水槽の 水彩画 届かぬ希望

笹久保伸

  水槽の水彩画

底にある
コンクリートの大木の下!
水槽の奥深くにて
水彩画の舞踏が上演される
金魚

フナ
ヤマメ
イワナ
カジカ
セシウム
手足届かぬ永劫の希望は
64億通り×X
水槽の水彩画
奥深く
もはや
もう
届かぬ光のなかで
遠い昔に生まれた光の残骸をつかまえ
リサイクルしようと試みる錬金術師から
ヤマメとカジカの100万種類の
顕微鏡と望遠鏡を借りて
イワナの書物を読書する
地球を釣る君たち

釣り竿を見て
海老ノ姫は悲鳴をあげながらも
水彩画を描き続ける
その時はもう朝だった

  届かぬ希望

64億×X通りの希望は
出口の見当たらない
四方が密閉された4次元を
亡霊のようにさまよう
その外では
プルトニウムの音楽が流れ
その旋律の中には
幽かに
小さな水風船に入り
宙を舞う
細長い煙突

冷却された
鋼鉄製

冷たい食器
の風景
だけが
いくつかあった

しもた屋之噺(114)

杉山洋一

庭の大木は、5年前に住み始めた頃とは比べ物にならぬほど立派になりました。葉の間を通り抜けてゆく風の音に思わず心がなごみます。六歳になった息子も、毎日この大木を満足そうに眺めてから、教材の付録で送られてきたプチトマトの栽培キットに水をやって、日々の成長ぶりを自慢します。そうして、庭の大木は素敵だが、家が樹や葉に覆われると、きつつきが家に穴を開けるので困る、と少し困った顔で話してくれました。

彼は東京では先月小学校に入学しましたが、ミラノでは最後の園児生活を送っていて、拙宅から幼稚園のあるスカラブリー二広場まで5分ほどの距離を歩きながら、他愛もない話に花が咲きます。

「どうしてお父さんは土日にレッスンをするの」。
[みんな週末が都合いいからさ。昨日いたミーノだってボローニャから来たんだ。ボローニャは遠いんだよ」。
「どうしてミーノはボローニャから来るの」。
「ミーノがボローニャの近くで生まれたからさ」。
「ボローニャの近くで生まれたのは、自分で決めたからなの」。
「自分で自分が生まれるところは決められない気がするけどね。お前がミラノに生まれたとき、自分で決めたわけじゃないだろう」。
「じゃあ、おそらがミーノはボローニャに生まれるように決めたの」。
「そうかもしれないね」。
「おそらには神さまがいるんでしょう」。
「いるかもしれないね」。
「じゃあ、神さまが、ミーノはボローニャに生まれるように決めたの」。
「もしかしたら、そうかもしれない」。
「この間死んじゃったキアラのおばあちゃんも、おそらにのぼっていったんでしょう」。
「ああ、そうだったね」。
「おそらにいって、雲の上でキリストと一緒にいるんでしょう」。
「死んだらみんなおそらにのぼってゆくんでしょう。それで雲の上にいったら、みんな翼が生えるでしょう」。
「そうかもしれない。自分だったら翼はいらないけどね」。
「どうして死んだらおそらにのぼってゆくの」。
「生きているうちに頑張って働いたから、神さまがもう休んでいいよっていうんじゃないのかな」。
「じゃあ、ふわふわの雲のソファーでみんな休んでいるの」。
「そうかもしれないね」。

先日、サンマリノでハイドンのスターバト・マーテルを演奏する機会に恵まれ、その美しさに言葉を失いました。ハイドンは大好きな作曲家ですが、表現力の深さではどの交響曲でもスターバト・マーテルには劣るのではないかと思うほどの圧倒的な美しさで、かけがいのない経験となりました。

実は当初、楽譜を読み始めても、なかなか曲を理解できずに実に苦しい思いをしたのです。ずっと納得がいかず腑に落ちないストレスと、自分が間違いを犯している確信だけが頭にこびりついていて、漸く全てが氷解したのは本番前日の練習直前でした。

譜読みの間も、リハーサル中ひきずっていたフラストレーションのお陰で、答えのヒントが見つかったのでしょうから、今回ばかりは自らの拙さに感謝もしましたが、ほんの少し視点をずらすだけで全く違う鮮やかな世界が目の前に現われることに驚きもし、自らの役の重さを痛感しました。勉強するたびに思うけれども、自分が知りうる唯一の絶対的事象は、自分が何も知らないということだけです。

「スターバト・マーテル」はご存知のとおり、磔刑に処されたキリストの足下で悲嘆に暮れる母をラテン語で綴った宗教曲ですが、「スターバト・マーテル(母が居ました)」は、そのまま「スターバ・マードレ」とイタリア語で読め下せます。このように、このラテン語のテキストは読みやすくイタリア語に逐語訳出来ることもあって、リアリティがより強く感じるのでしょう、時に直截な表現の歌詞につけられた端麗な旋律に当初は戸惑いましたが、歌手や合唱の皆が言葉にこめる思いが音の宇宙を覆いつくすのを目の当たりにしました。

今回こうして手探りながらハイドンを勉強していて、自分がこの165ページの楽譜に救われていることを、何度となく感じました。日本のさまざまな出来事が頭を巡っていて、毎日送られてくるニュースに暗澹となりながら、家族はもちろん、友人や近所の子供たちを思いました。ブラウン管の中で燃え上がる神戸の街を呆然と眺めていた時と同じ、自分は安全な場所で何も出来ない虚脱感は、つい無意識に音楽を否定する思考へ流れそうになります。

演奏会当日は浜岡原発が全て止められて、福島では原発で作業していた男性が急死しました。サンマリノに出掛ける前日は、母の故郷である足柄のお茶からもセシウムが検出されていました。万感を込めて日本の皆さんのために演奏するというのとは凡そ反対で、ただ楽譜を無心で読み、全てを放下して演奏しながら、自分が救われているのを実感しました。だから自分は音楽を否定してはいけないと思ったし、他の誰かにとってもそうであって欲しいと思い、音楽へ感謝の気持ちをどうか演奏者の皆さんと分ち合わせてほしい、とリハーサルの終わりにお願いしました。

独唱で招かれていた、アルトのルチアとテノールのバルダサルの夫婦には、一ヶ月前に女の子が産まれたばかりで、嬉しそうに甲斐甲斐しく乳母車を押すルチアのお母さんが付添っていました。ルネッサンスのマリア像を思わせる美しい卵型の頭と、柔和で憂いを帯びた顔のルチアは、たびたび部屋の隅で微笑みながらお乳を上げていて、はち切れんばかりに張った乳房に赤子を優しく抱えた女性の姿は母性に溢れていて、ヤコポ・ダ・トーディが綴ったと伝えられる「スターバト・マーテル」のテキストと重なる存在でした。

教会のキリストの足元で、彼女が「命ある限り、お前の下で磔刑の苦しみを分ち合わせておくれ」と歌ったとき、言葉に出来ない神々しさに包まれたのは、恐らく演奏者や聴衆誰もが感じていたに違いありません。70分を超える演奏が終わって気がつくと、演奏者や歌手、聴衆がみなさめざめと泣いていて、強靭な音楽の前で、一人ひとりそれぞれの人生が立ち尽くしていました。

(5月25日ミラノにて)

いま聴きたいのは深みのある人の声

大竹昭子

「ことばのポトラック」を思いついたのは震災から一週間後の連休のことだった。渋谷で<サラヴァ東京>を経営する潮田さんに相談したところ、二つ返事でやりましょうといってくれ、すぐに詩人や作家の方々に連絡した。作品を披露するというのではなく、いまみんなと分かちあいたいことばを持ち寄って心を暖めましょう、という気持ちだった。

24時間のうちに十数人が名乗りを上げてくださり、翌日にwebサイトとメーリングリストで告知を流したところ、たちまち予約が埋まり、3月27日に開催した。みんなおなじ思いだったのだ。津波のニュースによって心をさらわれ、原発事故で見えない恐怖に襲われ、すっかり萎縮してしまった心身をなんとか解きほぐしたいと願っていたのである。

