薄明の時間

璃葉

ある日の夕方、散歩の帰りに立ち寄った公園の広場の地面に、ガラスの破片が広く飛び散っていた。
三角、四角、台形、三角、三角。無色透明、薄緑、黄、薄ピンク。
割れる前は一体なんだったのだろう。
            ぱきぱきぱきぱきぱき  
かけらを観察しながら歩き回れば、ガラスは踏まれて更に細かく割れていく。

「46番地はどの辺りでしょうかね」
広場の向こうから見知らぬ婆さまに道を尋ねられる。
姿はなんとなく視界の隅に入っていたけれど、何も意識はしていなかったから、声をかけられて一瞬怯んだ。
婆さまはユリの花束を、何にも包まず心臓の辺りに抱いていた。
どこかで切って摘んできたのか、ポケットから木ばさみの取っ手が見えている。
茎から伸びた細長い葉が皮膚にちくちくあたっているようで、少し痒そうにしていた。花びらはしっとり青白く、ひとつひとつが大きい。
目的地の住所を書いた紙を見せてもらうと、住んでいるアパートのすぐ近くだった。
道順を説明すればすんなり理解したようで、彼女はニコニコして礼を言うと、少し早足で一本道を歩いていった。
薄明の時間帯は、度々不思議な人に出会う。
明日には片付けられてしまうであろうガラスの破片をしばらく見つめて、
光源のない空の下、家路につくことにした。

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戦時下のクルディスタン

さとうまき

先日伊勢市で講演を頼まれた。「戦争の悲惨さを伝えてください」とのことだった。

今の戦争はえげつない。たとえば、Iraq, Syria, beheaded というキーワードで検索すると、「イスラム国」が、敵の兵士や民間人を斬首する映像が出てくる。僕たちの支援している難民たちは、こういった恐怖から逃げてきた人たち。今起きてることをしっかりと伝えなければとプレゼン資料を作ってみたが、あまりにもえげつないので、出せない。

クルド自治区は、ペシュメルガと呼ばれる軍隊がしっかりとガードを固めているので、「イスラム国」は手も足も出ないだろうとの見方も崩れ、8月6日には、ペシュメルガも100人以上が殺されてしまった。そして、オバマ大統領も重たい腰を上げて空爆に踏み切ったのだ。

ともかく、何とかしなくてはということで、日本でのスケジュールをすべてキャンセルして、8月20日に、アルビルに入った。アンカワという小さなキリスト教地区があるが、避難民でごった返している。教会の敷地内に設営されたテントや、立てかけのビルや学校が避難所になっている。親戚に身を寄せて、その日その日を乗り切っている人たち。約2週間目になり、日中は45℃を超える暑さ。夜になっても、さほど気温は下がらない。避難民たちもかなりイライラしている。

教会の前には野戦病院のテントが出来ており、カラクーシュという村から避難してきた脳腫瘍の男の子が横たわっていた。アーサー君11歳だ。一年前に手術をして様態はよくなっていた。ところが6月、「イスラム国」とペシュメルガの間で戦闘が始まると、アーサー君は爆発音や銃声におびえ、おじいさんに抱き着いて震えていたという。いったんは、アルビルに避難したが、6月26日には状況が落ち着いたので、カラクーシュにもどった。しかし、体調がどんどん悪くなり、痛みで立てなくなってしまった。8月5日、アルビルでCTを取った。800ドル払わなければならなかった。カラクーシュに戻ると、翌日には、「イスラム国」が攻めてくるので、ペシュメルガが撤退するというのだ。あわてて、子どもたちと一緒におじいさんの家まで避難した。しかし、すでにペシュメルガが撤退を始めており、車を見つけることができず、一家は孤立してしまった。親せきが、キリスト教の民兵に連絡を付けて、車を回してくれた。すでに夜の10時を過ぎていた。家族13人が2トン積みのトラックの荷台に乗り込んだ。アーサーは痛がって泣いていた。

そして、カラクーシュを出発し、最後まで残っていたペシュメルガの車が自分たちのトラックを追い抜いて行った。朝方2時30分に、ハーザルというアルビルに入る検問所で止められ、車は中に入れないというので、一夜を明かす。そして翌朝10時に、お父さんはアーサー君を担いで1キロ歩き、アルビル行きのバスに乗り込んだ。家族で膝にマットレスをのせて、その上にアーサー君を横たえた。アルビルにつくと、すぐに病院に連れて行ったが、がんが全身に転移しておりもうどうしようもないといわれた。4日間入院したが、家族と一緒にいたほうがいいだろうと、教会の避難所に戻ってきた。しかし、テントもない状況だったので、近所の人がアーサーを引き取って休ませてくれた。私たちも変わりばんこで様子を見に行った。しかし、いつ死んでもおかしくない状況だ。近所の人たちも、様態が悪化したらどうしようもないので、これ以上面倒を見るのをいやがった。ちょうど数日前に、避難所に野戦病院のテントができたので、アーサーは、そこで寝ている。ヨルダンの医師が野戦病院に様子を見に来てくれる。アーサーは日増しに様態が悪くなっている。

今回、私は、さらに北上して、ザホーやドホークに避難しているヤジッド教徒(ゾロアスター教に近い)の避難民への支援も実施した。そこでは、建築中のビルなどいたるところに住み着いている。その数は12万人を超えているという。まずこの数に驚く。焼け石に水と揶揄されようが、ともかくこの暑さ、水を持っていくくらいしか手がなかった。間もなくUNが大規模な支援を開始すると聞いている。状況が改善されることを期待するしかない。9月になったら、また出直す。アーサー君にも再開できるだろうか?

霧と生きる人びと

スラチャイ・ジャンティマトン

庄司和子 訳

白い霧がたちこめる早朝
大柄の雄鶏が時を告げると
シャモ(軍鶏)も競って応える
タイ(泰)族の目覚めは早い
シャンステートの夜明け
近づいても誰も見えはしない
どのように暮らしているのか
どのように食べているのか
タイ族の最後の砦
誰もが力を合わせて
護っている

朝飯は霧と食べる
手を伸ばしてもあるのは深い深い霧
霧よ 幾年を経ても
天と地と人を包んでいる

涙が流れ続けた
哀しみは
誰も望まない
誰も欲しない
こころはずっと闘ってきた
タイ族は誰もひるまない

霧と生きる人びと
霧の中にも火はある
こころの中に消えやらぬ火が
シャンステートの人びとの主権

兄弟たちよ、歌をうたおう
みんなでうたえば力が生まれる
生命は希望を失わない
太陽がそうであるように

日の光よ わたしたちを照らして
哀しみと血と涙とを
溶かしてほしい
タイ族よ闘おうではないか
大地、大空、そして呼吸
タイ族よ闘おうではないか
大地と大空がタイ族のものとなるように

注:シャンステート=ビルマのシャン州のこと。泰族(タイヤイ族)の居住地

お盆より早い旧盆

仲宗根浩

今年旧盆、旧暦の七月十五日は八月十日。内地のお盆より早く終わったためか、まわりも夏の終わりが早くなったようだ。地元青年会のエイサーに参加している女の子が旧盆後の最初の週末の行われるエイサー大会が終わり一言、「わたしの夏は終わりました。」旧盆前に帰省した息子くんは羽田で第一ターミナルで搭乗すべきものをずっと第二ターミナルにいて予約していた便に乗り損ね。別便で沖縄着。昨年、一人で沖縄と東京を往復したのは奇跡だったのか! 不思議なやつ。

八月十五日、地元紙の一面は十四日、辺野古沖に埋め立てるところへのブイ設置記事のみ。終戦の見出しは一面の目立つとろに無し。十三日の新聞は沖縄国際大学に米軍ヘリ墜落から十年を大きくあつかっていた。

CDラジカセを入手した。これでパソコンをプレイヤー代わりにしなくてもよくなった。オーディオマニアでもないのでこれで十分。パソコンに取り込んでないCDも手軽に聴くことができる。例年通り、奥さんと子供は実家へと里帰りの間、ひとりで大音量。七十年代のナイアガラ、コロンビア時代のデューク・エリントンを堪能する。デューク・エリントンはヴォーカルとかバックにたつとアレンジが良い、というビッグ・バンドのあるべき姿を確認。この前入手し、中学生の頃手元になかった、ツェッペリンのセカンドをちゃんと聴きなおすといろいろと新しい発見というか気づいたことと同じようなもの。「リヴィング・ラヴィング・メイド」は初期のライヴでやっていたエディ・コクランの「カモン・エヴリバディ」ではないかと勝手に推測とか。六十年代末の音源を聴くとステレオのギミック的なパンを多用する曲が多いので車の中で再生すると気持ち悪くなる。

そんななか、だんだんと夜中は涼しくなっていく。

お葬式の写真

冨岡三智

なんだか、私のエッセイにはお葬式関係の話が多いような気もするのだが、最近もジャワで何人か高名な舞踊家やダランが亡くなり、なんだか書いてみたくなったのでまた1つ…。ジャワでは、お葬式風景を写真に撮ることはよくある。祭壇、出棺の様子、参列者の様子だけでなくて、遺体と一緒に記念撮影というのもわりとするみたいだ。私の舞踊の師匠の家や知り合いの家で、そういう写真を見せてもらった。また、1998年、私の舞踊の師匠の旦那様が亡くなったときには、サルドノ・クスモ氏が来て、せっせと写真を撮っていたのが記憶に残っている。故人はサルドノ氏の舞踊の師匠だったから、ジャワの基準ではサルドノ氏が写真を撮るのは変でもなんでもない。しかし、このときは私にとってジャワで2回目に経験したお葬式だったので、当時は驚いたものだ。いま、インドネシアではフェイスブックが盛んなので、お葬式の写真もよくアップされる。故人の死に顔の写真もあるから、遺体の写真を撮るのは良くないという感覚は、あまりない気がする。

