104 翠素ふたたび──土雲へ還る

藤井貞和

梅雨と、雷雨とが、
相談をする。
ぼくらはたまり水に、
船と、星かげと、
どちらを置いて逃げる。
いいえ、永遠の、
さよならを告げて逃げる。
蓮華をいちまい、
持って逃げる。
まだ寒いときがあるから、
布団にする。
水素くん、さよなら、
空中では、生きられないから、
土雲に還ります。

(MOX燃料が高浜原発に届いたそうです。九月下旬には一時、五〇基すべての原発が稼働を停止する可能性があり(二度めですね)、高い評価を惜しみません。しかし、メンツを通したい側としてはとんでもないことなんでしょう。注文しておいたMOX燃料が届いたら、火をつけたくなるでしょう。ヒヒヒ、『水素よ、――炉心露出の詩』を出します〈大月書店〉。本屋さんが困る、社会評論ではなし、詩論ではなし、哲学・思想、ちょっとちがう。『現代詩手帖』の特集号では、悠治さんの記録をはじめとして、もの凄い論考がならび、「東歌篇――独吟千句」も掲載してあります。四月からは社会復帰しています。お天道さまには負けられないもんね。)

アジアのごはん(55)ベジタリアンへの道

森下ヒバリ

二月の話であるが、インドのバラナシへ行ってきた。バラナシに行ったのは初めてである。聖なるガンジス河で巡礼者たちが沐浴をする姿は有名だが、とてつもない喧騒と死のイメージがあったため、なんとなく敬遠していたのだった。

バラナシに着くと、拍子抜けするほどのどかだった。空港の外には菜の花畑が黄色に揺れていたし、土埃の道も牛やヤギが歩いていた。もちろん、空港が郊外にあったためだが、街中に入ってもやはりけっこうのんびりしている。

一番静かといううわさのアッシガートに宿を取り、夕ご飯にでかける。乾燥しているせいか喉がカラカラだ。川沿いの適当な店に入り、「とりあえず、ビール!」とメニューを広げながら頼むも、「アルコールはないよ」とあっさり断られた。そして「ここは聖地だからね、どこもノーアルコールでベジタリアンだよ」

一緒に行った友人たちの落胆した顔、顔。「ビ、ビール‥ないの(泣)」。「タンドリーチキンないの(泣)」そういえば、前回行ったデリーの西のプシュカルも、着いてから「ここは聖地だから‥」という目にあったな。インド文化圏の二大宗教であるヒンディーもイスラムも基本的に酒は飲まない。普通の町では外国人や他の宗教の人間が飲むことには寛容だが、聖地はどこも厳しいようだ。あとは、抜け道を探すのみ。

「ふ〜ん、どこかこのへんで飲める店ないの?」「旧市街は飲めないんだよ。聖なる河から2キロ圏はだめ。新市街に行けば売ってるとは思うけど」旧市街とはガンジス河に面した迷路のような町である。この町の歴史はかなり古く、ガンジスがこの部分で南から北へ逆行するように蛇行して流れるために、古代から聖地として賑わって来たという。いまはヒンディーの聖地だが、すぐそばにはブッダが初めて説法を行った仏教の聖地サルナートもある。

もう夜だし、ここはぐっとがまんしてベジタリアン料理と水を頼む。じゃがいもとカリフラワーのカレー、グリンピースのカレー、野菜のシシカバブ‥「む、タンドール・チキンはないけど、タンドール・パニールってのあるけど頼んでみる?」「パニールって何?」「パニールはカテージチーズだよ」「それ食べたい」ヒバリは乳製品はアレルギーがあるので、あまり食べてはいけないが、味見ぐらいならいいだろう。出てきたタンドール・パニールは、暗くてよく見えなかったが、どうやらピーマンや玉ねぎ、にんじんなどの上にカテージチーズのお団子が載って、その上にさらに野菜を載せてはさみ、オーブンかタンドール(インド北部の土の窯)で香ばしく焼いたものであった。もちろんスパイスまみれ。

「あ。これうまい。パニールもいいけど野菜がおいしい〜!」スパイスの加減もくどくなくいい感じだ。カテージチーズというのは熟成してないので、すごくおいしい、と思うことはあまりないのだが、なんというかこの料理はカテージチーズと野菜とスパイスのバランスが絶妙である。ほかのカレー料理もなかなかおいしい。「もしかして、バラナシってごはんおいしい所かも!」ビールがなかったことも忘れて、一同すっかり満足した。

ベジタリアンなのになぜチーズ? と思われた方もいるかもしれない。インドのベジタリアン(菜食)の多くは、ラクト・ベジと呼ばれる、乳製品はオッケーのベジタリアンである。彼らにとっては乳は動物のいのちを奪わない、神さまからの贈り物である。もちろん乳製品も食べない厳密な菜食主義もいるし、魚を食べる人もいる。とにかく、肉は食べないのが、ベジタリアンである。

インドにいると、たまにカテージチーズを食べることもあるが、気が付けば何日も肉を食べていないという消極的なベジタリアン食生活になっている。わたしは肉食べません、と積極的に選択しているわけではないのだが、肉を提供する店が少ないので、いつのまにかそうなっている。そうして、ひさしぶりに肉を食べたりすると「なんかケモノ臭い」「胃にもたれる」などと感じてしまうことも多い。

インドでは、ベジタリアン料理といっても、乳製品が使われていることが多いので、乳製品アレルギーのわたくしとしては、逆に神経を使う。日常的な飲み物のチャイ(ミルク煮出し紅茶)やラッシー(ドリンクヨーグルト)も乳だし。乳製品をもともと食べない文化圏のタイとかアジアを旅する分には使わない神経である。しかも、カレー味に疲れて、西洋風の店に(バラナシはわりと多い)行くと、肉を使わない分、仇のようにこってり系のチーズをまぶしてある。西洋人は本当にチーズが好きだなあ。

泊まっているファイファホテルのレストランも、なかなかおいしい。カレーのほかにインド中華のメニューも充実している。インド中華というのは、インドで独自に発達した中華料理で、日本のラーメンや餃子のようないわゆる日本風アレンジの中華料理と成り立ちは似ている。インド中華の特徴はいくつかあり、なぜか野菜炒めなどはすべてあんかけ風になる。ベジタブル・グレービーと書いてあればそれだ。ドライな野菜炒めは、よほどのことがない限り食べられない。焼きそば、ビーフン炒め、グレービーヌードル、ワンタンスープなどが野菜もたくさん入っていて食べやすい。

ファイファのメニューで「きのこのグレービー」というのがあった。頼んでみると、お団子のようなものがあんかけ風で出てきた。そのお団子はどうやらきのこと何かの粉とで作られ、油で揚げてあって、大変コクがある。インドの天ぷらパコラに近いのか。きのこ団子の揚げたののあんかけ、とでも言おうか。すっかり気に入ってしまった。

早朝のガンジス河には次々と人々がやって来ては沐浴し、祈りをささげて行く。ぼんやりと河べりに座って、その様子を眺めていると飽きることがない。子供も若い娘も中年のおばさんも青年もおじさんもお爺さんもおばあさんも河に入り祈る。その向こうでゆっくりと日が昇る。わたしも素焼きの小さな器に入ったろうそくとマリーゴールドの花を載せたお祈りグッズを買って、ろうそくに火をともし河に流してみる。わたしも祈る。世界の平安を祈る。原発がなくなることを祈る。バラナシが大好きだった、亡くなった友人のことを想い祈る。

バラナシは来てみると、喧騒と混沌の街ではなく、まさにホーリー・プレイス(聖なる場所)だった。そして大きな河の恵みか、野菜が大変おいしい。旧市街の人々も、これまで旅してきたインドのいくつかの街に比べると、おだやかで、親切な人が多かった。神々の近くに住んで、毎日あのガンジスを眺めて祈りをささげていれば、心も平穏になるのだろうか。

そういえば三日目にしてやっと見つけたワインショップ(酒屋のこと)で買ったビールが、やけに高かったな‥。ビールを入手した嬉しさに、コルカタやデリーの三倍の値を言われてもまったく気ずかずにお金を払い、宿に帰ってみんなと飲み気持ちよく酔っ払った。酔いが醒めてから考えると、高すぎだろう。聖地なのに、ぼってもいいのかっ。聖なる地で人をだましちゃ輪廻転生できないんじゃないのか。河から2キロ以上離れてるから聖地の効力はないから‥いいのかな。やはり、ホーリー・プレイスといえどもインド‥なのでした。

月を追いながら歩く(3)