当初は1回の予定だった「ことばのポトラック」は、その日、終わってみんなと話しているうちに、一年つづけよう、そして毎回冊子を出そう、というところまで発展してしまった。ことばにたずさわる人間としてやれることはそれしかないという切実な思いだった。

その第2回が6月26日に巡ってくる。初回に武満徹の歌曲を歌ってくれたかのうよしこさんによる「にほんのうた」のソロコンサートである。1回目のときに、詩の朗読会だったら音楽がなくちゃ、と言ってくれたのは管啓次郎さんだった。そうか、なるほど、と思ってかのうさんに出演をお願いした縁でこのコンサートが成った。

かのうさんの声は一度聴いたら耳について離れない声である。歌のうまい人はよくいる。きれいな声の人も多い。だが気になる声の人というのは、そういるものではない。かのうさんはそのひとりだ。アルトの声そのものがドラマを感じさせ、第一声を発するだけで何かがはじまりそうな予感で場を満たしてしまう。マイクなしで届けられる深い響きに心をさらわれる。

ふだんは外国の歌曲を歌うことの多い彼女に、今回は日本語の歌をうたってほしいとリクエストした。いま私たちが欲しているのは、自分のものになりくい外国のことばの歌ではなく、響きにも音にも意味にも長く親しんできた、すぐに心に染み入る日本語で語りかけられる歌だと思う。

これまでの日本歌曲の歌唱は、ことばがよく聞こえなかったり、詩の意味が伝わってこなかったりするものが多かった。もっと別の歌い方ができないものかとかねがね思っていたが、今回は「からたちの花」や「この道」など、だれもが知っている日本歌曲を一オクターブさげて歌ってもらうことにした。低音域に強い彼女にはそれができる。するとどうだろう、「からたちの花」はまるでそこに咲いているように、「この道」はまさに道の情景が浮かんでくるように感じられるのである。人の語りに近い声色の効果だろう。ステージをおりてカフェのフロアで至近距離で歌ってもらう予定である。

水牛レーベルから出ている港大尋さんのCD「声とギター」のなかからも一、二曲歌わせていただくなど、「ことばのポトラック」にふわさしい内容になりそうだ。山田耕筰のころから現代まで、時代は移り変わっても、私たちが人の声に勇気づけられ心を癒されてきたことを、彼女の深い声はきっと証明してくれるはずである。

3月27日の「ことばのポトラック」の模様をu-tubeでご覧になれます。
part 1
http://www.youtube.com/watch?v=hb7dutweUSc
part 2
http://www.youtube.com/watch?v=2FdA-f4vVuA

*予約はサラヴァ東京
http://www.saravah.jp/tokyo/

*第3回は7月3日(日)「ことばの橋をわたって」と題して、日本語と外国語のあいだを行き来している翻訳家、語学教師、在東京の外国人作家など十二名が出演します。

*今後の「ことばのポトラック」の予定についてはwebカタリココ
http://katarikoko.blog40.fc2.com/

犬狼詩集

管啓次郎

  33

火山は火山ごとのむすびめだった
マグマの対流と仮そめの地表をつなぎとめている
そのきわめて空に近い小さな頂へと
これから三人で登っていこう
乾いたクレーターの赤土が
くるぶしを真赤に染める
何の痛みも感じない、この分厚い足裏は
質実剛健な獣たちにまったくひけをとらない
登るうちに小径の傾斜は30°を超える
45°を超え90°を超え魚のようにそりかえる
でもぼくらは落ちない、空はいつも行く手にあって
ただ果てしない宇宙のからくりをのぞきこむだけ
金星を昼の空に見たジェイムズ・クックのように
研ぎすまされた未開の視覚を手に入れたかった
バッキー、ベッキー、走らなくていいんだよ
目ざす頂はすぐそこ、暗いトンネルを抜けたところにある

  34

デューク、この海岸の波は安定している
ロングボードの時代はとっくに過ぎたけれど
そのボードの上を歩いてゆくかつてのスタイルは
いまもその名残を波の上に残している
移植された椰子の林にたくさんの実がなって
実ごとに泣き顔の猿が何かを訴える
汐が香る、水が騒ぐ、プルメリアが香る
はるかな昔と今が蝶番のように合わさる
さあ、勤勉なパドリングで沖まで出ていこう
首が灼けるのもかまわずに海亀の王国へ
イルカの跳躍にまじってシュモクザメの沈黙が
流麗で哲学的な残像をのこしてゆく
そろそろ心を決めてよ、デューク
次の波だ、次の一回性がやってくる
きみだけの波にきみが乗るとき
きみはきみになる

北上川に流されて

さとうまき

太平洋、南三陸の手前に相川というところがあり、小学校の3年生を教えていた先生と話す機会があった。

「3月11日、2時46分。6時間目が終わる直前でした。2日前にも震度5の余震があったから、そんなもんだろうと思ったが、そのあとのゆれがものすごくていつもとは違う。子どもたちが13人向かうように座っていて、私は黒板を背にして立っていたけど、教卓に潜った。子どもたちも机に潜ったが、押さえていないと机が倒れそうだった。子どもたちは泣きだした。怖い、怖いってずーっと泣いているので、「うるさい。黙れ!放送が聞こえない!」と怒鳴ってしまった。放送が聞こえて、「ゆれが収まるまで教室にいてください」と言っていた。ゆれが収まったので校庭にヘルメットをかぶってでた。津波警報が解除されない。地鳴りがひどく、ごーという音が響いている。
そのあいだにも父兄が子どもを引き取りに来たので、どんどん帰らせた。
30人くらいが残ったので、裏山の第二避難所に向かった。ほこらに皆で入って様子を見た。女子はすすり泣いていた。ここにも親がむかえにきたので、最後は20人くらい残った。少し落ち着いたので、海を見ていたら、ものすごい勢いで引きはじめた。肉眼で見ていて、ものすごい勢いで、防波堤の船が動き出した。防波堤に波が覆いかぶさるように越えてきた。「越えてきたね」って言っている間は、まだ余裕があって写真を撮っている人もいた。「越えたね」って言ったあたりから、川の水がものすごい勢いで逆流しだした。高いところから見下ろしていたので迫りくるような感じではなかった。ずいぶん高い波だなあと言っていたら橋に波がのっかって、橋が流されてしまった。え! と言っている間にみしみしという音を立ててそこらへんにあるものが流されてきた。実感がないのですが、洗濯機のように駐車場の車が回りながら飲まれていくのが見えました。
ここにも津波が来るかもしれないというので裏山をみんなで登りました。道がよくわかりませんでしたが、子どもたちを抱きしめたりお尻をおしたりして急斜面を登り、避難所にたどりついたのです。父兄が引き取りに来た子どもたちのことが気になっていました。連絡が取れない。結局、おばあさんに引き取られた女の子が、一人だけ自宅で流されたことが分かりました。遺体はまだ見つかっていません。」

僕は、被害を受けた学校を回って見た。何度か同じ学校を訪ねた。教室にはいろんなものが流れついていた。最初は人気がない廃墟に津波の恐怖を感じ、唖然とするだけだったが、最近では、子どもたちが想い出の品々をとりに来たりしていて、黒板に、メッセージや落書きをしていく。そこで学んでいた子どもたちの息遣いを感じるようになった。

近所に住んでいる老夫婦が穏やかにつぶやいた。
「助けてー、助けてーという声が耳から離れなくって。眠れないんです」
庭には菜の花が植えられていた。
「ここにも津波が来てがれきの山になっていたんですよ」

都市の顔:ソロとジョグジャ

冨岡三智

今回の調査でジャワ島中部の古都ジョグジャカルタ(通称ジョグジャ)に来て、通算滞在日数がそろそろ3カ月になる。過去6年あまり、同じ中部ジャワのもう一方の古都、スラカルタ(通称ソロ)に留学していたのだが、その時にはジョグジャには日帰りで公演を見に来るくらいのことで、ほとんどジョグジャの町については知らなかった。ジョグジャでの勝手も分からず、また食べ物の味もちょっと違っていて、最初の2カ月間はちょっとソロ恋しい気持ちが強かった。やっとジョグジャにもなじめてきたかなあと最近思っている。

