155立詩(3)最後に語る昔話

藤井貞和

あったてんがない、とんと昔があってなあ、
にわ(土間)で一本の穂を拾ったと。
あいつはそいつを、鍋ん下、がいがいがい、
小豆とともに炊いて、大きなぼたもちさ、
作ったと。 まだ地面の流れて固まらず、
じんるいは生まれてなかったが、
かみくらを、かみくらを満たさねばならぬ。
いっぱいにして待たねばならぬ。
ほんの少しのま、ことばをつなぐしごとを、
土間の神の語らす。 それでこっぽり。
もう滅亡のときなのかよ、待って。

(「最初に語る昔話」というのが昔話集にはあります。)

何を残すか

大野晋

牛の過去の記事の一覧に目を通す。
どうやら、10月は休む傾向があって、ところどころに穴が開いている。

まあ、こんなことをしている今年も何を書くべきか思い悩み、うつうつとこんな時間
まで来てしまった。いや、もう少し詳しく書くと、書く話は確かにあった、はずだった。しかし、時間が経ち、考え直すたびに話の中身に迷いを生じ、やがては蔵の中に押し込んでしまう。結局、そうして押し込んだ話は書くべきではないのだろうと思いなおす。

徐々に残りの時間が気になるようになり、ずっとやりたかった絵や写真をきちんとす
べきだと思うようになってきている。青空文庫へのお仕事も、少しずつ始動しないと抱え込んだままどんどん老いることになる。もっとも、視力の衰えはずっと早く、老眼鏡なしでは細かい入力や校正の仕事はもうすでにできそうもない。

何を残すのか?と考える。
何が残るのかとも考える。

すでに、監訳して出版した書籍の過半数は市場には残っていない状況を考えると思った以上に世の中に何かが残るなんてことはないのかもしれない。このところ、迷いっぱなしなのである。

何だかわからないけれども上手の何か

西荻なな

景色が見える、と思うことがある。
たとえるなら、麓を霧に覆われて山を登っているいま、その頂上を見ることはできないけれども、目を閉じた時にぼんやりと山全体の輪郭が思い浮かぶ、登頂した後に眼下に広がる風景をすでにどことなく感じられるように思われる、そんな感覚だ。先験的に知っている、と科学や哲学の文脈で言い表されるものがそれだろうか。いまここに実現していない未来が、まだリアリティをもって感じられるわけではなくとも、おぼろげながら、まるで夢を見た後の残像のように、その光景が心の中にある。全貌が眼前に姿を現してはいなくとも、でもこの先に、確かにそれが見えるとわかるから、根拠のない自分なりの確かさを頼りに、一歩一歩山道を歩いて行くのだし、歩いていける。刻々と移り変わる山肌の景色にハッとしながら地道に歩いて行く。

人生はおしなべてそのようなもの、と言えてしまうのかもしれないけれども、まだ知らない道が残されている手前から、人生はこういうものだ、と語りたいのではなくて、私が思うのは、「いまここ」を超えるものを、常に思い描いていたいということだ。「いまここ」の時間軸、価値軸に引っ張られないもう一つの軸をもつということ。細切れの時間軸と既存の価値観に絡め取られそうになった時に、もう一度そちらに、未来側に自分を置き直すことだ。日々の自分の姿を鏡の中に覗き込むように、アジャストメントを繰り返してゆく。
思い描く風景と、いまここにあるものとの間にイメージの齟齬はないだろうか。
あるいは、思い描く風景を共有できる誰かがいるだろうか。
共有できる誰かがいないならば、共有できる誰かを育てることはできるだろうか。
その問い直しの積み重ねの先には、時に大きな変革だって含まれるだろうと思う。たとえば、どこに身を置くのか、誰と仕事をするのか、といった座の組み直しのようなもの、などと書くとビジネスライクに響いてしまって、ことの本質からずれてしまう気もする。

「どう作るのか」のより実際的な話よりも、「いかに作るのか」において、より景色が見えることの大切さを思う。確かに見えると思われるその先の風景を逆照射しながら、「いまここ」における地歩を固めてゆくということは、今日と明日の歩みの中に、未来の風景の要素のようなものを一振り、振りかけてみることだ。そうして一つひとつ着実に、ここにはない何かを含んだものを作っていくことができるならば、思いがけない形で人の心に伝わったり、大きな森ができ上がったりしていくのではないだろうか。見える、と思っていたその風景のイメージを颯爽と超えていくような、もっと見たこともないようなものが生まれるような、魔法が偶然にも入り込んでしまうような土壌をどうやったら作れるのか。

と考えているところで、小林秀雄と数学者・岡潔の対談集『人間の建設』を読み返していたら、ふと気になるフレーズが2、3飛び込んできた。
岡が言う「数学が情緒だ」という話におよその見当はついたが、その内容というのはこういうことかと小林が問う。「数学者は、数学者を超える存在のなかで数学をやっているわけでしょう。そういう、いわば上手の存在、あるいはリアリティ、そういうものがあるとお考えでしょう」、ならば「数学者はリアリティに近づかなければならない。それが何だかわからないけれども、そこに近づきたいというわけでしょう」と。ここでいうリアリティは「真理」に近いものだろうか。
返す岡は、「いや、リアリティはあるけれども見えていない。見えない山を少しずつ探していくのが数学者で、物理学者とは違って、むしろ自然をクリエイトする立場に立っている」というようなことを言う。
「自分の存在を超えるような上手の何か」、この小林の表現が実にしっくりくるとともに、「それは見えていないけれどもクリエイトするのだ」という岡の返しにも、すとんと落ちるものがある。その火や電気を絶やさないためのものを小林は「記憶」と呼び、岡は「情緒」と呼んでいる。何か大きく超えていくもの、上手の何か。その風景を忘れないようにしたい。

第二のカラダ

笠井瑞丈

フルマラソン 
42.195キロ 
しにいくご
42.195キロ

人が走れる最長の距離
小学校の時そのように
教わったのを思い出す

かさいみつたけ
四十二歳ト三ヶ月
フルマラソンで言えば
四十二・一九五歳

いろいろな変化が
カラダの中で起こる

良い変化も
悪い変化も
その変化に
耳を澄ます

42年前のカラダ
そしてゼロからの
42年後のカラダ

ここらでコップのミズを
入れ替えなければならない
ここらで第二のカラダを
手に入れなければならない

四十二・一九五
そんな歳なのだ

四十二歳前を
第一のカラダ
四十二歳後を
第二のカラダ

新しい衣装を着る
新しい作品を作る

ここからがゼロ歳
新しい旅の始まる

ねむるまで

別腸日記(8)断酒のテキサス(前編)

新井卓

テキサス──一度も訪れたことがないのに、これほど記憶の中でなじみ深い場所は、ほかにあるだろうか。ただし、そのイメージはカウボーイやテキサス・レンジャーズといったステレオタイプな細部に縁取られたファンタジー以外の、なにものでもないのだが。

ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』(1985)は、テキサスに実在するパリを目指して(驚くなかれ、テキサスにはトーキョーもベルリンもある)、架空の場所を彷徨いつづけるロード・ムービーなのかもしれない。来歴と名前の間に引き裂かれた、アメリカという土地が持つ二重性は、旅する者を宙づりにしてしまう。

2015年、テキサスの美術NPOアート・ペイスで三ヶ月の滞在制作(ある場所に長期滞在して、調査や作品制作、パフォーマンスをおこなう半公共的な枠組みで、世界中に存在する)の機会を得て、はじめてその地を踏んだ。わたしが滞在したのは同州のほぼ南端、メキシコ国境に近いサン・アントニオという街だった。

わたしはそこで、太平洋戦争中、原爆投下の模擬演習として日本各地に投下された「カボチャ爆弾」をテーマに映像作品を作ることにした。別の街に保存されている現役のB25爆撃機──といっても今では軍用ではなく、結婚式で空から花を巻いたり、最近ではハリケーンの被災地に食料を届けるといった平和な活動をしている飛行機──をチャーターして、上空からほんもののカボチャを投下する、そんな冗談のような映画だった(*)。

