犬狼詩集

管啓次郎

  85

「三景に兎あり」という言葉を夢で見たがさっぱり理解できなかった
英語教師としては名詞と動詞だけで書けと教えている
コーヒーのまずさが驚くほど新鮮だった
日曜の日没を川越しに悲しい気持ちで見ている
肌が褐色に灼けることを生まれ変わりの実現のように感じた
魚たちの汚染を抜きにして詩を書くことに意味はあるのか
「?」という文字を書いてから「褐」だったと気づいた
心が文字を去るとき新しい文字が生まれる
蜂蜜のしずく越しに社会主義の遺産が見えた
公園の塀に二人の少女がすわり黄昏を観察する
高い二本の塔を空中の通路でむすび円卓を載せ回転させてみた
相撲取りのような中国産のシャーペイが何頭も番犬として飼われている
茹で卵をいくつ食えるかという競走で小学生に完敗した
舗道の敷石がはずれて中世の砂浜が顔をのぞかせる
時計の歯車を加工して耳から下げてみた
ミントとセージを摘んで水に入れたが飲んでも全然うまくない

  86

窓ガラスがゆっくりと流れて窓枠の下に溜まっていった
白黒のまだらのカラスが公園の地面を歩いている
工事現場の足場の下を小さな犬が吠えながら通っていった
雲が二層に分かれ低い雲がすごい速さで飛んでいる
雲と犬と樹木にしか詩を感じられない年だった
岩は空間だ、ロックは空間だ、どちらも空間を埋める
自分が見る夢は論理的すぎて笑えると友人がいっていた
まるで道端のホットドッグ屋のようにガソリンを売っている
狼が戦火を逃れて半島から移住した
時空を隔てればそれだけで事実も詩に変わる
読みたいと思うページだけを切り取り何度でも読む男がいた
「自由な日」という名で労働奉仕を強いる社会もある
目を半ばつぶりながら「眠くない」と痩せ我慢していた
飛行機の遅れを精神的な危機にむすびつけるのは単なる悪習だ
執務、執筆、執行のすべてをゼロ地点に戻したかった
来年こそは七月に「八月踊り」を見にいこう

  87

視線という名のもとに目から矢を飛ばしていた
イスタンブールにヨーロッパを感じることをヨーロッパ人が否定する
絵はがきのコレクションがあるから美術館には行かないと医者がいった
絵を見るのは恐ろしいことなので私はほとんど見ない
台所に水滴ひとつ落ちていないスイスが疎ましかった
白いTシャツにケチャップのしみが飛ぶ国に帰りたくてたまらない
教会の入口まで来てこの服装ではだめだと引き返した
「新しい交通法規が出たよ」と映画館で冊子を売りつける子がいる
魂を小さな硬貨に宿らせることを試みた
教会を見えない建築として再設計する建築家たちだ
時計職人である以上正確でない思考は我慢できなかった
ひとつの谷に別の透明な谷がかぶされた気がする
深い峡谷までロバの列車とともに下りて行った
伝統的なすべてのismに反対するismを買う
どれほど空虚な言葉だって「未来」ほどそれほどひどくはなかった
島の深夜にヤシガニのがさごそという音を聞く楽しさ

  88

音声はあまりに冗長なのでそれを聴くより文字を知りたかった
この言葉を覚えるにつれて目がだんだん青くなっている
顔は人によって手にあったり尻にあったりした
犬を窓として世界を学ぶことがないとは確かにいえない
単純な作業としてオリーヴの植樹と釘打を選ぶことができた
朝の水面は青く午後おそく水面も雷雨に変わる
語と語の連結が可能なのに心にはそれがなかった
その秘境には絶対に行けないよ、でも携帯電話が通じる
ぼくの手が近づきすぎたとき凍ったように虫が身を硬くした
螺旋階段を下りる自分を自分が追いどこまでも下りてゆく
バナナを皮のまま焼くときれいに熟した色になった
探検家と金魚すくいとどちらがよりペシミストなんだ
永遠を語るのは勝手だが病から自由になれなかった
水脈がどこにも見えない、とうもろこしがすべて枯れた夏
客の来ないタクシー乗り場で運転手が二十人も昼寝をしていた
街路樹の枝から落ちて子供が泣いている

  89

鏡を一度も作品に出したことのない小説家だった
鏡を文字で書けるならそれは一種の呪術だ
犬の痛みと鏡の痛みを比べて泣く泣く鏡を割った
青空に明るい月が上り鏡という隠喩を見失う
女友達の瞳を鏡としてピアスを直す少女がいた
心を鏡と呼んでもそこには何も映らない
きみの秘密はと訊かれた子が筆箱を開けて鏡を見せた
猫と猫を鏡により増殖させても二匹以上には増えない
表面の凸凹があるスケールより細かくなると人にとって鏡が生じる
ある種の罪悪感が鏡として表現されるのはなぜか
鏡をもって金銭的な解決策を模索する時代だった
返してくださいといって円い鏡を四角く切り取る
人生にとっての鏡としてトルストイを読む哲学者がいた
心臓の位置に鏡のタトゥーをして後は偶然にまかせる
ランス・アームストロングが激突して鏡が粉々に砕けた
割れば割るだけ鏡が増えて渡り鳥を迷わせる

  90

小さな王朝のリロケーションをめぐって論争が続いていた
脳がなく皮膚だけで判断する動物の知性は肌にある
陥没する乳首にふれてそれを隆起させた
地名が世界の衣裳としてナヴィゲーションを指示する
写真撮影が事件を公式にし歌がその雰囲気を記憶した
自分自身のbecomingのために役立つTシャツを探しにいこう
聖母被聖天の教会を過ぎたあたりから空爆の臭いがしてきた
河があまりに曲がって空では雲が迷う
揚げた魚の酢漬けをパンにはさんで昼食にした
都市は墓地の連続体だというので歩きながら何度も十字を切る
粉末のコーヒーを頼んだら熱いミルクで溶いてきた
民族衣裳はきわめて洗練された裸体だそうだ
空は青、シャツも青、窓はターコイズ・ブルーだった
眼球そのものが縞模様なので風景がストライプにしか見えない
TRGとは何かの交通機関かと思ったら広場のことだった
「余計者!」という声が響く教会で帰農を議論する

オチャノミズ(その5)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子訳

オチャノミズとはうまい茶をいれる水とかなんとか、そのような意味だそうだ。そのオチャノミズにも時が流れていって、そこは楽器、スポーツ用品とくにスキー、それから古書、文房具などを売る店の入ったビルがびっしり並んだところになっている。20年ほど前は戦争や社会問題への抗議、反対と書かれたのぼりやプラカードでいっぱいだったが、現在はそういったものは影をひそめてしまった。その当時の世代はすでに親になっていて、そのこどもの世代がここを行き交っているのだ。

オチャノミズは若者たちの街で、20年前3、4人の友人たちがあの場所に立っていたときとちっとも変らない活気あふれる雰囲気に包まれている。友人たちはその後もそこに立ったに違いない。そして店から消えていくことのない楽器を見つめたことだろう。店には毎日人が来て売ったり買ったりがあっただろうが、それはさらに輝きを増し値段は高くなった。信じられないほど高いものもあるのだ。彼らにはとても手が出ないものだった。だからといって惹きつける魔力が消えることはないのだ。

久しぶりに見るオチャノミズはなにもかも昔と同じだ。彼らもきっとまだミュージシャンで旅をしながら歌を唄って、人びとに見たこと聞いたこと、経験した色とりどりのものがたりを語って聞かせていることだろう。

違っていることといえば、歳月は誰にも容赦なくて、彼らが歳をとったことだろう。今も老齢の男性が4-5人楽器に惹かれたように見入っている。少年たちがそこを通り過ぎて行った。が、何人かはがまんできずに戻ってきて見ている。

なぜならばオチャノミズでは、このような光景は普段めったに見られないからだ。(完)

(2005年「週刊マティチョン」掲載)

翠素96――のたうつ白馬(=はくば)!

藤井貞和

爆発! うたの発生か!
嘘か! ばれにばれ、
水素よ、冷却の音!
露白く、炉心か、
ウオオ! 反原子、
火力よりか、震源は!
覆う管(=かん〈被覆管〉)、白く露出、
遠のく焼き入れ、
装(=よそ)いすれば、
似れば仮装か、異説は、
のたうつ白馬!
                  〔回文詩〕

(なぜ水素が発生するか。燃料被覆管〈ジルカロイ〉が、高温高気圧で灼熱の水蒸気と接すると、活発に水素を噴き出し、もし酸素がなければ爆発する。炉心が冷却剤〈=水〉の水位の低下で露出すると、高温下で水素ガスが放出される、と。しかし、なぜ、それが建屋に漏出するのかを含め、事故調の報告書も、原子力関係者の著書も、みないちように肝腎のところを押し黙る何かがあって、どうしてもわからない。菅直人は直後から「水素爆発の危険はないか」、(斑目)「ありえません」という会話を交わしていたらしい。理系の菅には推測しえていたことになる。事実、一号機も二号機も三号機も、そして…… 水素爆発を起こした。おいらは最初、ニュースを聞いて水蒸気爆発かと思ったよ。水素爆発なんだって。それはつまり、原子炉の設計じたいに含まれていた過酷なリスクじゃないか。ウオオ)

復活?

大野晋

9月だというのにぶっ倒れた。いつもは、鬼のかく乱のように年始などにばたりと倒れるのが通例だったのに、暑さのずいぶんと弱まった9月の最後、突然の発熱に見舞われて寝込んでしまった。通常は35度ちょっとしかない体温が38度を超えて、なにもできなくなってしまった。
さすがに数日で熱は下がったが、いまだにあちらこちらの体調が元に戻らない。困ってしまった。
そんなこともあり、9月から始まった都響とインバルのマーラー・チクルスもまだ2番目だというのに譲り渡すことになってしまった。まあ、2公演分のチケットを持っているのだから譲って当然だと言われれば当然かもしれないが、思えば、それが倒れる前日だったこともあり、やはり、倒れる前からよほど具合が悪かったには違いない。とにかく、「復活」とは言え、2日連続で行く気にはなれなかった。
と自分に言い聞かせつつ、未練たらしく、この文章を書きながら、朝比奈・大フィルの「復活」を聞いている。ああ、行くべきだったか?