それで最近感じているのが、意外にソロとジョグジャは違うということ。といっても、音楽や舞踊の様式についての話ではない。もっと都市の性格が違うのだ。両方ともマタラム王朝が分裂して成立した都市だから、都市としての歴史的な背景はあまり変わらないし、距離も60kmしか離れていない。というわけで、今月は私が感じているソロとジョグジャの違いを書いてみる。

  ●川

実は3月号に書いた「噴火後のムラピ山からカリ・チョデまで-その1-」でも触れているのだが(いつものごとく-その2-がない…)、ジョグジャでは南北の軸が非常に強い。北にムラピ山、南にはインド洋があって、ムラピ山を水源とする川が何本も海にそそいでいる。だから、市内を東西に縦断すると、何本か川を渡ることになるのだが、それがなぜか、自分にとっては新鮮な感じがする。しかも、橋では若い人たち(アベックに限らない)が何人もバイクを止めて川を見ていたりする。夜でもそうだ。ちょっと休憩して川を見るという行為が、ここジョグジャでは暮らしの中にとけこんでいる。

ソロでも川がないことはなくて、町のど真ん中を通っているのもあるが――市役所からパサール・グデ(大市場)の辺りを通るペペ川とか――、日常風景にとけこんでいるという感じではない。ソロを代表するソロ川(ブンガワン・ソロ)は水量も多く川幅も広く、都市ソロの周囲を巡っていて、隣接県との境界を成している。ブンガワン・ソロというのは、都市を貫通する川ではない。ソロの人たちがソロ川と言ったら、たいていはジュルッ公園がある所を指すのだが、そこは、もうソロの端っこである。だからソロの芸大でプンドポを建てて、ちょっと方位に問題があったということでルワタン(魔除けのワヤン)を行ったときに、それに使ったワヤン人形を流したのもここだし、1966年の洪水で、マンクヌガラン王家が他王家から拝領したものの水に浸かってだめになった衣装一式などを丁重にお祓いして流したのも、ここだった。つまり、あの世とこの世(ソロ)との間にあるのがブンガワン・ソロなのである。ソロ川は「ブンガワン・ソロ」の名曲で人口に膾炙していて、人の運命を哲学的に感じさせる川ではあっても、生活を感じさせる川ではないなあという気がする。

それに対してジョグジャのチョデ川というのは、ジョグジャ宮廷の横をかすめるようにして、町のど真ん中を南北に貫通している。川沿いには周辺地域から流入してきた人たちによる不法占拠やら川の汚染問題やらの都市問題が起こってきた地域だった。ロモ・マングンという建築家であり神父である人が先駆者となり、今では多くのNGO団体がその状態を改善すべく、動いている。そんな風に、川沿いは都市住民の生活の場になっている。

ソロでも、前に述べたペペ川沿い(パサール・グデ裏の辺り)は、ほんとうは華人の貧民街なのだが、スハルト政権期に政治的に微妙な問題だった華人系の地域ということもあってか、ジョグジャのように都市問題の表舞台(っていうのも変な表現…)にはなってこなかった。つまり、都市の水辺地域というのは見えない地域だったのだ。

  ●インターナショナル/ジャワ

ジョグジャに来て素朴にも感じたのが、わー、ジャワ人以外が多い、ということだった。今はガジャ・マダ大学のゲストハウスに住んでいるが、大学の内外を問わず、見るからにパプアとかアンボンとか、いわゆる外島(ジャワ以外の島)出身者が多く目につくし、それに外人留学生も多い。この近くにもリアウ出身者やバリ出身者が集まる建物がある。この状況と比べると、ソロは純ジャワ率が高い。ジョグジャの人がそう言うのである。ソロに行くと「ジャワだ〜」という気がする、のだそうだ。そんな風にジョグジャの人に思われているとは、ソロにいる時には全然気づかなかった。ソロはたぶんジョグジャに比べてチナ(華人)率が結構高いと思うのだが、そのチナ系の人たちの顔もジャワ人の顔に馴染んで見えてしまい、外島出身者のように「よそ者」には見えないのが不思議だ。

インドネシア各地から人が来るためか、ジョグジャでは西洋芸術など外来文化の摂取が盛んだ。これは今に始まったことではなく、インドネシア独立以前からである。たとえばソロでは1950年に全国で初めての地域伝統音楽の学校であるコンセルバトリ・カラウィタン(KOKAR,現・国立芸術高校)が設立されているが、ジョグジャでは1950年代初めに西洋音楽を教える学校、ASMI(現・芸術大学に統合)、西洋美術を教える学校、ASRI(現・芸術大学に統合)が設立されている。いまでもジョグジャはジャカルタ、バンドンと並んで現代美術の中心だし、ジャカルタの交響楽団の団員の多くはジョグジャの芸大の卒業生だ。

そんなジョグジャだが、ジョグジャは独立後の現在もいまだに、ジョグジャカルタ宮廷のスルタン(王)が終身知事を、分家のパク・アラム候が終身副知事を務める特別州である。これは先代のスルタンがインドネシア独立に当たって多大な貢献をしたことによる措置だが、昨年になって大統領が独立国家内における旧体制だと批判するようなコメントを不用意にしたので、ジョグジャ市民は過敏に反応し、2月にあった王宮のイスラム行事なんかでも、大統領の発言を批判する政治ビラなんかが配られていた。一見インターナショナルな都市に見えながら、代々ジョグジャに住んできた人たちのマタラム・アイデンティティには強固なものがある。

ある新聞記者の話だが、外来の者に対してオープンなのはソロの方だという。彼女はジョグジャ支局勤務時代にジョグジャ州では居住許可が下りず、中部ジャワ州のスコハルジョ県で許可を取ったのだという。スコハルジョはかつてのソロ王侯領であり、つまりソロ文化圏だ。こっちは簡単に許可が下りたという。ジョグジャはコミュニティの力が強くて新参者が入りにくい、だからテロリストはソロに隠れるのだ、とも彼女は言う。そういえば、バリ島テロ事件以降のテロ事件は、みな、テロリストはソロに潜んでいる。

この話は腑に落ちる。伝統的なガムラン音楽や舞踊の分野でも新しいことに貪欲なのはソロの方だ。ジョグジャやスンダなどの要素をソロ様式の中に取り込んでしまうので、ソロ様式と一言でいってもものすごく幅がある。ジョグジャの方が、ジョグジャ宮廷の古い衣装のスタイル、古い振付、演出などを強固に守ろうとするのだ。それは、逆に西洋や外島の影響がどんどん入ってくるからかもしれない。だからこそ、ことさらマタラムを強調する。さらに王家として、ソロとジョグジャは対等だとはいっても、ジョグジャの方が文化的には分家になる。分裂当時のマタラム王朝の首都、王の称号、さらに王位継承を正統化する舞踊「ブドヨ・クタワン」を継承したのはソロ王家の方だからだ。そして分家の方が、本家よりもことさら正統性を強調し、様式美を作り上げたがるというのも、インドネシアに限らず日本でもありがちなことだ。

ただ、「伝統の現代化」においてソロは強みを発揮するものの、インターナショナル・スタンダードに合ったコンテンポラリという点では、ジョグジャの方が強みがあるように思う。

製本かい摘みましては(70)

四釜裕子

2つ折りした数枚の紙が重ねられている。折山の上下が互い違いに半分ずつ切れていて、破れてしまいそうで頼りない。そっと手に取るが、見た目の印象以上に紙にハリがあって破れることはない。開いてみると、構造は先に書いたより数段複雑。糸や針で綴じているわけではないので、折りを開いてばらばらにしてみる。A2サイズを縦長半分に切った紙が2枚あらわれた。それぞれ観音開きに折られていて、さらに縦に2つ折りされている。まん中の折山に、一方は上半分、他方は下半分だけ切り込みがある。印刷は片面のみ。2枚の紙の2つの切れ込みを組み合わせて折ると、A5判、8ページのもとのかたちの冊子になった。

