しもた屋之噺(90)

杉山洋一

1年前のある冬の朝、庭のタイルの上に凍えて息絶えていた黒い鳥を、庭の端に穴を掘って、そっと埋めたことがあります。先月、ミラノを訪れていた母から、蔦の絡むレンガの壁づたいの、ほら、あそこの繫みに可愛らしい黒い鳥の巣がある、と指差され、春の到来で忙しく行きかう番いの鳥をながめて過ごしていましたが、あるとき気がつくと、昨年、円らな目を見開いて、すっかり堅くなっていた小さな黒い鳥を埋めたのは、まぎれもなく、その巣の真下でした。

今や、その巣から、羽根も生えそろわない幼鳥たちが、連れ立って庭の芝へ降り立っては、頼りなく整列しながら何か啄ばんでいるのか、ただそぞろ歩きをしているのか。いずれにせよ、愛くるしい光景に思わず頬がゆるみます。単なる偶然かも知れないけれど、万が一にも偶然だけではなかったかも知れない。ドヴォルザークの「野鳩」をふと思い出しましたが、庭でチュルリン、チュルリンと呼び交わしあうオレンジ色の嘴の黒い小鳥は、ずっと無邪気なものです。

4歳になった息子が、この処、すっかり絵を描くことに夢中で、寝てもさめても絵を描いていることもあって、来週日本に戻る前にと、子供と家人と連れ立って、ドゥオーモ脇の王宮美術館でやっている「モネと日本」展と「イタリア未来派」展にでかけてきました。

自分が勉強しているドビュッシーのイメージを具体的につかみたくて、直にモネを見たかったのですが、まるで自分が読んでいるスコアのように感じられるのにはびっくりしました。叩きつけるような強い筆致から、小刻みに震えるオーケストラから立ち昇る和音、イメージ、色。近視眼的というより、むしろ、題材から視点を離し、俯瞰するように描く風景は、北斎や広重の影響を指摘されても、あらためて納得できる気もしましたし、香気とでも呼べばよいのか、湧き上がるような光の奥で、おそらく本人以外見えず、聴こえない領域で、実にしっかりと、そして生き生きと作品が息づいていることに圧倒されます。

二人を印象派で括る先入観は、殆ど意味を成さないでしょうし、本人たちも喜ばないとは思います。ただ、イタリアに住んで、イタリア的な触感で音や絵画と暮らしていると、音響や光によって、「超2次元的」に題材を扱う姿勢は、文字通りフランス文化以外の何ものでもないとおもいます。「超2次元」というのは、一見2次元の平面的、静的な捉え方をしているようで、その実、内部でとても激しいドラマが沸きあがっている、とでも説明すればいいのでしょうか。さもなくば、表面がその香気でコーティングされているとでも言えばよいのか。

イタリアは、絵画、音楽、料理、すべて、フランスの洗練された表面の香気からほど遠い文化であって、情念は情念のまま表現し、題材、素材をそのまま生かし、直情的なほどに表現します。そんな国に住んで、直情的に日々を過ごしていると、余計、モネやドビュッシーに圧倒されるのでしょう。同じオペラであっても、バレエもふんだんに取り入れた豪華絢爛なグランドオペラと、ヴェルディのオペラを比べてみれば、明らかです。

驚くほど美味で、はっとする彩りのソースを掛けられたフランス料理と、ただ肉を叩き、塩と胡椒をふって焼いただけのイタリア料理。どちらにもそれぞれロマンとドラマがあるのは言うまでもありません。ただ、驚くほど違うわけです。和音ひとつをとってみても、機能和声の輪郭を崩し、ぼかし、和音を積みかさねて旋法に溶かし込んでしまったフランス印象派の時代に(カセルラは例外としても)、レスピーギやブゾーニは、バッハやフレスコバルディの古典をどこからか発掘してきては、ダンヌンツィオのように士気昂揚すべく大仰な衣を着せ(一切和音には手を加えず!)、まるでミラノ中央駅のように無骨で巨大な、オクターブばかりのピアノ作品へ編曲していたのですから。

細密にわたりびっしり、しかし静的に書き込まれた無数の光、素っ気ないほど突き放した色気のない速度表示、偏執狂的に固執した対比率と、几帳面なほど正確な数字。ドビュッシーの楽譜は、そのまま、絵画のようにすら見えます。額縁にきちんと収められて書かれた絵画は、ひとたび音が鳴り出すと、めくるめく瞬間が、うず高くそそり立ったかとおもいきや、洪水のよろしく一気に外へ溢れ出てゆきます。

モネのあのなんとも言えない空の色。水の色。薄く澄んだ紫、くすんだ水色やくぐもった桃色。フランス料理のソースを思わせる美しく香る中間色は、フランス印象派の影響をつよく受けたはずの、イタリア未来派の画家たちでさえ、一切見られません。光線そのものがイタリアとフランスでは少し違うのかもしれない。そんなことすら頭を過ぎるほどです。

尤も、愚息が興奮していたのは、モネ展よりむしろその後に出かけたイタリア未来派展の方で、とりわけバッラが1916年に製作したディアギレフのバレー「花火」のための「発光する舞台装置」のところで、ストラヴィンスキの音とバッラの組合せにすっかり夢中になり、どれだけ長い時間釘付けになっていたことか。あそこで息子は踊りだしたかったに違いありませんが、流石に恥ずかしかったのか、座ってじっと舞台を眺めてくれて、こちらも安堵しました。

モネと未来派を立て続けに訪ね、フランスとイタリアの文化の相違を如実に実感したのも愉快な経験で、どんなキッチュを企んだとて、所詮イタリアはミケランジェリやダヴィンチを生んだとんでもない国であり、ルネッサンスが花咲いた国であり、それを否定すれば否定するほど、そこが浮上って見えてしまう、と妙な感心をしました。アナーキーだった筈の未来派が、結局ルーチョ・フォンターナを生み出すまでに至り、その後のイタリアを決定づけたのですから、振り返れば、実に偉大な20世紀の文化運動だったことに気がつきますし、あれだけ充実した未来派の展覧会を実現させた企画者の心意気に、揺ぎ無い誇りが感じられます。