植松眞人

 邦子は香のことを『かおる』と平仮名で呼ぶことに決めた。平仮名で呼ぶ、というのも妙なのだが、どうにも目の前にいる女の子には、『香』という字も『薫』という字も当てはまらない、そんな気がしたからだ。
「かおるちゃんは…」と邦子は平仮名で声をかけてみた。「はい」と元気よく香は返事をする。その返事を聞きながら、邦子は自分の名前が嫌いだった子ども時代のことを思い出していた。
 邦子が子どもの頃にはすでに、子で終わる名前の女の子がとても少なくなっていた。小学一年の時に同級生だった友だちの名前は美樹ちゃんと言って、その名前を聞いた途端に、なんて素敵な名前なんだろうと邦子は思った。そして、自分の邦子という名前を眺めながら、なんて古くさい名前なんだろうと思い、なんて堅苦しそうな見た目なんだろうと思ったのだった。それでも、母が邦子の名前の由来を話してくれる瞬間だけはなぜかとてつもなく幸せな気持ちになれたことを覚えている。
 母はまだ幼かった邦子を膝の上に載せながら、よく話してくれた。
「邦子の邦っていう字は、日本のことなのよ。邦子が生まれたとき……その時はまだ邦子って名前は付いてなかったけど、お父さんとお母さんは、この日本の素敵な風景をみんな邦子にあげたいと思ったの。日本中ぜんぶ邦子のものにしたいと思ったの」
 そう言いながら、母は邦子の頭を撫でてくれた。日本中の素敵な風景を全部自分がもらいたいとも思わなかったし、なんとなく母が言っていることが滑稽に思えたのだけれど、それでも、うっとりと話す母の声と、頭を撫でてくれる手の温もりが心地よく、邦子はその光景を今でも絵本の中の一場面のように思い出すことができるのだった。
 いま、香の目の前で、そんな子ども時代の風景を思い浮かべている時に、同じ母の膝の上から見た別の風景を思い出した。
 お正月や法事などの親戚縁者が集まる席で、よく邦子は母の膝の上に載せてもらっていた。普通なら父親の膝の上のような気がするのだが、せっかちで落ち着きのない父は、いつも誰かに酒をついでいたり、聞きたくもない話に耳を傾けたりしていて、そんな場所で邦子にかまってはくれなかった。
 いつも、邦子は母の膝の上で、集まってくるいろんな人たちの顔を眺めていた。そんな中に、ジュンさんと呼ばれている女の人がいた。ジュンさんはいつも親戚縁者の輪の中心から外れたところにいて、背筋をすっと伸ばして綺麗な正座で座っていた。
 母はジュンさんを見つけると、小さく「あ、ジュンさんみっけ」と声に出した。そして、邦子に「ジュンさんは凜としていていいよねえ」と言うのだった。邦子も母の言う通り、綺麗な正座で座っているジュンさんの後ろ姿が好きだった。
「ジュンさんって、誰のどんな血縁だったんだろう」
 邦子が声に出して言うと、香は不思議そうな顔をして「ジュンさん?」と返した。
「ごめんなさい」と邦子が笑うと、香は「なんだかとてもほんわかした顔をしてましたよ」となんの躊躇もなく、まっすぐに言う。
「父の写真を見ていたら、子ども時代のことを思い出していたのよ」
「邦子さんの子ども時代って、なんだかとても可愛かったはずって気がします」
「ありがとう」と言いながら、自分の顔が赤らんでいるのではないかと邦子は気になった。
「可愛いかどうかはわからないけど、引っ込み思案のくせに好奇心旺盛だったわ。うちの親戚はお正月やお盆に、みんなおばあちゃんの家に集まるのが大好きだった。そんな時に、母の膝の上にだっこされながら、いろんな人の顔を見るのが私は好きだったの」
「なんかいいですね。守られて安心しながら、世の中を眺めている感じが可愛い」
「その可愛いって言うの、勘弁して」と邦子が笑いながら言うと、香は小さく舌を出した。
「ごめんなさい。でも、正直な感想なんです」
「正直な感想なら許す」
 二人はしばらく互いを見ながら笑う。
「それでね、その親戚が集まってくる中でも、一番好きな人がいたことを思い出したの」
「好きな人?」
「たぶん、遠縁のおばさんなんだけどね」
「男性かと思いました」
「ううん。女の人。いま思うと、いまの私よりも一回りほど年上だったのかもしれないわ」
「その人が好きだったんですね」
「そう。その人が背筋を凜と伸ばして正座している姿が大好きだったの」
「ワンピースで」
「そう、ワンピースで。どうしてわかったの」
「わかりませんよ。勘です、勘」
「するどいわね」
「こう見えても」
 邦子はテーブルの上に置いてあった空しか写っていないモノクロの写真をもう一度手に取った。
「あ、」邦子が小さく声を上げると、香はそれこそ好奇心いっぱいの視線で、邦子を見つめた。
「ジュンさんは……」
「ジュンさんっていうんですか? その人」
「そう、ジュンさんっていうの。で、いま思い出した」
「………」
「母が言ってたことがあるのよ。『ジュンさんは長野に住んでるのよ』って」
「長野ですか」
 そう言って、今度は香が、邦子の持っていた写真をじっと見つめた。
「そうか。長野に住んでいたんだよね、ジュンさんは」
 そして、邦子は小さく「ジュンさん、みっけ」とつぶやいた。

しもた屋之噺(138)

杉山洋一

半年ぶりに日本に戻ると、やはり前とは随分違う街並みだと感じます。子供の頃から通った渋谷や下北沢の駅でまごついてしまうと、流石に自分の環境適応能力が低いのかと悲しくもなります。家人絡みで「ブエノスアイレスのマリア」を観た帰り道、息子に話の筋は分かったのかと尋ねると、「マリアの話でしょ。その程度は分かった。ところで、あれはペルー語だったの」と答えが返ってきました。彼のミラノのクラスメート、フェルナンドやアレッサンドラ、ヴァレンティーナなんかがいつも話している言葉だと思ったようです。ところで、彼は自らの故郷はイタリアだと思っているそうで、「だって生まれたのはミラノでしょう」、と至極当然という顔で言われたときは、少し驚きました。
思えば、自分が小学校3年生だったころに、自分の故郷について考えたこともなかった筈だから、息子が少し羨ましい気もするし、成るほどこうした積み重ねが、アイデンティティの形成の根底を成すのかもしれません。三軒茶屋の駅から家までの道すがら、一時的に通っている世田谷の小学校で習った言葉の意味を尋ねられました。「あたたかい気持ちを伝える」ってどういう意味。感謝を伝えるということなの。有難うという気持ちなの。
「さあ、どうだろう。それだけではない気もするし、すべて収斂させれば、確かにそんな意味になりそうな気もするが」というと、息子は不思議そうにこちらへ顔を向けました。「お父さんは、日本語上手なの?」。

6月某日 サンマリノ・旅籠「リーノ」にて
サンマリノの常宿に久しぶりに足を踏み入れると、皆がよく帰ってきたね、と集まってきた。オーケストラの練習場に着くと、どうして久しく来なかったのよと皆に声をかけられ、2年ぶりに会う練習場横の可愛らしい喫茶店の妙齢jは、可愛らしい赤ん坊を抱えてこぼれそうな笑顔で挨拶してくれた。笑顔に囲まれるのは、幸せ。
久しぶりにグラズノフのサックス協奏曲をやったが、弾きにくいのはいつでも同じ。変へ長調に臨時記号と経過音を載せて真っ黒になった楽譜を見ながら、いにしえの封建的ロシア社会ヒエラルキーの一端を見る思い。どんなに難しいパッセージを書こうとも、演奏家はとにかく音を並べなければならない。後年の「平易でなければならない」というソビエト文化のスローガンは、してみると逆説的どころか諧謔的にすらひびく。どんな楽譜を書こうとも、平易そうに聞こえなければならない、さもなくば、平易に聴こえさえすればよい。和声は実は平易だが、何重にも重ねられた装飾でほとんど見えないほどのこともあるし、聞こえさせまいと懸命に飾り付けているようでもある。
過度にきらびやかな装飾と、神経質なまで簡潔で欺くことのないかくされた骨組みは、チャイコフスキーでもスクリャービンでもショスタコーヴィチでも同じ。ショスタコーヴィチは、この「平易な姿」をほとんど逆手に取った作風を展開した。プロコフィエフやラフマニノフが西洋風に聞こえるのは、骨組みに西洋風な手を加えているからだが、本質的な傾向は一緒。少し見る角度は違うかもしれないけれど、ストラヴィンスキーだって本質的には同じだろう。ロシア正教会をロシアでみたとき、少し彼らのバックボーンが見えた気がした。天井はあまり高くなく、単純な作りだけれど、ひしめく装飾と、ほのぐらい空間に浮き上がる、数々の神秘的なイコンが、焚かれた香の向こうでゆらめいている。全く反対に、一見何の変哲もない風景に見えながら、まるでだまし絵のように構造が入組んでいるのが、たとえばハイドンかもしれない。
常宿の親父の家に招かれ、オーケストラ練習の始まる5分前まで、彼の息子のピアノを聞いてやってほしいと引き留められた。そうして練習時間ちょうどにリハ会場に入ると、オーケストラ団員がヨーイチが消えたと揃って心配している。二日目の練習は、リハーサルがサッカーのチェコ・イタリア戦と重なり男性陣は気もそぞろ。「みんなイタリア人じゃないでしょう」と悪戯っぽく言うと、誰もが決まって恥ずかしそうに頭をかく。よって休憩を減らし練習も早めに切り上げる。こちらも勢い宿でステーキを頬張り、ウイスキーを呷って、サッカー観劇。

