香りの話

冨岡三智

今回はジャワの儀礼で使われる香りの話。ジャワの宮廷では瞑想する時や儀礼が行われる時にお香を焚く。植木鉢大の素焼きの炭炉にいこった炭を何個も入れ、その上からラトゥスratus(練香)を振りかける。練香は日本の香道に使うような小さな粒ではなく、ピンポン玉くらいの大きさだ。それを指先でほぐして炭の上に振りかけると、煙が上がり、香りも立つ。ラトゥスをそのまま炭に置く人もいた気がする。煙が上がるということは、お香が燃えているということ。お香係の人は炭を団扇であおぎ続け、火力を落とさないようにする。お焼香をもっとワイルドに、盛大にした感じと言えるかもしれない。

それは祈りのためではあるけれど、辺り一面に香りが漂うので、空薫(そらだき)のような機能も持っている。空薫とは空間に香りを漂わせること。日本の香道では、いこした炭を灰にうずめて灰を熱くした後、その灰の上に練香や香木を載せて香りを立たせる。つまり、間接熱で香り成分を抽出する。お香を直接燃やすわけではないから、煙が立つことはない。

ラトゥスはバティック(ジャワ更紗)に香りを焚き染める時にも使う。私が王宮でお世話になった人は、両親も王宮で働いていて、その係だったという。日本では、香炉の周りに伏籠(ふせご)という名の、蒔絵の施されたような雅な道具を置き、その上に着物を置いて香を焚きしめるのだが、ジャワでは、闘鶏を入れておくサイズの竹籠(シントレンという芸能や、子供が大地に足を付ける儀式でも使う、能の道成寺の鐘くらいの大きさだと思う)を使い、その中に香炉というか炭炉を置き、籠にバティックを置いて焚き染める。

瞑想といえばムニャンmenyan(乳香)もよく使われる。私はラトゥスは王宮で分けてもらっていたけれど、ラトゥスやムニャンはパサール・クンバン(花市場)に行けば売っている。ムニャンも買って自分でも焚いてみたことがあるのだが、強い刺激臭があって私には使いこなせなかった。ちなみに、ジャワのガムラン音楽の曲で「ムニャン・コバル」という大曲がある。「乳香がくゆる」というような意味で、お供えとしての意味合いの強い曲だろうか…と思ったりする。

他に香るものと言えば、クンバン・スタマンkembang setaman。「花の園」という意味で、紅白のバラ、ジャスミン、カンティル、クノンゴなどの花を、花の部分だけ(茎は使わない)、バナナの葉っぱに盛ってお供えにする。また、バラの花びらを水に浮かべたお供えもそう呼ぶ。私が王宮の人に聞いたところでは、霊はただの水より香りの良い水を好むのだと言う。

ジャワの儀礼ではさまざまな香りが空間を満たしている。部屋の入口の隅にはクンバン・スタマンが置かれ、儀礼が滞りなく終わるよう、お香を焚いて祈る女性たちがいる。霊力のある柱などにも、特別に祈りが捧げられる。舞踊が奉納されれば(舞踊もまた供物の1つなのだ)、踊り手は髪にジャスミンの花で編んだ飾りをつけたり、裾を引き摺るように着付けたバティックの裾の中に紅白のバラの花びらを巻き込んだりする。踊って裾が蹴られるたびに散華のように花びらがこぼれ、香りが立つ。衣裳にも香りが焚き染められている…。こんな贅沢な香りの使い方は日本では見られない。

デジタルな待ち伏せ

植松眞人

 とある私鉄沿線のとある駅で下車した。
 八月になったばかりの空は高く真っ青で、こちらの思惑を見透かすくらいに爽やかに見えるのに空気だけはまとわりつくようだ。
「エアコン入れて、冷たい飲み物を用意して待っています」
 仕事の打ち合わせの相手から、そんなメールが来ていたからだろう。高い湿度も各駅停車の駅と駅の中間にあるという立地も、冷たい飲み物を楽しむための下準備のようにも感じられるのだった。
 駅で降りてから、さっき走ってきた線路に沿って半駅分戻るように歩く。高架下の商店街を三ブロックほど過ぎて、やっと知人の事務所が入っているマンションが見えてきた。さあ、エアコンの効いた部屋で冷たい飲み物で人心地つける、と思った瞬間だった。
「お久しぶりです」
 楽しげでもなく、こわごわでもなく、妙に思いきった声が聞こえる。長い時間、そこで待っていたことが瞬時にわかるような立ち方をしている。私は相手の顔を見る。知っている顔だ。十年以上も前に袂をわかった相手だった。二十年ほど一緒に働いた顔だった。そして、もうしばらく会うこともないだろう、と思うほどに翻弄された顔だった。その顔を笑顔にするために、様々な策を練り、実行し、裏切られ、また策を練りということを繰り返し、結局、そんなことじゃ私は笑顔になれません、とでも言うように半笑いを浮かべた表情で「辞めます」と言った顔が、十年という時間を一気に超えて「お久しぶりです」と強張った笑みを浮かべている。
「お久しぶりです」
 もう一度、相手は言う。私が最初の一言に返事をしなかったことで、今度はおずおずと言う。私はおずおずとした物言いに接した瞬間に、話すことはない、と心を決める。十年近く前に、同じようにこの顔を前にして思ったことを思い出す。この顔に、この物言いに、話すことは何もない。
「一言だけ、謝りたくてきました」
 謝ることはたくさんあるはずだと、私は十年前よりも皺の濃くなった女の顔を私は見ないようにする。そして、とにもかくにも、目の前から消えてほしいと思う。できる限り早く消えてほしいと思う。早ければ早いほどダメージは少ないはずだと私は思っている。できるだけ平静を装って、声をふるわせることなくフラットな声を出そうと試みたのだが、結局は絞り出すような声になってしまうのだった。自分の声は思いの外大きな声だった。
「もう、いいから」
 私がそう言うと、相手の女は何か言いかける。私はその女から発せられる言葉を何一つ聞きたくはなかった。

