「水牛」の原稿を書くたび、今回は何回目か数字を確認するのですが、そのたびに、この数字から何か閃かないか、無意識に数字遊びをしています。それは何か有名な作品番号であったり、年号であったりするわけですが、例えばこの192であれば「良い国つくろう鎌倉幕府」の1192年だったりします。
もうすぐ年が明けるので、家の周りでは花火がずっと打ち上っていますが、今年はいつもより少し静かな気がするのは、多分雨が降っているからかもしれません。
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12月某日 ミラノ自宅
Aさんに「オペレーション・オイラー」の楽譜を送る。小学校終わりか中学の頃にくらいに、貯めた小遣いを持って渋谷のヤマハで買ったもの。
1969年に書かれ、Laurence SingerというBartolozziと共同作業をしていたオーボエ奏者に捧げられたこの作品は、子供の頃から楽譜だけ眺めていて、実際の音を想像しながら憧れていたので、何とか一度聴いてみたいと思う。表紙の裏には、タイプ打ちの進行表が書かれていて、可能な演奏順、組み合わせが指定されている。何十年かぶりに実家で見つけると、裏表紙はなくなっていたが、運よく楽譜は揃っていた。程なくAさんから返信があって「とんでもないものを見てしまった気分です。オーボエで聞いたことのない音ばかり。頑張ります」。
この秋は落ち着いて家にいなかったので、初めて庭の落ち葉かきをする。やりたそうにしている息子を誘う。落ち葉かきがこれほど重労働だとは、この家に住むまで知らなかった。息子が落ち葉かきをしたい理由は、集めた落ち葉の山に走って飛び込むこと。少し走り込んで仰向けや俯せで歓声を上げて飛び込む。スヌーピーでも同じような場面があった気がするが、勘違いかもしれない。
アメリカの大西くんから連絡あり。「カガヒ」は確かに公共図書館の書庫から取り出されてファクシミリ係には届けられたらしいが、その先の所在が分からないという。クリスマス前でアメリカの図書館も混乱しているのか。
12月某日 ミラノ自宅
ニューヨークからルカが戻ったので、ボローニャで来年10月の「Kraanerg」打合せ。政治色の強い大学街ボローニャだからだろう、来年2018年は1968年のボローニャ大学占拠事件から50年という節目にあたり、ボローニャやエミリア・ロマーニャ州に住む老若男女の有志を何十人と募って、プロのダンサーを核に据えたグループに分かれてワークショップを重ねて、社会に対する抗議や主張の象徴であるクセナキスと対峙させる、ずいぶん大規模な企画。
これが彼らの社会に何を意味するのか、歴史を掘り下げて理解してゆかなければならないだろうが、単純に日本に置き換え、東大紛争50年を記念して市民参加でクセナキスのバレエをやると考えると、思考が停止しそうになる。
約束の時間に劇場へ入って、皆待っているからと秘書についてゆくと、関係者一同久しぶりに訪れる劇場の喫茶店で、寛いだ様子でコーヒーを啜っていた。
昼過ぎの特急でミラノに戻る前に、劇場からほど近い角の食堂で、蕪のパスタとバカラの煮付けを食べた。特に打ちたての「耳たぶ状パスタ」に絡めたくたくたの蕪のソースが秀逸で、思いの外唐辛子が効いていて、何より自分で作るものよりずっと柔らかく煮込んである。食堂の主人が、冬は蕪のパスタに勝るものはないね、こんな美味い野菜は他にない。うちらもつい今しがたあんたと同じものを喰ったばかりだ、と胸を張るだけのことはある。帰りしな中央駅で、息子が見たがっていた「マカロニ」と「ボッカチオ70」のDVDを購う。
12月某日 ミラノに戻る車中にて
