜きすればよいのだが、概して味は濃いし、これからこちらも半月もの間外食続きになるので、結局毎日食事を用意して仕事捗らず悪循環。
3月某日 ミラノ自宅
息子が歌っているブリテン「ちいさな煙突掃除」を見に、マジェンタ歌劇場へ出掛ける。劇場天井の巨大なフレスコ画は1906年。歌劇場の天井には、明らかにヴィスコンティ風の城が描かれ、ヴィスコンティの紋章が旗めく。雪景色でアルルカンが踊る城門広場に、中世風の装いの男女が賑々しい雰囲気の中犇く。マジェンタはずっとミラノのヴィスコンティ家に治められていたと思ったが、ミラノに吸収されたのは、随分経ってからだった。ブリテンは、音楽もさることながら、出演者が指で影絵まで作ったりして、実に演出が美しい。息子の演技が真に迫っていると口々に声をかけられ気恥ずかしい。主役でもないのに、何故か写真撮影で主役と一緒に並んでいて、一体誰の血を受継いだのか。
3月某日 ローマ空港
今朝は7時前に息子を起こし、風呂を使わせ、8時前にはメルセデスのところへ連れてゆく。そのまま空港へ向かい、ローマの空港に着いた。彼は来週から臨海学校でリグーリアのアンドーラへ出かける。臨海学校と言うより修学旅行。ここから息子が書いた熱川の義父母宛端書を投函。当然乍らローマは暑い。
3月某日 多賀城駅パン屋
成田から東京経由で仙台まで新幹線に乗り、多賀城に着いた。町の電柱には、到達した津波の高さがそれぞれステッカーで示されている。駅前の登り坂で津波は止まったそうだが、ホテル前の電柱のステッカーは、自分の背丈より高いところに貼られている。ホテル横の歩道橋には、津波の夜70人が避難した。アリアの音楽稽古をしていて、自分が学ぶことは数限りなくある。少しずつ音楽が自分の望む方向に向かいつつある。
出演者の一人が自分と同じように指を欠損していて、どうしたのか尋ねると、子供の頃、コンクリ壁には挟まれて指が壊死し、切断せざるを得なかったと言う。指があるのに切断を宣告された時はショックだったという。昔、切断した小指の先の傷口がなかなか塞がらず、再手術で骨を鑢で削らなければいけない、と言われた時を思い出す。
3月某日 多賀城ホテル
地元の高校生の踊る獅子踊りが、曲中に挿入されるので、駅向こうの小学校の音楽室へリハーサルに出かける。 獅子舞をどうやって練習するのか全く知らなかった。身体総てを使って、飛び跳ね続ける、爽やかな笑顔が何より初々しく、獅子の面をつけると、校庭でサッカーの練習をしていた、小学生たちが大喜びで走り寄ってくる。獅子は、耳と口の動きでちゃんと子供達と会話している。昨日は、街の文化センターで音楽稽古をしていると、小学校低学年と思しき少女が、練習場に入ってきて、床に坐ってこちらを眺めている。皆、誰か関係者の娘さんだろうと思っていたのだが、洩れ聴こえる練習の歌声に感激して扉に耳をつけ聴き入っていたので、思わず招き入れたと後で知った。
3月某日 駅前ことり喫茶店
練習が夜18時開始となったので、東京へ戻り、橋本君と松平さんの「かなしみにくれる」のリハーサルに立ち会う。こういう作品の成立方法が正しいのかどうか解らないが、縦を合わせるために互いに音を聴くのと、互いの音楽に自らを忍び込ませるために、耳をそばだてるのは根本的に違う。正しい音楽を再現するのではなく、互いの音楽が有機的に重なり合っているのであれば、どんな演奏であっても、すべて正しい、というのは、作曲者の責任放棄なのかもしれない。では、作曲とは責任を負うだけの作業なのかどうか。細かく規定してゆけばゆくほど、合わせることに焦点がゆき、音楽を感じる余裕がなくなってゆく。それが悪いとは思わないが、違う音楽のアプローチがあってもよいだろう。
正しい配分で調味料をブレンドしてソースを作るのと、取り合えず家にあった新鮮で美味な野菜をオリーブ油で軽く炒めてブイヨンをつくる違い、というと少し違う気もするが、少し似てもいる。
聴き手、つまり食べ手に媚びて、喜ばれるよう繕わないところが似ている。 無理に音楽を盛り上げることもなく、沈黙の中をたゆたう。歌から声を取り上げ、そこに声を戻してゆく。一件、何気ない緩やかな音の運びは、実は作曲者の途轍もない暴力に晒された結果に過ぎぬ。
3月某日 多賀城ホテル
息子11歳の誕生日。ザルツブルグ人形劇に感激して、家人にはマリオネットを誕生日祝いに欲しいらしく、困っている。こちらは、来年からの彼の中学通学用に、大人用キックボード一揃いを日本に発つ前に贈ってきた。修学旅行から帰ってきて、電話の向こうで、心なしか声が少し大人びて聞こえる。
「魔笛」に描かれている二組の男女の恋愛模様の上に鎮座する、イシスとオシリス。棺に閉じ込められ、ナイルに投げ込まれて溺死し、海に流れてレバノンに辿り着いた末に、小さく刻まれて、エジプトのあちらこちらに蒔かれたオシリスの亡骸。それを一つ一つ拾い集めて、もとの形に戻そうとミイラにして魂を吹き込んだイシスの愛。考える必要はないのかも知れないが、震災に翻弄された人々をおもう。朝食を食べる8階のレストランから、大きなフェリーが停泊する仙台港がすぐそこにみえる。無数のオシリスの姿が、地平線にびっしりと折り重なってみえる。
最後の合唱でイシスとオシリスに向かって感謝を述べる件について、音楽稽古の後少し話す。ここで被災された皆さんと、この曲を通して部外者でしかない自分がどう対峙すればよいか、実はとても怖かったことも正直に話す。自分は、自ら気づかないうちに偽善やルーティンに陥っていないのか、毎日稽古の合間、そればかり考える。右手に息子が編んだ赤と青のブレスレットをつけて、何故自分がここにいるのかを自問し続ける。
3月某日 多賀城駅パン屋
音楽稽古は、ともかく何を誰にどの距離で言わんとしているか、そしてそれは何故か、歌手とともに考える時間。彼らが思っていることを、出来るだけ明確に表現できるように考えているつもりだが、こちらの要求もずいぶん無理なのも分かっていて、申し訳ない。