そういう私は、昨年父が亡くなった時に、枕経をあげるところから折々に葬儀と遺体の写真を撮った。葬儀の流れを記録に残しておきたかったし、ジャワのように写真に撮ってもいいじゃないかという感覚になっていたからでもある。けれど、自宅でいる間は良かったが、告別式の時に時折シャッターを押すと、他の参列者や葬儀社のスタッフからの白い視線を感じる。「ご遺族様」が一番前でカメラを構えているのはさすがに目立つのか…。父の告別式は斎場と火葬場が併設された所で行ったのだが、告別式の後、葬儀社の人に「火葬炉は神聖な所ですから写真を撮らないでください」と言い渡されてしまった。後日、同世代の僧侶2人に会うことがあったので、葬儀の写真について聞いてみると、いまでは葬儀社がサービスとして写真を撮ることもあるし、全然気にしないというのが彼らの弁。さらに、「え、火葬炉の前で写真は撮るのはだめなの?」という反応。ということは、火葬炉を神聖視するのは、宗教ではなく慣習の問題のようだ。

そうやって撮った写真もずっと見ていなかったのだが、最近になって取り出して見る。目を閉じた父の顔は、驚くほど祖父に生き写しだ。もっとも、祖父は私が小学校に上がる前に亡くなったので、私の記憶にある祖父の顔はアルバムの写真の顔なのだが、それでも首をちょっとかしげた癖がそっくりだ。年を取るにつれて、父は祖父に似てきたと母は言っていたけれど、最期には、なんだか祖父に同化してしまったような気もする。それがわかっただけでも、写真を撮ってよかったなと思える。

お葬式にはバチバチ写真を撮った私も、父が生前に入院したときには病院で一枚も写真を撮っていない。そのときの方が、なんだか撮ってはいけない気がしたからだ。その点は、私の感覚はジャワの人たちと少し違うのかもしれない。ジャワの人は、入院して面影が痛々しいくらい変わった人の写真も、案外フェイスブックにアップしていたりする。ジャワでは大挙してICUに入った人のお見舞いに行ったりするから、ありのままの病人の姿を見せることに家族もあまり抵抗がないのかもしれないし、むしろ遠方で来てもらえない人へのサービスなのかも知れない。全体として言えるのは、家族が病気や死をことさら隠そうとはしないこと。そして、本人と家族だけでそれらに向き合うのではなくて、共同体の皆で受け止めるという感覚があること。日本でお葬式の写真を撮ることに抵抗があるのは、死を厳粛で神聖なものだと思うからだが、逆に、死を忌避しているからだとも言える。

アジアのごはん(65)タイ米の味とクーデター

森下ヒバリ

7月末に引っ越しをして5日後にタイに来て、すこしのんびりしただけでタイとマレーシアでお仕事。ペナンでうだうだしてからエアアジアでバンコクのドンムアン空港に戻ってきた。

ドンムアン空港は以前は国内線専用だったが、いまはLCC格安航空会社エアアジアのほぼ専用空港と化している。今後はノックエアーなどほかのLCCもこちらに拠点移す方針らしい。ドンムアン空港は、タクシー以外の交通手段が市バスしかない。荷物を持って市バスに乗るのは大変だ。なのに空港のタクシーの質は大変悪く、友達が法外な料金を要求する運転手に口で抗議して突き飛ばされたこともあるほどだ。受付システムも合理的ではなくとても使いにくかった。

スワナプーム国際空港も公共タクシーのブースはあるが、そこで乗ったタクシーに何度遠回りされたり、メーター以外のお金を要求されたりしたことか。あきらかに覚せい剤をやっている運転手に当たったこともある。ホテルの場所が分からないふりをしたり、間違えたふりをして遠回りするので、道が違うと言えば、怒り出されたりとか。なんで、長旅に疲れ果てているのに、タクシー運転手の機嫌を取らなければならないのか。

一国の玄関口の公共タクシーがこれでは、観光客の第一印象は最悪である。どうにかしてほしいと前々から思っていた。今回、ドンムアン空港についてみると何やら様子が違う。飛行機が着くとほとんどの乗客がタクシー乗り場に向かうが、そこで一列で順番に並ばされ、タクシーが5〜6台づつやってきて、係り員の誘導で乗り込むシステムに変わっていた。これが早い。しかも横入りもなし。なぜこれが今までできなかったの? という簡単で合理的で早いシステム。これも現政権のNCPO(国家平和秩序維持評議会)の改革の一端らしい。

今まで両空港のタクシーの質が悪かったのは、ひとえに空港に登録するタクシーを中間搾取するマフィアの存在が大きかったせいだ。空港に乗り入れて客待ちするタクシーは登録して、手数料を払う必要があるが、さらにマフィアにも払わなければならない。その分を挽回すべく、運転手は料金を高く吹っかけたり、遠回りしたり、ぼったくり観光に勧誘したりと務めるわけだ。タイに着いたばかりの外国人がその格好の標的になる。

「NCPOも本気でいろいろ改革してるね」と思いながらタクシーに乗っていると、運転手がいろいろしゃべり始めた。故郷はロイエットで家は農業をしていて水牛は飼っているけど、もう田んぼの仕事は水牛は使わず機械でやってるとか。で、連れが「昨日テレビで見たけどプラユットが首相になったね」と言うと、がぜん張り切った調子で、「プラユットは駄目だ、軍隊の政治だ。選挙しないで首相になるのはダメだろ? な、なあ」と畳み掛けてきた。タクシーの運転手にはタクシン派支持者が多い。元締めのマフィアが利権を得るためにタクシン派と結びついていたので、その配下もだいたいタクシン派である。タクシー改革でみかじめ料を払わなくてもよくなったんじゃないのか? これまで払っていた運転手は、陰でやっぱり徴収されているのかもしれない。マフィアを通さない新規参入が増えないと改革はすすまないのかも。

8月の初めにタイに着いたときには、日本でマスメディアが報じているような「軍政」「クーデター」「戒厳令」から想像されるような気配はまったくなかった。ないどころか、町には中国系の観光客があふれ、道は渋滞し、以前のような猥雑なバンコクがよみがえっていた。4か月前までは、町のそこかしこが反タクシン派によって占拠され、お祭り騒ぎのようなデモが繰り返されていたので、車は少なく渋滞がなくてそれもよかったのだが、とにかく、バンコクはデモ隊がいなくなり、元の姿に戻っていた。

クーデターと言っても、実際に市民に銃をつきつけて軍隊を繰り出して全権を掌握したわけではない。むしろ、市民に一定望まれての登場、という形である。こういう形でしか、長らく続いたタクシン派と反タクシン派の対立は解決できないだろう、しかたない、というのがタクシン派以外の市民の気持ちであろう。もともとタイの政治にクーデターはついて回り、(さすがに最近は減っていたのだが)今回のプラユット将軍は歴代クーデターを起こした軍人の中でも、もっともまともな人物と思われる。今のところは、だが。

先日暫定議会から指名され、国王の任命を受け29代首相に就任したプラユット陸軍司令官は、高潔で正義感にあふれることで知られ、タクシン派と反タクシン派の国を分かつ勢いの国民の対立を解消し、対立の原因ともいえる国政の腐敗をなくすことを目標に掲げている。

タイの国政の一番の問題は、腐敗した政治、利権構造である。利権がはびこり、国家のお金が、国民のお金が莫大な規模で利権に群がる人々に吸い取られているのだ。なので、改革はまったくすすまなかった。それから甘い汁を吸うためにばかげた政策がまかり通る。この構造はタクシン政権時代以前からあったが、タクシンはそれを首相の立場をフルに利用して国家規模の利権をむさぼった。そのあまりにもひどい腐敗ぶりに怒った市民がタクシン追放を求め、タクシンを支持する人々と対立した。これが、ここ数年来のタイを揺るがし続けている政治問題の根本である。

5月22日に全権を掌握したプラユット将軍率いるNCPO(国家平和秩序維持評議会)は、次々と腐敗改革に乗り出した。まずはコメ買取制度の廃止。コメ買取制度は2011年から始まったインラク政権の肝いり政策だが、低い収入の農民を支援するために市場価格の1.5倍でコメを担保に融資するという、事実上の高額でのコメ買取制度だ。これを喜ばない農民がいるだろうか。農民のインラク政権への評価は高まった。だが、まず市場価格以上での買い取りには、法外なお金がかかる。その予算のめどもろくについていなかった上に、質を問わず買い上げたものだから、質の悪いコメが集まった。輸出価格を上げてみたところ、質が下がって値段の上がったタイ米の人気は凋落し、売れなくなった。2012年の輸出量はなんと従来の4割減。30年も世界1の輸出量をほこっていたタイ米が3位に転落した。さらにカンボジア・ラオス・ビルマから密輸入された米が国内米として政府に買い上げられていたことも発覚。また、ついていた予算のお金がいつのまにか相当の金額が消えていたという話もある。とにかく、2013年には農家からコメを徴収はしたものの、お金が支払われないという事態に至った。資金繰りに困り自殺者も出る。払うお金がない、というのがインラク政権の言い分だが、あるはずのお金がない、米は売れない、在庫がどれぐらいあるのかもわからない、在庫の米の管理がずさんで品質が低下してる、などなどともう末期的状態であった。

NCPOは全権を掌握すると、すぐにこの問題にとりかかり、コメ買取制度を廃止し、支払いの滞っていた167万人、1954億バーツの支払いを行った。各県の米の倉庫の調査も行った。帳簿のごまかしなどいくつもの県で不正が発覚している。

ここ数年、外食していてお米がまずい店が多くなったな、と感じていたがタイ米の質がコメ買取制度で低下していたのが原因かもしれない。NCPOのおかげでタイ米の質も向上しそうではあるが、この3年で売れ残った古い米が大量にあるので、普通の食堂のお米がおいしくなるには、まだ相当かかりそうである。

