きみのいない岬の街で

くぼたのぞみ

風の強い日曜日に
ケープタウンの宿でクッツェーを読む
どんより曇った空に
灰色のカーテンがかかって
テーブルマウンテンは見えない
うなりをあげる風の音が
大勢のゴーストたちの気配を運んでくる
ゴーストのひとりは
わたしが追いかけてここまでやってきた
六十年前のジョンの空蝉

昨日は国道一号線を
内陸の町ヴスターまで走った
リユニオン・パークとは
公園ではなく地区の名と知る
少年が八歳から十二歳ころまで住んだ
「リユニオン・パークのポプラ・アヴェニュー十二番」
と標識のある家は
規格品のように同一、ではない
建て直されたのだろう、たぶん
「当時は樹木もなかったし舗装もされていなかった」
と七十一歳の作家はいう
でも家の正面から見える山並みは
六十年前と変わっていない、たぶん

ヴスター駅ちかくのユーカリの並木道は
bleakと作家が書いた場所だ
初夏の強い日差しをあびながら
どこか見捨てられた、荒涼とした並木道
人の気配もない
黄土色の土は乾いて、分厚くつもり
踏みしめる靴が沈む
土埃の町はそれでも
側溝を残す古いたたずまいを見せて
掲示板はすべて
Re-unie Park, Populier Avenue
とアフリカーンス語で英語はない
さらに内陸へ向かうと遠く山肌に 
Touwsrivier
と白い石をならべた文字が浮かぶ
タウスラフィール、カルーの入り口
フェルトには低木、灌木、ぱらぱらと広がり
針金の向こうに羊と赤土が透かしみえる

 愛するものから自分を切り離して自由になる
 そしてその傷が癒えるのを待つ
 このカルーだけでなく 愛についても

翌朝、起きてまずブラインドを一気にあげる
今日のテーブルマウンテンは
雲ひとつない空に
まったいらな頭をひろげている
右手の窓枠に書割りのようにおさまる
「ライオンの尻」をながめながら
お茶をのみ、ぼんやりする
I hope you are enjoying your visit to South Africa.
というメールに
Yes, I am enjoying it very much.
と型通りの返事を出す
ぽつぽつと樹木が生えるシグナルヒルの斜面を
ポケットにカボチャの種を入れて
マイケル・Kはのぼっていった
夜半ポケットから抜き取られて
あたりに散らばった種は
かきあつめてもわずかしかなかった

紙面からつぶてのように蒔かれた種が
日本語訳者の個体のなかで発芽し
歳月をへて蔓を伸ばし
見えない糸をなびかせながら
ゴーストとなって
岬の街を駆け抜けていった

しもた屋之噺 (119)

杉山洋一

11月のミラノは文字通り毎朝深い霧に覆われていて、息子を小学校に送りがてら、日本語では霧は深く、イタリア語では濃いと表現する、と教えたりしました。雪と霧だったら、霧が素敵だと言います。雪だとところどころ白が剥げてしまうけれど、霧だったら風景が真っ白になるから。霧の深い朝はびっしりと冷気が身体に張り付いてきて、全身がかじかみますが、日が昇ったとき、辺り一面が一瞬深秋らしいまばゆい黄金色に染まり、すぐに透通る青空へ変化するさまは、見ていて心が洗われるようです。

息子と言えば、先日山に行った折には、アルプスの頂に小さな雲が一つ低く影を落としているのを、あれはきっと神さまの雲だから、あの雲の中には神さまが坐っているに違いないと目を輝かせ、朝の散歩の途中、夜明けの星を指差しては、人は死ぬとお空の星になるから、きっとあれも誰か亡くなった人なんだと説明してくれました。親が死んだらお化けでも良いから会いたくないかと尋ねると、こわいから止めてほしいと断られてしまいましたが、確かに空の星を眺めて故人を思ってくれた方が、逝った方ものんびり骨休みができて好いかも知れません。

地球が果てしなく広く、日本がどこまでも遠く感じることもあれば、地球のどこに居ても同じ空を見て、同じ月や夜空を見て、同じ海を目の前にしていることに感動を覚えることが、震災後多くなった気もします。夜、空を見あげてこれは数時間前に日本を過ぎた夜空だと思い、朝焼けを見てこの太陽も、数時間前に日本に昇った同じ太陽だ、そんなこと当たり前のことを思うのです。

年末、安江さんが前に書いた打楽器曲を再演して下さると聞いて、全て書き直そうと決めたのは震災と無関係ではありません。この作品はナイジェリアの石油開発で環境を破壊された少数民族出身の作家が、絞首刑に処される直前に残した宣言文を基にしています。

初めにこの曲を書き下したとき、自分なりのアプローチを試みたつもりでしたが、それが図らずも不誠実な結果となったことに落胆しずっと封をしておくつもりでしたが、震災があって心変わりし、自分にけじめを付ける為にも一から書き直さなければと思っていた矢先のことでした。

もちろん化石燃料に反対したいのではなく、我々がいつも恩恵に浴していながら、忘れてしまいがちな事実を、自分は彼の言葉で聞かなければならない、そんな自戒が込められているだけです。自らが故郷の汚染地図に毎日一喜一憂しているとき、他人の環境破壊の言葉を、あんなにも気軽に扱った自分に情けなさと憤りを禁じえませんでした。端的に言って偽善でした。