さて、来週から久しぶりの東京です。桐朋のみなさんとどれだけ楽しく過ごせるか、今からとても愉しみにしています!もちろん、味とめの納豆ピザを忘れる筈はありませんから、どうぞご心配ありませんように。

(5月18日 ミラノにて)

メキシコ便り(21)新型インフルエンザ、その後

金野広美

4月の末、メキシコから始まった新型インフルエンザの世界大流行でしたが、ここメキシコではあのことはまるでうそだったかのように、すっかり沈静化して、日常生活がもどっています。いまではマスク姿もほとんどなく、食べ物を売る店の人も申し訳程度のあごマスクです。私も5月の中旬くらいまでは、日本から友人が心配して送ってくれたマスクをしていましたが、今ではなんだか「私はインフルエンザにかかっています」と宣伝しているみたいで肩身がせまく、そのうちバッグに入れて外出することも忘れるようになってしまいました。

メキシコで4月23日、最初に発表された死者数68人も時間がたつにつれて減り、また増えと情報は錯綜しましたが、この数字はメキシコの検体能力が当初はなく、はっきりと新型インフルエンザとわからなかった人もすべて含まれてしまっていたためでした。持病をかかえていた人も多く、その中の半数近くは超肥満の人だった、とかいわれています。メキシコにはとても太っている人がたくさんいます。100キロ越しているのはざらで、日本の肥満とはスケールが違います。食事は脂っこいものを大量に食べ、大好きなおやつはコーラとポテトチップスです。これで太らないはずはなく、ゆさゆさと巨体を揺らしながら歩いています。それでいてテレビは、やせ薬やダイエットマシンのCM花盛りなんですよ。なんともせつないことです。

衝撃が世界中をかけめぐってから、私の学校では5月はじめには日本人が大半いなくなりました。私はもちろん帰国しなかったのですが、メキシコから世界へと感染が広がるなか、今では帰国しなかった私の判断は正しかった、と友人や家族からお褒め?の言葉をもらいました。
私は帰国をみんなから勧められたとき、3つの理由をあげ、帰国しない旨を伝えました。この事件がはじめてメキシコで起こり、日本人の友人たちが、次々帰国するといってきたとき、「帰るところがある人はええわなー。どこにも逃げるところがないメキシコ人はどないしたらええんやー」と密かに心の中で思ったのが1番の理由でした。そして2番目はこの事件はメキシコから始まったのだから、そのあと世界に広がっていくでしょうが、1番初めに収束するのもメキシコからだと思いました。そして今、まさにその通りになりました。3番目は日本に帰ったら機内検査で4、5時間拘束されるということでしたし、おまけに最初の感染を疑われた女性に対する人権蹂躙とも思われる対応ぶりを知って、帰りたくないと強く感じたことなどでした。

足早に帰国した友人たちは、帰ったことを後悔している人も多くいます。ある女子学生は帰国に関して学校側は彼女の判断に任すといってくれたにもかかわらず、彼女のお母さんが1日に5回も泣きながら、少しでも早く帰るようにと電話をしてきました。彼女はこのまま勉強を続けたかったにもかかわらず、お母さんを説得しきれず、泣く泣く帰国していきました。そして日本に帰ったら今度は復帰した日本の大学が休校になり、ふんだりけったりの目にあったのでした。

そして別の友人ですが、彼女とは帰国の前日会いました。やはり彼女も帰国したくなかったにもかかわらず、お母さんに懇願され帰ることになりました。帰国してから10日間はホテルに泊まるよういわれたのですが、日本円がないので、お母さんが空港までもってきてくれることになりました。そのときお母さんは「マスクをして封筒に入れたお金を、おはしで渡すから」といわれたそうです。彼女はすごいショックをうけ、すっかり落ち込んで泣きそうになっていました。それはそうですよね。まだ感染しているとわかったわけではないのに、実の娘をバイキン扱いするのですから、彼女が落ち込むのは当たり前です。私は彼女に「お母さんをここまでおかしくさせているのは日本の報道やろうから、決してお母さんを恨んだらあかんで、ほとぼりがさめたら、きっと元のお母さんに戻らはると思うで」と声をかけることしかできませんでした。

私は日本の新型インフルエンザに関する報道はネットでしか見ることができませんでしたが、彼女たちの家族の反応ぶりをみると、その過剰ぶりが十分想像できました。日本にいる家族がここまでヒステリックになり、冷静さを失くしてしまうような報道内容だったのではないかと思います。この間のメキシコの実態とはかけ離れた報道といい、こんなときだからこそ、最も必要であるべきはずの冷静さを失わせてしまうような報道といい、私は今、ノーテンキすぎるメキシコにいながら日本を思い危機感をつのらせています。それは、もし、これから対応の仕方いかんによっては戦争につながってしまいそうなことが起こった時、相当ヤバイことになるのではないかという気がしてしまうからです。

緑鉛鉱理論――翠の石筍56

藤井貞和

亜鉛鉱の、閃きを、
左右に通す、
巻いた管のかたちの、
ぼくの疲れを、
蒼鉛のえんぴつで、
けずり落とす翠。
このときを、
越えられるならと、
つくえをならべた、
ぼくの誘惑で、
さらに滞る書き物の未来。
緑鉛鉱理論を、
眼の未開に置いてきた過去は語る、
お休み、すこしね、
ねずみがキスするぼくの頬、
翠。