多賀城駅の料金表の看板。バスに代行になっている線まで、思いの外近く感じる。Aさんは線路が取り払われた、代行バス用の道路をわたるとき、線路はもうないと知っているのに、つい無意識に踏切のように一時停止してしまうと話してくれた。東京からやってきた歌手組は、こちらの歌手組と一緒に、被災地を訪れたそうだ。目の前のさら地が、カーナビゲーターには小学校と表示されていて言葉を失った、と東京組の一人が言うと、実家が三陸だというもう一人が、自分にとってはごく普通の風景だから、そういう感じ方が寧ろ新鮮だと応える。ホテル近くの小さな韓国家庭料理屋で、サムゲタンをたべながら四方山話。本棚に、聖書が並んでいて、編者の名前は韓国人のようだった。その隣にも何冊か同じようなハングルの本が並んでいたが、あれも教会にかかわる本だったのかもしれない。壁には、仙台愛の教会のカレンダーがかかっていた。塩釜で被災地ボランティアの受け皿になっているときいた。
3月某日 多賀城ホテル
誰がいうことにも、一理も二理もある気がするので、そこから正解を探そうとするのは、ほとんど意味がない。理詰めや整合性だけで取捨選択するのも、われわれの仕事の上では、少し違う気がしている。何か異議を唱えられた場合、ほぼ間違いなく、あちらが正しいのは、経験上理解しているので、素直に受容れたい気持ちもある。不可抗力がある時、そこでどう落とし処を見出すか。本当に学ぶ事は毎日たくさんある。オーケストラと歌手のバランス一つにしても実に悩ましく、結局ピットを20センチ深く下げた。
3月某日 追伸 三軒茶屋自宅
一日だけ東京に戻る。朝、少しだけ沢井さんのお宅へ出掛け、正倉院の七絃琴のための「マソカガミ」を聞かせて頂く。音と音との合間に無限の空間が広がる。何故かかる不完全な音に美しさを見出すようになったのだろう。主張する音ではなく、説得力のある音でもない。聴き手は耳をそばだて、音へ自ら近づかなければならない。沢井さんは、この楽器は人に聴かせるためでなく、自らのため自分でつまびくものだったと言う。
日本から離れている時間が長くなる程に、自らの文化への憧れが強まる。七絃琴の音から、当時の日本の文化を思い、そこへ辿り着いたペルシャや諸外国の文化を思う。
(3月31日三軒茶屋)
アジアのごはん(76)ラオスの竹筒漬物茶
象フェスティバルが終わると、騒然としていたサイニャブリーの町は、いきなり閑散となって、ひなびた田舎町になってしまった。これが本来の姿だろう。 引っ越した安宿は市場のすぐ近くにあって、大変便利。しかも、引っ越した日に外国人客はみんな出発していって、仕事で借りているラオス人、中国人たち数組 だけが残っていた。中庭が広くて、開放感あふれる清潔な安宿、サンティパープ。一部屋6万キップ、約240バーツ、1000円ぐらいか・・。サイニャブ リーに行ったらここに泊まってね。
市場を散歩していると、このあたりの産業や特産品、日常の食生活みたいなものも見えてくる。米の半生麺カオ・ピヤック・センが山盛りだったり、魚の発酵調味料パラー、納豆をつぶした調味料トゥアナオが味噌状になって大袋入り、水牛の皮の干したの、さとうきびの黒砂糖・・、おっとこれ、焼酎じゃない?いや、あのさすがにこのタンク1本はいらんわ。あ、これに分けてよ。小さいペットボトルに自家製だというラオスの焼酎を入れてもらう。20バーツ。味は、与那国島のどなん、のよう。
あ~、なんだこれ。この土にまみれた太い竹筒・・っもしや、お茶の漬物かも!勝手に蓋を引っぱがして中を確認。一応売り子の姐さんに味見していいかと聞 く。「お茶の漬物のミエンだよ、山の人が作る」と手のひらに載せてくれる。ちょっと食べてみたが、あまり熟成していない。酸味も少ない。「ちょっとだけ売ってくれ ない?」「いや~、一本じゃないと売れないよ」と交渉決裂。
タイではもう、ほぼしていないと思われる、ルーツなお茶の漬物の作り方だ。よく育ったお茶の葉っぱを採取した後、さっと茹でてから竹筒に詰めていき、最後 に粘土でふたをして、土中に埋め放置して発酵させる、というものである。竹筒は直径10センチほどで、長さは60~70センチといったところか。
竹筒製は初めて見た。いや~、お茶好きとしては感動しますね。ちなみにタイの北部では、小さな工場でステンレス製、または焼き物の大きな瓶などに詰めて、熟成させる。土には埋めない。連れのYさんが「これ、食べないとあかん?」と一度口に入れた漬物茶をうえっと出す。苦手な味のようだ。
土中に放置は、半年以上がふつうというが、長ければ長いほど熟成が進み、レアなものになる。市場のものは半年も経っているとはちょっと思えない。もらった一掴みのお茶を握ったまま宿に帰り、ふと部屋のまえの椅子の上に一枚づつ広げて並べてみた。7~8センチの葉の形がそのままで、5枚ほど。そのまま1時間ほど忘れていたら、から からに乾いていた。匂いを嗅ぐと、ウーロン茶のような緑茶のようないい匂い。フフフ。
お湯を沸かして、カップに葉っぱを入れてちょっと置くと・・。連れに声をかける。「お茶飲まない?」「ん~、おいしい。こんなお茶持ってたっけ?」「さっき市場でもらった漬物の葉っぱ乾かしたらいい香りになったんで、お茶にしてみた」「ほおおお」
漬物として食べるより、乾かしてお茶にしたらうまいやんか・・。やっぱり1本いっとけばよかった。もう市場は閉まっているし、明日は早朝に出発だし、今度また来たらあのお茶の漬物、竹筒ごと、抱えて帰ろうっと。
「ええ、あの泥だらけの竹を・・持って・・帰るの!?」ヒバリのお買い物にはことごとく反対するYさんであった。
グロッソラリー ―ない ので ある―(18)
「1月1日:次郎おじさんの話をする。母親の兄に当たる人だ。遊びに行くとおじさんはいつも一升瓶を抱えて日本酒をちびちび飲んでは、同じことを何度も何度も聞いてきた。『学校はどうだ』『学校は楽しいか』『学校は楽しいのか』。面倒ではあったが、無視するのは気の毒だったので、いちいち『楽しいです』と嘘をつく僕なのであった』」。
「( ' ヘ `;まいったなぁ..
世渡りには、順応性の高さが大切である。知識・経験・年齢・学歴に関係なく、まず大局を大づかみにし、続いて各所の人間的事情を把握できる者が、特に組織では長く生き残れる。社会および人間不適合者に残された道はないのか――ある。順応も反発もせず修行に近い忍耐を貫徹することだ。精神的な曲芸を一途に磨くことだ。
ガンバ!p( ̄へ ̄o)(o ̄へ ̄)qガンバ!
ゴーギャンがゴッホの絵を描き、ゴッホがセザンヌの絵を描き、セザンヌがゴーギャンの絵を描く。ゴーギャンは会社に復職し、ゴッホは黄色い家に帰り、セザンヌはサント・ヴィクトワール山方面に行った。それぞれ描いた油絵をそれぞれの部屋の壁に貼り、おやすみと眠りについた。セザンヌひとりは言った「あの二人はいったい誰なんだ」。
n(ー_ー?)ン?