テキサスでは、大の大人たちが揃ってなにか仕事しようというとき、とりあえずジョークの一つも飛ばさなければなにも始まらない。そんな風なので、大して流暢に英語も話せないわたしとしては、テキサス特有のアクセントやスラングと相まってずいぶん戸惑ったものだ。

子どものころからハリウッド映画や昼の海外ドラマで培ってきたテキサスのステレオタイプなイメージは、当たっている部分もありそうだが、そうでもない部分も同様に多く、いまひとつ判然としない。中でも意外だったのが、彼/彼女らは酒をまったく飲まない、ということだった。

アート・ペイスには、年三回の滞在制作期間中、それぞれ三人のアーティストが住み込みで活動する。施設の二階にはキッチンと浴室が完備した個室があり、階下には広々としたスタジオが、一つずつ各人に割り当てられていた。わたしと一緒に滞在したアーティストは、テキサスのオースティン在住のアナ・クラチーと、ニューヨークのアダム・ヘルムスだった。気安い人々だったので、わたしたちはすぐに打ち解けて話すようになった。

南部テキサスの9月。夏の暑熱が残ってはいても、さらりと乾燥した大気が心地よい夕暮れ、一日の仕事を終えると無性に喉が渇いてくる。深紅からバイオレットへ、窓の外が壮大な暮色に輝くころ、グラスの縁にこんもりとスパイシーな塩を盛った(rimmingした)とびきりに冷えたマルガリータや、ホップの効いたドライなビールを求めるのは、わたしには最早自然の摂理のように思えた。

しかし、アナは飲酒という習慣を嫌っているようだったし(「人が飲むのはもちろん構わないかど、でもそれを端で見ているのはどこかしらterrifyingな(ぞっとしない)感じね・・・」)、アダムに至ってはマンハッタンのストレスからアルコール中毒になり、今アルコール依存症の更生プログラムを受けているとのことだった。

入居早々、二人はビールを山ほどかかえて私の部屋にやってきた。地元産のそれらのビールは、管理人のチャドが気を利かせて入居前に冷蔵庫に仕込んでいてくれたものだった。「これ、もらってほしいんだけど」思い詰めた表情のアダムを前に、わたしは二人の前では今後一切アルコールの話をしないよう、固く心にきめた。

(つづく)

*『49 PUMPKINS』2015. アート・ペイスによる委嘱作品. http://takashiarai.com/49-pumpkins/

仙台ネイティブのつぶやき(26)まちに渦をつくった人

西大立目祥子

出雲幸五郎さんが9月7日、86歳で亡くなられた。といっても、仙台に暮らす人以外で出雲さんを知る人はそう多くはないだろう。
文具店「幸洋堂」の店主。店のある荒町(あらまち)のまちづくり仕掛人。荒町商店街振興組合の初代理事長。この30年、まちのために休むことなく東奔西走した人。私は出雲さんというと、白髪、メガネに赤いエプロンをつけて、いつもせわしなく動き回る姿が思い浮かぶ。街中で、自転車をこぎ配達に急ぐ姿もよく見かけた。

出雲さんが商売の枠を超えて動き出したのは、ちょうど日本中のあちこちのまちやむらで地域づくり、まちづくりが活発になった時期でもあったから、仙台では「元祖まちづくり仕掛人」といわれたりすることもある。でも、出雲さんは地域を冷静に眺めて事を企てる専門家でも、ましてや評論家では決してなかった。額に汗してみずから行動を起こした人。仙台で、ここまでやった人はそうはいない。すべて、じぶんの生まれ育った愛するまちを少しでもよくしたい一心からだった。
いま振り返ると、荒町の魅力をよくわかっていたなと思う。人は案外、足元のことは見えないものだ。

荒町は仙台駅から地下鉄で一駅ほど南にある商店街で、間口の狭い個人商店が連なり、大学が近くマンションやアパートも多いから、小さな食堂から日曜雑貨、クリーニングまで、まあ、何でもそろうちょっと雑然とした雰囲気の通りだ。でも歴史は古くて、江戸時代は奥州街道だったこの通りを参勤交代が通ったし、もともと荒町は伊達家に付き従ってきた由緒ある御譜代町(ごふだいまち)の一つ。
まちを歩くと、ちまちました商店の奥には、昌伝庵、仏眼寺…といった古刹が広大な境内を誇り、中でも通りの中央にある毘沙門堂は子育ての神様として江戸時代から信仰を集め、大相撲の興行が行われてにぎわいの中心でもあった。

この毘沙門堂に目をつけた出雲さんは、1986年、プロになってまだ数年だった仙台フィルハーモニー管弦楽団を8月1日のお祭りによんで「第1回星空コンサート」を開いた。何でも値切りに値切ったらしい。何しろ野外だから、ヴァイオリニストをはじめ弦楽器の団員はヒヤヒヤ。最初のフレーズを弾いたとたん雨がぽつりぽつりと降ってきて中止になったこともあったと聞く。私も「チケット買ってよ」といわれ何度か聴きに出かけた。まちの人たちがうちわ片手にサンダル履きで集まり、がやがやした中で演奏が始まるのだけれど、曲が進み夕闇が迫ってくると境内は何ともいえない一体感に包まれていくのだった。コンサートがはねると、お祭りの屋台でヴァイオリンケースを持った団員の人たちがたこ焼きを買い、まちの人とおしゃべりする。オーケストラを聴く敷居をグンと下げたまま、星空コンサートは20年続いた。

同じころ、出雲さんは町内の若手経営者といっしょに、町名改正反対運動に乗り出した。1970年から始まった市内の町名改正で最後に残ったのが、この周辺の町々だったのだ。荒町、南鍛冶町、穀町、南材木町、三百人町、五十人町、六十人町…江戸時代から続く町名を守り抜こうと、出雲さんは町内でフォーラムを開き、署名活動を展開し、ねばり強い交渉を続けて、ついに仙台市側が変更を断念した。かつての城下町でまとまったエリアとして町名が残っているのはここしかない。ちょうどバブルが始まろうとしていた時期に、何が守るべきものかを出雲さんはわかっていたんだなあ、といまあらためて思う。「やるときはやれ、力を出せ」と教えられた気がする。

そしてこの30年、まちを通る人たちに話題を提供してくれていたのが、店の前のキャッチコピー。大きな筆文字で「今日という日は本日限」とか「そのうちって、いつの事」とか「恋はザルですくった水の如く」とか「さわやかな女」とか…。ピンとくるものも「?」というものもいろいろだったけれど、ちょうど店の前で信号待ちのバスが停まるから、通勤や通学で楽しみにしていた人もいたと思う。何しろ「オレは荒町の糸井重里」と豪語しコピー集までつくる始末。私も1冊買わされた。けっこう自信家だったよね。
本音でつづる文章もうまくて、発行していた「こうごろう新聞」は、『熱血こうごろう』『こうごろう新聞 仙台荒町奮戦記』としてまとめられ、秋田の無明舎から出版されている。

思ったことはずばりずばりと口にする人だったから、よくまわりとケンカもした。でも、がーっと押し切るような力があったからこそ、小さな商店街の荒町でこれだけのことがやれたのだろう。大震災では沿岸部にあった文具店の倉庫が流され、その直前にはガンもわずらった。でも、屈することなくいいたいことはいい続け、まちづくりは最後の最後までやめなかった。

目の前のことは、けっこう簡単に歴史になってしまう。お通夜に参列したら、この30年仙台でいっしょにやってきたなつかしい人たちがいて、昔話になった。出雲さんがやってきたことを私はすぐそばで見てきたつもりだけれど、こうやって同時代で見続けてきた人たちが消えたら、もう何にもわからなくなるのかもしれない。

昨晩、店の前を通ったら、看板がはずされシャッターが下りていて、大きな筆文字の張り紙がしてあった。「幸五郎さん頑張ったね秋日和」「幸五郎さんお別れの日はやっと晴れ」だれが書いたんだろう。鼻の奥がツンと熱くなる。