とりあえず、私自身は半分だけ元に戻った感じがしている。
半復活?

暗澹たる地

璃葉

世界と一つの川
唄い続ける独りの婆さま
山々は婆さまの鏡となって
悲しみを地表に映す

世界と小庭
唸り続ける小さな箱
婆さまの土色に染まる小さな指が
何かを伝えるように震えた
婆さまは真っ赤な花に姿を変えてしまった

悲しみから生まれたひとつの花
糸のように細く黒い花の影から這い出る甘い光は
山麓をも 太陽をも 悪魔をも魅了した

世界への錠がかかった扉
道化師も祈祷師も
扉の向こうの密談に入れない

赤い花の祈りは空高くに飾られた
大地の終焉を見渡すために

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オトメンと指を差されて(51)

大久保ゆう

どうもこんにちは、不思議の国へ行ったり来たりの筆者です。『アリスの地底めぐり』も第3章を訳了し、終わりが見えて参りました。

個人的なことを言えば、今回の訳は白黒サイレント映画『ふしぎの国のアリス』の訳に始まった一連のアリス翻訳の4つめにあたります(あいだに『不思議の国のアリス ミュージカル版』『えほんのアリス』を挟む)。ですので、アリス好きのみなさんには及ばないながらも、訳しつつそれなりに自分の感じるテクストのイメージを抱きつつあったり致します。

とはいえ、昔からわたくし、文芸作品に対して物証や根拠もなく自分の想いや感触を勝手に文章にしたためるのがたいへん苦手で、また趣味とするところでもないのですが、せっかくのエッセイなので、リハビリがてら筆をうっかりすべらせてみると……。

ひとつ、何か自分が変な感触を抱いたというか、この『アリスの地底めぐり』を訳していて初めて思ったことがございまして、うまく言語化できないのですが、なんとなくの勘めいた発言が許されるならば、この『地底めぐり』というテクストが、どこか「ごめんね」という心情を宿しているように思えてならないのです。

つまり、謝罪や後悔といったような、あるいは贖罪や懺悔・告解みたいなものを秘めた、静謐な葛藤があるのではなかろうか、という。誰に謝っているかはまったくわからないのです。相手がアリスなのか、それともリデル家なのか、はたまた天主様なのか。それにどの程度のことをどれくらい謝っているのかも正直どうとも言えません。ささいなことからくるすごく軽い「ごめんね」なのか、ものすごい過ちを犯してしまってこんな形でしか言えないけれど「ごめんね」なのか。

むろんこの物語は楽しげなファンタジーでもあって、訳していても非常に面白いのですが、そういう内容とか筋書きとかとは別の層のところで、「ごめんね」があるんではないだろうか、と。

こういう手触りに類することはどうしても主観に頼らざるを得ず、どうしても妄想めいたものになりがちで、何度も言うようにわたくし自身はっきりとわかっているものでもありません。どこかルイス・キャロルはわたくしが想像していた以上に(とりわけ若い頃は)繊細な人物であったのかなとも思われ、彼の心に触れられるのか手が届かないのかといったところで、日々うなりながら訳していたりしております。

元々は自分のものではなかったはずの文体を用いながら、他人の文章を訳していくことは、やはり痛みに似たものを被ることがあります。このあいだ、ふと自分の昔の文章をまとまって読み返す機会があったのですが、今のわたくしからすれば嫉妬してしまうほどに教科書通りの文がつづられており、現在との差をよくも悪くも感じずにはいられません。

けれども何かしらの異質の痛みを引き受けつつも、このテクストの「まだ訳し出されていない何か」を引き出すことができれば、結果としては面白いことができるのかな、という希望めいたものを抱きながら、あともう少し頑張ってみようと思います。

し もた屋之噺(129)

杉山洋一

先日、ミラノの日本領事館から、中国人の反日デモが予定されているので注意するようメールが届きましたが、最近、道すがら出会う近所の中国人とのやりとりが、気のせいか少しぎこちなくなった気がします。ミラノですらそうですから、ずっと深刻な影響の出た場所もあってしかるべきでしょう。
終戦から67年間、大きな戦争に巻込まれず過ごせたというのは、近隣各国をながめても極めて恵まれた例でしょうし、胸を張って自慢すべき事実に違いありません。一度始めた戦争がやめられず、原爆や自爆攻撃にまで猛進した世界大戦を鑑みれば、今後いかなる状況下に置かれようとも、日本は武力行使への道を辿ってはならないと信じています。日本人の真面目さやストイックさには、計り知れない可能性があるとおもいます。戦争や虐めのためのものではないとおもうのです。

9月X日00:10三軒茶屋自宅
悠治さんから「小杉のイヴェントでシューマンを弾く」と聞き、家人と連れ立って竹橋の東京国立近代美術館へ出かけると、竹橋駅から美術館までの間に猛烈な夕立ですっかり濡れねずみになる。溢れんばかりの会場には岡部夫妻も居て一緒に床に座った。冒頭の悠治さんと小杉さんの掃除姿に抱腹絶倒したが、小杉武久さんのイヴェントを直接見たのは初めて。笑って構わない作品と理解したが、周りは一音も聞き漏らさぬよう真剣に聴き入っている。何の音かと辺りをしきりに見回す怪訝そうな顔と、仕掛けが解けたときの嬉しそうな顔。どの作品も音と遊び心が満ちていて、聴き手の眼は子供のように輝いていた。悠治さんのシューマンのソナタは、隣で小杉さんが縦横無尽に変調させるので原曲が聴こえない、というのは嘘で、ちゃんと聴こえる。ケージのラジオ・ミュージックさながら、ラジオのチャンネルを自在に往来するのに近い愉悦だ。単純で古臭いセットなのに、新しい作品より説得力がある不思議。機材や仕掛けよりパフォーマーの個性が強く、イヴェントに吞みこまれないからかも知れない。

ケージ自作自演の「想像の風景第一番」と「フォンタナ・ミックス」が憧れだった小学校高学年のころ、テープ音楽に熱中した。現代音楽からクラシックや民族音楽のレコードのターンテーブルを手で廻し、発生した奇妙な音響体を次々にカセットにコマ録音する素朴な手法でテープ作品を際限なく作ったが、何時しか電子音楽やライブエレクトロニクスに全く食指が動かなくなってしまった。あれから少し経って、ベルナルド・マーシュが太いオープンリールで具体音と楽音を雑ぜるのは魅力的だったが、今記憶に甦るのが彼の作品より太いオープンリールと特別なデッキなのは、当時「マルチトラック」なんて言葉が羨望の対象だったからかも知れない。
帰りしな、三軒茶屋のヤンヤンに寄り、温かい紹興酒と鶏肉の唐揚げで冷えた身体を温めた。手打ち麵は売切れていた。

9月X日00:20三軒茶屋自宅 
味とめにて悠治さん夫妻、浜野さん、笹久保さん一家、家人と息子が集う。大人が泡盛をかたむけ四方山話に花を咲かせるあいだ、子供たちは別のテーブルでテレビを見ている。息子はここでは決まってラムネを頼み、ビー玉を取り出すのを愉しみにしている。下戸の笹久保さんもラムネを頼んだ。
小杉さんがシューマン好きで音楽にのめり込む話。小品集では変調をかけ続けると変調させる意味を成さなくなるのでソナタを選んだのだそうだ。美恵さん曰く、悠治さんは小杉さんとやるときが一番愉しそうだという。小杉さんはその昔セクトに追われ変装したことがあったが、誰が見てもすぐ見破られる風貌だったという話。
音色や音楽の個性より、正確に演奏が優先させられるべきか否かについて。当初「兵士の物語」は、軽々と弾きこなせる演奏をめざすより寧ろ限界に挑戦して音が裏返ったりする試みだった。

9月X日17:45三軒茶屋自宅
何度か演奏した「協奏交響曲」の楽譜。身体の中で何かがこなれず気分が悪い。本場直前にも関わらず、一ページ目から改めて譜表を書き入れ、アインザッツを決め直すと、自分が何も理解していなかったことに唖然とする。休符やリズム音程までも怪しい。何となく全てを分っているつもりのとき、実は何もわかっていない。頭のなかで音を塗りこめすぎて、音が呼吸できていない。今井さんは、冒頭の附点を3連符で演奏してみようと提案してくれた。フランス風ほどきつくなく、楽譜ほどゆるくならない。

9月X日23:00三軒茶屋自宅
品川から京浜急行で堀ノ内に墓参。どこか昼食がとれないか見回すと、駅のすぐ脇に中国人がやっている中華料理屋があり美味。コンビニエンスストアで仏花などを買い信誠寺へ向かう。その昔道筋にあった雑貨店など軒並み店じまいしていて、文字通り「しもた屋」になっている。町田で落合った息子をつれ成城学園からつつじケ丘へ。半年振りにお会いしたA先生は少し痩せられていて、向かいの玄関先の階段に腰を降ろして話してくださる。日本に戻ってこられないのという言葉に、ただ頭を垂れることしかできなかった。

9月X日00:20三軒茶屋自宅
モーツァルトの練習直前。ふとしたきっかけでチェリビダッケの「ダフニス」を聴いてしまい、冒頭のクレッシェンド数小節で打ちのめされる。こんな風に音楽ができないから、安易に作り上げてしまう自分が情けないが、仕方がないと諦めるべきなのだろうか。冒頭のピッコロも、羽ばたく空気の振動がこちらにまで伝わるようだ。音楽は鼓舞されて沸き立つのではなく、自らの裡からふつふつと生まれる。「ダフニス」のようにモザイク模様のオーケストレーションと対峙するとき、力強く大きな筆で旋律線を描いてから、細かい音をはめこむのが普通なのだろうが、彼の音楽の作り方は正反対だ。全ての細かい音を聴き取りピントを合わせることから、旋律は信じられないほどの実感をもって、そこから立ち昇る。
真空管で光る電気のように、純正な輝きを放つさまは神々しい。