「1月1日:次郎おじさんはしらふの時にはいろんな楽しい話をしてくれた。今でも印象に残っているのは釣りに行った時の話である。『三郎おじさんいるだろ。隻眼の。あ、隻眼じゃないか。俺の弟だ。会ったことあった? いや、ダジャレじゃないよ。ダジャレを言うのは誰じゃ。もう最悪だなこれ。だいたいダジャレにもなってないしな』」。
サムイ彡(-ω-;)彡ヒューヒュー
OLに主婦、妙齢の女性には、自分で設定したルールがある。これがなかなか厳しい。それまでの人生経験の中から取捨選択したものが、結果的にルールとなりその自覚も生んだのだろう。恋愛マニュアルにあるアプローチ方法も、このルールの前では軽佻浮薄な戯れ言となる。ルールを溶解させるほどの心優しき猛者であるならば先が期待できる。
( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー
孤独じゃ。神のように孤独じゃ。じゃがわしには自分自身というものがおる。片時もわしから離れたことはない。生活のすべてをともにしておる。生まれた時からわしに関するすべてを知り尽くしている。若い頃は艱難辛苦を前に意気阻喪しそうな時も、一心同体でくぐり抜け狂喜乱舞したものじゃ。誠に頼りにしておる。それにしても孤独じゃ。
(∥ ̄■ ̄∥)
「今日午前11時半頃、東京・新宿区の毎朝放送の第二スタジオ内で、勤務中の田中花子という女性会社員が、『今日午前11時半頃、東京・新宿区の毎朝放送の第二スタジオ内で、勤務中の田中花子という女性会社員が』という原稿を読み上げました。同会社員は引き続きこの原稿を読み上げるつもりでいるということです」。
( ̄ー ̄(_ _( ̄ー ̄(_ _ウンウン
人間はサディストではなくマゾヒストである。今昔のいさおしに励行されるよりも、失態や恥辱を原動力として生き続ける。武勲や栄光などインスタントな一件に過ぎず、自慢の種になることはあっても、自らを牽引するどころか過去へ引きずり落とそうとする。その点、みっともない自分はやる気を駆り立てる。次なるみっともなさのために。
なのダッ($σ´з`)
【フェニックス】(名)英語:phoenix(フィーニクス):エジプト神話の霊鳥。500年または600年ごとに自分で香木を積み重ねて自ら焼身し、その灰の中からまた若い姿あるいは幼鳥となって再生すると言われている。転じて絶世の美人の意にも使われる。古代のフェニキアの護国の鳥「フェニキアクス」が発祥という説もある。
フムフム(*゚Д゚)φ))ナルホド
「1月1日:『三郎おじさんはな、ああ見えて酒がほとんど飲めないんだよ。知らなかったろ? 酒好きみたいな顔して、ビール一杯でぐったり。そのくせ『俺と飲んだら大変なことになるぜ』なんて言いやがる。大変なことになるのは、自分自身なのにな。ははは。二三年前の正月なんて大変だったんだよ。今でも語り草。見てないか?』」。
(=^〜^)o∀ウィー
昨年365日を生きたことになる。そういうことになっているが、生きたと胸を張って言い切れる日はどれだけあったろう。睡眠が死にたとえられるように、死んでいたも同然の日も相当量あったのではあるまいか。時間は大切だという。大切なものは触れずにいるか乱費するかのどちらかだ。いずれにしろわしには無駄であることは否めない。
( ´・ω・)・・・・涙デタ
問一:AはBから3万円を借りて持ち逃げしました。Bには貯金を含めて2000万円の財産がありました。Bは消費者金融Cに3万円借りて蒸発しました。20年経ってもBは消息不明でした。AとCは6万円ずつ交換しました。そしてお互いに姿を消しました。事情通のDが警察に出頭しました。さて、これは何の問題でしょう。
|・ω・)ではまた!
二項対立の物語
また『真田丸』の話になる。第11回では主人公の父が自分を暗殺に来るライバルを返り討ちにする場面が描かれた。最初、2人は囲碁をしながら腹の探り合いをしている。その部屋の近くの縁側に、屋敷奉公するヒロインが事情を知らず腰を下ろして、思いがけず暗殺現場を目撃してしまう。それだけでなく、この暗殺劇の蚊帳の外にいた主人公を思わずその場に連れてくる。というので、このヒロインがうざい、せっかくの男同士の緊張感あふれるシーンが台無しだという声がネットでは多いようだった。
このヒロイン叩きの理由の1つとして、視聴者が二項対立の物語を好むというのがあるように思う。主人公AとライバルBが対立する物語は、敵も明らかで当事者同士の緊張も高まりやすい。話も単純なのでどちらかに肩入れする視聴者も熱くなる。これはスポーツでもそうだ。
ところが今回の『真田丸』ではA、Bと関係のないCがドラマに入ってきた。現実社会は複雑系で、閉じた二項対立パターンが生じることはほとんどない。第三者が介入したり予期せぬ事態が起こったりして事態は思いがけない方向に転がることが多い。このドラマでは社会というものをうまく描いていると私は思うのだが、ドラマでは想定外のストレスを感じたくない、予定されたABの対立とその決着のカタルシスだけを味わいたいと思う視聴者が多いのかもしれない。そういう観客の要求が古典芸能や時代劇によく見られる勧善懲悪を生み出してきたのだろうと思う。
製本かい摘みましては (118)
図書館の収蔵庫で大正から昭和初期の薄い文芸雑誌の合本の直しを手伝ったことがある。数冊ずつ二カ所、巨大ホチキス針で留めていたが針がさびてきたのでとにかくはずして、その穴を利用してごく簡単に糸で綴じ直して欲しいと言う。薄っぺらな冊子を図書館で保存管理するには大きなホチキスで留めるのがいちばんと判断されたのは、いつ頃のことだったのだろう。実際はそれほど針はさびていなかったし紙も格別劣化していなかった。まれに強烈にさびた針がくい込んで紙が破けたものもあったけれども、そういうのはプロが処置してくれるので私たちの作業は極めて単純で楽しかった。
作業していた部屋の脇の小さなスペースが物置きになっていて、処分を待つ古い机や道具が積んであり、木製の図書カードケースとカードたてを見つけて譲ってもらったのも懐かしい。表面がつるっと光沢を帯びており、滑り止めに貼られたフェルトや金具の曇りも好ましかった。今もうちに好ましいままにある。久しぶりにその図書館に長居していて思い出したことだった。考えてみるともうずいぶん前だ。齢をごまかすつもりはないのだけれども、頭の中であれこれ考えるというのはつまり相手は自分ひとりなのに、1年2年3年くらいならいっか、とごまかすのはいったいどういうつもりなんだろう。
合本のためでなく綴じるための針がある冊子をうちの棚から抜いて見てみる。1956年の「現代詩入門」は本文64ページの針金中綴じ、1959年の「時間」は44ページ針金平綴じだ。どちらの針もさびて紙は茶色い。大貫伸樹さんが実物を集めて手元で眺めながら日本の近代製本の移り変わりをまとめた『製本探索』(2005 印刷学会出版部)には、針金綴じの始まりのころについてこう書いてある。〈簡易製本様式である針金綴が教科書に初めて採用されるのは、小学校師範学校教科書用、明治18年刊『小学習画帖』(文部省編輯局蔵板)であろう〉。針金綴機械がすでに輸入されており、明治40年代には工藤製鉄所という会社が国産初の機械を作った、ともある。