平出隆さんの「via wwalnuts」叢書である。昨年秋にスタートして、5月の刊行で7冊になった。毎回、表紙カバー替わりともいえる封筒におさめられ、版元に注文すればメール・アートの色濃く切手と宛名シール、そして著者の署名入りで届く。アマゾンでも購入できる。こちらはサインなし、封筒ごとアマゾン仕様に梱包されて届く。今年に入って叢書01の『雷滴 その拾遺』をアマゾンに注文した。40部程度の発行と聞いていたが、アマゾンに載ってるってどういうことか。注文して4日後に自宅に届いたものには「初版第17刷2011年1月18日刊 No.351-370」。1刷は確かに40部、17刷は20部で、手にしたのは通算351から370番目に刷られたいずれかのようである。
表紙カバーこと封筒には、全体の雰囲気からすれば場違いな、でもこの出版行為に不可欠なバーコードシールが貼ってある。封緘紙の役割を与えられ、これがなかなか堂々としていて悪くないなと思わせてしまうところがすごい。よもやこの封筒をペーパーナイフで切り開くひとはなかろうが、シールの左下角には「ここからめくってね」と言わんばかりの▲マークが入れてあり、誘いのとおりに封を開けば、あいた口に表1に刷られたタイトルなどがきれいに顔を出すというしかけ。

版元のウェブサイトには、内容についてのみならず制作についての逸話も多くある。叢書01は17刷から紙の目を本の天地に対して縦目から横目に変え「製造効率が飛躍的に向上し」たこと、インクジェット印刷で問題になるタマリ解消のために途中から「単方向印刷」を採用し、こちらは印刷速度がそれまでより遅くなって「1時間にわずか4枚=2冊分」になったことなど。紙も封筒も良質だが既製品だし、プリンタも高機種ながら家庭用を使っているようだ。少部数でも豪華や繊細に過ぎることなく簡素に美しいのは、継続して制作できるように材料や工程を吟味した結果だろう。刷り部数を限定したりむやみに絶版もせず、極小版元であることに甘えることなく確実に注文に応える、商業出版社の日録なのだ。

しかしながらこうした小さい出版物は置き場所に困ってしまう。鍵付きのガラス書棚に”保存”するつもりはないし、気になるものほど棚の手前に重ねるうちに、いつしかどこかに埋もれている。同じような読者の声がいくつかあったとみえて、10冊まとめて入れる函の制作を予定しているとウェブにあった。本叢書のキャッチフレーズは「Lasting Books――持ちこたえる本」。平出さんがこの言葉に託した思いはわからないが、時代や技術の変化に抗うことなく持ちこたえ方もフレキシブルにいつでも”last”を走っていくワと、悠然とページをはためかせる本のスケルトンが浮かびます。

東天紅コケコッコー

璃葉

青白い雲に、湿った空気。
梅雨に入って、雨の日が続く。

このような天候を見ると、小学生の頃、
近所の野原で出会った、あのニワトリを思い出す。

真っ赤なトサカに、黄金色のツヤツヤした羽毛、
はたきのような、深緑色より暗い尻尾。

niwatori.jpg

奴はある雨の日の夕方、一匹狼ならぬ一匹鶏として
野原で一人遊んでいる私の目の前に現れ、
実家のそばの雑木林で、ひっそりと生き始めた。

養鶏場でも飼育小屋でもなく、林の中で堂々と歩くその姿は
とても凛々しく、少し滑稽で、私だけでなく近所の人達の興味をもひいた。
毎日、朝から夕方まで優雅にそぞろ歩いては餌を探し、
夜は決まった寝床(木)で自分の身体に埋もれるようにして眠る。
その姿を見るのは私の楽しみだった。

誰にも守られず、自由に生きる事を選んだ宿命なのか、
その何ヶ月後かに、野犬に襲われて死んでしまったのだが、
奴が寝床にしていた葉の多い茂った木を見ると、
またそのうちひょっこり姿を現すのではないかと、たまに思う。

味の記憶

大野晋

その店は駅前のごみごみとした路地のそのまた路地にあった。通路が排水溝の蓋の上にしかなかったことを考えると、どうやら以前は商店街の裏側であったらしいことは想像できた。私が先輩に連れて行かれた当時、その店には店名が書かれた看板はなくて、破れた赤提灯が汚い何もかかれていない摺り硝子の扉の脇に吊るされているだけだった。そんな店であったのだが、店を訪れる客はみな、その店の名前を「ねこ」だと知っていた。いや、正しくはどんな字で書くのかは知らなかったから、Nekoであることを知っているだけだったのかもしれない。

仕事が終わると私たちはそんな路地の店の扉をすっと開けながら「空いてる?」とそっと入りたい人数を指で示すのが日課だった。運がよければ人数分の席が確保でき、運が悪ければ「空いてませーん」とおじさんに断られるのが常だった。ただし、入れたとしても、安心できず、焼き鳥の悔いが残っていなかったり、料理が切れていたりすることもざらにあった。そんな日はあっさりと、1本のビールに、いつもあるポテトフライを頼んでさらりと店を出るというのが当時の流儀だった。当時の駅前にはそんな店が何軒かあり、不思議な優先度で選びながら、店から店に飲み歩くと言うのが日課だったように記憶している。いま、駅前は再開発でそんな小汚い感じの店が生き残る余地は皆無になってしまった。大きな駅前ビルに入った小奇麗な店をぶらりと見ながら、私の身の丈にあっていた店がなくなってしまったのが少々物足りなく思えてならなかった。

別のある日、駅から離れた住宅地の中に引っ越している元は駅前にあった洋食屋を訪ねてみた。ここも再開発で閉店する際、小学校の近くでそのうち開店するから、という言葉を聞いていたが、その後、行方不明になっていた店だ。閉店して数ヵ月後、ひょんなことから裏道を歩いていた私は新築の住宅の一階にこの店の看板を見つけてうれしかったのをきのうのように思い出す。この店もあまり商売っ気はなくて、夜の営業は7時前にはとっとと終わってしまうから、なかなか立ち寄れない存在になっている。久々に寄って、いつものように、チキンサラダとマキ(オムライス)を注文する。出てきたチキンライスとは名ばかりのどう見てもチキンソテーのような料理を食べながら、そのガーリックの効いたドレッシングのかかった野菜を食べていたら、やたらと懐かしい気分がした。いつもの、慣れた味が記憶を呼び起こし、緊張した心をリラックスさせてくれる。これが家庭なら、母親の味と言うことになるのだろうし、通い慣れた店ならば常連の楽しみと言うことになるのだろう。

例えば、松本には学生時代から通った店がいくつかあり、春寂寥の歌詞とともにその味を懐かしむことになる。思い起こせばこんな懐かしくなる店がところどころにあり、それを再訪することが旅行の楽しみになっている。ただ、数年に数回しか立ち寄らない店だとしたら、私の味の記憶の旅はあと何回できるのだろうか? だんだんと、そんなことを考えるようになってきている。まあ、その前に、街の移り変わりの中で、消えてしまう店が多いのに、ひとり心を痛めるここ数日である。

オトメンと指を差されて(36)

大久保ゆう

流浪です。放浪なのです。翻訳のできるところを探し求めてあちこちさまようのです。必要なものをすべてつめこんだ鞄を手にして、あるいは背負って、あるときは西へ、あるときは東へ、また別のときには南へ北へ。どこでも翻訳ができるを信条に、ふらりふらり。

……ずっと同じところにいては、どうしても緊張感が切れてしまう! ゆるんでしまう! 集中力だって切れてしまう! 頭をいつも適度に冴えさせるためには、定期的に、自分の居場所を変えねば! そうしなければ翻訳力を保てない! ああ! これは定め! 課せられたる呪いのようなもの! 