(「ぼく」という代名詞で書いて見ました。「わたし」に置き換えると、べつの作品になるのがおもしろい。「わたしの疲れ」「わたしの誘惑」「ねずみがキスするわたしの頬」。代名詞言語理論の一部。緑鉛鉱はPyromorphite。)

街の記憶

大野晋

街の中のなにげない風景にもさまざまなものが写り込む。多くの写真作家がその写り込む何かを求めて、街の中のさまざまな様子を写真に写し撮ろうと街を歩く。

新宿のペンタックスフォーラムへ片岡義男「撮る人の東京」というタイトルの写真展に出かける。東京写真月間というイベントの一環らしいが会場に飾られた街の断片が東京という街の一面を映し出していて、撮影者の視点を感じて面白い。渋谷や新宿と言った常に新しく生まれ変わる町がある一方で、東京には時代に取り残された街角が街の記憶のように残っている。

写真展を一通り見て、会場のあるセンタービルの地下から地上に出ると、高層ビルと夕闇の空の今の東京が迫ってきた。目の錯覚を起こしそうな歪んだ新しいビルのある風景を見ていると、東京の別の面が見えてくる。

さて、写真展と写真展と同時に出版された写真集を見ていて、ふと、あることに気が付いた。写真展を見るとその最後に提示されたカレーライスが食べたくなってくる。もっと困ったことに、写真集を見ていると要所要所に配置された写真からオムライスがしきりと食べたくなる。もしかすると、深層心理に働きかけるサブミナル効果があるのかもしれないと思ってしまった。残念というか、新宿にはそこのオムライスが食べたくなるような店を知らなかったのが幸いだったのだが。

ちなみに、何度か書いた夜の街の記憶をナイトハイク・イン・マツモトと題して仮展示中です。東京の昼間の景色と地方都市の夜の風景。何かしら近いものがあるように感じられてならない。
PENTAXアルバム:ナイトハイク・イン・マツモト

間奏曲:シコとカエターノ

三橋圭介

シコ・ブアルキとカエターノ・ヴェローゾ、80年代には「シコとカエターノ」というテレビ番組で共演し、現在では互いの音楽、芸術活動を認め合っている仲間だ。しかしブラジル・ポピュラー音楽の巨匠ともいえるこの二人には過去に因縁めいた話がある。

カエターノは「トロピカリア」の中心人物としてアメリカやイギリスのロックをブラジルにもたらしたが、ボサ・ノヴァを通して新しいサンバを生み出したシコにとって「トロピカリア」は即座に批判すべき対象ではなかったにせよ、二人にはある時期たしかに溝があった。

前回取りあげた1966年に行われたTVへコールの第2回歌謡音楽祭のエントリー前に、シコはライバルでもあるジルやカエターノに2曲きいてもらい、どちらの曲がいいか判断をあおいでいる。ジルは未完の「A Banda」を選び、カエターノは「Morena dos Olhos D’Agua」を選んだ(カエターノは後にこの曲を歌っている)。結局、「A Banda」で優勝し、シコは若くして大スターにのし上がっていく。

その次の音楽祭はカエターノの年だった。ロックバンドを引き連れた「Alegria Alegria」で第4位となるが(シコが「Roda Vida」で第3位)、大ヒットし、一躍時の人となる。「新境地を切り開く若者のリーダー」など新聞社がこぞって褒め称えた。レコードは10万枚を売り上げ、時のアイドルとして、その人気はビートルズ・マニアを彷彿とさせるほどだった。

シコの「A Banda」は老若男女問わず万人に認められた。一方、カエターノは若者の人気者となった。この違いをカエターノは後に分析している。「彼は『Alegria Alegria』がリリースされる前の年、悲しい道をバンドが通り過ぎていくノスタルジックな、オールド・ファッションの『A Banda』で音楽祭に優勝した〜コカコーラを含む20世紀の生活を扱い(歌詞参照)、ロックバンドでやった『Alegria Alegria』は、シコの歌とは対極を示している」。「『A Banda』は、確実にシコのマイナーな作品だが、彼にとって扉を開くのに役に立った〜だが、その歌は彼にできる作曲の洗練というものをほとんど反映していない」。

    Alegria Alegria(アレグリア・アレグリア)

風に向かって歩く
ハンカチなしで 書類もなしで
もはや12月の太陽の光の中を
僕は行く
太陽は罪を配分する
広大な寺院 ゲリラ戦 美しいカルディナーレたちの中を
僕は行く
大統領の顔、恋人たちの激しいキス、歯、足、旗、
爆弾とブリジット・バルドーの間を
新聞スタンドの光は、喜びと退屈で僕をいっぱいにする。
だれがこんなにに多くのニュースを読むというのか
僕は行く
写真と名声を横切って
いろんな色の目 空っぽの愛でいっぱいの胸を通過して
僕は行く
どうしていけないの? 何がだめなの?
彼女は結婚のことを考える
僕は一度も学校へ行っていない
ハンカチなしで 書類もなしで 僕は行く
僕はコカコーラを飲む
彼女は結婚のことを考える
ある歌が僕を慰める
僕は行く
写真と名前を横切って
本をもたず 銃ももたず
空腹もなく 電話もなく
ブラジルの中心を僕は行く
彼女には決してわかるまい テレビで僕が歌うと考えたことを
太陽はあまりに美しい
僕は行く ハンカチなしで 書類もなしで
ボケットにも、手にも決してもたない
生きながら後を追っていきたい、ねえ君、
僕は行く どうしてそれがだめなの? 
(ベアトリス訳)

これがカエターノのだいたいの意見だが、まだ続きがある。カエターノにとっての「Alegria Alegria」もシコの「A Banda」と同じ役割しかなかった。つまり扉を開くこと。「『Alegria Alegria』が音楽祭のなかでマルシャであったという事実、それはアンチ・バンダ(反『A Banda』)であり、もう一つの名前のバンダ(ロック・バンド)でもあった」。歌詞の内容の類似を含め、共にオールド・ファッションであると述べている。「Alegria Alegria」は「A Banda」の「一種のパロディ」だった。