 女は十年前まで一緒に仕事をしていた事務員だった。小さな文具商店を経営していた私は、ちょっとしたデザインも兼務するその女と、女が辞めてしまうまでの二十年ほどの期間、仕事をしていた。
 女は、地方の名士の娘だった。才能があるのかないのか、はっきりしていればよかったのだが、女には中途半端な才能があった。地方の絵画展に入賞する程度の画力はあった。両親は彼女を溺愛し、きちんとしたしつけもしないまま、世の中に送り出した。その結果、女は会社に慣れてくるにしたがってわがままになっていった。
 自分の意に添わない仕事は後輩に押しつけ、資格を取りたいからと長期休暇を取り、子供ができるからと会社を辞めていった。しかし、それから一年ほどした頃、直接にではなく、人を介してもう一度働きたいと打診してきた。
 私は私でたまたま前職で手に入れた仕事のルートに沿って仕事をしていただけで、経営者としての自覚も能力もなかった。ちょうど人が足りない時期だったこともあり、また、一度は一緒に仕事をしたのだからと情にほだされてしまい再雇用したのだった。そして、一年も経たないうちにまた女は事務仕事は嫌だと言いだした。デザインの仕事かイラストを描くような仕事だけをしたいと言い出したのだった。
 暴言を吐き、身勝手に動き回り、様々な遺恨を残して結局彼女は会社を辞めた。
 そんな女が十年の時を経て謝りたいこととはなんだろう。謝りだしたら、どれだけ時間があっても足りないはずだ。そして、そもそもどうして女はここにいるのだろう。私は混乱しながらも、女がここに来た理由に行き当たる。
 ここに来る前に、「今日は打ち合わせ」とSNSでつぶやいたことにしか思い至らない。それ以外に、女が私の動向を知る術はない。そう思うと、前回、知人の事務所に来たときには「数年ぶりの再会!高田さんが事務所に来てくれました!」と、知人がSNSに投稿していて、私がそこに「次回は打ち合わせにおじゃまするよ」とコメントを書き込んでいた。
 充分だと思った。女がそれを見ていれば、今日、私がここに現れると推測するには充分すぎる。
 ふいに、女の立っている足下に四角い升目が見えた気がした。そして、その升目は私の足下にもあり、世界がグリッド状の升目で覆われた。建物の中も屋外も、すべてが四角いグリッドでデザインされ、私たちの世界はすべてが見透かされていた。どんなに隠れていたくても、すべてをネットワークすることで生まれる利益を享受したいという欲望には勝てない。メリットを得ながら自分だけ隠れているなどという芸当はできない。
 仮に自分がSNSをやらなくても、誰かがアップした写真に自分が写っていてタグ付けされる。位置情報も写真にしっかり埋め込まれていて、行動範囲と条件はしばらくタイムラインを眺めていれば馬鹿にだってわかる。
 そんなふうに世界はデジタルで丸裸だ。そして、丸裸にされている自分を楽しんだり、人を丸裸にするのを楽しんでいるうちはどんなシステムもメディアも輝いて見える。
 しかし、待ち伏せ女が黒い液体をほんの少しだけネットワークの流れの中に垂らしていく。その瞬間に私のネットワークは輝きを失い、黒い煤けた灰でいっぱいになる。
「一言だけ謝りたかったんです」
 女はまたそう言った。義務感と自己愛だけで生きてきた人特有のせっぱ詰まった物言いだ。私は声を落として言う。
「何について謝りたいのか知らないけれど、いま君が何かについて口を開くと、また何年後かに、その一言について謝らないといけなくなる気がするので黙って帰ってくれないか」
 しかし、女は理解してくれない。「そうじゃなくて」「わたしはただ」という言葉を繰り返している。いくらデジタルネットワークが発達しても、アナログな執拗さには勝てない。やがてアナログな執拗さはデジタルネットワークを駆使して世界を巡り、その自己愛を世界中に振りまきながら巨大化する。
 そんなイメージを浮かべてしまい、私は本気で女のことを恐ろしいと思ってしまう。
 そして、いったん恐ろしいと思った女は私の中でどんどん大きくなり、「一言だけ謝りたい」という女の声さえ聞こえなくなる。
 私は女を振りきるように、知人の事務所に駆け込む。汗だくで駆け込んできた私に知人は驚いて、「どうしたんですか」と声をかける。私は息が切れて声も出ない。荒く息を吐きながら、知人の事務所の窓から外を見る。
 デジタルネットワークを駆使して、私を待ち伏せしていた女がうなだれて立っている。その足下のグリッドはところどころに綻びが見えるようだ。(了)

人形の治療

時里二郎

人形の治療に来る者は
たいてい愛玩する人形は持ってこない
自らの身ひとつを
診てもらいにやってくる

診療室に入ると
眼の色はイリスのいろに変わり
胸をひらくと トブラの匂いのする下着から
フバルの鎖骨やストイスの乳房が教科書どおりの形状で現れる
なるほどと ひととおりの触診で
幾枚かの乾いた葦の葉を削ったのを組み合わせた発声装置が傷んでいますねと
試しに ティアードをまさぐって
栗鼠の好物の木の実のような感触の螺子をクリクリと巻いて
壊れた声を出させてみるが
それはそのままでと
壊れた声で応える

それから
小一時間
野卑な言葉遣いがとまらないという
人形の不具合を
壊れた声で再現してみせるうちに
ばりざんぼう
わいげんおげん
ちくちくねちねち
ねごとざれごと
ちわのろけ
どせいあくたい
果てもなく
(それでも)
果ては
アッシラカンの飼い主の昂揚を擬態してみせると
突然
もう許さぬと
せっかんとせっちんを差しちがえたまま
飛び出していく

私はというと
グルカ製の腸詰めのように
撥条(ぜんまい)はすっかり弛みきって
カシノキでできた首は傾(かし)いでもどらず
診療室のカルテ受けに引っ掛けられたままのスズミのふんを凝視している
(かっこう)

グロッソラリー ―ない ので ある―(24)

明智尚希

「1月1日:『そうやって飲んでいても、量自体は少なくなっていったり三日間は飲まずに過ごせたりと改善していったみたい。で、3日が1週間になり1週間が1カ月になり、とうとう飲まなくても大丈夫になったんだって。飲酒への欲求もその頃にはなくなっていたようだ。ただ酒乱だったから、たまに飲むと大トラになったらしい』」。

ウリャァァァ(ノ #`Д´)ノ⌒┻━┻

 暗いと言われる人間がいる。その人こそ後世に名を残す見込みがある。他人との暗黙の格闘に敗れ、世間の風という煮え湯を飲まされ、人目という炎に焼かれている。しかし、その人の今後はだんだんと明るさを増す。悲惨すぎる生き地獄は、人間性を一度崩壊させる。そうして壊死した瞳にも類のない光が宿り、初めて生き始め、大事をなす。

(っ`・ω・´)っフレーフレー!!!

 純愛ってのは敷居が高いなあ。プライステイカーっていうのか? 学生ならまだしも、いっぺん社会に出たら砂鉄やほこりがい~っぱいくっついてくる。そうやって過去や秘密がオスメス関係なくできちまう。神も仏もない。世界とは出来事なるもののすべてだし、事象でなく事件の総体じゃからな。あえて言うなら自然は飛躍せずってとこじゃ。

( ̄ー ̄(。-_-。*)ゝポッ

 カネのなる木は三億円。

(ノ ̄□ ̄)ノオオオォォォォ! ミ((ノ_ω_)ノバタ

 読みたいと思って書籍や雑誌を買う。ここまではいい。問題は買っても全然読まないということだ。苦しまぎれの理由としては、読むのが面倒臭い、いずれ読むから今でなくていい、自分の所有物となった段階で終わり、といったところだ。ただし、本などの中に、自分の逆境退治に有効な情報などあるはずがない、と小馬鹿にしている節もある。

(^・l⌒l⌒b

 「また食べない。ちゃんと食べなさいって」「やだよ」「食べなさいったら食べなさい」「やだったらやだ」「どうしてこんなわがままな子になっちゃったのかしら」「わがままじゃないよ」「じゃあ食べなさい」「やなもんはやだ」「食べないともうお弁当作ってあげないわよ」「やだ」「あそう」「なんでドッグフードなんか食べなきゃなんないんだよ」。

U。・ェ・。Uノ~コンニチワン♪

 「1月1日:『本人の話すところによると、知人と居酒屋で飲んでからコンビニでウイスキーの小瓶買って、飲みながら歩いていたらしいんだけど、そこから先の記憶が全くないときた。知人と飲んだあと共通しているのは、必ず警察や救急隊のお世話になったとのことだった。パトカーや救急車には何度乗ったかしれないと言っていたな』」。

ヽ(・_・(´ι_`;)ゝ 連行

 齢を重ねた分、経験値は上がる。経験値にはプラスとマイナスがある。プラスには、処世術を筆頭とした対社会・人間関係のコツが含まれ、マイナスには、表沙汰にしていないその人の個人的事項、言い換えれば人格にも関わる秘密が属している。しかしその秘密のほうにこそ、その人絡みの流儀や本音が内包されているのを見逃さない手はない。

d(-`ε´-;) シィー…

 交際相手に抱く姿は単なるイデアの影、芸術は現実のミーメーシスというがほんとかいな。わしは一に女性、二に女性、三四が女性で、五に女性じゃ。酒か女か、それが問題じゃ。エピステーメーがいつか答えてくれるじゃろう。エロトマニアにしてクレプトマニアのわしの言うことをたまには信じろっての。待っているだけじゃ能がないじゃろ。

‘`ァ’`ァq【´'Д'`】p’`ァ’`ァ

尋ねないところに真実がある。ある対象についての思いを表白するようお願いをすれば、その通り言語化された返事が来る。けれども脳の働きから言語化までのほんの短い時間に、相手の心情を慮る作業を経て、答えて支障のない内容に加工される。これでは心の最深部の様子は不明。知りたければ、言動の観察を怠らず無関心を装うことである。