コメ買取制度の廃止の他に、前政権の後始末がまだまだある。全国の小学生すべてにタブレットPC(1台3000バーツ相当)を無料配布する制度。あきらかにタブレット発注にまつわる巨額のわいろや中間マージン目当ての政策だが、「まずしい小学生が教科書を買えないので、買えない子供はタブレットに教科書をダウンロードさせる」のが理由と言う。教科書を買えないような子供には教科書を無料で配布する方が早くて安上がりなことは誰でもわかるだろっ! と思わず声を荒げたくなるような政策であるが、これも配布途中で契約した中国メーカーが逃げ出したり、資金繰りがつかずに滞っていた。この政策も廃止。

利権をめぐるあれこれにも改革のメスを入れている。宝くじ、タクシー、バイクタクシー。さらに悪質な屋台の一層にも乗り出した。どこまで行くのか、行けるのか。

しかし、いくら高潔で正義感にあふれたプラユット将軍・首相とはいえ、現政権は報道規制や表現の自由の規制など、強権的な部分が大いにあることを忘れることはできない。暫定議会が動き出しプラユット将軍が首相に任命されたが、ほとんどの議員が軍人で、さらにNCPOは残り、政治の監視役を務めるという。政治改革を進めて、来年10月以降には民政移管のための選挙を行う予定であるとしているが、たった1年半でタクシン派の利権構造を封じ込めることが出来るのか、プラユット将軍が変節せず改革をつづけられるのか、それはまだまだわからない。

タイの利権がんじがらめは、他人ごとではなく、そのまま日本の姿でもある。

山田太一のやさしさ

若松恵子

6月に、山田太一の講演を聞く機会があった。子育て中の人に向けた企画だったので、自身の子育てにまつわる話を中心に、この頃思うことなどについて話してくれた。山田さんは今年80歳になったが、少年のように恥ずかしそうだった。いばっていない大人は素敵だ。

この講演会はシリーズで企画していて、『ゲド戦記』の訳者でもある清水眞砂子さんからのバトンで山田さんは講演を引き受けてくれたのだった。清水眞砂子さんの『本の虫ではないのだけれど』(2010年 かもがわ出版)に「それにしても山田太一は格好いい」という題名で、山田氏の著書『親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと』(2014年7月PHP新書で再刊)についての文章が収録されている。清水さんが見抜いている山田太一の魅力を、どれだけの人がわかっているだろうか。

清水さんは、テレビの対談番組に出演していた山田太一の生真面目さが新鮮で、「ガツンと一発やられた気がした。」と言い、「私たちはよくひとの真面目さを嘲い、それを頑さと結びつけようとするけれど、真面目に人間を考え、生きることを考えたら、人はどこまでも柔かくなっていくこと、いかざるを得ない」と言っている。「真面目だからこそ柔かい」そういう見方があるのかとハッとした。山田太一の魅力を言い当てているみごとな表現だと思った。

「親は一緒に暮らしているというだけで、言語化できない事をいっぱい伝えてしまっている。」「子どもを持って、人の世話になんかならないなんて気取っているわけにいかなくなった。リアリティを叩き込まれた。」「子どもが自分に抱きつこうと走ってくる。こんな幸福があるのかと思った。それだけでもう充分だと思った。」講演で語られたこんな言葉が印象に残っている。
子育てで大事な事として、山田さんが唯一語ったのは、「子どもを可愛がること」だった。そのシンプルな事がいかに難しいか。夜泣きする赤ん坊を抱いておろおろした時の気持ちを今も忘れないでいる、そういうところも良かった。

講演のことが心に残っていたので、『敗者たちの想像力 脚本家 山田太一』(長谷正人著 2012年岩波書店)を古本屋の棚にみつけた時はうれしかった。1959年生まれの著者とは同世代なので、山田太一ドラマの体験に共通なものがあり、共感しながら読んだ。長谷氏は著書で「同時代の証言としての山田太一論を書きたかった」という。彼の言う”同時代”というのは、再放送やDVDで繰り返し見るというドラマの見方をする時代という所もおもしろい。再放送やDVDで何回も見るうちに、ドラマの魅力に初めて気づくということが何度もあったという。

題名の通り、長谷氏によると山田太一のドラマの魅力は、「敗者が敗者であるがままに肯定され、光り輝く可能性を描いている」ところにあるという。代表作のひとつである「ふぞろいの林檎たち」は、「敗者」が「勝者」に成りあがろうとするのではなく、「敗者」であることを自ら認めることによって、「敗者」としての自分から抜け出す(「勝者」の基準の呪縛から逃れる事)物語なのだ。そういえば、講演会でも「事実は少し揺さぶると嘘ばっかりで、私たちはその嘘に捉われて生きているのではないか。ひとりひとりが自分のリアリティを持った方が良い」という事を話していた。「例えば言葉を発することが出来なくなった人に対して”生きていて何の意味があるのだろうか”と思ってしまいがちだけれど、その人は、口に出して言えない夢を見ているのかも知れない」と。

山田太一のドラマは、そんなふうに、知らず知らずに思い込んでいる事を、あたりまえだと思って見ている世界を、ちょっとずらして見せてくれるやさしさがある。最新のエッセイ集『月日の残像』(2013年 新潮社)を読むと、山田自身もまた、そうやって生き延びてきたのではないかと思われる。

「眼鏡トンネル」という一編が心に残る。家業を手伝わなければならないので、高校からひとり、急いで汽車に飛び乗って帰る毎日。経済的な理由で進学はあきらめなければならず、未来が見えない毎日の中で、「デッキの手すりに捕まってステップを一つおりて、乗り出すようにして風を浴びて」歌をうたっていたという想い出が語られる。「自分ではないみたいだが、よく歌をうたっていた。」という言葉で、その頃が回想される。「自分ではないみたいだが」という所に、ドラマを必要とする心が、すでにめばえているように思えてしみじみとする。

『月日の残像』は、8月29日に発表された第13回小林秀雄賞を受賞したということだ。慎ましい語り口ながら心に残るこのエッセイ集が受賞してうれしい。

物語と構造

大野晋

今年もやたらに暑い8月は終わり、少々気が抜けたように気温が落ち着いている。あまりにも暑かったからという理由で、蚊が少なかったと言われるが、そもそも、蚊は暑い時期よりも少々涼しい時期の方が刺される確率がもともと高かったような気もする。ただし、このところ、40度近い気温が普通になった感もあり、昆虫もあまり住みやすいとは言えなくなったのかもしれない。住みにくいと言えば、庭の何本かの植木も夏、葉を落とすのが当たり前のようになってしまっている。まるで、雨季と乾季のある地域のようだが、このところの気温はまるでそういった熱帯の様相を帯びている。

さて、様々なメディアでいろいろな物語が始まり、そして終わっている。
それは小説に限らず、ドラマだったり、映画だったり、コミックだったり、アニメだったりするのだが、それらで面白いと感じるのには、それ相応の構造があるのではないか? などと考える日々である。

ストーリーの物珍しい物語は面白く感じる。しかし、それは珍しいだけで、たいていの場合は本質的な面白さが伴わなければ、つまらなくなる。本質的に面白い物語は、物語に構造をもっている。そして、その構造が入り組んで、後の気づきが多いほど面白いと感じることが多いように思う。ただし、それはストーリーや登場人物の関係が複雑であれば、よいというのとは違うだろう。ストーリーはシンプルでも、心の動きがきちんと構造を持って変化する物語は面白い。

逆に、唸ってしまうのは、昔の新聞連載だ。長い連載の中で変化してしまったストーリーは、たとえ、複雑な人間関係を構築できたとしても面白いとは思えない。そこには、たぶん、伏線が張れていないことで、物語が平板になってしまっているからなのかもしれない。

そういえば、ミステリーにのめりこんだ昔、当時の二大巨頭であったクイーンとクリスティを比べて、クリスティは明らかにストーリーテラーだなと思ったことがあった。現在の人気を見て、クリスティがまだ第一線の人気作家であることを考えると、あらゆる分野でストーリテラーが面白い条件なのかもしれない。ストーリーテラーの条件は、物語を平板にしない構造だとすれば、物語と構造は密接な関係がある。

実は、物語と構造を強く意識させられたのは、小説ではなく、ゲームの世界だった。ゲームの世界では、ゲームシステムが優劣を決すると考えられがちだが、実際には、売れるゲームには優れた物語があり、その物語にはゲームをする人間を虜にする構造がある。言わば、物語はそれを構成するシステムの出来次第で面白くまなれば、つまらなくもなる。結局、思考の先がシステムに戻った次第である。

製本かい摘みましては(102)

四釜裕子

ネットでなにかを注文したり会員登録するのに名前と住所以外は適当に入れる。おかげでとんでもない日に知らないひとから誕生日おめでとうと言ってもらえる。やっかいなのはパスワードを忘れたとき。たまにあるでしょう、じゃあ、誕生日はいつですか?と聞かれる場合。どう嘘をついたか覚えていないので応えられないというわけです。今回は正直に入力した。名前とフリガナ及び英字表記、性別(男性/女性/その他)、住所、そしてメールアドレス。いとうせいこうさんのオンデマンド出版によるパーソナライズ小説『親愛なる』の注文だ。1997年にメール配信のみで発表した『黒やぎさんたら』に新しいタイトルをつけたもので、6月16日から8月31日までの発売、新書サイズ(W110 × H180mm) で224ページ、1900円(税込・送料別)。寺田克也、KYOTARO、フキン各氏いずれかによる挿絵が付くと案内されていて、2週間後に届いたのは寺田さんのものだった。発行:いとう出版、印刷・製本:不二印刷株式会社、出力機:RISAPRES、Powered by BCCKS。