初台に「協奏交響曲」と「レクイエム」の練習に出掛け、練習の前に今井さんと岩田さんと蕎麦をたべる。岩田さんとは子供のころ功子先生のもとで一緒にヴァイオリンを習った仲で、何十年かぶりの再会。独奏、独唱の皆さんが上手なのは言うまでもないが、合唱の皆さんが前回よりずっと歌いこまれていることに感激する。

9月X日08:00 アルケスナン王立製塩所跡
モーツァルト本番の控室は合唱指揮の辻先生と同室。最初の合唱の練習で、「オザンナ・イネクス・チェルシス」ときれいなイタリア語発音にして下さって嬉しいなどと話し始めると話は尽きず、本番の出番直前まですっかり話しこむ。
美智子皇后がいらしたので進行は分刻み。演奏会が無事に終わりそのまま羽田空港から深夜便に乗り込んだ。

パリに朝6時に着くと寒くてたまらず、空港からリヨン駅行のバスに乗る前に、トランクからありったけの上着を出して重ね着する。パリ・リヨン駅のバールでブザンソン行きの列車まで3時間ほど時間を潰す。
ディジョン手前、乳牛が牧草を食む田園風景を車窓からぼうっと眺めながら、このTGVは原子力で発電された電気で走っていて、自分もそこに乗っているのだなと無意識に考えている。日本から着いたばかりだからか。この電力がイタリアにまで届けられているわけだ。
特急車内で「瀧の白糸」の映画を見ながら楽譜をチェックするが、流石に昨晩の演奏会の疲れと、演奏会後そのまま旅してきた疲れが重なり、何度か眠りこむ。
ブザンソンからアルケスナンまでフィリップが車で送ってくれるが、迂回路を探すうち道に迷い、思いがけずうつくしいルー川のほとりの田舎道を延々走ることになる。時差ぼけと旅疲れの頭で、人懐こく話しかけてくれるフィリップに馴れない仏語で相槌をうつのが精一杯。数週間前まで、一帯は大雨で洪水がひどかったと言う。旧王立製塩所跡で布団にありつくと、そのまま眠りこむ。晩御飯も食べずに朝まで寝込んだ。

9月X日0:20アルケスナン王立製塩所跡
パリから車窓を眺めていると、フランスはイタリアより池や沼が多いようだ。尤も、そこに印象派の絵画を思い出すのは、あまりに短絡的なのだろうが。
この周辺にはブドウ畑が広がっていて、乳牛が放牧されていて、チーズやワインの産地だという。
朝からゴーゴーと不思議な音がしていて目が覚める。外に出ると目の前に50機ほどの大きな気球が空を埋め尽くしていて、そのバーナーの音だった。
圧巻の光景だが、あまりに多すぎて、互いにぶつかったりしないのか見ていて不安になる。乗せてもらうと一回200ユーロ。ヴァイオリンのアニエスが、昼食中さかんに明日誰か一緒に気球に乗ろうよと誘っていた。

久しぶりに後藤さんやハリーと再会。元気そうだ。そういえば、昨夜遠くから尺八を練習する音が聴こえて、ああハリーがついたのだなと夢心地に思っていた。今日は午後から、夜は23時まで練習とあり、映画の投影装置のことで昼過ぎから会場に出入りする。練習は15時からはじまり、夜はさっそく映画を合わせながら練習をはじめたが、こちらは目を開けているだけで精一杯で申し訳ない思い。外は秋祭りで、静まり返った音楽を練習している傍で、ロックのライブをやっている。やれやれ漸く終わったかと思いきや、映画のクライマックス、「白糸」が公判中に自害するあたりで、盛大に花火大会がはじまり、場違いな祝賀ムードで練習が終わる。

9月X日22:20ブザンソン・ホテル
朝、ハリーと辻さんと後藤さんとルー川まで散歩。途中、エスカルゴと山羊のチーズ直売店があり、庭にたくさん山羊が飼われていて、あたりに山羊臭がただよう。どうして羊は神の子羊で、山羊はサタンの山羊なのか。思わずレクイエムの歌詞をおもいだす。「Inter oves, locum praesta, et ab haedis me sequestra. 羊たちのなかにわたしの場所をみつけてください。わたしを山羊から遠ざけてください」。これだけチーズをさんざん作らせておいて、あんまりじゃないかと思う。ここにいるのも、いわゆる黒山羊だった。

今日は聴衆をいれて公開リハーサル。何しろ全体の段取りに馴れる必要があるので、細かい練習ばかり続けることはこの曲に関してはあまり意味をなさない。否が応にも人前で通すと、その後で演奏が楽になる。殆ど拍子がないので演奏は簡単ではない。特に指揮は最初はどうしたものか悩んだ。公開リハーサルと聞いていたが、会場には演奏会と宣伝文句が書いてあり、演奏者一同動揺する。ここまでお客さんなど誰も来ないだろうと高を括っていると、そういう時に限って観客多数で再度動揺。夕食後ブザンソンに移動。

9月X日23:00ブザンソン・ホテル
朝食をとっていると、会場にすぐに来てほしいと電話。会場セッティングの相談で、打楽器とハープ以外を舞台のひな壇の上に載せるという。指揮者はどこに坐るか、実はいつも問題になる。どこでも劇場つきの裏方のおじさんたちと話し込むのは愉しい。よく笑い、明るくて気さくな人たち。結局舞台の張り出しあたりに坐ることになるが、最初は椅子が低くて2時間弱ものあいだ、手を掲げて指揮できそうもないので、もう少し高い椅子を探してくるが、やはりものすごく肩が凝った。映画と音声ファイルのタイミングが合わないとかで、午後の中学生対象のワークショップは、偶然持参のDVDを使う。中学生たちは明るい。男湯の銭湯の脱衣所のシーンでは割れんばかりの拍手。ふんどし姿なのが愉快なのだろう。

9月X日09:55ミラノ自宅
ブザンソンの本番が無事に終わり、TGVでチューリッヒへ向かう。途中ミュールーズからドイツ語と英語でアナウンスが入る。演奏会後食事をしていて、ハープのヴィルジニイが載っているボルボが、思いがけず恩師の車だと知り感慨をおぼえる。エミリオがパリに引越してから、あの旧い大きな車は使いにくくなり、彼女が住んでいるディジョンに、エミリオの息子、ロレンツォが住み始めてから、あのボルボを使っていたが、ロレンツォがウィーンに引っ越すことになり、ハープ運搬に向いているからとヴィルジニイに無償で譲渡したという。そのむかし何度となく同乗させてもらった。
チューリッヒからキアッソ行の列車に乗り換えゴッタルド峠へむかう。山が深くなり、列車は山腹をつたっていき、人家がみるみる減ってゆくと、いつしか懐かしいアルプスの風景にいた。ゴッタルド峠を越して、アイローロとイタリア語表記に変わる。「トンネルを抜けると」という文句のままで、不思議なほどの感動をおぼえる。イタリアからのぼってくると、ティチーノは殺風景に見えてしかたがないが、チューリッヒから降りてくると、ティチーノの風景は、イタリアのようにすら見えるほど美しい。

(9月30日ミラノにて)

製本かい摘みましては(82)

四釜裕子

年末の手帳売り場の混雑を避けて10月始まりの手帳を使っている。実際に使い始めるのはたいてい11月。デルフォニクスのロルバーンシリーズだが、気に入っているのは、リングにペンがさしこめる、ゴムバンドで押さえてある、表紙の堅さ、ポケットがついている、ひと月の予定が見開きで土日が並んでいる、本文紙のクリーム色、角丸、ミシン目が入っている、たいていの手帳売り場にある、といったところ。夏が終わるころには丸い角がさらに丸くなり、リングが伸びて表面はかすれながらしっとりして、ゴムは伸び、満足する。

旅先で洋服屋と文房具屋と食器屋が並んでいたら文房具屋に最初に入る。土産にいい。特産品じゃなくてもいいのだ。手帳やノートも見るのが楽しい。買うのはたまに。使い切れませんからね。ただ手元には、大きさもかたちもばらばらの無地のノートがたくさんある。1日限りの製本講座のために作った見本が無地のノートとして残るのだ。製本講座といってもその実、ノート作りであることは多い。いつの日かこれに詩でも小説でも日記でも書き記すことができたなら、あの時の講座がこの「本」の最初の日だったと思い出すこともあるだろう。

セミオーダー・ノートが人気だそうだ。好きな紙を選んで「自分だけ」の「こだわり」ノートを、と。こういうのには興味が向かない。でも気になるセミオーダー・ノートがある。三省堂書店本店がオンデマンド出版サービスで使っている「エスプレッソ・ブック・マシーン」を利用した「神保町えらべる帳(ノート)」だ。希望の柄を印刷してリング綴じしますと今年4月にスタートしたが、罫線やカレンダーのようなものだけと思い込んで寄り付きもせずにいたら、五線譜や地図もあるというではないか。地区別のいろいろな白地図もできるに違いない、これは試してみなくては。

三省堂書店本店としては事情があっての発想転換に違いないが事情は知らない。ブック・マシーンには得意を存分に発揮してもらい、不得意を人手で補うとして何ができるか、「本」に固執することなく、本とノートの親密性も肯定した気持ちのいい展開だ。素材の紙や装飾パーツの種類の多さや刻印のサービスはほどほどにして、本文の柄の異常な多様化に期待している。文字ではないけど、こういうのも複製を待つ見事な本の中身と思う。

気まぐれ飛行船3

若松恵子

ラジオ番組「きまぐれ飛行船」で片岡義男の相手役を務めた女性は2人。安田南と温水ゆかりだ。どんな人なのか「謎」のまま、片岡と対等に会話する女性としてそれぞれ多くのファンを獲得した。