6月某日 自宅にて
市立音楽院の卒業証書が国立音楽院と同じ資格をとれるようになったので、全体職員会議が開かれた。新しく書かれた学校規約を皆で読みながら、各自意見を言い合う。
「レッスン室内での飲食は一切禁止する」。この項はどうですか、と学長が講堂一杯に並んだ教師陣に問うと、歌クラスの教師が手を挙げた。「歌の生徒たちはみな飲物を持参しなければなりませんがどうしますか」と発言して、周りの教師たちの失笑を買う。それに応えて、「それなら、韓国人の歌手にニンニク禁止令を出してくれんとな。教室が臭くてたまらねえもんな」と聞えよがしに話す輩が近くにいて、気分がわるくなる。「ああ、日本人のことじゃないから悪くとらないでよ」とこちらに目配せしてくれて、逆効果。
日本政府は、原発の再稼働と輸出に力をいれているけれども、それに対して自分が何を思っているのか、見失いそうになる。9月の本番のために、サロウィワにまつわるヴィデオを片っ端から見直す。オゴニランド、ベインの女性たちが、毎木曜日の朝6時に、サロウィワの遺体が何時しか埋葬されたと信じている墓の周りに集い、キリスト教の聖歌を歌い、断食して祈りを捧げる姿が、しずかに心を穿つ。
95年にサロウィワが処刑される前から、彼女たちは毎週サロウィワと集い、祈りをささげ、断食を続ける。処刑後、そこに集う女性の数は増え続け、サロウィワの墓は、みなが集まる教会のような姿になった。教会のもっとも自然な姿であると同時に、クリスチャンがクリスチャンに何の罪悪感なく手を下せるとしたら、宗教とは一体なんだろうとも疑問を覚える。尤も、それは不遜で邪まな思考なのだろうけれども。
教会入口に掲げられた旗にはモットーが書かれている。「断食と祈祷」。その下に描かれた二人の天使の足元には、「イエスの名のもとに、神はわれわれと共にあらせられる。アーメン」。
近代化された生活を享受する自分に、誰をも糾弾する資格がないのは、よくわかっている。

6月某日 ミラノ行最終列車内にて
朝、R社に楽譜を取りに行き、そのまま練習会場へ向かう。毎日微分音のリハーサルをしていると、耳が変化してくる。それが良いことかどうかはわからないが、ていねいに音程を合せる大切さを改めて感じる。互いに音を聴きあうことで、音をぶつけ合うことがなくなり、アンサンブルの音そのものが円やかになる。
パリのジェルヴァゾーニのクラスに、妙なピアノが2台鎮座していたのを思い出す。一つは四分音低く調律されたピアノでもう一つは16分音ピアノ。微分音が文字通り鮮明過ぎるほど聴こえてくる。このピアノで毎日微分音の作品を聴いていれば、まるで、平均律ピアノで訓練された耳で歌うソルフェージュのように、微分音が操れるようになるのだろうが、個人的にはそう訓練したいとは全く思わない。思えば子供のころは、今よりずっと絶対音感があった気がするけれど、特にイタリアに住むようになって、どんどん曖昧にしたいと願ってきた。一見不明瞭にすることから、自分の耳で音をさぐる面白味が見えてくるから。
今日はピアノの調律をグリゼイのために変えてもらう。「音の渦」では、このピアノの四分音が、さまざまな部分の音程合せの核となる。四分音は、言ってしまえば西洋音楽の訓練を積んだ管楽器奏者や弦楽器奏者にとっては、無意識に唇や指の当て方で微調整する範囲なので、どの部分でどの音からどう音をつくるか、あらかじめしっかりと理解しておかなければならない。たまたま近くを通りかかったヨガ教室の生徒さんたちが、揃って通し稽古をきいていた。何でも扉の向こう側で、45分間立ち尽くして耳を澄ませていたそうだ。ヨガをやっているだけはあると感心するが、みな一様に言葉もでないほど感激していて、却ってこちらが驚く。
ところで、昼休みソファーで寝ていると、若い男が呼び鈴を鳴らして入ってきた。
「すみません、イントナルモーリを受け取りにきました」、と出し抜けにいとも簡単に言うので、耳を疑ってしまった。「確かにトイレの前に、怪しげなレバーが付いた箱がある。まさかとは思ったが、あれは本物のイントナルモーリだったのかい」。「ああ、これです。有難うございます。ずいぶん大きいですね。一人で持てるかな。ああ、大丈夫です。それでは失礼いたしました」。「イントナルモーリにしては、ラッパがないけど。これでいいのかい」。「たぶん、これでいいと思うんです。ありがとうございます」。
その暫く後に、今度は家主がやってきて、後で誰かがイントナルモーリを取りにくるので宜しく頼む、と言う。
それなら、さっき若い男がきて引取っていったというと、箱の下のブリキの筒も持って行ったか尋ねるので、それは持っていかなかったと答えた。果たして、くだんの若い男が戻ってきたので、
「ラッパを忘れたんだね」。
彼はわらいながら肩をすくませ、ずいぶん大ぶりのブリキのラッパを抱えて出て行った。

さて、さきほどパルマでアルフォンソの演奏会を聴き終わり、がらんどうの最終特急でミラノに戻っている。
往きにパルマのクレープ屋で道をたずねたところ、蜂蜜クレープから蜂蜜が滴り、上着とズボンが偉い目に遭った。ここ数日、北イタリア体感温度は摂氏42℃。酷暑どころではない上に、教えてもらった道順はどれも悉く間違っていたが、今にして思えば互いに暑気にやられていたのかもしれない。何れにせよイタリア人に道を尋ねることなかれ。それから、演奏会前に蜂蜜クレープは頼まぬこと。会場で知り合いに握手を求められ、「すみません、手が蜂蜜だらけでべとついているものですから」というと、怪訝な顔をされる。
アルフォンソは今晩、1曲目にプリペアドピアノを演奏し2曲目に「子供の情景」を弾いた。その折、シューマンを弾く前に取り去るはずだった1曲目の全てのプリペアドを、一つ二つ残してしまっていたらしく、左手で突然妙な音がした。どうするのかと思いきや、繰り返しは器用にオクターブずらしてプリペアドを避けていたのに感心する。エキセントリックな「子供の情景」とショパンの前奏曲だったが、個性のある演奏は別の意味で説得感もあるし、作品の気が付かなかった側面が見えて面白いこともある。あそこまでペダルを外し、独特のアクセントをつけたショパンの前奏曲は、黒死病で踊る死神の姿を彷彿とさせた。自作よりも骸骨の踊る不思議なショパンの前奏曲が、よほど印象に残ったのだから、やはり彼の作戦勝ちだと思う。

6月某日自宅にて
Sで練習が終わり、夜はミラノ工科大学で、ディヴェルティメント・アンサンブルの演奏会におもむく。屋外に舞台が組まれ演奏会が催されたのだが、近所では大音量のロックコンサートが同時進行中で、絶叫する観客の歓声とあいまって、目の前の音響はさしずめノーノの「森は若々しく生命に満ちていて」のようにも、「真昼のように煌々と輝く工場」のようにも聞こえる。かいつまんで言えばアンサンブルが何を弾いているのか、まるで聴こえない状態で、演奏は一時中断。
夕べは練習が終わっても立上る元気がなく、練習も座ったままやり過ごした。何とか家にたどり着き、熱を測ると39度。起きているのか寝ているのか意識も定かでないまま、布団に入り、まだ夜明け前の朝の4時半にひどい寝汗で体が凍えて目が覚めた。すると、上でなにかコトリと音がしたので、耳をそばだてる。暫くするとまたコトリ、と音がする。初めは、耳の錯覚か、隣の家で犬がうろついているのかと思ったが、三度目にコトリとした瞬間、文字通りパンツ一丁で階段を駆け上ると、果たして庭に面したガラス戸を、黒装束の男2人が何やらこじ開けようとしていた。そのまま彼らに駆け寄り面と向かって大声で泥棒だ!と怒鳴ると、男どもは線路伝いに逃げて行った。尤もあと1分も遅ければ、彼らは家に侵入していたに違いない。二人に組伏せられてどうなっていたかも知れないことに気が付き、初めて鳥肌が立つ。

6月某日 マントヴァからの帰宅途中車中
夕べはミラノで「時間の渦」を演奏し、個人的に何通かメールまでもらった。ミラノのスペクトル音楽を書く作曲家などから、ずいぶん興奮したメールをもらったので、自分の楽譜の読み方も悪い所ばかりではなかったのかと少々安心。昼に、友人の結婚披露パーティーのために、アッビアーテグラッソ近郊の農場へでかけ、午後4時過ぎの電車でマントヴァにでかけた。
車中一人でぐっすりと眠りこんだ。ヴェネトとロンバルディアと、エミリア・ロマーニャの交差するマントヴァの街並みは、何時きても美しいとおもうし、人も明るい。今日は一切お目にかかれなかったが、料理も飛びぬけて美味。今日の「時間の渦」は、夜のとばりに立ち上る深紺の怪しげな積乱雲と不釣り合いな月に照らされながら、16世紀に作られた屋外の舞台で演奏したが、遠くに聴こえる鳥の声や、木々をわたる風の音が、グリゼイと絶妙に雑ざるのが新鮮だった。後で送ってもらった写真をみると、立ち上る雲は、人が手を広げたような姿でもあり、息子曰く、吠える龍のようにも見える。幻想的な夜の風景。響きすぎず、かといって乾きすぎず、舞台の音響も思いのほかよく作られていて、先人の文化人たちの趣味の良さに舌を巻いた。確かにそのころ、マントヴァは文化都市として花形の地位を築いていた。
夕べ、ここ暫く練習に通ったスタジオSで、主人のフランコが自慢げに、漆塗りに蒔絵がほどこされた、ずいぶん古そうなお盆を見せてくれて、何でもロンドンの骨董品屋で見つけたという。1800年代のものだとかで、朱はところどころ剥げて、金箔もすっかり黒く変色しているけれど、賑々しく品もある絵柄が魅力的だ。何しろ芽出度い雰囲気なのがいい。ふと押されている印に目を凝らすと、確かに「杉山家」と書いてある。余りに妙な因縁に、思わず愉快な気分になった。