私は行く、仕事のできる場所を求めてっ。

。。。

というかまあ、何というかですね、今回は前回のお話の続きなわけなんですけどね、一ヶ月もすると以前のテンションを忘れてしまって、あれっ、どういう話をするつもりなんだっけ、と思いながら書いていたりするのですが、とにかく私、上記のような理由であっちこっちへ行ったりするわけなんですね。

昔からそうなのですが、どうしてもひとところに落ち着けないというか、ふらふらしてしまう性分で、じっとしてると怠けたり鈍ったりするので、動かなくちゃどうしようもなかったりするんです。どうも、気持ち的にも、からだ的にも。で、一応仕事場っていうものがありはするんですが、そこはあくまでもベースキャンプ代わりで、そこから外へ飛び出したりするんです。

とはいえ、ものすごく長距離移動してしまうと、それはそれで時間がもったいないので、普段はかなり狭い範囲をあっちこっちと行ったりするわけでして。よくある行き先は、大学構内です。うちの母校は私鉄で二駅分くらいの広さがあって、なおかつ至る所にそれなりの図書館・図書室があるので、気分によって、あるいは必要なものによって各地を使い分けたりしまして。

たとえばいちばん中央のとうちの学部・大学院のは資料が豊富なので、特殊な辞書・事典類を使いたいときはそこへ行きますし、文学のとこはパソコンなど電源の必要なものが用いやすく、教育には絵本があって、経済は英国近代の政治文化資料、化学のとこは構内でいちばん美味しい学食が近く、ほかにも工学のとこは工業規格があるから暇つぶしに最適で……云々。

そんななかでも落ち着いて快適なのが情報系の図書室で、なぜかいつ行ってもがらがらだし、自然言語処理も扱うところだから辞書もそこそこ充実してて、息抜きになるコンピュータ系の読み物にも事欠かない(私の娯楽としての読書は10進分類だと9以外が圧倒的に多いのです)。特に夏になるともっぱらここです。

もちろん公立の図書館に行ってもいいのですが、最近は持ち込みが禁じられているところも多いので、本を借りたり返したりする以外には行かないことが多いです(それでも借りるのは年間二百冊弱ぐらい)。翻訳をする場所としては不向きなところが多いのですよね。公園とか土手とか、野外もありますが、そのときは校正なり資料読みなり、どちらかというと書くよりも読む方になりまして。

そうやって部屋から部屋へ転々としつつ、全然昼間は在宅してない翻訳家が私なのですが、将来は規模を大きくして裸の大将みたく行く先々で翻訳しながら、かの地で起こった事件を解決し、そそくさと立ち去るや〆切近い原稿をふんだくるための担当編集が追っかけてきたりして「あのひとは××先生なのです」「えええええ」「はっ、ここに残されてるのはまさにその翻訳」「××先生待ってくださ〜い」みたいな、コントが繰り広げられると楽しそうですが、妄想にとどめておくのがいいかしれません。

ちなみにオンサイトといって、派遣社員みたいにある会社へ一定期間通ってやる翻訳もあるのですが、個人的にはあんまり数多くは受けてないです。しかし想像してみるに、こっちの場合も流しの翻訳家みたいな感じで、行く先々の会社でかの地にある問題を解k……(以下略

それはさておき、もちろん仕事場のなかで翻訳をすることもできます、というかあります。ただこのなかでは「椅子に座って机で翻訳する」ということはほとんどなくて、「寝そべって作業する」のが基本っ。ベッドの上にうつぶせになって、顎から胸のあたりにクッションを挟んで、頭の前に紙なり電子機器なりを置いて、ぺけぺけぺけぺけ(おなじみ執筆擬音)。

ちなみにこの原稿もその体勢で書かれているわけで、寝ながら執筆するというのはなかなかリラックスできてよいものがありまして。そもそもこんなことをし始めたのは、どうしても床に伏せざるをえない状況なり、集中力がぱっつんぱっつん勝手に切れていってしまう苦境なりが長期あって、それでもやることやらねばならぬ、ということで編み出されたものなのですが、割合昔からそういう崖っぷちっぽいなかで何かする訓練をつまなきゃしょうがない人生だったので、今となっては慣れたものというか何というか。

しかし疲れているときに、寝そべりながら執筆なんかすると、だんだんほわほわしてきて眠くなってくるというかまさに今そんな感じなので、とにかく今回はこのへんでおやすみなさい。zzZ。

アジアのごはん39 放射能時代の食生活2

森下ヒバリ

政府が福島原発事故の後に決めた食品の「放射能暫定規制値」というものが、どうも信用できない。いまの1キロ当たり放射性セシウムなら500ベクレル以下(野菜・穀類・肉・卵など)という数値が、ほんとうに安全なのかは激しく疑問である。なにせ、これだけ原発や再処理工場がありながら、食品に含まれる放射能に関して、これまで食品衛生法上の規制は実はなかったのである。原子力安全委員会の指標があっただけ。チェルノブイリ事故後にも「輸入食品の暫定規制値」が示されたが、それは当時のICRP(国際放射線防護委員会)の勧告である公衆の1年間の被曝限度量5ミリシーベルトに基づいて計算されたものだった。その後ICRPの勧告は5ミリシーベルトから1ミリシーベルトへ改定された。

今回の事故後の国内の食品の安全基準の算出も、基本はICRPの勧告値からだが、ICRPは3月21日に事故を受けて日本の公衆の年間被曝限度値を緊急的に100〜20ミリシーベルトにゆるめるよう勧告してきた。緊急的に、という但し書きが付いているものの1ミリシーベルトからいきなり100とは・・。大問題となった、子どもの年間被曝限度量の20ミリシーベルトへの引き下げは、この勧告に基づいたものだろう。

なぜこんなめちゃくちゃな値が勧告されるのか。その理由は、値をゆるめないと円滑な経済活動ができないから。このICRPという組織は、じつは国際的に中立でも科学的に中立でもない。アメリカの軍事産業、原子力産業の経済活動を保証するために作られたヒモ付き組織である。年間被曝限度値は、これ以下は安全であるという保障ではなく、これぐらいの被爆で出てくる死亡や病気の数ならリスクとして容認しよう(誰が?)という数値なのだ。経済活動のためなら、ある程度は死んだり病気になっても仕方ない、というのが基本姿勢だ。そして、低被曝による影響は無視されている。こういう、人の安全のために算出されたわけではない被曝限度値をもとに、日本の食物の放射能暫定規制値があるのだから、まったく信用できないわけである。まさに「安全です」ではなく「ただちに健康に影響の出ない」はずのレベルにすぎない。

放射能は人間にとって、安全な量というものはなく、少なければ少ないほどいい。このことはヨーロッパの独立系(政府組織や原子力産業のヒモ付きでない)科学者たちによって作られたECRR(欧州放射線リスク委員会)で明言されている。ちなみにECRRの勧告によると公衆の年間被曝限度値は0.1ミリシーベルト以下。放射能の感受性は、子どもは大人の何倍もあり、女性は男性より高いなどのはっきりした傾向のほかに、個体差がたいへん大きい。同じ土地に住み、同じ物を食べてもわたしはちょっと調子悪いぐらいで過ごせるかもしれないが、あなたはすぐ乳ガンになってしまうかもしれない。また、汚染された食物がある程度流通し続けるであろう現状では、たまたま高濃度に汚染された食べ物が「安全」とされて目の前に届くかもしれない。

いま、政府が保証している安全基準で自分や家族を守ることができるだろうか。いや、政府が保証する食べ物(市場に出回っている食べ物)を何のためらいもなく食べ続けることができるだろうか。福島原発事故の放射能汚染は現在進行形である。チェルノブイリの事故後の旧ソ連・ヨーロッパの広範な汚染、イギリスのセラフィールド再処理工場の事故による海洋汚染などからわたしたちはもっと学ばなくてはならないだろう。

ヒロシマ・ナガサキの経験は、占領軍の機密保持政策のために、そして原子力産業と軍事産業の発展のために封印されてしまった。原子爆弾がふたつも落とされたというのに、日本には食物汚染の影響のデータも、内部被曝・低線量被曝の健康被害のデータもない。だいたい低被曝の存在すら認めてこなかった。軍事産業の妨げになるので、占領軍は「微量な放射線の影響はない」ものにしてしまったからである。