カエターノがこの話を切り出すきっかけは、当時、二人の間にライバル関係が問いただされていたことから始まっている。同じ時期に二人のスターが生まれ、一方は伝統を更新し、もう一方はロックという形をとる。しかしそうではない。どちらも同じものの言い換えにすぎない。ただ、メディアはそのようには見なかった。

ある時、カエターノがシコについてどう思うかをきかれたとき、新聞には次のように掲載された。「シコは緑色の目をもつ若く美しい男でしかない」。当然、その前後を削除して批判的な部分を切り抜いた。この前には「僕は大きな髪の若者で、シコは緑色の目をもつ若く美しい男」とあった。掲載された記事についてカエターノはシコに説明をしなかったし、あまり心配もしていなかった」。しかし、これがきっかけとなり、特にシコの支援者から批判を浴びることになる。

カエターノの支援者よりもシコの支援者ほうが圧倒的な大多数だった。1968年6月6日、シコが前年まで所属していたサンパウロ大学建築学部都市計画学科の学生によって企画されたトロピカリスタたちへのバッシングは、そうした意味合いがあったと思われるし、トロピカリアの論争がシコとカエターノの関わりからその規模を増したということもできるかもしれない。

サカジャウェアたち

くぼたのぞみ

文字をしらない
はなさんは
学校をしらない
はなさんは
誕生日をしらない
はなさんは
生まれは新潟
米どころ──でも
父も母もしらない
はなさんは
オレゴンのサカジャウェアさながら
やさぐれ者の手に渡り
流れながれた開拓地では
おさないころから朝起き
煮炊きをおぼえ──さらに
たんと知らされたろうか
ひとつのことを

地中ふかく人の手がのび
黒い燃える石を掘るため
「まっくら」の世界に
あつまってきた男や女の群れのなかで
黒煙くゆる
赤平の、歌志内の、文殊の
ずらりとならぶ長屋また長屋で
その目に写っていても──たぶん

見えなかったか
ピンネシリは
はなさんに
見えてはいけなかったか
熊笹のかげの
サカジャウェア
たち

製本、かい摘みましては(51)

四釜裕子

東京製本倶楽部の「紙の技、本の技」(2009.4/29-5/6 目黒区美術館)展で、2日午後にアトリエ・ド・クレの岡本幸治さんが中世西欧の製本法を実演くださった。様式は大きく分けて3つ、カロリング、ロマネスク、ゴシック製本、いずれも穴をあけた木の板を表紙とするが、綴じの支持体をどう板に通すかが違う。羊皮紙に書写したものを折りたたんでいた時代だから、最低限厚い板でしっかりおさえる必要があった。そして本は横に置いていたので「ちり」はなく、ヘリンボーンのように編み上げられた「はなぎれ」の外側には引き出すときに指でおさえやすいように大きな革がつけてある。

3種類の見本が並べられ、人だかりの中で幸治さんが手を動かしている。用意された表紙用の板は5ミリ厚くらいだったろうか。はがきとして使用できる素材もさまざまな板が市販されており、幸治さんはそれを活用しているという。材料は特別なものではないし針の運びもシンプルだ。すぐにもやってみたいと思うが、あの板の厚みの「面」にむかって斜めに小さな穴をあけるなんていうのは絶対にできそうにない。でも、やってみたい。「穴のあいた板を売ってもらえないでしょうか。」安易な私の質問に幸治さんは絶句した。ごもっとも。そんなつもりはないはずである。お恥ずかしい――でも思う、穴のあいた板があったなら。

アトリエ・アルドの市田文子さんは「歴史的製本講座」としてリンクステッチによるコプト製本や中世の製本などを行うワークショップも行っており、ウェブサイトからその内容の一部を見ることができる。インキュナブラの展示や図録に製本法の解説を読みつつ、製本の研究と試作も重ねてこられた幸治さんや市田さんのような製本家の活動を知る機会を与えられている現代は、なんてうれしくありがたいことだろう。時代に揃う材料で、求められる本のかたちのために工夫を凝らしたよりよいものが、その時代を象徴する製本法となってきたのだ。今を象徴する製本の技術といえばPUR接着剤無線綴じになるだろう。機械製本の話であったが、接着剤の改良で手製本でも丈夫にできる。美篶堂のワークショップで作った無線綴じのノートなどは時間が経ってもやわらかによく開く。無線綴じ!とむやみに嫌うことではない。製本というひとつの大きな森の中でのできごとなのだ。

梅雨だけど雨が降りません

仲宗根浩

先月、ノート型のパソコンのハードディスクを貧相な40GBから120GBに交換。もう一台のパソコンもOSの入れ換えなどしていたらバックアップの住所録のデータが飛ぶ。まあ、今年来た年賀状と今までのメール見てまた入力すればいい。たいした数でもないし。いま、テラバイトのハードディスクが一万円を切る価格になっている。でもそんなにあっても使いやしない。

五月は七年ぶりにチケットを買い、二日間、山下達郎のコンサートに行く。七年前、小学校一年生で連れていったガキはもう中学二年生になった。どうしても行きたい、という。ついに部活を早退しやがった。いい根性してる。今回は見事なロックンロール・ショーだった。二日目、一曲おまけで演奏曲が増えたことをあとで知ると悔しがっていた。二日目は離れ小島に合宿に行っていたから当然行けない。「ロックンロールはパッションさえ失なわければ懐メロになりません。」こんな言葉を聴いたコンサートから家に戻ると四十年前に作った曲を懐メロにしなかった稀代のロックンローラーが死んだニュースがテレビで流れた。最初に聴いたのは「僕の好きな先生」。小学生の頃、兄のパシリで「新譜ジャーナル」「ヤング・ギター」をよく買いに行かされた。三人組はその編成からフォーク
にカテゴライズされていた。だから「ステップ」を歌う姿がテレビに出たときはびっくりした。こんなになっちゃったんだ。しばらくするとどこの学校の文化祭でも「雨上がりの夜空に」をコピーするバンドが異様に増えた。数日間はテレビの決まりきった映像、コメントに辟易する。