さきほど、漸く安江さんに書き直したウードゥードラムの楽譜を送りましたが、これは宣言文を予め決めた規則に則り転写しただけのもので、使うリズムも音も限定されてモールス信号のようなものになります。聴きてを飽きさせてしまうかもしれないけれど、元来この宣言文はおよそ聴きてを喜ばせもしなければ、飽きさせぬよう書かれた内容でもなくて、このテキストを使うと決めた時点で仕方がないと諦めました。

文字に記された思想や感情をリズムに転写し、それを音に転化させれば、初めの思想や感情が相手に伝わることは、原始的なアプローチだけれども、もしかしたらあるかも知れないし、ただの音に過ぎないかも知れません。作曲とは愉しみの行為であるべきとドナトーニに言われて、努めてそのように作曲との距離を量ってきましたが、今回の作曲とはいえない文章の転写作業は、自分にとって思いもかけない辛い体験で、時に小さなウードゥードラムが、作家の声を自動再生する小型スピーカーに見えて、背筋が寒くなったことすらあります。音楽は煎じ詰めればコミュニケーションの手段だと仮定するなら、たとえばモールス信号が音楽ではない根拠はどこにあるのでしょうか。同じナイジェリアのトーキング・ドラムだと話は違ってくるのでしょうか。

前回の恣意的な内容に辟易した反動から、作曲行為の放棄ながら、自己を極力排し自動書記的に作家の言葉に耳を傾けつつ、通信と音楽の間の差について考えていました。文章は信号には変換し得ても、音楽には転化できないのでしょうか。そもそも、その昔、音楽はどのように生まれたのでしょう。神と交信する必要もあっただろうし、喜びの踊りや弔いの歌は欠かせなかったかもしれない。音とは常に人間を超越する存在だったのかもしれないけれど、そこには、われわれ人間の意志を伝える必要性もあったと思います。トーキング・ドラムはその名残ではないでしょうか。

では人間と音楽をつなぐ、記譜や演奏は何を意味するのでしょう。イタリアに住んで、ヨーロッパ人と日本人の根本的な音楽観の相違に気づきましたが、音に込める感情というのが、どうも彼らと我々では違う場所にあるようなのです。限られた表音文字、アルファベットの配列組み替えで感情を表現する彼らにとって、各アルファベットに対し特に何の感情も沸かないのと同じように、音符は彼らにとってアルファベットのような存在なのかも知れません。音符から音が発せられて初めて、そこにふっと感情が宿るような気がするのです。

我々は表意文字の文化で生まれ育ちましたから、「音」という漢字を見て、観念的に「音」や「音」の周りの曖昧模糊したものまでひっくるめて連想します。だから発音される前の音符に思いを込めることもできるでしょうし、無意識にそうした傾向はあるはずです。それがヨーロッパ人の意図と同じではなかったとしても、個人的にどちらが正しいとも間違っているとも思いません。ただ、少し音に対する感受性が違うだけだと思います。

作曲も同じで、彼らが音符を書く作業を我々よりずっと理知的に徹することができるのは、自分の身体からいかに恣意的な感情、不条理な部分を剥ぎ取り、他者との共通言語上で論理化しスタンダード化できるかが、つねに西洋音楽を発展させる原動力だったからかも知れませんし、そんな彼らが、音を使って電信を発明したのは、当然の結果だと言えるでしょう。

元来トーキング・ドラムは、遠方まである程度「緩やかに」内容を伝える通信手段だったと聞きます。ですから、直接言葉では表現できない内容も、太鼓に託すことはあったといいます。日本から離れて暮らしていて、言葉では無防備に発することの出来ない感情や、言葉にすら出来ない感情や願いを音で伝えなければと思うとき、太古の昔から我々の「音」の根源は、さほど変化していない気がしてきました。

夕べ注文してあったパリの千々岩くんのCDが届きました。エネスコやイザイ、平さんやクセナキスなど、その昔パリで活躍した外国人の作曲家を中心に集めた無伴奏ヴァイオリン作品集で、最後をストラヴィンスキー編「ラ・マルセイエーズ」が飾っていて、千々岩くん、こういうのはずるいよと思いながら、思わず目頭が熱くなりました。

(11月30日ミラノにて)

傷跡

植松眞人

左手の親指の付け根から、ずっと手首のほうに降りていったあたりに小さな傷がある。まだ小学校の上がる前に近所の空き地で走り回り、虫とりをしていて盛大にひっくり返り運悪くそこにあった割れた瓦でざっくり切った。小さく肉が切り取られ一瞬傷口が真っ白になったあと黒くなり血があふれ出した。

血を滴らせながら家に走り帰って消毒をすると、幸いにも血は止まり、その後発熱することもなく傷口はふさがった。しばらくするとかさぶたができて一週間ほどでかさぶたもとれた。

かさぶたがとれると、そこには一センチほど傷口がわずかに盛り上がった傷跡ができた。少し力を加えれば、また開くのではないかと思えるほど初々しかった傷跡が、もう二度と開かないと思えるほど落ち着くまでに何ヵ月かかかったのだろうか。それは覚えていない。

それは覚えていないのだけれど、あの時のことをふいに思い出した。傷ができて消えていくのだと、あの時の僕は思っていた。それが四十年以上経っていま僕の手にはっきりと傷跡が残っていることに何とも言えない感慨がある。あのころの僕はこの傷と一生一緒に生きていくんだということを知らなかった。

そうだったのか。この傷と一生一緒に生きていくのか。そのことはあの日、小学校に上がる少し前の日に、何気なく遊んでいたあの空き地でもう決まっていたのか。

1961年インドネシア舞踊団来日

冨岡三智

インドネシアの初代大統領スカルノは、1953年から1965年に失脚するまで、海外に芸術使節団を派遣してインドネシアを国際的にアピールする政策をとった。日本には1961年と1964年に来ているのだが、1961年には私の亡き師匠の義弟のジョコ氏、義妹が来ているということが、2010年の師匠の1000日法要の場で分かり、ええーとなって今回の滞在で2人にインタビューすることになった。というわけで今回は、1961年のインドネシア舞踊団の足取りについて書きとめておきたい。この公演を見たという人が読者の中にいれば、どうかご連絡ください!