1997年といえば富士ゼロックスがオンデマンド出版サービス「BookPark」を始めた年だ。村上龍さんがこのサービスを使って小説『共生虫』を単行本に先行してオンデマンド版で出したのは2000年。どんなものかと注文して読んだのだが、棚の中に見当たらない。しかたがないので当時の日記を見てみると、「デジパブ『共生虫』 ○=単行本買うひとより先に読める(ただし今回は誤植で納期が遅れ手元に届いたのは単行本発売日の前日)/1000部限定だからこのあとプレミア付くかも/作家手書き文章を刷ったものが巻末に付いている/スペシャルIDが与えられる(ホームページの特別コンテンツにアクセスできる)。×=表紙の質感がひどい/特別コンテンツったってたいしたことなかった/3500円(送料500円込)はやっぱり高すぎる(単行本は1500円)」と、ある。オンデマンド出版は本の質感がゼロ、なっとらん、みたいなことを、はりきって書いてましたねぇ、この頃。

『親愛なる』がくるまれていたパラフィン紙をはずすと、白い表紙に大きく「111-0041 親愛なる四釜裕子様 東京都台東区○○○ ○-○-○」。これじゃあ外では読めないよと思ったが、誰も私の名前は知らないし、本の表紙に堂々と書かれたこの住所が実在するととっさに思うひとはほとんどいないだろうし、平気になって翌朝電車に持ち込んだ。私のメルアドあてにいとうせいこうさんから届いたメールの第一信から始まる。どうも私のメルアドを装って複数の人間がせいこうさんに奇妙なメールを送っているようだ。ひとりの「私」が金を貸してくれと言ったことに対してせいこうさんは無理だと応え、さらに「私」の家の最寄り駅を言い当てた。なんとこの駅が、私の家の最寄り駅なのである。住所を伝えているのだからごく簡単なパーソナライズなのだろうけれど、急におちつかなくなって周囲を見回したし、誰にでも親がいるようにどの場所にも最寄り駅があることに胸をつかれた。

まもなく、登場人物の中の誰に自分が重なっていくのだろうと思いながら読んでいることに気がついた。正直に「女性」と入力したから少なくともコイツではないなと思う男をはずしたりして、自分に味方して物語を読みたがる性癖を知る。パーソナライズのひとつとなりうるキーワードにもたやすくひっかかる。国籍や年齢や体格や。どれも入力していないのだから関係ないはずなのに、それでもだ。さらにあきれるのは誤植を真面目に疑ったこと。私の名前はシカマヒロコ、逆に読むとコロヒマカシで、そのいずれでもない名前が出てきたのだ。カシマヒロコ。入力を間違えたとは思えない。何度か出てきてそのたびにカシマヒロコじゃなくてシカマヒロコですとひとりごちる。しばらく読み進んで再びカシマヒロコに戻ったとき、それはカシマロヒコでカシマヒロコではないことに気がついた。カシマロヒコ。誤植を疑う余地はないだろう。まさかのカシマロヒコだった。

読み終えて、「自分」はつまりこの読み終えた「私」であった。確かに、他の誰かの『親愛なる』と比べてみたくなる。カタカナの名前がどう組み替えられているのかだって気になる。『親愛なる』交換読書会があったら出かけよう。なにしろ古本屋には売れないし、悪い友だちには貸せませんから。

ひとつ手前の駅で降りる。

植松眞人

 地下鉄のホームに降りると、目指していた駅とは違っていた。一駅手前で間違えて降りてしまったのだが、次の電車がくるまでに十分以上待つくらいなら、歩いた方が速いと考えた。どうせ約束の時間までに一時間以上ある。もともと駅前の喫茶店でも探して、珈琲を飲みながら気持ちを落ち着かせようと思っていたのだった。
 祥子は改札を出て、案内板で地上に出てからの方向を確かめた。ふと案内板の隣を見ると、昔ながらのチョークで書く伝言板が設置されていて、子どものようなたどたどしい文字で『切磋琢磨してください』と書かれていた。誰が誰に当てて、切磋琢磨してほしいと頼んでいるのか。相手の名前も自分の名前も書かれないままに、切磋琢磨という画数の多い文字が伝言板に書き置かれていた。祥子は子どものような文字を書く自分の祖母を思い浮かべた。祖母が自分よりも数時間前にこの見ず知らずの駅に降り立って、祥子に向かって『切磋琢磨してください』と書き置いていったのではないかという気持ちになった。
 生前の祖母が祥子にそんな話をしたことは一度もない。いつもニコニコしているだけで、祥子に何かをしろとか、したほうがいい、などということは一度も言わなかった。それなのに、なぜ、切磋琢磨という言葉で祖母を思い出したのかが不思議だった。
 祥子は階段を一段一段あがりながら、切磋琢磨とはなんだろうと考えた。正確な言葉の意味は思い出せなかったが、一生懸命に自分自身を磨くのだという漠然としたイメージが浮かび、自分は何を磨けばいいのだろうと考え始めた。数年続けた仕事はただ営業から上がってくる数字を打ち込むばかりで、最近では営業社員が出先からパソコンやスマホで打ち込むことも多くなったので、これから先、仕事が無くなるのではないかと同じ仕事をしている社員たちの間でよく話題になっている。子どもの頃から習っていて、この会社に入社したころに再び習いだした書道は、どうにも頭打ちで、自分ではこれ以上うまくなるとは思えない。階段をあがりながら考えても、何を磨けばいいのかがわからない。祖母が出てきて、それを書いたのだとすれば、仕事や趣味の話ではなく、結婚のことなのだろうかと考えを巡らせてみる。大学時代に付き合いだして、今の会社に入ってすぐに別れてしまった男が祥子にとって最初で、いまのところ最後の男ではあるが、まだ三十までには二年ほどある。それほど焦る気持ちもなくやってきたが、そう思いながら地下鉄の駅の階段をあがり、踊り場まで来て、急に全身が泡立つように怖くなった。私が切磋琢磨しないから、仕事がうまくいかないのか。私が切磋琢磨しないから書道だってうまくならないのか。そして、恋人ができないのも、それが理由なのか。
 地下鉄を降りるまで、久しぶりに会う友人のことを考え、初めて行く友人のおすすめのカフェで、何を食べようかということしか考えていなかったのに、いま祥子の頭の中には切磋琢磨という言葉とともに、様々な不安がいっぱいになっている。そして、優しかった祖母までが、祥子の不安を煽り、なぜかこれからの人生が決してうまくは行かないのではないかという結論めいたものを重く祥子の行く先に置いたような気持ちにさせられていた。
 地下鉄の階段は長く、二つの踊り場を経て、地上へと続いていた。エスカレーターもない階段をあがり、やっと地上への出口が見えてきたところで、とても強い風が祥子を後ろへと引いた。地下鉄がホームに出入りするときに強く吹く風だと祥子は思った。思いのほか強い風は、階段をあと数段残したあたりで祥子を立ち止まらせた。ぐっと足元に力を入れて、祥子はふらついた身体を持ちこたえさせて、風が止むと同時にすっと背を伸ばした。
 ほんの一瞬、地上出口から差し込む強く暑い日差しに目を瞬かせると、祥子は勢いよく元来た階段を駆け下りた。一足飛びに階段を駆け下りながら、祥子はほんの少し笑い、掲示板の前に立つと、掌で『切磋琢磨』という文字を消した。(了)

なぜ、J・M・クッツェーを訳すのか?

くぼたのぞみ

 まだ8月だというのに妙にひんやり、小雨さえぱらつく池袋の、あるスペイン料理店での話。クッツェー三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』(インスクリプト刊)をめぐるイベントが終わった打ち上げの席で、隣席の人から質問がきた。
 
 ──くぼたさんは、若いころ音楽でアフリカ系の女性ヴォーカルのもつ生命力や癒す力に惹かれ、それが文学作品に結実したものを80年代初頭に熱心に読み、それからコンデ、ダンティカ、アディーチェ、ウィカムなど、アフリカ系の女性作家の作品を訳してきましたよね。なのに、なぜ、白人の作家であるクッツェーを追いかけてきたんですか? 翻訳する男性作家はクッツェーだけですよね?

 それはイベントの最後に話したかったことで、メモにも書き込んでいたのだ。言いそびれてしまった、と気づいたときには手遅れだった。だから、ワインも入った勢いで、答えることばに力がこもった。

「アフリカ文学」を研究する人たちは、植民地化によってあの大陸で抑圧されたアフリカ人たちに共感する傾向がある。少なくともわたしと同世代まではそうだった。彼ら彼女らの声に耳を澄まし、被抑圧者を代弁する文学を熱心に研究、紹介してきた。欧米中心主義の日本のアカデミズムでは「アフリカ文学」は専門分野として成立しにくい。だから先人の作業の積み重ねと努力には本当に頭が下がる。
「アフリカ文学」をやるそんな困難さを重々承知の上で言うのだけれど、わたし自身が細々とアフリカ系文学の翻訳をしてきた者として言うなら、クッツェーを翻訳することはわたしにとって、彼のような人の視点から世界全体を見なおすレッスンだった。
 つまり、南アフリカという土地に20世紀なかばに、オランダ系白人の家系に生まれたジョン・クッツェーという人間が、ヨーロッパやアメリカとの歴史的関連のなかで自分の立ち位置を見定めていったプロセス、それをわたしはじっくり考えたかった。彼の視座を学ぶ必要があった。わたしが生まれた北海道と日本のメトロポリス東京との位置関係を、世界規模の植民地化の歴史の枠組みのなかで再考してみたかったから。北海道という旧植民地の入植者の末裔である身には、アフリカの被抑圧者側に身を寄せて共感するだけで、ことが済むとは思えなかったのだ。

 スペイン産のフルボディのおいしいワインを飲みながら、イベントが無事に終わった安堵感もあって、そんなことを勢いにまかせてしゃべったような気がする。

 クッツェーという作家は作品内に、歴史の源流まで遡ろうとするベクトルを書き込む。ギリシア・ローマの古典からの引用も多い。ユダヤ・キリスト教文明との絡みも当然出てくる。そんな長いスパンで見た世界史的視点のなかで、偶然ある時期に、偶然ある土地に放り込まれた個別の人間の生を描く。
 この群島の近現代にその枠組みをあてはめるとどうなるか。明治政府が近代化を押し進めた北海道でわたしは生まれ、18歳までそこで暮らした。それ以前は「蝦夷地」と呼ばれた土地を「旧植民地」と再認識する過程に、クッツェー的視点が助けになった。なぜなら、1950年代から60年代にかけて、この国の教育は北海道が旧植民地であったことをまったく教えなかったばかりか、アイヌ民族は滅びた、とまで言ったからだ。その影響はいまも根強く残っている。