番組のスタートから1980年5月まで、初代の相手役は、安田南。西岡恭蔵が作って、たくさんの人に歌い継がれている「プカプカ」という曲のモデルとして有名なジャズ・ボーカリストだ。「俺のあん娘はタバコが好きで、いつもプカプカプカ」という詞の通り、今見ることができる彼女のポートレートでも、指先にタバコを挟んでいてかっこいい。

1970年代の日本で女性ジャズボーカリストでいるという事はどんな気がしたのだろう。「You Tube」で聞ける彼女の唄声は、率直で少女のようだ。素直に伸ばす声が、ジャズを童謡のようにも感じさせる。その印象はあながち間違ってはいなかったようで、1976年5月31日の放送の記録では「安田南がハートから唄う」のタイトルのもと、「サニー」、「フライミー・トゥー・ザ・ムーン」に続き「赤とんぼ」という曲名が並んでいる。童謡を歌っても、英語で歌うジャズのスタンダードナンバーがそうであるように、何物にも似ていない、日本から遠く離れた印象の歌声だったに違いない。

番組のディレクターであった柘植さんによると、相手役として安田南を推薦したのは片岡さん自身だったという。安田南を知らなかった柘植さんは、出演しているジャズクラブまで彼女を見に行ったという。ラジオのパーソナリティとしては無口だし、向いているようには感じられず不安だったという。片岡が安田南を推薦する意図は明確には語られなかったようだ。いずれにしても、片岡は、相手役としてラジオ局のアナウンサーを選ばなかったということだ。

安田南の媚びない自由な振る舞いは、リスナーを魅了した。「You Tube」で「眠れ、悪い子たち!」とエンディングの挨拶をしている彼女の声を聴くことができる。当時、多くの男の子たちがニヤリとしたに違いない。
安田南が体調を崩し、番組収録に来られないことが続いた後、1980年6月2日の回から相手役は、温水ゆかりに交代する。温水ゆかりはフリーライター。彼女についても詳しく語られることなく、謎の存在のまま番組は進んでいったようだ。

「きまぐれ飛行船」の小冊子のためのインタビューで、温水さんに当時の事を伺った。フリーになったばかりの頃、雑誌のためのインタビューで初めて片岡と会い、後日片岡さんからの電話でラジオ出演の依頼を受けたという。「片岡さんは「……して下さい」と命令形の日本語を使う方じゃないでしょう。やりませんか、という提案をいただいたという感じでした。」という事だ。

そして、温水さんを相手役に選んだ理由としては、「たぶん、アナウンサーの方だとアシスタントに徹すると思うのです。片岡さんは女性に主人公になってほしい人だから、私がメインになって、その女性に振り回される片岡さんというのが好みの役どころだったのではないかと思います。片岡さんが何をおっしゃるか分からないし、台本も何も無くて、独特の間があったとしたら、ハトが豆鉄砲くらってキョトンとしていたという事です。」と静かに笑いながら教えてくれた。

宮崎なまりを気にしていたけれど、依頼を受けたことについては、「「え。私で良いのですか?」と聞いて、「良いのです」と言われて「でも私は嫌です」と言う人はいないでしょう?」という事だった。温水さんも腹のすわった人なのだ。

温水さん自身は、番組の中でどんな役目を果たそうと思っていたのか聞いてみた。
「片岡さんに「何を望んでいますか」なんて聞いたことはないですけれど、その時代において輝く存在の女性であってほしいと期待されていると感じてはいました。でも、「期待には応えられない、だってこれは片岡さんの番組だもの」と思っていました。片岡さんが当時素敵だと思っている女性は、「英語ができて」「運動ができて」「自立していて」というものだったのです。それを聞いて「どぇー」と思ったのを覚えています。(笑)せいぜい近いのは自立だけで、それも自活程度のことで…。片岡さんがおっしゃる「自立」というのは、日本的な言われ方ではなくて「何物にも囚われない、英語のインディペンデンスの意味だったと思います。」という答えが返ってきた。

温水ゆかりも安田南と同じようにインデペンデンスな女性だったに違いない。インタビューのあとの雑談のなかで、温水さんと時代についての話をした。彼女の言葉の端々から、意志をもってフリーで(独立して)仕事をしてきた人の姿を感じることができた。

「きまぐれ飛行船」の相手役として片岡義男が(たぶん直観で)選んだ2人の女性は2人とも独立していて、話し方や存在感(声)で「きまぐれ飛行船」に魅力を加えていたのだと思う。そして2人とも、パーソナリティを務めたのは唯一「きまぐれ飛行船」だけだったというのは、何て贅沢なことだったのだろうか、と同時に何てシックな人選だったのだろうかと思う。

911イラクとの戦い

さとうまき

911といえば、11年前にワールド・トレードセンターに飛行機が突っ込んだ。その日からすべてが変った。しかし、11年という歳月は長い。風化していくのは仕方ないのか。

日本では、この日。ワールドカップの最終予選があるというので盛り上がっていた。NYのテロの事はすっかり忘れていた人も多いと思う。しかし、日本の相手がイラクとなると話は別だ。

アメリカ大会の予選。1993年、日本は、悲願のワールドカップ出場を目指すために、ドーハでイラクと最終戦を戦っていた。イラクに勝てば、ワールドカップ出場だったが、後半のロスタイムで追いつかれ、初出場を逃してしまう。後々「ドーハの悲劇」と呼ばれるようになったが、この言葉、まるで格言のようで、「最後の最後まで何が起こるかわからない」日本にとっては油断するなということだろうし、イラクにしてみれば、最後まで諦めるなということだろう。

ドーハの悲劇、調べてみるとなかなか奥が深い。このときは、湾岸戦争後で、イラクは国際的にも非常にダーティなイメージがあった。しかも、ワールドカップはアメリカで開催される。「イラクをアメリカに行かせるな!」という流れの中で、同盟国日本が、阻止するという図式はわかりやすい。審判も日本に有利な判定を行なったという。

イラク戦争が始まったとき、当時日本代表だったラモスは、同じ目標のため競ったイラク選手の無事を祈り、「できるだけ早く終わってほしかった。いい戦争なんてない」と、戦争が落ち着くと直ちにバグダッドに駆けつけた。ラモスのこの熱さは好きだ。石巻でも支援物資をもって、避難所に来てたのをチラッと見た。すごい人。当時の選手を集めてチャリティサッカーをやるというアイデアもあったが、結局、翌年2004年の2月、日本政府は1000万円を拠出し、イラク代表チームを日本に呼んで現役の日本代表チームとのゲームを組んだ。

僕はその時、なんとなく、サッカーに税金を使うのかと懐疑的だったが、某新聞の電話インタビューでは、以下の部分だけが記事になった。「文化的な交流はどんどんやっていくべきだ。政府が仕切るだけでなく、民間も含め、たくさんの交流のチャンネルを持った方がいい」と答えている。その時の監督がジーコだ。

さてあれから、僕も大人になって、サッカーを愛する人たちの気持ちが少しわかるようになってきた。2006年のドイツ大会では、イラクは出場していなかったけど多くのイラク人がジーコがいる日本を応援するといってくれた。そして、2011年のアジアカップで日本が優勝した時は、夜中なのに、イラク人が電話をしてきてお祝いを言ってくれる。今度は是非、日本とイラク両方がワールドカップに出て欲しい。

サッカーを見ればイラクの国の現状が見えてくる。ワールドカップの予選はホームとアウェイで戦うのだが、イラクは治安がわるいから、ホームでの試合がなくて、代わりにカタールのドーハがホーム。近いとはいえ、違う国だからやっぱりそれほど有利にはならない。イラクで試合ができるようになることは、復興のパラメーターでもある。イラクサッカー協会も情けなくて、ジーコ監督に、給料が数ヶ月支払われていなかったらしい。早くアルビルあたりで試合ができるようになって、日本からの応援団と対決したいもんだ。

911から11年、アメリカとはうって変わりイラクは、大量破壊兵器も持ってないのにぼこぼこにされた。町は汚いし、停電もしょっちゅうだ。僕らがどうにか動けるのは、コンクリートの壁が張り巡らされ、軍のチェックポイントが500mごとにあるからだ。今回の僕の旅は、かなりハード。9月7日にアンマンに到着してから、陸路で国境を越えて、シリア難民キャンプを訪問してバクダッド、翌朝には南端のバスラまで移動して、一気に北上してアルビルまでという行程。検問を通過するたびに兵士に、「イラクと日本どっちが勝つと思う?」と聞いてみた。当然、8割はイラク!と答える。4日間車で走り回ると本当にイラクは戦時下だと思う。アメリカ兵はいなくなったが、テロは後を絶たない。今年はシリア騒乱も影響してか昨年よりも犠牲者が増え、一ヶ月に400人が殺されているのだ。こんな状態で、イラクが日本に勝ったら奇跡かもしれない。

9月11日、アルビルの小児がん病院のプレイルームのTVでガンの子どもたちと一緒に、サッカーの試合を見た。スカイプで、福島の事務所とつなげた。パブリックビューイングで、「サッカー感動募金」というのを呼びかけてみた。海外ではよくやるらしい。自分のひいきの選手がゴールを決めたりすると募金する。ゴルフでホールインワンを出したらみんなにおごるとかいう風習が日本にもあるらしいがそれに近い。

残念ながら、イラクは0-1で負けてしまった。イラクが勝てば、がんの子どもたちには最高のプレゼントだったが、でも募金は182,400円があつまった。

次回は、来年の6月11日。場所は因縁のカタールのドーハ。日本は圧倒的に強いので、まず、ワールドカップ出場は間違いないが、イラクにとって、ドーハの悲劇になるのか?
今から楽しみだ。

庭火祭 こぼれ書き

冨岡三智

9月8日に、インドネシア国立芸術大学スラカルタ校(以下、芸大と略)の一行とともに、島根県松江市は熊野大社の境内で開催された「庭火祭」で公演を行うことができた。というわけで、今回はこの公演についてあれこれ書いてみたい。