(6月30日 三軒茶屋にて)

ジャワ舞踊とピストル

冨岡三智

大河ドラマ「八重の桜」を見ていて、女性と銃…ということで、今月はジャワ舞踊とピストルについて書こうと唐突に思いつく。実は、ジャワ宮廷の女性舞踊スリンピ(4人で踊る)とブドヨ(9人で踊る)では、武器にピストルを使うのだ。実際に手に持って踊られる機会はほとんどないとはいえ、振付にはその所作がきちんとある。だいたい、古典舞踊にピストルというのも不思議な取り合わせだ。飛び道具を持つなんて卑怯な〜なんて言われたこともある。というわけで、どんな風にジャワ舞踊でピストルを使っているのか、紹介したい。

まずは銃だけれど、ジャワ舞踊で使うのは片手で持てる短筒で、火縄銃や八重が持っている銃のような長筒ではない、念のため。ネットで検索してみたら、オランダ古式銃という名前で写真が見つかった。ジャワでピストルを持っている人に見せてもらったのと同じデザインだ。その人は、オランダに行った時に買ったとかで、アンティークのレプリカだという。このピストルを、衣装のベルト中央に引っ掛けるのだが、現物を持つと、ピストルがずしりと重い。舞踊の中でピストルを手にするシーンは合計10分もないと思うけれど、持つ時の指にもポーズがあるから、細腕には堪えそうだ。現物のピストルを使わない場合は、腰に結んだサンプールという布を代わりに手にするが、基本的に所作は同じである。

では、どんな風に振付に入っているのか。曲によって多少細部は変わるが、振付のおおまかな流れは同じだ。まずは右手でピストルを抜く。それからピストルを左掌で受ける。私の師匠が教えてくれた振りには、金具を外して弾を込める所作まであった。それを合図に曲のテンポが速くなり、ピストルで撃ち合うのだが、このシーンには、離れた所から1対1で撃ち合う(スリンピ、2組が撃ち合う)パターンと、4人または9人全員が円を描き、互いに近づいてその円の中心に向かって撃つ場合(ブドヨ、スリンピ)パターンの2つがある。1対1の場合は、互いに右肩を敵の方に向け、ピストルを持った右手を肩の高さまで上げて、腕を伸ばして打つ。要はピストル射撃の恰好だ。一方で、全員が真ん中を向いて撃つ場合、みんな左肩を円の中心に向けるような恰好で立ち、ピストルはおへその位置で構えて、銃口を円の中心の地面に向けて引き金を引く。いつも思うのだが、こんな隊形で発砲することは実際にあるんだろうか…。

撃ち合ったあと、音楽はゆっくりと静かになり、シルップ(鎮静)と呼ばれる演出になる。負けた設定の人が座った後、ピストルをしまう振りがあって、勝った人が負けた人の周囲を巡る(曲により、さまざまな軌跡を描くように巡る)。そして、次にまた撃ち合いがあって、今度は別の人が座り…と、同じことを繰り返す。ジャワ舞踊では、戦いが善悪の相克のメタファになっているから、戦いは2回あって、どちらか一方が一方的に勝つことはないことを表現しているとされる。とはいえ、このように2回撃ち合いがあるのはスリンピだけで、ブドヨには1回しかない。さらに「ブドヨ・パンクル」だと、全員で発砲してピストルをしまった後にはシルップのシーンがなく、ピストルをしまった踊り手はそのまま移動して最後の終りの定型シーンに入る。なんだかピストル・シーンがクライマックスみたいな位置づけだ…。「スリンピ・アングリルムンドゥン」も、これと同じ進行でピストル・シーンがある。ただし、こちらは弓合戦のシーンとシルップが2回あってその後にピストル・シーン。この作品では、踊り手は実際には弓を持っていないけれど、弓を弾く所作は抽象的に描かれている。

「スリンピ・ロボン」と「スリンピ・グロンドンプリン」という曲では踊り手は実際に弓を持って入場し、2回弓合戦した後にピストル・シーンがあるのは「アングリルムンドゥン」と同じだが、円の中心に発砲するのではなくて、踊り手が最初の位置に戻る(最後の場面)ために移動しながら撃つところが違う。ピストル・シーンは不可欠だからというので、振付に入れ込んだという感がしないでもない。正直なところ、行きがけの駄賃で発砲しているように見えてしまうんだなあ…。

「スリンピ・サンゴパティ」になると、ピストル・シーンはこの2作と同じような感じだが、その前の弓合戦がワイングラスで乾杯するシーンに代わってしまう。シルップは戦いとセットになっているはずだが、ここに至っては、善悪の相克なんてテーマはどこかにいっているよなあ…。

私見だが、宮廷舞踊はピストルの戦いを2回描いて精神的テーマを表現するよりも、美的追求やマニエリスムの方向に流れていったのだろうと思う。ジャワ宮廷舞踊は、一番古い「ブドヨ・クタワン」が1643年作で、当初はブドヨしか作られなかったが、1820年代前半(パクブウォノV世)からスリンピが作られ始める。宮廷舞踊の新作が作られたのはパクブウォノIX世(19世紀後半)までで、「スリンピ・サンゴパティ」はIX世作なのだ。つまり、「サンゴパティ」は現存する宮廷舞踊では最も新しい曲ということになる。

ただし、スリンピで最も古いものとされる「ルディラマドゥ」には、ピストルだけでなく戦いのシーンが何もない。それに、古いブドヨ(「クタワン」や元がブドヨだった「スリンピ・アングリルムンドゥン」など)のメインの戦いは基本的には弓である(手に弓を持たなくても)し、ブドヨでは戦いとシルップのシーンは1回しかない。また、上でも書いたけれど、全員が円を描いてピストルを発砲するシーンはあまり写実的でないので、もしかしたら、元の振付は剣や他の武器を持っての戦いだった可能性もある(そう主張する踊り手もジャワにはいる)。という風に考えていくと、ピストルを宮廷舞踊に取り入れるというアイデアは、スリンピという女性4人で踊るフォーム、ならびに2度の戦いの描写を通じて善悪の相克を表現するという振付構成のコンセプトと不可分に発展してきたのかもしれない。そして、そのコンセプトがブドヨにも取り入れられたのだろう。

ここで、宮廷の男性舞踊に目を転じてみると、実はピストルを使う作品がない。それは、男性舞踊にはだいたいキャラクター設定があるからだ。つまり、マハーバーラタなどといったベースになる物語があるので、その枠で持つ武器が決まってしまうのである。スリンピやブドヨは、下敷きとなる話があっても抽象的な表現になっている(これはスラカルタ宮廷のみだが)ので、新しい武器であるピストルが入ってくる余地がある。逆に、ピストルを使うからこそ、新しいテーマ表現が可能になったのではないか…という気もする。

ジャワ舞踊でピストルといえば有名なのが、インドネシアの振付家、サルドノ・クスモの作品「ゴングの響きの彼方より」である。これは日本でも1996年に国際交流基金で上演された。ちなみに、私の舞踊師匠の旦那がサルドノの舞踊・音楽の師で、この作品に演奏家として出演していた。この作品でははじめ「スリンピ・サンゴパティ」が上演され、乾杯を経て発砲するところで場面が転換して物語の後半へと突入していく。同曲のタイトルがかつて「サンゴパティ」から「サグパティ(死の支度)」に改名されたことがあるという伝承をもとに、サルドノはワインと拳銃に象徴されるオランダ支配と、それに抵抗するジャワの命がけの闘争という主題が表現してみせる。私の周囲では、このサルドノ作品を日本で見たインドネシア事情通は、なぜか「スリンピ・サンゴパティ」だけがピストルのシーンがある特殊な曲で、このサルドノの解釈が宮廷舞踊の解釈なのだと思い込む傾向がある。けれど、私には、改題されたにせよこのスリンピにそんなクラシックな精神的な意味があったとは到底思えないのだ。私にしたら、現存するスリンピ、ブドヨの曲の中で、音楽的にも振付的にも一番技巧的でマニエリスム的な曲がこれ、古典舞踊的定型パターンが一番崩れているのがこの曲だ。私がインタビューした元宮廷の踊り手(1930年代生まれ)は、かつての宮廷では賓客を迎えたときにこの曲が好んで上演されたと言い、舞踊の乾杯のシーンでは賓客も一緒に乾杯したものだと言っていた。サルドノの作品中でも、踊り手に合わせて兵士が乾杯する。だからこそ、サルドノのように新しいテーマ――善対悪ではなくて、オランダ対ジャワというアイデンティティの相克――を表現するのにこの作品を使うことができたのだと思っている。他のクラシックなスリンピでは、ちょっと無理だっただろう。