なおこの初の来日公演の主催はインドネシア大使館と朝日新聞社である。というわけで、朝日新聞になんども詳しい記事が出ている。

この芸術使節団の来日はインドネシアの巡航見本市船タンポマス号の公開とセットで、一行は東京湾の晴海岸壁に停泊するタンポマス号で寝起きしていた。1月23日夕方にタンポマス号の披露レセプションが開かれ、その翌24〜28日の朝から夕方まで、船内でさまざまな工芸品の展示が行われた。

24〜25日の夜は朝日新聞東京本社講堂での公演。朝日新聞の記事によると、切符が完売したため、急きょ25日の追加公演を決定したらしい。26日昼には高松宮妃が会長を務める「なでしこ会」の慈善公演で、皇族方の臨席があり、これは一般には告知されていない。そして同日夜には神田の共立講堂で公演。そして28日にはNHKで1時間の公開放送が行われている。ジョコ氏は、インドネシアでテレビ放送が始まるのは1962年で、その前に日本でテレビに出演したということが非常に誇らしかったと言う。その後は大阪に移動し、1月31日と2月1日は朝日会館で公演。そして2月4日には日本をタンポマス号で出国して、香港、マニラ、シンガポールを廻って帰国している。ちなみに舞踊団一行は大阪では宝塚の公演も見ていて、そのあと、あの雛段で宝塚の出演者たちと写真を撮っている。

舞踊団の編成だが、なるべく多民族性を反映するよう、一行はバリ42名、ソロ(=スラカルタ)13人、ジョグジャカルタ5人、バンドン12人、ジャカルタ4人(たぶんこれは役人だと思う)の一行から成っている。その回により、舞踊団の参加地域の顔ぶれは少し異なる。持って行ったガムラン楽器はバリのセットと中部ジャワ、ソロ様式のセット。実は中部ジャワのソロとジョグジャカルタ、西ジャワのバンドンの演奏では楽器を共有し、ジョグジャカルタからは踊り手だけ、西ジャワのバンドンからは踊り手と2,3人の主要楽器演奏者のみが来ていて、基本的にジャワ島グループの音楽伴奏はソロの人達が演奏している。そういうわけで、出発前にジャカルタのホテルでジャワ島組は合同練習したらしい。

西ジャワの人に言わせれば、中部ジャワと西ジャワの楽器では音も雰囲気も異なり、踊りにくかったようだ。ソロから行った演奏者たちは皆、1950年に設立された国立の音楽学校(コンセルバトリ)関係者で、この学校ではジョグジャカルタやスンダ、バリなど他地域の音楽の実習もあったので、一応、他地域の舞踊の伴奏にも対応できたようである。

朝日新聞に掲載された公演評(保という署名がある)では、「これがインドネシアの舞踊だといったものがつかめない」、「海外公演にはもっと端的な特色を主にした演出がほしい」とあるのだが、それは無理というものだろうと、私は思う。多民族すぎて、特定の民族の舞踊だけを「これが、インドネシア舞踊」だと端的に打ち出せないのだ。むしろ、端的に打ち出せないところがインドネシア舞踊なのだということを、汲み取ってほしかったと残念に思う。まあ50年前の記事に文句を言っても始まらないのだが…。

で、上演演目は、ソロの場合はルスマン氏(有名なスリウェダリ劇場の舞踊家)十八番のガトコチョ(マハーバーラタに出て来る勇猛な武将)、女性舞踊は単独舞踊の「ルトノ・パムディヨ」、これはジョコ氏兄妹の父親であるクスモケソウォの創った舞踊。たぶんガリマン氏作の「バティック」を3人の女性の踊り手で。たぶんというのはジョコ氏は「バティック」を上演したと言うのだが、踊った本人のはずの妹の方が演目を忘れているから。

ソロの舞踊以外に、ジョコ女史兄妹のペアと、もう1組ソロの男女のペアが、スマトラ島の舞踊「スランパン・ドゥアブラス」も踊っている。ちなみにジョコ氏は音楽演奏担当なのだが、この舞踊が踊れる人が少ないということで駆り出されたらしい。この舞踊はスカルノ大統領がインドネシアの国民舞踊にしようとして、うまくいかなかった演目である。ところでソロの2組がなぜスマトラ舞踊ができたのかというと、ソロのコンセルバトリの校長が個人でやっている舞踊活動で、「スランパン・ドゥアブラス」の講習があったかららしい。ちゃんとスマトラから先生を呼んだみたいである。

ジョコ氏も、その妹も、50年後に私からインタビューされるとは思っていなかったみたいだ。ジョコ氏は日本から帰国後すぐ就職のため、妹の方は1963年に結婚のためソロを離れ、2人とも現在は直接芸術に関わっていないので盲点だったが、身近な所に1961年の日本を見ている人がいたのだ。今、いろいろ話を聞けて良かったと思っている。