「愛し合っているかい」
オーティス・レディングが映画「モンタレー・ポップ・フェスティバル」で”I’ve Been Loving You Too Long”を歌う前に観客に語りかける。DVDの字幕では「みんな、愛し合っているよね。」と訳されていた。

ラフィー・タフィーの映像を見たミーハーはギターとベースのアンプ、真空管は手が出せないので同じ”ORANGE”の小さな練習用のものにした。

梅雨に入ったが雨は二日くらい降っただろうか。涼しく、すごしやすい天気が続いている。クーラーはいまだ稼働せず。めずらしく奥さんがカーペンターズのCDが欲しい、という。最近出たベスト盤だった。新しくリマスタリングされ初めて高音質と言われているSHMーCDというのを買った。十数年前、四、五枚購入したものと全然違う。デジタルの世界はおそろしい。格段によくなったのはドラムの音、逆に多重コーラスは分離が良すぎて厚みが無くなっている。”Close To You”のコーラスがわたしはとても好きで10CCのあの変態ループコーラス大活躍の”I’m Not In Love”と同じくらい好きなんだけど、う〜ん。でもなんで日本盤はミュージシャン、エンジニアのクレジットはちゃんと掲載しないんだろ。

ひとりの午後、やっと落ち着いてチャック・ベリーのCDを大音響で聴く、といっても自分にとっては大音響ではないが、他家族三名にとってはうるさいらしいから、ひとりのときにしかある程度の音は出せない。真っ昼間、聴いていると、どうせ今日は車に乗る用事もない。呑みはじめる。しばらくするとつまみが欲しくなる。実家からもらった島らっきょをいくつか取り出し、土をはらい、水洗いし、根を手でちぎり薄皮をむき、塩で軽く揉む。削り節を加える。他に何かないか冷蔵庫をのぞくと容器に入った豆腐四分の一丁。容器にたまった水分を全部捨て、塩で揉んだらっきょを豆腐が入った容器に入れ、スプーンで豆腐をつぶしながららっきょと混ぜる。少しのごま油と醤油を加える。わりとうまい。すこし幸せな気分になる。ごま油はえらい。

新しい眼鏡ができた。遠近両用。文庫本の活字が見える。CDジャケットのクレジットも見える。でも、目を動かすとぼやける。ちゃんと遠くを見るようにするためにはしっかり正面を向いて見ないといけない。活字を読むときは少し顎をあげてと。乱視も強くなっているみたいなのでそれも矯正してもらった。慣れるまで時間がかかりそう。

田んぼプロジェクト

冨岡三智

アジア5カ国が1つの大きな包括的なテーマの下に、それぞれの国で行っているプロジェクトというのがあって、私も参加している。参加者の構成は、大きく分けて学者、芸術家、活動家(NPO関係者やジャーナリスト)といったところ。日本サイトで開催されるのは今年の9月で、その一環として「田んぼプロジェクト」がある。要は、日本サイトからのメッセージを込めて、アジア各国からの参加者全員で稲刈りをするのだ。通常の国際会議のように、サイト訪問だけで終わりにするのではなくて、テーマとサイトと参加者を結びつける仕掛けとして、この「田んぼプロジェクト」は位置づけられている。

けれど、フィナーレで稲刈りをしようと思うと、春から田起こしして、田植えして、草取りして…という段取りをしておかないといけない。当然それは日本サイトの、田んぼに関してはど素人のワーキングメンバーの双肩にかかっている。しかも、それをなるべく手作業で、無農薬でやろうという。田舎者の私としては、「田んぼプロジェクト」という発想自体に対して、都会人の幻想みたいなものを感じ取っていたのも事実なのだけれど、田んぼをすること自体に対しては、素直に魅力や郷愁を感じていた。

メンバーがローテーションでサイトに行くから、私がサイト(滋賀)に行ったのは、4月29日〜5月1日の田起こしと、その後の草取りに日帰りで2回である。先月「水牛」に寄稿できなかったのは、このインターネットや携帯電話が通じない地域に田起こしに行っていたからなのだ。(そもそも、そんな所に行くまでに書きあげられなかったのだけれど)

私がごく幼い頃は、まだ手で田植えをしていた。すぐに田植え機に取って替わられたが、私の世代が農作業の機械化への変化を知っている最後の世代になるのだろう。四角い木枠に桟を何列か張ったもの(ちょうど紙を貼っていない障子のようなもの)を泥の田に置いて、稲を順に並べて植えていく。そして木枠内に全部植えたら、後ずさりして、その木枠をバッタンと手前に反して、また植えていく。こうやっていくと、稲が縦横まっすぐに植わる。それが子供心にやってみたくて、隣家の農家のおじさんに頼んで、少しだけやらせてもらったことを覚えている。

今回のプロジェクトでは、ローテーションの都合で、ハイライトの田植えには参加しなかったが、手植え用の木枠の修理をした。その形が私の記憶にあるような四角い枠ではなくて、6面体の形をしていて驚く。この6面体の側面に等間隔に桟が渡してあって、それをコロコロと手前に転がしながら、植えていくらしい。同じ田植えでも地域によってやり方に違いがあるものだと、初めて気がついた。