工藤鉄工所をちょっと調べてみると、1907(明治40)年に工藤源吉という人が東京・小石川で創業、紙揃え機などを作っていた。その後、針金綴じ機(ケトバシ式)を作って全国の製本屋に売り込み、二代目社長・祐寿(すけとし)の代になると1918年にドイツのL・レイボルト商会と技術提携して自動で綴じ込む「ツル式」を開発、1950年には国内初の「高速度自動中綴機械」を製造して週刊誌などの量産に貢献したそうだ(「ぶぎんレポートNO.134」2010年6月号)。同社は日本初にこだわり、二代目社長は社員旅行や社章を考案し射撃に打ち込むなどハイカラな人だったとも記されている。L・レイボルト商会とは、レイボルド株式会社の前身で1905年に東京八重洲口にできたエル・レイボルド商館のことだろう。
「薄っぺらで背なんてあってないような冊子は、持ち主が死んでしまうと紙として扱われることが多い」。というような話を、3月、下北沢の書店B&Bで聞いた。北園克衛が1930年代に発表した小説を集めた『白昼のスカイスクレエパア 北園克衛モダン小説集』(幻戯書房 2015)の刊行記念トークショーでのことである。この本のためにご自身のコレクションから資料を提供した加藤仁さんと、北園克衛関係の本を複数まとめている評論家で詩人の金澤一志さんのお話だった。この小説集(どれも短い)には解説や解説のたぐいはいっさい入っておらず、金澤さんはそのことを、「ひじょうに正しい、親切な配慮だったのかなと感心した」と言っている。洒落てクールにしらじらと、孤独に放たれた本である。刊行を長く望んでいた人たちからたまたま手にとり身震いするような人たちまでがただこの一点に集まるという、ねたましいほどの出現だ。
加藤さんはトークの資料として戦前の薄っぺらい雑誌をいくつもお持ちくださった。それを前におふたりの話は進み、1920〜30年代の文芸雑誌や各地の同人誌、書評誌などのタイトルが放たれるのだった。『少女画報』『GGPG』『太平洋詩人』『文藝耽美』『文藝都市』『新科学的』『文藝レビュー』『新作家』『新形式』 『マダムブランシュ』『レパード』『ファンタジア』『月曜』『夜の噴水』『辻馬車』『エコー』『レスプリヌーヴォー』『VOU』『薔薇魔術学説』『文藝時代』......。同じ時代、日本各地で、それぞれどう制作費を捻出したのかはわからないけれども、作り手はみな若く、紙やレイアウトにも凝って、「今なら若者自作のCDや音源に近い。ポピュラー音楽のない時代は文学がカウンターカルチャーだった」と加藤さんが言う。金澤さんが「ありとあらゆるサークルがありとあらゆる目的で、大なり小なり命をかけて大量に作った同人誌が書店で売られ、日本の文化を作っていた。知的欲求を一手に受け止める役割を、薄い雑誌が担っていた」と言うのを聞いてジンときた。
個人で研究する場合は特に、復刻版でもコピーでもなく一次資料を手元に置かないことには仕事にならないそうである。膨大な薄っぺらい冊子をおふたりはそれぞれどう保管整理しておられるのだろう。合本などするはずがないわけで、たとえばこの日のように、必要なものを自宅の棚から選び抜いて外に持ち出し、見ず知らずの人がとやかく言うのにつきあい、また家に持ち帰って元の場所に戻す手間は想像するだけでうんざりするが、加藤さんにそれを厭う気配はなかった。一瞬にして紙ごみとなる幾多の危機をまぬがれてきた冊子たち。ひと一人の寿命を軽々越える本らの陰謀。その見事に快哉を叫ぶ。
仙台ネイティブのつぶやき(12)見知らぬ街
ここ3年ほどだろうか、身近なところで見慣れた建物が壊され新しい建物が立つということが相次いでいる。東日本大震災から1年を過ぎたあたりから顕著になってきた。
街歩きのガイドのとき、いつも案内していた大正4年建築の金物屋だった町家は壊され更地になった。4本の井戸があると聞いていた豆腐工場は解体され、いま大きなマンションが建設中だ。通りで最後の一棟だった小さな土蔵造りの町家は、ハウスメーカーらしき平屋に置き換わった。
震災は何とかまぬがれたのに、震災後、政府が解体費用を持つという政策が打ち出されてから、古い建物がつぎつぎと姿を消し始めた。お荷物に感じていた傷んだ古家がタダで解体できるなら、と見切りをつけたということなのだろうか。古い建物をあっちに見つけてはよろこび、こっちに見つけては訪ねるという活動をしてきた私には何ともさびしいではあるのだけれど。
この感じには既視感がある。
四半世紀前のバブル経済のころだ。大正から昭和初期にかけて建てられた、年月を経た下見板張りに瓦をのせた古い家々が軒並み壊されていった。地元の大工たちが建て、地元で焼いた艶のない黒い瓦をのせた家々だ。仙台は戦災にあって中心部の多くを焼失しているけれど、空襲をまぬがれていたそうした戦前の建物が、まるで狙い撃ちにあったようだった。
木造の古家の何とはかないことだろう。朝、出勤のとき見た建物が、夜にはあっけなく解体され上にはパワーシャベルがのっかっている。2日目に残材が片付けられて、せいぜい3日で更地。転売された土地には、ビルやマンションがあっという間に立ち上がる。ちょうどそのころから、まちへの関心を持ち始め、城下町の骨格やら屋敷林の名残やら街道沿いの町家やら...なんてことに興味をふくらませていただけに、やるせない、どこか傷つけられたような気持ちでため息をついていた。
でも、世の中は好景気で、多くの人はそうした変化を歓迎しているように見えた。地上げ屋も横行していた。勤めていた会社の近くにあった老夫婦がやっていた駄菓子屋が壊されたときは、「こういう木造の建物は目障りだから、建物は解体し土地は売った方がいい」という男たちがやってきたという噂を聞いた。仙台市郊外の里山で地域づくりの手伝いをしていたときには、素性のわからない男が一人、会社にやってきた。
上司が対応したが何とも拉致が明かない。2時間ほども経ったころ、こういったのだそうだ。「ゴルフ場開発を計画しているが、反対している住民がいる。地域づくりの力で、その人たちを説得してほしい」
そして、いま、仙台は再び大きな好景気の中にあるのだろう。大震災後、三陸の町や浜では軒並み人口流失が続いているけれど、離れた人たちの行き先は多くが仙台なのだ。仙台だけが、震災後、人口増を続けている。こちらで暮らしていた息子の家族に呼び寄せられてという老夫婦もいるし、3世代同居から息子夫婦と孫たちだけが離れて仙台へという例も少なくない。毎日ように、朝刊にはどっさりと不動産のちらしが折り込まれてくる。つぎつぎと高層マンションが立ち、古い家は壊されて新しい戸建て住宅に変わる。ついこの間も玄関の呼び鈴が鳴るので出たら、ハウスメーカーの営業マンが立っていて、近くの空き家のことをたずれられた。
慣れ親しんだ街並みは失われ、見知らぬ街があらわれてくるのだ。歩いていると、ここにいつこんな大きなマンションいつたったんだろうと気づかされることが増え、新しい建物が立つと以前どんな建物だったかを思い出すことは難しくなる。
知らない空間の出現。何ともなじめない、違和感のある空間の誕生。横断歩道で信号待ちで向かい側のビル街をぼぉっと眺めながら、ときどき思う。いったいここはどこ?