1泊2日で家族揃ってニースを訪れる。ミラノからは乗り換えなしの4時間過ぎで、列車で簡単に着く。海辺を走るジェノヴァからニースまでの車窓は、国境を越えればもっと変化するものかと思っていたが、さほどではなかった。コバルトブルーの海の色が本当に美しい。
すっかり冷え込んでいるミラノと比べると、たとえ風が強くとも、実に明るく美しい南国の太陽。息子にとっては、スイスと日本以外の初めての外国だそうで、スイスはイタリア語も通じるので、言葉の通じない初めての外国、とはしゃぐ。家人が血眼になりながら、インターネットでレストラン探しに躍起になっていて、普段あまり見ない姿なので意外だった。お陰で2日のみの滞在で、3つのレストランに入り、全て実に美味しかった。
イタリアでも、観光地で調べもせず美味しい食堂には巡り合えないので、家人の努力の賜物には違いないが、インターネットで評判の良い所は、どこも洒落ていて、洗練された料理が並ぶということを知った。
息子はすぐに足が疲れて歩けなくなるので、その度に背におぶってやる。ニースは坂がなだらかで良かったが、翌日訪れたアンティーブでは、坂と階段だらけのなか、息子を背負いながら歩き回って、すっかり困憊した。実は、今まであまり息子を背負ったことがない。何度か試してみたが、その度にすぐに吐き気と眩暈を催し倒れてしまうので、意図的に避けてきた。今回何とかやり過ごせたところを見ると、必要に迫られれば体質も変わるのかも知れない。
それまで歩けずにいた息子が、ニースの海岸に降り立った途端に立ち上がって、嬉しそうに跳ね廻る姿には、感動を覚えずにはいられなかった。親としては、まるで狐に摘ままれた心地になる。医者から、最早あと残っているのは自律神経による障害でしょうと言われても、目の前で息子を見ていれば、精神的なストレスによる場合と、身体の使い過ぎで困憊している時の違いくらいは分る気がする。
人影の少ない抜けるような青色の海辺で走り回る息子は、親の常識を覆す姿だった。街に戻ると、またすぐにへたり込んでしまったが、あれだけ動き回った後ではそれは当然と、妙に安心すらするほどだった。
目の前で海を眺めていた男性がいきなり服を脱ぎだしたかと思うと、下着一枚でそのまま海に飛び込んでいった。
何年か前、ターラントまで今は亡き家人の恩師を訪ねた時の海を思い出す。恩師の家の裏にはほんの小さな浜があって、同じ美しいコバルトブルーがどこまでも広がっていた。浜が小さいだけ、目の前の大海原が広大で、少し恐ろしく感じられるほどだった。
翌日アンティーブのピカソ美術館を訪ねる。丘の上まで背負って身体が限界だったので、美術館では車椅子を借りる。1946年にアンティーブにピカソが通い出してからの作品が並ぶ。あまりにウニばかり書くものだから、余程ピカソはウニが気に入ったのよと家人が嬉しそうに繰り返す。彼女はウニが大好物だ。実際は造形的に面白かっただけかも知れないが、確かに郷土料理にウニは色々使われているようだった。
特に愕いたのは、ピカソのキュビズムについて、息子が事も無げにさらさらと説明することだった。目の前に並んだ1946年のスケッチを前に、重力が実際と比べてどう置換され、視覚の方向性がどう置換され、結果としてこの物体はこのように表現されている、などと立て板に水宜しく話していて、尋ねるとピカソのキュビズムの特徴とその分析方法を習ったらしい。学校について殆ど息子は話したがらないので一体何をしているのか、ずっと不思議に思っている。日本人らしき親子がイタリア語で話していて、学芸員に珍しがられる。
12月某日 ミラノ自宅
朝、8時半からのレッスンのため、6時に起きて楽譜を整理し、7時半には自転車に跨ってミラノの反対側を目指す。週末の早朝など街はすっかり閑散としていて、中国人のやっている喫茶店で朝食を摂ってレッスンに出かける。週末の早朝から働くのは、中国人くらいのものだ。