実は、芸大を日本に招聘してスリンピ公演をし、自分も一緒に踊るというのは、芸大に初めて留学した時からの私の悲願であった。当時、そんな大言壮語はできなかったが、やっと実現したので、ここに書く。でも、大望(大妄?)を抱いてから実現まで、16年もかかってしまった…。私の役どころは主催者と芸大との間のコーディネート、兼・舞踊家、兼・添乗員といったところ。15人の団体を海外から招聘するには予算は多少厳しかったが、芸大の学長スラメット・スパルノ氏は最初からこの神社での奉納公演という趣旨と文化的背景に共感して、出演を快諾し、自分も行くと言ってくれた。この学長の積極的な姿勢がなかったら、今回の公演は成功しなかったと思う。

スリンピを生演奏で完全な形で上演するというのは、私が最初から考えていたことだ。ジャワのスラカルタ宮廷では、王国の四方には国の安寧を加護してくれる神々がそれぞれに坐すと考えられている。これをキブラッ・パパッとかパジュパッと呼び、瞑想のときにはこれら四方の神々に対して祈る。宮廷舞踊スリンピは、4人の女性の踊り手が四方に対して同じ動きを繰り返し、神社でいう四方舞のコンセプトを体現している。それを日本の人に、とりわけ、この熊野大社に集まる人々に知ってもらいたい。そのためには、現在は通例化してしまっているような短縮版ではなく、振付を完全な形で上演したい、と私は思っていた。中でもこの「アングリル・ムンドゥン」を選んだのは、そのキブラッ・パパッが振付の中でもっともうまく表現されていて、クマナという宮廷舞踊特有の楽器を使っているから。クマナは一部の古い曲にしか使われず、みだりに演奏してはならないとスラカルタ宮廷では言われていたもの。この曲は現存のスリンピの中で最も古く、1790年に作られた曲で、雨を呼ぶと言われている。人智を超えた不可視の存在への畏怖の念が最も伝わってくる曲で、熊野大社にはぜひともこれを完全版(約1時間)で奉納したかった。このスリンピ、雨を呼ぶとされるのだが、前夜の雷雨にも関わらず当日は好天に恵まれた。熊野大社がある所は八雲町というくらいで、雲が多い、つまり雨が多いところらしく、毎年のように多少の雨には見舞われるらしいのだが…。日本に火をもたらしたという熊野大社に坐します神様は、ジャワの舞踊曲の霊力に対抗して、その威力を示したのだろうか…。

それはともかく、ジャワ、特にスラカルタでは、本来の宮廷舞踊は長くて退屈だから、短縮上演するものだという意識が濃厚だ。それは1970年代というモダニゼーションが発展した時代になって、はじめて宮廷舞踊が解禁されたという経緯によるものだ。その先鋒となったのが、宮廷舞踊の解禁を要請したPKJTという国家プロジェクトであり、その路線を継承した芸大である。けれど、第一世代の人たちは、短縮化するために当然宮廷舞踊を長い形で習ったわけで、今回日本に行った教員たちは、学生時代にそれを経験した世代である。

学長のスラメッ・スパルノ氏(専門は歌とルバーブ)によると、大学の卒業試験で当たったのが奇しくもこの「アングリル・ムンドゥン」で、1時間くらいかかる完全版の歌詞を全部暗記させられたのだという。それくらい、当時は厳しい教育だったらしい。またこの公演に選ばれた学生によると、今でも芸大では音楽科の卒業試験の必須科目の1つにブダヤン(宮廷舞踊スリンピやブドヨの歌)があるとのこと。もちろんいまでは卒業試験では短くしか上演しないが、そういうわけで今回の公演に参加できたことは非常に勉強になったと言ってくれた。

ところで、ガムラン楽器は拝殿前に壇を組んで置いたのだが、大ゴングが大しめ縄の真下にくるように設置したのは主催者のこだわり。また、踊り手は神楽の舞殿でしばらく瞑想し、天女のごとく石畳(舞のスペース)の方に降りていってほしいという依頼も主催者からある。踊り手としてもこの舞殿に上がることができたのは感激だった。当日は庭火祭の神事として、宮司の祝詞と舞殿での4人の少女による神楽と笛があって、そのあとスリンピが始まった。打ち合わせでは、神楽のあと舞殿の下にスタンバイということだったが、先頭の踊り手の人が舞殿まで上がってしまった。けれど、結果として私たち踊り手は舞殿の中で笛の音を聞くことになり、気持ちを統一することができた。プンドポもそうなのだが、こういう舞の空間は音で満たされてこそ、より空間として生きる、という気がする。

公演の前半がスリンピで、後半はタユバン、つまり前半で供物(サジェン)としての舞いを見せ、後半で神人交歓の踊りをする、というのが本公演の流れ。タユバンは踊り手が歌いながら観客を誘って踊るという、庶民のお祭りの踊りである。この流れは、宮廷が公演したのでは不可能で、芸大だからこそできることである。タユバンでは、一番に学長に踊ってもらう、というのが私のリクエスト。学長はなかなかのタユバンの踊り手だという情報を得ていたから、ここはぜひとも踊ってもらわねばと思った次第。道中で聞いたのだが、学長は若いときは歌いながら踊るタイプの踊り手だったそうで、芸大に入ってから音楽を専門にするようになったらしい。その理由は、演奏家のほうが年取ってもできるから…だそうだ。確かに。本当はタユバンでは女性の踊り手が男性を誘うのだが、ここでは逆に男性が女性の踊り手を誘うという形にした。スリンピの踊り手たちには着替える時間がいるので、時間をつないでもらう意図もある。

スリンピとタユバンの間に、グンディン・ボナン(器楽曲)と神楽歌とクマナおよびジャワの歌のコラボレーション。グンディン・ボナンも本当は儀礼の開始の前に(前夜に)演奏するものだが、ここはスリンピを優先。また神楽歌というのは、熊野大社の鎮火祭で国造が舞うという百番の舞で使われる音楽で、現在の琴の原型となった琴板という楽器を打ち鳴らしながら歌うもの。琴板というのは初めて見た。演奏は熊野大社の伶人の方々。神楽歌の「アアアア、ウンウン」という発声を聞いていると、クマナの音同様、単調なだけにかえってその音自体の威力を感じる。

〜〜〜

庭火祭は単なる公演イベントではない。出演団体には市内2か所の小学校で鑑賞会をすることが条件である。出演者は市内の農業研修者が宿泊する施設に泊まり込み(4人1部屋)、ボランティアの人たちも一緒に泊まり込んで作ってくれた食事を食べる。だから、教育的な使命感があって、コミュニティとして関われる団体というのが条件なのだ。芸大に公演を依頼したのは、スリンピ完全版にタユバンも上演できて、さらに、こういう条件に適っていたからでもある。

公演の翌日は、実行委員会の人たちの案内で出雲大社など松江市内を観光。熊野大社のあたりからだと車で1時間あまりかかり、意外に遠いと実感。出雲大社は現在60年に一度の遷宮工事の真っ最中だったが、ちょうど結婚式を終えて記念撮影しているカップルがいたり、ご祈祷をしている人があってその様子が見れたりと、生きている神社の姿が見れて良かったかなと思う。

帰りは夜中にバスで出て車中泊というスケジュールで、出雲から帰ったあと、旅館の休憩室のようなところで休憩させてもらう。ボランティアの人たちがここにも最後に挨拶に顔を出してくれて、大感激。島根ではガムラン楽器の所有者である瀬古先生から一行に、琴のお土産がある。さっそく、1人の先生が琴をシトゥルのようにして縦に置いて弾きはじめ、皆が歌を入れたりして、なんだか宴会みたいになる。日本の楽器とは思えないジャワっぽい音色が出る。この先生は昔アメリカに留学したときに、授業で琴を習ったことがあるらしいが、それ以来全然やっていないので、すっかり忘れたとかいいながら、さすがに器用に弾きこなす。夜中の11時にここを出発。こんな夜中にスタッフの方々に見送られて出発できるなんて、なんてありがたい。今回は結局他の場所での公演がなかったこともあり、一行は庭火祭のためだけに来日したのだが、ゆっくり松江の人々と交流でき、町を見れたことは何よりの財産になったなあと思う。

犬の名を呼ぶ(5)