オトメンと指を差されて (42)

大久保ゆう

先日のことある女の子に、あなたのストラップがほしい、と言われたのです。といっても、私が持っているもしくは私が携帯電話につけているもののことではございません。これは〈あなたをかたどった小型人形のストラップがほしい〉という意味なのです。日本広しと言えどもごくごく日常会話のなかで、こんなわけのわからないことをねだられる人は、きっと私くらいじゃないかと思うのですが、驚きつつも時に何のためにそのようなものを欲するのかと当人に聞き返しますと、このような返答が。

「拝むんです。」

どうやら私は拝まれるみたいです。なんだか色々あって、対人・対物的には、私は何事にもあまり動じないゆるゆるした人になってしまっているのですが、そのような私と会話したりそこへ何か相談を持ちかけたりすると、その方はたいそう癒されるらしく、ですから何かいらいらしたり迷ったりしたとき、うまく私に会えなくても、そのストラップを拝むことできっと安らかになるに違いない、と。

私は仏像か何かなのでしょうか。

確かに昨今のストラップ文化は発達しており、小さな仏像を始め、さまざまなものが携帯からお守りのようにぶらさげられています。しかしそのへんにいる一個人や自分の友人をストラップとしてぶらさげるというのは聞いたことがないのですが、もしかしたら私の預かり知らぬところでじわじわはやりつつあるのかもしれません。

そこは私も疑問に思ったので、その点を問いただしてみると、否、あなたも忙しい人だから自分の話でいつも色々煩わせるのも申し訳ないから、ストラップでちょっと我慢してみようかな、と思っただけだとのこと。その背景には、愚痴を喜んで聞く人はおらず、自分の下らないことを聞かせると相手を不快にさせてしまうという考えがあるようです。

しかし私としてはそこへいささかの異議を唱えたくもあるのです。いやいやいや、そんなことはない。聞く側とて気持ちの持ちようで愚痴を拝聴することもエンターテイメントになりうると。

さすがに同じ人から同じことを何度も言われるのは困りますが、もちろん愚痴にも色々あるわけで、人が違えばご事情も違い、そこから見えてくる世界の様子は、私の人生とは異なっているわけで、聞けば聞くほど世にはこれほど多種多様の問題・軋轢・不条理などがあるのだと、私などは本当に感じ入ってしまうわけなのです。

ご本人に対して申し訳なくもあるのですが、そうなってくると私にとっては興味深い内容でもあるわけで、別段人の不幸を聞いて嬉しいとか、さすがにそういうことではないものの、少なくとも世の中について新たに知識を得ることは、不快なものではございません。言う方にも聞く方にも、感情なり心情なり知性なり精神(衛生)上のメリットがあり、需要と供給が成立しているならそれはひとつのエンタメと見なせるのではないでしょうか。

ただし。

私個人としては、愚痴は人様に言いたくありません。なぜかと申しますと。私の身に対して次々と起こる、いくつもの問題・事件・不条理……こんな面白いこと、私だけで独り占めしたいに決まってるじゃないですか!

ゆえに、私は人のお話を聞いていっぱい楽しみ、私自身の身の上は私だけで楽しむのであるわけで、私をストラップにしようという試みには、断固反対であるわけです。許せません、そんな私以外の無生物に私が喜ぶような語りかけをするなど、そんなもったいないことをしてはいけないのです! 全部私に! 漏れなく私に!

なお私から何か実のあるレスポンスがあることを期待してはいけません。基本は聞いてにこにこきらきらしているだけですから。それを癒しと言っていただけるのは、たいへんありがたいこととして、受け取っておきたいと思います。

というわけで、私は私の偶像崇拝をかたく禁じ、私自身のストラップ化という企画についても、丁重にお断り申し上げた次第なのでした。

(追伸:もしそのストラップに録音機能がついて、その音声を私に提出していただけるというのであれば、態度を軟化させる余地もあろうかと存じますので、なにとぞよろしくお願い申しあげます)

目的なしの連想的歩行(1)

三橋圭介

目隠して歩く。まっすぐにすら歩けない。五歩くらい歩いただけで、安全だと分かっていても不安になる。暗闇の世界が広がる。しかし知っている道も、知らない暗がりのなかに埋もれて、自分の居場所がなくなる。そしてほんの少しの音にも敏感になって、気配を探る。

いつも町田の小田急線への道で眼を閉じて誘導用ブロックを歩く練習をする。理由は特にない。空いている時だけだが、やっている。不安はあるが、慣れてくると結構歩ける。だんだん曲がり角のブロックの形の違いも、足の感覚で分かるようになった。時々、視覚障害の人を見かけるが、誘導用ブロックを歩いていないことが多いのは、歩くことに慣れているからだろうか。目隠しをして聴いているものは、視覚障害者の聴いているものとは違うのだろう。かれらの「歩くことに慣れ」とは、自分と物や人物などとの距離を測ることだろう。そこでは音の反響は重要な要素となる。おそらく、安全に自分の場所を得るために聴くべき大事な音がある。

一般に視覚と聴覚はどちらが優位にあるか。音楽を見る。例えば、大昔の歴史的記録映像。指揮者が振るオーケストラ。普通に見、聴くことができる。それを音だけにして聴いてみる。音だけでは聴いていられないことがある。