ほんとに仙台なんだろうか、と。
そしてこうも思う。バブル経済から25年とちょっと。街並みはこのぐらいの時間の幅で大きく変化するものなのだろうか。そしてこういう大きな変化は、自分の生きてきた時間が長くなるからこそ実感されるのだろうか。戦前の木造家屋の消失を目の当たりにした一度目の変化。都市のすみずみまでを開発し尽くすようなこの二度めの変化。もしかすると、その前、子ども時代にも大きな変化を見ていたのかもしれない。田んぼがつぶされ宅地化されていく高度経済成長期の激しい変化を。
この先、もう少し長く生きるとしたら、三度目の、いや四度目の変化に立ち会うことになるのだろうか。そのときには、仙台の街は私にとってはもはや仙台の街ではなくなるのかもしれない。暮らす中で親しんできたなじみの風景や建物を見つけることは、ますます難しくなるだろう。
ここは仙台じゃない、知ってる街じゃない、といいながら、きっと私は街を徘徊する老婆になる。
実は種ってややこしい
まず、「みはたねってややこしい」と読まないで欲しい。「じつはしゅってややこしい」という生物の種類、分類に関するお話である。
以前にもとりあげたように、昨年の年末から今年の夏にかけて、有名な植物図鑑の改訂版が出版されている。植物は科、属、種というという分類ルールで分類されている。例えば、吉野山を彩る山桜はバラ科サクラ属のヤマザクラという種類に分類されている。今回の図鑑の改訂の目玉とされているのは、AGPⅢと呼ばれる葉の葉緑体の中に中にある遺伝子の組成に着目した分類体系の採用ということらしい。かつて、葉緑体は独立した生物だったものが植物の中に後から取り込まれたと考えられており、比較的簡単なこの遺伝情報を比べると、植物に取り込まれてからの時間がわかると仮定して、植物の進化の道筋をこの仮定のもとに整理したのがAGP分類体系だ。ところがこれを採用したことで、これまでの分類体系が大きく変わってしまったことが少々の混乱をもたらそうとしているような気がしている。
これまでの植物の分類は形の違いで区別していた。これは人間がなにかを分ける場合の必然だと言ってよい。そして、全部の植物を並べた上で、近いものを同じ科や同じ属に、そして形態の似たものをある仮説の上で並べて、分類の体系とした。いわゆるエングラーやその分類を再検討したグロンキストといった人の作った分類体系が図鑑にも採用されていて有名である。まあ、ドイツ人医師だったシーボルトが日本植物誌を作った昔から、植物の研究者は形態に着目して植物を分類してきている。また、つい最近まで、目新しい植物を収集する職業も存在した。大航海時代のイギリスではプラントハンターと呼ばれる人たちが全世界の珍しい植物を持ち帰った。そのコレクションは王立のキュー植物園というものまで作り上げたし、もちろん、アジサイやツツジなどの日本の植物を欧州に紹介したシーボルトもまたプラントハンターだと言ってよいだろう。
初めて発見した植物には発見した人間の名前が学名に添えられることから、多くの植物学者が「新しい」植物を発見しようとやっきになった。日本でも多くの独自の学名をつけている牧野富太郎博士などは日本のプラントハンターだと言ってもよい。一時は小さな形態の違いに着目して皆が名前を付けまくったものだから、新植物だらけになった時代もあった。今ではもう少し整理されて、植物の種類も減ったが、学者によって植物の数が変わるのも実はそんな理由がある。残念ながら、分類は個人の研究者の見解が十分に反映されたものなのである。
一般的に植物の種類が違うかどうかを分けるポイントはこんな感じだと思っている。
(1)形が違っている
ただし、形の違いは0か、1かと言った感じではなく、ある程度の中間領域を残したものだから言い切るのは難しい。
(2)遺伝子が違う
DNAの配列がある程度わかるようになって、遺伝を司るこの遺伝子を比べれば、一目瞭然のように感じられたこともあったが、実際問題は各個体ごとに遺伝子は細かく違っている。どの違いまでが「同じ」でどの違いからが「違う」のかの線引きは実は難しい。
(3)生殖できるかどうか
受精できるかどうかは同じかどうかを調べる重要なポイントだ。しかし、完全に違う形態の植物であってもそれらを掛け合わせられることは、長い園芸品種の品種改良の歴史の中では知られてきたことだ。しかも、受精せずに単位繁殖する植物もあって、生殖できること、受精できることが種を分ける境であるわけではないらしい。
(4)生活の仕方が違う
生育地が違ったり、生活環が違うことは大きな分類ポイントにはなりそうだが、実際には大きくかけ離れた場所に同じ植物が生えているということが多く報告されている。生育地の違いで形態に差が生じると言うこともある。アキノキリンソウやイワカガミのように標高によって形態を変える植物、しかも連続的に変わる場合、異なると考えることは難しい。
(5)成分が違う
化学的な組成が違う場合には異なると考えてもいいようにも思えるが、生育条件によっても変化する特性も多く、これも確証には欠ける。
結局、どれといっても確定的な条件はなく、「同じ」か「違う」かは複数の条件から複合的に判断するしかないのである。残念ながら、現状では遺伝子といえども確証にはならない。
葉緑体の遺伝子も、よく考えると異なる道筋で似たような形になっていることも考えられ、このような「他人のそら似」が果たしてどの程度、排除できているのか疑問でもある。すべての植物が残っておらず、変化のところどころに大きな欠落した穴のある状況では最新のAGP㈽とはいえ、「仮説」の枠は抜け出すものではない。しかも、種レベルの種類の特定がいまでも昔ながらの形態の差を重視するのではダブルスタンダードではないか?という感じもする。
さて、時期はサクラの花が咲き乱れる4月。
しかし、その「サクラ」と呼んでいる植物の正式な名前をご存じだろうか? 今から30年前、信州伊那谷の河岸段丘上に生息する赤い花びらの桜を追いかけたことがある。カスミザクラという種類の桜のはずだったが、普通は白い花びらなのにそれらは赤く、たぶんエゾヤマザクラという高山性の桜との雑種のようだったが結果は出ていない。もうすぐ5月になるとそいつらが咲き始める。実はいがいと「種」というのはややこしいものなのである。
話をする猫
車はセダンに限る、とあれだけ言っていたK氏がワゴン車で現れた。
それも、ファミリータイプのSV車などではなく、荷物を運ぶための効率だけを考えたようなワゴン車だった。それだけで、ああこの人はもう自分が知っているK氏ではないのだと僕は思った。そして、車から降りてきたK氏の、以前とはまったく変わらない少し斜に構えた出で立ちを見て、その印象は強い確信へと変わった。
よく見なければわからない程度の薄い迷彩柄のパンツと、ビジネス仕様に見えるワイシャツも実は襟が二枚重ねてあるという懲りようだ。十数年前に初めて出会ったときにも、こんなふうにシンプルに見えて、実はややこしい出で立ちをしていたことを思い出す。
その当時、K氏はこう言っていたのだ。
「車は実用と違う。趣味や。そやから、自分の好みの車を選んで乗るんや。それがどんな車でもかまへんねん。けどな、自分の好みの車に乗られへんのなら、もう車なんて乗ったらあかんねん」