 みずからの体験を、アフリカとヨーロッパの関係に対比させながら、歴史的な光のなかに置いてみる。そこに見えてくるものを考え抜くために、クッツェー作品の一行一行、一語一語と格闘した。一度、日本から離れ、個人的な感情の濁りが入り込まない場所で思考し、そこで獲得した視座から、この群島の歴史を見直す必要があったのだ。1988年にズールー民族の叙事詩を四苦八苦しながら訳しているとき、ひょんなことから友人が手渡してくれたペンギン版で、当時売り出し中の『マイケル・K』とういう作品を読み、これ、すごい! 面白い! とやみくもに翻訳し、その10年後に『少年時代』を、それからさらに9年後に『鉄の時代』と訳していく長い時間のなかで、自分の立ち位置を明らかにする作業はゆっくりと、じっくりと進んだ。避けて通れないプロセスだった。ヨーロッパと南アフリカとの関係で考えてみるなら、自分は「ヨーロッパ白人」の位置にあるのではないか。そんな思いから、反アパルトヘイト運動の仲間にクッツェー作品を「なんやシロか!」と言われて絶句しながら、読み、訳しつづけた。

 そこからは、アフリカ系の女性作品に心を寄せるだけでは透視できない視点が浮上するのだ。彼女たちの作品だけ読んでいたのでは、世界全体を俯瞰できない。もちろんジェンダー的にも「人種」的にも真逆のクッツェーは、しかし、わたしにとって避けて通れない道行きへの道案内。若いころ、かのボードレールにさえなってみたのだから、それを思えばなんのことはない。クッツェー自身が作品に深く埋め込む歴史的視点に、自分のなかの暴力性を作品内に徹底的に叩き込もうとする人間クッツェーの倫理性に、強い関心を抱きつづけることは困難などころか、むしろじつにスリリングな経験だったのだ。

 というわけで「自伝的作品」は訳者の重要課題となった。1980年代から90年代にかけてポストモダン、ポストコロニアルといった文脈で理解される「偽装を凝らした」作品を発表してきたこの作家は数年前、ついに、ペーパー類をすべてランサム・センターに譲り、その作品の生成過程に誰もがアプローチできるようにした。作品行為の、手の内を明かし始めたのだ。あたかも作品の「偽装」を剥がしてくれ、と言うように。まだ生きている作家がこれをやったのだ。
 そこに人間クッツェーのある決意が透かし見える。

118アカバナー3 かなしか

藤井貞和

折口はん、あんたのまれびとはうそや
そんなのいいひん、あらへん、神はん
いてはらへん  てんのうじの地震
もえつづけて六十九年 えらいこっちゃ

「かなしか、いう奈良の鹿見ゅーと
悲しか、ばい」 阿蘇の神はんと
かなで書くのやー 春日野の神はんと
あれはてたココロをあらそうかなや

ロードクでは、かっこがぬけるで
かなしかのこらん  とめたらあかん
書いたらあかん  かっこつかへん
鹿がぴー 鳴きます、若草山のてっぺんで

神ばいたいで書くのや  神しばいや
てんまんぐうの道行きや じょーろりや
天魔ばしから、手ぇとって往(い)の
いくののはしは生くの生かぬの

(七月八月、大阪と奈良とを過ぎながら。悲鹿〈かなしか〉)

「ライカの 帰還」騒動記(その11 エピローグ)

船山理

コミック編集部解体については、係わらせていただいた作家さんたちに正直にことの顛末を伝えることにした。一方的にこちらが悪い、こうなってしまったのは自分の努力が足りなかったせいだと、頭を下げる以外なかったからだ。吉原さんには私は日ごろから、あなたはメジャーで活躍しなければならない人だ、マガジン社はそのインターバルに、あなたをメジャーから借りているだけなんだよ、と話していた。
そんなおり、毎年年末に行なわれる小学館のパーティに招待を受けたので、吉原さんと2人で出かけて行った。これは帝国ホテルで行なわれる恒例の行事で、著名なコミック作家さんたちが一堂に集う、華やかで盛大なものだ。バンケット会場を2つぶち抜いて行なわれるパーティは大勢の関係者で溢れかえり、ホスト側の小学館も、ほぼすべての編集スタッフと役員たちが、それぞれのケアに奔走する。
そこでは編集スタッフが待ち構えていたのだろう。吉原さんを見つけると私を押しのけ、5〜6人で彼を取り囲むと、まるで旧来の知己に出会ったかのように談笑を始めたではないか。わずか数年前に吉原さんをパージした小学館が、彼を凱旋将軍のように迎えているのである。吉原さんは戸惑ったように笑っていたが、私はその光景を目に留めた後、その場から姿を消すことにした。
吉原さんが改めてメジャーに迎え入れられる。それが現実になった瞬間に立ち会えたことは嬉しい。だけど、もうコミックの舞台に立つことはないだろう自分との距離感を考えると寂しいような、いたたまれないような、そんな気分に襲われたからだ。考えてみれば厚かましい限りなのだが、私はこのとき、コミックに編集として係わることを心底、好きになっている自分に気づかされた。
パーティがお開きになると各編集部は独自に2次会を設定する。私は大した考えもなく、誘われるままビッグコミックオリジナル編集部による六本木のクラブ会場に足を運んだ。だけど編集長の亀井さんは大御所の作家さんの接待か、役員たちのフォローで別行動だから、編集スタッフは知らない人ばかりだ。それでもソファーで談笑する村上もとかさんを見かけたので、ホッとして声をかけさせてもらった。
村上もとかさんとは小学館デビュー作となる「赤いペガサス」で、例の友人を通じてF1レースの資料提供に協力させてもらった。それは私がオートバイ編集部に在籍していたころだから、ずいぶん長い。その後も何かと親しくさせていただいている。そのとき、村上さんの作品で、つい先日目にしたばかりで気に留めていた1カットを思い出した。それは小学館の作品ではなく、集英社のものである。
もとかさん、こないだ最終回を迎えたスーパージャンプ、お疲れさまでした。あのラストカット、主人公の顔のアップ、いい表情が描けてましたねぇ。あれ、もとかさんが描いたんじゃないでしょ? すると「バカ言え! オレが描いたんだよ!」そこで2人して大爆笑したのだけれど、さして広くないクラブの会場で、私は周囲の視線を一身に浴びることになり、あたりは静まり返ってしまった。
すると私の右手から、すっとんで来た人がいる。見ると名刺を差し出して平身低頭しているではないか。大御所である村上さんと大声でバカ話をしている見知らぬ男、つまり私は何者なんだ? 年間にして小学館に10数億円単位の収入をコンスタントに提供する作家さんに、こんな口を利く男が少なくとも身内にいるわけがない。よほどの関係者だと思われたのだろう。差し出された名刺には副編集長の肩書があった。
彼に奥のソファーに案内された私は、村上さんに軽く手を挙げて会釈し、促されるままに席に着いた。そこで私は正面に座っている人と視線を重ねたのだが、あれ? どこかで会った人だぞ…と思っていると、彼がおそるおそる名刺を差し出した。私はその名前を見て愕然とする。石川サブロウ。そう、「とんびの眼鏡」を描いてもらおうと私が心に決めていた、その人ではないか。何という運命の引き合わせだろう!
石川さんは私をまったく覚えていないようで、それはそれでホッとしたこともあるのだけれど、私の胸中は複雑な思いが駆け回っていた。もし石川さんが、あのとき描くことを受け入れていたとしたら、あの作品はどんな具合に仕上がっていただろう? 編集としての興味は正直あったが、吉原さんの手によって、これ以上ないほどに完成しているものに、どんな想像も入り込める隙はなかった。
石川さんは少年ジャンプ誌の連載終了後、作品発表の場に恵まれていなかった。私は目の前にいる彼が、あのときのようなオーラを発していないことにも気づかされた。けっきょく私は石川さんと会話らしい会話をすることもなく、クラブ会場を後にした。帰りのタクシーの中で、石川さんが村上もとかさんのアシスタント出身であり、そのことを後から知ったんだっけ、などと考えながら眠りについてしまった。
後日、新潮社から「ライカの帰還」を香港でも発行したいとの依頼が当地の出版社からあり、どうしますか? という電話があった。吉原さんはどう言ってますか? と訊くと、私がOKなら構わないそうだ。それじゃ相談するまでもないなと、承知させてもらうことにした。印税に関してはレートがどうとか言われたけれど、そんなことより海外でも注目されたということに正直、びっくりだった。
ほどなく私の手もとに「人間捜影」と題された香港版が届けられた。吹き出しのセリフがすべて漢字になっているのはもちろんだけれど、描き文字による「音」が、いちいち欄外で説明されているのが面白い。巻頭のレイテ沖海戦で米海軍爆撃機が発する「オオオ…ン」は飛機飛行的聲音だし、爆撃にさらされる空母瑞鳳が発する「ボボボ…」は猛烈轟炸的聲音なのだそうだ。編集のこれらの読者への気遣いは興味深かった。
かなり後の話になるけれど、新潮社版でカットされた3話を収録した「ライカの帰還・完全版」が、新潮社からの発行後、12年近くを経て幻冬舎から発売された。このときは朝日新聞の紙面に表紙の画像入りで紹介されて、こちらから何の売り込みも依頼もした覚えがないだけに、驚かされたものだ。同時に幻冬舎を通じて、台湾からも同様の依頼があったから、この作品は都合、5つの出版社から出されたことになる。
香港版と台湾版を見比べると、吹き出しの中が同じ漢字だらけでも、けっこう異なっていることに気づかされた。私は中国の言葉はサッパリなのだけれど、広東語と福建語の違いなのかな、とも思う。台湾版では「音」の描き文字がなるべく活かされていて、もとの絵柄を尊重してくれているのに好感が持てる。香港版のように「音の解説」はないのだけれど、その代わりに独自の説明が欄外に加えられていた。
たとえば主人公が空母の艦上で、上官から「予備学生あがりか?」と訊ねられるシーンは「是預備學生出身的?」となるのだけれど、預備學生の箇所に※が設けられ、かなり長めの解説が加えられている。これはオリジナルでは触れてない分、へぇ〜っと感心してしまった。新たに描かれた文字のセンスなどから見ると、台湾版はかなり手練れの編集者が係わってくれているように思う。ありがたいことだ。
そうそう、マガジン社のことについても触れておこう。びっくりするほどの、どんでん返しがあったのだ。何がどうなったのかは闇の中だが、次期社長を目指していたはずの大園常務は突然お役御免になり、林社長が再び正面に復帰したのだ。そして大園さんが抜擢した2人の役員も、それぞれカタチは異なるものの、相次いで更迭されてしまう。文字どおりの報復人事というやつだ。恐ろしい限りである。
これで、かつての編集担当取締役だった見山さんが呼び戻され、コミック編集部も復活となったらドラマとして面白かったのだが、現実はそうは行かない。林社長は赤字寸前まで転落していたマガジン社の収支を操作し、少なくとも自分が社長でいたときは黒字決済だったという証拠をつくってから、社長の座をオーナーの長男に譲って、自分はさっさと身を引いてしまったのだ。これも恐ろしい限りである。
私はと言えば古巣のオートバイ編集部に副編集長として配属され、ここでもコミックがらみで面白いことを手掛けてさせてもらった。その後、小学館を辞めてしまった例の友人から、彼が参画している外資系のコミック編集部に誘われ、大いに悩まされた。そして34年務めたマガジン社から転職し、そこで大御所作家さんたちと得難い経験を積ませてもらうのだけれど、そのことはまた別の機会があれば語らせてもらおう。