植松眞人

 見上げると大きな月が出ていた。
 菜穂子は実家に預けたままになっているゴールデンレトリバーのことをまた考えていた。なんだか不安になるほどに近く大きく見える月明かりの中で、いつもより街がしんとしているように思えた。
 仕事に復帰してからの最初の半年ほどは、周囲も「まだ子供が小さいんだから」と気を遣ってくれていたが、気遣われている自分も気遣っている周囲も、だんだんとその気遣いが重荷になり鬱陶しくなり始めた。それからは、菜穂子の「だいじょうぶだいじょうぶ」という返事が少しずつ育児休暇前の働き方に引き戻していき、いまでは以前のように帰宅が深夜に及ぶことも多くなった。
 夫の高敏とたがいに連絡を取り合いながら、聡子の幼稚園の送り迎えをしてきたのだが、高敏が帰ってこなくなってからは、菜穂子が幼稚園に送り届けるようになった。お迎えは実家の母の仕事だ。菜穂子は会社帰りに最寄り駅の一つ手前の駅で降りて実家に立ち寄る。そして、聡子と一緒に帰ってくる。その頃には聡子はすっかり眠そうにしていて、家に帰るとそのまま寝入ってしまうことが多い。
 ブリオッシュと名付けたゴールデンレトリバーを衝動買いしてしまったのは、もしかしたら聡子の相手をちゃんとしてやれていない、という後ろめたさがあったからかもしれない。高敏のいない土曜日の午後、聡子を連れて郊外のショッピングモールに出かけたときにこう言われたのだ。
「妹か犬が欲しい」
 そう言われた瞬間に菜穂子は目の前にいたゴールデンレトリバーを飼おうと決めてしまっていた。
 ペットショップで犬の飼い方の説明を受けている時から、頭の中では実家で遊ぶ仔犬の様子ばかりが浮かんでいたのだった。
 菜穂子はバス停でバスを待ちながらもう一度月を見上げた。そして、自分が聡子と同じ歳の頃に、同じように「犬が飼いたい」と両親に言ったことがあったなあ、と思い出した。あの時、なぜ、あんなに小さな仔犬を自分は腕の中に抱えていたのだろう。菜穂子は思い出せないでいた。捨て犬を拾ったのだったか、友だちの飼っていた犬が仔犬を産んだのだったか。細かなディテールはすっかり失われていたが、抱えていた犬の温もりや重みや微かに獣くさい匂いは、はっきりと思い出された。
 まるで、この仔犬との別れが人生の終わりだとでも言うように、菜穂子は火がついたように泣いた。しかし、両親は決して屈しなかった。
「犬を飼うような余裕はない」
「よそはよそ、うちはうちだ」
「どうせ、可愛がるのは最初のうちだけ」
 そんな言葉の数々が思い返される。菜穂子も聡子に犬をねだられたとき、同じことを言い返そうとした。しかし、すぐにあきらめた。たぶん、あの頃の両親には本当に余裕がなかったのだ。それに比べていまの自分には犬を買い与えるくらいの余裕があった。あの時の仔犬はただでもらってきたか拾ってきた。でも、聡子がほしがっている犬には十万円を越える値段がついていた。それでも、買えてしまうんだ、と菜穂子は思った。
「私は親として弱いな」
 菜穂子はそうつぶやいて、月から視線を外した。父さんや母さんのように聡子を育てたいと思いながら、なかなかうまくいかない。自分が子供の頃に我慢させられて良かったと思えるようなことが、聡子には我慢させられない。高敏と一緒に暮らしているころから、時々、そのことについて菜穂子は考えていた。それは私自身が弱いからなのか。私が聡子に良く思われたいとしているからそうなるのか。そこが菜穂子にはわからなかった。少し我慢させようと、「だめ」と声を荒げたときの聡子の切ない顔が耐えられなかった。なぜ、ちゃんと叱れないのだろう。両親はどうだったのだろう。
 そして、いま月を見ていて菜穂子は思い出した。私が「だめ」と声を荒げたとき、いつも夫は私と聡子から視線を外していたことを。私が叱っていることを知っているくせに、高敏は聞いていないふりをして、私たちに背を向けていた。
 父が声を荒げたとき、母は父の横で同じように少し怖い顔をしていた。でも、ときどき父が怒りすぎると、ほんの少しだけ母は笑ってくれた。父に気付かれないようにほんの少しだけ笑ってくれるのだった。
「親として弱いな」
 菜穂子はもう一度つぶやいた。その声が思いのほかはっきりとした声になっていたらしく、前に並んでいた中年のスーツを着た男が菜穂子の方をちらりと振り返った。父と同じくらいの歳だろうか。もう少し若いだろうか。会社を引退してからスーツを着なくなった父は、その日着る服によって若く見えたり、老け込んで見えたりする。

 ブリオッシュを連れて実家に行ったときの父の顔は忘れられない。突然現れた自分の娘を見て、なんだお前か、という顔をしたかと思うと、すぐに孫の聡子を見つけて相好を崩し、次の瞬間に小さなゴールデンレトリバーを見つけて笑ったままの顔が凍り付いたのだった。
 その一連の流れがまるでコントを見るようで、菜穂子は大笑いをしてしまったのだった。父は大笑いする菜穂子に何かを言おうと懸命に体勢を立て直そうとする。しかし、父が何かを言うよりも先に聡子がこう言ったのだった。
「ねえ、おじいちゃん、かわいいでしょ」
 すると、父は引きつった顔のまま、
「ああ、かわいいねえ」
 と、答えてしまったのだった。
 こうなったら、父に勝ち目はない。後は可愛い孫娘が一生懸命に説明する犬の飼い方をうんうんとうなずきながら聞くしかない。こうして、菜穂子は無事にブリオッシュを実家に押しつけることができたのだった。
 そういえば、私が何かを頼んで父が反論もせずに許してくれたのはこれが初めてだわ、と菜穂子は思う。正確には私ではなく聡子が頼んだようなものなのだが…。そう思った時に、菜穂子は父に聞いてみたい気持ちになった。私を育てていた時と、いま聡子を膝に載せているときと、何かが変わったの、と。聡子が頼むと、どんなに小さなことでも全身全霊で応えようとする父の様子を見ていると、こちらがむずがゆくなるほどだ。
 それでも、きっと私が聡子に対して抱いてしまう「親としての弱さ」とはまったく異質なものなのだということはわかるのだった。
 聡子は今年幼稚園の年中さんになった。あと二年で小学校に入学する。幼稚園を探し回っていた一年ほど前まではとにかく毎日が忙しかった。聡子と一緒に起き出して、聡子と一緒に寝て、聡子と一緒に食べ、聡子と一緒に笑って泣いた。
 まだそれから一年ほどしか経っていないのに、あの頃が充実していて、いまがとても空虚な気持ちになってしまうのはなぜだろう。
 ブリオッシュを実家に連れて言ったときに父が「高敏くんとはどうなんだ」と聞いてくれたが、どうなのかがわかれば私も苦労はしないと、出かかった言葉を飲み込んだ。どうなんだもなにも、夫にはこの二ヵ月ほど会っていない。これまでも仕事が忙しくて会社の近くに寝泊まりすることはあった。しかし、ここ半年ほどそれが激しくなり、すっかり家に寄りつかなくなってしまった。それでも、最初は申し訳程度に電話がかかってきたり、メールがあったりしたが、いまはそれもない。
 けんかをしたわけではない。別れ話をした覚えもない。これは私の勘だけれど、夫が浮気をしているわけではないと思う。もちろん、私が嫌いになったわけでもない。菜穂子はそう思う。
 実際のところそうなのだ。夫がときどき家に帰らなくなった頃、なんだかほっとした自分がいたのだった。聡子と二人でぼんやりいつもの部屋にいて、いつもより少し広く感じられる部屋がとても心地いいと感じた瞬間があったのだ。
 聡子が生まれるまで、私たちは夫婦ではなかったのかもしれない。最近、菜穂子はそう思うようになった。たがいに好きどうしで、たがいに自由で、それぞれに都合のいい時にだけ、たがいを必要とするようなそんな関係だった気がするのだ。
 高敏があまり帰らなくなったとき、ああこの人は気付いたんだ、と菜穂子は思った。別に一緒にいなくてもいいんだ、最初から自分たちはそういう関係じゃないんだ、と。
 夫とそっくりの聡子が自分を頼り、懸命に食べ、大声で泣く姿を見ることで、菜穂子は自分と夫にはないものを強く意識するようになったのかもしれない。

 マンションのエントランスの前で、菜穂子は佇んでいた。
「明日は休みだし、聡子もブリちゃんと遊び疲れて眠っているし。お迎えは明日でいいわよ」
 母にそう言われて、
「じゃあ、私もたまにはゆっくりさせてもらおうかな」
 と答えて、会社から久しぶりにまっすぐマンションに帰ってきたのだった。それなのに、なぜか今夜は、マンションのエントランスに足を踏み入れることができない。
 菜穂子はエントランスの前にあるマンションの住人専用の小さな公園に足を進めて、小さなベンチに腰をかけた。そして、ベンチに腰を下ろした途端に、目の前からブリオッシュがかけてくるという感覚を味わった。ブリオッシュをペットショップで手に入れてから、すべて実家に任せて一度も散歩などさせたことはないのに、菜穂子はなんの違和感もなく、目の前にブリオッシュが駆けてくるところをイメージすることができるのだった。
 月の光に青く照らされた木立の中をブリオッシュが静かに足の爪をカチャカチャと鳴らしながら歩いてくる。その後ろを見たこともないようなスポーティな格好をした父が小走りでやってくる。やがてブリオッシュが菜穂子の足元で立ち止まり、父もそれに従って速度をゆるめ、ブリオッシュのそばで立ち止まる。父の背後で小さな声がして、父が振り返る。きっと聡子だと菜穂子は思う。やがて、そこに母もやってくるのだろう。しかし、と菜穂子は思うのだった。そこに高敏が加わることはないのだろう。そして、いつものようにそんなふうに考える自分を菜穂子は嫌悪した。
 なぜか、自分はいつもそんなふうに自分の都合のいいイメージばかり思い浮かべて、あたかもそれが何かの啓示のように思い込もうとする。そうやって、いままでにどれだけ自分勝手にことを進めてきたのか。菜穂子は月明かりでできる自分の影の中に、自分自身をすっぽりと当てはめてみながら思うのだった。
 もしかしたら、と菜穂子はふと考えた。もしかしたら、ブリオッシュを実家に預けずに自分たちで飼っていれば、高敏と私と聡子でちゃんとした家族にもう一度戻れたのかもしれない、と。マンションで飼えないのなら、無理をしてでも一戸建ての借家を探せば良かったのかもしれない。
 友だちのように楽しく一緒に暮らし始め、たがいの仕事が忙しくなり始めた頃に聡子が生まれた。それまで私たち二人は、たがいの仕事のことしか話していなかった気がする。まるで業務報告のように自分の仕事のことを話してはいたが、夫が自分の仕事に興味を持っているとは思えなかった。菜穂子自身も高敏の仕事は興味がなかった。それなのに、私たちは毎日仕事のことばかり話し続けていた。
 そういえば、仕事のない休日にはほとんど私たちは会話をしなかった。平日に仕事の話しをしてしまうと、話すべきことはなにひとつなかった。
 足元の月影が少しかたちを曖昧にしていた。菜穂子はベンチから立ち上がった。
 今夜は窓辺に椅子を置いてみよう。菜穂子はふと考えた。窓辺に置いた椅子に座って、月明かりに自分の掌を照らしてみようと思った。青く照らされた掌の上に、聡子や高敏やブリオッシュを置く、というイメージに菜穂子は捕らわれた。そして、バランスの悪い自分の掌をもう片方の手でしっかりと支えながら、みんながじっと自分の掌の上に留まっていられるのかどうか、月明かりに照らしながらやってみよう。
 菜穂子はそう考えたが、なぜ、そんなことを考えているのかはわからなかった。