ホワイトノイズ。「ザー」というあの音。昔のテレビで番組の放送が終わったときに流れていた。別名「砂嵐」と呼ばれていた。一般に耳障りなノイズとされる。しかし、きれいな川の映像を映しながら、そのノイズを聴けば音の印象はたちまち変わる。風流な川の映像と融け合って川の音そのものとなる。海辺の映像で音量を上げたり下げたりすれば素敵な波の音ともなる。耳障りなノイズから素敵なノイズ。

ふゆのじかん

璃葉

街路樹の枯れ葉が、装飾のように枝から
垂れ下がっている

冷たい風がひゅん、と吹くと
ぱきぱきと音をたてて飛んでいった

湯気が立ち籠めるお風呂に入るのが楽しみになる時期だな、
と三木鶏郎さん作曲の「お風呂は」をこっそり歌いながら
家路へ急ぐ。

お風呂は素敵だ
岩のお風呂
いい気持ちのんびりと
お湯で流すよ旅の垢…

winter.jpg

切れ目からこぼれ落ちる蜻蛉

笹久保伸

雲と雲とを結ぶ花に咲いた青い石の側面に隠れた三匹の蜻蛉は透明なジャケットに還れよと叫ぶ犬の背中のほうからしきりに噓をつき通そうとその言の葉の下で雨宿りして自分なりに噓と噓との切れ目を探しながらそこから差し込むと
予測された昨日の天候を明日になっても片隅に考えながら歩幅の数はさほど上がらず呼吸は次第に荒くなって行った
その晩のしつこい夢の記憶だけをたよりに行けるところまで歩こうと歩幅を広げたその瞬間に記憶の夢は枯れた花が枝から落ちるまたそのそしてそのまたの瞬間の呼吸によって見える態度にも限度がありそう長くパロディは続かないと言う緊迫感に襲われてゆくが長い長い鳥の尻尾にしっかり捕まっていてもどこで振り落とされるかはわからずその夢の続きの方向性や変化を暗示しているとは言い切れていない雲と雲とを結ぶ蜘蛛の糸にしっかり捕まり犍陀多のための小さなカンタータを歌う地獄の聖歌隊のお経を主題にした変奏曲の中に一輪の蓮の花を思わせる旋律だった人間の泥沼の争いはその言の葉の重なりずれる数だけ変奏してゆく結論を求める三匹の蜻蛉は噓と噓との切れ目から落ちる呼吸や記憶によって雨宿りを続けていた

感慨いろいろ

大野晋

私の学生時代の恩師が叙勲した。
とはいっても、もうすでに80歳。しかも、名誉教授の肩書はまだあるが、数年前に脳梗塞で倒れて以来、研究生活どころの状態ではない。もう少し早く出してあげればと思うが、他の学者も似たような年齢で叙勲しているので年齢が一つの条件らしい。長生きは誉めたたえられるのか、などと思いつつ、芸能人や政治家などの年齢と比べると不公平を感じてしまう。まあ、とりあえずはおめでたい。

iPodで音楽を聴く。
なんとはなしに聴きたいので、適当に選曲してくれるジェネシスを利用する。ジャンル集めを自動でやってくれる機能で、時々使うが、なかには分類にいちゃもんを付けたくなることもある。なぜか、ウルトラマンシリーズのブラス曲はクラシックに分類される。合っているのはブラスだけのような気もするが。ならば、羽田健三の曲も入れたらどうかと思ったら、ポールモーリアが選曲された。合っているのはオーケストラ? まあ、なんとはなしにウルトラマンを聴いていると、ウルトラマンの歌に対して帰って来たウルトラマンがコラージュになっているとか、ウルトラセブンのうたはとてもブルックナーちっくだとか、わけのわからない話を考えだす。昔、トロンボーンを吹いていた友人を思いだし、そう言えば、ウルトラセブンのうたも好きそうだなあ、とブラスが活躍する様をのんびりと鑑賞する。

ということで、現在、ブルックナーのヘビーローテーション中。ぱっぱか、ぱっぱ
か、鳴ってます。のんびりした師走です。

犬狼詩集

管啓次郎

  45

アオバトの群れが海の上で舞う五月
回遊する魚たちが帰ってくるのを迎えよう
ぼくもほぼ十年ぶりに目を覚まし
心を風にさらす
「はじめまして」と若い鳩が発話する
ただちに起源が増幅され心を風がさらう
饒舌な流れ星がチカチカとまたたきながら
確実な着水点をうかがっているようだ
その野心に対抗するように
波に陰影をつける技を学んできた
海面は静と動の青と藍による描像
輪郭には銀色を惜しみなく使おう
装飾音のようなトビウオにあこがれて
陰画の波頭を次々に飛び超えるのが雲たち
雲よ、霊よ、回帰と描写がしずかに闘争する
雲よ、実在の名において霊を否定せよ

  46

どうしても海岸に引き戻される
煉瓦色をした鉄骨の腕が長い椅子のように真横に突き出して
ぼくらはそこに並んですわっている
七人か八人、明るい陽射しにさらされ
強い風に剝き出しになって、ビルの十二階くらいの高みから
恐怖を感じることもなく海岸を見下ろしているのだ
打ち寄せる波が白く泡立つのがわかる
カモメが鳩とともに身を踊らせる
人為的な防風林の緑が模型のように粒だって
世界がまるでミニチュアのように見える午後だ
ぼくらは小学五年生、怖れるものがない
そのうちはるか左手で白い煙が上がる
誰も「あれは何?」とは問わない、答えをすでに知っているので
恐れを知らないぼくらはそれでもぽろぽろと泣く
何が悲しいとも知らず、何に怒るともなく
この海の魚のために、この空の鳥のために