(おわり)

しもた屋之噺(152)

杉山洋一

ふと気がついたことがあります。今月、自分はいわゆる忙しい人になっているのではないか、そう思った瞬間、背筋が寒くなりました。忙しいというのは仕事が沢山ある状態を云うのだとばかり信じておりましたから、自分と無縁の言葉だと思っていましたが、本人の仕事の処理能力を超えれば、それは既に忙しい状態なのだと漸く理解しました。元来生産性が低い人間が、忙しい毎日に陥るのは思いの外簡単だったのです。息子のためにせめてもう一日どこかで時間を作りたい、両親の処へ出かけたい、お墓参りしたい、大切な友人に会いたい、と思っても、何一つ実現できないまま一月が過ぎてしまいました。

  —

 8月某日 ミラノ自宅
ヴィオラの笠川さんミラノ来訪。微笑みの絶えないとても感じのよい方で、こちらはケーキの一つでも用意したいと思いつつ、周りの店は8月で軒並み休みで、唯一あいていたアイスクリーム屋でジェラート購入。

譜面を読みながら思うこと。作曲では、こうしたらどうなるか、という多少の冒険心が許されるだろうが、おそらく指揮では許されない。演奏者は具体的な方向性を指揮者に望んでいて、時間もごく限られている。困ったなと思う。

 8月某日 ミラノ自宅
パレスチナで凶弾に斃れた妊婦から取り出された赤ん坊が死亡。「悲しみにくれる女のように」という、バンショワを原曲とするアグリコラの作品を素材にデュオを書こうとしていて、この妊婦と赤ん坊のことが頭から離れない。自分にとって作曲とは、言語化できない感情を他人につたえる手段なのかもしれない。すこぶる原始的な理由。

世の中には、たぶん正しいことと正しくないことなど存在はしない。それを正しいと思うかどうか、のかすかな隔たりが、それらの間にあるだけ。だから、何がどれだけ正しいかと謳い競うのは、あまり意味がない気がする。

どれほどかうちのめされた
かなしみにくれる女のように
わたしはいつなんどきも
なぐさみをうける希望もない
不幸におしつぶされ
朝も晩もただ死を欲するばかり

恐らく原曲は乙女の失恋を唄っているのだろう。
一見明るいバンショワの旋律が、より強く胸に迫る。

 8月某日 三軒茶屋自宅
初台でSさんとポーランド料理のランチをたべる。彼は大学時代ワイマール共和国からナチス台頭までの時代を、日本社会党のブレーンだった教授のもとで勉強した後、好きだった音楽の道に進みたいと音楽学で音楽大学の院にすすみ、フルトヴェングラーが戦後指揮活動を止められていた頃に作曲した、交響曲第二番を卒論のテーマに選んだ。ドイツは文化が花開いた時期だが、イタリアではムッソリーニの農業政策などが実を結んで世界から認められていたころ。
彼は大学時代、ワイマール共和国が、さまざまな歴史的分岐点で別の選択をしていたとしたらその後の歴史にどう影響を与えただろうかという仮定と検証を行っていた。
「面白かったですよ。でも今は、むしろ現在の日本とワイマール共和国とをつい比べてしまう」。

 8月某日 三軒茶屋自宅
横浜近郊の駅ビルでカレーを食べていると、隣のテーブルで60歳くらいの女性が四方山話をしているイントネーションが湯河原のそれに似ていて驚く。ハマ言葉とか言うくらいだから、横浜あたりは全然違う訛りだと思い込んでいた。

武満さんの「カシオペア」自筆譜をたずさえ、すみれさん宅へ一石さんとお邪魔する。先月末にミラノで受け取った自筆譜には、冒頭の速度表示も、練習番号も小節番号もなく、打楽器のパートも殆ど書き込まれていないので、一石さんにお願いしてオーケストラのパート譜を一部送っていただき再構成した。何日か夜明けまで譜読みして、何とかすみれさん宅にでかけると、すみれさんのお宅で、ていねいに書き込まれた打楽器パートを目にしておどろく。その上、前回若杉さんが使われた浄書譜をみて力が抜けた。今更こちらを使う時間もないが、どうしたものか。

尤も、自筆の初稿で勉強したのは、もちろん意味があった。ページごとにブロックとして書かれていて、その中では和音が一定であったり、フレーズ構造がまとまっていたりする。だから寧ろたとえページを入れ替えても差し支えがないのだろう。パート譜に書かれた練習番号の順番が入れ違いになっているところを見ると、当初は違う順番でページが並んでいたのかもしれない。

すみれさん宅に並ぶ夥しい打楽器を見ると、眞木さんや八村さんはこれらの楽器を手にとって曲を書かれたのだなと、感慨をおぼえる。すみれさんの演奏される姿は、子供のころから数え切れないほど演奏会でみていたままで、そんな当たり前のことに感激する。渋谷のトップでコーヒーを挽いてもらい帰宅。

 8月某日 三軒茶屋自宅
ラジオで8月15日が何の日か知らない若者が多いというニュース。彼らがそれを知らなくても生きてゆけるような文化を培ってきたのは、我々自身であって、責めるべきは彼らではない。何が正しいという以前に、これでは近隣諸国と齟齬が埋まらないのは当然かもしれないし、温度差が広がりそうでこわい。ともあれ、ラジオを聴きながら、近所の豆腐屋の出来立ての木綿豆腐を食べられる幸せをかみしめる。

漸く芥川賞の譜面に集中できると思いきや、Sさんより電話。手伝ってほしいことがあって、とわざわざ三軒茶屋までいらして、楽譜を届けてくださる。一見すると理解できない譜面で、自分で役に立つのか不安。リハーサルは3日後なので、秋吉台から半日ぬけなければならない。

 8月某日 羽田空港にて
Kの楽譜を一日読む。楽譜にびっしりと書き込まれた分厚い注釈に面食らい、英語に訳されたガイドをペンで楽譜に書き込んで一日が終わってしまう。そのあと夕方から明け方にかけて譜割り。慌てて荷造りをして、息子と羽田空港へやってきた。飛行機で寝るつもりだが、今週と来週をどう乗り切るのか想像するだけで寒気がしている。

 8月某日 秋吉台にて
生まれて初めて秋吉台にやってきた。学生時分からここの音楽祭に来てみたいと思っていたけれど、恐らく一歩を踏み出す勇気と自信がなかった。だから、こうしてここに参加している学生をみると、あの頃の自分よりずっと頼もしくみえるし、こちらが励ますのも少しおこがましいような気さえしてくる。
昨晩は23時すぎまで作曲学生と演奏家で集い、彼らが楽譜の読み難さについて話しあうのをきいていた。一見読みやすそうに見える浄書ソフトの功罪。手書きの楽譜がより読みやすいことは確かに多い。

慌てて息子を寝かせ、芥川賞の譜読み。夜半、雨足が強くなり、叩きつけるような雨。布団はひいてあるが、横になれないまま朝。
朝、竹藤さんと木下くんの自作を聞かせてもらって、11時半にTさんの車で宇部空港へゆき、家人と入れ替わりに東京にもどる。車中、Tさんが音楽を志したきっかけなどを聞き、心を打たれた。先日のSさんにしてもTさんにしても、ただ漫然と幼少から音楽を続けて音楽家になるより、ずっと深い情熱を感じる。
家人が羽田空港に忘れてきたトランクを受取りにでかけ、コインロッカーに預けてから、リハーサル会場に向かう。

リハーサルでは一度通して聞かせていただいてから、お互い手探りで限られた時間で何をどうしたいのか考える。皆さん錚々たる演奏家の方々だから、こんな風にやってみたらどうかと提案するだけで、次々に新しいアイデアが生まれて、その度にまた新しい問題が生まれてくるのを、あれこれ話しつつ解決してゆくのは楽しい。チーニ財団の委嘱で98年にピサーティが楽譜を再構成し、エミリオが蘇演したノーノの「森はわかわかしく生命に満ちている」も、こんな作業だったに違いないと想像しながら羽田に戻る。