(# ̄^ ̄) プイ

 いや〜いい湯だったいい湯だった。人間五十年、料理のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ニコポンされたけども上機嫌上機嫌。一度皿を享け、食せぬもののあるべきか。今夜はアプレ・ゲールで一杯やって満座の人々の中で唯一不帰の客になるよ。これを柿の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。それにしても巾着プレイ楽しみだわ。

彡彡彡∬(;´▽`A)∬彡彡彡彡い〜い湯〜だ〜な 〜

 故加藤徹太郎氏は、なぜ生まれ変わりを考えたのだろうか。生き物が持つ悪質な部分を一手に引き受けてしまったような最期になったというのに。人間や動物になることは拒否しつつ、「何の心配もない」「何も知らないから」などの理由で貝になりたいと綴った。貝には貝の社会があり「貝関係」がきっとあるだろう。なのにどうして……。

( ´ – ` ).。oO ドウシテダロウ

 「1月1日:『なんでも、ある時には歩道で棒のように倒れて、通行人が救急車を呼んでくれたらしい。駆けつけた時には立ち上がっていて、片手に焼酎のビンもう片手にタバコを持って血の池を眺めていたんだって。救急車に載せようとしたら、歩いて帰るだとか大丈夫ですと言って聞かなかったっていうんだよ。そればかりじゃないよ』」。

◯0o。(ー。ー)y―~~ ダイジョウブデス

 近道がある。ただし戸を開けた瞬間の空気のにおい、風の向き、風景の色、空模様、季節感などが支配権を握り、本来なら左へ曲がるところを右に変更させる。鋭敏に過ぎるのは良しとしても、自意識は不能になる。ボールで無邪気に遊んでいる子供たちに、あきらめに近い羨ましさを感じる。意識を自由に操れるための近道はどこにあるのか。

<(・・ )(・_・)( ・・)ゞキョロキョロ

 驚くほど軽く薄い本体に、信吾が一目惚れした絶大なる風水力。実はこれまでお寺や仏像に縁がなかった。民主国家において選挙の意義は、強いストレスで血栓ができやすくなることである。夜中に揺れを感じて飛び起き、様々な施術法を用いて臭いを軽減する。そうして豆腐屋の孝行息子から、お上に逆らう嫌われ者へと一変した。美白である。

(◛ิc_,◛ิo)プッ

 根本的なあきらめは、時として大きな力になり得る。特に不承不承のあきらめはそれに該当する。衝動や欲望が熱せられたまま断ち切られると、人は敗北感に似た感情を克服しようとする精神によって鍛えられる。あきらめの対象が大事なほど、浮世を自然と見放しがちになると同時に、今度は浮世に対しての取り組みに絶大な影響力を発揮する。

オデアゲ  ̄\(-_-)/ ̄ アキラメタ

 わしのカメレオン性を、甲羅を経たこちたきカリオストロなんて言いふらしている、まかりならん手合いがいるようじゃが、さだめしハラホロヒレハレのこけおどしに過ぎん。そこばくともない不安もない。自己放擲のあてがい扶持こそ不平士族ってもんじゃ。その反面、台湾坊主は永遠のあとで猖獗を極める。御用聞きの酸っぱいブドウじゃ。

(σo ̄) ホォホォ

ぶどうばたけ

大野晋

その日、東御市から旧丸子町の方向に走っていた。特に目的はなかったが、おそらく、その辺りにあるはずの農場を見たくて、上田市の郊外を諏訪方向に地方の生活道を走っていた。

もうすっかり秋の風景になった田園地帯を走っていると、ふと、道端に「ぶどう畑 まりこ農場」の小さな標識を見つけた。大きな看板が出ているとは思わなかったけれど、見落としそうな小さな標識にびっくりしながら、道を曲がって丘の細道を上って行った。

雑木の林を上っていくと、頂上に着く。ぱっと、視界が開けると、見渡す限り、あたり一面の葡萄畑が広がった。棚になっていない、垣根づくりの葡萄畑が見渡す限りの丘に広がる。青空の下、日本ではないような風景だった。そこは、シャトーメルシャンの自社管理農場 椀子(まりこ)ヴィンヤード。メルシャンのワインの中でも、高級なワインを作る葡萄を栽培している農場だった。

勝沼のぶどうの丘のまわりの葡萄畑や穂坂あたりの葡萄畑とも、松本の山辺周辺のぶどう畑とも違うその風景に、新しい「日本ワイン」の時代を感じた。ぶどう畑でその風景に一瞬時間を忘れ、再び車を動かすとやがて、風景は黄色に実った水田の日本の田園に戻っていた。

夜、オレンジ色の入道雲

仲宗根浩

旧暦の八月八日、トーカチという行事がある。今年は九月の八日がその日にあたる。沖縄の米寿を祝う日。母親が今年数え八十八になる。こちらは親戚の範囲がかなり広い。お祝いをするにあたりこじんまりと食事会、ということになったが近しい親戚及び六人兄弟なので孫、ひ孫が揃うと七十名くらい。東京、神奈川、福岡、熊本からみなが揃ってのお祝いは連休に合わせてやることにし、八日は祖母の命日あたる日なのでこちらにいる者だけで実家に集まり、お祝いの打ち合わせがてら、実家で夕食をいっしょにとる。

そのお祝いで、沖縄でめでたい席に演奏する「かぎやで風節(かじゃでぃふう)」をうちの娘の唄と三線、箏は奥さんが弾くことになったため、十数年振りに箏の糸締めをする。琉球箏は緩く糸が張られる。緩く張る、というのが意外にてこずり、なんとか許せるくらいの柱並びができるまでになった。糸締めは済んだが実際、演奏となると箏をやっている人が近場にいない。まず楽譜をネットにあった論文から見つけ、調弦もこれまたネットで見つける。奥さんはYoutubeで県立芸大の演奏を見つけ、どんな奏法かを探る。山田流の奥さんは見たことない楽譜の記号がたくさんある。「かき手」とかいくつかは判明した。琉球筝曲の楽譜を購入すればなんとかなるのだが、これがけっこうな値段でたった一日、一曲のためにそこまでの出費、こっちは琉球古典筝曲の作法も知らない、ばったもんに近いので躊躇する。そんなときに娘の小学校時代のPTA関係で箏を習っていた人から楽譜を貸してもらえることになり、だいたいの奏法が判明したが全部その通りにはできないので適当にはしょって三線に最低合わせてできるようになる。箏だけをさらっているのを聴くと、聴きなれた手があちこちに出てくる。これが唄と三線が入ると箏の手が唄と三線の隙間にうまく入るようになっていて箏が表に出てくることがない。地唄に箏が入るようになり、どんどん器楽的になった流れとは違う流れで、唄が主のまま、洋楽器が入った沖縄民謡のなかでも続いている。

連休前、ふたりの姉が沖縄に先に来て、お祝い会場に打ち合わせに行きたい、というので連れていく。沖縄そばを食べたいというので、そば屋まで行く。そば屋のテレビでのニュース速報、裁判の結果が流れる。予想とおり、コピー&ペーストの判決。

九月、涼しい日は最初の二日間だけだった。日中はある程度暑さはやわらいだが、夕方から夜にかけて湿度が高くなり、気温は下がれど蒸し暑さは八月とは変わらない。夜、家までとぼとぼ歩いていると、見事なオレンジ色の入道雲。基地の照明にきれいに染まっている。

アジアのごはん(80)ルアンパバーンの納豆肉みそ麺カオソーイ

森下ヒバリ

「さっき下の受付でこの宿を見に来た青年がいたから、色々話しとってん」と部屋に戻ってきた連れのYさんが言う。「ふーん、どこの国の人?」「スウェーデンっていうてたわ。そんで、ビーガンのベジタリアンっていうから、味の素入れんといて、のラオス語『ボー・サイ・ペンヌア』とあそこのカオソーイ屋教えてあげてん」「ああ。麺の上にのってるの、納豆入りだけど、豚肉みそ、やで」「あ、あ」「しかもスープは鶏ガラね」「‥‥」