遠縁のおじさんから譲り受けた古い茶色のクラウンに乗っていた僕に向かって、中古の塗装の剥げかけたシトロエンに乗っていたK氏はそう言った。
K氏は一角の人物になり損ねた男だった。中堅の商社で中間管理職にまでなったのに、優柔不断な立ち居振る舞いで自分に関係のない権力争いのスケープゴートにされてしまった。四十代の半ばで退職を余儀なくされたのはそのためだ。それからというもの、それなりの才能とそれなりの状況判断の良さが災いして、どこで誰と仕事をしてもうまくいかなかった。
そして、それなりの才能とそれなりの状況判断の良さが功を奏して、どの仕事も中途半端に終わってしまってはいたが、徹底的に食いっぱぐれることもなかった。そうやって綱渡りのように五十代の終わりまでやってきたのである。僕がK氏に初めて会ったのは彼が四十代の半ば、ちょうど商社を追われてしばらくした頃だった。K氏が商社の中間管理職として面識のあった取引先の男を引っ張り込んで、いわばフリーランスの仲介業のような仕事を始めた頃だったと思う。もうバブル景気から時間が経ち、失われた十年などと言われ始めていたが、景気の動向に敏感な人たちはITバブルの予兆に浮き足立っていた。まだ、ほとんどの日本人が長かったバブル景気破綻の底なし沼からもうすぐ脱出できる、と本気で信じていた幸せな時代だった。
金が動くと人は笑顔になる。不思議なものだ。そして、K氏も金が動く予兆に敏感だった。金が動き出すとK氏が動き出し笑顔になる。しかし、いつもK氏は初動に失敗して、最後の最後、目の前の大金を逃してしまうのだった。
バブル景気の頃、K氏はまだ勤め人だったが、空前の好景気到来を予測して、沖縄にリゾート施設建設を会社に提言した。最初は乗り気でなかった会社も、K氏の熱心なプレゼンと、額に汗しながら数多くの協賛企業を集めてきた努力を認めて、ゴーサインを出したのである。しかし、計画がスタートした途端に、事業をともに進めていた建設会社の計画の甘さが露呈した。あちらでほころび、そのほころびをこちらで補填し、補填のツケを向こうで補った。そうこうしているうちに、計画の遅れは一年になり二年になった。結局、K氏が提言した沖縄リゾート計画は、完成したとほぼ同時にバブル崩壊の憂き目にあい、ほとんどの資金を回収できないまま売りに出されることになった。K氏のやることは一事が万事だった。
僕がK氏と初めて知り合ったとき、僕はまだ三十になったばかりだった。ちょうど一回り年齢が上のK氏はとても頼もしく見えた。そして、何よりも仕事を楽しんでいるように見えた。だからこそ、「どうせばたばた働くんやったら、おもろい仕事のほうがええやん」というK氏の言葉に乗ってしまったのだった。
K氏が僕に持ちかけてきた仕事は、大失敗した沖縄リゾート計画を数万倍小規模にした話だった。
「わが大阪が誇る有名建築家を招聘して、いまだ大阪市内に残る古くさい長屋のあるエリアをネオ長屋として再生するんや」
どこかで聞いたことのある話だと、どうして気づかなかったのか、と、今でこそ思う。しかし、当時は画期的な話だと思ってしまったのだった。僕は一も二もなく「手伝います」と手を挙げ、K氏に翻弄される日々の幕開けを自ら宣言してしまった。もちろん、K氏はわが大阪が誇る有名建築家ともまだ知り合いではなかったし、再生する長屋エリアというのも、どこかの雑誌で聞きかじってきた話でしかなかった。
僕がK氏と一緒に動き回っていたのは一年に満たない時間でしかなかった。最終的にはなにも形にできず、時間もお金も失ってしまったけれど、あの一年間はとても楽しかった。最後の最後に大喧嘩をしてK氏のもとを去った僕だが、三十代の最初に、K氏のようないい加減な山師と仕事をしたことは、いい経験になったと今になって思う。
一緒に仕事をしていた頃、というよりもK氏の使いっぱしりのように毎日を過ごしていた頃、こんなことがあった。
ある会社の社長と面談していた時のことだ。ネオ長屋計画への融資を頼んでいたのだが、融資を渋る社長にK氏はこう言ったのだった。
「わかりました。結局は、自分の会社がよかったらいいんですね。僕らが地域のためを考えて動き回っている。社長はそのことを笑ろてはるんです」
そんなことを言われて、相手の社長も黙ってはいられない。
「なにを言うてるんや。君らのことを笑ろたりはしてないがな」
横で見ていて、僕はキツネに摘まれたようだった。自分たちの計画に説得力がないだけなのに、自分たちのつたなさを相手が笑っているという妙な話にすり替えている。しかも、そう話しているK氏がどう見ても本気としか思えないまっすぐな視線で訴えると、相手は最後の「笑ろてはるんです」という部分にだけ反応してしまうのだ。僕はK氏と一緒にいる一年ほどの間に、そんな場面に何度か遭遇した。
K氏は人たらしだった。
何人がK氏にたらされてしまったか。しかし、不思議なことにK氏の人たらしは続かないのだ。長くても一年。短ければ数週間のうちに、相手はK氏のことを罵倒し始める。最初に信じれば信じた分だけ罵倒の言葉は激しくなり数が増える。
ネオ長屋計画も元々誰かがとっくに手を着けていたものだし、その規模からいってK氏の手に負えるものではなかった。こうして、K氏の企てはことごとく崩壊していく。
ただ、これだけは言っておきたいのだが、K氏は底の浅い人たらしではあるが、人をだますつもりはこれっぽっちもないのだ。真剣に考え、真剣に動き、真剣に人をたらし、真剣に風呂敷を広げて、その回収に失敗する。
僕がK氏から離れたのは、ネオ長屋計画の少し後だった。計画崩壊後、K氏から「ギャラが払えないかもしれない」と言うことは聞いていた。かもしれない、ではなく確実に払えないということも僕にはわかっていたが、それでもいいと思っていた。僕はこの計画のために動いてはいたけれど、それは書類を作ったりアポを取ったり、書記をしたり、書類を申請したりしただけだった。計画のどこにも僕の名前は残されていなかった。つまり、責任をとる必要はないのである。
責任をとらなくてもいいのなら、K氏がどのようにこの計画崩壊のあと行動するのか、見てやろうという気になったのだ。
K氏の行動は僕の想像を遙かに越えて浅はかだった。K氏は馬鹿正直に自分を罵倒する人たちに電話をかけ、さらに罵倒の言葉を引きだし、奇跡的に面会の約束がとれた相手と会い、時には殴られる寸前まで相手を怒らせた。なにも、怒らせる言葉を吐いているつもりはないのだが、怒っている相手に真剣に、丁寧に謝ると言うことは、ときに、さらに相手を怒らせることになるのだ、ということを僕は初めて知った。
この人には情がないのだと僕は思った。行動力もあり、それなりに洞察力もあるのだが、自分を信頼してくれた人に対しても、効率でものを考えてしまうのだ。そうなると、K氏が車に対してもっている信条と彼の行動の軸が違っているような気がしてきたのだが、その理由はやがて解けた。
K氏が付き合っていた女性がいた。K氏よりも七つ年下だったので当時三十代の前半だったと思うのだが、毅然としていて押しの強い人だった。ナナミさんとK氏は呼んでいたが、それが名字なのか下の名前なのかは知らない。そのナナミさんがK氏の代わりに僕を迎えに来てくれたことがあった。「難波の駅前のロータリーのとこにおってくれるか。あと三十分で迎えに行くから」とK氏に言われて待っていたのだが、現れたのはナナミさんだった。