ふと20数年前、ミラノにやってきたばかりの頃の記憶が蘇る。今と同じように、週末、朝6時半にランブラーテにあったドナトーニのアパートの前で待っていると、髪を揃え小ざっぱりと身支度をしたドナトーニが降りてきて、愛用のトヨタの助手席に乗せて貰い、ブレッシャのロマーノ・ロマニーニ財団のレッスンに連れて行って貰った。何時も同じ高速の喫茶店に寄っては、ホットミルクとハムを挟んだトーストを頼むので、よく飽きずに同じものばかり頼む人だと感心した。そうして、ブレッシャに着くと、決まって道が分からなくなり、それでもあちらこちらを回るうちに学校の目の前に偶然着くのだった。どこか達観して凛とした教育者ドナトーニの横顔を思い出しながら、冷え切ったトリノ通りの石畳を自転車で駆ける。
12月某日 ミラノ自宅
日が暮れて、初旬2か月の通信簿を貰うため、息子の通う中学へ自転車を走らせる。小学校の頃から通信簿は親が受領のサインをして貰っていて、中学になってもそれは同じだが、一つ違うところがあるのは、小学校は一人一人個人面談のようにして受け取っていたのが、中学は親が教室に揃ってから、一通り教師が所感を述べた後、他の親の目の前で渡されること。
学校と言えば、先日息子が色めき立って学校から帰ってきて、大切な話があると言う。聴いているから話したらと言うと、家人と二人目の前にきちんと並んで聞かなければならないと譲らない。仕方がないので言われた通りにすると、大変なことがあったのだが、大変過ぎてどう説明したらよいか分からないので、そちらから質問をしてくれれば、然るべく答えようと言うので、思わず声を上げて笑う。
「だから、体育の授業と言えばあれでしょう」と、息子の興奮度が増してくる。体育の授業と言うと何かと質問すると、そんなことも分からないのか、更衣室に決まっているでしょう、と言う。興奮が収まらない息子の話を断片をつなぎ合わせ、漸く内容が見えてくる。
朝、2年生の息子たちが体育の授業の前に更衣室で着替えていると、烈火の如く怒った1年生担任の女性教師が怒鳴りながら入ってきて、彼女のクラスの男子生徒が息子のクラスの男子生徒に苛められたと言う。誰だか名前がわからないので、白状しなければ、男子は全員停学と言われたそうだ。何でもズボンを頭から被されて目隠しをされた挙句、布かばんで頭を殴られたらしく、怯えて登校拒否になってしまったのだと言う。随分酷いことをするものだが、クラス24名のうち8名しかいない男子生徒全員が、身に覚えがないと言う。息子曰く、クラスの男子は、全員苛められてきた弱虫ばかりだからできる筈がない、と突拍子もない理由を尤もらしく話す。
その夜、クラスの母親を中心とした連絡網のSNSのやりとりが何度となく送られてくる。息子のクラスと決めつけ怒鳴りこんできた女性教師の態度が疑問と言うものや、どこの誰がやったかは別にして、こんな事件が学校で起きたこと自体が大変だと言うもの、うちの息子に限ってそんなことができるわけない、という男子生徒の母親や、うちの娘は学校から帰ってきて塞ぎこんで何も話してくれない、というメッセージもあった。印象に残ったのは「娘の話ではクラスの女子生徒が一致団結して男子生徒を女性教師の脅迫から守ったそう。娘たちを誇りに思う」というもので、イタリア女性の強さを思う。
12月某日 ミラノ自宅
早朝コーヒーを沸かしながら、ふと外に目をやると、目の前に何やら巨大な影が見える。見れば、すぐ目の前の鉄道の電信柱に一羽の鳶が悠然と留まっていて、周りを興奮した烏が三羽、騒ぎ立てながら飛び回っていた。近くに烏の巣でもあるのかと思ったが、こんな冬枯れに雛がいるとも思えない。何をやっていたのだろう。