チェルノブイリ事故後、食物汚染がもたらす内部被曝による白血病などのガンやさまざまな健康障害が大きな問題となった。ここから学ぶことは、まず汚染された食べ物は食べない、につきるが、どうしても口に入る可能性はある。できるだけ体の中に放射能を取り込まない工夫が必要になってくる。

ほうれん草、たけのこ、きのこ、山菜、ブルーベリー、ハーブ類、茶葉など放射能を取り込みやすい性質を持つものに注意する。セシウムは表面から3センチ程度の土壌に留まるので、大根やにんじんなどの根菜は皮をむく、根菜の葉っぱの生え際は食べない。牧草や雑草に放射能はたまりやすいので、牛乳も要注意だが、分離すると乳脂肪にはほぼ放射性物質はいかない。ので、バターやクリームはかなり安心といえる。

またふだんから、セシウムを身体に取り込みにくくするために、カリウム不足に注意を払うこと。セシウムはカリウムに似た性質を持っていて、ナトリウム過剰な身体だと、セシウムが取り込まれやすい。特にナトリウムの多いジャンクフードや外食中心の食生活を改める必要がある。

カリウムが多いのはアボカド、干しぶどう、りんご、トマト、バナナ、海草、青い野菜、ジャガイモ、ブロッコリー、カリフラワー、納豆、大豆、ひじきなどなど。新鮮な野菜とフルーツを取ること。とくに果物に多く含まれるペクチンはベラルーシでは放射能排出剤として活用されているほどなので、子どもはりんごやかんきつ類を食べるのがよい。ドライフルーツもいい。ジュースには残念ながらペクチンがほとんど含まれない。

海の魚についてはどうだろうか。海への放射能の流出は、北から南に流れる親潮によって南下し、銚子沖で黒潮の流れにぶつかり東へ向かっていき、その後拡散すると推定されている。親潮と黒潮は海水の温度が違うので、この二つの流れの水はぶつかる地点で混じり合うことはない。潮流のほかに、沿岸に沿っても汚染は広がるので、福島原発から銚子沖の間の海域が特に汚染されているだけでなく、原発から南北両方向の沿岸部(銚子からある程度南へも)も汚染の可能性がある。もちろん汚染の高い地域の魚、海草は避けるのが基本だ。特にその地域の小魚、海底に住むヒラメやカレイ、貝類。魚の内臓。なぜかイカとタコは濃縮係数が低く、セシウムの影響を受けにくい。ストロンチウムは魚の骨やエビ・カニの殻などにたまりやすいがセシウムに比べると流出量はかなり少ない。

魚については、大人は汚染海域以外で取れたものなら、あまり神経質になる必要はないようだが、子どもには注意してできるだけ遠い、汚染のない海域の小魚や海草を食べさせよう。カルシウムが不足していると、ストロンチウムが骨に入ってしまう。その意味では更年期の女性もカルシウム不足になりがちなので、注意したほうがいい。今回の事故以外でも、各地の原発や再処理工場(原発の1年分を1日で排出!)では毎日放射能に汚染された水を排出しているので、原子力施設の周辺海域、特に沿岸の海産物にも注意が必要だ。

こうやって、自分で産地を確認したり、選べる場合はいいが、外食や加工食品の中身にはお手上げだ。なるべく外食や加工食品を食べる機会を減らしたいところ。チェルノブイリ事故の後、汚染された脱脂粉乳などが規制のゆるい国を経由して輸入されたり、値の低いものと混ぜられたりして世界で流通したが、そういうことが国内でも起こらないよう祈るばかり。

汚染度が低くても毎日たくさん食べるものなので、主食には用心深くありたい。有害物質は胚芽やぬかに溜まりやすく、汚染の可能性のある地域で取れた米は精米するほうがいい。一方で、ミネラルと食物繊維の豊富な玄米を食べることは毒素排出にもつながるので、安全なお米は、五分搗き米や玄米、発芽玄米で食べたい。栄養豊富な発芽玄米は家庭でかんたんに作れるので、一度ためしてみてはいかが。

玄米は、さっと洗ってボールなどに入れ、ひたひたの水につける。水が臭くならないように1日2〜3回水を替えながら、観察していると2〜3日で胚芽が主張し始め、ぷっくりしてくる。玄米は水を吸って、白くなっているが胚芽の部分はとくに輝いているのが分かる。胚芽がぷっくりしてきたら、いつでも炊いて食べてよし。ちょっとツノが出たぐらいで食べるのがベスト。夏場は、冷蔵庫に入れてもいい。この場合、あまり水を替える必要がないので、日中家にいない人には便利。

どういうわけか発芽玄米は、作っているとなにやらウキウキしてくる。玄米が生きているのが実感できて楽しいだけでなく、生命オーラのようなものがひたひたと溢れている感じだ。同じ目に見えない力でも、放射能とは大違い。こんなときこそ、必要なパワーかも。炊くときは、やはり玄米とほぼ同じかやや短めぐらいの時間と水で炊く。玄米よりもずっと食べやすい。そして、う〜ん、おいしい!

<参考資料>
*「食卓にあがった放射能」高木仁三郎・渡辺美紀子著 七ツ森書館
*「放射能がクラゲとやってくる」水口憲哉著 七ツ森書館
*「原発事故残留汚染の危険性」武田邦彦著 朝日新聞出版
*ブログ「ベラルーシの部屋」http://blog.goo.ne.jp/nbjc
*三重大学生物資源学部准教授「勝川俊雄公式サイト」http://katukawa.com/
*「肥田舜太郎さん講演・低線量内部被曝と・・」http://d.hatena.ne.jp/naibuhibaku/

岬をまわり、橋をわたる

くぼたのぞみ

畑をたがやしていたことがある
石狩川の流域で
父と母は半日たがやし
祖母たちは終日たがやし
少女には たがやすよりも
ほぐれた土を手のひらですくい
地面にこぼして遊んだ記憶

それでも
手渡された黄金色の豆のつぶを
小鍬(こぐわ)で穿たれた浅い穴に
ひとつ ふたつ みっつ
三角形に落として
篩(ふるい)にかけた黒土を
さらさらとまぶしていくのは
猫の背や 犬の頭をなでるような
温かい山羊の乳房に触れるような
やわらかな喜びを
少女の内部に深く包んだ

村のくうきには だが 
そんなやわらかさはなく
いまにみてろよ 
と出奔する少女 海峡を渡り
目くるめくネオンとコンクリの街へ

冷蔵庫のない初めての首都の夏から
常磐線 東北本線 寝台車に揺られて
みと こおりやま ふくしま せんだい もりおか・・・ 
眠っていたのか起きていたのか
おぼろげに耳にしながら
北へ帰ったあのころ
降り立つことなく通過した土地の名が 
いま 悲鳴となって耳を襲う

降り立つことがなかったから
知らないままのその土地に
たとえ降り立つことがあったとしても
深く知ることはできなかった
かずかずの土地の名が いま 
この列島をずきずき揺さぶり
radiation ── あやうさつのる
ラベルゆえに野菜を買ったり買わなかったり

街でたがやしていたこともある
アスファルトのうえにこぼれた土で
エナメルのパンプスが汚れるのを嫌う
傲慢と利便の暮らしと引き換えに
置き去りにした
土の感覚とりもどしたくて
街でたがやしていたこともある
ほうれんそう ピーマン サツマイモ 白菜
あまい収穫のときも夢とまぎれ
切羽詰まった何万年の問いを迫られる いま
「非在の波」をざんぶりかぶって
doubling the point ── 岬をまわり
折り返す

折り重なるこの痛みは
生命(いのち)なのだから
花を捨てた あの三月の雨にうたれて
生き物であるきみの内部で
真夜中の痛覚としてふたたび目覚め
途方に暮れながら
硬くなった感情の土肌に
突き刺さることばとなって
深々と降り立つ
そのとき きみはふいにわたる
橋をわたる
素足ですすむ足裏で 
ことばの杭を確かめながら