K氏が乗り回していた古いシトロエンはナナミさんの車だったらしく、運転しながらナナミさんはシトロエンの運転席にある妙なボタンについておもしろおかしく説明してくれた。そして、K氏が待っている喫茶店の近くまで来たときに、K氏が僕に言ったことと同じ言葉を投げかけてきたのである。
「車って乗る人の趣味がわかっちゃうから、大切に選んだほうがええと思うの」
同じことを言っているのに、ナナミさんの言葉は僕の気持ちの奥の方に優しく落ちてきた。そして、その言葉の持ち主がK氏ではなくナナミさんなのだということがわかってしまったのである。
「そうですね。このシトロエンはナナミさんに似合うてます」
僕はそう言ってしまってから、とても生意気なことを言った気がして黙り込んでしまった。ナナミさんはそんな僕を見て笑っていた。やがて、車が喫茶店の前に到着して、ナナミさんは車をとめた。僕が降りようとすると、ナナミさんは呼び止めてこう言った。
「ねえ、あの人に言うといてくれる。この車、もう貸さへんからって」
僕が振り返ると、さっきよりも大きな笑顔をナナミさんは見せていた。
「けど、車がなかったらK氏は困るんとちゃいますか」
僕がそう言うと、ナナミさんは、うーん、と言ったまましばらく黙った。そして、顔を上げた。
「でもね、なんぼ乗っててもあの人、この車に似合わへんねんもん。そんな人に乗られてたら、車がかわいそうやわ」
「そうですね」
僕が答えると、ナナミさんは手を振ってアクセルを踏むのだった。
僕はそのまま喫茶店には入らずに、地下鉄の駅まで歩いて自分のマンションに帰った。そして、その日のうちに荷物をまとめ、K氏からもらったままになっていた僅かな報酬で、東京へと引っ越したのだった。
あれから十数年たって、僕は以前、K氏が勤めていたのと同じような中堅の総合商社で仕事をしていた。中途採用でもいいよ、と言ってくれた社長のもとでそれこそ真面目にこつこつと仕事をしてきた。K氏を反面教師のようにして僕は仕事をしていた。今の会社の社長は、手堅く仕事をまとめていく僕をきちんと評価してくれている。
僕は注意深く、K氏のように大風呂敷を広げないようにして、K氏のように必要以上に人から期待されることがないようにできる限り冷静に仕事を進めていく。そうすることで、相手の期待を裏切って罵倒されるような状況を避けてきたのだ。そして、何よりもK氏のようにならないために、相手の気持ちを真っ先に考えて仕事を進めてきた。
この仕事が好きか嫌いかと聞かれたら、答えは好きだと思う。しかし、これが唯一なのかと聞かれると正直、気持ちは揺れてしまう。逆に、K氏はきっと商社マンのような仕事が大好きだったんだろうな、と思う。情もなく、人から罵倒されても仕事が続けられるのは、きっと仕事が好きだ、という一点突破しかないと思うからだ。それなのに、大好きな仕事から、いつも「嫌いだ」と宣言されてしまうような結末になるのはなぜなんだろう、と僕はときどきK氏を思い出していた。そして、最近になって、ああ、それでも仕事が続けられるように、K氏には情がないのか、と思うようになったのだった。
インターネットは苦手だった。それでも、今の世の中で仕事をする上でまったく使わないという訳にはいかない。会社の中にも情報ネットワーク部門という課ができた。コンピュータネットワークを保守管理するだけではなく、若い社員を使って、社内のネットリテラシーを向上させるのだと言う。社員一人一人がメールアドレスを持っているだけで充分だと思うのだが、SNSでアカウントを持つようにと促された。いまのネットで多くの人たちが何をしているのか、自分たちの目で見てほしい、ということだった。
僕はなんとなく抵抗してきたSNSのアカウントを業務命令で持つことになった。そこはとてもお節介な世界で、システムが「これがあなたに向いている」と勝手にショッピングサイトに誘導する。「この人はあなたの知り合いに違いない」と写真とプロフィールを見せつけてくる。その数多くの写真の中に、僕はK氏を見つけたのだった。
僕がK氏を見つけたということは、K氏も僕を見つけたということで、その日のうちにK氏からSNSの友だち申請が来た。なんとなく小さな小石を腹の中に置かれる気分で、承諾のボタンをクリックする。これで、十数年の時を越えて、僕とK氏はSNS上では「友だち」である。それだけでも、僕にとってはかなり激動の数日間だった。仕事をしながら、勝手にK氏のことを良くも悪くも反面教師として時折思い出す、という穏やかな日々を手に入れるまでには僕だってそれなりに時間を必要としたのだ。それがたった数日で、K氏がネットを介して具体的な存在として再び僕の前に現れたのである。
翌日、僕はデスクのPCの電源を入れた。いつものように、その日の業務計画書の項目に記入していると、昨日インストールしたばかりのSNSの通知ボタンが点滅している。クリックするとK氏の写真とコメントが現れた。
「申請の承認ありがとうございます。久しぶりですね。急ですが今日、東京へ行く用事があるのですが久しぶりに会いませんか」
僕はコメントに目を通しながら、K氏の声色まで思い出してしまう。そして、返事を保留したままで昼食を食べ、午後からの営業途中にコーヒーショップで休憩しながら、携帯電話でもう一度K氏からの通知を眺めた。そして、今なら昔話のようにあのころのことを話せるのではないかと思うようになったのである。
とは言いながら、今日の予定を承諾するには夕方近くになっている。今日の夕食を食べるくらいならいい。それも、夜中にまではなりたくない。
「親族の法要の準備で、午後十一時くらいには赤羽に行かなくてはなりません。午後十時くらいまでなら時間があります」
僕はK氏にコメントを返した。携帯をポケットにしまうまでに、返信があった。
ギリギリまで話せるように、とK氏は言い出して、赤羽の駅の近くで僕たちは待ち合わせをした。配送の仕事でもしているかのような、飾り気のないワゴン車でK氏は現れた。服装は以前と同じように地味そうで派手な、いかにもK氏らしいものだった。
二時間ほど僕たちは一緒にいたのだが、ずっとK氏が話続けていた。以前は、K氏がひとしきりはなすと、「君はどう思てるの?」と僕の返事を促し、その返事の内容がどうであれそのまま持論を展開して、その持論がひとしきり終わると、再び僕に「君はどう思てるの?」と聞く、ということの繰り返しだった。
しかし、十数年ぶりにあったK氏はずっと一人で話続けていた。僕に問いかけることもなく、僕の返事を待つこともなく、ずっと一人で話続けた。僕は途中からK氏が何をはなしているのかわからなくなった。最初は以前一緒にしていた仕事の話だった。だいぶ、仕事の規模が大きくなっていたし、失敗したことよりもうまくいった部分が華美に飾りたてられていたけれど、K氏は概ね事実に裏付けられた思い出を語り続けた。途中からK氏の話は僕が去ってからの話になり、そこでは僕が想像もしえなかった成功があり、明るく希望に満ちた人物たちが登場して、みんながK氏を慕い尊敬し従っていた。
しかし、そんな話をするK氏の瞳はとろんとしていて、明らかに正常ではなかった。僕はおそらく知らず知らずの間に、痛々しい視線を投げかけていたのかもしれない。僕が気が付くと、K氏は黙って僕を見つめていた。