荒町は、一昨年、新たな地下鉄が開業してからというものバスの本数が減り、歩く人も減り、シャッターを下ろす店が増えてきた。いま、こうしてまちをかき回し渦をつくってきたうるさい人も消えて、一時代が終わったのを目の当たりにしている気がする。

さつき 二〇一七年十月 第六回

植松眞人

母が見つけてきたのはとても小さな一戸建ての家だった。小さいけれど真っ青な屋根瓦の二階建てだった。一階は六畳間と台所とお風呂とトイレ。二階は四畳半の小さな部屋と押し入れとベランダがあるだけだった。それでも、母は気に入っている様子で、「ほら、一緒に散歩しよう」と私に言って、家の周りをぐるぐると歩いた。家の周りを歩くだけなら、百歩もいらない。五十歩ほどで一周できるほどだった。
「この家の屋根瓦の青いのが気に入ったのよ。曇っていても雨が降っていても、うちだけ青空みたいな感じがして」
母はそう言うと、しみじみとした顔をして、真っ青な屋根瓦を眺めた。私も母と同じように屋根を見た。空は真っ青に晴れていて、でも、これから住む家の屋根は、空よりも青いかもしれないと思うくらいに見事に青かった。

十月になってすぐに母のお気に入りだった家を出て、青い屋根の家に引っ越した。ほとんどの荷物を処分して、どうしても置いておかなければならないものだけを残しておくようにと言われて、私は子どものころに大好きだったぬいぐるみを半分に減らそうと頑張った。これは持って行く。これは処分する。そう呟きながら、大きなゴミ出し用のビニール袋にぬいぐるみを分けていった。持って行くぬいぐるみがビニール袋に三袋。処分するほうは三袋になった。
片付けがほとんど終わった自分の部屋の隅に置かれたぬいぐるみの入った六袋のビニール袋を眺めていると、持って行くものと処分するものとの境界線がとても曖昧で、本当はもう少し持って行けるんじゃないか、とか、あれを処分するなら、これだって処分した方がいいんじゃないか、とか。私は考えすぎて、それなら、とあえて声に出して、ぬいぐるみは全部処分することに決めた。
二階の四畳半は私の部屋になった。自分の部屋なんかいらいよ、と私は言ったのだが、母は「年頃の女の子なんだから、ちゃんと自分の部屋を持って、きちんと整理線頓しながら暮らすことを覚えたほうが良いのよ」と言ってくれた。そして、「でもあなたの部屋を通ってベランダに洗濯物を干しに行かないといけないから、プライバシーはあんまり守れないかもしれないけれど」と笑った。
私は前の家の半分ぐらいの広さになった自分の部屋を眺め、その部屋から見える窓の外の景色を眺めた。家の隣が古い平屋だったので、都会の二階なのに、意外に景色が広々としていた。
母も私と同じように、おそらくいろんな覚悟をして容赦なく荷物を選別した。あまり悩まず、次から次へと荷物を選別していく。そして、帰ってこない父の荷物は自分の荷物の倍くらいの速さで選別した。
荷物が驚くほど少なくなったおかげで、引っ越しは半日ほどですんだ。いらないものはゴミ処分場に運んでもらい、必要だけれどどうしても新しい家に入らない家電や場所を取る荷物は、母の実家へ運んだ。
テレビのニュースでは北朝鮮のえらい人と、アメリカの大統領がののしり合っていて、時々ミサイルが発射されたりしていた。
「ミサイルが撃ち込まれたりしている時に、引っ越ししてるなんて、なんか八月にテレビで見た戦争映画の疎開みたいだね」
私がそう言うと、母は笑った。
「そうだね。でも、いまだって戦争みたいなもんだよ」
母はそう言って少し引っ越し作業の手を止めた。
「昔の戦争は国と国との戦争だけど、こんな時に解散総選挙をやろうっていう首相がいるんだから、国と国だけじゃなくて、国と私たちも戦争してるみたいなもんだよ」
そう言って、小さく早く息を吐いて、母は立ち上がり、空になった段ボール箱を折りたたんだ。

父が帰ってきたのは私たちの疎開のような引っ越しが終わって、十月も半ばにさしかかったあたり。友だちたちがシルバーウィークのことを話題にしだした頃だった。
父がふいに帰ってきたのは、土曜日の遅い朝に、母と私が朝食を食べている時だった。帰ってくるなり父はこう言った。
「ねえ。シルバーウィークって僕らが子どもの頃、十一月の頭だったよね」
出て行った日に着ていた見慣れたシャツをきて、いつものジーンズで帰ってきた父は、やせてもいなかったし、太ってもいなかった。ただただ、いつも通りの父がずいぶん前からこの家で一緒に暮らしていたかのように現れて、シルバーウィークの話をし始めたのだった。
「そんな気がするわね。確か、十一月の文化の日のあたりだった気がするもの」
と、母も父と会うのが半月ぶり、という表情をおくびにも出さずに話し始めた。普通は朝出て行って、夕方に戻ってきた人に対しても「お帰りなさい」とか「今日はどうだったの」なんて聞くもんだろうと思ったのだが、妙なあうんの呼吸のような会話は、私の立場を少し追いやって、ただでさえ狭い一階の六畳間で片隅で私は父と母が話すシルバーウィークの話を聞いていた。
二人はひとしきり話すと、少し黙った。
「お帰り」と母が言うと、
「ただいま」と父が答えた。(つづく)

グロッソラリー―ない ので ある―(36)

明智尚希

良い思い出に浸って、悪い気分になる。

子供は本能で動く、大人は煩悩で動く。

期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいを期待したいのを期待したいのを期待したいのを期待したいのを……。

まもなくまもなく言うな。このあとすぐこのあとすぐ言うな。

できると思うことはやるな。できそうだと思うことをやれ。

酔いは酔いのための酔いであってはならない。酔いは何かに向けられて初めて酔いとなる。酔うことで上っ面の屋根と建屋が吹っ飛んで、地中からめきめきと育ってくる恐るべきものがある。

真夏のカンカン照り。砂は我が名は砂であると虚勢を張りながら胸を張る。そこへゲリラ豪雨、泥。

【散々文のはじめ】

「あなた普通の人じゃないね」との風俗嬢の慧眼に小さく小さく憤慨する。

あまり車の通らない道を、一台がさっそうと通る。次もあるのではと思う。(ここはチャリンコルーレットの場だ)

原稿に向かうには、夏ならば冷房がきんきんに利いた空間が必要だ。

義務があるだけ幸福だ。

暇だからといって飲酒してはいけない。

睡眠障害、鬱病、パニック障害、不安神経症、空間恐怖症、対人恐怖症、心身症、起立性調節障害、自律神経失調症、統合失調症陰性、神経性じんましん、気分変調症、大球貧血症、神経性片頭痛、アルコール依存症、色弱、震顫、軽度てんかん、腎臓病、慢性中耳炎、難聴――僕らはみんな生きている。