息子の体調が優れず、さほど疲れているはずもないし、学校でストレスを覚えるようなこともない筈なのに、何度も階段で足の力が抜けては、ずるずる下まで落ちてゆく。そんな時はまるで入院前に戻ったようにすら見える。危なくて一人で階段を歩かせることも出来ない。病院での化学治療に目処がついたので、セレナに紹介されたシュタイナーのアントロポロゾフィー医の診察を受ける。病院のリハビリと並行して、アントロポロゾフィーで身体を少しずつ強くしてゆこうとのこと。どういうわけか、息子はラヴェンダー油で全身をマッサージされるのが、とても気に入っている。
そういう状況なので、12月最後の中学登校日、クラスのカラヴァッジョ展訪問に際しては、美術館に先回りして車椅子を借りておいた。カラヴァッジョ展はとても見たかったので、息子の見学にかこつけて一緒に廻りたかったが、車いすを恥ずかしがる息子に許して貰えなかった。カラヴァッジョ展を70分かけて周ったそうだし、学校から地下鉄まで片道20分近く歩いたそうだから、車椅子は必須だったと思う。
12月某日 ミラノ自宅
クリスマスから年末まで家人が日本に戻る間、息子と二人、ニースで過ごした。空気が良くて温かく、息子の大好きな海もあり、学校の仏語にも多少は慣れる切っ掛けにもなる。アパートで自炊しても食材も悪くないし、美術館など訪れるところには事欠かない。
冷え込むミラノに二人で過ごすより、気が紛れるだろうし、身体にも良いかも知れないとは思ったが、毎日階段から滑り落ちて泣く息子と二人きり、一週間ニースで過ごすのは流石に覚悟が必要だった。先日下見に出かけたが、あの後息子の体調は頗る悪く、ニースに出かけると決めてからは、不安で夜も眠れなかった。
ニースは急な坂や階段が比較的少なく、二人で乗れる折り畳み式のキックボードをミラノから携えてゆき、普段は息子を前に乗せ、急な坂では彼を乗せて歩いた。3日目くらいからは右足のふくらはぎが酷い筋肉痛になったが、息子の身体もその頃には随分しっかりして、ミラノに戻る前日には、Entrevauxの小さな山の頂上の古城まで、急な石畳道を自分の脚で登りきってしまった。流石に自分でも信じられなかったらしく、帰りはずっと大声で雄叫びを上げながら坂を下るので、見ていて心配するほどだった。
二日目からは、アパートのある駅裏手の界隈を一人で闊歩してはパン屋に入って朝食のクロワッサンとチョコレートパンを買うようになり、ハムを買えるようになった。一番最初は何にも分からないとパン屋を出た瞬間に泣き出したが、そうして買ったバゲットが思いの外気に入ったらしく、人目も憚らず美味しい美味しいと泣きながら齧って歩いた。アパートの階下にある「職人のつくるパン屋」のクロワッサンとパン・オ・ショコラがお気に入りだった。
ヴァロリスまで、ピカソの「戦争と平和」を見に行った時のこと。こちらは、長い坂を息子を乗せ走ってきたので、漸く見られた震えるような感激に浸り「戦争と平和」を眺めていると、息子は、もう先へ行きたい、何故ならこの絵は良く知っているからだと言う。
「この左側の悪の御者が、暗闇に浮び上る白い手の陰、つまりこれはこうとしか描くことができない死者を表しているのだけれど、死者を踏みにじり、下には血が川のように流れ、それを平和の象徴の鳩を頂く盾と、運命の天秤を従える槍を携える平和の兵士が迎える。悪の御者の馬は、ほら聖書を踏みつけているでしょう。右側の平和で、運命の天秤の上に遊ぶ一人の手には鳥かごに魚が躍り、もう一人の天秤は平和の象徴の鳥たちとバランスをとっている。この右端の樹はアダムとイブのあのリンゴの樹で、左端の笛吹きは、大きな貝に乗っている。正面の人々が捧げ持つ平和の象徴の鳩は、本来キリスト教が信じている三位一体ではなく、敢えて四人の人間で支えているでしょう」。