あの世代の作曲家の歴史的作品を、今後どのようなスタンスでどう演奏してゆくのか、伝統と旧弊の継承と因襲は、今後我々の世代の大切なテーマになる。活発で開かれた議論こそが、文化全体をより深いものに培ってゆく。音楽は再現のみならず、常に創造的でなければならないが、恣意的な創造性に身を委ねると後戻りもできなくなる危険が潜む。自らの過信が一番怖いのだが、演奏は何か明確な方向性がなければひとつに纏まらない。結局古典派もロマン派も近代音楽も現代音楽もまったく同じ。朝5時に目覚ましをセットして今日は眠ることにする。

 8月某日 秋吉台にて
不謹慎とは思いつつ部屋の一番後ろでSくんの楽譜を勉強しながら、徳永崇くんの話をきく。彼がかけてくれた岩手の秘謡「氷口御祝(すがぐちごいわい)」のヴィデオが特におもしろい。男性が高砂を謡い、女性が萬鶴亀(まがき)節をアイブスのように重ねて謡う。

湯浅先生も先日同時に複数の時間を一つの曲に重ねることについて話されていたが、今日は徳永くんがツァイトマッセや、グルッペンについて触れていた。作曲家からすれば、それは純粋に知的好奇心をそそる研究だろうし、演奏家からすれば時間構造が出会う部分で得られる快感かもしれない。聴き手からすれば、それらが組合わさって醸し出されるスリルやエンターテイメント性かもしれない。
先日の夜半の豪雨が、隣の広島で甚大な被害をもたらしたことを知る。

 8月某日 秋吉台にて
鈴木くんや田中くんの面白いレクチャーを聞いて、何も準備をせず秋吉台にやってきた自分を恨めしくおもう。結局作曲の近藤くんが書いてきた「ウサギとカメ」の5音のモチーフと「akiyoshidai」というアルファベットで、たとえばどのように自分なら展開させるか、ボードに五線譜を描いて即席でやることにする。
作曲のレッスンを見学していて、どうして揃って皆がモチーフを変容させずに使うのか、不思議だったからでもある。やってみたのはアルゴリズムのものすごく原始的な方法だが、これをコンピュータでやるのと、手で変化させるのは音が違ってくる不思議について、湯浅先生や田中君が話す。

毎晩のひらかれていた演奏会はどれも素晴らしく、到底一つ一つ書ききれない。特に先入観もなく秋吉台にやってきたが、結果として忘れ難い経験になった。一週間で作曲の学生さんたちと何が出来るのか不安だったけれど、皆さんがとても熱心で、本番は見違えるようだった。ただ譜読みを深夜から朝にかけてするしかないのが辛い。布団には一度も入れなかったし、夜半は睡魔と夢と現実が交錯する幻想的な世界に陥り、後で見ると自分の書き込みの意味がわからない。

 8月某日 三軒茶屋自宅
昨日は羽田からそのまま練習場に向かった。傍らのMさんに詳しく教えてもらいながら、昨日はそれを演奏家に伝えるに留める。それを踏まえて、与えられたごく限られた時間のなか今日何ができるか、練習場に向かう電車のなかで書き留める。
無意識にシェルシやザッパの楽譜を思い浮かべながら、Mさんの教えを枠として演奏家を規定するのではなく、彼ららしい演奏の結果としてその枠が自然と浮き上がるようにしたいとおもう。作曲者がそうとしか書きとめられなかった音楽のすがたを、思い描いてほしいとお願いする。恣意的に傾きすぎぬよう、皆さんのもつ古典の枠組みをうまく生かしたい。

(8月30日 三軒茶屋にて)

風が吹く理由(5)新盆

長谷部千彩

広東語のレッスンを受けた帰り、いつものように教室の数軒隣りにあるコーヒーショップに寄った。普段ならサラリーマンや学生が注文の列をなしているのに、今日は誰も並んでいない。店内は閑散としている。コーヒーとサラダを買い、空いている席に腰を下ろす(といっても、ほとんどの席が空いている)。はっとする。
―あ、もしかして今日からお盆?
道理で朝からSNSのタイムラインに旅先からの写真が多くあがっているわけだ。私は、その中に、スイカと缶ビールが供えられた墓石の写真があったことを思い出した。「好物だったスイカを差し入れ。暑くなる前に、と思って早めに出たけど既に汗だく(–;)」と添えられたコメントと、それを読み、猛暑の中、平日の朝から電車に乗ってお墓参りに行くなんて、彼はどれだけ連れ合いのことを愛していたのだろう、やっぱりあれかしら、ゲイのカップルというのは愛情が濃いのかしら、などと勝手に想像し、勝手に感動していたことも。なるほど、新盆だったのだ。

コーヒーショップを出た私は、事務所のマネージャーに電話をかけてみた。
―今日からお盆みたいね、知ってた?
―らしいですね。
―世の中の人たちって本当にみんな休みをとっているのかしら?
―サラリーマンの人たちはとっているんじゃないですか。事務所に来る時、電車、ガラガラでしたよ。

音楽業界という盆も正月もない世界で働いてきたせいもある。だけど、それだけではない。私がお盆の始まりに気づかなかったのは、私の育った家庭にお墓参りの習慣がなかったということもある。いや、正確には、幼い頃には、その日が来れば、祖父母の家に連れて行かれ、そこから親族とともに車に分乗し、お寺へ向かった。そんな記憶もある。柄杓で墓石に水をかける行為、仏壇の前で煙くゆらすお線香、リンの響き、涼しげな花を浮かび上がらせ、くるくる回る行灯、夜遅くまで続く酒宴のことなど、夏の行事は記憶の断片として私の中に沈んでいる。
けれど、そういったあれこれはいつの間にか私の暮らしから消えてしまった。両親が離婚し、東京に引っ越し、祖父母が亡くなり、親戚とも疎遠になり、いま、私は、田舎と呼べる場所をなくすということは、手を放した風船が空に飛んで行くように、先祖という概念も失うことになるのかも、と考えている。
そして、失ったものがあった場所に芽を吹き、根を張ったのは、人間は死んだら終わり、人間は生まれ変わらない、だから生きている間だけが大事なのだ、という死生観だ。それは、お盆という行事から遠ざかった長い時間を経て、私という人間の立つ強固な地盤となっている。

その夜、予約がとれないと噂のビストロに友人たちと集まった。テーブルがおさえられたのは、お盆で東京に人がいないからかも、とひとりが言った。私は、お盆の間って仕事休んでいる?と尋ねてみた。ふたりとも、休んでいない、と首を横に振る。全員フリーランスであることを考えると、想像通りの答えではある。当然ながら、彼女たちにも、お墓参りに行った様子はなく、また、行く様子もなかった。
誰も彼も罰当たりな。心の中で笑ってみるも、すぐに考え直した。罰なんて当たらない。少なくとも私に限っては。”ご先祖様”という概念がない以上、”ご先祖様”は存在のしようがないのだし、ならば何の加護も受けられないだろうけど、罰というものも当たらないだろう。
バッグの中では、携帯電話が時折唸り、仕事のメールを受信している。明日もやはり暑いのだろうか。何件か回らなければならない用事がある。私は炭酸水を口に含んだ。せめて―せめて夕立でも降ってくれたらいいのに。

島便り(5)

平野公子

あれれれ、こんなつもりじゃなかったんだが…。
半年間に島の若者たちが訪ねてくる、友人が移住して来る、屈託なく話す食べる呑むうちに、島でわたしはイワトではなく、カモメという名の集まりを始めようとしているのです。人ごとのような言い方ですが、ホント人ごとのように始めます。

O君はオリーブ会社の広報で、つまり勤め人ですが、実にライブが好きな若者で、年間優に4-5回は自発実行しているらしい。だいたいこの島はイベント好きです。しかも彼は移住から3年目にして島中にネットワークを拡げている。私は彼にいろんな人を紹介してもらった。車で送り迎えつきで。

 なんか俺大きいライブやりたいんです。 わたしはカフェでやるようなライブはやんないよ。
 どこか、ココならってとこありますか。 無理かもしんないけど、ある! そこならやる!

私が密かに使わせていただけるのならやってみたかった場所は、現存している、年に一度は地元民の歌舞伎舞台として使われている、棚田を見渡せる場所にある農村歌舞伎舞台2カ所なのだ。県の無形文化財でもある。ここで野外音楽祭、うたのイワトみたいなのを年に一度3バンドくらいでやれたら、なんか有り難き幸せなんだが、所詮無理だろうと思っていた。

 俺もいつかあそこでやりたかった。やりましょうよ。ウエー、あそこ出来るんかな? 
 これから俺動きますよ。公子さんだったらどんなプログラムになりますか?