本は読めない。着想の嵐に立ち向かえないから。

長い沈黙は、過去をたぐり寄せる。

逆境は逆境。乗り越えられる逆境などない。

好きになるのは早いが、嫌いになるのはもっと早い。

自分の中に、自分などいない。

幸運は飽きっぽい性向。あきらめても、続けている人に、不承不承に目配せする。

何かを信じるには、信じる基盤を保つための素養が必要である。

人が恐く、嫌いではない。

生きてりゃあ死ぬことだってある。

生きている限りは人間ではない。

人の不幸に接した時のみんなの陰湿にして盛大な喜んでいる顔ったらない。

他人は、ちょっとした失敗をした人間を、あらゆる方策を講じて糾弾する。

【散々文の終わり】

人格者はえてして模範的な傍観者になりやすい。

叶わなかった夢、報われなかった努力、それらが夜の暗闇の正体だ。

アルコールで苦しみ、アルコールで楽になる。

日中は酒を飲む。現実という裏社会から逃れるためだ。

歌われている、苦しみ、悲しみ、痛み、そんなもの実生活で総ざらい経験した。

すれ違いざまに、いちいちこちらの顔を見るなよ。

種類の憎しみやら悲しみを抱えながら、紙を破る。

不快を恐れて感覚を殺していたら、不感症になってしまった。

男は忘れようとして忘れられないが、女は忘れようとしなくても忘れる。

命の危機にあっても他人は冷たい。結局は自分が第一。

すがるものが何もないというのは、何事にもまさる強みだ。

人は小さな不幸には興味を持つが、大きな不幸となると退散する。

死ぬことほど、簡単で難しいことはない。

一人の生命より重いもの、それは個々人の生活の安泰だ。

週末の飲んだくれた帰り道、わしは友人から突然やや厚めの封筒を受け取った。家で読んでみてくれと言う。友人も別の誰かから受け取ったらしい。アルコールが入っていたこともあり、ことの顛末や封筒の中身については何も聞かずにそのまま友人と別れた。
翌朝、その封筒を開けてみると、右上をゼムクリップでとめられたA4サイズの紙の束が出てきた。断章と顔文字がずらりと横書きに並んだワープロ原稿だった。表紙には「グロッソラリー ―ない ので ある―」とあり、下のほうに「忽滑谷源八郎(※ぬかりやげんぱちろうと読むのか?)」と記名してあった。
なぜわしにこのような原稿を託したのか判然しないまま、とりあえず少しずつ読み進めてみることにした。細かい内容には触れまい。ただ、断章はバラエティ豊かで、口語体もあれば文語体もあり、扱う分野も多岐に渡っていた。アフォリズムもあるし実験的な試みもしている。体裁の整合性が取れているとは言い難いが。
そうした奔放さや顔文字の多様から、若いかもしくは複数の書き手によるものかとも思ったが、「わし」と表現しているのを素直に受け止めれば、年配の人間による作品としておくのが穏当だろう。しかしよくここまで書いたものだと感心もした。

さて、タイトルにある「グロッソラリー」とは何のことか。外国語を含む辞書類には一切載っていない。インターネットでかろうじて一件だけ引っかかった。種村季弘氏の『ナンセンス詩人の肖像』である。早速購入し「グロッソラリー」について調べてみた。氏の定義では、「霊媒や意識不明者の発する言葉」とあり、また「グロッソラリーは『グロッソ』(舌の・言語の)と『ラリー』(l(エル)とrの音の区別がつかず、まさにラリること)の結合語である」としている。
その他のナンセンス関連の本を渉猟したが、「グロッソラリー」については上記の説明しか得られなかった。おそらく言葉としては存在していながらも、使われる機会が極端に少なく、決定的な意味はないのだろう。外国語スペルが見つからなかったのもその証拠と言えよう。忽滑谷氏は酒への言及も多いことから、酔って意識が混濁した状態で書いたと言いたかったのだと推測できる。
また「ない ので ある」のダブルミーニングについて、「ないからある(無という有)」と「ないのである(無)」という具合に作品内容を両方に位置づけたのだろう。こうした曖昧性、意味が複数取れる表現、更には意味の所在が明らかでないものも本文に散見される。また、断章と絵文字のバランスが必ずしも妥当でないこともある。著者の持ち味と解釈しておく。しかし断章の文字数をほぼ統一している点がある一方で、前掲のように不統一な箇所もある点は疑問に残る。何でもありという考えなのだろう。
前置きはこれくらいにして、まずは読んでみることをお薦めする。忽滑谷氏が健在であることを祈りつつ。

ジャワ舞踊の衣装(1)下半身の衣装

冨岡三智

今回からしばらくジャワ舞踊の衣装を紹介しよう。ここでは私がやっているスラカルタ様式の舞踊衣装の説明が中心になるのだが、その前にジャワ舞踊が指し示す範囲について説明しておく。というのも、衣装には地方や様式の差がはっきり表れるからなのだ。

一般にジャワ舞踊はジャワ島で踊られる舞踊だと解されているけれど、伝統芸術の分野では、ジャワ島中部の王宮都市であるスラカルタ(通称ソロ)とジョグジャカルタ(短くジョグジャと呼ばれる)の様式の舞踊だけをジャワ舞踊と呼ぶ。ちなみに、ジャワ島の西部(スンダ地方)の舞踊はスンダ舞踊、ジャワ島東部の舞踊は東ジャワ舞踊と呼ばれて、ジャワ舞踊とは区別される。また、ジャワ島中部のソロとジョグジャ以外の地域にもいろんな種類の地方舞踊があるのだが、それらもジャワ舞踊には入れない。つまり、中部ジャワの2つの王宮の影響を受けて、そのお膝元で発展した舞踊だけがジャワ舞踊なのである。

前置きが長くなったけれど、ここから本題。ソロ様式の舞踊にはいくつかの種類があり、種類ごとに着付が変わる。このシリーズでは、部位ごと―今回は下半身―に注目して、舞踊の種類ごとに衣装がどのように違うのかを説明してみたい。以前にも書いたことがあるが、東南アジアの伝統衣装は、おしなべて下半身が伝統の染めや織りの素材、上半身にビロードなど外来素材を使うことが多い。

●カイン・バティック

ジャワ舞踊では下半身にバティック(ジャワ更紗)と呼ばれる布=カインを巻くが、日本人がジャワ更紗と聞いて想像するような赤や青色を使った花鳥柄はジャワ舞踊では使わない。ソロやジョグジャのバティックは地味な茶色が基調で、舞踊にはパラン(波型刃の剣)模様という半ば抽象的な柄を用いる。パラン模様は、本来王族だけが着用できる禁制柄である。

普通の正装の場合、ソロではソガ色(黄色がかった茶色)のバティックを着、ジョグジャでは焦げ茶と白のコントラストの強いバティックを着る。そのため、なぜワヤン・オラン(舞踊劇)ではソロでも白のパラン模様のバティックを着るのか疑問に思っていたのだが、亡き師匠が言うには、ソロでも以前は舞踊には白地のパラン模様のバティックを着るのが普通だったそうだ。なぜなら、それはソロとジョグジャに分裂する以前のマタラム王家の意匠だからだという。

しかし、舞踊劇以外の舞踊作品ではソガ色のバティックを着用することが多い。それはソロらしさを強調するため、ジョグジャではなくソロの舞踊だと強調するためだろうと思われる。たとえば、今やソロを代表する舞踊にガンビョンがある。これは1970年代以前は一般子女が踊るにふさわしくないとされ、商業劇場の踊り子しか踊らなかった。そのガンビョンの衣装にはソガ色のバティックを着ることが多いが、1950〜60年代には色物のカインを着ていたという話を聞いたことがある。色もののカインを着るというのは、つまり、ジャワ王宮の舞踊ではないということを示しているのだ。それが、王宮の舞踊の影響を受けて洗練され、芸術高校や芸術大学で欠かせない演目となってくると、バソロらしく、王宮の雅を取り入れたバティックを着るようになったということなのだろう。

●着付

スラカルタの女性舞踊には、サンバランと呼ばれる裾を長く引き摺る独特の着付がある。通常のバティックより1mほど長い。これは王宮で踊られていたスリンピやブドヨ、あるいはワヤン・オラン舞踊劇でも着用する。また、もともとこの着付をしないゴレッという舞踊でも、この着付をする演目がある(『ゴレック・スコルノ』、『ゴレック・マニス』など)。

サンバランはジョグジャカルタ舞踊にはない着付である。私が聞いた人は、本家のソロ王家がジョグジャ王家に使用を許さなかったのだと言っていた。実は、マタラム王家はソロとジョグジャの2王家に対等に分裂して消滅したのだが、分裂当時の王都(スラカルタ)や王の名前(パク・ブウォノ)を引き継いだソロの方が本家だと見なされている。ソロ王家は相手に使用を許さないというやり方で、自らの権威を表現しているのだ。