引きこもりの五月のことをつらつらと

仲宗根浩

五月、梅雨。雨が降ると涼しくてすごしやすい。雨の後、太陽さんが出てくると、雨にぬれたアスファルトは容赦ない太陽さんの熱でアスファルトに浸み込んだ水分をとばすにおいと熱で汗まみれになる。

何年ぶりだろう、こんな台風。職場で台風のための養生が終わり、暴風域真っ只中、車で帰宅。久しぶりの暴風域の中の運転は怖い。途中の信号はいくつかは停電で機能していない。ある信号機は三つのうちの一つの電灯が外れ、コードだけを頼りに風にぷらぷら揺れている。そんな信号を過ぎると対向車、ヘッドライトのハイビームを落とす。対向車が過ぎ、ハイに戻したとたんに、目の前いきなり風で折れたでかい木の幹。完全によけることはできない。少しだけハンドルを切り幹を避け枝のところを乗り上げなんとか通過する。信号が赤で止まる。信号は強風で揺れ、停車した車も揺れている。信号、折れずに耐えてくれ。信号が青に変わると加速、するとまた目の前に折れた木の幹。さっきと同じようにかわしながら駐車場前までたどり着く。シャッターを開け車を入れる。駐車場から家まで歩く。何が飛んでてくるかわからない。注意しながら、といっても風が舞っているのでどこから何が飛んでくるか見当つけようがないまま家にたどり着いた。家の中では隙間風は高い音をたてて部屋の中に入ってくる。幸い停電はなく、台風は過ぎた。台風の中を走った車は海水混じりの雨と木の葉くっつけたままで仕事先に通い、台風が過ぎた二日後にやっと洗うことができた。

五月は仕事以外は家に引きこもっていたが、一日だけ日曜日に休みができたので辺戸岬まで家族四人で行く。以前に来たのが幼稚園児のときが小学校に入るかくらいのことなので四十年振りくらいか。昔の記憶だとガードレールのない断崖の曲がりくねった道の記憶があったが、高速道路をおりて北上する58号線は本部半島を過ぎても海岸線を走る。途中新しいトンネル工事の現場があり、もう少し短時間で辺戸まで行くことができるのだろうか。2時間弱で沖縄本島の最北端の岬に着いた。岬の左は東シナ海、右は太平洋。曇りなので与論島を見ることはできなかった。断崖から下を見ると丸いブイなどの漂流物が岩場に打ち上げられている。断崖マニアにはたまらない場所。磯釣りを楽しむ輩はこの断崖を降りていくが、断崖好きでもそこまでの勇気はない。お昼前に辺戸岬をあとにしてお昼ご飯どこで食べるか、せっかくここまで来たのだからピートゥステーキ丼を食いに行こう、と提案するもすぐに却下され名護でも評判の沖縄そば屋へ。いつかひとりでも行ってやる。ピートゥ、中部あたりではヒートゥ、イルカのステーキ丼を食いに。

アネット・ベニングの泣き顔

若松恵子

新聞の映画評を読んで気になっていた作品を、続けて2つ見た5月。どちらの映画でも、アネット・ベニングが主人公を魅力的に演じていた。2つの映画とも”女性たち”が主人公だ。そして、どちらの作品も、女性を起点に家族という「逃れられない関係」を描いていて、見終わったあとに色々と考えることがあった。

初めに見た作品は、「愛する人」(2009年 監督・脚本ロドリゴ・ガルシア)。アネット・ベニング演じる主人公カレンは、14歳で妊娠し、母親の判断で恋人とも引き離され、赤ん坊は養子に出されて、1度も会えないまま37年が過ぎている。母親は、自分がした判断を後悔しつつも、娘にあやまることができない。しかも、今だに、娘が職場の男性の話をしたとたん「だまされないように気をつけて」なんてことしか言えないのだ。自分のそんな些細な言葉がどんなに娘を縛ってきたのか気づきもせずに…。母親というものは、時に無意識に娘の人生に制限を与えてしまうものだ。かつて子どもだった私は、子どもの側からその悲しさがわかる。母親だってかつては子どもだった人なのだから、その悲しみを知らないわけではないのだけれど、どんなに理解ある母親であっても、娘の人生に全く影をささないなんてことはあり得ないのだろうと思う。第一、この世に生み出したという、決定的な影響を既に与えてしまっているのだから。母親という自分を脅かす存在、それを受け入れて、呑み込んで生きていく娘(カレン)。映画は、そんな彼女を否定せず、必要以上に賞賛もせず、淡々と描いている。親という、逃れられない存在を理由なく受け入れて呑み込んで生きている子どもという存在は健気だ。

一方、「愛する人」のもうひとりの主人公、カレンの娘エリザベスは、誰の力もかりずに、生きるということを人生の目的に頑張っている。母親から切り離され、ひとりから始まった人生を生き延びていくために、こういう生き方になるのは真っ当なことだ。誰の力も借りずに生きるための力(弁護士としての成功)も付けつつある。エリザベスが人の世話になったのは、人生唯一、産んでもらった事ぐらいだと言える勢いだ。こんな生き方のエリザベスには友人も恋人も必要なく、当然子どもも要らないと避妊していたのだが、ある日、予期せぬ妊娠をしてしまう。その子どもを「産む」という判断を直感的に下し、当然堕胎するだろうと決めつける女医に怒りをあらわにするエリザベス。なぜ産むことにしたのか、理由は一切描かれない。産むことを否定してしまったら、産まれた自分を否定することになるではないかなど、理屈は色々考えられるが、エリザベスの姿を見ていて、「産む」ということもまた、産む側が(親となる人が)そのことを理由なく受け入れて、呑み込んで行う行為なのではないかという気がふとした。

ひとりきりで出産することを決めて、赤ん坊の父親から離れて、新しい街で暮らすエリザベスは、同じマンションに住む、目の見えない少女と知り合い、初めて心を開いてささやかな友情を結ぶ。その少女はエリザベスを産んだ時の母親と同じ14歳だと知り、「私が思い浮かべる母親は、いつも頼りない14歳の少女の姿をしている」という印象的なセリフがつぶやかれたりするのだが、妊娠しているエリザベスのお腹をさわって、その少女が「ワオSFだわ!人のなかに人が入っている」と言うのを聞いた途端、涙が止まらなくなってしまった。子どもを産むということ、自分のなかにもう一人のひとを受け入れるということの哀しみというか、それをやってのける生き物の健気さというものにいきなりさわってしまった感じだった。

「人はひとりでは生きられない」と言ってしまっては、身も蓋もないが、逃れられない人間関係のなかに人は居る。誰かから生まれ、育てられて生きてきた以上、その必要最低限の単位は母と子ということになるのだろう。「愛する人」の原題は「MOTHER AND CHILD」であり、のっぴきならない人間関係というものは、産む性である女性を起点に描かれることになるのだろうと思う。そして、産む方も、産まれた方も、そのこと自体は受け入れるしかない。もう起こってしまっていることなのだから。「あきらめなさい」ということでは決してなくて、受け入れて生きていくことが自然のことのような気がするのだ。このことを理詰めで説得されるというのではなくて、アネット・ベニングの泣き顔を見ていて、府に落ちてしまうという感じなのだ。映画マジックということだろうか。

2本目に見た映画「キッズ・オールライト」(2010年/監督・脚本:リサ・チョロデンコ)では、産まれた理由は、ますます子ども達には受け入れがたい設定となっている。(レズビアンのカップルである両親が精子バンクを使って人工授精により子どもを設けた)しかし、子どもたちは母親たちも、精子を提供した父親も受け入れていく。子どもたちは大丈夫なのだ。そして、自分の意志で選びとった関係であってさえ、長い年月のなかでその関係を育て、絆を持ち続けていくためには、時に、相手を理由なく受け入れる時が必要なのだということが、こちらも説教くさくなく描かれている。「愛する人」よりは、さばさばと、人生経験を積んだ主人公を演じながら、それでも、指で涙をぬぐうアネット・ベニングは小さな女の子みたいだ。こちらの作品でもまた、自然な彼女の泣き顔が印象的だ。