そんな話をしたのが4月。で、結論から言うと、来年5月9日小豆島音楽祭「風が吹いてきたよ」@農村歌舞伎舞台 実現できることになってしまった。どこの地方でもそうだとおもうが、島と言っても一様ではなくて、かなり細かく地区/集落が別れている。それぞれ地区ごとに気風が大部ちがうようだ。O君が地区のひとたちに段階を踏んでプレゼン(説得)するまでには3ヶ月が必要だったようだ。私は一度もそこに参加していない。どんな言葉がやりとりされたのかも知らない。

快諾もらいました。という嬉しそうな電話がきただけ。でもそれで充分。実現には問題山積なのは当然だが、音楽祭の準備は幸運をもってはじめる。O君とそして参集してくれるみんなと。

(残暑のため、この続きは次回にします。食品のこと、農産物のこと、イラストインタビューのこと、レクチャーシリーズのこと他進行中のこと、それぞれの人とそれぞれの場所でつぎつぎはじまりそうです。で、全体をカモメと名づけたのでした)

青空の大人たち(3)

大久保ゆう

 たとえば自分が乳児の頃マスコットだったなどと申し述べると人は聞いて何だよくある持て囃され型の幼児かと思われるだろうし少し事情を知る人ならうちの家業が洋品店であったことを思い出して我が子かわいいあまり商品や店名にその名を付けたり広告に用いたりするあれかとも察されるのかもしれないがここで綴るのはまったくそういう話ではない。

 家業の店舗の三軒隣、実家とは直接関係のないいわゆるギャルレ――つまり専門店の集まる建物――があり、一歳になるかならないかの頃、その一周年の記念に私は販促として広告に用いられたのであった。むろん親の許可はあっただろうが本人の同意などなく今や当時の二色刷のチラシから読み取るしかないが確かにそこには自分の名と写真がある。そして以後周辺では自分は本名ではなくその建物の名称であった鼻濁音入りカタカナ二文字の末尾に「夫《お》」をつけた実に益体もなく自我があれば屈託のひとつでも見せなくなるようなあだ名で呼び習わされたわけだが(鼻濁音の気恥ずかしさをぜひとも考えてみてほしい)、そもそも私が選ばれたのは同じ町内に一歳になろうかという子が三人しかおらず他のふたりに拒まれたため同じ町のよしみで商い上のギヴ&テイクですなわち子どもにはあずかり知らぬ大人たちの政治上の取引の道具にされてしまったというわけで、何かしらそこには子を表に出したいという親馬鹿も多少もあったのかもしれずそうなると抗議のしようもなく照れるほかない。

 ともあれ。そのギャラリアは一種の庭であった。しかしそれは自分がそこで遊んだとか心温まる触れ合いがあったとかましてや原風景であったとかいうような類いのことではなく、ただ家を出たところにある前庭であったというだけで、それだけに今でもどこに何があって何を買ったかということを覚えているにすぎない。

 入口をくぐると病弱なおのれにとって欠かせぬ薬局があり少し進めば香ばしく薫るパン屋がある。広めのスーパーマーケット然としたエリアを抜けると精肉・生魚の個別店舗が構えておりその裏には乾物や菓子の小売りで青果の奥をゆくと弁当屋と花屋があるという具合だ。階上には玩具店・手芸店・化粧品店・文房具屋・家電屋、あとは衣類を売る店や筐体ゲームの一角もあったはずで催事場もありそこではよく玩具屋がイベントや大会を開いていたのが一度も勝ったことがない。エレベーターの隙間に五〇〇円玉を落としたことやエスカレーターの隙間から見える緑色の光が怖かったことなどギャルレのあらゆる〈ひび〉然としたものが恐怖の対象として現れたのも今となれば一興である。

 しかし幼い記憶を掘り起こそうとしてもどうにも思い起こせることが大してないが、印象深いのは商う人々の顔が楽しそうであったことだろう。とりわけ夏に建物の裏の川で花火を打ち上げる日には普段解放されない屋上を開け、建物内の商店総出で縁日をやり近い町内の人々を集めて皆で夜空の華に興じた。商うとは何よりも自分たちが朗らかであることが大事だというのがおそらくは商店主たちの総意であったのだろう。

 そもそもその建物が築かれたのは以前のギャルレが火災によって焼け落ちたからだという。そのときの写真は見たことがある。さいわい怪我人こそ出なかったが何十という店舗が灰燼に帰した。してみれば多くの商店主にとって新しいギャルレは再起の砦であったことは疑いの余地がない。ならばこそ再生を意味する赤子を象徴に用いたのだろう。祭り上げられたおのれがそれをうまく言祝げたかと言えば、みじんも自信がないばかりかあろうことか失敗してしまったのだと思う。なぜならその建物は今や陰形もなく、うちの家業が店じまいするよりもずいぶん先に閉鎖・解体されて高層集合住宅に建て替わっている。当時の店は同じ町にはいくつと残っていないし、個人的に知る数少ない主たちも少なからずすでに物故している。

 どうにも〈顔〉を出すことで周囲に与えたあるいは自身が得られた実用的効果はこれまでのことを考えても微々たるものなのだが、新聞取材なども同様である。初めて大きく載ったのは朝日新聞で高校生の時分だったがそのときは校内にいらっしゃる嬉々とした年配の方々によく声を掛けられた。一方で生徒や教師間ではただよくわからない陰口や世間話の種にされただけで評判は下がりこそすれ上がりはしない。とはいえそのとき来てくださった記者はたいへん誠実な方で、ともに取材された人物はマスコミ嫌いであったが丁寧に説得なさって結果立派な記事ができあがっていた。その後毎日新聞や讀賣新聞の方とも接することがあったが、こうして最終的に〈記事〉を仕上げてくださった方々は何ら傲慢なところもなく田舎の少年に向き合ってくださりジャーナリストとはかくたるものかと思い知らされたものだ。

〈仕上げた〉とわざわざ書くのはむろんそうではなかった人もいたということで、あるとき公共放送から若者と文学というつながりで番組を作りたいという取材申し込みが青空文庫経由で来たことがあり少年はどうぞどうぞと取材日を決めたが結局その日が来るまで以後の連絡もなくどうしたものかと思っていたらそのまま放送日が来てしまいそれを見た青空文庫の富田倫生さんがたいへん激怒されたということがあった。自分はそれなりに斜にも構えたいっぱしの思春期であったのでTVとはそんなものかと達観したものだったが怒り心頭の富田さんはその制作会社とは今後一切関係しないとおっしゃられるまでに至ったため、悪いことをしてしまったと個人的にたいへん申し訳なく思っている。

 それからというもの富田さんつながりで何かしらの縁ができたが結果として実を結ばなかったことが取材・仕事を含め複数あったのだがご本人の耳には入れないよう苦慮したもので、不快な気持ちは自分のなかだけで済ましておくことにしたのだ。誰かと誰かの縁を強めたりつないだりするのはいいが、マスコットとして不出来なおのれが人や商いの縁を切ってしまうことだけはどうしても嫌だったのだ。今から思い返せば温度差や理解差みたいなものがあったのだろうと思うし、富田さんはたびたび私のこと(それも私にも思いも寄らない所)を褒めてくださったが富田さんの周囲の人はその熱と内容がさっぱりわからないといったふうで、自分もそういった視線に晒されて肩身の狭い思いをしつつ期待に応えようとするのだが富田さんにしかわからない直観を富田さんならぬおのれが一生懸命説明しようともやっぱり相手にはわからない。そうして私の習作は富田さんだけが気に入ったまま数年が流れたあと突如として話題となり当時わからなかった顔をしていた人たちが持て囃すのが恒例だったが、それには富田さんも嬉しそうだったので自分も何食わぬ顔をしてそれを受けた。むろん親や周囲の人も喜んでくれるのだから過去の不快が何であれ拒む理由などないわけだ。

 要するにメディアに顔を出すというのは自分のためではなく、むしろ不出来なマスコットながらも自分を育んでくれた周囲の大人たちが満ち足りた気持ちになるからだと言える。かつての商店主たちへの恩返しというよりは詫びといった類のことで、主たちは今の自分を知らぬかもしれないばかりかすでに亡くなっている人々もいるのだが、とりあえずはメディアを通じて湖の上に広がる虚空に顔を出すことだってできようというものだ。

『海からの黙示』をめぐって

高橋悠治

2011年3月11日14時46分、地震があった。渋谷駅の地下鉄出口で階段をあがったときだった。長い揺れの後で外に出てみると、人びとが空を見上げていた。何かが見えたのだろう。携帯電話は通じなくなっていた。電車は停まっていた。わずかに残っていた公衆電話から家に電話をして、まだ走っていた路線バスで帰ったが、数分後には公衆電話の前に長い列ができていた。その後バスも停まり、道路は渋滞し、人びとは何時間も歩いていた。

帰ってテレビを見ると、どこかの工場が爆発して白い煙を噴き上げていた。でも、それはまだフクシマではなかった。フクシマはもうはじまっていた。いまも終わっていないし、終わりはないかもしれない。

金属の筒に入ったウランの粒が鉄の釜のなかで発熱して、水を蒸気に変える。釜の外から水で冷やしているが、その水はタービンの羽に吹きつけられて電気を起こすその蒸気が、冷やされて水にもどったその水らしい。と聞けば、永久運動機関のように、いつまでも発電し続ける夢のような機械のようにも聞こえるが、そんなことがありうるだろうか。機械はすこしずつすりへって、こわれていく。鋼鉄もコンクリートもやがては風化してぼろぼろになる。国だって何千年も続かない。国滅びて山河あり。物質の発熱は何万年続くのか。

広い窓から海が見え、対岸には白い建物が小さく見えた。千年も前からこの土地は、都に食物と奉公人を送っていた。いまは補助金もあり、出稼ぎもなく、都市に電気を送る。格差の構造は変ったのか。

2011年3月11日は一つだけの災害ではなかった。一つの島だけでなく、地球全体で地震、津波、台風、大雨、落雷、竜巻が毎年起こっている。水の惑星の水は動きまわり、地層も呼吸し、身震いしてバランスをとる。人間の技術は惑星をうごかせないし、その動きも予測するには大きすぎ、複雑すぎる。わからないことがおおい。それでも、「リスクのない技術はない』と言いながら、停めることができない装置を作る会社があり、他の国にも売りつける政治家がいる。

富山妙子が描いたいくつかの絵と、絵葉書を見ながら、2012年の暮に24分のピアノ曲を録音した。その音楽に添って、絵にもとづく映像が作られた。「死して成れ」というゲーテの詩の一節。グリーグの『蝶』というピアノ曲のリズムとパターン。こうして『海からの黙示』というディジタル・スライドができた。

光をもとめてろうそくの炎に飛び込む蝶、日本では蛾と呼ぶが、「死んで生まれる」ことがなければ、暗い地上にひととき身を置くだけの存在にすぎない、と書いたゲーテは、科学者でもあった。原子の火に焼かれた蝶はいつかまた飛ぶのだろうか。

静かな海、崩れた建物、積み上がったがらくた、人のいない春。見えるものから見えないものを想像するしかない、怖れをもって。音楽が聞きなれない音を立て、映像はさまざまな記憶や自由な思いを呼びこむように。