前項でも言及したガンビョンやボンダン(子供をあやす舞踊)では、通常の正装用の着方と同じように前身頃に襞(ひだ)をとったバティックを巻く。この襞は女性なら指1本分の幅で、端からきれいに折りたたんで作る。ソロとジョグジャではバティックの色が違うだけではなく、襞の取り方や巻き方も異なっている。ソロの場合、襞の数は7本〜13本で奇数になるようにする。

ゴレックと言えばジョグジャを代表する舞踊だが、ソロにもゴレックがある。ただし、ジョグジャのゴレックが大人の女性用の作品で、音楽や振付が複雑であるのに対し、ソロのゴレックは子供用で単純だ。私の亡き師匠が子供の頃(1930年代)にはすでに子供用として定着していたと言う。ゴレックでは体の右側か左側に――ということはどっち向きに巻いても良い――大きく襞を作って着用する。ソロ王家の子供用の着付にはない巻き方だから、ジョグジャ舞踊の真似をして作られたのだろうと思う。(だから、着付が適当なのだ。)一方、上述の『ゴレック・スコルノ』や『ゴレック・マニス』は、ゴレックと銘打ちつつも大人の女性向けに作られた作品だ。だからこそ、サンバランの着付を導入しているのだろう。

舞踊劇から独立した演目で『スリカンディvs.ムストコウェニ』がある。どちらのキャラクターも女性である。スリカンディの衣装はサンバランだが、ムストコウェニの衣装はサンバランに似ているものの、片足は顕わになっていて、下にズボンを穿いているのも見える。実はムストコウェニは人間ではなく、姿を変えられる妖怪だ。この妙な姿はそれを表しているのだろうと思う。ソロ様式の舞踊では女性がズボンを穿くことはないが、ジョグジャ様式の舞踊ではスリカンディなどもズボンを穿いている。私がジョグジャ舞踊を見て一番驚いたのが、女性のズボン姿である。ソロの女性よりも強いなあ〜と感じたのだった。

カーニバルは終わったクルドの朝

さとうまき

ドバイでなかなか飛行機が飛ばない。なんでも軍事作戦を実施しているらしい。追い詰められた「イスラム国」への最後の作戦なのだろうか。アルビル国際空港に到着したのは、一時間ほど遅れてだった。滑走路には、ちょうど米軍の輸送機が離陸準備をしており、我々の着陸と入れ替わりで飛んで行った。この飛行場は、民間の飛行場だったのに、「イスラム国」掃討作戦がはじまってからすっかり軍の飛行場のようになっている。任務を終えた戦闘機も停泊しているのが見える。

もう9月も終わりにちかづいているのに、まだまだ40℃近い暑さだ。大使館から電話が入る。9月25日に控えた「クルド独立を問う」国民投票。「前後を含め5日間ほど休みになるかもしれない。お店も閉まってしまうことも考えられるので、食料を備蓄しておいたほうがいいですよ」とのアドバイスをいただいた。早速、スーパーマーケットに行き、カップラーメンとか、缶づめを大量に買い込む。半分は事務所に、残りは住居に運び込んだ。ローカルスタッフは、普段はこてこてのクルドの家庭料理を食べているから、インスタント食品は珍しく、「これは緊急時なの?」と今すぐにでも食べたい様子。

イラク政府は、もとよりトルコやイランは強く反対し、力ずくでも阻止するという。アメリカもこの時期に国民投票を行うのはふさわしくないとした。本当に、国民投票を支持しているのはイスラエルだけ。そんな状況で国民投票は延期せざるを得ないだろうというのがメディアの論調だった。

町中を歩くと、クルドの国旗だらけ。9月17日は公園で集会があるという。クルドの民族衣装や、国旗をデザインした衣装に身を包み、楽しそうに集まってくる。一万人以上はいただろう。政治的なアピールとい言うよりは、ミュージックフェスの雰囲気。次々と歌手がステージで歌って踊る。この盛り上がりは、阻止できないだろう。

中央政府に言われたからといって、国民投票を中止したらバルザーニ・クルド自治区大統領の面目が丸つぶれだ。だからといって国民投票をやったら、今度は国際社会から厳しい仕打ちをくらう。難しい局面に追い込められた。先ほどから上空を飛び回って、サービスをしているクルド警察やクルド軍のヘリが事故でも起こし、落ちてくれば、延期する口実になるかもしれない。もしかして、すでにゴルゴ13が雇われているかもしれない。

バルーザーニ大統領は各地のサッカースタジアムで遊説して回り、9月23日、アルビルのフットボールスタジアムで最後の演説を行った。4万人は集まったという。スタジアムの収容人数は、サッカーのためかと思いきや、こういう使い方があるんだ。
「私たちは、バグダッド政府と、友好的に分かれるときが来た。国民投票は、私の手の中から離れ、政治ではなく、すべては、あなたたちクルドの人民にゆだねられたのだ。」と締めくくった。

殆どのクルド人は、国民投票を楽しんだ。国際社会がピリピリしていることなどあまり理解していなかったと思う。クルドが独立することは99%がYesだろう。ただこの時期がどうなのかというと慎重派もかなりいた。乱暴な推測をすれば半分はこの時期に独立うんぬんは避けたいと思っている。

クルドは、特にイラク戦争後は、自治というのを謳歌していた。バグダッドがなかなか治安が良くならず、挙句アンバールやモスルは、「イスラム国」の手に落ちてしまった。そんな中で、クルド自治区だけが治安を安定させ、経済発展をつづけた。

しかし、2014年の初めには、クルド自治政府が、中央政府を無視して石油を独自に取引を行っていたことに、中央政府が怒り、国家予算の17%をクルド自治政府に割り当てるという約束を差し押さえてしまったのである。その結果、公務員の給与は25%から75%のカット。予算がもらえないなら、自分たちで石油収入を頼りに独立国家を運営する!というわけだ。

しかし、そもそも、石油で稼いだお金はどこに行ったのか? バルザーニ大統領の独裁政権に疑問をいだいているクルド人も多いのだ。2005年から任期8年ですでに有効期限が切れているバルザーニ大統領。選挙が行われていないのも問題だ。

「俺は、国民投票に行かない」といっていたドライバー。選挙を見たいので、車を出して投票所に連れていってもらった。みんな、お祭り騒ぎ。楽しそうなので、急遽、その場で投票してしまった。「君は反対だったから、Noに投票したんだね?」と聞くと、「いや、Yesと書いてしまった」という。

もう一人、投票にはいかないといっていた、ヤジディ教徒の青年。もともと彼がいたシンジャールは、中央政府の支配地域だったが、「イスラム国」の攻撃で避難生活を送っている。クルド政府がヤジディ教徒の人権を守る気があるのか疑問だという。投票に行ったの? と聞くと、「投票所を見に行ったんだ。そしたら、友達が、投票しろて言うから、投票してしまった」自分の名前は、その投票所にはなかったが、誰かの代わりということでと評してしまったらしい。「で、Noに?」「いやYesと書いてしまった」

シリア難民も何人かは投票しているらしい。モスルから避難している国内避難民も投票に行っている。投票に来ない人の分をその場で何回かなりすまし投票をした人もいるらしい。こういうのがちゃんと無効票に数えられていればいいのだが。かくしてお祭りは終わり、72%の投票率で、賛成が92%という結果だった。

大使館から電話。
「イラク中央政府が、金曜日から飛行場を閉鎖するといっています。帰れなくなるかもしれませんので早く出てください」
急遽、ヨルダンに避難し日本に帰ることになってしまった。カーニバルは終わりをつげた。

飛行場につく。クルドの国旗がでかでかと飾られている。思ったほど人が殺到しているわけでもなかった。チェックインを終えてフライトをまつ。ぺシュメルガ(クルド軍)を称える歌がながれている。勢いのある歌のはずがなぜか物悲しく響く。滑走路には、米軍機が着陸し、そして入れ替わりで、私の飛行機が離陸した。
さらば、クルディスタン。

製本かい摘みましては(131)