いつ頃からK氏が僕を見つめていたのか。口を閉ざして黙り込んでいたのか。僕にはわからなかった。しかし、だいぶ長い間、僕はK氏を呆然と眺め、K氏は黙りこくりながら僕を見つめていたのだろう。
騒がしい居酒屋の中がしんと静まりかえったような気がした。背中を冷たい汗が流れた。K氏が小さく口を開いた。何を言われるのか、僕は一度瞬きをしてから、意を決したようにK氏を見つめ直した。K氏は少し微笑みをたたえた唇をわずかに動かして言葉を発した。
「うちの猫は言葉を話すんだよ」
K氏はそう言って、テーブルの上の食べ残しの料理に視線を落とした。そして、そのまま一言も話さなくなってしまった。
僕は返事をすることもできず、K氏と同じようにテーブルに視線を落とした。僕たちのテーブルがしんと静まりかえるのと同時に、隣のテーブルの話し声が大きくなり、僕たちを包んだ。中年の男が一人とその部下らしき男女三人ほどが身振り手振りを交えて話し込んでいる。一人だけいる女が、私は猫なの、と言う。いや、お前はどちらかと言うと犬だよ、と男たちが言う。だって、恋人ができても尻尾を振ったりしないもん、と女はふてくされたように口をとがらせる。その様子を見ながら、いちばん年下らしき男が、猫は自分のことをそんなふうに主張しないと思うよ、と言うとその場は大きな笑いに包まれた。
そんな会話を聞きながら、ふと視線をK氏にあげると、K氏は唇を噛みしめていた。僕はいたたまれなくなって、隣のテーブルの女を見た。女は大きな口を開けて笑いながら、次の話題を待ちかまえているのだった。(了)
緋寒桜のひよどり
窓のむこうの緋寒桜が
鮮やかなコートをはおって
枝を広げる三月
見れば その奥でさわさわと
空へ飛び立とうとするユキヤナギ
曇天に鳥の声がくぐもり
それを 不整脈が追いかける
毛羽立つ五度目の春に
血液ポンプも悲鳴をあげて
汚染水を処理しかねているのだろうか
昨日みた夢に
めったに音沙汰のない兄が出てきた
二年前の雪解けに逝った
母もぼんやり姿をあらわし
記憶の底に縮む父の影も動き出して
わたしが生まれる半世紀前から
先住人を見えない存在にして
開拓された村の地をはう視線と
掘り尽くされて
すでに閉山した炭鉱の荒くれと
兄と妹がこの世に生まれ出ずる
きっかけとなった大正生まれの親たちの
敗戦後の心の散らかりと
そんなもろもろを牽引した北の歴史
などと手持ちの札をあれこれ整え
脈絡を立てるために
奮闘努力の日がくれる
悲嘆も歓喜も抗いも
思い切りぶちまける斬新な文化の
批判とひたむきさが
破綻した物語の穴かがりは
思いのほか手間どり
耳にした記憶の断片に爪を立て
植民史のかさぶたを剥ぐ作業となって
およそ死者たちをハグするところへ
たどりつけない
それでも
ひよどりがやってきて
今日も緋寒桜の枝を揺する
風が揺するのではなく
鳥が揺する枝を目にすると
なぜか心がやすらぐのだ
鳥啼き魚の目に涙があふれるなんて
思いもよらない北の外地をうろつく心は
寒風が残雪の肌をなでる
薄汚れた白と黒と暗褐色の異界のさなかで
巣を守るシマフクロウの影と
二年前に逝った母の姿が重なり
目の前を行き交う
メトロポリスの春にたどりつけない
それでも
やよい三月の空に
ひよどりが訪れて
悲観桜の枝を揺すると
またやってきたからといって
春を恨んだりはしない
例年のように自分の義務を
果たしているからといって
春を責めたりはしない
というシンボルスカの「眺めとの別れ」
も思い出され
ひよどりが揺する
大きな枝のその揺れが
この胸のざわめきを解毒して
ひよどりが啼く
今日も ひよどりが啼く
手は型を崩しながら動く
楽器に触れる手が動いて響きの跡を残す 手が空中に描く線がすぎていくだけでなく その痕跡が響きの形として区切られるほどの長さになれば 音のかたまりがまずあって 時の経つにつれて変化していくようにも感じられるだろう 偶然に触れた位置や空間が記憶に残るのは 動きの痕跡が身体の上に動きや方向として あるいは感触としてしばらくは感じられるからかもしれない
眼がさめてからしばらくじっとしていると 外の音が聞こえる それとは別に 輪郭の定まらない音のイメージになって身体の上を行ったり来たりしている 動きがしずまって 形が一瞬見えるときがあれば それを記憶にとどめようとはするものの しばらく後で書いておこうと思っても もう形が薄れている
三味線を習っていた頃 『旋律型研究』(町田佳声)や『大薩摩四十八手』を研究したことがあった 17世紀のバロック音楽でもmusica poeticaといわれた音の絵(figura)があった テクストの内容を音の動きで伝える型あるいは手があるから 音楽は聴き手とあまり離れないところにあったのだろう
音楽が個性的表現や 抽象構成とみなされるようになると 音型のレトリックは表面から消えていった それでも意味が感じられる音の動きには 型や手に似たものがある 文化や歴史に裏打ちされた音のパターンが共感を呼ぶのかもしれない
20世紀後半の音楽の最先端は1950年代の音列技法の全面化から1960年代にミニマリズムに移った 知的で複雑な抽象構造は 単純なパターンを反復しながら すこしずつ細部変化をつみかさねるスタイルに変わった そこで作曲は 全体像と素材になる音響の組合せのあいだを理論やシステムをたよりに往復する知的作業ではなく 最初に決めたパターンを反復しながら細部を取り替えていくコントロールの持続力に力点が移る 反復できるようなパターンは 伝統的な型と似ている部分があったとしても 具体的な身体運動や象徴的な意味を打ち消すような動きをそこに付け加えて 持続し蓄積する以外の方向や特徴をもたないように処理した抽象図形が好ましいと言ってもよい
作品からプロセスへの変化は あまり時間をおかないうちに ミニマリズムのエネルギーを使いつくしてしまった ミニマリズムのパターン反復は アフリカや東南アジアの伝統音楽のように 即興を含む参加のプロセスではない 地域社会の生活のなかの役割を 芸能を通じて確認するものでもない 手や音の動きを数量で置き換える省略法を使って 旧植民地文化から採ったパターンを囲い込み 音楽市場に個人様式として流通させると パターンのなかに潜む可能性をじゅうぶんに発展させる前にトレンドとして消費してしまう という事情もあったのではないか
定石のパターンから文化的・歴史的意味を剥ぎとって抽象化するのではなく バロック期や江戸時代の音楽のレトリックを参照しても 当時使われたパターンではなく いま身体運動的イメージ図式として使えるようなパターンを即興で作り その音の動きを分析して構造を割り出し 組み合わせた構成を考えるのではなく 別なパターンと出会うたびに次の一歩を踏み外し そこから予測しなかった動きが生まれるのを見逃さないようにして 続けていく それが作曲・演奏・即興と分かれている音楽創造の作業を一つにする 音楽家のしごとの日々の あるすごしかたでもあるだろう
手は経験をつむと 踏み外すこともできるようになる 動けばそこにある形は崩れるが 形が崩れると それにしばられず動けるようになり それとともに形の痕跡は 色褪せながら予想外の余韻を残していくのかもしれない