その2週間後に今度は草取りに行って、田車(たぐるま)なるものを見て、また驚く。等間隔に植えた稲の間をゴロゴロと押して歩き、まあいえば伸びてきた草を引っこ抜く道具である。こんな道具は見たことがない。そう思ってよくよく考えていたのだが、それは、私が小さいときにはすでに農薬を使っていたからだろう。田植え直後はおたまじゃくしを取って遊んでいたのに、ある年、田んぼのおたまじゃくしが集団で死んでいる光景を見て、子供心にショックを受けたことを覚えている。あれは農薬を撒いたからに違いなかった。だから田車なんかいらなかったのだ。

田んぼを見ていると、そんな昔のことが思い出されてくる。ここ滋賀では私はよそ者なのに、水田風景を見ていると、まるでここが自分の故郷のような、原体験を取り戻しているような気がしてくる。それはジャワの水田風景を見ているときにも感じたことだ。自分自身、本当は農業に何の貢献ができるわけでもないのに。

田んぼに入ると、泥に足をとられて動くのが大変だ。なかなか足が引っこ抜けないのは、耕し足りず、酸素が十分に廻っていない状態だと教えてもらう。いわば真空パック状態になるのだ。そんな中、いちおう舞踊家の端くれとして、全身を使って疲労が偏らずに動いてみよう、腰をゆわさないようにしてみよう、というチャレンジをしていた。鍬や田車を使うのはほとんど初めての経験だとしても、全身の筋肉を使えば、あまり疲労は偏らないはずなのだ。そう意識したせいか、腰や腰はあまり疲れなかったが、今まで意識したことのない部位の筋肉が疲れてしまい、なんとなく全身に疲労が残った。

ジャワに限らず他の地域でも、宮廷舞踊というものは、王族にしろお抱え舞踊家にしろ、まあ農作業などしたこともないような人、箸より重い物は持ったことのないような人が踊る。そういう人たちが自分の舞踊表現を深めようと思ったら、ふつうは瞑想するとか夜中に水垢離するとかといった修行をする。けれどそういう修行は、日常生活であまり動かない人が必要とするだけじゃないか、という気が最近している。ほんとうはこんな田んぼ作業の中にでも、体を意識化するヒントがいっぱいあるのだ。

瞑想するとか田んぼをするとかという方法論が問題なのではなくて、いかに動きを意識化するか、ということが問題なのだ。けれど、年々歳々同じ農作業の繰り返し、毎週草取りに追われる生活だったとしたら、やはり動きを意識化するというのは難しいかもしれない。その代わり、効率よい動きが無意識化されるのだろうけれど。だが、そうなってしまったら、舞踊としては成立しにくいのかもしれない。そんな風に考えるのも、やはり一種の都会人の幻想なのかも知れないと思いつつ、田んぼプロジェクトを楽しんでいる。

オトメンと指を差されて(12)

大久保ゆう

男の子の夢というと、ある種、荒唐無稽なところがなきにしもあらずなのですが、オトメンはどちらかというと普通の男の子よりも現実的な人たちですので、その夢は壮大でありながらどこか実現可能性を残しているようなものになりがちです(たぶん)。

たとえば私の夢で行くと、いわゆる旅人系なのですが(わかりやすい!)、「世界じゅうのいろんな国を歩いて、そこで見つけた本を持ち帰って翻訳する」というやつです。

翻訳家の使命というと色々の人が様々にしゃべっていたりするのですが、私としては「つながっていないところをつなげる」というのが翻訳者の役割だと思っております。世界じゅうにはまだまだつながっていないところがたくさんあり、そして翻訳されたがっている未発見の本が無数にあると思うのです。もちろん翻訳というのは、何かを解釈し、理解し、それを自分の身体でもう一度語り直すという行為であるわけですが、translationと言葉の語義通り、単純にどこかからどこかへ運んでくる行為だって翻訳の一部で。

そこで自分の足で世界じゅうを歩き回って、そういう本を見つけては、日本語に翻訳できればこれほどいいことはないなあ、と考えています。それにこれまでの経験上(あるいは理論上)、何語でも頑張れば翻訳できないことはないとわかってきたので、言葉に関する障壁はさほどないですし。

そうすると、その夢を実現するために必要なのは……とすぐ思いをめぐらすのですが、

1.旅費を確保すること
まず世界じゅうを旅するのでお金はいるでしょう。いくらバックパッカー風の旅をするにしても、先立つものは要ります。もうバブルの時代でもないのでそんな酔狂なことに出資してくれるところもないでしょうから、一年に数カ国くらい回れるくらい収入に余裕ができてきたらすぐにでも始められるかも。

 2.その本の出版に力を貸してくれそうな人と仲良くなること
少なくともその翻訳書はビジネスとして出版されるはずなので、私本人にも目利きとしての力だったり相手を説得する能力だったりも必要なのですが、そもそも本として出してくれるところがないとダメですよね。出発する前にそういうことに興味を持ってくれそうな人が知り合いに多ければ多いほど実現へ近づくかも。

 3.あるいは翻訳家として有名になること
これは「つなげる出口」という意味で大事で、誰々の訳す本だったらよくわからないけど読んでみよう、と思ってくれる読者がいてくれることはけして悪いことではないのだと思います。村上春樹さんや柴田元幸さんの翻訳史における重要性っていうのは、単に能力や質の問題だけではなく、そういうところにもあるわけですし。

 4.そのほかにも
もちろんそれだけの日程的余裕を確保するためには、会社勤めの人間では無理。フリーランスでなければしんどいだろうし、なおかつフリーランスの翻訳家として活動するためには……

……などと冷静に考えつつ、今の自分までレールを引っ張って、そこへたどり着くまでのステップを明確なヴィジョンとしてあらかじめ描いてしまいます。さらにそこに困難なところがあれば、常に現実的に遂行可能な程度までに修正する、と。

でも、夢だといいつつもそれが全部自分の欲望から出たものかというとそれもまた違って、ほら、「楽しい世界」とか「平和な世界」とか、世界がそういうものであればいいなとはいつも思っていて、そのために自分ができること(やって面白そうなこと)を考えたときに、そのいちばん大きなところへ向かいたいな、とは思うんです。