四釜裕子

100円ショップのスケッチブックでノートを作りたいと言われて試作を始める。スケッチブックの台紙を使うのも条件だ。台紙といってもけっこう柔らかいので、表紙の芯にするにしてもゆるっとした綴じがいいだろう。裏打ちした布で台紙をくるんで表紙にして、コプト風製本にすることにした。コプト「風」としたのは、表紙を板ではなく紙に、またリンクステッチで表紙と本文を続けてかがる手順をより簡略化したいと考えたからだ。

東京製本倶楽部の会報61号(2011.9.23発行)と62号(2012.9.10発行)に河本洋一さんが書かれた記事を読み直してみる。これは、同倶楽部が2011年5月から勉強会で「歴史的製本のサンプル作り」を行うにあたって、〈”ABC of Bookbinding” の歴史タイムライン略図を参考に、古い物からやってみる〉こととし、実際に作るにあたっては〈その時代の形式の典型的なものを作る〉〈元の書物のデータが分かっているものをできるだけ再現する〉と決め、歴史的解説を担当された河本さんが2回にわたって寄稿されたものだ。当時私は都合がつかず、参加することができなかったのだった。

最初に作ったのが「ナグ・ハマディ・コデックス」。ナグ・ハマディ はエジプトのナイル川中流の地名だ。1945年に、コプト語(ギリシア大文字)で書かれたキリスト教文書などの写本13冊がたまたまこの地で見つかったそうで、その中のひとつの再現を試みている。本文はパピルス、表紙は革。表紙の芯にもパピルスが用いられ、一折中綴じで表紙に綴じつけて、全体を革紐でくくってある。芯に用いられたパピルスのなかに穀物の領収書の端切れがあり、340年代の日付があったそうだ。それ以前から冊子の形態はあったようだが、現在確認されている最古の実物ということになるだろうか。

勉強会で次に作ったのが、表紙に板を用いて、本文を複数の折りとしてリンクステッチでつないだもの。年代的には、本文のみリンクステッチでかがって表紙の板に貼りつけるタイプが先にあったようだ。原本は表紙の板が樺(カンバ)で2.5ミリ厚、本文はパーチメントのところ、カエデ3ミリの板と、紙を本文として再現を試みる。板には斜めに穴をあけ、本文と続けてかがる。これを一般的にコプト製本と呼んでいる。河本さんの報告には、〈12折りのリンクステッチは、綴じ方がやや複雑な事もあり、目の疲れる作業となった〉とある。確かにこれまで見聞きしてきた限り、本文と表紙の板をつなぐところに奇妙な複雑がある。

コプト製本をおおまかにつかんだとろで、簡略化を試みる。ありがたいことに日々世界中の製本愛好家が動画を公開してくれている。表紙に板の替わりにボードや厚紙を用いる「コプト製本」は満載、さらに、表紙と本文をつなぐ手順のさまざまも見つけることができた。最終折りのみ、糸が二重になってしまうけれども、今回与えられた条件ではこれがベストと思える方法に行き着いて、手順書をまとめる。かがり糸はあと少し太くていいかもしれない。穴に針を通したらそのまま引き抜かないで、両手の指先で糸をたぐるようにすると糸がからまないよとメモをつけよう。

ところで100円ショップのスケッチブックには驚いた。想像以上に良いことがわかった一方で、何冊も買った中に、本文を半分に折ったら直角がとれていないものがあったからだ。たまたまかもしれない。いや、そもそもスケッチブックが直角である必要は? 別にないなぁ。なのになぜ? 笑ってしまった。でも、なにしろこれで100円なのだ。私の手にやってくるまでにこの一冊に関わったすべての人がそれぞれになんらかのプラスになっていればそれでいいのだけれど。そんなことってありうるのだろうか。いわゆるメーカー品の値段への納得が深まりつつも……。

8月末にはコプト正教会最高位聖職者初来日のニュースを聞いた。昨年、日本初のコプト正教会が京都の木津川市に開設されたそうなのだ。来日前に教皇タワドロス2世は朝日新聞に、エジプトで相次ぐコプト教会を狙ったISによる爆破テロについて、「エジプト国民の分断を狙ったもので、国家を傷つけている」と言った。紀元1世紀ごろにエジプトで始まったコプト教、信徒はコプト語、コプト暦を用いて、エジプト全人口およそ9200万人中、10〜15%を占めるそうだ。

しもた屋之噺(189)

杉山洋一

春先から今まで何となく空一面を覆っていた厚い雲が、少しずつ薄くなってきて、わずかな雲の切れ間のそのずっと奥に、抜けるような青空が広がっているのが、微かに垣間見られる気がします。
辺りはすっかり秋めいて夜の闇はとても濃く、運河沿いのアパート群の橙色の明かりが、温かさを放って見えるようになりました。

 —

9月某日 三軒茶屋自宅
芥川作曲賞本番。想像していた以上に会場に配置される奏者の距離が遠く、途方に暮れる。今回モニターは使わないと決めてあったので、左手に白手袋をはめて遠目にも見やすくしサインを送る。楽譜がめくれないので、親指と人差し指に桃色と黄色のゴム指サックの滑り止めを付けた。
永野くんの端麗な演奏にオーケストラが弾けるようにぶつかる音像が、さざめくように会場に響くばらまかれた弦楽器の音と相俟って、ホログラムのように浮き上がる。
ピアノの田中くんは、スクリャービン4番のソナタが漆黒の宇宙空間に散り蒔かれたような音群を、鮮やかな室内楽のごとく弾ききった。演奏会後、田中くんは永野くんの古いCDに彼のサインを求めていたのが微笑ましかった。
古部君のお宅に伺い、久しぶりに百子ちゃんにも再会する。真面目な話ばかりしていた筈だが、勧められるまま杯を重ねて、見事な秋刀魚やら海老の刺身やらご馳走ばかりの印象が残って、酔いが醒める頃には古部くんにプレゼントした指揮棒のことしか覚えていない。

9月某日 三軒茶屋自宅
酒の勢いか、或る音大の作曲教授から「秋吉台夏の講習会なんて知らないし、ここの学生はゆく必要もない。この大学はそれだけ豊かなプログラムを提供している」と言われる。
暫く前に、同大学の作曲科主任が、「作曲科を受験する学生が減って困っている。昨年二人取った新入生も全員辞退してしまい、学部はすっかり肩身が狭くなってしまった。今や自分が高校へ受験をお願いしに出かける始末だ」とこぼしていたが、少子化が進んで、いよいよ大学数ばかりが目立つようになったのか。
その集いには卒業したばかりの若い音楽家たちも交じって、教師と並んでワインを呷る。
「あのコンクールの課題に出た現代曲。あんなのは音楽じゃないです。弾けないし弾きたくもない。僕は演奏拒否の署名運動に参加しました」。若いピアニストが口角泡を飛ばして激するのを黙って聴く。

9月某日 三軒茶屋自宅
伊左治君の指揮姿が見たくて、サントリーホールへ出かける。湯浅先生のお祝いで再会した時から約束してあったが、伶楽舎の演奏も素晴らしく彼の指揮が際立つ。大学生活初めからの付合いの伊左治君の雄姿は、まるで息子の快復を激励してくれるようだ。
日本に一月も滞在するのは久しぶりで、運動不足がたたって身体が辛い。ハースの練習に毎日早稲田まで自転車で出かけたが、思いの外早かった。週末半被姿の老若男女が神輿を担いで練り歩く姿を、何度見かけただろう。誰もが清々しく、凛々しい表情をしていて、涼しい週末、先導する太鼓の音も心地よい。
そんな喧噪を遠くに聴きながら、ハースと昼食の江戸前寿司をご一緒した。彼がエリック・ガーナーのために書いた「息ができない」はどういう切っ掛けで作曲されたのか尋ねると、黒人の妻をもつ彼は彼女が体制に怯えておびえているのは知っていたが、或る日仕事をしていて、目の前に静かな、しかし大規模なデモ行進が歩を進めているのを見て、思わず道へ飛び出しその人の流れに自らも身を投じたのだと言う。それが「エリック・ガーナー」との出会いだったと言う。寿司が大好きで、「イカ下さい」と日本語で注文していたのが印象に残った。