アジアのごはん(49)10年ぶりのビルマごはん

森下ヒバリ

10年ぶりにビルマを訪ねた。「なんか‥、明るいよ!」ヤンゴン空港に着くと、以前に比べて人の雰囲気が明るく感じられる。以前あった重苦しい緊張感が、ない。

タクシーで街に向かう途中、道を行く人の服装の変化も目に飛び込んできた。男はもちろん民族衣装の腰巻ロンジー姿も多いが、ジーンズや短パン姿も多い。女の腰巻が花柄で派手になっている。以前は男女ともほぼ全員が地味なロンジー姿であった。乗った車も比較的きれいだった。運転手に「アウンサンスーチーの話をしてもよくなった、って本当か?」と尋ねてみる。「ドー・スー?」運転手は嬉しそうに振り返り(おいおい)答えた。「うんうん、本当だよ、何の問題もないよ」

ビルマ解放のシンボル、アウンサンスーチー(本人はビルマ語の年配の女性への敬称、おばさん、とか女史とかの意味のドーをつけてドー・スーと呼ばれるのを好む)が自宅軟禁を解かれたのは2010年11月。解放されても、またすぐ軟禁というのがこれまでの軍事政権のやり口であったので、今回もあまり期待していなかった。解放されてからのアウンサンスーチーの国内遊説のおりの人々の熱狂の激しさに、また銃口が向けられるのではとはらはらしていた。

それが、本人も熱狂する民衆も弾圧されることなく、アウンサンスーチーが国会議員の補欠選挙にNLD(国民民主連合)から立候補して国会議員になったのが2012年5月。もしや、今回のビルマの変化は本物かもしれない‥。ずっと関係を深めていた中国以外にもタイをはじめとするアセアン諸国・韓国・日本・欧米諸国が最後の市場とみてなだれ込むように投資や進出を始めているともいう。

わたしは毎年タイに何か月か行き、ついでにラオスやインドやマレーシアなど周辺の国々へも旅するが、ビルマに関しては、今回でやっと3回目の旅だ。初めて訪ねようと思っていたときに8888民主化運動(1988年の軍事政権への抗議運動)が起こり、たくさんの命が奪われ、タイにも政治難民、国境地域の少数民族の難民たちが何万人も逃れてきた。こんな軍事政権の国に行くわけにはいかない、とビルマへの旅を自粛すること十数年。2001年と2002年にヤンゴンとシャン州を旅したのは、やはり軍事政権下とはいえ、そこで人々がどんなふうに暮らしているのかを実際に見たかったからだ。どちらの旅も興味深かったが、やはり何気ないところにも表れる軍事政権下の抑圧感が苦しかった。

それから、10年。いまのビルマの改革は本当なのか、民主化は始まっているのか。行けば分かるというわけでもないが、その空気を感じることぐらいは出来るだろう、とタイからビルマへ足を延ばしてみた。

「しまった、そういえばビルマの料理は脂っこかったんだ。ビルマ語で書いてもらってくるの忘れたな〜」ヤンゴンに着いた夜、宿の人に近所で生ビールが飲めてご飯の食べられるお店を教えてもらい、出かけた。店の従業員の少年に英語でNO AJINOMOTO とかNOT OILYとか言ってもまったく通じない。初日ぐらいはいいか、とあきらめて無難な米麺の炒めた物とチャーハンを注文。「あれ〜、おいしい!!」「こっちのチャーハンもなかなかイケる!」わたしと、連れのYさんは一口食べて、叫んだ。はっきり言って、まったく味に期待はしていなかった。そう、10年間も旅する気が起きなかったのは、ひとえにビルマのごはんのまずさ、が一番大きな要因だった‥。
ミャンマービールで乾杯。地元の人がほとんどのこの店で、この味のレベルなら、これからの旅も大丈夫だろう。よかった、よかった〜。ミャンマービールはけっこうおいしいし、生も気軽に飲める。300mlの小ジョッキで600チャット(約60円)。

ながらく公定レートと闇(実勢レート)に大きな差があったビルマの為替だが、この4月からやっと実勢レートが公定レートになった。空港やアウンサン市場などにある銀行の支店、両替商でふつうに両替できるようになった。9月初めのレートは1ドル860チャット前後。しかし、両替を闇でしなくてもよくなったのはいいのだが、その銀行での両替に使うドル札や、ドル払いの航空券の購入にあてるドル札はピカピカの札でないと、断られれてしまう。ホッチキスの穴、書き込み、折り曲げ、しわがあるものはお断り、なのである。

出発前にその情報を得て、きれいな100ドル札をバンコクで探すが、これには苦労した。タイの銀行は、もともとあまりドル札を持っていない。両替商に行けといわれる始末。何軒も探して、けっきょくいつも使うプラトゥナームの「スーパーリッチ」でビルマに行くからきれいな札を売ってくれと頼みこんで、なんとか手に入れた。タイの両替商は、札をホッチキスで止めるは、ボールペンで書き込みをするわ、店の印のハンコを押すわと札に対する態度がたいへん即物的なので、そういうものが一切ないきれいなドル札を探すのはほんとうに大変なのである。

後からヤンゴンで合流するタイ在住の友人が、こちらも無事ドル札入手というので念のため見せてもらうと、やっぱりハンコが札に押してあった。時間がないと泣きを入れる友人に変わって、またスーパーリッチに出かけて行き、頼み込む。「タイ人がいまビルマにたくさん観光で行ってるから、ないのよね〜」とぼやかれる。

空港の両替所で「あなたのこの札は受け付けられません」ととなりの窓口で両替しようとした人が札を返されて困っていた。それを横目で見ながら、集めたドル札の中でも、たぶん合格ギリギリかな、というかすかなしわのある札を出してみると、合格。これで道中、問題なしだ。でも、日本の銀行ででも両替しない限り、ピッカピカの新札などはあまり手に入らないものだ。米国などから来た旅行者などは普段使っているものだから、くしゃくしゃ率は一番高そうだ。

こういう人たちはどうするのか。そこで闇両替の出番。ただし、レートは1〜2割下がる。銀行では米ドル、ユーロ、シンガポールドルしか替えてくれないので、日本円しか持っていない人も闇に頼るしかない。だまされるリスクもあるが、ほぼ国内でクレジットカードが使えないので、選択の余地はない。せいぜい、金や宝石店など信用できそうな店で替えてもらうしかない。

次の日の昼、とんでもなく大量に化学調味料の入った脂っこいスープ麺を食べてしまい、気持ちが悪くて吐きそうになった。アウンサン市場の観光客向けのような店だったのもいけなかった。さっそくホテルの人にビルマ語で「味の素を入れないで、脂っこくしないで」とメモ用紙に書いてもらう。「ヒンチョウモー・マテバネ」ヒンチョウモーがアミノ酸系化学調味料、マテバネが入れないで。このメモはその後、大活躍。作り置きしているビルマ料理には効き目がないが、その場で作ってくれる店では、油戻し煮といわれる油を大量に使うビルマカレーでさえも、油に悩まされることなく、おいしくいただくことができた。

10年前には調味料、油の質がとにかく悪かった。いいものが市場になかったのだ。それだけでなく、おいしく食べようとする気持ちさえもが感じられなかった。いまは、人々はにこにこと笑い、食べることを楽しみ始めているように思える。

ネウィンから続く将軍様の専制君主系譜のタンシュエ将軍が引退して、後を引き継いだのがいまの大統領テインセインだ。テインセインは2007年から首相を務めていたが、将軍様のタンシュエが引退した2011年に首相ポストを廃止して、大統領になった。それから改革が大きく進んできた。中国と米国の政治的駆け引きとか、思惑とかいろいろあるのも事実だろうが、これだけ外国資本が入り込んで来たら、もう後戻りはできないし、圧政に戻る意味もないだろう。これから10年、ビルマが経済発展をし続けることは間違いない。

台風翌日の十五夜

仲宗根浩

旧盆が終わり、最低気温二十七度から二十六度に下がる。この一度の差で涼しくなる。最近こっちの暑さは最高気温でなく最低気温で決まることにやっと気づく間抜けぶり。

九月に入り一週間ぐらい、金沢在住のひとから仕事で沖縄に来ると、当日にメールが来る。近藤ねぇさんこと近藤恭代さんが突然やって来た。偶然にもメールが届く前日、水牛の本棚の数住岸子さんのエッセイを読んでいた。そこにも登場する近藤ねぇさんだ。お互い歳も歳だし今のうちに会ったほうがいいいかと思い、滞在中、こっちが仕事終わった夜の十一時半過ぎに会うことになった。高速で那覇まで行く。最後に会ったはいつだろう、という話になる。十五年前、沢井忠夫先生の葬儀以来だ。葬儀が終わり、悠治さん、高田和子さん、うちの奥さんとベビー・カーに乗ったうちの一歳児。葬儀場を出てそれぞれ地下鉄の駅に向かいわかれたとおもう。話題になるのは亡くなった方の思い出ばなし、それぞれの近況等々、二時間くらい。金沢の21世紀美術館の交流課長の肩書きを持つ近藤ねぇさんはお土産と美術館でやるイベントのちらしをくれた。帰りの高速午前2時、追い抜いたり追い抜かれたりした車は三台だけ。初めての深夜高速ドライブ。