ラオスの古都ルアンパバーンに来ている。人を案内していた間に泊まっていたちょっといいホテル、から移ったレトロ可愛い安ホテルが、電気設備もレトロで、雷の日に部屋の中でも雷音のようなバリバリ音がしたり、電圧の急上昇でノートPCのアダプターが煙を吐いたり、湯沸かし器がボンッと壊れたり~のトラブルがあり、そうそうに引越ししたのが今いるマニホーム。レトロじゃないけど静かで居心地のいい宿だ。

ルアンパバーンは旧市街全体が世界遺産である。つまり、街の雰囲気にマッチしない、けばけばしい建物や高層ビルは建てられない。ビエンチャンと違って、この町がどんどんビルや商業施設で変わっていくという姿は見なくていいのだ。ラオスが乾季に当たる10月から2月までは観光シーズンで人がたくさん訪れるが、いまは雨季で観光客は少ない。雨がちょっとうっとおしいものの、ゆっくり過ごすにはもってこい。

ルアンパバーンに来たのは久しぶりだ。初めて来たのは確か1991年だった。そのころのラオスは社会主義で首都ビエンチャンしか外国人に開放されていなかった。しかし、ビエンチャン以外のいくつかの町には、ラオ国営ツーリズムの高いツアーをアレンジしてガイドを同行すれば行くことが出来た。お金もなかったが、ガイド、つまり監視付きの旅もいやだ。でも、他の町にも行ってみたい。

わたしとYさんは観光局に行って旅行許可証をなんとか取ろうとした。すると、飛行機のチケットを買ってこないと出せないと言う。ラオ航空に行くと許可証がないと売れないと言う。やれやれ。ダメもとで出来たばかりの民間の旅行社に相談すると、ビジネスなら許可証が出るかもという。旅行の理由を「ルアンパバーンの民族音楽の採集」(どこがビジネス?)ということにして申請を依頼してみたら、あっさり許可証を取って来てくれ、チケットも買えた。手数料はわずかだった。

おんぼろのラオ航空機から降り立ったルアンパバーンの町は、静かに沈んでいた。これが1975年までルアンパバーン王国の首都だった町なのか。人影もまばらで外国人が泊まれるホテルは、郊外の高級ホテル1軒と、泊まった中級の旅社ラマホテルのみ。ほかに地元の人が泊まる安宿が2軒あった。ちなみに1週間の滞在中に見かけた外国人は4人のみだった。静かで、暗く、小さな町。外灯も少なくて町自体も暗いのだが、活気もない。朝と夕方には白い霧のようなものが町を覆った。地面から30センチぐらいを覆って漂うそれは、食事の支度のための七輪で炭を熾した煙だった。

街並みは煤け、植民地時代の名残の洋風な建物も壊れかけたり、汚れたりして、美しいとか素晴らしい建築と思った記憶はまったくない。当時はまだヒバリもあまり寂れた建築物に興味がなかったせいかもしれないが‥。息が詰まるような、閉ざされた暗い町、というのがルアンパバーンの印象だった。やがて、ラオスは社会主義ながら開放経済を導入し、94年にタイのノンカイとビエンチャンとの間に橋が架かり、ラオスは全土を外国人観光客に開放した。

その後ルアンパバーンの町は順調に観光地化していったが、ラオス政府と外国のNGO(たぶんフランス)は町並みの保存を進めていたので、94年には世界遺産への申請、95年には認定を受けたことで観光客目当ての乱開発を防ぐことができたようだ。

わたしがルアンパバーンの町を再び訪れたのは2000年の冬だ。町は少しだけしゃれた観光地になっていた。メコン川のほとりには以前と変わらず大木が生い茂り、のんびりとした時間の流れはあまり変わらない。むしろ、住んでいる人たちに余裕と明るさがあって、昔よりずっといいと思った。しかし、その後もYさんは行くのは嫌だと言い張り、やっと一緒に行ったのが今回の旅である。「変わり果ててツーリストタウンになった町なんか見たくない」と言い張るYさん。「いや、昔行った町とはもう別人みたいなもんだから。ツーリストタウンっていってもそれはほんの一部だよ(たぶん)」「う~ん、じゃあ行ってみるか‥」

あんなに文句を言っていたYさんもルアンパバーンの町に着くと「ええとこやん‥もっと早く来ればよかった~」と安心した様子。だから言ったでしょ。でも、2000年に来た時よりも町はさらに変わっていた。古い洋館を利用したカフェやレストランがものすごくたくさん出来て、新しい建物も増えていた。ナイトマーケットも連日開かれていた。裏通りに入ったら、静かで落ち着いた町並みが残っているので、ほっとした。

おいしいという噂のカオソーイ屋に入った。「カオソーイ」はラオス北部では肉みそをのせた米麺のことである。タイ北部のチェンマイでは「カオソーイ」といえば、中国から来たイスラム系商人にルーツがあるココナツカレー麺のことなので、まぎらわしい。もともと「カオソーイ」とは細長い米麺料理のことなので、肉といえば関東では豚肉を、関西では牛を指す、みたいな使い方だと思えばいいかも。

まずは、ミントやバジル、パクチーやクレソン、その他名前の知らないラオスハーブとレタス、生のインゲンが盛られた皿が出てくる。これは麺に混ぜ込んで食べるものだ。この店のハーブ類はどこよりもきれいで瑞々しい。ついで出てきた汁麺もスープが十分に熱く、麺の上にはミートソースみたいなピリ辛の肉みそがのっている。ハーブをちぎってたっぷり混ぜ込み、マナオをきゅっと絞る。まずはスープを一口。「おいしいいい!」麺は白い米麺だが、太さはきしめんを少し薄く細くしたぐらいか。肉みそは豚ミンチだが、ラオス・タイ北部の納豆トゥアナオの匂いがぷんと漂う。

このトゥアナオの匂いがけっこう臭い。いや、納豆好きにはあまり苦にならない匂いであるが、欧米人にはけっこうハードルが高いだろう。チーズは臭くても大丈夫なのにね。この店はトゥアナオをたっぷり使っている。そのぶんコクがあり、肉みそを味わい深くしているのだ。生のハーブと肉みそ、麺を絡ませながらスープと共にいただく。いやいや、このお店はルアンパバーンで1番だよ。

麺を食べながら、年季の入った店内を眺める。納豆の匂いが遠い記憶を呼び戻した。この店には来たことがあるなあ‥。2000年に来たときかも。食べ終わって店のおばちゃんに訊くと、店は22年ぐらいやっているという。気になったことも訊いてみた。「肉みその納豆は乾燥タイプを使うの?それとも柔らかいやつ?」

「柔らかいやつだよ。フエサイから買ってくるんだよ」おお、この店の肉みそに使うトゥアナオはタイとの国境の町フエサイ産なのか。ラオス・タイ北部にはトゥアナオという粘らない納豆がある。タイのチェンマイではそれをつぶして薄いせんべい状にして乾燥させたものしか見たことがないが、ラオスに近づいてくるとチェンライあたりから種類が増える。乾燥していない納豆を半搗きにして塩とトウガラシを加えお団子状にしたものが市場などでもよく売られているのだ。チェンライからさらに東へ進み、メコン川を渡ってラオスのフエサイに入ると、市場で納豆を売っている店がぐっと増える。フエサイはこのあたりの納豆センターなのかも?