9月某日 三軒茶屋自宅
木戸さんから思いがけなく、和琴について書かれたご自身の文章「ウル日本音楽」のコピーが届く。「純粋な初期日本音楽」は、最近読んで強烈な印象を残した、田中克彦「言語学者が語る漢字文明論」の、本来の意味での「日本語」と共通するものがある。「ウル日本音楽」は、渡来人によってもたらされた雅楽を排して残るもの。「漢字文明論」は、日本語から漢字というツールを剥ぎ、視覚的先入観を排して残る、本来の「日本語」。
漢字は絵文字のようなものだから、「海」と印刷された文字を「うみ」と読むか「かい」と読むか、「ハイ」と読むか「オーシャン」と読むか、「ラ・メール」と読むか「イル・マーレ」と読むか、など本来は自由であり、どれでも通じる筈だと言う。和琴も渡来人によってすっかり豊富になった雅楽の「音」のなかで、共鳴し合いよく震える日本の土着の音を、静かに今に伝える。

9月某日 三軒茶屋自宅
東京現音のための「アフリカからの最後のインタヴュー」でも、沢井さんと有馬さんのための「盃」でも、エレクトロニクスのパートは、出来るだけ古臭い音がするよう頼んだ。有馬さんはこちらの意向を良く理解して下さって、物凄く複雑な手続きで、アナログの素朴な音に近いものが鳴るよう手助けしてくれた。昔は大変な作業を重ねてこの音にたどり着いたが、現在は複雑な手続きを重ねて、昔の音に近づこうとしている。テクノロジーが求める目標がまるで違うので、手続きは煩瑣を極める。
自分にとって理想的な電子音は、ケージやチュードアが演奏している「イマジナリーランドスケープ1番」の録音のようなへろへろとした音が根本にあって、そこからずっと発展して、60年代の電子音響くらいまでが憧れの対象になり、悠治さんの「フォノジェーヌ」や「時間」と言った作品が頭に浮かぶ。さもなければケージの「フォンタナ・ミックス」のような具体音になってしまい、これでは現在音楽を書くコンテキストから乖離する気がしていたが、現在でも小杉武久さんの音楽は我々の手の匂いが漂う古臭い電気の音で、ハイテクコンピュータに管理された電子音響ではないと思うし、足立智美さんも、無臭無害な電子音響に人間臭さをどう取り戻させるのか、様々な取組みをされているように思う。
「新しいもの」「新しさ」を探求する上で、「音楽」として成立条件について、精査を怠ることもあった気がする。湯浅先生の「未聴感」には、本来音響に限らず様々な成立条件も含まれていたのではないか。
現在でもコンピュータ作曲支援ソフトは、ツールとして認識されているけれども、過去のある時期から我々の思考を越えた「ツール」として、仮想現実を実現するシュミレーターになった。「仮想現実」を音楽として認知するに至り、コンピュータに選ばれたサンプルから我々が選択し、それを実際のオーケストラが演奏する。シュミレーションが演奏のモデルとして添付され、これが理想の演奏だから、これに近づくようにと頼まれるようになる。当然既視感のある音響が生まれる。
以前コンピュータの能力がここまで発達していなかった頃は、こんな音響が生まれるはず、程度の情報しかコンピュータは提供できなかったので、音響の2割か3割は結局作曲者の想像力で補なわざるを得なかった。よって、オーケストラが音を出した瞬間かかる既視感はもたらされなかったに違いない。
我々は既にテクノロジーを使うのではなく、テクノロジーに使われてしまっている。これからもそれは続くだろうし、恐らく将来、我々自身がテクノロジーによって破綻を来すに違いない。原子力のように、我々自身が管理出来ない知性、それが美しいかどうかはさておき、我々の知性を遥かに超えた正しい知性を、育ててしまうに違いない。
その時、音楽とは何を表すものになっているのだろうか。

9月某日 三軒茶屋自宅
ハースは曲も魅力的だが、リハーサルで演奏者と互いに耳を開いてゆく作業がとりわけ新鮮だった。多井くんや永野くんに倍音を聴かせて貰って、そこに若林さんや上田さん辺見くんが音を嵌めてゆく。神田さんはその音響の表面をシンバルの倍音などでコーティングする。
互いに自分の音を主張するのではなく、自分の音の持つ役割と意味が浮かび上がる音を奏すると、音楽が有機的に息づき始める。曲の構成は、一見すると奇妙なバランスに見えるけれど、音そのものが有機的に生成を始めると、確かに別の音楽構造がしっくり来るようになった。
息子より連絡あり。ミラノを訪れた知人のSNSを息子が偶然見つけ、それが罵詈雑言の羅列だったものだから、息子が本人を叱責したと言う。息子が理路整然と世代の違う知人に説教を垂れ、謝罪の言葉まで引き出したというから仰天する。気が付かないうちに、彼の思考もすっかり大人になっていた。
「言霊」はやはり存在する気がする。神様でも仏様でもお天道様でも構わないが、天に唾を吐けば因果応報は巡るとどこかで思っていて、それは「因果応報」そのものではあるが、人生に於ける「確率」も無意識に作用していると思う。
自分は既に交通事故に遭っているので、同程度の交通事故に遭遇する確率は他人より極めて低い、といった思い込みだが、そう思うだけで気が楽になる。今回息子が体調を崩しても、ここで厄を落としておけば暫くは大丈夫だろうと高を括っているのが、果たして良いか悪いか分からない。

9月某日 倉敷ホテル
カルテットが別のプログラムをリハーサルしている間、部屋でビエンナーレの譜読みを続ける。グオのヴァイオリン協奏曲の2楽章は1/4拍子のプレストが続く。振り難いし見難し、リズムも4拍子だったり3拍子だったりするので纏めて振ろうかと考えていて、昼食の時に天ザルを啜りつつウェンティンとニアンに相談すると、これは中国の伝統音楽から来ている1拍子だから纏めては駄目だと言われる。フレーズが見えてはいけないと言って、ニアンは二胡を弾く真似をしてくれる。聞けば、ウェンティンもニアンも、誰に習ったわけでもなく家では伝統楽器で遊んでいたそうだ。
グオのオーケストレーションは独特で、ヨーロッパ的に迎合しないところに好感を抱く。
何故我々がヨーロッパ的書法を標榜しなければならないのかと考えれば、案外それは思い込みではないのかと思うこともある。ヨーロッパ人も、自分たちと同じ音楽を特に望んでもいないのではないか。
韓国や中国を持ち上げるつもりもないが、何時から我々は自国を特別視するようになったのか。それもどれだけヨーロッパ化出来たかが評価対象で、自国の文化の発展とは常に同じレールを走ってきたわけではない。その昔、彼の地を通って様々な文化が日本を潤した時は、もっと豊かな文化交流がなされたような気もする。特に、現在日本人が内向きだと呼ばれるのは非常に気に懸かる。