虫の知らせ

植松眞人

大きな地震があって、原発事故が起こった。たくさんの人が亡くなったり、行方不明になったりして、日本全体が大きな打撃を受け、その影響は収束するどころか、より大きく深刻になっているように思える。

地震が起こったのが金曜日だった。帰宅難民になった社員を自宅に泊めたりして、当日と土曜日が慌ただしく過ぎていった。そして、日曜日。ただニュースを眺めているのも辛くなり、家族揃って出かけることにした。時折余震を感じる中、はっきりとした行く当てもなく浅草へ。ときどき建設中のスカイツリーの写真を撮って送ってくれ、と僕の父親が孫である僕の息子に頼んでいたことを思い出したのだった。

浅草界隈からスカイツリーの写真を何枚か撮ると、あとは浅草寺へお詣り。正月に大吉を引いたからもうやらない、という嫁さんをのぞく家族全員でおみくじを引く。僕と長女と長男の三人だ。リーマンショック以来、最低な会社の売上。一昨日起こった地震。神頼みで何とかなるとも思えない状況でおみくじを引くといったい何が出るのかという妙な好奇心もあった。

結果は、凶、凶、凶。三人が三人とも凶。なんだこれは!と肩を落とす三人。それを見ながら、今が底っていう意味なのよ!笑う嫁さん。一通り中身を読むこともせずにそばにあった枝におみくじを恐る恐るくくりつけると、しっかりと手を合わせて家内安全を願う。

もちろん、二カ月後に僕が入院して手術を受けるなんてことは、その時には誰も想像していなかった。逆に、誰かに災いがなければいいが、くらいの気持ちだったのだが……。

しかし、ここまで露骨になってくると、虫の知らせという雰囲気ではない。一時期のハリウッドのホラー映画にあったような「警告」みたいだ。ほら、主人公の家の前になんかが捨ててあるとか。歩いていると目の前の壁が崩れてくるとか。ああいった感じ。何かを教えてくれている、というよりは暴力的なまでに伝えようとする感じがする。

おかげで僕は病院に行って検査をして、無事に入院し治療を受け退院することが出来た。本当に人生何が起こるかわからない、という感じだ。実はこれ以外にもいろいろ僕に今回の事態を教えてくれようとする予兆のようなものがあったのだが、あまりに並べすぎると、全部が嘘くさくなるので割愛する。スチュアート・ローゼンバーグ監督の「悪魔の棲む家」でも、びっくりするような激しい出来事は嘘くさくなるので割愛したと書いてあるのを見た気がする。それにあやかろう。僕はスチュアート・ローゼンバーグという監督が好きなのだ。

どちらにしても、虫の知らせで僕は助かった気がする。いつもはそんなことあるんだろうか、と言っているのに、なんだかムシのいい話なのだが……。

うた――翠ぬ宝80

藤井貞和

秋篠の里は― しらじら遠くなる。ふりかえり見る けむりのおちに

ものぶかき― 室生の寺の草の青。眠りにつづく空の色して

(ブルガリア、ソフィアで、1、チェルノブイリ原発事故の反省が日本社会でまったくなされてこなかったこと、2、1990年代に原発震災を予告した石橋克彦氏の意見にも耳を傾けなかった日本です(国際的に許されない)、3、先週、富士山の南にある最も危険な一つである浜岡基地のスイッチを落とすと日本政府は決めたとのことです、4、真の平和が日本社会から発信されることを祈る、と冒頭で前置きしてから、発表を一つ、何とかこなしてきました。故、高木仁三郎さんにも言及すべきだったと、あとから反省。昨日は折口信夫会でコメントしながら、壊滅しつつある国へ、〈うた〉が向き合えるのか、だれにも答えられない絶句に私は襲われました。50年前には短歌型詩群と言っていた、〈うた〉がこの1〜2ヶ月、噴き出す自分のなかです。思ってもみなかった『うた――ゆくりなく夏姿するきみは去り』(書肆山田)を入稿して、旅立ちました。新詩集『春楡の木』〈思潮社〉の予告をもここでさせてください。)

掠れ書き13(音楽という幻)

高橋悠治

音がきこえる時 それはその瞬間に振動している空気ではなく 記憶のなかにあるその振動の結果にすぎない、と言ってみると、それは論理というよりは、確認も証明もできないが作曲の口実にはなるかもしれない、根拠のない一つの主張であり、つかわれている単語の定義やそれらの関係をあいまいにしておくから、もっともらしく見えるだけだと考えることもできる。根拠や定義や真実性を追求しないで、この口実からはじめて、音楽を作っていく過程も、論理の展開ではなく、躓きながら飛躍する飛び石のようなものだろう。

石像のように、空間のなかに確実に存在するものとしてあるように見えても、そこにある石の塊の表面近くに浮かんでいる存在しない幻が、それを像として機能させていると言えるだろうが、音のように固定できない変化そのものであり、それらの変化をさらに変化で置き換えながら続く音楽は、実体のない記憶、存在していなかったものの記憶、思い込みだけに依存する空華となって、根拠も論理もなく、何もない空間からきこえてくる。楽譜や録音された波形図から、音のかたちが眼に見えるように錯覚するばかりか、作曲や、楽譜をもつ音楽の演奏は、錯覚が持続するための装置としか言えないだろう。そうやって提示される音のかたちが聞き取れるというのは、くりかえされる変化、とは矛盾した表現だが、そういう部分が記憶のなかから際立って浮かんで、メロディーやリズムが記憶にきざまれ、響きや音色が背景にまわるような音楽が自然に感じられ、そういうものが個人の幻聴ではなく、集団的幻覚によって音楽と認知される。これは、均一化された集団を対象にしている、近代音楽の場合とも言えるだろう。だが、どんな安定も一時的なもの、はじめに設定すればいつまでもそのままでいいというわけにはいかず、瞬間ごとに問い直し、つくり直しているのに、そのことには注意が向かず、持続する印象がたもたれているのは、なぜだろう。

同一性を基準にして、変化を二次的な要因とするかわりに、まず断続する瞬間があり、そのなかに点滅する音響が、記憶のなかでは同一性までつきつめられず、せいぜい家族的類似性以上には固定できない状態を考えてみると、境界のさだまらない流動が継続するなかで、響きや音色のように定義しにくい複雑な要素がおもてに立って、メロディーやリズムは、不安定なうごき、とらえられない儚い印象に後退する。そういう音楽は退廃的な傾向、文化の崩壊期の兆候と考えられるかもしれない。安定した構造がゆらぐとき、別な考えかた・感じかたが未知の表現をさぐっている、というのは音楽にも社会にもありうる状況だが、別な表現はかならずしも新しさではなく、要素の置き換えと位置の変化がいくつかの層にわかれて循環している結果かもしれない。限られた要素の置き換えでも、それぞれの層で独立に起こり、それらの関連が表面から見えないときは、おなじ状態は二度と起こらないから、複雑で不規則な変化が続くように感じられるだろう。均等な時間のなかで変化のずれが発生するのではなく、状態変化の発生順序を時間として認識するのだとも言える。

音楽の場合の時間や空間はたとえにすぎないかもしれないが、日常生活の時間や空間も、軸や枠や箱のような実体ではなく、偶然のできごとの連鎖を関係付け、整理するため、世界の瞬きに意味付けするための、仮の補助線と言ったほうがいいだろう。意味は論理から導かれるのではなく、まず意味を仮定すれば、そこから論理を導くことができる、といっても、意味自体が仮の足場にすぎないから、その上に組み立てられる論理も一時的なもので、一度使えばそれ以上保存する必要はない、そうだからといって、それなしでは済まされないだろう。変化は同一の見かけの下で継続するが、この場合の同一性は本質ではなく、皮膚のように、不安定で傷つきやすい変化の過程を保護する膜の作用をしている。