乾燥せんべい状納豆は炙ったり揚げたりしてそのまま食べることもできるが、ほとんどがスープのダシに使われる。日本人の納豆の形態のイメージからはかけ離れた姿なので、知っていないと納豆だとはなかなか分からない。柔らかいお団子状の納豆は料理のダシに使うよりは、炒めものなどの調味料や、またはつけ味噌にしてもち米や野菜をつけて食べる。塩がけっこう効かせてあるので、腐らずに熟成して保存も効く。味は、納豆なのだがちょっと味噌のようでもある。粘りのある日本の納豆ではこの熟成納豆は作れないだろうなあ。でもちょっと作ってみたい‥。

アラスカ表面旅行

璃葉

アラスカに行った
およそ一週間の、とてもみじかい旅だ
すべてを点で見る日が続き、点と点を繋げるひまもなく、あっという間に帰る日がきてしまった
皮膚の表面を撫でるような旅だったので、表面旅行と名付けてみた
まったく帰国したくなかったので、最終日はかなり不機嫌だったと記憶している
しかし、逆にその不完全燃焼のおかげで日本に帰ってきてから好奇心が爆発し、来年にはふたたび行きたいと強く思っている
みじかい滞在でも、充分魅了されてしまった

今回訪れたアンカレッジもフェアバンクスも、アラスカのなかでは都会だけれど、
外を歩くと木の匂いとキンと冷えた透明な空気が広がっていて、
郊外へ出れば出るほどその空気は濃くなっていった
曇り空も雨の森も本当に綺麗だった

旅のなかで見た情景は かたちを変えながらもこころのなかに居続ける
焼きついたものを、そのうちまとめられるといい

空気 水 オーロラ 星 曇り空 針葉樹 クロトウヒ
それぞれの部族 アレウト アサバスカン イヌピアト ユピック
仮面 ワタリガラス 神話 氷河 石 失われた言語 その他いろいろ

ワタリガラスは、アラスカの先住民の言い伝えのなかでは月や星を撒いたり、森を創りだしたり、光を盗んだり、英雄だったりと、自由な存在で興味深い 

犬ぞりを生業としている宿での 深夜のらくがき

EPSON MFP image

しもた屋之噺(177)

杉山洋一

今月、何となく夜が長かったような錯覚に陥るのは、大部分の時間を劇場の真っ暗なセットの中で過ごしていたからでしょう。朝から夜まで、ずっと照明を抑えた劇場で稽古していて、いつの間にか陽の落ちるのがすっかり早くなっていたことにも、朝晩の冷え込みがすっかり激しくなっていたのにも、まるで気が付きませんでした。でも毎日使っていた中央駅の野菜ジューススタンドと、ガリバルディ駅のスーパーの生ジュースのメニューには詳しくなりました。あと毎朝フルーツを買っていたレッジョエミリアの劇場周辺の八百屋の場所とか。

———-

 9月某日 ミラノ自宅
夏の間にすっかり伸びきった庭の芝刈り。一度では到底刈りこめないので、3回ほど繰り返す。三和土にあった庭用のゴム長靴が盗まれている。空き巣に失敗した泥棒の示威行動か。10年以上前に購入した、草臥れ果てた長靴だったのだが。
時差呆けに乗じて、朝は3時に起きて庭に水を撒き、モンタルティの楽譜を広げる。当然午後には眠くなり、気が付くと16時くらいには机に突っ伏していて、自分の鼾で目を覚ます。

 9月某日 ミラノ自宅
Hさんは検査の結果初期の肺ガンで、近く手術を受けることになったと連絡を受ける。庭の刈った芝に緑が戻ってきつつある。Aさんには緑内障との診断。毎日、目薬をさすことになるとのこと。互いにそういう話題が自然に出て来る年齢になってきた。
朝はバナナとヨーグルト、昼はジャガイモを炒めて目玉焼きを乗せて食べる。夜は軽い運動を兼ねて船着場の魚屋まで自転車で出かけ、ミックスフライ。アマトリーチェ震災を揶揄したシャルリー・エブドに、イタリア全体が激昂。その隣に、ニューヨークでゴミを出さない生活を実践する妙齢の記事。どこでも自分専用のガラス容器を持ち歩き、歯磨き粉やシャンプーも自家製。「だってこの方がセクシーだから」と本人がコメントしている。過去の生活様式に戻りつつある不思議。進化とか発展とは何だろうか。

 9月某日 ミラノ自宅
スーパーでハムをスライスして貰っていると、そのおばさんが突然「昔に比べて、あんた言葉が巧くなったわねえ」と話しだして驚く。ここに引っ越してきたのは10年前だが、どう考えても、今の方が当時より言葉が上達しているとは思えない。恐らく当時は子供に何を食べさせてよいか、何をどう頼んで良いのか見当もつかず、途方に暮れつつ注文していたに違いない。あの頃の初々しさが懐かしい。このチーズは子供が食べても消化はいいでしょうか、どのハムは子供が食べても塩辛くないですか、とか尋ねていたのだろう。

 9月某日  ミラノ行き車内
レッジョ・エミリアの劇場に戻るのは一昨年ぶりか。照明のルカも、大道具のウスマンやフィリッポ、大道具責任者のマウロや電気一般をまめまめしく取り仕切るルカやファビオとも10年以上の付き合いで、劇場に足を踏み入れた瞬間から、辺り一面に笑顔が並ぶ。家族のようなもので、自分は彼らに育てて貰った。誰も欠けていないのが嬉しい。自分がすっかり禿げてきたのと同じように、周りの皆も歳を食っていて、互いにそれを見て笑いあう。これから3週間毎日一緒に仕事ができる幸せを思い、その後の喪失感に思いを馳せる。
主役のフランス人ヴォイスパフォーマー・ジョーに合わせて、全員仏語でリハーサル。仏語の上手下手に関わらず、どうせ伊語も仏語も似たもの、という至極強引な論理で皆が押し通す。古来よりラテン語族間での意思の疎通を垣間見る思い。皆で英語を話すとか、ジョーに頑張って伊語を話させようという仮定は一切生じない不思議。

 9月某日 レッジョ行車内
言うまでもなくレッジョ・エミリアは、パルメザンチーズ「パルミジャーノ・レッジャーノ」の本拠地で、郊外にあるチーズやパルマハム製造工場で働く外国人がとても多い。一番新しい統計ではレッジョの人口2割が外国籍だと聞いて驚く。フィリピンや東南アジア諸国からの出稼ぎはもちろん、ロシア、ウクライナ、東欧諸国、アフリカからの移民も多いという。国鉄駅から劇場までの一本道の一つ、レッジャーノチーズ、パルマハム、パルマ牛乳とヨーグルトの大きな自販機が立っているのが印象的。劇場横の食堂で、レッジョ風トリッパと一緒に、ブイヨンにパンの削り節とパルメザンチーズを掛けてトロリとさせた簡単な代用パスタ料理。ブイヨンとチーズの美味しさが際立つ。この地方は本当に食事に恵まれている。

朝10時からの立稽古のため8時過ぎの特急に乗り、丸一日稽古をして、21時過ぎのミラノ行き特急で家路に着く。立稽古でクラウディアが歌手に演出をつけている間は、ひたすら来月ボローニャで初演するカザーレの譜読み。「音楽お願い」と声が掛かると、舞台裏に誂えられたオーケストラピットで、ヴィデオカメラに向かって振る。
白と黒のモノトーン基調のクラウディアの演出はとても美しい。指揮者と演奏家は舞台の後ろで演奏するので、指揮者と歌手は直接アイコンタクトは取れない。だから歌手へのキュー出しは全て、リューバには1、ジョーには2、ニコラスには3という塩梅で数字を決めて行う。
演奏家の立つ裏舞台には、舞台に吊るされた9つの照明を手動で上げ下げするキアラがいる。彼女は舞台を目視しながら照明の綱を操作するので、こちらにもさまざまな演奏の切掛けを出して貰う。彼女は普段は舞台女優だが、まるで巨大なマリオネットのような照明装置を、見事な手さばきで動かしている姿は、モダンダンスを彷彿とさせる。