9月某日 倉敷ホテル
「子供の情景」は、どういう作品にすべきか最後まで悩んで、結局、最初に自分が考えた音を書いた。
そう書くと矛盾するようだが、春先から息子と息子の身体と付き合ってきた中で、これらの音は生まれた。特に、息子の病室で過ごした長い時間がなければ、この作品は書けなかった。一月近い時間、窓も開けられず、30メートル四方以外はどこにも出かけられない監禁状態の中で、心が砕けそうになりながら、彼の心が外の風景へ飛び出してゆくのを見ていた。病室は無味乾燥としていたが、息子がその向こうに映し出している心の風景はとても瑞々しかった。
1曲目「見知らぬ国と人々」を聴くと、自分にとっては病院の二重窓の向こうで行き交う人々を眺めている息子の顔が浮かぶ。
6曲目「大事件」と10曲目「むきになって」は、シューマンの名前から採られた数列で作曲。
「大事件」は先に亡くなった、メッツェーナ先生へのオマージュ。彼は音色を豊かに輝かせるため、パート毎に音色を作らず、敢えてソプラノの音色をテノールへ、バスの音色をアルトへと常に廻すように教えてくれた。
4曲目「おねだり」は、泣きじゃくっているところ。本当に泣いていることもあるが、大方ねだるときにわざとする泣き真似。
7曲目のトロイメライ「夢」は、息子が去年の春にカニーノ先生と一緒に弾いたクルターク=バッハへのオマージュで、影のように倍音が寄り添う。病院のリクレーション室に置かれた調律の狂ったピアノを右手だけ、好きだったスカルラッティの断片を少し、寂しそうに弾いていた姿が目に焼き付いている。
どの曲も子供の視点で書き、特に最後まで苦労した9曲目「木馬の騎士」は、子供の背丈から眺めた部屋の風景を描いたつもりだが、12曲目「眠るこども」のみ、息子を眺める自分の視点で書いた。ヴィオラの低音域の5分法ハーモニクスとアルペジオを薄く重ねると、丁度息子の寝息のような手触りが浮かび上がる。
この歳になるまで、作曲家の感情が作品に直截に影響を及ぼさないと信じてきた。ヨーロッパ人の信仰心が音楽と無関係であるはずはないが、モーツァルトが「レクイエム」を書いても、自身の環境や境遇は作品には如実に反映されずに、ずっと昇華された核だけが、楽譜に記されているのだと思っていた。しかしここ数年で、かかる自分の信条ががらがらと崩れ去るのを実感した。
ロマンティシズムではなく、寧ろ、より現実的写実的な何かが、演奏に訴えかける強さを持つのを理解できるようになったのかも知れない。今井さんは、好きなように書きなさいと仰って下さったが、こんな厄介な作品は届くとは想像していなかっただろう。にも関わらず、彼女を初め演奏者全員どれだけ誠実に取組んで下さったかは、感謝の念は到底書ききれない。

9月某日 ミラノ自宅
一ヶ月ぶりに息子に会う。ここ数日吐き気が取れずに体調が優れないと聞いていたが、思いの外しっかりしていて安心する。身長も伸びて大人びた感じもするが、自習していた指揮の課題のミクロコスモスを見てくれというので、5拍子はとても良いが、最初がそれでは始められない、とコメントを言うとむくれて指揮なんか厭と布団を被った。
日本にいる時から楽しみにしていた「ヘンゼルとグレーテル」を観に行く直前、合唱で出演する息子は彼は相変わらず困憊してなかなか布団から出られない。結局自転車の後ろに乗せて猛烈な勢いで劇場まで走ってゆき、事なきを得る。ちょうどミラノ・コレクションで街中道が混雑していて、もしタクシーを拾っていたら間に合わなかった。
演出も大道具もとても美しく、ライティングの妙には誰もが見惚れた。息子も元気よく舞台を駆けずり回り、大したものだと感心する。舞台が終わるとぐったりしているが、本番中は気が張っていて分からない。
貧困問題を直裁に取り上げた演出で、前半フィナーレは貧困者たちが天に召されるところで終わり、オペラのフィナーレは、幼い兄妹の亡骸を抱えた貧困者の行列が近づいてくるところで終わる。
ミラと並んで観劇していて、気がつくと彼女は涙を流していた。フランコと結婚してから、オペラなど全く見たこともなかったミラは、定期券で数えきれないほど劇場に通うようになったと言う。でもフランコをこうして思い出せるのは嬉しい、そう言ってまた涙を流した。

9月某日 ミラノ自宅
2年間一緒に勉強した作曲の今堀君がクラスを修了し、去年から入った矢野君は、コンクールを控えてファビオの楽譜と首っ引きになっている。現代曲を振るのは初めてなので、敢えて彼にはピアノのリダクションを頼んで、自分がスコアから聴きとりたい音を、自ら並べて理解して貰うと、随分シンプルに音楽が感じられるようになったようで嬉しい。今年は新しく浦部君が入学して、早速「クープランの墓」を持ってきた。縦に和音を並べて圧縮せず、横に並べながら音の間に質量を感じてもらう。矢野くんと同期のグエッラはフランスのコースの準備をしていて、ボーノはロンドンのコースを準備している。皆充実していて、思わずこちらも励まされる思い。

9月某日 ミラノ列車中
再検査で、息子の脊髄の炎症の完治が確認された。まだ左半身に軽い麻痺は残り酷い倦怠感と戦っているが、これから先はとにかくリハビリで身体を作り行くことが中心になる。
毎朝倦怠感が酷いのか、学校へ行かないと大騒ぎして親を困らせる。仕方ないので抱きかかえて外まで連れ出すと、漸く諦めがつき渋々自転車の後ろに乗るが、酷い時は道路の途中で飛び降りて逃げようとする。8月半ばから今まで親に甘えられず、リハーサルに励んでいたのだから仕方ないとも思う。殴られて蹴られこちらは身体中痛いのだが、これだけ力が余っていれば大丈夫だと内心ほくそ笑む。
息子と一つ違いの生徒がコンクールを受けていて、どうせ自分はピアノが弾けないと自暴自棄になり、教えるのなんか罷めてと暴言を吐く。自分も小学生の頃、同じように云って母親を困らせていたのを思い出す。

9月某日 ミラノ自宅
夏前に頼んでおいた息子のための自転車をマリオが届けてくれる。イタリアで60年代に大流行した「La Graziella」というタイプのレプリカで、シャーシなど全て息子が注文した明るい黄緑色で統一されている。60年代イタリアらしいデザインが美しい。中学校は車の少ない裏道のサヴォーナ通りを走り、スタンダール通りを左に折れてフォッパ通りを越したところ。一昨日から始まった「ナブッコ」のリハーサル会場は、スタンダール通りを右に折れてすぐのところにある。「ナブッコ」の演出はダニエレで、息子ときたら練習初日から早速ダニエレに話しかけたらしく得意になっている。
ずっと自転車の後ろに座らされていたので、多少疲れても自分の足で好きなように自転車を漕げるのは嬉しそうで、疾走する息子の姿に、ただ感慨を覚える。

9月30日 ミラノにて

翳りの複雑

高橋悠治

バロックの鍵盤音楽をピアノで弾いていると チェンバロの音とちがって 余韻が短く 音がすぐ消えることはないが 長い音をそのまま弾いていると 間がぬけて聞こえるから 装飾を付けて音を揺らしてみる 音が一瞬波立ってすぐ静まる それだけで音に表情が現れ まわりの音に影を落とす 装飾は型通りのはずだが なかば偶然の不安定な乱れが 時間の流れにリズムをあたえる 規則的なようでどこか不規則な領域に入り込んでいる 複雑にすることなしに 単純なまま かえってなにかが欠けている それも粗雑な省略でなく 意識のとどかないほどの わずかなためらいから起こる「ずれ」

それとは別に 「崩し」の技法もある 同時に幾つかの音を打つ和音では どれかの音に重みをかけることで さまざまなニュアンスがあるが 指や手や腕だけでなく 前に傾けた上半身の重みをそれぞれの指にふぞろいに振り分けるピアノの奏法ではなく 和音を分散して それぞれの指の重みではなく 音の入り時間の差をまちまちにして リズムというよりは躓きのひっかかりを不器用なままにしておくと 一回限りの偏りから生まれるきらめきが 音楽のあちこちをまだらに彩るだろう

装飾はその前の音から切れて際立つことが多いが 時には前の音が伸びた尾が揺れ動くこともある するとリズムの歩みが急におそくなる

時代楽器の奏法を現代の楽器に使うのは 時代様式の正統性を装っているが ちがう楽器には必要がない演奏法を移すと 楽器の響きをあいまいにして どこにもない音色の印象をつくりだすこともある 演奏の実験から バロックの装飾法や演奏習慣を使わなくても 揺れ動く響きや 一見単純な楽譜から 何もつけたさず 逆に微細な脱落による 見えない音楽の波を立ち上げることができるかもしれない 詩人たちは 言えないことを言わないままに 時代を記録し表現することばの技法をみがいてきた 音楽にも 音にならない臨界領域に近づく技法はありうるし それを必要とする時代もあるだろう