佐渡 after Dazai

管啓次郎

ほそい雨が降っている。
船は走っている。
するする滑り、泳いでいる。
もはや、河口である。
ゆらりと一揺れ大きく船がよろめいた。
海に出たのである。
寒い。
ゆらゆら動く。
眼をつぶって、じっとしていた。
私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。
いまはまだ、地獄の方角ばかりが、気にかかる。
死ぬほど淋しいところ。
自分を、ばかだと思った。
いくつになっても、同じ事を繰り返してばかりいるのである。
意味がないじゃないか。
船は、かなり動揺しているのである。
全島紅葉して、岸の赤土の崖は、ざぶりざぶりと波に洗われている。
興奮しているのは私だけである。
空は低く鼠色。
雨は、もうやんでいる。
陰鬱な、寒い海だ。
船は平気で進む。
私は、狂人と思われるかも知れない。
銀座を歩きながら、ここは大阪ですかという質問と同じくらいに奇妙であろう。
ぞっとしたのである。
私は、いやなものを見たような気がした。
見ない振りをした。
大きすぎる。
つまらぬ島だ。
空も、海も、もうすっかり暗くなって、雨が少し降っている。
土の踏み心地が、まるっきり違うのである。
雨が降っている。
私は傘もマントも持っていない。
私は、ごはんを四杯食べた。
私は、さむらいのようである。
ひどく眠い。
雨は、ほとんどやんでいる。
道が悪かった。
波の音が聞こえる。
けれども、そんなに淋しくない。
夜半、ふと眼がさめた。
波の音が、どぶんどぶんと聞こえる。
眼が冴えてしまって、なかなか眠られなかった。
やりきれないものであった。
山が低い。
樹木は小さく、ひねくれている。
なんの興もない。
道が白っぽく乾いている。
佐渡には何も無い。
けれども来て見ないうちは、気がかりなのだ。
明朝、出帆の船で帰ろうと思った。
がらんとしている。
ここは見物に来るところでない。
やはり、がらんとしていた。
少し水が濁っていた。
ひどく、よそよそしい。
何の感慨も無い。
山へ登った。
ずんずん登った。
寒くなって来た。
いそいで下山した。
また、まちを歩いた。
私は味噌汁と、おしんこだけで、ごはんを食べた。
外は、まだ薄暗かった。
すべて無言で、せっせと私の眼前を歩いて行く。
女中さんは黙って首肯いた。

  (全行、太宰治「佐渡」作中の文のみで構成しました。)

「裸の島」を見て反省する

若松恵子

子どもが熱を出して、仕事を休んだ月曜日。曇り空も憂鬱な午前中に、ケーブルテレビで何気なく見た「裸の島」に感銘を受けた。これまでも、日本映画専門チャンネルの「日本の映画100選」というシリーズによって、題名だけ知っていた古い日本映画を見て、どの作品にも心を動かされて来たのだけれど、「裸の島」については、見ることができた偶然に感謝したいという思いを持った。

「裸の島」は、新藤兼人監督による1960年の作品。上映前に入る、品田雄吉さんの作品解説によって(映画を愛している人による適切、簡潔な、この解説部分のファンだ)、いっさいのセリフを排し、映像だけで描かれた作品であることを知ってから見たので、慌てずにゆっくり味わうことができた。

瀬戸内海に浮かぶ小島に暮らす、乙羽信子、殿山泰司が演じる夫婦と2人の子どもたちが主人公。島には段々畑があって、夫婦は夜明けから日没まで黙々と畑仕事に励む。島には水がなく、大きな島から桶に水を汲んでは小舟で運び、畑に水をかけねばならない。日射しが強く土は水を一瞬にしてすい込んでしまう。1日何度も小舟で水を運ぶ夫婦の姿が映画の中心となる。水の入った天秤棒をかついで段々畑をあがる夫婦の姿が、繰り返し、繰り返し登場する。

見始めてまず心を捉えられたのは、小舟を漕ぐ乙羽信子の動作の美しさだった。映画を紹介する文章に「映像詩」という表現が使われているが、1960年の、のんびりとした瀬戸内の風景と、働く人間の肉体はともに美しく、確かに色々な思いを呼び起こす「詩情」溢れる映像になっていると私も感じた。セリフが無くても、肉体そのものが映画をどんどんひっぱっていく力を持っている。俳優2人は、1週間練習して天秤棒を担げるようになったという事だが、現在の女優にできるだろうか。当時の女優がまだ持っていた生活力(生命力)というようなものについて考える。

子どもたちも、親が必死に水を汲んでいる間に風呂を沸かしたり、夕食をつくったり、労働をする。両親の小舟が帰ってきたのを丘の上から見ていて、はずむように迎えに駆け降りてくる、ランニングと半ズボンの子どもの姿も美しい。子どもが釣った魚を大きな島の料理屋に売りに行って、ささやかな現金収入を得て食堂で食事をする幸福なエピソードが挿入される。そんな時には両親も洗濯したてのよそ行きを着ていて、彼らの明るいうれしさがこちらにも伝わってくる。

生きるために働き、たすけあい、いたわりあう。「裸の島」には、シンプルだけれど、確かな幸福が描かれている。お金をあまり持っていないから(お金で買えるものがほとんどないから)暮らしの全部を、自分たちの手で直接賄わなければならない。医者が間に合わず、急病になった子どもを亡くすというできごとが、映画のクライマックスとして描かれるのだが、子どもの棺を担ぎ、火葬にしてあの世に送り出してやるのも自分たちでやらなければならない姿を見ていると、何と私たちは直接やらない事ばかりになってしまったのだろうという事に改めて思い至る。

生きていくために必要な仕事のほとんどを直接自分で行う、そのことによって鍛えられた肉体、磨かれた人間の美しさが、この映画に描かれ、多くの人に感動を与えたのだと思う。ほとんどの日本人がそのように暮らし、女優もまたそのように育ちながら逞しい肉体を持っていた時代だから、成立した映画だったのだろう。

映画の最後、子どもを亡くした悲しみがまだ癒えない母親は、水桶をぶちまけ、野菜の苗を引き抜き、土に突っ伏して泣く。水を取りに行って留守にしなければ子どもの急変に気づいてやることができたのに、死の危険が迫った子どものそばに居てやれたのにと思う母親の気持ちはよくわかる。ありがとうとも言わず、すぐ水を吸い込んでしまう草々にむなしさを感じる気持ちもあるだろう。

並んで水やりをしていた夫は、そんな妻の姿をみつめ、大事な水をぶちまけてしまった事を責めるでもなく、おおげさに励ますでもなく、静かに見つめたあと、また水やりに戻る。前と同じように、直接水が苗に当たらないように、やさしく、ひとつひとつ、水をやっていくのだ。悲しい気持ちもわかる。でも、悲しさは、野菜にぶつけることではない。夫の姿から、そんな気持ちを想像する。夫のこの反応は私には意外なもので、考えさせられた。

2人のセリフは無いから、2人がどう思っているのかは、私の想像なのだけれど、2人の気持ちにぴったりな言葉などきっと無いのだから、むしろセリフが無いことの方がふさわしいのではないかと思う。ここまできて初めて、この映画にセリフが無いことの正しさがわかったように思う。

それにしても、答えのないことに対して、どんなに言葉を重ねて相手を責めたりしていたのかと、私のあり様について、反省させられたのだった。

製本かい摘みましては (90)

四釜裕子

日本で唯一の演芸専門の月刊誌「東京かわら版」をとっている。日にち別、会場別、噺家さん別、いろいろ探せる。今年の7月で通巻476号、420円とちょっと高いが、複数の寄席の入場料が月に一回は200円割引きになるので結局お得。落語でも映画でもコンサートでも目当ての情報はネットで便利に得られるけれど、自分の頭の外にある面白いものに巡り合うにはこうしてページをめくるのが一番いい。「ぴあ」首都圏版が廃刊になったのは2年前の7月。物ごころついたときにはいわゆる情報誌というものがなくなっている世代の人たちは、このあたりをどう感じるのだろう。誰かに聞いた。どうせ食べるなら町で一番おいしいものを、診てもらうならより上手な歯医者さんを、的な発想は、いまどきかっこ悪いそうである。面白いかどうかわからないものにわざわざ出会いたいと考えるのも、ガツガツしていてかっこ悪いと言われるのかな。

「東京かわら版」を持って鈴本演芸場へ。窓口に出すと桜の中に「か」の文字が入った判子が押されて返ってくるのがなんだかうれしい。全席自由、好みの席あたりに職場の仲間とやってきたようなおじさんグループがこんもりと座っている。端から1席空けて座ろうとすると、「すみません、そこは……」。遅れてくるひとのためにとってあるって。女子みたい。2列前に席を見つけて、冷えたビールをいただきます。中盤、何かがツボに入って、なんでもかんでも笑ってしまう。もはや何も可笑しくはなくて、腹筋か頬筋かの痙攣と涙が止まらなくなるあの状態だ。寄席にいて可笑しくもないのに笑うのはバカだ。腹や顔や涙腺に中抜きされた頭にまともな笑い回路を復活させるためおいなり2個を食う。「ちりとてちん」が始まって、お世辞上手の金さんが酒を呑むあたりまでうたたね。