 9月某日 ミラノ自宅
6月で小学校を修了し、息子が中学に通い出した。最初の二日くらいは家人が学校まで着いて行ったが、程なく一人で路面電車に乗り、学校へ通うようになった。16時半まで授業のあった小学校と反対に、中学の授業は昼過ぎで終わる不思議。小学校は最終学年まで登下校で親の付添いが義務付けられていて過保護なほどだったが、中学に入った途端に一人で電車で登下校となり、落差に親は戸惑いを禁じ得ない。その上、午後にフルートのレッスンがある日など、1時間程、学校近くの喫茶店で軽食を食べながら時間を潰しているというではないか。レッスンを待つ間、校内に残ってはいけない規則があるらしく、どうも解せない。まだ状況が把握出来ずに毎日狐につままれたような心地で、急に大人っぽくなった息子の言葉に従っている。

 9月某日 ミラノ自宅
川島くんから連絡があって、ブソッティの「自動トーノ」を紹介したテレビ番組が無事に放送されたと連絡あり。レッジョの劇場の控室でニコラスとブソッティについて話し込む。今年85歳を迎えるブソッティこそ、イタリアのベルカントオペラの伝統を唯一受継いだイタリアの現代作曲家になるだろう。
公開リハーサル前の1時間休憩で、ヴァイオリンのギドーニと連立って、市庁舎脇のへろへろとした辻にあるパンカルディに出かけた。地元では有名なハムとチーズの店で、持ち帰ることはもちろん、店内で食事を摂ることもできる。ギドーニは、往年のヴァイオリン奏者アルド・フェッラレーゼを愛していて、バッツィーニの協奏曲の他に、マリオ・グアリーノ、ヴぉルフ・フェッラーリ、レスピーギ、マリピエロ、ザンドナイ、ゲディーニ、ダンンブロージオのように、特に、いわゆる80年代の作曲家以降の協奏曲を演奏するのを得意としている。

彼が愛してやまない、恩師、フランコ・グッリの話。彼がどれほど深い人間性を持った演奏家、指導者であったか。どんなに下手な生徒の演奏でも、常に褒めるべき場所を見出し、人前では決して悪い部分については話さずに、人がいなくなったところで、こっそりとこうしたら良い、と教えていたという。指揮が得意ではなかったペトラッシが棒を振って、メンデルスゾーンの協奏曲を演奏した時、オーケストラが合わなくなった瞬間、グッリはわざと調弦が伸びた真似をして演奏を止め、まるで自分の責任だったかのように謝って、冒頭から演奏を始めた。
ギドーニは恩師に演奏家、教師の理想の姿を学んだという。なかなか同じようには出来ないけれど、グッリのようにありたい、と常に心の中で願っていてね。美味しそうなパイを頬張りながら、ギドーニの話は何時までも尽きない。

 9月某日 レッジョ行き車内
昨夜は9時まで練習があって、そのまま自家用車でミラノに帰るチェロのアンドレアの車に乗せて貰い、すっかり話し込む。
1600年代、独奏楽器としてのチェロはボローニャの聖ペトロニオ大聖堂のオーケストラを中心に発展したのだと言う。聖ペトロニオがヨーロッパで特に秀でたオーケストラを抱えていて、そこでドメニコ・ガブリエリやジョゼッペ・イヤッキーニのような優れたチェリスト兼作曲家が輩出されたのだと聞いても、今の聖ペトロニオ大聖堂からは想像すべくもない。恐らく資金難からか、その名だたる名オーケストラが解体されて、腕利きの演奏家たちが職を求めてヨーロッパ中各地の宮廷へ散ってゆき、各地でチェロ作品が生まれるようになったのは、イタリアらしい逸話だ。バッハのチェロ組曲にも、そうした聖ペトロニオで働いていて解雇された音楽家の影がちらほら見えるという。5番の調弦が、聖ペトロニオのオーケストラで使われていた調弦と同じなのは、有名な話なのだと言う。

 9月某日 ミラノ行き車内
市立音楽院の入試にやってきたY君は、もう随分イタリアには通って来ているけれど、最初にイタリアで驚いたのは道で出会う物乞いの姿だったと言う。日本にも物乞いはいる筈だけれど、彼がそう言うのだから恐らく殆ど目立たないのだろう。ホームレスの姿は日本でも見かけましたが、物乞いは見たことがなくて。初めはどう対処してよいか分からなくて、戸惑ってしまって。
その気持ちは少し分かる気がする。子供の頃、街角で出会う軍歌を流す傷痍軍人の姿を、無意識に怖いと思っていた。手足のもげている姿を見るのも辛かったのもあるのだろう。ミラノでは、路面電車や地下鉄に、下半身のない身障者がいざり歩きをして、酒臭い息でお金をせびる姿を見かける。

 9月某日 ミラノ行き車内
モンタルティのオペラ本番。18時からの本番の1時間前から音響チェックのリハーサルがあるので、15時半にレッジョに着くよう家を出て中央駅に着くと、トリノ駅で何者かが線路に侵入し、列車の発着を妨害して今後の目処が立たないと言う。仕方なく目の前の急行に飛び乗ってレッジョに向かうと、丁度音響リハーサルは終わったばかりだった。
それでいざ18時から本番を始めようとしたところ、主役のジョーの携帯電話が控室で盗まれてしまった。舞台監督のダニーロは、まさかジョーに冗談を仕掛けようと、携帯電話を隠したりしていないよね、とあちこちの控室を不安そうに尋ねまわっている。フランスの電話会社に電話を止めてもらい、クレジットカードなども止めてから本番を始めたので、25分開演が遅れた。当然、口の悪い演奏家たちから、ヨーイチの乗った電車は実は遅れてなんかいなかったんだぜ、本当は人知れずここに紛れ込んでいてさあ、と笑い飛ばされる。

 9月某日 ミラノ自宅
野平、西村共作作品譜読み。西村先生のフレーズ感や方向性、音楽の強さは、周りの空間全体にまで影響を及ぼす強さを持っていて、野平さんは、全体空間を規定することから、細部の音の一つ一つにまで意味づけがされてゆく。まるで反対の方向性を持っている気がするのだけれど、寧ろ二人の間には障壁やコンフリクトはない気がする。
作曲で最初に音を置く瞬間には、無意識であれどうであれ何らかの条件付けが成される筈だから、例え別の作曲家から独奏部を与えられたとしても、彼らにとってそれは問題とはならなかったのかも知れない。独奏部に寄り添う、という意味がそれぞれ違ってとても興味深い。西村先生はピアノと一緒にオーケストラが進んでゆく感じ。一方、野平さんはピアノをオーケストラが包み込む感じがする。

 9月某日 ミラノ自宅
一日、市立音楽院入試。韓国からやってきたオペラ指揮者、ローマからやってきたミュージカル作曲家、3歳でイタリア人に養子に入ったルーマニア人ジプシー出身の歌手、ロンドン王立アカデミーでハープを勉強した男の子、部屋探しのため両親と一緒にミラノを訪れた19歳の初々しいサルデーニャ島出身のホルン吹き、何を自分がやりたいか判然とせず、大学の文学部と作曲科も受け、入試に通ったもので人生を選択すると決めたミラノの進学高校を出たばかりの若者。さまざまな境遇のさまざまな音楽家が入試を受けに来た。それぞれの人生の厚みに感動している自分がいる。

 9月某日 ミラノ自宅
今日はこれからボローニャの国立音楽院作曲科高等課程、院生のための授業に出かける。新しい楽譜と向き合う指揮者の姿勢とは、そもそも指揮の役割は何か、など4回に亙って授業する。とパオロに約束はしたものの、頭の中は全く整理出来ていない。音を読むのに必死で、指揮者の姿勢について考えたこともなければ、役割なんぞ考えたこともない。とは流石に言えないので、ともかく楽譜を何冊か携えて、電車の中でメモを取ろう。但し今日は国鉄はストライキらしく、特急も走るのかすら甚だ心もとない。さあどうする行き当たりばったりイタリア生活。

(9月30日ミラノにて)