あんぽ柿

さとうまき

福島に行くとあんぽ柿という言葉をよく聞く。どんな字を書くのかよくわからないが、調べてみると干し柿のことらしい。渋柿を硫黄で燻蒸して乾燥させる独特の製法で、福島の伊達で開発されたという。今年は放射能で、出荷することができないそうだ。そう言われてみれば、柿畑というのはあんまり見たことなく、一家に一本柿の木があるのはよく見かけるのだが。 

そんなことを、話していると、いきなり小玉が車を止めた。柿畑で仕事をしている農家に話を聞こうと言う。

伊達市では、見事な柿畑がある。柿畑を見たのは、実は生まれて初めて。お爺さ
んが、柿の収穫をやっていた。マジックハンドのような道具を使って柿の実を切
り落としていく。ぼとん、ぼとんと落ちて行く柿。思っていたより大きな柿だ。大量の柿が切り落とされていく。
「ことしは、だめだ。」おとした柿は、そのまま朽ち果てるのを待つだけだと言う。お爺さんは、悲しそうに笑った。伊達市では、11月から12月があんぽ柿の生産、出荷の最盛期なので、冬場の農閑期に出稼ぎで土木業を行う必要がなく、安定した収入源だという。

しかし、今年の放射能での損失は、250万円位。お爺さんは、東電に補償を申請したという。
「おいしいよ、たべてみるか」
そういうとお爺さんは、むしゃむしゃと柿をかじった。僕たちが、躊躇していると
「放射能がこわいのかい?」といってけらけらと笑った。

車にもどると、伊達市からとれた米からセシウムが検出されたというニュース。
原発から50kmも離れているのに、伊達の農業がどんどん崩れていく。

製本かい摘みましては(75)

四釜裕子

部屋の中にまちがいなくあるはずの本が探せないというのは多くの方が体験されているでしょう。うちなんか狭いし物も少ない、なのにまあどう探しても見つからないことがあるもので、「いいです、ネットで探します」となるわけです。関係するひとを勘定したところで決して割に合わない代金を払って、およそ翌々日にはどこかの誰かからこの部屋に探しものが届く。便利に喜びちょっと憂いてみたりして、それでもひとりイライラするくらいならモニターの先の誰かにあてて書名だとか著者名だとかをバシバシ打ち込むおこないのほうが、いつかなにかに有効な足跡になるように思える。

これまで購入した電子本が10冊に満たないので実感はないが、買った電子本を端末の中で探すのはたやすそうだ。書名を文字検索すれば行き着くのでしょう?とやってみたらできなかったが、設定の加減か。それぞれの書店の「本棚」には紙バージョンの表紙もしくはそれに似せたアイコンが並ぶ。インプレスと大日本印刷による「オープン本棚」は表紙画像を並べると小さな端末画面では一覧しにくいからと背画像にしているそうだが、中綴じの冊子などはどう表示されるのだろう。紙の本の表紙や背が負ってきた探されるため見つけられるための役割を思う。

とは言えうちの本棚の場合、本の背がきれいに並んでいるわけではない。おおまかな分類こそしてあるが空いているところに差し込む(突っ込む)という整理法によっているから天や地が手前にきているものもある。であるから本を探すときの一番のよりどころは(○○のころ、○○のあたりに入れたはず)というもので、誰にも手伝ってもらえない。こういう勘は電子本棚を探すのに引き継がれるものではないし、そもそも無用だろうし、替わってどんな勘が育つのだろう――。

こんなことを思うのはある会社の倉庫の整理に感激したからである。歌舞伎をはじめ舞台やテレビの小道具を扱う藤浪小道具さんで、うず高く積まれた小道具が広大な倉庫に延々と並んでいる。いつ求められてもすぐ応えられるように、数を揃えメンテナンスを日常としている。演目と場面を言えばたちまちに必要な小道具が目の前に揃えられ、用が済めばあっという間に元に戻される。仕事なのだ、そんなところにいちいち感激されても迷惑な話だろうが、そのスピードと始末の見事は緊張感と清々しさで美しい。ものを探すときのぼんやりした個人の勘とプロのそれとは全く別のものである。それでもひと続きにあることは間違いないし、あたまの中の検索もこの先にあるのだと思える。

翠ぬ宝86―〈赤らむ穂〉祭文

藤井貞和

新しい穂が出ますように。 ふくらむ実りが清浄でありますように。
赤ちゃんの飲む水のように、あなたの田が清浄でありますように。
その効(かい、穎)があるのなら、風にそよと答えてください。
なびいてほしい、この世の消息を。 返辞は赤い縁語で、そっと。
母には成仏して下さいと伝えたくて。 ミコさまから、
だれも恨んでいない、おれは運が悪かったと、母の言葉を伝え聞きました。
姉が落ち着いたら、もう一度来たいと話す。 JRの駅ビルで、
柱に凭れて口寄せしている。 今年も六月初旬から始めると、
七月の人、八月の人。 真っ青な顔が私のまえにならび、
この世にのこしたあの子、この子の心配をしている。
人生の総仕上げを始めた矢先でした。 何も告げずにいってしまったので、
気持ちを聞きたかった。 急にいなくなると、いつか還ってくると。