笑うとなぜだが涙が出る。大笑いすると鼻水も出る。あの日の鈴本も涙と鼻水バージョンだった。冬は風にあたると涙が出る。夏は眩しくて涙が出る。涙にねばりというものがあるのかどうかなのだけれども、ねばりというか根性というか、涙粒になってからの表面張力が弱くなってきた気がしている。近頃涙腺がゆるんじゃって、というようなことではなくて即物的な話だ。きのうはラジオで三遊亭圓歌師匠の「中沢家の人々」と桂米助師匠の「沢村栄治物語」を聞いた。どちらも昭和の日本を生きた実在のひとを描いた新作落語だ。圓歌師匠でなければ米助師匠でなければそれぞれできない演目に違いないが、どんな古典も最初は新作だったことを強く感じさせられる。昭和の気配が懐かしさのようなものになって体に吹き込む。人ひとりずつは一人でも人同士はどの他の動物よりもよく似てるんだよねーと窓の外の雀に言う。笑うところや聞き入るところ、語りの波に頭と体が離れることなくついていく。しまいに一つ、薄い涙がつつーっとたれる。どちらも泣かせどころは特にない。

ギターが消えた(その1)

スラチャイ・ジャンティマトン

荘司和子 訳

しばしば起きるというはなしではない。ギターはわたしたちミュージシャンにとっては生活の糧となる商売道具であるから、無くなるということは痛恨の極みである。自分の命というくらいギターを愛していて、弦に錆はないし、いつもぴかぴかに磨いて完璧なきれいさにしているような弾き手ならなおのことだ。

わたしたちのボックスカーはどの窓もドアもしっかり閉まっていた。さらに先へ移動するところだったから、予定の時間に起きた。パッタルンからプーケットへ行くのだが、相当な距離があり5時間以上はかかる。それで10時に出て、午後3時に着くつもりだった。少々の遅れはかまわない。タラン市のテープガサットリー区でサッカーをやるのに、始球式に出ることになっている。区の職員と街の商店主たちの試合である。

「ギターがないっ」
楽器の管理責任者をやっている運転手ヤーが深刻な表情でわたしに言った。
「ふたつともない。忘れてないか部屋と旅人食堂を見に行ってる」
昨夜演奏した店のことである。

「ほんとうにないんだ」
という声にギターの持ち主が青ざめていくが、やむをえなかった。彼はわたしに次ぐギターのソリストである。しかもそのギターは彼が血のにじむような努力をして手に入れたもので、アメリカ製で3万バーツ以上はする。

つらいはなしで小一時間を費やし、茫然自失はするし疑問も解けなかったが、結局納得できるような答えはでなかった。それで損失はそのままに、とりあえず出発しなければならないので、解決策として彼にはわたしのギターを使ってもらうことにした。予備のギターが一台あったから。パッタルンの友人には消えた2台のギターをさがしてくれるようにと淡い期待を託しておいたのだった。

ウイスキーの楽しみ

大野晋

ついでだったのだが、仙台に行く機会があり、前の月に立ち寄ったニッカウヰスキーの余市蒸留所に引き続き、ニッカの宮城工場、俗にいう宮城峡蒸溜所に行くことができた。

宮城峡は余市と同じように都会の仙台からずっと山寄りに入った山間地にある。しかし、湿地帯の余市と比べると森の中にある。本州の住民にとってはこちらの方が自然の中といった印象を受ける。工場の設備は一見して、手作業の残る余市と比べると自動化されており、こちらの方が大量生産に向いている印象を受けた。実は、原酒の印象も、いかにも癖のある余市に比べると宮城峡はどちらかというと癖の少ない印象を受ける。それがなにに由来するものか? 工程すべてのあり方にあるのかもしれない。どちらかというと、規模としては小さいのだけれど、サントリーの白州蒸溜所とよく似た印象を受ける。実際には、宮城峡の主流の原酒はピート燻蒸を行わないノンピートの大麦なので、その辺が香りの印象を左右しているのだろうが。

さて、いくつかの蒸留所を回り、いくらかの原酒に触れと思うのは、ウイスキーというのは非常に面白い飲み物だということである。まあ、シチュエーションに応じて、自分の好きなウイスキーをあけるので、全く構わないのだが、いくつかの予備知識があるとウイスキーが途端に近くに感じられて面白い。

例えば、ウイスキー独特の苦みともつかない燻蒸香はピートによる乾燥時の燻蒸に由来している。ピートはいろいろと呼び名があるようだが、泥炭という名前で呼ばれることもある。もともとは、過去のミズゴケや葦などの枯れたものが堆積して炭化したもので、日本などでは高層湿原などでよく見られる。ウイスキーの故郷のスコットランドは緯度の高い地域で、日本の北海道以北によく似た気候であるために、高い木が生えないため、この泥炭を燃料に使用したのがもともとの由来だと考えている。もともと多く生産できるものではなく、過去の蓄積を消費していたので、近年では自然破壊などの問題で生産量も限られると昔テレビか何かで見た覚えがある。

この貴重なピートを使用したもの、ピートを使用しないでピートの香りのしないもの、そして強くピートの香りを付けたものの三種類が原酒の仕込みに使われる。ピートの香りのしないものは軽く飲みやすく、ピートの強いものはウイスキー独特の香りがして癖が強いものになる。

次にウイスキーの風味を決定づける条件に樽がある。実はピート以外の香りのほとんどは樽由来の香りと言っても言い過ぎではない。樽には大きさ、素材、新しい樽なのか、それとも昔何かの熟成に使用した樽なのか、で違いがある。現在、最適といわれるのは北米産のホワイトオークの樽らしいが、そのほかにヨーロッパカシや日本のミズナラなども使われる。いちばん、樽の香りの強いのは新樽だが、他の酒の熟成に使用した樽も使われる。シェリー酒がその主なもので、他にバーボンの樽も利用される。ウイスキー以外の酒の樽を使用する場合は、主に香りづけが目的で、シェリー酒の樽を使用した原酒は甘い香りをまとうことになる。中には1種類の樽だけではなく、複数の樽を使用して、複雑な香りづけを目的に熟成される原酒もある。こういった前知識があると、例えば、原酒を飲んだ時に、その酒の樽や由来に思いをはせることができ、とても面白いと思う。

例えば、余市原酒の特徴的なカスク(樽)はピート香のする新樽のもので、新しい樽由来の木の香りを強く感じる。そのうえで、年数を経るに従い、アルコールのうちの揮発性の強いつんとくるものが減り、まろやかなアルコール感だけが残るが、頂点を過ぎるとおいしさは薄れ、酒の感じのしない木の香りの化け物になっていく。まあ、そんな化け物は蒸溜所は売ってくれないのだが。

こんな感じに香りを楽しみながら、自分にあった飲み方にあうウイスキーを選べばいいだろう。なんでもかんでも、年数が古いものが良いわけでもない。ちなみに、私は強いシェリーの香りが苦手である。強いお酒は、それほどの分量を飲まなくても楽しむことができる。夜の余韻を感じながら、強い原酒を水を片手に、ちびりちびりとやるのも楽しい。

新しい楽しみができたなあととくに感じる今日この頃である。

眠る10分前

璃葉

鴉の声がひとつ、ふたつ
カーテンを少し開けて、外を覗いた
宝石のような灯りが点滅している
赤・青・白・黄

眠る10分前
四角く、じめっとした暗い部屋の中で寝転がり
じっと動かず、天井のある一点だけを見つめた
まるで水槽の中の魚のようだ
車が通過するたびに天井を走る細い光は
近づいてきたり、遠ざかったりする
人がつくった光は速く、忙しい

魚は花の夢を見る
想像は、光のなかに消えてゆく

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サッカー事情

さとうまき

僕は、ワールドカップには嫌な思い出があってしばらくはサッカーファンをやめていた。それは、日韓大会のとき。2002年と言えば、パレスチナはイスラエル軍の侵攻が始まり、ジェニンの難民キャンプでは、テロの巣窟だと言って、激しく破壊されていた。私の部下がその時、テルアビブの飛行場でイスラエルに入国を拒否され、拘置所の様な所に入れられたという情報が入ってきた。なのに東京の同僚たちは仕事中なのに、ラジオを持ち込んで大騒ぎしている。「なんなんだ?」という怒りが込み上げてきた。

それでも、イラクの仕事を始めてから、サッカーのすごさを感じた。2007年、アジアカップだ。イラクでは、宗派対立が激化し、内戦状態になっていた。そんな状態でも、スンナ派、シーア派、キリスト教徒、クルド人からなるナショナルチームは優勝した。もう言葉にならない感動だ。一体なん人の血が流れたか。スポーツ選手も誘拐されたり、殺された。優勝は、本当に、イラク人みんなが心の底から喜んだのだ。

その時からだろう。イラク人たちは、自ら戦いをやめ和解の道を模索し始めた。治安はその後、急速によくなっていった。もちろん、それだけではないとは思うが、もしかしたらサッカーはそれだけの力があるのかもしれない。

2014年、ブラジル大会、アジア最終予選まで残ったイラクだった。僕は、ぜひイラクに出てほしいと思い応援してきた。しかし、イラクサッカー協会は、マネージメント能力がない。前回の南アフリカ大会の予選では、サッカー協会が内紛でごたごたしてしまい、FIFAは、イラクの国際大会への出場停止を決めてしまう。今回もジーコがせっかく監督になっていたのに、サッカー協会が給料を支払わないとかで、ジーコはやめてしまった。それよりも何よりも、イラクには、ホームがない。治安を理由に国際試合が国内でできない。それで、今回も、代わりにカタールのドーハがホームの代わりになった。