何処までが本当に習ったことで、何処からが今適当に口をついて出てきている話なのか分からないが、その境界線すら曖昧なところに感心する。これは学校の美術の口頭試問の問題だったので良く覚えているらしい。その試験の問題は、この3面の絵の時間軸は互いにどう関連付けし解釈されるべきかというもので、奥から平行に時間軸が流れているのか、右から左へもしくは左から右へ一方方向へ流れていると解釈すべきか、3面別々の時間軸を並置していると解釈すべきか自分の考えを述べよ、というものだったそうだ。理由は分からないが、彼の美術の教師が相当なピカソ好きであることだけは理解した。
劇場にバレエを見にゆけば、主人公にあてるスポットの位置が、スカラならシャンデリアの上に見えないようについているが、ここはスポットがそのまま見えてしまうとか、幕上の絵は布みたいだがべニアに描いてあるに違いないとか、時計が壊れて針を取ったままにしているとか、オーケストラピットが小さすぎて金管楽器が全く見えない、と言いたい放題で、イタリア語が分かる客が周りに居たらどうしようと冷汗をかいた。桟敷席は、皆とてもリラックスしていて、特に休憩中しどけない恰好で妙齢たちが長椅子に寝そべっているのが面白い。
シャガールに特に強い興味を覚えたこともなかったのが、シャガール美術館を訪れまるで変ってしまった。シャガールもピカソもフランス人ではないし、フランス芸術ではないのは分かっているけれども、少なくともシャガールの作品を眺めている間は、ずっとプーランクの「グローリア」やらメシアンの「キリストの昇天」、デュリュフレの「レクイエム」などが頭の中で反芻していたのは何故だろう。
長年不思議に思ってきたフランセやデュリュフレ、プーランクが、ブーレーズが活躍する同じ時代、文化でどう共存し得たのか、長年ずっと疑問に思っていたことが、勘違いかも知れないが、少し感覚的に理解できる気がした。それは「感覚」が第一義的な存在であって、出来るだけ骨組みを見えないように、重力から解放して、意識的に輪郭を曖昧にしてゆく文化ではなかったか。
オリーブ油とバターであれば、明らかにオリーブ油を使った方が素材の味がそのまま染み出る。バターをそこに併せたり、バターのみで素材を調理すれば、より味も円やかになって、輪郭が揺らぐ。ソースを掛ける調理方法も、素材の輪郭を敢えて溶け込ませる効果があるのではないか。イタリアの和声法がフランスに至って丁寧に角を取られ、3度を積んで色彩を加え、出来る限り素地を見せぬよう配慮された絶妙な方法論を確立させたのを思い出す。あれ程繊細なフランス料理の作れる国で、何故どうにも茹で過ぎてふやけたパスタが出てくるのか、少し納得がゆく。
イヴ・クラインの作品が並ぶ現代美術館で特に印象に残ったのは、Pierre Pinoncelliが1975年に行ったパフォーマンス「Hold-up contre l’Apartheid(アパルトヘイト政策に反対する強奪)」。
ニースが南アフリカのケープタウンと姉妹都市関係を結ぼうとしたことに反対して、ドクロの面を被って銃を携え口にバラを咥えて、大通りのSociété Générale de Nice
銀行に強盗に入ったパフォーマンス。象徴的に1フランを要求し、後に経済のインフレを理由に要求額を10フランに増額し、程なくピノンチェッリは逮捕されたが、一部始終はヴィデオと写真に残されて現代美術館ではそのヴィデオも写真も見ることが出来る。このダダの生き残りのような姿勢も面白いが、実際に彼の恰好の写真を見ると、独特の美的感覚がイヴェントに香りを与えていることが理解されるに違いない。ブソッティの美意識に独特のまとわりつくような香りを感じるのは、やはり彼がフランス文化に強く影響を受けたからなのだろう。
(12月31日ミラノにて)