(チェルノブイリ原発事故から八年ののち、南相馬市の一詩人、若松丈太郎氏は、その地を踏んだ。浜通りに、第一原発、第二原発が建設されて以来、その危険性を四〇年、訴え続けてきた若松さんである。みずから思い立って、チェルノブイリの近く、プリピャチ市まで、はるばるやってきた。四万五千人のひとがそっくり消えた町。若松さんは書いている、「私たちの神隠しはきょうかもしれない」と、二〇〇〇年に出た詩集の一句である(『福島原発難民』より、二〇一一年五月。内容は一九七〇年代から二〇一〇年までの、若松さんの叫び、出版されてきた詩集を含む)。福島市内のある同人誌(『クレマチス』誌)の仲間は、例会に出された一作品を、自分たちだけのものにしておけないと、二〇〇部、パソコンで打ち出したままのコピーに作り、全国へ発送した(二〇一一年九月)。若松さんの作品「神隠しされた街」は一〇年前に書かれ、内池さんの作品はこの九月に書かれた。一筋繋がる福島の祈りである。
「鎮魂の祈り」より 漂流する秋
  あきあかねが きみどりいろの目を ひからせながら むれてとんでいたのは いつ
  もんきちょうが 風に ふかれるはなびらみたいに つがいでとんでいたのは いつ
  かなへびが 石がきのすきまに こけいろにひかりながら はいこんだのは いつ
  ……
上は内池和子氏のその詩の一部。松棠ららさんからの報知。喜多方市の俳人、五十嵐進氏の「農をつづけながら……フクシマにて」(二〇一一年七月)及び俳句も凄い。俳誌『らん』が転載していた。福島県内から、ぜったいに県外では書かれることのない心の声が発信されつつある。)

だれ、どこ3

高橋悠治

●歴史的身体

2011年はクセナキス没後10年だった。2012年はケージ生誕100年で、ヨーロッパやアメリカでは多くの記念行事がある。最近の作曲家は自分の作品より長く生きて、晩年は忘れられ、有名なだけで作品は演奏されないこともある。ストラヴィンスキーは最晩年にニューヨークのホテルで暮らしていた。入院したが酸素テントの下でロシア語しか話さず、聞き取れるのはヴェラ夫人とバランシンだけだったと言われる。亡くなって1年間はすべての作品が演奏された。次の年には『春の祭典』と『兵士の物語』だけになった。武満の最後10年間は、日本では演奏されなくなり、委嘱はアメリカとヨーロッパだけだった。亡くなって1年間はあらゆる作品が演奏され、それ以後は他の現代作品を演奏しないで済むために、ポップソングばかりが演奏されるようになった。クセナキスの最晩年もフランスでは演奏されず、委嘱はドイツとイギリスから来た。音楽は商品で、作曲家の名前はブランドになったようだ。音楽への興味や発見のためではなく、業界のアリバイのために使われるのだろうか。

ケージやクセナキスはいまでは研究者たちに解剖される死んだ音楽標本になっていく。できあがった作品の細部まで分析しても、残された繭の構造のみごとさからは、飛び去った蝶の姿は見えないだろう。短い20世紀と言われる。1914年までは19世紀ヨーロッパの長い終わりだった。その後は戦争と革命の時代で、伝統は破壊され、新しさを求めた試行錯誤が続いたが、1920年代の終わりから、実験の行き詰まりから引き返し、機械文明への素朴な信仰をもったままで「バッハ」や「原典に帰る」新しい権威主義が支配し、1960年代の終わりには失速したが、まったく崩壊するまでには1990年を待たなければならなかった。その後の、先の見えない賭博経済と民族紛争しかないこんな時代の音楽の現実からは、固定したカテゴリーやシステムや方法を論じたり、すぎてしまった新しさに価値や展望を求める態度には、縁遠いものを感じる。過去は技術だけではないだろう。規則や定義や理論としてはっきり限定されないままに、世代を越えて受け継がれる文化伝統、音楽的身体や感情は、歴史の可能性とも言えるし、音楽的ふるまいの環境でもあり、呼吸する空気でもあるだろう。

●ジョン・ケージ

ニューヨーク州バッファロー、冬の朝。「ヴィクトル・ユーゴー」アパートの窓の外で口笛が聞こえる。ネジやゴムのたくさん入った箱をもって、ケージといっしょに『プリペアド・ピアノと室内オーケストラのためのコンチェルト』に使うピアノを準備しに行く。

ピアノの弦の決められた位置に箱のなかの大小のボルトを差し込み、共鳴する倍音を聞きながら位置を微調整する。イチゴジャムの瓶の蓋の裏に貼ってあるゴムの環をはがして切ったものを差し込むと、曇った余韻のない音になる。このようなゴムの環はもう見つからない。1940年代アメリカの日用雑貨だったのだろう。ケージの好みは「歌う」小さい音で、ボルトが大きすぎてノイズが増えたり、ピアノの響板に触れるほど深くねじ込まないように注意される。ピアノによって音色はちがう。コンサートグランドよりすこし小さいサイズのピアノに合わせて、材料をはさみ込む位置が決まっているようだ。倍音のバランスでどんな響きがするか、やってみないとわからないが、材料や位置は細かく決めてあっても、その結果の音色は決まっていないのが、プリペアド・ピアノに限らず、ケージがプロセスを重視する態度の表れと言えるかもしれない。「警官じゃないから、人のやることを監視するのはいやだ」と言うが、そう言ってもいられない時もあるだろう。「心(身)が躾けられれば、恐れはたちまち愛に変わる」というマイスター・エックハルトのことばを信じたいが、現実はそうはいかない。きびしく自分を律して、心をひらくように努めてはいても、時には抑え切れない時がある。寛容の仮面の下から恐ろしい怒りが顕れてくるのをたまたま見た人たちはおどろくが、それは新しさへの探究心の裏側にある本来のピューリタン文化かもしれない。