せっかくなので、バグダッドで仕事していた井下医師と僕は、日本に帰る途中で6月11日の、イラクVS日本戦を応援しに行くことにした。ローカルスタッフのイブラヒムは、サッカーが大好きなので、一緒に連れて行ってあげることにした。彼は張り切って、イラクのユニホームを買ってきてくれた。しかし、問題は、カタールはイラク人にビザを出さないという。これはかわいそうだ。ほとんどのイラク人は応援に行けないというのだ。

イブラヒムの分まで、応援するぞと意気込んで、カタールに到着する。バグダッドからドーハに飛ぶ飛行機は砂嵐のために遅れたが何とかゲームには間に合った。サッカースタジアムに到着すると、日本からの応援団がサムライブルーのユニホームを着て楽しそうだ。イブラヒムがくれたイラクのユニホームを着た僕らは、居心地が悪い。

スタジアムはガラガラでなんと日本のサポーターの方が多いのである。入場の時に子どもたちと選手が手をつないで登場する。子どもたちも全員が日本人。イラクのユニホームは、Awayの緑のものを着用しているのだ。これじゃあ、日本が圧倒的に有利である。結果は、イラクは0-1で敗れた。キャプテンのユーニス・マフムードはこの試合で引退を決めた。ちょっとここの所、イラクは負け続けてしまったので、応援している僕はどうも不機嫌になりがちだったが間近で選手たちを見てまた応援しようという気になる。

日本の選手たちは、すぐにブラジルへ飛んで行った。今度は、あれだけ強かった日本だが、ブラジルでは一勝もできなかった。世界の壁はあつい。スタジアムの外では、連日ワールドカップに反対する人たちのデモ。スタジアムを作る金があるなら福祉対策、貧困対策に仕えというのだ! あのサッカー大国のブラジルがワールドカップに反対するなんて。

そして6月末からトルコで始まった20歳以下のワールドカップ。こちらはイラクの若者たちが快進撃で、予選をトップで通過した。この若者たちは、一体内戦の時代をどう生きて成長したのだろう。僕たちが、戦争中であった子どもたちが、同じ年頃。たとえば19になるムスタファ君は米軍のヘリから発射された弾丸で足を撃たれた。彼の夢は、「サッカー選手になること」。彼に会うといつも、「サッカーができないのが悔しい」と言っていた。戦争がなかったら選手になっていたかもしれない。

そのトルコでは、オリンピックに反対する人たちのデモ。日本はどうだろう。東京オリンピックでみんな幸せになれるのかな? 弱いものにやさしいスポーツたれ。

スーパー・ムーン

仲宗根浩

ついに見ることができました。ポール・マッカートニー&ウィングスの「ロックショウ」。七六年アメリカツアーのライヴをおさめた映画です。五月末に完全版として初DVD。ついでにブルーレイ版も購入してしまいました。中学生の頃に出たライヴ盤「ウイングスUSAライヴ!」の映画です。これを待っていたんです。当時の中学生はLP三枚組を購入した津田くんの家でこのアルバムを聴きました。バンドマンに徹するポール・マッカートニーがすばらしい。ビートルズのメンバーで唯一バンドでロードに出たのはポール・マッカートニーのみです。「レット・イット・ビー」の屋上ライヴからずっとライヴに執着したポール・マッカートニーの姿、シンセやハモンドオルガンでちゃんとバンドメンバーとしてしっかりと演奏するリンダ・マッカートニーもすばらしく、四回も見てしまう。あと何回か見てみないと、使用している楽器やアンプ、機材などの特定は難しい。

しっかし暑い。といっても内地のような猛暑日はないが、夜の十一時前で気温が二十八度とかだったりするとこれはこれでいやになる。最低気温が二十七、八度というのが九月くらいまで続く。夕方から夜の風は暖風もしくはぬるい湿った風。仕事中は例年通りだらだら汗をかく。

去年の梅雨がどうだったかは詳しく思い出せないが、今年の梅雨は一時的に大雨、六月になると太陽がしっかりと熱したアスファルトに少しの雨が降り蒸し焼きになる。蒸し焼きにされたままネクタイ締めて動かなくてはいけない梅雨も十四日に明けた。

夏至が過ぎた日曜日の六月二十三日、慰霊の日は仕事に追われ黙祷もできない。この日は月が一番近づいて大きく見える日というので、外に出たときにちらっとみるスーパームーンは大きいというより鮮やかにみえた。

オトメンと指を差されて(60)

大久保ゆう

かのアルフレッド・ヒッチコックは映画原作に最適なのは短編であると言ったとか言わなかったとか。最近は原作ものというと話題の原作・大作からの映画化といったものが多いのかもしれませんが、古くは白黒の名画の時代にも原作ものというのは割合にあったものでありまして、しかしながらその原作はあまり知名度のない短編であったりしてあまり読まれるものではないようです。

西部劇の名作『真昼の決闘』は、ジョン・H・カニンガムの短編「ブリキの星章」が原作とされているのですが、気になって大元を確かめてみたところ、掲載されたコリアーズ1947年12月6日号は消費時代の雑誌らしく誌面の半分以上が広告で、しかもページが飛び飛びで大変読みにくく、さらに内容は映画とは大きく違うものでした。

 ドーンの顎がほんの少し前へ突き出される。「まだこっちの質問に答えてない。列車は時間通りに着くのか?」
「ああ、4時10分だ。時間通り。」ステイリーは立ちつくしたままドーンを見据え、それからぼそぼそと呟いた。

確かに、縛り首にならずお礼参りに来る悪党に立ち向かう保安官、という構図は共通しているものの、来る時間は真昼ではないし、保安官助手や町長が非協力だけれど、街全体が尻込みする描写があるわけでもありません。名前も残っているのは悪党の連れだけだし、何より主人公の保安官の妻は死んでいて、何やら復讐のニュアンスさえ感じられます。

同じくブリキの星章の薄っぺらさを描いていても、映画においては主人公の孤立と苦悩が最後のシーンに深みを与えている一方で、原作はどうもその方向性も違うようで。ただのパルプフィクション然とした原作より、映画の方がはるかに面白いのです。翻案の妙、でしょうか。

同じような大改作によって名作に化けた例としては、やはりフランク・キャプラが撮った『素晴らしき哉、人生!』が挙げられます。こちらはフィリップ・ヴァン・ドーレン・スターン「いちばんのおくりもの」というSF短編が原作なのですが、これは本当にアイデアだけ借りた、という印象を受けます。

「もううんざりなんだよ!」ジョージは叫ぶ。「一生こんな田舎町から出られず、来る日も来る日も退屈な仕事を続ける。みんなは波瀾万丈の人生で、俺だけ――ああ、俺だけこんな小さな町の銀行員ふぜいで、兵士にもなれない。俺なんか、何の役にも立たなくて、何の意味もなくて、やりたいことも何もできない。いっそ死んだ方がいい。死んだ方がマシだ。時々そう思う。でもそもそも、生まれてこなけりゃ良かったんだ!」
 小男は、真っ暗闇の中で、ジョージを見つめたまま動かない。「今、何て言いました?」と、優しい声で聞く。
「生まれてこなけりゃ良かった、と言ったんだ!」とジョージは強く繰り返す。「嘘じゃない。」
 男は興奮して、赤い頬をふくらませる。「そりゃ名案だ! 一件落着ですよ。面倒なことになるんじゃないかと思ってたんですが、もうそれで答えが出てるじゃないですか。生まれてこなけりゃ良かった。そうですよ! それです! そうしましょう!」

クリスマスの夜、死にたいと思った主人公は小太りの男に出会い、〈生まれなかった〉ことにされる。そしてそのために街に変化が起こり、主人公は後悔し、自分のささやかな幸せを噛みしめることになります。それはすでにこの原作にも現れていますが、そのひとつひとつの設定や、主人公の〈死にたい〉という気持ちには何の説得力もありません。映像作品の力と言いましょうか、映画ではジェームズ・スチュワート演じるジョージの半生が延々と前半部分で描かれ、いかに彼が不遇なお人好しかが観る人に提示されます。善人でありながらけして完璧ではない人物。原作にあるように筋だけを聞いても読んでも何にも感動しないのですが、2時間の映画として観ると心揺さぶられる、こんなにも違うのかと思い知らされます。

キャプラは翻案が上手いのか、他にも原作から見事な映画になった例が、『一日だけの淑女』。原作はデイモン・ラニヤン「マダム・ラ・ギンプ」なのですが、この原作は良くも悪くも凡庸な作品。こちらも筋は同じで、大金持ちの子息と結婚するので会わせようと外国にいる娘が相手と向こうの両親を連れてやってくるのに、当の母親は娘に自分は立派な人物だと伝えていたので大弱り、それを街のごろつきが助けて一芝居を打つ、というものなのですが、原作は横暴な顔役が気まぐれと悪ふざけでやったという風情で。

まあ、確かにごろつきデイヴはバカなことをたくさんやってきたけど、今回ほどバカバカしいのは初めてだ。でもいったんあいつが思いついたら、ほら、何を言ったって無駄なんだよ。だって口を挟んだところで、だいたいその腕から必殺パンチを繰り出されて鼻をしたたかやられるのが落ちなんだから、わざわざ言い合いをしてパンチを食らうまではない、特に相手がごろつきデイヴの場合は。