なので、青空文庫で作品を入力・校正するときも、クリエイティブコモンズライセンスで翻訳するときも、こういうものがここにあればもっと楽しかったり平和になったりするんじゃないか、というところがそれなりに念頭にあります。それでなおかつ自分も楽しかったらいいよね、みたいな。それでその規模がだんだんと大きくなるような努力は常にしておく、と。

だからこの『水牛(通信)』の始まりの始まり方がとても大好きなんです! と宣言して無理矢理オチをつけてみるなどする(でも嘘じゃないですよ)。

5年ぶりのバスラ

さとうまき

5月3日、日本を出発した。久しぶりにイラクのバスラにいけることになったのだ。「第一回バスラ国際がん学会」に招待されたのだ。とは言うものの、バスラの治安は決してよくなったわけではない。「危ないから今は来ちゃいけない」とローカルスタッフのイブラヒムは警告を発してくれていたが、ドクターたちは、「大丈夫だ。護衛をつけて迎えにいく」という。「でもなあ、人質になって、身代金を請求されたらどうしよう」なかなか判断がつかなかったのだが、ともかくイラクの保健省が招待してくれるというのだ。

5年ぶりにバスラに行くのだからどうしても気分が高まる。あれもしよう、これもしようとリストがあっという間に埋まっていく。とは言うもの、できるだけ目立たないようにと服装などにも気をつかった。そこで、黒いシャツに金糸の唐草模様のはいった赤いネクタイに、スーツといういでたち。「それ、派手じゃないですか?」と同行した日本人から言われるが、実際、学会会場には、同じようなカッコウをしている、イラク人がたくさんいたのには、皆、驚いていたようだ。

我々は、クウェートに前泊して陸路で、バスラ入りした。クウェートとイラクの国境は閉ざされているとの前情報だった。確かに、一般人がこの国境を越えることはないのだが、物資を取引するトラックが列をなして、その運転手のほとんどが、バングラディシュやらインド人やらで、独特の雰囲気をかもし出している。ここはカシミール高原か?

5月、例年ならすでに、太陽の日差しに串刺しにされ、干からびてしまうような季節であるのだが、今年は、実に心地よい。それにしても国境の活気はなんだろう。路上には、市が立っているのか、あるいはごみが捨ててあるのか、区別ができない。汚さはといったら5年前とまったく同じ。

私たちは、イブラヒムが借りてきたBMWに乗り込み、前をパトカー、後ろは病院の車が護衛してくれる。車は猛スピードで、駆け出したが、パトカーは飛ばしすぎて、私たちの視界から一気に消えてしまった。これで、護衛になっているのか。止まって待ていたパトカーになんとか追いつくと、警官が「わりぃ、わりぃ」と申し訳なさそうに、わびた。イラク軍のチェックポイントがいくつもあり、装甲車が配備されている。4日間の滞在中、車を降りて外を歩くことは一切許されなかったので、写した写真は、装甲車ばかり。まさに、戦時下だ。

がん病院を少しだけ訪問することができた。イブラヒムが、サブリーンという目のがんの女の子を連れてきてくれた。とても、面白い絵を描く少女だが、病院に来るお金もないので、奨学金として毎月150ドルを支給している。助かる見込みは薄いといわれ続けたが、何とか4年間闘病生活を続けている。先日はイランへつれて行き放射線治療を受けさせた。4年間、写真やビデオでしか彼女の様子を知ることができなかったが、目の前に立っていた彼女をみると、ジーンときた。生きていることの素晴らしさだ。私は、しばらく言葉を失った。

翌日、学会で、子どもたちが歌うという。残念ながらサブリーンは、まだ体調が万全ではなかったので、会場には姿を見せなかった。大体、イラクの子どもは、音痴が多い。というのも音楽の授業らしきものがあまりないのだと思う。鼻歌程度。わざと1/4音を使ったりするので余計音痴に聞こえるのかもしれない。それで、イブラヒムが、子どもたちに毎日歌を教えているというので、へーと思ったのだ。イブラヒムこそが、音痴なのだ。どうやって教えているのだろう。10人ほどの現在がんが治ったと思われる子どもたちが、会場に現れた。ステージは5時間後だというのに、ロビーで何度も練習をしているのだ。ちゃんと音楽の先生が派遣されていたのである。

    希望のかけら

  この場所から、私たちは言います。
  皆様、ありがとう。
  今日、私たちの希望が、戻ってきました。
  そして、求めていたものが、実現したのです。
  愛と薬で
  治ったのです。
  忍耐と信念で
  私たちは、勝利者として、がんをうちまかしました。

  希望の窓を、私たちは開けたのです。
  未来への足がかりを、私たちは、始めたのです。

  私たちは、歌うのです。最良の希望のために
             新しい世界のために
             幸せな日々のために

  もう、落ち込んだりいらいらしません
  人生の信念の無駄はないのです。
  私たちは希望でいっぱいで、幸せでいっぱい。
  そのことを皆さんに伝えたいのです!