それは事実

西荻なな

誰かの熱烈なファンになるというのは、割と無縁な人生だ。一人のミュージシャンが好きでライブに通いつめる、とか、アイドルのファンクラブに入るとか、この俳優が出る映画はすべて観る、とか「誰々のファンです」と言える人に半ば羨ましさすら抱いてきた。そう公言しなければならない場面に出くわすと、しどろもどろになる。今現存する同時代人に首ったけになれない、ということは、何か欠如しているのではないだろうか、生きる上での熱量みたいなものが足りてないんじゃないだろうか? とそのつど思う。実際のところ、そうかもしれない。でも人物を軸に追いかける、という追いかけ方でなくとも、「何となくすべてに青いイメージがある」とか「叙情的でないんだけれども、静かに耳を傾けると声が聴こえる」とか、好きなものを寄り集めて振り返ってみると、何か一本筋が通っている気がする、ということは往々にしてある。「何が好きなの?」「どんな男性がタイプ?」みたいな紋切り型の質問につい口を閉ざしてしまうのは、そもそも「好き」を語ることが、その定型に乗らない以上難しいことに思えるし、そもそも好きを語ることって、そんな簡単なことではないだろうとどこかで思っている。そう自己分析してみると自分の職業にも納得がゆくのだが、今回、宇多田ヒカルの新曲の数々を聴いて、ああ、そんな語りが圧倒的にくだらないものだ、と思うほどに揺さぶられてしまった。『Fantom』はすごいアルバムだ。

朝ドラのテーマ曲になっている「花束を君に」だけでなく、「人魚」「真夏の通り雨」などアルバム収録曲に収められている曲の多くが亡くなった母親である藤圭子に向けて歌われたもの、と感じられる。それは大変な最中に書かれたような詩もあれば、もっと月日の経過を経て、昇華された思いのものもある。直接的に吐き出すように思いを吐露したものもあれば、そっと真綿で包んだような優しい一曲も。中でも心打たれたのは「道」「花束を君に」の2曲だ。私信のような形をとりながらも、私信を超えてすべての人に、そして未来に届くものになっている。宇多田ならではの、切ない寂しさをかきたてる翳りも感じられるのだが、メロディも歌詞もその一歩先に歩みだして、しなやかな強さを湛えたものになっている。そこに光を感じた。自分と母を別人格として切り離しながらも、つながりに感謝し、その母の面影を讃える。実在の母はいなくなったけれども、過去に戻ることはできないけれど、でもよりいっそう強く、心の中に、未来に、歌を作り歌う行為の中に母を感じるのだ−ということが歌われていると思う。

「道」の歌詞の中に形を変えてリピートされる「It’s a lonley road.But I’m not alone.そんな気分」「It’s a lonely road.You are every song.それは事実」という歌詞がある。とてもシンプルな歌詞なのに、なんて人生の本質を語ったものだろうと思う。「人生は孤独なもの」と言ったのち、「でも一人じゃない」と思えるまでの距離の長さを考えてしまうと切なく(活動休止期間をも思い)、「そんな気分」と言い添えて軽さを加えるというか、本当は「ひとりじゃない、と言い切れないかもしれないけど、そうかもしれない」という不確定さをポンと添えてかわすあたりが、宇多田らしくて好きだ。そしてその後、「人生は孤独なもの」なのに「あなたはすべての歌」と言えてしまうって本当にすごい。しかも「それは事実」。「一人じゃない」のは「そんな気分」だけど、「あなたはすべての歌」なのは「事実」。

歌を歌うことが藤圭子と宇多田ヒカルをつなぐものだっただろうし、母が藤圭子であるのだから、母の像から逃れ難かった場面も数え切れないほどにあっただろうと思う。でも、「私はあなたといつも共にある」というメッセージを、二人をつなぐ「歌」に変えて「歌う」。それは歌われる数ほどに、every songの中の一つとして彼女の心の中により深く刻まれてゆくのだろうし、彼女の人生が深まると共に母との関係性を深めるものにもなるのだろう。歌が歌になり、そうして道が道になる、と考えるとシンプルなのにその道のりと未来へ続く時間もが内包された息の長い歌詞に思えて、また泣けてしまう。それにしても、「それは事実」には誰がなんといっても、過去がどういうものであっても、そう言い切れるほどに豊かなものなのだ、という母への語りかけに思える。彼女とは同学年ということもあって格別な思いだが、一歩先に行ってしまったことに若干の寂しさを感じつつも、同じ時代に生まれて歌を歌い続けてくれることに励まされる思いだ。

製本かい摘みましては(122)

四釜裕子

山田亮太さんの詩集『オバマ・グーグル』刊行記念のトークショーの中で金澤一志さんが、さらっと、しかし何度かこうおっしゃった。「この詩集のつくりは工芸的で、配慮にあふれている」。8月、oblaat が主催する Support Your Local Poet Meeting  でのことで、こんなこともおっしゃった。「僕はこの中で『みんなの宮下公園』しか読んでいません」「この詩集は読む必要はありません。しかし構造を知る必要がある」。読まずに構造がわかるはずはないのです。金澤さんのこのキザな物言いを頭にループさせたままに、『オバマ・グーグル』に改めて目を通す。一部は「災害対策本部」とタイトルされて、「ユリイカ」のもくじや渋谷の宮下公園で見られた文言から引用した作品などが並び、二部の「オバマ・グーグル」は2009年1月25日17時30分にグーグルで「オバマ」を検索してあらわれた100のウェブページから引用したことばで成り立つ「オバマ・グーグル」一編、三部は「戦意高揚詩」として五編が並ぶ。何度もページをめくるうちに三つのタイトルこそが重要であると思えてきて、二部の「オバマ」はほかの名前、たとえば「シカマ」でもよく、この三行による一編の詩がこの詩集のすべてで、”言葉”という著者による陰謀告発本に見えてきた。

今もってこうして何でもかんでもわざわざ印刷して本にしたくなるのは、むしろ言葉が思わぬところまでばらばらにしかも瞬時に広がりうるようになったからこそ、組み立てた順番や時間や場所を保持した一つのかたまりとして認識してもらいたいからであって、あるいは分解を拒む”言葉”自身が孤立防止策として身体に欲求を与えているのかもしれない。”言葉”らは災害対策本部を作って警戒し、”意思”や”思考”に恐れを与えるいっぽうで、それらに依らず自ら集結して戦意高揚詩となる。”身体”は陰謀に気づくことなくまんまと高揚し、印刷して製本してせっせと運び、美しい本とは内容と外形が揃ってこそだ、読めなければ本ではない、書物の美しさは工芸としてのこと、など語ったりする。”言葉”らは微笑む。かためてモノにしてくれてひと組でも長く残してくれたらそれでいいのだ。読んでもらわなくてけっこうけっこう。酸素もいらんのだし。積ん読本に優しく見守られる秋の午後。

仙台ネイティブのつぶやき(18)ふるまいは伝染る

西大立目祥子

 若いころ、小さな広告制作プロダクションに勤めていたことがあって、駆け出しだったのでよく届け物のお使いに行かされた。届け先は、大手広告代理店の仙台支店とか、地元の中小広告代理店とか、新聞社の広告部局とかいろいろだったけれど、私が目を見張ったのは、靴をはいたまま足をどさりと机にのせ、ふんぞり返るような格好で事務所につめる営業マンたちの姿だった。

「お世話さまです」と近づくと、彼らは首から上だけをこちらに向けて、「ああ、お疲れさん。そこ置いてって」と、応接セットを指差し、すぐ会話に戻る。「お疲れさん」といわれるのはまだいい方で、「ちょっと見せて」と手を伸ばすので持っていったカンプ(デザイン案)を手渡すと、一瞥して「A案、こりゃダメだわ」といってふわりとソファに投げ、「B案、これもちょっとなあ…」といって、またふわり。「C案…ま、使えるとしたらこれか、また連絡するから」と、くるりと背中を向けることもあった。