その一週間後台風。まあなんとか停電もなく過ぎて行ったが月末の十七号は九月二回目の台風。十数年ぶりに停電をかましてくれた。職場では昼過ぎから停電のため一切の業務不能。そのため朝八時出勤から夜八時過ぎまで拘束状態。復旧は六時半。それからは業務用マシン三十数台のチェック。家に帰ると七時半ごろから停電。懐中電灯の灯りのもとで夕ご飯を食べシャワーをと思ったら電気スイッチのガス湯沸かし器はお湯がでず、水シャワーを気合を入れて浴びる。ラジオを聴くと昭和歌謡オンパレードの時間帯。どっぷり昭和歌謡に浸り寝る。翌朝、まだ停電状態。光回線の電話は停電時は使用できないため不便。夕方、職場に向かうため駐車場に行く。電動シャッターは停電のため反応なし。タクシーを拾い仕事先へ。夜になると十五夜お月さん。「ふちゃぎ」という豆がついた餅を仏壇にお供えし屋上で観月会をしたのは子供の頃。

道産子

くぼたのぞみ

隣家には馬がいた。その子が住んでいた緑の屋根のちいさな家はいわゆる「分家」で、馬がいたのは「本家」、父親の実家だった。太い胴体が栗色、尻尾はそれより黒っぽく、鼻づらに太く白い帯が縦に走っていた。どっしりした胴体にごつい脚、蹄鉄を打ったひずめも大きかった。湿った地面に残ったまるい足跡にゴム短をはいた足を入れて、その子はよく大きさを測った。

馬がいる家というのは、一定の広さの田畑を所有しているということだ。馬を使わなければ耕し切れない広さという意味である。液化燃料を使う耕耘機が入る前、動力は馬だった。雪が解けるのを待ちかねて田起こしが始まると休む暇がない。プラウを使って本家のヤスオさんが無駄のない手綱さばきで馬を操り、田圃を起こしていくのをその子はじっとながめた。プラウというのは分厚い剣先スコップのような刃を田圃に突き刺しながら馬に引かせる道具で、人はオートバイのハンドルを握るように両腕を広げて支えつづけなければならない。バランスを崩すと切っ先がすぐに斜めになって浮き、馬の引力と釣り合わなくなる。どうしてあんなに上手に馬があつかえるのか。一度だけせがんで握りをつかませてもらったが、とても子どもの手に負えるものではなかった。

土を起こしたら水路から水を入れて「ならし」だ。土に水を混ぜて練り返す作業である。巨大な熊手のようなものを馬に牽かせて土を練る。人も馬も泥だらけ、畦道にバシャッと泥がはねかかる。一日の仕事が終わるとヤスオさんは馬に水をかけてブラシで洗ってやる。だんだん薄暗くなっていく夕刻、明日もまた作業はつづく。田植えが終わると馬は一段落、秋の稲刈りの時期までお休みだったのだろうか、夏に馬が働く姿は思い出せない。

その馬は雄だった。去勢してあるとかないとか、大人たちの口からこぼれたことば。だが馬がオシッコをする場面は何度も目にした。後ろ脚の付け根から太いペニスがにゅーっと伸びて放尿される場面は壮観だ。地面に泡が立ち、まるく土が掘れた。子どもたちは無言で見入った。糞をする場面もまたスペクタクルだ。馬具に繋がれたままだから、立ち止まって「そこで」用を足す。ふさふさした尻尾をぐいと持ちあげ、肛門から茶色のおまんじゅうの玉がぽろぽろっと落ちる。つやつやである。町まで荷馬車を引いていく途中なら、そのまま未舗装の道路への贈り物となった。春になるとそれまで埋もれていた糞が雪上に顔を出して散らばり、乾いた欠片が春風に吹かれて・・・いやはや。

馬はその子にとって家で飼っている山羊や鶏とはちがい、ちょっと恐い動物だった。大きかった。飼い葉桶から草を食む歯一枚がその子の手のひらほどもある。しかし馬具をつけられ、引き出されるのを「観察」しているうちに、大きな馬の目のなかに射す、いいようのない光に気づいた。「いうことをきかない馬だったので売り飛ばした」とか「馬肉にした」という他家の噂も小耳にはさんだ。ヤスオさんは馬を大事にあつかっていたのは子どもながらに理解できた。自分の汚れ落としを後まわしにして、まず馬を洗った。当時、馬を扱えるのは農家の男にとって必須の技術だったのだ。

秋は刈り取った稲の束をはさにかけて乾かす。丸太を組んで縄を渡したはさまで、馬橇に稲の束を積んで運ぶ。馬橇が通ると、やわらかな粘土質の土の表面に、ベルベットもかくやと思われるすべすべの跡が二本できた。その子はこれが大好きで、何度も手で撫でまわした。

冬になると自転車はブルドーザーの入らない山二線には無用の長物となって物置にしまい込まれた。吹雪いて明けた朝は、道がきれいに消滅する。三角形のちいさな木製の橇に人が乗り、馬に牽かせて跡をつけるまで道はない。橇が通るのを見計らって登校する。通らないときはゴム長に雪が入らないようカバーをかけて雪をこいでいくか、前の人の足跡をたどって歩く。大人の歩幅は大きく、靴跡から靴跡へ跳ぶように移らねばならない。ランドセルを背負った小学生低学年の子には大仕事だ。道幅の広い六号線に出るまでに背中はぐっしょり汗。学校に着くころにはそれが冷たくなった。

田植えが終わって春の農作業が一段落したころ、農作物の集積場で馬場(ばんば)競争というのが開かれた。ちょっとしたお祭りである。しかし、いま思い返すと、切ない。いくつも俵を乗せた馬橇を馬に牽かせ、硬い地面を走らせて速さを競うのだから。馬は汗だく。口から泡を吹いて倒れてしまう馬もいた。倒れた黒い馬の、遠くを見るように見開かれた目を見て、これは見たことがある、とその子は思った。何日もつづいた田起こしのあと、厩で馬具をはずされた馬の目に似ていたのだ。おぼろげな記憶を辻褄合わせのように思い出しているだけなのかもしれない。「北海道!」と銘打たれた観光写真のなかにずんぐりした道産子の姿を見つけると、牛の場合とはちがって、わけもなく涙が出る。未整理の遠い記憶が泡立つのだ。

掠れ書き23

高橋悠治

一瞬見えたような気がするものを捉える罠。そんなものが考えられるだろうか。考える、感じる、それだけで失われてしまうもの。影の痕跡。記憶でさえない。既視感か。まだないものの予感か。偶然にすぎないだろう。粒子が偶然ふれあって思いがけない方向にはじきとばされる。そこから生まれる結びつきのかりそめの安定を利用して足場をかためようとする虚しい試みがある。廃墟の上に都市を建て何層にも積み上がるトロイの丘のように。

受け入れて姿を変えながらしばらくのあいだ仮住まいしてまた漂い流れだす浮世と憂き世の狭間。草花のように風で受粉し風に種子をまかせる。地下で長い時間をすごし繭のなかの夢が外に現われ羽ばたく短い夏。循環する生きた流れは人間には保証されない。

偶然を認めることと隠れて生きる知恵はエピクロスのなかでべつなものではなかった。宮廷で亀卜に使われるより泥水のなかで生きるのを選ぶ莊子にも似たような知恵がある。村のなかでなく砂漠に出ていくのでもなく托鉢できる距離にいるブッダもそうかもしれない。人間はひとりでは生きていけない。いっしょにいては生きにくい。

矛盾があるから一つの論理ではやっていけないが感情や感性は他人には理解されないだろう。法則を理解すればそれを使うことができる。論理があればそれによって操られる。ことばで言えること、実例で示せること、音で共感させることには限界があり、その向こう側になにかがあるとしても、ことばや絵や音がなければわからないというわかりかたさえできない。

音楽についてあれこれ考えるて書いたり言ったりしても無視と誤解しか生まないばかりか、そのことばでしばられることになる。これでもなくあれでもないと言ってもそれがよいとは思えない。何かを考え言ったあとで起こるのは、じっさいにはそのようにいかないということだ。まるで考え言うことがそれから離れるきっかけになるかのようだ。

カフカの断片を読んだときに発見した自由間接話法。自分のことばではなく壁の向こうで聞こえる声の途切れ途切れる引用。たぶん聞きちがいかもしれない。
見ちがい言いちがいもある。おぼろげな記憶になってしまってたしかめようもないなにか。

ギリシャ悲劇では悪い知らせを伝える使者がいる。舞台で見せられる暴力はそれこそ虚構になってしまう。見せることをつつしむ。仏教の五戒は行うことの禁止ではなく行為から引き下がること。禁止することのできる絶対者をもたないから自発的に抑制するよりない。

対位法ではなく、多層性でもなく、亀裂、ちょっとした踏み外しとよろめき、入れ替わる声と移り変わる空間、即興のように書き続ける作曲、これでいいのだろうかと思いながら。初見のようにおぼつかない演奏。非日常についてロマン主義が信じていたこととは逆に、現実ははるかに身軽で、重く不器用な想像力をすりぬけていく。しかも繊細でわずかなずれや隙間から遠いところへ行ってしまう。

確実なものは嘘を隠している。確信は現実の世界からだけでなく自分からも隠れている。世界の中心にいて明日があるようにふるまっていても、状況は天候のように崩れ、想定外のことしか起こらない。それが時間、それが歴史か。

掠れ書き。飛白書。空白を含んだ過ぎ去る瞬間の記憶を書きとどめておく。誰のでもない声の時々きこえなくなるつぶやきは考えるときのように現実から離れて論理を追うのとはちがうが、それでも気がつくと考えにふけっている意識を身体にひきもどしながら、しかも逸れていくプロセスもそこに現れる徴を道標のように残しておく。迷路の脇道にいずれもどることもあるだろう。だれのために書いているのか。だれもいない内部空間を外から観察するのはだれだろう。ちがう風景が見えている。書いてしまえばそこから離れているのだから、こんどは外から見える曲がり角に移動してそこからきこえてくる声を待つ。

ことばは言ってから否定することができる。音は取り消せないから中断することと間をあけることしかできない。中断はちがう声、間は沈黙の空間。中断は対話のはじまりになるかもしれない。問に答えるのは対話にみせかけているかもしれないが答が先にあるから問が生まれる。すると問はひらかれていない。答の空間が問の限界を決めている。