なんとも、子どもたちのステージは、力がいっぱいあふれていたのだ。歌もうまかったし、さぞかし大変な練習だったんだろう。その一方で、助からなかった子どもたちがたくさんいるし、この小さな子どもたちも、いつか再発するかも知れない。でも、よくがんばったなあと。
 
セキュリティのこともあり、五つ星のホテルを期待したが、5年前に泊まったぼろホテルで、5年間もぼろホテルのままだったようだ。バルコニーの扉は壊れて鍵はかからず、砂塵が入ってくる。これで、テロリストが入ってきたらどうするんだ。停電がしょっちゅう。自家発電に切り替わったりすると冷房が効かない。最初、冷房が壊れているのだとおもって、フロントに直しに来るようにお願いした。「わかった、わかった」といっても、まったく直しにこないから、とうとう私も切れて怒鳴ってしまったのだ。「そう、どならないでくれよ。これがイラクなんだから。一時間後に直しに行きますから」。たしかに、これがイラクなんだ。「怒鳴ってもうしわけなかったなあ」と謝ったが、結局、直しには来なかった。これもイラクだ。

私は、学会が終わったら、しばらくバスラを見学しようと、計画を練っていたが、セキュリティを担当しているアメリカのNGOに囚われの身として仲間と一緒の車に乗せられると、今度は軍の装甲車が4台も護衛がつき、完璧に!護られて飛行場まで連れて行かれた。4日間は、まったく自由がなく、息苦しかったし、あれもこれもできなかった。5年前に比べたら、インフラもまったくよくなっていないし、自由もない。これがイラクの日常だ。こんな町には住みたくないという町。それが、バスラだった。それでも、気持ちは高ぶっている。子どもたちが、希望に向けて歩き出したという歌が耳について離れない。

耳の慎ましさ

高橋悠治

子どもの頃ピアノの練習がいやで戸棚の楽譜をみつけてかってに弾いていた曲バルトーク シェーンベルク プロコフィエフ それよりは読んだ本の数行の記述や引用されていた楽譜の断片だが楽譜そのものは手に入らず録音もない想像するしかない音楽の作曲家たちニコライ・ロースラヴェッツ アルトゥール・ルリエ ヨーゼフ・マティアス・ハウアー ベルナルト・ファン・ディーレン その頃はブゾーニ ヴァレーズ ケージもそうだったがまただれかの押入のなかで見つけた楽譜レオ・オルンステイン フェデリーコ・モンポウこんな名前で編み上げた空想の20世紀音楽地図に帰ろうとしながら昨年から今年にかけてフォンテックで録音したブゾーニのソナティネ モンポウの「沈黙の音楽」バルトークの初期の小品コジマ録音から出した石田秀実 戸島美喜夫のピアノ曲集を作りながら考えていたのは1910年代ヨーロッパ音楽の論理は現実とあわなくなって想像力をしばるだけの規則は崩れていったその時は社会が限度を超えて拡大し繁栄そのものが衝突と戦争という自己破壊に向かっていた時期そういう危機の予感と現実化の不安のなかで抑制されていた想像力がはたらきはじめ不安定な足場が逸脱を加速したにはちがいないがそれはまだ過剰に向かっての逸脱にすぎなかったもっと多くもっと速くもっと強くという欲望の増幅にまみれて自分で創りだした混乱に埋もれてゆくかそれがいやならいままでの論理の徹底化をはかる傾向からは自由でなかった

資本主義の世界秩序がふたたびゆるんでいるいまかいま見る音楽の多様性と言っても多様式や折衷ではなく相対主義でもなく異質なものそれぞれのかってなうごきのなかで必要に応じて一時的に関係をつくり協同作業をする統一する理論も方法もなくそのときその場で使えるやりかたでつくる音の出逢いというよりは消える響きについてゆく行く先は見えないここでない場所いまでない時薄闇と薄明かり石田秀実が『気のコスモロジー』(2004)で書いている山水画のなかの曲がりくねった杣道や井上充夫『日本建築の空間』(1971)で回遊式庭園や数寄屋風書院造りについて読み音は音の記憶にすぎないゆえにここにいない人びとを忘れないために音楽がありまたいっしょになにかをすることができる場の空間ここにはまだない社会の夢のためにも音楽はあることを思い出しながら木立に隠された建物が見え隠れするまばらにあちこちを向いてすぎてゆくすこしずつ変わる色合い木漏れ日の道を辿る足の裏でたしかめつつ答えの見つからないまま足の裏で問いかける空間は時間に翻訳され全体は消えて前後のちがいだけが残り直前の位置のちがいだけに付けながら打ち越しに観音開きになることなく転じつづけて残す屈折する動線それ以上の規則のない連句そのままくりかえされることもなくまったく変わることもなくそれでもいったん変わったら二度ともどることはない流れどこからともなく現れどこにも辿り着かずに消えてゆく砂漠の川

全体の展望がある音楽は構成を決めるまでに時間がかかるがその後は途中で考えを変える余裕をあたえず一気に作りあげるのに対して響きについてゆく音楽は入口が決まればそこから回廊のように蔓草のように時間をかけて伸びてゆきなにかに出会うとそれを避けて周囲を回転しながらそのものになじんでゆくすこしつづけては作業を休んでしばらく時間を置いてからもどったときには響きの感触が変わってそこまで持ち続けて来た記憶の惰性が失われ冷めた状態になっているそこから再開すると彩りはむらになり予測とはちがう方向にずれてゆく逸脱と言っても近代のあるいは啓蒙主義のもっていた論理の徹底化や対立や競合の強調によって過剰増幅加速に向かうのではなくわずかなものたちがあいまいに漂う空洞の空白のゆるやかな時間の内側できこえる音そのものではなくその周囲の沈黙ですらなくそこにはないがその彼方に微かな感触を残している不安定な短い波の一瞬の断面実現しなかった可能性の幻は視角によってさまざまに映るにしても協同作業のなかで一歩ごとにそこから眼を離さずにいることがどうしたらできるのだろうとは言え直接見つめることはできないそれは見るものを石に変えるゴルゴンのたとえのように鏡像としてとらえるかいやそれさえできない残像か周辺視のなかにしかない虚像として感じられるもの論理や方法ではなく関数や方程式でもなく分布や密度のように特徴があるものでもない異次元の何かがすぎていった軌跡の余韻の漣を書くことも描くことも指すこともせずにそばだてた耳に悟らせる気配ベンヤミンの歴史の天使は過去の断片をひろいあげる楽園から吹きつける進歩の風は止んでいるもがれた翼はもう拡げられることもなく閉じることもできない谷間に