 何時間かブレーンストーミングをして、コピーライターがうんうん机にかじりついてコピーをひねり出し、デザイナーが夜遅くまで絵を描いて仕上げたカンプだ。「いくら下請けだってあんまりじゃないですか」と、戻ってから上司に訴えたことがある。彼らからみたら、下請けの、零細の、女の子なんて、何段階も下に見えたのだろう。

 でも、もっと驚いたのは、足上げ営業マンの隣で、居住まいを正して机に向かっていた入社してまだ日の浅い若者が、4、5年もたつと、横柄な足上げ男に成り果てることだった。まるでそっくり、ふるまいは伝染る。下請けは足上げで迎えよ、と申し送りしているわけでもないだろうに、同じ態度、同じ対応。集団や組織の中でのふるまい方は、強い伝播力を持っているらしいのだ。

 人様の会社だけではない。私が勤務する会社は、どうも雰囲気がクラいらしかった。親しい付き合いをしていたある女性からの電話に私が出たときのことだ。歯に衣着せぬ物いいのその人はいった。「あなたたちの会社って、何でいつもクライの?電話の応対ぐらい明るくなさいよ」

 そうか…。薄々気づいてはいたけれど、注意されるほどひどいのか。毎日残業に継ぐ残業で、みんな疲れてるからなのかなあ。でも、と思う。注意したその人の事務所をたずねると、あいさつに出てくる誰もがみんな異様と思えるほどに明るい。これはビョーキじゃないか、と感じるほどにハイテンション。もちろん、その人にそんなことをいうことはできなかったけれど。

 集団や組織の中にいると、じぶんたちのふるまいのおかしさに気づくことは難しい。その場の空気がどんなに汚れてよどんでいたとしても、毎日吸っていればそれはあたりまえにそこにあるもの、なくてはならないものになるということなのだろう。

 こんなずいぶん前のことを思い出したのは、最近検査のために訪ねたクリニックが、上から下まで、見渡すかぎり、一様の雰囲気だったからだ。カウンターに座る受付の人は、事務的に名前をよび、にこりともせずに応対する。検査の人も問診票に従って問いかけ、粛々と検査をこなして笑顔になることはない。採血の人も、必要なこと以外何もしゃべらず、質問を口にしたら「それはここではお答えできないので、医師におたずねください」と返してくる。肝心のドクターに同じことをたずねると「ごめんなさい、いまお答えする時間がないんです」という返答。

 待合室で黙りこくって順番を待つ人は、ざっと50人はいるだろうか。入っては出ていく人の数を見ていると、30分で30人をこなしているような印象だ。これだけの患者を診るのだから、おのずと事務的なさばきにもなるのだろう。

 いや、でももう少しやりようはあるはずだ。アイコンタクト、笑顔、明るいあいさつ、不安をやわらげるひと言。一人ひとりのちょっとの踏み出しで、空気は格段に変わるんじゃないのか。たしかに、この空気感の中で、違うトーン、異なるふるまいを繰り出していくのは、なかなか大変なことかもしれないのだけれど。

 小さな集団でさえこうなのだから、大きな組織になったら空気の流れを変え、よいふるまいを生むのはもっと困難をともなうだろう。取り返しのつかない重大事故を起こしながら、何年経っても情報公開が遅れる電力会社、データ改ざんを繰り返す自動車メーカー、だれも責任をとらないまま重大事をねじ曲げていた首都の役所。企業風土とはよくいったものだ。土、水、光、風のような自然環境がその土地の生産性を決めていくように、企業の中で長年にわたり根深く生き続けてきた風土が、その考え方や行動を規定しているのだ。じぶんたちの集団や組織に風穴をあけ、外から内側を見る視点を持たなければ、ふるまいを変えていくことなんてできないに違いない。
 
 ところで、先のクリニックは二度目に行ったら、ずいぶん印象が違った。受付の人の声のトーンが明るくて大きい。それだけで、待合室の雰囲気が少し軽くなった気がする。そのわずかに呼応するのだろうか、看護師さんたちもいくぶんか前より明るい表情のように感じる。となりの診察室からは先生の笑い声が聞こえてきた。一人の変化がだれかの変化を引き出し、それが全体に及んで空気が変わる。なるほどなあ。少しでもいいから変える。きっとそれが大事。

143 旋頭歌15――墓原の透谷に対す

藤井貞和

悪の華腐った土に帰る細菌つかのまの仮眠人生(ひとよ)の花壇に朽ちる
旋頭歌の悪の華きみ呪いの仮面臥し床に石の枕の朽ち果てる脳
透谷の白い肩むさぼる眠りいっとき枕辺に石がおもたく倒れて
もののかずでは―きみすなつりつぶし思えばよ月も―花も―ない墓のなか
こんなにも―安らかでいることのたのしさ透谷の骨の粉末ふりそそぐ肩
ぐっしょりと指の牙爪をぬぐわないからついに溶けだして雫となる焦げ方
朽ちてゆくあたしのからだ塵になるまでこのままに縁の切れめのこの世じゃないか
悪からのまぎれの距離に水がながれて松の琴を風の手が弾く今宵のしらべ
この深い黒ぬりの闇寝静まるころ腐る鶏肉夜声一声するどく最期
ああ何は―ともあれというきもちがうごくふるさとへ帰れるのなら置く泥袋
「一」と「一」とを分離する一撃は―打つ墓原に紺青の小笹がそよぐ
がんえんを融かしてあたしが融ける時間にちいさなぬめり占う人の
いま満ちるがんえん古い複数と新しい黒衣踊れすがたなき亡霊の夜
あれ待てよ肉なきわが身ない季節ないあなめあなめ唱える惨歌
死海文書にいま満ちるあけがたのかばねをぶらりと垂らして塩湖

(透谷さん、苦しかったぼくらはこれからの拷問に耐えられない。もっともっと苦しい透谷さんを思って拷問に耐える。精神の紙ずたずた、黒い動物がどうかしちゃって、夢に見ちゃった愉しかったよ。)

音にならないうちに

高橋悠治

イメージを追うのではなく その時の感じ からだがかすかに動く感覚を覚えておく その感覚は 呼び起こされるたびに おなじイメージを作るとは限らない 決ったイメージを作ることを目標としないで 想像力をあそばせておく こうすれば 固定したイメージを再現する作業にしばられないで おなじ道を通っても 見えてくる景色はいつもちがうかもしれない

演奏や作曲は 決った音の道を辿り その道を作り出す それでも即興から生まれた道は 偶然で不安定だが それを分析して 要素に還元し そこから全体を構成すれば 道は踏み固められる そうしないで もう一つの偶然でそれに応えれば 対話が生まれ それに引き込まれた道は 論理の展開ではなく どこまでも分かれ道が続いて 推測で一つの道を選ぶのはむつかしくなる 楊朱の「多岐亡羊」

一瞬見えたような気がする その感覚が消えないうちに 声にしてみる 外のイメージは 声の感じになって残る 芭蕉「物の見へたるひかり いまだ心にきえざる中にいひとむべし」(赤さうし)

まだ音にならない からだのなかで いくつかの場所がかってにうごくリズムがある そのリズムをわずかに感じながら それを操ろうとはしない 途中で見切りをつけて そこを離れる そうしないと 道ゆく人が立ち寄ることなく 対話も続かない 「われらが心に 念々のほしきままに来たり浮かぶも 心といふもののなきにやあらん」(徒然草235段) 

一つの句を二つに切って 片端を逆に付けてみる この取合せ「行て帰るの心 発句也」(くろさうし) 平安古筆の返し書きは 紙の中ほどからはじめて 途中から前にもどって行外の余白に続ける

伝統の技法をまなんで ちがう領域に持ち出して使えば 曲解もあり 実験でもある 躓きは飛石となる 

蕉風連句の付けと転じを使って 連句は作らない 閉じた世界の構成と管理から歩きだして その歩きの多岐亡羊を 霧のなかに見え隠れする景色をたどってすすむ たちどまらず すこしずつ見慣れないものをいれこんで