ケージはさまざまな教えをお互いに矛盾するものも取り入れて、元のものとはちがうかたちでやってみる姿勢がある。シェーンベルク、カウエル、サティ、ウェーベルン、マイスター・エックハルト、クマラスワミ、鈴木大拙、周易、ジョイス、ソロー、マーシャル・マクルーハン、バクミンスター・フラーと続く影響の長い列。意識的に読み替えたと言うよりは、アメリカ的な「文字通り」を信じる聖書原理主義と似た姿勢からの誤読でもあるように見える。

第2次世界大戦後の日本は外からの情報に飢えていた。楽譜もなく、だれかが持っていた戦前の楽譜を手で写すことで音楽をまなんだ。シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」を團伊玖磨の家の押入を留守中にかき回して見つけ、借りて全曲を音楽ノートに写した。そこで見た小節線のない楽譜のページをずっと記憶していて、数十年後に再会したのがモンポウだったりした。ウェーベルンの楽譜もレボヴィッツの本の譜例からスコアに再現したし、ブーレーズの「主なき槌」の初版、手書きのほとんど読めない音符を解読して清書したこともあった。クルターグと話した時、戦後ハンガリーでもやはりウェーベルンの楽譜を手で写したことをなつかしく思い出していた。そこでは楽譜がないばかりか禁止されていたから、もっと切実だったはずだ。

ケージについてはヴァージル・トムソンが書いた雑誌記事を紹介した秋山邦晴の文章がてがかりだった。易で作曲すると書かれていたが、その楽譜が入手できないので、自分で考えて作ってみた。北園克衛の『記号説』による断片で、それを見た柴田南雄が作曲した「記号説」からしばらくのあいだ、セリエル技法と北園克衛のテクストによるいくつかの曲の初演がつづいた。詩人はそれらの音楽は認めず、サティやプーランクのほうが好きだったらしい。クセナキスが作曲に確率論を使うこともシェルヘンの雑誌で読んだが、具体的にどうするのかわからないので、自分のやりかたで電子音楽『フォノジェーヌ』を作った。19世紀末の作家ユイスマンスの『さかしま』のなかの人物デゼッサントが入手できない本は自分で書いてしまうのとおなじだ、と思っていた。だが実際に『さかしま』を読んだわけではなく、だれかがどこかに書いたことのおぼろげな記憶で言っているだけだし、遺産で暮らすデゼッサントの知的放蕩とは反対に、当時貧しかった辺境の国々の貧しい若者たちは、ケージやクセナキスのやったこととはちがう結果になっても、欠けているものを発明しながら切り抜ける必要は、いまカネさえ払えば手に入れられる情報や、アカデミーで技術として習えるような時代には失われたのかもしれない。

『Winter Music』(1957年)は、ページの上に和音が散らばっている。これを指定された音部記号とそれに属する音の数を示す数字にしたがって読むのだが、演奏のその場ではできないから、自分で解読譜を準備する。こうして20ページを左から右へ、上から下へと読み解いた楽譜を作ってそれを弾いていたが、最近気づいたのは、20ページに順番がないと同様、これらの和音にも順番の指定はどこにも書かれていないことだった。そうしていけないわけではないが、和音の順番やページ上の位置と出現時間は決められていないし、連続性もないようだ。しかし、指定されたことを読むだけで、何が指定されていないまでは読みとらず、そのまま何十年も弾いていた。最初は草月会館でのリサイタルでⅠページ5分で演奏し、全ページ弾くのには1時間40分かかった。聴衆はドアを開けたままのホールとロビーを往復して、結局ほとんどの人が最後までのこっていた。その次の年には、日本にやって来たケージとデイヴィッド・テュードアと、日本に帰ったばかりの一柳慧と4人で2ページづつ分担して4台のピアノで演奏した。ヨーロッパでも何回も弾いた。1960年代のヨーロッパでケージを演奏していたのはフレデリック・ジェフスキーだけだった。メシアンでさえ、ロリオ以外のピアニストはほとんど弾いていなかった。ブーレーズのソナタもだれも弾かなかった。いまは音楽学生たちでも弾いている。

ケージの1950年代までの作品では、構造・方法・形・材料を区別している。構造の定義は全体と部分の関係、方法は音から音への進行、形は表現形態、材料は音響と沈黙。構造は器で、形は内容。暦とその時起こったことのように、あるいは窓枠と風景のように、器と内容は無関係にあり、何が起ころうと、時は過ぎてゆく。それはヨーロッパにはない感じかたかもしれない。ミース・ファン・デル・ローエのような近代主義を連想することもある。枠はリズムで、材料は音色だとすると、そのリズムは、駆り立てたり揺れるアフリカ的リズムではなく、平静に時を刻むガムラン的リズムだが、ガムランがめざす最終拍への方向感や微細な加速をもたない、むしろ音色の組み換え遊びといった軽みが感じられる。(この項つづく)