それだけの話が、ひとりひとり登場人物を掘り下げたり、そのなかで個々の人物が感じる気持ちを丁寧に描くだけで、別物に変わってしまうのです。この映画はキャプラ自身がセルフリメイクをし、さらにそのあと、稀代のアクションスターであるジャッキー・チェンが彼一流のコメディ映画に仕立てます。その『奇蹟/ミラクル』という作品は、ジャッキー本人のお気に入りだということですが、個人的にも彼一番の傑作だと思います。元あった要素から、主人公がどうしてごろつきをやることになったのか、そしてなぜ老婆に恩を返そうとするのか、あいだに挟まれるコミカルなシーンやアクション、こういったものが翻案されるたびに積み重ねられていって、この映画では清々しいまでのラストに決着します。

〈ネタバレ〉が忌避され、娯楽作品では筋こそが大事とされる昨今ではありますが、わかった上で何度観てもその細部や描写、お芝居や音楽、そこから導き出される総合的なものの迫力には、本当に圧倒されてしまいます。わたくし、今回挙げた映画3つとも大好きで、好きを通り越して、それらを作る楽しみを少しでも味わえないかとそれぞれの原作を探して訳してみたりもするわけですが、どうにも映画そのものにはたどり着けず、はるかな彼岸にため息をつくばかりでございます。

掠れ書き30 ぐるぐる、うろうろ

高橋悠治

本を読み、いくつかのコトバを書きとめ、時が経って見なおすと、なぜそこにあるのかがわからなくなっていることがあり、それらを書き抜いたおなじ本をひらいても、どこにあったのか見つからないことがあるのは、本を読むというより、コトバをひろうためにページをめくっていただけだったのか。そこにあったコトバが飛び石になって書かれていないコトバを呼び出した後になると姿を消してしまうなら、それらの意味ではなく、音楽のため、輪郭のまわりに漂っていた糸の束をたぐり、闇のなかから現れる舳先に乗り移ったら、泡のように薄れる感触の記憶のために、立ち止まり、手を動かして印を付けてから離れた仮の足場というだけだったのか。

こうして毎月「水牛」のサイトに書いていると、またおなじことを書くと言われ、自分でもこれはもう書いたと思うこともあるので、以前のファイル、この「掠れ書き」と題したものよりずっと前の1990年代のファイルに眼を走らせてみても、たしかにおなじコトバ、おなじ主題が浮かんでは消えているのがわかるが、この循環がひとつの言語ゲームのシステムになり、それらのコトバを要素とする構造をつくっているかもしれないと思える時もある。ただしその思いは外側からの観察にすぎないし、そんなことを思っていたら何も考えられず、書くこともないだろう。ひとがブログを書くように、私的な事件や感想を、だれが読むのかわからない場所に書き続けるほど不安だともいう自覚はないが、意識して自己検閲する必要も感じていないとも言える。

物語には言語では言えない行間が残ることがあるだろうが、物語を書いた小説を読んでも行間を感じることはほとんどないので、解釈や分析のようなよけいな手間をかけるより、読まないでいるほうがいいと思ってしまう。詩を読むのは歌のテクストをさがす必要からで、とは言っても、こどもの頃からシュールレアリスムの詩人やマヤコフスキー、西脇順三郎や北園克衛を読んでいて、詩を書こうと試みたことが何度もあったが、詩人のようにコトバを対象として、実在のように見ることもできないし、というのも詩人ではないから、これはいいかげんな想像か粗雑な一般化かもしれないが、コトバは泡のようなものという感じがあるのに詩が書けるわけがないと気づいてからは、音楽だけでも手にあまることもわかってきた。まだ残っている詩への関心は、その構造や「哲学的内容」に対してではなく、語り口、トーンのほうだろうか。歌のために詩を読む場合は、コトバのリズムとイメージから音楽が現れてくるのを待っていることがおおいが、意味をもたされたコトバ、表現や表象の意志が見えると、コトバは重く粗くなる気がする。

考えつづけ書きつづけていると、たしかにおなじところに何度ももどってくることがある。それが「いま・ここ」だとすれば、循環システムはおなじ地点を通過してもその都度ちがう道がひらけてくるという気になるし、いつも小さな変化があり、文脈が変わり、構造もいずれ変化するのは、固まったように見える部分も何回も接触を重ねるとすこしずつ崩れ、ちがう構造が見えてくるからだろうから、そう考えれば、構造は残された足跡にすぎず、見えない通過のプロセスは、足音が聞こえるだけだと言いたくもなる。

詩には結晶のような構造が可能だと思っていた時もあった。ロマーン・ヤーコブソーンのボードレールやブレヒトの詩の分析は、それ自体が詩の輝きだったことを思いだすが、それも20世紀という、構造にとりつかれた時代の、二度とありえない闇の光かもしれない。

音楽も結晶のように見えた時もあった、と言うのも、詩への興味は、音楽の作曲の試みと並行していたし、いまもコトバを書くことは、音楽を書くことと切り離せない。そうでない音楽家もいるが、ここではコトバは音を考える時の、触媒や比喩として使っていると言えるだろうか。音楽が場であり、コトバは音が枝分かれする痕跡を見えるようにする霧箱として使っているとも思える時がある。

20世紀はまだ、崩壊する啓蒙主義の時代だったから、合理主義は19世紀的個人の陰画である非日常や夢の領域を合理化し制御しようとして限界まで拡張していったようにも見える。確率論や不確定性も、計量化ができないなら、せめて概念化して管理しようとする後退戦だったかもしれない。システム論は、全体構成、または中枢による制御から、しだいにミクロからの自己組織にすり替えられていったが、構造や構成要素の実体化からはなかなか逃れられないようだ。関係のネットワークという考えかたも、要素への分解と再統合という合理主義の痕跡が感じられる。フラクタルも全体と細部との相似形だし、複雑系もファジーも部分的管理を足がかりにした支配願望があるようだ。

全体があるという無意識の前提なしに、偶発に備え対応する日常を、定義も分析もせずに通りすぎていくのが、生活している時間で、はっと気づくと、いままで何をしていたのかを思いだせず、気づいたはずの意識が気づいたそのことをそのままに置き去りにして循環しつづけているだけでなく、その意識さえさらに意識化して、別な循環の環を生みながら、重なった輪をすこしずつずらしていくうちに、忘れられた時間だけでなく、考えの行く手を追うのに必要な時間をもとうともせず、その瞬間に落ちてきた次の偶発を追って似たようなプロセスがまたはじまるのは、外側から見ると、雨の後で水面に落ちる名残のしずくが、波紋をひろげ、それが消えかかると別なしずくの波紋が、前の波紋を吹き消していく、そんな風景を思い出させる、と言ってもいいだろうか。

1960年頃、クセナキスが日本に来るすこし前、秋山邦晴が Achorripsis を聞かせてくれた、と思うが、そうでなかったかもしれない。このタイトルは迸る音を意味するらしいが、楽器があり、ヒトがいてそれを鳴らすという前提だけで、それ以上何の意図も「音楽的」形式もなしに何が起こるかを追求した結果と言っても、この音楽には意志があるように聞こえていた。偶然降りかかる災いのなかで生き延びていくばかりか、偶然の事件が多くなればなるほど、それらをまとめてある性格を持たせ、確率として理解し、できれば制御し、乗り切ろうとする、亡命者の意志のようなものを聞き取っていたのかもしれない。半世紀以上が経ってから、それを聞き直してみると、バラバラで予測のつかない音の雨も、記憶のなかにあったものよりはかなり穏やかに響いたのはどうしたことか、現実世界の暴力のほうが、予想を越えてエスカレートするばかりなのに、音楽はあの頃の孤立の厳しさよりは、同時代の不連続な点と抽象という共通の徴のなかに、ともすれば収まりそうになっている。

ランダムな音の発生とそれらの制御は、デジタル的に粗い近似によるエレクトロニクスやコンピュータ音楽の画一的な響きをともなって、もはや新鮮でないが、代案がない状態のまま、大量生産され、忘れられていくよりしかたがない。電子音はどんなに複雑な操作で作っても、スピーカの膜の振動という物理的な限界を越えることができないように見える。だれもいないところで鳴っている機械音は、あれ以上なんとかならないのだろうか。と言っても、中央管理方式の大オーケストラの音にもどることもかんたんではない。そこは19世紀ヨーロッパのレパートリーがあふれていて、死者たちとの競争には勝てないばかりか、オーケストラという旧式機械工場はどこも経営難で、国家に買い取られるか、破産しているようだ。

構造からプロセスへ、全体の透明性から、すでに動いている見えない手の指すままに旋回していく、世界や時代とのかかわりかたがあるはずで、でもそれは、離れた場所で人知れず、小さな実験を重ねていくことがせいぜいで、それもいまはできるかもしれないが、いつまで続けられるのか、外部からの介入がなくても、続けていることそれ自体によって空転し、解体してしまうのではないか、という状況ではないだろうか。しかも、外側からの撹乱がなくて、どうして続けられるだろう。全体からでもなく細部からでもなく、分析でも綜合でもなく、ネットワークや安定したシステムや方法でもなく、見ることが見られることで、聞くことが聞かれることであるような、そういう場が、壁の向こう、窓の向こうにあると想像してみよう。もう忘れていた昔あったこと、読んだコトバから、すこしずつ、手がかりを拾い集める、そこから……